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最近入手した資料を紹介します。こういうものもあるんだ、という参考にして下さい。 

作家画家の温泉だより ポケット四季の温泉旅行

昭和31年(1956)9月15日 自由国民社発行
 
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光太郎没年の秋に刊行されたものです。おそらく、同じ年4月20日に同じ自由国民社から刊行された『旅行の手帳26 作家・画家の温泉だより/百人百湯』と同一の内容と思われます。
 
四十八人の文学者や芸術家が日本各地の温泉を紹介するもので、光太郎が「ここで浮かれ台で泊まる 花巻」で花巻周辺の温泉地を担当しています。『高村光太郎全集』によれば、歿する一月半前の2月25日に語った内容の談話筆記で、談話筆記としては最後のものです。
 
紹介されているのは志戸平温泉、大沢温泉、鉛温泉、西鉛温泉、花巻温泉、台温泉-まとめて花巻温泉郷。日記や書簡によれば、花巻で暮らした7年の間に、光太郎はたびたびこれらの温泉に逗留しました。老境に入り、結核も病んでいた光太郎にとって、これらの山の出湯(いでゆ)は何よりの妙薬だったのかも知れません。
 
さて、『作家画家の温泉だより ポケット四季の温泉旅行』。光太郎の花巻以外にも、中山義秀の裏磐梯、榊山潤で岳温泉、鹿島孝二が塩原、野田宇太郎による川原湯、市川為雄筆の草津、渋沢秀雄が小湧谷、中谷健一は水上など、光太郎智恵子も訪れた温泉レポートが満載です。
 
何だか温泉に行きたくなってきました(笑)。

明日、10月5日は智恵子の命日。「レモンの日」と名付けられています。
 
「レモン」とは、智恵子の臨終を謳った光太郎詩「レモン哀歌」からの命名です。
 
    レモン哀歌                                     
 002
 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズ色の香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう
 
昭和6年(1931)頃から統合失調症の症状が顕在化してきた智恵子は、九十九里浜での療養を経て、昭和10年(1935)から南品川のゼームス坂病院に入院しました。有名な紙絵はこのゼームス坂病院での制作です。
 
亡くなったのは昭和13年(1938)10月5日午後9時20分。直接の死因は粟粒性肺結核。数え年53の早すぎる死でした。
 
智恵子の生涯や、光太郎との愛の形については、いろいろな人がいろいろなアプローチで論じています。それは決して肯定的な論調ばかりではありません。たとえば「レモン哀歌」にしても実際に作ったのは2月。終わり2行の「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」というのはフィクションです。雑誌『新女苑』の4月号に載るということで、桜を持ち出してきているわけです。こういう点などをことさらにあげつらい、光太郎の愛は虚構だ、と決めつける論もあります。また、この臨終の場面が「お涙ちょうだいのクサい芝居みたいだ」とこき下ろされることもあります。
 
しかし、どうでしょう。二人の生涯を俯瞰した時、それを「虚構」「クサい芝居」で片付けていいものでしょうか。それではいけない、というのが正直な感想です。といって、逆に「たぐいまれなる崇高な純愛のドラマ」と、諸手を挙げて肯定するのもどうかと思います。
 
結論。公正な眼で、二人の残したいろいろな事物を視野に入れながら捉えることが重要。そのためにもまだまだ埋もれている光太郎智恵子の遺珠を探し続けていきたいと思っております。
 
昨日見せていただいた神奈川近代文学館所蔵の上田静栄あて書簡の中にも、智恵子三回忌にからんで「まる二年たつたといふのにまだ智恵子を身近にばかり感じてゐます」という一文がありました。シニカルな論者はこういうのも光太郎のポーズだと決めつけるのでしょうが……。

今日は横浜の神奈川近代文学館さんに行って参りました。
 
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こちらも国会図書館さんや駒場の日本近代文学館さん同様、収蔵資料が閲覧でき、よく利用させてもらっています。特筆すべきは書簡や草稿などの肉筆ものが充実していること。それも、どんどん新しいものが増え続けていることです。こうしたものは寄贈による場合が多いようで、館から届くメールニュースに毎回のように「寄贈資料」としていろいろ紹介されています。
 
こうしたものを寄贈なさる方々、非常に素晴らしいと思います。売れば売ったでかなりの値がつくものもあり、結局、古書市場に出回っているものは売られたものです。それはそれで入手したいという需要に応える上で大切なのでしょうが、我々個人にとっては、なかなか手が出ません。はっきり言えば、わけのわからない人に買われてしまって、日の目を見ずに死蔵されてしまうということも少なからずあります。
 
その点、こういうちゃんとした公的機関に寄贈されていれば、我々も眼にすることができ、非常にありがたいわけです。
 
いつも一言多いのがこのブログですが、公的機関でも、収蔵資料の状況を外部に発信しなかったりと、死蔵に近い状態にしているところもあり、困ったものだと思うこともしばしばです。
 
さて、今日は詩人の上田静栄に宛てた書簡などを拝見してきました。最近同館に所蔵されたものです。上田には「海に投げた花」(昭和15年=1940)という詩集があり、序文を光太郎が書いています(その草稿も見せていただきました)。つい最近、このブログで誤植についていろいろ書きましたが、上田宛の書簡の中でも誤植の件が話題になっていました。また、智恵子に関する内容も含まれており、興味深いものでした。いずれ「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集)で紹介するつもりです。

昨日のブログで引用した光太郎の書いた散文「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」。続きを載せます。
 
 中には、夫婦の間で、いつもそんなに争ひや波瀾が起つてゐるやうでは何にも仕事ができなくて困るだらう、とお考へになる方があるかも知れません。しかし、与謝野先生御夫婦は、あの多勢のお子さんの上に、人一倍沢山の仕事を世に出してゐらつしやる。それでお子さんに対しての心遣ひなども実によく行き届いてゐて、あれでいけなければ子供の方がよくないのだと思ふくらゐです。或人はいひます。与謝野さんたちくらゐの体格と健康とを持つてゐれば、あの盛んな生活力も精神力も不思議ではないと。けれども私はそれを逆にほんたうに強い精神力が、あの若々しい健康を保つてゐるのだといひます。その證拠には、以前の晶子さんは随分弱々しい病身な人でしたから。大概の夫婦は五十の声を聞くとすつかり、もう年寄りぶつて、ほんとの茶のみ友達になつて納つてしまふのが普通です。さういふ東洋風な淡白さ、例へば大雅堂の夫婦のやうに、主人が旅から帰つて自分の奥さんをすつかり忘れてしまつて、改まつて挨拶したといふやうなのも勿論面白いと思ひますが、生涯を通じて夫婦の愛に対する情熱、その魂の情熱を失はないといふことは、何かといへば早くから老い込み勝ちな日本の人々に、殊に望みたいと思ひます。
 
逸見久美先生のご講演にもありましたが、とかく与謝野夫婦にはいろいろとゴシップ的な文章が残されています。しかし、近い立ち位置から見た光太郎のこの文章、夫妻の姿をよく捉えていると思います。

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さて、このところ与謝野夫妻がらみの光太郎新資料をいくつか見つけています(逸見先生の御著書に助けられました)。それらは「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集)で紹介し続けています。どんなものがあるかというと……
 
・光太郎画、晶子短歌揮毫の屏風絵2点(明治44年=1911)
・寛書簡に記された光太郎短歌3首(大正8年=1919)
・光太郎も連名の第二期『明星』発刊案内(大正10年=1921) 
・光太郎から晶子への書簡(大正13年=1924)
・光太郎、与謝野夫妻他連名の木版師伊上凡骨遺作展案内(昭和9年=1934)
 
などです。
 
また、つい最近になって、国立情報学研究所さんのデータベースで、明治39年(1906)に刊行された晶子作品を含む歌集の装幀が光太郎であると登録されていることを知りました。こちらで把握していないもので、鋭意調査中です。もし本当なら、光太郎が装幀を手がけたもののうち、最も古いものということになります。ただ、出版の経緯等、いろいろ問題のある書籍でして、調査が難航しそうです。
 
いずれまとまりましたらご報告いたします。

昨日のブログで御紹介した逸見久美氏の『新版評伝与謝野寛晶子』。本日の朝日新聞読書欄に紹介されました。
 
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ただ、昨日のお話の中でも、今日紹介されるということをおっしゃっていましたが、何やらあまり歓迎されていなかった御様子でした。読んでみて納得しました。もう少し違う切り口があるのでは、という評ですね。
 
多産だったというのは、知らなかった人にとっては驚きなのでしょうし、「評伝はこんな読み方もできる」というのは個人の勝手かも知れませんが。
 
この評を読んで思い出したのが光太郎の書いた散文「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」。大正15年(1926)の『婦人の国』という雑誌に載った文章で、『高村光太郎全集』の第20巻に載っています。
 
 結婚が恋愛の墓場であるとは一般によくいはれる言葉ですが、私は決してさうではないと思ひます。またさうであつてはならないと思ひます。少なくとも常に心に火を持つて生活してゐる人にとつて、結婚前の恋愛はお互に未知なものを探し求め相引く気持ちですし、結婚によつて一緒の生活をするやうになれば、更にまたその恋愛は充実し、ますます豊富になり完全になるべきです。
 芸術に対する考へ方などについてはいろいろ意見の相違もありますけれども、その意味に於てすぐ私の胸に浮んでくるのは、与謝野寛先生御夫婦です。先生たちの生活が恵まれたものであることは可なり有名な事実ですが、全く、もう結婚後三十年近くにもならうといふお二人の間(なか)が、未だ新婚当時と同じやうな恋人同士の生活なのです。
 喜びと悲しみ、意欲と望とが常に相剋(あひこく)してゐるこの世の生活では、永久に若々しい魂の情熱を失はない人々の道は、決して静かな滑らかな、平坦なものではありません。そこには常に波瀾があり、また凹凸があります。従つてお互の不断の精進と努力とが必要になつてきます。そしてそこには新鮮な生々した気分が醸し出され漲ります。与謝野夫妻がそれなのです。
  よい夫婦といつても、決して事なき平和といふのではなく、今でも時々争ひなどもされるらしい……といつてそんなお話をなさつたり、私たちの前で争つたりされるといふのではありませんが、折々争ひした後で口惜し紛れに詠んだやうな歌など見かけますから、歌に偽りがなければ事実でせう。その癖お二人ともお互いに相手を心から充分尊敬してゐられます。そしてその長い結婚生活の間中を、お二人はどんなにいゝ伴侶者として過ごされたことでせう。時々先生が対外的に何か失意なさつたやうな場合、晶子さんは一緒に沈んでしまはないで、その限りない熱情を籠めて慰め且つ励ますかと思ふと、また晶子さんがさういふ場合には先生が力づけるといふ具合にほんとによく助け合つてゐらした。
 
