カテゴリ: 文学

このところブログの訪問者数が1日300件を超え、このブログとしてはバズっている方の部類です。どうも、あちこちで光太郎詩「牛」(大正2年=1913)や、「岩手の人」(昭和24年=1949)が取り上げられ、その余波のようです。

1月3日(日)の『中日新聞』さんの一面コラム(系列の『東京新聞』さんも同一)でも「牛」

筆洗

<牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く>。新年はウシ年。高村光太郎の有名な「牛」を連れてくるとする▼<牛は急ぐ事をしない><ひと足、ひと足、牛は自分の道を味はつて行く>。この牛は急がないが、着実に前へと進んでいく。<遅れても、先になつても/自分の道を自分で行く>である。<ひとをうらやましいとも思はない/牛は自分の孤独をちやんと知つている>。力強くまわりにも振り回されず、道を行く牛が生きる上でのお手本のように思えてくる▼光太郎の詩に子どもの時に教わった牛の話を思い出す。牛が十二支に選ばれたいきさつである。競走で決めるというが、足の遅い牛は間に合わないので前の晩から出発することにした。それを牛小屋で見たネズミ。ちゃっかり牛の背に飛び乗った▼牛は夜通し歩き続けた。背中ではネズミが眠っている。ゴールの直前にネズミは牛から飛び降りて一着入賞。結果、干支(えと)は子(ね)、丑(うし)の順となった▼憎らしいネズミだが、光太郎の詩や、牛の優しい顔を思えば、牛は気にせず、ただ自分の歩みに満足したかもしれぬと勝手な想像をしたくなる▼ウイルスとの闘いは今年も続く。日常を取り戻すための歩みは遅くとも焦らず、牛のがまん強さで一歩ずつ前に進むしかあるまい。<見よ/牛の眼は叡智(えいち)にかがやく>−。

さらに昨日の『神戸新聞』さんも一面コラムで

正平調

食べてすぐ寝ると、牛になる。親から子へと伝えられてきた行儀作法の戒めにある。自宅で過ごす時間が長くなったこの三が日は、牛になった人間の最多記録を更新したかもしれない◆〈牛飼(うしかい)が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる〉。世は明治のころ、歌の作者である伊藤左千夫は牛乳搾取業を営んでいた。自分のような庶民でさえ歌を詠む時代になったのだ、と高らかに宣言している◆今はインターネットの世界がさまざまな創作発表の舞台として万人に開かれ、流行はたいていここから火が付く。今年は何がはやるだろう。下火になった時分に追いつく牛後となれど、頑張ってついていきたい◆高村光太郎に「牛」という長い詩があった。〈牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く〉。しかも〈牛は為(し)たくなつて為た事に後悔をしない〉そうだ◆あたふた急ぐ者には目もくれず、ゆうゆうとわが道を歩き、粘り強く、悔いることなく、争いを好まず、優しくて洞察力のある目を持つ-。何とすてきな牛賛歌だろう。読めばいっぺんに牛のことが好きになる◆さあ、丑(うし)年である。多難の時代ゆえか、これも何かの巡り合わせに違いない。「ゆっくり行け」と牛が言う。

以前にも「牛」全文をご紹介しましたが、この際ですので(笑)もう一度掲載します。

   牛

牛はのろのろと歩く004
牛は野でも山でも道でも川でも
自分のきたいところへは
まつすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やつぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼つて行く
自分を載せている自然の力を信じきつて行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はつて行く
ふみ出す足は必然だ
うはの空の事ではない
是(ぜ)でも非(ひ)でも
出さないではゐられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後(あと)へはかへらない
足が地面へめり込んでもかへらない
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしやらではない
けれどもかなりがむしやらだ
邪魔なものは二本の角にひつかける
牛は非道をしない
牛はただ為(し)たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない
けれども牛は正直だ
牛は為たくなつて為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自信を強くする
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
自然を信じ切つて
自然に身を任して
がちり、がちりと自然につつ込み喰ひ込んで
遅れても、先になつても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない005
牛は自分の孤独をちやんと知つてゐる
牛は食べたものを又食べながら
ぢつと寂しさをふんごたへ
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいつて行く
牛はもうと啼いて
その時自然によびかける
自然はやつぱりもうとこたへる
牛はそれにあやされる
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思ひ立つてもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡智にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちやを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほひのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の目だ
牛は自然をその通りにぢつと見る
見つめる
きよろきよろときよろつかない
眼に角(かど)も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとつての努力ぢやない
牛にとつての当然だ
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争はない
争はなければならない時しか争はない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしてゐる
生命(いのち)をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機(ばね)ではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際(てぎは)だが
牛の力はねばりつこい
邪悪な闘牛者(トレアドル)の卑劣な刃(やいば)にかかる時でも
十本二十本の鎗を総身に立てられて
よろけながらもつつかける
つつかける
牛の力はかうも悲壮だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥(こや)す
利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた啼声と
すばらしい筋肉と
正直な涎(よだれ)を持つた大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く
 
※2ヶ所でてくる啼き声の「もう」は傍点がついていますが、うまく書き表せません。

画像は昭和14年(1939)になって光太郎自身が「牛」全文をしたためた書です。本来なら、昨年、富山県水墨美術館さんにおいて開催予定で、当方も協力していた「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品予定だったのですが、コロナ禍で中止。仕切り直して開催の方向で検討して下さっているというお話は聞きましたが、どうなりますやら……。

2021/3/26追記 「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

さて、詩「牛」。新聞一面コラム以外でもいろいろ取り上げられており、ありがたいかぎりです。意外と皆さん、この詩をご存じだったんだな、という感じで、もっと知られていない詩なのかなと思っていたため、想定外でした。

他の紹介例についてはまた明日以降、このブログで書かせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

鼠天井に巣をつくる様子なり。天井板なき屋根うらの何処に巣をつくる場所あるか不思議なり。此家たのむべしと思へるか。

昭和21年(1946)1月5日の日記より 光太郎64歳

「牛」ならぬ、『中日新聞』さんで取り上げられていたネズミに関してです。ネズミは冬眠しないのですね(笑)。

光太郎、かわいそうと思いつつも毒をしかけたりして退治しようとしますが、敵もさる者(笑)、なかなか絶滅には至らず、しばらく奇妙な同居人(人ではありませんが(笑))として、時に短歌に詠まれたりもしています。

わが前にとんぼがへりをして遊ぶ鼠の来ずて夜を吹雪くなり(昭和22年=1947)




状況をわかりやすくするために、昨年12月27日(日)の『岩手日報』さんから

うし年 モーっと岩手元気に 2021年、県が新事業

 うし年の主役は岩手だ―。県は2021年、牛で地域を盛り上げる事業「いわてモー! モー! プロジェクト2021」を実施する。牛にまつわる資源や文化が根付く本県の魅力を「モー」っと高め、新型コロナウイルス感染症の影響を受ける県民を元気づける取り組みとして展開する。

 高村光太郎は詩「岩手の人」で「岩手の人 沈深牛の如(ごと)し」とし、牛の粘り強さや前進の姿勢が県民の気質に通ずるとした。本県は全国有数の産地で、南部牛追唄、小岩井農場など歴史や文化、観光面でも牛との関わりは深い。

 「うし年は岩手の年! 岩手から、みんなを元気に!」をキャッチコピーに1年間、牛肉・乳製品などの消費拡大策や観光、国内外への情報発信などを展開。県農林水産部を中心に全庁的に取り組み、農業団体や民間企業とも連携する。
003
県のサイトで確認したところ、12月25日(金)、達増拓也知事の定例記者会見のページにたどり着きました。しかし、「詳細はまた改めて」ということでした。ただ、「記者席配付資料」にはある程度詳しい内容が

丑年に合わせたプロジェクトの実施について

令和3年は丑年であり、本県には「うし」にまつわる資源や文化が数多くあります。そこで、「うし年は岩手の年!」とし、「うし」で岩手を盛り上げるプロジェクトを実施することとしましたので、お知らせします。 

1 プロジェクトを実施する理由
▮ 県民気質に通ずる
 牛は粘り強さと誠実さ、そして、前進の象徴、努力型の岩手県民の気質に通ずる
 高村光太郎の詩「いわての人」岩手の人 沈深 牛の如し/地を往きて走らず/企てて草卒ならず/つひにその成すべきを成す
▮ 畜産県・岩手の象徴である
 岩手県は全国有数の産地、「いわて牛」の品質の高さ、オンリーワンの「いわて短角牛」
 ▶ 全国上位の飼養頭数:黒毛和種8位/日本短角種1位/ホルスタイン種4位
▮ 岩手のソフトパワーの源の一つである
 歴史・文化・観光で深いつながり
 ▶ 南部牛追い歌、南部牛、塩の道、玉山金山の金のべごっこ、小岩井農場 など
2 プロジェクト名称
 いわてモー!モー!プロジェクト 2021
  [説明] 丑年に合わせたプロジェクトをわかりやすく表現
3 キャッチコピー
 うし年は岩手の年! 岩手から、みんなを元気に!
  [説明]「うし=岩手」を宣言し、県民の皆様と一緒に、元気よく盛り上げていこうとするもの
4 ロゴマーク 001
 [説明]
 ・ 牛のイラストは、堂々とした風格と前に進む姿勢を描き、角
   や輪郭の赤色で内に秘める強い意志を表現
 ・ プロジェクト名称の文字は、伝統を醸し出す勢いある字体と
   赤色で強調
 ・ 背景の黄金色は、岩手県のシンボル色 
000
ただ、具体的な内容はまだ書かれていません。

さらに調べてみましたところ、12年前の丑年、平成21年(2009)にも、「“黄金の國、いわて。”MOW MOW(モーモー)プロジェクト」が実施されていました。その際には、「3つの視点〔UC―1~3(うしさん)〕による産業振興戦略」というわけで、「UC-1 う四天王プロジェクト~新たな商品づくりによるブランド価値の創造(Creation) ~ ①新商品の開発・名物の発掘、②マーケティングの強化、③地産地消運動との連携、④食育の推進、⑤運動のPR」、それから「UC-2 ウシコンバレープロジェクト~ クリーン(Cleanness)な大地、環境王国いわてを発信 ~ ① 脱CO2クリーンエネルギーの活用、②耕畜連携によるブランディング、③牛がつなぐ環境保全の展開」、そして「UC-3 諸国漫牛の旅プロジェクト~ 牛の魅力を広く伝える(Communication)~ ① 新たな旅モデルの企画開発、② 観光・文化(情報)の発信、③ 体験型うし修学旅行、グリーン・ツーリズムの推進」と謳われていました。今回も共通する部分があるのではないかと思われます。

要するに、「岩手から、みんなを元気に!」。そのために光太郎も一役買うことになるようで、泉下の光太郎も苦笑しつつ承諾していることでしょう(笑)。

ちなみに、達増知事の「年頭メッセージ」でも、光太郎に触れて下さっています

年頭メッセージ

 新年、明けましておめでとうございます。
 昨年は、新型コロナウイルスの流行が日本にも広がり、岩手県は7月の終わりまで感染の判明がなく、夏から秋にかけての感染者数も全国で最も少ないほうでしたが、11月から12月にかけて多くのクラスターが発生し、感染者数が一気に増えました。
 この間、県民の皆さんには基本的な感染対策や、場面ごとの感染対策を行っていただき、あらためて感謝申し上げます。感染した方々やその関係の皆様には、大変な思いをされていること、お見舞いを申し上げます。また、医療や検査、福祉や教育、生活を支えるサービス業など、ご苦労をされている皆様に、深く感謝申し上げます。岩手は、全国の中では依然として感染者数が少ないほうですが、県は苦労されている方々、困窮されている方々への支援を強化して参りますし、お互いに力を合わせ、助け合っていくことができるよう、思いやりの気持ちを感染対策の基本に据えて、今年も取り組んで参りましょう。
 今年の3月11日には、東日本大震災津波から10年となります。十年間の復興の成果と課題を確かめ、必要な事業は継続し、伝承と発信にも力を入れて参りたいと思います。
 今年は丑年ですが、高村光太郎の『岩手の人』という詩に、「岩手の人…牛の如し」とあります。「地を往きて走らず、企てて草卒ならず、ついにその成すべきを成す。」ということであり、「丑年は岩手の年」と言って良いでしょう。
 昨年中、新型コロナウイルスの流行の下でも、農林水産業、工業、サービス業、それぞれに進展があり、文化、スポーツでも多くの成果がありました。今年、牛のような着実さと、いざという時のパワーで、「お互いの幸福を守り育てる岩手県」を進めていきましょう。
 皆様のご健康、ご多幸をお祈りいたします。

「いわてモー! モー! プロジェクト2021」、具体的な取り組みなど、また分かりましたらお伝えします。

【折々のことば・光太郎】

風のかたまりが林を渡つてゆく時のごうごうたる音は物凄きばかりなり。

昭和21年(1946)1月4日の日記より 光太郎64歳

「風のかたまり」という表現が凄いと思います。描かれている季節は違いますが、宮沢賢治の「風の又三郎」に出てくる「どっどど どどうど どどうど どどう」を思い起こしました。


少し前ですが、今月7日『読売新聞』さんの高知版から

岡本弥太しのぶ朗読 香南で児童ら 一絃琴の演奏も

 香南市香我美町出身で、「南海の宮沢賢治」とも評される詩人・岡本弥太(1899~1942年)をしのぶ行事が6日、出身地近くの峯本神社であり、児童や住民ら約30人が、詩を朗読するなどして功績をたたえた。
 地元で教職に就きながら詩作を続け、生前に発表した詩集「瀧(たき)」が注目された。 同神社には、高村光太郎揮毫(きごう)の詩碑があり、命日(2日)に近いこの日の式典には、四女の藤田泰子さん(85)や孫の岡本龍太さん(62)らが参列した。
 龍太さんは、弥太をみとった弟子の随想を紹介。地元の香我美小児童が、代表作「白牡丹図」「ふゆの月」を一絃(げん)琴の演奏や朗読で披露した。高知高専の佐藤元紀講師(37)は、両作品について、時の流れを客観的に見ていることや、苦しい生活の中でも無邪気な幼子への哀切が表現されていることなどを解説した。
 実行委の松山繁副委員長(84)は「短い生涯に残した多くの功績を、若い人に継承したい」と話した。
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3年前にも同じイベントの記事が『読売』さんに出て、ご紹介しました。毎年開催されているようですが、光太郎の名が出ないとなかなかこちらも気付きません。

岡本は高知出身の詩人で、光太郎と直接会ったことはなかったようですが、記事にもある生前唯一の詩集『瀧』を贈り、光太郎からの礼状が届けられたりしました。その記憶があったのかどうか、没後5年経った昭和22年(1947)、高知に岡本の詩碑が建立されることとなり、光太郎がその代表作「白牡丹図」を揮毫しました。
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上記は20数年前、この碑を見るためだけに羽田から高知へ飛び、撮ってきた画像です。ちなみに帰路は高知から伊丹空港へ。大阪市の御堂筋に寄って光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像の為の中型試作」(「みちのく」と題されています)を新幹線で見て帰りましたが。

光太郎が他者の作品を揮毫し、碑になったものは、この碑と花巻の宮沢賢治詩碑(「雨ニモマケズ」碑)しか現存が確認できていません。その他、かつて栃木県に佐藤隆房の短歌を刻んだ歌碑がありましたが、地元の無理解のため撤去されてしまいました。白牡丹図碑は地元でも大切にされているようで、ありがたいことです。

碑のある峯本神社さんでのイベント以外に、「岡本弥太詩賞」の表彰式も、同じ日に行われていました。こちらは『高知新聞』さんから

岡本弥太詩賞 吉岡さん(福岡市)峯本神社で弥太祭も 香南市

003 香南市香我美町岸本生まれの詩人、岡本弥太(1899~1942年)をたたえる「岡本弥太詩賞」の表彰式が6日、岸本防災コミュニティセンターで行われた。特選には吉岡幸一さん(55)=福岡市=の「砂浜」が選ばれた。
 岡本弥太は教職の傍ら詩を詠み、32年に出版した生前唯一の詩集「瀧」は中央詩壇で高い評価を受けた。詩賞は2017年に創設され、今回は全国から244作品の応募があった。
 表彰式では、受賞者が作品を朗読。特選作は、一人の男が海岸で砂粒を一粒ずつ、いとおしい人の骨を拾うように拾っては透明な瓶に落とす情景を描写。吉岡さんが静かに詠み上げた。
 この日は近くの峯本神社で弥太の命日(2日)に合わせた「弥太祭」もあり、約30人が参加。地元児童による詩の朗読や、一絃琴の演奏で弥太をしのんだ。弥太の孫の岡本龍太さん(62)=高知市=は「地元の方々も毎年よくしてくれてありがたい。これからも弥太の研究を続けたい」と話していた。
 その他の主な受賞者は次の皆さん。
▽一般の部奨励賞=空見タイガ(大阪府)▽学生の部奨励賞=河渕真菜(高知市)

