カテゴリ: 文学

音楽CDの新譜です。
ジョヴァンニ・レコード 2014/12/01発売 定価2,700円+税
 
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今年8月30日に、紀尾井ホールで行われた同名のコンサートのライヴ録音です。三好真亜沙さん作曲、女声アンサンブルjuri さん演奏の「女声合唱とピアノのための「冬が来た」」が含まれています。
 
混声合唱とピアノのための「平行世界、飛行ねこの沈黙」   作詩:宮岡絵美 作曲:増井哲太郎
 1 風
 2 うたひ手
 3 今日わたしは星をかった
 4 平行世界、飛行ねこの沈黙
指揮:雨森文也  ピアノ:平林知子 合唱:CANTUS ANIMAE
 
男声合唱とピアノのための「シーラカンス日和」  作詩:水無田気流 作曲:田中達也
 1 午前四時の自動販売機 
 2 名前 
 3 シーラカンス日和
 4 烏唄 
 5 音速平和
指揮:伊東恵司  ピアノ:水戸見弥子  合唱:なにわコラリアーズ
 
女声合唱とピアノのための「冬が来た」   作詩:高村光太郎 作曲:三好真亜沙
 1 冬が来る
 2 冬が来た
 3 孤独が何で珍しい
 4 冬の奴
指揮:藤井宏樹  ピアノ:五味貴秋  合唱:女声アンサンブルJuri 

 
混声合唱とピアノのための「いのち」  作詩:工藤直子 作曲:名田綾子
 1 花マルで 待つ
 2 深呼吸
 3 さようならこんにちは
 4 祝日 
 5 いのち
 6 もしも
指揮:清水敬一  ピアノ:小田裕之  合唱:松原混声合唱団
 
無伴奏混声合唱のための「花は咲く」  作詩:岩井俊二 作曲:菅野よう子 編曲:北川 昇  
指揮:清水敬一  合唱:Premiere Choir (参加者全員による合同合唱団)
 
 
それぞれ、一流の合唱団による好演です。ぜひお買い求めを。
 
また、楽譜も出版されていますので、全国の合唱団の皆さん、演奏会やコンクールなどでどんどん取り上げて下さい。特に「女声合唱とピアノのための「冬が来た」 」を扱っていただければ、このブログにてご紹介します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月6日
 
明治25年(1892)の今日、光太郎の父、光雲に対し、「西郷隆盛像木型制作に従事し格別勉励につき」ということで、慰労金45円が下賜されました。

一昨日、六本木東京ミッドタウン内のFUJIFILM SQUAREさんにある写真歴史博物館さんにて、企画写真展 「土門拳 二つの視点」第二部「風貌」を観たあと、目黒区駒場東大前の日本近代文学館さんに行きました。
 
閲覧室での調べ物が主でしたが、調べ物終了後、複写をお願いしている間に、2階の展示ホールで行われている以下の展示も観て参りました。 

近代文学の名作・大正

期 日 : 2014年11月29日(土)~2015年3月28日(土)
時 間 : 午前9:30~午後4:30(入館は4:00まで)
料 金 : 一般 100円 団体割引はありません
休館日  
: 日・月曜 年末年始(12/26~1/5) 第4木曜(1/22、2/26、3/26)
       特別整理期間(2/17~21)

 
日本近代文学館では春・秋2回の特別展の他に、主に複製資料から構成し、日本近代文学の代表的な作家や作品を通史的に紹介する通常展を年2回開催しています。
わが国の近代史上、元号「大正」はわずか15年の短い期間でしたが、明治維新以降に始まった急速な西欧化が実を結び、一挙に花開いた時代でした。
大正期の文学は、夏目漱石や森鷗外ら明治作家の作風の完成期であるとともに、雑誌「白樺」を中心に個人主義・人格主義を基にした文学が展開された時期でもありました。さらに、大正デモクラシーや労働運動が起こり、その中でプロレタリア派・新感覚派など新しい文学が芽生えました。
通常展示「近代文学の名作・大正」は、この日本近代文学の発展期である大正時代の文学の諸相や代表的な作家たちの功績を、当館所蔵の複製原稿・書簡、書籍・雑誌等で紹介するものです。
主な出品資料
<原稿・草稿(すべて複製)>
夏目漱石「こゝろ」 森鷗外「北条霞亭」 谷崎潤一郎「痴人の愛」   
有島武郎「生れ出る悩み」 室生犀星「小景異情」 葛西善蔵「暗い部屋にて」   
広津和郎「志賀さんと私」 宇野浩二「苦の世界」 菊池寛「受難華」   
芥川龍之介 「蜘蛛の糸」「侏儒の言葉」「歯車」
宮沢賢治「雨ニモマケズ」「セロ弾きのゴーシュ」
 
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残念なことに、光太郎個人の草稿や著書は展示されていませんでしたが、光太郎が寄稿していた『白樺』や、森鷗外、宮澤賢治、佐藤春夫など、光太郎関連の深い作家にまつわる品々が並んでいました。
 
ところで、日本近代文学館さんと同じ駒場公園内に、旧前田侯爵邸があります。一昨日は天気もよく、紅葉が実に見事でした。もう師走なのですが、まだまだ都内は紅葉が見られます。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月5日
 
昭和17年(1942)の今日、NHKラジオで光太郎の詩「軍神につゞけ」「山道のをばさん」が朗読されました。
 
「軍神につゞけ」は午前7:00~の「愛国詩」という番組で、朗読は俳優の故・岩田直二。JOBK(大阪放送局)の制作でした。なお、この詩はのちに「みなもとに帰るもの」と改題され、詩集『をぢさんの詩』(昭和18年=1943)に収録されました。
 
「山道のをばさん」は午後9:00~の「詩の朗読」という番組で、JOAK(東京放送局)から和田放送員の朗読でオンエアされました。この詩は前月に日本文学報国会の事業で「日本の母」として顕彰された山梨県穂積村の井上くまを謳った詩です。
 
この時期、太平洋戦争開戦一周年が近づき、大本営や大政翼賛会は、光太郎らの戦争詩をプロパガンダとして国民の戦意昂揚に活用していました。

昨日は港区麻布十番に行って参りました。
 
詳細がよくわからなかったので、事前にご紹介しませんでしたが、以下の展覧会が開催中です。

装幀画展Ⅱ~文学とアートの出逢い~

会 期 : 2014年11月19日(水)~11月30日(日)
会 場 : パレットギャラリー 港区麻布十番2-9-4
時 間 : 11:00~19:00
 
本の装幀は、文学を彩る美術として、古くから多くの人に愛され続けています。
23人の作家が自由に好きな本を選び、その装幀画を描いていただきました。
展示では、原画とともに装幀カバーに仕立てた文庫本を展示します。
個性あふれる作品と文学とのコラボレーションを楽しんでいただけたら幸いです。
 
 
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というわけで、オリジナルの装幀(ブックデザイン)の展覧会です。
 
出典作家・作品は上記画像にも載せましたが、文字にします。その方がネット検索にひっかかりますので。
 
石居麻耶  パパ・ユーアクレイジー(ウィリアム・サローヤン・訳伊丹十三)
岩淵華林  この闇と光(服部まゆみ)
宇野亜喜良 悪魔の辞典(ピアス/西川正身・編訳)000
大竹彩奈  氷点(三浦綾子)
大谷郁代  猫を抱いて象と泳ぐ(小川洋子)
蟹江杏   杏っ子(室生犀星)
財田翔悟  魍魎の匣(京極夏彦)
新藤杏子  春と修羅(宮澤賢治)
高橋千裕  失楽園(ジョン・ミルトン)
田嶋健太郎    智恵子抄(高村光太郎)
立木美江  山月記(中島敦)
中西静香  小さいおうち(中島京子)
中原亜梨沙    金子みすゞ詩集(金子みすゞ)
名古屋剛志    サヨナライツカ(辻仁成)
成田朱希  偽偽満州(岩井志麻子)
新倉佳奈子    草迷宮(泉鏡花)
野村直子  第七官界彷徨(尾崎翠)
深瀬優子  お縫い子テルミー(栗田有起)
まちゅまゆ 鏡の中の鏡(ミヒャエル・エンデ)
宮本順子  宮澤賢治童話集(宮澤賢治)
桃田有加里   供述によるとペレイラは……(アントニオタブッキ)
山科理絵  カイン"自分の弱さに悩む君へ"(中島義道)
山城有未  ZOO1(乙一)
 
 
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芸大日本画科ご出身の、田嶋健太郎氏という方が「智恵子抄」を出展なさっています。ありがたや。
 
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「智恵子抄」というと、大正浪漫ふうの縞の着物に日傘、手にはレモン、といったところがお約束ですが、そういう固定観念にとらわれていないところが、かえっていいと思いました。
 
他の出展作家の皆さんも、それぞれに力のこもった作品です。一人一点、というところで、妥協がないような気がしました。上記リストにある通り、古今東西の作品からのインスパイアとなっている点も良いと思います。
 
いつも同じようなことを書いていますが、数十年後、「高村光太郎? 誰、それ?」、「『智恵子抄』? 知らないなぁ……」ということにならないことを祈ります。
 
今週末まで開催されています。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月27日
 
昭和7年(1932)の今日、東京美術学校講堂で「黒田清輝胸像」が除幕されました。
 
光太郎肖像彫刻、一つの頂点です。
 
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しかし、この年、智恵子が自殺未遂。その後、完全に夢幻界の住人となり、光太郎もその対応に追われ、しばらくは彫刻も非常に寡作の時期が続くことになります。

石川は金沢の室生犀星記念館でのイベント(講座)の情報です。

『我が愛する詩人の伝記』を読む 第2回『高村光太郎』

期 日 : 2014年11月29日(土)  
時 間 : 午前10時~11時
会 場 : 室生犀星記念館 石川県金沢市千日町3-22
講 師 : 上田正行氏(同館館長)
 
※お電話でお申し込みください(室生犀星記念館:076-245-1108) 入館料が必要です。
 
 
『我が愛する詩人の伝記』は、昭和33年(1958)に雑誌無題『婦人公論』に連載され、同年単行本化された室生犀星の著書です。詩人としての犀星が間近に見た詩人達の、「伝記」というより「印象記」「回想」に近いものです。
 
取り上げられたのは12人。『婦人公論』掲載順に、北原白秋、光太郎、萩原朔太郎、釈迢空(折口信夫)、佐藤惣之助、島崎藤村、堀辰雄、立原道造、津村信夫、山村暮鳥、百田宗治、千家元麿です。
 
貴重な回想を含み、さらに犀星自身、そう書いているように「詩人の伝記を書いてゐるが、どうもすぐ自分のことを書いてしまふ」というわけで、犀星本人の人間像も浮き彫りになっている一冊です。
 
したがって、この書自体が研究の対象となることも多く、今回の講座でもそういうわけで取り上げるのだと思われます。ちなみに全6回の予定だそうで、白秋を扱った初回の講座は先月終了。今後、光太郎、朔太郎、釈迢空、立原道造と佐藤惣之助、藤村と千家元麿というラインナップになっています。
 
ちなみに今回の講座とは関係ないとは思うのですが、『我000が愛する詩人の伝記にみる室生犀星』(葉山修平著 龍書房 平成12年=2000)という書籍も刊行されています。
 
さて、『我が愛する詩人の伝記』の中で、光太郎がどう描かれているか、少し紹介しておきます。中心になっているのは、青年期の回想です。
 
犀星は光太郎より6つ年下の明治22年(1889)の生まれ。中央の詩壇にデビューするのも大正に入ってからと、光太郎のそれより後のことです。そこで、すでに名声を得ている先輩に対するやっかみのような、シニカルな見方が垣間見えます。
 
千駄木の桜の並木のある広いこの通りに光太郎のアトリエが聳え、二階の窓に赤いカーテンが垂れ、白いカーテンの時は西洋葵の鉢が置かれて、花は往来のはうに向いてゐた。あきらかにその窓のかざりは往来の人の眼を計算にいれたある矜(ほこり)と美しさを暗示したものである。千九百十年前後の私はその窓を見上げて、ふざけてゐやがるといふ高飛車(たかびしや)な冷たい言葉さへ、持ち合すことのできないほど貧窮であつた。かういふアトリエに住んでみたい希(のぞ)みを持つたくらゐだ。四畳半の下宿住ひと、このアトリエの大きい図体の中にをさまり返つて、沢庵と米一升を買ふことを詩にうたひ込む大胆不敵さが、小面憎かつた。
 
また、そのアトリエをおとなったものの、実に三回にわたり、智恵子に追い返されたエピソードも語られています。
その時の智恵子を「夫には忠実でほかの者にはくそくらへといふ目附」と評しています。ちなみにまだこの時点では犀星と光太郎はお互い相知らぬ時期だったそうです。
 
しかし、何も光太郎智恵子をけちょんけちょんにけなしている訳ではありません。
 
光太郎の死は巨星墜つといふことばどほりのものを、私に感じさせた。巨星墜つといふばかばかしいことばが、やはりかれの場合ふさはしく、それだけ私は依然距たりをおぼえてゐたのだ。
 
ここだけ取り上げても伝わりにくいのですが、「距たり」といっても、「敬遠」とか「拒絶」ではなく、「脱帽」に近い感覚です。
 
このほかの部分にも、光太郎に対する敬愛の情がしっかり伝わってきます。また、遺された光太郎から犀星宛の書簡を見ると、光太郎の母が亡くなった際には犀星から心のこもった手紙が来たことや、逆に犀星の母(義母)の逝去に際しても、光太郎は衷心から哀悼の意を表しています。
 
先に挙げたシニカルな見方も、犀星が自らを偽悪家として韜晦する一面を見せているように思われます。そうした部分が、この書物自体、研究の対象として重要視されている一因でしょう。
 
『我が愛する詩人の伝記』、光太郎の回の最後はこんなふうに終わっています。
 
智恵子さん曰く、四十何年か前に見た人がまたいやなことを書いてゐるわね、なんてしつこい厭な奴!
 
