カテゴリ: 文学

昨日は智恵子の誕生日でした。
 
「智恵子の顔を持つ」とも言われる十和田湖畔の裸婦像をかかえる青森県の地方紙『陸奥新報』さんに、智恵子誕生日がらみのコラムが載りました。『朝日新聞』で言えば「天声人語」にあたる欄でしょう。

冬夏言2013/5/20 月曜日 

ある人物に思いを巡らすと、別の人物についても連想することがある。きょう20日は、彫刻家・高村光太郎の妻智恵子が生まれた日。冬夏言子の場合、この高村夫妻から想起するのが、本県出身で多彩な才能を発揮した寺山修司だ▼光太郎といえば、智恵子が死去した後に出版した詩集「智恵子抄」が有名だ。芸術家夫婦の苦悩と純愛がつづられ、多くの愛読者がいる作品である▼寺山修司は著書「さかさま文学史黒髪編」の中で、高村夫妻を取り上げた。智恵子が精神を病むまで追い詰めたのは光太郎とし、それを自覚しなかった光太郎を「人間音痴」と厳しく評した▼夫妻の真実は、他人に分かりようもない部分がある。それでも「純愛カップル」という通説をひっくり返そうとするかのような視点に、大きな衝撃を受けた▼世間の常識をそのままよしとせず、新たな視点で常識に風穴を開ける―。冬夏言子が作品を通して寺山修司に感じた姿勢である▼今年は寺山修司没後30年。47歳という短い生涯だったが、今なお影響力を発し続けている。本県が生んだ偉大なる反骨精神に敬意を表したい。
 
取り上げられている寺山修司の「さかさま文学史黒髪編」は角川文庫で昭和53年(1978)に刊行されています。
 
イメージ 1
 
林静一氏のカバーイラストが実にいいですね。智恵子もイメージされているのではないでしょうか。
 
問題の章は、「妻・智恵子 彫刻詩人・高村光太郎の孤独な愛、詩集『智恵子抄』の明暗」という題です。
 
その後、平成3年(1991)に刊行された雑誌『鳩よ!』95号「特集 光太郎・智恵子」にも再録されています。どちらも古書市場では比較的容易に入手できます。
 
イメージ 2
 
【今日は何の日・光太郎】5月21日

昭和17年(1942)の今日、詩集『道程』により第一回帝国芸術院賞に選ばれ、文部大臣官邸で行われた授賞式に出席しました。
 
『道程』。初版は大正3年(1914)ですが、昭和15年(1940)には改訂版、さらに翌年には改訂普及版が刊行されており、それらを受けての受賞でしょう。また、この当時の光太郎は日本文学報国会詩部会長だったり、大政翼賛会文化部の仕事をしていたりで、詩壇の大御所的存在。大量の戦意高揚の詩を書き殴っていました。そうした光太郎への箔づけ的な側面もあったと思います。

【今日は何の日・光太郎】5月11日

昭和3年(1928)の今日、詩「あどけない話」を書きました。
 
 智恵子は東京に空が無いといふ、002
 ほんとの空が見たいといふ。
 私は驚いて空を見る。
 桜若葉の間に在るのは、
 切つても切れない
 むかしなじみのきれいな空だ。
 どんよりけむる地平のぼかしは
 うすもも色の朝のしめりだ。
 智恵子は遠くを見ながら言ふ、
 阿多多羅山の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとの空だといふ。
 あどけない空の話である。
 
右の画像は、福島二本松の智恵子生家と「ほんとの空」です。昨年9月に撮影しました。
 
さて、「あどけない話」。「ほんとの空」というフレーズは、東日本大震災以来、一種、反原発の象徴的に使われています。
 
それはそれでいいのですが、実は難しい詩です。
 
「東京に空がない」と言っても、85年前ですから、「大気汚染で汚れた空しか見えない」というわけではありません。
 
「空」=「心のよりどころ」または「自分の居場所」とでもいえるような気がします。
 
智恵子は洋画家を志し、結婚(大正3年=1914)前には、実際に展覧会に作品を出したり、雑誌『青鞜』の表紙絵を描いたりといったことをしていました。
 
そして同じく「美」の道を志す光太郎と出会い、惹かれ合い、そして結ばれました。二人の間には、一種の「同志愛」的な要素もあったのではないかと思います。
 
しかし、光太郎の彫刻や詩は徐々に世に認められていったのに対し、智恵子の絵はなかなかそうはなりませんでした。いわゆる「ジェンダー」の立場の方々は、光太郎との生活の中で、女性である智恵子が自分を犠牲にせざるをえなかったからだと論じています。光太郎自身もそのようなことを書いています。
 
その上、智恵子は健康面でもあまりすぐれなかったこと、二人の間には子供もおらず、さらには智恵子には友人も少なかったこと、二本松の実家・長沼家がだんだん傾いていたことなど、智恵子にとってはつらい要因が重なっていました。
 
そんな時に、智恵子はよく福島に一人帰省して、ガス抜きをしていたようです。
 
この「あどけない話」の解釈として、昔、当方は、智恵子の心の叫びを理解せず、「あどけない」と処理してしまった時点で、後の大きな悲劇=智恵子の統合失調症発症は決定的になったのだ、と書いたことがありました。
 
ところが後に、当会顧問・北川太一先生に「違う」と一喝されました。
 
北川先生曰く、この詩が書かれた前日に、不動産登記簿によれば長沼家の家屋の一部が福島区裁判所の決定により仮差し押さえの処分を受けており、光太郎がこうした事情を知らなかったはずがないというのです。ちなみに明くる昭和4年(1929)には、長沼家の全ての家屋敷は人手に渡り、実家の家族は離散、智恵子は帰るべきふるさと、そして「ほんとの空」を失います。
 
実家の斜陽化に心を痛め、しかしどうしてやることもできず、子供のように涙を流す智恵子。さらにそれを知りつつどうしてやることもできない光太郎。そういう姿が見えてきます。
 
しかし、どうしてそれが「あどけない話」なのか、実はまだよくわかりません。二人の「生」のありようを追い求めていくことで、その答えに近づくことができるのでしょうか。そうであってほしいものです。

先月末、全国の小中学校で「平成25年度全国学力・学習状況調査」が行われました。小学校6年生と中学校3年生が対象です。
 
いろいろ問題はあると思いますが、それはさておき、中学校3年生の国語A(「知識」を問う問題)で、光太郎の散文「山の春」が問題文に使われました。この「山の春」、昭和26年(1951)、雑誌『婦人之友』に掲載されたエッセイです。
 
イメージ 1
イメージ 2
 
光太郎の文筆作品というと、どうしても詩が有名ですが、発表されたものとしては、評論やエッセイ、翻訳などの散文の方が圧倒的に多数です。
 
翻訳は光太郎オリジナルではありませんが、それでも訳し方、どういった文章にするかといった部分では、訳者の役割には大きなものがあります。
 
身びいきではなく、光太郎の散文は非常に読みやすいと思います。着眼点もすばらしいし、論の展開の仕方、適切な例の上げ方、言葉の選択、段落の設定の仕方、句読点の使い方など、実に参考になります。
 
『全集』補遺作品集「光太郎遺珠」や、冊子『光太郎資料』などの編集で、光太郎の文章を書き写す機会が多いのですが、光太郎の文章は書き写していてまったく苦になりません。ただ、光太郎のクレジットでも、他の人が筆録した談話筆記などになると、いつもの「光太郎ルール」ではないな、と思うことがありますが。
 
逆に談話筆記には、通常の散文にはない光太郎のしゃべり方のルールが見て取れ、それに感心させられる事も多くあります。
 
そういう意味では、テストの問題文などには光太郎の散文はうってつけだと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】5月7日

昭和9年(1934)の今日、療養のため、智恵子が千葉県九十九里浜の妹の婚家に移りました。
 
光太郎は、この九十九里浜での智恵子の様子を、後に詩「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」などに謳っています。
 
イメージ 3
智恵子が療養していた家(現在は取り壊されてしまってみることができません) 
 

【今日は何の日・光太郎】5月6日

昭和15年(1940)の今日、詩「新緑の頃」を書きました。
 
昨日は、家族サービスで、茨城県の筑波山周辺(雨引観音楽法寺、茨城県フラワーセンター)に行って参りました。新緑の山がとても美しく、こういうときには「日本に生まれてよかった」と思います。
 
帰ってきてネットで新しい情報の調査。すると、『北海道新聞』さんの記事がヒットしました。 

新緑の頃

寒さに震える大型連休。それでも、近郊の山々はやわらかな萌木の色に染まり、互いにほほ笑み合っているかのようだ。高村光太郎の「新緑の頃」は、この季節を喜びいっぱいに歌う▼<青葉若葉に野山のかげろふ時、ああ植物は清いと思ふ。植物はもう一度少年となり少女となり/五月六月の日本列島は隅から隅まで/濡(ぬ)れて出たやうな緑のお祭>。「冬の詩人」とも呼ばれる光太郎には珍しい春の詩。いつ終わるとも知れない厳しい冬を熟知しているからこそ、ようやく巡りきた命の再生に感謝し、心を沸き立たせる▼それは北の地に暮らす私たちの実感でもある。どんな老木も、生きているかぎり、みずみずしい葉を芽吹かせる。いまある場所をじっと動かず、寒さに耐えながら、気温と日照のかすかな変化を感じ取り、春への日数を積算しているのだろう▼北電泊原発が停止したのは去年の5月5日だった。道民は節電など暮らしに工夫を凝らし、原発に由来しない電気で春夏秋冬を過ごしてきた。あれから1年。ほっと息をつく▼だが、緑なす列島の中で、福島第1原発と周辺の街や野山や海や川では放射能との闘いが続く。道内の水や空気や土を清く保ちたいと願うのは地域エゴではない。生きとし生けるものへの義務だろう▼幾春(いくはる)も深呼吸できる大気を―。濡れ出たばかりの無垢(むく)な命に誓う。きょう「みどりの日」。2013・5・4
 