もうすこし続くのですが、長くなりますので、以下は明日。

今日は神田神保町・東京堂書店さん6階の東京堂ホールで開催された講演会「与謝野夫妻の評伝を書き終えて」を聴きに行ってきました。
 
講師は与謝野夫妻研究の第一人者、逸見久美氏。北川太一先生とも旧知の間柄で、講演会終了後ご挨拶に行ったら「北川先生にくれぐれもよろしく」とおっしゃっていました。
 
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今回の講演は、逸見氏のご著書『新版評伝与謝野寛晶子』完結記念ということで、版元の八木書店さんの主催でした。
 
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労作です。それから同じ八木書店さんからは『与謝野寛晶子書簡集成』というご著書も出されています。
 
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どちらのご著書にも大変お世話になりました。というか、最近また光太郎と与謝野夫妻がらみの新資料が続々見つかってきましたので、現在進行形でお世話になっています。
 
光太郎の本格的な文学活動の出発点は与謝野夫妻の新詩社から。寛のプロデューサー的な才能はかなり高かったようで、今日のご講演でも、「現在、晶子の名が高く、寛がかすみがちだが、寛あっての晶子である」という趣旨のご発言がくり返されました。そういう意味では光太郎も寛のプロデュースにうまく乗った一人なのではなかろうかと思います。
 
というふうに、光太郎と縁の深い与謝野夫妻ですが、当方、与謝野夫妻についてどれだけ知っているかというと、その知識は貧弱です。そういうことではいかんな、と思い、今日のご講演を拝聴しに行きました。光太郎だけに詳しい専門馬鹿では駄目ですね(といって、光太郎についてすべてを知っているかと問われれば答は「否」ですが)。せめて光太郎と近しい間柄だった人々に関しては、ある程度押さえておく必要があります。だから昨日はリーチ展にも行きました。「木を見て森を見ず」にならぬよう、光太郎を取り巻いていた環境をしっかり把握したいと思っております。
 
さて、今日のご講演で特に面白く感じたのは、逸見氏が与謝野夫妻の書簡を求め、日本各地を歩かれたくだり。1回の調査で百通を超える書簡が見つかり、現地に数週間滞在して調査なさったとか、コピー機のない時代で、すべて筆写したとか、筆写にあたって寛の字は読みやすいが晶子の字は実に読みにくいとか、御労苦がしのばれました。当方も似たような経験をしておりますので、尚更です。しかし、光太郎に関しては既に北川太一先生がほとんどやりつくされていますので、当方はその落ち穂拾い。あらためて北川先生も昔はそういう御苦労をされたんだろうな、と感じました。
 
落ち穂もまだまだたくさん残っています。今日も午前中、駒場東大前の日本近代文学館さんに寄ってから講演に行きましたが、やはり落ち穂がありました。いずれ「光太郎遺珠」にて紹介します。
 
ついでに言うなら来週は横浜の神奈川近代文学館さんに落ち穂拾いに行って参ります。

誤植について延々と書いてきましたが、今回でひとまず終わります。
 
今日は光太郎自身の書いたものでの誤植から。
 
まずは明治43年(1910)の『婦人くらぶ』に発表された光太郎の散文。題名にご注目下さい。
 
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100年前にはまだ「スタイル」という外来語は一般的ではなかったのかも知れません。
 
数年前、神田のお茶の水図書館という女性史系の書籍、雑誌を主に収蔵している図書館で発見したのですが、見つけた時には笑いました。
 
笑って済まされなかった誤植が以下のもの。紙が貼り付けてあるのがおわかりでしょうか。
 
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こちらは昭和19年(1944)刊行の光太郎詩集『記録』初版から。
 
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『高村光太郎全集』第1巻の解題によれば、「天皇陛下」とすべきところが「天皇下陛」となっていたとのことです。
 
印刷、製本まで済んだところで、光太郎を敬愛していた他の詩人が誤植に気付いて版元の龍星閣や光太郎に連絡、そのため慌てて紙を貼り付けたそうです。これも『高村光太郎全集』第1巻の解題によれば、そのために発売が2ヶ月以上遅れたとのこと。
 
もし「天皇下陛」のまま流通してしまっていたら、不敬罪(当方のPC、まず『不経済』と出ました。こういうのが誤植の元ですね(笑))に問われてもおかしくない誤りです。
 
数日前にも書きましたが、一つの誤植で書籍や論文全体の信用度ががた落ちということもあり得ます。気をつけたいものです。

いろいろと誤植にまつわる話を書いてきましたが、光太郎自身は自著の誤植にはどう対応してきたのでしょうか。
 
平成11年(1999)に日本図書センターから刊行された『詩集 智恵子抄』愛蔵版という書籍があります。『智恵子抄』は昭和16年(1941)に龍星閣から刊行され、紆余曲折を経て龍星閣から刊行が続いていたのですが、それが差し止められたため、オリジナルに近いものを刊行する目的で出されたものです。校訂には北川太一先生が当たられました。
 
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巻末近くに北川先生の「校訂覚え書」が収録されているのですが、そこを読むと初版以来のテキストの有為転変のさまがよくわかります。
 
初版発行時にあった明らかな誤植(というより脱字)は再版ですぐに訂正されています。その他、細かな句読点や仮名遣い、一字空きなどの点でも光太郎は納得いかなかったようで、昭和18年(1943)4月の第9刷では全面的に改版。しかし、それにより新たな誤植が発生してしまいました。その後、戦後の白玉書房版(昭和22年(1947))、龍星閣復元版(同26年(1951))と、少しずつ訂正が行われています。
 
そして日本図書センター版では北川先生がそれら各種の版を総合的に見て、元に戻すべきところは元に戻し、さらに光太郎の草稿にまで当たって数箇所の訂正が入っています。
 
ここまで神経を使い、一字をもおろそかにしない姿勢、見習いたいものです。
 
今と違い、昔は「文選工」と呼ばれる職人さんが、原稿を見ながら活字を拾って版を組んでいたので、ミスが生じてしまうのは仕方がなかったのでしょう。
 
もちろんミスをしないことも大切ですが、それより大切なのは、ミスが生じてしまった後の対応をきちんとやることでしょう。『智恵子抄』に関しても、「ま、いっか」ではなく、とことんこだわった光太郎や出版社の姿勢、見習いたいものです。
 
そういえば、光太郎がらみで「トンデモ誤植」があったのを思い出しました。明日はそちらを。

昨日まで、著者名の取り違えや誤植といった件について書きました。人間のやることですし、笑ってすまされるようなミスならいいのですが、中には笑ってすまされはしない、義憤を感じるものもあります。
 
下の画像は、10数年前に刊行された書籍の表紙です(部分的にモザイクをかけてあります)。

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お気づきでしょうか? 問題の箇所を拡大してみましょう。

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ついでに裏表紙からも。
 
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「高村光太郎」とすべきところが「室生犀星」。あまりに低レベルのミスで、話になりませんね。さすがに中身は「高村光太郎」となっていますが、表紙は書籍の顔。それがこういうことでいいのでしょうか?
 
この書籍は、小学校の教員向けに国語の授業の進め方の実践例を紹介するもので、この手の書籍の版元としては最大手の某出版社から出ています。「最大手」ですよ、「最大手」。個人経営の街の古書店が目録で著者名を取り違えるのとは影響力が違いますね
 
これはあんまりだ、と思い、この出版社に手紙を送ったのですが、なんのかんのと理由をつけて、訂正されていません。いまだにこの社のオンラインショップでも堂々と訂正されないまま販売されているようです。しかも、この点で突っ込まれるのを警戒しているのでしょうか、他の出版物は鮮明な画像で表紙を紹介しているのに、このシリーズのみぼやけた画像になっています。こういうのを「姑息」というのでしょう。
 
それにしても、中身の部分を書いた人、監修者として名前を挙げられているえらい先生は、何にも言わなかったのでしょうか? その辺からの抗議があったとしても無視なのでしょうか
 
この社には「出版社」または「出版者」としての良心、矜恃、心意気、誇り、気骨といったものが感じられません。まぁ、ないでしょうが、仮に執筆依頼が来たとしてもお断りします。「渇しても盗泉の水を飲まず」といったところですね。
 
ところで、光太郎自身も誤植には悩まされていました。そうした場合に光太郎が執った措置を次回は御紹介します。

先日、古書目録などの記載内容に誤りが多い、という内容を書きました。
 
神保光太郎と高村光太郎を取り違えていたり、高浜虚子や木々高太郎が序文を書いているのに光太郎が書いたことになっていたりとかです。こういう例は混乱が生じるので、はた迷惑なのですが、人間のやることですのである意味仕方がないでしょう。
 
そこまで大がかりなミスではありませんが、それ以上に目立つミスとして「誤植」「誤変換」があります。書籍やインターネットサイト、そういう文字を使ったメディア全般で見受けられます。
 
非常に多いのが「知恵子抄」「千恵子抄」。これが西の横綱とすれば、東の横綱が「高村高太郎」「高村幸太郎」でしょう。

その他、実際に眼にした誤植の数々です。
 
「高山光太郎」……ある雑誌の光太郎特集号の目次にドーンと大きく掲げられていました。さすがに発行前に気付いて、「こりゃまずい!」と思ったようですが、印刷の訂正はできなかったらしく、正誤表が挟まっていました。

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「山のスッケチ」……インターネットサイトで見かけました。正しくは「山のスケッチ」、光太郎没後に刊行された花巻の山小屋での素描集です。山小屋での光太郎は読売文学賞の賞金十万円をそっくり地元に寄付してしまうなど、ケチではなかったんですが……。

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ちなみに光太郎を敬愛していた宮沢賢治の「春と修羅」の扉でも、「心象スケツチ」とすべきところが「心象スツケチ」となっているのは、意外と有名な話です。 

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「天井の炎」……火事になりそうです。ある書籍の光太郎年譜的なページから。正しくは「天上の炎」。ヴェルハーレンの詩集で、光太郎が翻訳したものです。「天上の炎」は太陽を表します。

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かくいう自分もよくやらかします。論文の中で「軍歌」と書くはずのところを「軍靴」としてしまったことがありますし、著書では「与謝野鉄幹」とすべきところをすべて「与謝野鉄寛」としてしまったことがあります。

しかし、他の人が書いたものの中には「与謝野鉄管」もありました。水道工事でも始めるのでしょうか。
 
誤植も笑ってすまされるものならいいのですが、その一つの誤植で書籍や論文全体の信用度ががた落ちということもあり得ます。気をつけたいものです。
 
5月から始めたこのブログももうすぐ半年、今日で144回目です。おそらくどこかしらでやらかしていると思います。何か気付かれたらご指摘下さい。

昨日のブログに名前を挙げました「神保光太郎」。同じ「光太郎」ということで、「高村光太郎」と取り違えられる事がある詩人です。山形出身ですが、埼玉での生活が長かったそうです。
 
神保の方は明治38年(1905)生まれなので、明治16年(1883)生まれの光太郎より20歳ほど年下ですが、二人は交流がありました。『高村光太郎全集』をひもとくと、随所に名前が出てきます。そういう意味では9/4のブログに書いた「光太郎梁山泊」の一員ですね。
 