 
さて、犀星記念館の講座。お近くの方、ぜひどうぞ。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月22日
 
昭和2年(1927)の今日、詩人の尾崎喜八に絵葉書を送りました。
 
この時期の光太郎は、自作の彫刻を写真に撮り、絵葉001書にして使っています。この葉書もそうで、この時開催されていた大調和展覧会に出品していた塑像「某夫人の像」をプリントしています。
 
「某夫人」=智恵子です。文面は以下の通り。
 
 この間の夜は急用があつたので失敬しました。二三日前 大調和展へも来られたといふ事を千家君にききましたが その日も遅く行つたので会へないで残念でした。
 此の彫刻は誰も本当には認めませんが自分では信用してゐます。多くの芽を持つてゐると思ひます。
 
光太郎はこの他にも智恵子像を作っていますが、それらすべて、現存が確認できていません。ほとんど昭和20年(1945)の空襲で燃えてしまったと推定されています。
 
どこかからひょっこり出てこないかと期待しているのですが……。
 

このところ、新刊紹介ということで記事を書いています。一昨日は池川玲子『ヌードと愛国』(講談社現代新書)、昨日は清家雪子『月に吠えらんねえ(2)』(講談社アフタヌーンKC)と、講談社さんの書籍が続き、今日も講談社さんのものです。
 
別に当方、講談社さんには何の義理もありませんし(笑)、講談社さんも光太郎に何の義理もないのでしょう。たまたまなのだと思います。  
富岡幸一郎選 高村光太郎他著 2014/11/10 講談社(講談社文芸文庫) 定価1,400円+税
 
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版元サイトより
 
妻に先立たれた夫の日々は、悲しみの海だ。
男性作家の悲しみは、文学となり、その言葉は人生の一場面として心に深く沁み込んでいく。
例えば藤枝静男の「悲しいだけ」のように……。
高村光太郎・有島武郎・葉山嘉樹・横光利一・原民喜・清岡卓行・三浦哲郎・江藤淳など、静謐な文学の極致を九人の作家が描いた、妻への別れの言葉。
 
目次
 元素智恵子  高村光太郎
 裸形  高村光太郎
 智恵子の半生  高村光太郎

 小さき者へ  有島武郎
 出しようのない手紙  葉山嘉樹
 春は馬車に乗って  横光利一
 死のなかの風景  原民喜
 朝の悲しみ  清岡卓行
 にきび  三浦哲郎
 悲しいだけ  藤枝静男
 妻と私  江藤淳

 
というわけで、光太郎の詩が二篇、散文が一篇選ばれています。巻頭に挙げていただいているのがありがたいところです。
 
「元素智恵子」、「裸形」ともに、昭和24年(1949)に作られた六篇から成る連作詩「智恵子抄その後」の中の一篇です。「智恵子の半生」は昭和15年(1940)の雑誌『婦人公論』に「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」の題で発表され、翌年刊行された詩集『智恵子抄』に改題のうえ、収められたエッセイです。
 
したがって、目新しいものではないのですが、他の作家がどのように妻の死と向き合っているのか、合わせて読むことでまた違ったとらえ方が出来るのではないかと思います。
 
個人的には江藤淳「妻と私」に感動しました。実はそれ以外の作品は未読です(昔、読んだ作品はありますが)。なかなか重たいテーマの作品集なので、読むのが辛い部分がありまして……。
 
ともかくも、ご紹介しておきます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月19日
 
大正11年(1922)の今日、田村松魚とともに、光雲の懐古談を聞き始めました。
 
この談話は翌月まで続き、昭和4年(1929)、萬里閣書房から『光雲懐古談』が刊行され、その前半の「昔ばなし」としてまとめられました。筆録は田村です。光雲が語ったのは自己の半生、同時代の美術界の様相などです。
 
『光雲懐古談』に収められた田村の言。
 
此の「光雲翁昔ばなし」は大正十一年十一月十九日(日曜日)の夜から始め出し、爾来毎日曜の夜毎に続き、今日に及んでゐる。先生のお話を聴いてゐるものは高村光太郎氏と私との両人限りで静かな空気をこわすといけない故、絶対に他の人を立ち入らせなかつた。最初の第一回は光太郎氏宅他は今日まで先生のお宅でされつゝある。
 
ただ、以前にも書きましたが、昭和2年(1927)に春陽堂から刊行された『漫談明治初年』という書籍に収められている光雲談話と重なる部分があり、精査が必要です。
 
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本日も新刊紹介です。

月に吠えらんねえ(2)

清家雪子著 2014/10/23 講談社(アフタヌーンKC) 定価740円+税
 
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版元サイトから
□(シカク:詩歌句)街。そこは近代日本ぽくも幻想の、詩人たちが住まう架空の街。実在した詩人の自伝ではなく、萩原朔太郎や北原白秋らの作品から受けた印象をキャラクターとして創作された、詩人たちと近代日本の業と罪と狂気の物語。衝撃的な内容で話題の1巻に続き、近代日本の闇へ踏み込む第2巻登場!
 
帯文から
朔太郎、白秋、犀星らの作品から詩人キャラをクリエイト! 厖大な資料を下敷きに妄想全開、前から後から縦横無尽にやらかした、一線を越えた詩人漫画!
 
 
昨年10月に、講談社さんの『月刊アフタヌーン』で連載が始まり、今年4月に単行本の第1巻が刊行された話題作(先月発行された詩誌『詩と思想』10月号でも大きく紹介されました)の2巻目です。
 
主人公の「朔(萩原朔太郎)」を中心に、「白さん(北原白秋)」「ミヨシくん(三好達治)」「ミッチーくん(立原道造)」「チューヤくん(中原中也)」「犀(室生犀星)」などが紡ぎ出す幻想世界の物語です。
 
第六話「1945」では、第一巻にも出てきた白皙の「コタローくん」と「機動戦士ガンダム」のガンタンクのような「チエコさん」が再登場。突如起こった空襲のために「チエコさん」は大破してしまいます。しかし、この回で、「チエコさん」は「コタローくん」が作ったラジコンだと言うことが判明。実際の「智恵子さん」はもはや死んでいることも。
 
大破して回線がショートた「チエコさん」が、まるで戦時中のラジオのようにエンドレスでつぶやき続けるのは、「コタローくん」の詩。現実の光太郎としては昭和18年(1943)に書いた「戦に徹す」です。
 

いざといふ時気のそろふのは007
日のみ子を上(かみ)にいただくわれらがともの
幾千年来かはる事なき血のしるしだ。
いま米英の大軍を敵として東亜に戦ふ。
かの元寇の国難は物の数ならず、
まさに国つ初めの戦このかた
再び来りて三たびは敢えて来らざらん
八紘(あめのした)を清め祓ふの戦だ。
この戦を戦ふ時、
われらがとも一人(いちにん)と雖も悉く戦ひ、
悉く戦の場に立ち、
悉く戦の心にきはまり、
悉く日常坐臥の生活を戦に捧げざるはない。
国民の眼(まなこ)戦の一点に集まり、
国民の思ひ戦を焦点としてめぐる。
(略)
世界を奪はんとしてのぼせ上るは米英にして、
世界を清めんとするはわれらである。
この戦のいづれに神のみこころありや。
明々白々、われら断じて信ずる。
米英破る。008
世界健康の美かならず成る。
われらの手によつてかならず成る。
 
 
「コタローくん」はバグッた「チエコさん」を叩き壊します。すると、次の瞬間、なぜか海上に浮かんでいる「コタローくん」。やはりバックに彼の詩が。やはり現実の光太郎の作品としては、昭和22年(1947)に書かれた連作詩「暗愚小伝」の構想段階で書かれた「わが詩をよみて人死に就けり」です。
 
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かつた。
その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
 
やがて「コタローくん」の前に現れる「チエコ」。こちらはラジコンの「チエコさん」ではなく、生身。ただし、もはやこの世の者ではない、幻です。
 
幻の「チエコ」のセリフが、以下の通りです。

ねえコタロー015
私と同じね
狂うしかなかったのね
片田舎でひっそり暮らしていたお姫様が…
突然目覚め
膨張した
身の丈に合わない自我を
小っちゃな無垢な体に抱えきれず
ぱあんと弾けてしまったのね
 
 
ともに「壊れ」てしまった智恵子と光太郎が、よく表現されています。
 
ところで、現実の光太郎はがっしりした体躯なのに、「コタローくん」は、なよっとした青びょうたんのような風貌です。第一巻の段階では、この理由が分かりませんでしたが、どうやら白皙の「コタローくん」は、「死の恐怖から私自身を救ふために/「必死の時」を必死になつて私は書いた。」という戦時中の光太郎の痛々しい自我を象徴しているのではないかと気がつきました。ものすごい伏線ですね。
 
ちなみに「必死の時」という詩は以下の通り。昭和16年(1941)の作品です。画像は詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)から採りました。
 
 必死にあり。
 その時人きよくしてつよく、012
 その時こころ洋洋としてゆたかなのは
 われら民族のならひである。
 
 人は死をいそがねど
 死は前方から迫る。
 死を滅すの道ただ必死あるのみ。
 必死は絶体絶命にして
 そこに生死を絶つ。
 必死は狡知の醜をふみにじつて
 素朴にして当然なる大道をひらく。
 天体は必死の理によって分秒をたがえず、
 窓前の茶の花は葉かげに白く、
 卓上の一枚の桐の葉は黄に枯れて、
 天然の必死のいさぎよさを私に囁く。
 安きを偸むものにまどひあり、
 死を免れんとするものに虚勢あり。013
 一切を必死に委(ゐ)するもの、
 一切を現有に於て見ざるもの、
 一歩は一歩をすてて
 つひに無窮にいたるもの、
 かくの如きもの大なり。
 生れて必死の世にあふはよきかな、
 人その鍛錬によつて死に勝ち、
 人その極限の日常によつてまことに生く。
 未練を捨てよ、
 おもはくを恥ぢよ、
 皮肉と駄々をやめよ。
 そはすべて閑日月なり。
 われら現実の歴史に呼吸するもの、
 今必死のときにあひて、
 生死の区区たる我慾に生きんや。
 心空しきもの満ち、
 思い専らなるもの精緻なり。
 必死の境に美はあまねく、
 烈々として芳しきもの、
 しずもりて光をたたふるもの
 その境にただよふ。
 
 ああ必死にあり。
 その時人きよくしてつよく、
 その時こころ洋々としてゆたかなのは
 われら民族のならひである。
 
この詩について、光太郎自身、「死の恐怖から私自身を救ふために/「必死の時」を必死になつて私は書いた。」と書いているのです。

ちなみに「書いた」は、時期的に考えて「制作した」という意味ではなく「人から頼まれて「書」として揮毫した」という意味だと思われます。実際、そういうことがありました。
 
そうした事情も知らないヘイトスピーチ大好きな幼稚な右翼が、「格調高い名詩」などと絶賛しています。もっと勉強しろよと言いたくなりますね。
 
 
さて、「月に吠えらんねえ」。一巻ともども、ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月18日
 
昭和27年(1952)の今日、光太郎の実弟で鋳金の人間国宝となった豊周の初めての個展が、日本橋三越で開幕しました。

芸術の秋、文化の秋、ということで、このところ光太郎に関連するイベントが盛りだくさんです。このブログ、それらの紹介と、足を運んでのレポートで、かなりネタを稼がせていただきました。今月に限っても、まだ三つ四つ、把握しているイベントがあるのですが、一旦そちらから離れます。
 
予定では今日から4回、新刊書籍をご紹介します。イベントの記事と比べると、速報性の意味であまり重要でないかなと思い、後回しにしていましたが、いつまでも紹介しないと「新刊」と言えなくなりますし、「こういう本が出ているのに気づいていないのか」と思われるのも癪ですので。

山に遊ぶ 山を思う

正津勉著  2014/9/30 茗渓堂  定価 1,800円+税
 
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著者の正津氏は詩人。山岳愛好家でもあります。その正津氏がこの十年ほどの間に歩いた全国の山々の紀行です。基本、白山書房刊行の雑誌『山の本』に「山の声」の題で連載されていたものに加筆訂正を加えたものだそうです。
 
単なる山岳紀行ではなく、それぞれの山と縁の深い文学者のエピソード、作品を紹介しながらというスタイルです。
 
さて、光太郎。
 
第12章の「詩人逍遥 赤城山――萩原朔太郎・高村光太郎」で扱われています。
 
光太郎は赤城山を非常に愛し、生涯に何度も訪れています。明治37年(1904)には、5月から6月にかけてと、7月から8月にかけての2回、計40日ほどを赤城に過ごしており、あとから合流した与謝野鉄幹ら新詩社同人のガイド役も買って出ています。また、昭和4年(1929)にも、草野心平らを引き連れて登っています。この時同行した詩人の岡本潤の回想に拠れば、光太郎は下駄履きで登っていったとのこと。ちなみに前橋駅で落ち合った朔太郎は登らなかったそうです。
 
こうしたエピソードや、赤城山に関わる光太郎の短歌などが紹介されています。
 
他にも宮澤賢治、更科源蔵、川路柳虹、竹内てるよ、大町桂月、尾崎喜八、風間光作、真壁仁といった、光太郎と縁の深い文学者のエピソードが盛りだくさんです。
 
先頃、『日刊ゲンダイ』さんに書評が載りました。
 
 北は北海道の離島に位置する利尻山から、南は薩摩半島の南端の開聞岳まで、日本全国30カ所の山々を歩いた詩人による山岳紀行。スポーツとしての登山ではなく、都会の喧騒から離れることで俗世間の煩わしさを忘れ、自然の中で心を豊かに遊ばせる山行きの楽しさを感じさせてくれる。
  特筆すべきなのは、それぞれの山にちなんだ詩歌や言葉など、先人の文学をあらかじめ下調べした上で山に向かっている点。たとえば、津軽富士と呼ばれる岩木山の章では、太宰治の「津軽」や河東碧梧桐の「三千里」、今官一の「岩木山」などの一節が紹介されているほか、地元詩人の方言詩などにも触れていく。
  群馬県の赤城山の章では、萩原朔太郎の「月に吠える」「蝶を夢む」「青猫」や、高村光太郎の「明星」、さらに草野心平や金子光晴の名も登場。自らの山行きを悠久の時を超えた先人の言葉と重ね合わせながら、より深く楽しんでいる姿が何とも味わい深い。

 
「高村光太郎の「明星」」には「おいおい!」と思いましたが、よく書けています。
 
ちなみに著者の正津氏には、他にも光太郎にふれたご著書がありますので、紹介しておきます。

人はなぜ山を詠うのか001

平成16年 アーツアンドクラフツ 定価2,000円+税  版元サイトはこちら
 
こちらも山と文学者の関わりについて述べたもの。第一章が「私は山だ……高村光太郎」。こちらでは上高地、安達太良山、磐梯山、そして花巻郊外太田村の山口山といった、光太郎が足を運んだり、作品でふれたりした山を追っています。

小説尾形亀之助 窮死詩人伝

平成19年(2007) 河出書房新社 定価2,200円+税   000版元サイトはこちら
 
光太郎と交流のあったマイナー詩人・尾形亀之助の評伝です。光太郎も登場します。帯には光太郎の亀之助評も。

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合わせてお読み下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月16日
 