『朝日新聞』さんでいえば、「天声人語」にあたる欄でしょう。ありがたいことです。しかし、北海道では「寒さに震える大型連休」なんですね。
 
ちなみに詩全文は次の通り。

 
   新緑の頃002
 
 青葉若葉に野山のかげろふ時、
 ああ植物は清いと思ふ。
 植物はもう一度少年となり少女となり
 五月六月の日本列島は隅から隅まで
 濡れて出たやうな緑のお祭。
 たとへば楓の梢をみても
 うぶな、こまかな仕掛に満ちる。
 小さな葉つぱは世にも叮寧に畳まれて
 もつと小さな芽からぱらりと出る。
 それがほどけて手をひらく。
 晴れれば輝き、降ればにじみ、
 人なつこく風にそよいで、
 ああ植物は清いと思ふ。
 さういふところへ昔ながらの燕が飛び
 夜は地蟲の声さへひびく。
 天然は実にふるい行状で
 かうもあざやかな意匠をつくる。
 
画像は先日、碌山忌の際に碌山美術館でいただいて来た楓の苗です。2階のベランダから家の裏山の新緑をバックに撮ってみました。秋には真っ赤に染まるとのこと。今から楽しみです。
 
再び『北海道新聞』さんの記事。「緑なす列島の中で、福島第1原発と周辺の街や野山や海や川では放射能との闘いが続く」……。「幾春(いくはる)も深呼吸できる大気を―」その通りですね。

先日、本郷の森井書店様から届いた同店の在庫目録。
 
光太郎がらみとして、昨日は識語署名入りの『智恵子抄』をご紹介しましたが、もう一点、光太郎がらみが載っていました。
 
イメージ 1
 
昭和37年(1962)の第6回連翹忌で、光太郎の七回忌記念に配布されたものです。ちなみに、「回忌」の正しい数え方は数え年と同じで、亡くなって何年目、と数えます。亡くなった年の翌年のみ満一年ということで「一周忌」、その次が「三回忌」となり、以後、一つずつ数字が増えていきます。従って、連翹忌の回数とは一つずれます。
 
制作はこの手の美術工芸品の複製で有名な大塚巧藝社。当然、非売品です。もともとは大正13年(1924)、光太郎の弟、豊周の子供が夭折した際、光太郎が豊周に「これ、霊前に」といって持ってきたものです。この光太郎の心遣いに、豊周はいたく感激したとのこと。
 
さて、当方、同じものを持っています。
 
イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4
 
ちなみに、第6回連翹忌でこれが配布された経緯を記した『東京新聞』のちいさな記事もついていました。
イメージ 5
 
数年前、どこかの古書店で売りに出ていたものをネットで買ったのですが、どこの古書店だったか覚えていません。値段も覚えていません。ただ、それほど高かった記憶はありません。高くても数千円だったような気がします。
 
ところが今回、森井書店様では150,000円で売りに出しています。考えてみればこのくらいの値段がついてもおかしくないものです。それが数千円でしたので、何だか得した気分ですね。まぁ、手放すつもりは毛頭ありませんが、安い買い物ができたという意味で、得した気分です。
 
ところでこの「般若心経」、一カ所、光太郎が書き間違いました。

イメージ 6
 
「菩提薩埵」で「菩提(ぼだい)」と書くべきところを勢い余って「菩薩(ぼさつ)」と書いてしまい、その後、「薩」と「提」の間に漢文のようにレ点を付けています。こういう点、かえって温かみを感じます。
 
ところで、古書目録といえば、昨日届いた杉並の中野書店様の目録には、大正3年の詩集『道程』初版が載っていました。

イメージ 7
 
詩集『道程』初版。国会図書館にすらないものです。同館にあるのは売れ残りを改装し、奥付を変えた「再版」です(それはそれで珍しいのですが)。1~2年に一度くらい市場に出てきます。昨年は明治古典会七夕古書大入札会にカバー付きのものが出ましたが、今回のものはカバーなし、状態もあまり良くないようです。それでも94,500円。まぁ、これも妥当な価格です。当方、同じような状態のものを同じような価格で手に入れました。
 
昨日ご紹介した識語署名入りの『智恵子抄』といい、心ある人や機関の手元に行ってほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】5月1日

明治38年(1905)の今日、上野公園竹の台五号館で第一回彫塑同窓会展が開幕しました。光太郎は塑像「薄命児」「解剖台上の紅葉山人」を出品しました。

週に1~2冊、古書店から目録が届きます。通販用の在庫カタログといった位置づけです。今ほどインターネットが普及していなかった時代には、地方在住者としては非常にありがたいものでした。昨今は古書店もネット販売を取り入れているところがほとんどですが、紙の目録もまだまだ役に立つものです。
 
先日、本郷の森井書店様から届いた目録。80ページ中の約50ページがカラー版で、近代作家の肉筆ものなどが多数載っており、見ているだけでも楽しいものです。
 
イメージ 1
 
ちなみに上の画像は表紙ですが、上から順に横光利一の草稿、岡本かの子・一平合作の短冊とかの子の草稿、永井荷風の書簡です。
 
残念ながら、どうしても必要なものは載っていなかったので注文しませんが、「ほう」と思ったものが何点かありました。
 
まず、識語署名入りの龍星閣版『智恵子抄』。

イメージ 2
 
見返しに短歌「わが為事(しごと)いのちかたむけて成るきはを智恵子はしりき知りていたみき」がペン書きで書かれています。「光」の署名も。この短歌は『智恵子抄』に収められた「うた六首」の中の一つ、有名な作品です。筆跡的に光太郎のもので間違いありません。
 
本自体は、函がしっかりついていますが、重版なので、この識語署名がなかったら1,000円ぐらいのものです。しかし、この識語署名があることによって売価380,000円。妥当な値段かな、と思います。ここまでしっかり有名な短歌が書かれているという点では、識語署名というより、一つの書作品に近いといえるでしょう。美術館や文学館の企画展などで展示されてもおかしくないものです。
 
有り余るほどの資産があれば購入するのですが、そうもいきません。どなたか心ある方の手元に行ってほしいものです。
 
他にも数点、「ほう」と思うものがありましたが、ブログのネタかせぎのため、明日に回します。
 
【今日は何の日・光太郎】4月30日

昭和30年(1955)の今日、結核のため、赤坂山王病院に入院しました。
 
7月には小康状態となり、退院していますが、もはや手の施しようはなかったようです。

今日の新聞に、推理作家の佐野洋さんの訃報が載っていました。

佐野洋氏死去 推理小説界の重鎮

2013.4.28 00:58  
 名物批評コラム「推理日記」の連載などで知られた、作家で推理小説界の重鎮、佐野洋(さの・よう、本名・丸山一郎=まるやま・いちろう)氏が27日午後9時25分、肺炎のため川崎市内の病院で死去した。84歳。葬儀・告別式は故人の遺志で行わない。後日、お別れの会を開く。
 「短編の名手」といわれ、読売新聞記者時代の昭和33年、推理作家デビュー。39年、「華麗なる醜聞」で日本推理作家協会賞。48年から月刊誌「小説推理」に名物批評コラム「推理日記」を39年間連載し、日本推理作家協会理事長も務めた。
 平成9年、日本ミステリー文学大賞。21年に菊池寛賞受賞。代表作に「事件の年輪」など。
 
当方、佐野氏の著書を一冊持っています。光文社文庫の「歩け、歩け」(2007/1/20)。
 
裏表紙の紹介文から。007
 
娘が着メロに入れてくれた昔の唱歌「歩くうた」が、老父との思い出を甦らせた。
ふとしたことで知った、子供時代の父の身に起きた事件とは?(表題作)
読後、深く心に残る人生の機微。単行本未収録作9編を収録。
 
モチーフに使われている「歩くうた」が、昭和15年(1940)に作られた光太郎作詞の国民歌謡です。
 
ご冥福をお祈りいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月29日

昭和23年(1948)の今日、新たに作られた盛岡美術工芸学校の開校式への祝辞を書きました。

昨日、目黒区駒場の日本近代文学館に行って参りました。
 
先月ご紹介した同館で開催している講座、「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」を聴講するためです。
 
全6回の講座の1回目で、題は「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」。講師は上智大学教授の小林幸夫先生でした。光太郎、鷗外、それぞれの書いた文章などから二人の交流の様子を語られ、非常に興味深い講座でした。
 
親子ほど年の違う二人の交流、主に二つの出来事が扱われました。
 
まず、光太郎が東京美術学校在学中だった明治末の話。鷗外が非常勤の講師として美術学校の「美学」の授業を担当しました。どうも若き光太郎、「権威」には反発したがる癖があったようで、偉そうな鷗外に親しめませんでした。その最後の講義の日、頓狂な質問をした級友がこっぴどく怒られたエピソードを、光太郎は後々まで繰り返し語っています。
 
さらに大正に入ってから、やはり権威的だった鷗外を揶揄し、「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、光太郎を自宅に呼びつけて叱責したとのこと。鷗外はこの件を雑誌『帝国文学』に載った「観潮楼閑話」という文章に書いています。光太郎も後に高見順や川路柳虹との対談などで回想しています。
 
といって、光太郎は鷗外を嫌悪していたわけではなく、それなりに尊敬していましたし、鷗外は鷗外で、つっかかってくる光太郎を「仕方のないやつだ」と思いつつもかわいがっていた節があります。
 
今回の講座ではそういう話は出ませんでしたが、光太郎が明治末に徴兵検査を受けた際、身長180センチくらいの頑健な光太郎が徴兵免除となりました。理由は「咀嚼(そしゃく)に耐えず」。確かに光太郎、歯は悪かったのですが、それにしても物が噛めないというほどではありません。これはどうしたことかと思っていたら、帰り際に係官の軍人が「森閣下によろしく」とのたまったとのこと。軍医総監だった鷗外が、裏で手を回して光太郎の徴兵を免除してやったらしいのです。
 
微笑ましいといえば微笑ましい交流ですね。
 
小林先生もおっしゃっていましたが、「文豪」たちのこうした人間的な側面が垣間見えるところに、文学のある種のおもしろさがあるような気がします。
 
同館では、講座とは別に企画展も開催中です。題して「花々の詩歌」。

 
イメージ 1

「文豪」たちの「花」を題材にしたさまざまな作品-主に自筆資料-が並んでいます。夏目漱石が相思相愛だったとも伝えられる大塚楠緒子の死に際して詠んだ有名な句「あるほどの菊なげ入れよ棺のなか」の短冊や、有島武郎が心中の直前に作った短歌「明日知らぬ命の際に思ふこと色に出つらむあじさいの花」の短冊など、見応えのあるものばかりです。
 
