カテゴリ: 文学

朗読系のイベントを2件。

まずは北海道北見市。

北見市朗読赤十字奉仕団創立40周年記念朗読会

期 日 : 2022年8月7日(日)
会 場 : 北見市総合福祉会館 北海道北見市寿町3丁目4番1号
時 間 : 14:00~
料 金 : 無料004

出 演 : 北見市朗読赤十字奉仕団(国分明子団長)団員
      岩井正さん(元NHKアナウンサー・横浜市在住)
プログラム :
 芥川龍之介「蜘蛛(くも)の糸」
 ラフカディオ・ハーン「日本人の微笑」
 SF作品
 高村光太郎「智恵子抄」から「智恵子の半生」
 他


003北見市朗読赤十字奉仕団さん。普段は、市の広報誌をCDやカセットテープに録音して届ける「声の広報」などの活動を行っているそうです。毎月60件ほどの利用があるとのこと。また、週2回、電話越しに新聞を読み聞かせる「声の新聞北見」という活動も。こちらはニュース面から野球の結果までさまざまな希望があり、道外からの問い合わせも受けているそうです。さらに地元紙などで紹介された地域の話題を集めた「声の雑誌」を制作しているほか、週刊誌や月刊誌を読んで録音しており、それらは市立図書館から利用者に送っているとのこと。頭が下がります。

そうした中で、元NHKアナウンサーの方々を招いて読み方の研修等も行っているそうで、そこで岩井氏なのでしょう。「智恵子の半生」は岩井氏が読まれるそうです。岩井氏、NHK放送センターさんの朗読講座でも、光太郎作品を取り上げて下さっています。

もう1件、都内から。

ノスタルジックな世界005

期 日 : 2022年8月10日(水)
会 場 : 名曲喫茶ヴィオロン 
      東京都杉並区阿佐谷北2-9-5
時 間 : 19:00~
料 金 : 1,000円(1ドリンク付)

出 演 : MIHOE(朗読/歌)
      藤澤由二(ピアノ)

JAZZ演奏 詩の朗読 みじかくも美しく燃える ノスタルジックな時間 寺山修司、智恵子抄、中原中也などお好きな方、そしてノスタルジックなJAZZを愛する方 お待ちしてます


フライヤーは「ノスタルジックな界」となっていますが、「ノスタルジックな世界」のようです。イベント名と同時にお二人のユニット名なのかな、という感じでした。

YouTube上に過去の動画が何本かアップされていました。


以前にも書きましたが、光太郎の詩文は意外と朗読に向いています。きれいな五七調、七五調になっているものは多くないものの、「内在律」とでも言いましょうか、言葉本来のリズム感、生命力など、ある種「言霊」のようなものが感じられます。声に出して読まれることを想定して書いていなくとも、自然にそうなっている点、物書きのお手本ですね。身贔屓に過ぎるでしょうか(笑)。

さて、それぞれ、お近くの方、コロナ感染には十分にお気を付けつつ、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

豊周くる、写真による胸像の事、ツチヤ地下足袋初代社長の記念の由、写真を見てから返事する事、

昭和28年(1953)10月8日の日記より 光太郎71歳

002豊周」は実弟の髙村豊周。家督相続を放棄した長男光太郎に代わって髙村家を嗣ぎました。

ツチヤ地下足袋」は現・ムーンスターさん。「初代社長」は倉田雲平。嘉永4年(1851)生まれですので、光太郎の父・光雲の一つ年上です。大正6年(1917)に亡くなっていたのですが、ぜひその胸像を、ということで豊周が仕事をとってきました。

はじめ、写真による故人の肖像制作には難色を示した光太郎でしたが、結局、依頼を引き受けました。しかし、健康状態の悪化により、制作は半ばで中断。未完に終わった絶作は、未完に終わった光太郎の彫刻世界を象徴するかのように、未完のまま型取られて鋳造されました。

一昨日の『中日新聞』さん一面コラム。

中日春秋 2022年7月28日

 首相在任中に病に倒れ、退陣後に没した自民党の小渕恵三氏に対する国会での追悼演説は二〇〇〇年五月、野党・社民党の村山富市元首相が行った▼小渕氏が首相時代に開催地を沖縄に決めたサミットが迫っていた。氏が学生時代から通い、米国統治下の苦難を学んだ土地▼日本は東京以外でのサミット開催経験がなかったが、慎重論に与(くみ)せずあえて沖縄を選んだことを村山氏は称(たた)えた。「熱い思いが沖縄の人々をどれほど勇気づけているかは、立場こそ違え、長年沖縄問題に取り組んできた私には痛いほどわかります」「沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった」▼安倍晋三元首相への追悼演説を同じ自民の甘利明氏が行う案に野党から異論が出ている。人選は遺族の意向らしい。自民党首相経験者への追悼演説は野党が行うのが慣例で、党派を超えて哀悼の意を表してきた。大平正芳氏の場合も、社会党委員長が演説した▼今回は、反発も承知で安倍氏の国葬を決めながら、追悼演説は身内…。再考した方がよさそうに思える▼村山氏は、小渕氏が愛唱した高村光太郎の詩『牛』を引用し、人柄をしのんだ。「牛は随分強情だ/けれどもむやみとは争はない/争はなければならない時しか争はない/ふだんはすべてをただ聞いてゐる/そして自分の仕事をしてゐる」。我を通すべきことの選択を誤ると、民の心も離れる。

当初、8月3日召集の臨時国会で検討されていた追悼演説は、なぜか延期の方向だそうですが、その理由の一つが、指名されたA氏が「静かな環境でやるべき」とのたまったとのことで、まさに「おまいう」(笑)。大臣室で現金を受け取った人物の発言とは思えませんね。