昭和20年(1945)の今日、光太郎の住む花巻郊外太田村の山小屋を、編集者の鎌田敬止が訪れました。
 
鎌田は岩波書店を振り出しに、北原白秋の弟・鉄雄が経営していたアルス、平凡社など、光太郎とも縁のある出版社を渡り歩き、昭和14年(1939)には八雲書林を創立しました。八雲書林は、戦時中に他の出版社と統合して青磁社となり、この時は青磁社の所属でした。さらに同24年(1949)頃に白玉書房を設立。休業中の龍星閣に代わって、『智恵子抄』を復刊しました。

昨日、文京区大塚の「第59回高村光太郎研究会」をご紹介しましたが、同じ日に別の学会が開催されす。 

第8回 明星研究会 シンポジウム 巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・光太郎

<主催> 明星研究会 <世話人> 平出洸
<後援> 文化学院・毎日新聞社・国際啄木学会・堺市

<協賛> 与謝野晶子倶楽部・与謝野晶子文芸館
 
 明治から昭和初期に至る近代と呼ばれた時代、日本はフランスから詩・小説、絵画・彫刻を中心に多くの刺戟を受けてきました。首都パリにはフランスに憧れる芸術家・文学者が集まり、ひとつのコミュニティを作ってもいます。
 今回は、明治年間にパリを訪れたこうした人々のうち、小説「ふらんす物語」で知られる永井荷風、ロダンに私淑した高村光太郎、そして与謝野寛・晶子夫妻に焦点を当ててみます。20世紀初頭のパリが彼らの価値観をどう揺さぶり、何を発見させ、ときに挫折感を味わわせたか。そして帰国後の彼らはそれぞれの体験を消化しつつ、どういった進展を見せて行くか。
 パリとの邂逅は、日本人にとって今なお魅了される新鮮なテーマです。多くの皆さまのご参加を期待しております。
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●日時● 2014年11月22(土)14時00分~16時30分 (13時30分開場)
●場所● 日比谷コンベンションホール注・前年までと会場が変わりました)
    (千代田区日比谷公園1番4号【旧・都立日比谷図書館】)
●会費● 2,000円(資料代含む) 学生1,000円(学生証提示)
●定員●200人
●内容●
    Ⅰ 14:00  開会挨拶  西川恵(毎日新聞社客員編集委員)
    Ⅱ 14:05 ~14:50
      第1部 対談「寛と晶子の歩いたパリ」
        永岡健右(日本大学講師) 米川千嘉子(歌人)
    Ⅲ 14:50 ~15:05 休憩
    Ⅳ 15:05 ~16:25
      第2部 鼎談「パリの果実は甘かったか?~晶子・荷風・光太郎」
        今橋映子(東京大学教授) 内藤明(歌人・早稲田大学教授)
        松平盟子(歌人)
    Ⅴ 16:25 閉会挨拶 平出 洸(平出修研究会主宰)
                    総合司会:古川玲子
●申し込み●「明星研究会」事務局あて。
 ネット上での受付は11月21日(金)まで(先着順)。
 宛先メールアドレスはapply(at)myojo-k.net です。
 申し込みの送信をされる際には、
  (イ)上記アドレスの(at)を半角の @ に変えてください。
  (ロ)メールの件名は、「明星研究会申し込み」とご記入いただき、
  (ハ)メールの本文に、お名前と連絡先住所、電話番号をご記入ください。
  (二)ご家族同伴の場合はご本人を含めた全体の人数も添えてください。
 なお、当日は空席次第で会場でも直接受け付けます。
●終了後懇親会●4,000円(場所は当日お知らせいたします)

 
要項にあるお名前のうち、「世話人」の平出 洸氏は『明001星』に拠った歌人、平出修の令孫。
 
第2部の鼎談の東京大学教授・今橋映子氏には『異都憧憬 日本人のパリ』(柏書房・平成5年=1993)というご著書があります。この中に、「第2部 憧憬のゆくえ―近代日本人作家のパリ体験」という項があり、第1章が「乖離の様相―高村光太郎」となっています。だいぶ前ですが、読んでみて「ほう」と思つた記憶があります。
 
体が二つあれば参加したいのですが……。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月13日
 
大正元年(1912)の今日、『読売新聞』に連載中の『西洋画所見』の中で、夏目漱石に噛みつきました

来週末、文京区大塚にて、「第59回高村光太郎研究会」が開催されます。

第59回高村光太郎研究会

日 時 : 2014年11月22日(土)
時 間 : 午後2時~5時  11/13追記 
場 所 : アカデミー音羽3階学習室A 文京区大塚5-40-15
       東京メトロ有楽町線護国寺駅徒歩2分
 
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参加費  500円
 
<研究発表>
「高村光太郎の詩 「N-女史に」の背景」 大島裕子氏(名古屋・高村光太郎談話会
「高村光太郎と雑誌『創作』-自選短歌作品を中心に-」山田吉郎氏(鶴見大学短期大学部教授)
 
研究発表会後、懇親会あり
 
この会、元々は昭和38年に、光太郎と親交のあった詩人の故・風間光作氏が始めた「高村光太郎詩の会」に端を発します。その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、年に一度、研究発表会を行っています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏。
 
ほぼ毎年、この世界の第一人者、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生もご参加下さっていて、貴重なお話を聞ける良い機会です。しかし、そのわりに、参加者が少なく、淋しい限りです。
 
当方、昨年は同じ日に愛知碧南で開催されていた「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏のご講演を聴きに行き、欠席しました。今年は参加します。
 
事前の参加申し込み等必要ありません。直接会場にいらしていただければ結構です。ぜひ足をお運び下さい。
 
研究会に入会せず、発表のみ聴くことも可能です。会に入ると、年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付されますし、そちらへの寄稿が可能です。当方、こちらに『高村光太郎全集』補遺作品を紹介する「光太郎遺珠」という連載を持っております。その他、北川太一先生をはじめ、様々な方の論考等を目にする事ができます。
 
ご質問等あれば、はこちらまで。000
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月12日
 
平成12年(2000)の今日、静岡アートギャラリーで開催されていた「高村光太郎の書 智恵子の紙絵展」が閉幕しました。
 
光太郎作品は54点。彫刻は2点のみで、あとは書簡、草稿、色紙、掛け軸などの肉筆もの、そして装幀や題字を手がけた書籍など、「書」にこだわった珍しい展覧会でした。
 
智恵子作品は52点。書簡1通と油絵「ヒヤシンス」の他、紙絵の実物が50点並びました。

昨日は、千葉県の八千代市、秀明大学飛翔祭「宮沢賢治展 新発見自筆資料と「春と修羅」ブロンズ本」に行って参りました。
 
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稀覯本コレクターでもある同大学学長・川島幸希氏の集めた貴重資料が惜しげもなく並んでいました。また、ありがたいことに写真撮影可でした。
 
大きな教室を3つ使い、第一室には、宮澤賢治関連。今年9月に報じられた盛岡高等農林学校の同級生だった成瀬金太郎に送ったはがきや在学中のスナップ写真、背表紙に詩集と記されたことが不満で、自らブロンズの粉で文字を消したという『春と修羅』、自筆署名入りの『注文の多い料理店』、などなど。
 
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賢治作品の載った書籍、初出雑誌なども。
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左は文圃堂版『宮沢賢治全集』。昭和9年(1934)から翌年にかけての刊行で、全三巻。光太郎も編者に名を連ね、装幀、題字、装画も光太郎が手がけています。
 
その内容見本に書いた光太郎の「宮澤賢治に就いて」の書き出しは以下の通りです。
 
 宮澤賢治の全貌がだんだんはつきり分つて来てみると、日本の文学家の中で、彼ほど独逸語で謂ふ所の「詩人(デヒテル)」といふ風格を多分に持つた者は少いやうに思はれる。往年草野心平君の注意によつて彼の詩集「春と修羅」一巻を読み、その詩魂の厖大で親密で源泉的で、まつたく、わきめもふらぬ一宇宙的存在である事を知つて驚いたのであるが、彼の死後、いろいろの詩稿を目にし、又その日常の行蔵を耳にすると、その詩篇の由来する所が遙かに遠く深い事を痛感する。
(略)
彼こそ、僅かにポエムを書く故にポエトである類の詩人ではない。そして斯かる人種をこそ、われわれは長い間日本から生れる事を望んでゐたのである。
 
 最も早い時期に賢治を世に紹介した文章の一つです。
 
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こちらは草野心平が編集・刊行していた雑誌『銅鑼』(昭和2年=1927)。賢治の「イーハトヴの氷霧」が掲載されています。光太郎の作品も。三者の絆を示す象徴的な一冊ですね。
 
第二室は賢治ゆかりの文学者の著書など。当方としてはこちらの方に興味をそそられていました。
 
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光太郎の『道程』私家版。天・地・前、三方の小口に金押しが施されています。さらに遊び紙がたくさん入っており、そこに上の画像の「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る 光」、「道程 高村光太郎」×2の3箇所の識語署名。桐箱が附いており、箱書きは佐藤春夫だそうです。
 
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たまたまこれを見ている時に、川島学長が会場にいらしていて、ガラスケースから出して下さり、展示で開かれている以外のページも見せて下さいました。
 
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説明される川島氏。青いジャケットの方です。
 
通常の『道程』も並んでいました。ただし、カバー附きです。カバー附きは3~4冊残っているかいないか、というものですし(当方もカバーなしは持っていますが)、しかもそのカバーも非常に状態がよいもので、「現存する中で最も状態のよい一冊」というキャプションも大げさではありません。
 
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その他、光太郎とも関連するもの。
 
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萩原朔太郎『月に吠える』。与謝野晶子宛署名入り。
 
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草野心平『第百階級』。光太郎が序文を書いています。
 
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中原中也『山羊の歌』。光太郎が装幀、題字を手がけました。何冊か並んでいて、三好達治宛署名入りもありました。
 
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午後一時からは、賢治の実弟で、賢治作品の紹介に尽力した清六の令孫・宮澤和樹氏の講演、「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」。二百人近く聴衆が集まったのではないでしょうか。
 
 
親族という立場からの賢治ということで、非常に分かりやすく、また、興味深いお話でした。特にありがたかったのは、光太郎についてかなり言及して下さったことです。
 
たしかに賢治作品には他に類例が無く、一種独特の世界を形成していますが、賢治ファンの中には、とにかく賢治一本槍で、その周辺には眼を向けない方が多いように感じます。ところが昨日の和樹氏は、そうした世界を広めるために光太郎が果たした役割は非常にありがたかった的なお話をなさり、こちらとしてもありがいかぎりでした。
 

以前にも書きましたが、逆に光太郎が「雨ニモマケズ」を改変したという、いわれのない都市伝説的な記述(それもエラい宗教学者のセンセイが展開しています。あちこちから「光太郎は無実だ」と批判が出ているのに耳を貸そうとしません。「老害」の典型例ですね(笑))も見かけます。そういうことはありませんので、よろしくお願い申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月10日
 
昭和19年(1944)の今日、小山書店から「天平彫刻」が刊行されました。
 
光太郎を含む16人の共著で、光太郎は「天平彫刻の技法について」を執筆しています。
 
編集に当たった美術史家、奥平英雄の回想『忘れ得ぬ人々』(平成5年=1993、瑠璃書房)によれば、
 
このとき製本所から小山書店に届けられたのはごく一部(部数は不詳)で、大半は十一月二十四日の空襲で製本所に在庫のまま灰燼に帰してしまった。マリアナ基地を飛び立ったB29約七十機が東京を初爆撃、神田錦町、鎌倉町一帯を爆撃した際、製本所も災害を被ったからである。こうして苦心の末出来上
った『天平彫刻』も少数を残したまま烏有に帰したのである。したがって僅かに残った初版本は幻の書ともいうべき稀覯本となった。

とあります。

確かにサイト「日本の古本屋」等で調べても、昭和23年(1948)と同29年(1954)の復刻はヒットしますが、19年の初版は登録されていません。
 
しかし、実際のところ、「幻の書」と呼べるかどうか、と感じています。というのは、当方、三回、この本を手にしたからです。
 
まず、カバーなしの状態で購入しました。その後、カバー附きが売りに出ていたのでそれも購入(左下の画像)。カバーなしは神奈川近代文学館さんに寄贈しました。さらにその後、たまたま訪れた名古屋の古書店でも初版を見かけ、手にとってみました。また、国会図書館さんにも所蔵があるようです。
 
どうにも判断が付きかねるところです。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。
 

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昨日は福島の双葉郡川内村にて行われた草野心平忌日の集い、第4回天山・心平の会「かえる忌」に行って参りました。
 
開会が午後3時ということで、いわき市の上小川地区にある、心平の生家とお墓に寄り道をしました。
 
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その後、川内村へ。途中の峠道、それから川内村でも紅葉が実に見事でした。
 
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天山・心平の会の井出氏のごあいさつ、遠藤川内村長の音頭で献杯。
 
前かわうち草野心平記念館長・晒名昇氏、歴程同人・伊武トーマ氏、それから当方も講話。当方は故・高村規氏
の葬儀についてレポートせよとの指令でしたので、その件と、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんから頂いた、十和田湖畔の裸婦像除幕式の動画に心平が写っていたので、そちらを披露しました。
 
その後は懇親会。
 
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参加者お一人ずつスピーチをなさいました。洋行帰りのモンデンモモさん、いわき賢治の会の小野氏などなど。遠くからご参会の方も多く、それぞれに川内村を愛する心が伝わってきました。
 
「かえる忌」、末永く続いてほしいものです。
 
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月9日
 
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山小屋を、佐久間晟・すゑ子夫妻が訪問しました。
 
佐久間氏は、仙台市ご在住。警察にお勤めのかたわら、前田夕暮門下の歌人でもあり、その後、宮城県歌人協会の会長も務められました。すゑ子夫人も歌人。お二人とも歌誌「地中海」同人です。
 
当方、ご夫妻と知遇を得、山小屋訪問についての貴重なお話を伺い、光太郎と一緒に撮った写真、光太郎からのハガキのコピーを戴きました。
 
その聞き書きは平成19年(2007)、高村光太郎研究会刊行の雑誌『高村光太郎研究(28)』に掲載していただきました。ご入用の方、コピーでよろしければこちらまで。

千葉県八千代市からのイベント情報です。 

「宮沢賢治展 新発見自筆資料と「春と修羅」ブロンズ本」

日 時 : 2014年11月8日(土)10:00~17:00・9日(日)10:00~17:00
場 所 : 秀明大学 1201・1202・1205教室 千葉県八千代市大学町1-1
 