それらにまじって、大正期に第二次『明星』のために光太郎が描いた花々のカットも4点展示されています。チラシの右上に載っています。
 
会期は6/8(土)まで。



今日、明日と、信州安曇野の碌山美術館に行って参ります。光太郎の親友だった彫刻家碌山荻原守衛の命日、碌山忌と、記念講演で光太郎の令甥、高村規氏の「伯父 高村光太郎の思い出」があります。
 


【今日は何の日・光太郎】4月21日

明治45年(1912)の今日、上野竹の台陳列館において第10回太平洋画会展覧会が開幕しました。智恵子が油絵「雪の日」「紙ひなと団扇絵」を出品しました。
 
どちらの作品も現存が確認されていません。どこかから出てこないものでしょうかね……。

朗読系のDVDを入手しましたのでご紹介します。
 
昨年、テレビ東京系で約半年間、月曜から木曜の深夜に放映されていた「乃木坂浪漫」のDVDです。この番組は、アイドルグループ乃木坂46さんのメンバーが日替わりで出演、日本文学の名作の一節を朗読するというコンセプトでした。
 
光太郎作品は2回取り上げられ、5/9には斉藤優里さんの出演で「道程」、6/20には斎藤ちはるさんの出演で「智恵子抄」のサブタイトルで放映されました。いずれDVD化されて販売されるだろうと思っていましたら、先月、千葉・幕張メッセでDVDの販売イベントがあったとのこと。
 
感心すべきなのかどうなのか、出演しているメンバーの人気による売れ残りを防ぐための方策なのでしょう、内容を指定してのバラ売りではなく、全102種類を5枚ずつランダムに袋に入れて販売、という方式をとったとのこと。
 
そこで現在、ネットオークションではたくさんバラで出品されていまして、それで購入しました。光太郎を扱った2枚だけを入手できたので、ラッキーでした。
 
#23 斉藤優里 「道程」 収録作品「冬が来た」「レモン哀歌」
#47 斎藤ちはる「智恵子抄」 収録作品「あどけない話」「亡き人に」
 
イメージ 1
 
若い人たちに興味を持ってもらうためには、こういうのもありかな、と思います。
 
【今日は何の日・光太郎】4月19日

昭和25年(1950)の今日、盛岡市の川徳画廊で「智恵子切抜絵展覧会」が開幕しました。
 
この時点ではまだ「紙絵」という呼称は使われていませんでした。 

たまたまネットで見つけました朗読関連のイベントを2つご紹介します。まちがいなく今年のイベントです(数年前のイベントのページにたどり着き、これから開かれると書いてしまいまったことがありますので)。
 
『北海道新聞』さんのページから。函館でのイベントの記事です。 

読み語り会「花音」発足 函館の犬童さん、安沢さんら 26、28日に記念公演

 司会・ナレーション業の「オフィスK」(函館市柳町)スタッフとして活躍している犬童いづみさんと安沢智子さんが中心となり、読み語り会「花音(かおん)」が発足した。26日と28日に市民会館大会議室で創設公演を開き、小説や詩など文学作品の朗読を披露する。

 「花音」は、犬童さんと安沢さんが講師を務める道新文化センターの朗読講座の受講生29人が会員。講座で身につけた技術を生かし、施設や学校、ホームパーティーなど、さまざまな場に出向いて朗読や語りのボランティア活動に取り組むのが目標だ。

 創設公演は、会のお披露目として開催する。26日は午後6時半から7人が高村光太郎の「智恵子抄」などを、28日は午後1時半から6人が夏目漱石の「夢十夜」などを読む。

 「花音」代表に就いた犬童さんは、「朗読は、声を通して作品世界をより生き生きと伝え、リアルに感じてもらうことができる」と話し、多くの来場を呼びかけている。

 入場無料。問い合わせは犬童さん(電)090・3115・9830へ。(内田晶子)
(04/15 16:00)


もう一点、やはり北海道札幌の話し方教室、オフィス スウィングさんのページから。 

月替わりの中国茶を飲みながら、耳で味わう文学はいかがですか?昼の部には、ゲスト朗読者として安藤千鶴子さんを迎えます。夜の部の作品に一部違いがありますので、ご承知おきください。

必ずご予約のうえ、お一人で、ご友人とご一緒に、お気軽にお越しください。

★ 日時  5月14日(火) 昼の部 午後2時~4時 夜の部 午後6時40分~8時40分 

★ 主な予定作品                 朗読
1 <漢詩>杜甫「春夜喜雨」(中国語朗読)    李 強
2 (昼の部)「一切は智恵子」     安藤千鶴子
      (高村光太郎「智恵子抄」ほかより)
  (夜の部)太宰治「葉桜と魔笛」       山口 成子
3 藤沢周平「うぐいす」            五十嵐和子
4 清少納言「枕草子」日本語&中国語    李強・山口成子
   
★ 会場  中国茶専門店 楼蘭(ろうらん)
   札幌市中央区南3条西9丁目(狸小路) 
   地下鉄東西線「西11丁目駅」3番出口から徒歩5分 
★ 会費  1,000円(中国茶・菓子つき) 
★ ご予約・お問い合わせ  必ず、事前にお申し込み願います。
  オフィススウィング  電話&FAX 011-631-5016  
  楼蘭  電話&FAX  011-231-3918 (月曜日定休)

たまたまどちらも北海道でのイベントです。北海道にはそういう素地があるんでしょうか?
 
【今日は何の日・光太郎】4月17日

平成4年(1992)の今日、福島県安達町(現・二本松市)に智恵子記念館が完成、開館式が行われました。

002

画像は記念館に併設の智恵子生家です。

今朝起きて、パソコンのスイッチを入れたところ、立ち上がりませんでした。何度繰り返しても同じ。7~8年前に買ったもので、数年前から怪しかったのをだましだまし使っていましたが、とうとうおしゃかになってしまいました。
 
といって、パソコンがないと仕事にも何にもなりません。しかたなく、早速家電量販店に行って、新しいパソコンを買いました。新しい、といっても古い型のようで、OSもwindows7、エクセルやワードもインストールされていません。しかしそれ(本体とマウス、キーボードのみ)で26,800円。安くなったものです。
 
まだ設定がうまくいっていないのですが、とりあえずインターネットは使えるようになりましたので、ブログも更新できます。まぁ、最悪の場合はケータイから更新と考えていましたが、ケータイでは字数も限られるし、入力が面倒です。
 
閑話休題。
 
昨日は雑誌『歴程』をご紹介しましたが、おなじように連翹忌終了後、いろいろなものが届いています。ありがたい限りです。
 
本日ご紹介するのはやはり雑誌で『季刊 詩的現代』第4号。群馬で発行されている同人詩誌です。連翹忌ご常連の方が、「知り合いがこんな雑誌を出してるよ」ということで送ってくださいました。

イメージ 1
 
「特集 『道程』からの百年」という約40ページの特集が組まれていて、この雑誌の同人の方々でしょうか、7名の皆さんがそれぞれに『道程』を論じられています。
 
今年は光太郎生誕130年の節目の年ですが、来年は『道程』刊行からちょうど100年。ついでにいうなら光太郎智恵子が結婚披露宴を行ってからもちょうど100年です(入籍はずっと後)。
 
  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  ああ、自然よ
  父よ
  僕を一人立ちにさせた広大な父よ
  僕から目を離さないで守る事をせよ
  常に父の気魄を僕に充たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため
 
およそ100年経っているとは思えないみずみずしさをもって、今を生きる我々にも迫ってくる詩だと思うのですが、どうでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】4月13日

昭和20年(1945)の今日、空襲により、駒込林町のアトリエが焼失しました。

当方刊行の『光太郎資料』や連翹忌関連の資料(当日配布したものの残部)などをあちこちに発送しました。
 
だからというわけでもないのかも知れませんが、逆にあちこちからいろいろな資料が届きます。ありがたいことです。
 
先日、雑誌『歴程』№583が届きました。この中に執筆されている伊武トーマ氏から戴きました。
 
イメージ 1
 
「十一月十七日、かえる忌、雨……」という題のエッセイで、昨秋の草野心平忌日・かえる忌の模様のレポートです。
 
こちらには当方も参加させていただきまして、文中には当方の名も。その際に当方が持参した光太郎揮毫の「雨ニモマケズ」碑拓本にからめ、次のように書かれています。
 
……道程の詩人の「僕の前に道はない。僕の後に道は出来る。」、目の当たりにしている賢治の「雨ニモマケズ風ニモマケズ」、まだ耳に残っている心平さんの「どこまでつづくまっ暗な。電燈ひとつついてやしない底なしの。くらあい道を歩いてゆく。」…。《光太郎・賢治・心平》この三巨星の有名なフレーズが一つの空間となり詩的宇宙の扉が開かれ、胸の奥底から熱いものが迸った。
 
『歴程』は昭和11年(1936)、草野心平が創刊した雑誌ですが、光太郎とも因縁浅からぬものがあり、その創刊号をはじめ、戦後の復刊を含め、光太郎の文筆作品がたくさん載りました。
 
時を超え、その同じ『歴程』誌上にこうして賢治も含め、ゆかりの深い詩人達の名が連なるのは感慨深いものがあります。
 
【今日は何の日・光太郎】4月12日

昭和31年(1956)の今日、『東京新聞』夕刊に光太郎追悼記事「高村光太郎の生き方-伊藤、今泉氏に質問したいこと」が掲載されました。

「伊藤」は詩人の伊藤信吉、「今泉」は美術史家の今泉篤男。ともに光太郎に私淑していた人々です。

4/2の連翹忌間際になって届いた資料3点、御紹介いたします。寄贈下さったみなさん、ありがとうございました。また、御紹介が遅れ、申し訳ありませんでした。 

『永瀬清子研究年報』 第8号

005


岡山県赤磐市教育委員会熊山分室/赤磐市永瀬清子の里づくり推進委員会事務局様より。
 
同市出身で光太郎とも縁のあった女流詩人、永瀬清子に関する昨年1年間に出た文献、行われたイベント等の紹介がメインです。
 
【散文】の項で、当ブログを御紹介いただいております。
 

『東京文芸』 第5号


006

東京文芸の会様より。同会は俳人の松島光秋氏が主宰されており、『東京文芸』は隔月刊誌です。氏には『高村智恵子 その若き日』『高村光太郎の青春像』など、光太郎関係のご著書もあります。
 