数年前、高村光太郎から神保光太郎あての(ややこしいですね)それまで知られていなかった葉書を入手しましたのでご紹介します。
 
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昭和17年(1942)12月のものです。
 
この間は無事な御様子を見て安心しました、今度は実に御苦労な事であつたとまつたく感謝します。大きな仕事をして来られたわけです。あなたの風貌に何となく幅が出来たことを感じました。風邪のやうでしたが、出来れば二三日でも入湯されればいいと思ひます。伊香保ならばよい家を御紹介しますが少々寒すぎるでせう。やはり伊豆がいいでせう。夫人にもよろしく。
「おいこら」で夫人を驚かせないやうに願ひます。いづれまた、
 
「実に御苦労な事」というのは、神保が約1年、報道班員として南方戦線に従軍したことを指します。
 
光太郎の筆跡、決して流麗な達筆というわけではありませんが、独特の味わいがあります。この筆跡を見るとほっとするような温かさというか……。
 
さて、情報提供のお願いです。平成18年(2006)の明治古典会七夕古書台入札会に、やはり高村光太郎から神保光太郎宛の書簡20通と原稿が出品されました。最低落札価格は30万円。とても手の出る代物ではなくあきらめましたが、ある意味、あきらめきれません。虫のいい話ですが、ともかく内容を知りたいと思っています。これの行方をご存じの方は、お知らせ願えれば幸いです。

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追記 大妻女子大学さんでこちらを購入されたこが判明しました。ありがとうございました。

昨日のブログで、かわじもとたか氏編「序文検001索―古書目録にみた序文家たち」(杉並けやき出版発行)を紹介しました。今日はその姉妹編、「装丁家で探す本―古書目録にみた装丁家たち 」を調べに行ってまいりました。残念ながらこちらは光太郎の件数が少なく、すべて既に把握しているものでした。
 
さて、並行して「序文検索―古書目録にみた序文家たち」に載っていた、こちらで把握していない光太郎序文の調査も始めました。そのうちの一冊が、国会図書館などの主要な図書館に蔵書がなく、そこで古書店のサイトで探してみたら、出品されていました。
 
以前でしたら喜び勇んですぐに購入しましたが、最近はそんな愚は犯しません。「この書籍に高村光太郎の序文が載っているという情報を得たのですが、そうであれば購入します」と条件をつけました。すると、返ってきた答が「序文は高村光太郎ではなく高浜虚子です」。「高」しか合っていませんが……(笑)。これも以前でしたらがっかりしていましたが、最近はもう慣れてきました。こういうケース、時々あるので、予想していました。予想していたので昨日のブログにも「(いろいろ落とし穴があるので空振りに終わることも少なくありません)」と書きました。
 
古書目録、いいかげんに作っているわけではないのでしょうが、ミスが目立ちます。といっても、それは、人間のやることなので仕方がありません。要は書かれている内容を頭から信用しないことです。
 
もう10年以上前でしょうか、こんなことがありました。自宅に送られてきた古書目録に、ある詩華集(多くの詩人の合同詩集)が掲載されており、「高村光太郎」の名も。把握していないもので、価格も手ごろだったのでさっそく注文しました。数日後、届いた詞華集、いくらページをめくっても高村光太郎の作品は載っていません。代わりに載っていたのが同じく詩人の神保光太郎の作品。「光太郎」ちがいです。目録に「光太郎」しか書いてなければ100%こちらの早とちりですが、「高村光太郎」と書いてあっては古書店のミスですね。買わずに返品しました。
 
こんなこともありました。やはり目録に「詩集智恵子抄 高村光太郎 昭和19年 第15刷」とあったのです。龍星閣から刊行されたオリジナルの『智恵子抄』は第13刷までのはず。15刷があったとすれば、それはそれで大きな発見です。このときは「ほんとに15刷ですか?」と問い合わせてみたら、「すみません、13刷でした」とのこと。
 
こういう例はインターネットサイトにもいろいろあります。ある方のブログで、「××という本の序文を高村光太郎が書いている」という記述を見つけ、これも把握していないものだったので、当該書籍を古書サイトで出品している古書店さんに「この書籍に高村光太郎の序文が載っているという情報を得たのですが、そうであれば購入します」と送ったところ(今回と全く同じケースです)、「高村光太郎ではなく推理作家の木々高太郎です」……。「高浜虚子」よりは近いとは思いますが(笑)。
 
くりかえしますが、古書目録等、いいかげんに作っているわけではないのでしょうが、ミスが目立ちます。といっても、それは、人間のやることなので仕方がありません。要は書かれている内容を頭から信用しないことです。
 
このブログではそういうことのないように、細心の注意を払っていきたいと思っております。
 
かわじもとたか氏編「序文検索―古書目録にみた序文家たち」(杉並けやき出版発行)。まだ有望と思われる未確認情報が数件有りますので、そちらに期待します。

先週、成田市立図書館さんに行き、昔の銅像写真集『偉人の俤』を調べたことを書きました。
 
その際、ついでに開架の棚を見たところ、書誌情報関連の書籍や古い雑誌の復刻版などがそれなりに充実しているのがわかりました。しかし、その時には光太郎書誌に関するリストを持って行かなかったので、昨日、また行ってきました。
 
書誌情報関連の書籍というのは、簡単にいえば「何々という書籍/雑誌に誰々の書いた文章が掲載されている」という類のものです。
 
以前にも書きましたが、当方、まだ世に知られていない光太郎文筆作品の集成をライフワークとしています。そうして見つけたものは、「光太郎遺珠」の題名のもと、年一回公表しています。現在は高村光太郎研究会刊行の雑誌『高村光太郎研究』の中の連載とさせていただいております。
 
さて、昨日の調査、やはりそう簡単には未知のものは見つ000かりません。「ああ、これはリストに載っている」「この復刻版は時期がずれてて光太郎作品は載ってないな」という連続です。しかし、あきらめかけた頃、書架の片隅である書籍を見つけました。かわじもとたか氏編「序文検索―古書目録にみた序文家たち杉並けやき出版発行。題名を見ただけで「これは使える!」、ピンときました。
 
古書目録というのは、古書店が発行している在庫目録です。デパートなどで行われる古書市の出品目録として、何軒かの古書店が合同で発行する場合もあります。この手のもの、当方の自宅には月に10冊位が送られてきます。詳しい記述があるものは、書籍の題名や著者、刊行年、価格などの基本情報以外に、「誰が序文を書いている」とか「誰が装幀した」といったことまで書かれており、貴重なデータベースです。
 
たとえば最近届いた府中の古書かつらぎさんの目録。有島生馬の小説集ですが、島崎藤村が序文を書いているという情報が載せられています。

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この手の情報は非常にありがたいものです。実際、こういう記述が決めてで購入し、新たに発見した光太郎の文章なども少なくありません。
 
余談になりますが、売り上げが伸びなくて困っている、という古書店様。基本的なことしか書いていない目録では限界がありますよ。面倒でもこういう工夫が必要だと思います。
 
さて、「序文検索―古書目録にみた序文家たち」。こうした古書目録に載った「誰が何という本に序文を書いている」という情報の集成です。500ページ近い大著で、約1,600人・約12,000冊の書籍がリストアップされています。素晴らしい! 編集には気の遠くなるような労力が必要だったことでしょう。
 
光太郎に関しても、70冊以上の書籍が紹介されていました。大半はすでに知られているものでしたが、数冊、未知のものが含まれていました。今後、各地の図書館や古書店のサイトにあたり、どんなものか突き止めたいと思っています。確実に未知のものであれば「光太郎遺珠」に登録していきます(いろいろ落とし穴があるので空振りに終わることも少なくありません)。
 
ちなみに帰宅してから調べたところ、同じシリーズで「装丁家で探す本―古書目録にみた装丁家たち 」という書籍もあり、やはり成田市立図書館さんに所蔵されているとのこと。こちらも期待できます。
 
光太郎ほどの人物が書き残したものは、断簡零墨に至るまで、できうる限り収集し、次の世代へと引き継いでいきたいとというのが当方の基本スタンスです。今後も草の根を分けてでも探し出すつもりでおります。

先日、久しぶりに新刊書店に行きました。長距離の移動中、車内で読むための書籍を買うのが目的でした。
 
そういうための書籍としては、光太郎関連から離れた推理小説、時代小説、そして歴史小説を選びます。今回は歴史小説、北方謙三氏の『岳飛伝』第二巻を買いました。中国の通俗小説『水滸伝』を元にした北方氏の連作「大水滸伝シリーズ」の最新刊です。

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この連作は、90年代末に『小説すばる』で連載が始まった『水滸伝』全19巻、その続編の『楊令伝』全15巻、そしてその続編として『岳飛伝』が現在も連載中で、つい最近単行本の2巻目が発売されました。さらに言うなら、流行の言い方を使ってシーズンゼロ(メインの話の前史)的な『楊家将』全2巻、『血涙』全2巻もあり、膨大な量になっています。このシリーズが実に面白い。カビの生えた言い方ですが「血湧き肉躍る」という表現がぴったりします。
 
当方、その他の歴史小説としては、新選組もの、武田家や真田家に関するものなどが好きで、よく読んでいます。共通点としては、「群像ドラマ」であるということ。これがどういうことかというと、一人のカリスマ的なヒーローを描いたものではないということです。もちろん、中心になる人物はいるのですが、その周囲に実に多彩な人々が集まって、すごい人物相関図が出来上がっているというパターンが好きなのです。
 
新選組で言えば、局長・近藤勇の元に、土方歳三、山南敬助、沖田総司、永倉新八、斎藤一、井上源三郎、藤堂平助、原田左之助、島田魁、山崎蒸……武田家で言えば、武田信玄の元に、山本勘助、真田幸隆、真田昌幸、馬場信春、板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌、武田信繁、高坂昌信、武田勝頼…… 。
 
そうした意味での圧巻は北方氏の描く『水滸伝』の連作です。腐りきった北宋を倒すため、城塞・梁山泊に集まった108人の英雄、豪傑が描かれます。武術に長けた者、用兵を得意とする者、知略で勝負する者、諜報活動に命をかける者、その他一芸に秀でた者……。武に長けた者たちも、槍、剣、弓、棒、戟、体術、斧など、それぞれ得意とする武器が異なったり、一芸に秀でた者たちは、物流、造船、鍛冶、土木工事、医術、建築、馬の飼育、はては書や印鑑製作、料理など、実に多彩な分野でそれぞれの得意技を生かして活躍したりています。まさに多士済々ですね。
 
さて、長々こんな話を書いてきましたが、その意図はもうお判りでしょうか。当方が言いたいのは、「すぐれた人間の元には、すぐれた人間が集まる」ということで、これは光太郎の世界にも当てはまります。
 
光太郎がリーダーとか統領という訳ではありませんでしたが、光太郎の周囲にも、きら星の如く実に様々な分野の人々が集まりました(光太郎自身がマルチな才能の持ち主だったこともあるのですが)。
 
