カテゴリ: 文学

4年ぶりの通常開催です。

女川光太郎祭

期 日 : 2023年8月9日(水)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
      式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 14:00~
料 金 : 無料

昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』に連載する紀行文「三陸廻り」執筆のため、8月9日に東京を発ち、約1ヶ月、三陸沿岸を旅しました。

そこで、偉人が訪れた町である、ということで、女川町に四基からなる光太郎文学碑が建立されたのが平成3年(1991)、地元ご在住の貝(佐々木)廣氏が中心となり、全ての費用を町内外の方々からの「100円募金」で賄いました。

翌年、その文学碑前で第一回女川光太郎祭が開催。碑文の揮毫など建立に協力された、当会顧問であらせられた北川太一先生がご講演。その他、光太郎詩文の朗読、地元の合唱団による光太郎短歌に曲を付けた合唱曲演奏などが行われました。
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その後、同様の形式で女川光太郎祭が連綿と続きました。北川先生のご講演も毎年恒例となり、おみ足を悪くされ、外出が困難となった平成21年(2009)まで続けられました。

平成23年(2011)3月11日、東日本大震災。女川町は20㍍もの津波に襲われ、中心部は壊滅。その津波に呑まれ、貝(佐々木)氏も還らぬ人となりました。四基あった光太郎文学碑も二基は流失、メインの碑は倒壊し、永らく倒れたままとなりました。

その年は光太郎祭どころではないだろう、と思っていたのですが、津波の被害を免れた小学校を会場に開催。貝(佐々木)氏の奥様・英子さんが遺志を継がれてのことでした。

平成24年(2012)からは仮設住宅内コミュニティスペース仮設商店街内集会所などと会場を転々としつつも続き、北川先生もまた訪れられるようになり、さすがに以前のように長いご講演は無理となったものの、当方との対談形式や、短めのご講話といった形でお話下さいました。平成25年(2013)からは当方が講演をさせていただいておりました。

ところがコロナ禍。令和元年(2019)を最後に通常開催は見送られることとなり、関係者の方々による文学碑への献花のみが行われ続けました。この間に、倒壊した文学碑の復旧が済み、当方は東日本大震災10周年の令和3年(2021)3月11日、碑の拝見町主催の追悼式へ出席のため、行って参りました。
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そして、今年。女川光太郎祭、四年ぶりの通常開催となります。

午前10時から復旧した文学碑への献花。碑が倒れていた10年間は光太郎祭会場で碑の写真に献花していましたが、碑そのものへの献花となります。

午後2時からは碑近くのまちなか交流館さんで式典系。町内外の方々による光太郎詩文の朗読(「風にのる智恵子」「牛」「あどけない話」「レモン哀歌」「火星が出てゐる」「あの頃」「人に」「三陸廻り(抄)」)、おそらくアトラクション的に音楽演奏、それから当方の講演も復活します。今年は光太郎の最晩年、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作、そして逝去あたりの話をさせていただきます。

ご興味のおありの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子はどうも頭が悪くて一寸心配です、神経を痛めてゐるのでまづ気ながに療養する外ありません、年齢から来る症状かとも思ひます、


昭和8年(1933)7月5日 水野葉舟宛書簡より 光太郎51歳

昭和6年(1931)の光太郎三陸廻り中に、誰の目にも顕在化した智恵子の心の病。光太郎、この時点ではまだ更年期障害の昂進、程度の認識で居たようです。

テレビ放映情報2件ご紹介します。

まず、7月31日(月)の朝。

にほんごであそぼ「空」

地上波NHK Eテレ 2023年7月31日(月) 08:35~08:45 再放送 8月5日(土) 07:00~07:10

書道で学ぶにほんご・漢字アニメ/空、偉人とダンス/この空は私たちの真上にある 究極のアートギャラリーなのである。(ラルフ・ワルド・エマーソン)、こどもスタジオ/空前絶後、朗読(高杉真宙)/「あどけない話」高村光太郎、文楽/山のあなたの・・・、童謡「りすりす小りす」

【出演】南野巴那,高杉真宙,竹本織太夫,鶴澤清介,三世 桐竹勘十郎,青柳美扇,おおたか静流,中村彩玖,川原瑛都,川田秋妃

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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)が取り上げられます。

ただ、番組説明欄の区切れ目がどこかよく分からない書き方です。おそらく「朗読(高杉真宙)/「あどけない話」高村光太郎」で、俳優の高杉真宙さんによる朗読ではないかと思うのですが……。もしかすると「「あどけない話」高村光太郎、文楽」かもしれません。というのも、今回も出演なさる人間国宝の桐竹勘十郎さんによる「あどけない話」も、以前に複数回ありましたので……。

もう1件、同日昼の放映。故・内田康夫氏原作の『「首の女」殺人事件』が原作です。

ドラマ・浅見光彦〜最終章〜▼第9話 草津・軽井沢編

BS-TBS 2023年7月31日(月) 12:59〜13:55

ベストセラー作家・内田康夫の大人気サスペンス小説「浅見光彦シリーズ」。光彦の2人の幼馴染・野沢光子(星野真里)と宮田治夫(吹越満)と久しぶりの再会を経て楽しい気分でいる頃、光子の父が殺害された…。

【出演】沢村一樹、風間杜夫、原沙知絵、黒田知永子、佐久間良子、
    星野真里、吹越満、 天野ひろゆき(キャイ〜ン)、鶴田忍、清水綋治

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平成21年(2009)に地上波TBSさんで連ドラの枠として放映された「浅見光彦〜最終章〜」の最終回。したがって2時間ドラマではありません。

何が「最終章」かというと、平成12年(2000)から2時間ドラマで浅見光彦役を演じられてきた沢村一樹さんの卒業、というコンセプトだったようです。ことによるとTBSさんでの「浅見光彦シリーズ」自体、これで満了、という予定だったのかもしれません。

しかし沢村さん、この後も平成23年(2011)から翌年にかけ、同じく地上波TBSさんの3本の2時間ドラマで浅見光彦役を演じられ、結局、何が「最終章」だったのかよくわかりません(笑)。さらにこの後、TBSさんの浅見光彦役は速水もこみちさんにバトンタッチされました。いろいろ大人の事情があったのでしょう。

で、「草津・軽井沢編」。光太郎彫刻の贋作にまつわる連続殺人事件を描いた『「首の女」殺人事件』を原作としています。
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途中には光太郎の人となり、詩の紹介も。
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同じ『「首の女」殺人事件』を映像化したフジテレビさん版(中村俊介さん主演)は、かなり原作に近く作られていたのですが、こちらでは大胆に変更。原作では事件の舞台は安達太良山、それから島根県でしたが、こちらでは草津と軽井沢が現場となり、ストーリーや登場人物の設定等も大幅に変えられています。

「浅見光彦〜最終章〜」として、平成22年(2010)にDVDボックスが発売されています。
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ちなみに第1話は「恐山・十和田湖・弘前編」。本編では映りませんでしたが、付録のメイキング映像には、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が。
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本編でも取り上げていただきたかったのですが(笑)。

さて、それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

貴著詩集「瀧」及御てがみ忝くおうけとりしました。丁度寸暇無き家事の状態にさしかかりました為めお礼のてがみさへ遅れて失礼しました。詩集はもつとよく落ちついてから精読したいと思つてをりますから、その上何か申上げたいと存じます。

昭和7年(1932)11月 岡本弥太宛書簡より 光太郎50歳

岡本弥太は高知出身の詩人。戦後、光太郎が岡本の詩「白牡丹図」を揮毫した石碑が建立されました。

寸暇無き家事の状態」は心を病んだ智恵子の自殺未遂を指します。

この書簡、『高村光太郎全集』には『瀧批評集』という書籍からの転載で収録されていますが、同書の刊行年が「昭和一八年」と誤記されています。正しくは「昭和八年」です。

昨日開幕でした。

特別企画展 草野心平生誕120年「草野心平と中原中也」

期 日 : 2023年7月27日(木)~10月1日(日)
会 場 : 中原中也記念館 山口県山口市湯田温泉一丁目11-21
時 間 : 9:00~18:00
休 館 : 月曜日(8/14、9/18は開館) 8月29日(火) 9月19日(火) 9月26日(火)
料 金 : 【一般】 330円 【大学・高校専門学校の学生】220円 
      18歳以下、70歳以上無料

「蛙」をモチーフとした詩で知られ、2023年に生誕120年を迎えた詩人・草野心平。

1934年、詩人・草野心平と中原中也は、同人誌「歴程」の朗読会で出会い、以後交友を結びます。中也は心平らが発行した「歴程」の同人となり、また中也が詩集『山羊の歌』の装幀を高村光太郎に依頼する際、仲介したのが心平でした。中也にとって心平は個人的につきあいのある数少ない詩人の一人であり、また互いの詩を高く評価し合う、良き理解者でもありました。

本展では、いわき市立草野心平記念文学館協力のもと、二人の深い交友の軌跡と、心平の詩の魅力について紹介します。
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当会の祖・草野心平と中原中也。詩風から風貌まで(笑)、かなりタイプの違う感じも受けますが、それぞれに通底する詩魂といったものには、やはり共通する何かがあるようにも思えます。牽強付会のそしりを覚悟で云えば、光太郎から受け継いだDNA的な。

光太郎の中也評から。

 中原中也君の思ひがけない夭折を実になごり惜しく思ふ。私としては又たのもしい知己の一人を失つたわけだ。中原君とは生前数へる程しか会つてゐず、その多くはあわただしい酒席の間であつてしみじみ二人で話し交した事もなかつたが、その談笑のうちにも不思議に心は触れ合つた。中原君が突然「山羊の歌」の装幀をしてくれと申入れて来た時も、何だか約束事のやうな感じがして安心して引きうけた。(「夭折を惜しむ――中原中也のこと――」 昭和14年=1939 『歴程』第6号)

全文はこちら

ここでも触れられている『山羊の歌』の装幀は、心平が仲介したとのことで、そのあたりにまつわる展示もなされているのでしょう。

野々上慶一著『文圃堂こぼれ話 中原中也のことども』によれば、心平や光太郎が編集にあたり、やはり光太郎が装幀した『宮沢賢治全集』を見た中也が、ぜひ『山羊の歌』の装幀も光太郎に、と熱望したそうです。
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たしかにレイアウトや書体、赤と黒の効果的な使い方など、似ているといえば似ていますね。

それから、中也と心平といえば、この二人がタッグを組んで、太宰治・壇一雄のコンビと居酒屋で大乱闘を演じた事件も有名です。まるでスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ組VSアブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組のような(笑)。

壇の『小説太宰治』から。

 「チェッ、だからおめえは」と中原の声が、肝に顫ふやうだつた。
 そのあとの乱闘は、一体、誰が誰と組み合つたのか、その発端のいきさつが、全くわからない。
 少なくとも私は、太宰の救援に立つて、中原の抑制に努めただらう。気がついてみると、私は草野心平氏の蓬髪を握つて掴みあってゐた。それから、ドウと倒れた。
 「おかめ」のガラス戸が、粉微塵に四散した事を覚えてゐる。いつの間にか太宰の姿は見えなかつた。私は「おかめ」から少し手前の路地の中で、大きな丸太を一本、手に持つてゐて、かまへてゐた。中原と心平氏が、やつてきたなら、一撃の下に脳天を割る。

きっかけは、酔った中原が太宰に執拗にからんだ、というだけの話なのですが(笑)。光太郎、この場に居合わせなかったのは幸いでした(笑)。

閑話休題、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】022

今夏は猛烈な厚さだつた上、ちゑ子が七月上旬から急病にかかつて一時危篤状態にまでなり、入院騒ぎをやつて、二ヶ月間まるで看病その他で仕事も出来ず、いろいろ遅れてしまひました、まだ今月一ぱいは極めて安静を要するので訪客には失敬してゐます、 除幕式を十一月にしていただき度たいのですが如何、鋳金出来、台がまだです。


昭和7年(1932)9月13日
 白瀧幾之助宛書簡より 光太郎50歳

急病」とありますが、実際には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂でした。

除幕式」云々は、現在、東京国立博物館黒田記念館さんに据えられている「黒田清輝胸像」関連です。

訃報を2件、亡くなった順に、ともに共同通信さんの配信記事から。

まずは僧侶にして教育評論家の無着成恭氏。

「山びこ学校」無着成恭さん死去 僧侶で教育評論家、96歳

000 中学生たちの生活記録集でベストセラーとなった「山びこ学校」の編者で、僧侶、教育評論家の無着成恭(むちゃく・せいきょう)さんが21日午前8時58分、敗血症性ショックのため死去した。96歳。山形市出身。自宅は千葉県多古町一鍬田292の福泉寺。葬儀・告別式は27日午前11時から福泉寺で。喪主は長男成融(せいゆう)氏。
 1948年に教師として赴任した山形県内の中学校で、生徒に生活の「なぜ」を考えさせる「生活つづり方運動」に取り組み、クラス文集をまとめた「山びこ学校」を51年に出版。大きな反響を呼び、映画化もされた。
 その後上京し、明星学園で教諭や教頭を務めた。64年からは、TBSラジオ「全国こども電話相談室」の回答者として長年出演。大分県国東市の泉福寺の住職も務めた。

無着氏,昭和57年(1982)に、明星学園さんの教壇に立たれていた頃の授業実践をまとめた『無着成恭の詩の授業』という書籍を刊行なさいました。
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ちなみに当方所蔵の同書、無着氏の署名本です。8章から成り、近現代の詩歌を扱った授業の実践記録で、8章のうちのひとつが「奪われた自由 高村光太郎 ぼろぼろな駝鳥」。
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中学1年生に当たる「7年生」の授業で、生徒さんたちの発言や授業後に書いた感想文が、実に的を得ています。大学などの偉いセンセイたちがノルマに追われて「紀要」等に発表する「論文」などよりも(笑)。まぁ、無着氏の巧みな誘導があってのことではありますが。
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その他、実践記録は附されていませんが、巻末の「わたしの愛唱詩抄――この六年間に授業で扱った詩・作品」という項に、「冬が来た」「道程」。

国語教育に携わる人には、ぜひ読んでいただきたい書籍です。

訃報、もう1件。

作家の森村誠一さん死去、90歳 「人間の証明」「悪魔の飽食」

001 映画化されたベストセラー小説「人間の証明」や、ノンフィクション「悪魔の飽食」などで知られる作家の森村誠一(もりむら・せいいち)さんが24日午前4時37分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。90歳。埼玉県出身。葬儀は家族葬で行う。後日お別れの会を開く予定。
 青山学院大を卒業後、大阪や東京のホテルに勤務する傍ら小説を書き、1969年に「高層の死角」で江戸川乱歩賞を受賞、本格的な作家活動に入った。73年に「腐蝕の構造」で日本推理作家協会賞を受け地歩を固めた。
 都心のホテルで起きた殺人事件を題材に人と人との絆を描いた代表作「人間の証明」(76年)が翌年映画化された。「野性の証明」(77年)も高倉健さん、薬師丸ひろ子さんの共演で大ヒット。映画と小説の相乗効果で一躍人気作家になった。「棟居刑事」シリーズ、「牛尾刑事・事件簿」シリーズなどテレビドラマ化された作品も多い。
 旧日本軍の「731部隊」を通して細菌兵器など戦争の暗部に迫ったノンフィクション「悪魔の飽食」も話題になった。

森村氏にも光太郎がらみのご著書があります。やはり昭和57年(1982)刊行の『新・人間の証明』。当方手持ちのものは昭和60年(1985)発行の角川文庫版です。
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昭和51年(1976)刊行で角川映画にもなった『人間の証明』で謎解き役だった棟居刑事が再登場、以後、「棟居刑事シリーズ」となっていく、いわば第2作です。ただし、内容が内容だけに「大人の事情」でしょう、映画化もテレビドラマ化もなされていません。

昭和56年(1981)に刊行されたノンフィクション『悪魔の飽食』を下敷きにし、旧日本軍の731部隊元隊員や家族などの関係者が次々と殺害され……という話です。

詳しいネタバレは避けますが、タクシー内で変死した(実は毒殺)最初の事件の被害者である中国人女性がレモンを持っていたという設定で、『智恵子抄』の「レモン哀歌」がらみの展開に。

やはり被害者の一人は実在の人物をモデルにしています。明治の末に智恵子が保養に訪れた福島県の原釜海岸で知り合い、その後姉弟のような文通をしていた鈴木謙二郎という当時の旧制米沢中学生です。小説では奥山謹二郎いう名ですが、原釜での智恵子とのエピソードなどはほとんどそのまま使われています。ここからは森村氏の創作で、奥山はその後、自分の娘を「智恵子」と名付けたり、物語の舞台となった1980年代には千駄木の光太郎智恵子旧居近くに一人住まいをしていたりと、初恋の相手であった智恵子の幻影を老人になっても抱き続けている、というわけです。

しかしその奥山老人は元731部隊員で、戦時中には旧満州でいろいろと……ということが明らかになり……。

『人間の証明』では、「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?」という西条八十の「ぼくの帽子」が効果的に使われていましたが(ジョー山中さんが唄った角川映画のテーマソングはその英訳で「Mama, Do you remember…」)、『新……』では「レモン哀歌」。ただしレモンは731部隊でも意外な使われ方をしていて、美しいだけのモチーフではありません。そこで、現在も版を重ねているハルキ文庫版では、表紙にメスが刺さった無気味なレモンがあしらわれています。
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さて、『無着成恭の詩の授業』、森村氏の『新・人間の証明』、それぞれ、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

目下妻の病気入院等にて寸暇無き次第です、


昭和7年(1932)7月25日 万造寺斉宛書簡より 光太郎50歳

智恵子、「病気入院」としていますが、実は睡眠薬アダリンを大量服用しての自殺未遂でした。7月15日朝に、智恵子が起きてこないことを不審に思った光太郎が発見しました。光太郎が気づくのが早かったため、一命はとりとめた智恵子ですが、この後、心の病は一進一退をくり返しつつ、しかしどんどん昂進していくことになります。

7月23日(日)、安曇野市の碌山美術館さんをあとに、愛車を南に向けました。目指すは松本市。

甲信方面はなぜか光太郎と交流のあった人物の記念館や、それらの人物の作品を収めた美術館等が多く、碌山美術館さんに行った際にはもう一つ、ハシゴして帰るのが昔からのルーティーンです。

今回訪れたのは、松本市のはずれ、のどかな田園地帯の一角にあるにある窪田空穂記念館さん。窪田空穂の生家のかたわらに建てられています。
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窪田は光太郎より6歳年上の明治10年(1877)生まれ。初期の『明星』に参加した歌人で、その頃から光太郎と交流がありました。そして光太郎がらみで最も多く取り上げられるのが、大正2年(1913)夏、上高地の清水屋旅館でたまたま同宿となったこと。この際には智恵子も後から光太郎を追いかけて上高地に現れ(しめしあわせていたのですが)、ここで二人は結婚の約束をしました。

窪田が下山するのと入れ違いに智恵子が登ってきて、窪田は智恵子を迎えに途中の岩魚止までやってきた光太郎と智恵子を目撃、帰京後、『東京日日新聞』に「美くしい山上の恋―洋画家連口アングリ―」というゴシップ記事を匿名で寄稿した他、複数の回想でこの夏の上高地の様子や、その前後の『明星』時代の光太郎について書き残しています。

まずは生家。
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玄関には式台があり、なかなかの格式です。名家だったことがよくわかります。
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衝立の裏側は、何やら洋画風の絵。
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座敷の感じや、むき出しの梁(はり)など、古建築好きにはたまりません。
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縁側にはちょっと変わった七夕飾り。おそらくこの辺りは旧暦で実施するのでしょう。
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庭からの外観。
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戦時中、窪田が疎開的に帰って来て暮らしていたという離れ。
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道をはさんで反対側の記念館。
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撮影禁止という表示が見あたらなかったので……。
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大正2年(1913)、光太郎と同宿だった上高地関連。光太郎の名も。
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右は昭和9年(1934)刊行の『日本アルプスへ・日本アルプス縦走記』に載った挿画。画家の茨木猪之吉が描いたもので、光太郎を含む、大正2年(1913)夏に同宿だった面々のカリカチュアです。
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馬面だった光太郎の特徴をよく捉えてはいますが、若干の悪意を感じますね(笑)。

展示はされていなかったのですが、こちらには上高地で光太郎が描いたスケッチが収蔵されているとのことです。ただし、「写真」とあるので複製と思われます。
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なかなかいい絵ですね。しかし、光太郎筆に間違いはなさそうですが、元ネタがよくわかりません。上高地からの下山後、10月に神田三崎町のヴヰナス倶楽部で、岸田劉生らと開催した「生活社主催油絵展覧会」に出品されたペン画3点のうちの一つかとも思われますが。光太郎、この際には他に彫刻1点、上高地での油絵21点も出品しました。

拝見し終わって帰途に就きました。まだ午前中でしたが、日曜でしたので夕方近くになると中央道が大渋滞になるだろうと予測。それを避けるためです。それでも韮崎付近で工事プラス事故で渋滞、小仏トンネル入り口あたりでも自然渋滞。さほどではなかったので途中で昼食を摂っても4時間少しで帰り着きました。

以上、信州レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

あなたのてがみを病院でよみました、面疔が急に出来て、診察してもらひにいつたら即刻無理に入院させられてしまひ重態扱ひなので一時閉口しましたが早い手当てがきいて間も無く快方に赴き、もう退院しました。

昭和6年(1931)7月7日 高田博厚宛書簡より 光太郎49歳

「面疔(めんちょう)」は、黄色ブドウ球菌の感染によって起こる皮膚感染症。化膿性で進行すると脳膜炎に移行すると、昔は恐れられていました。光太郎、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中にも面疔を発症しています。

書簡はパリに渡った高田に宛てたもの。現在確認できている高田宛書簡二通のうちの一通です。現物は高田の作品を多数展示している安曇野市の豊科近代美術館さんで所蔵しています。