で、この第5号には拙文「高村光太郎「連翹忌」に寄せて」を掲載していただきました。
 

 『高村光太郎研究(34)』

007

都立高校教諭の野末明氏が主宰する高村光太郎研究会の年刊機関誌です。
 
当会顧問・北川太一先生の「しかも科学はいまだに暗く-賢治・隆明・光太郎-」が巻頭に。昨年の女川光太郎祭でのご講演を元にされたものです。
 
再三御紹介しています当方の連載「光太郎遺珠」も収録。一年間で新たに見つけた光太郎作品の集成です。
 
今回は信州大学附属図書館様、東海大学文学部日本文学科出口智之教授のご協力で、彫刻家の石井鶴三にあてた書簡を多数、姫路市立美術館様のご協力で明治末にパリからロンドン在住の画家白滝幾之助と南薫造にあてた絵葉書2点、大阪の逸翁美術館様のご協力でやはり明治末に描かれた絵画2点などを収録しました。
 
また、昨秋の高村光太郎研究会での発表を元にした拙文、「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」も載っています。
 

それぞれ、ご入用の方は仲介いたしますので、ご連絡下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】4月7日

明治45年(1912)の今日、早稲田大学文学社主催の装飾美術展覧会が閉幕しました。光太郎は塑像「紫朝の首」を出品しました。

光太郎関連の書籍をよく出版されている杉並の文治堂書店さんから、4/1付けで書籍『二本松と智恵子』が刊行されます。
 
著者の勝畑耕一氏から戴きました。
 
「ふるさと文学散歩シリーズ」と銘打たれていますので、今後、シリーズ化して行かれるのでしょうか。さらに副題は「曖昧をゆるさず妥協を卑しんだ智恵子五十二年の生涯」となっています。
 
 
イメージ 1
 
20ページ程の薄い書籍ですが、平明な文章で簡潔に、しかし要点はしっかり押さえて智恵子の生涯を追っています。のぞゑのぶひさ氏の挿絵もいい感じです。定価300円です。
 
文治堂さんのHPにはまだ掲載されていませんが、今後載るのではないでしょうか。是非お買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】3月30日

昭和23年(1948)の今日、鎌倉書房から草野心平編『高村光太郎詩集』が、鎌倉選書2として再刊されました。

4月2日の光太郎命日、連翹忌まであと1週間となりました。
 
おかげさまで東京日比谷松本楼様での連翹忌の集まりには、昨年より多い70名程のご参加申し込みをいただいております。
 
さて、連翹忌といえば、東京のみではなく、光太郎が足かけ8年暮らした岩手花巻でも開催されています。
 
以下、花巻市のページ、「広報はなまき 平成25年3月15日号」から。

高村光太郎の連翹忌

彫刻家で詩人の高村光太郎を偲び、連翹忌を開きます。
【日時】 4月2日(火)、午後1時
【会場】 松庵寺
※当日は、午前9時から高村山荘敷地内で「詩碑前祭」が開催されます
【問い合わせ】 財団法人高村記念会(総合花巻病院内29-4681)
 

松庵寺さんは、宮沢賢治の生家にもほど近い花巻市街にあり、光太郎が花巻滞在中、よく光雲や智恵子の法要をしてもらっていました。昭和20年(1945)の10月には、そんな縁で、ずばり「松庵寺」という詩も作っています。
 
   松庵寺001
 
奥州花巻といふひなびた町の
浄土宗の古刹松庵寺で
秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
まことにささやかな法事をしました
花巻の町も戦火をうけて
すつかり焼けた松庵寺は
物置小屋に須弥壇をつくつた
二畳敷のお堂でした
雨がうしろの障子から吹きこみ
和尚さまの衣のすそさへ濡れました
和尚さまは静かな声でしみじみと
型どほりに一枚起請文をよみました
仏を信じて身をなげ出した昔の人の
おそろしい告白の真実が
今の世でも生きてわたくしをうちました
限りなき信によつてわたくしのために
燃えてしまつたあなたの一生の序列を
この松庵寺の物置御堂の仏の前で
又も食ひ入るやうに思ひしらべました

 
 
イメージ 2
 
松庵寺さんには、この「松庵寺」を刻んだ詩碑、「松庵寺」を英訳した碑、そして短歌「花巻の 松庵寺にて 母にあふ はははりんごを たべたまひけり」という光太郎の短歌を刻んだか歌碑が建てられています。
 
イメージ 3
 
岩手方面在住で、東京まで出てくるのはちょっと、という方、是非とも花巻の連翹忌にご参加下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】3月26日

昭和10年(1935)の今日、鉄幹与謝野寛が亡くなりました。

光太郎も葬儀の手伝い等をしたそうです。

まぁ、生活圏なので「行ってきました」というほどではないのですが、昨日は千葉県の東端、銚子に行ってきました。
 
当方の母親は銚子の出で、母方の親戚が銚子にいます。昨秋、伯父が亡くなり、今日は彼岸の中日ということで、墓参に行ったわけです。
 
ついでに春の陽気に誘われて、犬吠埼方面まで足をのばしました。というか、太郎さんのお墓にもお線香をあげて来ようか、と思い立ったのです。
 
太郎さんとは? 答は光太郎の詩から。
 
  犬吠の太郎
 
太郎、太郎001
犬吠(いぬぼう)の太郎、馬鹿の太郎

けふも海が鳴つてゐる
娘曲馬のびらを担(かつ)いで
ブリキの鑵を棒ちぎれで
ステテレカンカンとお前がたたけば
様子のいいお前がたたけば
海の波がごうと鳴つて歯をむき出すよ


今日も鳴つてゐる、海が――
あの曲馬のお染さんは
あの海の波へ乗つて
あの海のさきのさきの方へ
とつくの昔いつちまつた
「こんな苦塩じみた銚子は大きらひ
太郎さんもおさらば」つて
お前と海とはその時からの
あの暴風(しけ)の晩、曲馬の山師(やし)の夜逃げした、あの時からの仲たがひさね
ね、そら
けふも鳴つてゐる、歯をむき出して002
お前をおどかすつもりで
浅はかな海がね

太郎、太郎
犬吠の太郎、馬鹿の太郎
さうだ、さうだ
もつとたたけ、ブリキの鑵を
ステテレカンカンと
そして其のいい様子を
海の向うのお染さんに見せてやれ

いくら鳴つても海は海
お前の足もとへも届くんぢやない
いくら大きくつても海は海
お前は何てつても口がきける
いくら青くつても、いくら強くつても
海はやつぱり海だもの
お前の方が勝つだらうよ
勝つだらうよ

太郎、太郎
犬吠の太郎、馬鹿の太郎

海に負けずに、ブリキの鑵を
しつかりたたいた
ステテレカンカンと
それやれステテレカンカンと――          

 ※本来、ルビが振ってる箇所を( )にしてあります。
 
大正元年夏、光太郎はここ、銚子の犬吠埼に写生旅行に来ました。智恵子も後を追って、妹と友人の3人で犬吠へ。この時、智恵子には郷里の福島で縁談が持ち上がっていたというのですが、智恵子はそれを破棄したとされています。
 
光太郎が泊まった宿は、暁鶏館(ぎょうけいかん)。智恵子も、最初は違う宿に泊まっていましたが、妹と友人が帰った後、暁鶏館に移ります。ここで二人の恋愛が成就したといっていいでしょう。
 
さて、太郎。稲葉豊和編著『とっておき、銚子散歩 改訂版』(平成17年=2005 アクセス出版)によれば、本名は阿部清助といいます。会津藩士の子だというのですが、知的障害がありました。そこで光太郎の「犬吠の太郎」には「馬鹿」という表現が使われています。現代では差別的表現になりますが、原文を尊重します。ちなみに地元では「犬吠の太郎」ではなく「長崎の太郎」と呼ばれていたそうです。「長崎」は犬吠の南に位置する地名です。
 
で、太郎は曲馬団(旅芸人一座)のビラ配りをしており、その関係で銚子に流れてきたのですが、そのまま銚子に居つき、光太郎が犬吠を訪れた際には暁鶏館の風呂番をしていたとのことです。
 
「お染さん」は曲馬一座の花形女役者。太郎は彼女に惚れていましたが、彼女は太郎を置いていずこへともなく去っていきました。海の向こうに行ってしまったと思い込んだ太郎は、石油の一斗缶を海岸で叩き続けたそうです。
 
画像を載せておきましたが、その太郎の墓が、長崎地区に現存しています。太郎の死は昭和14年(1939)。暁鶏館から使い走りに行った帰りに電車(おそらく銚子電鉄)にはねられて死亡したとのこと。もとは単なる石を積んだ塚だったようですが、平成3年(1991)に、おそらく縁者の方によって上の画像にあるように地蔵尊が乗せられました。
 
というわけで、昨日は太郎の墓にもお線香を上げてきました。
 
さて、実は銚子にも東日本大震災の爪痕が深く残っています。
 
やはり津波が来て、漁港はそれほどの被害はなかったものの、犬吠に近いマリーナは壊滅状態。それでも奇跡的に死者、行方不明者は出ませんでした(南隣の旭市では死者13名、行方不明者も出ました)。
 
しかし、その後が大変でした。魚に関して風評被害が広がり、観光客が激減したため、老舗ホテル2軒が廃業に追い込まれましたし、有名な銚子電鉄もその前から放漫経営などで色々問題があった上に、収入が激減、とうとう今年、自主再建を断念しました。数年前の経営危機の時は、本業の鉄道より副業の「ぬれ煎餅」の販売で立ち直りました。社員がホームページに書いたメッセージ「電車運行維持のためにぬれ煎餅を買ってください」「電車修理代を稼がなくちゃ、いけないんです」が、ネットで話題となり、注文が殺到したそうです。しかし、今度の震災では、物理的に大きな被害を受けた三陸鉄道などのことを考えると、支援を訴えることができなかったとのこと。
 
銚子。見どころがたくさんあるいい街です。魚介類も美味。昨日は犬吠で回転寿司を食べましたが、ミンククジラやアブラボウズなど、他ではなかなかお目にかかれないネタもあります!
 