各地で行われているこうした先人の顕彰を旨とするイベント、当会主催の連翹忌にしてもそうですが、マンネリとの戦いという部分もありますし、さりとて途切れさせるわけにも行かずですし、頭の痛いところですね。特にコロナ禍の昨今、もはや会食を伴う形での開催は難しくなっています。連翹忌のありかたも考え直す時期なのかも知れません。皆様のご意見を賜りたく存じます。


【折々のことば・光太郎】

宮沢家、院長さん等皆して見送り。


昭和20年(1945)10月17日の日記より 光太郎63歳

佐藤隆房邸に約1ヶ月厄介になったあと、いよいよ郊外太田村に移った記述です。ここからまた1ヶ月は山口分教場に寝泊まりし、鉱山の飯場小屋を移築してもらった山小屋(高村山荘)の整備にかかりました。
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昨日放映の「NHK短歌」を拝見しました。司会は女優の有森也実さん、選者・講師は歌人の寺井龍哉さん。
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ゲストに当会会友の渡辺えりさん。
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渡辺さん、高校時代の演劇部で寺山修司の短歌に触れ、その後も現代歌人の方々と親交がおありだそうで。

光太郎と交流をお持ちだったお父さま・渡辺正治氏のお話も。ただ、光太郎の名は出ませんでしたが。
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トークを伴う番組に出演されると、とかく暴走される(笑)渡辺さんですが、昨日も案の定……。
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『万葉集』の恋歌を解釈するというコーナーの中で。静止画面にしてもブレています(笑)。

お父さま同様、光太郎と交流のあった宮沢賢治には触れて下さいました。
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またご出演なさりたいとのことですので、次はぜひ光太郎の短歌についても語っていただきたいものです。
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明日、再放送があります

NHK短歌 題「たとえば」004

NHK Eテレ 2020年12月22日(火) 15時00分~15時25分

選者は寺井龍哉さん。ゲストは演出家、女優の渡辺えりさん。題は「たとえば」。「万葉恋の歌」のコーナーでは大伴旅人を見送った児島という女性の歌を紹介する。

司会 有森也実  ゲスト 渡辺えり  出演 寺井龍哉

画像は渡辺さんのフェイスブックから採らせていただきました。

ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。

ところで、短歌といえば、都内の古美術商、田島美術店さんで、光太郎が短歌をしたためた書を売りに出しているのに気付きました。

天然の湯に入りければ君が身とこゝろとけだし白玉に似む」。大正9年(1920)、『明星』の歌人、渡辺湖畔に贈った十首ほどのうちの一首です。湖畔に贈った書そのものではないのでしょうが、「人におくれる」の詞書が附されています。


【折々のことば・光太郎】

秋涼、十六夜、 賢治さん十三回忌、午前九時過宮沢老人等と共に賢治さん忌につき日蓮宗の寺に参詣、経料五円つつむ。十一時一旦帰宅。十二時過宮沢邸にて中食、二時頃詩碑にゆく、三十余人あつまる、


昭和20年(1945)9月21日の日記より 光太郎63歳

賢治忌日の賢治祭に、光太郎が初めて参加した記述です。この後、昭和27年(1952)まで毎年参加し、ほぼ必ず講話、講演等を行いました。

フェイスブックで広告が出ていまして……

レモン哀歌 ロングスリーブTシャツ

突っ込みどころ満載のワンフレーズシリーズです。

アイテム本体 ロングスリーブTシャツ 5.6オンス
素材・材質  綿100%(ミックスグレーのみ:綿90%・ポリエステル10%)

定価2,340円+税(一部カラーでは、発色をよくするために下地に白インクを用いるので価格が高くなります。)
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ロングスリーブTシャツの他に、パーカー、半袖Tシャツなども。また、「ガリリと噛んだ」レモン哀歌以外にも、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」シリーズも。
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こちらは「SUZURI」さんというサイトでの提供商品。少し前にご紹介したサコッシュなどもそのようですが、個人でデザインし、作成・販売が出来る「無料オリジナルグッズ」的なもののようです。

突っ込みどころ満載」、確かにその通りですね(笑)。突っ込まれる勇気のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后二時花巻病院の災害時に敢闘せし職員の表彰式に出席 昨日書きたる詩を朗読す。

昭和20年(1945)9月5日の日記より 光太郎63歳

災害」は8月10日の花巻空襲、「昨日書きたる詩」は「非常の時」です。

光太郎の疎開に一役買った佐藤隆房が院長を務めていた総合花巻病院では、医療従事者達が自らの危険を顧みず負傷者の救護に当たり、のちにその話を聞いた光太郎はその奮闘を讃え、詩「非常の時」を贈りました。今年、その内容がコロナ禍に立ち向かう医療従事者にかぶるということで、今年また注目を集めました。

新刊です

歌人番外列伝|異色歌人逍遥

2020年11月16日 塩川治子著 短歌研究社 定価2,500円+税

「この一集は塩川さんのウィットに富む眼差しにより、信濃はもとより日本の歴史、文化をより豊かに語り伝える才筆の一集である」(春日真木子・序)

他分野で名を成すとともに、独自の歌境を切り拓いた二十世紀の「番外歌人」たち。
歴史上の人物が残した歌を辿る「異色歌人逍遥」。
多くの文化人が集った軽井沢に居を構えて四十余年、数々の交流の思い出も交えつつ、歌集を繙いてゆく────
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目次003

序 春日真木子
【歌人番外列伝】
 一 回生の人──鶴見和子
 二 越しびと──片山廣子
 三 孤涯の人──小林昇
 四 琉球の女──久志富佐子
 五 不知火の人──石牟礼道子
 六 博士の面影──河上肇
 七 歌あらば──二人の死刑囚
 八 剣に代ふる──尾崎咢堂
 九 歌の孤立者──大熊信行
 十 白斧の人──高村光太郎
 十一 涙の歌人──堀口大学
 十二 夢のうたびと──福永武彦
 十三 政塵の人──井出一太郎004
 十四 科学者の憂い──湯川秀樹
 十五 土佐の女──大原富枝
 十六 理論と詩──石原純
 十七 ラケットをもった貴婦人──朝吹磯子
 十八 知の巨人の愛──加藤周一
 十九 ざんげ歌の哀しみ──小原保
 二十 実りのひとつ──宮沢賢治
 二十一 農民とともに──若月俊一
 二十二 太陽でありたかった女──平塚らいてう
 二十三 この世の外──大伴道子
 二十四 火の国の女──高群逸枝
 二十五 忍ぶ女ひと ──津田治子
 二十六 ロマンの人──中河与一
 二十七 叫ばむとして──宇佐見英治
 二十八 残夢──徳富蘇峰
 二十九 斜陽の女──太田静子005
 三十 草雲雀の人──立原道造
【異色歌人逍遥】
 一 紫式部
 二 源実朝
 三 樋口一葉
 四 只野真葛
 五 本居宣長
 六 高井鴻山
 七 賀茂真淵
 八 上田秋成
 九 道元
 十 良寛
あとがき

光太郎を始め、いわゆる専門の「歌人」ではない人々の短歌を紹介し、論評を加えています。元々雑誌『雅歌』に連載されていたもののようですが、存じませんでした。

光太郎の項は「白斧の人──高村光太郎」という小題。「白斧」は、昭和23年(1943)に刊行された光太郎歌集の題名です。上記目次脇にスペースが出来てしまったので画像を載せておきました。上は通常版、下は特製限定本(850部)です。特製限定本には光太郎の揮毫を写真製版したページが4ページ。一番下の画像がそのうちの1ページで、明治39年(1906)、留学のため渡米する船中で詠んだ「地を去りて七日十二支六宮のあひだにものの威を思ひ居り」が書かれています。

『白斧』という題名は、明治37年(1904)の『明星』にに載った短歌35首の総題から採られました。総題を付けたのはおそらく鉄幹与謝野寛ですが、元としたのは「刻むべき利器か死ぬべき凶器(まがもの)か斧の白刃(しら)に涙ながれぬ」。

さて、「白斧の人──高村光太郎」。この「刻むべき……」に始まり、明治末から晩年までの20首ほどを取り上げつつ、光太郎の歩みを簡略に紹介しています。短歌はその名の通り短いので、それらを引きつつ生涯を俯瞰するというのは、紙幅もそれほど取らずにすむので、なるほどと思いました。これが詩ですとそうはいかないでしょう。

特に目新しいことは書かれていなかったのですが、ただ、引用されている短歌に、『高村光太郎全集』等にみあたらないものが1首。

いたづらに世にながらへて何かせむこの詩ひとつに如かずわが歌

というものですが、当方、存じませんでした。出典や初出掲載紙といった情報が書かれておらず、何かご存じの方はご教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

午前六時24分花巻駅発盛岡行。細雨。


昭和20年(1945)8月25日の日記より 光太郎63歳

終戦からまだ10日ですが、早くも講演を頼まれ、初めて盛岡に行きました。この際に見た岩手山の印象が、詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)に反映されているのではないかと思われます。

光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』。月2回の発行です。今月15日号で、8月にオープンした道の駅「はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」に関する記事が出ています

賢治さんのまちづくり 第93回 宮沢賢治と高村光太郎

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、宮沢賢治と深いつながりを持つ人物です。今回は二人の縁について紹介します。
 賢治の作品で生前に発刊されたのは詩『春と修羅』と童話『注文の多い料理店の』2作品。このうち『春と修羅』を詩人・草野心平から薦められた光太郎は、その世界観に魅了され、以降文通により賢治や心平と交流を深めました。光太郎は、賢治の死後も「賢治全集」の編集や装丁のほか、花南地区にある「雨ニモマケズ」詩碑の揮毫(きごう)などを行っています。
 昭和20(1945年)、東京の自宅兼アトリエを空襲で失った光太郎は、賢治の父・政次郎や弟の清六を頼って花巻の宮沢家に疎開しました。しかし疎開先の宮沢家も空襲で焼失。その後、光太郎は太田の小屋(高村山荘)で7年間過ごし、その間には地域の人々との交流もありました。
 道の駅はなまき西南は、高村山荘がある花巻西南地域に建てられ、8月7日にオープンしました。多くの人が立ち寄り、西南地域に新たなにぎわいを創出しています。
 一般公募により「賢治と光太郎の郷(さと)」という愛称が付けられた同施設。休憩スペースには、賢治と光太郎とのつながりが記されたパネルが展示されています。皆さんもぜひ立ち寄ってご覧ください。

【問い合わせ】本館賢治まちづくり課 (☎ 41-3890)
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また、今年一年の回顧的なページでも

▲道の駅「はなまき西南」がオープン

 西南地域に道の駅「はなまき西南」がオープンしました。同施設は道路利用者への安全で快適な道路環境を提供するほか、地域を支える拠点としての役割を担います。
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花巻方面にお越しの際は、ぜひお立ち寄り下さい。

花巻といえば、昨夜、花巻高村光太郎記念館の方から届いたメールに、昨日の同館周辺の画像が添付されていました。
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すごいことになっていますね(笑)。80㌢ほど積もっているそうですし、雪の重みで倒れた木も一本あるとのこと。「きっと光太郎は喜んでいるでしょう」ということですが、「冬の詩人」と言われる光太郎、その通りかもしれません。

【折々のことば・光太郎】

松庵寺にて一枚起請文をもらふ。

昭和20年(1945)8月23日の日記より 光太郎63歳

004松庵寺」は花巻市街にある浄土宗の寺院です。ほぼ毎年、光太郎はこちらで智恵子や父・光雲の法要を営んでもらっていました。そうした縁から、今年はコロナ禍で中止となりましたが、4月2日には花巻としての連翹忌を開催して下さってもいます。

この年にはずばり「松庵寺」という題名の詩も書かれました。

   松庵寺

 奥州花巻といふひなびた町の
 浄土宗の古刹松庵寺で
 秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
 まことにささやかな法事をしました
 花巻の町も戦火をうけて
 すつかり焼けた松庵寺は
 物置小屋に須弥壇をつくつた
 二畳敷のお堂でした
 雨がうしろの障子から吹きこみ
 和尚さまの衣のすそさへ濡れました
 和尚さまは静かな声でしみじみと
 型どほりに一枚起請文をよみました
 仏を信じて身をなげ出した昔の人の
 おそろしい告白の真実が
 今の世でも生きてわたくしをうちました
 限りなき信によつてわたくしのために
 燃えてしまつたあなたの一生の序列を
 この松庵寺の物置御堂の仏の前で
 又も食ひ入るやうに思ひしらべました


境内には、佐藤隆房の揮毫によるこの詩の碑も建っています。

光太郎の手元に残された控えの詩稿欄外のメモ書きによれば、執筆は「昭和二十年十月五日下書、二十二年六月清書」。ところが、この年の松庵寺での法要は日記によると10月10日。そこで『高村光太郎全集』のこの詩の解題では、「制作の日付には疑問が残る」となっています。

しかし、謳われている情景が10月10日の法要ではなく、上記の8月23日のことであれば、10月5日執筆でも矛盾はありません。ただ、そうなると詩の中の「秋の村雨ふりしきるあなたの命日」と一致しません。智恵子命日(レモンの日)は10月5日です。8月23日では月命日とかにもなりませんし……。

やはり光太郎が日付を書き間違えたということなのでしょうか。または下書きと清書の間で、かなりの変更があったのかもしれません。8月23日、10月10日双方の出来事を一篇にまとめてしまったというようなことも考えられます。


福岡に本社を置く『西日本新聞』さん、先週掲載された記事です

「焦らず、恐れず」ステイする気魄を コロナ禍で求められる極意とは

000 木と木の間に張ったベルトの上を悠々と渡っていく。曹洞宗僧侶の藤田一照(いっしょう)さん(66)は、ベルト渡りが日課のひとつ。緊張と弛緩(しかん)の絶妙なバランス感覚は宙に浮いているかのようだ。「うまく乗ろうと思わず、力みを抜いて、ただ乗せてもらう」ことが極意らしい。
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 一照さんが実践しているのは仏教で言う「不放逸(ふほういつ)」の状態。力まず、しかし意識が隅々まで行き渡っているこの自然体こそ坐禅(ざぜん)でも目指す姿勢で、仏教の智慧の形なのだという。
 「くつろぎながらも目覚めていて、その時々で何が起こっているかを認識する。この平常心こそ、今求められる感性であり、知性だと思います」
 感染症の拡大で先行きが見えない今、藤田さんはあらためて「動じない自分の軸と足元の確かさ」の必要性を、オンラインのトークも介して呼びかけている。
 一照さんは愛媛県で生まれ、東大大学院で発達心理学を研究中に禅の道に出合った。兵庫県の修行道場安泰寺で6年間修行し、33歳で渡米してマサチューセッツ州の禅堂で17年半、住持を務めた。帰国後は寺や檀家(だんか)は持たず、神奈川県葉山町で別荘の管理人をしながら坐禅を指南している。
 2013年に刊行した僧侶の山下良道さんとの共著「アップデートする仏教」(幻冬舎)は世に一石を投じた。葬式や法要に象徴される世俗化した仏教や、近年「マインドフルネス」として流行している自己啓発のための仏教を超えた、現代人にとって本当に意味のある仏教の形を探求している。コロナ禍は、その課題を切実にした。
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 戦後日本の仏教のもろさをあらわにしたのは、1990年代のオウム事件だった。極端な教義を説く教団が悩みや焦りを抱えた若者たちの受け皿になり、修行の名のもとに破壊行動に至った。当時修行中だった一照さんも衝撃を受けた。
 「一生懸命修行した結果がああなるのかと、すごくショックを受けました。僕らの世代が起こした事件で、他人ごとではなかった」
 ブッダが最後に残した有名な言葉がある。「怠らず修行を完成させなさい」。「怠らず」は原語のパーリ語では「アッパマダー」と表現し、「パマダー=酩酊(めいてい)状態」の否定語で、「目覚めている」を意味する。
 「一生懸命頑張るだけでなく、自分の行動に自覚的であること。攻撃的でも逃避でもないアッパマダー、つまり『不放逸』の態度こそ、ブッダが伝える修行の姿だったと思います」
 オウム事件の後、日本社会は一時宗教へのアレルギー反応を見せたが、東日本大震災では弔いのための宗教が求められた。今回のコロナ禍では法事や伝道、祭りなど各種行事が自粛に追い込まれ、宗教は事実上、不要不急と見なされている。一照さんは「コロナは医療や経済だけではなく、宗教問題」だと強調する。
 「身過ぎ世過ぎの問題だけでは済まされない。生きる意味を問い、人生の方向性が定まらないと、ただ生きているだけ。祭りなどエネルギーを発散し、神仏と交流するハレの場がなくなることも、じわりと影響を及ぼしてくるはずです」
      ×××
 今回の感染拡大で定着した「ステイホーム」という言葉にも、一照さんは生きる本質を見ている。仏教では「家」を「畢竟帰処(ひっきょうきしょ)」と呼び、最終的な拠(よ)り所(どころ)を指す。それは「本来の自己」であり、そこにステイする(居る)ためには生きる底力である「気魄(きはく)」が不可欠だという。
 一照さんは今年、高村光太郎の詩「道程」を何度も読み返した。
 <僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ 父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため>
 自然から気魄を授かり、前人未到の道を歩く覚悟に燃える詩に、一照さんは初心の心構えを読み取る。
 「感染症によってすべての人が未曽有の状況に投げ込まれている今、一人一人が柔軟でオープンな初心に戻り、『感じる知性』を磨いて自分の足で前に歩んでいく覚悟が必要です」
 焦らず、恐れず。不慣れで不確実で、不確定な毎日が続く今、一照さんのベルト渡りは一歩一歩が無心で、いつも新しい、「初心のススメ」なのだ。