平成12年(2000)5月に衆議院本会議で行われた、村山富市氏による小渕恵三氏への追悼演説。光太郎に関わる部分の前後のみ抜粋します。

000 昭和三十八年の初当選以来、福田、中曽根元総理らと議席を争った厳しい選挙区環境がつくり出した庶民的な「人柄の小渕」は、総理になってからも何ら変わることはありませんでした。
 昨年、ブッチホンという流行語大賞に選ばれたほど、常に市井の声に耳を傾け、国民と同じ目線で物事を見る屈託のない姿勢は、国民の共感するところでございました。
 君がよく愛唱した高村光太郎の
  牛は随分強情だ
  けれどもむやみとは争はない
  争はなければならない時しか争はない
  ふだんはすべてをただ聞いてゐる
  そして自分の仕事をしてゐる
  生命をくだいて力を出す
君の人生はまさにこの詩のごとくでありました。
 君の人柄について語るとき、いつも謙虚であろうとした君の姿勢について触れないわけにはいきません。
 みずからが凡人であることを片時も忘れないよう心がけておられました。それは、口に出せば簡単ですが、凡人にはなかなかできないことであります。いかなる地位にあっても偉ぶらず、常に謙虚で目線を低く生きる、そして凡人だから懸命に努力する、そうした姿勢が凡庸に見えて非凡という境地を開かれたのであります。(拍手)
 その牛にも似た、地道で人知れぬ努力があったからこそ、一国の指導者にまで上り詰めたのでありましょう。
 もはやこの議場に君の温容を目にすることはできません。耳を澄ませば、今も、力強い中にも優しさのこもった声が聞こえてくるではありませんか。
 小渕君、君に課せられた宰相という厳しい重責は、君に一刻の休息も許しませんでした。本当に御苦労さまでした。

もう22年も経つか、という感じですが、この頃はこの頃でいろいろあったものの、まだ健全な世界でしたね。

「牛」全文はこちら(閲覧注意! 超長い詩です(笑))。

【折々のことば・光太郎】

午前十時頃大町桂月の長男芳文氏と文京区文化係長中出忠勝といふ人来る、メダルなど見せる、亡父によく似てゐるとの事、


昭和28年(1953)9月27日の日記より 光太郎71歳

完成作としては光太郎最後の彫刻となった小品「大町桂月メダル」。翌月行われた「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」除幕式に際し、関係者に記念品として配付されたものです。元々「乙女の像」は、十和田湖の景勝美を世に広めた桂月ら「十和田の三恩人」顕彰のためのものでした。
001
原型が完成し、桂月の子息に見てもらったとのこと。なぜ文京区の役人が同席していたのかは不明ですが。ちなみに子息・芳文は農学者。光太郎実弟にして藤岡家に養子に行った同じく農学者の孟彦とは昵懇の間柄でした。

ところで9月に行われる予定の「国葬」とやら(ここへきていろいろあるD社とのズブズブぶりが報じられていますが)で、当該人物の肖像を刻んだメダルなど配付されたりはしないでしょうね(笑)。

類書は世に多く、しかし出版社やご著者の方のスタンスによっては、読むに堪えないものも少なからず存在するのが現状ですが、これは違いました。

この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか

2022年6月30日 奥泉光/加藤陽子 河出書房新社(河出新書) 定価968円(税込み)

今こそ、「日本人の戦争」を問い直す。日本はなぜ、あの戦争を始めたのか? なぜ止められなかったのか? 戦争を知り尽くした小説家と歴史家が、日本近代の画期をなした言葉や史料を読み解き、それぞれが必読と推す文芸作品や手記などにも触れつつ、徹底考察。「わかりやすい物語」に抗して交わされ続ける対話。「ポツダム宣言」「終戦の詔書」を読む解説コラムも収録。

著者
奥泉 光 (オクイズミ ヒカル)
1956年山形県生まれ。1986年に『地の鳥 天の魚群』でデビュー。1993年『ノヴァーリスの引用』で野間文芸新人賞、1994年『石の来歴』で芥川賞、2009年『神器』で野間文芸賞を受賞。

加藤 陽子 (カトウヨウコ)
1960年、埼玉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科教授。専攻は日本近現代史。『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』『戦争まで』『戦争の日本近現代史』など著書多数。
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目次
 はじめに(奥泉光)
 Ⅰ 太平洋戦争とは何かを考えるために
  戦争と物語
  国民統合の方法としての軍隊
  お天道様と公道
  民衆にとって天皇とは?
  自制を失う「帝国」
  主権線・利益線論と物語としての日露戦争
  不戦条約と軍隊像の転換
  リットン報告書を拒絶、そして満州事変へ ……
 Ⅱ なぜ始めたのか、なぜ止められなかったのか
  なぜ満州か
  国際連盟脱退と各国の思惑
  感情に訴える国民向けの宣伝
  陸海軍共通の仮想敵・アメリカ
  南進論と三国同盟の要点
  変わりゆく「中立」
  「もやもや」が消えてゆく
  対米開戦の裏側
  日本の勝算?
  日本的「空気」という謎 ……
 【解説コラム】「ポツダム宣言」を読む/「終戦の詔書」を読む
 Ⅲ 太平洋戦争を「読む」 
  戦争を支える気分――清沢洌『暗黒日記』
  物語を批判する小説――田中小実昌『ポロポロ』
  個人と国家の媒体なき対峙――山田風太郎『戦中派不戦日記』
  現代日本のこと?――山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』 ……
 おわりに(加藤陽子)

光太郎生誕前年(明治15年=1882)に出された「軍人勅諭」に始まり、日清・日露戦争、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争と、最新の歴史学的知見、当事者たちの書き残したものへの考察を盛り込みつつ、「この国の戦争」を語る対談です。

「なるほど、そう解釈すれば腑に落ちる」「これとこれをこう関連づけるか」という感じで、目から鱗
の連続でした。同時に愚かな為政者に対し「「困ったちゃんあるある」だなぁ」と思わせられる指摘も。

そして、戦争の遂行に果たす「文学」「言葉」「物語」の役割。

「これは!」と思った箇所をいくつか。

「戦前」体制というと、どうしても不吉な響きがしてしまうのは、二〇世紀前半の昭和「戦前」体制が、自国民だけで三百万人を超える、侵略したアジア地域や交戦国を含め二千万人もの死者を出す未曾有の厄災に繋がった記憶があるからだ。しかもいまもなお昭和「戦前」に懐旧の情を抱き、それをほとんどパロディーのごとくに再構しようと欲する政治勢力が存在するから厄介だ。だが、いま求められるべきは、昭和とは違う「戦前」、戦争をしないための「戦前」体制の構築である。
(「はじめに」)

アジア・太平洋戦争の歴史を問うことは、戦争で亡くなった方々の霊を慰める営みでもあるだろう。彼らの死を犠牲の死として捉えること。それには死者を神話的な「物語」に閉じこめてはならない。彼らを歴史のなかに、人々が対話的に交わる「場」として歴史のなかに、絶えず解放し続けなければならない。神話ではなく、対話を!
(同)