ぜひ足をお運び下さい! 足を運んでいただくことが支援になりますので。
 
【今日は何の日・光太郎】3月21日

明治26年(1893)の今日、皇居前広場に立つ楠木正成銅像の木型を光雲ら東京美術学校の制作チームが完成させ、明治天皇が天覧しました。

昨日に続き、光太郎に関わる各種の講座のご案内です。

朝日カルチャーセンター/朝日JTB・交流文化塾講座 総合書道Ⅳ-漢字かな交じり文の研究

書道の添削講座です。
 
楷・行・草書、かなの基礎から始め、古典の臨書、創作、漢字かな交じり文まで学ぶ総合書道講座です。毎月1回2作品を、ベテラン講師陣が丁寧に添削指導します。
ご経験にあわせて、各レベルの1期目からご受講いただけます。
 総合書道Ⅳ:第1~4期(全2年) 楷・行・草書、かなの基礎を学んだ方、原則として総合書道Ⅲを修了した方が対象。和漢の代表的な古典作品を臨書し、運筆と自在性、和文を美しく書く力を身につけます。

【第1期】 王羲之の草書「淳化閣帖」001
【第2期】 古典かな「藍紙本万葉集」
【第3期】 俳句(芭蕉) 短歌(万葉集)
【第4期】 文章と詩(吉田兼好 高村光太郎)

Ⅳ:第1~4期とも 各6ヵ月(6回添削) 18,600円
 
<監修講師>
東京学芸大学名誉教授 吉田 鷹村(よしだ ようそん)

<添削講師>
都留文科大学講師 栗原 天路(くりはら てんろ)
琇苑書道会主宰 藤井 琇苑(ふじい しゅうえん)
 
臨書の手本に、吉田鷹村氏の書いた光太郎の詩句が使われるということです。添削は添削講師のお二方が行うとのこと。
 
ちなみに当方の手元に昭和60年(1985)、埼玉東松山で開催された「高村光太郎 「智恵子抄」詩句書展図録」という冊子があります。当時の東松山市教育長で光太郎と交流のあった田口弘氏のお骨折りで実現した展覧会の図録ですが、田口氏所蔵の光太郎の書、埼玉出身の書家・成田歴景氏の書いた光太郎詩句の書、そして賛助出品と言うことで吉田氏の書も展示されたらしく、収録されています。
 
吉田氏、この時点では既に光太郎詩句の書に取り組んでらしたわけですね。
 
書に興味のある方、いかがでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】3月17日

昭和2年(1925)の今日、読売新聞社講堂で開かれた、雑誌『大調和』創刊記念文芸講演会で「五分間」と題して講演をしました。
 
佐藤春夫、岸田劉生、武者小路実篤も演壇に立ったそうです。
 
4月2日(火) 第57回連翹忌、参加申し込み締め切りが近づいて参りました。光太郎・智恵子を敬愛する方のご参加をお待ちしております。

光太郎に関わる各種の講座が開かれますので御紹介します。 

日本近代文学館 講座「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」

2013年4月20日(土)14:00~15:30
駒場東大前 日本近代文学館ホール
青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎
講師:小林幸夫(上智大学教授)
大正6年10月9日、34歳の高村光太郎は、55歳の鷗外に呼ばれて観潮楼の門を潜った。
その折の事が「観潮楼閑話」に記されている。
それを原稿で読みながら二人の議論を考察し、あわせて『青年』に描かれた観潮楼付近に触れる。
 
000

全6回の講座の1回目です。他の5回は「電車が作る物語-田山花袋と夏目漱石」「女性たちの東京-永井荷風と泉鏡花」「モダンな盛り場―浅草 川端康成・堀辰雄など」「震災と復興――銀座 水上瀧太郎・久保田万太郎・里見弴など」「太宰治―中央線時代の文学と恋。甲府の石原美知子~御茶ノ水の山崎富栄」。4月~11月まで、月1回の開講です。
 
参加費は6回で10,000円、1回のみで2,000円とのこと。当方、1回目のみ申し込みました。皆様もぜひどうぞ。

 
【今日は何の日・光太郎】3月16日

昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村山口地区の屋号「田頭」高橋家で村人3,40人との酒宴に招かれました。

昨日、NHKEテレで放映の「にほんごであそぼ」で、光太郎の「人に」(いやなんです あなたのいつてしまふのが-)が扱われました。
 
が、見逃しました。自分でブログに書いておきながら、放映時間を勘違いし、テレビをつけたらもう終わっていました。また放映されることを期待します。
 
さて、気になって先週調べてみましたところ、昨秋、こんなCDが発売されていました。
 
イメージ 1
 
「うなりやベベン」こと浪曲師の国元武春さんの歌による「ベベンの冬が来た」が収録されています。
 
イメージ 2
 
こういうところでも光太郎が扱われるのはうれしい限りです。こういったものを聞いて育った子供が自然と光太郎に興味を持ってくれれば、さらにいうことはありません。
 
【今日は何の日・光太郎】3月13日

明治16年(1883)の今日、光太郎が生まれました。
 
ただし、戸籍上は14日となっています。しかし、家族も光太郎自身も13日が誕生日ということでやっていたそうです。今年で生誕130年というわけです。
 
明日は光太郎誕生日ネタで書いてみます。

3日前に光太郎関連のテレビ放映情報を載せましたが、その後また見つけましたので御紹介します。 

BS朝日 2013年3月8日(金) 22時00分~22時54分 

「宮沢賢治と東北」をテーマに2週連続の前編。岩手県が生んだ詩人・宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の精神。そして厳しい自然に向き合い生きる人々の姿に迫ります。

番組内容
「雨ニモマケズ、風ニモマケズ…」東北の厳しくも優しく美しい自然が生み出した人と動物と宇宙とが繋がる宮沢賢治の世界観。賢治が残した美しい日本語には、人のあり方やお互いを思いやる心があふれています。雪の花巻の風景をバックに、今の東北に生きる人々が語る賢治の言葉…。賢治が生き、言葉を紡いだ東北・花巻の雪景色。物語の舞台となった場所や、賢治の暮らした場所の冬の風景をお届けします。宮沢賢治のゆかりの地をたどるのは作家のロジャー・パルバースさん。賢治の「雨ニモマケズ」を「Strong in the rain」と訳して海外に紹介。他にも、「銀河鉄道の夜」や賢治の多くの詩の英訳を行っています。

出演者  ナレーション 竹内結子 ナビゲーター ロジャー・パルバース

006

紹介欄に「高村光太郎」の文字がありませんが、おそらく光太郎が昭和11年(1936)に揮毫した、花巻に立つ「雨ニモマケズ」の碑が扱われるのではないかと思います。

もう1件。 

にほんごであそぼ

NHK Eテレ 2013年3月12日(火) 7時30分~7時40分 再放送 17時15分~17時25分

日本語の豊かな表現に慣れ親しんで楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につけることにより、コミュニケーション能力や自己表現する感性を育てることをねらいとしています。

番組内容
日本語の豊かな表現に慣れ親しんで楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につけることをねらいとしている。今回は、山のあなたの空遠く「幸」住むと人のいふ「山のあなた」カールブッセ・上田敏 訳、いやなんです あなたのいってしまふのが「人に」高村光太郎、文楽/小謡~浄瑠璃風~「釣女」より、さんよう痛快にほんご劇場/「浦島太郎」~ひょうたんからこま~、歌/「でんでらりゅうば」「ベベンの草枕」

出演者 小錦八十吉 神田山陽 豊竹咲甫大夫 鶴澤清介 おおたか静流 うなりやベベン ほか

明日、同じ番組で「あどけない話」が扱われる放映がありますが、来週には「人に」が扱われるとのこと。このバージョンは見たことがありません。
 
それぞれ、ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎】3月7日

昭和27年(1952)の今日、岩手県立盛岡美術工芸学校に、卒業式の祝電を送りました。

閲覧数が10,000件を超えました。ありがとうございます。芸能人のツイッターとかは1日でそのくらい行くのでしょうが、こちらは開設304日にして10,000件。まぁ、細々と地味にやっていきます。
 
さて、近々放映されるテレビ番組の情報です。 

にほんごであそぼ

NHKEテレ(旧教育テレビ) 2013年3月8日(金) 7時30分~7時40分 再放送17時15分~17時25分 
 
日本語の豊かな表現に慣れ親しんで楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につけることにより、コミュニケーション能力や自己表現する感性を育てることをねらいとしています。
番組内容
日本語の豊かな表現に慣れ親しんで、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることをねらいとしている。今回は、智恵子は東京に空が無いといふ。「あどけない話」高村光太郎、文楽/雨が、あがつて、風が吹く。…「春宵感懐」中原中也、絵あわせかるた/光る地面に 竹が生え「竹」萩原朔太郎、投稿ごもじ/ありが はるきくん・おおの こうたろうくん、うた/「じゅうにかげつ」「早春賦」。

出演者 小錦八十吉,鶴澤清介,おおたか静流 ほか
 
おそらく平成17年(2005)に放映されたものの使い回しだと思われます。この回の内容はDVD化されて販売されています。

005


この番組、昨秋には「道程」を扱った放映がありました。小さい頃からすぐれた日本の文学に触れることは大事だと思います。
 
その他、やはり3.11が近いせいでしょうか、このところ「東北」が扱われるケースが多いですね。
 
以下、「花巻」や「十和田」をキーワードにして検索の網にかかっています(光太郎が扱われるかどうかはわかりませんが)。 

発見!体感!匠(たくみ)の輝き 北上川紀行 きらり!東北の秋

NHKBSプレミアム 2013年3月9日(土) 11時00分~12時00分 
 
東北一の大河・北上川の知られざる魅力を俳優の内田朝陽が探る。川が育んだ魅惑の工芸品が次々登場。中尊寺金色堂、輝きの秘密。宮沢賢治が愛した温泉、絶景と料理に感動。

番組内容
岩手県と宮城県を貫く東北一の大河・北上川の知られざる魅力を探る。源流は意外な場所に。釣り人あこがれの美しき盛岡さおの軽さの秘密。華麗で頑丈な岩谷堂タンスに職人が仕掛けた驚きのカラクリ。世界遺産・中尊寺金色堂には驚くべき、世界とのつながりが。秀衡塗の新たな挑戦。日本の川なのにイギリス海岸? 宮沢賢治が愛した花巻の風景や温泉。美味・天然うなぎ。俳優・内田朝陽さん、絶景と川の恵みの「詰め合わせ」に感動。

