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まず先月の話ですが、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』7月15日号。「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」という連載で、光太郎の書が取り上げられました。
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常設展示資料『非常の時』の書 医療への尽力を讃(たた)えた詩

 彫刻家で詩人の高村光太郎。昭和20(1945)年の東京大空襲により、生前から親交のあった宮沢賢治の実家を頼り花巻に疎開しましたが、同年8月10日の花巻空襲で再び焼き出されます。
 同年8月15日、終戦の玉音放送を聞いた光太郎は『一億の号泣』という詩を発表。同年9月5日に花巻病院(現・総合花巻病院)職員および付属看護婦学校生徒の花巻空襲救護活動に対する表彰式では、『非常の時』を祝辞に代えて次のように朗読しました。

非常の時 人安きをすてて人を救ふは難いかな
非常の時 人危きを冒して人を護るは貴いかな
非常の時 身の安きと危きと両つながら忘じて
ただ為すべきを為すは美しいかな007
(中略)
この時従容として血と肉と骨とを運び
この時自若として病める者を護るは
神にあらざるわれらが隣人
場を守つて動ぜざる職員の諸士なり
神にあらずして神に近きは
職責人をしておのれを忘れしむるなり
われこれをきいて襟を正し
人間時に清く
弱きもの亦時に限りなく
強きを思ひ
うちにかくれたるものの高きを
凝然としてただ仰ぎ見るなり

 困難な医療への尽力を讃える内容は、現在の新型コロナウイルス感染症に取り組む医療関係者へも時代を超えて送られたメッセージであるともいえるでしょう。

問い合わせ 高村光太郎記念館 ☎28-3012

花巻高村光太郎記念館さん所蔵で、自らの危険を顧みず、負傷者の看護に当たった花巻の医療関係者を讃え、その表彰式で贈られた詩「非常の時」の書を紹介して下さっています。

昨年、地方紙『岩手日報』さんが「「非常の時」共感呼ぶ 高村光太郎が花巻空襲後に詩作 勇敢な医療者たたえる」という記事を載せて下さいました。その前後、あちら方面では「非常の時」が「コロナ禍と闘う医療従事者の姿に重なる」と話題になり、各種メディアで取り上げられました。


コロナ禍の方は、ここへ来て感染爆発の様相を呈してきました。そこに立ち向かう「神にあらざる」医療従事者の皆さんの奮闘ぶりには、まさに頭が下がります。

もう少しの辛抱だ、と、願いたいものです。

もう1件。

北海道で開催されていた書展「第一回 土井伸盈 書の個展 挑戦。――ここから」。『毎日新聞』さんの全国版文化面、書道コーナーで8月12日に、他の書道展と共に紹介されました。

書の世界

 「第一回 土井伸盈 書の個展 挑戦。―ここから」(15日まで、北海道深川市アートホール東洲館)は、創作へのやみがたい衝動が放射する構成。土井さんは81年、同浦臼町生まれ。辻井さんに師事。私立北海高校勤務。毎日書道展会員。
 「正直な涎を持った……」(高村光太郎)▽「悪口ひとつも……」(中島みゆき)▽「悪口ってやつはな……」(倉本聰)など、さまざまな出典や書体、文字数の作品から広大な書の世界に挑む書人の決意が伝わる。

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光太郎詩「牛」(大正2年=1913)の一節を書かれた書がサムネイルに。

今年は丑年と云うことで、この詩も多方面で注目されました。

「良い年願い「丑」揮毫 札南高生、28日からオンライン配信」。
牛はのろのろと歩く 『中日新聞』・『神戸新聞』。
さまざまな場面で「牛」。
「冬の言葉」/「冬」/「牛」。


長大な詩ですが、「牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く」、「牛は力一ぱいに地面を頼って行く/自分を載せている自然の力を信じきって行く/ひと足、ひと足、牛は自分の力を味わって行く」といった内容です。

コロナ対応も、牛のように、たとえのろくとも一歩一歩確実に、進んで行ってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

夜中秋名月。月さえ渡る。夜半に一度曇りて村雨がふる。


昭和23年(1948)9月17日の日記より 光太郎66歳

中秋(仲秋)の名月は、旧暦8月15日。旧暦と新暦は年によって1ヵ月から1ヵ月半くらいズレが生じますが、この年はこの日だったのですね。ちなみに今年は9月21日(火)だそうです。

さらにちなみに、最愛の妻・智恵子が亡くなった昭和13年(1938)は、智恵子の葬儀が行われた10月8日だったとのことで、その日の様子を謳った詩「荒涼たる帰宅」は、「私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。/外は名月といふ月夜らしい。」と結ばれます。

一昨日・8月20日(金)は、光太郎詩集『智恵子抄』が刊行されて80年の節目でした。
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その関係で、智恵子の故郷・福島二本松で、智恵子顕彰活動に当たられている「智恵子のまち夢くらぶ」さんが、様々なイベントを計画していましたが、やはりコロナ禍収束せずということで、そのうちの2つを中止するという連絡が届きました。

中止となったのは、10月に予定されていた「「智恵子抄」安達太良キャンプ」、11月の「第2回全国「智恵子抄」朗読大会」。このうち、前者では、当方、パネルディスカッションのパネラーをを頼まれておりました。
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残念ですが、致し方ありますまい。

同時に企画されていた、「「智恵子抄」総選挙」については、予定通り実施するとのことでした。

その辺にもからめた記事が、8月17日(火)の地方紙『福島民友』さんに大きく出まして、そのコピーも同封されていました。WEB上にアップされていない記事でしたので、存じませんでした。

美求める同志 生きた証し 高村光太郎「智恵子抄」 読み継がれ80年

 詩人、彫刻家の高村光太郎の詩集「智恵子抄」が出版され、20日で80年になる。詩集の主題となった妻智恵子の地元二本松市では、詩集から「推し」作品を募るなど記念事業が進行中だ。時の試練を経て今もなお人々を魅了する詩集は、現代に何を語りかけるのか。節目にひもといてみたい。
 「智恵子抄」は1941(昭和16)年8月20日、龍星閣から出版された。智恵子が精神を病んだ末に亡くなったのは38年10月5日。光太郎は当初刊行に乗り気ではなかったが、版元の澤田伊四郎が説得。光太郎自ら智恵子との恋や生活、病と死、その後も募る思いを歌った詩を抄出し配列、構成したとされる。
 「二人が知り合ってからの全生涯を貫く、これは稀有(けう)な愛の詩集である」。光太郎と親交のあった詩人草野心平が新潮文庫版(56年)に寄せた一文だ。妻をいちずに切々と歌い上げた詩集は夫婦の「純愛」というイメージで語られ、映画やドラマの題材、結婚祝いの品となるなど広く親しまれた。

「純愛」に異議
 一方、この詩集を手放しに“美しき相聞歌”とする理解には、光太郎の資質だけでなく、性の問題や二人が生きた近代という時代など、さまざまな観点から異議が唱えられた。評論家の吉本隆明は光太郎による智恵子の美化、無機質化を指摘。肝心の「愛」に至っては「高村の一人角力(ずもう)」と辛口だ(「高村光太郎」)。
 文学批評の中でも、特に70年代ごろから盛んになったフェミニズム批評は女性を巡る表現や歴史的状況に着目。詩集の解釈に新たな側面を切り開いた。封建的価値観が息づく一方、自我の目覚めを促した近代。当時の女性教育の最高学府・日本女子大を卒業、画家を志した智恵子は時代の最先端を行く「新しい女」と目された。女性解放運動の先駆けとなる雑誌「青鞜(せいとう)」創刊号の表紙絵を手掛けたことでも知られる。
 論者は、光太郎という強烈な個性との出会い、芸術に懸ける生活と現実の隔たり、実家の没落、既成の抑圧的な男女関係の構造など、智恵子がその精神を破綻させる道筋を跡付けた。「光太郎は、その痛ましい智恵子の悲劇から眼(め)をそらさず、真正面から受けとめた。『智恵子抄』はその証し」とする理解(駒尺喜美「高村光太郎のフェミニズム」)はそうした成果の一つだ。
 加えて、智恵子を「無垢(むく)の象徴」とし「男女の性愛を崇高な愛の型に変える思想操作」を読み取る解釈(水田宗子「ヒロインからヒーローへ」)、詩集を理想化「精霊化」された智恵子の「殉教」の書とする刺激的な論も出された(黒沢亜里子「逆行の智恵子抄」)。

「破綻は運命」
 記念事業に取り組む「智恵子のまち夢くらぶ」代表の熊谷健一さん(70)が詩集と出合ったのは高校1年の時。「偽らざる第一印象」は「こんな純粋な愛が世の中にあるはずがない」。「作品が美しすぎて信じられなかった。反抗期だったのかな」と笑う。88年の智恵子没後50年事業に携わったのを機に再び詩集と向き合い、いまやライフワークとなった。
 熊谷さんは、光太郎と智恵子の関係を「男女というより同志。互いに美を求めた求道者」と捉える。「二人は理想を現実の修羅場で実現しようとした。生活は目的ではなく手段で、破綻は運命」と熊谷さん。それでも「授かった命を燃焼させ、矛盾や葛藤の中、懸命に生き抜く人間の姿を詩集は示している」と語る。
 光太郎は「智恵子抄その後」のあとがきに「『智恵子抄』は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた」と記した。摩擦に生きる苦しみか、同志を亡くした喪失感か。その意味を光太郎は書いていない。だが、光太郎が人々の心をつかむ詩を残し、病床の智恵子は美しい紙絵を残した。二人が芸術に命を燃やしたのは確かだ。

一番好きな作品「総選挙」 二本松で記念事業
 「智恵子のまち夢くらぶ」は「智恵子抄」出版80年記念事業として、龍星閣出版の「智恵子抄」「智恵子抄その後」収載の36作品から「心に響く一番好きな作品」を投票してもらう「総選挙」を実施中だ。
 投票方法は、はがきに作品名と選んだ理由(100字以内)、住所、氏名、年齢、電話番号を記し、智恵子記念館(郵便番号969-1404、二本松市油井字漆原36)へ郵送する。締め切りは10月31日。二本松市市民交流センターにある専用投票用紙、投票箱でも受け付けている。
 開票結果の発表は、11月21日開催予定の大2回全国「智恵子抄」朗読大会の席上で行う。投票者の中から抽選で80人に記念品を贈る。問い合わせは代表の熊谷健一さん(電話090・7075・6742)へ。


「総選挙」、まだ応募が少ないとのことでした。奮ってご応募下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜銀河明瞭に見えはじめたり。夜明けは冷える。蚊帳の中にて毛布を重ねる。

昭和23年(1948)8月31日の日記より 光太郎66歳

「銀河」は天の川でしょう。「光害」などとは無縁だった、花巻郊外旧太田村の初秋の夜、美しく見えたはずです。

昨年から引き続き、コロナ禍による毎年恒例のイベント等の中止が相次いでいます。そうなると、こちらで勝手に「今年も中止だろう」と思い込んでいたものの、実は開催されていた、というケースもありまして、こちらがそうでした。

年に一度の、古書業界最大の市(いち)、七夕古書大入札会。出品物全点を手に取って見ることができる下見展観が、神田神保町の東京古書会館さんを会場に行われています。

昨年は中止だったのですが、今年は規模を縮小して開催されていました。下見展観が7月2日(金)・3日(土)、入札が4日(日)でした。
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終わってから気づき、目録を送付していただきました。届いてびっくり、例年の半分程の厚さで、それだけ出品点数が少なかったというのがそれだけで分かりました。光太郎に関しても、複数の出品がありましたが、特に目新しいものは無く、下見展観に行く必要はありませんで、その意味では助かりました。

一応、こんなものが出品されていたということで、御紹介します。

まず、詩集『道程』初版本(大正3年)。
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カバーは無く、背に少し痛みが見られます。入札最低価格が10万円。まぁ、妥当なところです。

あとは肉筆もの。出品番号順に紹介します。

昭和19年(1943)に書かれた、臼井喜之介詩集『望南記』の序文。少し前に東京都古書籍商業協同組合のサイト「日本の古本屋」に出ていたような気がします。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第8巻に所収されています。
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詩「突端に立つ」(昭和17年=1942)他四篇の詩稿。昭和19年(1944)に刊行された『歴程詩集2604』のための浄書稿で、他に「或る講演会で読んだ言葉」(同)、「朋あり遠方に之く」(昭和16年=1941)、「三十年」(昭和17年=1942)の四篇です。一昨年も出品されていました。
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光太郎の父・光雲の高弟だった加藤景雲宛の書簡(明治33年=1900)。こちらは現在も「日本の古本屋」に出品されています。

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最後に、これだけは「おっ」と思ったのですが、和歌山在住だった詩人・編集者の東正巳にあてたハガキがごっそり21通。
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これも以前にまとめて売りに出た経緯があります。そこで、東宛の書簡は戦後の花巻郊外旧太田村時代のものが『高村光太郎全集』に29通掲載されていますし、『全集』完結後に発見し、当方編集の「光太郎遺珠」に載せたものが4通あります。画像から判別できるものは、ほぼすべてこれらに含まれていました。ただし、可能性は低いのですが、一枚一枚精査すれば、全集等に洩れているものも絶対にないとは言えない、という気もしました。

ちなみについ最近も、ネットオークションで東宛の光太郎葉書が1枚、出ていました。これも『全集』収録済みのものでしたが。

東は和歌山で『海原』という文芸同人誌的なものを主宰しており、光太郎は「早春の山の花」(昭和23年=1948)という散文を寄稿しました。他に、光太郎から東宛の書簡も誌面に何度も掲載されています。

そういう意味では既知のものではありますが、内容的には興味深い記述を含む書簡群です。旧太田村で蟄居生活を送っていた当時の光太郎は、きちんとした「作品」として彫刻を発表することはありませんでしたが、手すさびというか、腕を鈍らせないための鍛錬というか、そんな感じで小品を制作していたらしいことが、東宛の書簡群から垣間見えるのです。

東は光太郎に、彫刻材として椿の木片や、珊瑚の一種である「ヤギ」というものを贈り、その礼が書かれていますし、光太郎は東に、標本というか、死骸というか、ともかくクマゼミを送ってくれるよう依頼し、東もそれに応えて送っています。そして光太郎、「これを彫るのが楽しみです」的なことを礼状に書いています。

残念ながら、そうして彫られた蝉は現存が確認できていませんが、詩人の竹内てるよや、地元ご在住で光太郎の山小屋によく行っていた浅沼隆氏は、山小屋で蝉を見た、という証言をされていますし、光太郎の短歌にも「太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは」(昭和21年=1946)というものがあり、あながちフィクションではなさそうです。

どこからか、戦後の蝉がぽろっと出て来ないものかと、期待してはいるのですが……。

【折々のことば・光太郎】

午后郁文集(写真アルバム)を熟覧。中々興味あり。文化人の顔面、概してせせこまし。写真といふものの美の限界をおもふ。


昭和23年(1948)8月24日の日記より 光太郎66歳

『郁文集』は、写真家の吉川富三が撮った各界有名人のポートレート集。正式な出版は昭和37年(1962)でしたが、この頃には原型が出来上がっていたらしく、吉川は光太郎に写真を撮らせてくれるようお願いしがてら、これを見本として送っていました。

光太郎の写真嫌いは比較的有名ですが、翌月には、山小屋を訪れた吉川の撮影に応じています。

今年刊行され、このブログでご紹介した書籍の書評で、新聞各紙に載ったもののうち、光太郎、光雲の名を出して下さったものをご紹介します。

まず、手前味噌で恐縮ですが、『読売新聞』さんから。

[記者が選ぶ]7月25日 遺稿「デクノバウ」と「暗愚」・追悼/回想文集 北川太一著、小山弘明・監修、曽我貢誠・構成

001 昨年1月に死去した、高村光太郎研究の第一人者である著者の遺稿が中心の本。著者は、光太郎が宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」に遭遇してから、一連の詩「暗愚小伝」を生み出すに至るまでのエピソードを紹介した上で、前者について、「反語詩」として読むべきではないかという大胆な解釈を述べる。また、前者後者ともに対象は自身ではなく、人間そのものだったという見解も示す。
 70年にわたり、光太郎と賢治を詳細に調べてきた著者の思いが伝わる。著者ゆかりの人々の追悼、回想文も収められている。(文治堂書店、1650円)

当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生の『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』

『毎日新聞』さん及び系列の地方紙さんで、いち早く
書評を出して頂きましたが、『読売』さんでもご紹介下さいました。

続いて、『産経新聞』さん。筑摩書房さん刊行の『日本回帰と文化人─昭和戦前期の理想と悲劇』について。

『日本回帰と文化人 昭和戦前期の理想と悲劇』長山靖生著 「危険思想」に至る必然性

002 自国に愛着をもつのは当たり前のことではない。改正教育基本法に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とわざわざ書き込まれたのも、放っておいても涵養(かんよう)されるものではないからだ。この自国への愛着のもち方について、若い世代や学校教育に物足りなさを感じる読者も少なくないだろう。
 けれども、愛着のような穏やかで自足的な肯定感情は、豊かで平和な時代にのみ訪れる僥倖(ぎょうこう)なのかもしれない。本書を読むと、国がまだ貧しく欧米列強の脅威と人種差別に対峙(たいじ)していた明治から昭和戦前期にかけて、自国への想(おも)いはもっと複雑に屈折した「痛み」に近い感情に支えられていたことが分かる。
 封建遺制を切り捨てて西洋文化を貪欲に摂取することで近代化を実現した日本にとって、アイデンティティー不安は宿痾(しゅくあ)だった。その症状は、高等教育まで受けて輸入文物で教養を身に付けた文化人に深刻かつ多種多様な形であらわれる。日本回帰とは症候群の名称である。
 日本回帰は明治からさまざまに反復されてきたが、昭和期の戦時体制に棹(さお)さす役割を果たしたことから、思想的に危険な落とし穴とみなされるようになった。しかしそれを一方的に断罪するだけでは、近代日本の宿痾は放置されたままだ。著者は文化人の日本回帰を「私たちの問題」として引き受ける。
 日本浪曼(ろうまん)派の保田与重郎が体現した根源的な敗北の美学にも、新感覚派の横光利一や中河与一が時代との思想的格闘の末にたどり着いた日本主義にも、それぞれに「痛み」をともなう必然性があった。さらに北原白秋や萩原朔太郎、三好達治、高村光太郎らが戦争賛美の詩を量産したのも、共感力が異常に高い詩人が国民とともにあろうとした必然的な帰結なのだ。
 筆者は文学表現としての日本回帰を受け入れたうえで「政治的社会的判断を曇らせない賢明さ」を持つべきだという。この賢明さは政治指導者には不可欠だろう。昭和の戦争が経済的・軍事的な合理性を逸脱した文学的な戦争だったとしても、その責任は文学にはない。現代の政治も合理性のなさを文学表現で糊塗(こと)してはいないか。これもまた「私たちの問題」だ。(筑摩選書・1870円)

同紙に掲載されたにしては、それほど偏っていない論調です。光太郎の時代の「日本回帰」が「必然的な帰結」とするのを肯んずるには吝かではありませんが、「なのだ」ではなく「なのだった」であるべきですね。現代に於いての、歪んだ「日本回帰」を許してはいけないと思います。

さらに『東京新聞』さん。祥伝社さん刊行の小説『博覧男爵』が扱われていました。

博覧男爵 志川節子著 ◆世界目指した「博物館の父」 [評]和田博文(東京女子大副学長)