彫刻の荻原守衛・高田博厚、詩人の草野心平・宮澤賢治、画家の岸田劉生・梅原龍三郎、小説家では森鷗外・武者小路実篤、歌人では与謝野夫妻・石川啄木、脚本家に小山内薫・岸田国士、編集者の松下英麿・前田晁、美術史家である今泉篤男・奥平英雄、女優の花子・水谷八重子。その他にも版画彫師の伊上凡骨、チベット仏教の河口慧海、歌舞伎役者の市川左団次、舞踊家の藤間節子、大倉財閥の大倉喜八郎、歌手の関種子、建築家の谷口吉郎、青森県知事津島文治(太宰治の実兄)、朗読の照井瓔三、日本女子大を創設した成瀬仁蔵、バーナード・リーチや詩人の黄瀛(こうえい)など、外国人も。そういう意味では智恵子もそうですし、北川太一先生もそうです。『高村光太郎全集』の「人名索引」を眺めれば、さながら梁山泊の面々のようです。
 
かえりみるに、現在、連翹忌に関わっていただいている皆さんも多士済々。北川太一先生の元にやはりきら星の如く、色々な分野の方々に集まっていただいております。実は、連翹忌の参加者名簿を繙く都合がありまして、見てみたところ、そのように感じました。ここもさながら梁山泊だな、と思ったわけです。
 
しかし、まだまだ世の中には独自に光太郎・智恵子・光雲を追究してらっしゃる方もいらっしゃるでしょうし、これからこの世界に入りたいという方もいらっしゃるでしょう。そういう方々のネットワーク作りに貢献できれば、と思っております。

昨日のブログで、バーナード・リーチと秩父宮妃勢津子殿下について書きました。
 
秩父宮家と光太郎の関連はもう一つ。昭和3年のご成婚を祝し、「或る日」という詩を発表しています(『全集』第2巻、初出不詳)。これに関して面白いエピソードがあるので、紹介します。 
 
   或る日(昭和三年九月二十八日)
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 今日はあの人の結婚する日だ。
 秋が天上の精気を街(ちまた)に送る。
 こんな日に少女が人に嫁ぐのはいい。
 
 山でも一緒に歩きたいほど
 あのいきいきした好い青年が
 こんな日に少女(をとめ)の肌を知るのはいい。
 
 むづかしい儀式と荘厳とが
 あの二人を日ねもす悩ますさうだが、
 何もかもどしどし通過して
 結局二人きりになればいいのだ。
 
 さうしてこの初秋のそよそよする夜に
 二人一しょにねればいいのだ。
 
第四連など、宮家のご成婚を謳うには、かなり直截な表現が含まれているのに驚かされます。
 
第三連の「むづかしい儀式と荘厳とが/あの二人を日ねもす悩ますさうだが、」が暗示になってはいるのですが、詩の中に宮家のことであるということは具体的には書かれていません。
 
「昭和三年九月二十八日」は、ご成婚の日付です。ただし、この部分は昭和28年に完結した中央公論社版『高村光太郎選集』に収められた時に附されました。
 
さて、昭和25年、詩人で編集者だった池田克己がどこかでこの詩を見つけ、雑誌『サンデー毎日』に再録したい旨、光太郎に申し入れます。それに対する返信が残っていますので紹介します。
 
おたより感謝、その後いかがかと案じて居りましたが御元気恢復の御様子で大安心です、御申越の「サンデー毎日」への転載といふことは一向差支ありませんが、「或日」といふ詩を小生思ひ出しません、どんな詩だつたのか、確に小生の詩なのか、不安な気もします。間違だつたら滑稽ですから一応おたしかめ下さい、
御健康をいのります、

(書簡3181 昭和25年7月26日 池田克己宛 『光太郎遺珠』①所収)
 
光太郎、自分の書いた詩を忘れています。まあ、20年以上経っていますし、題名があまり特徴的ではないので、ある意味、仕方がないかも知れません。
 
さて、三ヶ月程経ち、「或る日」が掲載された『サンデー毎日』が光太郎の手元に届きます。「中秋特別号」ということで、巻頭カラーページには光太郎、北原白秋、佐藤春夫、室生犀星、萩原朔太郎等の詩に、東郷青児、足立源一郎ら当代きっての画家による挿絵。豪華な造りです。光太郎のページは、宮本三郎という画家が担当しました。

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これを受け取っての池田への返信も残っています。
 
文字届きました由 安心しました。 サンデー毎日も掲載誌が届きました。
ところがあの詩は秩父宮の結婚の時にその事を書いたものなので、宮本さんの馬上花嫁ではひどく平凡になり、あの詩の味噌がなくなり、思はず吹き出しました。尤も秩父宮といふ事は書いてないので無理もないと思ひました。
(書簡3183 昭和25年10月21日 池田克己宛 『光太郎遺珠』①所収)
 
文学作品は、作者の手を一度離れたら、その解釈は受け取る側に委ねられるものとも言えますので、こうした勘違いも仕方がないでしょう。だいだい、はっきり宮家のことだと書かなかった光太郎が悪い(笑)。そこで、この後刊行が始まる『高村光太郎選集』で「昭和三年九月二十八日」とわざわざ書き込んだのでしょう。
 
この『サンデー毎日』が出た時、妃殿下はもちろん、宮様もまだご存命でした。もしこれを御覧になり、さらにご自分達を謳った詩だとご存知だったら、苦笑なさったことでしょう。そんな想像をすると、笑えます。
 
蛇足ですが、先程「文学作品は、作者の手を一度離れたら、その解釈は受け取る側に委ねられるものとも言えます」と書きました。しかし、時折、「文学博士」の肩書を持っているような偉いセンセイが、いくらなんでもそりゃないだろう、というような頓珍漢な解釈を書いている論文などを眼にします。そうなると「苦笑」どころではなく情けなくなりますし、その勘違いがまかり通ってしまうと、それは一種の犯罪に匹敵すると思います。
 
自分はそう言うものを書かないように、と自戒を込めて。
 
別件ですが、本日夜19:55~NHKEテレ(旧教育テレビ)でオンエアのRの法則という番組で、女川が扱われます。8/13のこのブログで紹介した仮説商店街「きぼうのかね」からの中継もあるようです。24時からは同じEテレで再放送もあります。 

Rの法則「いま伝えたい私たちの思い~宮城県女川町から~」

2012年8月28日(火) 18時55分~19時55分
2012年8月28日(火) 24時00分~25時00分(再)
 
宮城県女川町から「被災地に暮らす中高生の思いを伝える」をコンセプトに、震災後に“心に響いた歌&”私の一大ニュース”を紹介。出演:山口達也、Rake、平原綾香
番組内容
東日本大震災で大きな被害に遭った宮城県女川町から、1時間にわたって中継。「被災地に暮らす中高生の思いを伝える」をコンセプトに、地元の高校生が主体となり、“震災後、心に響いた歌”“震災後、私の一大ニュース”をリサーチして紹介。また、この春にオープンした、仮設商店街から、町の現状と魅力を発信してもらう。

ぜひご覧下さい。

昨日のブログで、バーナード・リーチの写真を載せるため、彼の『東と西を超えて 自伝的回想』(福田陸太郎訳 日本経済新聞社 昭和57年)を引っ張り出しました。

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ついでに光太郎に関する記述がある部分を読み返してみましたところ、ちょっと面白いエピソードがあったので紹介します。

 私の最初の日本人の友、高村光太郎が今私の心に甦って来る。私はいまでも、初めの頃の彼の手紙をいくらか持っている。
 (中略)
 最近一九七三年にもなって、彼についてある事柄が起こった。それは私が、秩父宮妃殿下の催された小さな親しい茶席に招待された時のことである。妃殿下自身も陶器をお造りになり、芸術の後継者であられた。わずか八人が出席しており、ある一刻、私にだけお話しをされた。たまたま、私の古い友人の高村の詩がお好きであると言われた。私は驚いて、妃殿下の方を向いて言った。「高村はわれわれが二人とも学生であった頃のロンドンでの私の初めての友人です。私はご存知のように日本語は読めませんが、数行が心に浮かんで来ます。
 
  秩父おろしの寒い風
  こんころりんと吹いて来い
 
妃殿下は驚いて私の方を向かれた。こんなに驚いた人を私は知らない。一度だけ私の記憶が正確だったのだ。そして、何と奇妙なことに高村は、妃殿下の土地-秩父-の名を使ったのである。

 まず「秩父宮」は昭和天皇の弟君、秩父宮雍仁親王。社会活動としてスポーツの振興に尽くし「スポーツの宮様」として広く国民に親しまれ、秩父宮ラグビー場にその宮号を遺しています。国民の人気も高かったのですが、昭和28年、50歳の若さで急逝。その際、光太郎は「悲しみは光と化す」(『高村光太郎全集』第6巻)という散文を書いて哀悼の意を表しています。 
 
 勢津子妃殿下は平成7年、85歳までご存命でした(会津藩主松平容保の孫だったそうで、これは当方、存じませんでした)。
 
「秩父おろしの寒い風/こんころりんと吹いて来い」は、リーチ来日中の大正元年、『白樺』に発表された詩「狂者の詩」の一節。正確には「秩父おろしの寒い風/山からこんころりんと吹いて来い」で、この詩の中でリフレインされています。
 
 話の流れからすると、妃殿下はリーチと光太郎の関係をご存じなかったのではないかと思います。光太郎歿して17年。二人の間に秩父おろしの風のようにさっと吹いた光太郎の思い出。いい話だな、と思いました。
 
 これも妃殿下がご存知だったかどうか不明ですが、秩父宮家と光太郎の関連はもう一つ。昭和3年のご成婚を祝し、「或る日」という詩を発表しています(『全集』第2巻、初出不詳)。これに関しても面白いエピソードがあるので、明日、紹介します。 

面白いサイトを見つけたのでご紹介します。 

本が好き!は、書評でつながる読書コミュニティです。書評を通じて、趣味嗜好の合う人 や思いもよらない素敵な本と出会えます。書評を書くとポイントが貯まり、出版社や著者 から今話題の本がもらえる「献本」に応募できます。(サイト紹介文より)
 
「amazon」などでも「ブックレビュー」のコーナーがありますが、あまり充実していません。その点、このサイトでは書評が満載。もちろん未読の書籍についての参考になるでしょうし、既読にものに関しては「他の人はこの本をこういう風に読んでいるんだ」ということがわかります。ご覧あれ。
 
このブログで紹介した近刊では、北川太一先生の「光太郎智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで」などが取り上げられています。

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「読書離れ」が叫ばれて久しいのですが、それではいけないと思います。人間と他の動物との違いの一つに知的好奇心、知的向上心の有無があると思います。「読書」はそれを充たしてくれる一つの手段ですね。「学而時習之、不亦説乎。」です。
 