光太郎と親交のあった、岡山県豊田村(現・赤磐市)出身の詩人・永瀬清子の伝記漫画です。

マンガふるさとの偉人 詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ

2023年3月24日 シナリオ 和田静夫 マンガ 藤井敬士 赤磐市教育委員会発行

 この度、第2期岡山県赤磐市の“マンガふるさとの偉人「詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ」”が、岡山県出身在住のマンガ家藤井敬士さんにより完成しました。
 永瀬清子(ながせ きよこ)は、明治39年(1906年)岡山県豊田村(現:岡山県赤磐市)の旧家に生まれ、高等女学校に通う頃から短歌や詩を投稿し、家庭を持った後も家事や育児をしながら詩を書き続け、昭和5年(1930年)24歳で初めて出版した詩集で注目を浴び、平成7年(1995年)に89歳で亡くなるまで詩や随筆・絵本を書き、後進の育成にも努めた「ふるさとの偉人」です。
 完成したマンガは、市内小学校で郷土学習の授業に活用されるほか、一般を対象とした永瀬清子展示室での企画展開催、図書館でのマンガ原画展開催などが計画されています。
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だいぶ前に赤磐市教育委員会さんからいただいていたのですが、市のホームページで取り上げられたら紹介しよう、と思っていたところ、なかなか情報がアップされません。

そうこうしているうちに、制作の助成に入って下さったB&G財団さんのサイトに紹介が出(ちなみにB&Gさん、広くこの「マンガふるさとの偉人」シリーズの助成を行っていて、花巻出身で親族が光太郎と関わりがあった佐藤昌介もラインナップに入っています)、さらに地元紙『山陽新聞』さんで記事になりました。

永瀬清子さん生涯を漫画に 赤磐 市教委が刊行 詩人志した逸話、功績紹介

001 赤磐市教委は市出身の詩人永瀬清子さん(1906~95年)の生涯を描いた漫画「詩人 永瀬清子物語」を刊行した。「現代詩の母」と称された創作活動とともに、女性の社会進出や後進の育成に尽力した功績を伝える。
 永瀬さんは佐藤惣之助に師事し、詩集「グレンデルの母親」「諸国の天女」などを発刊。県内では女性詩人が立ち上げた詩誌「黄薔薇(ばら)」を主宰した。
 漫画は少女期から晩年まで時代ごとに10章で構成している。投稿した短歌が入選したり、詩集を取り寄せ感銘を受けたりし、詩の道を志した少女時代の逸話を紹介。宮沢賢治を慕い、東京で高村光太郎や萩原朔太郎らと交流を深め、詩人として成長する姿を記した。
 45年に岡山に戻った後も、農作業をしながら詩作に励んだことや、詩の添削に熱心に取り組んだエピソードも取り上げた。
 B6判、104ページ。岡山市のイラストレーター藤井敬士さんが作画を担当した。B&G財団(東京)の助成を受け3千部作製。県内の図書館や学校などに配り、赤磐市内の図書館で貸し出している。
 編集に携わった市教委の白根直子学芸員は「子どもたちに将来の夢をかなえる参考になればと思い、少女時代を丁寧に描いた。漫画を通じて、永瀬さんの詩への思いを知ってほしい」と話している。


というわけで、光太郎も登場。

まずは宮沢賢治が歿した翌年の昭和9年(1934)2月16日、当会の祖・草野心平がお膳立てをし、光太郎や永瀬も出席して新宿モナミで開催され、「雨ニモマケズ」が「発見」されたという宮沢賢治追悼会のシーン。
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さらに、詩集『諸国の天女』(昭和15年=1940)への序文執筆を頼むため、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を訪れてのシーン。
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駒込林町アトリエにて3 昭和16年(1941) 光太郎59歳このシーンでは光太郎、着物の上に白い上着を羽織っていますが、彫刻制作用のブルーズ(作業着)です。昨年でしたか、このころの光太郎やアトリエ兼住居の写真を参考のために提供して欲しいという依頼があり、右の画像(昭和16年=1941)をお送りしたのでそれが反映されたようです。残念ながらアトリエ兼住居については詳細は描かれていませんでしたが。

また、こちらも描かれませんでしたが、永瀬と光太郎との交流は光太郎最晩年まで続きました。

戦後に故郷の豊田村に戻って農業のかたわら詩作を続けた永瀬に、花巻郊外太田村で同じく農作業に従事していた光太郎から励ましの書簡が送られました。詩集『美しい国』(昭和23年=1948)の受贈礼状に曰く「松木村といふところではたらいて居られるあなたの姿まで目に見えるやうに思はれ、よんで心が慰められます 働き過ぎてからだをこはさぬやう切にいのります」。

そして光太郎が亡くなる前年の昭和30年(1955)、インドのニューデリーで開催され、植民地主義、原水爆問題など、アジアに共通する問題について意見交換する趣旨の「アジア諸国民会議」に、永瀬が婦人団体代表として参加する際には、「裏の山へ植林に行くようなお気持で行つてらつしやい。」という歓送の辞を贈りました。

かつて自らが留学のために洋行してから約半世紀。その頃と比べものにならないほど近くなった「外国」。そういった感覚が「裏の山へ……」という一言に表されているようです。

その他、錚々たるメンバーが登場。与謝野晶子、上田敏、宮本百合子、ご存命のところで谷川俊太郎氏などなど。

さて、奥付画像を貼っておきます。必要な方、ご参考までに。
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【折々のことば・光太郎】

「道」無しには人は生きられません。自己の当然を信ずれば信ずる程その当然の中にいかなる道があるかを知らねばなりません。


昭和5年(1930)3月21日 真壁仁宛書簡より 光太郎48歳

「道」は詩「道程」(大正3年=1914)などの頃から光太郎が追い求めていたテーマの一つですが、昭和初期、この書簡にもある「当然」も生涯のキーワードとしてよく使われるようになっていきました。

ただ、翌年には満州事変が起こり、いわゆる十五年戦争の時代に突入します。すると、その流れも「当然」と捉えられるようになり、さらに智恵子の心の病も顕在化、光太郎にとっての最大の暗黒の時代へと入って行くことになります。

7月7日(金)、都内で「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~【夜公演】」、「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」をハシゴして拝聴、拝見後、最終の高速バスで千葉の自宅兼事務所へ(都心から2時間近くかかる田舎です)。

入浴、仮眠後、明けて7月8日(土)、午前4時半過ぎに起床、猫と自分との朝食を作って一緒に食べ(笑)、5時半には愛車を北に向けて出発。目指すは福島県川内村です。

この日は当会の祖にして、生前の光太郎と最も親しかった草野心平を顕彰する第58回天山祭りで、光太郎と心平の交流についてべしゃくれ、ということで、行って参りました。
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遅れてはいけないと思い、早く出たら早く着きまして、まず、川内村での心平の別荘・天山文庫に。以前も書きましたが、ここの建設委員には、光太郎実弟にして心平と親しかった髙村豊周も名を連ねました。
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本来、こちらの広場的なスペースが天山祭り会場なのですが、途中でスマホにメールが入り、天候が怪しいのでこちらではなく、村民体育センターで、ということで、そちらに移動。
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当方、天山祭り参加は6回目くらいですが、結局、天山文庫では2回だけ、あとはやはり雨天時会場での開催でした。
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ステージ前の祭壇的な。心平のこよなく愛した酒がたくさん供えられていました。

開会に先立ち、アトラクション的に音楽演奏。
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そして開会。
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実行委員長・井出茂氏や遠藤雄幸村長らのご挨拶等。コロナ禍もあったため、お二人にお会いするのも実に久々でした。
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献花。
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小中一貫となった川内小中学園の子供たちによる自作詩の朗読。
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かつて心平が主宰していた『歴程』同人の伊武トーマ氏による心平詩の朗読。
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氏とも超久しぶりで、今回はとにかく懐かしい面々にお会いでき、嬉しゅうございました。ただ、同じく『歴程』同人で、天山祭りご常連だった新藤凉子氏が昨年亡くなったのは残念でしたが……。

ここで休憩を挟んで、当方の講演。「草野心平と高村光太郎 魂の交流」と題し、二人のつながり等を30分程でお話しさせていただきました。
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今年、光太郎は生誕140周年(ちょっと半端ですが(笑))、ちょうど20歳年下の心平は生誕120周年。お互いに師匠・先輩←→弟子・後輩ではなく、年上の友人←→年下の友人として長いつきあいをし、さらに光太郎歿後は最晩年まで光太郎顕彰に力を注いでくれた心平について、ご紹介いたしました。
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レジュメには、最近、国会図書館さんのデジタルデータリニューアルで見つけた、当方もそれまで知らなかった心平の光太郎回想から抜粋で筆写しておきました。いずれも昭和戦前の出来事で、酔いつぶれた心平が目を覚ますと駒込林町の光太郎アトリエのベッドで、ベッドの下にはゲロを吐いた跡がきれいに拭き取られ、光太郎はアトリエのソファーで冬なのに毛布一枚で寝ていたとか、心平が一時期勤めていた『東亜解放』(光太郎が斡旋?)の取材で東北に行った際、早くも1日目で取材費を呑み尽くし、光太郎に電報為替で金を送ってもらったことなど。まったく心平は豪快です(笑)。

その後、地元の子供たちなどによる、伝統芸能「西郷獅子」演舞。
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やはり地元の子供たちらによる心平モチーフの紙芝居披露。
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うるっと来てしまいました。

閉会後、井出氏のご自宅、小松屋旅館さんへ。
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コロナ禍もほぼ落ち着いたということで、11月には心平を偲ぶ「かえる忌」の集いを復活させたいということで、その打ち合わせ。
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さらにその後、村内下川内牛渕地区に新たにオープンした古民家カフェ的な秋風舎さんで昼食。
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古民家・古建築好きの当方としては、アゲアゲでした(笑)。
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店内には心平の書も。
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さらに書庫があり、当方のべしゃくりでも触れた、光太郎が題字を揮毫した心平詩集。
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さらにアガりました(笑)。

先述の通り、また秋にはお邪魔いたしますが、川内村、実にいい所です。皆様もぜひ足をお運び下さい。

以上、レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

あの詩集の原稿はまだドラ社に廻つてゐません。 紛雑なノオトの中から集めるので、時間の少いため遅れてゐるのです。原稿さへまとまれば、印刷はぢき出来るさうです。 既に御払込の由、御気の毒に思ひますが、決して無責任な事はしません。此事一寸、

昭和2年(1927)10月31日 堀久松宛書簡より 光太郎45歳

07fe8679あの詩集」は、『猛獣篇』。人口に膾炙した「ぼろぼろな駝鳥」などを含む連作詩です。早くから心平の手で出版される計画があったのですが、結局、光太郎生前にはそれが実現せず、没後の昭和37年(1962)になって、心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで発行されました。

心平はその刊行に際し、ハードカバーのきちんとした書籍として、と云ったことも考えましたが、いやまてよ、ここは初期の『銅鑼』などの精神で、一周回ってガリ版刷りだ、と決めました。

ガリ版刷りの手製ですが(制作には当会顧問であらせられた北川太一先生もご協力)、現在、1万数千円くらいで市場に出ています。

光太郎の書いた心平詩集『蛙』や『天』などの題字もほれぼれしますが、この『猛獣篇』の心平筆跡にも心を奪われますね。

ちなみに葉書は当方手持ちのもの。絵葉書で、写真面はノートルダム大聖堂のエクステ彫刻です。
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新刊です。

自称詞〈僕〉の歴史

2023年6月30日 友田健太郎著 河出書房新社(河出新書) 定価980円+税

なぜ〈僕〉という一人称は明治以降、急速に広がり、ほぼ男性だけに定着したのか。古代から現代までの〈僕〉の変遷を詳細に追い、現代の日本社会が抱える問題まで浮き彫りにする画期的な書。

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目次
はじめに
第1章 〈僕〉という問題
 WBCを席捲した〈僕〉
 野球スター今昔――〈ワイ〉から〈僕〉へ
 スポーツ界で一般化する〈僕〉
 EXILEには〈僕〉を使うルールがある?
 女性にも広がる〈僕〉
 〈僕〉が登場する記事が三〇倍に
 「主体」を出す表現が増えてきている?
 〈僕〉が選ばれる割合が増加
 〈僕〉は戦後世代の自称詞に
 〈僕〉が増えた理由は?
 主な自称詞の由来や性質
 男性が最も一般的に使うのは〈俺〉
 自称詞とは?
 すり減っていく「敬意」
  自称詞が徐々に「偉そう」に
 〈僕〉が平等を促進?
第2章 〈僕〉の来歴――古代から江戸時代後期まで
 日本最古の〈僕〉
 「古事記」の世界観を表現
 「日本書紀」の〈僕〉
 中国から来た〈僕〉
 〈僕〉の二つの意味合い
 中世の欠落
 〈僕〉が使われ始めた元禄時代
 初期の用例
 唐代の「師道論」
 元禄時代の〈僕〉は師道論へのオマージュ
 身分制度の性格を離れた友情を表す〈僕〉
 広がる〈僕〉使用
 渡辺崋山の〈僕〉
第3章 〈僕〉、連帯を呼びかける――吉田松陰の自称詞と志士活動
 吉田松陰という人
 長州の学問の伝統
 松陰の人間関係
 松陰の書簡の分類
 〈僕〉の使用が少ない家族宛書簡
 「友人宛」で〈僕〉を多く使用
 弟子宛書簡にも多い〈僕〉
 親友でもあった兄・梅太郎
 秀才の初めての挫折
 秀才の初めての非行
 黒船が来て政治に目覚める
 黒船に乗り込み、完全にコースを外れる
 兄との激論
 熊皮の敷物に込めた思い
 松陰の出獄と松下村塾の始まり
 政治活動の激化
 感情の揺れと〈僕〉
 同志に贈る書簡の〈僕〉
 領分関係者への〈僕〉
 〈僕〉に込めた「対等性」
第4章 〈僕〉たちの明治維新――松陰の弟子たちの友情と死
 弟子たちの重要性
 貴公子・高杉晋作
 藩医の家の孤児・久坂玄瑞
 武家社会の末端・入江杉蔵
 松陰との出会い
 松陰と杉蔵兄弟の入獄
 杉蔵に死を迫った松陰
 杉蔵の反発と松陰の謝罪
 家庭事情を打ち明ける晋作
 玄瑞に友情を求める晋作
 晋作と松陰
 松陰の死
 玄瑞と杉蔵の友情
 杉蔵の志士活動の挫折
 過激化する晋作と玄瑞
 杉蔵の志士活動の本格化
 杉蔵と玄瑞の最期
 その後の晋作
 身分社会の崩壊と〈僕〉
第5章 〈僕〉の変貌――「エリートの自称詞」から「自由な個人」へ
 下級武士が中心となった革命
 明治時代の教育の普及
 『安愚楽鍋』の〈僕〉
 河竹黙阿弥の歌舞伎台本
 黙阿弥作品の〈僕〉――教育との関わり
 黙阿弥作品の〈僕〉――金と権力
 明治の「立身出世」と〈僕〉
 江戸文人の〈僕〉
 黙阿弥の引退作に使われた〈僕〉
 泥棒から権力者へ
 黙阿弥自身の遺した〈僕〉
 教育の普及
 近代日本文学は「〈僕〉たちの文学」
 文豪・漱石の〈僕〉〈君〉
 明治時代の庶民と〈僕〉
 大杉栄の〈僕〉
 高村光太郎の〈僕〉
 戦没学生の〈僕〉の分析
 女性への呼びかけとしての〈僕〉
 軍隊と〈僕〉
 『戦没農民兵士の手紙』との比較
 戦後の大学進学率の上昇と〈僕〉の普及
 連続殺人鬼・大久保清の〈ぼく〉
 「男はつらいよ」諏訪家三代の〈僕〉
 三田誠広の『僕って何』
 村上春樹の〈僕〉
 社会へのコミットメントを深める村上春樹
 〈僕〉の可能性は
終章 女性と〈僕〉――自由を求めて
 これまでのまとめ
 ストーリーの欠落としての女性
 江戸時代、女性は〈僕〉を使わなかった?
 「男性化」への拒否感
 『女性は女性らしく』
 河竹黙阿弥が描いた女書生の〈僕〉
 繁=お繁の自称詞使い分け
 『当世書生気質』の中の女性の〈僕〉
 『浮雲』の中の女性の〈僕〉
 〈僕〉が映す学生文化への憧れ
 田辺聖子『藪の鶯』
 天才少女の小説『婦女の鑑』
 翻訳小説に登場した〈僕〉
 樋口一葉の登場
 一葉の使った〈僕〉
 男女の人生の違いを浮き彫りに
 与謝野晶子の苦痛
 「男装の麗人」水の江滝子の〈僕〉
 宝塚の〈僕〉
 綿々と続く男装文化
 奇人・本荘幽蘭の〈僕〉
  川島芳子の〈僕〉
 男装の影の「素顔」
 川島芳子は生きていた?
 戦中の「礼法要項」に定められた男女の別
 戦後の〈僕〉の光景――林芙美子の『浮雲』
 戦後の教室での自称詞
 『リボンの騎士』と『ベルサイユのばら』
 その後の少女マンガの〈僕〉
 性的マイノリティにとっても〈僕〉
 〈僕ら〉と〈わたしたち〉
 詩人・最果タヒの〈ぼく〉
 人々の思いを映し、日本語の「現在」を示す〈僕〉
おわりに

「自称詞」というあまり聞き慣れない語がタイトルに使われています。英語圏などの「代名詞」との性格の違いを考慮してのことだそうです。

他言語との比較で云えば、確かに日本語の一人称は「私(わたし)」「私(わたくし)」「俺」「某(それがし)」「小生」「余」「朕」「儂(わし)」、そして「僕」など(実際に使うか使わないかは別として)、さらに方言まで含めればいったいどれだけあるんだ、ですね。そしてそれぞれに微妙なニュアンスの違いがあるわけで。

よく使われる例えですが「吾輩は猫である」。英訳してみれば「I am a cat」。「吾輩」という偉そうな響きはまったく影を潜めてしまいますし、「である」という断定口調(「です」ともまた異なる)も表せません。だから日本語の方が優れている、と云うつもりは全くありませんが。

そして本書で取り上げられている「僕」。たしかに不思議な言葉ですね。一般に、女性は使いません。また、男性であってもオールマイティーにどんな場面でも、というわけではありません。実際に当方、学校を出てからこのかた「僕」を使った覚えはありません。というか、既に学生時代にはオフィシャルな場面では「自分」と云っていた記憶がありますし、現在でも「自分」です。

当方の中では「僕」は割と年配の男性が使うというイメージがありました。当会顧問であらせられた故・北川太一先生は常に「僕」でしたし、亡くなった父親も対外的にはよく「僕」と云っていました。

ところが、最近、「僕」が世の中を席捲している、という例から本書は始まります。確かに大谷翔平選手らスポーツ界、それから著者の友田氏は芸能界でEXILEさんを例に挙げていますが、インタビュー等で彼らは「僕」を多用し、それが爽やかさや謙虚さ、親しみやすさの表明にも繋がっている、と、いうわけです。

そして古今の「僕」の使われ方を帰納的に分析。すると、元禄の頃から使用例が増え、幕末には吉田松陰らをはじめ、当時の知識階級などが連帯感を示すものとして広く用いるようになり、さらに維新後の教育のあり方などとも結びついて、一般化していったという論。うなずけました。

そんな中で、「高村光太郎の〈僕〉」という項も設けられ、詩「道程」(大正3年=1914)などでの「僕」が論じられています。ちなみに光太郎は詩の中では「僕」以外にも「俺」「おれ」「私」「わたし」「わたくし」「われら」(戦時中)などを使い分けていました(友田氏、ちゃんとそこもカバーしています)し、日記では「我」(明治期)「余」(戦後)なども使っていました。おそらく学部生の卒論などでもこういう内容はあったことでしょう。

本書の場合、特定の人物に偏らず、かなり広範囲にその使用例を求め、それぞれの人物がどういう背景の下に「僕」を使っていたのかを、世相や社会状況、おのおのが置かれていた立場などとからめて論じている点が優れているところです。さらに昨今のジェンダーフリー的な部分への言及も為されています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

詩を書かないでいると死にたくなる人だけ詩を書くといいと思ひます。


昭和2年(1927)2月24日 正富汪洋宛書簡より 光太郎45歳

正富が編集に当たっていた雑誌『新進詩人』のアンケート「詩界に就て」の回答として送られた返信用往復葉書から。そこで『高村光太郎全集』には、書簡の巻とアンケート回答の載った巻と、2箇所に掲載されています。

どきりとさせられますが、詩に限らず、芸術等の全ての分野に云えることではないでしょうか。

嬉しい悲鳴ですが、またぞろ取り上げるべき事項が目白押しとなってきましたので、新刊の雑誌系、3冊まとめてご紹介します。

まず、新刊書店さんで平積みになっています、月刊の『文藝春秋』さん7月号。
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「総力特集 一〇〇年の恋の物語 一つの恋が時代を変えることもある」。
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まず新聞広告で知りました。かつてはこの手の特集を組んだ雑誌や、こうした内容をメインにした書籍等で光太郎智恵子が取り上げられることが多かったので、今回も光太郎智恵子の項はあるかな、と思ったのですが、項目としてはありませんでした。

しかしまだ諦めきれず(笑)、書店で立ち読みもしたのですが、光太郎智恵子の名は見つからず。

ところが、今年の第67回連翹忌にご参加下さった詩人の方からメールが来て、「光太郎智恵子が取り上げられてますよ」。

何とまぁ、冒頭の総論的な田原総一郎氏と下重暁子氏の対談「恋のない人生なんて!」の中で、ちらりとですが確かに触れられていました。一部分、載せます。
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立ち読みした際にここはスルーしていました。考えてみれば、下重氏、今年3月の『週刊朝日』さんでもちらりと光太郎を引き合いに出して下さっていましたので、「怪しい」と思うべきでした。

続いて同人誌。

やはり第67回連翹忌にご参加下さった詩人の谷口ちかえ氏がご送付下さいました、詩誌『ここから』16号。
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「テーマエッセイ 記憶に残る詩の一行」という項で、存じ上げない方ですが、斉藤なつみ氏という方が光太郎詩「冬の言葉」(昭和2年=1927)の最終行「一生を棒にふつて人生に関与せよと」を紹介して下さいました。多謝。