000 ペリーの黒船が浦賀に来航したのは一八五三年。上野の動物園の開園は八二年。幕末から明治初期の三十年間は、激動の時代だった。修好通商条約、尊王攘夷(じょうい)、明治維新、戊辰戦争、西南戦争などの政治史や外交史は、本書では後景に退けられる。その代わりに前景化されるのは、「博物館の父」と呼ばれた田中芳男の歩みである。
 飯田城下近くの村の、ゆかりある屋敷の天井に掲げられていた五大州・五大洋の世界地図は、田中が目指すべき場所という、象徴的な意味を担っていた。名古屋に赴いて伊藤圭介門下となり蘭学や本草学と向き合う。江戸では蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に出仕するが、時代は蘭語から英語に移ろうとしていた。身体の移動は、田中をより広い世界へ誘っていく。
 六七年のパリ万博で出品するため、田中は伊豆などで虫捕りをした。それは単なる昆虫採集ではない。洋書から知識を得るだけの一方通行が、異文化間の交流へと変化する。大河ドラマの主人公、渋沢栄一が加わった使節団の一員として渡仏。航路の寄港地では、植民地の現実を目の当たりにした。都市改造中のパリで、田中は驚愕(きょうがく)する。展観本館は鉄骨とガラスを使用し、エレベーターまで備えていた。
 田中が最も関心を抱いたのは、ジャルダン・デ・プラント(パリ植物園)である。国立自然史博物館や動物園や植物園が、広い敷地内に併設されていた。博物という言葉は、広く物を知るという意味を含んでいる。大政奉還の翌日に帰国した田中は、博物学を基礎とする総合施設を作りたいと願う。大英博物館やサウスケンジントン博物館を目標にする、町田久成や佐野常民の考え方と、その思いは少しずつ共振していく。
 田中の伝記はすでに刊行されている。美術博物館が田中芳男展を催したこともある。しかし時代の激動を背景に、人を配置し動かすことで成立する臨場感は、小説でなければ味わえないだろう。満六歳でアメリカに留学した津田梅子や、若き日の高村光雲(光太郎の父)も、さりげなく登場する。近代誕生のドラマを実感させてくれる一冊である。
(祥伝社・1980円)

以前にも書きましたが、やはり「若き日の」渋沢栄一も、さりげなく登場しています。NHKさんの大河ドラマ「青天を衝け」を併せてご覧下さい。

最後に『中日新聞』さん。こちらは左右社さんから出た『1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄』について。

大波小波 明るさは滅びの姿

 百年前の一九二〇年代に何があったのか。和暦では大正九年から昭和四年。一八年に第一次世界大戦が終わり一転恐慌を迎えた。二三年関東大震災、二八年には関東軍による張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件、左翼への弾圧も強まる。民本主義や抒情的な大正ロマンも、昭和の幕開けと同時に暗い時代へと転換する。表面的には震災復興と近代的都市として変貌する東京、都市生活を背景とした前衛的な文化やエログロナンセンスが跋扈(ばっこ)し、文学では既成を排した前衛的なモダニズムが登場。だがその後の軍靴が確実に聞こえる時勢でもあった。
 岡本勝人(かつひと)『1920年代の東京』(左右社)が先般出た。高村光太郎、横光利一、堀辰雄らの二〇年代を照射した労作だ。コミットメントとは翼賛や異論を唱えるだけではない。意識的な無頓着という関わり方もあることを同書は示唆する。
 明から暗への転換は現代に酷似する。五輪開催強行で陽気な時代を装ってはいるが、長引くコロナの陰で庶民は泣く。三〇年代を経て戦禍の最中の四三年に出た太宰治『右大臣実朝』には、「明るさは滅びの姿であろうか」と有名な言葉が書かれる。コミットの形式を問わず、いま時代を感受する文学はどこにあるのか。二〇二一年八月に思う。

それぞれの書籍、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方七時頃になつてから福島油井村の伊藤昭氏来訪。


昭和23年(1948)8月4日の日記より 光太郎66歳

故・伊藤昭氏は昭和3年(1928)、智恵子生家にほど近い、福島県安達郡油井村(現・二本松市)の生まれ。のちに智恵子の顕彰団体「智恵子の里レモン会」を立ち上げ、初代会長を務められました。

この頃は油井村青年会の文化部長で、光太郎にぜひ油井村で講演をお願いしたい、ということで花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れました。

氏の回想から。

 高村山荘に着いたのは午後七時ころ、「君もこんな所まで、無茶な」と先生からあきれられたような言葉をいただきました。
 先生は前日の無理な作業がたたりコップに半分ほどの喀血があり、其の上面疔ができて体調をくずされており「今夜は長話ができないので明日改めて来てほしい。その後の油井村の話をぜひ聞きたい」といわれた。その夜は分教場の高橋先生のお世話になり泊めて頂き、翌日うかがうと「今日はだいぶ気分がよい」と話を切り出された。講師依頼の件は「喀血後でもあるし、ヤミ屋が乗る列車には乗りたくない」ということで達せられなかったが、長沼家没落にまつわる話、鞍石山の「樹下の二人」のエピソード、はては私達青年会への指針なども話して頂いた。
 「芸術や音楽は特定の人のものでない大衆のものである」当時始まったラジオでの教養番組のことや売り出し中だった、岡本太郎さんのことまで熱心に話されたのを今でも覚えている。


岡本太郎の父・一平は、明治38年(1905)、光太郎が再入学した東京美術学校の西洋画科で、藤田嗣治、望月桂らとともに、同級生でした。

8月9日(月)、地元の皆さん限定で行われた第30回女川光太郎祭について、仙台に本社を置く『河北新報』さんが報じて下さいました。

「三陸廻り」90年に敬意 高村光太郎文学碑に献花

 戦前に宮城県女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのび、町内の「女川光太郎の会」が9日、町海岸広場内の文学碑に献花した。碑は東日本大震災で被災して昨夏に再建を果たし、会員らが建立からの30年間に思いを巡らせた。
 光太郎は1931年に石巻から金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古までを旅し、紀行文「三陸廻(めぐ)り」を著した。光太郎が石巻に向かって東京を出発した日から今月9日で丸90年を迎え、町民5人が光太郎の詩や紀行文を刻んだ文学碑に花を手向けた。
 碑は震災の津波で亡くなった町内の画家貝広さん=当時(64)=が中心となって91年に3基を建てた。1口100円の募金活動で建設費を募り、約10年がかりで完成させた。
 女川港の水揚げ場を詠んだ「よしきり鮫(ざめ)」を記した詩碑が震災の津波で流出。主碑が倒れ、詩碑1基が残った。貝さんの思いを継いだ会員らが残った2基の再建を町に要望。町が護岸工事を終えた海岸広場に昨年8月ごろ、設置した。
 毎年8月9日に光太郎の詩を朗読する「光太郎祭」は、新型コロナウイルスの影響で昨年から献花のみ実施している。92年に始まり、今年で30回目を迎えた。
 光太郎の会の須田勘太郎会長(81)は「多くの方の支えで碑を再建できた。貝さんら先人の思いをつなぎ、これからも祭りを続けたい」と語った。
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昨年に引き続き、今年も一般の方の参加はなく、女川光太郎の会の皆さんによる、光太郎文学碑への献花のみ行われました。来年こそは、旧に復してほしいものです。

明日も女川系のネタを。

【折々のことば・光太郎】

夜蚊帳つり今夏はじめて


昭和23年(1948)7月22日の日記より 光太郎66歳

「蚊帳(かや)」。風流といえば風流ですね。

ハードカバーの文庫化です。

「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―

2021年8月1日 末盛千枝子著 新潮社(新潮文庫) 定価825円(税込)

それでも、人生は生きるに値する。彫刻家・舟越保武の長女に生まれ、高村光太郎に「千枝子」と名付けられる。大学を卒業後、絵本の編集者となり、皇后美智子様の講演録『橋をかける』を出版。だが、華々しい成功の陰には、幾多の悲しみがあった。夫の突然死、息子の難病と障害、そして移住した岩手での震災……。どんな困難に遭っても、運命から逃げずに歩み続ける、強くしなやかな自伝エッセイ。

目次000
 人生は生きるに値する――まえがきにかえて
 千枝子という名前
 卒業五十年
 父の葉書
 母、その師その友、そして家族
 IBBYと私
 私たちの幸せ――皇后美智子様のこと
 最初の夫、末盛憲彦のこと
 絵本のこと、ブックフェアのこと
 再婚しないはずだったのに
 逝きし君ら
 出会いの痕跡
 文庫版あとがき
 解説 山根基世

元版は、平成28年(2016)に同社からハードカバーで刊行されています。さらに遡れば、同社のPR誌『波』での連載(平成26年=2014)が最初でした。

著者の末盛さん、光太郎に私淑した彫刻家・舟越保武のご息女で、案内文にある通り、光太郎によって「千枝子」と名付けられました。舟越が命名を依頼したところ、光太郎は「女の子の名前は「ちえこ」しか思い浮かばないが、智恵子のように悲しい人生では困るから、字を替えましょう」と言ったとのことで。

その辺りの経緯や、名付け親である光太郎との盛岡での再会、平成27年(2015)に、盛岡の少年刑務所さんで開催された「高村光太郎祭」でご講演をなさった話などが、光太郎に関わる部分です。

それ以外に、絵本編集者としての日々、当時の皇后美智子さまとの交流、ご家族とのドラマ、そして東日本大震災についてなど、さまざまな方向に筆が進んでいます。

ハードカバー刊行直後、PR誌『波』に、中江有里さんによる書評が載りました。題して「朝ドラのヒロインのような人生」。それが共感を呼んだようで、過日の新聞広告でもそうしたキャッチコピーが使われていました。
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当方、中江さんより早く「NHKさんの朝ドラの主人公になってもおかしくないような感がしました」とこのブログに書きました(笑)。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃学校にて児童給食の粉ミルクをとかした牛乳の御馳走になる。脱脂粉乳の由なるが、味よろし。


昭和23年(1948)7月2日の日記より 光太郎66歳

脱脂粉乳。GHQの支援により、日本の学校給食に供されるようになって、地方によっては1970年代前半まで出されていたそうですが、当方、その頃入学した都内の小学校では既に瓶の牛乳でしたので、飲んだことがありません。

現在製造されているものは品質も向上、味や匂い等向上しているそうですが、この時代のそれは、不味いものの代名詞とまで言われていたものだったそうです。しかし、光太郎は「味よろし」とのコメントを残しています。

新刊、といっても3ヶ月経ってしまいましたが……。

日本回帰と文化人─昭和戦前期の理想と悲劇

2021年4月15日 長山靖生著 筑摩書房(ちくま選書) 定価1,700円+税

西洋文化を旺盛に摂取しつつ繁栄を遂げてきた近代日本は、昭和期に入ると急速に「日本回帰」へと旋回する。そのうねりのなかで文学者や思想家たちもまた、ときにそうした運動の主導者となっていった。和辻による日本古典美の称揚、保田らの「日本浪曼派」、北原白秋や斎藤茂吉の戦争詩歌、そして三木の東亜協同体論や京都学派の「世界史の哲学」―。戦後タブー視されがちであったこれらの作品を、当時の時代状況や彼らの内的論理に注目しつつ読み解き、「日本的なもの」の核心に迫る意欲作。
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目次
 はじめに――危機の時代における心理と思考002
 第一章 西洋憧憬と日本への思慕
  欧化への抵抗――佐田介石の内外対比論
  政教社の国粋主義
  陸羯南──日本主義と国民の自由
  岡倉天心──「アジアは一つ」の真意
  新渡戸稲造──『武士道』の日本人
  国家社会主義という第三の道
  水戸学、ファシズム、皇国史観──錯綜する国家観
 第二章 文学者たちの「日本回帰」
  プロレタリア文学から文芸復興へ
  保田与重郎と「日本浪曼派」──敗北の美学
  永井荷風──無関心という抵抗
  谷崎潤一郎──政府に睨まれた日本礼賛
  堀辰雄──柔和で毅然とした抵抗精神
  横光利一──反転する西洋憧憬
  太宰治──アイロニーが世界を包むとき
  坂口安吾──日本文化称揚の欺瞞性
 第三章 戦意高揚する詩人たち
  近代詩歌と軍歌──日本軍歌の哀調
  日清戦争──与謝野鉄幹、正岡子規
  日露戦争の記憶──夏目漱石、森鷗外、与謝野夫妻
  北原白秋──南蛮趣味から戦争礼賛へ003
  萩原朔太郎──故郷との和解を夢見て
  三好達治──死にゆく同胞への供物
  高村光太郎──軍神を讃えねばならぬ
  折口信夫、斎藤茂吉──国亡ぶを歌う
 第四章 日本文化観の模索
  国策としての「国民精神文化」
  和辻哲郎──世界文化史への架橋
  大川周明──アジア主義のジレンマ
  中河与一──モダニズムから第三世界共闘ロマンへ
  九鬼周造──「いき」という諦念
  阿部次郎──人格主義から見た日本文化
 第五章 日本精神と変質する科学主義
  イデオロギーとしての日本精神
  進化論と優生思想──加藤弘之、丘浅次郎、永井潜
  愛国化する「科学」──中山忠直の日本学
  生気説への接近──小酒井光次と哲学者たち
  有機体としての国家──西田幾多郎の「安心」
 第六章 大東亜戦争は王道楽土の夢を見るか
  西田幾多郎──修正案としての「世界新秩序の原理」
  田辺元──飛躍的想像力と国家構想
  三木清──回避努力と妥協的協力
  京都学派──「近代の超克」と「世界史的立場」
 終章 それぞれの戦後
  死んだ者、生き残った者
  三木清の戦後獄中死
  占領期検閲と横光利一
  東京裁判を免訴された大川周明
  「日本の悲劇」を課題化した和辻哲郎
  亀井勝一郎が戦後改稿に込めた思い
  保田与重郎の孤独、中河与一の硬直
  「近代の超克」の清算としての『本居宣長』
 あとがき
 主要参考文献
 人名索引

著者の長山氏、「なぜ日本は、幕末維新の危機を乗り越えて曲がりなりにも近代化を成功させたにもかかわらず、昭和十六(一九四一)年に無謀な戦争へと突入していったのか」という命題を解決するべく、当時の文化人達の様相を列伝体的に展開していきます。

従って、光太郎に直接触れている部分はあまり多くない(上記目次の色を変えた部分)のですが、幕末から明治、大正を経て、十五年戦争という「流れ」の中で捉えることによって、その立ち位置がより明瞭にされている部分があるかな、という感じでした。

そして「以前から日本国内に積みあがっていた近代的発展の矛盾の飽和の現れ」として、太平洋戦争を定義し、「閉塞状況に置かれた人間は変化を希求」、「国家に奉仕する勤労の連帯や融和や等質性が「日本的」なものとして称揚される」というわけで、文学者達は「それぞれに自分が得意とする手法で、時代の要請に合った物語を、自己のアイデンティティを投影しながら描いてみせた」としています。

光太郎に関しては、まず、「第三章 戦意高揚する詩人たち」で、戦時中の翼賛詩を引きつつ、次のように評しています。

痛ましいばかりの体制協力ぶりだが、それでも高村光太郎は品性を重んじ、詩文の美を湛えている。彼の目には死地に赴く人々の決意、虜囚の辱めを受けずに自決して果てる人々の姿勢は、とても高潔なものと映っていたのだろう。おそらくそれは正直な感慨だったのだと思う。戦地に赴いて死んでいった人々を、どうして無駄死になどと言えるだろうか。讃えねばならぬ。彼等の尊厳を守るために、彼らを讃えねばならぬ……。

当方の手元に、光太郎のそれを含む、多数の詩人達による翼賛詩を集めたアンソロジーが30冊ばかりあります。それらを繙くと、確かに相対的評価として、光太郎詩は他の詩人の作と較べて「詩文の美を湛えている」部分が多く見受けられます。しかし、やはり相対的に、光太郎自身が他の時期に書いた詩と比較した場合、一度は捨てた文語に戻り(それも虚仮威し的な漢文訓読調)、結局は異口同音の繰り返しに堕しているなど、高い評価は与えられません。この時期の詩こそ光太郎詩の真髄だと、涙を流してありがたがる愚物が居て閉口しているのですが……。

戦地に赴いて死んでいった人々を、どうして無駄死になどと言えるだろうか。讃えねばならぬ。彼等の尊厳を守るために、彼らを讃えねばならぬ……。」という考え、それはそれで正しいのかも知れません。ですが、前途有為な多くの若者を死地に送り出す状況を作りだした軍部や政府、そしてそれを肯んじる国全体の風潮への批判が無くなれば、危険な思想と言わざるを得ないと思います。

000さらに、「終章 それぞれの戦後」中の「死んだ者、生き残った者」という項で、昭和22年(1947)の連作詩「暗愚小伝」構想中に生まれ、結局、自らボツにした「わが詩をよみて人死に就けり」が紹介されています。

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

長山氏、「そうした後悔慚愧の想いもまた、詩になってしまうのが詩人の業というものだった」と評しています。言い得て妙、ですね。

それにしても、この章では、他の文学者達の「戦後」についていろいろ紹介されていますが、とんでもない輩がずいぶんいたのがよく分かります。終戦と共に突然「民主主義者」に180度ころっと変わった者、変わる事を良しとせず、しかし頑なに翼賛思想に拘り続けた者、そして何も出来ずにポンコツになった者……。そう考えると、岩手の山村に7年間もの蟄居生活を自らに強いた光太郎、やはり偉かったと言わざるを得ないような気がするのですが、身贔屓が過ぎるでしょうか。

ところで、残念ながら、事実誤認もありました。谷崎潤一郎や堀辰雄を「戦時下でも翼賛活動をしなかった」としている点です。

谷崎は、昭和17年(1942)に開催された「大東亜文学者大会」で、がっつり「閉会の辞」を述べていますし、堀も同年に展開された「愛国百人一首」運動で、揮毫の筆をふるっています。まぁ、確かに両者とも、光太郎ほどには積極的な翼賛協力はしなかったのでしょうが……。

明日は広島原爆投下の日、9日は同じく長崎、そして15日は終戦記念日。戦後76年ですね。「国家に奉仕する勤労の連帯や融和や等質性が「日本的」なものとして称揚される」ことのないよう、歴史に学びたいと存じます。

【折々のことば・光太郎】001

朝九時過池田克己氏、八森虎太郎氏同道、再び来訪。一昨夜大沢温泉に一泊、昨夜は花巻に宿泊の由。昨日宮沢家にゆかれし由。 中食を此処でくふ。余も飯盒飯ののこり。 午后ライカによる撮影いろいろ。室内やら畑でやら。

昭和23年(1948)6月30日の日記より
 光太郎66歳

池田克己は、この年、高見順、菊岡久利らと詩誌『日本未来派』を創刊しました。早くから光太郎を敬愛し、昭和19年(1944)に刊行された池田の詩集『上海雑草原』では光太郎に序文を依頼しています。

「ライカ」云々は、翌年の『小説新潮』グラビアに載った、池田撮影の光太郎ポートレートに関わると思われます。

その後、池田は昭和28年(1953)、数え42歳で急逝。光太郎は弔電に「ワガ ヤマニライカヲモチテイチハヤクタヅ ネコシカレトカタリシコトゴ ト」(我が山に ライカを持ちて いち早く 訪ね来し彼と 語ることごと)の短歌をしたためました。

昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために、三陸一帯を約1ヵ月、主に船で移動した光太郎。宮城県の女川にも立ち寄ったということで、それを記念して平成3年(1991)に光太郎文学碑が建立され、翌年からは光太郎が三陸に向けて東京を発った8月9日に、「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。