戦争一般が非合理なものをはらむのは間違いないにしても、それを超えた、戦死者の半ば以上が餓死や病死であるような作戦が立案され実行されてしまう、あるいは戦艦大和の出撃にしても、確実に沖縄までは到達できないとわかっていながら、あえて出撃して三〇〇〇人の人間が死んでしまう。そうした度を超えた非合理制にはやはり関心を向けないわけにはいかない。
(「Ⅰ 太平洋戦争とは何かを考えるために」)

政治や宗教や法律だって言葉が人を動かすのだけれども、言葉の外に力の根拠、裏付けがある。最終的には言葉ではないものが、たとえば暴力が言葉の力を支える。対して、文学は言葉それ自体が人を動かす力を持つ点が特徴です。だから政治に利用される。ずっと利用されてきたし、いまも利用され続けているわけで、だから歴史を捉えるには、それを的確に批評する作業が必要になる。
(同)

戦後まもない頃はGHQの誘導もあって、狂信的な軍部が日本を引っ張ってこういうことになっちゃったんだという説明がなされた。実際はそれですむことではないわけですが、しかしどうしてもわれわれはわかりやすい物語の中で物事を理解したいという欲望があるんですね。それが陰謀論の土壌にもなる。誰か悪い奴が厄災を引き起こしたんだということにしたくなる。単純な物語の枠にはめこんで歴史を描きたくなる。
(「Ⅱ なぜ始めたのか、なぜ止められなかったのか」)

国民の戦争へ向かうエネルギーは大変に大きかったわけで、米英との開戦からの三年八ヵ月あまりの時間は、それが敗勢のなか減衰していく時間だったと見ることもできるだろう。しかし、そのためにどれほどの犠牲を払わねばならなかったことか。
(同)

「情ニ於イテ忍ビザルモ、国家ノ為ニハ已ムヲ得ザルベシ」のように、昭和天皇自身、国家を前景化させつつ、天皇と軍人の特別な紐帯を否定しにかかったのが終戦の詔書といえるでしょう。
(同)

当時の国家の民衆に対する方針は、ようはものを考えることをさせないようにする、そういう方向です。国民の個性なんてものは一切認めない、思考することを認めない、ひたすら一元化していく。
(「Ⅲ 太平洋戦争を「読む」」)

やっぱり人々はわかりやすい物語を求めてしまうんですよ。単一の物語が欲しいんです。わかりやすい物語のなかで世界を捉えたい。それは日本だけの問題じゃないわけで、人間はそこからはなかなか逃れ難い。その欲求に応える物語がたくさん提供されてきたし、これからも提供されていくわけですが、文学はそれに抵抗しなければならない。
(同)

天皇の言葉としての勅諭や勅語が作成された時代の意義や読み方と、軍が政治化した後世の時代の読み方は異なってくる。(略)軍人勅諭の読み替えは、一九三二年の五・一五事件を契機になされ、教育勅語の読み替えは、一九四〇年の近衛新体制を契機に進んでいった。軍人勅諭、教育勅語、この二つの天皇の言葉が、時代とともに暴走していったのだ。
(おわりに)


さて、光太郎に関しては、「Ⅱ なぜ始めたのか、なぜ止められなかったのか」中で、ほんの少し。

加藤 日中戦争までは、国民の中に「もやもや」がまだあります。
奥泉 それが一気に日米戦で消えてなくなる。多くの人が一九四一(昭和一六)年一二月八日の朝の爽快感を書いていますよね。
加藤 竹内好は「歴史は作られた 世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。(中略)われらは、わが日本国と同体である」と書いています。
奥泉 高村光太郎の有名な「世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである」とかね。多くの人が似たような感想を記している。歴史の先端に立っているという感覚ですね。いま想像してみるに、ほんとうにそうだったんだろうなとつくづく思うんですよね。言葉を持つ階層の人たち、たとえば日中戦争の意味を考え悩んでいたような人たちは、とりわけ爽快に感じたんでしょう。


引用されているのは、昭和17年(1942)元日の『中央公論』に載った散文「十二月八日の記」の一節です。また、ほぼ同時に書いた詩「鮮明な冬」(同日の『改造』に掲載)には、「この世は一新せられた」、「だが昨日は遠い昔であり」の一節があります。光太郎ほどの人物でも、コピペまがいのことをやってしまっているわけで、まぁ、それを言ったら、この後発表される翼賛詩文のほとんどは、コピペとまで行かなくとも、同工異曲(この四字熟語、プラスの意味とマイナスの意味がありますが、当然ながらマイナスのベクトルです)、読むに堪えないものばかりですが……。

しかし、それが国民にうけました。こうした例が、本書両ご著者の指摘する「わかりやすい物語」の一つというわけですね。

ロシアによるウクライナ侵攻から5ヶ月。この「わかりやすい物語」の論法で行けば、「プーチン一人の狂気」のようなとらえ方が為されがちです。しかし、その背後にはさまざまな要因がからみあっているわけですし、「プーチン=悪」「ゼレンスキー=善」という単純な「わかりやすい物語」に落とし込むのは危険ですね。といって、ロシアの行為が正当化されるべきものでないことはあきらかですが。

同時に気になるのが、現状、ロシア国民がこれをどう考えているのか、です。プーチンらの提示した「わかりやすい物語」にとらわれてしまっているのでしょうか。さながら80年前の多くの日本人のように……。さらに「世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである」みたいなことを嬉々として書いている文学者が、現にいるのでしょうか。

さて、『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

夜「雁」映画を見に浅草にゆく、満員にてみられず、

昭和28年(1953)9月19日の日記より 光太郎71歳

明治後期、東京美術学校で光太郎の師であった森鷗外原作の小説「雁」。この年、豊田四郎監督、故・高峰秀子さん、故・東野英治郎さんらのご出演で映画化されました。

いわゆるライトノベルです。

小説家・芥木優之介には恋と飯が足りていない

2022年7月6日 硯昨真著 宝島社(宝島社文庫) 定価750円(税込み)

太宰治の“桜桃”、森鴎外の“饅頭茶漬け”――。謎の美女が繋ぐ“文豪グルメ”と“人の絆”。天才偏屈作家のほっこり恋物語!

