カテゴリ: 文学

共に小説家の故・吉村昭氏と奥様の津村節子氏の偉業を讃え、津村氏の故郷・福井県の福井県ふるさと文学館さんと、吉村氏を顕彰する荒川区吉村昭記念文学館さんが、「おしどり文学館協定」を結んだのが平成29年(2017)。1周年を迎えた平成30年(2018)には、合同企画展「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」が開催されました。その際には津村さん代表作の一つである小説『智恵子飛ぶ』に関する展示も行われました。

今年は5周年ということで、記念イベント等が両館で行われていますが、その一環として福井会場の方で『智恵子飛ぶ』関連の展示が始まります。

特集展示 津村節子「智恵子飛ぶ」~芸術家夫婦を描いて~

期 日 : 2022年12月23日(金)~2023年3月15日(水)
会 場 : 福井県ふるさと文学館タイムリースポット 福井県福井市下馬町51-11
時 間 : 平日 9:00~19:00 土・日・祝 9:00~18:00
休 館 : 月曜日(祝日の場合は翌日) 12月29日(木)~1月3日(火)
料 金 : 無料

平成29年11月5日に、吉村昭記念文学館と福井県ふるさと文学館は、おしどり文学館協定を締結しました。この協定に基づき、展示等を開催します。荒川区とゆかりの深い芸術家夫婦の高村光太郎と高村智恵子の葛藤を描いた津村節子『智恵子飛ぶ』を紹介します。
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小説『智恵子飛ぶ』は平成9年(1997)、講談社さんの刊行。平成12年(2000)には文庫化も為されています。津村氏は同作で芸術選奨文部大臣賞を受賞されました。

智恵子の生涯を描いた長編小説ですが、光太郎智恵子と同じく夫婦同業の芸術家夫妻であった津村氏ならではの視点で、智恵子の苦悩や、苦悩だけでない喜び、しかし刀折れ矢尽きて毀れてしまった智恵子の姿がかくあったろうと思わせられる描写がされています。

やはり平成12年(2000)には、智恵子役・片岡京子さん、光太郎役が故・平幹二郎さんで舞台化(新橋演舞場さん)。翌年の京都公演では、光太郎役は近藤正臣さんでした。

004ついでというと何ですが、つい最近、新橋演舞場さんでの初演の際の台本を入手しました。この手のものは公刊されるわけではなく、スタッフやキャストの皆さんに配られるもの。そこでそれらの方などが売りに出さない限り市場に出回ることはありません。案の定、ちょい役で出演されていた女優さんの名が表紙にうっすらと鉛筆で書き込まれていました。

驚いたのは書き込みの多さ。その女優さん、ご自分の登場シーンのみならず、おそらく同じ事務所の先輩女優さんと思われる方のシーンでもマーカーを引いたり、鉛筆で書き込みをしたりなさっていました。また、稽古の途中でセリフや動きが追加・変更されたり、場面の順番が入れ替わったりということが随分とあったようで、それらの訂正や、追加で配られたと思われるコピーの貼り付けなどもかなりの箇所で為されており、一つの舞台を作り上げるにも並々ならぬ苦労があったんだな、というのが偲ばれました。

ちなみにこの手の台本類、やはり舞台のもの、映画のもの、テレビドラマのもの等々各種取り添えております。展示等で必要な場合にはお声がけ下さい。

閑話休題、福井県ふるさと文学館さんの展示、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

賢治全集推せん文2枚清書、


昭和30年(1955)8月20日の日記より 光太郎73歳

「賢治全集」は筑摩書房版。翌年から刊行が始まりました。光太郎は装幀、題字揮毫も手がけています。

昨日開幕した杉並区立郷土博物館さんの企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」を拝見して参りました。尾崎喜八は杉並に暮らしたこともあり、光太郎と交流の深かった詩人です。

同館には平成29年(2017)、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎書簡を拝見するため訪れましたので、2度目でした。

最寄りの光太郎京王井の頭線永福町駅。光太郎のDNAを受け継いだ彫刻家・佐藤忠良の作品。
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徒歩十数分で同館に到着。
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豪農の家だったところに建てられており、長屋門は昔のまま、裏手には母屋も。
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敷地内の本館は近代的な建築です。
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観覧料100円を払って、早速拝見。
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当然、尾崎の生涯についての展示がメインで、著書や草稿、遺品、尾崎の写った写真パネル、写真が趣味だった尾崎が写した写真パネルなどなど。著書も数十冊をずらっと並べると圧巻の見映えでした。

そして交流のあった人々ということで、光太郎との関わり。光太郎が尾崎の結婚祝いに贈ったミケランジェロの模刻「聖母子像」、光太郎から尾崎宛の葉書(昭和21年=1946)も展示されていました。驚いたことに、帰ってから調べましたところ、この葉書は『高村光太郎全集』に漏れていたものでした。尾崎宛書簡は全集に10通ほど掲載されており、そのうちの1通だろうとたかをくくっていたのですが、違いました。

それから、尾崎が撮影した光太郎写真、尾崎一家(妻・實子――光太郎の親友・水野葉舟の息女、長女・榮子)と光太郎の写真(いずれも駒込林町の光太郎アトリエ兼住居で撮影)。集合写真は4人が写っている部分を引き伸ばした形でよく拝見しますが、元版は背景の光太郎アトリエの窓や二階の出窓などがしっかり写っていて、驚きました。最近、建築としての光太郎アトリエに興味を惹かれているもので。
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他に光太郎とも交流のあった人々についての展示も興味深く拝見しました。尾崎岳父にして光太郎の親友・水野葉舟、思想家の江渡狄嶺、彫刻家の高田博厚、「ロマン・ロラン友の会」で一緒だった片山敏彦、当会の祖・草野心平など。

意外だったのは、上井草にホームグラウンドがあったプロ野球の球団「東京セネタース」との関わり。球団歌の作詞をしたり、選手や監督とも個人的な交流があったりしたとのこと。これは存じませんでした。

図録が刊行されていました。A4判48ページで600円。入館料100円といい、実に良心的です(笑)。しかし600円と侮るなかれ、充実の内容です。
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ぜひ足をお運びの上、お買い求め下さい。会期は来年2月19日(日)となっています。

【折々のことば・光太郎】

午后四時半中西夫人くる、桑原さん澤田さん草野さんくる、支度して五時過退院、ハイヤー2台、 伊藤信吉氏奥平さんアトリエにくる、 無事に過ごす、横臥 玉ずしの夕食、

昭和30年(1955)7月8日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核の悪化で4月末に赤坂山王病院に入院しましたが、退院。しかし、治癒したわけではなく、逆に治癒の見込みも薄く、といって、今すぐどうこうというわけでもないので、それなら高い入院費を払い続けるより、自宅療養に切り替えることにしました。この後は「チーム光太郎」ともいうべき医師団が代わる代わる往診に訪れます。

昨日のこのブログで、先週、地方紙二紙に掲載された一面コラムをご紹介しましたが、昨日の『福島民報』さんの一面コラムにも智恵子の名が出ていました。アニソン歌手の水木一郎さんが12月6日(火)に亡くなったことを受けてのものです。

あぶくま抄 ロケットパンチ

♪空にそびえるくろがねの城…。歌い出しから胸は躍った。♪無敵の力はぼくらのために…。強靱[きょうじん]なパワーで自分たち子どもが守られているような気がした。「マジンガーZ」の主題歌を半世紀にわたって歌い続けた水木一郎さんが世を去った▼「アニメソングの帝王」と評され、持ち歌は1200曲を超えるが、当初は子ども相手の歌と軽んじられた。アニメが世界に誇る日本の文化に定着するまで並々ならぬ苦労があったからこそ、若手に優しいまなざしを向け、アニキと慕われた▼実父のように敬愛した小野町出身の作詞家丘灯至夫さんから、10曲以上の楽曲を受けて足場を築く。仲間と登山部を結成して2015(平成27)年、安達太良山に登った。丘さん作詞のヒット曲「智恵子抄」の譜面を山頂で配り、「ほんとの空」に感謝の歌声をささげた。恩義を忘れぬ人柄がしのばれる▼革ジャンに赤いスカーフを巻いた姿は、昭和の子どもを熱狂させた正義のヒーローそのものだった。不穏な令和の今に憤りを感じつつ旅立ったに違いない。追悼にふさわしい言葉が浮かんできた。地球の平和を乱す不義へ、天上から今度は自ら飛ばせ、鉄拳ロケットパンチ。
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水木さんが「アニソン登山部」を結成されたというのは存じていましたが、故・丘灯至夫氏作詞の「智恵子抄」(昭和39年=1964 二代目コロムビア・ローズさん歌唱)のからみだったとは初めて知りました。山頂で歌われたということも。そういえば水木さん、都内で開催された「丘灯至夫さんの作品を歌う会」にも参加なさっていました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、先月から今月にかけ、全国の地方自治体さんの広報誌に光太郎やその父・光雲、さらに智恵子の名。まぁ、どれもほんのちょっとですが(笑)。

鹿児島県いちき串木野市さんの『広報いちき串野』11月24日号。
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同市は「短歌のまち」を標榜しているそうで、同市出身の歌人・萬造寺斉の紹介。与謝野夫妻の新詩社を通じ、光太郎とも交流がありましたので、光太郎の名も出して下さいました。

続いて、新潟県新発田市さんの『広報しばた』12月1日号。
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それ以前の号から「もっと知りたい! 郷土の偉人 大倉喜八郎」という連載が為されていたようで、この号では大倉と交流のあった人々の紹介。「芸術家」として、木彫による肖像彫刻の制作を依頼された光雲、そのための原型塑造を作った光太郎の名が出ています。

さらに、市町村ではなく、県。群馬県さんの広報誌の増刊的な『tsulunos PLUS(ツルノスプラス)』の12月号。特集が「群馬発、世界に誇る温泉文化」だそうで、草津温泉の紹介の中に光太郎智恵子の名。
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ただし、「「草津」の碑」は智恵子療養のために訪れた昭和8年(1933)の作ではなく、昭和2年(1927)のものですが。

最後に智恵子の故郷、福島県二本松市さんの『広報にほんまつ』12月号。「第27回 智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」表彰式の話題。
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光太郎つながりで花巻からも募集していたのですね。

少しずつですが、いろいろ取り上げて下さりありがたいことです。しかし、「高村光太郎? 誰、それ?」、「高村光雲? 知らんなぁ」、「高村智恵子? 聞いたことない」という状況になると、こうは行きませんので、そうならないよう努力いたします(笑)。

【折々のことば・光太郎】

細雨、涼、 横になると痰せきが出る、相当に出るやうになる、


昭和30年(1955)6月26日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結果のため、赤坂山王病院に入院したものの、病状は一進一退でした。治癒に至るには既に進行しすぎていたようです。

先週になりますが、地方紙二紙の一面コラムで光太郎に触れて下さいました。

12月6日(火)、仙台に本社を置く『河北新報』さん。

河北春秋

PXL_20221215_001147173 葉を落とし「箒(ほうき)」になった姿に、詩人高村光太郎は<きつぱりと冬が来た>と詠んだ。イチョウが季節の移ろいを告げている。葉がカモの水かきに似ていることに由来する中国の「鴨脚」の発音が語源とされる▼仙台藩出身で日本初の近代的国語辞書『言海』を編んだ大槻文彦(1847~1928年)はイチョウの語源に「脳を悩まし」「満腹の疑い」を抱き続けていた。増訂版となる『大言海』では「鴨脚の字の、支那、宋代の音なり」と示し、記す▼「此語原は、予が三四十年間、苦心して得たるものなり」。永島道男著『言葉の大海へ「大言海」を愉しむ』に詳しい。「辞書の中に筆者が顔を出すなんて」信じられないけれど、「苦心の、苦心の、苦心の末に解明したのですからわかってあげたい」とも▼文彦、祖父の蘭(らん)学者玄沢、父の儒学者磐渓。「三賢人」を輩出した大槻家関係資料(一関市博物館所蔵)が国の重要文化財に決まった。『大言海』草稿など4000点を超える▼文彦は玄沢の遺戒「遂げずばやまじ、の精神」で編さんしたと、『言海』の巻末「ことばのうみのおくがき」に書く。必ず最後までやり遂げよ。求められるのは決意、責の重さへの自覚と覚悟か。職を去った閣僚たちを他山の石に、遺戒を心にきっぱりと刻もう。

このところの気候は、いかにも「きつぱりと冬が来た」ですね。画像は自宅兼事務所近くのイチョウの古木です。こちらもまさしく「箒」になってしまいました。

続いて、『東京新聞』さん。12月8日(木)付けです。

筆洗

 「記憶せよ、十二月八日/この日世界の歴史あらたまる/アングロ・サクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」−。高村光太郎の詩である。一九四一年、真珠湾攻撃への興奮が伝わってくる▼真珠湾攻撃の日である。光太郎に限らず、その日、日本人は熱狂した。長年の米英による圧力。その閉塞(へいそく)感を打ち破る奇襲に対し、国民は胸のすくような思いとなった。分からないでもない。しかし、それが国民に塗炭の苦しみを与える悲劇の入り口であった▼あの時代にむしろ近づいてはいないか。弾道ミサイルなどの発射拠点を攻撃する敵基地攻撃能力の保有をめぐる議論が進む▼共同通信の世論調査によると約六割が敵基地攻撃能力の保有を容認している。弾道ミサイルが発射される前に基地を攻撃することができれば、国民はより安全になるはず。そう考えるのも理解できる。自衛のためと言われれば、反対もしにくい▼それでも身構えるべきはそれが専守防衛の枠組みを超え、国際法の禁じる先制攻撃と結果的に何も変わらぬ危険性があることだろう▼ミサイル発射の動きを見て敵基地を攻撃したとする。それで敵国がわが国への攻撃を断念してくれるとは考えにくく、待っているのはわが国の敵基地攻撃に端を発した長きにわたる戦争状態ではないのか。臆病か。されど、悲劇の入り口に二度と近づきたくないのである。

まさにわが意を得たり、という内容でした。そこで、12月10日(土)に行われた日本詩人クラブさんの12月例会での講演で紹介させていただきました。

さて、もう1件。

過日ご紹介した杉並区立郷土博物館さんでの企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」。明後日開幕ですが、その予告報道が共同通信さんから配信され、全国の地方紙に載ったようです。

詩人・尾崎喜八回顧展、写真家側面も 東京の杉並区立郷土博物館

 009 山と自然を題材にした詩や散文で知られた尾崎喜八(1892~1974年)の回顧展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」が17日から、東京・杉並区立郷土博物館で開かれる。2023年2月19日まで。尾崎の子孫から寄贈された多数の資料を公開する。
 尾崎はクラシック音楽を巡る随想、外国文学の翻訳も手がけた他、写真にも関心を寄せ、山野の植物、雲、長く住んだ杉並の農村風景などを数多く撮影した。
 本展は自ら撮影した写真約60点、著書約50点、詩人で彫刻家の高村光太郎から贈られた彫刻や、詩人でドイツ・フランス文学者の片山敏彦、詩人・歌人で野鳥研究家の中西悟堂らとの交遊を示す写真やはがき、フランスの作家ロマン・ロランからの手紙などで構成する。
 尾崎は東京市京橋区(現東京都中央区)で生まれ、商業学校を卒業した後、会社勤めをしながら文学活動を始めた。代表作に詩集「花咲ける孤独」(55年)、随筆集「山の絵本」(35年)、随筆「音楽への愛と感謝」(73年)がある。
 関東大震災後から終戦前年まで、実家へ戻った間を除いて現在の杉並区に在住。戦後は長野県富士見村(現富士見町)で足かけ7年過ごし、数々の作品を書いた。その後東京に戻り、晩年は神奈川県鎌倉市で暮らした。
 担当の学芸員は「尾崎の業績全般を知ってもらいたい。地元杉並の人や詩に関心のある人はもちろん、写真関係の方にも見ていただけるとうれしい」と話している。
 観覧料100円。休館日は月曜と第3木曜(祝日の場合は翌日)、12月28日~1月4日。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

転出証明書瀬川さんより届く、


昭和30年(1955)6月4日の日記より 光太郎73歳

「転出」は、戦後7年間の蟄居生活を送った岩手から東京中野へ、です。

元々、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」完成後は、岩手に帰るつもりでいた光太郎、実際、像除幕後の昭和28年(1953)初冬に10日間ほど帰ったのですが、宿痾の肺結核の悪化が山での暮らしを許さず、再々上京していました。それでも住民票を移動させずにいましたが、もはや身体の状況が山へ帰ることは不可能なほど悪化しているという自覚があったのでしょう、岩手の知人を介し、とうとう転出届けを出しました。届けの日付は6月1日だったことが、『高村光太郎全集』に漏れていた葉書の発見により、10年ほど前に明らかに出来ました。

また、かつて光太郎が暮らしていた稗貫郡太田村は前年に周辺の村とともに花巻町に合併、花巻市となったことも転出の一因と思われます。もはや太田村が無い、というのは光太郎にとって淋しかったのではないでしょうか。

都内で光太郎にもからむ内容の企画展です。

企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」

期 日 : 2022年12月17日(土)~2023年2月19日(日)
会 場 : 杉並区立郷土博物館 東京都杉並区大宮1丁目20番8号
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日・毎月第3木曜日(祝日と重なった場合は開館、翌日休館)
      12月28日~1月4日
料 金 : 100円(中学生以下、障害者手帳を提示する方および付き添いの方は無料)

詩人・尾崎喜八(1892年~1974年)は、白樺派から出発し、杉並で「自然と文学」の金字塔となる作品を多く遺しました。大正12年(1923年)の関東大震災後に作家・水野葉舟(みずのようしゅう)の親友であった農業思想家・江渡狄嶺(えどてきれい)の導きで現在の高井戸東に新居を構えた尾崎は、翌春、水野の娘・實子(みつこ)と結婚してそこに暮らしました。のち、昭和19年(1944年)まで、現在の南荻窪、善福寺と戦前の杉並に住み、野鳥研究家・中西悟堂(なかにしごどう)とは自然・野鳥を、詩人・片山敏彦(かたやまとしひこ)とは海外の新しい文学を探求して、『山の絵本』などの博物誌を書きました。また、ノーベル賞作家ロマン・ロランと交友してその文化使節を杉並に迎えるなど、世界文学とのつながりを持ちました。

本展では、寄贈を受けた資料の中から、尾崎がガラス乾板・写真に残した100年近く前の杉並の農村風景や生態系の様子とともに、深い交流のあった高村光太郎ら文学者とのかかわりなどを紹介します。
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関連行事 石黒敦彦氏講演会 
 第1回 「詩人・尾崎喜八」 令和4年12月18日(日曜日)
 第2回 「口語自由詩と昭和の杉並・武蔵野」 令和5年1月15日(日曜日)
 時 間 午後2時 から 午後4時 まで
 対 象 中学生以上の方
 場 所 郷土博物館
 講 師 石黒敦彦氏(尾崎喜八孫・東京工芸大学講師)

詩人・尾崎喜八はおそらく『白樺』を通じて光太郎の知遇を得たのではないかと思われますが、光太郎の親友だった水野葉舟の娘・實子と結婚し、さらに光太郎と深く交流するようになったようです。光太郎は結婚祝いにミケランジェロの模刻「聖母子像」を夫妻に贈りました。