確かにこういう時代こそ、耽美的、芸術至上的な詩より、ある意味無骨で述志的、しかしポジティブな光太郎の詩、と思います。

【折々のことば・光太郎】

太田村山口行、 朝飯盒にて弁当炊き、八時四十分校長先生同道花巻駅より。

昭和20年(1945)8月21日の日記より 光太郎63歳

この年秋から7年間を過ごす花巻郊外太田村山口地区に、初めて足を踏み入れた記述です。この時点で既に移住の決意は固く、山小屋を建てる場所もある程度決め、土地の所有者で、地区のまとめ役でもあった駿河重次郎宅に挨拶に行っています。

「校長先生」は、この時、宮沢家を焼け出された光太郎を住まわせてくれていた、元旧制花巻中学校長・佐藤昌です。

最近いただいた書籍、2点ご紹介します。

まず、文芸同人誌『青い花』第95号。詩人で朗読等の活動もなさっている宮尾壽里子様から。
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これまでも光太郎智恵子に関するエッセイや論考等を同誌にたびたび寄稿なさっていて、今号もエッセイ「巴里 パリ PARIS(三)」が掲載されています。
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昨年の6月、フランスに行かれたそうで、そのレポートです。明治41年(1908)から翌年にかけ、光太郎が暮らしたカンパーニュ・プルミエルのアトリエや、詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)に謳ったノートルダム大聖堂などが取り上げられています。

奥付がこちら。
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もう1冊、作曲家の仙道作三氏から『音響詩人 宮沢賢治』。氏は平成元年(1989)、オペラ「智恵子抄」なども作曲なさっています。
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音楽家の眼から見た賢治、というコンセプトで、特にコロナ禍の今こそ賢治作品だ、的な。光太郎智恵子にもちらっと触れて下さっています。
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装画はお嬢さんでパーカッショニストの仙道さおりさん。コロナ禍の今、ということでアマビエ様です。
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奥付はこちら。
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それぞれご入用の方、奥付画像をご参照の上、ご対応下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前、西鉛奥の部落からマタギが来る、熊の膽をかつた事のある人。熊の話などきく。

昭和20年(1945)8月3日の日記より 光太郎63歳

「西鉛」は、6月に滞在した西鉛温泉。その際に知り合ったマタギが、光太郎疎開先の宮沢家に訪ねてきたということでしょう。マタギや熊、そして鉛温泉は賢治の童話「なめとこ山の熊」にも登場します。

一週間後の8月10日には、花巻空襲。7月からたびたび空襲警報のサイレンが鳴ったことが日記に記されていますが、まだ呑気に構えていました。バッハの「ブランデンブルグ」レコード(賢治の遺品でしょうか)を聴いたり、賢治実弟の清六らと映画鑑賞に出かけたり……。

盛岡ご在住の加藤千晴氏から、ご著書が届きました。題して『高村光太郎と共に』。B6判で40ページ程の冊子です。

加藤氏、光太郎と年齢の離れた従妹、加藤照さんのご子息で、ご自身も赤ちゃんの時に光太郎の膝の上によじ登ったという方です。平成28年(2016)の花卷高村祭では、記念講演をなさいました。照さんは満100歳を超えられているはずですが、まだお元気のようです。
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内容的には氏のフェイスブックへの投稿をまとめられたものだそうで、氏が以前に出された『光太郎と女神たち』とかぶる部分もありますが、親族のお立場から見ての光太郎像ということで、貴重なものです。

下記は扉ですが、こうした画像もふんだんに掲載されています。
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表紙画像の扇子には、光太郎の長姉にして狩野派の日本画を学び、しかし数え16歳で病没した咲(さく)の手になる絵が描かれています。

扉の画像は左上から、ニューヨーク滞在中の光太郎、ニューヨークからの光太郎絵葉書、咲、加藤氏のお祖母様(=光太郎の叔母)・中山ふゆ、智恵子。

ご興味のある方、加藤氏フェイスブックのリンクはこちら。ただ、公開設定がどうなっているのかよくわかりませんので、たどり着けないという場合はご寛恕の程。

【折々のことば・光太郎】009

小豆の入つた赤飯を喰ひて、はかなく幼き日を思ひ出したり。真に此の赤飯をappreciateし、心から感謝の意を以て膳に向ふ人は余の家に余の母あるのみならん。


明治43年(1910)9月15日の日記より
 光太郎28歳

「appreciate」は英語で「感謝」。家族の中で光太郎の母・わかだけは、一家の生活が貧しかった光太郎の幼少期から、食べられることへの感謝の意を常に持ち続けていたというわけでしょう。父・光雲や、生活が安定してから育った光太郎の弟妹達は、台所のやりくりにはあまり意識が向かなかったということなのかも知れません。

右は上記加藤氏御著掲載のわかの写真。前著『光太郎と女神たち』にも小さく載っていましたが、今度は大きめに掲載されています。他では見たことのない写真でした。

どうも光太郎の顔立ちは、光雲よりわかに似たように思われます。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数出版して下さっている文治堂書店さんのPR誌、第11号が届きました。
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これまでカタカナで「トンボ」だった題名が、ひらがなで「とんぼ」に変更。題字揮毫は堀津節子さん。月刊書道誌『不二』、『ペンの力』で手本を書かれているそうです。ご主人の故・堀津省二氏は、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の教え子で、東大図書館さんにお勤めでした。当方が刊行を引き継がせていただいた『光太郎資料』の初期の頃、掲載記事の一部をご執筆なさったり、ガリ版印刷のガリ切りをなさったりした方です。

題字下の装画は、北川太一先生がご趣味として取り組まれていた版画。かつて先生は版画の個展も開かれていました。

内容的には、「特集 賢治童話と詩について」だそうで、宮沢賢治が大きく取り上げられています。
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賢治は光太郎とも交流があり、光太郎は戦時には宮沢家を頼って花巻に疎開した経緯もあり、北川先生のご子息・光彦氏は「宮沢賢治『雨ニモマケズ』と高村光太郎」という一文を寄せられています。
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さらに前号が北川先生追悼特集だったため、その感想等。
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当方も拙文「連翹忌通信」を連載させていただいております。ただ、当方は気まま勝手な内容で(笑)。今号は4月のこのブログでご紹介した、ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見について。美術史上、大変な発見ですので、少しでも機会があれば広めねば、と思ってこの件を書きました。
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ご入用の方は、文治堂書店さんまでご連絡下さい。一応、頒価500円+税ということになっています。

【折々のことば・光太郎】

日本の衣食住の今日の吾人の生活状態及心理状態に対して如何にも不合理なのを強く感じた。社会一般が皆不安定に見えるのも、日々此矛盾を各個人が忍んでゐるからだ。知らずに忍んでゐるのだ。人が物事を「間に合せて我慢」してゐる間は日本の真の文明は期し難い。


明治43年(1910)9月14日の日記より 光太郎28歳

いわゆる大逆事件での幸徳秋水や管野スガらの不当検挙、韓国併合などを念頭に置いての発言と思われますが、何だかコロナ禍の現代のことを言っているようにも読めます。

この年4月には、共に手を携えて日本に新しい彫刻を根付かせようと約していた、碌山荻原守衛が急逝したりもしています。

レジ袋有料化に伴い、マイバッグ持参の習慣がついた方も多いのではないでしょうか。

そこでおそらく新製品と思われるバッグ系。もちろんここで紹介するので光太郎がらみです(笑)。

まずエコバッグ

文学作品エコバッグ 道程モチーフ

高村光太郎の詩集『道程』の一節、「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」をイメージしたデザインです🚶🏻‍♂️🛤 シンプルで使いやすさ抜群🌟

サイズは、縦33㎝×横28㎝。ファッション誌3冊程度が楽々入るサイズです📚 持ち手も肩にかけられる便利な長さ♪お値段は書店様によって異なりますが、約100円〜150円のお得な価格で多く販売いただいております!是非シリーズコンプしてください♡

発売元/文学の雑貨  
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「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」を英訳した「No way before me./A way behind me.」という文字がプリントされています。

他に、「ウォールデン 森の生活モチーフ」、「赤毛のアンモチーフ」、「銀河鉄道の夜モチーフ」、「ハムレットモチーフ」、「こころモチーフ」。それぞれかなりシャレオツですね。
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取り扱い店舗の一覧はこちら

続いて、一回り小さく、肩に斜めがけするタイプのサコッシュ

高村光太郎/智恵子抄/山麓の二人/わたしもうぢき駄目になる/サコッシュ

素材:綿100% キャンバス 280g/㎡
本体サイズ(mm) 300 × 230 紐の長さ(mm)  1,050 容量  0.7L
価格 ナチュラル/ライトグレー ¥2,530  ブラック ¥2,770
発売元/イニミニマニモ
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発売元のイニミニマニモさん、以前にもTシャツでご紹介していました。

その後も新商品を色々出されているようで、「山麓の二人」バージョン以外に「文学者ボックスロゴ 高村光太郎」バージョン、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る-座右の銘-」バージョンで、サコッシュ、トートバッグ、Tシャツ、パーカーなど、多くのラインナップが用意されています。中には持ち歩いたり身につけたりするにはちょっと勇気が要るかな、というものも(笑)。
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勇気のある方、ぜひお買い求め下さい(笑)。

【折々のことば・光太郎】

仕事しつつ自ら己れを見るにいかにしても天才とは見がたきのみか器用ともゆるしがたし。是非もなき事なれど口惜しからでやは。さもあらばあれ、勉めて止まず、倦まず撓まずすゝみゆかば遂には彼岸に達し得ん。否達せしめからざるべからず。

明治36年(1903)4月11日の日記より 光太郎21歳

光太郎の自己に厳しい性分は若い頃から如実だったのですね。

3件ご紹介します。

掲載順に、まず、『読売新聞』さん。11月11日(水)の夕刊一面コラム

よみうり寸評

山本周五郎の短編に、こんな台詞(せりふ)が出てくる。<もし秋だったらどんなに悲しかったでしょう。……木や草が枯れて、夜なかに寒い風の音などが聞こえたら>(「落ち梅記」)◆青々と色づいていた草木から、その色が消えてゆく。晩秋の光景に悲しみや寂しさが増すことはあっても、元気づけられるという話はあまり聞かない◆数少ない例だろう。<秋に木の葉の落ちる時、その落ちたあとにすぐ春の用意がいとなまれ……>と高村光太郎は随筆に綴(つづ)った。よく知られる英詩の一節「冬来たりなば春遠からじ」よりさらに早く、秋の落葉に春の萌芽(ほうが)があるのだと気づかされる◆これも春の兆しと受け止められよう。新型コロナのワクチンを開発中の米大手製薬会社が、臨床試験参加者の9割超で効果が確認されたと発表した。ただし安全性などで不明な点も多く、日本で接種が始まる時期は見通せない◆実用化を待ちつつ、来たる冬をしっかり耐え抜く。その覚悟を当面は固めるしかないのだろう。思えば冬を経ずに来る春はない。

引用されているのは、随筆「山の春」(昭和26年=1951)の一節です。

続いて、定期購読している、日本古書通信社さん発行の月刊誌『日本古書通信』の11月号(11月15日発行)。巻末に掲載のコラムです

談話室

▼10月9、10日、GoToを利用して花巻と盛岡に車で行ってきた。二日で走行距離一〇四三キロ、66歳になるが疲れもせず、まだ体力あるなと自信が持てた。主な目的は花巻在太田の高村光太郎山荘と、宮沢賢治生家跡、渋民村の石川啄木記念館。山荘で、光太郎は終戦前から昭和27年まで約七年間を過ごした。伊藤信吉さんが古通豆本『亡命高村光太郎』に書かれたように、戦争の痛手から再生する厳しい試練を自らに課した時間と所だ。山荘での生活は、詩「雪白く積めり」に象徴的である。当時山荘を訪ねた人は多い。七十年前どのくらい時間がかかったのか。今は花巻中心街から車で30分だが、当時は山荘から小さな鉄道の駅二ツ堰まで徒歩四キロ歩き、鉄道で花巻まで20分。東京から花巻までは充分一日を要したろう。確かに亡命に相応しい遠隔の地であった。記録は多いが実感できた。
 渋民では、啄木の「やはらかに柳あをめる」の歌碑の前に立ちたかった。啄木の「ふるさとの山」は、岩手山か、対面する姫神山か。両山だという説もあるが、姫神山はきれいな稜線だが、迫力が違う。岩手山がふるさとの山であろうと実感した。


終戦前から昭和27年まで」は誤りで、正しくは「終戦直後から昭和27年まで」です。

『亡命高村光太郎』は、光太郎と交流のあった伊藤信吉著。同社でかつてシリーズとして刊行していた「こつう豆本」の一冊で、書き下ろしではなく、雑誌『国文学 解釈と鑑賞』や、『高村光太郎全集』の月報に初出の文章を再掲したものです。
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「豆本」というだけあって、タテ10㌢、ヨコ7.5㌢の可愛らしい本です。

最後に、『日本農業新聞』さんの一面コラム。昨日の掲載です

四季 日ごと色づく木々の葉に、秋の深まりを知る

照り映える紅葉に、八木重吉の詩「素朴な琴」が重なる▽「この明るさのなかへ/ひとつの素朴な琴をおけば/秋の美くしさに耐えかねて/琴はしずかに鳴りいだすだろう」。詩人の郷原宏は、この詩を「おそらく日本語で書かれた最も美しい四行詩である」と評した。宗教詩人にして自然詩人の重吉の悲しいまでに澄んだまなざしが、 そこにある▽高村光太郎は、重吉の詩集に「このきよい、心のしたたりのやうな詩はいかなる世代の中にあつても死なない」との一文を寄せた。秋が巡るたびに、重吉の詩に浸るのをささやかな喜びとする。井上靖の詩の一節も忘れ難い。「刻一刻秋は深まり、どこかで、謙譲といふ文字を少年が書いています」(「十月の詩」より)▽北国からはもう雪の便りが届く。同じく井上に次の詩句がある。「ひしゝと迫る晩秋の寂しさを、落葉をふんでゆく母の老の姿に感ずる」(「冬の来る日」)。こちらの方が実感に近いか。 はらはら舞い落ちる落ち葉の中でも、ひときわ優美なのはイチョウである。今度は、フランク永井の歌った「公園の手品師」が頭の中で流れ始める▽<秋がゆくんだ冬がくる 銀杏は手品師 老いたピエロ>。長い影を引き連れ、散歩の足が伸びる。