詩や童話を中心に、数々の名作を世に残した日本近代文学を代表する作家、宮沢賢治。
今回の展覧会では、たくさんの人々に愛されている賢治の自筆書簡をはじめ、貴重な初出資料を一般公開します。詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』が刊行されて90年。この展覧会を通して賢治の世界観に触れ、賢治の魅力を感じてください。
会場には喫茶コーナーやグッズ販売もございます。
 
主な展示品
・宮沢賢治新発見自筆資料
・宮沢賢治新発見スナップ写真
・『春と修羅』ブロンズ本/『注文の多い料理店』署名本
・宮沢賢治生前初出雑誌
・「雨ニモマケズ」棟方志功自刻版画
・宮沢賢治とゆかりの詩人・歌人の稀覯本
  石川啄木『一握の砂』尾崎行雄宛署名本 高村光太郎『道程』特装本 
  萩原朔太郎『月に吠える』無削除版 草野心平『第百階級』著者校正本 
  中原中也『山羊の歌』三好達治宛署名本 など
 
関連行事
 講演「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」 宮澤和樹氏(林風舎代表取締役)
 11月9日(日) 13:00~14:00
 
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秀明大学さんの学園祭・「飛翔祭」中のイベントです。
 
学長の川島幸希氏は、稀覯本コレクターとして有名な方で、当方も購読している『日本古書通信』というマニアックな雑誌に「懐かしき古本屋への讃歌」という連載をお持ちです。以前は同誌で「私がこだわった初版本」という連載もされていました。
 
目玉は賢治の新出資料です。今年9月にその発見が報じられています。
 
 作家で詩人の宮沢賢治(1896~1933年)が友人に宛てた書簡などの未発表資料11点が見つかった。古書収集家の川島幸希秀明大学長が24日発表した。大妻女子大の杉浦静教授は「賢治が宗教に傾倒するなど大きな転機を迎えた1918年前後の消息を示す貴重な資料」と話している。
 発見されたのは、盛岡高等農林学校の同級生だった成瀬金太郎氏に16~20年にかけて送ったはがきや在学中のスナップ写真など。昨年、東京都内の古書店で入手した。
 19年9月21日付のはがきでは、南洋ポナペ島(現ミクロネシア連邦ポンペイ島)在住の成瀬氏に、半紙刷50枚の宗教童話の頒布を依頼。法華経に傾倒し始めた当時の信仰心の強さが読み取れる。
 一方、18年4月18日付の封筒には「(同封の絵はがきを)途中デヌスムモノガアッタラヒドイメニアワセテヤリマシャウ」と記し、「聖人君子のイメージが強い賢治の、おちゃめな一面ががうかがえる」(杉浦教授)。
 このほか、背表紙を自ら塗りつぶしたとみられる「春と修羅」の単行本も発見された。同書を「心象スケッチ」と称した賢治は、背表紙に詩集と記されたことが不満で、ブロンズの粉で文字を消したと別の友人に伝えていた。発見された本は書名や著者名まで粉が塗られ、川島学長は「それだけ否定したい気持ちが強かったのでは」としている。
 資料は11月8、9日に秀明大学(千葉県八千代市)で開かれる宮沢賢治展で一般公開される。(2014/09/24-20:00 時事ドットコム)
 
おまけで(笑)、光太郎や草野心平ら、賢治ゆかりの文学者の稀覯本が展示されます。光太郎は『道程』の特装本。おそらく、先にご紹介した『日本古書通信』の、一昨年4月号で、川島氏が紹介なさっていた、光太郎の識語署名三カ所、三方金、桐箱入(箱書・佐藤春夫)の小数部作られた私家版? だと思われます。
 
心平の『第百階級』(昭和3年=1928)は光太郎が序文を書いていますし、中也の『山羊の歌』(昭和9年=1934)は光太郎の装幀、題字揮毫です。
 
賢治の弟で、光太郎・心平ともども、賢治作品を後世に伝える大きな役割を果たした故・宮澤清六氏の令孫に当たる和樹氏のご講演も貴重な機会です。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月4日
 
昭和30年(1955)の今日、筑摩書房版『宮澤賢治全集』の装幀を終えました。
 
先述の『山羊の歌』など、文学史に残るさまざまな書物の装幀を手がけた光太郎の、最後の装幀作品です。
 
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詳細な指示書も残っています。
 
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「賢さ」は岩手の方言で「賢さん」。光太郎の、岩手で足かけ8年暮らした体験が生きています。ちなみに表紙に「空押し」という技法で陰刻されています。
 
刊行は翌昭和31年(1956)4月25日から32年(1957)にかけて。光太郎没後のことです。巻数の漢数字は、「六」まで光太郎が書いておきましたが、同全集、全十一巻です。では、「七」以降はどうしたのか、というと、草野心平が光太郎の筆跡を真似て書きました。
 
この一事をとっても、光太郎、心平、賢治、三人の深い絆が見て取れますね。

新宿中村屋サロン美術館の開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」をレポートしようと思いましたが、明日にします。開催間近のイベントの情報を先に書きます。 

第4回天山・心平の会「かえる忌」

主 催 : 天山・心平の会
日 時 : 2014年11月8日(土) 午後3時より6時まで
場 所 : 福島県双葉郡川内村上川内町分211 小松屋旅館 「蕎麦酒房天山」
会 費 : 2,500円 (食事付)
連絡先 : 天山・心平の会代表 井出茂 0240-38-2033
 
2,008年7月12日から8月31日まで川内村阿武隈民芸館で開催された「高村規写真展-草野心平没後20年記念」をご記憶の方も多いと思います。その写真家で高村光太郎記念会理事長の高村規(ただし)さんが、今年8月13日に心不全のため81歳で死去されました。
第4回「かえる忌」では、高村規さんを偲んで、光太郎・智恵子と宮沢賢治・草野心平を語る会にしたいと思います。講話は、連翹忌運営委員会代表小山弘明氏、前かわうち草野心平記念館長晒名昇氏、歴程の詩人伊武トーマ氏を予定しています。
万障繰り合わせてお集まり下さいますよう、ご案内申し上げます。
 
なお、11月9日(日)、いわき市上小川・常慶寺の草野心平墓参、心平生家で開催される第21回「心平を語る会」(無限夢想の会主催)に参加出来れば幸いです。
 
東京方面から参加の方へ 小松屋旅館1泊の方は各自予約願います。電話番号は連絡先と同じ。
JR東京駅発10:00東北新幹線やまびこ133号 郡山駅着11:19 郡山駅西口出口発川内村行バス11:35 川内村阿武隈民芸館入口着13:00
 
11月9日(日)川内村発自家用車相乗り9:00 常慶寺墓参11:10 心平生家の第21回「心平を語る会」参加11:30~13:30 JR常磐線いわき駅始発14:16特急スーパーひたち号 上野駅着16:36


 
光太郎と親交の深かった詩人、草野心平を偲ぶ「かえる忌」です。場所はモリアオガエルが縁で、心平が愛した川内村。当方、一昨年昨年と参加させていただきました。昨年は講演もおおせつかり、「高村光太郎と草野心平の交流」という題でお話しさせていただきました。
 
昨年の様子は、その後BS朝日さんで放映された「にほん風景物語 福島 川内村・いわき小川郷 ~詩人・草野心平が詠んだ日本の原風景~」で、その模様が紹介されました。
 
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今年は、講演というほどではありませんが、講話ということで、20分ぐらい話せ、と指示が出ました。しゃべってきます。
 
川内村は福島第一原発に近く、まだまだ復興途上の区域です。訪れるだけでも復興支援です。興味のある方、足をお運び下さい。
 
ところでテレビというと、昨日は珍しく、2つの番組で光太郎が少しずつ紹介されました。
 
 
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ゲストの渡辺えりさんが、生前の光太郎と交流があったお父様・正治氏のエピソードを披露されました。
 
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戦時中、武蔵野の中島飛行機の工場に動員されていた正治氏が、空襲による死の恐怖を、光太郎の詩をそらんじることで克服したというお話。残念ながら時間の都合でしょうか、実際に駒込林町のアトリエに会いに行ったお話、山形での講演会でのお話などはありませんでした。
 
 
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今年1月の同じ番組でも扱って下さいましたが、やはり光太郎の「あどけない話」を使って下さいました。
 
ありがたいことです。
 
安達太良山といえば、今日発行の『読売新聞』さんの日曜版に、安達太良山、智恵子の生家がドーンと紹介されています。購読されていない方も、コンビニ等で購入出来ますのでぜひお買い求め下さい。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月2日
 
大正元年(1912)の今日、日本橋三州屋で催された画家、石井柏亭帰国歓迎会に出席しました。

昨日は上京して参りました。
 
目的は二つ。
 
 
先に伺ったのは中村屋さんなのですが、こちらは会期が長いので、後ほどレポートいたします。金子大蔵氏の書の展覧会は明後日までということで、こちらを先にレポートいたします。
 
会場は東京芸術劇場5階のギャラリー1。池袋駅の西口を出てすぐです。
 
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昨日から開始ということで、関係者とおぼしき人も多く、後に詳述しますが、金子氏ご本人もいらっしゃいました。
 
会場に入ってまずドーンと、「道程」。高さは天井まで、横幅は10㍍ではきかないでしょう。
 
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骨太の光太郎の詩句に呼応する、力強い書です。まずこれで圧倒されました。
 
その後も約40点、光太郎の詩句をモチーフにした書が並んでいます。
 
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題材は様々な詩から採られており、詩の全文を書いたものもあれば、一言だけを取り出したものもあり、大幅もあれば、色紙大の小品もあり、バリエーションに富んでいます。
 
モチーフに使われている詩は、最初は「道程」でしたが、その他は「鐵を愛す」、「花のひらくやうに」、「最低にして最高の道」、「火星が出てゐる」など、むしろ光太郎詩の中ではあまり有名でないものがほとんどでした。「あどけない話」、「レモン哀歌」、「ぼろぼろな駝鳥」などのメジャーどころはありません。
 
ミュージシャンのベストアルバム的な選び方でなく、あまり知られていない詩でも、いい言葉はいい、と、そういう採択の仕方に好感が持てました。
 
図録から画像を拝借します。やはり力強い筆致のものが多いのですが、逆に薄い墨で流れるように書かれたものも。それぞれに詩句の内容を意識して、いろいろ書き分けられているようです。
 
観ている方々の中から、「これ、ほしいな」という声が聞こえました。
 
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ひととおり観たあと、金子氏とお話しさせ001ていただきました。長身のイケメンでした(笑)。
 
昔から光太郎詩が好きだったとのこと、光太郎詩を題材にすればいくらでも書ける、的なことをおっしゃっていました。光太郎の詩句には、ご自分が年齢を重ねることで(といっても氏は昭和48年(1973)のお生まれなので、まだ40代はじめですが)、解釈が変わってくるとも。
 
やはり光太郎作品は、いろいろな分野の表現者の表現意欲を刺激するのだな、と、改めて感じました。
 
ちなみにこの書展、『毎日新聞』さんで取り上げられ、「書の可能性を探ろうとするさまざまな試みに書人の真摯(しんし)な思いが感じられるだろう。」との評でした。
 
非常に残念なのですが、会期は明後日までです。もっと長期間にして、多くの皆さんに観ていただきたいのですが……。
 
入場は無料。図録は700円也、です。
 
ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月1日
 
昭和25年(1950)の今日、山形の料亭野々村で開催された山形新聞社主催の美術講演会で、「日本に於ける美の源泉」と題して講演を行いました。
 
翌日は山形市教育会館美術ホールで講演しています。
 
昨日もご紹介した女優の渡辺えりさんのお父様、渡辺正治氏は、このどちらかの講演を、交際中だったえりさんのお母様と一緒に聴きたくて、鼻の手術で入院中だったお母様の病室に窓から忍び込み、無理矢理連れ出し、顔に包帯を巻いた寝間着姿のお母様と並んで聴かれたそうです。

書道関連のイベント情報です。 
 
   平成26年10/31(金)~11/3(月)  10時~18時 (初日は20時・最終日は16時まで)
   東京芸術劇場 5F展示ギャラリー1  東京都豊島区西池袋1-8-1
   玉燕書道会
   毎日新聞社 日本詩文書作家協会 毎日書道会 他
 
 
書家の金子大蔵氏の個展のようです。
 
光太郎、そして智恵子の世界は、本当にいろいろな分野の表現者の方の創作意欲を刺激しているようです。やがて誰も取り上げなくなり、「高村光太郎? 智恵子? 誰、それ?」ということにならないようにと願っています。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月25日000
 
昭和25年(1950)の今日、詩集『典型』を刊行しました。
 
昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎】では、大正3年(1914)、詩集『道程』が刊行されたことを書きました。
 
したがって、今日は詩集『道程』刊行100周年です。
 
詩集『道程』は光太郎の第一詩集です。それに対し、『典型』は自ら編んだ生前最後の詩集です。
 
第一詩集と最後の詩集が、年は違えど同じ刊行日。これは偶然でしょうか? それとも、光太郎自身が狙ってこの日にしたのでしょうか? 今となっては不明です。
 
光太郎は『典型』の装幀や扉のデザインを自らの手で行いましたが、かなりこだわっていました。自筆の装幀原画や、ボツにした扉の案も残されています。そうしたこだわりを考えると、刊行日もたまたま『道程』と同じ日、というわけではなく、自らの最後の詩集と考えてのことだったように思えます。 
 
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左が『道程』、左が『典型』、それぞれの奥付です。
 
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『典型』自筆装幀原案です。細かな指示無題がたくさん書き込んであります。
 
こちらはボツにした扉の案2種類と、実際に採用した扉です。 
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昨日は鎌倉に行って参りました。
 
あじさい寺として有名な明月院さんの近くに、「ギャラリー笛」という不思議なお店があります。カフェ兼ギャラリー、店内でコンサートも行うというところです。
 
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こちらは光太郎の縁戚(妹・静子(しず)のお孫さん)にあたる山端様のお店です。
 
「笛」という店名の通り、店内にはオカリナや各種の笛をはじめ、さまざまな民族楽器なども並んでいます。
 
こちらで現在、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」という展示がなされています。
 
 
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お近くに光太郎と親交の深かった詩人の故・尾崎喜八氏、故・伊藤海彦氏が住まわれていて、山端家、尾崎家、伊藤家に伝わる光太郎関連のお宝が展示されています。
 
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彫刻、古写真、光太郎書簡、色紙、関連書籍などなどです。
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彫刻は尾崎喜八の結婚祝いに送られたミケランジェロ模刻の「聖母子像」(大正13年=1924頃)。原型は既に失われ、鋳造もこれ1点しか為されていない、非常に貴重なものです。
 