女川光太郎祭は、残念ながら、昨年に引き続きコロナ禍で中止となりましたが、町立の女川つながる図書館さんで、光太郎に関する展示をなさって下さいます
期 日 : 2021年8月7日(土)~8月13日(金)
会 場 : 女川つながる図書館 女川町生涯学習センター内 
          宮城県牡鹿郡女川町女川浜字女川178番地 KK-8街区1画地
時 間 : 平日 10:00~20:00  土日祝 10:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

光太郎と啄木の短歌・詩・評論を通して、作品に流れる人間観や人生観を知っていただくような展示を行います。
◇図書館の館内を巡りながら、特別展の展示を楽しみつつ観ることができます!!
◇高村光太郎と石川啄木を、わかりやすく知ることができます。
◇入館者に手作りの記念品を差し上げます。
※新型コロナ感染症予防のため、マスクの着用・こまめな消毒、三密の回避のご注意をお願いいたします。
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この手の展示で光太郎に触れて下さるのが、毎年この時期の恒例となっていて、今年で3回目です。
女川つながる図書館特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川 ~えにしをつなごう~」。
宮城レポート その2 女川町内各所。
女川つながる図書館特別展「詩人・光太郎と賢治 ~えにしをめぐる~」。


初回の一昨年は光太郎がピンで、昨年は光太郎と交流のあった、同じくみちのくゆかりの宮沢賢治とからめての企画でした。そして今年は、やはりみちのく出身で、光太郎と交流のあった石川啄木とのタイアップです。

会場が特設される訳ではなく、図書館内の書架の上だったり、カウンターの前のちょっとしたスペースだったりを使ってのミニ展示ですが、こういう取り組みを行うことも、大切なことだと思います。

来年以降も継続していただきたいものですし、来年こそは女川光太郎祭の復活も切に祈念する次第です。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃石井鶴三、笹村草家人、有賀剛、千葉金右衛門、旭谷正治郎の五氏来訪。炉辺に招ず。昨夜花巻クルミ旅館泊の由。鶴三氏とは四五年ぶりの面会。他の人は皆初対面。


昭和23年(1948)6月20日の日記より 光太郎66歳

石井鶴三は彫刻家。光太郎と明治期から親しかった画家・石井柏亭の実弟です。笹村草家人も彫刻家で、この後、信州安曇野の碌山美術館建設に奔走、光太郎にも協力を要請しました。

001有賀剛は笹村の友人で、神田小川町の汁粉屋主人。光太郎は2日後には有賀のために複数の書を揮毫しています。そのうち1枚は「悠ゝ無一物満喫荒涼美」。前年に作った連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」の一節、「悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」を漢文風にアレンジしたものです。

千葉金右衛門は秋田扇田町(現・比内町扇田)の酒造家。旭谷正治郎は同じく秋田横手出身の画商です。平成27年(2015)には、旭谷宛の光太郎書簡などが展示された「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編 ~あの人はこんな字を書いていました~」が、横手市の雄物川郷土資料館さんで開催されました。

昨日に引き続き、智恵子の故郷・福島二本松からの情報です。

プレスリリースから。

60万球が光り輝く福島の夏の風物詩「あだたらイルミネーション」7/31(土)開幕! 今年で開催10周年!カラフルなインスタ映えメニューも多数登場!

 富士急安達太良観光株式会社が展開する「あだたら高原リゾート」(福島県二本松市)では、2021年7月31日(土)~9月20日(月祝)の期間、「あだたらイルミネーション」を開催いたします。

 今年で10年目を迎える本イベントは、光の天の川を中心に花や動物などをモチーフにした様々なイルミネーションが楽しめる夏の風物詩です。60万球にパワーアップした今年は、「光の天の川」が過去最多の8色になって光り輝くほか、虹色の「光のアーチ」やたくさんのひまわりが壁に飾り付けられた「光のサンフラワー」などフォトジェニックなスポットが新たに登場し、安達太良山の斜面を彩ります。また、暗闇に光るかき氷や、光る氷ドリンクといった光るメニューも登場し、イベントを盛り上げます。

 さらに、期間中の特定日には、あだたら高原の夜空に願いを込めてたくさんのスカイランタンを浮かべる参加型のイベント「LEDスカイランタンフェスティバル」も開催。イルミネーションの輝きと相まって、ここでしか見られない幻想的で美しい光景が広がります。

 また、夜だけではなく昼から来ても楽しめる「あだたら高原リゾート」では、夏限定の爽やかなメニューが多数登場。梅の酸味がアクセントの「梅とチキンのさっぱり冷やしうどん」や岳温泉名物の温泉たまご「とろんたま」と納豆、オクラ、みょうががトッピングされた「とろんたま入り 冷やしネバトロうどん・そば」のほか、高村光太郎の『智恵子抄』で謳われた「ほんとの空」をイメージした「あだたらソーダ」や「あだたらかき氷ソフト」はインスタ映え間違いなしです。
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 あだたら高原リゾートでは、ご来場いただく全てのお客様に安心してお楽しみいただけるよう、感染症対策を徹底しております。この夏は、阿武隈の山々を見渡す絶景の大パノラマと幻想的なイルミネーションの世界を楽しみに、「あだたら高原リゾート」へぜひお越しください。

【「あだたらイルミネーション」概要】
・開催期間
 2021年7月31日(土)~9月20日(月祝)
 ※8月30日以降は、金・土・日・祝日のみの営業
・営業時間
 19:00~21:00
 ※ロープウェイの上り最終20:30、下り最終20:50
・料金
 入場料:中学生以上500円、小学生以下300円
 入場料とロープウェイ乗車料のセット:中学生以上1,300円、小学生以下800円
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■ LEDスカイランタンフェスティバル開催!
 昨年初開催し大好評をいただいたイベント「LEDスカイランタンフェスティバル」が今年の夏パワーアップして開催。オレンジ、ピンク、グリーン、ブルー、レッドの5色のランタンが登場。ここでしか見られない幻想的で美しい光景が広がります。
・開催日
 8月7日(土)、14日(土)、21日(土)、28日(土)、
 9月4日(土)、11日(土)、18日(土)、19日(日)
・時間
 18:00受付開始、20:00ランタンリリース予定
・料金
 3,500円(ランタン1基、イルミネーション入場料1名分含む)
・参加方法
 各開催日前日までの予約申込み
 ※各日先着100名様限定
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というわけで、盛りだくさんの内容となっています。

スカイランタンフェスティバル、昨年は秋口に行われましたが、好評につき、回数が倍増しました。こちらは「ほんとの空に願いをこめて」のサブタイトルが付いています。

「ほんとの空」をイメージした「あだたらソーダ」や「あだたらかき氷ソフト」、この季節、毎日でも賞味したいものです(笑)。

コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

キヤベツにたかる蟲にD・D・T・をまく。

昭和23年(1948)6月10日の日記より 光太郎66歳

「DDT」は「ジクロロジフェニルトリクロロエタン」、日本では現在使用禁止となっている強力な殺虫剤です。

当方の年代ですと、かつてそういうものが使われていた、という知識はありますが、現物は見たことがありません。若い世代の皆さんには、「何のことやら?」でしょう。

農薬以外に、シラミ等の駆除にも用いられ、終戦直後などは、子供たちが頭からぶっかけられた、などということもあったようです。

新刊です。といっても、2ヶ月ほど経ってしまいましたが。

博覧男爵

2021年5月20日 志川節子著 祥伝社 定価1,800円+税

日本に始めて博物館を創り、知の文明開化を成し遂げた挑戦者!

幕末の巴里(パリ)万博で欧米文化の底力を痛感し、武力に頼らないに日本の未来を開拓する男がいた!

日(ひ)の本(もと)にも博物館や動物園のような知の蓄積を揃えたい!

黒船の圧力おびただしい幕末。信州飯田で生まれ育った田中芳男は、巴里(パリ)で行なわれる万国博覧会に幕府の一員として参加する機会を得た。その衝撃は大きく、諸外国に比して近代文化での著しい遅れを痛感する。軍事や産業を中心に明治維新が進む中、日の本が真の文明国になるためには、フランス随一の植物園ジャルダン・デ・プラントのような知の蓄積を創りたい。「己れに与えられた場で、為すべきことをまっとうする」ことを信条とする芳男は、同じ志を持つ町田久成や大久保利通らと挑戦し続け、現代の東京国立博物館や国立科学博物館、恩賜上野動物園等の礎を築いていく……。
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田中芳男(天保9年=1838~大正5年=1916)は、元々、信州飯田の医師の家に生まれ、本草学を修めました。その後、興味の対象が広がる中で、幕府の蕃書調所に出仕、博物学者として名を成します。

慶応3年(1867)のパリ万博に出張し、彼の地の文化施設、物産等を実地に見て、日本を文化先進国とする大望を抱いて帰国。幕府の瓦解や戊辰戦争、西南戦争など、様々な苦難を乗り越え、日本でも各種の博覧会を開催、そして東京帝室博物館(現・東京国立博物館)などを造り上げました。「政治や軍事、産業の面ばかりに目が向きがちだが、文化面での開化なくして真の文明国とはいえない」という信念が、そこにありました。

その功績が認められ、晩年の大正4年(19815)、男爵位に列せられたため、タイトルが「博覧男爵」となっています。

物語の終盤近く、明治10年(1877)、第一回内国勧業博覧会が上野で開催されるという場面で、出品者を募る中、田中が光太郎の父・光雲の師匠であった高村東雲の工房を訪れるシーンがあります。

「博覧会」と言われても、東雲はじめ、何のことだか分からないという人が殆どでした。そこで田中は、「何も特別なものではなく、普段作っているようなものを出品してくれればいい」と、東雲に告げます。すると東雲、「それでは弟子の光雲に作らせましょう」。田中が「それは困る」と言うと、東雲は「いや、この者の技倆は保証します」。

このあたりのやりとりは、作者・志川さんの創作かな、という気がしますが、いずれにせよ、光雲は東雲の名で白衣観音像を制作し、出品。見事、一等龍門賞に輝きました。

ところで、慶応3年(1867)のパリ万博といえば、かの渋沢栄一(当時・篤太夫)も、徳川慶喜の実弟・徳川昭武の随員として参加しています。そこで、本書でも、ちらっと渋沢が登場しています。

また、渋沢を主人公とするNHKさんの大河ドラマ「青天を衝け」、7月11日(日)の放映がまさにパリ万博の模様でした。
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キャストとして、田中の名はクレジットされていませんでしたが、上の画像の武士団の一人が田中、という感じですかね。

それにしても、現在、双子パンダの誕生に湧く上野動物園さんや、光太郎の母校・東京美術学校(現・東京藝術大学さん)などを含めた上野一帯の各文化施設が、どういう経緯で整備されていったのかなど、非常に興味深く拝読いたしました。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后二時学校増築上棟式に列席。つついて校庭にて宴会。拡声器など使つて唄つたり踊つたり。歌のうまき人数人あり。五時頃けへる。折詰やお祝の餅をもちかへる。

昭和23年(1948)5月24日の日記より 光太郎66歳

「学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近く(といっても500メートルほど離れていますが)の、山口小学校。この年4月、分教場から小学校に昇格しました。

それにしても、のどかですね(笑)。しかし、光太郎が帰った後、「会計に関する事のもつれ」で、村の顔役同士の乱闘騒ぎが起きたそうで(笑)。

7月18日(日)の『東京新聞』さん。現代教育行政研究会代表・前川喜平氏によるコラムで、光太郎の父・光雲と、光太郎について触れられていました。

本音のコラム 楠木正成の亡霊

 二〇二一年防衛白書が公表された。台湾情勢の安定が日本の安全保障にとって重要との記述が盛り込まれたが、このような記述は専守防衛の原則を逸脱している。 
 だが、僕がまず違和感を持ったのは、その表紙が皇居外苑の楠木正成像を描いた墨絵だったことだ。高村光雲と弟子が造ったこの銅像は確かに傑作だが、なぜそれが防衛白書の表紙なのか。 戦前の皇国史観において、楠木正成は天皇に忠義を尽くした忠臣と称(たた)えられた。七生滅賊(七回生き返って朝敵を滅ぼす)は正成が残した言葉だ。
 高村光太郎が敗戦後に書いた「楠公銅像」という詩がある。楠木像の木型を天皇にご覧に入れたとき剱(つるぎ)の楔(くさび)を一本打ち忘れたため、風が吹くたび劔が揺れた。「もしそれが落ちたら切腹と父は決心していたとあとできいた」「 父は命をささげていたのだ。 人知れず私はあとで涙を流した」この詩は父光雲の忠義を賛美しているのではない。それに感動した自分を深く反省しているのだ。
 光太郎は「典型」という詩で自らを「三代を貫く特殊国の特殊の倫理に鍛えられ」た「愚劣の典型」と呼んだ。 楠木正成に象徴される忠君愛国の倫理を捨て、その倫理に染まっていた愚劣な自己と決別したのである。私たちは光太郎の精神的転回を追体験すべきだ。 楠木正成の亡霊を呼び起こしてはいけない。 

001右が問題の『防衛白書』表紙です。前川氏のコラムを読む前に、この表紙を目にしましたが、やはり当方も強烈な違和感を感じました。最初に見たのはツィッターででした。ネトウヨが「素晴らしい! 七生報国の精神の顕現だ!」と大絶賛していたのです。

前川氏もおっしゃる通り、光雲が主任となって造られた楠木正成像、この時代の銅像としての出来は群を抜いています。また、楠木正成という人物が、ある種の「英傑」であったであろうことを肯んずるにも吝かではありません。また、西元祐貴氏による雄渾な墨絵も確かに素晴らしいと思います。

しかし、なぜ、『防衛白書』に楠木正成なのか、ですね。どうも、本当は東郷平八郎なり、山本五十六なりを持ってきたかったものの、そうもいかないので、仕方がないから楠木正成、というふうに感じられます。深読みしすぎでしょうか?

さて、前川氏が引かれている光太郎詩「楠公銅像」(昭和22年=1947)、以下の通りです。

    楠公銅像002


 ――まづ無事にすんだ。――
 父はさういつたきりだつた。
 楠公銅像の木型(きがた)を見せよといふ
 陛下の御言葉が伝へられて、
 美術学校は大騒ぎした。
 万端の支度をととのへて
 木型はほぐされ運搬され、
 二重橋内に組み立てられた。
 父はその主任である。
 陛下はつかつかと庭に出られ、
 木型のまはりをまはられた。
 かぶとの鍬形の剣の楔が一本、
 打ち忘れられてゐた為に、
 風のふくたび剣がゆれる。000
 もしそれが落ちたら切腹と
 父は決心してゐたとあとできいた。
 茶の間の火鉢の前でなんとなく
 多きを語らなかつた父の顔に、
 安心の喜びばかりでない
 浮かないもののあつたのは、
 その九死一生の思が残つてゐたのだ。
 父は命をささげてゐるのだ。
 人知れず私はあとで涙を流した。

光太郎が、戦時中の翼賛活動を推進したことを恥じ、戦後になって蟄居生活を送っていた、花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれました。自らの半生を振り返って書かれた20篇から成る連作詩「暗愚小伝」中の1篇です。

「暗愚小伝」全体は、翼賛活動の積極的推進に関わった自らの「暗愚」を表出するものですが、「楠公銅像」を含む幼少年期を振り返った「家」の項7篇は、そうした意識は薄いと思います。のちに「天皇あやふし」と思うに到った愚劣な自己が、どのように形成されたのか、――吉本隆明の指摘する「骨がらみ」の問題――という自己分析の側面が強いと思われます。

いずれにせよ、前川氏の箴言どおり、「楠木正成の亡霊を呼び起こしてはいけない。」ですね。

【折々のことば・光太郎】

朝のみそ汁にアイコを入れる。この山菜美味。


昭和23年(1948)5月15日の日記より 光太郎66歳

「アイコ」は俗称で、正式には「ミヤマイラクサ」。光太郎が蟄居していた岩手のお隣、秋田では「山菜の女王」と呼ばれ、珍重されているそうです。






当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生の『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』の書評が、『毎日新聞』さん及び系列の地方紙に掲載されました。

『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」』=北川太一・著、小山弘明ほか監修 (文治堂書店・1650円)

000 北川太一は1925年生まれ。長く高校の定時制教員を務める傍ら、高村光太郎(1883~1956年)の全集編纂(へんさん)、研究、顕彰に努めた。旧制東京府立化学工業学校で同学年だった吉本隆明が評論『高村光太郎』(決定版、66年)で北川への信頼、畏敬(いけい)を記すなど、知る人ぞ知る存在である。2020年1月に94歳で没した。死の前年に書かれた遺稿に親交のあった人々の文章を加え、「追悼/回想文集」を兼ねる。
 遺稿の表題は、宮沢賢治(1896~1933年)の「雨ニモマケズ」中にある「デクノボー(木偶の坊)」と、光太郎が戦後に書いた詩「暗愚小伝」の「暗愚」を指す。どちらも複雑な自己規定を語る言葉だが、北川はこれらをキーワードとして両者の関わりを掘り下げている。
 光太郎が早くから賢治を高く評価したことは知られているが、著者は、ほぼすれ違いに終わった二人の交渉、戦後の光太郎が賢治とのゆかりで岩手県花巻近郊に送った流謫(るたく)の過程を丹念にたどる。その上で「雨ニモマケズ」の「反語」性という大胆な仮説を提示しつつ、デクノボーから暗愚への一筋の連なりを見いだす。生の意味を問う魂の軌跡。


「監修」を頼まれ、まぁ、結局、集まった原稿(原稿の選定は版元の文治堂書店さん)に、おかしなところはないかのチェックをし、手直し。さらに30ページほどで解説のような文章「「没我利他」の系譜 賢治・光太郎、そして北川太一」を書かせていただきました。

最も悩んだのは、タイトルの「デクノバウ」。

元々、賢治が昭和6年(1931)、手帳に記した段階では「デクノボー」となっていました。
001
ではなぜ、北川先生が「デクノバウ」としたのかというと、光太郎が、賢治没後の昭和13年(1938)に、雑誌『婦人之友』に発表した散文「宮沢賢治の詩」で、「デクノバウ」と表記しているためです。

光太郎は、

此の詩人の死後、小さな古い手帖の中に書き残された言葉があつた。その人となりを知るに最も好適なので此処に採録して置く。

とし、この後、「雨ニモマケズ」全文を記しています。その中で、該当箇所が「デクノバウ」となっているのです。光太郎、この時、手帳そのものを見ながら筆写したわけではなく、既に活字になっていたものから引き写したと思われます。ちなみに歴史的仮名遣いでは「木偶の坊」は確かに「デクノバウ」となります。おそらく賢治は「木偶の坊」という漢字表記を思い浮かべることなく、発音通りに「デクノボー」と書いたのではないでしょうか。

そして北川先生も、光太郎の「宮沢賢治の詩」を最初に引いていらして、そのため、「デクノバウ」とされているのです。

そこで、賢治が書いた通りに「デクノボー」と直すか、正しい表記の「デクノバウ」で行くか悩んだのですが、結局は「デクノバウ」のままとしました。

まだそう言う声は聞こえてこないのですが、もし、「賢治は「デクノボー」と書いてるぞ、「デクノバウ」とはなんだ、けしからぁん」的なご意見がありましたら、そういう経緯で「デクノバウ」としていますので、よろしくお願いします。はっきり言うと、コアな賢治ファンの中には、狂信的ともいえる人が少なくなく、すみませんが、辟易することがあります。