光太郎の引用部分は、昭和18年(1943)に書かれた「八木重吉詩集序」から。ただ、戦時ということもあり、この時点では刊行に至りませんでした。

早世した八木重吉と光太郎、直接出会ったことはなかったようですが、当会の祖・草野心平らを通じ、その詩業に触れていたようですし、八木の未亡人・登美子とは交流がありました。

昨日までは季節はずれの暖かさでしたが、今日からは一転して平年並みの気温となっていくようです。秋も深まりつつありますね。

画像は自宅兼事務所の庭の紅葉です。
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【折々のことば・光太郎】

山岸氏の侠気は厚く謝するところなり。彫塑の上のみならず、文学上にてもかゝる方面に知人あるは最も都合よきことなればうれしともうれし。


明治36年(1903)4月2日の日記より 光太郎21歳

「山岸氏」は山岸荷葉。先日も書きましたが、光太郎より7歳年上の作家です。光太郎が五代目尾上菊五郎の肖像彫刻を作るに際し、いろいろと骨折ってくれました。

人脈が広がってゆくのを喜ぶ光太郎。当方も常々それを感じています。

福島がらみで2件。

まずはイベント情報、当会の祖・草野心平を偲ぶ集いです。心平が亡くなったのは昭和63年(1988)の今日ですが、イベントは日曜日開催ということです。

没後33回忌 心平忌/第26回 心平を語る会

期 日 : 2020年11月15日(日)
会 場 : 草野心平生家(いわき市小川町上小川字植ノ内6-1)・常慶寺
時 間 : 13時00分~15時00分
料 金 : 無料

⑴13時〜 墓前祭  読経後、常慶寺の心平墓前にて香華、焼香
⑵14時10分〜15時 心平詩の朗読と卓話

①朗読 緑川明日香氏   いわき市生まれ。幼少の頃を小川町で過ごす。高校時代に「放送劇」と出会い、声による表現に魅せられる。現在、地元いわき市を拠点に、朗読、ナレーションなど、声による表現活動を行っている。朗読講座講師。2018年、2019年、草野心平記念文学館にてサマーナイト朗読会出演。同年11月いわきゲリゲ祭りオープニングにて心平氏の詩を朗読。

②卓話 齋藤貢氏  いわき市在住。詩人、H氏賞選考委員、歴程同人。1954年福島県生まれ。茨城大学卒。1979年に教員となり、福島県立小高商業高等学校、福島県立郡山東高等学校の校長を歴任。詩集『奇妙な容器』(1987年 詩学社)で第40回福島県文学賞。詩集『夕焼け売り』(2018年 思潮社)で第37回現代詩人賞。他の詩集には『竜宮岬』(2010年 思潮社)『汝は、塵なれば』(2013年 思潮社)など。詩誌「歴程」「白亜紀」「孔雀船」「雛罌粟(こくりこ)」同人。現在はいわき短期大学非常勤講師、福島県現代詩人会理事長、福島県文学賞審査委員。
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詩の朗読が緑川明日香さん。以前から心平詩などの朗読に取り組まれていましたし、平成30年(2018)に二本松で開催された高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会にもご出場、優秀賞を受賞なさった方です。

「卓話」は「歴程」同人の齋藤貢氏。ちなみに平成28年(2016)には当方が務めさせていただきました。

今年もお伺いしたいところですがブッキング。二本松で開催される「智恵子講座2020」の講師を拝命しており、同日でした。残念です。

もう1件、テレビ放映情報。再放送ですがよく出来たドラマです

<BSフジサスペンス劇場>『浅見光彦シリーズ22 「首の女」殺人事件』

BSフジ・181 2020年11月13日(金) 12時00分~13時58分

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は? 宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは? 浅見光彦が事件の真相にせまる !! 

原作 内田康夫
出演 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか
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初回放映は平成18年(2006)、繰り返し再放送されていますが、昨年9月以来のようです。原作は故・内田康夫氏

「ほんとの空」のある安達太良山麓・岳温泉が事件の現場の一つという設定になっていますし、ほど近い智恵子生家や岩手花巻の旧高村記念館でもロケが敢行されました。
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ご覧になったことがない方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】008

美もつともつよし


短句揮毫 昭和20年(1945) 光太郎63歳

本郷区駒込林町のアトリエ兼自宅が空襲で焼失後、宮沢賢治実家の招きで岩手花巻に疎開する前日、近所に住んでいた画家・池田永治の求めに応じ、池田のチョッキの背に揮毫した文言です。

池田についてはこちら

バイデン氏優位と伝えられていますが、まだまだ予断を許さない米国大統領選挙。5日付の『東京新聞』さんが、一面コラムで光太郎詩にからめて論評なさっています

筆洗

米国大統領選挙を書こうと思うのだが、浮かぶのは高村光太郎の有名な詩である。<きつぱりと冬が来た/八つ手の白い花も消え/公孫樹(いちょう)の木も箒(ほうき)になつた>(「冬が来た」)▼長い選挙戦を振り返れば、かの国の「現在」の苦悩と悲しみをのぞかせた闘いだったといえるだろう。思い出すのは醜悪なテレビ討論会か。トランプ大統領が民主党のバイデン前副大統領の発言を何度もさえぎり、持論をまくしたてる、あの場面である▼思いやりはおろか敬意もない。あったのは意見を異にする者への憎しみと怒りだけである▼それ以上にうめいた光景は投票の前日である。商店がショーウインドーや店の入り口をバリケードでふさいでいる。選挙の結果によっては起きかねない暴動や略奪をおそれての準備らしい▼分断の時代と言われて久しいが、もはや、分断を超え、選挙戦の結果さえ受け入れられぬ敵意の時代に入ったのか。それはあまりに厳しい冬である。<きつぱりと冬が来た>。あのバリケードがひどい時代を迎えた人々の冬ごもりのように見えてしかたがない▼選挙戦は大接戦となった。小欄の締め切り時間までには、明確な勝敗は定まらなかった。<冬よ/僕に来い、僕に来い>。あの詩は冬を堂々と受け止める決意の詩だった。どちらが当選するにせよ、分断の冬をどう受け止めるか。悲しいことに春の予感はしない。
002

光太郎と米国大統領といえば、リンカーン。光太郎はだいぶシンパシーを抱いていたようで、随筆等で繰り返し彼の名や事績をあげていますし、ずばり「エブラハム リンコン」という詩(大正12年=1923)も書いています。

初出は雑誌『RÔMA-JI』。当時流行っていたローマ字表記運動の雑誌で、したがって、ローマ字で発表されましたが、漢字仮名交じりの異稿も存在しますので、そちらを引用します。

  エブラハム リンコン

己(おれ)はとうとう大統領になつてしまつた。
今日は三月四日だが、
まだ少し寒い。
今かうやつて坐つてゐるのが、
小さい時から、お伽噺の御城でも見る様に、003
新聞の挿画でよく見た
あのホワイト ハウスだから驚く。
己は大統領になりたかつたのだらう。
候補者になつて、あんなに演説をして、
あんなに此の位置をのぞんでゐた
シワアドを追ひ越してまで、
とうとう此の椅子に坐つたのだからな。
だが、己は本当に大統領になる事を、
こんな立派な処に坐る事を、
こんなまぶしいGloriusな目にあふのを、
曾て心から望んだか。
NO! NEVER!
此に似たものを望んだが、
此は望まなかつた。
己が望んだものは、其では何だ。
己にも、今になると、よく分らない。
余り現実の形がはつきり迫つて来ると、
名のつけられない心の影が何処かへ、
一寸した処へ隠れてしまつて、
その癖、
この現実を本当と思ふにしては、
どうも、その影の方が本当すぎる。
見えない様で見えて、
捉まうとすれば捉めない。
別の事を熱望しながら、
うかうか上を見てゐたうちに、
いつのまにか、こんな着物を、
自分でも望んで着せられた事になる。
ああ、己は変にさびしい。

ケンタツキイの材木割り。004
帽子の中をオフイスにしてゐた
ニユウ サレムの郵便局長。
スプリングフヰルドの弁護士。
己は、其間に、何をした。
あたり前過ぎる事をしただけだ。
バイブルに書いてある事の中で、
己にわかるところ、
成程と思ふところを、
むしように欲しただけの事だ。
人間は誰でも同じ様に、太陽の
日を受けて生く可きものだといふだけだ。
あとは神様次第。
己が奴隷制度に反対するのが、
何で己の手柄であらう。
誰でも心に感じてゐる事を、
己は唯一切を棄てて熱望するだけなんだ。
いつでも、子供が菓子を欲しがるやうに、
ただ良心を欲しがるだけだ。

南の人達が起す内乱はもう避け難い。
己のまはりに居るのは日和見(ひよりみ)ばかり。
軍人はみな弱い。
ただ頼みになるのは、
己と同じ様な、
あの、野山や町に居る只の人間。
まだ力と火とを心の中に持つ、
あの、己があんなに沢山会つた事のある人達だ。
己を「アンクル エエブ」といつてくれる
あの無邪気な兄弟達だ。005

ああ、演説の時間が来た。
それではみんなにしやべらう。
己のしやべる事にうそは無いが、
いつでも、しやべつてゐる事とまつたく違つた、
もつと奥の事がしやべりたくて、
そのくせ、しやべるとあれだけになつてしまふ。
今日はどうか、みんなに己の心が伝へたい、
この寂しい「アンクル エエブ」の平凡な決心が。


光太郎がリンカーンに心酔、とまではいかないのでしょうが、シンパシーを感じていたのがよくわかりますね。

画像は米国サウスダコタ州の「マウント・ラシュモア・ナショナル・メモリアル」。明治39年(1906)に渡米した光太郎を助手として雇ってくれた彫刻家、ガットソン・ボーグラムの手になる巨大彫刻で、ワシントン、ジェファーソン、ルーズベルト、そしてリンカーンの4人の大統領の肖像です。

今年7月3日(金)の米国独立記念日に、トランプ大統領はここで演説をしました。その中で、コロナ禍拡大を抑えられなかったことには言及せず、昨今、南北戦争時代の南部連合(奴隷制度推進派)の人物の彫像が各地で撤去されている現状に対し、非難したそうです。刻まれている4人のうち、ワシントンとジェファーソンは、個人で多数の奴隷を所有していたことを踏まえての発言ですね。では、リンカーンに対してはどう申し開きをするのか、興味深い所です。
006
ところでトランプ氏、仮に再選したら、もしかするとこの画像のように、自分の肖像を5人目としてこの岩壁に刻ませるのではないかとさえ思えてきます。まるで、それが問題視されて追究を受けるまで平気で進めようとしていた、何処かの国の「○○○○記念小学校」のようですね(笑)。

さて、米国大統領選挙、どうなりますことやら……。

【折々のことば・光太郎】

国民士気の源泉は健康な精神生活にある、しかも健康な精神生活は身辺日常の健康美の力に培はれてゐることを見逃す事が出来ない


散文「工場に“美”を吹込め 高村氏・美術家の新奉公を促す」より
昭和16年(1941) 光太郎59歳

昭和16年12月5日の『大阪毎日新聞』に載った、おそらく談話筆記。同月8日に予定されていた第二回中央協力会議での提案「工場施設への美術家の動員」の骨子です。結局この日は太平洋戦争開戦の日と重なったため、日程が大幅に変更され、光太郎の提案は為されずに終わりました。

昨日に引き続き、少し前に出た書籍を

140字の文豪たち

2020年7月20日 川島幸希著 秀明大学出版会 定価909円+税

漱石、鏡花、谷崎、芥川、太宰など文豪の魅力を、史実にもとづく知られざる言葉やエピソードによって紹介するツイッターの人気アカウント「初版道」。
その文学ツイートを作家別に再構成し、解説を書き加えた。巻頭には珍しい自筆原稿や署名本のカラー画像16ページを収録する。  
近代文学研究者で古書コレクターの著者にしか書けない空前の本。
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目次
 まえがき 太宰治ツイート 中原中也・宮沢賢治ツイート 梶井基次郎・川端康成ツイート
 芥川龍之介ツイート 佐藤春夫・菊池寛ツイート 萩原朔太郎・室生犀星ツイート
 志賀直哉・武者小路実篤ツイート 谷崎潤一郎・永井荷風ツイート 泉鏡花ツイート
 夏目漱石ツイート その他の文豪ツイート 文豪のいないツイート

川島氏は千葉県八千代市にある秀明大学さんの学長。近代文学初版本のコレクターとして知られ、『日本古書通信』さんに連載をお持ちだったり、こうして初版本などに関するご著書を出されたりしています。

また、かつては同大の学祭「飛翔祭」で、ご自慢のコレクションを公開。平成26年(2014)には『道程』の特装本が展示され、拝見して参りました。その後、同大近代文学展示館が開館、そちらでもコレクションの一部が閲覧可能です。

ツイッター上では「初版道」というアカウントを展開中で、本書はそちらに掲載されたツイートを再編したもので、最近、静かなブームの各種「文豪もの」とはまた異なる趣の内容です。

「初版道」では、時折光太郎に関するツイートがあり、本書にも載っているだろうと推理して購入したところ、「その他の文豪ツイート」で、やはり光太郎を取り上げて下さっていました。
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三好達治ともども、「イタ過ぎる」翼賛詩について。まさにお説ごもっともですね。
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『道程』について。ちなみに以前にも書いた記憶がありますが、国会図書館さんのデジタルデータに登録されている『道程』は、ここにある残部の改装版です。初版は大正3年(1914)ですが、国会図書館さんのものはその翌年。奥付にその旨が記載されていないので、そうと知らなければこれが初版と思いこんでしまうかもしれません。実際、ネット上などで『道程』の発行年を「大正4年(1915)」としてしまっている記述も眼にしたことがあります。注意が必要ですね。下の画像、左は当方手持ちの初版、右は国会図書館さんのものです。
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それにしても、賢治の『注文の多い料理店』が運動会の景品だったというのは驚きでした(笑)。

『道程』に関しては、巻頭のグラビアに画像も。
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表紙に「道程」の文字が見えないのでわかりにくいのですが、上から二段目、左から四冊目の、装画のない本がそれです。ちなみに一番手前の中原中也『山羊の歌』題字は光太郎揮毫です。

他の文豪の第一詩歌集ともども、「たとえ思想的に、あるいは技巧的に未熟であっても、その1冊に青春のすべてを賭けた著者の思いが、読者の胸に響く」。けだし、その通りでしょう。

その他、光太郎と交流の深かった文学者に関する「ツイート」がてんこ盛りで、興味深く拝読。目次にない「その他の文豪」の中には、光太郎の姉貴分・与謝野晶子や、盟友・北原白秋も取り上げられています。

オンライン書店で販売中。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

又、彫刻其のものよりも彫刻した図題そのものを貴ぶ様な傾きある今日の日本彫刻界の有様から考へてみると、其の自然に対する態度に於いて学ぶべき所がありはせぬかと思はれる。


雑纂「翻訳「ロダンといふ人(JUDITH CLADEL)」前書き」より
明治43年(1910) 光太郎28歳

原典は、ロダンの秘書を務めたジュディト・クラデルによる『Auguste Rodin : l'oeuvre et l'Homme』で、明治41年(1908)にベルギーのブリュッセルで刊行されています。

ロダン語録という点では、のちの『ロダンの言葉』(大正5年=1916)に通じますが、なぜかこの訳は『ロダンの言葉』、『続ロダンの言葉』(大正9年=1920)に組み込まれませんでした。

突発的に何もなければ、今日から3日間は、少し前に出た、光太郎智恵子に関わる刊行物をご紹介します。「少し前」=「最新刊にあらず」。言い訳させていただけるなら、以前にも書きましたが、コロナ禍のため新刊書店に足を運ぶ機会が激減しましたので、見落としがいろいろありまして……。