当方、光太郎関連以外に、歴史書小説や推理小説をよく読みます。あちこち出かけることが多いので、その移動の車中で読むことが多いのです(1泊2日の行程なら文庫本を3冊くらい持って行きます)。これから読書の秋。「灯火親しむの候」という美しい言葉があります。ぜひ皆さんも読書に親しみましょう! できればこのブログで紹介している書籍を読んでいただければ幸いです。

神田の古書店、八木書店様より少し前に送られてきた講演会の案内です。光太郎がメインではありませんが、ご紹介します。 

晶子没後70年記念出版『新版評伝与謝野寛晶子』完結記念公演 与謝野夫妻の評伝を書き終えて -収集した二五〇〇通の書簡と全集・全釈編纂から-

講師 逸見久美氏
日時 平成24年9月29日(土) 15:00~
会場 東京堂書店神田神保町店6階 東京堂ホール
入場無料

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光太郎と親交のあった与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻研究の第一人者であらせられる逸見氏のご講演です。氏の編まれた『与謝野寛晶子書簡集成』には光太郎の名が散見され、「光太郎遺珠」編集に際して大いに参考にさせていただきました。
 
今月末に八木書店様の出版部から『新版 与謝野寛晶子評伝昭和篇』という氏の新著が刊行されるので、その関連と思われます。
 
講演会自体はまだ先なのですが、「先着80名」だそうですので、早めにご紹介いたします。
 
ここ数年、与謝野夫妻と光太郎がらみでの新資料をいくつか見つけていますので、当方も聴きに行ってみようと思っております。

昨日8月6日は広島原爆の日でした。001
 
そこで、昨日のブログでは光太郎が原爆に言及した文章を一篇、紹介しました。
 
昭和24年3月20日ナカヤジェネラル貿易会社刊行の、広島文理科大学助教授小倉豊文が書いた広島での被爆体験記、『絶後の記録』海外輸出版の序文です。初版は昭和23年11月、中央社の刊行ですが、翌年に刊行された海外輸出版の序文を光太郎が書いています。
 
その後、調べてみましたところ、小倉宛の書簡で『絶後の記録』に触れたものがいくつか見つかりましたので、関連する部分のみ抜粋して紹介します。
 
書簡三〇九一 昭和23年(1948)10月2日(『高村光太郎全集』別巻)
 「原爆手記」は期待されます。
 
書簡一五〇八 昭和23年(1948)12月10日(『高村光太郎全集』第十五巻)
 御恵贈の「絶後の記録」を三四度くりかへしてよみました。その間つい御礼も書けずにゐました。まつたく息もつまる思でよみました。あの頃の世界を身に迫つて感じ、何とも言へず夢中で読みました。貴下が全身をあげて投擲するやうに書いて居られる気持ちがよく分かりました。最後の章にこもつてゐる貴下の感懐には十二分に共鳴を感じます。またきつと読み返すでせう。これは記録としても貴重な文献です。厚く御礼申上げます。
 
書簡一五一二 昭和23年(1948)12月15日(『高村光太郎全集』第十五巻)
 今夜何度目かの「絶後の記録」繙読を終つたところです。感無量です。村の人たちに御紹介してゐます。せめて英訳でもつくられて、世界の人々に読んでもらつたらいゝと思ひます。
 
ここまでが初版の『絶後の記録』に関する内容でしょう。光太郎、若い詩人達から詩集などを贈られると律儀に返礼を書いていますが、ここまで手放しで礼賛している例は非常に珍しいことです。
 
 
書簡三〇九三 昭和24年(1949)1月5日(『高村光太郎全集』別巻)
 おてがみをよんで感動しました。
 「ノオモア」の為にあの著書を役立てられやうとするお心はよく分かります。小生も一冊でも多く人が読むやうにと念じ、又機会ある毎に人にすすめようと思つてゐます。実際にあの本を読んだら戦争をはじめる気は無くなるでせう。人類は今後大規模の戦争を極限まで避けるやうになる事と考へます。
 
この時期におそらく海外輸出版の企図を伝えられたのでないかと推測されます。
 
書簡二八八六 昭和24年(1949)1月27日(『高村光太郎全集』第二十一巻)
 「絶後の記録」再版分をまたお送り下され忝なく存じました。貴下の誓願がだんだん成就してゆくやうに思はれます。この再版分は山口小学校に寄附しましたから此処のみんなにひろく読まれるでせう。御恵贈を感謝いたします。
 
書簡二八九六 昭和24年(1949)2月20日(『高村光太郎全集』第二十一巻)
 早速今晩書きましたので、明日発行所宛でお送りいたします。其後多くの人が読むやうで喜んでゐます。外国の人々も読めるやうになりさうなお話で尚更よろこびます。まつたくこの本はあらゆる人によんでもらひたいと思ひます。
 
これが海外輸出版の序文を書いたことに関わるのでしょう。
 
 
書簡三〇九四 昭和24年(1949)3月29日(『高村光太郎全集』別巻)
 中央社から再版が届きまして、感謝しました。これには海外輸出版とあるのでアメリカに居る邦人に読めるのはいいと思ひました。英語露語の版も出てアメリカやロシヤの人達にもよめるやうになれば尚いいのだと思はれます。ヒロシマが観光客立寄地になるやうですがただの遺跡見物に終らせたくありません。
 
そして光太郎の序が載った海外輸出版が届いた、というわけですね。
 
小倉本人に宛てたものではありませんが、宮澤賢治の父・政次郎に宛てた書簡では、このように語っています。もともと小倉は宮澤賢治の研究者で、その関連で光太郎や政次郎と面識があった人物です。
 
書簡一五五四 昭和24年(1949)3月18日(『高村光太郎全集』第十五巻)
 小倉豊文氏の「絶後の記録」が大変ひろく読まれるやうでよろこんで居ります。同氏の悲願がかなへられるやうにとおもひ居ります。
 
今年はオリンピックイヤーということで、昨日のニュースでは原爆の日の扱いが例年より少なかったように感じました。もちろん、ロンドンでの日本人選手の目をみはる活躍を報じることも大切でしょうが、やはり、日本人として、この日を風化させてはならないと思います。

今日は8月6日、広島原爆の日です。
 
光太郎が原爆に言及した文章を一篇思い出しましたので、紹介します。
 
昭和24年(1949)3月20日ナカヤジェネラル貿易会社刊行の、広島文理科大学助教授小倉豊文著『絶後の記録』海外輸出版の序文です。初版は昭和23年11月、中央社の刊行ですが、翌年に刊行された海外輸出版の序文を光太郎が書いています。また、その後中央公論社から覆刻された文庫版等にも掲載されています。画像は文庫版です。

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これもあまり長いものではありませんので全文を紹介しましょう。
 
豆ランプの光の下で小倉豊文氏の「絶後の記録」を読みをはつて私は何だか頭の中がきな臭いやうになり、自分がこんな静かな山の中の小屋に住んでゐるのをむしろ夢幻のやうにさへ感じた。翌日の夜また読みかへし、その後また読みなほして、しんから此の実感のあふれた記事の真相に心をゆすぶられた。甚だ素朴な書き方で氏自身の体験が端からつぎつぎと記録されてゆくうちに、此の火薬庫の爆発かと思つたものが、世界に於ける前代未聞の原子爆弾の爆裂である事がわかつて来る物凄さはまつたく私を戦慄させた。所謂原子爆弾症に仆れた夫人の事に筆が及ぶと殆と卒読に堪へない思がした。此の多くの無惨の死者が、若し平和への人類の進みに高く燈をかかげるものとならなかつたら、どう為よう。此の記録を読んだらどんな政治家でも軍人でも、もう実際の戦争をする気はなくなるであらう。今後せめて所謂冷たい戦争程度だけで戦争は終るやうになつてくれなければ此の沢山の日本人は犬死にになる。此本を読んで世界の人々に考へてもらひたい。
   一九四九年二月
 
戦時中には国民を鼓舞する戦争詩を書きまくっていた光太郎にとって、広島の惨状を記録したこの書は、ある意味峻烈な刃となって突きつけられたものです。
 
こうしたものを読むだにつけ、自らの戦争責任への反省の意は強くなったと思われます。
 
本当に地球上から戦争というものが無くなる日が来てほしいものです。

昨日のブログで桑田佳祐さんの「声に出して歌いたい日本文学<medley>」が収録されたアルバム「I LOVE YOU -now & forever-」を紹介しましたが、yahoo!のニュース検索でこれがらみが1件ヒットしていますのでご紹介します。 

桑田佳祐スペシャル・ベスト・アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』【music.jp】が収録曲にちなんだ「自由研究」を大募集

リッスンジャパン 7月25日(水)20時24分配信
 
 7月18日にソロワークスの集大成といえるスペシャル・ベスト・アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』をリリースした桑田佳祐。7月24日にスマートフォンでAndroidシングル、着うたフルの配信を開始する【music.jp】で、収録曲にちなんだ「自由研究」と題した投稿企画がスタートした。

『I LOVE YOU -now & forever-』に収録されている楽曲の好きな曲、思い出の曲にちなんだ投稿を大募集する「自由研究」。それぞれ絵画部門、感想文部門、写真部門を設けており各部門の優秀作品の方にはプレゼントが用意されている。

応募期間は7月24日(火)~8月31日(金)まで、桑田佳祐の楽曲と共に、楽曲にちなんだ絵を描いたり、感想文を描いたり、写真を撮影して応募しよう。

【Androidシングル】
アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』から新規配信8曲
・幸せのラストダンス
・CAFE BLEU(カフェ・ブリュ)000
・100万年の幸せ!!
・MASARU
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(上)
・祭りのあと
・波乗りジョニー
・明日晴れるかな
・銀河の星屑

【着うたフル】
アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』から新規配信8曲
・幸せのラストダンス
・CAFE BLEU(カフェ・ブリュ)
・100万年の幸せ!!
・MASARU
・Kissin' Christmas(クリスマスだからじゃない)
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(上)
声に出して歌いたい日本文学<Medley>より『汚れつちまつた悲しみに……』『智恵子抄』『人間失格』『みだれ髪』を収録。
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(中)
声に出して歌いたい日本文学<Medley>より『蜘蛛の糸』『蟹工船』『たけくらべ』を収録。
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(下)
声に出して歌いたい日本文学<Medley>より『一握の砂』『吾輩は猫である』『銀河鉄道の夜』を収録。

絵心のある方、文才のある方、写真を趣味している方、挑戦されてみては如何でしょうか?