さて、『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』、ぜひお買い求め下さい。また、他の書評欄等でもぜひ紹介していただきたいものだと存じます。

【折々のことば・光太郎】

午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳新らし。 入浴、抹茶、夕飯後又抹茶、甚だ快適なり。入浴客も少し。


昭和23年(1948)5月11日の日記より 光太郎66歳

この時期、たてつづけに三回、花巻南温泉峡・鉛温泉さんに宿泊しています。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、4㌔㍍ほど歩いて、当時走っていた花巻電鉄の二ツ堰駅まで行けば、意外と楽に行けたことも大きかったでしょう。

三十一号室」は現存し、当方も一度、泊めていただきました。

7月17日(土)の『朝日新聞』さんの読書面。劇作家・平田オリザ氏による連載「古典百名山+plus 平田オリザが読む」で、光太郎の『智恵子抄』を取り上げて下さいました。

古典百名山+plus 平田オリザが読む:105 高村光太郎『智恵子抄』 妻亡き後の絶望と諦念

006 晩年の代表作『典型』の名の通り、高村光太郎は、まさに近代日本のある種の典型のような人物だった。
 上野の西郷像を作った高村光雲を父にもち、若くから将来を嘱望され一九○六年、二三歳で渡米、三年間を米国、欧州で過ごす。帰国後は日本社会や日本の美術界の閉鎖性に反感を持ち、放蕩(ほうとう)の生活を送る。しかし三一歳で長沼智恵子と結婚、これを機に生活も健全なものとなり、同年、詩集『道程』を発表して一躍文壇に名前をはせた。その後の二十数年は、本業の彫塑(ちょうそ)を中心に活動する。
 智恵子の死の三年後の一九四一年『智恵子抄』を刊行、ベストセラーとなる。一方、心の空白を埋めるかのように国粋主義、戦争賛美の詩を書き始めた。さらに戦後は、敬愛した宮沢賢治の故郷花巻に蟄居(ちっきょ)し、悔恨と反省の詩を書き続ける。
007 二一世紀を生きる私たちが、高村の変遷を「西洋かぶれが急にネトウヨになった」と笑うことはたやすい。しかし彼の生涯はまさに、十九世紀末に産声を上げた近代日本が歩んできた道程そのままではないか。あるいは、近代日本文学の変遷そのままと言っても過言ではない。
 若くして海外を見た高村にとって、西洋は巨大な壁であった。パリのノートルダム大聖堂の荘厳さと、自分の小ささを描いた長編詩「雨にうたるるカテドラル」を発表したのは、帰国から十年以上経った一九二一年。第一次世界大戦が終わり、日本全体が大国の仲間入りをしたと浮かれていた時代である。
 「智恵子は見えないものを見、聞(きこ)えないものを聞く」(「値〈あ〉ひがたき智恵子」より)
 高村は、あくまで理性の人であった。彼は自分が宮沢賢治にはなれないことを自覚していたし、まして精神を病んだ智恵子のようになれないことも分かっていた。『智恵子抄』が美しいのは、その絶望が全編を貫いているからだ。しかしその絶望と諦念(ていねん)は半面、彼を戦争詩へと向かわせた。人間はかくも弱い。

平田氏、光太郎を主人公とした演劇「暗愚小伝」(昭和59年=1984)を書かれ、最近ですと平成26年(2014)から翌年にかけ、再演されました。また、平成30年(2018)に上演された「日本文学盛衰史」にも光太郎を登場させています。

氏の御祖父は、詩人の平田内蔵吉(明治34年=1901~昭和20年=1945)。光太郎とも面識はあったのではないかと思われます。『高村光太郎全集』に、内蔵吉の名は一度だけ出て来ます。昭和20年(1945)7月16日、疎開先の花巻宮沢邸から、やはり詩人の小森盛に送った葉書に、「倉橋さんの轢死とか、照井さんの爆死とか、平田内蔵吉さんの玉砕とか、さういふ事が平時の事となつて来ました」とあります。

倉橋さん」は詩人の倉橋弥一。昭和20年(1945)6月、酒に酔って電車に轢かれて亡くなりました。「照井さん」は照井瓔三(栄三)。声楽家・朗読家で、ラジオで光太郎詩の朗読にもあたりました。やはり昭和20年(1945)、5月の空襲により、東京で亡くなっています。そして「平田内蔵吉さんの玉砕」。内蔵吉は沖縄戦線に投入されていました。

光太郎も4月に駒込林町のアトリエ兼住居を焼かれ、命の危険にさらされました。友人知己が次々と不慮の死を遂げる中で、花巻とても安全ではなく、実際、翌月には花巻空襲で宮沢家も全焼。光太郎、再び命からがらの目に遭います。

そうした光太郎の、『智恵子抄』をめぐる精神史。「まさに近代日本のある種の典型のような人物」、「彼の生涯はまさに、十九世紀末に産声を上げた近代日本が歩んできた道程そのまま」というオリザ氏の評。うなずけますね。明治末には、西洋近代思潮の洗礼を受け、大正末から昭和初期にはプロレタリア文学やアナーキズムに近い位置に身を置き、しかし、戦時には一転して日本回帰。戦後はそれに対する悔恨と反省……。多くの日本人の辿った途を、極端に体現したのが光太郎、というわけです。

その背景に、愛妻・智恵子。智恵子と共に手を携え、芸術三昧の道を歩こうとしたものの、その智恵子は志半ばで心を病み、逝ってしまいました。その空虚感にするりと入り込んだ翼賛思想。あるいは、自らの芸術精進の姿勢が、智恵子を追い詰めたという認識から、積極的に真逆の道を歩ませたのかもしれません。

人間はかくも弱い」。刺さる一言ですね。

【折々のことば・光太郎】

午后三時頃開墾の方より前の畑を斜に横切りて、狐らしきもの黒き餌を口にくはへて山の方へ走りゆくを見る。金茶色、尾長くひく。セッター位の大きさにて甚だ派手なり。


昭和23年(1948)5月7日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、現代でも、キツネが闊歩しているそうです。

4月に『読売新聞』さんが報じて下さいました、「「智恵子抄」総選挙」の件。7月10日(土)に『福島民報』さんにも記事が出ましたのでご紹介します。

詩集「智恵子抄」で一番好きな作品は? 福島・二本松市で総選挙

 詩集「智恵子抄」の出版80周年を記念して、心に響く一番好きな作品を選んで投票する「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」が行われている。主催する福島県二本松市の智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一代表は「智恵子抄を改めて、じっくり味わってほしい」と参加を呼び掛けている。
 「智恵子抄」は1941(昭和16)年に出版された。詩人で彫刻家の高村光太郎が妻智恵子への愛をうたった。智恵子の故郷二本松の情景が浮かぶ「樹下の二人」「あどけない話」をはじめ、かけがえのない存在を慈しむ思いに満ちた作品の数々は、今も多くの人の心を打つ。
 智恵子のまち夢くらぶは80周年に当たり「東日本大震災から10年、コロナ禍の今こそ、二人の純愛の意味を問いたい」と総選挙を企画した。投票候補は「智恵子抄」と、1950年に出版された詩集「智恵子抄その後」に収録された36作品。
 投票ははがきに(1)一番好きな作品名(2)その理由(100文字以内)(3)氏名(4)住所(5)電話番号(6)年齢―を書いて郵便番号969―1404 二本松市油井字漆原町36 智恵子の生家記念館宛てに郵送する。抽選で80人に記念品を贈る。JR二本松駅近くの市民交流センターには専用の用紙と投票箱があり、直接投票できる。
 投票期間は10月31日まで、1人1回。結果は11月21日に市内で開く第2回全国「智恵子抄」朗読大会で発表する予定。問い合わせは智恵子のまち夢くらぶの熊谷代表 電話090(7075)6743へ。
 投票候補は次の通り。
 「人に」「或る夜のこころ」「おそれ」「或る宵」「郊外の人に」「冬の朝のめざめ」「深夜の雪」「人類の泉」「僕等」「愛の嘆美」「晩餐」「樹下の二人」「狂奔する牛」「鯰」「夜の二人」「あなたはだんだんきれいになる」「あどけない話」「同棲同類」「美の監禁に手渡す者」「人生遠視」「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「値いがたき智恵子」「山麓の二人」「或る日の記」「レモン哀歌」「荒涼たる帰宅」「亡き人に」「梅酒」「うた六首」「元素智恵子」「メトロポオル」「裸形」「案内」「あの頃」「吹雪の夜の独白」
006
007
美術館さんや文学館さん等での企画展示などもそうですが、始まったところで報道していただいて人寄せになり、しばらく間を置いてまた報道が出ると、一旦落ち込んだ人出が回復するということがよくあります。そうした意味では、この時期に地元紙で報道して下さるのも有り難いことです。

その詩を選ぶ理由を100字以内、というのが少し面倒だと感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、ぜひ、投票、よろしくお願い申し上げます。〆切りは10月31日(日)だそうです。

【折々のことば・光太郎】

午后、部落の保健婦の人来りてビタミンBの注射をしてくれる。一日二本位づつつづけてするといいとの事。明日より学校へ行くついでに開拓団事務所(学校前)に立寄る事にする。そこに毎日出張して居らるる由。

昭和23年(1948)5月1日の日記より 光太郎66歳

光太郎、のちには自ら注射を打つようになり、愛用の注射器は遺品として、花巻高村光太郎記念館さんに展示されています。

ビタミン注射、現代でも疲労回復、滋養強壮などの目的で行われているのですね。存じませんでした。

オンラインでのイベントです。

第23回比較文学研究会

期 日 : 2021年7月17日(土)
時 間 : 14:30~17:00
料 金 : 無料

今回の比較文学研究会を以下のようにオンライン(Zoom)で開催致します。
会員のみなさまはもちろん、会員外の一般の方々のご参加もお待ち申し上げております。

[開 会 の 辞] 東北支部長 森田直子
[研究発表]14:35〜15:15
 茂木謙之介氏(東北大学)  雑誌『幻想文学』における須永朝彦

[特別企画]15:20~
高村光太郎『智恵子抄』仏訳(TAKAMURA Kôtarô, Poèmes à Chieko)の刊行をめぐって
 報告者 中里まき子氏(岩手大学)
 報告者 エリック・ブノワ氏(ボルドー・モンテーニュ大学)
 コーディネーター 森田直子氏(東北大学)
今年(2021年)、高村光太郎『智恵子抄』の本邦初となる仏訳が、中里まき子氏の翻訳によりフランス・ボルドー大学出版会より刊行されました。中里氏は福島のご出身で、2011年から10年かけてご訳業を完成されました。この機会に中里氏をゲストにお招きし、刊行までの経緯や翻訳作業において苦心なさった点などについて、お話を伺う(オンラインの)場を設けることにしました。仏訳協力者のエリック・ブノワ氏もご参加くださる予定です(ブノワ氏のお話については中里氏による通訳あり)。企画発案者の森田からのコメントのあとは、フロアもまじえての意見交換、質疑応答の時間といたします。

[参加について]
今回の研究会は、オンライン会議用ソフトZoomを使用しての開催となります。参加を希望される方は、別記事「オンライン参加用登録フォーム」より申し込みをお願いいたします。参加URLや資料については、研究会の前日までにお知らせいたします。
また、研究会の中継会場を東北大学に設ける予定です。会場での参加をご希望の方は、7月12日(月)までに事務局・仁平(masato.nihei.d6☆tohoku.ac.jp(※アドレス内の☆を@に変換してお使いください))までメールにてご連絡ください。
000
仏訳『智恵子抄』。案内にあるとおり、『Poèmes à Chieko』の題で、今年4月に刊行されました。紀伊國屋書店さんのサイトでヒットするのですが、「ただいまウェブストアではご注文を受け付けておりません」だそうで、入手できずにいます。

追記:紀伊國屋さん、取り寄せを始めて下さいました。
003
「本邦初となる仏訳」だそうで、そう言われてみれば、『智恵子抄』として、まとめての仏訳はたしかに無かったように思われます。

日本の名詩、的なもので、光太郎もラインナップに入り、その中に『智恵子抄』の詩篇も取り上げられている、というものはこれまでもありましたが。

004有名なところでは、光太郎生前の昭和14年(1939)、光太郎と交流のあった仏文学者・松尾邦之助による『Anthologie des Poètes japonais contemporains』(メルキュール・ド・フランス社)。この中に「あどけない話」(昭和3年=1928)、「同棲同類」(同)が含まれています。仏訳題は、それぞれ「Histoire innocente」、「Ceux qui se ressemblent vivent ensemble」。他には『智恵子抄』には含まれませんが、「触知」(同)、「火星が出てゐる」(昭和2年=1927)、「街上比興」(昭和3年=1928)、「花下仙人に遇ふ」(昭和2年=1927)。

当方、仏語はほぼほぼお手上げでして、英語に似た単語などを見つけ、そこからこの詩だろう、と推定したり、翻訳ソフトで題名を訳してみたりして突き止めました。しかし、翻訳ソフトもまだまだですね。奇抜な翻訳をしてくれちゃいます(笑)。

「Histoire innocente」→「無邪気な歴史」(あどけない話) 
「Ceux qui se ressemblent vivent ensemble」→「似ている人は一緒に住んでいます」(同棲同類)
「Connaissance par le toucher」→「タッチで知識」(触知)
「Mars est là, dans le ciel !」→「火星は、空に、ここにあります !」(火星が出てゐる)
「Divertissements dans les rues」→「ストリートエンターテイメント」(街上比興)
「Sous les fleurs, je rencontrais un ermite」→「花の下で、私はヤシに会った」(花下仙人に遇ふ)

ちなみに、英訳『智恵子抄』は、当方、二種類持っています。
001 002

左は『CHIEKO'S SKY』。昭和53年(1978)、講談社インターナショナルさんの発行で、古田草一氏の訳です。右が『THE CHIEKO POEMS』。平成19年(2007)、Green Integer Books社さん、訳者はJohn G. Peters氏。それぞれamazonさんなどで入手可能です。

他に、部分的に『智恵子抄』英訳が含まれるものも、複数存在します。

さて、「第23回比較文学研究会」。オンラインでの開催ですが、参加できる環境にある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昨夕温泉に久しぶりにて入る。深い共同風呂にも入る。泉質よきやうなり。


昭和23年(1948)4月26日の日記より 光太郎66歳

前日から宿泊していた、花巻南温泉峡・鉛温泉さんです。「深い共同風呂」は、岩を刳り抜いて自噴している、「白猿の湯」。
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この後も、何度かこの湯を堪能しています。

当会の祖・草野心平の関連です。

まず、7月3日(土)、『福島民友』さんの一面コラム。

編集日記 かわうちワイナリー

 詩人草野心平は酒をこよなく愛した。自らは、味よりも酔いを好む方だからと「学生飲み」を自称していた。酒にまつわる逸話にも、事欠かなかったようだ
 ▼経営していた居酒屋「火の車」では、酒のつまみ作りに腕を振るい、文豪や文化人らでにぎわった。心平が好きだったものの一つにイワナがある。創作の場だった川内村でも、釣れたばかりのイワナのワタを串に刺して焼き、いろりばたで味わっていた(「酒味酒菜」中公文庫)
 ▼村はいま、ワイン用のブドウの産地づくりを進めている。山あいに広がるブドウ畑には7品種、約1万1000本が栽培され、醸造施設「かわうちワイナリー」も先月下旬に開所した
 ▼秋の収穫を待ち、来春には待望の村産ワインが誕生する見通しだ。村の特産品を活用し、ワインに合う料理の開発にも知恵を絞っていこうとしている。心平がほれ込んだイワナも、村自慢の産品の一つだ
 ▼心平は焼酎をベースにしたブドウ酒を造ったことがある。ある名産地のブドウ酒試飲会に誘われたとき新しいヒントが得られるのではないか―と思ったものの、つい行きそびれてしまい未練が残った話も書いている。村のワインを飲んだら、どんな感想を漏らすだろう。

双葉郡川内村は、モリアオガエルの生息地・平伏(へぶす)沼を抱え、その縁で、隣接するいわき出身の「蛙の詩人」・心平が同村にたびたび滞在、村民と深く交流を持ちました。そこで、同村では心平を名誉村民に認定して下さいました。

その川内村で、ワイナリー。元は、東日本大震災による福島第一原発の事故の被害からの復興、ということで構想されました。ブドウは放射線に強いそうで。

『福島民報』さん、先月末の記事。

「かわうちワイナリー」開所式 福島県川内村 年間1万本以上生産目指す

 福島県川内村のワイン醸造施設「かわうちワイナリー」は26日、村内上川内の高田島ヴィンヤード内に完成し、開所式が行われた。関係者が東京電力福島第一原発事故からの農業再生の柱になる施設の完成を祝った。今秋に収穫するブドウから醸造を始め、年間1万本以上を生産予定。「かわうちワイン」の販売を通して国内外に村の魅力を発信する。
 開所式には約60人が出席した。遠藤雄幸村長が「川内村の元気な姿を広く見せていきたい」とあいさつ。ワイナリーを運営する、かわうちワイン社長の猪狩貢副村長が開所までの経緯を紹介した。
 内堀雅雄知事が「村の魅力が高まり、交流人口の拡大につながることを期待している」とあいさつし、横山信一復興副大臣、葉梨康弘農林水産副大臣、江島潔経済産業副大臣兼原子力災害現地対策本部長らが祝辞を述べた。遠藤村長らがテープカットし、開所を祝った。
 施設は鉄骨造りで建築面積は561平方メートル。醸造用のタンクのあるタンク室や貯蔵庫、ブドウを搾る機械などを備える。一般向けに不定期で見学会を開くほか、将来的にはワインの試飲や販売も行い、交流やにぎわいの拠点にする。
 高田島ヴィンヤードは阿武隈高地の最高峰・大滝根山を望む標高約700メートルにある。約3ヘクタールの畑で1万1000本のブドウを栽培。昨年秋には初収穫を行い、初のワインが完成した。
 昨年末に村に移住し、ブドウ栽培の責任者を務めている同社の安達貴さん(34)が醸造も担当する。出席者にタンク室などを案内した安達さんは「ブドウはおおむね順調に育っている。魅力的で特徴のあるワインを造りたい」と決意を語った。
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仙台に本社を置く『河北新報』さん。

川内村にワイナリー 地元でブドウ栽培、避難解除5年、産業化目指す

 東京電力福島第1原発事故で一時全村避難を強いられた福島県川内村に26日、ワイン醸造所「かわうちワイナリー」が開所した。村内で収穫したブドウを原料にしたワイン開発事業に、官民一体で約6年前から取り組んでいて、村は「かわうちワイン」を核とした新たなまちづくりを進める。
 現地であった記念式典には関係者ら55人が出席し、完成を祝った。ワイナリーは村北部の小高い丘の大平地区に建設され、栽培や醸造、瓶詰めを一貫して行う。750ミリリットル換算で1万9000本の生産が可能で、今秋収穫分から醸造を始める。
 標高約750メートルの周囲には約3アールのブドウ畑があり、シャルドネなど数種類のブドウの木約1万1000本が植えられている。ワインの味を左右するとされる土壌にはミネラル分を含む花こう岩の成分が含まれているため、良質なブドウが育つという。今年3月には昨秋に収穫されたブドウを山梨の工場に委託醸造した「シャルドネ2020」が披露された。
 2015年からワイン造りの構想が練られ、翌年に地元住民らによるブドウ栽培が始まった。17年には村も出資する醸造会社「かわうちワイン」が設立された。同社はレストランや宿泊施設などの経営も検討している。栽培・醸造責任者の安達貴さんは「まだ準備ができた段階。選ばれ続けるワインを造りたい」と話す。
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確かに心平に飲ませたかったところですね(笑)。

その川内村で、2年ぶりに、心平をたたえる「天山祭り」が今週末に開催されます。

第56回 天山祭り開催のお知らせ

今年度の天山祭りは、新型コロナウイルス感染拡大予防のため、参加者を福島県在住の方100名程度に限らせて開催いたします。また、会場での飲食物の提供及び飲食も控えさせていただきます。

日 時 令和3年7月10日(土) 午前10時から正午まで
場 所 天山文庫前庭(雨天時は川内村村民体育センター)
参加者 福島県在住の方 100名程度
参加費 1人500円
※ 来場者にはお土産を配付させていただきます。

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当方、4回ほど参加させていただきました。生前の心平が愛し、心平没後は心平を偲ぶ意味合いを持たせ、さらに東日本大震災後は、村の復興祈願も兼ねたイベントとなりました。

会場の天山文庫(上記画像イラスト)は、心平の別荘的な建物で、心平から寄贈された書籍が所狭しと置かれているため「文庫」の名が冠されています。建設委員には光太郎実弟にして心平と親しかった、髙村豊周も名を連ねました。

例年ですと、かつて心平が主宰した『歴程』同人の皆さんなどによる、心平詩の朗読等が盛り込まれていましたが、今年は規模を縮小しての開催のようで、どうなりますことやら。

福島ご在住の方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「光太郎詩集」再版のため検印紙一〇〇〇枚捺印。


昭和23年(1948)3月26日の日記より 光太郎66歳

「光太郎詩集」は、鎌倉書房版『高村光太郎詩集』。前年7月に初版が出た、光太郎初の単独選詩集で、『道程』時代の明治末から、『智恵子抄』所収の「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)まで、70篇余の詩が収められています。編集・装幀・跋文は心平でした。

跋文から。

現代日本最高の詩人が岩手の山奥の藁と泥とがたぴしの板とでできた小さな小屋で独り貧寒の自炊をしながら、むしろ伝説的な精進に昼と夜とを過ごしてゐることを一応私は報告しておきたい。
私の家の竹藪ではもう鶯もなきはじめたが、あの掘立小屋の界隈は陣陣さむく、まだまだレントゲン色の吹雪もやつてくるだらう。超人的な貪婪な、六十五歳の美のかたまりがそこにゐる。


「検印紙」は、奥付に貼る紙片。印税を計算するためのもので、著者が捺印することになっていました。現在は廃止されています。

頼んでおいた新刊が届きました。

1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄

2021年6月30日 岡本勝人著 左右社 定価2,400円+税

関東大震災に揺られる日本の〈世紀末〉を文学者たちはどう生きたのか?