昨年、千葉市美術館他3館で巡回された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にもお貸しいただきましたが、その時以来、約1年ぶりに拝見しました。
 
古写真は、すでにいろいろな書籍に掲載されているものの他に、少年時代の光太郎や、戦時中の山端家の結婚式での集合写真など、当方も初めて見るものがあり、驚きました。
 
書簡も、『高村光太郎全集』、さらにその補遺として当方が継続中の「光太郎遺珠」未収録のものが3通もあり、早速コピーを戴いて参りました。来年4月、高村光太郎研究会刊行の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。
 
さらに驚いたことがもう一つ。
 
昨日、当方はお伺いするとも何とも言わず、突然お邪魔したのですが、たまたま、本当に偶然にも、故・尾崎喜八氏のお嬢さん・榮子様と、故・伊藤海彦氏の奥様もいらしていて、いろいろ貴重なお話が聴けました。
 
榮子様は上記チラシの画像、一番左に写っている女の子です。その隣が光太郎、そして喜八と故・實子夫人。實子夫人は光太郎の親友・水野葉舟の娘で、光太郎が取り持つ縁で結ばれました。したがって、榮子様は水野葉舟のお孫さんにもあたられるわけです。
 
そのあたり、以下の書籍に詳述されています。amazon等で購入可能です。
 
『夏の最後の薔薇 詩人尾崎喜八の妻 實子の生涯』004
2004/2/4 有限会社レイライン刊
重本恵津子著
 
女性の年齢を話題にするのも失礼ですが、榮子様は大正14年(1925)のお生まれ。故・伊藤海彦氏、北川太一先生も同じ年のお生まれです。昨日は、駒込林町のアトリエでの光太郎智恵子に関する思い出をお話ししていただきました。アトリエの2階が智恵子の画室で、智恵子にだっこしてもらい、その窓から駒込林町の風景を見たことなどなど。
 
生前の光太郎をご存知の方は、まだまだ方々にいらっしゃいますが(それでもだいぶ少なくなりましたが)、智恵子の生前を語れる方は、当方、他に存じません。本当に貴重な体験をさせていただきました。
 
さて、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」。11月4日(火)までの会期です。月水木はお休み、さらに10月26日(日)と11月1日(土)は臨時休業だそうです。時間は10:00~16:00だそうですが、昨日、当方は16:00過ぎても居座ってしまいました(笑)。
 
その他にも、音楽関連のイベント、講座等も行われています。
 
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ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月12日005
 
昭和27年(1952)の今日、「十和田湖畔の裸婦群像」(通称「乙女の像」)制作のため、7年半ぶりに帰京しました。
 
右は上野駅での一コマ。ホームスパンの猟人服に巨大な長靴(ちなみに光太郎の足のサイズは30㌢ほどあったといわれています)。
 
戦後のまだ傷跡の残る時代でしたが、朝鮮戦争による特需景気で、東京はかなり復興が進んでいました。その東京で、この光太郎の姿は実に異様だったそうです。
 
光太郎、このあとすぐに草野心平らを引き連れて生ビールを堪能、この日は駒込林町の実家に泊まりました。
 
戦前からいたばあやさんがまだ健在で感激したり、翌朝、空襲で焼失したかつてのアトリエ跡を見に行ったりしたと、この夏亡くなった甥の規氏の回想にあります。
 
アトリエ跡を見に行った13日には、中野に今も残る水彩画家、故・中西利雄のアトリエに入り、裸婦像の制作にかかりました。

新刊情報です。

『詩と思想』10月号

2014/10/1 土曜美術出版販売 定価 1,300円+税
 
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詩書を数多く刊行している土曜美術出版販売さんの月刊誌です。
 
特集は「コミック・ジェネレーション」。
 
「詩をマンガにする」という項で、為平澪さんという方が、4ページで「あどけない話 高村光太郎-智恵子抄より-」という作品を発表されています。
 
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専門の漫画家の方ではないということですが、雰囲気がよく出ています。
 
また、コミックということで、講談社さんのコミック誌『月刊アフタヌーン』で連載されている清家雪子さんの漫画「月に吠えらんねえ」が二本の記事で紹介されています。この作品は、萩原朔太郎を主人公に、光太郎智恵子を含む実在の詩人などが登場するシュールな物語です。
 
『詩と思想』では、特に北爪満喜さんという方の「『月に吠えらんねえ』が詩を視覚化するとき」が、詳しい作品論となっています。
 
『月に吠えらんねえ』での智恵子は、「機動戦士ガンダム」のガンタンクのようなロボットです。なぜロボットなのかという北爪さんの考察にはうなずけました。
 
ちなみに『月に吠えらんねえ』、単行本の第2巻が今月発売されますので、入手しましたらレポートします。
 
さて、『詩と思想』。amazon他で入手可能です。ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月7日
 
平成13年(2001)の今日、千葉県松戸市の森のホール21で、音楽と朗読による「智恵子抄」が上演されました。
 
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ソプラノ歌手の稲見里恵さんとピアノ伴奏の頼田恵さんで、清水脩作曲の歌曲「智恵子抄」、そして合唱で一般公募の「智恵子抄」合唱団さんによる、やはり清水脩作曲の「智恵子抄巻末のうた六首」。合間に朗読が入る構成でした。
 
朗読は声優の池田昌子さん。洋画の吹き替えでO.ヘップバーンや、アニメーション「エースをねらえ!」のお蝶夫人、「銀河鉄道999」のメーテル役などをなさっていた方です。

お父さまが光太郎と面識がおありだったこともあり、連翹忌にもよくご参加下さっている渡辺えりさん率いる劇団「おふぃす3○○(さんじゅうまる)」さんの公演です。
 
2012年、下北沢の座・高円寺での初演以来の再演、今回は全国11ヶ所を巡回します。 
【盛岡】10月19日(日)         盛岡劇場メインホール  14時
【東京】10月23日(木)~28日(火)シアター・トラム
【石巻】11月1日(土)         石巻特設会場  時間未定
【兵庫】11月3日(月・祝)       兵庫県立芸術文化センター・阪急中ホール  17時
【石川】11月5日(水)         北國新聞赤羽ホール   19時
【山口】11月8日(土)・9(日)      山口情報芸術センター 8日(土)14時 / 9日(日)14時
【宮崎】11月11日(火)          三股町立文化会館ホール  19時
【愛知】11月24日(月・休)        長久手市文化の家・森のホール  18時
【福島】11月27日(木)          南相馬市民文化会館  19時
【宮城】11月28日(金)          日立システムズホール仙台・シアターホール 19時
【山形】11月30日(日)          シベールアリーナ 13時/17時
 
作・演出 渡辺えり
 
キャスト 大沢 健 大和田美帆 土屋良太 谷川昭一朗 宇梶剛士 大塚加奈子 有賀太朗 藤本沙紀
      川口龍 十倉彩子 渡辺えり 他
 
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教師時代の宮澤賢治を主人公に、理想と現実のはざまで苦悩・葛藤する姿が描かれています。そんな賢治を温かく見守る弟の清六や妹のトシ、逆に非難・嘲笑する人々、そして賢治を取り巻く「イーハトーヴ」の大自然とのからみなどが、猫の大群を擁した幻想的な賢治童話に乗せて展開されます。渡辺さんは賢治童話「貝の火」に出てくる子ウサギ、宇梶剛士さんはなんと岩手山の役もなさいます(笑)。
 
こちらは一昨年の公演のパンフレットです。
 
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光太郎は登場しませんが、ストーリーの中で何度も「高村光太郎先生」として語られます。
 
山形出身の渡辺さんは、東北への強い思い入れをお持ちのようで、この「天使猫」、そして光太郎を主人公とした「月にぬれた手」を、東北で上演したいと、常々おっしゃっていました。そこで、今回、初日は盛岡ですし、千秋楽は山形。宮城や福島での公演もあります。
 
各会場、盛況となることを祈念いたします。
 
また、「月にぬれた手」の東北公演も実現してほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月3日
 
昭和10年(1935)の今日、中原綾子の詩集『悪魔の貞操』が刊行されました。
 
光太郎が題字と序詩「「悪魔の貞操」に題す」を書きました。002
 
   「悪魔の貞操」に題す
 
 心法の高圧を放電するもの、
 思ひもかけぬ交互無縁の片言隻語、
 言語道断の真空界にひらめくものは、
 千古測りがたい人間真理。
 すさまじいかな此書。
 
原題は「「悪魔の貞操」に寄す」でしたが、のち、雑誌に再録された際に改題されました。
 
はじめ、光太郎は序詩として、『智恵子抄』にも収められた「人生遠視」を中原に送りましたが、中原側からのクレームで変更になりました。
 
   人生遠視
 
 足もとから鳥がたつ
 自分の妻が狂気する
 自分の着物がぼろになる
 照尺距離三千メートル
 ああこの鉄砲は長すぎる
 
たしかにこんな詩を送られても困りますね。
 
この年二月の中原宛の書簡にはこのように記されています。
 
先日お送りした短詩について発表の御心配をうけ、小生まるで気がつかなかつた事なので成程と思ひました、
(略)
智恵子が全快でもしたあとでそれを見たら変なものだらうとも考へました、何となしに懸念のあるものを折角のあなたの詩集のあたまに印刷するのもいかがと思ひますから、此は撤回いたします、 そのうち何かお送りいたします、
 
この時期は、ちょうど智恵子を南品川のゼームス坂病院に入院させた時期で、光太郎は確かに大変な時期でした。智恵子の狂躁状態、それに伴う自分の苦労などを、中原に宛てた複数の書簡に書いています。それにしても、他人の詩集の序詩に「自分の妻が狂気する」はいくらなんでも……と思います。そうした当たり前のことに考えが至らないほど、光太郎も追い詰められていたのかも知れません。

劇作家・平田オリザさん率いる劇団「青年団」さんの公演です。

青年団第73回公演 『暗愚小傳』

東京公演 2014年10月17日(金)- 10月27日(月) 14ステージ
会場 吉祥寺シアター 武蔵野市吉祥寺本町1-33-22 

伊丹公演 2015年1月16日(金)- 1月19日(月) 5ステージ
AI・HALL(伊丹市立演劇ホール) 兵庫県伊丹市伊丹2-4-1 

善通寺公演 2015年1月22日(木)- 1日24日(土) 3ステージ
四国学院大学ノトススタジオ 香川県善通寺市文京町3-2-1
 
作・演出:平田オリザ
高村光太郎と智恵子の生活を素材に、変わりえぬ日常を縦軸に、文学者の戦争協力の問題を横軸に、詩人の守ろうとしたものを独特の作劇で淡々と描く・・・。平田オリザ90年代初期の名作、10年ぶり、三回目の再演。

出演
山内健司 松田弘子 永井秀樹 川隅奈保子 能島瑞穂 堀夏子 森内美由紀 木引優子
伊藤毅 井上みなみ 折原アキラ 佐藤滋
 
青年団さんのHPによれば、初演は昭和59年(1984)。その後、何度か再演され、今回は10年ぶりの上演だそうです。
 
当方、実際の上演は見たことがありませんが、DVDとシナリオが手元にあります。
 
10年前の公演から採ったDVDで、紀伊國屋書店さんから発行されたもの。紀伊國屋さんにはもう在庫がないようですが、amazonやネットオークションで時折見かけます。
 
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シナリオは平成8年(1996)に晩聲社から刊行されました。題名は『平田オリザ戯曲集③ 火宅か修羅か 暗愚小傳』。
 
今回の公演では、今月の東京を皮切りに、兵庫、香川でも行われるそうです。各会場の詳細な時間、料金等は青年団さんサイトをご参照下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月2日
 
昭和63年(1988)の今日、豊島区民センターで高村光太郎研究会主催のシンポジウム「高村光太郎 欧米の影響について」が開催されました。
 
発表者は故・長谷川泉氏、渡邊澄子氏、そして当会顧問・北川太一先生でした。

近々放映されるテレビ番組の情報です。

10min.ボックス(現代文)「道程(高村光太郎)」

NHKEテレ 2014年10月2日(木)25時20分~25時30分=10月3日(金)午前1時20分~1時30分

『道程』は、1914年、大正時代に書かれた詩です。それまでの詩とは違い、ふだん話している言葉、口語体で書かれていました。若者が持つ将来への不安と、前向きな決意が感じられることから、多くの人々に親しまれてきました。この詩の作者は高村光太郎。詩人として、また彫刻家として、明治末から昭和にかけて活躍しました。
 
この回は、朗読にこだわる。同じ作品でも、解釈の違いが朗読にあらわれる。様々な人にこの詩を自由に解釈してもらい、その人なりの朗読を聞かせてもらう。
 
出演 加賀美幸子
 
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繰り返し何度も放映されています。ネットで見ることもできてしまいます。
  

日曜美術館「アートの海に飛び込め ヨコハマトリエンナーレ2014」

NHKEテレ 2014年10月5日(日)  9時00分~9時45分 
再放送 2014年10月12日(日)  20時00分~20時45分
 
海外からも多くのアーティストが参加する現代アートの祭典「ヨコハマトリエンナーレ」。美術家・森村泰昌が中高生と会場を巡る。アートとの出会いが生む驚きと発見の冒険。
 
3年に1度、横浜を舞台に開かれる現代アートの祭典「ヨコハマトリエンナーレ」。今回、美術家の森村泰昌がアーティスティック・ディレクターを務め、「忘却」をテーマに、海外からも多くの作品を集めた。その会場で、森村と中高生がアートを巡る冒険を繰り広げる。時に難解といわれる現代アートの世界、しかし一歩踏み出して飛び込んでみれば、驚きと発見が待っている。最先端のアートを紹介しながら、冒険の様子をドキュメント。
 
出演 森村泰昌 井浦新 伊東敏恵
 
 
横浜美術館さんで開催中の「ヨコハマトリエンナーレ2014 華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」が取り上げられます。同展には、「大谷芳久コレクション」というコーナーがあり、光太郎の詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『記録』(同19年=1944)を含む、戦時下の文芸書、17点が展示されています。そこにふれるかどうかわかりませんが、とりあえず紹介しておきます。
 
 
実はBS日テレさんで先日放映された「ぶらぶら美術・博物館」という番組でも、「ヨコハマトリエンナーレ2014」が取り上げられましたが、「大谷芳久コレクション」は紹介されませんでした。
 