令嬢の故・榮子さん。当方、2度ほどお会いしましたが、生前の智恵子をご存じでした。令孫の石黒敦彦氏はご健在で、連翹忌の集いにもたびたびご参加下さっています。

石黒氏の依頼で、少しだけ協力させていただきました。尾崎一家を高井戸に招いた思想家・江渡狄嶺と光太郎のからみについて。光太郎は江渡が拓いた農場に建てられた霊堂「可愛御堂」の設計を担っていまして、そのあたりについて資料を提供しました。

光太郎、葉舟、尾崎、江渡、さらにそこにロマン・ロランつながりで片山敏彦や渡仏前の高田博厚なども加わった人脈が形成されており、非常に興味深いところです。

当方、初日の12月17日(土)に伺う予定です。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃理髪くる、350円払、


昭和30年(1955)5月20日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核悪化による、赤坂山王病院入院中の一コマです。入院はしたものの、危篤状態というわけでもなく、調子のいい時には床屋さんを呼んで理髪してもらったりもしていたようです。

先週書きかけて途絶してしまった新刊紹介の続きです。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書を多数刊行されている文治堂書店さんから発行されている文芸同人誌的な『とんぼ』。第15号が届きました。
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版元店主・勝畑耕一氏による「追慕録」に、今年8月に亡くなった北川節子様の追悼文が掲載されています。節子様、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の奥様で、北川先生同様、生前の光太郎をご存じの方でした。

それから、手前味噌で恐縮ですが、当方の連載「連翹忌通信」。前号から最近の「もの」の発見ということで、今号は花巻市に寄贈された光太郎の父・光雲作の木彫天鈿女命像と、鋳銅製准胝(じゅんてい)観音像について。

ご入用の方、文治堂書店さんまでご注文なさってください。頒価500円+税とのことです。

新刊、といえば、最近、光太郎の名を冠した自費出版の書籍が出ました。早速購入してみましたが、読み始めて驚きました。「こんなものを出版するとは何事だ」という感じで。

極端な話、1ページに1箇所は事実誤認。それから同じく1ページに1箇所は根拠不明の独断(そういう事実は確認出来ていないという事柄を根拠にしての論の展開)。さらにいうなら、1ページに1箇所は「てにをは」の崩壊や誤字脱字。人様に読んでいただくという姿勢が欠落しています。話の進め方もあっちへ行ったりこっちへ行ったりで、明治期の話かと思うと突然脈絡もなく戦中や戦後の話に飛び、予備知識がない読者には、いつの話をしているのかさっぱり分からないと思います。途中、いろいろ出典が書かれてはいるのですが、どうも『高村光太郎全集』に眼を通していないようですし。いくら自費出版だといっても、ありえませんね。

3分の1くらいまでは我慢しながら読んだのですが、途中でやめました。時間の無駄ですし、精神衛生上もよくありません。

「××」という本が出ているのに、なぜこのブログで紹介しないんだ? と思われた方、そういうわけですのでよろしく。

【折々のことば・光太郎】

二時回診、ラジオで角力、


昭和30年(1955)5月19日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核悪化による、赤坂山王病院入院中の一コマです。

この日、光太郎が聴いていた大相撲中継は、夏場所。かの栃錦が横綱として優勝し、のちの大横綱となる初代若ノ花が関脇でした。平幕には元寺尾関・元逆鉾関の父・鶴ヶ峯など。大鵬はまだデビューしていませんでした。

昨日は、日本詩人クラブさんという団体の2022年12月例会にお招きいただき、都内に出ておりました。基本、クローズドのイベントでしたので、このブログではご紹介していませんでしたが。

会場は新宿区の早稲田奉仕園さん。
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キリスト教系の施設ですが、この中にリバティホールというスペースがあり、そちらで。下記は開会前です。
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講演を仰せつかりまして、約60分、喋らせていただきました。
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日本詩人クラブさんでは、ほぼ毎月、「例会」を催され、その都度さまざまなテーマを設定なさっています。今年5月は西条八十を取り上げ、9月には「国際交流」とのことでインドの詩人の方をお招きしたということでした。

で、12月例会は光太郎。会員であらせられる曽我貢誠氏、宮尾壽里子氏がご推挙下さって、当方が講演をすることに。以前からそういうお話があったのですが、コロナ禍の関係で延び延びとなって、本来は『智恵子抄』発刊80周年に当たる昨年のはずだったようですが。

まぁ1年遅れではありましたが『智恵子抄』、そして太平洋戦争開戦の12月8日の翌々日ということもあり、さらに今年起こって今も続くロシアによるウクライナ侵攻にもからめまして、演題を「2022年の高村光太郎――ウクライナ、そして『智恵子抄』――」とさせていただきました。初版『智恵子抄』の刊行が太平洋戦争開戦前夜の昭和16年(1941)8月、収録詩の最後のあたりは泥沼化していた日中戦争との絡みも語られており、『智恵子抄』と戦争は切っても切り離せない関係にあります。

自分ではあまり見たくないのですが(笑)、YouTubeにアップされています。以前も書きましたが、人前でしゃべるのは抵抗はありませんがさりとて自信もありません。

後半は「高村光太郎「智恵子抄」朗読ドラマ――発刊80周年を過ぎて振り返る」。会員の皆さん、すなわち詩人の方々が演じられました。
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脚本は宮尾氏(上記画像左端)。以前から朗読のお仲間と同様の公演を何度かなさっていて、それをアレンジしたという感じでした。

プロの役者さんや朗読家の方ではなく、詩人の皆さんが演じられたわけですが、日頃から「言葉」に対して鋭敏な感覚を持たれているご一同、なるほどねと思わされるステージでした。こちらもYouTube動画に当方の講演の後に収録されています。当方の講演よりそちらをご覧下さい(笑)。

それにしても、詩人の皆さんがこういう団体を結成され、詩作だけでなくいろいろな活動を行われているということを、当方、お話を頂くまでよく存じませんでした。2月24日(木)に始まったロシアによるウクライナ侵攻に対しても、翌3月には早速反対声明を発表なさっていますし。そのあたりを踏まえ、日中戦争・太平洋戦争中に、光太郎はじめ、殆ど全てといっていい詩人達が犯した戦争推進協力の過ちを繰り返さないよう、まぁ、それ以前にそういう状況にしないためにも、詩人の皆さんの出来ることをなさって下さいとお願いして参りました。言わずもがな、かも知れませんが。

戦争と光太郎については、また近々、このブログで取り上げます。以上、レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

からだのいたみまだあり、中腰の位置の時痛し、


昭和30年(1955)5月5日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核による赤坂山王病院への入院が前月30日。入院はしても積極的な治療ができるわけでもなく、こういう状況でした。光太郎余命あと1年足らずです。

たまっている新刊等紹介の2日目です。こちらも刊行から2ヶ月経ってしまいました。

言葉を植えた人

2022年10月4日 若松英輔著 亜紀書房 定価1,500円+税

〈暗闇にあるとき人は、一つの言葉を抱きしめるようにして生きることもあるだろう〉――確かな杖となる言葉を味わうエッセイ集。

舟越保武、 志村ふくみ、石牟礼道子、吉本隆明、池田晶子、神谷美恵子、北條民雄、宮﨑かづゑ、井筒俊彦……。言葉にならないものの波打ち際に立って言葉を紡いできた人々の、珠玉の名言と対話するように紡がれるエッセイ集。

本当の誇りとは、誰かの役に立っていると感じることではおそらくない。それは愛される者であるよりも、愛する者であることを真に望む、自己への信頼なのである。(本文より)
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目次
 祈り001
 かたちの詩人――舟越保武
 アッシジの聖女――舟越保武
 生ける幻――舟越保武
 彼方からやってくる色――志村ふくみ
 光の人――志村ふくみの詩学
 秘められたコトバ――志村ふくみと石牟礼道子
 常世の国と「沖宮」――石牟礼道子
 語らざるものからの手紙――石牟礼道子
 叡知の遺産――石牟礼道子
 死者たちとの連帯を求めて――宇井純
 生命のつながり――中村桂子
 世界という書物――池田晶子
 無垢なる魂への贈り物――上皇后美智子さま
 詩人はなぜ、思想家になったのか――吉本隆明の態度
 かなしみの詩学――中原中也と小林秀雄
 魂との邂逅――中原中也の詩学
 「生きがい」の哲学の淵源――神谷美恵子
 幸福の哲学者――神谷美恵子003
 いのちのひびき――北條民雄の詩学
 幸福の証人――宮﨑かづゑ
 求道としての哲学――久松真一
 宗教を超えて――久松真一の書と霊性
 言葉といのちのコスモロジー――大峯顯
 月影の使徒――河波昌
 哲学は人間を救い得るのか――井筒俊彦
 詩人哲学者の誕生――井筒俊彦
 文化の奥に潜むものを求めて――井筒俊彦
 言葉とコトバ――井筒俊彦
 禅の彼方、禅の深み――鈴木大拙の悲願
 霊性と宇宙の地平――山崎弁栄と内村鑑三
 内村鑑三の書
 批評家の誕生――粟津則雄の眼
 あとがき


様々な新聞雑誌等に発表されたエッセイの集積です。

目次に光太郎の名は見えないのですが、光太郎と交流の深かった舟越保武の項で光太郎に触れられています。曰く「彫刻家高村光太郎の真の後継者は、舟越保武ではなかったか。一見すると似ていない作風だが、一個の存在のなかに永遠の実在を見つけようとした態度において二人は強く響き合う。高村光太郎が作る蟬は、岩手の山を飛ぶ蟬であり、同時に永遠なる世界に生きる蟬でもある。舟越が作る女性も、この世の人でありながら同時に、悠久(ゆうきゅう)の世界を生きる人でもある。

また、舟越による光太郎評も紹介されています。

そういえば若松氏、今年刊行された詩集『美しいとき』のあとがきでも、光太郎と舟越について触れて下さっていました。また、他の書籍でも。

『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる』。
『詩と出会う 詩と生きる』。

ほんの少しだけ光太郎に触れられているという御著書はまだあるかもしれませんが。

それぞれぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午后岡本先生血清をとりにくる、とたんに血痰が出る、それをみせる、かなり出る、 横臥安静、

昭和30年(1955)4月11日の日記より 光太郎73歳

この日の症状は喀血に近い状態だったようで、これを機に、月末には赤坂山王病院に入院ということになってしまいます。

「芸術の秋」が過ぎ、きっぱりと冬が来ました。

思えばこの秋は、光太郎智恵子、光太郎の父・光雲がらみのイベントやコンサート、美術館さん等での展示などがたくさん行われ(展示等でまだ続いているものもありますが)、それらの紹介やレポートなどで毎日てんやわんや(死語ですね(笑))でした。イベント系は期日があるので、ブログで紹介するにもタイミングがありまして……。今月もさまざまなイベント等があり、追々紹介していきますが、ようやく一段落という感じです。

そこで、期日がないため後回しにしてきてしまっていた新刊紹介を、今日から3日間続けます(飛び込みで何もなければ、ですが)。

刊行順に、まず、光雲が登場する小説です。だらだら後回しにしていたら、刊行から3ヶ月経ってしまいました。

猫絵の姫君 戊辰太平記

2022年8月26日 智本光隆著 郁朋社 定価1,500円+税

フランス革命の女戦士マリアンヌのように幕末維新を駆け抜けた新田義貞の末裔・武子姫。やがて鹿鳴館の華になる――。

目次
 序章  黒船の海
 第一章 風吹く大地の姫君
 第二章 密勅
 第三章 新田官軍
 第四章 戊辰無情
 第五章 明治の風景
 第六章 維新の十字架
 第七章 箱館戦争
 終章  鹿鳴館の華

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主人公はのちの井上馨夫人・武子。元勲であった夫とともに、いわゆる鹿鳴館外交を担った女性です。ちなみに鹿鳴館の開館は明治16年(1883)、光太郎が生まれた年です。その鹿鳴館外交については終章で扱われる程度で、メインは武子の少女時代からそこまでの歩み、特に戊辰戦争時です。

武子は上野国の小領主・岩松俊純の娘として生まれました。それが嘉永3年(1850)ですので、同5年(1852)生まれの光雲より2歳年長です。岩松家は鎌倉時代末期の新田義貞の子孫にあたるという触れ込みで、幕末には新田姓に戻し、戊辰戦争時にはいわゆる官軍側にたって「新田官軍」を編成、幼い頃からお転婆(これも死語ですね(笑))だった武子も銃をとって参戦しました。「八重の桜」の山本八重、後の新島八重のようですね。立場は逆ですが。

ところでタイトルの「猫絵」は、まだ平和だった頃、俊純が歳末になると猫の絵を描いて世話になった人々に贈る習慣があり、それを方々に届けるのが武子の役目だったというところから来ています。ちなみに小説の中では、「武」にはほど遠く温厚な人物であった俊純を、武子が「猫絵を描くしか能がない」と蔑む描写が見られます。しかしその猫絵がのちに一家やさらに戊辰戦争の行方をも変えるきっかけになる……という展開です。

当方、「敗者の美学」とでも言いましょうか、旧幕側の人物たち――旧会津藩、新選組、彰義隊、遊撃隊など――にシンパシーを感じており、いわゆる官軍側の人物を主人公としたものはまず読みません。そこで、この小説に描かれている事柄がどの程度史実に即しているのかよくわからないのですが……。

さて、「第五章 明治の風景」及び「終章 鹿鳴館の華」に、若き日の光雲が登場します。

006昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に、光雲は大隈綾子(大隈重信夫人)と旧知の間柄だったことが記されており、綾子と武子もつながりが深かったため、作者の智本氏、光雲と武子もどこかで出会っているはず、と、登場させたのでしょう。武子、綾子、光雲の三人が会しているというシーンがあります。光雲はまだ「光雲」と号して独立する前、高村東雲の元での修業時代です。そこで「第五章 明治の風景」では、幼名の「光蔵」。「終章 鹿鳴館の華」で、実は「光蔵」は高村光雲だった、というわけです。

小説中の光蔵少年、かなりのおっちょこちょい(これも死語ですね(笑))で、いきなり往来に飛び出し、薩摩の兵にぶつかってあやうく斬られそうになったりしています。実際、『光雲懐古談』などで、光雲は自らをおっちょこちょいと評しており、そういうエピソードがあっても不思議ではないでしょう(笑)。

ただ、苦言を呈させていただければ、「光蔵」のルビが「こうぞう」になっていること。正しくは「みつぞう」です。右は『光雲懐古談』から。

余談になりますが、光太郎も本名は「みつたろう」。「みつぞう」の「みつ」を採ったわけです。のちに自ら「こうたろう」と名乗るようになりましたが。

そういう部分は差っ引いても、実に面白い小説です。官軍側が主人公ですが、旧幕側の土方歳三、小栗忠順らも気骨或る人物として描かれていますし。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

幸子さんくる、東芝のミキサー持参、13,000円のもの、10,000円に割引の由、

昭和30年(1955)4月10日の日記より 光太郎73歳

幸子さん」は、光太郎が戦前から行きつけにしていた三河島のトンカツ屋の娘。アルバイト的に光太郎が起居していた貸しアトリエの片付け等に訪れていました。

東芝のミキサー」は下のようなものだったと思われます。

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12月3日(土)、花巻高村光太郎記念館さんでの、企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の展示解説動画撮影を終え、市街に戻りました。

宿泊先は在来線花巻駅前の商人宿。なんだかんだでここに泊まるのも7、8回目でしょうか。このブログを始めてからも5回目です。
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チェックインし、一休みした後、道路を挟んで向かいのグランシェール花巻さんへ。
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改装中ということで、シートに覆われていました。

来年2月14日(火)、こちらに隣接するなはんプラザさんでのイベントの打ち合わせ。詳細はまた後ほどご紹介いたしますが、主催は太田地区振興会さん。「太田地区」というのは、光太郎が戦後の7年間、蟄居生活を送った旧太田村です。宮沢賢治実弟の清六の令孫・和樹氏と当方で、賢治と光太郎の接点、光太郎の花巻疎開の経緯などについて、2時間近くの公開対談。そこで、太田地区振興会の役員の方々、和樹氏も交え、夕食を頂きながら打ち合わせでした。

翌朝チェックアウトし、あいにくの雨の中、レンタカーを北に向けました。目指すは盛岡の西に位置する雫石町です。

花巻高村光太郎記念館さんでは、開催中の企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」と並行して、花巻市内の他の文化施設4館との共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」で、『高村光太郎の「開拓に寄す」』と題し、光太郎と開拓農民たちとの交流などをテーマにしたミニ展示を行います。

メイン展示物は、最近寄贈された、昭和25年(1950)に旧太田村で蟄居中だった光太郎が作った詩「開拓に寄す」の光太郎直筆高を精密印刷したもの。光太郎も参加し、盛岡市に於いて開催された岩手県開拓五周年記念の開拓祭で参会者に配付されました。当時としてはなかなかの出来で、直筆と見まごうものです。そこで、テレビ東京さん系の「開運!なんでも鑑定団」に、同じものが出たことがあります。依頼人は直筆と信じていたようで……。しかし、印刷ということで1万円ほどでした。また、以前に寄贈されたものは令和元年(2019)から翌年にかけ、花巻市総合文化財センターさんで展示されました。

で、雫石町に、やはり同じ書をブロンズパネルに写して嵌め込んだ石碑があるという情報を得まして、この際だから見ておこうと思った次第です。

東北自動車道を盛岡ICで降り、北西方向へ。目指すは長山地区の開拓記念公苑というところ。岩手山の山麓というか中腹というか、そんな感じです。

途中に有名な小岩井農場さんがありました。そういえば、賢治ゆかりの地です。
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当方、学生時代に訪れたことがあり、懐かしく思いました。もっとも、今回は立ち寄りはしませんでしたが。

このあたりから雨は霙まじりとなりまして、やがて……。
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さらに北上して開拓記念公苑に近づくと完全に雪。それも大雪となりましたが、ともかく到着。
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一帯は民家もほとんどありません。なぜこんなところに公園的なスペースを造ったのか、という感じでした。

公苑内には多くの石碑や石仏が。
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目指す碑は、「戦後開拓50周年記念」という名称でした。
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平成7年(1995)の竣工のようです。

光太郎詩「開拓に寄す」のブロンズパネル。
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「おお」という感じでした。

この詩の中の一節を写した碑は、光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村にも建てられています。前日に撮っておいた写真。
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「太田開拓十周年記念」碑。昭和51年(1976)の建立です。

さて、開拓記念公苑には「拓魂」碑という碑もありまして、昭和45年(1970)にこの碑が造られたのがこの公苑の始まり的な……。こちらは開拓25周年記念だそうで。
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碑の裏面に、やはり光太郎詩「開拓十周年」のブロンズパネル。
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「開拓十周年」は、昭和30年(1955)の作。やはり盛岡で開催された記念式典に寄せて作られた詩で、5周年の「開拓に寄す」同様に光太郎筆跡を写した印刷物が配布されたそうです。そこからさらにこの碑面を作ったのでしょう。

この詩の印刷物は県外の開拓関係者にも配付されたそうで、現在の福島県南相馬市小高地区には、この詩を読んで感激した平田良衛という人物によって、配付されたその年(昭和30年=1955)にこの詩の全文を刻んだ碑が建てられました。ただ、筆跡は地元の書家のもので、おそらく碑に写すことも光太郎の許可を得ていなかったのではないかと思われます。まぁ、それでも光太郎生前に建てられた数少ない光太郎詩碑の一つということにはなるのですが。