やがて来る時局に絡められつつある高村光太郎、モダニズムの隘路に囚われゆく横光利一、原日本を求め危うい道を行く堀辰雄――。

モダニズムからダダイズム、シュルレアリスムまでヨーロッパ文化が怒涛のようにもたらされ、渦巻いた1920年代。
高村光太郎・横光利一・堀辰雄・中原中也・小林秀雄・西脇順三郎・瀧口修造・中川一政・古賀春江・芥川龍之介・谷崎潤一郎・萩原朔太郎・宮沢賢治ら、あまたの作家たち、詩人たちがそれぞれの青春を生きていた帝都東京を、1923年9月1日、関東大震災が襲う──。転換する時代と文学者の運命を描く力作。
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目次
はじめに
Ⅰ 一九二〇年代とはいかなる時代か
 1大正の大震災 2モダニズムのあけぼの 3四季』と新しい文学運動 
 4中原中也と小林秀雄
Ⅱ 大震災と改元
 1関東大震災 2中川一政と古賀春江 3大正文学考 4震災からの復興
 5「昭和」への改元 6大正から昭和へ続くもの 7堀辰雄と軽井沢
 8一九二〇年代東京 
Ⅲ 芥川龍之介と谷崎潤一郎の震災余燼

 1「パンの会」と一九二〇年代 2谷崎潤一郎の文体
 3「パンの会」と谷崎、そして佐藤春夫
 4佐藤春夫の『我が一九二二年 詩文集』、「秋刀魚(さんま)の歌」
 5近代詩の成熟 6一九二〇年代の地方出身者と東京 7草野心平と高橋信吉 
Ⅳ 高村光太郎の造形芸術
 1新帰朝者としての光太郎 2
一九二〇年代の光太郎 3光太郎と智恵子
 4光太郎の戦後へ
 5高村光太郎の芸術の総体 6戦後の「典型」
Ⅴ 横光利一のモダニズム
 1横光利一とその出発 2上海 3横光利一の詩と散文 4横光利一と北川冬彦、宮沢賢治 
 5横光利一の悲劇とその解読
Ⅵ 堀辰雄の文学空間
 1一九二〇年代の堀辰雄 2
軽井沢「美しい村・風立ちぬ」と堀辰雄 
 3堀辰雄の『幼年時代』と下町 4カロッサとリルケ 5再び堀辰雄の下町
 6堀辰雄をめぐる文学風景 7堀辰雄の
フローラ 8日本的深化と大和路の旅
 9堀辰雄の表現主義
Ⅶ 萩原朔太郎と宮沢賢治の東京志向
 1一九二〇年代と現在 2萩原朔太郎の彼方へ 3朔太郎の移動
 4宮沢賢治の移動の時代とオノマトペ 5自然災害と仏教思想
 6朔太郎と賢治、ふたりの「世紀末」 7「有」の詩人と「
」の詩人 
 8「垂直性」と「水平性」
Ⅷ 一九二〇年代という世紀末
 1混沌とする文化状況のなかで 2歴史と文学 3パウンドとフェノロサ
 4一九二〇年代という世紀末
おわりに

著者の岡本勝人氏は、『週刊読書人』さんで40年間書評を担当なさっていたそうで、そうしたご経験に基づく幅広い視点から論が展開されているように思われました。

「世紀末」とありますが、19世紀、20世紀といった括りでの「世紀末」では当然なく、明治から十五年戦争へと移りゆく過渡期としての「世紀末」という設定です。

一九二〇年代に端を発するヨーロッパ・モダニズムや社会主義思想の受け入れには、同時代的な受容もあれば、時間的な遅延を伴う受容もあり、日本的偏差を踏まえた選択的受容もあったであろう。加えて日本では、関東大震災という文明史的な歴史の断層があった。(略)一九三〇年代から四〇年代については、日本ファシズムに収斂していく政治と文学の暗い狭間の光景として、比較的多くの人によって語られてきた。あまり語られることのなかった一九二〇年代は、明治憲法下という限界を蔵しながらも、大正期に発生した自由な文化の萌芽の一面を見事なまでに垣間見せてくれる。百年後の今日からみたとき、この時代がどのような絵像を結ぶか、本書で検証してみたい。(はじめに)

一九三〇年代という時代は、かつて十五年戦争といわれた戦時期に直接的につながり、全体として、反省的に論ぜられることが多かった。しかし一九二〇年代は、未熟ではあるが、大正と昭和期にまたがる生成の途上の時代として、現代がもう一度その歴史から学びなおすことのできる問題点と経験知を内蔵する時代である。(萩原朔太郎と宮沢賢治の東京志向)

取り上げられている各文学者の「一九二〇年代」を中心に、それまでの過程、そこかで培われたものがその後にどういう影響を及ぼしたかなどが、幅広く論じられています。

光太郎についても、同様です。光太郎にとっての「一九二〇年代」は、智恵子との同棲生活が比較的安定し、関東大震災を契機に再び始めた木彫が世に受け入れられ、詩の分野でも、「雨にうたるるカテドラル」などの力強い作品を発表していた時期でした。そこに到るまでの明治末の欧米留学や、帰朝後のパンの会、フユウザン会などでの活動や智恵子との邂逅、一九三〇年代以降の翼賛活動や、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活等までを俯瞰しています。太田村で書かれた、自らの半生を振り返る連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の詩篇が効果的に引用され、章全体で、簡略な光太郎評伝とも成っています。

また、目次からも類推できると存じますが、他の作家の項にも、たびたび光太郎が登場しますし、光太郎と交流の深かった面々についても興味深く拝読しました。

ただ、蛇足ながら、光太郎の書き下ろし評伝『ロダン』(昭和2年=1927)を「翻訳」とするなどの事実誤認や、誤字(上記帯文の「絡め」も「搦め」ですね)等が多いのが残念です。また「参考文献」の項が一切無いのですが、どうも『高村光太郎全集』も、全21巻+別巻1の増補改訂版でなく、全18巻の旧版を使われているようで……。

そうした点は目をつぶるとして、労作、好著です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

朝はれる。 十時頃までねてゐる。 セキまだ出る。 冬三ヶ月間の温泉泊りをしきりに考へる。

昭和23年(1948)3月17日の日記より 光太郎66歳

セキ」は宿痾の肺結核によるもので、前後には血痰に関する記述もあります。「冬三ヶ月間の温泉泊り」は、これも前後の記述から、大沢温泉さんの湯治部や、花巻温泉さんに当時あった、コテージ的な貸別荘などを想定していたことがわかります。確かに農閑期でもある厳冬には、電線も引かれていない山小屋にこだわる必要性もあまりなかったわけで、弱気になることもありました。しかし、結局は、この山小屋で丸7年を過ごすことになります。

まずは『日刊ゲンダイ』さんのデジタル版。紙面にも載ったのでしょうか、未確認ですが。

佐高信「この国の会社」 中村屋のカリーは「恋と革命の味」 そこに込められた“辛い意味”

002 元気がなくなると、新宿の中村屋に行ってカレーならぬカリーライスを食べる。「恋と革命の味」といわれるカリーである。
 中村屋は最初、本郷の東大正門前にあった。1901年に相馬愛蔵、黒光夫妻がそこでパン屋を開いた。クリームパンのヒットをきっかけに新宿に移ったが、相馬夫妻の下、彫刻家の荻原碌山や詩人の高村光太郎らが集まるようになり、文化的サロンの場となった。単なるパン屋ではないということである。
 また、夫妻はインド独立運動の闘士、ラース・ビハーリー・ボースを匿(かくま)う。
 そのボースが伝えたのが純インド式カリーである。ボースは匿われている間に相馬夫妻の娘の俊子と親しくなり、結婚して、哲子が生まれた。しかし、まもなく俊子が亡くなるという悲運に見舞われる。
 それで、「恋と革命の味」と呼ばれるのだが、そこにはかなり辛い意味がこめられている。
  悲願のインド独立を果たすため、ボースはイギリスと戦う日本の軍隊に希望を託し、ナチス・ドイツとの連携を訴えるようにもなった。日本のファシスト、大川周明と親しくなって、全国各地を講演して歩いてもいる。
 中村屋では、日本で初めて、水ようかんの缶詰をつくった。和菓子が夏には売れないので、和菓子職人として有名だった荒井公平を招き、水ようかんの缶詰を開発させたのである。これは現在でも人気商品となっている。
「故(ふる)きのれんに」と始まる現在の社歌ではない旧社歌は1930年に制定された。
 蒼茫かすむ 武蔵野に 見よ朝ぼらけ 紅の
 強き光りに 輝きて 礎ふかく ゆるぎなき
 黒き甍(いらか)の 重く摩す 是ぞ我等が 中村屋
 作詞が阿里信で、作曲がマルクラスだが、阿里は社員の萱場有信のペンネームで、マルクラスはロシア革命で祖国を追われたウクライナ出身のピアニストである。ここにもインターナショナルな中村屋の雰囲気が出ている。

相馬愛蔵。信州穂高(現・安曇野市)生まれの実業家です。妻・黒光ともども、メセナの嚆矢として、光太郎の親友だった同郷の碌山荻原守衛をはじめ、多くの芸術家を援助し、彼等によって「中村屋サロン」が形成されました。その流れから、中村屋サロン美術館さんが開設されました。

光太郎は海外留学からの帰朝後、ほぼ中村屋に起居していた守衛のもとをしばしば訪れたので、上記に名が上がっていますが、明治43年(1910)の守衛の急逝後は、足が遠のいたようです。

サロン美術館さんが3階に入っている「新宿中村屋ビル」の8階がレストラン「Granna」さん、または時期によるようですが、チェーン展開の「新宿中村屋オリーブハウス」さんの浦和店/蒲田店/北千住店/新宿高島屋店/国分寺店/吉祥寺店、それから池袋東武百貨店内の「洋食レストラン新宿中村屋」さんで、記事にある「カリー」がいただけます。
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当方も一度、「Granna」さんでのコース料理として食しましたが、なるほど、「カレー」ではなく「カリー」でした(笑)。ちなみにレトルトの通販も行われているそうです。

中村屋さんといえば、智恵子も訪れています。昭和4年(1929)に開催された「旧青鞜同人のあつまり」という女子会の会場が、新宿中村屋さんでした。
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写真では、野上弥生子の陰に隠れて、顔がよく写っていませんが……。

もう1件、中村屋さんネタで。

相馬愛蔵の妻・黒光の生涯を描いた、故・葉室麟氏の小説『蝶のゆくへ』が文庫化されました。

蝶のゆくへ003

2021年6月18日 葉室麟著 集英社(集英社文庫)
定価836円(税込)


ガールズ、ビー・アンビシャス! 新しい生き方を希求した明治の女性たち──。葉室麟が遺した、今を生きるあなたへのラストメッセージ。

明治28年、旧仙台藩に生まれた星りょうは、自分らしく生きたいと願い、18歳で上京し、明治女学校へ入学する。その利発さから「アンビシャスガール」と呼ばれていたりょうは、新しい生き方を希求する明治の女性たち──校長の妻で『小公子』翻訳家・若松賤子、勝海舟の義娘クララ、作家・樋口一葉らと心を通わせていく。新時代への希望と挫折、喜びと葛藤が胸に迫る、著者からのラストメッセージ。

紛らわしい書き方になっていますが、「明治28年」は、黒光の生年ではなく上京の年です。

光太郎もちらっと登場します。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

<朝ねてゐる時小鼠天井の梁より落つ>


昭和23年(1948) 3月1日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、退治しても退治しても絶滅しない鼠たち、奇妙な「同居人」(「人」ではありませんが(笑))でした。

昨日の『朝日新聞』さん、投書欄から。

(声)若い世代 詩を通して考える大切さ実感

 学校の「いじめ問題を考える週間」は有意義なものだった。私は図書委員として、詩の朗読を校内放送で行った。私が選んだのは高村光太郎さんの「最低にして最高の道」。
 一見すると、いじめ問題と関係ないように感じるかもしれない。しかしこの詩は、人間が生じさせる怒りや憎しみなどにとらわれず、楽しく幸せに生きよう、という意味が込められていると思っている。
 詩を選ぶにあたり、「いじめ、友情って何なんだろう」と様々なことを考えた。いじめは、人間のわずかな感情のもつれから引き起こされる。つらいことがあるけど、他者を認め、まっすぐな気持ちで受け止めれば最高の道になると、高村光太郎は言っているような気がする。そんな気持ちがあれば、いじめも解決できると思う。今回、詩を通して深く考えることの大切さを実感した。
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真っ直ぐで初々しい、いい文章ですね。

「最低にして最高の道」、昭和15年(1940)の詩です。003

   最低にして最高の道
 
 もう止さう。
 ちひさな利慾とちひさな不平と、
 ちひさなぐちとちひさな怒りと、
 さういふうるさいけちなものは、
 ああ、きれいにもう止さう。
 わたくし事のいざこざに
 見にくい皺を縦によせて
 この世を地獄に住むのは止さう。
 こそこそと裏から裏へ
 うす汚い企みをやるのは止さう。
 この世の抜駆けはもう止さう。
 さういふ事はともかく忘れて
 みんなと一緒に大きく生きよう。
 見えもかけ値もない裸のこころで
 らくらくと、のびのびと、
 あの空を仰いでわれらは生きよう。
 泣くも笑ふもみんなと一緒に
 最低にして最高の道をゆかう。

光太郎詩の中では意外と有名、というか、コアなファンの多い詩といえるかもしれません。二次創作等で扱われるケースも少なくありません。

例えば、沖縄出身のJ-POPシンガーMATSURIさん。テレビ東京さん系で今春放映された連続ドラマ「私の夫は冷凍庫に眠っている」の主題歌「金魚すくい」で注目されたシンガーです。昨年、KAITOさんのという方の作曲になる「最低にして最高の道」をリリースされ、琉球放送(RBC)さんのバラエティー番組「Aランチ」のエンディング曲に採用されたそうです。


クラシック系でも、土屋光彦氏という方が曲を付けられ、平成27年(2015)、「新しい歌を求めて ~大久保豊典が歌う土屋光彦歌曲の夕べ~」というコンサートで披露されています。

エッセイストの松浦弥太郎氏には、『最低で最高の本屋』という御著書があります。タイトルからして「最低にして……」オマージュですね。松浦氏、平成16年(2004)の雑誌『ku:nel』には、この詩にからめたエッセイ「岩手・花巻の高村山荘を訪ねる」も書かれています。
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それから、平成29年(2017)テレビ朝日さんで放映の5分間番組「気づきの扉」では、松浦氏と「最低にして……」のエピソードが紹介されました。

その他、さまざまな朗読系CD等にも、けっこう採られています。

……という、「最低にして最高の道」ですが、元々は昭和15年(1940)9月の雑誌『家の光』第16巻第9号、「国のために私利を捨てん」という欄に掲載されました。

最愛の妻、智恵子を喪くして約2年。かつて智恵子と二人で実践していた、俗世間とは極力交わらず、芸術精進に明け暮れる生活が、智恵子の心の病を引き起こした一因となり、さらにそれを続けていては自分もおかしくなってしまうという危機感から、一転して社会と関わりを持とうと「改心」したことが宣言されています。しかし、その社会は泥沼の戦時体制に入っており、日中戦争は膠着状態、局面打破をはかって翌年には太平洋戦争に突入する、その前夜です。

したがって、「みんなと一緒に」挙国一致体制を支持し、神国日本に勝利をもたらそう、と、そうしたキナ臭い背景のある詩でして、当方、あまり好きになれません。そういった裏の作詩事情を抜きにして読めば、それなりによい詩だとは思うのですが……。

後に昭和17年(1942)には、光太郎の第三詩集『大いなる日に』に収録されました。
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第一詩集が、自らの道を進むことを高らかに謳った『道程』(大正3年=1914)、第二詩集が、かの『智恵子抄』(昭和16年=1941)、そして第三詩集が、すべて翼賛詩の『大いなる日に』。ちなみに第四詩集は光太郎詩集の中で最も陰惨というか、愚劣というか、年少者向けの翼賛詩を集めた『をぢさんの詩』(昭和18年=1943)、第五詩集も翼賛詩のみの『記録』(昭和19年=1944)。

こうして見ると、「最低にして最高の道」が、一つの大きなターニングポイントとなったことがよくわかります。『智恵子抄』末尾に近い「梅酒」(昭和15年=1940)では、「狂瀾怒濤の世界の叫も/この一瞬を犯しがたい。/あはれな一個の生命を正視する時、/世界はただこれを遠巻にする。」と謳っていたのが、やがてそうならなくなり、「狂瀾怒濤の世界の叫」にどっぷりはまっていくわけです。

「最低にして最高の道」。「進め一億火の玉だ」「欲しがりません勝つまでは」といった文言を使わなくても、そういった内容を表せてしまう、光太郎の詩才には舌を巻かざるを得ませんし、こうした作詩背景を無視すれば、確かに現代にも通じる詩ではありますね。上記の投書にあるように「他者を認め、まっすぐな気持ちで受け止めれば最高の道になる」というわけで。