 
ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月28日
 
昭和25年(1950)の今日、詩文集『智恵子抄その後』初版の稿料として30,000円を受けとりました。
 
この年の日記は現存が確認無題できておらず、書簡等の発受を記録した「通信事務」というノートの記述に依りました。
 
澤田伊四郎氏より三〇、〇〇〇円小切手(「智恵子抄その後」初版の礼として寸志) 同氏より校正刷 同氏より川根茶
 
版元の龍星閣は明確な印税制をとらず、その都度払いでした。
 
『智恵子抄その後』はこの年1月の雑誌『新女苑』に発表された同名の連作詩、「元素智恵子」「メトロポオル」「裸形」「案内」「あの頃」「吹雪の夜の独白」の六篇を根幹に、他の智恵子に関する詩文、山小屋生活に関する詩文を集めて編まれ、この年11月に刊行されました。

新刊です。 
2014/10/1 東京大学國語國文学会編 明治書院発行 定価1,143円+税
 
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國語と國文學』。古典から近現代まで幅広く扱う雑誌です。巻末に「投稿規定」が載っていて、それによれば「本誌は広く国語国文学研究者の発表機関としてこれを開放し、大方のご投稿を歓迎します。」とあり、原稿依頼ではなく投稿で成り立っているようです。そういう意味では書けば載る大学の研究紀要などとは違い、載せてもらうためのハードルが高そうです。ただ、今号の目次、巻頭の「前号要目」「次号予告」等を見ると、大半が国文学の論文で、国語学に関するものはほとんど無いようです。
 
さて、今号には駿河台大学准教授、長尾健氏の論考「高村光太郎『道程』前期論――巻頭三作品の解釈を中心に――」が掲載されています。
 
今年、刊行100年を迎える詩集『道程』。明治43年(1910)から大正3年(1914)までの詩、76篇が載っています。内容的に、明治44年(1911)の「泥七宝」あたりを境に、前半と後半に分けて読み取るのが一般的です。前半は欧米留学から帰朝し、北原白秋、吉井勇らと「パンの会」の狂躁に身を投じたり、吉原の娼妓・若太夫や浅草のカフェの女給・お梅に入れ込んだりしていたデカダン生活の時期のもの。後半は智恵子との邂逅を経て、頽廃生活からの脱却、『白樺』的な人道主義の影響も見て取れる、表題作「道程」を含む作品群、といった区分けです。
 
長尾氏の論考は、前半、特に冒頭の三作品「失はれたるモナ・リザ」「生けるもの」「根付の国」を中心に展開されています。キーワードは「普遍的な美」「西洋でも日本でもないある絶対的な場所」「ナショナル・アイデンティティ」などなど。
 
雑誌専門の通販サイトfujisan.co.jpから購入できます。ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月19日
 
昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、栗ご飯を炊いて食べました。
 
「秋の味覚」、ですね。この日の日記に以下の記述があります。
 
四時過ぎ小屋にかへる、 栗をひろふ。 夜食、炊飯(栗めし)初めてなり。
 
この前後、光太郎が7年間暮らした太田村の山小屋周辺には栗の木がたくさん自生しており、時には音を立てて屋根に栗の実が落ち、拾い放題でした。村人もよく小屋の近くに拾いに来ていたそうです。
 
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日記はさらにこう続きます。
 
南瓜一個とり。煮る、美味とはいへず。
 
自分で栽培していたカボチャは今ひとつだったようです(笑)。

詩人の宮尾壽里子様から、文芸同人誌『青い花』第78号をいただきました。
 
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宮尾様のエッセイ「断片的私見『智恵子抄』とその周辺(四)」が4ページにわたって掲載されています。「エッセイ」という条、「論考」と銘打ってもよい内容で、すばらしいと存じました。
 
智恵子が今で言う「肉食系女子」なら、という前提で展開され、タガメや食虫花に喩えていらっしゃいます。
 
タガメのように智恵子はがっちりと箍を光太郎に填めたつもりでも、背中にしがみ付いているのが精いっぱいだったのではないでしょうか。信念を持ち、なにもかもは女の言いなりにならない光太郎は、好き勝手に動くから振り落とされそうで気が休まらない。のんびりと絵を描き、自由に生きていたいのに、気がつけば光太郎に認めてもらいたいし、絵ももっと褒めてもらいたい。絵で評価されたいというのは智恵子の諦めることの出来ないミッション(使命)のひとつであったでしょうから。
 光太郎が彫刻家として認められていくように、智恵子も同じように高まっていくことを望んだのではないでしょうか。新しい男女のかたちとは全てにおいて平等であり、一心同体でなければならない。たとえ別々の生きものであったとしてもと。しかし必然的にその差は露呈するのです。経済的にも自立していなければ平等などないことを智恵子は知るでしょう。タガメで云えば毒を差し込んでも喰い尽くせない光太郎、食虫花でいえば呑み込みきれない大きな虫。智恵子はしかし、会津女の辛抱強さと忍耐でしがみ付くのです。
 
卓見と思いませんか?
 
いわゆるジェンダー論者の、「智恵子は光太郎の人身御供だった」的な糾弾する論調に辟易することが多くあります。結局、そういう論は、逆に智恵子の主体性とか内面とかを重視せず、結果としての統合失調症の発症や早逝しか見ていません。遺された智恵子の詩文が少ないのは確かですが、もっと智恵子の内面に踏み込んだ論がほしいものです(決して牽強付会ではなく)。
 
そうした意味では、宮尾様の玉稿、卓見です。
 
また、宮尾様、今年の連翹忌にご参加下さいました。その折の話や、その折に配布した資料などからも引用なさっています。運営している甲斐がある、と思いました。
 
ご入用の方、仲介いたしますので、コメント欄等からご連絡下さい(『青い花』さんとしてのサイト等は開設されていないようです。太宰治や壇一雄、中原中也らの創刊した雑誌なのに、惜しい気もします)。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月12日
 
平成11年(1999)の今日、埼玉県比企郡都幾川村(現・ときがわ町)の正法寺で、光太郎筆の般若心経を陶板焼成した衝立が除幕されました。
 
 
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同じ埼玉の川越市に本社がある光兆産業株式会社の代表取締役・渡瀬武夫氏の寄進で、陶板制作は大塚オーミ陶業さん、額の制作は全国建具組合連合会特選理事・技術委員長(当時)の原口竹春氏です。
 
もとになった般若心経は、大正13年(1924)、光太郎の弟、豊周の子供が夭折した際、光太郎が豊周に「これ、霊前に」といって持ってきたものです。のちに昭和37年(1962)の第6回連翹忌で、光太郎の七回忌記念に、大塚巧藝社さんによる複製が配布されました。
 
当方、平成12年(2000)頃に見に行きました。それから15年ほど経っていますが、現在はどうなっているのでしょうか。

昨日の朝日新聞さんの別刷土曜版「be」に、以下の記事が載りました。

(beランキング)教科書に載っていた好きな詩

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 調査の方法 朝日新聞デジタルのウェブサイトで、デジタル会員登録者を対象に7月上旬にアンケートを実施。回答者は1603人。小中学校の教科書や『教科書でおぼえた名詩』(文春文庫)などをもとに、編集者・市河紀子さんの助言を受け、編集部で絞り込んだ約80の日本の詩から、いくつでも選んでもらった。イラストはミヤハラヨウコさん。
 
 「思ったよりよく覚えていて、心の中で情景が鮮やかに浮かぶのに驚きました」(神奈川、52歳女性)。子ども時代や思春期に出会った詩は、意外と心身に染みこんでいるようです。トップ20以外の詩を挙げた方も多く、それぞれの人の心に寄り添ってきた作品があるのだと気づかされました。
 
 つらく苦しいとき、一編の詩に支えられたという体験が数多く寄せられた。その筆頭は、宮沢賢治が病床で記した「雨ニモマケズ」(1位)。神奈川の女性(53)は「友達も少なく消極的で、学校に行くのが苦痛だった。自分に負けないようにこの詩を書き、壁に貼って暗記した」。「震災の翌朝、なぜかこの歌を歌いながら、外回りの片付けをした」と福島の女性(49)が挙げたのは、「ぼくらはみんな生きている」で始まる「手のひらを太陽に」(7位)だ。
 
 大人になってから心に染みてくることも多い。大阪の女性(43)は2位の「道程」に触れ、「習った頃はよく分からなかったけれど、このごろよく思い出す。人生という道程は、誰も踏みならしていない道なき道を行くことなんだとつくづく思う」とつづった。
 
 「解釈は個々に違っていい。テストの問題にされるのが嫌だった」(埼玉、54歳女性)など、学校での教え方への異議もあった。
 
 3位の「君死にたまふこと勿(なか)れ」には、兵庫の女性(52)が「昨年亡くなった母がよく口にしていた。遺品に戦死した母の兄の手紙があり、自分の代わりに子孫を残し、世代をつないでほしいと書かれていた。母の心中を思い、胸が詰まった」と言葉を寄せた。
 
 4~6位は島崎藤村(とうそん)が占めた。「五七調の心地よさや内容に感動し、何度も口に出して覚えた。物忘れがひどい今でも暗唱できる」(千葉、70歳男性)。「ノートに写し、暗唱した。乙女でした」(千葉、43歳女性)、「好きな子のことを思うだけで胸が熱くなった日々」(千葉、55歳男性)といった「初恋」の思い出も。
 
 中原中也の「汚れつちまつた悲しみに……」(15位)は思春期の心を揺さぶった。「高校の時に初めて買った詩集」(石川、46歳男性)、「ひりひりする感覚。生きていたらロックバンドをやっているのでは」(千葉、44歳女性)。中にはこんな人もいる。「ガスレンジが汚れてくると、この詩が浮かび、すぐ磨く。中原さんごめんなさい」(千葉、52歳女性)
 
■「疲れたときも元気になれる」
 「豊かな感受性に、時に心が痛みを覚えることすらある」(茨城、35歳女性)という金子みすゞは、10位の「私と小鳥と鈴と」と並び、「海のなかでは何万の鰮(いわし)のとむらいするだろう」とうたった「大漁」(18位)も人気を集めた。
 
 現代を代表する詩人、谷川俊太郎は「生きる」が20位に。「カムチャツカの若者が きりんの夢を見ているとき」と始まる「朝のリレー」(23位)を推す人も多い。「地球規模の壮大な人生賛歌」(千葉、34歳女性)、「朝はつらいけれど、絶え間ないリレーでつながっていると思うと、走者の1人としてがんばらなければと思う」(愛知、44歳男性)
 
 まど・みちお作品も14位の「やぎさん ゆうびん」のほか、「生活に疲れたとき、自分がくまでよかったとうたう『くまさん』を思うと元気になれる」(大阪、47歳女性)、「『てんぷらぴりぴり』を知ったとき、確かにぴりぴりって言うわ~と衝撃だった」(広島、58歳女性)など幅広く挙がった。
 
 29位だったが、茨木のり子の「自分の感受性くらい」との出会いに触れた人が多く、目を引いた。「端的なのにズバリ、心に突き刺さってきます」(兵庫、50歳女性)、「詩といえばもっと穏やかなものと思っていた私にとっては衝撃でした」(大阪、48歳男性)。ほかにも、「黒田三郎の『ひとりの女に』は最高の恋愛詩」(岡山、57歳女性)など、それぞれの心に残る一編が寄せられた。
 
 編集者の市河紀子さんは言う。「教科書で覚えたときは、半ば強制的だったかもしれないけれど、あとからじんわり感じられる、言葉の力はすごい。詩の言葉は、短くて多義的なので、読む人がどう感じてもいい。わかるとか、わからないとか、意味にとらわれず、なんどでも味わってほしい」
 
(佐々波幸子)
 
 ちなみにランキングを文字にすると、以下の通りでした。
 
1位 「雨ニモマケズ」 宮沢賢治
2位 「道程」 高村光太郎
3位 「君死にたまふこと勿(なか)れ」 与謝野晶子
4位 「椰子の実」 島崎藤村
5位 「初恋」 島崎藤村
6位 「小諸なる古城のほとり」 島崎藤村
7位 「てのひらを太陽に」 やなせたかし
8位 「荒城月(こうじょうのつき)」 土井晩翠
9位 「小景異情(その二)」 室生犀星
10位 「私と小鳥と鈴と」 金子みすゞ
11位 「待ちぼうけ」 北原白秋
12位 「あどけない話」 高村光太郎
13位 「からたちの花」 北原白秋
14位 「やぎさん ゆうびん」 まど・みちお
15位 「汚れつちまつた悲しみに……」 中原中也
16位 「雪」 三好達治
17位 「永訣の朝」 宮沢賢治
18位 「大漁」 金子みすゞ
19位 「雲」 山村暮鳥
20位 「生きる」谷川俊太郎
21位 「わたしが一番きれいだったとき」 茨木のり子
 
光太郎作品は、「道程」が2位、「あどけない話」が12位にランクインしています。ありがたや。
 
「道程」の説明として、以下のように書かれています。
 
「僕の前に道はない 僕の後に道は出来る」と始まる詩は全9行。1914(大正3)年の初出時は102行で、最後の一節が基になった。
 
さすが『朝日』さん。よく調べています。
 
雑誌『美の廃墟』初出の102行の形はこちら
 
以前から何度も書いていますが、今年、平成26年(2014)は、詩「道程」執筆、詩集『道程』出版、そして光太郎智恵子結婚披露100周年です。
 
そのあたりもあって、今秋、某テレビ局の某教養番組で、光太郎智恵子をメインに取り上げて下さいます。一昨日は、ディレクター氏に当方自宅兼事務所にお越しいただき、打ち合わせ。昨日はディレクター氏と銚子犬吠埼九十九里への取材に同行いたしました。詳細が発表できるようになりましたら、詳しく書きます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月3日
 
平成15年(2007)の今日、福島県いわき市立草野心平記念文学館で開催されていた「高村光太郎・智恵子展」の関連行事として、安達町(現・二本松市)わがみ会の指導による「ワークショップ 紙絵を作ろう」が開催されました。

詩人の間島康子様から、このほど刊行された文芸同人誌『群系』の第33号「<特集>昭和戦前・戦中の文学」をいただきました。
 
間島様の論考「高村光太郎 ―のっぽの奴は黙っている」が、10ページにわたり掲載されています。
 
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以前にいただいた第32号掲載の評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」もそうでしたが、卓見です。
 
「のっぽの奴は黙つてゐる」は、昭和5年(1930)、雑誌『詩・現実』に発表された光太郎の詩。その2年前に東京会舘で開催された光雲喜寿の祝賀会での一コマをうたったものです。
 
ただ、間島様の論は、この詩の解釈が中心ではなく、様々な場面で「黙つてゐる」光太郎についてといった趣です。巨匠として世俗的名声を得た父に対しての思い、戦時には意に添わぬ戦争協力詩を書かされている思い、戦後にはそれらを書かされていたことに対する思いなどなど。
 