「冬の言葉」全文はこちら。

    冬の言葉
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 冬が又来て天と地とを清楚にする。
 冬が洗ひ出すのは万物の木地。

 天はやつぱり高く遠く
 樹木は思ひきつて潔らかだ。

 虫は生殖を終へて平気で死に、
 霜がおりれば草が枯れる。

 この世の少しばかりの擬勢とおめかしとを
 冬はいきなり蹂躪する。

 冬は凩の喇叭を吹いて宣言する、
 人間手製の価値をすてよと。

 金銭はむかし貴族を滅却した。002
 君達は更に金銭を泥土に委せよと。

 君等のいぢらしい誇りをすてよ、
 君等が唯君等たる仕事に猛進せよと。

 冬が又来て天と地とを清楚にする。
 冬が求めるのは万物の木地。

 冬は鉄碪(かなしき)を打つて又叫ぶ、
 一生を棒にふつて人生に関与せよと。

ちなみにこの詩の直前に書かれた「或る墓碑銘」という詩も、最終行が「一生を棒に振りし男此処に眠る」となっており、呼応している感があります。

奥付的な部分の画像を載せておきますので、ご入用の方、そちらまで。
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最後に一般には流通していない雑誌ですが……。

地銀の千葉銀行さんが展開するシニア世代向け会員制サービス「ひまわり倶楽部」の会報的な『ひまわり倶楽部』2023年6月号。年2回の発行だそうで。
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表紙が当会会友・渡辺えりさん。特集記事がえりさんによる「さんぶの里紀行」。千葉県の九十九里浜を含む一帯が「山武」といわれる地域で、そちらのレポートです。ちなみに九十九里町も属する「山武郡」は「さんぶぐん」なのですが、旧山武郡山武町、同蓮沼村などが合併してできた「山武市」は「さんむし」と、「武」の字の読み方が異なります。元々「さんむ」だったものが、いつの間にか「さんぶ」と読まれるようになり、合併の際には本来の読み方である「さんむ」に戻そう、ということで「さんむし」となりましたが、合併に入らなかった九十九里町などは「さんぶぐん」で通しています。複雑ですね。

で、えりさんの旅レポ(ご執筆はライターの方)は13ページにもわたり、全体の半分以上です。元々の企画では、山武地域中の山武市と東金市とを廻るというもので、そのように予告もされていたようですが、そこはえりさん、強引に「九十九里町も入れてちょうだい」(笑)。九十九里町は昭和9年(1934)に半年あまり、心を病んだ智恵子が療養し、光太郎がほぼ毎週見舞いに訪れた地です。詳しくはこちら。山形ご在住だったえりさんの亡きお父さまが生前の光太郎と交流があり、いつか九十九里町を訪ねたいとおっしゃっていたのが果たせず、えりさんご自身も行かれたことがなかったそうで。

3月半ばのことでした。自宅兼事務所でPCのキーボードを打っていると、突然、スマホにえりさんから電話。

「九十九里浜の智恵子が療養していたあたりに行きたいんだけど。光太郎の石碑とかあるのよね」
「そうっすね。そんならうちから1時間ちょっとのとこなんで、ご案内しますよ。で、いつごろですか?」
「いやいや、もう近くまで来てるのよ、千葉の銀行の雑誌の取材で」
「えっ?」
「でも智恵子が居たところの詳しい場所が分からないから」
「って、今、どちらにいらっしゃるんすか? 市町村の区分で云うと」
「えーと、山武市」
「ああ、だったらそこよりちょい南下したあたりです。九十九里町ってとこに「サンライズ九十九里」つう保養施設があるので、そこのフロントで訊いて下さい。石碑とか智恵子が居た家の跡とかはそこのすぐ近くです」
「「サンライズ九十九里」ね。わかった」
「そこの2階のエレベータホールに光太郎智恵子の銅像のミニチュアがありますから、そちらもご覧下さい」
「了解、ありがと」

とまぁ、こんなようなやりとりがありました。

その後、えりさんのフェイスブックに上がった画像。
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その後、こちらで拾ったハマグリの貝殻を、お父さまのご仏前に供えられたそうで。

そして『ひまわり倶楽部』さんの該当箇所。
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また数日前にえりさんからメールで「銀行の雑誌、出たよ」。で、当方、裏ルートで入手した次第です(笑)。

この手の情報ご提供、ありがたいかぎりです。お待ちしております。

【折々のことば・光太郎】

ロダン翁の事についてはおたづねいたし度き事まだまだ沢山有之 又折を見て推参拝聴いたし度事に存居候へば何卒よろしく願上候 余寒きびしき折柄御自愛専一に可被遊 尚ほ御家中皆々様にもよろしく被下処願上候 あなた様の居らるゝ為め岐阜といふ町までなつかしき心地いたされ 又参上いたす時をたのしみに致し居候


昭和2年(1927)2月10日 太田花子宛書簡より 光太郎45歳

太田花子は女優。確認できている限り、ロダンのモデルを務めた唯一の日本人です。光太郎はこの年刊行される予定の評伝『ロダン』執筆のため、引退して岐阜に隠棲していた花子を訪ね、ロダンとの思い出をインタビューしました。その礼状です。
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もう一度岐阜に行って話を聞きたい、とのことでしたが、それは果たせませんでした。

当会の祖・草野心平が生前に愛し、心平没後は心平を祀る意味合いも込められるようになったイベントです。

第58回天山祭り

期 日 : 2023年7月8日(土)
会 場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
       雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 午前10時~12時40分
料 金 : 500円

故草野心平先生の遺徳をしのび、7月の第2土曜日に毎年開催されています。詩の朗読や伝統芸能の披露など文化的なお祭りとなってます。これを機に、川内村の伝統にふれてみてはいかがでしょう。

今年は草野心平生誕120周年ということもあり、村の子どもたちによる発表なども予定されておりますので、ぜひお越しください。

お問い合わせ先 川内村教育委員会 電話:0240-38-3806
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まぁ、ほんのおまけのような扱いなのでしょう、要項等に記述がありませんが、当方の講演も予定されています。題して「草野心平と高村光太郎 魂の交流」。
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以前にも似たような話をあちこちでさせていただいておりますので、その焼き直しのような……。

同祭、何度か参加させていただきました。最後はコロナ禍前の第54回(令和元年=2019)。コロナ禍中の第55回(令和2年=2020)は例によって中止となり、一昨年の第56回は福島県内在住者に限っての参加で実施、昨年の第57回から再び広く参加を呼びかけるようになりました。ただ、今年もそうですが、以前のように名物のイワナ付きお弁当が饗されるところまでは旧に復していないようです。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

東京は四十年来といふ寒さで、此間零下八度六分。彫刻の粘土を凍らせないやうにするので厄介です。ロンドンは割に暖かなのでせう。霧はどうですか。

昭和2年(1927)1月27日 中野秀人宛書簡より 光太郎45歳

中野秀人は編集者・詩人。この頃ロンドンに居ました。

零下八度六分」は間違いでも誇張でもなく、この年1月24日に東京地方で記録され、気象台開設以来の寒波として記録に残っています。

これで思い出されるのが、『智恵子抄』所収の詩「金」。前年の大正15年(1926)に書かれたものです。
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 工場の泥を凍らせてはいけない。
 智恵子よ、
 夕方の台所が如何に淋しからうとも、
 石炭は焚かうね。
 寝部屋の毛布が薄ければ、
 上に坐蒲団をのせようとも、
 夜明けの寒さに、
 工場の泥を凍らせてはいけない。
 私は冬の寝ずの番、
 水銀柱の斥候(ものみ)を放つて、
 あの北風に逆襲しよう。
 少しばかり正月が淋しからうとも、
 智恵子よ、
 石炭は焚かうね。

「工場」は「こうじょう」ではなく「こうば」。アトリエのことです。「泥」は彫刻用の粘土ですね。

こういうところが、『智恵子抄』が「智恵子不在」とか「モラハラ野郎」とか云われる所以なのでしょうが……。

昭和53年(1978)から続く行事ですが、基本、クローズドなので報道されることがあまり多くありません。ただ、今年は地方テレビ局ローカルニュースで取り上げられました。

岩手めんこいテレビさん。

盛岡少年刑務所で「高村光太郎祭」 “心はいつでもあたらしく”

 彫刻家で詩人の高村光太郎は岩手県花巻市で暮らしていた73年前、講演のため盛岡少年刑務所を訪れていました。
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 6月23日、教えを引き継ぐ伝統の行事が行われました。
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 盛岡少年刑務所では、23日に46年間続く行事「高村光太郎祭」が行われました。
 盛岡少年刑務所では1950年に彫刻家で詩人の高村光太郎が講演に訪れ、その際、光太郎から「心はいつでもあたらしく」という書が贈られました。
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 施設の運動場にはその言葉を刻んだ石碑が建てられています。
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 この行事は、書に込められた「前向きに生きる大切さ」を受刑者に引き継ごうと指導の一環として行われています。
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 23日は受刑者が光太郎をしのんで花を手向けたあと、その作品の一つである「私は青年が好きだ」を朗読しました。
受刑者
「私の好きな青年は麦のように踏まれるほど根を張って起き上がる」
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 続いて受刑者の代表が光太郎の書を踏まえて自ら記した作文を発表しました。
受刑者代表
「いつか出所して困難な壁にぶつかったときには『心はいつでもあたらしく』という盛岡で出会った言葉を胸に乗り越えたい」
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 また23日は高村光太郎記念館の梅原奈美館長の講演も行われ、受刑者たちは盛岡少年刑務所とゆかりがある光太郎の歴史に思いをはせていました。

光太郎がこちらを訪れたのは、花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居中だった昭和25年(1950)1月。この際はこちらだけでなく、県立美術工芸学校(現・岩手大学)、婦人之友生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)、盛岡警察署、県立図書館などで講演を行っています。

少年刑務所さんに残した書は、「心はいつでもあたらしく」。普段は所長室に掲げられています。前年にはプラスアルファの「心はいつでもあたらしく/毎日何かしらを発見する」という文句を、山小屋のあった旧太田村の新制太田中学校さんに校訓として贈っており、そこからの転用です。

少年刑務所さんでは昭和52年(1977)にこの書を元にした石碑を建立し、翌年から「高村光太郎祭」を実施。受刑者が自分を見つめ直す機会とするといった意図があるようです。

当方、平成28年(2016)の「高村光太郎祭」に招かれ、講演をさせていただきました。その際には光太郎も戦争協力などで罪多き人生だったこと、そしてそれを自ら烈しく悔い、きちんと自分なりに総括をしたことなどを語りました。

その頃も受刑者の方が光太郎詩を朗読したり、作文を発表したりというプログラムがありましたが、継続されているのですね。

今年、皆さんが群読したという詩「私は青年が好きだ」、以下の通りです。

   私は青年が好きだ

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は麦のやうに017
 踏まれるほど根を張つて起きあがる。
 私の好きな青年は玉菜のやうに
 霜にあふほどいきいきとしてまろく育つ。

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は木曽の檜の柾目のやうに
 まつすぐでやわらかで香りがいい。
 私の好きな青年は鋼のバネのやうに
 しなやかでつよく弾みがいい。

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は朝日に輝く山のやうに
 晴れやかできれいで天につづく。
 私の好きな青年は燃え上がる焚火のやうに
 熱烈で新鮮であたりを照らす。

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は真正面から人を見て
 まともにこの世の真理をまもる。
 私の好きな青年はみづみづしい愛情で
 ひとりでに人生をたのしくさせる。

フォーシームのど直球ですね(笑)。それもそのはず、大日本青少年団発行の雑誌『青年』へ昭和15年(1940)2月に発表されたもので、既に日中戦争は泥沼化、事態の打開を図って翌年には太平洋戦争に突入する時期ですので、現人神の赤子たる若き皇国臣民はかくあるべし、ということです。そうした背景を抜きにして考えれば、「道程」などにも通じるストイックな求道の精神も垣間見え、悪い詩ではないと思います。

そこで戦後になってもこの詩は他の翼賛詩とは異なり、お蔵入りにされることなく、家の光協会さんで朗読のレコードを出したり(昭和30年=1955)、故・清水脩氏によって混声合唱曲として作曲されたり(昭和44年=1969)しています。

こちらに収容されている皆さんのように、特殊な状況に置かれている人々には、カットボールやチェンジアップのような変化球よりも、こうした100マイルのフォーシームの方が心に響くのではないでしょうか。

少年刑務所高村光太郎祭、末永く続くことを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

此間の会は実に特異な会で忘れがたい愉快な一夕でした。あれから又ラヂオでもヸルドラツク氏の朗読をききました 巴里で金曜毎に皆が会ふときいて羨ましく思ひました。


大正15年(1926)5月3日 尾崎喜八宛書簡より 光太郎44歳

此間の会」は、来日したフランスの詩人・劇作家、シャルル・ヴィルドラックの歓迎会。ヴィルドラックは光太郎も敬愛していたロマン・ロランとも親しく、「巴里で金曜毎に皆が会ふ」メンバーにロランも含まれていたようです。
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三重県の紀北民俗研究会さん発行の雑誌『奥熊野の民俗』第16号。

『毎日新聞』さんの三重版で紹介されており、その中で光太郎の名が出ていました。ネットで記事全文が読めない状況でして、「紀北町の元学校職員で、趣味でカメラや俳句に親しんだ故東正佳さんが72年ごろ発行した句集に、詩人で彫刻家の高村光太郎と47年に交わした往復書簡が ...」とのこと。

『高村光太郎全集』には「東正佳」の名は出て来ません。ただ、三重県在住で「東正巳」という人物は、日記の巻に名がある他、書簡を収めた第21巻に「東正巳」宛て書簡が29通(昭和18年=1943~昭和26年=1951のもの)収録されています。三重で同人誌的な雑誌と思われる『海原』を発行し、自身でも詩歌の創作をしていた人物のようでした。そこで「東正佳」じゃなくて「東正巳」の間違いなんじゃないの? またはよく似た名前の別人? などと思いつつ、取り寄せました。

『毎日新聞』さんの記事は読めませんでしたが、『紀北町ニュース』の記事が読めまして、そちらに入用の際の連絡先が載っていました。こちらには光太郎の名は出て来ませんでしたが。

「奥熊野の民俗16号」発刊

 東紀州地域の元教員らでつくる紀北民俗研究会(田中稔昭会長)は、12年ぶりに機関誌「奥熊野(おくまの)の民俗16号」をこのほど発刊した。B5判98㌻。
 今回は17人が地域の歴史や文化、随想、民話などを寄稿。150部を作製し、会員や執筆者、県内外の図書館などに配分し、残り約70部を希望者に実費(700円+送料250円)で販売している。
 同研究会は、元紀北町教育長の故小倉肇氏が創設し、年1回発刊していたが、2010年から12月の15号から中断していた。
 購入申し込みは同研究会事務局の海山郷土資料館(紀北町中里 ☎0597-36-1948)で受け付けている。

で、届いたのがこちら。フライヤー的なものも同封されていました。
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頁を繰ってみると、「詩人 東正佳さんを知る」という記事がありました。太田豊治氏という元中学校の校長先生のご執筆です。

早速、拝読。1ページめで疑問が氷解しました。「東正佳」はペンネーム、本名が「東正巳」だというのです。さらに本業は公立学校の事務職員だったそうで、それも存じませんでした。

その他、東の人となり、業績等がいろいろ紹介されていました。中央の雑誌や新聞に句歌を投稿し、たびたび入選していたこと、単独で自身の句歌集も出版したこと、カメラも趣味で『アサヒグラフ』に写真が掲載されたことなど。

そして、光太郎との交流についても。

これまでに見つかっている光太郎から東宛の書簡では、東へ花巻郊外旧太田村の山小屋にクマゼミを送ってくれるよう依頼していたり、それ以外にも東から生活物資、書籍などが送られていたりといったことは分かっていました。特に興味深かったのは、「ヤギ」という珊瑚の一種を東から贈られ、それを使って蟬を彫ろうとしていたという書簡。ただし、その蟬の現物は確認できていません。

太田氏の玉稿を拝読し、驚いたのは、東の句歌集『海虹集』に光太郎からの書簡が三通転載されていたというくだり。調べてみましたところ、すべて既知のものでしたが。

光太郎から東宛の書簡は、散逸してしまっています。『高村光太郎全集』掲載のもののうち、東が発行していた『海原』に載ったものからの転載が9通、それを含め、平成21年(2009)には21通がまとめて市場に出ました。
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令和3年(2021)には、おそらくそのまま明治古典会七夕古書大入札会2021に出品。
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その際にはどうやら業者さんが買い取ったようで、その業者さんはネットオークションで1通ずつ小出しにして分売。

まぁ、内容さえ分かっていれば、売れてしまうのは仕方がないと思っております。怖いのは、未知のものがわけのわからない人などに買われて結局死蔵になってしまうことですが。

太田氏の玉稿に依れば、東は生涯独身。現在、住んでいた家は草深い空き家となり、表札の字はかすかに読み取れる、という状況だそうです。

東の句歌集『海虹集』。国会図書館さんのデジタルデータで調べたところ、昭和47年(1972)の刊行でした。そのものは見つかりませんでしたが、『紀伊長島町史』という書籍に書影が掲載されていました。

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こちらに載ったという書簡はすべて既知のものでしたが、こういう形で光太郎の未知の書簡が見つかることも結構あり、今後もそれらの発見に努めます。

【折々のことば・光太郎】

だしぬけにあなたから「秋の瞳」といふ詩集をもらつたのはうれしかつた。丁度房州へゆく時なので、ふところへ入れて、方々歩きながら、海だの、林だの、旅舎の二階だのでよみました。あなたの心を細かに感じられたやうでうれしかつた。純粋な感情の吐息はどこにでも生きてゐて、詩と自分の感じとがぴつたりあふ時はうれしかつた。御礼まで。

大正14年(1925)8月28日 八木重吉宛書簡より 光太郎43歳

確認できている限り唯一の八木宛書簡です。

先程の新発見の東宛書簡からも感じられますが、光太郎、どうも活字中毒に近かったのではないかと思われます。当方もそうなので、わかるなぁ、という感じなのですが。

新刊です。

デュオする名言、響き合うメッセージ 墓碑を歩き、人と出会う、言葉と出会う

2023年6月25日 立元幸治著 福村出版 定価2,200円+税

墓碑は時代の証言者であり、紡がれた人生の物語である−。時代とジャンルを超えた二人の人物が遺した名言を並べ、二人の生き方を顧みながら、示唆するメッセージを読む。“失ったものの大切さ”に気づく 近代日本史のアナザーサイドで響き合うデュオ

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目次
 はじめに
 第一章 政治とは何か、国家とは何か
  人民は源なり、政府は流なり[中江兆民、山本周五郎]
  いったい、この国は何なんだ[佐多稲子、忌野清志郎]
  行政府と立法府、どうなってるんだ[陸羯南、尾崎行雄]
  素にありて贅を知る[大平正芳、伊東正義]
 第二章 官とは何か、民とは何か
  官のための官か、民のための官か[中江兆民、植木枝盛]
  迎合と忖度が国を亡ぼす[林達夫、星新一]
  政治は玩物ではない[井上ひさし、徳富蘆花]
 第三章 戦争というもの
  君死にたまうことなかれ[与謝野晶子、壺井栄]
  〝聖戦〟という虚構を暴く[尾崎行雄、斎藤隆夫]
  自由にものが言えなかった時代[谷川徹三、佐多稲子]
 第四章 志を貫く
  真理と自由を問い直す[南原繁、丸山真男]
  ある外交官の気骨[杉原千畝、堀口九萬一]
  〝出版人の志〟を問う[下中弥三郎、岩波茂雄]
  〝勲章〟は、わが志に非ず[浜口庫之助、杉村春子]
 第五章 文明の光と影
  何が彼女をそうさせたか[細井和喜蔵、藤森成吉]
  人は文明の奴隷に非ず[木下尚江、柳宗悦]
  〝失ったものの大切さ〟に気づく[今日出海、志賀直哉]
 第六章 時代を斬り、世相を切る
  権力のメディア支配を許すな[永井荷風、小林勇]
  威武に屈せず、富貴に淫せず[宮武外骨、桐生悠々]
  言葉が切る世相[大宅壮一、赤瀬川原平]
 第七章 学道と医道
  学究の道に、ゴールなく[鈴木大拙、西田幾多郎]
  病気を診ずして病人を診よ[北里柴三郎、高木兼寛]
  志ある医道を拓く[呉秀三、荻野吟子]
 第八章 創作と表現
  命ある限り、書くのだ![大佛次郎、北原白秋]
  言葉の力を畏れよ[向田邦子、井上ひさし]
  絵画のエスプリを読め[藤島武二、小倉遊亀]
  己が貧しければ、描かれた富士も貧しい[横山大観、熊谷守一]
  僕の前に道はない[岡本太郎、高村光太郎]
 第九章 芸術と人生
  声美しき人、心清し[藤原義江、石井好子]
  作家は歴史の被告人だ[小津安二郎、黒澤明]
  わが師の恩[笠智衆、志村喬]
  ものをつくるというのはどういう事なのか[小林正樹、大島渚]
  うまい役者より、いい役者になれ[六代目中村歌右衛門、二代目尾上松緑]
 第十章 人間への眼差し
  美しくて醜く、神であり悪鬼であり[野上弥生子、山本周五郎]
  馬になるより、牛になれ[高村光太郎、夏目漱石]
  一隅を照らす[中村元、佐野常民]
  心友ありて[斎藤茂吉、藤沢周平]
 第十一章 生きるということ
  〝精神的老衰〟をおそれよ[小倉遊亀、亀井勝一郎]
  前後を切断し、いまを生きよ[加藤道夫、夏目漱石]
  静かに賢く老いるとは[尾崎喜八、野上弥生子]
  ながらえば……、「老い」を見つめる[斎藤茂吉、吉井勇]
  〝当たり前のこと〟の不思議[北原白秋、中勘助]
 第十二章 人生というもの
  男の顔は履歴書なり[大宅壮一、開高健]
  歳月は慈悲を生ず[亀井勝一郎、岡本太郎]
  人生最高の理想は放浪漂泊なり[永井荷風、石坂洋次郎]
  人生は短い、それゆえに高貴だ[中島敦、舩山信一]
  〝ゆるり〟という生き方、〝泡沫〟という人生[無名]
 あとがき
 参考文献
 人物墓所一覧