文学作品は、自分なりの読解の仕方があっていいのだ、という論の、一つの証左となるような気もします。

【折々のことば・光太郎】

夕方佐藤弘さん花巻より帰途立寄らる。酢一升ミカキニシン三袋買つてきてくれる。酢は五十円にあがり居れり。秋には二十円なりき。


昭和23年(1948)2月28日の日記より 光太郎66歳

「佐藤弘さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの開拓地に入った青年。光太郎がパシリにしていました(笑)。

終戦から2年半経ちましたが、まだまだ物価のインフレーションなどでの混乱は、収まっていませんでした。

6週連続の放映です。

心に刻む風景 高村光太郎・智恵子

地上波日本テレビ 2021年6月30日(水)~8月4日(水) 
毎週水曜 21:54~23:00(6月30日(水)は野球中継のため22:54
23:00)

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

#1 舞台(二本松)

高村光太郎・智恵子夫妻の愛が綴られた詩集「智恵子抄」。
妻・智恵子は明治19年、裕福な作り酒屋の長女として誕生。
活動的で、自由を愛した女性だった。
まだ女性に学問が不要と いわれた時代に成績優秀。
そして当時では珍しい東京の女子大学に行くことを決め、明治36年、上京する。

ナレーション 日本テレビアナウンサー辻岡義堂
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#1 福島・二本松 6月30日(水)
智恵子は東京に空が無いといふ 阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ

#2 フランス・パリ 7月7日(水)
私はパリで大人になった パリの魅力は人をつかむ

#3 千葉・犬吠埼 7月14日(水)
いやなんです あなたのいってしまふのが よその男のこころのままになるなんて

#4 東京・日比谷松本楼 7月21日(水)
あなたは本当に私の半身(はんしん)です 私を全部に解(かい)してくれるのはただあなたです

#5 栃木・塩原温泉 7月28日(水)
泣きやまぬ童女(どうじょ)のやうに慟哭(どうこく)する

#6 岩手・花巻高村山荘 8月4日(水)
 (オリンピック中継のためこの日は放映なし)
智恵子は死んでよみがへりわたくしの肉に宿ってここに生き かくの如き山川草木(さんせんそうもく)にまみれてよろこぶ

6分間の放送枠ですが、CMが入るので、実質2分程の番組です。一人、乃至は二人の人物にスポットを当て、ゆかりの地数カ所を紹介しながら、それぞれの人物の生き様に迫ります。二人になる場合は、与謝野鉄幹・晶子、白洲次郎・正子など、夫婦でした。昨日まで越路吹雪が取り上げられていましたが、次回から光太郎智恵子です。

一昨年、宮沢賢治が取り上げられた際に拝見し、「光太郎智恵子も扱ってほしいな」と思っておりましたところ、4月でしたか、担当ディレクターの方から連絡を頂き、協力要請がありました。まぁ、たいしたことはしませんでしたが、光太郎智恵子についての質問にお答えしたり、番組内でのナレーション等の内容チェック・校訂などをさせていただいたりしました。

したがって、まだ映像としては拝見していませんが、ナレーション原稿等見た限り、勘どころは押さえ、よくまとまっています。

ネット上の番組ガイド的なサイトでは、一部、来週の放映を「犬吠埼」としていますが、誤りで、まずは智恵子の故郷・二本松からです。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

裏の山にて先日熊狩りありし由。一頭、及笹熊をとりたりといふ。


昭和23年(1948)1月16日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、「裏山」といっても、そのまま奥羽山脈に突入し、およそ20㌔㍍先まで民家など1軒もない状態でした。現在でも熊のメッカです。
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「笹熊」はアナグマのことだそうで。

都下小金井市の古書店・えびな書店さんの新蒐品目録が届きました。同店、以前にもご紹介しましたが、美術系が中心で、書籍も扱っていますが、どちらかというと肉筆などの一枚物に力を入れられています。
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今号では、光太郎の肉筆色紙表装済みが出ています。
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003短歌で、「熊いちこ奥上州の山そはにひとりたうへてわれ熊となる」と書いてあります。伝統的な書き方として、濁点は省略。したがって、「いちこ」が「いちご」、「山そは」で「山そば(山岨)」、「たうへて」は「たうべて(食うべて=「食べて」の意)」です。

大正13年(1924)10月、雑誌『明星』(第二期)の第5巻第5号に「工房より」の題で発表した50首のうちのひとつです。『明星』では「山そは」は「山峡(やまかい)」となっていますが、光太郎自らが校訂をしたとされている、昭和4年(1929)刊行の『現代日本文学全集 第三十八篇 現代短歌集 現代俳句集』に再録した際に「山岨」と改訂されています。

この色紙が書かれたのも、おそらくそれほど離れた時期ではなく、大正末から昭和初め頃と推定されます。筆跡的にもその頃の特徴が表れていますし。

光太郎、明治末から戦時中にかけ、断続的に何度も上州の温泉地めぐりをしています。それもどちらかというと、人里近い温泉街は避け、山間の「秘湯」と言われるようなところを多く廻りました。『明星』にこの歌を発表した大正13年(1924)も、6月に奥上州の温泉地に行ったことが年譜に記されています。ただ、この際は具体的な行き先が不明です。

「熊いちご」は野いちごの一種。ヘビイチゴと似ていますが、もっと丈が高くなるそうです。

それにしても、惚れ惚れするような筆跡ですね。戦後の花巻郊外旧太田村での、彫刻刀で彫り込むような書と違い、あまり気負いなく、さらさらっと書いているようにも見えますが、それでも文字の配置、改行の仕方など、独特の優れた空間認識が見て取れます。

ついでというと何ですが、もう1点。少し前、今年1月にネット上に出たものですが、札幌の古書店・弘南堂さんの目録から。
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弟子屈に住んでいた詩人の更科源蔵旧蔵の、寄せ書き帳。昭和2年(1927)作の連作詩「偶作十五篇」中の2篇が書かれています。上の方が「木を彫ると心があたたかくなる 自分が何かの形になるのを 木はよろこんでゐるやうだ」、下の頁は「急にしんとして 山の匂のしてくる人がある」。

おそらく上記の「熊いちご」と、そう離れていない時期の揮毫と思われます。この書もいつまでも眺めていられそうです。

「ここにこういう光太郎の書の優品があるよ」といった情報、御教示いただけると幸いです。ただ、偽物が多いのも事実で、悩ましいところですが……。

【折々のことば・光太郎】

夜土間で紙に排便。外は雪にて出られず。排便はそのまま外に持ち出す。

昭和22年(1947)12月11日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、便所は別棟で、小屋の外にありました。積雪のひどいときには、こうせざるを得なかったわけですね。

光太郎の蟄居生活、よく、「気ままでのんびりした一人暮らし」、「戦争協力への反省をしていることをアピールするポーズ」的に評したものを見かけます。豪雪の夜、土間の片隅で紙に排便をしている老いた巨軀を想像すると、当方にはそういう表現はできませんね。

過日ご紹介した日本初の女性だけによる雑誌『青鞜』を創刊し、その創刊号の表紙絵日本女子大学校でのテニス仲間だった智恵子に依頼した平塚らいてうの日記について、共同通信さんの配信記事。3日ほど前、複数の地方紙等に掲載されたようです。光太郎智恵子にも軽く触れて下さいました。

元祖「#わきまえない女」、その意外な素顔とは 平塚らいてう没後半世紀、遺族が日記公開

003 女性だけの手による日本初の文芸誌の創刊、大正時代に事実婚、与謝野晶子と母子の権利について論争を繰り広げ、戦後は米国政府幹部に直談判…。すべて、女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)が実際に行ったことだ。中でも女性蔑視とは生涯闘い続けた元祖「#わきまえない女」は、5月で没後半世紀を迎えた。偏見やバッシングをものともせず、信念を貫く姿は、現代の私たちにとっても示唆に富む。最近公開された未公開日記とともに、歩みをたどった。遺族が語る彼女の素顔は、一般に思い描くイメージとは異なっていた。

▽授業ボイコット
 1886年、教育熱心な両親の元、東京で生まれた。東京女子高等師範学校付属高等女学校時代は、良妻賢母主義の教育に不満を持ち、級友と「海賊組」を結成。修身(道徳)の授業をボイコットしたこともあった。その後、17歳で日本女子大学校に進学。同窓生には、後に夫、高村光太郎の詩集「智恵子抄」で知られる長沼(高村)智恵子らがいた。
 英語や漢文、文学に関心を持つ勉強熱心な若者だったが、22歳の時に心中未遂騒動「塩原事件」を起こし、一躍有名になる。参加していた文学研究会の講師で、夏目漱石の弟子だった森田草平と家出し、栃木・那須の雪山にいたところを警察に保護されたのだ。スキャンダルとして大きく報じられ、バッシングにさらされた。
 1911年、女性だけの手による月刊の文芸誌「青鞜」を創刊し、家父長制など女性を抑圧する制度に抵抗した。創刊の辞「元始、女性は太陽であった」には同世代の多くの女性から共感の声が寄せられた。ペンネーム「らいてう」を初めて使ったのもこの時。塩原事件の後、一時、傷心の時を過ごした長野県で親しみ、心引かれた鳥の「雷鳥」から名付けた。
 パートナーは5歳年下の画家、奥村博史で、14年に「共同生活」を公表した。古い封建的な結婚制度への反発から、入籍はせず、二児をもうけた。奥村は病弱で絵はあまり売れず、家計は、らいてうの原稿収入頼み。経済的な苦労は多かった。この頃、出産、育児への国の支援の在り方について、与謝野晶子らと激しい「母性保護論争」を繰り広げた。
 「経済力を得るまでは妊娠、出産を避けるべきで、母子への特別な支援は不要」とする与謝野に対し、らいてうは「安心して産み育てるため、国に支援を求めるのは当然」と反論した。論争は「どちらの意見も大切で、対立する必要は無い」と一段落したが、らいてうにとっては、女性をめぐる社会問題に改めて向き合うきっかけになった。
 20年には市川房枝らと女性の地位向上を目指す「新婦人協会」を設立し、婦人参政権運動を展開する。戦後は平和運動にも力を注いだ。国際民主婦人連盟の副会長も引き受け、国内外に原水爆禁止や軍縮を訴えた。71年5月24日、85歳で死去した。

004▽孫が見たらいてう
 一方、肉親から見たその姿は、世間一般の「らいてう」像とはだいぶ異なる。孫の奥村直史さん(76)=東京都=は13歳まで同居し、らいてうが亡くなるまで交流があった。「身長は約145センチで同世代と比べても小柄。声は小さく内向的で言葉少ない人だった」と振り返る。奥村さんは、孫の視点から長年らいてうを研究し、5月には「平塚らいてう その思想と孫から見た素顔」(平凡社)を出版した。
 忘れられないのは、戦後、奥村さんが小学生だったころの出来事だ。板と輪ゴムで手作りしたゴム鉄砲を家の応接間に置きっ放しにしていたところ、「こんなもの置いちゃだめ。私が嫌いなものなんだから」とひどいけんまくで怒られた。「感情を強く表に出す人ではなかったから、すごく驚いた。当時は武器や軍備について、相当、過敏になっていた。孫がそうしたものに興味を持つことが納得いかなかったのではないか」
 「『女性も主体的な存在』と主張し続け、押しつけられるのを何より嫌がった。もし、らいてうが今の時代に生きていたら、東京五輪・パラリンピック組織委員会会長だった森喜朗氏の発言についても、『明治、大正の時代から何も変わってない。困ったわね』とあきれ返ったと思う」

005▽目線は世界に
 戦後、平和問題に尽力したらいてう。先日、その思いがにじむ自筆の日記が初公開された。プライベートな記載も含まれている、との理由で長年、遺族が保管したままになっていたが、孫の奥村さんの代になり、「らいてうの生涯をたどる上で貴重な資料」との思いから、公開を決めた。
 日記は48~50年の日付で小ぶりのノートに手書きで書かれていた。日々の行動記録や暮らしの様子を淡々と記す中、50年4月13日には「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない瞬間だとこの数日しきりに思ひ悩む」との記載があった。
 当時、日本は連合国軍占領下。講和条約締結に向けて再軍備も議論されていたため、戦争反対の声を上げる必要性を感じていたとみられる。
 居ても立ってもいられなくなったらいてうは、知人の女性らに呼びかけ、同年6月26日、来日中の米国国務省顧問ダレスに「夫や息子を戦場に送り出すことを拒否する」などとする声明「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」を連名で提出。当時、公職追放中だった市川房枝も全面的に協力した。
006 日記を解読した女性史研究者でNPO法人「平塚らいてうの会」会長の米田佐代子さんは、「らいてうの平和活動については『既存の政治勢力に同調した』との見方もあるが、政治的な対立に巻き込まれることなく、自ら考え、中立な立場で訴えようとしたことが日記から裏付けられた」と意義を強調する。
 声明公表日には「日本女性の意思表示を何としてもすべきだと思ひ、政治色なき何名かの婦人の賛助を得て」との記載もあった。
 日記の一部の複製は、長野県上田市にある資料館「らいてうの家」で今年10月下旬まで公開中だ。孫の奥村さんは「家に閉じこもりながらも、目線は世界に開いていた。日記を通じて、らいてうの生き方や平和への思いに関心を寄せてもらえたら」と願っている。

007当方もそう感じてこのブログに書きましたが、やはり「元祖「#わきまえない女」」ということで。そもそも、『青鞜』という雑誌名自体が、18世紀、イギリスのエリザベス・モンタギューのサロンに集まり、芸術や科学を自由に論じた女性たちが、一般的な黒いストッキングではなく、青いストッキングを穿いて「ブルー・ストッキング・ソサエティ」として世間を挑発したことに由来します(そちらが「元祖#わきまえない女」のような気もしますが)。そのエピソードが日本に紹介された当初は「紺足袋党」などと訳されていました。『青鞜』の「鞜」の字義は、厳密には「ストッキング」ではなく「くつ」なのですが、何しろ明治末、うまい漢字の当て方がなかったのでしょう。雑誌名が『青鞜』ではなく『紺足袋』にならなくて良かったと思います(笑)。

ちなみに現在のNPB北海道日本ハムファイターズさん。球団史をさかのぼると、戦後すぐ創設された球団「セネタース」に行きつきます。このセネタース、ユニフォームが青色だ008ったため、正式名称ではありませんが「青鞜セネタース」「青鞜軍」と表記される場合があったとのこと。ジャイアンツのみ現在でも「東京読売巨人軍」ですが、タイガースが「猛虎軍」、他にも「西鉄軍」、「金鯱軍」などの球団名があったそうです。「猛虎」対「青鞜」、どう考えても「猛虎」が勝つような気がします(笑)。しかし「セネタース」、かの青バットの大下弘選手が所属しており、決して弱小球団ではなかったようです。

閑話休題。らいてう没後50年のこの2021年、「#元祖わきまえない女」としての業績の数々、さらに注目されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

終日くもり、時々小雪。昨夜の積雪のとけざる上にふる。恐らく根雪とならん。

昭和22年(1947)12月3日の日記より 光太郎65歳

「根雪」。温暖な房総に暮らしている身には、無縁の単語です(笑)。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数出版して下さっている文治堂書店さん。そのPR誌的な『トンボ』の第12号が届きました。
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当方の連載「連翹忌通信」が掲載されています。

そうそうネタがあるわけでもなく、これまでの光太郎智恵子らに関する新しい発見等で、このブログでご紹介してきたことを再編して書かせていただいております。ブログとPR誌と、どうも読者層も異なる部分があるようですので、それもありかな、と、勝手に決めております(笑)。

拙稿は、前号から継続で、光太郎塑像彫刻の代表作「手」(大正7年=1918)に関して。前号では、昨年発見しました、大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』第3巻第1号に掲載された、光太郎の「手紙」という文章について。彫刻「手」制作時、リアルタイムで自作について述べた文章でした。

今号では、さらに同じく昨年、やはり「手」について書かれた、昭和2年3月1日発行の雑誌『随筆』第2巻第3号掲載の「手」という文章について書こうかとも思ったのですが、そちらは次号に回し、『白樺』での仲間だった有島武郎と「手」について書きました。有島は「手」を入手、自殺(大正12年=1923)直前にはそれをことのほか愛でていました。この「手」は、有島没後は親しかった秋田雨雀の手に渡り、さらに現在は竹橋の東京国立近代美術館さんに収められ、時折、常設展示で出ています(今日現在も)。有島と「手」について、くわしくはこちら

他に、光太郎と交流のあった詩人・野澤一の子息で、『とんぼ』に寄稿されたこともある、野澤俊之氏の追悼文が掲載されています。ご執筆は、野澤氏と親しかった、野澤一研究家の坂脇秀治氏です。

ご入用の方、文治堂さんのサイトまで。頒価500円だそうです。

【折々のことば・光太郎】

昨夜も雪、朝小雪時々日影さし、又吹雪のやうになる。 穴掘りむつかしく思はれるにつき阿部弘さんにハガキを書き、林檎苗移植は来年にのばしてくれるやうたのむ。

昭和22年(1947)11月27日の日記より 光太郎65歳

「阿部弘」は「阿部博」の誤りです。阿部は宮沢賢治の教え子で、花巻での林檎栽培普及に大きく貢献た人物です。光太郎の山小屋前に、林檎の苗を植えたらどうか、と、提言していました。

NHK Eテレさんで放映中の「にほんごであそぼ」。「日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。」というコンセプトです。時折、光太郎詩を取り上げて下さっていますが、来週の放映でも。

にほんごであそぼ「祭りのかけごえ」

NHK Eテレ 2021年6月3日(木) 17:00~17:10(3月29日から放送時間が変わりました 木・金は夕方のみの放送となります。)

今回は、阿波踊りの掛け声をご紹介します。ほかに、博士と助詞/僕の前に道はない「道程」高村光太郎、あいだのじいさん/砂糖と塩のあいだ、はんじえ/おむすび→ごぼう、名文を言ってみよう!/雨ニモマケズ、うた「しったかぶり」。
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「道程」(大正3年=1914)は、これまで、子役さんたちの朗読や、坂本龍一さん作曲の歌で取り上げられてきましたが、どんな感じになるのでしょうか。

ところで、同じ番組で少し前に当会の祖・草野心平の詩「誕生祭」に、尺八奏者の藤原道山さんが作曲した歌が取り上げられました。


7:27頃から。

この歌について、『山形新聞』さんが一面コラムで紹介しています。

談話室

▼▽〈びがんく/びがんく〉〈があんびやん/があんびやん〉―。NHK・Eテレの子ども向け番組でオノマトペだらけの一風変わった歌を耳にした。草野心平の詩「誕生祭」の後段にある擬音部に曲を付けたものだった。▼▽草野は「蛙(かえる)の詩人」と呼ばれるほど蛙の世界をテーマにした作品を作り続けた。この詩もその一つだ。金だらいのような月が昇る頃、生まれたことを祝う蛙たちの歓喜の合唱が水辺に響き渡る場面を表現したとされる。詩人は交錯する鳴き声を独特の感性で言葉に変換した。▼▽26日夜、3年ぶりに日本で皆既月食が観測された。夜空に目を凝らした方も多かろう。筆者も自宅近くの田中でその時を待った。薄い雲が広がり、おぼろな月影が食によるものかどうか判然としない時間が続いたが、雲が切れると田の水鏡にも赤銅色の月が小さく浮かんだ。▼▽〈蛙よ/口笛をふいて/寂しい月蝕(しょく)をよべ/花火をかこんで/青い冷や酒を傾けよう〉。草野はこんな詩も書いている。騒々しい蛙の声に囲まれての観測は約30分で終了。〈びがんく〉とも〈があんびやん〉とも聞こえなかったが、天体ショーを喜んでいるふうではあった。