出演者 内田朝陽 

東北トラベラー! #4

CS旅チャンネル 2013年3月10日(日) 8時30分~9時00分 
 
「青森県」紀行 東北観光情報 東日本大震災復興 八戸市 海の幸 蕪嶋神社 三沢市 温泉宿 美肌の湯 郷土料理 十和田市 芸術の街 柳澤ふじこ 津島綾乃

番組内容
東北の観光情報番組。復興を遂げようとしている東北の様々な観光地を、旅好きな女性二人が訪れます。元気にがんばっている観光地の人々、しっかりと復興を遂げ観光客を待ちわびる施設などの様子を、現地の人々のメッセージを交えて紹介していきます。 第4話「青森県」 青森県の主要観光地から観光情報をリポートします。冷たい北国の海ならでは、八戸の海の幸に舌鼓!古くから美人の湯として親しまれている温泉宿では、身も心もゆったり癒されます。旅のクライマックスは、アートによる町づくりが行われている十和田市へ。青森の元気をお伝えします!

リポーター:柳澤ふじこ(青森県出身)、津島綾乃(青森県出身)

 
【今日は何の日・光太郎】3月4日

大正8年(1919)の今日、智恵子の母校・日本女子大学校の創設者、成瀬仁蔵が歿しました。
 
光太郎は亡くなる直前に成瀬の胸像制作の依頼を受け、成瀬を見舞っています。この像はこだわりをもって作り、完成までに実に14年かかりました。

光太郎と交流のあった岡山の詩人、永瀬清子に関する紀行の2回目です。
 
清子の生家を後にし、イベント「朗読会 永瀬清子の詩の世界~想像の詩人~」が行われる赤磐市くまやまふれあいセンターに着きました。
 
敷地内にはやはり清子の詩碑がありました。
 
イメージ 3
 
イメージ 1
 
また、清子の詩に出てくる花々を集めた「詩006の庭」という花壇もありました。季節が季節ですので、ほとんど花は咲いていませんでしたが、唯一、紅梅だけが花を咲かせていました。
 
そういえば、昨日書き忘れましたが、この日、2月17日の清子の命日は「紅梅忌」と名付けられているそうです。
 
さて、会場内に入り、いよいよイベントの開幕です。
 
司会は山陽放送パーソナリティーの遠藤寛子さん。まずは地元の方々による清子作品の朗読、合唱でした。ステージ上の幔幕も、清子の詩にちなむ、地元の方々作成の「諸国の天女」。
 
続いて第10回永瀬清子賞表彰式。これは県内の小中学生が対象で、小学校低学年の部、同高学年の部、中学校の部に分かれ、今年は応募総数476点。そのうちの入賞者の表彰と、自作の詩の朗読がありました。
 
こういう地域密着の企画を織り込むというのも、大事なことだと思いました。連翹忌ではなかなかこのあたりが難しいところです。
 
休憩を挟んで、H氏賞を受賞されたことのある詩人の山本純子氏による講演。講演というより、朗読講座といった内容でした。
 
テキストには清子の詩、自作の詩、それから谷川俊太郎や草野心平などの詩が使われました。光太郎の詩が使われなかったのがちょっと残念でした。
  
イベントの始まる前と終わった後、いつもいろいろとご案内やら資料やらを送って下さる清子のご息女・井上奈緒様や、永瀬清子の里づくり推進委員会の白根直子様とお目にかかれたのも幸いでした。
 
イメージ 5  イメージ 6
  
また、白根様の労作、『詩人 永010瀬清子の生涯』も手に入り、早速、帰りの新幹線車中で拝読しました。こちらには、昭和9年(1934)の第1回宮沢賢治友の会の写真も掲載されており、光太郎も映っています。
 
というわけで、なかなか有意義な岡山行きでした。
 
街をあげて、まあはっきり言えばあまり有名ではない詩人の顕彰活動をしっかりと地域密着で行っているという点に頭が下がりました。
 
ただ、一昨日のブログに書いたとおり、1泊2日の1日目が空振りだったのが痛かったのですが、今年中にまた別件で岡山に行く機会がありますので、その時にはついでにそちらに寄り、また収穫を得たいと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎】2月19日

昭和38年(1963)の今日、講談社から『日本文学全集40 高村光太郎・宮澤賢治集』が刊行されました。

さて、岡山永瀬清子紀行です。
 
永瀬清子は明治39年(1906)2月17日、岡山県赤磐郡豊田村松木(現赤磐市)に生まれました。亡くなったのは平成7年(1995)2月17日。なんと、誕生日と命日が一緒という偶然です。というわけで、昨日の2月17日にイベント「朗読会 永瀬清子の詩の世界~想像の詩人~」があったわけです。
 
光太郎とは、一昨日の【今日は何の日・光太郎】に書きましたが、昭和9年(1935)、新宿で宮沢賢治を追悼する「第一回宮沢賢治友の会」が開かれ、そこで知り合いました。その席上、遺品の手帳から「雨ニモマケズ」が見つかりました。その後、昭和15年に刊行された第二詩集『諸国の天女』の序文を光太郎が書いています。
 
詩集『諸国の天女』より、表題作です。007
 
  諸国の天女
 
諸国の天女は漁夫や猟人を夫として
いつも忘れ得ず想つてゐる、
底なき天を翔けた日を。
 
人の世のたつきのあはれないとなみ
やすむひまなきあした夕べに
わが忘れぬ喜びを人は知らない。
井の水を汲めばその中に
天の光がしたたつてゐる
花咲けば花の中に
かの日の天の着物がそよぐ。
雨と風とがささやくあこがれ
我が子に唄へばそらんじて
何を意味するとか思ふのだらう。
 
せめてぬるめる春の波間に
或る日はかづきつ嘆かへば
涙はからき潮にまじり
空ははるかに金のひかり
あゝ遠い山々を過ぎゆく雲に
わが分身の乗りゆく姿
さあれかの水蒸気みどりの方へ
いつの日か去る日もあらば
いかに嘆かんわが人々は
 
きづなは地にあこがれは空に
うつくしい樹木に満ちた岸辺や谷間で
いつか年月のまにまに
冬過ぎ春来て諸国の天女も老いる。
 
その後も光太郎との交流は続き、戦後、清子が中野のアトリエを訪れたりもしました。清子の随筆集『かく逢った』(昭和56年=1981 編集工房ノア)の巻頭にはその時の様子が書かれています。
 
さて、昨日、岡山市内のホテルをチェックアウト、せっかく来たのだからと、日本三名園の一つ後楽園と、岡山城を歩きました。 

 
005

当方、岡山は山陽自動車道を車で通過したことはありましたが、ちゃんと行ったのは初めてです。
 
その後、岡山駅から山陽本線に乗り、永瀬清子の里、赤磐方面に向かいました。
 
下りるべき駅は熊山駅ですが、そこは通り過ぎ、次の和気駅で下車。せっかく来たのですから、温泉に行かない手はありません。鵜飼谷温泉という温泉があり、入ってきました。よく行く花巻の大沢温泉と同じ、アルカリ性の泉質で、肌がすべすべになりました。
 
寄り道はこの辺にして、いざ永瀬清子の里へ。
 
熊山駅に戻り、改札を出ると大きな案内板。なんと、永瀬清子の詩碑や生家があるではありませんか!
詩碑は会場へ行く途中、生家は会場の近くです。それは存じませんでした。
 
駅近くの吉井川にかかる橋を渡ると、詩碑がありました。昭和23年(1948)作の「熊山橋を渡る」と言う詩の一節が刻まれています。 
 
イメージ 7   イメージ 8

さらに歩くこと20分。松木の集落に入り、案内板にしたがって生家を目指すと、生家の直ぐ手前に和気清麻呂の墓がありました。隣の「和気駅」の「和気」は「和気氏」の「和気」だったのですね。
 
さて、生家。
 
イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3
 
「大永瀬」といわれた素封家の一族で006、かつては立派な家だったことが窺えます。しかし現在は痛みが激しく、「永瀬清子生家保存会」という団体が募金をつのり、維持、修理を行っているそうです。
 
清子はここで生まれ、父親の仕事の都合で幼い頃ここを離れますが、戦争の関係で昭和20年(1945)にここに戻り、同40年までここにいたそうです。以前に赤磐市の永瀬清子の里づくり推進委員会様から、『全集』未収録の光太郎から清子宛書簡4通の情報をいただき、「光太郎遺珠」に掲載しましたが、その4通はここに届いたものです。そう思うと感慨深いものがありました。
 
庭には復元された井戸もありました。
 
水屋の壁には復元に芳志を寄せた方のお名前が。その中には詩人の新川和江氏、日高てる氏のお名前も。
 
清子は女流詩人の草分け的存在でもあり、後の女性詩人たちからも敬愛されていたのがよくわかります。
 
そろそろ「朗読会 永瀬清子の詩の世界~想像の詩人~」の時間なので、会場のくまやまふれあいセンターを目指しました。
 
田圃の畦道をショートカットで歩きます。よくみるとそこここに野ウサギの糞。すごいところです。だいたいコンビニの一軒もありません。それこそSLが黒煙を吐いて走っていても何の違和感もないでしょう。
 
さて、会場に到着。続きは明日書きます。

 
【今日は何の日・光太郎】2月18日

嘉永5年(1852)の今日(旧暦ですが)、浅草で光太郎の父、高村光雲が誕生しました。

黒船来航の前年です。

昨日、高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館で「伊藤信吉没後10年記念展~風の詩人に会いに来ませんか~」を観て参りました。
 