芥木優之介は、大学時代に処女作で新人賞を総嘗めにし、文壇にデビューした小説家である。それから六年。全く文章を書けなくなった芥木は、古アパートで貧乏生活を送っていた。それは自身に課した「文筆業以外で稼いだ金で飯は食わない」ポリシーのため。そんな時、大家の姪という儚げな美女・こずえが現れる。栄養失調で意識が朦朧とする芥木に、“芋粥”を食べさせるこずえ。彼女にときめく芥木だが、「これからはお家賃の方をきちんとお願いします」と言われ、絶体絶命に! 偏屈で人間嫌いだった芥木だが、縁を切っていた人々と向き合うことになり……? 謎の美女が繋ぐ、“文豪グルメ”と“人との絆”。天才偏屈作家のほっこり恋物語!

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目次
 芥川龍之介の芋粥  谷崎潤一郎の小鰺の二杯酢漬け  太宰治の桜桃 前編 
 太宰治の桜桃 後編  宮沢賢治の天ぷらそばとサイダー  高村光太郎の牛鍋
 森鷗外の饅頭茶漬け  夏目漱石の落花糖


主人公・芥木優之介。その名の通り、芥川龍之介を彷彿とさせられる小説家です。しかし、芥川と違って(ある意味共通して)、いろいろ考えすぎるあまり、なかなか作品が書けない、という設定です。まぁ、一言で言うと「面倒くさい」(笑)。そうなってしまったのには、そうなってしまうだけの理由―この業界特有の―があるのですが、それは読み進めていくうちにおいおい明かされていきます。

他の登場人物は、芥木に負けず劣らず面倒くさく、彼を一方的にライバル視する作家・津島修也(いわずもがなですが、「津島」は太宰治の本名由来です)、芥木ファンが嵩じて作家デビューを果たした書店員・三鳥(「島」ではなく「鳥」です)、善人だけれどズレまくっている編集者・滝谷(しかし、欲得ずくでない仕事態度が芥木を動かし、再びペンを執らせます)、そして借家の大家にしてヒロイン的なこずえら、個性豊かな面々。

そこに目次にあるような、文豪たちが書き残したさまざまな料理や食材がからみます。そういった意味でも近代文学オマージュ的要素もふんだんに盛り込まれています。

われらが光太郎に関しては、詩「米久の晩餐」(大正10年=1921)がモチーフの「高村光太郎の牛鍋」。この章には『智恵子抄』巻頭を飾った詩「人に」(「いやなんです/あなたのいつてしまふのが」)も使われ、こずえに対して揺れ動く芥木の心情が象徴されます。特に「――それでも恋とはちがひます」というフレーズ。

作者の硯昨真氏、存じ上げない方でしたが、どうもご自身のご経験をかなり落とし込んで書かれているのでは、と思われます。作家としてデビューし、編集者との丁々発止のバトルなどの苦労等。妙にリアリティーがあります。違っていたらごめんなさい、ですが。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

中野の祭礼、みこし出てゐる、 夜在宅、 タウリンエキスをのむ、

昭和28年(1953)9月15日の日記より 光太郎71歳

中野の祭礼」は、9月半ばということで、おそらく中野氷川神社さんの祭礼と思われます。「タウリン」、この頃にはもう広まっていたのですね。1000㍉㌘かどうかはわかりませんが(笑)。

エンタメ作家・夢枕獏氏によるエッセイ集です。

仰天・俳句噺

2022年6月30日 夢枕獏著 文藝春秋刊 定価1,600円+税

ガンの病床で作ったのも、俳句でした。

俳句の話から、縄文、仏教、懐かしのプロレス話にあの人との逸話まで――縦横無尽に綴った仰天エッセイ!

リンパがんのステージⅢと診断され、ほとんどの連載もお休みに。そんな中で綴ったのは、長年秘かに続けていた俳句について。「俳句の季語は縄文である」と語る夢枕獏が、ずっと考えてきたこと、今書いておきたいことを詰め込んだ“夢枕節”炸裂の闘病×俳句(⁉)エッセイ。

【目次】
第一回  真壁雲斎が歳下になっちゃった         
第二回  尻の毛まで見せる
第三回  オレ、ガンだからって、ズルくね
第四回  「おおかみに螢が一つ――」考
第五回  翁の周辺には古代の神々が棲む
第六回  すみません、寂聴さん書いちゃいました
最終回  幻句のことをようやく
補遺   野田さん
あとがき 言葉の力・そしてあれこれ
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一言で言うと、俳句を軸とした交友録・文学論(さらには文明論)といったところでしょうか。

『陰陽師』などの大長編シリーズで有名な夢枕氏、それら長篇小説の対極ともいえる短詩系文学にも興味を持たれ、短歌には割と早くから取り組まれていたそうです。長編小説の世界観を、わずか三十一文字に落とし込む、という挑戦です。しかし、更に短い十七音の俳句でそれができるのか、というわけで、逡巡していらしたそうですが、やがてどっぷりとその魅力にはまり……。

さらにガンでの入院という経験が、俳句への指向をさらに高める要因となったともおっしゃっています。ご自作の句はあまり多く紹介されていませんが、

 点滴てんてん花冷えの夜

 赤き点滴赤き小便不思議といふほどのこともなく

 喉にゐる蛇八千匹なり月朧

 万巻の書読み残しておれガンになっちゃって

 点滴の窓に桜ラジオから昇太


など、唸らされます。脱帽です。同じ立場に立たされた時、自分に詠めるか? いや、詠めはしない(「ましかば……まし」状態)です。

極めつけは……

 黒き窓に翁いてなんだおれか

光太郎のエッセイ「珈琲店より」(明治43年=1910)の一節を想起しました。欧米留学でのフランス滞在中、パリジェンヌと一夜を過ごした翌朝の一コマです。

熱湯の蛇口をねぢる時、図らず、さうだ、はからずだ。上を見ると見慣れぬ黒い男が寝衣(ねまき)のままで立つてゐる。非常な不愉快と不安と驚愕とが一しよになつて僕を襲つた。尚ほよく見ると、鏡であつた。鏡の中に僕が居るのであつた。
「ああ、僕はやつぱり日本人だ。JAPONAIS だ。MONGOL だ。LE JAUNE だ。」と頭の中で弾機(ばね)の外れた様な声がした。