まずはコミックです

山と食欲と私 11巻

2020年1月15日 信濃川日出雄著 新潮社 定価520円+税
 
27歳、会社員の日々野鮎美は、「山ガール」と呼ばれたくない自称・単独登山女子。変態アウトドア女子・黒蓮に誘われ、いざ東北旅へ。しかし、高速道路を使わない夜通しドライブ/適当すぎる登山計画/鮎美を置いて行動など自由奔放な黒蓮にイライラを溜める鮎美。果たして旅の最後は笑顔になれるのか――。活火山・浅間山で有名人に遭遇/ついに小松原さんに「彼」が!? キャッシュレスの波が山にまで――など、意外性強めな11巻!
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目次
 115話 軽井沢・浅間山編① 離れ山とラスク
 116話 軽井沢・浅間山編② マグマとろとろ火山丼000
 117話 軽井沢・浅間山編③ ガス抜きの浅間嶽
 118話 ひやあつ残雪そうめん
 119話 限界! ぎゅうパンチョコバナナ
 120話 巻物と履き物
 121話 恋するウドナポ
 122話 かわいいこやでむすちまき
 123話 東北ギンギン山巡り編① 無計画の佐野ラーメン
 124話 東北ギンギン山巡り編② 安定のコンビニ朝ごはん
 125話 東北ギンギン山巡り編③ 風に吹かれてずんだ餅


というわけで、山ガールを主人公としたコミックです。ウェブコミックサイト「くらげバンチ」さんに連載されているもので、溜まったところで紙の本として刊行というスタイルのようです。

で、上記目次の色を変えた2話、第124話第125話で、智恵子の故郷・福島二本松に聳える安達太良山が描かれ、光太郎智恵子に触れられてています。ただ、ウェブ上と刊行されたものとで話数にずれが生じています。スピンオフなどの影響でしょうか。
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一時、令和改元の頃は安達太良山といえば「「令和」の元ネタの『万葉集』にも謳われた」という枕詞が流行りましたが、最近はそうでもなくなったようで、また『智恵子抄』が復権(笑)。

山ガールと言えば、平成29年(2017)には山ガール向けの月刊誌『ランドネ』さんが、やはり『智恵子抄』がらみで安達太良山をご紹介下さいました。また、山ガールではありませんが、キャンプ女子を主人公としたコミック「ゆるキャン△」第5巻では、ダイヤモンド富士の見えるスポットとして山梨県富士川町の光太郎文学碑を物語の舞台の一つにして下さっています。

今後もアウトドア女子の皆さんの各方面でのご活躍に期待します。また、『山と食欲と私』、今度はぜひ信州上高地のクラシックルートも取り上げていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

賢治さんはそのほか生活の中でせられたことが全部詩となり行動そのままが詩で、ラヂウムが放射されるように体から放射された一つ一つが詩ということがこちらへ来てこまかく聞いたり、みたりしてはつきりわかつた、


談話筆記「人間的な詩人」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

岩手の、それも街なかでなく郊外の山村の風土の中で暮らすうち、宮沢賢治の精神がより一層体感出来るようになったというのです。

全国の新聞各紙から、掲載順に4件。

まず『岩手日報』さん。10月28日(水)の掲載でした。

光太郎夫妻 思い出の毛布公開 花巻でホームスパン展

 花巻市太田の高村光太郎記念館(佐々木正晴館長)は、2016年11月に見つかったホームスパンの毛布を企画展で展示している。光太郎(1883~1956年)が妻智恵子に懇願されて購入し、妻亡き後も愛用していた。2人の大切な思い出も包み込まれた毛布に、来場者はぬくもりを感じ取っている。
 11月23日まで。会期中無休。午前8時半~午後4時半。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。
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10/5に始まった、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」に関してです。

光太郎遺品の中から見つかった、光太郎智恵子愛用の毛布が、岩手県立大学さんの菊池直子教授らの調査の結果、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認され、その毛布を中心にした展示です。

会期半分ほど終わったところでこうして記事を出していただけると、これまで知らなかった皆さんが「こんなのやっていたのか」と足を運んで下さるケースがあるそうで、ありがたいところです。

続いて仙台に本社を置く『河北新報』さん。同じく10月28日(水)、短歌に関するコラムです

うたの泉(1391)

東京に<ほんとの空>はないといふ 今はほんとの夜ももうない/矢澤靖江(やざわ・やすえ)(1941年~)

 東京には<ほんとの空>がないといったのは高村智恵子。詩人高村光太郎の妻です。『智恵子抄』の中にある詩「あどけない話」を踏まえた一首は、「今はほんとの夜ももうない」と切々と歌います。コンビニエンスストアの24時間営業をはじめ、東京に限らず、全国各地から静かで真っ暗な「夜」がなくなってしまいました。便利な世の中にはなりましたが、何か大切なものを失ってしまったような気がします。歌集『音惑星』より。
(本田一弘)

矢澤靖江氏、現在もご活躍中の歌人です。解説を書かれた本多氏は佐佐木幸綱に師事された歌人だそうです。

真っ暗な「夜」」、たしかに街中では無くなりました。しかしまだまだ田舎では一歩街から外れると、まだ健在のように思われますが……。現に自宅兼事務所周辺がそうでして(笑)。

ちなみにこのコーナー、昨年は他の方の選により、光太郎本人の短歌もご紹介下さいました。

お次は全国紙で『読売新聞』さん。やはり10月28日(水)、夕刊の一面コラムです

よみうり寸評

都会を離れるか否か。葛藤する胸で二つの声がぶつかる。一方は<平原に来い>と呼びかけてくる。<透きとほつた空気の味を食べてみろ/そして静かに人間の生活といふものを考へろ>◆他方がいう。<絵に画いた牛や馬は綺麗だが/生きた牛や馬は人間よりも不潔だぞ/命の糧は地面からばかり出るのぢやない>。高村光太郎の「声」という詩である◆東京でこの3か月、転出者数が転入者数を上回る転出超過が続いている。地方の呼び声がやっと人々の胸に響き始めたようにも映る◆とはいえ、転出先には東京近県や他の大都市が目立つ。「コロナの影響で移動が減り、出ていく人が少なくなっている状況」とは島根県の担当者の分析だ。牛馬に親しむ暮らしを選ぶ人が増えたという話ではないらしい◆とはいえ、と再び書かせていただく。転出入を巡る2013年の調査からこの春まで、東京の転出超過は一度もなかった。一極集中是正のまたとない好機に今があるのは疑いなかろう。そこかしこで葛藤が始まるといい。

引用されている「声」は、明治44年(1911)の作。世界最先端の芸術を目の当たりにして、3年半に亘る欧米留学から帰朝、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界に絶望し、絶縁することを考え、北海道移住を企てたことに関わる詩です。全文はこちら。経緯についてはこちら

光太郎はこの時点では北海道まで実際に渡ったものの、少しの資本では牧畜など出来ないと悟り、また、頻発していた大火にも追い立てられ、すごすごと帰京しています。以後、昭和20年(1945)の空襲でアトリエ兼自宅を失うまで、東京暮らしでした。そして花巻に疎開、戦後は戦時中の翼賛活動への反省から、花巻郊外旧太田村で7年間の蟄居生活を送ります。

最晩年は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京、完成除幕後に短期間太田村に帰ったものの、宿痾の肺結核は山村での生活を許さず、また上京。そして、中野の貸しアトリエでその一生を終えました。結局、光太郎のトポス、アイデンティティーといったものは、いったいどこにあったのだろうと思わされます。

最後に『宮崎日日新聞』さん。こちらも一面コラムで、コロナがらみです

くろしお 正月休みの分散取得 2020年10月30日

 「冬の詩人」といわれた高村光太郎の作品に「冬が来た」というのがある。その書き出しはこうだ。「きっぱりと冬が来た」―。厳しい冬が訪れたさまを「きっぱり」という言葉が、見事に言い表している。
 冬も比較的暖かい本県は「きっぱり来る」という感じではない。ただ、年の瀬の到来はおそらくいずこも同じで「日々の生活に追われていたら、いつの間にかもうそこまで来ていた」といった具合ではないか。きのう、年賀はがきが発売され、改めてそう感じた。
 1年の大半を新型コロナウイルスの感染拡大という非常時の中で過ごした2020年。当然、年末や来年の年始も例年とは違う。西村康稔経済再生担当相が先日、年始の休暇を1月11日まで延ばすよう企業や自治体に要請すると表明。人の移動を分散させる措置だという。
 当初は「休暇の延長」と受け取られ、経済界には期待の一方で困惑の声も上がった。通常国会の召集時期など政治日程に影響するため、足元の自民党にも動揺が広がった。結果、党は火消しに走り、西村大臣は「休みを機械的に11日までとせず分散して取ってほしいということ」と釈明する事態に。
 この問題は、これで幕引きとなるのか。突然出てきた政策が二転三転するのはコロナ禍の中のデジャビュ(既視感)だ。正月休みがどういう形になるかで、予定が大きく変わる人は多かろう。「こういう方針です」と、初めから示すべきだった。きっぱりと。

これからの季節、「冬が来た」(大正3年=1914発表)などの光太郎の冬に題材を採った詩がいろいろ引用されるように思われます。というか、引用して下さい(笑)。

【折々のことば・光太郎】

われわれは彼にこそ日本に於ける預言者的詩人の風骨を見るのである。

散文「預言者的詩人 野口米次郎氏」より
 昭和18年(1943) 光太郎61歳

野口米次郎は光太郎より8歳年長の詩人。慶應義塾大学で英米文学を学び、明治26年(1893)、中退して渡米、英語で詩作品を発表。イギリスを経て同37年(1904)に帰国後は、慶応義塾で教鞭を執りました。彫刻家のイサム・ノグチは滞米中に現地の女性との間に出来た子供で、光太郎が借りる前に、中野の貸しアトリエを借りていました。

無理くりですが、当方など、光太郎にこそ「預言者的詩人」という姿を見ます。「預言者」はキリスト教などで神の言葉を人々に伝える者。ノストラダムスなどの「予言者」ではありません。

コロナ禍のため、不要不急の外出はまだ避けていますし、公共交通機関を使っての遠出も少なくなりましたので、そのお供として持参する頭を使わなくて済む時代小説、推理小説等を購入しなくなり、新刊書店に行く機会がめっきり減りまして、出版事情に疎くなっている部分があります。

で、近々、花卷に参りますので、お供の書籍を探そうと久々に行った新刊書店で見つけた新刊……といっても発売から3ヵ月経っていました

愛の手紙の決めゼリフ 文豪はこうして心をつかんだ

2020年7月3日 中川越著 海竜社 定価1,400円+税
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夏目漱石、太宰治、宮沢賢治、与謝野晶子、ドストエフスキーなどの文豪や、ダーウィン、ゴーギャン、良寛、渥美清などの世界・日本の偉人たち。彼らは、親しい人に手紙でどんな言葉を書き送ったのでしょうか?
本書では、恋人、妻や夫、家族、弟子や師匠などに宛てた愛情あふれる手紙を紹介。「さすが!」と驚嘆する卓越した表現があるかと思うと、ときには率直で心を射貫く言葉があったり、やきもちや未練がバレバレの憎めないセリフがあったりと、引き込まれる文章が満載です。
本書で「相手の心をつかむ言葉」を学ぶもよし、文豪・偉人の意外な素顔を楽しむもよし、手紙を通じて彼らの人生を共有し、励まされるもよし! 楽しみ方はいろいろです。

目次
 はじめに
 第一章 恋愛の決めゼリフ
  パズルの最後のワン・ピースを手に入れた島崎藤村
  ピュアーにまっすぐプロポーズした芥川龍之介
  ラブレターの最高傑作を欄外に書いた太宰治
  いたずらなお願いで楽しく困らせた立原道造
  斬新な理由で恋文の筆を止めた内田百閒
  いつになく遠回しな言い方を避けた竹久夢二
  愛の楽章を文章で奏でたベートーヴェン
  箇条書きの質問形式で求愛した平塚らいてう
 第二章 夫婦愛の決めゼリフ
  二人称代名詞一語を名詩に変えた南極越冬隊員の妻
  身勝手な言い訳で呆れさせたゴーギャン
  惚れた弱みを隠すぞぶりでたっぷり甘えた国木田独歩
  遠隔愛撫の方法を知っていた徳富蘆花
  届きにくい反省を努めて届けたドストエフスキー
  空白の十年を美しく諦めた九条武子
  一日千秋の思いを笑話に託した和辻照(和辻哲郎夫人)
 第三章 友愛の決めゼリフ
  哀切な近況報告を美しく通知した梶井基次郎
  友情色に恋愛色が混ざる言葉を告白した武者小路実篤
  失礼なあいさつで親愛を深めた夏目漱石
  傷心への寄り添い方を知っていた宮沢賢治
  言葉の霊力を信じた「日本語の番人」新村出
  嫉妬と祝福を同時に感じ苦悶した若山牧水
  友と恋人を等価値と知らせた永井荷風
 第四章 家族愛の決めゼリフ
  〈母宛〉いちばん大事なことしか書かなかった渥美清
  〈子宛〉千尋の谷に突き落とす覚悟を報知した福沢諭吉
  〈子宛〉たどたどしく詩的に懇願した野口シカ(野口英世の母)
  〈父宛〉興奮を伝え元気を証明したダーウィン
  〈妻宛〉不機嫌を報告し溺愛をあらわにした森鷗外
  〈甥宛〉大愚をやさしく説き処世訓とした会津八一
  〈弟宛〉放蕩は死を招く凶器と警告した良寛
 第五章 師弟愛の決めゼリフ
  高らかに女々しく恋慕した萩原朔太郎
  貶めて紹介し優遇を求めた芥川龍之介
  ビスケット話で親愛をたっぷり送った夏目漱石
  太宰に厳しく弟子には優しかった志賀直哉
  けなされた人の心理に優しく寄り添った正岡子規
  詩作の秘密をていねいに詩的に説いたリルケ
  軽妙な俳味を披露し心中を食い止めた夏目漱石
 第六章 別離の決めゼリフ
  別れた妻の再婚と幸福を願った伝四郎
  別れたくて別れたくなかった北原白秋
  愉快な悪口で鬱憤を晴らした八重次(永井荷風の元妻)
  あっさりと謝り肩すかしを食らわせた与謝野晶子
  冷厳な決別の中に永遠の愛をひそませた高村光太郎
 人物一覧/引用・参考資料

著者の中川越氏、昨年刊行された『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』も書かれていて、装幀や構成がよく似ているので同じシリーズかと思っていましたが、『言い訳』は新潮社さん、こちらは海竜社さんと、版元が違っていました。

店頭で見つけた時、「あ、中川さんの新著か、光太郎に触れてくれているだろうな」と思いつつ、手に取りました。光太郎で「愛の手紙」となると、大正2年(1913)の、結婚前の智恵子に送った手紙か、昭和9年(1934)、九十九里浜で療養していた智恵子に送ったハガキが紹介されているだろうと予想していました。しかし、目次を見ても「第一章 恋愛の決めゼリフ」に光太郎の名が無く、「第二章 夫婦愛の決めゼリフ」にもありません。第三章以下は「友愛」「家族愛」「師弟愛」……あまり光太郎には関係がなさそうで、実際やはり光太郎の名は見えず。「あれっ、今回は光太郎はスルーか?」と思ったところ、最後の最後、大トリが光太郎でした。

002「冷厳な決別の中に永遠の愛をひそませた高村光太郎」。目次を見て、「おお、これを持ってくるか」という感じでした。

「手紙」ではなく、昭和29年1月に雑誌『婦人公論』に発表された詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」です。

  十和田湖畔の裸像に与ふ

 銅とスズとの合金が立つてゐる。
 どんな造型が行はれようと
 無機質の図形にはちがひがない。
 はらわたや粘液や脂や汗や生きものの
 きたならしさはここにない。
 すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
 天然四元の平手打をまともにうける
 銅とスズとの合金で出来た
 女の裸像が二人
 影と形のやうに立つてゐる。
 いさぎよい非情の金属が青くさびて
 地上に割れてくづれるまで
 この原始林の圧力に堪へて
 立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をモチーフにした詩で、像が亡き智恵子の顔を持つことから、亡き智恵子への「別離」の「手紙」とも読めますね。


003
光太郎と交流のあった詩人・伊藤信吉は、その著書『詩のふるさと』(昭和43年=1968 新潮社)の中で、「投げつけるようなこの言葉は哀惜の反語である。同時に生涯の愛の表現を完了したことの嘆息である。」としています。言い得て妙、ですね。