二つの詩とも、「開拓」とまでは行かないものの、太田村の山小屋前に畑を開墾し、まがりなりにも農業に取り組んで野菜類はほぼ自給していた光太郎の作だけあって、実体験に基づいた具体的な記述がなされています。光太郎が蟄居生活を始めた後、山小屋近くに開拓地がひらかれ、そこの住民とも親しく接した光太郎は、彼らから聞かされたの体験談も盛り込んだのでしょうし。決して机上で生まれた詩ではないということです。そこで開拓関係者たちの心を揺り動かしたのでしょう。

そういえば、光太郎と親しく交流していた画家の深沢省三・紅子夫妻子息の故・竜一氏が開拓に携わり、昭和25年(1950)の1月には、光太郎が雫石の氏のお宅に2泊しています。その際には好物の牛乳を一升も飲んだそうで(笑)。場所的には旧西山村、この公苑のある長山地区もかぶります。光太郎もこの辺に来たんだなぁ、と、感慨深く思いました。

雪の開拓記念公苑を後に、下山。やはり小岩井農場近くで霙、さらに下ると雨。岩手山、おそるべしでした(笑)。

盛岡駅前でレンタカーを返却、帰途に就きました。
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さて、共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」は12月10日(土)から。並行しての企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」は開催中です。ぜひ、花巻高村光太郎記念館さんまで足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

先日来食事は中西夫人が作りくれる、 ひるワラサ切身2 ヒジキ、


昭和30年(1955)4月17日の日記より 光太郎73歳

昭和27年(1952)の帰京後も、基本的に自炊していた光太郎ですが、宿痾の肺結核のため、そろそろ自炊も不可能になりつつありました。「中西夫人」は起居していた貸しアトリエの大家さんです。

光太郎第二の故郷とも言うべき岩手県花巻市。市立の博物館等5館が統一テーマの元に行う共同企画展です。コロナ禍により、2年ぶりの開催となります。

令和4年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、花巻市博物館、花巻市総合文化財センター、高村光太郎記念館の5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

期 日 : 2022年12月10日(土)~2023年1月22日(日)

統一テーマ 「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

花巻新渡戸記念館  テーマ「新渡戸稲造の父・十次郎」
 新渡戸稲造の父であり、十和田市の開拓などに貢献するも、若くしてこの世を去った新渡戸十次郎の生涯を紹介します。

萬鉄五郎記念美術館  テーマ「歌人・小田島孤舟展」
 花巻市東和町出身の歌人・小田島孤舟は石川硺木らと共に活躍した「岩手歌壇の父」であり、同級生であった萬鉄五郎とも生涯を通じて交友がありました。本展では、孤舟の作品と生涯を巡るほか、萬鉄五郎との関わりにも焦点を当てて紹介します。

花巻市博物館  テーマ「山の暮らし」
 総面積の半分以上を山林が占める花巻市には、山を生業の場とし、山と暮らしてきた人々がいます。
本展では、その人々が使用した様々な道具やかつての写真などから、花巻での山の暮らしに迫ります。

花巻市総合文化財センター  テーマ「早池峰の花を紹介した人々-早池峰植物研究小史-」
 幕末に植物採集の指導や学術発表を行ったロシア人植物学者マキシモビッチや、その指導を受け早池峰山の植物採集を行った須川長之助など、早池峰山の植物研究に関わってきた先人の足跡をたどります。

高村光太郎記念館  テーマ『高村光太郎の「開拓に寄す」』
 「開拓に寄す」は、高村光太郎が昭和25年に盛岡市で行われた岩手開拓五周年記念開拓祭に寄せた詩です。今回の企画展は寄贈資料「開拓に寄す」とともに、関係資料の展示を行います。

協賛館
宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、石鳥谷農業伝承館、
石鳥谷歴史民俗資料館、早池峰と賢治の展示館

ぐるっとまわろう!スタンプラリー
 共同企画展の会期中、開催館5館のうち3館のスタンプを集めた方に記念品を差し上げます。さらに、開催館5館すべてといすれかの協賛館1館の計6個スタンプを集めた方には、さらに記念品を差し上げますので、この機会にぜひ足を運んでみてください。

 今回の開催館5館すべてをバスに乗って一日で巡るツアーです。参加料、入館料ともに無料!!(注 昼食代は自己負担)さらに各企画展の担当者が解説をしてくれます。
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高村光太郎記念館さんでは、『高村光太郎の「開拓に寄す」』。

「開拓に寄す」は、昭和25年(1950)、花巻郊外旧太田村に蟄居中だった光太郎が作った詩の題名です。11月9日作で、翌日から3日間の日程で、光太郎も参加し、盛岡市に於いて開催された岩手県開拓五周年記念の開拓祭に寄せて作られた詩です。当時、岩手県開拓者連盟の仕事をしていた紫波町出身の藤原嘉藤治(生前の宮沢賢治の親友)を通じ、光太郎に依頼があったと推定されます。

光太郎の詩稿を写真製版し、凸版印刷にしたものが参会者に配付され、光太郎生前には全文が活字になった記録が見あたりませんが、光太郎没後の昭和31年(1956)、光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣ぎ、後に鋳金分野の人間国宝となった豊周(とよちか)の編集になる詩集『典型以後』に収められました。

その凸版印刷にしたものは、令和元年(2019)に花巻市総合文化財センターさんで展示されましたが、また新たに寄贈され、それを中心に、他の開拓関係資料等も出すとのこと。例によって当方が説明パネルを執筆させていただきました。

高村光太郎記念館さんでは、11月23日(水)から他の企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」も開催されており、今回の『高村光太郎の「開拓に寄す」』は、それほどスペースを使わず、常設展示室の一角で行うのではないかと思われます。

今日から1泊2日で、当方、花巻に赴きます。「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の展示解説を動画配信するというので、その収録です。ついでに開拓関係で、雫石町まで足を伸ばして調査をして参ります。既に花巻でも初雪が観測されており、気合いを入れていかねばなりません(笑)。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ラジオ東京の人くる、KRの今夕の智恵子抄放送のこと、夕方奥平さんくる、七時辞去、 ストーブ、 七時20分放送をきく 便 <放送は東山千栄子、可不可なし、>

昭和30年(1955)4月4日の日記より 光太郎73歳

「ラジオ東京」「KR」は、現在のTBSラジオさんです。女優の故・東山千栄子さんの「智恵子抄」朗読があったとのこと。

2件、ご紹介します。

<BSフジサスペンス劇場>浅見光彦シリーズ22 「首の女」殺人事件

BSフジ 2022年12月2日(金) 12:00~14:00

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。
 光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる!!

<出演者>
 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作
 榎木孝明 野際陽子 ほか 
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006初回放映は平成18年(2006)。年に1、2回繰り返し再放送されています。

故・内田康夫氏による原作小説は昭和61年(1986)の刊行。智恵子の故郷・福島二本松も事件の舞台の一つということで、岳温泉、智恵子生家/智恵子記念館などでもロケが行われました。また、ドラマの中での設定は花巻ではありませんでしたが、花巻の旧高村光太郎記念館でも。

平成30年(2018)には、あさみさとる氏の作画で漫画化もされました。今夏にはカップリングの作品を変えて再刊されています。版元のぶんか社さんのサイトで紹介されたらこのブログで取り上げようと手ぐすねひいていたのですが(笑)、結局、同社のサイトには情報がアップされませんでした。新作ではないからかもしれません。

もう1件。ただし光太郎智恵子には直接関わらないと思われますが……。

中山秀征の楽しく1万歩!小京都日和「島根・津和野で風景画の絶景小道を行く」

BSイレブン 2022年12月6日(火) 20:00~20:58

★歩けば、そこかしこで懐かしい風景や人々の暮らしに出会える町、小京都。悠々たる歴史と文化に裏付けされた、私たち日本人のこころのふるさと。そんな素敵な町を、中山秀征さんが1万歩目指して歩きます! 小京都で身も心も健康に! さあ、出発です!

 第9回【“山陰の小京都”島根・津和野町】今回、中山さんが訪れた小京都は島根・津和野。山あいを流れる川に沿って細長く広がる町で、津和野藩の城下町として栄えました。武家屋敷が立ち並んでいた江戸時代の面影が残る風情ある街並みで、山陰の小京都といわれています。通り沿いの水路には色鮮やかな錦鯉が優雅に泳ぎ、穏やかな街の雰囲気を感じさせます。
 今回は、江戸時代の津和野の風景や文化が描かれた「津和野百景図」を手に街歩き。昔と今の風景を見比べながら、当時の名残を見つけていきます。
昔懐かしい蒸気機関車が展示してある津和野駅を出発した中山さん、早速、気になる看板の店を発見。「鯉の米屋」という名の通り、庭の池にはたくさんの鯉が。その数に圧倒されます。
 そして、古い武家屋敷や白壁の塀が美しい殿町に入ると、大きな門があった場所や橋のたもとにある松の木など、江戸時代の風景画との共通点を見つけて大興奮!また、無数に連なる鳥居の石段を登った坂上にある太皷谷稲成神社では、町を一望。さらに、文豪・森鴎外の旧家や、フランス人店主のお茶屋さんなど、町中をくまなく回ります。津和野名物の黒いいなり寿司も堪能!
 地元の方々と触れ合いながら、歴史が息づく津和野の町を歩きました。お楽しみに!

出演者 中山秀征  ナレーター 小島奈津子
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現在、文京区立森鷗外記念館さんで開催中の特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」で、新たに発見された光太郎から鷗外宛の長い書簡が展示されていますが、それを含む約400通もの各界から鷗外宛書簡が寄託された森鷗外旧宅/森鷗外記念館さんが取り上げられます。タイムリーですね。そういう話題になるかどうか微妙ですが。

同館、一度行ってみたいと思いながらまだ果たせていませんで、映像でどんなところなのか見てみようと存じます。皆様も是非ご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

電報局までゆきて盛岡美校の堀江赳氏に卒業式(明日)の祝辞を送る、「ビノチカシゲンイワテニミツ」といふもの、


昭和30年(1955)3月10日(木)の日記より 光太郎73歳

盛岡美校」は、花巻郊外旧太田村蟄居中に何度も訪れた岩手県立美術工芸学校。再上京後も毎年祝電を送っていましたが、この年が最後となりました。

電報局」はおそらく現在のNTT東日本中野ビル。起居していた貸しアトリエから直線距離で500㍍ほど。どうしても祝電を送らねばと、つらい身体をおしての約10日ぶりの外出でした。

いわゆるカルチャースクールでの市民講座。教室での対面受講とオンライン受講が選べるそうです。

続・文学者の短歌 in 大阪

期 日 : 2022年12月3日(土)
会 場 : 毎日文化センター 大阪市北区梅田3-4-5毎日新聞ビル2階 
時 間 : 13:00~14:00
料 金 : 2,750円
講 師 : 松村正直(歌人)
1970年生まれ。歌集に『駅へ』『やさしい鮫』『午前3時を過ぎて』『風のおとうと』『紫のひと』、評論集 『短歌は記憶する』『樺太を訪れた歌人たち』『戦争の歌』、評伝 『高安国世の手紙』、時評集『踊り場からの眺め』、同人誌「パンの耳」。現在「角川短歌」に「啄木ごっこ」を連載中。

 今年2月に実施した「文学者の短歌」が好評につき、第二弾の続編を開催します! 近代以降、短歌は多くの人々に親しまれてきました。歌人として知られる人物だけでなく、さまざまな文学者たちも歌を詠んできたのです。短歌は若き日の彼らの文学の出発点となり、また終生愛する詩型ともなりました。
 本講座では、柳田国男(民俗学者)、高村光太郎(詩人、彫刻家)、加藤楸邨(俳人)、中原中也(詩人)、三浦綾子(小説家)らの短歌を紹介しつつ、その時代背景や人生をたどります。その上で、短歌という詩型の持つ特徴や魅力に迫りたいと思います。

オンライン受講について
・事前にZoom公式サイトから最新Zoomアプリをインストールしてください。
・講座当日の10:30までに視聴URL(ウェビナーIDとパスコード)をお知らせします。
・開講当日の開始15分前から入室可能です。
・「Zoom」ウェビナーは受講者側のお名前や映像、音声は配信されません。ウェブカメラやマイクは不要です。
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今年2月に「文学者の短歌」というオンライン講座があり、その続編だそうです。2月に取り上げられたのは、森鷗外、芥川龍之介、村岡花子、宮沢賢治、中島敦、北杜夫、石牟礼道子など。今回取り上げられる人々と併せ、いわゆる「歌人」ではなかった人々の短歌、ということですね。

光太郎の場合、本格的な文学活動の出発点が短歌でした。東京美術学校在学中の明治33年(1900)、与謝野夫妻の新詩社に加わり、機関誌『明星』に「砕雨」と号して多くの短歌を発表しています。それ以前に俳句が『読売新聞』に掲載されたりもしましたが、そちらはあくまで投稿の域を出ませんでした。

その後、大正期の第二次『明星』にも多くの短歌を寄せたり、木彫を作るとその袋や袱紗(智恵子の手縫い)に短歌をしたためたりもしました。そして晩年まで折に触れて歌作を続け、結局、『高村光太郎全集』には800首ほどが掲載されていますし、平成10年(1998)の『全集』完結後も10首あまり見つかっています。短歌は詩と異なり、手元に控えの原稿を残さなかったので、今後も見つかる可能性が高いと思われます。

やはり詩であれだけの(どれだけだ(笑))世界を構築した光太郎、短歌でも素晴らしいものをたくさん残しています。初期のものは、鉄幹による添削が激しく入っているとのことですし、また、いわゆる「歌人風」に逆らった、巫山戯た短歌も目につきますが。

講座はオンラインでも配信されるとのこと。この対面式とオンラインとの併用(特にアーカイブ配信まである場合)は、コロナ禍によるいい意味での副産物といえるでしょう。コロナ禍以前は対面式の講座等は一度その場でやったらそれで終わり、という感じでしたから、遠方だったり、その日に都合がつかなかったりの場合に対応できませんでした。

当方も12月10日(土)、都内で開催される日本詩人クラブさんの例会で講演をしますが、そちらのオンライン配信があるそうです。例会自体はクローズドで、配信も欠席会員のためのライブ配信だと聞いていますが、もしかすると一般の方も試聴可能かも知れません。

また、それに先立つ12月3日(土)には、花巻高村光太郎記念館さんで、現在開催中の企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の解説等を収録します。こちらは期間限定配信のようです。

それぞれ詳細が分かりましたらまたご紹介します。

閑話休題、「続・文学者の短歌 in 大阪」、ぜひお申し込みを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜の原稿清書、 午后「書道全集」の人くる、原稿渡し、4枚、


昭和30年(1955)2月15日の日記より 光太郎73歳

「原稿」は、平凡社から翌月刊行された『書道全集 第七巻 隋・唐Ⅰ』の月報のためのもの。「黄山谷について」と題し、光太郎が愛した黄山谷(庭堅)の書の魅力を綴っています。
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過日ご紹介した、福岡県の北原白秋生家・記念館さんでの「北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~」について、『毎日新聞』さんが報じて下さいました。

ゲーム「文豪とアルケミスト」題材、白秋展始まる 福岡・柳川

 福岡県柳川市出身の詩人、北原白秋(1885~1942)の命日(2日)にちなみ、同市沖端町の白秋生家・記念館で1日、白秋らが登場するオンラインゲームを題材にした企画展「白秋と若き文士たち」が始まった。
 ゲームは2016年から配信されている「文豪とアルケミスト」。文豪が残した文学書が次々と黒く染まってしまう現象が起き、人々の記憶から文学が消えていく中、それを阻止しようと白秋ら文士が登場するという趣向だ。
 企画展はゲームで描かれた白秋ら文士の等身大パネルを展示し、直筆手紙など約30点の史料で高村光太郎(1883~1956)、室生犀星(1889~1962)らゲームに登場する他の文士との交流を紹介する。初めての詩集「邪宗門」など20代の時の白秋を知るコーナーも設けた。
 高田杏子館長は「青春時代の白秋ら、若き文士の自由で光り輝く作品を楽しんでほしい」と鑑賞を呼び掛けている。入場料一般600円、小中学生250円。鑑賞者に白秋をデザインしたしおりを贈る。2023年3月31日までの開催だ。
 1日夜は市内の掘割にどんこ舟が連なる「白秋祭水上パレード」もあった。パレードは2、3日夜もあり、2日午前10時からは同市矢留本町の白秋詩碑苑で白秋にささげる献詩もある。
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同じくゲーム「文豪とアルケミスト」のコラボ企画として、岩手花巻で行われ、花巻高村光太郎記念館さんもチェックポイントとなっていた「宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー」は、先月一杯で終了。その関係で多くの若い方々がいらして下さったと同館の方から連絡があり、ありがたい限りです。中には花巻市街から自転車で、という強者(つわもの)もいらしたそうで。

それぞれの文豪に深く親しむための入り口としては、こうしたタイアップもありだと存じます。全国の関係者の皆さん、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の命日、十七回忌にあたる、 「心」の婦人記者玄関まで、 夕方椛澤さん玄関まで、智恵子の墓参してくれた由、菊をもらふ、


昭和29年(1954)10月5日の日記より 光太郎72歳

昭和20年(1945)からの岩手蟄居中は、花巻市街の松庵寺さんで、ほぼ毎年智恵子の法要を営んでもらっていた光太郎ですが、もはや外出もままならず……。

このところ、紹介すべき事項等が多く、3件まとめてご紹介します。

まず、文京区立森鷗外記念館さんの特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」を取り上げた、『産経新聞』さんの記事。

初出展続々 没後100年「鷗外遺産」展

 森鷗外記念館(東京都文京区)で、特別展「鷗外遺産 直筆資料が伝える心の軌跡」が始まった。今年生誕160年、没後100年の文豪・森鷗外に、さまざまなアプローチで光をあててきた同館が「記念事業のハイライト」という展示。今年明らかになった新資料など、出品総数80点のうち21点が「展覧会初出展」とあって注目されそうだ。
 同展は「書簡篇」「原稿篇」の2部構成。書簡篇の19通のうち、18通は今夏、島根県津和野町の森鷗外記念館への寄託で明らかになった鷗外宛て書簡400通の一部で、もちろんすべて展覧会初登場。
 発信者は、夏目漱石・鏡子、正岡子規、永井荷風、与謝野晶子、小山内薫、高村光太郎、高浜虚子、中村不折ら15人。たとえば、鷗外の推薦で慶應義塾大学教授になった荷風は、雑誌「三田文学」を創刊する際の意気込みなどを報告。虚子は、陶芸家・書家の北大路魯山人から相談を受け、鷗外に紹介する内容(12月1日から展示)。
 原稿篇では大正5年、鷗外が54歳のときの新聞連載「渋江抽斎」の49、50回の原稿や、同作などの史伝出版に向けた広告原稿も今年の新資料。作品執筆の経緯や新聞連載時から出版までの変遷もわかる。
 一方、16歳の鷗外が東大医学部でドイツ語の講義を書き取り、日本語に訳して冊子にした、初めての〝著作〟ともいわれる「筋肉通論」も初出展となった。
 同展監修の須田喜代次大妻女子大名誉教授は「書簡を見ていくと、鷗外を包み込んでいた文化の広がり、鷗外文化圏が浮かび上がる。16歳と54歳のときの原稿も同時に見られる。いずれも丁寧な推敲、修正など、ものを書くときの姿勢が16歳の森林太郎からもうかがえる」と話している。
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同展レポートはこちら。光太郎から鷗外宛書簡について考察しております。