各項、2人ずつの「名言」――期せずしてシンクロしているような――を取り上げ、展開される社会論、人生論、芸術論、処世訓、といった趣です。

わが光太郎は2箇所で。

まず岡本太郎とのタイアップで「僕の前に道はない[岡本太郎、高村光太郎]」。詩「道程」(1914=1914)の冒頭部分、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と、岡本のエッセイでしょうか、出典は「強く生きる言葉」と書いてあるのですが、「面白いねぇ、実に。オレの人生は。だって道がないんだ。眼の前にはいつも、なんにもない。」を並べています。「天才は天才を知る」といいますか、やはり開拓者たる2人、同じようなことを考えるもんだ……というわけで。

ちなみに太郎の父・一平は、明治38年(1905)、光太郎が再入学した東京美術学校西洋画科での同級生でした。そして母・かの子は智恵子と同じく『青鞜』メンバーの一人。そういった経緯もあったのでしょうか、太郎も光太郎を意識していた節があります。

後の項、「馬になるより、牛になれ[高村光太郎、夏目漱石]」。こちらでは光太郎詩「牛」(大正2年=1913)から。ただし115行の4箇所からフレーズを拾い集めて「牛はのろのろと歩く/どこまでも歩く/自然に身を任して/遅れても、先になっても/自分の道を自分で行く」。

対する漱石は、芥川龍之介・久米正雄に宛てた書簡の一節「牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないのです。」。短い人生を駆け抜けた感のある漱石の言葉としては、意外と云えば意外でした。もっとも、だからこそ「牛にはなかなかなり切れない」なのかもしれませんが。光太郎と漱石のかかわりについては、こちら

他に、光太郎智恵子と関わりのあった面々も多く、興味深く拝読しました。しかし取り上げられている人物の範囲には限定があります。著者の立元氏、『東京多磨霊園物語』『墓碑をよむ――“無名の人生”が映す、豊かなメッセージ』他、掃苔系のご著書が多く、本書もその流れ。そこで、本書に登場するのは、ほとんど(全員?)が、都内か神奈川県の墓所に眠る人々です。

何はともあれ、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

おてがみありがたう、ちよいと房州へいつて来ました。海の沃度のにほひと漁夫の魅力ある生活とにすつかり養はれました、


大正14年(1925)8月7日 難波田龍起宛書簡より 光太郎43歳

「房州」は現在の館山市洲崎海岸附近。智恵子と一緒でした。大正元年(1912)、二人で過ごした銚子犬吠埼での思い出なども語り合ったかも知れませんね。

その辺りも含め、明日、旭市の千葉県立東部図書館さんで、市民講座「高村光太郎・智恵子と房総」の講師を務めて参ります。

詩人の若松英輔氏。これまでのご著書オンラインラジオでの講座などで、たびたび光太郎を取り上げて下さっています。

最近また2件ほど。

6月10日(土)の『日本経済新聞』さん。

言葉のちから 書くとは〜高村光太郎と内村鑑三 若松英輔

 本を世に送ると「作者」という呼び名が与えられ、本に記されていることを何でも知っているように遇される。だが、実感は違う。作品名や本の題名は覚えていたとしても何を書いたのか、その本質はよく分かっていない。人は意識だけでなく、いわゆる無意識を活発に働かせながら書くからである。さらにいえば、意識が無意識とつながったとき、真の意味で「書く」ことが始まるとすらいえるように思う。
 部屋は本で埋まっているが、自分の本はない。
 最初の本を手にしたとき、奇妙というより、いわく言い難いという意味で妙な気分に包まれた。自分の名前が記されているのだが、自分のものではない心地が強くしたのだった。本はたしかに手のなかにある。しかし、本の本質というべきものは、すでに翼を得て、未知なる読者にむかって飛び立っていったように感じた。気が付かないうちに大人になった子どもが、自分の道を見つけて親に後ろ姿を見せながら前に進んでいくような光景が胸に広がったのである。
 書くことは手放すことである。書くことは言葉を育むことでもあるのだろうが、それは手放すことで完成する。彫刻家で詩人でもあった高村光太郎に「首の座」という詩がある。この詩を読んだとき、自らの実感を裏打ちされたように感じ、創作の真義をかいまみたようにも思った。
 「麻の実をつつく山雀(やまがら)を見ながら、/私は今山雀を彫つてゐる。/これが出来上ると木で彫つた山雀が/あの晴れた冬空に飛んでゆくのだ。/その不思議をこの世に生むのが/私の首をかけての地上の仕事だ。」(『高村光太郎詩集』)
 光太郎の彫刻に魅了されるのは、彫刻の形や姿が美しいからだけでなく、そこに生じた不可視ないのちの実在にふれるからなのではないか。彫刻家はいのちを生む。しかし、それを自分の手のなかに留めておくことはできない。手放すことで彼の仕事は完遂する。
 こうしたことは、本や彫刻にだけ起こるのではない。自分以外の人に対して行ったよいことや、成し遂げたと思えるようなものすべてにおいて留意すべきことなのだろう。意味あるもの、真の意味で善き出来事にするためには「手放す」さらには「忘れる」という営みの門をくぐらなければならない。
 経歴や過去の実績の話を得意げにされると興ざめになる。そこに立ち顕われるのは、影のようなもので、今、生きているその人ではない。過去を誇る人は、もっとも魅力があるのはかつて行ったことではなく、それらを昇華させ今、ここに存在しているその人自身であるのを忘れている。
 過去に失敗を経験した人は、簡単に過去を語らない。それを昇華させ、行動しようとする。そうした人が語り、あるいは語らずとも体現する何かに異様なまでのちからがあるのは、今を生きることの重みを無意識に実感しているからだろう。
 何かに執着し、誇ろうとするとき、人はそれを強く意識している。そのようなとき無意識はあまり活発に働いていない。人生もまた、一つの創作である。むしろ、今を生きるということ以上に、創造性を求められることはないのである。
 どう生きるかばかりに気をとられている人の言動が表現しているのは、ほとんどの場合、方法である。しかし、生きるとは何か、その本質を問う人は、生の本質を無言のうちに体現する。人は求めているものを全身で物語っている。
 人生の隠された意味、人生の秘義を体現する人は、必ずしも世にいう成功者ではない。ひたむきに生きる市井の人たちのなかにも賢者は存在する。
 無教会のキリスト教を説いた内村鑑三に『代表的日本人』という著作がある。原文は英語で内村はこの本を世界に向けて書いた。その試みは成就し、ケネディ大統領が愛読したという話もある。日本に陽明学をもたらした中江藤樹の章で内村は「真の感化とはなんであるか、この人物に学ぶがよろしいでしょう」と書いたあとこう続けた。
 「バラの花が、自分の香を知らぬと同じく、藤樹も自分の影響を知りませんでした」(鈴木範久訳)。美しい香りを身にまとい生きている人でも自らが放つ香りに気が付かず、うつむき加減でいることもある。その人自身が見過ごしているよきもの、そうした何かを見いだすのは他者の役割である。見過ごされがちな善きことに何を学ぶか。ここに人生の行き先を決定する重大な鍵があるように思われる。

引用されている光太郎詩は「首の座」(昭和4年=1929)。
無題
    首の座

 麻の実をつつく山雀(やまがら)を見ながら
 私は今山雀を彫つてゐる。
 これが出来上ると木で彫つた山雀が
 あの晴れた冬空に飛んでゆくのだ。
 その不思議をこの世に生むのが
 私の首をかけての地上の仕事だ。
 そんな不思議が何になると、
 幾世紀の血を浴びた、君、忍辱(にんじよく)の友よ、
 君の巨大な不可抗の手をさしのべるか。
 おお否み難い親愛の友よ、
 君はむしろ私を二つに引裂け。
 このささやかな創造の技は
 今私の全存在を要求する。
 この山雀が翼をひろげて空を飛ぶまで
 首の座に私は坐つて天日に答へるのだ。


「山雀」は「やまがら」。日本全域に広く分布している野鳥です。ただし、光太郎が彫ったという山雀の木彫は写真すら確認できていません。どこかにひっそりと残っていないものでしょうか。同じ野鳥の木彫でも「うそ」(大正14年=1925)は現存しています。

「首の座」は罪人が斬首される際に座らせられる場所、またはそのような絶体絶命の状況。「土壇場」ともいいます。そういうところにいるつもりで造型芸術に取り組んでいるのだよ、ということでしょう。

若松氏、この詩の引用後、「彫刻家はいのちを生む。しかし、それを自分の手のなかに留めておくことはできない。手放すことで彼の仕事は完遂する。」と述べられていますが、これは「智恵子抄」所収の「美の監禁に手渡す者」(昭和6年=1931)を下敷きになさっているのだと思われます。


    美の監禁に手渡す者無題2

 納税告知書の赤い手触りが袂にある、
 やつとラヂオから解放された寒夜の風が道路にある。

 売る事の理不尽、購ひ得るものは所有し得る者、
 所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。

 両立しない造形の秘技と貨幣の強引、
 両立しない創造の喜と不耕貪食の苦(にが)さ。

 がらんとした家に待つのは智恵子、粘土、及び木片(こつぱ)、
 ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、つぶれる。

この時期、プロレタリア文学者やアナーキスト達と近い立ち位置だった光太郎ですが、その生活は、彫刻を買ってくれたり、肖像制作を注文したりしてくれる者――多くは資本家など、光太郎の大嫌いな俗世間での成功者――に支えられていました。そのあたりの苦悩が謳われています。

若松氏、もう1件、『中央公論』さんの今月号では光太郎の父・光雲に触れて下さっています。
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AI時代のことば力」の総題で数名の方が寄稿されている内の一篇、「沈黙のすすめ 好奇心を疑い、問う力を養う」と云う記事です。

曰く、

 詩人・高村光太郎の父である彫刻家・高村光雲の自伝『幕末維新懐古談』に「ノミが仕事させてくれない」というような言葉が出てきます。「ノミはただの道具ではない」「ノミが俺を連れて行く」と言いたくなることがあるのだと。
 私がものを書くときも、自分で書こうとしているときは上手くいかず、言葉が自分を連れて行ってくれたと感じるときほどよい仕事ができているように感じています。人との対話も同じで、人と人との間に関係ができれば、言葉が私を導いてくれる。


およそ文学でも造形芸術でも、それから音楽や舞台芸術等も含め、クリエイティブな仕事をする人間には、「ノミが俺を連れて行く」という感覚は「あるある」ではないでしょうか。もっとも、そうなるまでの修業というか、その境地に至るまでの努力というか、それが無ければ無理なのでしょうが。

そういった観点も含め「AI時代のことば力」、様々な分野の方がいろいろ論じられています。ぜひお買い求めを。

ところでAIと云えば、時事通信さんの配信記事でこんなのが出ました。

高村光太郎やミケランジェロをAI学習、像展示 スウェーデン

【AFP=時事】スウェーデンの首都ストックホルム国立科学技術博物館で現在、ミケランジェロ(Michelangelo)や高村光太郎(Kotaro Takamura)ら、彫刻界の巨匠5人の作品を人工知能(AI)に学習させてつくり上げられた彫刻「不可能な像」が展示されている。
 創造性とアートについての従来の概念に揺さぶりをかけるステンレス鋼製の像は、高さ1.5メートル、重さ500キロ。下半身を金属に覆われた中性的な人物が、片手でブロンズ製の地球をつかんでいる。
 コンセプトは、それぞれの時代に足跡を残した5人の著名な彫刻家の作風をミックスさせた作品をつくり出すことにあった。
 選ばれたのは、イタリアのミケランジェロ(1475-1564)、フランスのオーギュスト・ロダン(Auguste Rodin、1840-1917)、ドイツのケーテ・コルビッツ(Kathe Kollwitz、1867-1945)、日本の高村光太郎(1883-1956)、米国のオーガスタ・サベージ(Augusta Savage、1892-1962)。AIに5人の彫刻作品の画像を大量に学習させたという。
 三つのAIソフトを駆使して作品をつくり上げたスウェーデンの機械工学グループ「サンドビク(Sandvik)」の広報は、「現実には共同作業があり得なかった5人の巨匠による像」だと説明している。
 だが果たしてこれは芸術なのか、それとも技術の成果なのだろうか。
 同館で企画を担当しているジュリア・オルデリウス氏はAFPに、「これは人間がつくったものとは思えない」と指摘した上で、「芸術とは何かを定義することはできない。これは芸術だ、これは違うと考えるのは、人によって異なる。判断するのは作品を鑑賞する人それぞれだ」と語った。
 アート界におけるAIの役割について議論が行われる中、AIをめぐる未来については悲観していないと話す。
 「AIが創造性やコンセプト、アートやデザインについて行うことを不安に思う必要はない」「テクノロジーがコンセプトやアートを生み出す方法の一部になる新しい未来に適応していく必要があると思う」と話した。
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「何だかなぁ」という感じでしたので、今日まで取り上げずに来ました。

結局、AIには「首の座」に坐って物事を成し遂げる、という覚悟など持ちようがないわけで、そうなると光太郎が不可欠とした「生(ラ・ヴィ)」など、そこには存在し得ないわけです。

といって、人間が造ればこれ以上のものが必ず出来るかというと、そうでもありませんね。結局、「ノミが俺を連れて行く」という境地に達していない者の作で、「AI以下」と云われても仕方のないようなものもまかり通っているような気がしますし……。

「クリエイト」、実に難しいものです。

【折々のことば・光太郎】

今日「天上の炎」の印税貳百円たしかにおうけとりしました。こんなにもらつてはすまないやうな気もしますが又思ひがけない時にもらつて大変たすかります、

大正14年(1925)3月23日 木村荘五宛書簡より 光太郎43歳

「天上の炎」はベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの訳詩集。新しき村出版部から刊行されました。
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彫刻が寡作だった光太郎、こうした翻訳での収入がかなり大きかったようです。

新刊雑誌2件、ご紹介します。

まず、集英社さんで発行している文芸誌『kotoba』2023年夏号 。
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文芸誌と言っても、そう堅苦しいものではありません。新しい時代の表現や言葉のあり方をさまざまな切り口から論じたりといった文章が中心ですが、軽妙なエッセイや対談等も載り、読みやすいものです。扱われているモチーフも、メタバースやブルース・リー、漫画の『攻殻機動隊』、プロ野球にJリーグ、そうかと思うと憲法や原発など、硬派の話題も。4月に信州安曇野の碌山美術館さんでお会いした、東京藝大の布施英利氏の玉稿も載っていました。

その中で、英米文学者・阿部公彦氏の連載「日本語「深読み」のススメ」で、光太郎や谷川俊太郎氏の作品を引きつつ、詩が論じられています。サブタイトルは「詩の命」。

梗概的に「なぜ、詩は「形が命」といわれるのか。詩の「形」でとくに大事なのは何か。改行と繰り返しという、詩の形式の中でもごく地味な要素に注目すると私たちの言葉との付き合いの本質が見えてくる。」とあり、そのとおり、主に口語自由詩における改行とリフレインについて論じられています。

例として上げられているのが、光太郎詩代表作の一つ「道程」(大正3年=1914)。9行に分かち書きされている詩ですが、これを改行しないで書くとどうなるか、ということで……
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恐ろしく違和感がありますね。

では、その違和感の原因はどこにあるのか……といった話が一つ。

それから、末尾二行の「この遠い道程のため」を例に、リフレインの持つ効果についても論じられています。

他に、谷川俊太郎氏の「生きる」(有名な「生きる」が二種類ありますが、昭和31年=1956発表のソネットの方)も例としてあげられています。

口語自由詩の「改行」については、昔から論争の種です。古くは大正期、北原白秋と白鳥省吾・福田正夫らの間で、丁々発止のやりとりがありました。「改行がなかったらただの散文だろ」みたいな。

白秋は白鳥の「森林帯」という詩を槍玉に挙げています。その冒頭部分。

 萱や蕨の繁り合つてゐる
 山を越え山を越え
 一だんと高い山から望めば、
 遠い麓の広土は
 青たたみ数枚のやうに小さい、
 哀傷を誘ふほどにも何と云ふ可愛らしい世界であらう。

阿部氏がやったように、白秋はこれの改行をなくし、読点を補って……

萱や蕨の繁り合つてゐる、山を越え山を越え、一だんと高い山から望めば、遠い麓の広土は、青たたみ数枚のやうに小さい、哀傷を誘ふほどにも何と云ふ可愛らしい世界であらう。

白秋曰く

 これは原作者に対しては非常に気の毒ではあるけれども、詩の道の為めと思つて許していただきたい。
 読者はまた、之をただ読み下して読んでいただきたい。さうしてこれがどうしても散文で無い、詩である、自由詩である、と思はれるかどうか、詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れがあるか、どうか、それを感覚的に当つてゐただきたい。


この背景には、ざっくり云えば芸術至上主義的な白秋は「いかに」詩にするかを大切にし、後のプロレタリア文学に連なる白鳥ら民衆詩派は「何を」詩で表すかに軸足を置いていた、という立場の相違もあるようです。

「道程」の改行を取っ払うと非常に違和感があるのは、白秋曰くの「詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れ」が、白鳥のそれには無く(ファンの方、すいません)、「道程」には厳然としてそれが込められているからのような気がします。阿部氏、やはりそういったことを指摘されていますし、リフレインの効果についても、実に的確に論じられています。

まぁ、700余篇確認できている光太郎詩の全てが「詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れ」を持っているかというと、答は否、でしょう。特に戦後の自伝的な連作詩「暗愚小伝」などは、その点を諸家に批判されています。

さて、詩を作る方々、ぜひこちらをご購入なさり、お読みいただきたいものです。

雑誌ということで、ついでにもう1件。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生のさまざまな著作をはじめ、光太郎関連書籍を数多く出して下さっている文治堂書店さんのPR誌的な『とんぼ』。第十六号が届きました。
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今年1月に亡くなった、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエの所有者にして、生前の光太郎にかわいがられた中西利一郎氏の追悼文(文治堂書店社主・勝畑耕一氏と、当方)が載っています。

それから当方の連載「連翹忌通信」。今号は一昨年、茨城取手で発見した光太郎揮毫の墓標について。この連載、そうそうネタがあるわけでもなく、このブログでご紹介したような事柄を改めてまとめ直して使わせていただいております。前号では花巻市に寄贈された光太郎の父・光雲作の木彫「天鈿女命像」と、鋳銅製「准胝(じゅんてい)観音像」について書きました。

そういう意味ではある種、手抜きとも云えるような執筆なのですが、巻末にこんなことを書かれては、いい加減には書けないな、と思う今日この頃です。
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奥付画像を載せておきます。ご入用の方、版元まで。

【折々のことば・光太郎】

どうも何かするのがのろいので自分ながら困ります。


大正13年(1924)5月11日 木村荘五宛書簡より 光太郎42才

原稿が遅れるという言い訳の葉書から。自身を「牛」に例えることもあった光太郎ですので……(笑)。

こちらも当方手持ちの葉書です。
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毛筆で書かれています。墨をすっている暇があったら原稿書けよ、と言いたくなりますが(笑)。

手前味噌で恐縮ですが……。

文学講座「高村光太郎・智恵子と房総」

期 日 : 2023年6月24日(土)
会 場 : 千葉県立東部図書館 千葉県旭市ハの349
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 無料

日本の近代美術・文学に偉大な足跡を残した高村光太郎は、今年生誕140年を迎えます。十和田湖畔の『乙女の像』をはじめとする彫刻作品、人口に膾炙した詩の数々。中でも特に人々に愛される詩集『智恵子抄』の中に、千葉県を舞台にした作品があることをご存じでしたか。 本講座では、光太郎と妻・智恵子の波乱に満ちた生涯に触れ、二人が訪れた銚子・犬吠埼、成田・三里塚、九十九里浜を資料とともに辿ります。(聴講無料)  チラシはこちら(PDF:1.5MB)

講 師 : 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
定 員 : 30名
募集方法 
 6月1日(木)より、電話・FAX・E-mail・来館にて先着順に受け付けます。

※手話通訳や車いす等の配慮が必要な方は、6月10日までにお申し出ください。なお、ご希望に沿えない場合もありますので、あらかじめご承知おきください。

問い合わせ
千葉県立東部図書館 読書推進課
〒289-2521 旭市ハの349 TEL 0479-62-7070 FAX 0479-62-7466
E-mail:elib-kouza@mz.pref.chiba.lg.jp

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若干先の話ですが、どうもあまり応募が多くなさそうなので……。

案内文にあるように、光太郎智恵子と房総各地の関わり――二人が愛を確かめ合った銚子犬吠埼、光太郎親友の水野葉舟が移り住み光太郎もたびたび訪れた成田市三里塚、心を病んだ智恵子が半年余り療養した九十九里浜など――について、語らせていただきます。

ちなみに東部図書館さん、住所は「旭市ハ」ですが「はち」ではありません。カタカナの「ハ」です。カーナビ等使われる方、御注意下さい。千葉県では住所に「イロハ」が用いられるケースが少なくありません。当方自宅兼事務所のある香取市(東部図書館さんのある旭市の隣町)にも「佐原イ」から「佐原ホ」が存在します。現在住んでいる場所は別ですが、生まれは「佐原ロ」。「さわらぐち」ではありません。「さわら・ろ」です(笑)。このように「地区名」+「イロハ」が多いのですが、旭市は地区名そのものが「イロハ」。千葉県立旭農業高校さん(昔、親戚が勤務していました)の住所は「千葉県旭市ロ1番地」。これが不動産登記簿に登記されている日本で最短の地名だそうです(笑)。