この詩を引用する前の部分で、智恵子との日々についても、『智恵子抄』所収の詩を引用しつつ、アウトラインが紹介されています。

『愛の手紙の決めゼリフ』、こうした書籍の通例ですが、光太郎智恵子と交流の深かった面々も多数登場します。平塚らいてう、武者小路実篤、宮沢賢治、森鷗外、与謝野晶子など。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

人をよく知り、世界をよく知ると、自分の国ばかりほめたりしません。心の広い立派な人になります。
談話筆記「高村光太郎先生説話 二七」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花卷郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校で行われた、稗貫郡PTA講演会で語った一節です。かつて自らもその愚に囚われていた自国第一主義、国粋主義への警句ですね。

テレビ再放送の情報です

先人たちの底力 知恵泉「新しい女の生き方 明治・大正編 平塚らいてう」

NHK Eテレ 2020年9月29日(火) 12時00分~12時45分

明治・大正・昭和の日本で、先駆的な活躍をした女性を2週にわたって紹介。今回は平塚らいてう。男に支配されない、新しい女の生き方を世に問い、闘い続けた知恵と勇気とは。

「元始、女性は太陽であった」と宣言した女性解放運動の先駆者、平塚らいてう。自由な恋愛、結婚、男に支配されない“新しい女”の生き方を世に問い、「国家は母親を保護しその生活を保障すべき」と訴えた。これに与謝野晶子が「経済的に自立していない女は子どもを産むな」と反論。現代にも通じる「母性保護論争」を繰り広げ、性差を考える大きなきっかけとなった。挫折を乗り越え、闘い続けた平塚らいてうの知恵と勇気に学ぶ。

出演 働き方改革コンサルティング企業代表・小室淑恵
   熊谷真実
   日本女子大学非常勤講師・差波亜紀子
司会 新井秀和

本放送が9月22日(火)にあり、拝見しました。
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ご出演は、働き方改革コンサルティング企業代表・小室淑恵さん、女優の熊谷真実さん、日本女子大学非常勤講師・差波亜紀子さん、ビデオ出演ではNPO法人・平塚らいてうの会代表の米田佐代子さん。
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平塚らいてうを中心に据えていましたので、まず、らいてうの生涯が簡略に。
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日本女子大学校を卒業後、森田草平との心中未遂事件を経て、『青鞜』創刊。創刊号の表紙絵は智恵子に依頼しましたが、残念ながら番組では智恵子の名が出て来ませんでした。
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『青鞜』誌上でさまざまな女性問題を取り上げる中で、らいてう自身も母となり、さらに様々な困難に直面します。そうした折りにスウェーデンの社旗学者エレン・ケイの思想に共感し、社会保障的に国家が母親を支援すべしと表明。それに真っ向から異を唱えたのが、光太郎の姉貴分・与謝野晶子でした。
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らいてうも黙ってはいません。そしていわゆる「母性保護論争」が勃発。
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さらに山川菊江も加わり……。
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このあたり、非常にわかりやすくまとめられていました。
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その後、らいてうは新婦人協会を設立。
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やがて、女性にも普通選挙権が認められ、まがりなりにも男女雇用機会均等法などが成立するわけですが、しかしいまだに女性が女性であるゆえの苦労は尽きないわけで……。

出演者の皆さん、そのあたりについても、本音トーク。
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黒一点(笑)、司会の新井秀和アナも、これにはたじたじでした(笑)。

もう1件。

こちらは9/18にあった本放送を見逃したのですが、やはりNHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」

にほんごであそぼ「道程」

NHK Eテレ 2020年10月2日(金)  6時35分~6時45分/17時00分~17時10分

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。今日は…「道程」、文楽/小謡~浄瑠璃風~「釣女」より、童謡「村祭」、はんじえ/すずめ→だいこん、名文を言ってみよう!/寿限無、うた「シェイクスピアのうた」

出演
美輪明宏 竹本織太夫 鶴澤清介 三世桐竹勘十郎 おおたか静流 池田鉄洋 中尾隆聖ほか

この回以外にも、9月23日(水)の「過ちて…」の回でも「道程」が取り上げられていまして、こちらも再放送があるかと思いますが、詳細日程が出ましたらまたお伝えします。

それぞれぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

英語もラジオ放送の小川さんは、新しいものをやっているのでたいへんいいです。僕も復習のつもりできいています。語学は使わないでいるとだめになります。きくと思い出します。

談話筆記「高村光太郎先生説話 一二」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に光太郎が蟄居していた頃は、まだテレビ放送は始まっていませんで、しかし、光太郎、ラジオ放送はよく聴いていたようです。まあ、それも村人の厚意で小屋に電気が通るようになった昭和24年(1949)以降のことですが。

「小川さん」は小川芳男。当時、東京外国語大学助教授で、ラジオの「基礎英語」を担当していました。

マザータングの日本語プラス、英仏二語もペラペラのトライリンガルだった光太郎ですが、やはり日常的に耳にしたりしゃべったりしないと忘れてしまうということで、「基礎英語」を聴いていたのですね。素晴らしいと思います。

『毎日新聞』さん、今月2日の夕刊文化面に掲載された記事です。 

大岡信と戦後日本/28 折々のうた 詩歌の喜びと驚きを示す

003 大岡信のコラム「折々のうた」は、1979年1月から2007年3月まで朝日新聞に連載された。古今の短歌、俳句、詩や歌謡の一節を掲げ、鑑賞を180字の短文でつづるという前例のない企画だった。何度かの休載期間を挟みながら足かけ29年、休刊日を除く毎日続き、計6762回に及んだ(『新 折々のうた9』07年)。
 「折々のうた」といえば朝刊1面のイメージだが、スタート時は最終面に載っていた。同紙創刊100周年の79年1月25日朝刊から曽野綾子氏の連載小説「神の汚れた手」が始まるが、「折々のうた」はその左横の小さなスペースに置かれた。「現代の万葉集」とも呼ばれた大アンソロジーの出発はささやかだった。
  第1回は高村光太郎(1883~1956年)の短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」。解説する大岡の文章の一部を引く。
 <美校生だった彼が、明治三十九年二月、 彫刻修業のため渡米したとき、船中で作ったもの。(中略)高村青年は緊張もしていただろう。不安と希望に胸を騒がせてもいただろう。けれど歌は悠揚のおもむきをたたえ、愛誦(あいしょう)に堪える>
  美校は東京美術学校(現・東京芸術大)。詩集『道程』『智恵子抄』で名高い詩人の、 わざわざ若き日の短歌を初回に出したところに並々ならぬ意欲がうかがえる。翌日以降は江戸中期の俳人、加舎白雄(かやしらお)の俳句、上田秋成(江戸中期の文人)の短歌、白居易(唐代の詩人)の漢詩と続く。時代もジャンルも実に多様だ。
 当時の同紙編集幹部が最終面の扱いを「もったいない」と考え、3カ月余り後の5月から1面に移す。これで話題となり、翌80年に菊池寛賞を受賞する。また1年分を加筆・修正してまとめ、岩波新書で刊行する形を取ったことも読者を広げた(総索引を含めシリーズ計21冊)。
 ところで、「折々のうた」が始まった時、記者は高校2年。その頃同紙を読んでいたが、存在を意識したのは1面に移った3年の時だった。 詩の魅力が、わずか2行の引用で表現されているのに目を見張った。
 例えば宮沢賢治(1896~1933年)の「海だべがど おら おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい」(「高原」)。大岡は、「ホウ/髪毛(かみけ)風吹けば/鹿(しし)踊りだぢやい」と続くことを紹介したうえで、こう記す。<詩全体は、海かなと思ったが、やっぱり光る山だったぞ、風が吹けば、鹿踊りにかぶる面の髪みたいに、髪が踊るぞ、という意味だろう。(中略)この方言詩は生きている>(新書版『折々のうた』)。
 詩のリズム感とともに、凝縮された解説文から読者は「生きている」詩の脈動を感じ取ることができる。同様に、このコラムを窓として詩の世界の豊かさを見た人々は多くいただろう。 詩人の蜂飼耳さん(46)は小学生の頃、既にあったこの欄に、自然になじんでいたという。「『折々のうた』は、ジャンルの垣根を取り払い、時代や言語を超えて詩歌の『喜び』と『驚き』が併存することを可能にした方法そのものだった」。確かに欧米その他の翻訳詩も取り上げられた。
 大岡自身は出発時点の思いを「『日本詩歌の常識づくり』。和歌も漢詩も、歌謡も俳諧も、今日の詩歌も、ひっくるめてわれわれの詩、万人に開かれた言葉の宝庫」と述べていた(同書あとがき)。それが長く人々を引き付けたのは、彼が「硬直しない感受性の持ち主」で「言葉と詩の関係を、先入観なく根本から考えることのできる人」(蜂飼さん)だったからだろう。
 連載が終わった後、作家の丸谷才一(25~12年)は毎日新聞に、新書シリーズ全巻を対象とする書評を寄せ、「コラムの成功」を勅撰(ちょくせん) 和歌集になぞらえた。「共同体が詞華集(アンソロジー)によって詩情を教える風習は、明治維新によって残念ながら断絶された。大岡信の『折々のうた』は(中略)長きにわたるわが短詩形文学の富を誇っている」(07年12月2日朝刊)
 その「成功」は新聞界に広く影響を及ぼし、 ヒントにした欄が各紙に登場した。では、「折々のうた」はどんな時代に、いかなる問題意識によって取り組まれたのか。

同紙では昨年から月イチ005の連載で「大岡信と戦後日本」が掲載されており、その第28回。氏の業績の一つ、『朝日新聞』さんに連載された伝説のコラム「折々のうた」が取り上げられています。他紙のコラムについてその意義を実に好意的に評していて、『毎日』さんの懐の深さといいますが、そういうものを感じますね。

その「折々のうた」、記念すべき第一回で大岡氏が取り上げたのが、光太郎短歌「海にして……」。この歌、光太郎短歌の中では代表作の一つといっていい詠です。

それが大岡氏の没後、単に「高村光太郎の代表的短歌」というだけでなく、「大岡信氏が「折々のうた」連載の第一回で取り上げた歌」という新たな評が付け加わったような感もあります。

今後とも、大岡氏の業績と共に、語り継がれていって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

口語歌は既に成り立つてゐると思ふ。在来の歌と両立してゆくのに何の不思議も無い。生活内容と感じ方とモチヴとが互に相違してゐるだけの事で、どちらが抹殺せられる事も出来ない時代に僕たちは生きてゐる。

アンケート「口語歌をどう見るか(批判)」全文
大正14年(1925) 光太郎43歳

明治39年(1906)詠の「海にして……」はまだ文語歌ですが、大正に入ると光太郎も口語歌を量産するようになります。ほとんどは雑誌『明星』(第二次)に寄せたものでした。

このブログの平成28年(2016)の1年間、大岡氏の「折々のうた」のパクリで【折々の歌と句・光太郎】と題し、366(閏年でしたので)の光太郎短歌・俳句・川柳などの定型作品を毎日1つずつ紹介しました。暇な時にでもお目通し下さい。

最近手に入れた古いものシリーズです。

講談社さんで2000年代はじめまで発行されていた雑誌というかムックというか、『きものと着つけ』。「'96」となっていますが、平成7年(1995)の発行です。どうも年刊だったようですね。

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女優の故・池内淳子さん監修ということで、「「智恵子抄」の詩を加賀友禅に」というコーナーが11ページにわたって掲載されています。加賀友禅の作家さん6名が、「智恵子抄」所収の詩からインスパイアされた着物を制作、池内さんがそれを見て回るというコンセプトです。

作家さん6名が2点ずつ、うち1点は共通課題で詩「人に」をお題に「いのち」と題する作品、そして6名それぞれが別々の詩をテーマに制作。特にコンテストとかいうわけではありませんが、ある意味、競演ですね。

柿本市郎氏で「ゆき(「深夜の雪」より)、浅野富治男氏は「裾野(「山麓の二人」より)。
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中町博志氏が「桜若葉(「あどけない話」より)」、白坂幸蔵氏の「松風(樹下の二人)より」。
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由水煌人氏作「やすらぎ(「郊外の人に」より)、毎田健治氏による「千鳥(「風にのる智恵子」より)」。
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画像は省略しますが、それぞれの詩も載せて下さっています。

華やかな中にも漂う気品、凛々しさ、清楚な感じ、優美さ、しかしどことなく感じられる哀愁、透明感、清澄さ……すみません、ボキャブラリーが貧弱でうまく表現できません(笑)。

同じようなコンセプトで行われたであろう展覧会と思われるものの図録も持っています。こちらは数年前に入手しました。題して「智恵子のきもの」。

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こちらは京友禅の作家さんたちのグループ「彩遊」さん8名によるもので、会場は高島屋百貨店。ただ、奥付が無く、いつのものかわかりません。写真(光太郎令甥の写真家、故・髙村規氏撮影)の感じから、やはり80から90年代のように思われますが。また、高島屋さんも何処の店舗だったのか不明です。ネットで調べても情報が出て来ませんでした。

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特定の詩をイメージしたものではなく、「智恵子抄」全体へのオマージュ、ということのようです。智恵子の紙絵ふうのデザインが採られている作品もあります。図録には作家で『智恵子飛ぶ』という小説も書かれている津村節子さんによる解説文[「智恵子の紙絵」も掲載されています。

こちらの作も、それぞれにあでやかに、たおやかに、そしてきりりと上品な風合いがエレガント、さらには天真爛漫な感じも受けますし、京友禅ということで雅やかとも言えるような気がします。

この手の二次創作、最近はあまり見かけないように思われ、残念です。まぁ、景気の動向等にも左右されましょうし、今後の日本経済の動向にも期待したいところですね。

【折々のことば・光太郎】

日本固有の服装と、西洋服との両方があれば、それで二重の喜びになる。西洋婦人の持たない喜びになる。

散文「美術家の眼より見たる婦人のスタイル」より
 明治43年(1910) 光太郎28歳

雑誌『婦人くらぶ』に掲載された文章の一節です。明治末、ようやく婦人たちが洋装をはじめた頃のもので、和装を捨て去る必要はないし、逆に和装にこだわるべきでもなく、併用しましょうという提言です。

和装が廃れつつある現代、「二重の喜び」「西洋婦人の持たない喜び」、多くの皆さんに味わってほしいものです。といっても、なかなか和装はハードルが高くなってしまった感は否めませんが……。当方もしばらく着物に袖を通していません。

コロナ禍いまだ収まらぬ中、「リモート○○」や「オンライン××」、「テレ△△」が普及せざるを得ない状況でしたが、市民講座等にもそうした流れが出て来ています。

2件、ご紹介します。 

期 日 : 2020年9月3日(木)
時 間 : 13:00~16:10
講 師 : 津上英輔先生

主 催 : 東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻

講義概要:
『智恵子抄』、「道程」などの詩で知られる高村光太郎は(1883-1956)は、太平洋戦争中戦争を賛美する詩を多く書いた.彼は戦後これを反省し、岩手県花巻市郊外で独居自耕の生活の7年を過ごした。戦中の彼の過ちはどこにあったのか、そして戦後の反省点はどこにあったのか。美と芸術に本質的に潜む危険性を論じたい。

申し込み:
本講義は枝川明敬研究室の特別講義として行われますが、聴講希望を受け付けています。
聴講に関するお問い合わせは以下のアドレスへお願いいたします。
edagawa(at)ms.geidai.ac.jp(枝川明敏教授)

講師の津上氏、昨年刊行された『危険な「美学」』で、「美に生きることの危険」として、光太郎の、特に戦時に於ける「美」が、利用されるだけでなく、自ら暴走を始める危ういものであることを論じていらっしゃいました。


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もう1件。 

期 日 : 第一夜 前編「心平というひと」2020年9月17日(木)001
      第二夜 後編「心平の作品世界」2020年9月18日(金)
時 間 : 19:00~20:20(約80分)
講 師 : 小野浩氏
主 催 : みのおてならい