続いて『毎日新聞』さんに月イチで連載の、和合亮一氏による「詩の橋を渡って」。氏が新刊の現代詩集を紹介するというコンセプトですが、光太郎を引き合いに出して下さっています。

野村喜和夫氏の『美しい人生』(港の人)と『シュルレアリスムへの旅』(水声社)、それから谷元益男氏の『越冬する馬』(思潮社)の三冊が取り上げられ、そのうち『越冬する馬』の評で、光太郎の名。

004 谷元益男の『越冬する馬』(思潮社)のタイトルに早くも次の季節の到来を。「老いた男は 何百匹ものサカナを/釣り上げただろう」。高村光太郎は詩を言葉の彫刻であると語ったが、研ぎ澄まされた筆先が心の中の風景や記憶を鮮明に彫り上げる。山や田に囲まれた土地で暮らしている人々の生き様が足し引きなく描かれている。「ダムは ゆらゆらと水を湛(たた)え/山深い色を映して/巨大な一枚の絵のように/静かに 男の前に立っていた」

和合氏、この連載では時折光太郎に触れて下さっています。ありがたし。

令和2年(2020)5月 令和2年(2020)7月 令和2年(2020)12月

最後は雑誌です。平成29年(2019)の朝ドラ「とと姉ちゃん」ヒロインのモデルとなった大橋鎭子が創刊した『暮しの手帖』2022年10-11月号
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元NHKアナウンサーの山根基世さんへのインタビュー「こころざしって何だろう?」中に、やはり光太郎。

 飾り立てた言葉でなくていい。心のこもった、正直な言葉。地に足のついた、人間の言葉を交わしたいと切実に思って。
 「インターネットでは、瞬間の反応でやりとりする言葉があぶくのように生まれていて、それに慣れると、ゆっくり、じっくりとものを考える時間がなくなっていく。思考力が弱っていくのを、私自身も感じています」
 そんななかで折々に思い出すのが、高村光太郎がある小学校に書いて贈った、「正直親切」という言葉だという。
 「若い頃はわからなかったけれど、最近は、人間にとって大切なことだと思うの。ある年齢になった高村光太郎が、本気で気がついて、小学生たちに『覚えておいてね』という気持ちをこめたのではないかしら。熟考された言葉は、短くて簡潔でも、打つ力があるわね」


「正直親切」は、花巻郊外旧太田村に蟄居中だった光太郎が、山小屋近くの山口小学校に校訓として贈った言葉です。残念ながら同校は廃校となりましたが、その跡地にその書を使ったモニュメントが残るほか、光太郎母校の荒川区立第一日暮里小学校さん、光太郎と交流のあった故・田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市の新宿小学校さんに、それぞれ同じ書を刻んだ石碑が設置されています。

記事では山根さんが力を入れられている朗読の勉強会についても触れられています。

それから、光太郎には触れられていませんでしたが、当会会友・渡辺えりさんが連載をお持ちで、これは存じませんでした。題して「あの時のわたし」。もう第23回だそうで。これまでの連載の中で、亡きお父さまと交流のあった光太郎に触れられているのかな、という気がしました。あるいはこれからかもしれません。今度お会いした時に訊いてみます。

というわけで、『暮しの手帖』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

筑摩書房より全集の印税3分の1くる、小切手(230,018円、)冷蔵庫の前借80,000円引らし、

昭和29年(1954)9月12日の日記より 光太郎72歳

全集」は『日本文学全集』第24巻「高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治集」。「冷蔵庫」についてはこちら。それにしても、当時の23万円というのは破格ですね。しかもそれで3分の1。それだけ売れたということなのでしょうが。確かにこの時期からあと、この手の文学全集ものは大流行していきます。

このところ、紹介すべき事項等が多く、2週間ほど前の報道ですが……。

長野県の地方紙、『信濃毎日新聞』さん。

小説「安曇野」を大河ドラマに 実現の道探る 安曇野市長が懇談

 安曇野市の太田寛市長は17日、同市出身の作家臼井吉見(1905~87年)の小説「安曇野」のNHK大河ドラマ化を目指し、小説にゆかりのある関係者らと市内で懇談した。小説に登場する彫刻家、荻原碌山(ろくざん)(守衛(もりえ))の作品を展示する碌山美術館の関係者や臼井の親族ら8人が出席。姉妹都市や県外のゆかりの地と連携したPR活動、教育現場への話題提供などの提案があった。
 小説は明治から昭和にかけて活躍した荻原や、新宿中村屋を創業した相馬愛蔵・黒光夫妻らの群像を描く。懇談会で、市の担当者が黒光を主人公とする案などを説明。出席者からは「戦争を含め、先達がどうやって時代をつくってきたのか伝えることは大切だ」といった意見が出た。
 市は今後、登場人物ゆかりの場所を紹介するパンフレットを作る方針。太田市長は「(関連施設の)来館者を増やす方策も進めたい」とした。
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同じ件で、松本平地区をカバーする『市民タイムス』さん。

『安曇野』大河ドラマに 安曇野市長と懇談の中村屋社長「市に協力」

 安曇野市堀金出身の臼井吉見(1905~1987)の小説『安曇野』を原作とした大河ドラマ実現を目指す太田寛市長は30日、最初の取り組みとして中村屋(東京都新宿区)の島田裕之社長らと都内で懇談した。中村屋を創業した相馬愛蔵(1870~1954)と黒光(1876~1955)の夫婦は『安曇野』の主要な登場人物で、島田社長は市に協力する考えを示した。
 新宿中村屋ビルでの懇談で、太田市長は「1、2年でできることではない。地道な活動を続けていきたい」と出席者に呼び掛けた。島田社長は「壮大なロマンのある話。可能な限りお手伝いさせていただければ」と応じた。
 中村屋側からは、愛蔵と黒光が夫婦で役割分担をしながら経営したことを踏まえて「女性の社会参画や経営参画といったアプローチができるのでは」といった提案があった。
 懇談には、愛蔵と黒光の長女をモデルに作品制作をした洋画家の中村彝(1887~1924)の記念館や新宿中村屋のロゴを手掛けた書家で洋画家の中村不折(1866~1943)に関係する博物館の担当者も出席して意見を交わした。
 『安曇野』は臼井が約10年かけて完結した原稿用紙約5600枚に及ぶ大作だ。市は安曇野のPRに加え、郷土愛を育むためにも大河ドラマ化を目指している。市は趣旨を書いたパンフレット作成などを検討している。太田市長は「実現には10年はかかる」と話した上で、「安曇野という言葉を広めたのは臼井吉見の『安曇野』だと思っている。皆さん協力していただけるということで力を得た」と先を見据えていた。
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小説『安曇野』は、現在の安曇野市出身の臼井吉見が、昭和40年(1965)から同49年(1974)にかけて刊行した全5巻の小説です。同郷で、新宿中村屋さんの創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻を軸に、明治30年代から戦後までを描く大河小説です。臼井は、光太郎が昭和21年(1946)から翌年にかけて執筆した連作詩「暗愚小伝」を、雑誌『展望』に掲載した編集者でもありました。

第二部では、相馬夫妻の援助を受けていた碌山荻原守衛も主要登場人物として描かれ、それに伴って守衛の親友だった光太郎も登場します。その他、太平洋画会での智恵子の師・中村不折や中村彝など、中村屋サロンに集まった芸術家たち、それから相馬夫妻は社会運動にも関わっていましたから、幸徳秋水、大杉栄・伊藤野枝夫妻ら、さらに戦時中の部分には臼井自身も登場します。

大河ドラマ化が実現すれば、必然的に光太郎も登場することとなるでしょうから、ありがたいかぎりです。ただし、ハードルは高いものと思われます。全国で似たような運動は少なからず起こっているでしょうから。

当方自宅兼事務所のある千葉県香取市でも、地元の偉人・伊能忠敬を主人公にした大河ドラマを、という気運が盛り上がったことがあります。結局、尻すぼみになってしまいましたが、逆にそれを題材にした映画「大河への道」が中井貴一さん主演で制作され、今年、公開されて話題になりました。

その反面、追い風も吹いているかなという気もします。かつての大河ドラマでは、近現代物はほとんど作られませんでしたが、近年は「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」「青天を衝け」など、近現代を扱った作品も数年おきに作られるようになってきましたので。

テレビついでにもう1件、放映情報です。

土曜スペシャル 千原ジュニアのタクシー乗り継ぎ旅12 秋田〜青森・世界遺産

地上波テレビ東京 2022年11月5日(土) 18:30~20:54

番組史上最長270km旅!秋田&青森縦断!田沢湖・十和田湖を巡りめざすは世界遺産!千原ジュニアと俳優・勝村政信が立ちはだかる奥羽山脈と八甲田山に挑む!ゴールなるか?

「すみません、タクシーを呼んでもらえませんか?」
千原ジュニアがゲストの俳優勝村政信さんとタクシーを乗り継いで秋田県の大仙市から青森県の三内丸山遺跡を目指す!今回のチェックポイントは…▼秋田県「田沢湖畔の御座石神社」▼青森県「十和田湖畔の十和田神社」を巡りゴールを目指します! 道中には魅力あふれる立ち寄りスポットも!

秋田名物・稲庭うどんに比内地鶏の焼き鳥、十和田名物ヒメマス料理など紅葉の季節に巡りたいグルメも!旅気分を満喫も、やはり予測不能な「タクシー乗り継ぎ旅」は今回も「お名前ボーナス」「お言葉チャレンジ」に翻弄され一喜一憂! 秋田・青森の温かい人たちに助けられ、果たして秋の東北を巡りながら制限時間までにゴールすることができるのか!?

出演者 千原ジュニア 勝村政信
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光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、青森十和田湖、しかも「乙女の像」すぐ近くの十和田神社さんがチェックポイントの一つ。

一昨年の同じ番組で、ジュニアさんとゲストの古舘伊知郎さんが青森県深浦町から八戸市の葦毛崎までを旅されました。その際には秋田の小坂町から十和田湖畔を通って太平洋側に抜けて行かれたのですが、十和田湖はほぼスルー(笑)。今回はどうなりますことやら。

ぜひご覧下さい……とも言えないところですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

又ヒドラジツドをのみ始める、


昭和29年(1954)9月11日の日記より 光太郎72歳

ヒドラジツド」は、イソニコチン酸ヒドラジッド。抗結核薬の一つで、この2年ほど前から一般に処方されるようになりました。翌年くらいには、ヒドラジッド、ストレプトマイシン、パスの3剤を併用することで結核の死亡率を劇的に下げる手法が用いられるようになりましたが、光太郎に対しては既に時遅しだったようです。

ちなみに当方も、肺を冒されるには至りませんでしたが、幼少時、結核の強陽性で、ヒドラジッドを服用し続けていた時期がありました。

ゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画、現在、光太郎がらみでは花巻市で「宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー」が10月30日(日)まで開催されています。Twitterの投稿などでは、若い方々が花巻高村光太郎記念館さんを訪れ、「いいところだ」的なつぶやきをなさっていて、ありがたく存じます。

来月からは福岡で、光太郎の朋友・北原白秋がメインですが。

北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~

期 日 : 2022年11月1日(火)~2023年3月31日(木)
会 場 : 北原白秋生家・記念館 福岡県柳川市沖端町55-1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 12月29日(木)~2023年1月3日(火)
料 金 : 大人 600円 高・大生 450円 小・中生 250円

北原白秋生家・記念館では、柳河出身の詩人・北原白秋没後80年を記念して、DMM GAMESより配信中のオンラインゲーム『文豪とアルケミスト』とタイアップした企画展を開催いたします。本展時では白秋の青春時代にスポットを当て、白秋を中心とした文士や芸術家たちが芸術と自由と享楽の権利を謳歌した文藝運動や交流などを①新詩社『明星』時代、②「パンの会」時代、③「朱欒」時代と3つの時代に分けて紹介。また、今回初公開となる「室生犀星宛白秋書簡2通」や、白秋を取り巻く若き文士たちのキャラクターパネルの展示、グッズの販売も併せておこないます。

期間中、来館者限定オリジナル栞(非売品)を差し上げます。※なくなり次第終了いたします。

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「白秋を取り巻く若き文士たち」が、萩原朔太郎、室生犀星、吉井勇、そして我らが光太郎。

朔太郎といえば、全国52カ所の文学館や美術館、大学等で共催の「萩原朔太郎大全2022」が開催中ですが、こちらの企画はそれには含まれていません。しかし、「同時開催」として「特別展示 白秋と朔太郎の世界~朱欒から朱欒へ」も行われるそうです。こちらは来年1月10日(火)までです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

花巻の菅原女史玄関まで、豆銀糖をもらふ、

昭和29年(1954)8月8日の日記より 光太郎72歳

「菅原女史」は光太郎が終戦後、昭和27年(1952)まで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で小学校教諭をしていた女性です。

「豆銀糖」は岩手の銘菓。といっても高級なものではなく、大豆と水飴、きな粉を使った庶民的なお菓子です。光太郎は昭和24年(1949)のラジオ放送用の対談で、豆銀糖と南部煎餅を激賞していました。

昨日は都内に出、文京区立森鷗外記念館さんの特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」に行っておりました。8月にご紹介した、新発見の鷗外直筆稿、鷗外に宛てた光太郎を含む諸家の書簡の一部が展示されているということで、拝見に伺った次第です。

東京メトロ千代田線の千駄木駅で下車、団子坂を上がりきると同館ですが、一旦通り過ぎ、そのまま歩きました。本郷通りにぶつかって左折すると、当会顧問であらせられ、晩年の光太郎に親炙された故・北川太一先生の菩提寺である浄心寺さんがあります。
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浄心寺さんには4月の連翹忌の日にも伺いましたが、その後、8月に奥様の節子様(やはり生前の光太郎をご存じでした)がお亡くなりになったので、墓参させていただきました。墓石側面には、北川先生と奥様の名が並んで刻まれ、それを見て改めてもうお二人ともこの世にいらっしゃらないのだなぁと、しみじみさせられました。

さて、改めて鷗外記念館さんで展示を拝見しました。
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光太郎から鷗外宛の書簡、一昨日に図録の一部をtwitterでご紹介されていた方がいらっしゃり、そういう関係というのは存じていましたが、実際に全文を読んで驚きました。「軍服着せれば鷗外だ事件」に関する長いものだったからです。

大正6年(1917)、光太郎数えで35歳、鷗外は同じく56歳。光太郎がかつて美校生時代の恩師であり文壇の重鎮だった鷗外をこき下ろしたというのです。後に昭和になってから光太郎が川路柳虹との対談で、詳細を語っています。

川路 いつか高村さんが先生のことを皮肉つて「立ちん坊にサーベルをさせばみんな森鷗外になる」といつたといふので、とてもおこつて居られたことがありましたなあ。(笑声)
高村 いやあれは僕がしやべつたのでも書いたのでもないんですよ。
川路 僕も先生に、まさか高村さんが……と言ふと、先生は「いや、わしは雑誌に書いてあるのをたしかに見た」とそれは大変な権幕でしたよ。(笑声)
高村 あとで僕もその記事を見ましてね、あれは「新潮」か何かのゴシツプ欄でしたよ。或は僕のことだから酔つぱらつた序に、先生の事をカルカチユアルにしやべつたかも知れない。それを聞いてゐる連中が(多分中村武羅夫さんぢやないかと思ふんだが)あんなゴシツプにしちやつたんでせう。それで先生には手紙であやまつたり、御宅へあがつて弁解したりしたのですが、何しろ先生のあの調子で「いや君はかねてわしに対して文句があるのぢやらう」といふわけでしかりつけられました。(笑)

立ちん坊」は、急な坂の下で重そうな荷車を待ちかまえ、押してやってお金をもらう商売。まぁ、まっとうな職業ではないという例です。他にも最晩年の高見順との対談でも、同様の発言をしています。

この中の「手紙であやまったり」の「手紙」が、新たに発見され、展示されているのです。

同展図録に画像と全文が引用されています。ぜひ足をお運びの上、実物をご覧になったうえでこちらもお買い求め下さい。
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書簡は便箋に2枚、びっちりと、これこれこういうことを自分が言っていると噂が立っているようだが、それはまったくのデタラメだし、自分は鷗外先生を心から敬愛しているので、そんなことを考えたこともありません、といった、まさに平身低頭(笑)。これが大正6年(1917)の10月7日付けでした。

噂が立っている、というのは、10月1日発行と奥付にある雑誌『帝国文学』に載った鷗外の「観潮楼閑話」というエッセイ中の次の一節によります。

高村光太郎君がいつか「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」と書いたことがあるやうだ。簡単で明白で痛快を極めてゐる。

今回の光太郎書簡の中に、「今度出た『帝国文学』にこんなことが書かれているぞ」と、劇作家の小山内薫が教えてくれ、早速取り寄せて読んだとありました。「げっ!」と思った光太郎、急ぎ鷗外に弁明の手紙を送ったのでしょう。

これに対し、翌日の10月8日付で鷗外は以下の返信を送りました。

御書状拝見仕候 帝国文学談話中ノ貴君ノ言ハイツドコデ見タカ知ラズ候ヘ共アマリ奇抜ニ面白ク覚エシユヱ記憶シ居リフト口上ニ上シモノニ有之候 ソレ以上御書中御示被下候貴君ノ心事ニ付テハ長クノミナリテ詳悉シ難ク面談ナラバ小生ノ意中モ申上グルヿ(こと)出来可申カト存候 シカシ貴君ニ於テハ御聞ナサレ候モ無益ト御考へナサレ候哉モ不知候 果シテ然ラバソレマデノ事ニ可有之候 万一御聞被下候トナラバイツデモ可申上候 丁巳十月八日 森林太郎 高村光太郎様

漢文調で若干わかりにくいかと存じますが、先述の北川太一先生、『観潮楼の一夜-鷗外と光太郎-』(平成21年=2009 北斗会出版部)中で、一言で要約されています。「いつでも会って話は聞くよ、君が聞いても仕方がないというのならそれはそれまでだけど」。ナイスな翻訳です(笑)。

この手紙を受け取った光太郎、自宅兼アトリエから彼我の距離にあった鷗外邸(観潮楼、現在、記念館の建つ場所)に走りました(たぶん(笑))。
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そして手紙にしたためたのと同様の弁明をしたようです。その件は翌年1月の「観潮楼閑話」に載りました。

 閑話は今一つ奇なる事件を生じた。それは高村光太郎さんが閑話中に引かれたことを人に聞いてわたくしに書をよせた事である。閑話に引いた高村光太郎氏の語は自ら記したものではなく、多分新聞記者の聞書などであつただらうと云ふことである。高村さんは又書中自分とわたくしとの間に多少の誤解があるらしく思ふと云ふ事をわたくしに告げたのである。わたくしは高村氏に答へて、何時にても面会して、こちらの思ふところを告げようと云つた。とうとうわたくしは一夜高村氏を引見して語つた。高村氏は初対面の人ではない。只今久しく打絶えてゐただけの事である。
 高村氏はかう云ふ。自分は君を先輩として尊敬してゐる。唯君と自分とは芸術上行道を異にしてゐるだけだと云ふ。わたくしは答へた。果して芸術上行道を異にしてゐるなら、よしや先輩と云ふとも、それがよそよそしい関係になるであらう。わたくしの思ふには、君とわたくしとは行道を異にしてはをらぬやうである。
(略)
 高村氏は私の言を聞いてこれに反対すべきものをも見出さなかつた。そして高村氏とわたくしとの間には、将来に於て接近し得べき端緒が開かれた。是は帝国文学が閑話を采録してくれた賜である。

どうやらこれで一件落着(笑)。

それにしても、今回の光太郎書簡には笑いました。これまで確認出来ていた光太郎から鷗外宛書簡5通は、どれも葉書一枚の簡略なもの、中には偉そうに「森林太郎殿」と表書きにしたためたものさえあったのに、一転してへいこらしている内容だったためです。

一つ残念だったのは、亡くなった北川太一先生に、この書状をご覧になっていただきたかったということ。先述の『観潮楼の一夜-鷗外と光太郎-』中に次の一節があります。

釈明の手紙がただちに認(したた)められ、その手紙は現存しませんが、鷗外はこれもまたすぐ光太郎に、私なんかが見ると実に愛情深い返事を出していて、光太郎はその返事をもらった翌日に、すぐここ観潮楼を訪ねるのです。

その手紙が現存したわけですから。

ところで、『観潮楼の一夜-鷗外と光太郎-』刊行の際に、北川先生から、全ての原因となった「「新潮」か何かのゴシツプ欄」の記事を探せ、という宿題を出されましたが、果たせませんでしたし、その後も見つかっていません。今度はそれを見つけて先生の墓前に報告させていただきたいものです。

さて、特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」。他にも夏目漱石、夏目鏡子(漱石の妻)、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、坪内逍遙、高浜虚子、中村不折、藤島武二、永井荷風ら、錚々たるメンバーから鷗外宛の新発見書簡等が出ています。また、これも新発見の鷗外直筆原稿の数々も。ぜひ足をお運び下さい。

展示を拝見後、関連行事的に行われました「朗読会 北原久仁香さんが「高瀬舟」をよむ」を拝聴しました。
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北原さんは、昨年、同館と光太郎旧居址の中間にある旧安田楠雄邸で開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、朗読をないました(講話は当方が担当させていただきました)。

驚いたことに、「朗読」といいつつ、それなりに長い「高瀬舟」を、暗誦なさったこと。素晴らしい!