ありがとうございます。

皆既月食の件にも触れられていますが、都内ではほぼ見えなかったようです。すると、Facebookやtwitterでは、「東京に空が無い」と、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)にかけた投稿が散見されました。喜んでいいのかどうか(笑)。

さて、「祭りのかけごえ」の回、ぜひご覧下さい。それにしても、「3月29日から放送時間が変わりました 木・金は夕方のみの放送となります。」だったのですね。以前は平日の毎朝夕、2回放送だったのですが。

001【折々のことば・光太郎】

岩田豊蔵氏の息来訪。(自転車)、「雑草社」の看板の字を持参の朴の板に書く。草といふ字を間違へしにより、も一度削つて持参の事をたのむ。


昭和22年(1947)11月9日の日記より 光太郎65歳

「岩田豊蔵氏」は、宮沢賢治の妹・シゲの夫。アマチュア洋画グループ「雑草社」を結成し、光太郎にその看板の揮毫を頼みました。しかし、光太郎、「草」の字の最後の縦棒を「日」の部分から突き抜けさせてしまい、「また書くから削って消してきてくれ」。

翌年、もう一度書いたのですが、やはり「草」の字を書き誤りました。結局、「これはこれでおもしろい」と、開き直り(笑)。現物は現在、花巻高村光太郎記念館さんに所蔵されています。

いわゆる「ゲシュタルト崩壊」を起こしたのではないかと思われます。




当会顧問であらせられ、昨年1月に亡くなった、故・北川太一先生最後の御著書『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』を前面に押し出すチラシが完成したそうで、版元の文治堂書店さんからメールでPDFファイルが添付されてきました。
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もう1冊、一昨年刊行の『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』も紹介されています。

裏面下部が注文用紙となっており、「郵送かFAX又は電子メールでお送り下さい。◆本ご注文用紙でご注文の場合に限り、送料弊社負担とさせていただきます。」だそうです。上記画像、プリントアウトしてお使い下さい。電子メールの場合はスキャンするなりしてくれということでしょうか。

ついでに云うなら、「◉上記①②以外の書籍をご希望の場合は下記に書籍タイトル及び注文冊数をご記入の上、お送り下さい。」とのことです。それぞれ平成27年(2015)刊行の『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』も、北川先生のご著書。この機会にぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

途中紅葉の山々美し。山口山の雑木の紅葉殊にめざまし。早池峰も遠くかすんでゐる。

昭和22年(1947)11月4日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、片道4㌔㍍ほどの隣村の郵便局に歩いて行った際の記述です。「山口山」は、山小屋裏手の低山群の総称です。
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没後50年を迎えた平塚らいてう(智恵子の先輩)について、昨日のこのブログで、最近の報道、新聞複数紙の一面コラム等をご紹介しましたが、昨日、『山陽新聞』さんでも一面コラムでらいてうを取り上げました。

滴一滴

「わきまえない女」の先駆者だろう。平塚らいてうが、女性だけで作る日本初の文芸雑誌「青鞜(せいとう)」を立ち上げたのは25歳のとき。有名な創刊の辞は一晩で書き上げたものという▼〈元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依(よ)って生き、他の光によって輝く、病人のやうな蒼(あお)白い顔の月である〉▼110年前の明治期の終わり。控えめで自我を持たないことが女性の美徳とされた時代である。高らかに自立を呼び掛けて女性たちの共感を得たものの、猛烈な批判も浴びた。「社会の風紀を乱す」と雑誌が発禁処分になったこともある▼らいてうといえば、女性解放運動家で強い人というイメージだが、孫の奥村直史さんの著書を読むと印象が変わった。身長約145センチと小柄。物静かで、大きな声を出すのが苦手だったという▼そんな実像とは違い、残された文章はいま読んでも力強い。世の中を変えるためには沈黙していてはいけないと、声を上げる勇気を持ち続けた人なのだろう。女性参政権運動や平和運動に力を注ぎ、1971年5月24日、85歳で亡くなった。没後50年になる▼社会はどこまで変わったろうかと考えさせられる。コロナ禍で浮き彫りになったのは非正規雇用が多い女性の苦境である。沈黙していてはいけない問題が社会にはまだまだある。

当方、昨日のブログには「元祖「#わきまえない女」とでもいいましょうか」と書きましたが、やはりみなさん、同じように感じるのですね。

一面コラムといえば、遡って今月9日(「母の日」)の『毎日新聞』さん。らいてうがメインではありませんが。

余録

親しみやすいメロディーの「おたまじゃくしはカエルの子」。原曲は南北戦争の北軍愛唱歌「リパブリック賛歌」だ。「グローリー・グローリー・ハレルヤ」の歌詞に聞き覚えがある人も多いだろう。作詞した女性詩人、ジュリア・ウォード・ハウは米国で「母の日」を提唱した先駆者だ。戦争後、夫や子を二度と戦場に送らないと「母の日宣言」を発表した▲同時代に「母の日ワーククラブ」と名付けたボランティア組織で、乳児の死亡率低減や戦傷者救済に取り組んだ女性社会活動家がアン・ジャービスだ。その娘のアンナが「母の日」の創設者とされる。母の遺志を継いで政府を動かした。1914年にアンの命日(5月9日)に近い5月第2日曜が「母の日」と定められた▲イラク戦争で息子を亡くして米軍撤退を求め「反戦の母」と呼ばれたシンディ・シーハンさんは、平和を希求したハウ以来の女性の活動を「母の日の永続的な遺産」とたたえた▲日本の女性運動の草分けで、戦後は平和運動に取り組んだ平塚らいてうも「母こそ平和の力です」と訴えた。子を思う母の気持ちは世界共通だ▲だが、紛争地では今も受難が続く。軍事クーデターが起きたミャンマーでは多くの子どもが国軍の弾圧の犠牲になった。対テロ戦争の舞台となったアフガニスタンでは乳児が20人に1人の割合で命を落としている。実に日本の25倍だ▲日本は戦後、平和を享受してきた。コロナ禍の「母の日」。改めて平和の意義を考える機会にしてはどうだろう。

なるほど、という感じです。

らいてう没後50年と云えば、都内北区の田端文士村記念館さんで、以下のミニ展示が為される予定です。

平塚らいてう没後50年特別展~らいてうの軌跡~

期 日 : 2021年6月1日(火)~9月19日(日)
会 場 : 田端文士村記念館 東京都北区田端6-1-2
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日と水曜日が休館)
      祝日の翌日(祝日の翌日が土・日曜日の場合は翌週火曜日が休館)
料 金 : 無料

「原始女性は実に太陽であった」という、今も語り継がれる名文を残した平塚らいてうは、本年、没後50年の節目を迎えます。本展では、らいてうが田端で過ごした時代を中心に、その社会的な活動から家庭的な一面までをご紹介します。
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同館、5月16日(日)には市民講座「平塚らいてう没後50年~青鞜から新婦人協会までの軌跡~」を予定していましたが、コロナ禍のため中止。さらに現在、緊急事態宣言発令中ということで、休館しています。一応、6月1日(火)から再開となっていますが、宣言延長の場合にどうなるかはよくわかりません。

こちらはミニ展示。メインの展示は「心豊かな田端の芸術家たち」。光太郎、光雲らと関わった面々が多く取り上げられます。こちらの紹介は明日。

【折々のことば・光太郎】

朝霜白し。今日も上天気、一片の雲をも見ず、風なく小春日和。 フトン干。オサツ干。

昭和22年(1947)11月1日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、11月ともなると霜が降りるのですね。日中はおだやかだったようですが。

「オサツ」は「お札」ではありません(笑)。サツマイモです。乾燥イモを作るため、干していたのです。サツマイモは幼少時からの大好物でした。

日本初の女性だけによる雑誌『青鞜』を創刊し、その創刊号の表紙絵を智恵子に依頼した平塚らいてう。智恵子と同じ日本女子大学校家政学部で一学年上、テニス仲間でもありました。

そのらいてう、昨日が忌日、しかも没後50年ということで、いろいろなところで取り上げられています。

まず『朝日新聞』さん。5月21日(金)の掲載でした。

没後50年の平塚らいてう、日記ににじむ平和への信念

 女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971)の未公開の日記が見つかり、一部を長野県上田市の資料館「らいてうの家」で公開している。女性が平和問題に積極的に声を上げるべきだ、との信念がうかがえる。24日で、らいてう没後50年となる。
 日記は48~50年の日付でノートに書かれ、らいてうの孫にあたる東京の男性が自宅で保管していた。主に文筆活動や生活についてつづられ、その一部のコピー数点を展示している。
 戦後の連合国軍占領下の50年4月13日には、「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない瞬間だとこの数日しきりに思い悩む」と吐露。こうした意思は同年6月、女性の立場からいかなる戦争にも加担しないことを宣言した「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」の公表につながった。
 女性史研究で知られ、NPO法人「平塚らいてうの会」(東京)の米田佐代子会長(らいてうの家館長)によると、50年当時は講和条約の締結に向けて政治的な発言をする女性はほとんどいなかったという。「再軍備か非武装かの議論の分かれ道で、戦争でつらい体験をした女性こそが、戦争反対の声をあげる重要性を発信したかったのだろう。記述からは、1人でもんもんと考えていた様子が見て取れる」と読み解く。
 こうした大まかな経緯については、らいてうに関する書物で明らかになっているが、米田会長は「らいてうの直筆資料で裏付けられた意義は大きい」と指摘。7月11日に、米田会長がらいてうの家で資料の解説を予定している。
 らいてうの家は冬季閉鎖し、今年は4月24日にオープンした。毎週土、日、月曜の午前10時半~午後4時(夏季は午後5時まで)に開館。入館に500円程度の運営協力金を求めている。
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同じ件、共同通信さんは、既に先月、報じていました。

長野・上田市の記念館 らいてうの未公開日記を公開

 女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)の足跡をたどる記念館「らいてうの家」(長野県上田市)が冬季休館を終え、24日開館した。例年期間限定でオープンしている。らいてうの死去から5月で半世紀となる今年は、平和問題に対する考えをつづった未公開の日記の複製が初めて公開されており、注目を集めそうだ。 
 日記の50年4月13日の欄には「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない〇〇(判読不能)だとこの数日しきりに思ひ悩む」と、平和問題に対して女性が声を上げる必要性を記していた。
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見出しだけ読んだ時点で、「『青鞜』創刊の頃の日記で、智恵子や光太郎に言及されているといいな」と思ったのですが、残念ながら戦後のものでした。それでも一級の資料ですが。

同じ共同通信さんで「平塚らいてう、没後50年 別姓先駆者、抑圧と闘う」という記事も出ているのですが、ネット上では閲覧できませんでした。

らいてうの女性問題に関する活動等についても、いろいろと。

『高知新聞』さん一面コラム。昨日の掲載です。

小社会 110年前の主張

 平塚らいてうは明治から昭和にかけ、女性解放運動で活躍した。特に「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった」の評論はよく知られる。
 明治末期の1911年、女性のための文芸誌「青鞜(せいとう)」の創刊号に発刊の辞として掲載された。「今、女性は月である。他に依(よ)って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼(あお)白い顔の月である」と続く。
 女性が男性に依存せざるを得ない、病んだ世と訴えたかったのだろう。ちょうど110年になる。成熟した国なら歴史的な主張になっていなければならないが、現実は衝撃的だ。いまの日本社会にもそのまま通用してしまう。
 世界経済フォーラムが公表する経済や教育などによる国際的な男女格差比較。日本は今春も先進国最低の120位だった。しかも、事態はより深刻になっているのではないか。コロナ禍で失業を余儀なくされた女性は男性よりもはるかに多いからだ。
 ドメスティックバイオレンス(DV)相談件数も昨年度急増し、過去最多になった。内閣府の有識者研究会は、コロナ禍で増える女性のDV被害や自殺への対策を早急に強化するよう政府に提言している。
 らいてうは主張の最後をこう締めくくった。「烈(はげ)しく欲求することは事実を産む最も確実な真原因である」。1世紀以上欲求しても遅々として改善しない格差。いま変える気がなければ、未来も変わらない教訓である。きょうはらいてうの没後50年。

『日本農業新聞』さん、同じく昨日の一面コラム。

四季 「元始、女性は太陽であった」

「元始、女性は太陽であった」と、平塚らいてうが人間としての女性の解放を唱えてから今年で110年、亡くなってからきょうで50年になる▽出産・育児を体験し「次世代を産み育てる労働には経済的裏付けがもてないという社会の現状に疑問」を抱いたと、孫の奥村直史さんが『平塚らいてう その思想と孫から見た素顔』につづる▽ これが、家庭労働に経済的価値を認め育児に国が報酬を、との主張につながった。新憲法下「育児の社会化」は進んだが、コロナ禍は子育て中の女性の雇用と収入の不安定さをあぶり出した▽農村はどうか。『農家女性の戦後史 日本農業新聞「 女の階段」の五十年』は、財布を握るしゅうとからミルク代をもらえず子どもの命を守るために「ミルク泥棒」をしたことや、臨月でも休めず稲刈りをしたその晩に出産したことなど「農家女性が抱える不条理さ」を記録。著者の姉歯曉駒沢大学教授は「 程度の差こそあれ、今もなお、女性たちを苦しめ続ける日本社会の宿痾(しゅくあ)そのもの」と記す▽らいてうは亡くなる年の正月、色紙にこう書いた。「命とくらしをまもる みんなのたたかいの中から 平和な未来が生まれる 新しい太陽がのぼる」。「みんな」に男は入っているか。自問する。

元祖「#わきまえない女」とでもいいましょうか、らいてうの提唱した様々な課題や提言は、現代まで連綿と受け継がれているような気がします。しかし、それが実現されているかというと、否、ですね。

五輪に関しても、元トップが女性蔑視発言で辞任し、鳴り物入りであとを継いだ女性新会長もすっかり影が薄く、さらに新会長の元のポストの後任も女性ですが、こちらは頓珍漢(「漢」は「おとこ」ですが(笑))。しかし、「だから女性は……」ではなく、個人の資質や体制の問題のように思われます。

らいてう没後50年を機に、こうした議論が高まることも期待したいものです。

【折々のことば・光太郎】

古代錦のやうな秋晴のケンランな完全な一日。風なく、空気うつとりとしづまる。山の紅葉さびて青天に映え、日光あたたかに草を色に染めてゐる。

昭和22年(1947)10月31日の日記より 光太郎65歳

何気ない自然の描写も実に詩的ですね。

昨日の関東は、およそ1週間ぶりに晴れました。既に近畿・東海までは入梅しており、先週の様子では、関東も実は梅雨入りしてるんじゃないの? と思っておりましたが、まだ梅雨の走りだったようでした。今日も晴れています。

久しぶりの好天に誘われて、昨日は自宅兼事務所から車で15分ほどの水郷佐原あやめパークに行って参りました。市立の水生植物園です。かつてはずばり「水生植物園」という名称でしたが、平成29年(2017)、園内の一部リニューアルと同時に改称されました。「佐原」は合併前の市名です。ときおり、テレビの旅番組系などでも「さはら」と平気で読んでいてムカッとしますが、「さわら」です。沙漠ではなく真逆の水郷地帯です(笑)。
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利根川が運んできた土砂が堆積して出来た大きな中州(地元民は「新島(しんしま)」または単に「島」と呼んでいます。もとは「十六島」とも呼ばれていました)にあり、広大な敷地内にハナショウブを中心とした花々が植えられています。ハナショウブの見頃はこれからで、今週末からは「あやめ祭り」と称し、様々なイベントも。そうなると入園者数も増加しますので、その前に行っておこうと思った次第です。600円→800円と、入園料金も上がりますし(笑)。

ちなみにハナショウブとアヤメは、似て非なる植物です。こちらではハナショウブが中心ですが、「ハナショウブパーク」ではわかりにくいので、「あやめパーク」なのでしょう。

早咲きのものは、既にいい感じに咲いていました。
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ハスやスイレン(この二つも、似て非なる植物です)も。
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さらに、こちらはそろそろ見頃が終わりという感じでしたが、薔薇。
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園内を周遊する舟廻りのサッパ舟(有料・500円)。「サッパ」は「笹の葉」の転訛です。舟の形状に由来します。
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001昨日、こちらを訪れたのは、何も花々を見るためだけではありませんでした。

話せば長いことながら、先週、旧市街の古書店さんに行ったところ(最近、店を閉めていることが多いのですが、前を通りかかったら久々に開いていましたので)、右の書籍があって、購入してきました。江戸川大学教授・鳥海宗一郎氏著『文学の旅・千葉県』(龍書房)。平成15年(2003)の刊行ですので、「古本」というほどの「古本」ではありません。

平成3年(1991)から同11年(1999)まで、『朝日新聞』さんの千葉版に連載されたものに加筆訂正、千葉県内の文学史跡がほぼほぼ網羅されています。光太郎智恵子に関しても、九十九里成田三里塚銚子犬吠埼と、三箇所で言及。その部分では、特に目新しいことが書かれているわけではありませんが、光太郎と交流の深かった面々が、千葉にどんな足跡を残しているかをもっと知りたいと思い、大枚500円(笑)をはたいて購入しました。

すると、自宅兼事務所のある佐原の項で、光太郎と親しかった北原白秋の詩碑が、あやめパーク内に建っているという記述。地元でありながら、これは存じませんでした。元々手元に『北総の文学碑』という、佐原周辺限定で文学碑の数々を紹介した書籍もあったのですが、そちらには記述がありませんでした。

それもそのはず、『北総の文学碑』は昭和61年(1986)の刊行、白秋碑の建立はそのあとの平成2年(1990)でした。

というわけで、白秋詩碑。実は10年程前にもここを訪れていながら、その際には気づきませんでした(笑)。
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昭和4年(1929)刊行の詩集『海豹と雲』に収められた、「水村の春」という詩の一節が刻まれていました。下記の色を変えた部分です。先に書いておきますが「田螺」は「タニシ」です。念のため。

  水村の春 KIMG5050

  一
水車のまはる樋口に
窗障子あくる子のあり。
春はまだしか、芽麦に
はだら雪など光れり。

  二
春雨けぶる小がはに
板橋わたす里かや。
この田かの田の下萠え、
簑笠つけて早や鋤く。

  三
ひとむら萠えしなづなを
朝出て食(は)むや雌(め)の牛、
沼の田べりはわづかに
降りつぐもののにほへり。

  
かはづの啼くはころころ、
田螺の啼くはころろよ、
ころころ、ころろ、ころころ、
萠え来(こ)よ、春の下(した)ん田(だ)。

  五
蛙が啼くよ、沖田にKIMG5046
芽柳もなびくよ。
誰(た)ぞや、こぬかの小雨(こさめ)に
今朝あかあかと火を焚く。

  六
春はまだ浅き水田の
根芹は馬に食まれぬ。
ゆきかへりつつ、鋤きつつ、
ひと日は雨に暮れたり。

  七
ふたもと高い葉楊、
鍋底こする舟の子、
つん抜け土間の藁家は
燕の飛ぶにまかせぬ。

  八
夜明けの靄にめざめて、
渡るは雁か、くぐひか、
早や榜(こ)ぎいでよ、作舟、
沖田あたりは晴れうよ。

  九
耕作舟につむもの、
犂、鍬、黒の雌(め)の牛、
朝靄がくり棹さす002
娘のあかい細帯。

  十
せんだんの実もさみしや。
蓆機織る藁家は、
日がな日ぐらし音して、
日がな日ぐらし雨ふる。

  十一
藁すぐる子の目見(まみ)ゆゑ、
沼のあかりがしむかよ。
ときたま鳴けよ、鳰鳥、
昼間の月も渡るよ。

  十二
前ゆく蝶のつばさに
土のしめりはながれぬ。
まことに春は田の面の
末より野路(のぢ)ににほひぬ。

「青空文庫」さんから取らせていただきました。この詩は、「水郷の早春」という小題でまとめられた四篇のうちの一つでした。碑陰記には「水郷をうたつた白秋の長詩水村の春十六島の一節」とあります。白秋で「水郷」というと、故郷の福岡柳川が思い浮かびますが、「水郷の早春」中の「朝靄の中」には「ここは潮来の出はづれ、沼から沼へとかよふ水路だ。」というフレーズがあり、柳川ではなく、「ちばらぎ」の水郷であることは明白です。「潮来」は茨城県に属し、あやめパークのある佐原の新島地区と隣接、同じように水路が張り巡らされています。同じ水郷風景と云うことで、白秋も親近感を抱いたかも知れません。