蛙の詩人・草野心平さんをご存知ですか。まだその存在を世間に知られていない頃、宮沢賢治さんの才能を見い出し、彫刻家の高村光太郎さんとともに、その作品の紹介に力を尽くした功績はよく知られているところですが、では、草野心平さん自身はいったいどんなひとなのでしょう。身分の上下もなく、人間よりもずっと長く地球に存在し続けている蛙を謳いあげる「蛙の詩人」と呼ばれる心平さんは、破天荒なひととしても興味のつきない逸話がたくさん。職を転々としながら、ジグザグロードを進み続け、たとえば、居酒屋「火の車」ではお客よりも酒をあおって酔いつぶれる始末。一方、花を散らした食を粋に味わう、おしゃれな “口福人”であったり。草野心平さんとは、いったいどんなひとだったのでしょう。そして、作品を通して何を伝えたかったのでしょうか。
秋のはじまりのオンライン特別体験会では、福島はいわきのひと、心平さんと同郷の研究者小野浩さんによる、深い共感をこめた夜話を二夜わたって催します。東北、福島へ旅するように、お飲み物片手にゆるりとご参加ください。


準備物:
・Wi-Fiなどの通信環境
・インターネットで動画閲覧できる機器(パソコン、スマホ、タブレットなど)

参加費:各回500円 ※1回だけでもご参加いただけます。

<オンラインで参加について>
・開催にあたってはオンライン動画通信アプリZoomを使用します。
・Zoomで閲覧するだけなら、アカウント設定・登録は必要ありません。 
・入金確認後にお送りするメール記載の招待URLをクリックするか、ZoomアプリにてミーティングIDとパスワードを入力してご参加いただけます。
・Zoomのテスト配信を予定しています。接続に不安のある方はご参加ください。詳細はご希望の方に追ってご案内いたします。  

このブログにもたびたびご登場いただいている、群馬県立女子大学非常勤講師にして元いわき市立草野心平記念文学館学芸員の小野浩氏が講師を務められます。

サブタイトルがいいですね。「死んだら死んだで生きていくのだ」。こんなことが大まじめに言えてしまうのは心平かバカボンのパパくらいではないでしょうか(笑)。心平には「犬だってニンゲンだ!」という名言(迷言?)もあります(笑)。

今後、こういう形の講座等も普及していくのでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

私の気持ちはいままるで瀧がどっと流れているように思う。

談話筆記「瀧の流れと同じ気持」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外旧太田村からの上京を決意したことを報じる『読売新聞』の記事に附された談話から。

太田村での生活は、単に蟄居というだけでなく、自ら天職と考えていた彫刻を封印する生活でもありました。その封印を解き、悲願でもあった智恵子像の制作にかかるというわけで、光太郎、齢七十にして「瀧の流れ」のような激情を抑えきれなかったようです。

ゲットしました。

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先月発売の「リアルゴールド ウルトラチャージレモン 「やる気」をアップする、“あの人”の金言つきデザインボトル」の光太郎バージョン。詩「道程」のあまりに有名な一節「僕の前に道はない 僕の後に道は出来る」が印刷されています。

よく行くスーパーにはこの商品を置いておらず、なかなかゲットできていないでいたのですが、ふと思い立ち、普段行かないスーパーに行ったらありました。その店は、先月の発売当初の頃は3月に出たシリーズが並んでいたので、そろそろ新しいシリーズに切り替わっているかな、と思って行ったところ、ビンゴでした。

自宅兼事務所に戻って「yeah!」とか叫んでいたら、ツチノコに「アホですかニャ?」という目で見られました(笑)。

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皆様もぜひお探し下さい。


【折々のことば・光太郎】

一軒の家の前が際立つて美しく清潔に掃き清められ、歩道にあたるところまで涼しげに水が打つてある。店のあとのガラス戸もきれいに磨かれてゐるし、鉢の植木が健康に青々としてゐる。たつたこれだけのことだが、これだけのことが人の心を、こんなに爽かにするするのに驚いた。

散文「街の健康さ」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

平時であれば別になんということのない風景ですが、戦時でおおかたの商店は休業、疎開で空き家となった世帯も多く、家々の窓の手すりなども金属供出で無くなっているという状況下、こういう家があることが心の救いとなっている、というのです。

さらに同じ文章の終末は「私は今出て来た自分の家の埃つぽい入口を思ひ出して恥かしくなつた」と結んでいます。非常時こそ身辺を美しく、という心がけ、たしかになかなか出来そうで出来ませんね。

明朝は当方も自宅兼事務所の周り、桜や紫陽花の落葉が散っていますので、掃き清めようと思いました(笑)。

静岡は伊東で発行されている同人誌的な総合文芸誌『岩漿』の第28号を戴きました。深謝。

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主宰の小山修一氏によるエッセイ「高村光太郎と木下杢太郎」が掲載されており、興味深く拝読しました。

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木下杢太郎は本名・太田正雄。光太郎より2歳年少で、伊東の生まれ。医学博士として大学で教鞭をとりつつ、文学や美術で幅広く活躍しました。光太郎同様、その活動の出発点は雑誌『明星』でしたので、近年、明星研究会さんでは杢太郎もよく取り上げられています。さらに文芸運動「パンの会」の中心メンバーでもあり、光太郎との交流は『明星』や「パンの会」を通してのものでした。

それから、智恵子とも交流があったようで、神奈川近代文学館さんには、明治45年(1912)、智恵子が作家の田村俊子と共に開催した「あねさまとうちわ絵」展の、杢太郎に宛てた案内状が所蔵されています。ちなみに同館には光太郎から杢太郎宛の書簡も多数所蔵があります。

さて、小山氏の稿。杢太郎が、評論家で光太郎とも交流があった野田宇太郎に対して語った「高村君は戦争詩ばかり書かされているようだね。もつと本当の詩があるはずだ。それを書かせようではないか」という発言を引く所から始まります。時に太平洋戦争末期、実際、光太郎は愚にも付かない翼賛詩文を大量に書き殴っていました。昔からの心ある友人は、こうした光太郎に眉を顰めるというか、真剣に心配していたのでしょう。

しかし、そういう杢太郎自身も、光太郎が詩部会長を務めていた日本文学報国会編の翼賛詩集である『辻詩集』(昭和18年=1943)に寄稿しています。ただ、目立った翼賛文学活動はこれだけのようですが。もっとも、既に杢太郎は文学界の第一線からは身を引き、本業の医学者としての活動の方がメインでした。

その杢太郎、終戦直後に病死しています。そこで小山氏、「真の自由への人間解放や人間の尊厳確立、古典研究による教養の獲得などによる人間愛を追求していたユマニテ思想の杢太郎と、厳格に個人主義を標榜していた光太郎。意に反する軍国主義の激動時代を生きた二人が戦後に再会していたなら互いに影響しあい、現代の文化に多大な功績を残したに違いないと思う。」と結ばれています。おそらくその通りですね。

さて、『岩漿』。上記リンクよりお求めいただけると存じます。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。

散文「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひ去れ」より
昭和18年(1943) 光太郎61歳

上記「愚にも付かない翼賛詩文を大量に書き殴っ」ていたうちの一篇(こうした作品こそ光太郎文学の真骨頂だ、と、涙を流して有り難がる愚物がいて困るのですが)ですが、部分的には首肯できる部分もあるにはあります。それにしてもキナ臭い匂いがしますが……。

昨今流行の「文豪」ものの新刊です。 

2020年8月20日 板野博行著 三笠書房(王様文庫) 定価780円+税

いくら天才作家だからって、ここまでやっていいものか――? 
誰もが知る文豪の「やばすぎる素顔」に迫る本。

酒も女も、挫折も借金も……全部、「小説のネタ」だった!?
「あの名作」は、こうして生まれた!

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目次
 はじめに――酒も女も、挫折も借金も……全部「小説のネタ」だった!?
 1章 「天才」って、ホントつらいんですよ……「ブッ飛んだ感性&行状」にもほどがある!
  ハチャメチャな生き方で女にもてまくり! 太宰治
  滅びの美学を表明! 「憂国」の天才作家 三島由紀夫
  ギョロ目のノーベル賞作家はちょっとロリコン
!? 川端康成
  「狂気」に飲み込まれる前に死んでしまいたい 芥川龍之介
  ケンカ上等
!! 神童、かくして悪童になる 中原中也
  知の巨人は「痴の巨人」でもあった? 森鷗外
  元祖ニート! 結婚後も親にたかりまくる 萩原朔太郎
  ソドム(背徳)の徒が仕込んだ「檸檬」爆弾 梶井基次郎
 2章 「愛欲生活」すなわち「文章修業」
!?
……先生方、それはちょっとハッチャケすぎでは
  性的倒錯のめくるめく世界へ! 谷崎潤一郎
  ストリップ劇場と私娼街に通い詰めた男 永井荷風
  あつすぎる血潮! ブッ飛んだ情熱歌人 与謝野晶子
  姦通罪で「名声ドボン!」のエキゾチック詩人 北原白秋
  女弟子の「蒲団」の残り香を涙ながらに嗅ぐ男 田山花袋
  「家族計画」ゼロ! 血縁の呪縛に懊悩した 島崎藤村
  「純愛一筋」から「火宅の人」に大豹変! 檀一雄
  ブッ飛びの「お嬢様ワールド」全開! 岡本かの子
 3章 「金の苦労」があの名作を生んだ! 
……「追い詰められる」ほどに冴えわたる才能!?
  なぞの自信で短歌連発! 天才的たかり魔 石川啄木
  金の使い道の最善は「女へやる事」と豪語 直木三十五
  「東大教授の椅子」を蹴った理由は年俸額 夏目漱石
  匹婦の腹に生まれた「ザ・苦労人」 室生犀星
  生活力なし! ヒロポン中毒の大阪人 織田作之助
  十七歳で一家の大黒柱!「薄幸の天才」 樋口一葉
  酒びたり放浪生活で「パンクな句」を連発! 種田山頭火
 4章 「ピュアすぎる」のも考えもの……どうしても“突き詰めず”にはいられない!
  ハンサムが台無し! 心中して腐乱死体で発見 有島武郎
  日本酒すら煮立てて飲む「潔癖症」 泉鏡花
  智恵子との「ピュアピュア♡」な関係 高村光太郎
  ゴッホ同様、生前まったく売れず! 宮沢賢治
  お目出たき人人すぎる「上流階級の坊っちゃん」 武者小路実篤
  「知識人の懊悩」に精通した大秀才 中島敦
  「生きよ、墜ちよ」と煽った文壇の寵児 坂口安吾
 5章 「変人たちのボス」はやっぱり変人
……「君臨する」気持ちよさって、癖になっちゃう!
  文壇のドンは日本一の食道楽 尾崎紅葉
  「文春砲」を作った男 菊池寛
  「小説の神様」は「情事も神業」 志賀直哉
  谷崎から妻を譲り受けた「門弟三千人」の男 佐藤春夫
  生きるために「猛烈に食った」男 正岡子規
  「伝説の劇団」を主宰! 言葉の錬金術師 寺山修司
 コラム 作家の子供たち/キラキラネームの元祖!?/文士と薬物
     国木田独歩と有島武郎/言文一致運動

特に目新しいことが書いてあるわけではないのですが、肩のこらない「文豪」たちの入門編としてはなかなかよくできています。

光太郎の項は、智恵子との生活が中心(戦中戦後、そして最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作にも触れられています)。

その中で、室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』(昭和33年=1958)からエピソードが引かれています。すなわち、「裸の光太郎の背中の上に、同じく裸の智恵子が乗って、「お馬どうどう、ほら行けどうどうと、アトリエの板の間をぐるぐる廻って歩いた」というもの。たしかに犀星、このように書き残していますが、これが事実なのかどうか、眉唾の部分もあります。犀星は話の出所を明記していませんし、当方、寡聞にしてこれ以外にこのエピソードが書かれたものを知りません。演劇などではこのシーンを使う場合がありますが。

しかし、板野氏による「小さなアトリエの中は二人だけの世界であり、一つの宇宙だった。世間から遮断されたその生活は、貧しくとも芸術のために捧げられた美しさがあった」という指摘はその通りだと思いました。

他に光太郎と交流の深かった面々もいろいろと紹介されています。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

家屋なるものは衣食住の住のみを以て能事終れりとしては居られない。只住むといふ以外に何等か求むる処がなければならぬと云ふ事が感付かれる。

散文「曽遊紀念帖」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

雑誌『旅行』に載った散文で、留学で滞在したパリ市内の建築や公園などの様子が紹介されています。

J-POPアーティスト・米津玄師さんのニューアルバム「STRAY SHEEP」を購入しました。

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ブルーレイ/DVD、アートブックなどの付録がいろいろ選べるさまざまな「○○盤」が出ていますが、CDのみの通常盤を買いました。

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米津さんご自身が、「智恵子抄」収録の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)からのインスパイアもあるかもしれないとおっしゃっている「Lemon」をはじめ、「カムパネルラ」、そして表題作の「迷える羊」など、近代文学の香りがプンプンします。

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念のため書いておきますが、「カムパネルラ」は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の登場人物、「迷える羊(STRAY SHEEP)」は夏目漱石の「三四郎」で、ヒロインの美禰子が口にするセリフです。さらに遡れば元ネタは「聖書」ですが。また、蛇足ながら美禰子のモデルは、智恵子に『青鞜』の表紙絵を依頼した日本女子大学校の先輩・平塚らいてうとも言われています。

その他、ドラマやCMのタイアップソングが多いので、いつの間にか耳にしていた曲がいろいろ収録されており、コアなファンの皆さんにとっては「何を今さら」なのでしょうが、当方など、「ああ、この曲も米津さんだったか」というものが複数ありました。

 01. カムパネルラ
 02. Flamingo  ソニーワイヤレスヘッドホンCM
 03. 感電  TBS系金曜ドラマ「MIU404」主題歌
 04. PLACEBO + 野田洋次郎
 05. パプリカ
 06. 馬と鹿  TBS系日曜劇場「ノーサイド・ゲーム」主題歌
 07. 優しい人
 08. Lemon TBS系金曜ドラマ「アンナチュラル」主題歌
 09. まちがいさがし
 10. ひまわり
 11. 迷える羊  カロリーメイトCM
 12. Décolleté
 13. TEENAGE RIOT  ギャツビーCM
 14. 海の幽霊  映画「海獣の子供」主題歌
 15. カナリヤ

アルバム全体を貫く一本の芯のようなものと、それぞれ違った彩りを見せる各曲のテイストと、そのあたりのバランスが絶妙だな、と感じます。そういう意味では、優れた詩人の「詩集」にも通じるところがあるのではないでしょうか。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

このさき、どうして金をとつて勉強していゝか、初めて世の中へ抛り出されて途方に暮れながら、第五街の下宿の窓から、街路の突き当たりに、まんまろく出た満月を見て、故郷の父母弟妹のことを思ひ、止度(とめど)なく涙の出たのを忘れません。

アンケート「私が一番深く印象された月夜の思出 文芸家三十六氏の回答」より
大正11年(1922) 光太郎40歳

雑誌『主婦之友』第六巻第十二号掲載。アンケート全体の題名以外に、各回答者の回答に小題が別に付けられています。光太郎の項は「紐育の満月」。明治38年(1905)、3年半にわたる海外留学の、最初に落ち着いたニューヨークでの思い出です。

無理くりですが、米津さんの歌の歌詞になりそうなシチュエーションですね(笑)。

ハードカバーの文庫化です。今朝の『朝日新聞』さんには大きく広告も出ていました。 

2020年8月7日 伊集院静著 双葉社(双葉文庫) 定価800円+税

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郷里の山口から上京した青年・詩人美。中原中也、高村光太郎などを詩を愛する心優しい青年は、新宿・歌舞伎町で暮らす叔父の無塁のもとに身を寄せた。詩人美は叔父のもとで様々な人と出逢い、恋をしたり、勝負の厳しさを味わったり人として成長していく。伊集院静でなければ描けない極上の青春物語。

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元版は平成30年(2018)に同じ双葉社さんからハードカバーで出ていました。その時点では光太郎がらみとは存じませんで、文庫化されて初めて購入した次第です。

当方、伊集院さんの小説はこれまで読んだことがありませんで、こういう小説を書かれる方なのか、と思いました。ただ、小説ではない、古今の「書」を紹介する『文字に美はありや』(平成30年=2018 文藝春秋)という書籍は拝読しており、その軽妙かつ奥深い内容には僭越ながら感心致しておりました。