同展、来年1月29日(土)と長い会期ですし、今後も関連行事が続きます。また、近くの旧安田楠雄邸では、過日もご紹介しましたが、「となりの髙村さん展 第3弾「髙村光雲の仕事場」」も予定されています(11月2日(水)~11月6日(日))。あわせてぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后日活の人くる、智恵子抄映画化のこと、断る、音楽映画の人四人くる、八田氏、早川氏其他、映画化のこと、断る、


昭和29年(1954)8月5日の日記より 光太郎72歳

『智恵子抄』の映画化。実現したのは光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)、熊谷久虎監督、原節子さん、山村聰さん主演による東宝映画でしたが、光太郎生前から映画化の話はたびたびありました。

この日の「日活」と「音楽映画」はそれぞれ別口で依頼に訪れています。「音楽映画」は新東宝で、前月末にも光太郎の許を訪れていました。いずれも実現しませんでしたが。

昨日は北鎌倉にある、光太郎ご親族経営のカフェ兼ギャラリー・笛さんにお邪魔しておりました。こちらでご所蔵の資料等を展示する「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その9」が開催中、さらに昨日は関連イベントとしての朗読会がありまして。
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こちらに伺う時は、たいがい自家用車なのですが、駐車スペースはぎりぎり一台分しかなく、昨日はイベントで人が多いだろうと予想し、電車で参りました。

北鎌倉駅から徒歩10数分。明月院さんの裏手です。
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途中には、鎌倉時代のものと思われる「やぐら」(横穴墓)も。あまり観光客も訪れない一角ですので、閑静な感じです。
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昨日は若干蒸し暑く、結構長い坂を歩いて上って汗だくになってしまい、まずはアイスコーヒーを美味しく頂きました。

その後、展示を拝見。こちらに伝わる光太郎関係の品々と、すぐ近くにお住まいの尾崎喜八(光太郎と交流の深かった詩人)令孫のお宅のものと、所狭しと並んでいます。
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ほぼ毎年出して下さっていますが、目玉は光太郎ブロンズの「聖母子像」。
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ミケランジェロ作品の模刻で、大正13年(1924)、尾崎の結婚祝いに光太郎が贈ったもの。石膏原型は既に失われ、鋳造されたものもこれ1点しか確認できていません。尾崎は光太郎の親友だった水野葉舟の娘・實子と結婚しました。像の背後の写真は、昭和61年(1986)の写真週刊誌『FOCUS』でこの像が紹介された際の實子です。

尾崎がこの像と共に写っている写真もありました。こちらは当方、初見でした。
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その他の展示。
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駒込林町の光太郎アトリエ兼住居で。後の白いブルーズ姿が光太郎、前列左から尾崎夫妻の長女の故・榮子さん、尾崎、そして實子。当方、榮子さんとは笛さんと、連翹忌の集いの会場とでお会いしましたが、まだ健康だった頃の智恵子に抱っこしてもらったお話などをお聞かせいただきました。

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複製ではない光太郎直筆や、生写真なども。
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福島二本松の智恵子実家・長沼酒造の銘酒の名「花霞」を受け継ぐ地酒(その辺の権利関係、どうなっているのかよく分からないのですが)。のちほど、朗読会のあとにご参集の皆さんに饗されました。

さて、午後3時。この場で朗読会です。
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はじめにおしどり夫婦の店主御夫妻のごあいさつ。奥様は光太郎のすぐ下の妹・しづの令孫にあたられ、お祖母様の思い出等も語られて、興味深く拝聴いたしました。

朗読は、主にお近くにお住まいの常連客的な皆さんだったのでしょう、店主御夫妻を含め、9人の方が光太郎、尾崎の詩を朗読なさいました。最高齢の方は何と、おん年91歳だそうで。

尾崎令孫の石黒敦彦氏(サイエンス・アート研究者)も。
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おおむね1時間弱で終わり、その後、参会の皆さんとしばし歓談させていただきました。また、石黒氏から、杉並区で開催される尾崎喜八展的なものへの協力要請。そんなこんなで夕刻となり、鎌倉をあとにしました。

朗読会は今回初めての試みということでしたが、来年以降も継続してやっていこう、ということだそうです。今回いらっしゃれなかった方、来年以降、ぜひどうぞ。また、展示の方は11月8日(火)までの火・金・土・日曜日にご覧いただけます。こちらもぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃牛越さん七尺像を運送し来る、支払スル、2500運送、1000別に


昭和29年(1954)7月5日の日記より 光太郎72歳

七尺像」は、前年に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型です。現在は東京藝術大学さんに寄贈されていますが、光太郎の手元にあったのですね。

「牛越さん」は牛越誠夫。石膏取り職人で、伝説の道具鍛冶・千代鶴是秀の娘婿です。

新刊というか、ニューリリースというか、CDブックです。

心とカラダを整える おとなのための1分音読CDブック

2022年10月11日 自由国民社 定価1,800円+税

 おうち時間が増え、人との会話や声を出す時間が減ってしまった、という方も多いのではないでしょうか。
 文章を声に出して読む「音読」は、「気持ちが落ち着く」「やる気が出る」「ストレスが解消し、抵抗力がアップする」「脳が活性化する」「誤嚥性肺炎の予防に役立つ」といった健康効果があるといわれています。
 累計28万部突破の1分音読シリーズが「CD付ブック」になって登場!声の出演は平田満さん&宮崎美子さん。
 累計28万部突破の「おとなのための1分音読」シリーズは、おなじみの名作の中から1分程度で音読できる名文を多数収録。
 本作では、俳優の平田満さん、宮崎美子さんが音読するCDと冊子がセットになって発売されます。「手袋を買いに」「走れメロス」「ごんぎつね」ほか、気軽に楽しく読める44作品を収録しています。
 CDを真似して読んでみるのもよし、自分なりに工夫して読むのもよし。毎日の健康のために、音読を習慣にしてみませんか?

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CDには、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)の朗読も含まれています。

担当されているのは俳優の平田満さん。
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平田さんと言えば、平成29年(2017)にWOWOWプライムさんで放映された「連続ドラマW 宮沢賢治の食卓」で、賢治の父にして、戦禍に遭った光太郎を花巻の自邸に疎開させてくれた政次郎役を好演なさっていました。

その賢治の代表作の一つであり、没後、光太郎が石碑の碑文を揮毫した「雨ニモマケズ」も、宮崎美子さんの朗読で収録されています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃モデルさん玄関まで、結婚せし由、品川の方にゐるとの事、


昭和29年(1954)7月4日の日記より 光太郎72歳

「モデルさん」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のモデルを務めた藤井照子。「プール・ヴーモデル紹介所」(現在も存続しています)に所属していましたが、結婚を機にモデル業はやめたようです。
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まだご存命なのかも知れませんが、その後の消息が分かりません。情報をお持ちの方はコメント欄等から御教示いただけると幸いです。

光太郎旧居址にほど近い、文京区千駄木は団子坂上の区立森鷗外記念館さんでの企画展示です。8月にご紹介した、新発見の鷗外直筆稿、鷗外に宛てた光太郎を含む諸家の書簡の一部が展示されます。

特別展 鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡

期 日 : 2022年10月22日(土)~2023年1月29日(土)
会 場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 10月25日(火) 11月22日(火) 12月27日(火)~1月4日(水)
      1月23日(月) 24日(火)
料 金 : 一般600円(20名以上の団体:480円) 中学生以下無料

  文学、美術、演劇…森鴎外(1862~1922)は、陸軍軍医をつとめながら学芸においてジャンルを超えて活躍した知の巨人です。
 文京区立森鴎外記念館(2012~)では、前身の鴎外記念本郷図書館、本郷図書館鴎外記念室と受け継いできた、原稿や書簡、愛用品、初版本など文学的にも歴史的にも貴重な“鴎外遺産”を収集・保存してきました。
 開館10周年を迎えた本年、鴎外文学最高峰とも称される『渋江抽斎(その四十九、その五十)』の直筆原稿が“鴎外遺産”に加わりました。本展では、この『渋江抽斎』をはじめとする貴重な鴎外直筆原稿を紹介するとともに、近年発見され、森鴎外記念館(津和野)に寄託された鴎外宛書簡の一部を初公開いたします。
 直筆原稿には推敲の跡も残り、出版された作品からは知り得ない創作過程を見ることができ、執筆時の鴎外を目撃しているような感動につつまれます。鴎外宛書簡では、夏目漱石、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、高村光太郎など文学や美術などの分野で活躍した著名人の書簡を紹介します。各人の筆跡や文面からは、その人となりや鴎外との関係性が読み取れ、思いがけず親近感が湧いてきます。
 書き癖や文字の勢いなど手書きだからこそ視覚に訴える心情や、活字では見ることができない躍動――直筆資料が伝える心の軌跡をぜひご体感ください。
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関連行事等

「森鴎外~ゆかりの地文学フォーラム」
 基調講演:須田喜代次氏(大妻女子大学名誉教授、森鴎外記念会副会長)
 鼎談:須田喜代次氏、今川英子氏(北九州市立文学館館長)、
    山崎一穎氏(森鴎外記念館(津和野)館長、跡見学園女子大学名誉教授)
 日時:11月26日(土)14時~16時
 会場:文京シビックセンター26階 スカイホール
 定員:90名(事前申込制、応募者多数の場合は抽選)
 料金:無料(参加票が必要)

「渋江抽斎の魅力~直筆原稿と作品と」
 講師:山崎一穎氏(森鴎外記念館(津和野)館長、跡見学園女子大学名誉教授)
 日時:12月18日(日)14時~15時30分
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室
 定員:30名(事前申込制、応募者多数の場合は抽選)
 料金:(参加票と本展の観覧券(半券可)が必要)003

朗読会 北原久仁香さんが「高瀬舟」をよむ
 朗読:北原久仁香氏
 日時:10月23日(日) 14:00~15:30
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室
 定員:30名(定員を超えた場合は抽選)
 参加費用:1000円

最後の朗読会のみ申込期限を過ぎており、満席だそうです。当方も申し込みまして、当選しましました。すみません(笑)。昨年、同館と光太郎旧居址の中間にある旧安田楠雄邸で開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、朗読をなさった北原久仁香さんがご出演なさいます。余談ですが、「語りと講話……」の講話は当方が担当させていただきました。

ちなみに旧安田楠雄邸では、来月初めから写真展「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」が開催されます。もう少し近くなりましたら詳細をご紹介します。

展示の話に戻りますが、光太郎からの書簡、非常に気になっております。これまでに鷗外に宛てた光太郎書簡は5通しか確認出来ておらず、どれも簡略なものでした。『高村光太郎全集』に収録されているものは4通、明治42年(1909)とその翌年のものです。すべて鷗外が自宅(現在、記念館のある場所)で主宰していた観潮楼歌会への欠席連絡。どうも意図的に逃げ回っていたようです(笑)。光太郎、東京美術学校時代に同校非常勤講師だった鷗外の講義を受けましたが、その権威的な授業態度に親しめず、その後も敬して遠ざける感じでした。また、鷗外の陰口をたたき、それを知った鷗外に呼び出されてネチネチと叱責されたことも(笑)。

もう1通は島根の森鷗外記念館さん所蔵のもので、明治44年(1911)の年賀状。「賀正」一言と「光」のサインのみです。同一の意匠の年賀状は、この年、方々に出されたようで、その後、続々見つかりました。左上が鷗外宛、右上は木下杢太郎宛、左下で佐々木喜善(柳田国男に『遠野物語』の元ネタを提供した人物)。
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右下は、川崎安宛。『高村光太郎全集』では大正4年(1915)となっていますが、全く同じデザインなので、これもおそらく明治44年(1911)でしょう。全集編集に当たられた当会顧問であらせられた故・北川太一先生、多分、消印から年代を判断されたのでしょうが、その消印が不鮮明だったのだと思われます。

最初は木版かと思ったのですが、そうではなく「籠書き」という白黒反転の特殊な筆法で書いたものですね。光太郎、この技を得意とし、与謝野夫妻の新詩社歌会で短冊に短歌をしたためる際や、自著の題字などにも使いました。

ところで、この年賀状、表の宛名は「森林太郎殿」。普通、目下から上の者に「殿」は使いませんね。また、歌会への欠席連絡の葉書に書かれた宛名にも「森林太郎様侍史」となっているものがあり、何だかなぁという感じです。「侍史」は秘書やお付きの人のことで、「身分の高い人に直接手紙を出すのは失礼なので、秘書やお付きの方にお渡しする」という意味になります。「直接出してるだろ」と突っ込みたくなります(笑)。また、「森林太郎先生」となっているものも、文字通りの「先生」ではなく、軽薄に「センセ」のように感じるのは考えすぎでしょうか。

こんな感じですので、今回見つかった書簡、どういう内容、表書きなのか、非常に興味深いところです。

閑話休題。鷗外記念館さん特別展、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜七時過ブリツヂストンより映画班くる、映画映写、


昭和29年(1954)7月3日の日記より 光太郎72歳

映画」はブリヂストン美術館制作の「美術映画 高村光太郎」。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作風景や、前年に花巻郊外旧太田村へ一時的に帰った光太郎を撮ったものです。他に彫刻作品の映像をまじえ、光太郎の生涯を紹介しています。
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結核が進行し、外出もままならなくなりつつあった光太郎のため、終の棲家となった貸しアトリエで、光太郎一人のために上映会が行われたというわけです。

昨日は千葉県市川市の市川市文学ミュージアムさんに行っておりました。自宅兼事務所からは、同じ千葉県内ですので車で1時間弱。
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こちらでは以下の企画展が開催中です。

月に吠えらんねえ展<ようこそ!おもひ まぼろし ことだまの街へ>

期 日 : 2022年10月8日(土)~12月11日(日)
会 場 : 市川市文学ミュージアム 千葉県市川市鬼高1丁目1番4号
時 間 : 平日 10:00~19:30 土日祝 10:00~18:00
休 館 : 月曜日 10月28日(金) 11月30日(水)
料 金 : 一般 500(400)円 65歳以上 400(300)円 高大生 250(200)円
      中学生以下無料 ( )内は25名以上の団体料金

『月に吠えらんねえ』は□(詩歌句)街で暮らす主人公【朔くん】をはじめ、近代日本の様々な文学作品から造形された人物たちが織りなす、人間模様の機微や狂気、幻想が混じり合う世界を描いた作品です。本展では、登場人物に関する作品やエピソード、萩原朔太郎と文士の交流にスポットをあててご紹介いたします。また、市川市ゆかりの文士の作品からイメージされたキャラクターたちが登場する清家雪子氏による描き下ろし漫画も展示いたします。
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「月に吠えらんねえ」は、平成25年(2013)、講談社さんの『月刊アフタヌーン』で連載が始まった清家雪子さんの漫画。単行本化され、令和元年(2019)に完結しました。

近代の文豪たちの作品からイメージされたキャラクターを登場人物とし(文豪たちそのものというわけではなく)、不思議な世界観で彩られています。主人公は萩原朔太郎由来の「朔」ですが、光太郎作品から擬人化された「コタローくん」、コタローくんが作ったロボットの「チエコさん」が第1巻から登場します。
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さらに第4巻では、コタローくんの回想として、生前の「チエコさん」も登場します。

さて、今回の展示。「月に吠えらんねえ」のキャラクターのうち、主人公の「朔」の元となった萩原朔太郎以外にも、市川市に在住したことがある文豪から創出された登場人物、その元となった4人の文豪を大きく取り上げています。「白さん」で北原白秋、「ぐうるさん」の草野心平(当会の祖)、「ヨッシー」は吉井勇、「カフー先生」が永井荷風。くどいようですが、文豪たちそのものというわけではなく、彼らの作品からイメージされたキャラクターということですが。

で、元になった文豪たちの資料が多数。
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その他、室生犀星、与謝野晶子、芥川龍之介、若山牧水なども。その合間合間に、光太郎の名が各種キャプション等に。光太郎が装幀・序文を担った書籍が展示されていたり、光太郎も写っている写真がパネルになったりもしていました。朔太郎年譜の最後にも「1942(昭和17) 5月11日 肺炎のため死去(享年55) 犀星・高村光太郎・谷崎潤一郎らに見送られる」との記述(光太郎、死に目に会ったわけではありませんが)。さらに「月に吠えらんねえ」の漫画そのものがパネルに拡大して展示されていましたが、その中にも「コタローくん」や「チエコさん」の姿。

こちらは図録(500円也)。同展監修の栗原飛宇馬氏らの考察が「鋭い」と思いました。
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今回の展示のために書き下ろされたスピンオフ「イチカワで吠えらんねえ」も掲載されています(会場内にもパネルで展示)。「朔」以外に上記の市川市に在住したことのある文豪由来のキャラクターたちのイチカワ散策記的な。残念ながらこちらには「コタローくん」と「チエコさん」は登場しませんが。