単なる人種的劣等感にとどまらず、芸術文化の部分などで、薄っぺらな日本人の自分は巨大な「西洋」に対抗出来ないという絶望が表されています。

夢枕氏、光太郎ファンでもあらせられ、おそらくこの一節を念頭においていたのでは、と思いました。違ったらごめんなさい。

交友の部分では、帯にも登場されている俳人の夏井いつき氏、故・瀬戸内寂聴氏、立川志らく氏、故・中上健次氏、嵐山光三郎氏、故・野坂昭如氏、南伸坊氏、阿川佐和子氏などなど。

そして文学論。「第四回 「おおかみに螢が一つ――」考」で、故・金子兜太氏、そして夢枕氏が傾倒なさる宮沢賢治と光太郎について、かなり長く語られています。「おれの文芸的な血と肉の中には、確実に賢治と光太郎が溶け込んでいるな」だそうで。また、夢枕氏二十代の作で、光太郎オマージュの長詩「イーハトーヴのひと」も掲載されています。いかに光太郎愛に溢れているかがわかります。

ただ、「イーハトーヴのひと」中、さらに地の文でも、一つ気になる記述が。光太郎が戦後の七年間蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に、生前の智恵子が作って置いた梅酒を持ち込んでいた、というのです。当方、そういう話は初めて目にしました。他の文献等で、そういう記述がここにある、という情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

夢枕氏、平成28年(2016)には、雑誌『サライ』さんで、賢治実弟の、光太郎とも仲の良かった清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏と、花巻で対談をなさっています。
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その中では、光太郎に関する内容も。さらに、夢枕さん、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋内部に潜入。
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この時以外にも、何度も訪れられているそうで、ありがたいかぎりです。

また、夢枕さんには、『智恵子抄』をこよなく愛する巨漢の豪傑が、淫祠邪教のカルト教団(その教祖は中原中也ファン(笑))との壮絶な闘いを繰り広げる『怪男児』という小説もあります。コミック化も為されています(途中までですが)。
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併せてぜひお読み下さい。

ところで、賢治も光太郎も、それぞれに独特な俳句をかなり遺しています。夢枕氏には、今後、賢治の句、光太郎の句にも言及していただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃、角川書店の人くる、写真一枚かす、色紙一枚「うゐのおくやま」書き渡す、

昭和28年(1953)9月10日の日記より 光太郎71歳

翌月刊行された『昭和文学全集第二十二巻 高村光太郎集 萩原朔太郎集』の関係です。貸した写真及び「うゐのおくやま」と書いた色紙は同書の口絵として使われました。
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さらに書の方は、この年から翌年にかけて全国を巡回した「角川文庫祭記念 現代文豪筆墨展」に出品されました。
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文芸評論家の近藤信行氏が亡くなりました。『東京新聞』さんから。

近藤信行さん死去 文芸評論家

007 近藤信行さん(こんどう・のぶゆき=文芸評論家)17日、老衰のため死去、91歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。
 中央公論社で「中央公論」「婦人公論」などの編集に携わり、文芸誌「海」の編集長を務めた。「小島烏水 山の風流使者伝」で大仏次郎賞を受賞。山梨県立文学館の館長も務めた。
 登山関連の書籍を多数編さん。他の著書に「安曇野のナチュラリスト 田淵行男」など。

近藤氏、記事にあるとおり山梨県立文学館さんの館長を務められていまして、その関係もあって連翹忌にご参加下さったこともおありでした。

館長在任中の平成19年(2007)には、同館で企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催して下さいました。

その際には、関連行事として、光太郎令甥で写真家であらせられた故・髙村規氏、世田谷美術館館長・酒井忠康氏との鼎談「高村光太郎の人生 パリ・東京・太田村」をなさったり、同展図録には館長としての巻頭挨拶文「開催にあたって」、論考「高村光太郎の“戦後”」をご執筆されたりしました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

大町桂月のメダルをはじめる、


昭和28年(1953)8月4日の日記より 光太郎71歳

大町桂月のメダル」は、この年10月に開催された、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際、関係者に配られたものです。元々「乙女の像」が、十和田湖の景勝美を世に広めた大町桂月らを顕彰するモニュメントだったことに関わります。

小品ながら、完成した彫刻としては、光太郎最後の作品です。
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土曜美術社出版さん発行の雑誌『詩と思想』。今月号は光太郎と交流のあった詩人・高祖保の特集で、光太郎にも触れられています。
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特集部分の目次はこちら。

 ◆ 高祖保アルバム
 ◆ メール対談 外村彰×青木由弥子 高祖保について――外村彰さんに聞く
 ◆ 評論
  外村彰 高祖保 生涯と詩想
  萩原健次郎 不滅の審美――高祖詩の現在
  國中治 高祖保式詩作装置
  江田浩司 高祖保の詩、歌、句の関係性
  澤村潤一郎 湖べりの去年の雪――高祖保と彦根の詩景
  大塚常樹 高祖保を育てた「椎の木」
  宮崎真素美 高祖保の「詩」――戦時下の振幅から
  島田龍 高祖保と左川ちか――「椎の木」の頃から「念ふ島」へ
  扉野良人 『をぢさんの詩』のこと
 ◆ エッセイ
  漆原正雄 ひきあげてゆくものは、詩の精神による補ひでなければならない。
  木下裕也 詩集『獨樂』を読む
  高嶋樹壱 全身のごとく、全行で受ける力
  田中さとみ 「Kool Snow in the dome」
  重光はるみ 高祖保の家族愛
 ◆ 資料篇
  友森陽香 特別展「生誕一一〇年 雪の詩人 高祖保展」を開催して
  清須浩光 郷土出身の詩人・高祖保顕彰活動
  高祖保略年譜/附・ブックガイド
  青木由弥子 書評・『牛窓 詩人高祖保生家 念ふ鳥 補記』


高祖保(明治43年=1910~昭和20年=1945)は、岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)の生まれ。父の死後、9歳で母と共に母の実家のあった滋賀県彦根に移り住みました。旧制中学時代から詩作に親しみます。國學院大學師範部を卒業し、横浜で叔父の経営する貿易会社に入社、のち、社長となったものの、昭和19年(1944)に出征し、翌年にはビルマ(ミャンマー)で戦病死しています。

昭和初め、光太郎も稿を寄せていた雑誌『椎の木』に寄稿したあたりから、光太郎との交流が生まれたようで、その後、高祖の個人雑誌に近かったという『門』に、確認出来ている限り光太郎は2回寄稿しています。また、昭和18年(1943)には、光太郎の年少者向け翼賛詩集『をぢさんの詩』の編集に高祖があたりました。光太郎本人による同書の序文には「なほこの詩集の出版にあたつて一方ならず詩人高祖保さんのお世話になつた事を感謝してゐる。」と記されています。