さて、双葉社さんのサイトには「極上の青春物語」とありますが、健全な青少年には薦めにくい一冊ですね。主人公の詩人美(しじみ)、18歳で上京し、破天荒な叔父の無累(むーる)の元に身を寄せつつ、競馬、麻雀、丁半博打、競輪等のさまざまなギャンブルや、風俗嬢との恋などを通して成長して行く、というストーリーです。途中、詳細は略されつつ、3年ほどアジア各地を放浪、という設定にもなっています。そういうわけで健全な青少年は決して真似をしないように(笑)、です。ただ、そうした自分では決して歩まないような山あり谷ありの人生を追体験できるというのが、小説を読む醍醐味の一つではありますので、そういう意味ではよろしいか、と。

同じくギャンブル狂の天衣無縫な叔父や周辺人物のセリフにも、人生訓が散りばめられています(かなり強引ですが(笑))。

さて、主人公が詩人美(しじみ)という名前ですので、さまざまな近代詩がモチーフとして現れます。最も多く引用されるのは、中原中也の「ポツカリ月が出ましたら/舟を浮べて出掛けませう。」の「湖上」(昭和5年=1930)。その他、萩原朔太郎や石川啄木、そして光太郎。

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お約束の(笑)「道程」(大正3年=1914)が使われています。

しかし、どうもこの1カ所だけかな、という感じです。ただ、500ページ超の分厚いもので、まだ5分の3ほどしか読了していませんので、終盤にまた出てくるようなことがあったらすみません(笑)。

とにもかくにもお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

私のやうな無風流漢には趣味ある探しものなど、めつたにありません。唯年中探し求めてゐるのはよいもでるです。

散文「探してゐるもの」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

『東京朝日新聞』に載った文章の一節ですが、アンケートに近いものがあるようで、同じ題で吉野作造の文章も掲載されています。また「もでる」と平仮名表記になっているあたり、談話筆記なのかな、という気もします。

で、「もでる」は彫刻のモデルです。大正時代、まだ美術家たちはモデルを雇うのに苦労していました。竹久夢二や伊藤晴雨が使った佐々木カネヨ(お葉)のような職業的なモデルもいましたが、光太郎、そういうモデルには食指が動かなかったようです。そこでモデル募集の新聞広告を出したりもしたのですが、うまく行きませんでした。

昨日、8月9日(日)は、本来、宮城県女川町で第29回女川光太郎祭が開かれているはずでした。

例年であれば、県内外の方々による光太郎詩文の朗読、オペラ歌手・本宮寛子さんの歌やギタリスト・宮川菊佳さんの演奏、当方の連続講演など。

過去の様子はこちら。

平成29年(2017) 平成30年(2018) 令和元年(2019)

今年は、コロナ禍のため、地元の皆さんで、朗読等も割愛し、光太郎文学碑に献花のみ、という予定で、本宮さんと当方も参列させていただく予定でしたが、隣接する石巻でコロナ感染が発生、女川にも濃厚接触者が、ということで、それも中止となってしまいました。

あの東日本大震災のあった平成23年(2011)でさえ、細々とながら途絶えさせることのなかった女川光太郎祭が、このような形で中止となったのは、非常に残念です。

ことに今年は、かつて連続講演をなさっていた当会顧問であらせられた北川太一先生がお亡くなりになった年でもありますし、東日本大震災の津波で倒壊した光太郎文学碑再建のお披露目も兼ねるということでしたので、二重、三重に残念です。

元々、女川光太郎祭が開かれるようになった契機は、平成3年(1991)に、当時の女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられたこと。昭和6年(1931)、新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎が女川にも滞在した事を記念しての事業でした。

建立費用は大口スポンサーに頼らない「百円募金」で集め、その精神が同じ女川の「いのちの石碑」に受け継がれました。
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同じ年に碑のお披露目記念ということで、仙道作三氏作曲・北川先生監修のオペラ「智恵子抄」が女川で上演され(智恵子役は本宮さんでした)、翌年から碑の前で光太郎祭が開かれることとなったわけです。

建立当時の碑がこちら。

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しかし、先述の通り、平成23年(2011)、東日本大震災の津波で碑は倒壊、4基あったうち2基は流失し、碑の建立や光太郎祭の開催に尽力されていた、女川光太郎の会事務局長であらせられた貝(佐々木)廣氏も、還らぬ人となってしまいました。しかし、奥様の英子さんがその遺志を継がれました。

残った二基の碑、震災の翌年には、まだ半分水没している状態でした。これでも干潮時です。

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平成26年(2014)、陸に引き上げられ……。

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その後、昨年まではこんな感じでした。

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メインの碑は100㌧だかあるそうで、これを起こすだけでもものすごい労力だそうで……。

それが、一帯をメモリアルゾーンとして整備する中で、すぐ近くの津波で横倒しになった旧女川交番が、今年3月に整備完了。

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それに続き、春には光太郎文学碑も引き起こされたそうです。

コミュニティーラジオ局・OnagawaFM(女川さいがいFM)さんの先月のツイートから。

今朝の女川町は湿気多めの曇り空です。
最近、公園地区がかなり出来てきました。
長い間倒れていた高村光太郎さんの詩碑もしっかり立ち上がりました。

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本来なら、昨日、第29回女川光太郎祭で、この碑に献花だったわけです。

コロナ禍収束・終息後、訪れるつもりで居ります。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

日本人は可愛らしい、可憐のような、愛すべきやうな即ちジヨリイの方が多くて、本当に美しい人、つまりしつかりして頼母しいやうな美しさ、即ちベルな人、フランスといふとローラン夫人、そんな風の美しさが、日本にはないのではないかと思ふ。

座談会筆録「現代女性美を語る 各専門家の見た美人の標準」より
昭和4年(1929) 光太郎47歳

朝日新聞社の主催で開催されたミスコン「女性美代表審査会」の審査員による講評座談会の一節です。審査員は光太郎以外に藤島武二、柳田国男、朝倉文夫、藤懸静也(美術史家)、杉田直樹(医学博士)、西成甫(解剖学者)、村山知義(劇作家)、鏑木清方。ミスコンといっても、写真審査のみでした。

ちなみに光太郎の父・光雲は、日本初のミスコンといわれる明治41年(1908)の「令嬢美人写真募集」で審査員を務めました。親子二代で何をやってるんだか感がありますが(笑)。

「ローラン夫人」はフランス革命後の混乱時に断頭台で処刑されたジロンド派党員かと推定されます。「ジヨリイ」、「ベル」は共に仏語で、「joli=かわいい」、「belle=美しい」。現代でも女性を評するのにこうした基準で語られることが多いように感じます。昭和初期の日本には、真の意味で「belle=美しい」の女性が居ないと、光太郎は嘆きました。現代ではそんなことは無いように思われますが……。

昨日に続き、岩手県花巻市、花巻高村光太郎記念館さんにほどちかい場所にオーピンした「道の駅「はなまき西南」賢治と光太郎の郷(さと)」についてです。

岩手めんこいテレビさんのローカルニュースでは、賢治・光太郎コーナーについても触れて下さいました。 

新しい道の駅に地元で人気の焼き肉店 花巻市にオープン

岩手県内では34駅目となる新しい道の駅が花巻市に8月7日オープンした。地元で30年以上愛されている焼き肉店が、この施設の中に移転し、おいしいホルモンを楽しめる。
7日オープンしたのは花巻南インターチェンジから車で約7分ほどの所に出来た道の駅「はなまき西南」。愛称は「賢治と光太郎の郷」。休憩所には花巻市にゆかりのある宮沢賢治と高村光太郎の資料が展示されている。
道の駅には3つのテナントが入っていて、産直ではその日地元でとれたばかりの新鮮な野菜が並んでいる。
買い物に来ていた女性
「うれしいですよ。地元の物も出るし盛り上げていきたい」
なかでも30年以上前から地元で愛されている焼き肉食堂「味楽苑」は移転オープンし、人気メニューの「ささまホルモン」が注目を集めている。
報告:森尾 絵美里 アナ
「ホルモン大好きなんです。いただきます。噛めば噛むほどあぶらがしっかり出てきます」
他にも近隣の高齢者へお弁当の配達をするなど「地域を支える拠点」としての役割を担っている。
産直は9時から。味楽苑は11時からオープンし、年中無休で営業する予定だという。

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他の報道は賢治・光太郎コーナーには触れられませんでしたが、一応。

岩手朝日テレビさん。 

道の駅はなまき西南 開所式

花巻市に新しい道の駅がオープンしました。
施設には県内の道の駅としては初出店となるある店舗も!花巻市轟木の県道13号沿いにオープンしたのは、道の駅「はなまき西南」です。
店が少ないこの地域の活性化につなげたいという住民の要望により整備されました。
産直には開店と同時に多くの人が訪れ地元でとれたおよそ30種類の新鮮野菜が並びます。
また、オープンを記念して、一般的に流通していないワインの搾カスをブレンドした特別なエサで育った花巻産の黒毛和牛が販売されているほか、先着でもちのお振る舞いもありました。
弁当やお惣菜を販売するこちらの店では、地域の高齢者世帯に弁当を配達するとともに、声かけや見守りをする活動にも取り組むということです。
市内の店舗で30年あまりに渡り営業してきた味楽苑が道の駅に移転しました。
県内34の道の駅で焼肉店の出店は初めてで、訪れた人たちは店自慢のホルモンをさっそく味わっていました。
地元の期待に応えオープンした道の駅「はなまき西南」。地域のにぎわいの拠点となることが期待されます。

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さらに地方紙。

『岩手日日』さん。 

地域支える拠点に 道の駅「はなまき西南開業」

014 県内34ヶ所、花巻市内4カ所目となる道の駅「はなまき西南」は7日、同市轟木にオープンし、開所式が行われた。休憩所や産直、焼き肉レストランなどを備える地域特性を生かした駅で、式後は多くの買い物客らが待望のオープンを喜び合った。
 式には上田東一市長や国交省岩手河川国道事務所の平井康幸所長、地元選出県議、地権者ら約30人が出席。上田市長が「地域の特性を生かした個性豊かな玄関口として、地域活性化に大きな効果をもたらすと期待している。地域を支える拠点として末永く愛され、利用されることを願う」と式辞を寄せた。
 神事に続いてテープカット、くす玉開きを行い営業開始。長い行列をつくった市民らが次々に入店し、産直「すぎの樹」で買い物などを楽しんでいた。レジ先着200人には記念の紅白餅が手渡され、店内に笑顔が広がっていた。
 主要地方道森岡和賀線笹間バイパス利用者の利便性向上、地域特性を生かしたにぎわいの場創出を狙った整備内容は来店者にも大好評。仕事で同道を走行する機会が多いという北上市常盤台の自営業八重樫實さん(75)は「今までの産直(すぎの樹)も利用していたが、こちらの道路沿いにある方が利用しやすい。車を運転する者にとっては休憩も出来て便利。近くに食堂がない場所なので(焼き肉などを提供する)レストランが入ったのもいい」と歓迎していた。
 道路管理者の県と花巻市による一体型整備で、敷地面積は8,219平方メートル。建物は鉄骨平屋建ての床面積951.60平方メートルで敷地内に大型12台、小型36台、身障者用1台、二輪4台の駐車場を備える。管理運営は西南地域住民や市、JAいわて花巻などが出資する「はなまき西南」で、駅長を務める同社の安藤功一さん(62)は「地元の小中学生らとも連携を深め、地域の人たちが気軽に立ち寄れる施設にしていきたい。全国から訪れる観光客の案内も上手にできるようにしなければ」と気を引き締めていた。
 道路利用者の休憩や買い物などの利便性向上のほか、弁当宅配サービスなどで地域の高齢者見守り機能を果たすのも特徴的。加工施設には地域の女性でつくる加工グループ「ミレットキッチン花(フラワー)」が入り、地元農産物を使った弁当や総菜などを販売する。

『岩手日報』さん。 

道の駅オープン 産直や焼き肉店が入居

024 花巻市轟木の道の駅はなまき西南(安藤功一駅長)は7日、オープンした。県道盛岡和賀線沿いで交通アクセスが良く、初日から多くの人でにぎわった。産直や焼き肉店などが入居し、地域振興の拠点として役割が期待される。
 花巻農協直営の産直「すぎの樹」は、レタスやキャベツ、ズッキーニなどの野菜を通常30~40品目販売する。
 焼き肉店の味楽苑(鈴木貫(とおる)店長)では多くの家族連れらがテーブルを囲み、名物の「笹間ホルモン」を焼いたり、冷麺などを味わった。


当方自宅兼事務所のある千葉県香取市近隣、道の駅は3カ所あります。どこも他にはない特色を打ち出し、それなりに繁昌しています。

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しかし、少し離れたところにある道の駅の中には、閑散としているところも。そういうところは立地条件も確かに良くないのかもしれませんが、やはりあまり特徴らしい特徴が見えず、魅力に乏しいように思われます。

「道の駅「はなまき西南」賢治と光太郎の郷」、そうならないようになってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

詩とは気である 気の実である 短句揮毫 昭和16年(1941) 光太郎59歳

光太郎は「詩魂」という言葉も好んで使いました。その人間の根幹をなすものがそれで、そこから外部に出てくるものが詩なり造形芸術なりの、その人にとっての「実」なのだというわけですね。

というわけで、何度かご紹介して参りました、花巻高村光太郎記念館さんにほど近い、道の駅「はなまき西南」(愛称「賢治と光太郎の郷」)が、昨日、オープンしました。2回に分けてご紹介します。

テレビ岩手さんローカルニュースから。 

岩手県花巻市 道の駅「はなまき西南」オープン

岩手県花巻市に市内4か所目となる道の駅が7日オープンし、記念のセレモニーが行われた。セレモニーでは、関係者がくす玉とテープカットで新しい道の駅のオープンを祝った。花巻市内としては18年振り、4か所目の整備となった道の駅『はなまき西南』は、延べ床面積約950平方メートルで、地元の朝採れ野菜が並ぶ産直コーナーのほか、道の駅には珍しい焼肉店がある。こちらの店は地元で30年以上営業していた人気店だが、今回の道の駅オープンに合わせて運営会社から依頼を受け、地域のためになるならと移転を決めたという。県道13号線沿いに整備された道の駅『はなまき西南』は、地域の賑わいの場としても期待されている。

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続いてIBC岩手放送さん。ちなみにキャスターは先日の「わが町バンザイ」でレポーターをルロメられた奥村奈穂美アナでした。 

県内34か所目の道の駅「道の駅はなまき西南」オープン/岩手・花巻市

岩手県内34か所目となる道の駅が花巻市に誕生し、開所式が行われました。地域の食を支える拠点として、地元住民から大きな期待が寄せられています。
花巻市轟木に新たにオープンしたのは「道の駅はなまき西南」で、7日は開所式が行われ関係者がテープカットでオープンを祝いました。道の駅はなまき西南は総事業費およそ8億4000万円で整備され、鉄骨平屋建の施設は産直コーナー、惣菜コーナー、焼肉店、休憩所の4つのコーナーに分かれています。
オープン前には200人を超える人たちが、行列を作るほどの盛況ぶり。オープンとともに地元で採れた新鮮な野菜や、果物などを買い求めていました。道の駅はなまき西南は土産品も充実していて、地域の人たちと観光客の交流の場として貢献しそうです。

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愛称が「賢治と光太郎の郷」ということですが、そのあたりに触れられて居らず、残念でした。

愛称のとおり、2人の紹介コーナーも設けられています。花巻高村光太郎記念会さんのブログサイト「森のたより」から画像を拝借。


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説明板、地元の方が書かれたものですが、原稿がこちらに廻って参りまして、憚りながら校訂、加筆させていただきました。


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グッズコーナーも。

地域活性化に大きな効果をもたらすことが期待されます。その拠点として末永く愛されてほしいものです。

明日もこの項続けます。


【折々のことば・光太郎】

自国の国民性を自覚する事は、自己の血を洗ふ事である。自国の国民性を知る事は、自己の天然を知る事である。此の意味に於てのみ、自国々民性の考察が私に強い執着を持つて来る。

翻訳「日本の国民性に就いて考ふ」前書きより
 大正4年(1915) 光太郎33歳

中国に滞在していた親友の陶芸家バーナード・リーチからの長い手紙を翻訳し、雑誌『智仁勇』に発表、その前書きの部分からの抜粋です。

幼稚なネトウヨのように、いたずらに自国の国民性の優越を誇るのではなく、自己のアイデンティティーの特性をとらえるために、自国の国民性を考えるべきとの言です。

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