イメージ 1

イメージ 2
 
伊藤信吉(明39=1906~平14=2002)は、前橋市の出身の詩人。詩人としても有名ですが、実際に交流のあった他の詩人たちの研究、評論の分野でも有名です。
 
企画展では伊藤自身の詩業についての展示もありましたが、他の詩人たちとのつながりを強調した展示もありました。そのコーナーは詩人ごとに分類されています。すなわち島崎藤村、光太郎、萩原朔太郎、室生犀星、草野心平、中野重治。
 
光太郎のコーナーでは、伊藤の書いた光太郎に関する草稿、光太郎から伊藤宛の書簡、光太郎の著書、光太郎に関する伊藤の著書など20点近くが並んでいました。
 
「ほう」と思ったのは、伊藤の書いた句幅2点。
 
  歎けとて秋海鳴りの九十九里   智恵子の昔をしのびて
 
  木枯らしや太田村の小屋を如何に吹く  花巻、光太郎山荘
 
イメージ 3
九十九里や花巻の山小屋を訪れるにしても、光太郎と直接関わりのあった氏にしてみれば、特別な感懐があったのでしょう。
 
展覧会は3/17(日)まで。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】2月15日

昭和28年(1953)の今日、ヴェルハーレン著・光太郎訳の詩集『天上の炎』が創元文庫のラインナップに加えられました。

2/6に放映されたNHK総合のテレビ番組「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」で扱われた、大正2年(1913)の1月28日に智恵子に宛てて書かれた手紙。
 
これを大きく取り上げている書籍とCDがありますので、今日はそれを紹介します

キッス キッス キッス

 渡辺淳一著  平成14年10月10日 小学館発行 定価1500円+税
 
イメージ 1

 
「失楽園」などで有名な作家、渡辺淳一氏の著書です。もともとは雑誌連載だったものに加筆修正を加えて単行本化されました。366頁ある大著です。表題は島村抱月から松井須磨子への手紙の一節です。
 
光太郎から智恵子への例の手紙の他、主に近代の文学者の「恋文」19通を取り上げています。改めて目次を見てみましたら、光太郎を含め、柳原白蓮、芥川龍之介、谷崎潤一郎と、「探検バクモン」で取り上げられる「恋文」と4通がかぶっています。「探検バクモン」のスタッフさんは、もしかしたらこの本から想を得たのかも知れません。
 
他に光太郎、智恵子と縁の深かった平塚らいてう、与謝野晶子、佐藤春夫、変わったところでは山本五十六、お滝(シーボルトの妻)、そして渡辺淳一さん自らの手紙も紹介されています

【芸術…夢紀行】シリーズ① 高村光太郎 智恵子抄アルバム

 北川太一先生監修  平成7年3月16日 芳賀書店発行 定価3,260円
 
イメージ 2
 
問題の手紙が画像入りで紹介されています。この書籍、画像の豊富さでは他の追随を許しません。ビジュアル的に光太郎・智恵子の生涯をたどりたい方にはお薦めです

作家が綴る心の手紙 愛を想う 死を想う

 平成21年10月15日 アスク発行 定価28,980円(税込)
 
イメージ 3
 
朗読CD12枚組と解説書から成るセットです。近現代の文学者66名、210通余の手紙が収められています。光太郎に関しては第7巻「詩人たちの筆に込めた想い」で、例の手紙をはじめ、九十九里で療養中の智恵子に送った手紙、智恵子死後に難波田龍起、水野葉舟、更科源蔵に宛てた智恵子に関する手紙が収められています。第7巻の朗読者は元男闘呼組の高橋和也さん。他の巻では杉本哲太さん、平岳大さん、余貴美子さんが朗読を務めていらっしゃいます。
 
他の収録作家のうち、森鷗外、与謝野夫妻、北原白秋、宮澤賢治、八木重吉、田村俊子、村山槐多、中原中也といったところが光太郎智恵子と縁の深かった人々です。
 
【今日は何の日・光太郎】2月8日

昭和23年(1948)の今日、太田村山口の山小屋で、配給の砂糖を受け取り、久しぶりに砂糖入りの紅茶を飲みました。

海にして太古(たいこ)の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
 
明治39年(1906)、海外留学のため横浜から出航したカナダ太平洋汽船の貨客船、アセニアン船上で詠んだ短歌のうち、最も有名な作であり、光太郎自身も気に入っていたものです。
 
昨年のブログにも書きましたが、宮城県の女川では、昭和6年(1931)光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基8面の石碑が建てられました。
 
8面のうち2面は、この短歌を刻んだものでした。この短歌と女川には直接の関わりはありませんが、やはり雄大な海を目にしての感懐ということで、採用されたのだと思います。
 
しかし、これも以前のブログに書きましたが、東日本大震災のため、光太郎筆跡を利用したメインの碑は倒壊、活字体でこの短歌のみ刻んだ碑は津波に流され行方不明です。
 
さて、かつて連翹忌に001ご参加いただいていたあるご婦人からいただいた今年の年賀状に、その方がお持ちの光太郎直筆の短冊を当方に下さる旨、書かれていました。ご自分がお持ちになっているより、当方のような顕彰活動を行っている者が持っていた方がよかろう、とのことでした。
 
その方のお父様が、光雲の弟子だった彫刻家で、そうした関係からお父様が光太郎からもらったとのこと。
 
失礼ながら、本当にそんな貴重なものをいただけるのかと半信半疑でいたところ、程なく届きました。右の画像のものです。
 
書かれているのは問題の短歌です。光太郎、この短歌が気に入っていたため、のちのちまで繰り返し短冊や色紙などに揮毫していまして、そうしたもののうちの一点です。
 
「海にして」ではなく「うみをみて」となっています。実はこの短歌、雑誌『明星』に発表された明治40年(1907)の段階では「海を観て」となっており、それが後に明治43年(1910)に雑誌『創作』に転載された際に「海にして」と改められました。ということは、それまでの間に書かれたかなり古いものかも知れません。
 
ただ、光雲の弟子だった元の持ち主は、明治44年(1911)の生まれ。昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』には、まだ入門したばかりと紹介されています。
 
したがって、以下のケースが考えられます。
 ・昭和に入ってから明治に書かれた短冊を贈られた
 ・昭和に入ってから書かれたものだが、なぜか古い形で書かれた
 
いずれにしても貴重なものであることに変わりなく、まったくありがたい限りです。
 
下さった方は状態があまり良くないことを恐縮していらっしゃいましたが、ことによると100年前のものですから、経年劣化はある意味当然です。
 
さて、こういう貴重なものを死蔵するにはしのびないので、今年の連翹忌では会場に展示し、ご来場の皆様のお目にかけます。また、美術館、文学館等での関連する企画展で、もし希望があれば貸し出したいと思っております。お声がけください。
 
 
【今日は何の日・光太郎】2月5日

昭和28年(1953)の今日、光太郎書簡集『みちのくの手紙』が中央公論社から刊行されました。

昨日のブログ、【今日は何の日・光太郎】で、明治39年(1906)、カナダ太平洋汽船の貨客船、アセニアンで海外留学に旅立ったこと、そして節分にちなむアセニアン船上で詠んだ短歌を紹介しました。
 
他にもアセニアン船上での短歌がいくつかありますので御紹介します。すべて『高村光太郎全集』第11巻所収です。
 
 いと安く生ひ立ち稚児(ちご)のこころもて今日あり国を出づと言ひける
 
 母見れば笑みてぞおはす旅ゆくを祝(ほ)ぐと衆(ひと)あり吉(よ)きにかあるべき
 
 おほきなる力とあつきなぐさめと我に来(く)たかき空を見る時
 
 地を去りて七日(なぬか)十二支六宮(ろくきう)のあひだにものの威を思ひ居り
 
 大海(おほうみ)の圓(まろ)きがなかに船ありて夜を見昼を見こころ怖れぬ
 
 西を見てひがしに及ぶ水の団(わ)とほかに真青(まさを)の大空と有り
 
 悪風は人あるゆゑに大法(たいはふ)をいしくも枉げずわが船に吹く
 
 大海(おほうみ)のふかきに墜ちしからす貝真珠となりぬ祝(ほ)ぎぬべきかな
 
 山国に生ひて山見ず波まくら二旬かつ経ぬ山見てけるよ
 
これらは翌明治40年(1907)の雑誌『明星』に掲載された他、大正4年(1915)の2月5日(明日ですね)に刊行された『傑作歌選別輯高村光太郎与謝野晶子』にも採られています。この書籍は詩集『道程』版元の抒情詩社から出たもので、刊行には光太郎の意志はあまり介在しておらず、版元が光太郎のために刊行してあげたという面が強いそうです。また、光太郎単独の歌集ではあまり売れそうにないので、晶子をセットにしたとのこと。何だか抱き合わせ販売のようですね。
 
イメージ 1
 
光太郎自身はアセニアン船上の歌以前の短歌には、与謝野鉄幹の添削が激しく入っており、純粋に自分の作ではない、という意識があったようです。
 
アセニアン船上の歌のうち、もっとも有名、かつ光太郎自身も自信作だった歌は、以下のものです。
 
海にして太古(たいこ)の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
 
明日はこの歌に関していろいろと。
 
【今日は何の日・光太郎】2月4日

昭和61年(1986)の今日、銀座鳩居堂画廊において、光太郎の書作品を集めた展覧会「高村光太郎「墨の世界」展-没後三十年を記念して-」が開幕しました。

今日は節分です。ということは明日から暦の上では春、ということになりますね。実際、当方の住む千葉県北東部ではだいぶ暖かくなり、昨日は18℃にもなりました。日なたではオオイヌノフグリやホトケノザが咲いています。今朝は犬の散歩中、近くの道ばたに水仙が咲いているのも見つけました。
 
【今日は何の日・光太郎】2月3日

明治39年(1906)の今日、横浜からカナダ太平洋汽船のバンクーバー行き貨客船アセニアンに乗り、出港。4年にわたる海外留学に出発しました。
 
イメージ 1
 
この海外留学で、世界最先端の芸術に触れ、光太郎芸術のバックボーンが形成されてゆきます。彫刻はもちろん、帰国後、かなり熱を入れた絵画もそうです。そういった造形芸術だけでなく、ヴェルレーヌやマラルメ、ボードレールといったあたりから、詩の上でも大きく影響を受けました。
 