自己に厳しい光太郎は、そうした思いのうち、自分の暗愚に対しては発言するものの、他に責任を転嫁しません。その結果が、花巻郊外太田村での「自己流謫(るたく)」。「流謫」は「流刑」の意味です。
 
そうした光太郎の「自虐」「孤独」に注目した間島様の論考、卓見です。『群系』さんのサイトから入手可能です。
 
ところで間島様、今年の連翹忌にご参加下さいました。その折の話や、その折に配布した資料などからも引用なさっています。運営している甲斐がある、と思いました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月31日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、実弟の豊周・君江夫妻、姪の珊子が訪ねてきました。
 
兄弟6年半ぶりの対面です。十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)制作のため、秋には上京することが決まっており、そのための打ち合わせ的な来訪でした。
 
豊周一家は昭和20年(1945)3月に、信州小諸に疎開。光太郎は「東京に天子様がいらっしゃる間は動かない」と、残ります。結果、4月には空襲でアトリエが全焼、やむなく5月には宮澤賢治の父・政次郎らの招きで花巻に移ります。
 
豊周の『定本光太郎回想』(昭和47年=1972 有信堂)の、この来訪時の記述が、笑えます。
 
 僕と家内と娘とが太田村の山小屋をたずねたのは、兄がいよいよ帰京するすこし前のことで、はじめ兄は、
「手紙で用が足りるから、わざわざ来なくてもいい。殊に君江さんの足では無理だ。」
と言って来ていたが、それでもこの頃開通したという自動車の地図など書いてある。口ではなんとか言っていても、内心は、一度連絡に来てもらいたかったのだ。
 
微笑ましいですね。

現在、茨城県各地において、第38回全国高等学校総合文化祭・「いばらき総文2014」が開催されています。「文化部のインターハイ」とも呼ばれるイベントです。高校生諸君には、甲子園やインターハイなどの運動系だけでなく、文化系の活動でも頑張ってほしいものです。
 
主催は文化庁および公益社団法人全国高等学校文化連盟(高文連)さん。そちらで、全国高等学校総合文化祭以外に行っている活動の中に、「全国高等学校文芸コンクール」があります。今年で29回目だそうですが、その応募要項の中に「高村光太郎」の文字が。
 
第29回全国高等学校文芸コンクール応募要項

1 趣 旨
 全国の高校生から広く文芸作品を募集し、日本語の力と表現の可能性についての関心を喚起することにより、学校における文芸創作活動の振興と向上を図ることを目的とする。
2 応募資格
 高等学校、中等教育学校の後期課程、特別支援学校高等部、高等専門学校(第3学年までに限る)生徒、 並びに専修学校及び各種学校の修業年限が高等学校と一致している生徒。
3 応募部門
 (1) 小説 1人2編以内(400字詰め30枚以内)
 (2) 文芸評論 1人3編以内(400字詰め20枚以内)
    自由課題  作家論、作品論、文芸思潮など。共同研究も可。
    推奨課題 中島敦(小説の分野)、高村光太郎(詩の分野)、
         伊藤左千夫(短歌の分野)、水原秋桜子(俳句の分野)、
         枕草子(古典の分野)、モーム(外国文学の分野)、
         共同研究も可。
 (3) 随筆(エッセイ)1人3編以内(400字詰め10枚以内)
 (4) 詩 1人3編以内
 (5) 短歌 1人3首以上10首以内を併記のこと
 (6) 俳句 1人3句以上10句以内を併記のこと
 (7) 文芸部誌
     1校1点
     平成25年10月1日から平成26年9月18日の間に発行されたもの
     (中高一貫の部誌・同好会発行によるものも可)
 
6 賞
 (1) 全国高等学校文化連盟会長賞 最優秀賞、
     優秀賞、優良賞、入選(文芸部誌部門は奨励賞〉
 (2) 文部科学大臣賞 最優秀賞の中から特に優れている作品3点
    (散文の部、韻文の部、文芸部誌の部に各1点)
 (3) 読売新聞社賞 3点以内
 (4) 一ツ橋文芸教育振興会賞 文芸部誌部門から1点
7 審査結果の発表
 都道府県高等学校(芸術)文化連盟あて通知を以て発表とする。また、上位入賞作品は12月13日刊行予定の「全国高校生文芸集」に掲載発表する。文芸集希望者は返信用の角2封筒に、住所、氏名を書き、300円分の切手を貼って、全国高等学校文化連盟宛に申し込むこと。
8 表彰式
 平成26年12月13日(土) 国立オリンピック記念青少年総合センターにおいて優良賞(文芸部誌部門は奨励賞)以上の表彰式を行う。
 
10 応募締切
 平成26年9月17日(水)(消印有効) 受付は8月20日(水)から開始する。

 
光太郎を推奨してくださって高文連さんには、感謝いたします。現代の高校生が、どのように光太郎詩を読むのか、非常に興味があります。
 
光太郎自身、のちに「変な方角の詩」と書いた、詩人の魂の本質から大きく外れた戦時中の戦争協力詩に、なぜかことさらに注目し、「これこそ大和民族の魂の叫びだ」などと、ヘイトスピーチ的なことを平気で言っている人たちがいます。光太郎に対する冒瀆以外の何ものでもありません。
 
これからの日本を背負う若者たちには、独善的で幼稚なナショナリズムをふりかざすことのないようにと願います。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月30日
 
平成17年(2005)の今日、詩人の黄瀛(こうえい)が歿しました。
 
黄瀛は明治明治39年(1906)、清朝末期の中国重慶で中001国人の父と日本人の母の間に生まれました。幼くして父と死別、その後、母の実家のあった、銚子にほど近い八日市場(現・匝瑳市)に移り、尋常小学校を終えました。しかし日本国籍でなかったため、公立の上級学校には進学できず、東京の正則中学校、さらに中国青島の日本中学校に移ります。そして彼の地で、嶺南大学に留学中の草野心平と知り合い、心平が創刊した雑誌『銅鑼』に参加、さらに日本の詩誌への投稿などを盛んに行うようになりました。
 
大正14年(1925)には再び来日、やはり詩人の中野秀人を通じて光太郎と知り合います。光太郎は黄瀛を気に入り、彫刻のモデルに起用しました。ただし、この彫刻は現存しません。右は、比較的最近見つかった画像です。
 
また、光太郎は、後に昭和9年(1934)に刊行された黄瀛の詩集『瑞枝』の序文を書いたり、さらに、与謝野夫妻も関係していた文化学院に黄瀛が入学する際、保証人になったりしています。
 
遅れて帰国した心平を光太郎に引き合わせたのが黄瀛。さらに宮澤賢治を含めて交流が続きます。黄瀛は昭和4年(1929)、晩年の賢治を花巻に訪ねています。
 
その後、昭和12年(1937)には日中戦争が勃発、黄瀛は帰国します。南京に成立した汪兆銘の中華民国国民政府の宣伝部顧問として中国にいた草野心平と、終戦の年に再会。この時点で黄瀛は国民党の将校として、日本人の接収業務に当たっていました。李香蘭(山口淑子)の帰国も黄瀛の骨折りだったそうです。心平は、光太郎から貰った智恵子の紙絵などを没収されることを懼れ、黄瀛に託しました。
 
昭和24年(1949)に中華人民共和国が成立すると、国民党将校だった黄瀛は投獄され、昭和37年(1962)まで監禁。この際に心平から託されたもろもろのものは行方不明になりました。さらに出獄後すぐ、文化大革命が起こり、再び入獄。解放されたのは実に昭和53年(1978)のことでした。昭和59年(1984)にはほぼ半世紀ぶりに来日、晩年の心平と再会を果たしました。
 
平成12年(2000)には、千葉県銚子に黄瀛の詩碑が建てられ、除幕式に参加。これが最後の来日となりました。
 
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7/19、20の土日で青森に行って参りましたが、十和田湖の周辺で、いろいろと資料を入手して参りましたので、ご紹介します。

十和田国立公園

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森田五成著 十和田文化研究所発行  昭和27年6月5日初版/同57年6月30日改訂版
 
十和田湖国立公園婦人部副会長の森田玲子様からいただきました。森田様の舅にあたられる方のご著書だそうです。
 
十和田湖畔の裸婦群像、通称「乙女の像」についての記述もありますし、その他、十和田湖についてたくさんのことが書かれた、350ページ超の大作です。この手のものは、簡単なものしか手元になかったので、ありがたいかぎりでした。しかも、定価4800円もするのに、無料で戴いてしまいました。
 
乙女の像のある湖畔休屋地区のもりた観光物産さんで販売しています。
 
それから、同じく湖畔休屋地区の総合案内所で、無料で配布しているものを2種。ともに十和田湖国立公園協会さんの発行です。

十和田湖発!開運マンガ♥ 十和田湖にある東北最大(かも)の開運スポットとは!?

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A4判二つ折りです。能町みね子さんによるマンガ「アラサー女子が行く!青森・十和田開運の旅」が掲載されています。十和田神社がメインですが、乙女の像も登場します。
 
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もともと、今年3月刊行の旅行ガイド『じゃらん東北2014-2015完全保存版』に掲載されていたものです。
 
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十和田湖アイドル伝説! 乙女の像S 解散の危機 !?

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同じく能町みね子さんによるマンガで、こちらは7ページの作品です。元プロレスラーで苔玉作りインストラクターの起田高志さんも登場します。
 
乙女の像の片方(右子-みぎこ)が、「乙女の像をやめて上京する」と言いだし、もう片方(左子-ひだりこ)が、十和田湖周辺の魅力を再認識させ、引き留めるというストーリーです。笑えます。
 
こちら、十和田湖国立公園協会さんのサイトで読むことができ、「冊子にすればいいのに」と思っていたところ、すでになっていました(笑)。
 
こちらを読んで、ぜひ十和田湖に足をお運び下さい。
 
しかし、2月にお伺いした時には、大雪や訪れた時間帯のために気がつきませんでしたが、今回あらためて歩いてみて、休業した宿や店舗の多さにおどろきました。
 
先月の地元紙『デーリー東北』さんには、以下の記事が出ています。

女性記者が感じた十和田湖の魅力と課題

 青森県を代表する観光地・十和田湖の人気が低迷している。東日本大震災による風評被害を引きずってホテルや土産店の休廃業が後を絶たず、来訪客は一時、最盛期の半分程度にまで落ち込んだ。背景にあるのは観光地間の競争激化と観光スタイルそのものの変化。低迷を抜け出すために克服すべき課題は多い。
 県によると、十和田湖周辺は1990年代前半には年間300万人以上が来訪。東北新幹線八戸駅開業の2003年には最盛期の90年代を上回る約330万人を記録した。だが、鳥インフルエンザやリーマン・ショックの影響で08年に220万人となり、11年には東京電力福島第1原発事故の風評被害などで160万人にまで激減した。
 新幹線開通などで移動時間が短くなり、首都圏の観光客にも十和田湖はより身近な観光地になった。一方で、日帰りや他観光地への〝はしご〟も可能となり、観光客減少につながっているとみられる。
 県観光企画課は「宿泊を視野に入れない観光客も多く、観光スタイルが変化している」と指摘する。
 
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十和田湖周辺、本当にいいところです。よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月23日
 
平成18年(2006)の今日、朝日新聞社から『週刊人間国宝8 [工芸技術・金工1]』が刊行されました。
 
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光太郎の実弟で、鋳金家の高村豊周、そしてその弟子で、花巻の高村光太郎記念館や、信州安曇野の碌山美術館などに収められている光太郎作品の鋳造を担当した故・齋藤明氏(昨年亡くなりました)が取り上げられています。

先月まで、和歌山の田辺市立美術館さんで開催されていた企画展「宮沢賢治・詩と絵の宇宙~雨ニモマケズの心」が、鹿児島に巡回されます。

宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心

期 日 : 2014年7月31日(木)―8月31日(日)
会 場 : かごしま近代文学館 (鹿児島市城山町5-1)
時 間 : 午前9時30分~午後6時(入館は午後5時30分まで)
料 金 : 
一般 600円(500円) 小中学生 300円(200円)( )内は20名以上の団体割引
休 館 : 毎週火曜日
 
 
主催  鹿児島市 鹿児島市教育委員会 公益財団法人かごしま教育文化振興財団 かごしま近代文学館
企画協力  NHKサービスセンター、アート・ベンチャー・オフィス ショウ
特別協力 宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、林風舎
 
 日本が大震災からの復興をめざす中、「雨ニモマケズ」の詩でよく知られる宮沢賢治(1896-1933)が再び注目されています。賢治自身も、生まれる二か月前と亡くなる半年前に大地震と津波に襲われています。その生涯は、まさに天災・凶作との闘いでもあったのです。そして、理想郷をめざす苦闘の跡は、多くの詩や童話にも綴られました。
 賢治が生み出したメルヘン的・幻想的な作品群は、多くの読者や芸術家に、さまざまな視覚的、聴覚的なイマジネーションを喚起させます。そんな宮沢賢治の生涯と作品を、「雨ニモマケズ」の詩が直筆で書かれた手帳や、直筆の水彩画、および数多くの詩や童話作品のために描かれた多くの作家らによる挿絵原画約200点により紹介する展覧会を開催いたします。
 死後80年経たいまでさえも、人々の心深くに強く訴えかけてくる宮沢賢治の世界を蘇らせ、視覚的に体感し、そのメッセージに強く触れ、感じていただきたいと思います。
 
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一昨年の3月から、実に2年以上にわたって、全国を巡回しています。それだけ人が集まったということなのでしょう。当方、一昨年、2館めの横浜そごう美術館で観て参りました。
 
光太郎筆の「雨ニモマケズ」書幅――花巻の羅須地人協会跡地に建てられた、賢治碑の原本――が展示されます。
 
この鹿児島展で一区切りのようですが、さらに巡回が続くかもしれません。注意して見ておこうと思います。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月18日003
 
昭和5年(1930)の今日、アンソロジー『生田春月追悼詩集 海図』が刊行されました。
 
萩原朔太郎、室生犀星などの作品とともに、光太郎詩「消えずの火」が掲載されています。
 
生田春月は、明治25年(1892)生まれの詩人。妻は『青鞜』同人の生田花世です。
 
この年5月、瀬戸内海を航行中の船から、投身自殺をしました。
 

2週間程前に、お茶の水の石川武美記念図書館さんに行って、明治・大正期の少女雑誌を調べて参りました。その際、智恵子の妹、長沼セキ(世喜子)の書いた物語、「忘れずの記」を見つけ、コピーして来ました。こちらは博文館発行の『少女世界』大正元年(1912)9月の第7巻第12号に掲載されていました。
 