平成25年(2013)の明治古典会七夕古書入札市で、光太郎から高祖に贈られた識語署名入りの『をぢさんの詩』他が出品され、驚きました。
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献呈署名に曰く、

此の詩集の成る、 まつたくあなたのおかげでありました 印刷の字配り、行わけ、の比例から校正装幀などの御面倒まで見てくださつた事世にも難有、茲に甚深の謝意を表します
  昭和十八年十一月   一十六歳 高村小父  高祖保雅友硯北

難有」は「ありがたく」、「茲に」は「ここに」と読みます。「雅友」は「風流な友達」、「硯北(けんぽく)」は手紙の脇付決まり文句で、「机下」「座下」などと同義です。「一十六歳 高村小父」は、この詩集が年少者向けのものだったことに関わる、数え61歳の光太郎の洒落ですね。

高祖に宛てた葉書も同時に出品されました。昭和18年(1943)7月27日付けでした。

おたより拝見、又々御入院のことを知り、驚きました。今度は十分御療養なされて無理をされぬやう申しすすめます。
此前はまだ出あるきに無理だつたのだと推察されます。御送付の校正刷は別封で御返送いたします。一箇所かなをなほしました。
尚つひでに「某月某日」を同封いたしました、おんつれづれの時にでも御披見下さい。すべてゆつくりやつて下さい。

校正刷」は『をぢさんの詩』のためのものですね。

『詩と詩人』に載った年譜に拠れば、高祖はこの年5月中旬から肺炎のため入退院をくり返し、約三ヶ月の闘病生活を送ったそうです。また、翌年4月頃には、肺炎と腸チフスを併発しています。にもかかわらず、7月には召集を受け、南方戦線へ。そして昭和20年(1945)1月、ビルマでマラリア罹患に急性腸炎を併発し、戦病死しています。

光太郎はその後、戦後になって高祖の死を知り、追悼文を書きました。

 召集せられて出てゆかれたときいた時、ちよつと不安を感じた。あのデリカな健康で、おまけにかなりな病気をしたあとで、たとへどのやうな任務にしろ、軍隊生活をするのは無理だと思つた。あの細い指に軍刀をつかませるのは無残な気がした。ビルマのような暑い土地に送つて此の有為な若い詩人を死なしめた乱暴な、無神経な組織体そのものをつくづくなさけないものに思ふ。その粗剛な組織体がともかくも日本から消え失せるやうな事になつた今日、高祖保さんのやうな詩人こそ今居てもらひたいといふ循環心理がぐるぐるおこる。つい二年程まへに私の詩集「をぢさんの詩」を編纂してくれた彼がもう居ない事を此の奥州の山の中で考へるのはつらい。人里離れた此の小屋の炉辺に孤坐して彼を思ふと、その風姿が彷彿として咫尺の間に迫る気がする。彼のしんから善良な生れつきと、高雅清純な育ちと、繊細微妙な神経の洗練と、博くして又珍らしく確かな教養とをつぶさに観たのは、此の「をぢさんの詩」編纂に関してたびたび私の書斎に彼が来てくれた時の事であつた。実に労を惜しまぬ、心を傾けての彼の尽力にはただ感謝の外なかつた。そして一切を委せて安心出来た。わたくし自身のやり得る以上の事をやつてくれた。組方から、校正から、かな使ひから、装幀から、その隅々にまで彼の神経が行きわたつた。昔郷里の江州に居た頃高祖保さんが出してゐた詩誌にわたくしが「その詩」と題する詩一篇かを寄稿した事を徳として、その事を忘れず、死の運命のひそかに近づいてゐたあの頃、わたくしへの報恩の意をそれとなく尽してくれたもののやうな気がする。まだ夜陰の風は肩にさむい。炉の火に柴を加へて彼の冥福をいのるばかりだ。
 彼の詩そのものについては、それを語るわかい友人が多いことと思ふ。今わたくしは別に述べない。


昭和21年(1946)5月、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれたこの読む者の胸を打つ文章は、終戦直後の出版事情の混乱により、光太郎生前は活字になることがありませんでした。

さて、『詩と思想』の特集、かなりの分量でして、まだ読破しきっていません。したがって、上記追悼文に触れられているかどうかは不分明です。『をぢさんの詩』についての文章はありましたが。本日、公共交通機関を使っての移動がありますので、その間に読了したいと存じます。

ロシアによるウクライナ侵攻というこのご時世こそ、無謀な戦争で死んでいった詩人の生の軌跡に学ぶところが多いのではないでしょうか。オンラインで注文可です。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前午后仕事、顔其他、一応出来上る、


昭和28年(1953)5月31日の日記より 光太郎71歳

仕事」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作です。この後も若干の手直しが入りますが、一応の完成を見ました。遺された完成記念報告会のためのメモでも、この日を完成としています。

昨日の地方紙『岩手日日』さんから。

道の駅利用者に役立てて 市へ書籍470冊寄贈 賢治、光太郎関連など 市へ書籍470冊寄贈 冨士見総業・GSオープン記念

 冨士見総業(本社青森県弘前市、福士誠代表取締役社長)は4日、花巻市轟木に整備したガソリンスタンド「リベルタはなまき西南SS」のオープンを記念し、宮沢賢治の童話や高村光太郎などに関連した書籍470冊(100万円相当)を同市に寄贈した。
 ガソリンスタンドは、県道盛岡和賀線沿いにある道の駅はなまき西南の北側にオープン。関係者ら約50人が出席し、神事に続き、記念品の贈呈、テープカットを行い開所を祝った。
 書籍は、道の駅の愛称「賢治と光太郎の郷(さと)」にちなみ、道の駅利用者に花巻の先人を知ってもらおうと寄贈。同社の福士悟代表取締役会長と書棚を提供した藤正建設の照井正樹代表取締役がそれぞれ上田東一市長に目録を手渡した。
 寄贈された書籍は「道の駅文庫」として同道の駅情報スペースに配置。福士代表取締役社長は「今後も寄贈を続け、一人でも多くの人に手に取ってもらえたらうれしい」と話す。
 上田市長は「西南地区は店が少なく、道の駅、隣接するコンビニエンスストア、ガソリンスタンドは地域の悲願だった。交通量も多く道の駅は通行する人の憩いの場にもなっている」と寄贈に感謝した。