桑田佳祐さん。日本を代表する歌手の一人ですね。彼がリーダーだったサザンオールスターズのデビューが1970年代末頃ですから、かれこれ30年以上のキャリアです。
 
サザン時代を含め、ソロ活動に入ってからもたくさんのヒットを飛ばしてきましたが、その凄いところはその地位に安住しないことだと思います。成功するかどうかはともかく、常に新しいことへの挑戦を続けている姿には頭が下がります。また、平成22年には食道がんと診断されたものの、不死鳥の如く復活。その姿にも頭が下がりました。
 
さて、そんな桑田さんの、これもまた新しいことへの挑戦の一つだったと思います。平成21年に発表した「声に出して歌いたい日本文学<medley>」。18分42秒もの長い曲です。歌詞は日本近代文学史上に燦然と輝く作品群から採っています。すなわち中原中也「汚れつちまつた悲しみに……」、太宰治「人間失格」、与謝野晶子「みだれ髪」、芥川龍之介「蜘蛛の糸」、小林多喜二「蟹工船」、樋口一葉「たけくらべ」、石川啄木「一握の砂」、夏目漱石「吾輩は猫である」、宮澤賢治「銀河鉄道の夜」、そしてわれらが高村光太郎「智恵子抄」から「あどけない話」。メドレーですので、途中で曲想がどんどん変化します。バラードあり、アップテンポあり、エスニックなアレンジも混ざり、聴くものを飽きさせません。
 
シングルCDでは平成21年に「君にサヨナラを」のカップリングとして発売されました。
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楽譜としては、翌年2月に発売された楽譜集「ギター弾き語り 桑田佳祐Songbook改訂版」に掲載されました。他の曲がだいたい4頁前後なのに対し、この曲だけ堂々の18頁。当方、ベースギターを嗜んでおりますので、CDに併せて弾いてみましたが、いや、疲れました(笑)。

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さて、この「声に出して歌いたい日本文学<medley>」を収録したCDアルバムが発売されました。過去にソロで発表した曲に加え、新曲も収録したスペシャル・ベスト・アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』。

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完全生産限定盤は3枚組で¥3,600。通常盤は2枚組で¥3,300です。

是非お買い求め下さい。

宮城県女川町がらみの記事を書きましたので、三陸と光太郎に関する記述のある書籍を引っ張り出して読んでみました。 

「詩をめぐる旅」伊藤信吉著 昭和45年12月15日 新潮社発行

  
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光太郎とも親交のあった詩人、故・伊藤信吉氏の著作です。主に近代の詩を取り上げ、その題名のとおり、日本全国に点在するそれぞれの詩の故地、いわば「歌枕」を訪れてのレポートです。60篇ほどの詩が取り上げられ、各篇4頁、光太郎に関しては「千鳥の足あと」(千葉・九十九里浜)、「国境の工事現場」(群馬/新潟・清水トンネル)、「冬の夜の火星」(東京・駒込台地)、そして「濃霧の夜の航路」(宮城/岩手・三陸海岸)です。女川の詩碑にも刻まれた「霧の中の決意」について論じています。
 
   霧の中の決意
  
  黒潮は親潮をうつ親しほは狭霧を立てて船にせまれり
 
 輪舵を握つてひとり夜の霧に見入る人の聴くものは何か。
 息づまるガスにまかれて漂蹰者の無力な海図の背後(うしろ)に指さすところは何か。
 方位は公式のみ、距離はただアラビヤ数字。
 
 右に緑、左に紅、前檣に白、それが燈火。
 積荷の緊縛、ハツチの蓋、機関の油、それが用意。
 霧の微粒が強ひる沈黙の重圧。汽角の抹殺。
 
 小さな操舵室にパイプをくはへて
 今三点鐘を鳴らさうとする者の手にあの確信を与へるのは何か。

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光太郎がこの詩を作ったのは、正確には女川ではなくもう少し北に行ってから、宮城・気仙沼から岩手・釜石にかけての8時間の夜間航海中のことだそうです。
 
北川太一先生は、近著「光太郎智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで」で、こう述べられています。
 
 釜石で改めて推敲されたという詩「霧の中の決意」は、この時光太郎が置かれていた時代と環境の中での、 深い思いに誘います。(中略)霧は実際に光太郎が三陸の海で経験したことですが、ここで自分自身にも、この詩を読む人にも問いかけているのは、自分たちが今置かれている状況、世界が戦争にまきこまれてゆこうとする、濃霧のような時代の到来の中での、生きるための決意だと言っていいでしょう。今この美しい三陸の自然や人の中にいて、その裏側で日々の身辺に確実に襲って来る、混沌とした世界。その道を歩むために、何が必要なのか、それを支える確信をどうしたら持つことができるのか。それが光太郎が問いかける問題、みずからが考え続ける問題だったに違いありません。(中略)奉天郊外で満州事変が起こったのは光太郎が三陸から帰った直後の九月十八日、翌日その第一報が臨時ニュースで放送されました。中国との十五年戦争の発端となった事件です。単に夜の海だけでなく、周囲に渦巻く世界の情勢は、どんなに光太郎の心を強く占めていたことでしょう。これらの詩を理解するためにも、夜の海での感想の底に流れる思いを感じ取るためにも、その状況を無視することは出来ません。
 
震災、原発事故、先の見えない経済不安、政治の混乱。混沌とした時代という意味では平成24年(2012)の現在も同じです。今、この時期に、光太郎がかつて同じ混沌とした時代をどのように感じ、行動していったのかを捉えることも意味のないことではないでしょう。
 
さらに光太郎に限っていえば、この時期に大きな転機を迎えざるを得なくなります。「詩をめぐる旅」から伊藤氏の言を拝借します。
 
 ガスの海で高村光太郎が崩れのない意志の歌を発想していたとき、東京本郷駒込の留守宅で異変が突発した。智恵子夫人に、精神分裂症の最初の兆候があらわれたのである。旅の途次でそのことを知らされた高村光太郎が、どれほどのショックを受けたか。愛する者が、事もあろうに精神分裂症に陥るとは! 高村光太郎と智恵子夫人の生活は、このとき音もなく暗転した。崩れのない「霧の中の決意」の詩。崩れはじめた智恵子夫人の脳髄の生理。この対照は悲劇的である。このような運命の翳りを、私どもはいかにして振払うことができるか。「三陸廻り」は高村光太郎にとって忘れることのできない旅であり、「霧の中の決意」はいわば『智恵子抄』の外篇として、二人の愛の生活を前後・明暗に境界づける詩だったのである。
 
混沌とした時代の不安、それに追い打ちをかけるような個人としての悲劇。この後、光太郎は戦争の波に翻弄され、戦後はそうした自らを恥じ、悔い、花巻の山小屋で「自己流謫」-自分で自分を流罪に断ずる処罰-を科します。
 
くり返しますが、今、この時期の我々が、光太郎がかつて同じ混沌とした時代をどのように感じ、行動していったのかを捉えることも意味のないことではないでしょう。

昨日に続き、女川の話を。
 
光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられました。たしか平成6年頃、8月の暑い盛りだったと思いますが、この碑を見に行きました。2泊3日の行程で、光太郎・智恵子の故地を巡る気ままな一人旅。1日目は二本松周辺を中心に廻り、夜になって女川に着きました。そして2日目、朝の清澄な空気の中、海岸公園で碑を見ました。
 
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中央には高さ2㍍、幅10㍍のおそらく日本最大といわれた巨大な碑。5面のプレートを配し、真ん中は明治39年、渡米に際して創られた光太郎の短歌「海にして 太古の民の おどろきを われふたたびす 大空のもと」の光太郎自筆筆跡を拡大したもの。その両脇に紀行文「三陸廻り」の女川の項が北川太一先生の筆で。さらにその外側2面は紀行文「三陸廻り」に付された光太郎自筆の挿画が、それぞれ拡大されて刻まれています。石の形は港町・女川を象徴するように、舟のようなシルエットのものを選んだとのこと。

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その真下に小さな碑が一つ。巨大な碑の中央に刻まれた光太郎短歌が独特の筆跡で読みにくいということへの配慮でしょうか、同じ短歌が活字で刻まれていました。

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公園内の少し離れた場所に、女川での体験をもとにして書かれた二つの詩を刻んだ詩碑が二つ。片方は詩「よしきり鮫」、もう一方は詩「霧の中の決意」。それぞれ光太郎が手許に残した控えの原稿から複写されたものです。

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同じ場所に4基も光太郎関連の碑が建てられたのは、ここ女川と、花巻の山小屋周辺だけです。花巻の方は、色々な碑が後から後から追加されたのに対し、女川の碑は4基同時に建立。しかも特筆すべきは1,000万円近くの建立費用の全てが、地元の個人、企業、学校等からの寄附で賄われたことです。この中には町内十数カ所に置かれた募金箱に入れられたいわば「浄財」も含みます。このような形で作られた石碑というのも非常に珍しいと思います。
 
平成18年(2006)10月14日と15日の2日間にわたり、光太郎没後50年記念・智恵子生誕120年記念ということで、東京荒川区の日暮里サニーホールにおいて「光太郎・智恵子フォーラム」が開催されました。北川太一先生の基調講演、荒川区長・西川太一郎氏、彫刻家・峯田敏郎氏、画家・長縄えい子氏、高村光太郎研究会・織田孝正氏によるパネルディスカッション、仙道作三氏作曲のオペラ「智恵子抄」公演など、盛りだくさんの内容でした。さらに「プレゼンテーション」と銘打ったタイムテーブルもあり(当方が司会でした)、7人の方がご発表なさいました。その中のお一人が女川・光太郎の会事務局長だった故・貝廣氏。「光太郎祭15回を開催して」という題でのご発表でした。「こんなに大きな石碑を作ったんですよ」ということで、マイクを握られたまま、ステージ上を走り回られていた姿が今も目に浮かびます。

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ネット上で検索してみますと、震災後の女川の惨状を撮影した画像等も見られます。廃墟と化したビル、土台だけ残った住宅、草すら生えていない荒れ地、それらにまじって無惨にも横倒しになった10㍍の光太郎碑の画像も眼にしました。その後、どこまで復興が進んでいるのか、いないのか、来月9日の女川・光太郎祭に参加し、見てきたいと思います。

宮城県牡鹿郡女川町。昨年三月の東日本大震災で20㍍を超える津波に襲われ、激甚な被害に見舞われた地です。俳優の中村雅俊さんの故郷でもあるそうです。
 
この地で平成4年(1992)から毎年、「女川・光太郎祭」というイベントが開かれています。
 
北川太一先生の近著『光太郎智恵子 うつくしきもの「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(このブログ6月24日の項参照)に詳しく書かれていますが、昭和6年(1931)夏、光太郎は『時事新報』に連載された紀行文「三陸廻り」執筆のため、約1ヶ月の行程で三陸地方を旅しています。女川にもその際に立ち寄りました。
 
光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられました。地元有志の方々が中心となって立ち上げた「女川・光太郎の会」が設立母体です。碑については明日のブログで詳しくご紹介します。

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翌平成4年(1992)から毎年8月9日(光太郎が三陸へ旅立った日)に、その海岸公園を会場にして「女川・光太郎祭」というイベントが開かれています。ほぼ毎年、北川太一先生によるご講演があったり、地元の方々による合唱や朗読、連翹忌常連のオペラ歌手・本宮寛子さん、シャンソン歌手・モンデンモモさん、ギタリスト・宮川菊佳さんらのアトラクションなどで、おおいに盛り上がっていたとのことです(当方、女川には行ったことがありますが、光太郎祭には参加したことがありません)。