閑話休題、お近くの方(首都圏からですとけっこうな距離なので、お薦めするのが心苦しいところです(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】002

新潮社からの刺繍の名はまだきめてありません。多分「猛獣篇」かと思ひます。期日もわかりませんが十一月頃でせうか。


大正11年(1922)6月25日
 野田守雄宛書簡より
 光太郎40歳

猛獣篇」の連作詩は2年後の大正13年(1924)から書かれ始めます。さまざまな動物や架空の生き物に仮託して、自己の荒ぶる魂を謳うものです。有名な「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)なども含まれています。まだ具体的な詩篇が書かれていないうちに、新潮社から出版の話があったようです。しかし、結局、「猛獣篇」としての単独出版は光太郎生前には実現せず、没後の昭和37年(1962)になって、当会の祖・草野心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで刊行されました。印刷、製本等には当会顧問であらせられた故・北川太一先生もご協力なさいました。

ハンドメイド系の通販サイトから最近見つけた商品を2点。

レモンのイヤリング

チェコガラスビーズでできたレモンのイヤリングです。

レモンのお色は高村光太郎の『智恵子抄』から、「レモン哀歌」をイメージした「トパアズ」と、梶井基次郎の『檸檬』をイメージした「イエロー」の2種類、金具はゴールドとシルバーの2種類、計4種類をご用意しました。ご注文の際はよくご確認下さい。

A1:トパアズ×ゴールド ¥ 600  A2:トパアズ×シルバー ¥ 600
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B1:イエロー×ゴールド ¥ 600  B2:イエロー×シルバー ¥ 600
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「トパーズ」ではなく「トパアズ」として下さっているのが心憎いところです。

もう1件。

【レモン哀歌ネックレス】天然石きらめく物語アクセサリー

 高村光太郎が妻・智恵子を偲んで書いた「レモン哀歌」は、永遠の愛の詩です。「愛し合うすべての人々が幸福でありますように」。そんな思いで作ったネックレスです。
 みずみずしいレモンクオーツをトップに付けました。ラフカットなので不規則にきらめきます。「自分らしく」と励ましてくれるシトリンを3粒並べ、レモン果汁の香気を表現しました。
 きらめく雫のようなアクアマリンを、レモンクオーツの隣に付けました。幸せな結婚の象徴でもあり、自由の象徴であるアクアマリンは、心の闇に入りこんでしまったときでも、一筋の光を見せてくれる石です。
 青白いオーロラのような石は、レインボームーンストーン。小さな奇跡に巡りあわせてくれるロマンティックな石です。
 長さ調節できるアジャスターには、「希望の石」アマゾナイトを付けました。

チェーン(真鍮) 約36cm  長さ調節アジャスター 約3cm

★ラッピングについて
 「レモン哀歌」についての文章と天然石の紹介を書いた、小さな本にお入れします(無料)。
★天然石について
 石の形状や大きさ、色味は写真とは異なることがありますが、ひとつとして同じものがない天然石の味わいと思って頂けると幸いです。また、天然のクラックやキズが見られる石がありますことをご了承ください。
~天然石の紹介~
◆レモンクオーツ
 レモンの香気のようなみずみずしい水晶で、水晶特有の冷涼感と温かみがあります。この石を見ていると、窓からの陽射しで朝目覚めたときの、何もかも新しく生まれ変わっているような清々しさを感じます。フレッシュな明るさをもつ石ですが、包みこむような優しさと安心感もあります。
◆シトリン
 柔らかな太陽の光のような石で、日光浴をしているときの体に染みいる温かさを放つ石です。「自分らしく」と元気づけてくれ、心に明るく朗らかな光をもたらしてくれます。瞬間々々の充実感や満足感、無理のない自分らしさや自信、問題を乗りこえ前進していく勇気を与えてくれます。
◆アクアマリン
 穏やかに打ち寄せる波や、きらめく雫を思わせる、みずみずしい石で、感情の滞りを洗い流して心を癒してくれます。自由を象徴する石でもあり、何事にも囚われない水のような柔軟性や、相手を受け容れる大らかさをもたらし、壁のないコミュニケーションを助けてくれます。そのため「幸せな結婚」を象徴する石でもあります。また、アクアマリンは「夜の女王」とも呼ばれるように、暗がりできらめきを増すという特徴がありますが、この優しいきらめきは、心の闇に入りこんでしまったときでも、一筋の光を見せてくれる気がします。
◆レインボームーンストーン
 朧月のような、神秘的な美しさをもつ石で、インスピレーションを高め、小さな奇跡と思える出来事や出会いに導いてくれるといわれています。
◆アマゾナイト(ペルー産)
 希望や幸運を呼び込んでくれるといわれています。明るい青緑色がアマゾンの川や森を思わせることから、石名が付けられたそうです。心が安らぐ色をしていますが、原始の川や森に木漏れ日が差すような明るさも。
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画像を見るとけっこう以前から売られているようですが(2016年という文字が見えますので)、つい最近検索網に引っかかりました。

「こんなのもあるよ」という情報、お待ちしております。作家さんご本人でも、それ以外の方でも。できるかぎり紹介させていただきます。

【折々のことば・光太郎】

あなたが外国へ向はれてからもうまる三年たちました。 そして私はまだあの成瀬先生の胸像をいぢつて居ります。 学校の方の人々のよく忍耐して待つてゐて下さるのを ありがたいと思つてゐます。 しかし私が今こんなに長くかかつてやつてゐるのは 私としては 無意味ではないのです。この胸像は私の彫刻製作上の一転機をつくるものと信ぜられるのです。私はこの三年間 煉瓦をつむやうに研究して来ました。そして心の全く澄んで 静かな時だけ此の彫刻に手をつけました。雑念の心を乱すやうな時は幾日でも手をつけずに 只見てばかりゐました。


大正11年(1922)3月11日 小橋三四子宛書簡より 光太郎四十歳

010小橋三四子は日本女子大学校での智恵子の先輩。同じく柳八重らとともに、光太郎と智恵子の出会いをお膳立てしてくれた一人です。その小橋らを通じて、同校の創設者にして大正8年(1919)に亡くなった成瀬仁蔵の胸像制作の依頼がありました。依頼は成瀬が没する直前で、3年経ってもまだ出来ていないという報告です。

しかし、3年どころではなく、結局、この胸像が完成するのは昭和8年(1933)。造っては毀しの繰り返しで実に14年もかけました。光太郎、この胸像には書簡に書かれているようなものすごい思い入れがあったようです。後から注文があった松方巌胸像、黒田清輝胸像の方が先に完成してしまいました。もっとも、それらは注文主が待ってくれなかったのかもしれませんが。

この像、現在も同校の成瀬記念講堂に据えられています。下の画像は同校創立90周年記念のテレホンカードです。平成3年(1991)頃のものでしょう。
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岩手日報社さん発行の文芸誌『北の文学』。最新号が先月末に出まして、「出たら一冊送って下さい」と、花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんの方にお願いしておきましたところ、届きました。多謝。

北の文学 第86号

2023年5月27日 岩手日報社 定価1,100円+税

 『北の文学』は岩手日報社が発行する新人発掘・育成のための文芸誌です。第86号は応募作品から選ばれた小説部門の優秀作と入選それぞれ2編を収録。巻頭コラムはデビュー作「家庭用安心坑夫」が第168回芥川賞候補になり、一躍注目を集めた小砂川チトさん(盛岡市出身)が登場しています。
 日上秀之さん(宮古市出身)の特別寄稿小説「溺生(できせい)」や早坂大輔さん(盛岡市・書店BOOKNERD)と、くどうれいんさん(盛岡市出身)の対談も掲載。これまで以上に充実した内容となっています。
 小説部門の優秀作に選ばれたのは瀬緒瀧世(せお・たきよ)さん=宮城県在住、花巻市ゆかり=の「fantome(ファントーメ)」と、谷村行海(ゆきみ)さんの「どこよりも深い黒」。瀬緒さんは初応募での受賞です。谷村さんは過去7回入選を重ね、11度目の応募で優秀作をつかみました。

■主な内容
・巻頭コラム 小砂川チト「罪やかなしみでさへ、そこでは」
・特別寄稿小説 日上秀之「溺生」
・特集・対談 早坂大輔×くどうれいん 「行くべき街」盛岡
・第86号小説部門優秀作
 瀬緒瀧世「fantome(ファントーメ)」 / 谷村行海「どこよりも深い黒」
・小説部門入選作
 森葉竜太「トマト祭り」 / 咲井田容子「卯年炭」
・第86号選考経過・選評
・寄稿・文芸評論 春日川諭子「においの描写から考える『悲の器』の女性像」
・俳句 兼平玲子「世界で二番目の街」/  川柳 澤瀬海山「天動説」/  エッセー 4編
・85号合評会から
・投稿 あの日あの時7編
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同誌、年2回の発行で、毎号、作品の公募を行っているそうです。
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「小説・戯曲・文芸評論」の3部門だそうですが、小説の応募が大多数。今号では応募総数27篇で、内訳は小説21篇、戯曲と文芸評論が3篇ずつ。各部門で優秀作を選ぶわけではなく、3部門を通観して優秀作を選ぶ形で、今回の受賞(優秀作2篇、入選2篇)はすべて小説でした。どうもこのところ小説のみ選ばれているようです。

受賞作決定の際の『岩手日報』さん記事はこちら

で、優秀作の一つ、瀬緒瀧世氏の「fantome(ファントーメ)」。昭和20年代前半の花巻と郊外旧太田村を舞台とし、光太郎も登場します。タイトルの「fantome」はエスペラント語だそうで、英語の「fantome(ファントム)」からの派生でしょうが、名詞ではなく形容詞のようです(あえて細かな訳は載せません)。

主人公である10歳の少女・シズ江は、他の人間には見えぬそこにいるはずのない人が見え、さらに会話もできるという特殊能力の持ち主。そこで、「fantome」です。ちなみにその力のない普通人も、シズ江と手をつなげば同じことができるという設定です。

シズ江はその力で、光太郎の山小屋で「蒼白い顔をした女」と、花巻まつりの夜に花巻上町通りで「季節外れの黒いコートを着た男」を見、会話をします。そしてシズ江と手を繋いだ光太郎も……。光太郎ファンの皆様には、それぞれ誰なのか、言わずもがなでしょうね。

選評に次のようにありました。

高村光太郎との交流を、村に住む少女の視点から描いた幻想的な物語。史実に基づくエピソードを織り交ぜ、詩情豊かに表現した。

たしかに「幻想的」。一歩間違えば「荒唐無稽」に陥るところですが、その一歩を間違っていません。ただし、一点、史実と異なるところがあり(一昨年刊行されたある書籍に同じ誤りがあり、どうもその書籍を参考にされてしまったようで)ますが、いたしかたありますまい。

当方、いただいてしまいましたが、オンラインでの購入も可能です(最上部リンク参照)。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜銀座の辻村農園にてダリアの球根を選び荷造を叮嚀にして直接農園より御送附いたすやう依頼致し候 球には皆それぞれ名称を附するやうたのみ置き候

大正9年(1920)4月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎38歳

明治期創業の「辻村農園」は神奈川県小田原市にあり、この頃、東京にも売店を設けていました。そこで買い求めたダリアの球根を、福島の智恵子の実家に送りました。福島では珍しい花で、近隣の人々が長沼家の庭にずいぶんと見に来たそうです。

今年、光太郎は生誕140周年を迎えました。そして当会の祖・草野心平は光太郎のちょうど20歳下になりますので、生誕120周年。

140より120の方が区切りがいい感じもあるのでしょうか、生誕120周年でけっこう頻繁に取り上げられています。いろいろあるのですが、これはと思う報道を3件。

まず『いわき民報』さん。心平の誕生日5月12日(金)の記事です。

草野心平 きょう生誕120年迎える 小川の生家にカエルのキャンドル並ぶ

 〝蛙の詩人〟として親しまれている、小川町出身の草野心平(1903~1988)は12日、生誕120年を迎えた。少年時代を含め20年ほど暮らした生家には、母校の小川小と、地元小玉小の4年生が作成したカエルのキャンドル約60個が展示された。
 キャンドルは、心平が生家で生活していたころと、同世代の子たちの古里を思う気持ちを育むため、市立草野心平記念文学館が依頼した。ウインクをしたり、ひげをたくわえたりと、チャーミングな姿に、来場者たちも思わずほっこりした気持ちに包まれている。展示は6月25日まで。
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かわいらしいキャンドルですね。一瞬、ピ○チュウかと思ってしまいましたが(笑)。

続いて『福島民報』さん。こちらは文学史上、重要な発見を報じています。誕生日翌日の5月13日に報じられました。

草野心平自筆「最後の詩」か 最晩年の未発表原稿 寄り添った女性への感謝著す

 12日に生誕120年を迎えた福島県いわき市出身の詩人草野心平(1903~1988年)が最晩年に書いたとみられる未発表の自筆原稿1枚があることが分かった。病に伏せる晩年の心平に寄り添った山田久代さん(故人)への感謝の気持ちをうかがわせる内容で、原稿を保管する元いわき市草野心平記念文学館副館長の関内幸介さん(75)=市内在住=は「心平の『最後の詩』の可能性がある。心平の最晩年や2人の関係を理解する上で貴重だ」としている。
 久代さんの遺族が保管していたものを関内さんが2012(平成24)年に譲り受けた。久代さんは心平と筆談したメモや書簡など100点以上を残しており、保管状況や筆跡から原稿は心平の直筆と判断できるという。1987(昭和62)年ごろ、東京都東村山市の自宅で書いたとみられる。
 原稿は「何も言はない。」で始まり、「何も言ふべきことない。」「声をだすな。許せ。」「いろいろ言うべき多し。許せよ」などとつづられている。最後は「かんベン かんベん! ありがたう。」で終わる。
 「草野心平日記」などによると、心平は病の影響で1987年7月ごろから言葉が不自由になり、周囲と筆談でやりとりしていた。最後の詩集が出版されたのは1986年で、1987年4月の詩誌「歴程」で発表した詩が最後の詩とみられていた。心平を約20年研究する市教育文化事業団の渡辺芳一さん(49)は「言葉がうまく出ない苦しさや、相手を大事に思いながらもささいなことで口論してしまう心境を表現しているのでは」と指摘する。
 久代さんは1949年に東京の酒場で心平と出会い、心平の妻の死後は籍を入れないまま一緒に暮らした。心平の日記には「チャ公」との愛称で登場する。2011年5月、89歳で亡くなった。
 関内さんは心平の親戚に当たる。「籍を入れなかった2人だが、形式にとらわれない絆や愛の深さがあったことを後世に残したい」と話し、久代さんの遺族から譲り受けた資料を同文学館などへ寄託できるかどうか検討しているという。
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かんベン かんベん! ありがたう。」、いかにも心平が照れ笑いを浮かべつつ言いそうな……。

最後に仙台に本社を置く『河北新報』さん。5月28日(日)の記事です。ちらっと光太郎にも触れて下さいました。

東北の文化人と親交深く いわき出身・草野心平 生誕120年 <リポート2023>

 いわき市出身の詩人草野心平(1903~88年)が12日に生誕120年を迎えた。旺盛な創作の傍ら、東北の多彩な文化人たちと親交を深めた。詩人で童話作家の宮沢賢治を世間に広め、板画家棟方志功とは共著の詩画集を出した。写真家土門拳の「助手」も務めた。草野心平記念文学館(いわき市)が所蔵する本人の所持品と残した文章から、交流の軌跡をたどる。(いわき支局・坂井直人)

宮沢賢治、棟方志功、土門拳… 「良いものは良い」
 「現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私はその名誉ある『天才』は宮沢賢治だと言いたい。世界の一流詩人に伍(ご)しても彼は断然異常な光りを放っている」
 草野は、花巻市出身の宮沢賢治(1896~1933年)を激賞した。きっかけは1924年4月に自費出版で1000部刊行した詩集「春と修羅」との出合い。愛蔵書の背表紙は欠け、ぼろぼろになったほどだ=写真(1)=。
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 「彼の詩集と一緒に何度か旅をし、数十回読み返した。そんなに恥(はず)かしい感激を私は日本で彼の詩集にだけ経験した」。ほれ込み具合は相当なものだった。
 自身が手がける同人詩誌「銅鑼(どら)」に賢治を誘い、13編の作品を載せた。ただ、会うことなく、「天才」は無名のまま早世。花巻の宮沢家に弔問に訪れて初めて、遺影で対面した。膨大な未発表の遺稿に驚き、没後1~2年で編集のほとんどを担った賢治の選集的全集を刊行。作品を世に知らしめた。
 青森市出身の棟方志功(03~75年)とは同い年。児童文学雑誌の仕事を通じて縁が芽生えた。66年には、草野が主題の一つとした「富士山」のタイトルで共著の詩画集を出した=写真(2)=。
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 「彼はいつもフイゴのように熱っぽく火達磨(だるま)のようにぐるぐるしている」「彼の近眼も底なしの善意もケタ外れであり仕事の独自性もケタ外れである」。その人柄を愛し、終生の友として家族ぐるみで付き合った。
 草野は右目、棟方は左目が見えなかった。インド旅行に出かけた際、2人で一人前だなと大笑いした。帰国後、2度目の共著を編集中に棟方が亡くなり、その後に詩画集「天竺(てんじく)」が出版された。
 草野が創刊に携わった詩誌「歴程」は、酒田市出身の土門拳(09~90年)の撮影した写真が表紙を飾ったことがある=写真(3)=。
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 被写体は草野と親交のあった高村光太郎の彫刻作品。土門の指示で、草野らはまぶし過ぎるライトの光を遮断する役割をさせられた。
 草野はある時、文学賞でもらった時計を質に入れた。土門に撮られた自身の写真を質屋に見せ、信用獲得に役立ったといい、「首実検の結果まんまととほった(通った)」と明かす。
 草野心平記念文学館の長谷川由美専門学芸員は「良いものは良いという確かな目を持ち、きちんと伝えられる強さを持っていた」と、詩作にとどまらない草野の人間的魅力を指摘する。

土門拳撮影の光太郎彫刻は「黄瀛の首」。大正15年(1926)の作です。黄瀛は日本人の母と中国人の父の間に重慶で生まれ、千葉県で育った詩人。心平を光太郎に紹介しました。その後、心平の主宰した『歴程』同人として活躍します。

賢治、黄瀛らを世に出す労を惜しまなかった心平、その本物を見分ける確かな眼には驚かされます。既に詩人として名を成していた光太郎に対しても、『銅鑼』『学校』『歴程』などに寄稿を求め、さらに名を高からしめる一助。まぁ、光太郎詩文や挿画が載っているということで、それらの詩誌の売り上げや評価も上がったでしょうから、ギブアンドテイクだったようにも思われますが。

ところで、心平と言えば、来月、心平を名誉村民に認定して下さっている福島県川内村で58回目となる「天山祭り」が開催されます。村民の皆さんが心平のために建ててくれた別荘的な天山文庫が会場です。郷土芸能等の披露があり、生前の心平が愛した祭り、心平没後は心平を偲ぶ行事とも成り、さらに東日本大震災後は復興祈念の意味合いも付与された感があります。

で、心平生誕120周年、ついでに(笑)光太郎生誕140周年なので、そのあたりを語れ、という依頼がありまして、記念講演をさせていただきます。詳細はまた後ほど。

【折々のことば・光太郎】

チルチルになつた子は大変声の美しい子でした。ちよつと抱いてやりたい気のする子でした。


大正9年(1920)2月12日 田村松魚宛書簡より 光太郎38歳

新協劇団が行った公演「青い鳥」(メーテルリンク作)を観ての感想です。「チルチルになつた子」は、子役時代の初代水谷八重子。のち、昭和32年(1957)、北條秀司作の演劇「智恵子抄」で智恵子役を演じることになります。光太郎が難色を示し実現しませんでしたが、光太郎生前からその話があり、その際に水谷と光太郎を仲介したのも心平でした。
水谷八重子

一昨日のSBS静岡放送さんローカルニュースから。

梅酒づくりのシーズン到来。気をつけないと酒税法違反の可能性も

 もうすぐ梅の実の収穫シーズンです。肉厚で種が小さい品種「八房梅(やつふさうめ)」の栽培が盛んな静岡県島田市伊太地区の梅の畑では収穫を間近に控えた実がたわわに実っています。
 梅の生産から加工販売までを手掛ける「梅工房おおいし」の大石富佐子さんは「天候にも恵まれて、生育は順調。4トン程度の収穫を見込みたい」と話しています。
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 またスーパーやホームセンターには、梅酒づくりに使うビンや氷砂糖などが並び始めました。7月の季語でもある梅酒。アルコールの血行促進効果とクエン酸成分などが日々の疲れを取ってくれることから、日本では古くから多くの家庭で梅酒づくりが行われています。
古くは「薬」として利用されていた梅
あれも、これも法律違反に?
 「友人・知人に好評の自慢の梅酒。美味しさの秘密はホワイトリカー(甲類焼酎)でなく、日本酒とみりんで漬け込む特別なレシピ。あまりに評判がいいので、小分けにしてビン代程度のお金をもらっておすそわけするようになりました」。一見、なんの問題もなさそうな「梅酒の風景」ですが、実はその全てが酒税法に違反しています。手軽に作ることができる梅酒ですが、作り方から飲み方まで、法律で厳しく定められているのです。

あくまで「個人で飲むのであれば」
 本来どのような形であれアルコール度数1度以上の「お酒」を作るには酒税法に則って許可を取り、酒税を納めることが義務付けられています。しかし、梅酒づくりは1697(元禄10)年の『本朝食鑑』にも記されているほど日本人の生活に根を下ろした風習です。酒税法も「自分と家族が飲むのであれば」という条件付きで梅酒作りを例外としています。ですから友人・知人に評判になるほど広く振る舞うのはNGです。以前、関西のテレビ番組内で作った梅酒をゲストに振る舞う場面を放送してしまい、その局は後日謝罪放送をしました。