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こういう取り組みには、本当に頭が下がります。

そういえば光太郎も、花巻郊外旧太田村に蟄居中、出版社から送られてきた雑誌や書籍を村の青年会や学校などに寄贈して、「高村文庫」として利用されていたっけ、と思い出しました。

同じ「道の駅はなまき西南」さんの情報スペースで、光太郎がらみのミニ展示が予定されているそうです。MICHINOさんという方の色鉛筆画で「器と楽しむ光太郎ランチ」。こちらの道の駅のテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」を洒落た器に盛りつけて描いた作品とのこと。7月9日(土)からだそうです。

来週末、花巻高村光太郎記念館さんの企画展「光太郎、海を航る」の関係であちらに行って参りますので、寄贈書籍、「器と楽しむ光太郎ランチ」、それぞれ拝見して参ります。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后日比谷行、ニユートーキヨー、ピカデリーで「越境者」日劇でストリップ、新宿ビヤホール、ドレスデン、よしの、十時半かへる、 ドレスデンでアブサン一ぱいのむ 一ぱい220円なり、

昭和28年(1953)5月17日の日記より 光太郎71歳

越境者」は昭和25年(1950)公開のイタリア映画。続いてまたしてもストリップ鑑賞、さらに呑み歩いています。「ドレスデン」はひらがなの「どれすでん」として、新宿に現在も健在です。

前年にはこんな詩も発表している光太郎ですが、がっつり東京の夜を満喫しちゃっています(笑)。

   報告002

 あなたのきらひな東京へ
 山からこんど来てみると
 生れ故郷の東京が
 文化のがらくたに埋もれて
 足のふみ場もないやうです。
 ひと皮かぶせたアスフアルトに
 無用のタキシが充満して
 人は南にゆかうとすると
 結局北にゆかされます。
 空には爆音、
 地にはラウドスピーカー。
 鼓膜を鋼で張りつめて
 意志のない不生産的生きものが
 他国のチリンチリン的敗物を
 がつがつ食べて得意です。
 あなたのきらひな東京が
 わたくしもきらひになりました。
 仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう、
 あの清潔なモラルの天地で
 も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。

生涯教育系講座です。

現代の詩と詩人

期 日 : 2022年7月9日(土) 8月6日(土) 9月10日(土)
会 場 : 河北TBCカルチャーセンターエスパル教室
      宮城県仙台市青葉区中央1丁目1-1 仙台ターミナルビル5F(エスパル本館)
時 間 : 13:00~14:30
料 金 : 3カ月3回8,580円(入会金別)
講 師 : 宮城教育大学名誉教授 渡辺善雄氏

茨木のり子は川崎洋と詩誌『櫂』を創刊し、谷川俊太郎、大岡信、吉野弘らと戦後詩の新しい流れを作りました。この講座では茨木のり子を中心に、茨木が『うたの心に生きた人々』(ちくま文庫)や『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)で論じた金子光晴、山之口貘、石垣りん、高村光太郎、与謝野晶子、黒田三郎、川崎洋らを取り上げます。戦争、貧乏、酒、恋愛などに翻弄される詩人たち。その哀歓を詩と逸話によって語ります。
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講師の渡辺善雄氏、平成29年(2017)にはNHKカルチャーさんの仙台教室で「東北ゆかりの作家たち」という講座もなさっていました。

今回は「茨木のり子を中心に」ということだそうです。茨木のり子は大正15年(1926)、大阪の出身。光太郎とは直接の面識はなかったようです。詩集『自分の感受性くらい』などで有名ですが、講座の案内にあるとおり、『うたの心に生きた人々』、『詩のこころを読む』など、近現代の詩人の評論なども遺しました。当方、2冊とも持っていたはずなのですが『詩のこころを読む』が見つかりません(笑)。

『うたの心に生きた人々』は、平成6年(1994)、ちくま文庫の一冊として刊行されました。元版は昭和42年(1967)、さ・え・ら書房さんから出ています。与謝野晶子、光太郎、山之口貘、金子光晴の4人の評伝集です。元々ジュニア向け的なところもあり、平易な語り口ですが、おさえるべきところはきちんとおさえ、入門編としては好著です。

光太郎の項の扉には「日本の詩に新しい道をひらき、「現代詩の父」とあおがれながら、戦争賛美詩も書いたが悪びれず反省し責任を負った古武士のような詩人。」とあります。言い得て妙、ですね。
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ちくま文庫版は絶版のようですが、童話屋さんでは、『うたの心に生きた人々』を、取り上げられた4人それぞれ1冊ずつの分冊として刊行しています。光太郎の巻は『智恵子と生きた-高村光太郎の生涯-』というタイトルです。

さて、講座「現代の詩と詩人」、お近くの方、ぜひどうぞ。

余談になりますが、今週木曜には、当方も市民講座講師を仰せつかっております。埼玉県東松山市の「きらめき市民大学」さんというところでのクローズドの開催なので、一般の方はご参加いただけません。同市の教育長を永らく務められた故・田口弘氏が生前の光太郎と交流があり、そのご縁で、同市と光太郎、さらに彫刻家・高田博厚との関係でお話をさせていただいております。毎年生徒さんが変わるということで、ほぼ同じ内容。楽をさせていただいて申し訳ないのですが(笑)。

他の自治体さん、各種団体さん、日程さえ合えば(さらに交通費くらいは出していただければ(笑))光太郎に関する講座講師、お受けいたしますので、コメント欄等からご連絡下さい。

【折々のことば・光太郎】

北川太一氏来訪の由、抹茶、玉露、菓子「老松」等もらふ、


昭和28年(1953)5月6日の日記より 光太郎71歳

当会顧問であらせられた故・北川太一先生。この頃は日本橋にお住まいだったはずですが、なぜか京都の銘菓「老松」をご持参。京都へ行かれるご用事でもあって、京土産だったのでしょうか。

日本最大の古書市、「七夕古書大入札会」。都内の古書籍商の皆さんで作る明治古典会さんが主催で、我々一般人は加盟店さんに依頼、入札するシステムとなっています。一昨年はコロナ禍のため、中止。昨年は規模を大幅に縮小しての開催でした。