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平成14年(2002)には、それまでの北川先生のご講演の筆録が一冊の本にまとまりました。約400頁の堂々たるものです。

「高村光太郎を語る-光太郎祭講演-」北川太一著 平成14年4月2日 女川・光太郎の会発行

非売品ですが、時折古書店サイト等で見かけます。是非お読み下さい。

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これらの活動の中心となって獅子奮迅の活躍をなさっていた女川・光太郎の会事務局長の貝(佐々木)廣氏。やはり連翹忌の常連でしたし、他のイベント等でもご一緒させていただいたことがありました。ものすごい行動力と、繊細な気づかいの心を持ち合わせた方でした。「でした」と、過去形にしなければならないのが残念です……。
 
震災直後、東北地方沿岸が激甚な被害に見舞われたということで、北川先生をはじめ、仲間うちで貝氏の消息について情報収集に努めましたが、なかなか消息がわかりませんでした。一度はネット上で避難所に入った方のリスト(手書きコピーのPDFファイル)にお名前を見つけ、安心したのですが、よく見るとお名前の上にうっすらと横線。単なる汚れなのか、それとも抹消されたということなのか、前者であって欲しいという願いも虚しく、津波に呑み込まれたという報が届きました。それでもまだどこかでひょっこり生き延びていられるのではと、一縷の望みを持っていましたが、やがて、ご遺体発見の報。ショックでした……。
 
テレビやネットで女川の惨状を見るにつけ、心が痛みました。しかし、事実を認めたくなくて、女川には足が向きませんでした。自分の中では、女川は豊かな緑に囲まれた美しい港町、そこに行けば貝氏が元気な笑顔で迎えて下さる街、そのままの姿で取っておきたいという思いでした。
 
昨夏、数えてみれば20回目の女川・光太郎祭。例年届いていた案内状も来ず、「もはや光太郎祭どころではないのだろう」と思つていました。しかし、あにはからんや、会場こそ女川第一小学校に移ったものの、しっかりと第20回女川・光太郎祭が開催されたとのこと。人間の持つ、逆境に屈しないパワーを改めて感じました。

さて、今年も第21回の女川・光太郎祭が開催されます。女川・光太郎の会の皆さん、さらには北川先生が高校教諭をなさっていた頃の教え子の皆さんの集まりである北斗会の方々のお骨折りです。
 
期日は例年通りの8月9日(木)。会場は女川の仮設住宅だそうです。15:00から北川先生のご講演。会場を移し、18:30から石巻グランドホテルにて懇親会。当方、北斗会の皆さんが手配して下さいまして、当日朝7時に池袋から貸し切りバスが出ますので、それに便乗します。帰着は翌10日の夕方です。お近くの方、そうでない方も御都合のつく方は、ぜひご参加ください。連絡をいただければ取り次ぎは致します。

2日続けて既に他の雑誌等に発表された文章が「転載」されている例を紹介しました。「転載」がらみでは他にも色々なケースがあります。
 
具体例を挙げましょう。
 
『高村光太郎全集』第19巻には「ツルゲーネフの再吟味」という短い文章が載っています。これは昭和11年(1936)、六芸社から発行された『ツルゲーネフ全集』新修普及版の内容見本(広告的な冊子)から採録したものです。ところがその後、遡ること2年、昭和9年(1934)に発行された『ツルゲーネフ全集』のオリジナル版の内容見本を発見しました。こちらにも光太郎の「ツルゲーネフの再吟味」が掲載されています。
 
それだけなら、『高村光太郎全集』の解題を訂正すればいいだけの話です。前回紹介した「天川原の朝」などと同じパターンです。ところが、オリジナル版と新修普及版、それぞれを読み比べてみると、オリジナル版の方が長いのです。つまり新修普及版の内容見本に転載(というか再録)する際に、オリジナル版の内容から一部をカットしているわけです。こうなると、優先されるのはカットされる前のオリジナル版の方ということになります。そこで、平成18年(2006)発行の「光太郎遺珠」②に全文を掲載しました。
 
こういう例は他にもあります。
 
昭和28年(1953)6月1日発行の『女性教養』第173号という雑誌をネットで入手しました。光太郎の「炉辺雑感」という長い散文(講演の筆録)が載っており、当方作成のリストに載っていなかったからです。さて、手許に届いて早速読んでみましたところ、読み進めていくうちに、「あれ、これ、読んだことあるぞ」と気づきました。出てくるエピソード-その昔、キリスト教に興味を持ちながらどうしても入信に踏み切れなかった話、花巻の山小屋での農作業の話など-が記憶に残っていました。「ちっ、転載か」と思い、調べてみると、『全集』第10巻所収の『婦人公論』第37巻第6号に載った「美と真実の生活」という題名の講演会筆録と内容がかぶっています。ところがこれも、今回入手した『女性教養』の「炉辺雑感」の方が長いのです。『婦人公論』の「美と真実の生活」は、『女性教養』の「炉辺雑感」を換骨奪胎し、7割程の長さに圧縮してあることが分かりました。不思議なことに、両方とも昭和28年(1953)6月1日発行です。まあ、実際に店頭に並んだのは奥付記載の発行日通りではないかも知れませんが。これなどはちょっと変わったケースです。「炉辺雑感」、来年4月発行予定の『高村光太郎研究34』に所収予定の「光太郎遺珠」⑧に掲載予定です(「予定」ばかりですみません)。

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また、「転載」の結果、ほとんど別の作品に変わってしまっている、という例もあります。
 
よく知られている有名な詩「道程」。たった9行の短い詩ですが、大正3年3月、雑誌『美の廃墟』に発表された段階では102行もある長い詩でした。それが8ヶ月後に詩集『道程』に収められた段階ではばっさりと削られ、たった9行に。こうなるとほとんど別の作品といっていい程の改変です。詩の場合、あまりに変えられたものは『全集』第19巻に「初出・異稿」として改変前のものもまとめて載せられています。散文でもこういうケースがあり、転載された前後で、同じ題名で内容的にも同じ、しかし細かな言い回しを含め、100カ所以上の異同などというものもあります。こうなると、次に『全集』が編纂される際には双方を掲載しなければならないかもしれません。
 
このように基礎テキストの校訂すらまだまた途上の状態です。しかし、光太郎程の人物が書き残したもの、出来る限り完全に近い形で次の世代へと受けついでいく努力は続けていきたいと思っています。

今月末に続々出た光太郎関連新資料、第3弾が昨日また届きました。一日ごとに届いています。

爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言

TBSラジオ編 TBSサービス刊 平成24年6月25日 定価1,365円

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現在、TBSラジオで日曜日の午後にオンエアされている番組、「爆笑問題の日曜サンデー」の中に、「27人の証言」というコーナーがあります。これは有吉佐和子の小説「悪女について」になぞらえて、著名人や場所、ものにまつわる証言を集めて、今まで語られなかったエピソードを紹介するというコンセプトです。
 
 「悪女について」はインターネットサイト「フリー百科事典ウィキペディア」によれば、「女性実業家・富小路公子が突然、謎の死を遂げる。公子は持ち前の美貌と才能を駆使して、一代で財を成した一方で数々のスキャンダルを起こしたことから、マスコミからは「虚飾の女王」「魔性の女」などと悪評を書きたてられていた。物語は、そんな公子と関わった人物27人へのインタビューを綴ったものである。」とのこと。
 
「27人」というのはここからとったもので、実際には毎回5人前後の「証言」で構成されています。第1回の放送は平成20年4月。今までに150回ほどの回を重ねています。
 
その約150回の中から、15回分をえりすぐって書籍化したのがこの本です。平成21年(2009)4月5日オンエアの「高村光太郎」も含まれています。他に紹介されているのは手塚治虫、甲子園、松田優作、石ノ森章太郎、藤田嗣治、東京オリンピック、阿佐ヶ谷、夏目雅子、岡本太郎、上野動物園、阿久悠、今村昌平、太宰治、有吉佐和子。
 
光太郎の部は5人の証言、合間合間の爆笑問題のお二人のトークから成っています。TBSアナウンサー 長峰由紀氏/父から母へ送られた『智恵子抄』、元日本詩人クラブ会長 寺田弘氏/『自分の家が燃えるってのはきれいなもんだね』、北川太一先生/目上の人でも下の人でも同じ態度の人、高村光太郎記念会理事長 高村規氏/生証言、そして当方の証言・「光太郎の足は三十センチあった!?」。「真面目な」証言は諸先輩方に任せ、当方は番組的な流れを考え、小ネタで攻めました(笑)。
 
オンエアの際には元埼玉県東松山市教育長で光太郎と親交のあった田口弘氏の証言もありましたが、書籍ではカットされています。
 
本書、当初は4月に刊行の予定で、3月はじめに制作会社から連絡があってゲラの確認等をしたのですが、刊行がずれこみました。4月に入ってからは「まだか、まだか?」とやきもきしていましたが、何はともあれ無事刊行されてひと安心です。15回分で100人超の証言が載っていますので、掲載許可等の手続きが大変だったのではないでしょうか。たくさんの人の証言を集めるというコンセプトについては、本書前書きにパーソナリティーを務める爆笑問題のお二人の談話として、「放送作家を何十人もタダで雇ってるみたいなものでありがたい。」というくだりがあります。我々証言者、なんだか上手くのせられているなと笑ってしまいました。実際、オンエアに関しても、出版に関してもノーギャラですし。
 
しかし、約150回分の放送の中から書籍に選ばれたのが15回分。そこに光太郎が入ったのは嬉しい限りです。
 
さて、メジャーどころの爆笑問題のお二人の書籍ですので、一般の書店でも平積みで並ぶのではないかと思います。是非お買い求め下さい!