上記フライヤーとは別の、年間予定、開館カレンダーを兼ねたフライヤー。
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ここだけ写真撮影可の、企画展示室入り口。
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ミュージアムショップでゲットした缶バッヂ。「チエコさん」もいます(笑)。
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ところで、今回の展示、全国52カ所の文学館や美術館、大学等で共催の「萩原朔太郎大全2022」の一環です。

過日、お世話になっておるいわき市立草野心平記念文学館さんから、やはり「萩原朔太郎大全2022」参加の企画展「詩の岬」の招待状、ポスター、フライヤーが届きました。同館のような個人を顕彰する文学館では、その文豪と朔太郎との交流など、市川市文学ミュージアムさんのようなところでは、その地域と朔太郎とのからみといった切り口で、また他にも色々なアイディアで企画されているようです。「月に吠えらんねえ」にスポットを当てているのは市川のみのようですが。うらやましいかぎりです。ぜひ「高村光太郎大全」も企画していただきたいと存じます。

さて、それぞれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

神田の関院長さんくる、ストレプトマイシンの注射第1回、尻の筋肉注射、


昭和29年(1954)6月6日の日記より 光太郎72歳

戦前には不治の死病に近かった結核も、戦後には抗生物質の普及でその脅威は減退しました。ほぼ同時に罹患した智恵子が早々に亡くなったのに対し、光太郎がその後も生きながらえたのは、光太郎自身が頑健だったこともあるでしょうが、薬学の進展が大きかったように思われます。














詩人の新藤凉子氏が亡くなりました。

「時事通信」さん。

詩人の新藤凉子さん死去003

 新藤凉子さん(しんどう・りょうこ=詩人、詩誌「歴程」編集発行人、本名古屋涼子=ふるや・りょうこ)7日、間質性肺炎のため死去、90歳。鹿児島県出身。葬儀は家族で行った。歴程が後日、お別れの会を開く。喪主は長女美可(みか)さん。
 衣装研究室や文壇バー経営を経て「歴程」に参加。詩集「薔薇ふみ」で高見順賞。「連詩 悪母島の魔術師」(河津聖恵さん、三角みづ紀さんとの共著)で藤村記念歴程賞を受賞。日本現代詩人会の会長も務めた。

『読売新聞』さん。

「歴程」編集発行人で詩人の新藤凉子さん死去、90歳…詩集「薔薇ふみ」で高見順賞000

 詩誌「歴程」編集発行人で日本現代詩人会元会長の詩人・新藤凉子(しんどう・りょうこ、本名・古屋涼子=ふるや・りょうこ)さんが7日、間質性肺炎で死去した。90歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は長女、美可さん。
 鹿児島県生まれ。歴程の編集発行人を務めた。詩集「薔薇(ばら)ふみ」で高見順賞、詩集「薔薇色のカモメ」で丸山薫賞、河津聖恵、三角みづ紀さんとの連詩集「連詩 悪母島の魔術師」で藤村記念歴程賞を受賞した。

新藤氏、記事に有る通り、詩誌『歴程』の編集権発行人を務められていました。同誌は当会の祖・草野心平が創刊し、光太郎や宮沢賢治なども同人に名を連ねていたものです。

その『歴程』、心平追悼号(平成2年=1990)に氏が寄せられた「心平さんの思い出」から。

 心平さんは歴程を大切にされたが、歴程とは、そもそも何であったのだろうか。私にとっては、青春、そのものであったような気がする。昭和三十七年から今日まで、思えば肉親と同居するよりも、その付き合いは長い。それは偏に、心平さんの自在な人柄によるものだったと、今にしてつくづく思う。
 「伝統だよ、伝統……」と、歴程がいつまでも続くことを念願としておられたが、何よりも「先生」と呼ばれることを嫌われた。「若い人の方が未来がたくさんあるのだから、僕は若い人が先生だと思うよ」とのことである。誰もがシンペイさんと、親しみを込めてお呼びするのが、習わしだった。


当方、心平を祀る福島県川内村での「天山祭り」の際に、何度かお会いしました。氏は『歴程』を受け継がれたお立場でのスピーチや、心平作品の朗読等をなさいました。

『歴程』といえば、今朝の『朝日新聞』さんには、やはり一時『歴程』に依られた安水稔和氏の訃報も出ており、「えー」と言う感じでした。新藤氏と二日連続でしたし。

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 安水稔和さん(やすみず・としかず=詩人、元神戸松蔭女子学院大教授)8月16日に死去、90歳。葬儀は近親者で営んだ。
 神戸市生まれ。「歴程」同人などをへて、84年に詩誌「火曜日」を創刊(15年終刊)。89年、詩集「記憶めくり」で地球賞。95年の阪神・淡路大震災で自宅が半壊し、1週間後に詩「神戸 五十年目の戦争」を書いた。以降、震災について積極的に執筆し続け、詩集「生きているということ」は99年に晩翠賞を受けた。詩集「椿崎や見なんとて」で01年に詩歌文学館賞、詩集「蟹場まで」などで05年に藤村記念歴程賞。

謹んでご冥福をお祈り申し上げますと同時に、今後の『歴程』さん、心平や光太郎、賢治などから連綿と続くDNAを絶やさぬよう、そしてますますのご発展を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

午后草野心平、佐野英夫氏くる、一緒に神田の病院にゆき関先生に見てもらふ、レントゲン検査、心臓肥大ある由、


昭和29年(1954)5月26日の日記より 光太郎72歳

めっきり衰えた光太郎を案じ、心平と、新潮社の編集者・佐野英夫が、神田の出版健康保険組合診療所に光太郎を連れて行きました。「関先生」は関覚二郎。同所勤務の医師で、これ以前に美術史家の奥平英雄が光太郎に紹介した岡本圭三医師らと共に、いわば「チーム光太郎」として診療に当たりました。

新刊です。

平櫛田中回顧談

2022年9月10日 平櫛田中著 聞き手:本間正義 小平市平櫛田中彫刻美術館編
中央公論新社刊 定価2,200円+税


自らの来し方を語った貴重な聞き書き記録。魅力溢れる自伝・芸談であるのみならず、交流した芸術家や芸術界に関する貴重な証言満載。平櫛田中作品の気韻生動、神韻縹渺の秘密が明かされる。
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目次
 刊行にあたって 平櫛弘子002
 1 生いたち
 2 大阪と中谷一家
 3 奈良と森川杜園
 4 東京に出る
 5 禾山和尚
 6 長安時の生活
 7 茶屋町の生活
 8 米原雲海と山崎朝雲
 9 岡倉天心と日本彫刻会
 10 岡倉天心の思い出
 11 日本美術院の再興
 12 上野桜木町の家とその頃の諸作
 13 二児を失う
 14 色々の天心像
 15 素材と用具と伝統技法の復活
 16 帝展参加と“霊亀随”
 17 肖像彫刻
 18 鏡獅子の制作
 19 六代目の手紙
 20 第二次鏡獅子の制作と弟子達
 21 美術学校に勤めた頃
 解説
掲載作品一覧
年譜

光太郎の父・光雲の高弟の一人である彫刻家・平櫛田中の回顧談です。

当方、てっきり過去に刊行されていたものの復刊と思いこんでいましたが、さにあらず。諸般の事情でお蔵入りとなっていたものが、平櫛の生誕150年記念として、初めて公刊されたのものでした。

平櫛は明治5年(1872)岡山県後月郡西江原村(現・井原市)の生まれ。光雲に師事する前、臨時教員や商家の店員なども務め、その後、大阪の人形師・中谷省古の元で彫刻の基礎を学んだ上で上京し、光雲門下に入りました。そのため、生粋の門人とは異なり「雲」の字を号に入れていません。

内容的には、岡山での幼少時代の話にはじまり、修業時代、彫刻家として独立後の話など。平櫛は満107歳の昭和54年(1979)まで存命でしたが、最後は昭和30年代半ばで終わっています。元々、中央公論美術出版で昭和40年代に出版予定だったものが計画が立ち消えとなったため、そこで終わっているわけです。

光雲や、山崎朝雲、米原雲海といった兄弟子たち、さらに光太郎にも随所で触れられています。

そのうち、米原雲海を高く評価していたのを興味深く感じました。米原は大正8年(1919)、光雲と共に信濃善光寺さんの仁王像を手がけましたが、木彫の腕が門下一だったと平櫛は評しています。そして、光太郎と米原の関わり。『高村光太郎全集』第7巻の月報に載った「高村さんのこと」という談話筆記でも触れていますが、光太郎は主に米原から木彫の手ほどきを受けた、としています。

 米原さんはラグーザの弟子の小倉惣次郎と懇意で長沼守敬の弟子に教わり、それから高村先生のところに入った。入ってすぐに高村名義ですばらしい《おうむ》を作って銀賞を得ている。また高村先生のところに住み込んでいた時には夜中にこっそり起きて、一時間位毎晩仕事をしたそうである。とにかく人以上にやらねば駄目だという気構えであった。
 『光雲懐古談』の中に、何十人の弟子を扱ったが、米原みたいなものは一人もいないと記されている。一子、光太郎君を、学校から帰ると、絵を川端玉章のところに、木彫を米原さんのところへ習わせにやったのも、米原さんの腕を高く買っておられたからである。光太郎君の刀は従って米原さんから出ているものと言える。米原さんのおとむらいの時に、光太郎君は我々のところに座らず、弟子のところに座って、弟子としての礼をとっていたのが目についた。


平櫛自身も、米原や山崎からの教えが大きかったとしており、こうした点を、解説(小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員・藤井明氏)では、「当時の美術教育が師から弟子という上から下の方向のみならず、兄弟子から弟弟子という斜め上の交流が極めて重要な働きをしていた」としています。

その他、光太郎に関しては、平櫛の展覧会出品作をディスられ、しかしその評ももっともだと思ったことや、美術学校教授就任を推薦したものの、けんもほろろに断られたことなども記されています。

また、当然ながら、平櫛自身のさまざまな苦労譚、代表作と目される「鏡獅子」などもろもろの彫刻(図版も多数)の制作過程や裏話、岡倉天心や横山大観らとの関わりなど、非常に興味深いものです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ひる過ぎ「流行」の女記者、と新居格の娘といふ好子といふ人と同道、談話、30分ばかり、

昭和29年(1954)4月21日の日記より 光太郎72歳

「新居格(にいいたる)」は、評論家。杉並区長も務めました。光太郎は昭和2年(1927)、雑誌『随筆』の行ったアンケート「現時活躍せる論客に対する一人一評録」に対し、新居を紹介しています。

 一人を名指せといはれると困るけれど、人物が好きだといふ点で新居格氏をお答にしませう。個人的に面識は有るやうな無いやうな関係しか持つて居ませんが、書かれるものの正直さと根性の奇麗さに心を引かれます。
 所論そのものに就いては必ずしも同意すると言へませんが。


新居は光太郎帰京前の昭和26年(1951)に歿しました。

流行」は当時あった雑誌の名ではないかと思うのですが、不分明です。駒場の日本近代文学館さんに光太郎歿後の昭和32年(1957)創刊(誤って「明治32年」と一部のデータに記されていますが)の『流行』という雑誌が所蔵されていますが、時期が合いません。また、白木屋百貨店が戦前に出していたPR誌も『流行』でしたが、この時期まで刊行が続いていたのかどうか……。

2日後の日記には「「流行」の新居さんくる、筆記原稿を見る」とあり、光太郎談話、あるいは新居好子との対談が活字になったと思われますが、発見出来ていません。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

宮城県から生涯教育系講座の情報です。

現代の詩と詩人

期 日 : 2022年10月8日(土) 11月12日(土) 12月10日(土)
      宮城県仙台市青葉区中央1丁目1-1 仙台ターミナルビル5F(エスパル本館)
時 間 : 13:00~14:30
料 金 : 3カ月3回8,580円(入会金別)
講 師 : 宮城教育大学名誉教授 渡辺善雄氏

茨木のり子は川崎洋と詩誌『櫂』を創刊し、谷川俊太郎、大岡信、吉野弘らと戦後詩の新しい流れを作りました。この講座では茨木のり子を中心に、茨木が『うたの心に生きた人々』(ちくま文庫)や『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)で論じた金子光晴、山之口貘、石垣りん、高村光太郎、与謝野晶子、黒田三郎、川崎洋らを取り上げます。戦争、貧乏、酒、恋愛などに翻弄される詩人たち。その哀歓を詩と逸話によって語ります。
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内容的には7月から9月まで行われていたものが再度開催されるようです。それだけ人気が高かった講座なのでしょう。

詩人・茨木のり子を中心に、茨木が評論等で取り上げた金子光晴山之口貘、石垣りん、与謝野晶子、黒田三郎、川崎洋、そしてわれらが光太郎についても触れて下さるそうです。

ところで、探し方が悪いからなのかもしれませんが、以前はもっとたくさん各地で行われていたこの手のカルチャー講座が少なくなったように感じます。コロナ禍も影響しているのかもしれません。教室閉鎖といった記述も見られますし……。

それだけに貴重な機会です。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夕方細田明子さん婚約者(医師)と同道くる、五月廿五日披露会によばれる、諾、

昭和29年(1954)4月18日の日記より 光太郎72歳

細田明子さん」は、光太郎が戦前から行きつけにしていた荒川区三河島のトンカツ屋「東方亭」の息女です。光太郎は彼女が幼い頃から娘のようにかわいがり、詩「少女に」(昭和16年=1941)、「女医になった少女」(昭和24年=1949)などの詩のモデルとしました。
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詩の題名通り女医となった明子さん、この年、結婚なさり、光太郎披露宴に招待しました。光太郎、一度は承諾したものの、結局、体調がすぐれず欠席することとし、6月8日には記念帖を進呈しました。
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曰く

心臓をわるくしてゐてお祝に出られなかつた お二人は殊に心臓がおつよいといふ事だし それにあやかりたかつたが是非もなかつた たゞ新郎が心臓専門なのは心づよい 光太郎

ゲームとのタイアップ企画です。

宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー(「賢治フェスティバル×文豪とアルケミスト」タイアップ)

期 日 : 2022年10月1日(土)~10月30日(日)
会 場 : 
 宮沢賢治童話村(メイン会場) 花巻市高松26-19
  開館時間 : 午前8時30分 ~ 午後4時30分
  (ライトアップ開催日は「賢治の学校」の閉館時間を7時まで延長します)
  料  金 : 一般350円 高校生・学生250円 小中学生150円

 宮沢賢治記念館 花巻市矢沢1-1-36
  開館時間 : 午前8時30分 ~ 午後5時(最終入館4時30分)
  料  金 : 一般350円 高校生・学生250円 小中学生150円

 宮沢賢治イーハトーブ館 花巻市高松第1地割1-1
  開館時間 : 午前8時30分 ~ 午後5時(最終入館4時30分)
  料  金 : 無料

 高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
  開館時間 : 午前8時30分 ~ 午後4時30分
  料  金 : 一般350円 高校生・学生250円 小中学生150円

「文豪とアルケミスト」のキャラクターとして宮沢賢治・高村光太郎が登場している縁で、賢治フェスティバルと「文豪とアルケミスト」のタイアップ企画が実現。宮沢賢治関連施設と高村光太郎記念館を巡って、描き下ろしポストカードと童話村の森ライトアップ缶バッジをゲットしよう! 各館には等身大スタンディも!ぜひ全館巡ってみてください。スタンプラリーを通して、賢治と光太郎の郷「花巻」を再発見してみませんか?
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【企画1】宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー

(1)はじめに入館した施設の受付でスタンプカードを入手
(2)対象4館のうち、メイン会場「宮沢賢治童話村」と、サブ会場3館のうち2館のスタンプを集めて景品と交換
(3)残り1館も回って、スタンプカードを完成させよう!

  注)高村光太郎記念館には、公共交通機関で行くことはできません。
  往復タクシー&光太郎記念館入館券セットのお得なプランで、目指せコンプリート!
  申込先 花巻観光協会(電話:0198-29-4522)
  料金 6.000円

・花巻市内の温泉施設や花巻駅周辺にお泊まりの方は、観光タクシープラン「どんぐりとやまねこ号」午前コースのご利用もおすすめです。

・スタンプカードは、宮沢賢治童話村「賢治の学校」・宮沢賢治記念館・高村光太郎記念館ではチケット購入の際、受付にてお渡しいたします。イーハトーブ館は入館料無料のため、売店に申し出てください。
・景品の交換も各館の受付(イーハトーブ館は売店)にて行います。
・景品交換には、宮沢賢治童話村のスタンプが必須となります。童話村を除いた3館のみのスタンプでは景品交換の対象となりませんのでご注意ください。
・景品の在庫が無くなった場合は、住所・氏名をお伺いし、後日郵送いたします。
・各館ごとに検温・記帳をお願いしております。ご協力をお願いいたします。
・新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、会場・内容・期間等が変更となる可能性があります。

【企画2】「文豪とアルケミスト」パネル展
スタンプラリーのメイン会場「宮沢賢治童話村」では文豪とアルケミストのパネル展を行います。スタンプラリーと合わせてお楽しみください。

【企画3】「文豪とアルケミスト」描き下ろしクリアファイル販売
賢治フェスティバル×文豪とアルケミストのタイアップを記念して、描き下ろしイラストを使用したオリジナルクリアファイルを販売します!
賢治と光太郎が童話村の森ライトアップを楽しんでいる描き下ろしイラストは、文アルファンの方だけでなく、童話村の森ライトアップのお土産品としてもぴったりです。ぜひお買い求めください!