アルコール度数は20度以上が条件
 日本酒やみりんはホワイトリカーより旨味を多く含みます。しかし、法律では梅酒に使用する酒類はアルコール分20%であることと定めています。アルコール度数が低いと混入した野生酵母により発酵が進み、使ったお酒の本来のアルコール度数を上げてしまいますが、これも禁止行為。法律では酵母が働かなくなる20度以上のアルコールを使うように指示しています。毎日の料理を紹介する長寿テレビ番組ではみりんで作る梅酒を紹介し、後日内容を修正して放送したこともあるようです。
梅酒用の酒はどれも35度以上です
自家製梅酒の販売は厳禁
 もちろん無許可の販売は禁止されています。戦後の混乱期は各地で「カストリ」「どぶろく」など無許可の酒が横行し、当時の新聞にも税務署による大掛かりな取締の様子が記録されています。一方で家庭での梅酒づくりは続けられていたのでこの矛盾を解消するため1962年の酒税法改正で「家庭内での消費に限って梅酒づくりは合法」となりました。
 旅先の旅館の食前酒として手作りの梅酒が出されることがありますが、これは税務署への届け出をして①旅館内で作り、消費する、②量の上限を守る③土産として販売しない、といった条件の下、認められているそうです。

注文で作り、その場で飲めばOK
 それでは、バーなどで、複数の酒を混ぜて作るカクテルは「酒造り」に該当しないのでしょうか。法律では「酒類に水以外の物品を混和した場合において混和後のものが酒類であるときは、新たな酒類を製造したものとみなす(酒税法第43条)」としています。例えば「スクリュー・ドライバー」を作るためにウォッカにオレンジジュースを混ぜると酒類の製造とみなされ、取得に厳しい要件が義務付けられている酒類製造免許が必要になってしまいます。
しかしバーは免許を持たずカクテルを提供しています。これを可能にしているのが、「酒税法43条10項」です。この規定は「お客が飲む直前に混ぜるならいいです」としているため、店で客の注文を受けてから混ぜて、その場で飲ませることは酒類製造にあたりません。
 しかし、作り置きには問題があります。自家製の梅酒などアルコール20%以上の酒に酒以外のものを混ぜて漬け込み、客の注文に合わせて提供したい場合、事前に税務署への申告が必要です。また、アルコール度数20度以下のワインや日本酒に何かを漬け込んで作り置いた酒は、製造免許なしには提供できません。事前に果物をワインに漬けて用意しておくサングリアなどは「作り置き」「アルコール度数20度以下」なので、厳密に言えば法律に違反している、といえそうです。
注文を受けてから作り、その場で消費するのが条件です
梅酒は自分の楽しみのために
 「厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳りある甘さをわたしはしづかにしづかに味はふ」。詩集『智恵子抄』の中で、高村光太郎は先立ってしまった最愛の妻、智恵子が残していった梅酒を愛おしそうに口にします。自分と、ごく親しい人に見守られて熟成を重ねるのが梅酒です。飲み頃を迎える半年後を心待ちに、ルールを守ってお気に入りの一ビンを仕込んでみませんか。
漬けてから半年すると飲み頃になります
最後に光太郎詩「梅酒」を取り上げて下さいました。
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    梅酒
 
 死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
 十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
 いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
 ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
 これをあがつてくださいと、
 おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
 おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
 もうぢき駄目になると思ふ悲に
 智恵子は身のまはりの始末をした。
 七年の狂気は死んで終つた。
 厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
 わたしはしづかにしづかに味はふ。
 狂瀾怒濤の世界の叫も
 この一瞬を犯しがたい。
 あはれな一個の生命を正視する時、
 世界はただこれを遠巻にする。
 夜風も絶えた。

光太郎手控えの詩稿によれば、昭和15年(1940)3月31日の執筆。智恵子が亡くなっておよそ1年半、という時期です。

社会との関わりを極力避け、智恵子と二人で芸術精進の日々を送ろうとしていたかつての生活態度が智恵子を追い詰めたという反省、そうした生活を続けていては自分も精神の危機に見舞われるかも、というおそれもあったのでしょう。この時期の光太郎は180度方向性を変え、自ら積極的に世の中と関わろうとします。

しかし、光太郎にとっての悲劇は、その社会の方がおかしな方向に進んでいたこと。智恵子が亡くなる前年の昭和12年(1937)に始まった日中戦争は泥沼化、その膠着状態を打開しようと、翌昭和16年(1941)には太平洋戦争に突入することになります。

元々の『道程』時代からの一種の精神主義、かつて留学中のアメリカで受けた人種差別への苦い記憶、さらに遡れば幼い頃に祖父・兼松や父・光雲から叩き込まれた忠孝の精神などが頭をもたげ、大量の翼賛詩文を書き殴るようになってしまいました。世間もそうした光太郎を歓迎し、光太郎は一躍、時代の寵児となっていくわけです。

それでも亡き智恵子を偲ぶとき、そうした時代の寵児的な部分は影を潜めると、「梅酒」では謳われています。曰く「狂瀾怒濤の世界の叫も この一瞬を犯しがたい。 あはれな一個の生命を正視する時、 世界はただこれを遠巻にする。」。

ところが、「あはれな一個の生命を正視する」こと自体が減っていきます。智恵子に関する詩は、翌年、おそらく『智恵子抄』出版に際して書きおろされたと推定される「荒涼たる帰宅」を最後に、戦後まで作られることはありませんでした。

昭和20年(1945)4月13日、智恵子と過ごした思い出深い本郷区駒込林町の住居兼アトリエは空襲により灰燼に帰しました。智恵子の遺した梅酒は、それまでに飲みきっていたのかどうか。もしまだ残っていたとしても、戦火に失われたことでしょう。一ヶ月後、宮沢賢治の父・政次郎らの勧めで、光太郎は花巻町の宮沢家に疎開します。その宮沢家も終戦5日前の空襲で全焼。ある意味、地獄ですね。

そして戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋に移った光太郎は、7年間を送ることになります。当初は山中に芸術村を作る、的な無邪気ともいえる夢想を抱いていましたが、雪に閉ざされた日々は深い自省を迫り、光太郎は自らの山小屋生活を「自己流謫」(自分で自分を島流しにする)と位置づけました。高祖保松木喜之七ら、かつて交流の深かった人々の戦死の報なども影響したでしょう。

その太田村生活末期の昭和27年(1952)3月、NHKのラジオ放送のため、花巻温泉松雲閣で詩人・真壁仁との対談が録音されました。さらに自作詩の朗読も。その中に「梅酒」のそれも含まれていました。作品の選択は局の意向だったのか、光太郎の自選なのか、そのあたりは不明ですが、この時点で「梅酒」を朗読した光太郎の胸中は、いかばかりだったでしょうか。

NHKさんにはその際の音源が残されており、平成8年(1996)以後、二度ほどCD化もされました。ただ、もう流通していないようで、覆刻が待たれます。

【折々のことば・光太郎】

今日では百円以下ではとてもおわかちできないものです。 原型をお見せしませう。こんな風なものですが 高さは一尺弱で奥行五寸ほどのものです。出来るだけ近い鋳金の機会を以て完成してお送りしますが 今年中にといふ事にはお約束出来ないのを残念に存じます。 新年のあなたの机上に飾れたら私もうれしかった思ひますが むつかしいやうに思ひます。

大正8年(1919)12月11日 野田守雄宛書簡より 光太郎37歳

野田は滋賀県の銀行家。大正6年(1917)に入会者を募った「高村光太郎彫刻会」を通じて光太郎に彫刻を注文しましたが、ようやくその完成のめどが立ったという内容です。

送られた彫刻はブロンズの「裸婦坐像」。この書簡には粗いスケッチが描かれていました。
Rafuzazou

今月1日、詩人の平田好輝氏が亡くなったそうで、奥様から訃報のお葉書を戴きました。おん年87歳であらせられたそうです。ご葬儀は3日、近親の方々で済まされたとのこと。
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氏には『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』(昭和48年=1973 東宣出版)というご著書がおありで、連翹忌の集いにも昭和50年代から平成の初めまで、8回ご参加いただいていました。

『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』、智恵子との関係性に軸を置いた光太郎評伝で、当方、大学の卒論執筆時にはかなり参考にさせていただきました。

同書の「あとがき」。

 昭和三十一年四月一日のことである。時ならぬ雪が、激しく降りだした。万愚節のことでもあり、まるで嘘のように思われたが、雪は激しく降り積んだ。
 そのころ、わたしは二十歳で、国文科の学生であり、なによりも詩を書くことに夢中になっていた。第一詩集に収めた作品のうちのいくつかを、このころに書いていた。
 まるで嘘のように降る激しい雪を見ながら、一体、何事が起こったのだろうと思った。わたしが生れた二日後に突如として首都を震撼させた二・二六事件の話は、成長するにつれて、折にふれ聞かされ、二・二六を思うと必ず雪のイメージがひろがったが、その二・二六を思わせるような、何か只事ならざるものに、その雪は思われた。
 激しい雪は四月一日から二日の早朝にかけて降り、東京一帯を真白の雪景色に包んだ。わたしの家の近所には、ゆるやかなスロープがあり、そこに俄かにスキーヤーたちが群がり、若い女や男のほかに、白髪まじりの人まで加わって、真面目にスキーを楽しみ始めたのであった。
 一体、何がどうなったのだろう。桜が満開の筈の時に、首都圏の中でスキーが始まっているとは。
 何か余程の異変があったものと思われた。思いついて、ラジオのスイッチをひねってみた。
 すると不意に、高村光太郎の死が、伝わってきたのだ。三月の中旬頃から、光太郎の容態がよくないことは、かすかに聞き知っていた。しかし、ラジオを通して、光太郎の死を知ったときに、じつに不意打の感じと、『ああ、やっぱりそうだったのか』という感じとが、同時に襲ってきた。光太郎が雪を降らせていたのだ。なァんだ、光太郎のせいだったんだ、と思い、むしろ心の奥深いところで哄笑したいような気持があった。窓から見えるスロープで、スキーを楽しんでいる大人たち、きみたちはなぜ今ごろ、そこでスキー靴を履いて滑っているのか、分っているか。これはみんな、光太郎が降らせた雪なんだよ。わたしは飛び出して行って、大声でふれてまわりたい気持だった。
 昭和三十一年、四月二日未明、高村光太郎、ついに逝く。雪激しく降り、真白に積る。光太郎、七十四歳。
 岩手の山小屋に一人で暮らしていたときには、小屋の中に雪が吹きこみ、光太郎は手帚を持って寝ていたという。ときどき気がついたときに、顔のまわりの雪を掃いてから、また眠るのである。六十代の高齢でありながら、なおも光太郎は山小屋に一人で住み、零下二十度にもなる所で、凜冽の冬を愛しながら暮らしていたのである。そんなにまで、冬や雪を愛し、冬や雪のことを歌った詩人は、ほかにない。
 その光太郎が東京で亡くなるにあたって、東京一帯が時ならぬ雪に見舞われたのは、光太郎にとっての当然であり、それこそ「自然」であった。雪激しく降り、光太郎はその雪に包まれながら死んだ。不思議であるけれども、不思議ではない。詩に夢中になっていた二十歳のわたしにとって、高村光太郎の死にざまは、なにかわたしの奥底を揺るがし、鼓舞してくれているような気がした。「天然の素中」という彼の言葉が、不意に分ったような気がした。わたしが一度も会いに行けないうちに、光太郎は、「天然の素中」に帰って行ってしまったのだ。どうすることもできない。いくら会いたいと思っても、もう会うことはできない。だが、それにも拘らず、わたしには、その四月二日が、正直いって、非常にうれしかった。激しく雪を降らせ、そして彼は死んでいったのである。何も知らないでスキーを持ち出して無心に滑っている大人たちの光景が、わたしの窓から見え、そんな人々に対しても、なにかほのぼのと心の底から親しみを感じたのである。
 いつか必ず、光太郎智恵子のことを書かねばならないと、そのとき思った。その後の十数年に、断片的には書いてきたが、自分の創作にかまけて、一冊に書きおろしてみたい気持を、気持だけのままおしやりながら、年月を過ごしてきた。
 ただ、光太郎智恵子のさまざまなイメージは、この年月の間にも繰り返しあたためてきたつもりである。
 そして、はからずも今度、東宣出版の慫慂を得て、この一本をまとめることが出来た。とくに、田辺辰俊氏と星野正三氏の励ましに深くお礼を申し上げたい。


蓋し、名文ですね。ついつい全文を引いてしまいました。

平田氏、詩人としても現役を続けられていました。当方がいろいろお世話になっている詩人の宮尾壽里子氏が送ってくださる文芸同人誌『青い花』(第四次)の同人であらせられ、枯淡の妙ともいえるような詩を発表なさっていました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

昨夜見えた相ですね。僕はとうと例の風邪にかかつたやうです。医者に見てもらつてねてゐます。夜は四十度以上になるやうです。食事がいけないのでつかれました。しかし気持は元気でゐます。 智恵子は亡父の一周忌で今国へ帰つてゐます。 此手紙はすぐすてて下さい。うつるといけないから


大正8年(1919)5月4日 田村松魚宛書簡より 光太郎37歳

「例の風邪」はこの年猛威をふるったスペイン風邪。しかし、実はそうではなく腸チフスだったことがのちにわかり、入院します。「とうと」は「とうとう」の誤記ですね。

昨日の『奄美新聞』さん記事から。

「日本復帰学習会」スタート 語り部招き、町内全小開催へ

【徳之島】奄美群島日本復帰70周年にちなんだ伊仙町教育委員会の「奄美群島日本復帰学習会」が23日、伊仙小学校(佐々木久志校長)の5、6年生65人を皮切りに始まった。戦前戦中生まれの語り部2氏を派遣。児童たちは、同校(当時国民学校)の元教頭で校歌作詞者でもある「奄美日本復帰の父」泉芳朗氏=同町面縄出身=の人柄や功績、祖国分離下の厳しい生活などの体験談に触れた。
 復帰70周年を記念して1時限(45分間)ずつ設定した。群島民20万人余の署名活動や断食祈願による無血民族運動など、諸先輩らの思いを次世代につなぐ持続可能な社会とまちづくり、さらに、郷土教育の充実による「郷土に誇り、愛する豊かな心の育成」が目的。各校区の語り部を中心に、町立全小学校(8校)に派遣開催する。
 伊仙小での語り部には、卒業生で同校にも通算10年間勤務した元教職員で現在、町文化財保護審議会会長の義岡明雄さん(85)=伊仙=と、同じく元教職員で現在塾講師の福清千美子さん(78)=面縄=の2人が協力。
 義岡さんは、太平洋戦争末期(小学生当時)に沖縄戦での米軍艦砲射撃の爆発音や空振も感じた恐怖、若者ら特攻隊の出撃の背景、終戦・祖国分離下でサツマイモを主食としたつらい体験談の数々も語った。
 大先輩(伊仙尋常小高等科卒)でもある泉氏については、東京で高村光太郎らと詩人として活躍中に体調を崩し失意の中に帰郷し、母校伊仙小の代用教員に就いた1年後、秀逸ぶりから教頭に抜てきされたことや、神之嶺小校長、県視学を経て奄美群島日本復帰協議会議長として先頭に立った断食祈願(5日間)の敢行なども分かりやすく解説。
 その上で、児童たちには「芳朗先生は貧しい中で一生懸命に勉強をした。芳朗先生のように人に優しく平和を愛する人になってほしい」ともアピールした。
 福清さんも終戦・祖国分離下だった幼少期の思い出などを自作の絵巻物で紹介しつつ、「ロシアとウクライナの戦争が続いているが、奄美群島の日本復帰運動では血を流した人は1人もいない。人に優しく、自分の考えをしっかりと伝え実行する人に」と呼び掛けた。
 児童の宝永友樹愛さん(6年生)は「自分たちが〝日本人〟に戻れたのは泉芳朗先生のおかげと思った。今の自分たちは恵まれていることも分かった。偉大な先人に学び、人に感謝して人を愛し、優しくすることを心掛けたい」と話した。
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奄美群島の日本本土復帰は昭和28年(1953)12月25日。今年はちょうど70周年だそうで、「奄美群島日本復帰70周年記念式典及び記念祝賀会」なども計画されているようです。それに先立ち、徳之島の大島郡伊仙町の小学校で歴史的背景を学ぶ取り組みが為されたとのこと。同町出身で、初代名瀬市長も務め、本土復帰に骨折った泉芳朗の事績なども取り上げられたそうです。

泉については、このブログで昨年にも取り上げましたが、その時点では、当方、泉と光太郎の関わりをあまり存じませんでした。筑摩書房『高村光太郎全集』には、泉の名は一度しか出てこないためで、それも昭和27年12月14日の光太郎日記に「田村昌由、泉芳郎、上林猷夫、竹村さんといふ女流詩人くる、一時間ほど談話、泉氏は俺美大島の村長」とあるだけだったためです。「俺美」は「奄美」の誤記です。

ところが、よくよく調べてみると、かなり深い関わりがあったことが分かりまして、汗顔の至りでした。

002きっかけは、過日、千葉県立東部図書館さんに行った折、たまたま眼にした『新装版 泉芳朗詩集』(平成25年=2013 紀伊國屋書店)。ぱらぱらめくってみると、見なれた光太郎の筆跡が眼に飛び込んできました。泉が主宰していた雑誌『自由』の表紙画像です。右は同誌の昭和29年(1954)新年号。春秋社さんから刊行された『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973 北川太一・吉本隆明編)から採りました。

この題字が光太郎の筆になるものであることは存じていましたが、この雑誌が泉の主宰だったことは存じませんでした。『高村光太郎 造型』の解題を見ますと、ちゃんと泉の名が記され、先の日記にあった昭和27年(1952)12月14日の訪問が、この題字揮毫に関わるであろうということも記述されていました。


そこでいろいろ調べたところ、遡って昭和13年(1938)には光太郎も出席した座談会で、泉が司会を務めていたことも見落としていたのにも気付きました。

雑誌『詩生活』(これも泉の主宰でした)の第6巻第1号に掲載された「詩と文学・戦時座談会」という長い座談会で、会場は都内大塚の山海楼、光太郎、泉以外の出席者は昇曙夢(泉と同郷のロシア文学者)、川路柳虹、宇野浩二でした。昭和47年(1972)、文治堂書店さんから刊行された『高村光太郎資料』第三集に全文が掲載されています(筑摩書房『高村光太郎全集』は、これに限らず座談会は総て割愛)。

前年には日中戦争も始まっており、かなり時局に即した内容です。途中途中につけられた小見出しをいくつか拾うと、以下の通り。「事変が生んだ作品について」「戦争文学のありかたについて」「戦争文学のカテゴリー」「体験と戦争文学」「素材を如何に取り上げるか」「外国の戦争文学・詩」「火野葦平と「兵隊」物」「国民文学と世界文学」「事変と日本文学の新動向」「文学の世界的交流」「若き世代の人々に望むもの」……。

言い訳をさせていただけるなら(言い訳していいわけないだろ、とか突っ込まないで下さい(笑))、泉、戦前には本名の「泉芳朗」ではなく、「泉与史朗」と名乗っていた時期もあり、この座談の際のクレジットも「泉与史朗」でした。

泉と親しかった詩人の田村昌由(『詩生活』の編集に携わっていて、おそらく座談の筆録に当たったと思われます)が、のちにこの座談会について語っています。出典は日本詩人クラブ発行の『詩界』121号(昭和48年=1973)。明らかな誤字は正して引用します。

 この座談会は、実は高村先生のあとあとによからぬ結果をもたらすきっかけをつくった、と私はずうっと思っているのですが。といいますのは先生は当時、智恵子夫人の病中であることと、もうひとつはあたまをもちあげてきた戦争亡霊がいやで、どこの座談会へも出られなかった。みんなことわっておられたのです。ところが「詩生活」の座談会へ出られた。雑誌が出ると早速「中央公論」から「かねがねお願いしてあったわけですが……どうかこんどは……」といった具合で、せめたてられて、ことわりきれず、こまってしまった、とあとで先生からおききしました。先生の戦時社会詩文学活動〈このんでされたのではない、私たちは先生の応接間にうかがっているとき、たずねてきた人の注文をことわられるのに何度かぶつかった〉はこの座談会がきっかけで十四年の春頃から、だんだんとのめりこんでいくのです。
(略)
 十月十八日が座談会ですが、智恵子夫人がなくなられたのは十月五日です。雑誌には口絵写真がのっていて若い私たちはうしろの方にかしこまっていますが、私は、夫人がなくなられてまもないのに座談会へ出られた、そのことをいまでも申訳なく思っています。


なるほど、この後、同様の座談会に光太郎が引っぱり出されることが多くなります。翌昭和14年(1939)には雑誌『知性』で「芸術と生活を語る」と題し、岸田国士、豊島与志雄と。この際がおそらく岸田と初対面でしたが、岸田は翌昭和15年(1940)、大政翼賛会が発足すると文化部長に就任し、光太郎を翼賛会の中央協力会議議員に強く推薦し、光太郎もそれを引き受けます。

まぁ、それ以前から翼賛詩的なものを書いていた光太郎ですが、この座談を契機に戦争協力へとなだれ込むことになったと言っても過言ではありませんね。その際の司会をしていたのが泉であった、というわけです。

また、「泉与史朗」名義で調べてみると、昭和16年(1941)刊行の海野秋芳の詩集『北の村落』には、光太郎と泉、両名の「序」が並べられていたり、同年の『現代日本年刊詩集 昭和十六年版』にも光太郎と泉の翼賛詩が共に掲載されていたりしました。そして戦後の『自由』。泉と光太郎の結びつき、かなり深かったわけですね。

そうこうしているところに、昨日の『奄美新聞』さんの記事。驚きました。

戦後、光太郎は戦争協力を恥じて花巻郊外旧太田村のボロ屋に7年間の蟄居生活を送り、泉は郷里・奄美群島の本土復帰に尽力。立場や事績は異なれど、共通する魂があったのではないかと思われます。

以前も書きましたが、奄美群島の米軍統治、そして泉のような存在、もっと光が当たっていいような気がします。

【折々のことば・光太郎】

とにかく書いたから約束のやうに送ります 背の文字は少し書きいぢけたから 別にかいた方のを入れていたゞきたい 裏は画も考へたけれどそれよりはとおもつてシイルを考案した 扉其他の字のまづいのは素より君が覚悟の上だから為方がない 今いそぐ為め用事のみ