事前に、もう一件、目星を付けていたものがありました。金港堂書籍刊行の『少女界』明治43年(1910)9月の第9巻第11号です。幸いこちらも、石川武美記念図書館さんに収蔵されており、コピーをとってきました。
 
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こちらには、「智恵子」署名の物語、「百合の精」が掲載されています。こういうものがある、という情報だけは得ていましたが、現物を見るのは初めてでした。
 
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内容的には、両親を亡くした少女が、それを不憫に思った百合の妖精になぐさめられる、というもので、6ページ程の短編です。ちなみに物語の舞台は飛騨です。
 
作者の姓が書かれておらず、「智恵子」のみのクレジットです。そこで、我らが長沼智恵子の可能性もある、と思って、いろいろ調べているのですが、どうにもよくわりません。
 
明治43年(1910)は、長沼智恵子はまだ光太郎と出会う前。明治40年(1907)に、日本女子大学校を卒業し、郷里に帰らず、太平洋画会研究所に通って、絵の修行をしていた時期です。有名な『青鞜』の表紙絵を描き、光太郎に出会うのは明治44年(1911)です。
 
長沼智恵子の年譜では、この時期に少女雑誌に寄稿していたという記録はありません。しかし、寄稿ではないものの、博文館の『少女世界』には、明治44年(1911)とその翌年の2回にわたり、智恵子の描いた絵が口絵に使われています。
 
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絵ではなく、文筆作品が活字になったのは、確認できているものとしては、明治45年(1912)の『青鞜』に載った「マグダに就て」が最も古いものです(町立福島高等女学校の卒業式答辞が、明治36年(1903)の『福島民友新聞』に載りましたが、「文筆作品」とは言えますまい)。 
 
この頃、他に有名な「智恵子」としては、閑院宮載仁親王妃が智恵子という名前です。明治の元勲・三条実美の娘です。ただ、宮妃が少女雑誌に寄稿するのも考えにくいところです。ざっと調べた中では、智恵子妃がそうした活動をしていたという記録は見あたりませんでした。
 
また、のちの『青鞜』社員の中に、「伊藤智恵」という名前があるのですが、この人についてもよくわかりません。比較的有名な歌人の山中智恵子、ピアニストの原智恵子は、まだ生まれていません。
 
さらに、本名が「とら」とか「かめ」とか言う女性、または女性に限らず「権左右衛門」さんや「捨三」氏が、ペンネームとして「智恵子」と名乗ることも、全くないとはいいきれません。
 
結局、「百合の精」の作者、「智恵子」は謎のままです。
 
情報をお持ちの方は、ご教示いただけると、幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月17日
 
昭和30年(1955)の今日、日記に「連日の猛暑に閉口」と書きました。
 
このブログでも何度かふれましたが、光太郎は体質的に夏の暑さに弱く、冬大好きの人でした。

インターネット上で、著作権の切れた文学作品等を公開している「青空文庫」というサイトがあります。ボランティアの方が電子データに入力、そのご苦労には頭が下がります。
 
さて、その「青空文庫」がらみで、株式会社MediBangさんによる、下記のイラストコンテストが作品募集中です。 

第2回 青空文庫 有名小説表紙絵コンテスト

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応募期間 2014年7月31日(木)23:59まで
 
応募資格 特になし。プロ・アマ問わず応募可能。発表済みイラストでの応募も受け付け(但し、応募者自身が権利を有するイラストに限る)。
 
応募形式
 1.画像ファイル形式 jpg、png、gif
 2.規定サイズ(横 × 縦)2100 × 2800ピクセル
 3.必須事項
 表紙イラスト内に作品のタイトル、作品の著者名、通訳者がいる場合は通訳者を含めること。 加えて、イラスト作成者自身の名前を記載。
 
人気の応募書籍はこちら!
 白痴/堕落論 坂口安吾  家/若菜集 島崎藤村  こころ/坊っちゃん 夏目漱石
 たけくらべ 樋口一葉  学問のすすめ 福沢諭吉  ドグラ・マグラ 夢野久作
 三国志/私本太平記 吉川英治  父帰る/恩讐の彼方に 菊池寛
 阿Q正伝/狂人日記 魯迅  金色夜叉 尾崎紅葉  半七捕物帳/百物語  岡本綺堂
 鼻/杜子春  芥川竜之介  人間失格/走れメロス 太宰治
 
コンテスト対象作品の著者一覧                                                   
 アンデルセン ハンス・クリスチャン グリム ヤーコプ・ルートヴィッヒ・カール
 ド・ラ・ラメー マリー・ルイーズ トルストイ レオ  バーネット 
 フランシス・ホジソン・エリザ 
ルブラン・モーリス
 永井 荷風 海野 十三 宮沢 賢治 高村 光太郎 紫式部

                                                                              
受賞作の発表
 応募期間終了後、厳正な選考のうえ受賞・入選された作品をメディバン本サイトにて発表。
 特賞(最大1本):10万円  優秀賞(最大10本):1万円 入選:1,000円
 参加賞:受賞・入選作以外の応募イラストから1枚あたり100円
 


対象となる光太郎作品は以下の通り。
 
(私はさきごろ)  ヒウザン会とパンの会  ミケランジェロの彫刻写真に題す  黄山谷について  回想録  開墾 顔  気仙沼  九代目団十郎の首  山の秋  山の春  山の雪  詩について語らず  自作肖像漫談  自分と詩との関係  書について  小刀の味  触覚の世界  人の首  蝉の美と造型  装幀について  啄木と賢治  智恵子の紙絵  智恵子の半生  智恵子抄  能の彫刻美  美の日本的源泉  美術学校時代  木彫ウソを作った時  緑色の太陽  珈琲店より
 
正確にいえば、「小説」は一篇もありませんが、まぁ、そのあたりは厳密に考えていないようです。
 
絵心のある方、応募してみてはいかがでしょうか?
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月10日
 
昭和34年(1959)の今日、二玄社から『高村光太郎書』が刊行されました。
 
B4判の大型本で、はじめて刊行された光太郎の書の作品集です。監修は光太郎実弟の高村豊周、編集は光太郎と親交の深かった美術史家の故・奥平英雄氏と、北川太一先生です。
 
特に晩年、独特の境地に至った光太郎の書、67点の写真が掲載されています。また、別冊には、草野心平「光太郎書の三つの時代」、西川寧「高村さんの書」、吉野秀雄「高村光太郎の書」、奥平英雄「書についての回想」が掲載されています。

一昨日、神田の東京古書会館に明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観を観に行きましたが、その足でもう一件、別の用事も済ませてきました。
 
行き先はJRお茶の水駅近くの石川武美記念図書館さん。以前はお茶の水図書館という名称でしたが、昨年4月に名称が変わりました。
 
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こちらは主婦の友社さんの附属施設で、石川武美(「たけよし」と読み、男性です)は同社の創業者です。そうした関係で、こちらの図書館は女性雑誌の収集に力を入れており、当方がよく利用する国会図書館や駒場の日本近代文学館、横浜の神奈川近代文学館等にもない資料があったりします。
 
所蔵和雑誌のリストがこちら。ただしタイトルと所収分の期間だけの記載で、巻号数は実際に足を運ぶか、問い合わせるかしないと判りません。
 
以前にも一度行った事があり、その際には筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』未収録の光太郎作品を見つけました。明治43年(1910)の『婦人くらぶ』第3巻第2号に載った長い散文「美術家の眼より見たる婦人のスタイル」、大正11年(1922)の『主婦之友』第6巻第12号に載ったアンケート「私が一番深く印象された月夜の思出 文芸家三十六氏の回答 紐育の満月」の2篇です。
 
また、作品そのものは知られていながら、初出掲載誌が不詳だった詩「保育」(昭和19年=1944)についても、掲載誌が同年発行の雑誌『保育』の第84号であることも、現物を見て確認できました。
 
さて、一昨日は、明治期の少女雑誌を調べるのが目的でした。
 
まずは博文館刊行の『少女世界』。こちらには明治44年(1911)とその翌年の2回にわたり、智恵子の描いた絵が口絵に使われています。独身時代ですので、クレジットは「長沼」姓です。そちらは以前にコピーや現物が入手できています。今回探したのは、智恵子の2つ違いの妹・セキの書いた児童読み物。それが掲載されているという情報は得ていましたが、現物は未見でした。
 
調べてみたところ、幸いにも掲載号が所収されていました。大正元年(1912)9月の第7巻第12号で、「忘れずの記」という5ページ程の短い物語でした。署名は「長沼世喜子」となっています。智恵子も戸籍上の本名は片仮名で「チヱ」ですが「智恵」と漢字を当て、さらに「子」を付けています。この時代、こうした習慣は一般的だったようです。
 
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ちなみにセキは、智恵子と同じく日本女子大学校に通っており、光太郎と智恵子が愛を誓った(であろう)大正元年の犬吠埼行きの際にも、はじめ、智恵子に同道していました。卒業後は児童学研究の名目で渡米しています。
 
また、たまたま同じ年の別の号(7月5日刊行の第7巻第10号増刊星まつり号)を見ていたところ、同誌主筆の沼田笠峰の書いた「福島より 福島地方少年少女講話会」という記事が目にとまりました。「福島」というのが気になって、記事を読んだところ、驚いたことに「高等女学校の長沼さん」の文字が。
 
 師範学校のお話をしまつて宿に帰りますと、留守中に高等女学校の千葉さん、長沼さん、富田さんがお出でになつてゐました。それから菊池さん、加藤さん、金子さんたちも音づれて下さいました。まる一年お目にかゝらない中(うち)に、皆様は見違へるやうになつていらッしやいます。あゝさうさう、皆様からS子さんによろしくとのことです。
 
 宿へ帰る途々、千葉さん、長沼さん、菊池さん、加藤さん、藪内さん、金子さん、湊さんたちと、さまざまのお話を致しました。S子さん、招来の日本の少女は、どんな覚悟を持たなければならないのでせう? こんなことを語り合ひながら、夕日さす市街(まち)を歩いた光景(さま)を想像して下さい。
 
改元直前の明治45年(1912)ですから、年代的に智恵子やセキではありえませんが、もしかするとさらに下の妹、智恵子と9つ違いのヨシあたりかも知れない、と思いました。ただし、ヨシが福島高等女学校に進んだたどうかは、手持ちの資料を少し調べてみたのですが、わかりませんでした。おわかりの方はご教示いただけると幸いです。

追記 智恵子妹5人中、すぐ下のセキを除く4人(ミツ・ヨシ・セツ・チヨ)は福島高等女学校に通ったことが分かりました。時期的に、上記の「長沼さん」は4女のヨシが該当します。
 
ところで、この「福島より 福島地方少年少女講話会」という記事、全体が「S子さん」にあてた書簡の形式で書かれています。この「S子さん」も正体不明です。ただ、福島高等女学校の長沼さんが「よろしく」と言っていたという点、2ヶ月後に「忘れずの記」を執筆している点などから考えて、「S子さん」=セキ、という仮説も成り立つかな、と思いました。
 
ただ、あまりに手がかりが少なすぎて、何とも言えません。
 
さて、石川武美記念図書館では、もう一種類、ほぼ同時期に金港堂書籍から刊行されていた『少女界』という雑誌も調べて参りました。こちらにも謎の作品が。ただ、長くなりましたので、またの機会に書きます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月6日
 
明治36年(1903)の今日、五代目尾上菊五郎の彫刻に取りかかりました。
 
光太郎数え21歳、前年に東京美術学校彫刻科を卒業し、徴兵猶予の意味もあって、研究科に残っていました。五代目尾上菊五郎はこの年2月に歿し、ファンだった光太郎は衝撃を受けています。
 
作家の山岸荷葉を介して菊五郎の音羽屋一門の知遇を得、写真を借りたりして制作にかかりました。
 
翌日の日記がこちら。
 
○きのふ(三十六年七月六日)啀権太の土型にとり懸りたり。今度は高さ三尺程にて姿勢は素より、衣服、持ち物、鬘、鉢巻その他すべてモデルも使ひ、話もきゝ、見ても貰ひてしつかり十分にやりたき心也。
 
「啀権太」は「いがみのごんた」と読み、菊五郎の当たり役で、「義経千本桜」の登場人物です。
 
この彫刻は完成しましたが、残念ながら現存が確認できていません。もし出てきたら大ニュースですね。

昨日、東京神田の東京古書会館で開催中の明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観(一般プレビュー)に行って参りました。昨年に引き続き、2度目でした。
 
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江戸期以前から現代までの二千数百点の出品物が所狭しと並び、全てをじっくり見ようと思ったら一日がかりでしょう。あまり時間もなかったので、光太郎がらみの出品物を中心に一部だけ観て参りました。
 
出品物は基本的に手に取って観ることができます。その点が文学館などとの大きな違いです。光太郎がらみの出品物も、ショーケースに入っていた与謝野寛宛書簡、短歌揮毫の色紙以外は手に取って観てみました(その2点も会場の方に頼めばケースから出してくれたのかも知れませんが)。
 
今回の出品物は以前から知っているものばかりでしたが、やはり生で見ると違います。特に識語署名入の随筆集『美について』は、数年前にネットの画像で観た時には筆跡的に少し怪しいかも、と思っていたのですが、実物を観るとオーラが漂っていました。不思議なもので、その手のオーラは画像では判りません。
 
その他の草稿や書名本なども、ビリビリとオーラを発していました。自宅兼事務所にも光太郎の署名本や草稿、短冊や書簡などが少なからずあるのですが、やはり違ったものに触れると違ったパワーを感じます。
 
その他、光太郎以外にも関係の深かった人物のもの……与謝野夫妻、草野心平など……さらに光太郎智恵子と直接の関連はないようですが、朝ドラ「花子とアン」で再び脚光を浴びている柳原白蓮のものなど、興味深く拝見しました。
 
いいものを観る(それも、手に取って観られるという贅沢)というのは非常にいいことですね。
 
カラー版厚冊の目録(2,000円)は、文生書院さんなど、加盟各店に注文すれば入手できます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月5日
 
昭和4年(1929)の今日、東京朝日ギャラリーで開催されていたデッサン社第三回展覧会が閉幕しました。
 
光太郎は大正期のデッサンを元に智恵子の背中を描いた「ほくろ」を出品したそうです。
 
デツサン社ではずばり「デツサン」という雑誌を刊行しており、大正15年(1926)の第三輯の表紙絵は光太郎が描いています。もしかするとその原画も展示されたのではないかなどと考えていますが、詳細が不明です。今後、調査してみます。
 
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