また、『海豹と雲』には、「早春 香取神宮」という詩も収められていますが、「香取神宮」も佐原です。ちなみに香取神宮には、光太郎の彫刻のモデルを務めた歌人・今井邦子の歌碑、香取神宮の一の鳥居がある利根川河畔のかつての河岸(かし=船着き場)には、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の歌碑が、それぞれ建てられています。

邦子や晶子の足跡があることは存じていましたが、白秋も佐原に来ていたんだ、と、それは存じませんで、汗顔の至りです。ただ、手元にある書籍や、ネット上の情報では、それがいつなのかはっきりしません。御存じの方、御教示いただければ幸いです。

さて、「水郷佐原あやめパーク」、もうすぐ園内のハナショウブが満開となります。コロナ感染にはお気を付けつつ、足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】003

草野君の詩集の為「蛙(かへる)」といふ題字を書く。


昭和22年(1947) 10月29日の日記より

翌年に刊行された『定本 蛙』のためのものです。

同じ蛙でも、白秋の手にかかれば「かはづの啼くはころころ」とかわいらしく、心平が謳えば「ぎゃわろ、ぎゃらろ、ぎゃわろろろろり」(笑)。面白いものです。

それにしても、この字もなかなか書けない凄い字だと思います。「蛙(かへる)」を三つ、絶妙のバランスで並べるこの感覚、脱帽です。心平の原稿の書き方にも影響されているかも知れませんが。

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目次

HER/HIS FAVORITE BOOKS あの人の愛読書。
 フグ田サザエ、ガブリエル・シャネル、マリリン・モンロー、 デヴィッド・ボウイ、
 ウォルト・ディズニー、樹木希林

LIBRARY of SENSE センスを磨く読書案内。
 細川亜衣、土岐麻子、渡辺有子、熊谷隆志、松浦美穂、寺尾紗穂、原川慎一郎、
 石塚元太良ほか

TO BE ELEGANT 私に、エレガンスを教えてくれた本。
 江南亜美子、西田尚美、木村綾子、石村由紀子ほか

Long-Sellers 世代を超えて読み継がれる、20世紀の良書。
 『夜と霧』『悲しき熱帯』『センス・オブ・ワンダー』ほか

Books That Inspired Me 私が、もう一度読みたい本。
 高山なおみ、綿矢りさ、皆川明、菊池亜希子、河瀨直美ほか

Reviews 名著を読み解く、読書感想文。
 塩川いづみ、中村佳穂、大森克己、轟木節子、外山惠理、ユザーン

BOOKS for a BETTER LIFE 7歳から45歳、そして人生最期。そのときに読みたい本。
 中野京子、鴻巣友季子、甲斐みのり、いか文庫、森岡督行、最果タヒ、河野通和、
 江南亜美子

Talking About “The" Books 「大人になった今だからわかる本」座談会
 宇多丸、しまおまほ、古川耕

Treasured Magazines 捨てられない雑誌。
 青柳文子、山崎まどか、平野紗季子、森本千絵ほか

Illustrated Cookbooks キッチンで読み返したい、料理の図鑑。
 戸木田直美、鈴木めぐみ

My Inspiring MANGA ときめきたいときに、このマンガを読み返します。
 栗山千明、松田青子、岩井俊二、星谷菜々、光浦靖子、山本浩未、渡辺ペコ、福田里香、
 宇垣美里、片桐仁、武田砂鉄、角田光代、植本一子ほか

MY FAVORITES 29人の、私の思い出の絵本。
 山戸結希、井出恭子、岡尾美代子、川内倫子、柚木麻子、さかざきちはる、安藤美冬、
 石川直樹ほか

Picture Books ぬくもりを感じる、いい絵本。
 末盛千枝子

絵本が教えてくれる大切なこと。
 穂村弘、星野概念、ひうらさとる、美村里江ほか

同じマガジンハウスさん刊行の雑誌『&Premium』に掲載された記事等を再編したものだそうで、雑誌本体が「衣、食、住、カルチャー、それぞれに自分なりの選び方がある大人の女性たちの為の雑誌。クオリティライフ誌・素敵に暮らしている人・上質なものを足していく・大人の女性のため。」というコンセプトなので、執筆者も大半は女性、薦められている「全439冊」も女性向けのものが多い感があります。もっとも、昨今はジェンダー的な部分で「女性向け」「男性用」といった区分には神経質に成らざるを得ませんが(笑)。

デザイナーの皆川明氏が、光太郎の『智恵子抄』(龍星閣新版・昭和26年=1951)、光太郎実弟・豊周の編集による智恵子の紙絵作品集『智恵子の紙絵』(社会思想社・昭和41年=1966)を取り上げて下さっています。
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皆川氏、平成25年(2013)に都内乃木坂のTOTOギャラリー・間(ま)さん他で開催された、建築家の中村好文氏による、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を含むさまざまな「小屋」を取り上げた「中村好文展 小屋においでよ!」展に関わっていらっしゃいました。

関連行事として中村氏と皆川氏の対談「小屋から学ぶこと」が、巡回展の金沢21世紀美術館さんで行われましたし、展覧会とリンクして出版された『小屋から家へ』(TOTO出版)の中にもお二人の対談が収録され、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋も紹介されています。

中村 岩手県の花巻に、高村光太郎がひとり暮らしをしていた小屋が残っていて、それこそ粗末な小屋なんですけど、「人の暮らしの気配のようなもの」がひしひしと感じられます。必要最低限のものしかない暮らしぶりがとてもいさぎよく感じられ、「これでいいじゃないか、これで十分じゃないか」と納得してしまうのです。小屋の定義のひとつに、「すまいの原型が見えること」という項目を加えてもいいかもしれません。
皆川 その感じ、よくわかります。小屋の空間の中には最低限の必要なものだけが納まっているということで、余計にそういう気分になれそうな気がしますね。

『智恵子の紙絵』は、この手の書籍としては昭和32年(1957)に筑摩書房さんから出た『智恵子紙絵』(こちらも豊周の編集)に次ぐ初期のものです。

豊周による解説文から。

 智恵子という人が、このような工芸的なものについてどのくらい才能を持っているか、僕は全然知らなかった。兄にとっては、自分の最愛の人であり奥さんでもある人のものだから、惚れ込むのはあたりまえだが、僕には、はたして兄が評価するほど高く評価できるかどうか、絶対的な評価として、いったい兄がいうほど正当なものかどうかということに、一抹の不安があったのだ。(略)ところが、実物を見てこの不安は全く消え去った。日本にいままで例のないユニークさに、まず心を打たれた。(略)そこにあるものは非常にすぐれた工芸家の作品といっても、ちっともさしつかえないものだった。(略)実を言うと初めは、兄が少し手を入れているのではないかとさえ思った。(略)高村光太郎の最愛の妻であったというひとつの仮定を除いて、裸で放り出して見ても、絶対的価値は決して下がらないと思う。

ちなみに今日、5月20日は智恵子の誕生日です。

『& Premium特別編集 あの人の読書案内。』に戻りますが、末盛千枝子さん、森本千絵さん、栗山千明さんなど、このブログで取り上げさせていただいてきた方々もご執筆。

さらに、宮沢賢治や武者小路実篤など、光太郎と関わった人々の作品も。
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また、絵本や漫画の項も充実しています。美術書、写真集の類も。

ただ、近代のものよりは、現代の書籍の紹介がメインです。そうした意味で、光太郎智恵子らに関わらない書籍はあまり読まない当方としては、インチキですけれど、それぞれの書評を読んで、それらを読んだ気にさせてくれるのでありがたく存じました(笑)。

それにしても、紙の書籍の衰退が叫ばれて久しく、電子書籍的なものの台頭にもめざましいものがありますが、まだまだ紙の書籍も健在、それが無くなることはないのだろうな、と思わせられました。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

晴、フトン干、 文部省へ芸術院会員断りのハカキを書く。


昭和22年(1947)10月20日の日記より 光太郎65歳

この後、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後の昭和28年(1953)にも、芸術院会員への推薦を断っています。











仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん、一昨日の夕刊のコラムから。

河北抄(5/12)

 終戦直前の花巻空襲。宮沢賢治の実家に疎開していた高村光太郎は、負傷者の救護に当たった医師や看護学生たちの奮闘をたたえ、詩を贈った。
 <非常の時 人安きをすてて人を救ふは難きかな。非常の時 人危うきを冒して人を護るは貴いかな>。どこかコロナ禍と闘う医療従事者の姿に重なる。
 労災による医療・介護従事者の感染は4234件(4月23日時点)。全体の約8割に上る。それでも「戦線」は病棟のみならず、ワクチン接種や五輪・パラリンピックへの協力へと広がる一方だ。
 仙台市は高齢者へのワクチン接種の完了目標を当初より1カ月早い7月末に前倒しし、人材確保を急ぐ。国は接種の加速や五輪会場の医療スタッフに「潜在看護師」を活用する方針だという。さながら「総動員」といった様相に、当事者たちはどんな思いを抱いているだろう。
 どうか、忘れないでほしい。「犠牲なき献身こそ真の奉仕」。近代看護の礎を築いたナイチンゲールの言葉にある。
 きょう12日は「看護の日」。彼女の誕生日にちなんで定められている。

昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲に際し、自らの危険を顧みず、負傷者の看護に当たった花巻の医療関係者を讃え、その表彰式で贈られた詩「非常の時」を引用して下さっています。

ほぼ一年前、『岩手日報』さんが「「非常の時」共感呼ぶ 高村光太郎が花巻空襲後に詩作 勇敢な医療者たたえる」という記事を載せて下さいました。その前後、岩手では「非常の時」が「コロナ禍と闘う医療従事者の姿に重なる」と話題になり、各種メディアで取り上げられました。

手作り光太郎マスク寄贈。
「「非常の時」に将来重ね 花巻高看 高村光太郎学ぶ」。
「非常の時」/「雲」 『岩手日日』さんから。
IBC岩手放送「わが町バンザイ」。

今回、地元岩手ではなく、宮城発のメディアで光太郎詩を取り上げて下さったのはありがたいのですが、こうしてみると一年前と何ら状況が変わっていない気がして、複雑な思いです。

とりわけ、医療従事者の皆さんの一年以上にわたる奮闘ぶりには、まったくもって頭が下がります。本当に、少しでも早く、この状態の収束・終息することをねがってやみません。

ちなみに、もう少し後で詳しくご紹介しようと思っておりますが、光太郎が歿した昭和31年(1956)に発行された、花巻病院さんの絵葉書セットを入手しました。

その中に、昭和20年(1945)に光太郎から贈られた「非常の時」が書かれた書の写真を使ったものも含まれていました。
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詩を活字で記した紙片も同封。誤植が多いのが残念ですが。
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この書は現在、花巻高村光太郎記念館さんで展示されています。コロナ終息・収束後、ゆっくり落ち着いてご高覧いただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

午前九時松庵寺にゆく。院長さん奥様も一緒に来らる。寺に宮沢老人あり。余と三人。読経十一時頃終る。母二十三回忌法事。母の事をいろいろ思出す。暫時寺にて談話。

昭和22年(1947)10月9日の日記より 光太郎65歳

母・わか、大正14年(1925)9月10日。父・光雲、昭和9年(1934)10月10日。妻・智恵子、昭和13年(1938)10月5日。最も近しい三人の命日が9月、10月に固まっていたため、毎年、三人を供養する法事の類はこの時期にまとめておこなってもらっていました。この年は、特に母・わかの23回忌ということで、それがメインでした。

花巻中心街の松庵寺さんには、この際に光太郎が詠んだ短歌「花巻の 松庵寺にて 母に会ふ はははりんごを たべたまひけり」が刻まれた碑が立っています。

「院長さん」は、「非常の時」を贈られた佐藤隆房医師、「宮沢老人」は賢治の父・政次郎です。

先月2日の『読売新聞』さんから。おそらく東北各県版での連載と思われます。

とうほく名作散歩 詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む

 12年に1度、岩手の人びとが持ち出す詩がある。高村光太郎(1883~1956)の「岩手の人」だ。
 「『岩手の人沈思(ちんしん)牛の如(ごと)し。(中略)地を往きて走らず、企てて草卒ならず、つひのその成すべきを成す。』牛は岩手の象徴であり、丑(うし)年は岩手の年です」
 1月4日、達増拓也知事が年頭訓辞に引用し、新型コロナウイルス対策や東日本大震災からの復興に力強く取り組む決意を述べた。
 宮沢賢治や石川啄木を生んだ岩手で、彫刻家で詩人の高村光太郎だ戦火を逃れ、晩年を過ごしたことはあまり知られていない。
 1945年、東京・駒込のアトリエを焼け出された光太郎は、賢女の弟・清六に招かれて疎開。太田村山口(現・花巻市太田)の山小屋で暮らし始める。
 「岩手の人」が収められ、読売文学賞を受賞した詩集「典型」の表題作や連作詩「暗愚小伝」などは、この山中で書かれた作品だ。
       ◇
 光太郎が住んだ山小屋は、「高村山荘」として現地保存され、当時の暮らしを伝えている。隙間風の吹き込む夜が容易に想像でき、「自己流謫(るたく)」(流刑)と言われる厳しい生活がしのばれる。
 一方、光太郎は地域の人びととも親しく交流した。当時、小学生だった高橋征一さん(78)は「近寄りがたい人ではなかった」と振り返る。小学校の運動会に参加したり、開校記念日にサンタクロースに扮(ふん)してお菓子を配り、一緒に踊ったり。「偉い人なんだなあと思っていたが、こういう先生だとは思わなかった」。典型で得た賞金は、同校に寄付した。
 光太郎の詩に、牛をモチーフにしたものが多いことについて、花巻高村光太郎記念会事務局の高橋卓也さん(44)は「牛歩の歩みであっても、『力強く確実に』という、県民気質を感じたのでは」と分析する。
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       ◇
 八幡平市在住の絵本編集者、末盛千枝子さん(80)が生まれた時、父の彫刻家、舟越保武(1912~2002)は、光太郎に娘の命名を願った。
 光太郎の影響で彫刻家を志した岩手県出身の舟越が1941年、アトリエを訪ねて頼み込むと、光太郎は「(亡くなった妻の)智恵子しか思い浮かばないけれど、悲しい人生になってはいけないので、字だけは替えましょうね」と答えたという。その年「智恵子抄」が刊行された。
 末盛さんは長年、複雑な思いを抱えてきたが、「私は今やっと『(中略)本当に有り難(がた)く、とても大切に思います』と心から言える」と自著で述懐している。舟越は「日本二十六聖人殉教記念碑」で62年、高村光太郎賞を受賞した。
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 「岩手の人」はこう結ばれる。「斧をふるつて巨木を削り、この山間にありて作らんかな、ニツポンの脊骨岩手の地に 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。」。岩手に「日本のメトロポオル(中心)」を見いだした、光太郎らしい言葉かもしれない。
 連翹(れんぎょう)を愛した光太郎は、その黄色いかれんな花が咲く頃、静かに眠りについた。4月2日は連翹忌。

絵描いた温泉客室を移築
 高村山荘から北に8㌔、花巻市湯口の大沢温泉山水閣では、光太郎が愛用した「牡丹(ぼたん)の間」が今も宿泊客を受け入れている。
 大沢温泉は、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、蝦夷(えみし)との戦いで受けた毒矢の傷を癒やしたとの伝説に始まる。宮沢賢治や光太郎も何度か訪れたが、その理由について、高田貞一(さだかず)社長は「やはり泉質でしょうね」と言う。
 「昔の温泉は治療の場でもあった。家で風呂に入るには井戸から水をくんで、薪(まき)でお湯を沸かさなければならなかったから、好きな時に入れる温泉はぜいたくでした」と高田さん。今も長期滞在者のため、大沢温泉には自炊部があり、布団を持ち込み、自分で料理や掃除をすれば、2000~3000円台で泊まることができる。
 牡丹の間は、10畳、6畳、3畳の三間続きの角部屋。豊沢川の流れに面し、光太郎がこの部屋で牡丹の絵を描いたことから名付けられた。山水閣の建て直しを経て、現在は光太郎が宿泊した当時の床の間や欄間、床板などの内装を移築し、当時の雰囲気を残している。
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メモ
 高村光太郎記念館は、JR東北線花巻駅から12㌔、タクシーで15~20分。東北自動車道花巻南インターチェンジ(IC)からは11㌔。「道程」などの代表作4編の詩や、「少年の首」「十和田裸婦像試作」などの彫刻作品を展示しているほか、書や草稿、服や靴からは、当時の息づかいが感じられる。すぐ隣に高村山荘がある。
 両施設共に入館料は、小・中学生150円、高校生、学生250円、一般350円。開館時間は午前8時半~午後4時半。年末年始休館。
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かなりスペースを割いていただき、花巻郊外旧太田村での光太郎を語って下さいました。

冒頭近くの達増知事の訓示、詩「岩手の人」などについてはこちら。当時の光太郎をご存じの高橋征一さんについてはこちらなど。平成30年(2018)の高村祭では、当方が聞き手となって、高橋さんほか4名の方々の、光太郎の思い出を語ってもいただきました。お元気そうで何よりです。

末盛千枝子さんについても、久しぶりにお名前を拝見しました。引用されている御著書は『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』。平成28年(2016)の刊行です。

一点、苦言を。大沢温泉さんの「牡丹の間」紹介の中で、「光太郎がこの部屋で牡丹の絵を描いたことから名付けられた。」とあるのは誤りで、この部屋に複製が飾られている光太郎の牡丹の水彩画は、昭和20年(1945)、旧太田村に移る前、最初に疎開した宮沢家で描かれたものです。光太郎、この時点ではまだ大沢温泉さんは未踏の地でした。
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003昨日も書きましたが、今月末から来月初めにあちらに行くことになりそうなので、彼の地の初夏の空気を堪能してきたいと思っております。

明日は同じ「とうほく名作散歩」、「智恵子抄」で。

【折々のことば・光太郎】

曇、涼、 トマト倒れたのを直す。実つきすぎて重く軸のもぎれかかつたのもあり。


昭和22年(1947)9月7日の日記より 光太郎65歳

上記「とうほく名作散歩」、花巻郊外旧太田村での光太郎が、このようにがっつり農耕にもいそしんでいた記述があれば、なおよかったと思いました。

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