今月末に続々刊行の光太郎関連新資料、第2弾が昨日また届きました。この世界の第一人者、北川太一先生の新刊です。
二玄社 高村光太郎/北川太一著 平成24年6月20日 定価1,600円+税

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昭和6年(1931)、光太郎は新聞社・時事新報社の依頼で、約1ヶ月かけて、石巻から金華山、女川、気仙沼、釜石、そして宮古までをほぼ航路で旅し、紀行文「三陸廻り」を執筆しています。また、戦後、花巻郊外の山小屋で、雑誌『すばる』に「みちのく便り」という文章を断続的に連載しています。
 
本書は東北を描いたその二つの作品を軸に、同時期や二つをつなぐ時期の光太郎詩文を紹介しつつ、光太郎、さらには智恵子の内面を考える試みです。著者が「高村光太郎/北川太一」となってるのは、そういうわけです。
 
昨年の秋でしたか、千駄木の北川先生のお宅にお邪魔した際、この書籍に話になり、「なかなか進まなくて……」とぼやかれていたのを思い出します。ここ数年、手術を受けられたり、おみ足の調子もよろしくないとのことで、出歩くこともほとんどないとのことですし、御手紙には「毎日リハビリで……」というようなことも書かれています。そんな中、ついにこの書籍が刊行されたということで、我が事のように喜んでおります。
 
後にまた書きますが、ここで取り上げられた「三陸廻り」が縁で、彼の地での光太郎顕彰活動も湧き起こりました。しかし、ご存知の通りの昨年の大震災での大きな被害。顕彰活動の中心になっていた方も、あの津波に呑み込まれ、亡くなりました。そうした経緯をふまえ、北川先生は「あとがき」でこのように書かれています。
 
 光太郎の目に映り、心に残った三陸は、ことに今度の3.11の災害の後では、もうこれを読む人々のこころの中にしかありません。しかしそれは無くしてもいいものでしょうか。過去の度重なる災害から不死鳥のように蘇ったかけがえのないこの風土と人情は、更に純化され再生されなければなりません。
 
まさしくその通りだと思います。

過日のブログで、今月末には光太郎関連の新資料が続々出る旨書きました。その第一弾です。注文しておいたのが昨日届きました。朗読のCDです。 

永遠に残したい日本の詩歌大全集(5) 高村光太郎・萩原朔太郎詩集

平成24年6月20日 ポニーキャニオン 定価¥2,000
 
俳優の小林稔侍さんによる朗読です。「永遠に残したい日本の詩歌大全集」全10巻のうちの5巻目で、光太郎と萩原朔太郎の詩、それぞれ20篇余りが収録されています。ジャケット(といっていいんでしょうか、CDの場合)には取り上げられている詩の全文と、作家下重暁子氏の解説も載っています。光太郎の部のラインナップは以下の通り。
 
 1.根付の国
 2.父の顔000
 3.冬が来る
 4.冬が来た
 5.道程
 6.秋の祈
 7.クリスマスの夜
 8.落葉を浴びて立つ
 9.ぼろぼろな駝鳥
 10.秋を待つ
 11.母をおもふ
 12.当然事
 13.最低にして最高の道
 14.美しき落葉
 15.僕等
 16.樹下の二人
 17.あどけない話
 18.風にのる智恵子
 19.値ひがたき智恵子
 20.山麓の二人
 21.レモン哀歌
 22.荒涼たる帰宅
 23.裸形
 24.雪白く積めり
 25.月にぬれた手
 
小林稔侍さん独特の、やや無骨な訥々とした語り口で、聴いていて心地よいものでした。
 
小林稔侍さんといえば、平成3年(1991)11月9日にNHK総合で放映された単発のドラマ「極北の愛 智恵子と光太郎」(脚本・寺内小春)に出演、東京駒込の光太郎アトリエの隣で炭屋を営む「岩吉」という架空の人物を演じられました(アトリエの隣は実際には植木屋さんだったそうですが)。

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ドラマはその岩吉が、昭和24年、吹雪の夜に光太郎が住む花巻の山小屋を訪れるところから始まります。ちなみに光太郎役は小林薫さん。岩吉は昔からの習慣で、光太郎を「若先生」と呼びますが、光太郎ももう老齢です。「若先生」に対しての「大(おお)先生」は、故・佐藤慶さん演じる光雲です。他の主なキャストは智恵子が佐久間良子さん、田村俊子が小野みゆきさん、智恵子の最期を看取った姪の春子が喜多嶋舞さん、岩吉の奥さんが高橋ひとみさん、森鷗外に渡辺篤史さん。
 
ドラマは光太郎と岩吉、二人が昔を回想するという手法で進みます。両小林さん、いい演技をしていました。特にラスト近くの二人の会話は圧巻です。

岩 吉 すごいもんですねェ、惚れるってのは。……女にはかなわない。……人間商売やめちまう位、男に惚れることが出来るんだから……男はとてもかなわないね。

光太郎 僕は智恵子の事を詩に書いたが……どれだけ智恵子という女をわかっていたのか……。

岩 吉 あの御本は、智恵子奥様お一人だけに見せておあげになればよかったですね……。奥様はいつも若先生だけを見て生きておられたから……。

光太郎 ……。

岩 吉 お二人のことはお二人だけの心の中にそっとしまっておきたかったんじゃないですかね、奥様は。

光太郎 ……。

岩 吉 でも、あれを書いて若先生の御心が安まったことを奥様は喜んでいらっしゃいますよ、きっと。

光太郎 (呟く)智恵子に聞いてみよう。……多分もうすぐ行けるから。(微笑と咳)

岩 吉 (光太郎を見る)……。
 
ちなみにこのシーン、当方が入手した台本では「シーン121・山小屋・内」となっていますが、実際の放送を録画した映像で確認してみますと、山小屋の外で頭や肩に雪を積もらせながらの会話となっています。演出家などのスタッフの発案なのか、俳優さんの発案なのか、おもしろいところです。
 
さて、今回の朗読CD、amazonなどのオンライン販売で容易に手に入りますので、是非お求め下さい。
 
続々出る光太郎関連新資料、また届き次第ご紹介します。

今週いただいた新刊資料2冊を紹介します。奇しくも双方とも、今年亡くなった吉本隆明氏に関連するものです。
ご存知の方も多いかとは思いますが、氏は昭和三十年代から光太郎を論じはじめ、その論評が未だに我々研究者のバックボーンの一つとなっています。 

資料集 永瀬清子の詩の世界

赤磐市教育委員会編 平成24年(2012)3月31日 赤磐市教育委員会熊山分室 非売品?

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岡山県から届きました。光太郎と親交のあった詩人、赤磐市ゆかりの永瀬清子に関する資料です。以前、「遺珠」①にて永瀬宛光太郎書簡を御遺族の方を通じてご提供いただいたりしたご縁です。ありがたいことです。
光太郎の名は出て来ませんが、光太郎が序文を執筆した詩集『諸国の天女』に触れる部分等があります。
目次を抄録します。
 
 永瀬清子講演録「のびゆくひと」
 永瀬清子の詩の世界-焔に薪を 石原武
 永瀬清子の詩の世界-私は地球 吉本隆明
 対談 感覚をもとめつつ労働する 井坂洋子 伊藤敏恵
 永瀬清子の詩の世界-光っている窓 谷川俊太郎 山根基世
 永瀬清子の詩の世界- 西本多喜江
 
吉本氏をはじめ、錚々たるメンバーです。吉本氏が永瀬清子にも目を向けていたというのは、当方、寡聞にして存じませんでした。
 
それにしても、地方の一教育委員会が、地元の詩人についてこのようにしっかりと顕彰事業を行っているというのが素晴らしいと思います。当方の持論で、あちこちで同じようなことを書いたり喋ったりしていますが、どんなにすぐれた芸術作品でも、後の時代の人間がその価値を正しく理解し、次の世代へと受けつぐ努力をしなければ、やがては歴史の波の中に埋もれてしまうものです(光太郎も例外ではありません)。そういった意味では、赤磐市の取り組みは、そうはさせまいという意気込みが伝わってきます。 

雑誌『春秋』539号

春秋社 平成24年(2012)5月25日 定価71円

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当会顧問・北川太一先生から頂きました。先生の玉稿「死なない吉本」が紙面を飾っています。
 
北川先生と吉本氏は戦争を挟んだ数年間、東京府立化学工業学校・東京工業大学で机を並べ、互いのお宅を行き来する仲だったとのこと。もちろんそこには「光太郎」という共通項があったわけです。
 
これまでに発表された追悼談話の数々は、氏を半ば神格化しつつあるかと思います。確かに当方などにとっては雲上人ですし、もう少し前の世代のある立場の人々にとっては、北川先生も引用なさっている通り「日本の英雄」的な扱いも無理からぬことです。しかし、それを「「よせやい!」という彼一流の苦笑いさえ見えるようだ。」と評するあたたかな北川先生の眼差しが感じられます。
 
さて、このブログを書いている今日、これから一寝入りして国会図書館経由で福島・二本松に向かいます。

昨日入手した新刊資料を紹介します。 

 関川夏央 NHK出版 平成24年(2012)5月10日

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新刊です。新書判で、これなら近所の書店で並んでいるだろうと思っていましたが、意外と新書判の品揃えはあまり多くなく、隣の成田市の大きな書店でようやく見つけました。少し前に「新書ブーム到来か?」などといわれ、新規に参入する出版社が相次ぎましたが、現実には地方の書店ではなかなか入荷されません。昨日やっとみつけたものも、ついているはずの帯がついていませんでしたし、これが地方の現状です。
 
カバーに書かれた紹介文です。「日露戦争に勝利した一九〇五年(明治三十八)、日本は国民国家としてのピークを迎えていた。そんな時代を生きた著名文学者十二人の「当時」とその「晩年」には、近代的自我の萌芽や拝金主義の発現、海外文化の流入と受容、「表現という生業」の誕生といった現代日本と日本人の「発端」が存在した――。いまを生きる私たちと同じ悩みを持ち、同じ欲望を抱えていた「彼ら」に、現代人の祖形を探る、意欲的な試み」。
 
ちなみに12人は森鷗外、津田梅子、幸田露伴、夏目漱石、島崎藤村、国木田独歩、高村光太郎、与謝野晶子、永井荷風、野上弥生子、平塚らいてう、石川啄木です。
 
著者の関川氏は文芸評論、ノンフィクションなどを幅広く手がけ、平成10年(1998)には氏の原作、谷口ジロー氏作画の連作漫画『「坊ちゃん」の時代』で第2回手塚治虫文化賞を受賞されています。
 
『「坊ちゃん」の時代』は「凛烈たり近代 なお生彩あり明治人」をテーマに、「明治」という時代と格闘したあまたの文学者を描く群像ドラマです。完結までに10年を要した大河作品で、第1部が出た昭和62年には「漫画もここまで来たか」と驚いたことを覚えています。その後、同じような系列の作品がいろいろな方によって作られるようになりました。その意味では嚆矢です。
ラインナップは以下の通り。

 第1部「「坊っちゃん」の時代」 夏目漱石
 第2部「秋の舞姫」 森鷗外
 第3部「かの蒼空に」石川啄木
 第4部「明治流星雨」幸徳秋水
 第5部「不機嫌亭漱石」夏目漱石
 
第5部で明治43年(1910)の漱石の「修善寺の大患」を描き、「明治」の終焉が描かれましたが、「明治」を引きずり続けた「明治人」ということで、光太郎を主人公にした第6部を作ってくれないかな、などと思っていました。
 
その願いは叶いませんでしたが、本書が「「明治」を引きずり続けた「明治人」」を描くというコンセプトにもなっているようです。先に名前を挙げた12人の多くが「「坊ちゃん」の時代」に登場しています。
 
実は昨日買ってきて、まだ読んでいません。明日から1泊で福島二本松に参りますので、道中、新幹線の車内で読もうと思っています。
 
さて、「新刊」ということになると、今月末には楽しみにしていた光太郎関連の新刊が続々刊行されます。それぞれ手元に届いたら紹介しましょう。

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