留学前の詩はまだまだ習作のようなもので、文学活動の中心は与謝野鉄幹、晶子の新詩社での短歌でした。
 
光太郎がアセニアンの船上で作ったという節分にまつわる短歌も伝わっています。
 
 あしきもの追儺(やら)ふとするや我船を父母います地より吹く風
 
もともと節分会は「追儺(ついな)」という宮中の儀式が元になっているということで、この字をあてています。「やらふ」と訓読みにしているのは節分会の別称「鬼やらひ」から。「鬼は外」とばかりに日本から追われるようだ、というところでしょうか。
 
他にもアセニアン船上での短歌はいくつかあり、翌明治40年(1097)の『明星』に掲載されました。
 
明日はそのあたりから。

新刊紹介です。といっても、1ヶ月ほど経ってしまっていますが。 

『梅酒』

幸田真希 マックガーデン 2012年12月30日 定価571円+税

006

 
帯に書かれたコピーから。
 
元書店員激賞!! 「私はこんな漫画が売りたかった!!」

所在なく夜の町に佇む少女・ゆえに声をかけたのは、ごく平凡な公務員・古畑。
けれど古畑と過ごす穏やかな時間は、ゆえにとってかけがえのないものとなっていった。
「私、古畑さんと、どうなりたいんだろう…」――。
俊英の贈る珠玉の短編集。

『月刊コミックアヴァルス』という雑誌に掲載された短編集です。表題作「梅酒」が、『智恵子抄』に収められている「梅酒」をモチーフにしています。向田邦子さんの短編小説にでも出てきそうな話です。
 
「たった一つの詩が…別れの悲しみについて綴ったものが、ずっと後に新しい出会いを生むことがあるんだ。それってすごい。」というセリフがなかなかいいと思いました。
 
  梅酒001
 
 死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
 十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
 いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
 ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
 これをあがつてくださいと、
 おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
 おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
 もうぢき駄目になると思ふ悲に
 智恵子は身のまはりの始末をした。
 七年の狂気は死んで終つた。
 厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
 わたしはしづかにしづかに味はふ。
 狂瀾怒濤の世界の叫も
 この一瞬を犯しがたい。
 あはれな一個の生命を正視する時、
 世界はただこれを遠巻にする。
 夜風も絶えた。
 
【今日は何の日・光太郎】2月1日

明治21年(1888)の今日、智恵子のすぐ下の妹、セキが誕生しました。

【今日は何の日・光太郎】1月20日

昭和38年(1963)の今日、故・風間光作が主宰する「高村光太郎詩の会」が発足しました。
 
風間は光太郎と交流のあった詩人です。昭和18年(1943)に刊行された詩集『山峡詩篇』の題字を光太郎が書いたりしています。
 
イメージ 1
 
  
イメージ 2
  
左から 椛沢佳乃子 風間光作 光太郎 藤島宇内
                  
 
イメージ 3
 
昭和38年1月20日午後2時、「高村光太郎詩の会」の発足式が、駒込染井霊園の高村家墓所前で行われました。参加者は16名。続いて2月には初の例会が行われ、北川太一先生や、岩本善治の研究で知られる磯崎嘉治氏なども参加しています。
 
同会はその後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、年に一度、研究発表会を行っています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏です。当方も加入しております。
 
光太郎・智恵子について研究したい、という方は是非ご参加ください。ご連絡いただければ仲介いたします。

高崎市にある群馬県立土屋文明記念文学館にて、本日より3/17(日)まで、「伊藤信吉没後10年記念展~風の詩人に会いに来ませんか~」が開催されます。
 
伊藤信吉(明39=1906~平14=2002)は、前橋市の出身。室生犀星や萩原朔太郎と縁の深かった詩人ですが、一時、群馬に住んでいた草野心平や光太郎とも交流があり、特に戦後は何度か光太郎詩集の編集に携わったり、光太郎没後は『高村光太郎全集』の編集にも関わったりしています。
 
晩年は同館の初代館長に就任。そんなわけで同館には光太郎がらみの資料も数多く収蔵されています。光太郎から伊藤宛の書簡も多数。今回の展示ではどういったものが並ぶかまだよくわかりませんが、折を見て行ってきて、レポートします。
 
YOMIURI ONLINEから。

詩人・伊藤信吉 没後10年展...高崎で19日から

 前橋市出身の詩人伊藤信吉(1906~2002年)の没後10年記念展が、19日から高崎市保渡田町の県立土屋文明記念文学館で始まる。伊藤が収集した方言や昔話など群馬に関わる資料を多く展示することで、伊藤の業績を親しみを持って地元の人たちに知ってもらうのが狙いだ。
 伊藤は、旧元総社村(現前橋市)生まれ。萩原朔太郎に師事し、詩作を始めた。県庁職員として5年間勤務したが、20歳代前半で退職。その後、プロレタリア文学運動に関わった。1931年、製本中に当局に押収されそうになった「中野重治詩集」を、1冊だけ座布団の下に隠し守ったという話が有名だ。
 文学評論も手がけ、朔太郎、室生犀星、高村光太郎などの全集編集にも携わった。89歳で県立土屋文明記念文学館の館長に就任し、「群馬文学全集」(全20巻)の編集・監修をするなど、晩年も精力的に活動した。
 展覧会には、伊藤がライフワークとして収集した群馬の方言や昔話、わらべ歌の資料が多く展示される。五十音順に清書した自作の方言台帳や、知人に方言の意味や使い方を問い合わせた手紙、裏紙に書かれたメモなどだ。
 唯一、校歌を作詞した地元の前橋市立元総社南小の校歌碑のために揮毫(きごう)した書や、児童らに宛てた手紙も初公開。朔太郎や犀星、草野心平らからの手紙も展示される。
 展覧会のポスターやチケットは、伊藤の著書を装丁するなど親交があった画家の司修さんがデザインした。
 同館学芸係の江夏(こうか)俊江さんは「伊藤の故郷への愛を感じ取ってもらえればいい。特に若い人に来てもらいたい」と話している。
 3月17日まで。一般400円、大学・高校生200円、中学生以下無料。
2013年1月15日 読売新聞)
 
同館ホームページから。

第79回企画展「伊藤信吉没後10年記念展~風の詩人に会いに来ませんか~」

会期 平成25年1月19日(土)~3月17日(日)
開館時間 9:30~17:00(観覧受付は16:30まで)
休館日 火曜日
観覧料 一般400円(320円) 大学・高校生200円(160円) 中学生以下無料
 ※( )内は、20名以上の団体割引料金
 ※障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名は無料

後援 朝日新聞前橋総局 毎日新聞社前橋支局 読売新聞前橋支局 上毛新聞社
   桐生タイムス社 NHK前橋放送局 群馬テレビ エフエム群馬 ラジオ高崎

 伊藤信吉(いとうしんきち、1906-2002)は、元総社村(現・前橋市)に生まれ、89歳で当館初代館長に就任しました。萩原朔太郎(1886-1942)や室生犀星(1889-1962)に師事。アナーキズム系の詩人とも交わり、プロレタリア文学運動に関与。その活動を離れてからは、『島崎藤村の文学』を皮切りに近代文学の評論で地歩を固め、多くの全集編さんにも携わり、現代の文学に大きな影響を与え続けています。
 当館では亡くなった翌年に追悼展を開き、その生涯と全業績を紹介いたしました。今回の没後10年記念展では、伊藤信吉の故郷への思いに光を当てます。伊藤は故郷を愛し、育った村で使われていた方言や昔話、わらべ歌の収集もしました。
 本展では自筆資料、書簡、写真、遺品、未公開資料を含め約200点を展示します。
 空っ風を愛した伊藤が巻き起こした文学の風を感じていただければと思います。

主な展示構成006
1. 上州は“風”の文学
2. 近代詩の目撃者 ~評論家 伊藤信吉~
3. 郷土を愛して ~詩人 伊藤信吉~

関連行事
※①~④申込方法(参加費無料)
 事前に電話もしくは受付カウンターにてお申し込みください。

 TEL.027-373-7721

①ワークショップ「風と遊ぼう」
講師 群馬県立歴史博物館職員
1月20日(日)
13:30~14:00(かざぐるま作り)
14:30~15:10(ミニ凧作り・変わり凧作り)
定員 各回親子30組(要申込/両回申込可)
対象 4歳(小学校3年生までは保護者同伴)~一般
・子どもを対象とした簡単な工作ですが、大人の方も参加できます。

②シンポジウム
パネリスト 東谷 篤氏(城北中・高等学校教諭)
      岡田芳保氏(詩人・当館元館長)
      篠木れい子(当館館長)
コーディネーター 藤井 浩氏(上毛新聞社論説委員長)
演題「伊藤信吉 その素顔と魅力」
2月17日(日)14:00~15:30
定員 150名(要申込)
★オープニングに伊藤が唯一作詞した前橋市立元総社南小学校の校歌をビデオでご紹介。
 全校児童による合唱です。

③ワークショップ「ことばで遊ぼう」
講師 高橋静代氏(わらべ歌)
   小林知子氏(紙芝居)
2月24日(日)10:30~11:40
定員 80名(要申込)
対象 0歳~一般
・赤ちゃんから大人の方までを対象としたワークショップ。わらべ歌や上州弁の紙芝居をお楽しみください。

④記念講演
講師 澤 正浩氏(福島大学名誉教授)
演題 「伊藤信吉の晩年の仕事を中心に」
3月17日(日) 14:00~15:30
定員 150名(要申込)

⑤ギャラリートーク(申込不要/要観覧料)
企画展担当者による展示解説
1月19日(土)、2月9日(土)、3月9日(土)
各回13:30~14:00


【今日は何の日・光太郎】1月19日

昭和59年(1984)の今日、美術史家の今泉篤郎が歿しました。

今泉は晩年の光太郎と接し、その回想録を筆記したり、没後の「高村光太郎賞」の選定に功績があったりしました。
 
閲覧数8,000を超えました。ありがとうございます。

↑このページのトップヘ