大正8年(1919)4月27日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎37歳

内藤は光太郎第一詩集『道程』版元の抒情詩社社主。内容的に書籍の装幀にかかわるものと推測されますが、この時期に該当する光太郎装幀の書籍が見あたりません。ボツになったのか、当該書籍の出版が頓挫したのか、それとも未だ知られざるこの時期の光太郎装幀の書籍が存在するのか……。謎です。

千葉県北東部、九十九里浜北端付近の旭市にある県立東部図書館さんでのミニ展示です。すでに先月から始まっているのですが、公式サイトに案内が出ましたのでこのタイミングでのご紹介です。

資料展示「高村光太郎 生誕140周年」

期 日 : 2023年4月23日(日)~6月30日(金)
会 場 : 千葉県立東部図書館 千葉県旭市ハの349
時 間 : 平日 午前9時から午後7時 土・日・祝休日 午前9時から午後5時
休 館 : 月曜日 第3金曜日
料 金 : 無料

 日本の近代美術・文学に偉大な足跡を残した高村光太郎は、今年生誕140年を迎えます。 十和田湖畔の『乙女の像』をはじめとする彫刻作品、人口に膾炙した詩の数々。中でも特に人々に愛される詩集『智恵子抄』の中に、千葉県を舞台にした作品があることをご存じでしたか。
 東部図書館では、光太郎のあゆみや作品、妻・智恵子を初めとする周辺人物について知ることのできる資料を展示します。光太郎が翻訳・執筆した大正時代の出版物も並びます。この機会にぜひお手に取ってご覧ください。

展示資料リストは こちら(1MB)

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案内にある通り、千葉県には光太郎、そして智恵子の足跡も残っています。特に人生の節目節目にそれらを残しているというのも特徴です。

大正元年(1912)には、銚子犬吠埼で結婚前の二人が愛を誓い合いました。しかし、二人の共棲生活は智恵子の心の病で破綻、智恵子は昭和9年(1934)に九十九里浜で約半年の療養生活を送ります。また、成田三里塚には光太郎詩「春駒」詩碑。関東大震災の後に作られた詩で、この頃から光太郎詩は「猛獣篇」時代に入ります。

で、まだ公式発表になっていませんが、来月24日(土)、同館で開催されるそのあたりに関する市民講座の講師をすることになりまして、その関係もあってこの展示が為されています。

今月初めに、調べ物もありましたし、打ち合わせを兼ねて同館にお邪魔し、展示を拝見して参りました。その際に撮影した画像。
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同館のみならず他館からも借りうけたりし、なかなか賑やかな感じにレイアウトされていました。中には古い雑誌でちょっと珍しいもの、地元で少部数の自費出版が為されたものなども。さらにバックヤードにも入れていただき、「この本でも光太郎が大きく取り上げられていますよ」というのを何冊か推薦し、増えています。

当方の講座の方は、また詳細が発表されたらご紹介します。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

クリスマスのおよろこびを私達からもお受け下さい。 あなたの清い心と同朋を思ふ熱い情とにますます祝福のある様にといのります。


大正7年(1908)12月24日 小橋三四子宛書簡より 光太郎36歳

光太郎、洗礼を受けたクリスチャンではありませんでしたが、キリスト教の考え方に対する興味関心は少なからず持っていました。少し後にはイエスを題材とした詩「クリスマスの夜」(大正11年=1922)「触知」(昭和3年=1928)なども書いています。

この葉書は珍しい光太郎智恵子連名のものの一つです。そこで、「私達」です。
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新刊です。

おとなのスケッチ塗り絵 花と叙情の詩文集

2023年5月21日 絵・名司生 エムディエヌコーポレーション発行 定価1,200円+税

スケッチするように塗り絵を楽しむ「おとなのスケッチ塗り絵」。最新作の『花と叙情の詩文集』は、日本文学をテーマにしました。

美しい日本語で紡がれた日本文学。シリーズ24作目は名作として長く読み継がれている文学作品をテーマにしました。「植物」「動物」が登場する一編を取り上げ、その情景をイメージして図案化。物語のワンシーンを切り取ったような叙情的で美しいイラストが特徴です。金子みすゞ、高村光太郎、海達公子、宮沢賢治、萩原朔太郎といった日本を代表する作家たちの作品から選出。一度は読んだことがある名作ばかりなので、読書をした当時の記憶や気持ちを思い出しながら塗り絵が楽しめるでしょう。

塗り絵の対向ページには、作家や作品の紹介と参考にした一編を掲載しています。塗り絵は、自律神経を整えたり認知機能を高めたりするのに有効なアイテム。手を動かすことで脳に刺激をあたえますが、とくに「昔の思い出などを想像しながら塗る」という行為が、脳の働きを活性化するそうです。

011イラストは同シリーズで人気の『おとなのスケッチ塗り絵 万葉の花』を担当したイラストレーターの名司生さん。本のイメージを大切にオリジナルの世界観で描きました。イラストにはかわいい妖精たちも登場するので注目してください!

目次
 準備するもの
 塗り方のテクニック[基本]
 塗り方のテクニック[応用]
 [花と叙情の詩文集 塗り絵集]
  01 チューリップ(三好達治)
  02 芙蓉の花(野口雨情)
  03 金雀枝(野口雨情)
  04 学校(室生犀星)
  05 月草(室生犀星)
  06 藤の花(海達貴文)014
  07 ばら(海達公子)
  08 秋の朝(海達公子)
  09 水ヒアシンス(北原白秋)
  10 曼珠沙華(北原白秋)
  11 どんぐりと山猫(宮沢賢治)
  12 冬が来た(高村光太郎)
  13 六月の雨(中原中也)
  14 春と赤ン坊(中原中也)
  15 梅(八木重吉)
  16 星とたんぽぽ(金子みすゞ)
  17 げんげの葉の唄
(金子みすゞ)
  18 こころ(萩原朔太郎)
  19 桜の森の満開の下
(坂口安吾)

この手の書籍、最近流行りですね。こちらも「シリーズ24作目」だそうで。

認知症予防などにも使われているようで、一昨年亡くなった義母も、ディサービスの施設でこの手の塗り絵をやっていました。

前半が手本のページ。オールカラーです。書籍自体が大判なので(25.0㌢×25.0㌢)、スキャンできませんでした。右ページが光太郎「冬が来た」のページです。左は宮沢賢治「どんぐりと山猫」。
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後半ページがワークシート的な。切り取って手本ページを見ながら塗れるように、キリトリ線が印刷してあります。簡略な作品解説も。
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手本ページの美しい絵を見ているだけで心が和まされます。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

又あの愛らしいみち子さんの方は 初め木炭でいろいろ素描を試み今早朝の時間を以て八号のカムバスへ油画に致して居ります あの無邪気な晴朗とした面影を捉へたいと念じて居ります


大正7年(1918)8月23日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎36歳

渡辺湖畔は新潟佐渡島の素封家にして与謝野夫妻の新詩社同人だった歌人。「みち子さん」はこの年4月、3歳で早世した渡辺の娘。光太郎が写真を元に肖像画を描きました。
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親としては涙無しには見られなかったのではないかと思われます。

刊行物3件ご紹介します。いずれも当方がからんでいるもので、どうもこの手のものの紹介はなかなか気が引け、ついつい後回しにしていました。

まず、高村光太郎研究会発行の年刊誌『高村光太郎研究(44)』。4月2日(日)発行です。
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「光太郎遺珠」ということで、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』完結後に見つかり続けている光太郎文筆作品を紹介する連載をさせていただいています。

この1年間で見つけたものが以下の通り。

散文
 芸術家としての女優 『大正演芸』第1巻第3号(大正2年=1913 3月1日 大正演芸社)
 書斎の構造 『建築之日本』第1巻第5号(大正5年=1916 10月7日 建築之日本社)
 「みちのく」に刻んだ亡き夫人への追慕 高村翁・長夜の歓談
 『岩手日報』昭和28年=1953 12月7日
アンケート
 諸家の感想 『製本業報』10月号(昭和2年=1927 10月1日 製本業報社)
短評
 大村正次詩集『春を呼ぶ朝』 林一郎詩集『原始から出た』 共に昭和4年(1929)
雑纂
 芸術家名鑑 『人間』第4巻第1号(大正11年=1922 1月1日 人間社出版部)
 永住を決意して最高の文化建設 高村光太郎氏 岩手で原始生活
 『毎日新聞』昭和20年=1945 11月1日
書簡
 新納忠之介宛 大正12年(1923)1月5日
 木村荘五宛  大正13年(1924)8月4日
 関川常雄宛  大正15年(1926)6月20日
 尾崎喜八宛  昭和21年(1946)6月12日
 硲真次郎宛  昭和30年(1955)11月28日

多くは国立国会図書館さんのデジタルデータ閲覧システムのリニューアルによって見つけました。しかしそれ以外にも都内岩手で足で稼いで掘り起こしたものも。

また、「高村光太郎没後年譜」ということで、昨年1年間の主なイベント、出版物等を紹介しています。

頒価1,000円。奥付を載せておきますのでご入用の方はそちらまで。
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続いて『光太郎資料59』。もともと当会顧問であらせられた故・北川太一先生が出されていた冊子の名跡を受け継ぎ、当会として年2回発行しています。こちらも4月2日(日)、連翹忌の集いご参加の方には無料で配付し、その後、関係の方々等にはお送りしました。

今号は

 「光太郎遺珠」から 第23回 「婦人」(その三)
 光太郎回想・訪問記 高村光太郎との邂逅 常井英晶
 光雲談話筆記集成 西郷隆盛銅像について
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第23回  大洗(茨城県)
 音楽・レコードに見る光太郎  第23回  建てましよ吾等の児童会館 坂本良隆
 高村光太郎初出索引 
 編集後記

です。

送料込み200円でお分けします。コメント欄(非表示可)、当方SNS等からお申し込み下さい。また、10,000円にて37集からのバックナンバーを含め、今後永続的にお送りします。

もう1件。日本詩人クラブさんの会報的な『詩界通信』。
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「12月例会報告」の中に、昨年12月10日に開催された同クラブ12月例会のレポートと、当方の講演「2022年の高村光太郎――ウクライナ、そして『智恵子抄』――」の梗概が載っています。

こちらも奥付を載せておきます。
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というわけで、どうも手前味噌で恐縮でした。

【折々のことば・光太郎】

雑誌を只頂いては余りすみません(或る大きな団体等から送られる雑誌に対してはさういふ気もいたしませんが) 私も経済で苦しんで居ます 誰でもさうだらうと思つて居ます それで兎も角一箇年と定めてあるだけお送りいたします 此事はどうか悪い様にとらないで下さい


大正5年(1916)10月7日 中川一政宛書簡より 光太郎34歳

中川一政は画家。一昨年、中川、光太郎、そして熊谷守一の書を中心とした展覧会「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」が富山県水墨美術館さんで開催されました。

この書簡は中川が出していた雑誌『貧しき者』の受贈礼状。それまで自分で書店から買っていたのを送ってくれるようになり、代金を前払いするけれど悪しからず、的な。

光太郎、自分の文筆に関しては商業資本の有名雑誌より、こうした同人誌的なものに喜んで寄稿していました(それだけに未だ埋もれている作品が多く存在するわけで)し、購読もそうだったようです。

時代小説作家・山田風太郎の名著を漫画化したものです。

追読 人間臨終図巻 芸術家編

2023年4月30日 山田風太郎原作 サメマチオ画 徳間書店 定価1,750円+税

著名人923名の死に際を切り取った稀代の名著、『人間臨終図巻』をまさかの漫画化! 第三弾は古今東西の芸術家の「死」を網羅。

山田風太郎の不朽の名著、『人間臨終図巻』から古今東西の芸術家125名を選り抜き、その死にざまを漫画化! 芸術家ならでは? それとも意外と庶民的? いずれにしても驚きに満ちた彼らの「死」に何を思う。

芸術家の死に際の言葉
葛飾北斎「せめてあと五年の命があったなら、ほんとうの絵師になれるのだが」
ルノワール「くそっ、なんてこの世は美しいんだ!」
岸田劉生「マチスのバカヤロー!」
ドストエフスキー「ずっと考えていたんだが、きょう僕は死ぬよ」
山下清「人間、死んだら何もできなくなるもんな、やっぱり」
カフカ「僕の遺稿の全部、中身を読まずに焼却してくれたまえ」
高村光太郎「僕は智恵子とふたりでいつも話しあっている」
セザンヌ「私は絵を描きながら死にたいんだ」
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目次
 はじめに
 第1部 ざっくり700年代~1700年代生まれの人
  第1話 白楽天 ミケランジェロ ラファエロ 千利休 モンテーニュ
  第2話 セルヴァンテス 本阿弥光悦 レンブラント 尾形光琳 デフォー
  第3話 尾形乾山 スウィフト 蕪村 池大雅 カザノヴァ
  第4話 上田秋成 サド侯爵 ゴヤ 司馬江漢 ゲーテ
  第5話 喜多川歌麿 鶴屋南北 良寛 葛飾北斎 山東京伝
  第6話 小林一茶 十返舎一九 滝沢馬琴 スタンダール グリム・兄
  第7話 グリム・弟 バイロン 梁川星厳 為永春水 安藤広重
  第8話 ハイネ ドラクロワ プーシュキン バルザック ユゴー
 第2部 ざっくり1800年代前半生まれの人
  第9話 デュマ アンデルセン ドーミエ ポー ミレー
  第10話 ツルゲーネフ ボードレール フローベール ドストエフスキー 狩野芳崖
  第11話 イプセン トルストイ マネ ドガ 橋本雅邦
  第12話 マーク・トゥエイン 富岡鉄齋 マゾッホ セザンヌ ロダン 
  第13話 ゾラ ルノワール ヴェルレーヌ アナトール・フランス ゴーギャン
 第3部 ざっくり1800年代中盤生まれの人
  第14話 ストリンドベリ モーパッサン スティヴンソン ゴッホ フェノロサ
  第15話 コナン・ドイル 岡倉天心 ハウプトマン ムンク ロートレック
  第16話 マチス H・G・ウェルズ ロマン・ロラン ライト 横山大観
  第17話 ゴーリキー ジイド プルースト 平櫛田中 菱田春草
 第4部 ざっくり1800年代後半~1900年代生まれの人
  第18話 サマセット・モーム リルケ フットレル トーマス・マン ヘルマン・ヘッセ
  第19話 熊谷守一 ピカソ ツヴァイク 会津八一 青木繁
  第20話 坂本繁二郎 ジョイス ユトリロ 高村光太郎 小林古径
  第21話 カフカ モディリアニ 竹久夢二 ローレンス 藤田嗣治
  第22話 リーチ 安井曾太郎 梅原龍三郎 チャンドラー 高見沢遠治
  第23話 アガサ・クリスティ 岸田劉生 木村荘八 速水御舟 佐伯祐三
  第24話 村山槐多 林武 東郷青児 ヘミングウェイ サン=テグジュペリ
  第25話 岩田専太郎 棟方志功 近藤日出造 谷内六郎 山下清
 おわりに

日本の美術家、海外の文豪と美術家が集められています。配列は生年順、各人1頁です。
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我らが光太郎も含まれ、帯文にも名を挙げて下さっています。「僕は智恵子とふたりでいつも話しあっている」は、晩年に親しかった美術史家の奥平英雄に語った言葉から。
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また、光太郎と親交のあったバーナード・リーチ村山槐多の項で光太郎の名が出ている他、光太郎と交流のあった人々も多数。ロダン岡倉天心平櫛田中藤田嗣治、安井曾太郎、梅原龍三郎、岸田劉生木村荘八など。ところが、光太郎の父・光雲や、親友・荻原守衛の名があってもいいところですがありません。元々、山田風太郎の原作でも扱われていません。ちょっと不思議な気がします。

それから、日本の文豪系(宮沢賢治や与謝野晶子、森鷗外に北原白秋といった面々)も他の巻で扱われているようで、この巻には載っていません。

ちなみに山田の原作で取り上げられているのは全923人。死亡時の年齢順に上下2分冊で徳間書店さんから昭和61年(1986)、62年(1987)に刊行されました。漫画版は徳間さんのPR誌『読楽』に連載中のようです。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生の眼は未だにいけません その為め仕事をまるで休んでゐます。少し無理をして仕事するとたちまち眼にひゞいて来るので閉口して毎日医者に通つてゐる始末です 水野君の『砂』の挿画もそのためかけないで居ます。


大正5年(1916)5月17日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎34歳

体格もよく頑健だった光太郎ですが、意外なところで医者通いをすることもありました。留学中は歯の治療、この頃は角膜炎でした。翌年にも眼疾で手術を受けています。

水野君の『砂』」は、親友、水野葉舟のローマ字詩集です。確かに挿画は入っていません。ただ、表紙には木版風の絵。光太郎の手になるものと思われますが、記述がないため確証がありません。
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自費出版的な、というかほぼ手作りの本です。

2022年潜在意識を探る旅(二本松・桑名)

2023年4月 たむら来夢著 うこわや制作 定価750円(税込)

読み始めてすぐ、旅一番の目的がだめになるのに困惑したり、高村智恵子の性格にびっくりさせられたり。相変わらず、ハラハラドキドキが連続の旅本です。そしてタイトルの意味は?!

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ハンドメイドの刺繍布小物作家・たむら来夢氏による、智恵子の故郷・福島二本松周辺と、三重県桑名市への旅のレポートです。

二本松編は当方も訪れた場所がたくさん取り上げられており、「そうそう」という感じで読み進めました。最初は東京方面から見ると二本松の手前にある本宮市。「カナリヤ映画祭」がらみで一度お邪魔したことのある本宮映画劇場さん、安達太良神社さんなど。その後、旧安達町地区で、安達駅前の智恵子像「今 ここから」、そして智恵子生家/智恵子記念館

ちなみに、たむら氏のお知り合いである雑貨店主氏のご実家が智恵子生家のすぐそばだそうで、ぜひ足を運ぶようにということだったそうです。その雑貨店主氏曰く「家族の話では、智恵子は生意気な娘だった」とのことで、さもありなん、です(笑)。さらに市街に戻り、二本松霞ヶ城。智恵子生家の庭にあったという藤棚などが紹介されています。そして1泊2日の旅だそうで、2日目は安達太良山登山。登りは強風でロープウェイが運行中止だったとのことで、奥岳登山口から歩いて山頂まで登られたそうです。すごいバイタリティーですね。
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途中途中に駅弁やら居酒屋での夕食やらの食レポも。ただ、単なる旅日記ではありませんでした。たむら氏、ライフワーク的に太平洋戦争を考える的なことをなさっているようで、そこに昨年クローズアップされた旧統一協会の問題などをらめたりもなさっています。この旅もその一環だそうで。あとがき的な項の終末部分。「私は、国のためには死にたくない。自分の一生は自分が決めたい。たった一度きりしかない生涯だから。」智恵子ファンには言わずもがなでしょうが、光太郎とも親しかった画家の津田青楓が書き残した智恵子の発言を下敷きにしています。

さて、同書、現在西荻窪のギャラリー的なニヒル牛さんで開催中の「旅の本展」で販売されています。当方、過日、花巻に行った帰り、東京駅から中央線に乗り換え、行って参りまして購入してきました。
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オンラインでの注文も出来るようです。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】00248748

時事新報記者の名文によつて、僕の作つた松方老侯の銀像が老侯の為め倉庫の中に幽閉されたといふ様な事が噂されてから、方々で此について同情やら憐愍やらを浴びせかけられるのに閉口してゐます。僕は親爺の助手として老侯の銀像の下職をやつたことをおぼえてゐますが、僕自身の製作をしたおぼえはありません。間違つて信じ込まれるのも厭ですから訂正して置きたいと思ひます。あとで其を幽閉しても結構ですから、僕自身に銀像でも作らせてくれる豪い人は無いものかしら、と思つてゐます。


大正3年(1914)2月1日 
『美術週報』宛書簡より 光太郎32歳

「老侯」は、明治の元勲・松方正義。光太郎の父・光雲に銅像ならぬ銀像の制作を依頼しました。肖像彫刻を得意としなかった光雲、こうした場合の常として、光太郎に塑像で原型を作らせ、それを見ながら木彫を作るというスタイルで制作されました。まぁ、そうすることで光太郎にも助手としての給料を支払ってやるわけですが。

ところが松方、出来上がった銀像に不満だったようで、倉庫に幽閉。それに対し、光太郎は「俺のせいじゃないよ」と言いたげですね。光雲が木に写す際、光太郎原型にあったロダン風の荒々しさは影を潜めるので、もはやこれは自分の作ではない、ということです。

昨日は市原湖畔美術館さんの「末盛千枝子と舟越家の人々 ―絵本が生まれるとき―」展に行っておりました。レポートいたします。

同じ千葉県内ということで、自宅兼事務所から自家用車で1時間ちょっと。美術館さんの近くまで行ったあたりで、小湊鐵道さんの「房総里山トロッコ」が走っていました。
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美術館さんはその名の通り、高滝湖というダム湖に面した高台に。
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まずは展示を拝見。
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絵本編集者にして生前の光太郎をご存じの末盛千枝子氏と、光太郎と親しく交わったお父さま・舟越保武をはじめとする芸術一家にまつわる展示です。
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末盛氏が関わられた絵本、その原画、弟君の舟越桂氏の作品など。
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夫君にしてNHKさんの伝説的番組「夢であいましょう」などを手がけられたディレクター末盛憲彦氏関連の展示もなされていました。