販売場所 宮沢賢治童話村「賢治の学校」、高村光太郎記念館
価格:400円 (1人5枚まで)

というわけで、ゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画です。

これまでも全国の文学館さん等で同様の企画がありました。こういうと何ですが、花巻市さんは意外と保守的で、この手のイベントにはあまり乗り気ではないだろうと感じておりました(そこで当方もお勧めはしてきませんでした)が、実現しました。

メイン企画はスタンプラリー。賢治系の3館はほぼかたまって存在していますので、その気になれば東北新幹線新花巻駅から歩いてでも廻れます。
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ただ、高村光太郎記念館さんだけは、3館とは市街地を挟んで真逆の位置。かつてあった路線バスも途中までしか行けなくなってしまいましたし、本数も多くありません。だからといって、賢治系3館のみではなく、光太郎記念館にもぜひ足を運んでいただきたいところです。
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最寄りのバス停は岩手県交通さん「太田線」の「清風支援学校前」。ここから光太郎記念館まで徒歩1時間位です(笑)。しかも1日2往復、さらに土日・祝日は運行なし(笑)。まぁ、何と言っても旧太田村、光太郎が戦時中の翼賛活動を反省して蟄居のため自らを幽閉した場所ですから。
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または同じく岩手県交通さんの「湯口線」(昔の花巻電鉄の名残です)。「神明前」か「クレー射撃場前」が最寄りで、記念館までは徒歩1時間ほど。平日土日休日でダイヤが異なります。こちらの方が太田線より本数はありますが、歩く距離は長いような気がします。
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いずれも在来の東北本線花巻駅発。東北新幹線の新花巻駅ではありませんのでご注意を。新花巻から花巻までは、JR釜石線(こちらも本数が少ないのですが)でつながっています。

また、各バス停から歩くとしたら、熊に注意です(笑)。冗談ではありません。

ちなみに花巻駅から光太郎記念館までは、通常のタクシーだと片道3,000円台だったような記憶があります。そう考えると上記のタクシープランの方がお得ですね。

当方はほとんどレンタカーです(1度だけ自家用車で千葉から行ったことがありましたし、時折、地元のお世話になっている皆さんに泣きついて車を出していただいたり、公務の際には花巻市さんで車を出して下さったりすることもありますが)。レンタカー営業所は東北新幹線新花巻駅前に、ニッポンレンタカーさんとトヨタレンタリースさんがあります(在来線花巻駅周辺にはありません)。「私、ペーパードライバーで運転が怖い」という方もいらっしゃるかも知れませんが、花巻は大都会のように車も走っていませんので(笑)大丈夫です(別に花巻をディスっているわけではありませんのでよろしく)。

というわけで、ぜひ足をお運びください。また、スタンプラリーのポイントにはなっていませんが、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんなどにもお立ち寄り下さると、なお幸いです。

【折々のことば・光太郎】

盛岡の美校卒業式に祝電を送る、「岩手の美世界の美となれ」


昭和29年(1954)3月5日の日記より 光太郎72歳

「盛岡の美校」は岩手県立美術工芸学校。校長の森口多里をはじめ、深沢省三・紅子夫妻舟越保武など、旧知の面々が教員として在籍していたため、旧太田村の山小屋に蟄居中(昭和20年=1945~昭和27年=1952)は、実際に時折訪れて生徒に講話をしたりしていました。光太郎自身も名誉教授就任を打診されましたが断っています。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京後も、節目節目には祝電等を寄せました。前年の祝電についてはこちら

昨日の続きで、高橋源一郎氏著『ぼくらの戦争なんだぜ』(2022年8月30日 朝日新聞出版(朝日新書) 定価1,200円+税)についてです。
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ちなみに同書、二重カバーとなっており、昨日は外側カバーの画像をあげましたが、こちらは内側のカバーです。

光太郎が序文を書き、詩「軍人精神」を寄せたアンソロジー『詩集 大東亜』。殆どの収録作品が高橋氏曰くの「大きなことば」(人びとを「大きな目標」に駆り立てるために、使われる)で書かれています。

それに対し「小さなことば」(個人が個人的なことを書いて伝える)で書かれたアンソロジーも取り上げられています。山本和夫編『野戦詩集』(昭和16年=1941)。『詩集 大東亜』と異なり、実際に応召して日中戦争の戦闘に参加した詩人-それもマイナーな-6人による作品集です。6人は加藤愛夫、西村皎三、長島三芳、佐川英三、風木雲太郎、山本和夫。このうち西村は昭和19年(1944)に戦死しました。また、光太郎と交流のあった長島は、迫撃砲弾を受け、左目を失明しました。

6人の詩はいずれも戦闘の様子をを勇ましく謳ったものではなく、野戦病院での一コマや、炎熱下の行軍の苦しさなどを題材にしています。中には厭戦的ともとれるものも。「翼賛」思想の殆ど見られないこれらの「小さなことば」にこそ、芸術としての真価があると、高橋氏。なるほど、と思わされました。

ところで、『野戦詩集』、その帯には光太郎の推薦文が印刷されていたそうです。当方も現物は確認出来ていませんが。同一の(と思われる)文は昭和16年(1941)2月26日の『読売新聞』に掲載されました。

 支那事変に出征してつぶさに実戦の労苦に身を委ねた詩人の数も多いので、その詩人達の声をききたいとは誰しも思ふところであるが、丁度その希望に応へるやうにこの詩集が刊行せられた。集められたのは加藤愛夫、西村皎三、長島三芳、佐川英三、風木雲太郎、山本和夫の六氏の戦場詩である。大方は或は無事に、或は負傷して今は故国に帰還せられたのであるが、西村、風木の両氏はいまだに任務につかれて戦場にゐる。いづれの詩も皆戦闘の合間に野戦手帳や紙きれに書き付けられたものであつて、雨にぬれ汗によごれたものの中から抜書きされたものも多いやうである。さすがに詩人の個性は歴然として明かで同じやうな苦痛と死との中からも六氏それぞれの詩の世界は同様でなく、同じ緊張の中にもその人間観世界観の向き方によつてそれぞれの表現内容と発想形式とに特殊性を持つてゐて、決して一様の類型を示してゐない。かかる極限の場合に詩人の本質がまじりけ無く迸り出てその詩を生かしてゐる事を痛感する。どの詩人も言葉と実感との間に或る焦燥を持つてゐる。有り余る実感が言葉の間で渦を巻いてゐる。言葉は僅かにその万分の一を象徴してゐる。殆ど吃つてゐるやうな言葉遣さへあるがそれが又逆にその奥の実感を伝へてゐる。これを見ても人間の言葉はやはり信頼し得べきものだと思はずにゐられなかつた。こんな苦しい中で詩を書きおほせたこれらの詩人の精神に打たれた。

「大きなことば」で翼賛詩を書かざるを得ない立場にあった光太郎も、「小さなことば」で書かれたこのアンソロジーの本質を鋭く見抜いていることが分かります。

残念ながら『ぼくらの戦争なんだぜ』では、この光太郎の評について言及されていません。高橋氏が入手されたという『野戦詩集』、帯が無くなっていたのでしょう。高橋氏によるこの評の「評」を読みたいものだと思いましたが。

その後、高橋氏の筆は、大岡昇平、林芙美子ら、そして太宰治へと続いていきます。特に太宰の項には力が入っており、さらに今後も書き継がれるおつもりだとのこと。

ところで、『東京新聞』さんに同書の書評的な記事が出ていました。

<土曜訪問>知る努力を絶えず 「戦争」を考える新著を刊行 高橋源一郎さん(作家)

takahasi 終戦から七十七年の今年、戦争は決して過去のものではないのだとあらためて突き付けられたのが、ロシアによるウクライナ侵攻だった。いま、戦争について何を知り、どう考えればいいのか。作家の高橋源一郎さん(71)は、先月刊行した新著『ぼくらの戦争なんだぜ』(朝日新書)を、こうした問いへの「一つの回答」と位置付ける。
 「中途半端な知識ではなく、戦争についてちゃんと語れるようにするために必要な知識は何だろう、と。無垢(むく)な疑問を発するのが一番大切なことじゃないか、という考え方です」と高橋さんは説く。
 四百七十ページ超の本書は、書かれた言葉を通して昭和の戦争を考えていく。戦時下の日本の教科書、戦後のドイツやフランス、韓国の歴史教科書。戦中の詩、戦争を扱った小説などを取り上げ、丁寧に読み進めながら、思索を重ねる。
 例えば、戦中の対照的な詩集を示して考えるのは、「大きなことば」と「小さなことば」。<人びとを「大きな目標」に駆り立てるために、使われるのが「大きなことば」>だとして例に挙げるのは、太平洋戦争末期の一九四四年に刊行され、高村光太郎ら有名詩人の作品を収めた『詩集 大東亜』(日本文学報国会編)。戦争協力詩が並ぶ。
 <彼らと同じことが起こりうる、とぼくは思う。というか、起こっているのかも、とぼくは思う>と高橋さんは書く。社会の中で「大きなことば」が人々をとらえて破壊していく、いわば「見えない戦争」はずっと続いているのではないか−というかねての問題意識からだ。
 「大きなことばって、思考停止を誘う、議論が起きない言葉でしょ。言葉ですらない、空気、雰囲気かもしれない。そういうものはずっとこの国にある、ということですよね」
 対して、<個人が個人的なことを書いて伝えるのが「小さなことば」>であるとして、中国に出征した兵士六人の詩を集めた『野戦詩集』(山本和夫編、四一年)を見る。取り上げた約二十編は、進軍にうつむく現地の人の姿を見逃さなかったり、戦場のあちこちに倒れた馬にまなざしを向けたり、<戦争は/何でこんなにものを忘れさせるんだらう>とつぶやいたり。作者の実感を伴う言葉が胸に迫る。偶然手に入れたという同詩集の書き手に、有名な詩人はいない。しかし、「奇跡のような優れた詩集」と高橋さんは絶賛する。
 同様に着目した一人が、太宰治(一九〇九〜四八年)だ。ロシアのウクライナ侵攻をきっかけに、創作期間がほぼ戦時下と重なる太宰の作品をあらためて読んだ。「戦時下で作家はどう書くべきか、考えて書いていたと思うんですよね」。太平洋戦争開戦の日を主婦の日記という形でつづった短編「十二月八日」などを挙げて、太宰の意図を読み解く。
 「あの時代、大きいものに巻き込まれないことは難しい。でも、それぞれのやり方を模索していた人たちがいたことは、勇気づけられました」と高橋さんは言う。では、いかなる時も、言葉に支配されないための手だてとは何か。「自分で自分の疑問を解決していくということと、何かを知る努力を絶えず続けるということですよね」
 十四年間、教壇に立った明治学院大を二〇一九年三月に退官。「僕が勉強になりましたよね。人に教えるっていうのは、作家と読者の関係みたいだなあとか思って」と振り返る。二〇年からは、毎週金曜にNHKラジオ第一の番組「高橋源一郎の飛ぶ教室」を持ち、自身で選んだ一冊やゲストとの対話を通して社会を考える。
 近ごろ、気になっているのは社会的な検閲。以前より書きにくさを実感しているという。「絶えず考えてなきゃいけない、ということですよね。思考停止することなく」。言って、ふとにっこり笑って「でも、考えたらさ」と続ける。
 「小説って、細かい、ほんのちょっとした人の気持ちのずれみたいなものを描いているんだよね。世界の本当にささやかな違いみたいなものを、絶えず念頭に置くのが作家の仕事だから」 

さて、同書、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

平凡社の中島洋典といふ人くる、書道全集推せん文のこと、


昭和29年(1954)2月16日の日記より 光太郎72歳

推せん文」は、「書を見るたのしさ」の題で、平凡社の「書道全集」の内容見本に掲載されました。同全集には、のちに第7巻「中国 隋、唐Ⅰ」の月報にも「黄山谷について」の一文を寄せています。

戦時中の翼賛詩文を恥じ、花巻郊外旧太田村の山小屋で7年間の蟄居生活を送っていた頃、自らへの罰として封印していた彫刻の代わりに、数多くの優れた書を光太郎が残したことは広く知られていたようで、こうした依頼があったのでしょう。

新刊、といっても1ヶ月近く経ってしまいましたが……。

ぼくらの戦争なんだぜ

2022年8月30日 高橋源一郎著 朝日新聞出版(朝日新書) 定価1,200円+税

◯戦場なんか知らなくても、ぼくたちはほんとうの「戦争」にふれられる。そう思って、この本を書いた。
◯教科書を読む。「戦争小説」を読む。戦争詩を読む。すると、考えたこともなかった景色が見えてくる。人びとを戦争に駆り立てることばの正体が見えてくる。
◯古いニッポンの教科書、世界の教科書を読み、戦争文学の極北『野火』、林芙美子の従軍記を読む。 太宰治が作品に埋めこんだ、秘密のサインを読む。戦意高揚のための国策詩集と、市井の兵士の手づくりの詩集、その超えられない断絶に橋をかける。「彼らの戦争」ではなく「ぼくらの戦争」にふれるために。
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目次
まえがき
第1章 戦争の教科書
 1・ニッポンの教科書
  あたらしいこくご 教科書なんかつまらないとずっと思っていた
   教科書の中にある、もうひとつのことば、戦争のことば
   ぼくたちの父や祖父は、子どもの頃、こんな教科書を読んでいた
 2・ドイツの教科書、フランスの教科書
  人の心を萎えさせるような、断固とした「声」 歴史をためらいがちに語る「声」
 3・その壁を越える日
   植民地からの「声」 ぼくたちがたどり着く場所
第2章 「大きなことば」と「小さなことば」  
  戦争と記憶、庶民の戦争 『この世界の片隅に』の語り方 戦争なんか知らない
  「大きなことば」と「小さなことば」 「大東亜」なことば 「ひとすぢのもの」
  「小松菜つむ指の露深き黒土に濡れ」 「こつこつと歩いて行く」
  ぼくたちは戦場へ行った 幻の詩集 加藤さんのことば 西村さんのことば
  長島さんのことば  佐川さんのことば 風木さんのことば
  最後に、山本さんのことば
第3章 ほんとうの戦争の話をしよう  
 1・正しい戦争の描き方
   ほんとうの戦争の話をしよう 死の国にて
 2・彼らの戦争なんだぜ
   「遠い」ということ  統合失調症とされた作家たちのことば すべてが「遠い」小説
  『野火』がたどり着いた場所
第4章 ぼくらの戦争なんだぜ  
 その1・ごはんなんか食べてる場合じゃない
 その2・女たちも戦争に行った
   「平時」の思想 彼女は戦争に行った
 その3・ぼくたちが仮に「戦場」に行ったとして、最後まで「正常」でいるためには
   「私」は撃たない
 その4・戦場から遠く離れて
   ふたつの「国」と「ことば」の間に生まれて 夢の世界をさまよって
第5章 「戦争小説家」太宰治
  加害の国の作家 ずっと戦争だった 小さな二つの小説 「真の闇」の中を歩く
  文学のために死んでください 純情多感の一清国留学生「周さん」のこと
あとがき

光太郎をはじめ、あまたの文学者たちが、十五年戦争下でどのような作品を書き、その裏側にはどんな思いがあったのかを考えることで、この時代を生きる一助とすべし、というコンセプト。

 「悪」が、過去の一点に留まっている限りは、「声」は冷厳であることができる。それに近づくよう、学生たちに示唆することができる。その「悪」というものを注視するように、と。けれども、「悪」が、いまも生まれつつあるとしたら? それが、克服すべき「過去」であるというより、たえず、自分たちの身体からにじみ出す膿のようなものだとしたら、どうすればいい? 「たえず攻め寄せる影の力」と戦うためには、彼らは、いや、ぼくたちはどうすればいいのだろうか。
(第1章 戦争の教科書)

そのためには「ことば」に注意することが必要だと、高橋氏。

 「大きなことば」は、「民主主義」とか「天皇」とか「神」といったことばだ。そのことばだけで、数百万、数千万の人たちを一瞬のうちにあやつることができるようなことばだ。そういったことばは「強い」。そして「強い」ことばは、人を支配することができる。
 それに対して「小さなことば」あある。それは、個人的な経験を、「大きなことば」を使わずに書き記したときに現れる。だから、多くの人たちに興味を持たれないことも多い。気づかれないことだってある。たいしたものだとも思われない。
 ヒットラーのような独裁者は「大きなことば」を使うのが好きだ。その「大きなことば」の中には、民俗や歴史に関する「大きな記憶」も出てくる。「戦争」を産み出し、継続させ、そこに人々を動員してゆくのは、こういった「大きなことば」だ。
(略)
 個人が個人的なことを書いて伝えるのが「小さなことば」だ。それに対して、人びとを「大きな目標」に駆り立てるために、使われるのが「大きなことば」だ。
(第2章 「大きなことば」と「小さなことば」)


「ウクライナをネオナチから解放する」などは、「大きなことば」の典型例ですね。少し前にほざかれていた「美しい国、日本」「一億総活躍社会」なども。

高橋氏、この「大きなことば」と「小さなことば」の例として、光太郎作品を挙げています。智恵子の臨終を謳った絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)は「小さなことば」、逆にステレオタイプの「大きなことば」として、光太郎が序文を書いたアンソロジー『詩集 大東亜』(昭和19年=1944)の、その光太郎による序文。

 ただ是れ利のゆゑに吾が神国を窘(たしな)めんとする米英等醜(しこ)のともがらを悉く打ち祓ひ、吾が神ながらの道と力と徳とによつて世界をすすぎ清めんとする此の聖戦のみ旨を、われら臣民一人として知らざるはない。(略)願はくはわれら皇国の詩人が心をこめた此の一巻のささげものに、われらが神と人との善きいつくしびあらんことを。

馬鹿馬鹿しくて全文を引用する気になれませんが、この三倍ほどの分量です。それこそAIでも書けるような(笑)。

なぜ『智恵子抄』の詩人が、こんな「大きなことば」を振りかざす軍部のメガフォンと化してしまったのか……。余談になりますが、当方、今年の12月、日本詩人クラブさんの12月例会で、このあたりを根幹とする講演をさせていただくことになっております。
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閑話休題。高橋氏、『詩集 大東亜』に収められた諸詩人の作を引きつつ、一刀両断。その中には光太郎詩「軍人精神」も含まれます。

 高村さんの詩には、高村さんがいない感じがする。そういうと、変に聞こえるかもしれない。これは、確かに、高村さんが書いた詩じゃないか、って。
 いや、ぼくがいいたいのは、そういうことじゃない。
 高村さんという個人、きちんと、なんでも自分の責任で考えることができる、主体をもっていることを、個人というのなら、高村さんという詩人は、ここにはいない。
 詩を書くのが上手で、有名な詩人で、日本の詩人オールスターズの代表格で、『智恵子抄』の作者で、そういう高村さんはいて、その高村さんは、詩を書いた。
 その高村さんが書いた詩は、空っぽな感じがする。空っぽ、というのはm心ここにあらず、という状態で書いている感じがする、ということだ。
 きちんと考えたら、あんな詩、書かないでしょう。


このあたり、今年8月15日(月)にオンエアされたNHKラジオ第1さんの「高橋源一郎と読む「戦争の向こう側」2022」でも、同様の試みをなさっていました。

『詩集 大東亜』、当方も持っていますが、あまりに馬鹿馬鹿しくて全篇は読んでいません。今回、『ぼくらの戦争なんだぜ』を読んで、「こんな詩も載っていたのか」と思った詩も載っていた次第です。特にひどいと思ったのは、光太郎とも親しかった堀口大学の「あとひと息だ」という詩。

国運賭けたみいくさに/しこのみ楯と戦つて/命ささげた増荒男の/不滅のてがら忘れまい//東亜を興す大使命/いまの痛みは生みの苦だ/鬼畜米英ないあとは/民十億の楽園だ//敵もさるものさればとて/邪は正に勝ちがたい/勝つときまつたみいくさだ/あとひと息だ頑張らう

高橋氏曰く、

 それにしても、この詩を、堀口さんは、「本気」で書いたのだろうか。現実の戦争で連戦連敗、国内では、連日の空襲に、食べるものにも事欠く日々。それなのに、「敵もさるものさればとて 邪は正に勝ちがたい 勝つときまつたみいくさだ あとひと息だ頑張らう」って、めちゃくちゃじゃないだろうか。こんな詩を読んだら、まともな人は、「もうダメだ、やっぱり負けるんだな」と思うはずなんだけど。けれども、堀口さんは、平気でこんな詩を書き、みんなは、平気で読んだのだ。大丈夫か、昭和十九年のニッポンの詩人たち、読者たち。

激しく同意します。もっとも、堀口には堀口の事情があったのかもしれませんが……。

『詩集 大東亜』に作品を寄せた多くの有名詩人たちは、ほぼみんなこんな感じでした。他にも同様のアンソロジーは数多く存在し(手許に40冊ばかりあります)、また、アンソロジー以外でも新聞雑誌はこぞってこうした愚にもつかない翼賛詩を掲載し続けました。

『詩集 大東亜』収録作ではありませんが、こんな詩もありました。

  ビルマ独立をうたふ002

アジヤは一つの家族。
いたいけな妹ビルマは
永らく別れて他人の家で
つらい 悲しい日を送つた。
待ち焦れた晴れの日、
独立の日がビルマにも来た。
燦たる孔雀の旗が
瑠璃の空を飛翔する日が。
ビルマの娘たちは、茴香(ういきやう)や
睡蓮の花をつんで捧げる。
みほとけの前に、又、たよる肉親
ををしい日本の兄の胸に。


「ビルマ」は現・ミャンマー。イギリス統治下にあったため、日本軍が進攻、昭和18年(1943)に名ばかりの「独立」を宣言しました(実体は日本軍の傀儡政権)。その「独立」を言祝ぐ詩ですが、作者は金子光晴です。この年10月の雑誌『日本少女』第23巻第7号に掲載されました。

一般に、金子光晴というと、翼賛詩を書かなかった抵抗の詩人と言われています。『ぼくらの戦争なんだぜ』でも、高橋氏、「ニッポン中の詩人たちが「戦争」に向かって雪崩(なだ)れ落ちていった中で、たとえば、たくさんの詩人が『詩集 大東亜』に参加していった中で、金子は、戦争詩を書かず、息子を戦地に送らぬためにあらゆる智恵をふりしぼった」としています。ちなみに「あらゆる智恵」は、息子を部屋に閉じこめて松葉を燃やして燻し、肺炎にかからせて徴兵を免れさせたことなどを指します。それはともかく、残念でした。書いてますから。

金子の翼賛詩は他にも。「抒情小曲 湾」(『文芸』昭和12年=1937)から。

戦はねばならない 必然のために、 勝たねばならない 信念のために、 一そよぎの草も 動員されねばならないのだ。 ここにある時間も 刻々の対峙なのだ。 なんといふそれは すさまじい壮観!

散文でも。昭和17年(1942)11月の『日本学芸新聞』、「大東亜文学者大会号」から。

  大東亜文学者大会に就て

 大東亜の文学者を一堂に聚(あつ)めるといふ日本文学報国会の企ては、政治的意義をのぞいても、糧を与へるといふ本質的な意義がのこることになるとおもふ。少なくともこの挙を機会に、大東亜の国々の文学者は、日本に糧をえやうとして大きな期待を持つだらう。
(略)
 今日、我々は糧を与へねばならない幼弱な国々を周囲に持つことになつた。
(略)
 殆ど最初の経験としての日本の文学者は、与へるべき糧について慎重に考へて欲しい。与へる方法にも相当技術を必要とするやうに思ふ。衝にあたる日本の文学者は、先づ共栄圏内の他民族を出来うる限り知つてほしい。あくまでもその客観性に基づいて、ほんたうの糧となるものを考へてほしい。
(略)


何という「上から目線」でしょうか。金子をディスるのが目的ではありませんので、この辺りで止めますが。まさに高橋氏曰くの「大きなことば」ですね。

この後、高橋氏の筆は、「小さなことば」で書かれた兵士の詩作品などに及んでいきます。が、長くなりましたので、続きは明日。

【折々のことば・光太郎】

雪ふる、一寸余つもる、 終日人来ず、 揮毫(奥平さんの帖)、銀粉で地に雨をかき、リンゴの詩を書く、


昭和29年(1954)2月14日の日記より 光太郎72歳

東京には珍しい雪。おかげで来訪者もなく、集中して揮毫に取り組めました。「奥平さんの帖」は「有機無機帖」。交流のあった美術史家・奥平英雄のために書いた書画帖です。
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平成5年(1993)にアメリカで創刊されたICT系の雑誌『WIRED』さん。日本版も発行されています。9月14日(水)発行のVOL.46、クリエーター・川田十夢氏による連載「Way Passed Future 川田十夢の「とっくの未来」」が、「第23回 プロンプトエンジニアリングと『智恵子抄』」。
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「プロンプトエンジニアリング」とは、AI(人工知能)の思考を人間が補助すること。18世紀・明治前半生まれの光太郎と最新テクノロジーのAIがどう結びつくのか、と思って拝読しましたが、なるほど、と思わされました。ちなみに言わずもがなですが、記事に添えられた右上イラストでゴーグルを装着しているのが光太郎、見つめる先はブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)です。

日進月歩のAI技術ですが、まだまだ、という部分が多いようです。川田氏、いわゆる「お絵描きAI」を例に挙げられています。数年前には元になる画像を与え、それをアレンジするのが限界だった「お絵描きAI」。最近は任意の言葉を与えればグラフィックを生成してくれるまでに進化しているそうです。

しかし、そうして作られるグラフィックは、川田氏いわく「クリシェ」。仏語で「 cliché」、「常套句、決まり文句」の意です。誰もがイメージするような当たり前のグラフィックしか書けない、ということですね。ちょっとしたカットなどに使う程度ならそれでいいのでしょうが、それを芸術作品として世に出せるかと問われれば、否、というわけです。

そこで、「それがAIの限界だからそこまででいい」としてしまうのでなく、「プロンプトエンジニアリング」のスキル向上が必要だ、という論旨です。

例に挙げられるのが光太郎。「緑色の太陽」(明治44年=1911)、「触覚の世界」(昭和3年=1928)などの美術評論、文学評論の「詩について語らず」(昭和25年=1950)、さらには詩「あどけない話」(昭和3年=1928)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)などを引用しつつ、光太郎の為し得た対象認識を良しとしています。視覚、触覚を通しての物体に対する把握、そして様々な事象を言語によって表現すること、そのどちらにも光太郎は並外れた能力を持っていて、今後、「プロンプトエンジニアリング」にはそうしたスキルが必要だというのです。

川田氏曰く「最新テクノロジーを駆使するために人間側に改めて求められてくる能力は何だろう。卓越された言語能力、そして空間把握能力にほかならない。その手本になる人物が日本には存在した。高村光太郎である」。光太郎の歩んだ道程、残した業績の数々を思う時、この文言は決してほめすぎとは言えないでしょう。

もっとも、川田氏、元々光太郎ファン的な部分がおありのようで、やはり『WIRED』誌の4月号(VOL.44)の同じ連載でも光太郎に触れて下さっていました。そちらは「能と拡張現実」というサブタイトルで、光太郎の評論「能の彫刻美」(昭和19年=1944)が引かれています。他に高浜虚子、夢野久作なども。
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こうした過去の範とすべき人物や事象に学ぶ姿勢-「温故知新」とでも申しましょうか-こそ、かえって最新のテクノロジーには欠かせないのではないかと、改めて考えさせられました。

というわけで、『WIRED』誌、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

胸像の骨つくり、鉛管、  昭和29年(1954)2月6日の日記より 光太郎72歳

「胸像」は未完のまま絶作となった「倉田雲平胸像」。この日から本格的に制作を開始しました。

日本金融通信社さんが発行している金融専門週刊紙『ニッキン』。一面コラムでしょう、9月9日(金)の掲載分。

ニッキン抄

夜、帰宅後に部屋の電気をつけて一瞬はっとした。体長10センチ程のヤモリが窓ガラスの内側に張り付いていたからだ。夏から秋にかけて目撃するが、室内では初めて。見た目が苦手で、何とか外へ逃がした▼入った経路はエアコンの室外機だろうか、寄せ付けないためには……。ネットで侵入対策を調べていると、ヤモリの意外な事実が。東京都を始め、複数の県で絶滅の恐れがある野生生物に指定されているのだという。身近な生き物に迫る危機の一端を知った▼気候変動と並び、世界の重要テーマになった「生物多様性」。12月にはカナダでCOP15が開かれ、国際目標も決まる。多くの種を失えば、人類の存続をも脅かす。企業の行動変容を促すために金融の力を発揮してほしい▼高村光太郎の短歌にある。「はだか身のやもりのからだ透きとほり 窓のがらすに月かたぶきぬ」。白い身体が夜の月光で透き通ると。次のヤモリ来訪時は野生の命の神秘を感じつつ、温かく見守ろう。

引用されている短歌は、大正13年(1924)の作。「工房より」の題で10月1日発行の第二次『明星』第5巻第5号に掲載された50首(!)のうちの一つです。

こちらは短歌のコーナーではなく、光太郎に任された割り当てページがあるので、勝手に短歌を載せさせてもらう、的な感じだったようです。

短歌50首の前に置かれていた「近状」と題する散文の一節。

 今年は徒言歌が時々出来た。自分だけの理由があるのだが、与謝野先生にお渡ししたら削られてしまふ歌ばかりだから、最近のを五十首ばかりだしぬけに自分が貰つた積で居る此の頁へ書き続けて置かうと考へた。詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる。短歌では詩の表現の裏側に潜むかういふレアリテから進みたくなつた。

徒言歌」は「ただごとうた」。厳密に言うと『古今和歌集』仮名序に挙げられた「六義(りくぎ)」の一つで、難しい規程があるようですが、のちに「物にたとえていわないで直接に表現する歌、深い心を平淡に詠む歌」と解されるようになりました。だから「レアリテ」(「リアリティ」の仏語表記)なのでしょう。

50首中、3首がヤモリを詠んだ歌です。『ニッキン』さんに引用されているもの以外では、

木に彫るとすればかはゆきはだか身の守宮の子等はわが床に寝る

手にとれば眼玉ばかりのやもりの子咽喉なみうたせ逃げんとすなり


守宮」が「やもり」の漢字表記です。「」は「とこ」ではなく「ゆか」だと思うのですが、どうでしょうか。さすがに布団の中には入ってこないような気がするのですが……。

そういえば「ニッキン抄」筆者の方、室内にヤモリがいて驚いたそうですが、当方も同じ経験があります。自宅兼事務所の階段にのうのうとしていました(笑)。すぐにちりとりを使って外に逃がしてやりましたが。放っておくと、自宅兼事務所には凄腕のハンターが居ますので、たちまち餌食になります(笑)。
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まだヤモリを捕らえたことはないようですが、トカゲはしょっちゅうです。たいていはシッポを切って逃げていきますが、仕留めたこともたびたび。蝉まで捕まえますし(笑)。庭に出した時には注意しているのですが……。

閑話休題。

光太郎、「近状」の中で「詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる」と書いています。短歌は光太郎の本格的文学活動の出発点だったこともあり、いわば原点回帰的な感覚があったのでしょう。譬えはよくありませんが、大人になってから子供の頃の遊びをふとやってみたときの懐かしさというか、郷愁というか、そんな感じでしょうか。

同様のことは、この時期取り組んでいた木彫にも言えるような気がします。

昭和2年(1927)に書かれた連作詩「偶作十五篇」中の1篇に「木を彫ると心があたたかくなる 自分が何かの形になるのを 木はよろこんでゐるやうだ」とあります。
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ブロンズに鋳造する粘土塑造は真剣勝負、木彫はもっと肩の力を抜いて楽しみながら、という感覚だったように思われます。彫刻に関しては、塑造(モデリング)より木彫(カーヴィング)が光太郎の出発点でしたし。

そこで、ほとんどの木彫作品に、関連する短歌を添えていた(智恵子手縫いの袋や袱紗に揮毫しました)ことに、妙に納得が行くのです。

揚げものにあげるをやめてわが見るはこの蓮根のちひさき巻葉

あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづ

ざくろの実はなやかにしてやゝにがしこのあぢはひをたれとかたらん

山の鳥うその笛ふくむさし野のあかるき春となりにけらしな

いはほなすさゝえの貝のかたき戸のうごくけはひのほのかなるかも

遠く来るうねりはあをくとど崎の岩白くしてなきしきる

小鳥らの白のジヤケツにあさひさしにはのテニスはいまやたけなは

小鳥らは何をたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん


色を変えた語がそれぞれの歌を添えた木彫のモチーフです。最後の二首、「小鳥」は文鳥です。雌雄のつがいで作られたので、二首あります。

ところでヤモリを「木に彫るとすれば」と謳った光太郎。実際に彫ったかどうか分かりません。今のところ作品として発表したものの中には確認出来ていません。もしヤモリの木彫が作品として売られていたとすれば、上記三首のどれか、あるいは似たような歌が添えられていたことでしょう。どこかからひょっこり出て来ないかと、淡い期待を抱いております。

【折々のことば・光太郎】

くもり、やや寒、 大和ミエ子といふ人来訪の由、皿などもらふ、


昭和28年(1953)12月29日の日記より 光太郎71歳

光太郎終焉の地となった中野の貸しアトリエ。光太郎との面識が無いような人物等のいきなりの来訪、あるいは知った顔でも光太郎の具合が良くない時などは、大家の中西夫人が用件だけ聞いて帰ってもらうという感じでした。そこで「来訪の由」。この日がどちらの場合だったかは分かりかねますが。

大和ミエ子」は詩人・作詞家。当方、存じ上げない名前でしたが、しかし、インターネットというのはつくづく便利なものですね。何でもかんでも出て来る情報は鵜呑みには出来ませんが、調べるとちゃんと記述があります。このように『高村光太郎全集』を読んだだけでは素姓の分からなかった人物についても、かなり判明しました。

NHK BSプレミアム/BS4Kさんで9月4日(日)から始まった「ドラマ 風よあらしよ」。第1回を拝見しました。
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村山由佳さんの原作小説には登場した智恵子は、残念ながら登場しませんでしたが、智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』創刊号は重要なモチーフとして随所で使われました。ところで余談ですが、NHKさんの番組公式サイトで、『青鞜』が『青踏』になっているのは残念です。
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智恵子に表紙絵を依頼した日本女子大学校での智恵子の先輩・平塚らいてう(松下奈緒さん)、光太郎と交流があった辻潤(稲垣吾郎さん)など、周辺人物が登場、興味深く拝見しました。
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ただ、全3話ということで、展開がだいぶ早い印象でした。主人公・伊藤野枝の才能を見出して世に送り出す手助けをし、野枝と結婚する辻潤。前半は理解ある男として颯爽としていたのに、早くも後半には非社会性充溢のダメダメ男として描かれるようになります。華々しく創刊された『青鞜』も、番組後半では既に行き詰まり始めています。

再放送があります。

再 風よあらしよ(1) 

NHKBSプレミアム 2022年9月7日(水) 23:00~23:50

今から100年前。女性の地位は低く、良妻賢母が求められた時代。福岡の片田舎で育った伊藤野枝(吉高由里子)は、東京の女学校へ入学し、教師の辻(稲垣吾郎)から「青鞜」の存在を教わり心を掴まれる。貧しい家を支える為の結婚を蹴り、自由を求め再び上京した野枝に才能を感じ取った辻は、彼女に知識を与え、導く。溢れんばかりの情熱を持った野枝はらいてう(松下奈緒)の青鞜社の門をたたき、時代の若きアイコンとなる。

【出演】吉高由里子,永山瑛太,松下奈緒,美波,山田真歩,朝加真由美,山下容莉枝,
    栗田桃子,石橋蓮司,稲垣吾郎 他
【原作】村山由佳,【脚本】矢島弘一
【音楽】梶浦由記

さらに第2話。

風よあらしよ(2)

NHK BSプレミアム/BS4K 2022年9月11日(日) 22:00~22:50

「青鞜」を通して次々と世の中の不平等を訴えていく野枝。しかし、世間の風当たりは厳しく、ついにはらいてう自身が隠居をしてしまう。らいてうから青踏を引き継いだ野枝であったが、辻との関係も次第に亀裂が生じ、青鞜も廃刊となる。野枝に逆風が吹く中、時代の風雲児でアナキストの大杉栄(永山瑛太)に出会う。野枝は辻との別れを選び、大杉のもとへと駆け寄るが、待ち受けていたのは自由恋愛という名の四角関係であった。

【出演】吉高由里子,永山瑛太,松下奈緒,美波,玉置玲央,山田真歩,栗田桃子,
    朝加真由美,山下容莉枝,石橋蓮司,稲垣吾郎 他
【原作】村山由佳,【脚本】矢島弘一
【音楽】梶浦由記
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次回も波乱の連続となりそうで、目が離せません。

ついでというと何ですが、テレビ放映で、過去の番組の再放送を2件ご紹介しておきます。

ミステリー・セレクション・湯けむりバスツアー桜庭さやかの事件簿1 露天風呂に浮かぶ遺体の謎…22年ぶりの兄妹対面で起こった兄殺し欲望渦巻く故郷で迎えた驚愕の結末とは!!

BS-TBS 2022年9月8日(木) 09:59〜12:00

高校生の娘と中学生の息子を持つシングルマザー・桜庭さやかは、ベテランバスガイド。しっかり者の子供たちに今日も起こされ、元気いっぱい仕事へと飛び出していく。今回のツアーは、猪苗代湖〜安達太良山〜会津若松を巡り、山形へと向かう旅。大盛り上がりのサンライズ商店街御一行様を前にさやかの名調子が冴える。ツアー客の中にはフラワーショップを営む佐野雄二と香織の兄妹も参加していた。2人はツアーの途中で22年ぶりに兄・修一に再会できることを楽しみにしていた。しかし、その兄が安達太良山で死体となって発見される。

出演者 萬田久子、葛山信吾、酒井美紀、石橋保、大浦龍宇一、未來貴子、伊藤洋三郎、
    斉藤暁、徳井優、竜雷太 他

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初回放映は平成21年(2009)。最初の事件現場が安達太良山、という設定で、「智恵子抄」が枕に使われます。ロープウェイ山頂駅近くの薬師岳パノラマパーク、「ほんとの空」の標柱附近などでロケが行われました。
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事件の鍵を握るフラワーショップ経営者役の酒井美紀さん、昨年、BS朝日さんで放映された「ゆるっと山歩(さんぽ)に行こう ▽登山を始めたい方必見!絶景やグルメも堪能!」にもご出演、この際、初めて山頂まで登られたということでした。

もう1件。

ブラタモリ セレクション▽十和田湖・奥入瀬〜十和田湖は なぜ“神秘の湖”に?〜

NHK総合 2022年9月9日(金) 00:25〜01:10

これまでのブラタモリからえりすぐりの回を放送!今回は「#81十和田湖・奥入瀬」(初回放送2017年9月2日)をお送りします。

ブラタモリ#81で訪れたのは十和田湖・奥入瀬。実は十和田湖は、火山の噴火で出来たカルデラ湖。しかも出来たてホヤホヤの世にも珍しい「二重カルデラ湖」だった!ボートで湖へ出たタモリさん、目の前にそそりたつ急な崖に大興奮!この崖こそ火山の中身が見えるというダイナミックな神秘だった!さらに美しい滝と渓谷で知られる奥入瀬渓流へ。多くの滝に隠された、1万5千年前の奇跡とは?奥入瀬の美を作ったのはコケ?

【出演】タモリ,近江友里恵,【語り】草彅剛
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初回放映は平成29年(2017)。地質学系に重きを置く番組なので、十和田湖の二重カルデラや、奥入瀬渓流の成因などがメインですが、番組冒頭、タイトルバックで光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が約2秒間(笑)登場します。

それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

山口部落よりリンゴ3箱くる、 郵便物整理その他


昭和28年(1953)12月9日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに花巻に帰ったのが11月25日。12月5日には再び上京。そしてこの日、花巻郊外旧太田村山口部落からリンゴが届きました。「郵便物整理」は、花巻帰郷中に届いていた郵便物、さらには太田村の山小屋から持ち帰った古手紙の類かと思われます。

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