撮影不可でしたが、父君・舟越保武の彫刻も。代表作の一つにして高村光太郎賞受賞作「長崎26殉教者記念像」のうちの一体などが出ていました。
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直接、光太郎に関連する展示物はなかったようですが、説明パネルに等は随所に光太郎の名。
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舟越家クロニクル的な御家族の写真コーナーもありました。昭和37年(1962)の第6回連翹忌の集い兼第5回高村光太郎賞授賞式の写真がないかと探しましたが、残念ながらありませんでした。千枝子氏が連翹忌の集いにご参加下さった唯一の機会でしたが。左下の画像は、千枝子氏の御著書『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』から。右下は故・北川太一先生がまとめられたこの年の連翹忌の記録です。「舟越」が「船越」と誤植されていますが。
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錚々たる出席者ですね。しかし、当方が把握している限り、ご存命の方は千枝子氏とあとお二人だけです。ちなみに当方、まだ生まれていません(笑)。

展示を拝見し終わり、午後1時から、千枝子氏のご講演。

そちらの会場には、八幡平市ご在住の千枝子氏が関わられた「3.11 絵本プロジェクトいわて」関連の写真。東日本大震災で被災した子供たちに絵本を届けようというコンセプトでした。
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昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎も訪れた釜石。
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そしてその後、全国から寄せられた絵本。
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うるっと来てしまいました。

そしてご講演。
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絵本関連のお話を中心に、上皇后美智子さまとのご交流のお話なども交え、約2時間弱。

終了後、サイン会。
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「10年近く前、花巻代官山でお世話になりました」とご挨拶して参りました。

同展、6月25日(日)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヒユウザン会が明日から始まりますので今朝早く京橋のヨミウリ社へまゐりちよつと中途で帰宅しましたら花がどつさりとおてがみがはいつてゐました 折角わざわざおいでの処をほんとに残念に存じました


大正元年(1912)10月14日 長沼セキ宛書簡より 光太郎30歳

セキは智恵子の直ぐ下の妹。ヒユウザン会展開幕を祝って、光太郎アトリエ兼住居に花を届けに来たようですが、入れ違いになってしまったとのこと。

同展には智恵子の出品も予告されていましたが、どうしたわけかそれは実現しませんでした。
ヒユウザン会
予告広告では10月5日開幕となっていますが、実際には15日開幕でした。

最近情報を知り、購入しました。2ヶ月ほど経ってしまっていますが、絵本の新刊です。

イチからつくる コーラ

2023年2月5日 コーラ小林・編 中島陽子・絵 農文協 定価2,500円+税

甘くてさわやか、みんなが大好きなコーラ。じつはアメリカの薬局で販売された滋養強壮剤が始まり。でもコーラって自分でつくれるの? 「コカ・コーラ」のレシピは門外不出だけど、クラフトコーラなら大丈夫! 世界初のクラフトコーラ専門メーカー『伊良(いよし)コーラ』を創業したコーラ小林さんに教わって、スパイスやカンキツ類、砂糖でコーラシロップをつくってみよう。コーラをつくることで、炭酸水の誕生から、禁酒法や第二次世界大戦などに関わるアメリカの歴史、スパイスの原産地なども知ることに。日本各地で広がるクラフトコーラの動きも紹介します。

もくじ
 炭酸飲料を選ぶなら、きみは何派?
 そもそもコーラって、なんなんだ?
 コーラは、植物の名前だった!
 コカ・コーラの原点は漢方薬
 世界各地のスパイスでつくられるコーラ
 クラフトコーラの広がり
 スパイスとカンキツ類を手に入れる
 自分たちで育てられる作物は、どれだろう?
 踊る水「タンサン」
 炭酸水は自分でつくれる?
 クラフトコーラの「基本のレシピ」
 やっぱりコーラの実をいれたい コーラノキはどこにある?
 自分の好きなコーラシロップをつくるぞ!
 自分でつくったコーラを売ることができる?
 クラフトコーラづくりでみえてきたこと
 「イチからつくる」ということ
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絵本と言っても幼児向けではなく、小学校高学年から中学生向け、といったところでしょうか。主人公の少年少女たちは中学生のようです。学校の文化祭で、自分たちで作ったコーラを販売するという設定でして。

少年少女たちが好きな炭酸飲料の話で盛り上がり、一人が以前飲んだ「クラフトコーラ」を紹介したところ、みんな興味を持って……というストーリー。

執筆はコーラ小林氏。下落合でクラフトコーラのメーカー「伊良(いよし)コーラ」を立ち上げた方です。少年少女たちが小林氏のもとに弟子入りし、手作りコーラの製法を教わったり、コーラの歴史を学んだりしていきます。

そのコーラの歴史の中で、光太郎。ありがとうございます。
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詩『狂者の詩』(大正元年=1912)は、まず雑誌『白樺』に発表され、大正3年(1914)には詩集『道程』に収められました。このあたり、下記をご参照下さい。

「昭和32年 コーラ本格上陸 みんな作って、みんないい」/「「乙女の像」制作 朗読劇で 劇団「エムズ・パーティ」16、17日十和田で上演」。
テレビ放映情報-詩句の読み方。
都内レポートその2 「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」。
岩手日報「風土計」。

ちなみにコーラについては、ネット上などで「大正3年(1914)に高村光太郎が詩集『道程』で初めて日本に紹介した」的に『道程』が初出のように書かれていますが、先述の通り大正元年(1912)の『白樺』に「狂者の詩」が掲載されていますから、そちらを前面に出して頂きたいのですが……。

閑話休題、『イチからつくる コーラ』、レシピ的な記述もあり、ご興味のおありの方、これを参考にオリジナルのコーラ製作に取り組まれてはいかがでしょうか。

【折々のことば・光太郎】

何処へ行つてもやつぱり東京へ帰つて来る。それがつまらない。犬吠で不思議な夢幻的の日を送つてゐた。濤の音が恋しい。この舟の帆が下される。そして日がくれる。水がうたを歌ひ始める。久しぶりで水の傍に居てひとく動かされた。


大正元年(1912)9月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎30歳

親友の水野葉舟に宛てた葉書から。さすがに親友とはいえ、智恵子が犬吠まで追ってきて……という件は伏せていたようです。

画像は初めに智恵子が妹・セキ、友人・藤井ユウと共に泊まった御風館。
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その後、セキとユウを先に帰し、光太郎が泊まっていた暁鶏館に移りました。下の画像の中央奥です。
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光太郎にとっては犬吠の数日間は、「不思議な夢幻的の日」だったでしょうね。

この直後にコーラを取り上げた「狂者の詩」が書かれます。ただ、そちらにはかつて関係のあった吉原河内楼の娼妓・若太夫や、雷門前のカフェ「よか楼」のお梅の名も。まだ「本当に智恵子と付き合っていいんだろうか」的な迷いも見られます。

『毎日小学生新聞』さんに連載されている、マルチアーティスト・井上涼氏の漫画「井上涼の美術でござる」。一昨日掲載分が「高村光雲の巻」でした。
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基本ストーリーは「忍者Bと忍者Cが、世界の芸術家に会いに行き、毎回ドタバタに巻き込まれながら、芸術家の波乱万丈な人生を紹介します」。平成31年(2019)2月には光太郎の巻もありました。

今回は「彫刻を作るため、モデルの猿を探している光雲。忍者Bと忍者Cがモデル探しをお手伝いすることに。モデルを引き受けてくれた猿は何だか凶暴そうで……」。国指定重要文化財の「老猿」制作にまつわるお話。光太郎も登場します。「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」により、ちょっとした「老猿」ブームですので、タイムリーですね。もっとも、毎日新聞社さんが同展の主催に名を連ねているという、大人の事情もあるようですが(笑)。

元ネタは昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』中の「栃の木で老猿を彫ったはなし」。この中で、モデルとして借りてきた猿が、隣の寺院の納所(なっしょ=庫裡)でお坊さんの調理したハツタケを盗み食いしてしまったエピソードが語られています。しかし井上氏、「ハツタケ」を「タケノコ」と勘違いして記憶されていたようで(笑)。当方もこの手の記憶違いをよくやらかしますが(笑)。
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2月には、NHK Eテレさんで放映されている井上氏制作のアニメーション「びじゅチューン」をまとめた『びじゅチューン!DVD BOOK 7』が刊行され、表紙が「老猿」でした。

タブロイド判見開き2ページで、オールカラー。漫画の合間に「老猿」や「西郷隆盛像」の写真入り説明が入ります。毎日新聞社さんの関連会社まいにち書房さんのサイトで一部公開されている他、PDFファイルが50円で販売中。

紙版の『毎日小学生新聞』さんは、公共図書館等で置いてある場合があります。当方、隣町の図書館で拝見しました。

ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

犬吠でひどい風雨にあひました 昨夕帰つて来ましたら東京の静かなのに驚きました 潮の音がないのがつまりません


大正元年(1912)9月5日 前田晁宛書簡より 光太郎30歳

この葉書の発見により、智恵子と愛を誓い合った銚子犬吠埼からの帰京が9月4日だったことが判明しました。光太郎が一人で帰って来たのか、智恵子と共にだったのかは、依然として謎ですが。

千葉県から企画展の情報です。

末盛千枝子と舟越家の人々 ―絵本が生まれるとき―

期 日 : 2023年4月15日(土)~6月25日(日)
会 場 : 市原湖畔美術館 千葉県市原市不入75-1
時 間 : 平日 10:00 - 17:00 土・祝前日 9:30 - 19:00 日・祝 9:30 - 18:00
休 館 : 月曜日[祝日の場合は翌平日]
料 金 : 一般:1,000( 800 )円  大高生・65 歳以上:800( 600 )円
      ( )内は 20 名以上の団体料金

何を美しいと思うか。

日本を代表する彫刻家・舟越保武の長女に生まれ、上皇后陛下美智子さまの講演録の編集者としても知られる末盛千枝子。「絵本は子どもだけのためのものではない」との思いのもと、人生の悲しみや希望、美しさを伝える多くの絵本を世に送り出し、東日本大震災では被災地の子ども達に絵本を届ける活動を立ち上げました。
本展では、末盛がさまざまな人々との出会いと協働によって生み出した珠玉の絵本の原画や貴重な資料とともに、彼女を育んだ芸術家一家――彫刻家の父・保武、弟・桂、直木、自らの句作を断念し彫刻家の妻として生きた母・道子をはじめとする舟越家の人々の作品の数々を一堂に展観、その波乱に富んだ人生と仕事の全容に光を当てます。

プロフィール
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末盛千枝子[1941-]
1941年東京生まれ。高村光太郎により「千枝子」と名付けられる。 4歳から10歳まで父の郷里・盛岡で過ごす。慶応義塾大学卒業後、絵本の出版社に勤務。「夢であいましょう」等で知られる NHKディレクターと結婚、2児の母となるが、夫の突然死のあと、最初に出した絵本『あさ・One morning』でボローニャ国際児童図書展グランプリを受賞。1988年、 すえもりブックスを立ち上げ、独立。まど・みちおの詩を美智子さまが選・英訳された『どうぶつたち THE ANIMALS』やご講演をまとめた『橋をかける 子供時代の読書の思い出』など、話題作を次々に出版。1995年、古くからの友人と再婚。2002年から2006年まで国際児童図書評議会(IBBY)の国際理事をつとめ、2014年には名誉会員に選ばれる。2010年、岩手県に移住。2011年から10年間、「3.11 絵本プロジェクトいわて」の代表を務めた。
主な著書に『人生に大切なことはすべて絵本から教わったI、 II』(現代企画室)、『ことばのともしび』(新教出版社)、 『小さな幸せをひとつひとつ数える』(PHP研究所)、 『「私」を受け容れて生きる』(新潮社)、『根っこと翼・皇后美智子さまという存在の輝き』(新潮社)などがある。

舟越保武[1912-2002]
岩手県一戸町に生まれる。県立盛岡中学校在学中に高村光太郎訳の「ロダンの言葉」に感動し彫刻に惹かれたことをきっかけに、彫刻家を志す。1939年東京美術学校彫刻科を卒業。この頃から、独学で石彫の直彫りをはじめ、その後第一人者となる。聖女像などキリスト教信仰やキリシタンの受難を題材とした作品も多数制作。1967年から東京藝術大学教授を勤め多くの彫刻家を育てた。1987年に脳梗塞で倒れ半身不随となった後も彫刻を続け、死の直前まで作品を作り続けた。高村光太郎賞(1962)、中原悌二郎賞(1972)、芸術選奨文部大臣賞(1978)など受賞、1999年文化功労者受章。「何を美しいと思うか 」と絶えず家族に示し、芸術の厳しさを体現した父・保武は、末盛の価値観、生き方に大きな影響を与える。本展では、保武と家族全員がカトリックの洗礼を受けるきっかけにもなった生後8ヶ月で病死した長男・一馬を描いたパステル画、末盛の幼少期の彫像、代表作である《長崎26殉教者記念像(ヘスス像)》、ハンセン病患者に尽くし自らも病に倒れた《ダミアン神父》とそれぞれのデッサン、すえもりブックスより出版した絵本『ナザレの少年―新約聖書より―』の原画 、右半身が麻痺した後に左手で創作した《ゴルゴダ》やデッサンを展示する。

舟越桂[1951-]
舟越保武、道子の次男として岩手県盛岡市に生まれる。父・保武の影響で子供のころより彫刻家になるだろうと予想する。1975年、東京造形大学彫刻科卒業、東京藝術大学大学院に進学し彫刻を専攻する。大学院在学時、トラピスト修道院のために初の本格的な木彫作品となる《聖母子像》(1977)を制作。1986~87年、文化庁芸術家在外研修員としてロンドンに滞在。性別を感じさせない半身の人物像を特徴としており、2004年からは、両性具有の身体と長い耳をもった像「スフィンクス・シリーズ」を手がけている。これまでの参加した主な国際展に「ヴェネチア・ビエンナーレ」(1988)、「サン・パウロ・ビエンナーレ」(1989)、「ドクメンタ9」(1992)など。タカシマヤ文化基金第1回新鋭作家奨励賞(1991)、中原悌二郎賞(1995)、平櫛田中賞(1997)、毎日芸術賞(2009)などを受賞。11年には紫綬褒章を受章。近年の主な個展に「舟越桂 私の中のスフィンクス」(兵庫県立美術館など4会場を巡回、2015-16)、「舟越桂 私の中にある泉」(2020-21)。本展では、すえもりブックスで出版された『児童文学最終講義』(猪熊葉子著)の表紙となった《 冬の本 》、絵本『おもちゃのいいわけ』にもなった家族のためにつくった木っ端のおもちゃ、東日本大震災の時に被災地に持参した彫刻《立ったまま寝ないのピノッキオ》と伝統手摺木版画で刷られた「ピノッキオ」の絵巻物、東北での体験から生まれた《海にとどく手》など10数点を展示する。

舟越直木[1953-2017]
舟越保武、道子の3男として東京に生まれる。1978年、東京造形大学絵画科卒業。1983年には、みゆき画廊において、絵画作品による初個展を開催する。以降もギャラリーQなどで個展を開催。1980年代後半からは彫刻に転向。その後は、なびす画廊、MORIOKA第一画廊、ときの忘れもの、GALLERY TERASHITA、ギャラリーせいほうなどで個展を開催した。節足動物の足を思わせるような長く、かつ緩やかなカーブを描いた線からなる作品や、人間の心臓を暗示させるハート形をした作品、単純化された人間の輪郭を想起させる作品などの抽象彫刻や、繊細な色彩感覚をもって対象物の存在感そのものを描き出すドローイングなどで知られる。本展では、直木の初期から晩年までの代表作を展示する。

舟越道子[1916-2010]
北海道釧路市に生まれる。旧姓、坂井。女子美術専門学校、文化学院で学び、1940年に舟越保武と結婚。当時すでに自由律俳句の世界で知られた存在であったが、保武の強い希望により、句作を断念、家族を支えた。55年後の1995年、俳句雑誌に「坂井道子はどこへ」という記事が掲載されたことにより、母・道子が文学に憧れただけの少女ではなかったことを子どもたちは知ることとなる。市川浩の哲学との出会いをきっかけに句作を再開、句文集や詩集も刊行した。芹沢銈介に染織を、難波田龍起に洋画を学び、絵画の個展も毎年開催した。

舟越苗子[1943-]
舟越保武、道子の次女として東京に生まれる。アメリカのウエストバージニア州立大学Concord College で絵画、彫金を学び 1966 年に卒業。ニューヨーク、アート・ステューデント・リーグでデッサンを学び、メイン州の工芸学校で彫金を学ぶ。ベルギー、ブリュッセルに滞在、フランス語を学ぶ。テレビ番組(海外局、および海外向け)で日本取材班の通訳・コーディネーターとして働く。父・母の最晩年の介護を担当 した 。 本展ではドローイングを出品する。

茉莉 ・ アントワンヌ ・ 舟越[1946-]
舟越保武、道子の3女として岩手県盛岡で生まれる。1969 年、慶應大学文学部卒業。以来、主にパリとブリュッセルで暮らす。ドキュメンタリー作家の夫ジャン・アントワンヌの日本をテーマにしたフィルム(日本の歴史シリーズ、日本の伝統工芸作家、井上靖、安藤忠雄、堤清二などの紹介)の制作を担い、現在は、フジサンケイ・パリに勤務、高松宮記念世界文化賞、ロン・ティボー国際音楽コンクールを担当する。本展ではシルクスクリーンの作品を出品する。

舟越カンナ[1960-]
舟越保武、道子の4女として東京に生まれる。桐朋学園演劇科卒業。末盛の手がけた絵本『あさ One morning』『冬の日 One Evening』『冬の旅 One Christmas』『そらに In The Sky』では言葉を担当、「まだ、絵本は子どもだけのものとお思いですか」というコピーはカンナの作。アーティスト、絵本作家。本展では、「うしろすがた」シリーズの中から家族を描いた作品を出品する。
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絵本編集者・末盛千枝子氏を中心に、父君で光太郎と親交が深かった彫刻家の舟越保武、同じく彫刻の道に進んだ桂氏をはじめとする弟妹の皆さんなど、タイトル通り「末盛千枝子と舟越家の人々」の展覧会です。

プロフィール欄にある「高村光太郎により「千枝子」と名付けられる」の経緯は、平成28年(2016)に刊行された末盛氏の御著書『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』に詳しく語られています。

 私の父は旧制中学のとき、高村さんの訳した『ロダンの言葉』という本を読んで彫刻家になろうと決心したのだった。そして、私が東京練馬のアトリエ長屋で生まれた時、父は数え年で二十九歳だったが、全く面識のない高村さんを突然訪ねて、
「彫刻家になろうとしている舟越保武というものです。娘が生まれたのですが、名前をつけていただけないでしょうか」
 と頼んだそうだ。困惑されたに違いないが、高村さんはその無謀な願いを聞き入れてくださり、
「女の名前は智恵子しか思い浮かばないけれど、智恵子のような悲しい人生になってはいけないので字だけは替えましょうね」
 と言って千枝子と名付けて下さったのだと、小さいときから繰り返し、聞かされてきた。


末盛氏のお生まれは昭和16年(1941)、『智恵子抄』が刊行された年です。

その後、同20年(1945)には光太郎が花巻に疎開、同じ頃、舟越一家も盛岡に。戦後、舟越は岩手県立美術工芸学校教授となり、光太郎も同校の顧問格となって、親しく交わるようになります。その頃、幼かった末盛氏は光太郎と会われています。鮮明な記憶ではないようですが、やはり『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』から。

 父はときどき盛岡に出てこられる高村さんにお会いする機会が増え、自分の彫刻を見てもらいに作品を持って花巻をお訪ねすることもあったようだ。
 そして、時には私を連れて盛岡駅に高村さんを見送りにいくというようなことがあったという。父が「この子があのときに名前を付けていただいた千枝子です。三年生になりました」と申し上げると、高村さんは私の頭をなでて、「おじさんを覚えておいてくださいね」と言われたそうだ。父は、そのことを何回も話してくれた。


しかし、「千枝子」と名付けられたことに対し、ご本人はいろいろ複雑な思いを抱えながら成長されたそうで、そのあたりは同書をご覧下さい。

関連行事が以下の通り予定されています。

オープニング・トーク「舟越家の芸術」

期 日 : 2023年4月15日(土)
会 場 : 市原湖畔美術館 千葉県市原市不入75-1
時 間 : 13:00~14:45
料 金 : 1,000円(別途要入館料)
出 演 : 末盛千枝子 中谷ミチコ(アーティスト) 北川フラム(市原湖畔美術館長)

申込み多数のため、会場参加の受付は締め切りました。トークの録画を4月23日にHPで無料公開しますので、ご理解くださいますようお願い申し上げます。

末盛千枝子講演会「人生に大切なことはすべて絵本から教わった」

期 日 : 2023年4月16日(日)
会 場 : 市原湖畔美術館 千葉県市原市不入75-1
時 間 : 13:00~14:30
料 金 : 1,000円(別途要入館料
出 演 : 末盛千枝子

編集者として最初に手がけた絵本がボローニャ国際児童図書展グランプリ、ニューヨークタイムズ年間最優秀絵本賞を受賞、自ら出版社を立ち上げ、美智子さまの講演録を手がけ、ゴフスタインやターシャ・テューダーなど数々の話題作を出版してこられた末盛千枝子さん。しかしその人生は多くの困難に満ちたものでした。夫の突然死、息子の難病と障害、そして移住した岩手での震災……。どんな困難に遭っても、運命から逃げず歩み続けてこられた末盛さんに、自らの人生と世界中の素晴らしい人たち、絵本との出会いを語っていただきます。

当方、講演会の方に申し込みました。

末盛氏とは、平成25年(2013)、代官山で開催された「読書会 少女は本を読んで大人になる」で初めてお会いし、翌年、花巻郊外旧太田村の高村山荘(光太郎が蟄居生活を送った山小屋)敷地内での第57回高村祭でご講演いただきました。それ以来、ほぼほぼ10年ぶりとなります。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

めつたに海に来ない僕にはこの連中のやつてる事が非常に英雄的に見える いつも海に来ると海の重量を考へる


大正元年(1912)8月31日 前田晁宛書簡より 光太郎30歳

昨日のこの項でご紹介した書簡の続きです。昨日分は絵葉書の宛名面下部の文面、今日の分は写真面に書き込まれています。
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銚子犬吠埼に絵を描きに来た光太郎。この後、それを追って智恵子が現れます。

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