出品された品の基本的に全品を手にとって見ることが出来る一般下見展観が行われます。ただ、どうも昨年同様、かつての規模ではないような感じです。

七夕古書大入札会2022 一般下見展観

期 日 : 2022年7月8日(金)・7月9日(土)
会 場 : 東京古書会館 東京都千代田区神田小川町3-22
時 間 : 7/8 10:00~18:00  7/9 10:00~16:00
料 金 : 無料
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一昨日でしたか、ネット上に出品目録が出、拝見。驚きました。今年は光太郎の肉筆等が出品されていません。当方、昭和の終わり頃からの、冊子になった目録をほぼすべて入手していますが、毎年、光太郎の書幅やら書簡やら署名本やら、何かかんかは必ず光太郎の肉筆物が出品されていました。時には『高村光太郎全集』未掲載の書簡等が出ている年も。逆に、以前から古書店さんが在庫として持っていたものだけで、目新しい物はなかったという年もあれば、とんでもないニセモノが掲載されていた年もありましたが、それにしても光太郎の名がないという年はありませんでした。当方が冊子目録を入手していない年もありますので、その中で掲載がなかった年もあったかもしれませんが。

規模が大幅に縮小された昨年ですら、複数の出品があったのですが、まぁ、光太郎の名が忘れられてしまって……というわけではなく、たまたまだと信じたいところです。

その中でも、一応、光太郎に関わるものをご紹介します。

まず、光太郎が題字を揮毫した中原中也の詩集『山羊の歌』。やはり光太郎と交流のあった堀口大学宛ての献呈署名が入っています。ビッグネームからビッグネーム宛てということで、そこそこの価格になっていますね。
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それから、昨年亡くなった篠田桃紅さんの書。
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過日、BS松竹東急さんでテレビ放映して下さった、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん丹波哲郎さん主演)の題字です。
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上記画像は公式パンフから。
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こちらは映画の冒頭。ところが、よく見ると一致しません。篠田さん、横書きのバージョンと、縦書きのそれと、二種類書かれたようです。今回の出品物はパンフレットなどに使われた横書きのもの、映画冒頭のものは、他にポスターなどにも使われたもので、縦書き、というわけです。
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今回の出品物には光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節を書かれたものも。こちらの筆跡は初めて拝見しました。

篠田さんの回顧展的な展覧会、すでに複数回開催され(現在も虎ノ門の菊池寛実記念 智美術館さんで開催されています)が、この「智恵子抄」題字は出品されないなぁ、と思っていたら、まさか売りに出されるとは、という感じでした。

ところで、七夕古書大入札会。存命の人物に関わるものはほとんど出品されません。かつて吉本隆明氏が亡くなった後、草稿やらが結構出るようになり、改めて「ああ、吉本氏も亡くなったんだなぁ」と思いましたが、今回もそんな感じでした。いずれ瀬戸内寂聴さん、高良留美子さん、半藤一利さん、西村賢太さんあたりのものが出て来るようになるのでは、と思っております。

当方、9日(土)に観て参ります。目録に載っていない追加出品で光太郎関連が出ることも有り得ますし、他の文豪のものすごいものの出品はありまして、それが手にとって見られる機会です。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

春子さんより速達にて稔氏胃潰瘍の由、夜十時電報、今日午后八時半死去の由、

昭和28年(1953)4月27日の日記より 光太郎71歳

春子さん」は、看護師の資格を持つ智恵子の姪で、南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期を看取った宮崎(旧姓・長沼)春子です。「稔氏」は詩人の宮崎稔。光太郎が取り持って春子と結婚しました。その後、光太郎生前最後の詩集『典型』の編集などに当たっています。深酒がたたっての胃潰瘍、そして死でした。

当会の祖・草野心平が愛した祭です。

第57回天山祭り

期 日 : 2022年7月9日(土)
会 場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
         雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 午前10時~12時
料 金 : 500円

 「天山祭り」について、今年度57回目の天山祭りを開催する運びとなりました。これもひとえに皆様方の御指導、御支援によるものと深く感謝申し上げます。
 今年度は、感染対策を徹底しつつ、村内外の方を招き、草野心平先生を偲ぶ祭りといたしますので、万障繰り合わせのうえ、御参加いただきますようご案内申し上げます。

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当方、4回ほど参加させていただきました。

蛙を愛した心平と、モリアオガエル繁殖地である川内村さんがマッチングし、村では心平を名誉村民に認定して下さり、さらに村に別荘まで建てて下さいました。それが会場となっている天山文庫。心平は厖大な蔵書をこちらに寄贈しました。こちらの建設委員には、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周も名を連ねました。

コロナ禍以前は、心平詩の朗読、郷土芸能の披露などが行われ、名物のイワナなどが饗されていました。また、東日本大震災後は、震災からの復興を確認するという意味合いも含まれるようになっています。

しかし、コロナ禍。一昨年は中止となり、昨年は福島県内にのみ参加者を募って、こぢんまりと開催。
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昨年の写真です。左は親しくさせていただいている遠藤雄幸村長。

そして今年は、ほぼ旧に復するようです。ただ、やはり感染対策の一環として、食事の提供はありません。

当方、最後に行ったのが令和元年(2019)でして、久々にお伺いしたかったのですが、先約(「癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い CD発売記念コンサート in矢来能楽堂」)があり、残念です。まぁ、来年以降も続くと思いますので、次の機会を、と思っております。

天山文庫、そして川内村自体、実にいいところです。ご興味のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

一時頃NHKより熊谷さん、摩尼さん、写真班、録音技師等レコーダー持つてくる、九分づつ三回分録音、十三、十四、十五日朝六時40分より、


昭和28年(1953)4月11日の日記より 光太郎71歳

光太郎がかつて翻訳した「ロダンの言葉」についてのラジオ放送に関わります。内容等詳細が不明なのですが、光太郎が「ロダンの言葉」について語ったのか、もしかすると光太郎自身が朗読したのか、そんなところと思われます。残念ながらNHKさんに音源が残っていないようです。

どうもネタ不足に陥りつつありまして、昨日もご紹介した紫陽花ネタでもう1日、引っ張らせていただきます。

昨日は、紫陽花がモチーフの智恵子紙絵を原画とした神戸文化ホールさんの巨大壁画についてでしたが、光太郎詩にも紫陽花が謳われているものがあります。ただし、花が枯れてしまってからの様子ですが……。

   未曾有の時
戦時アトリエ前ピン
 未曾有の時は沈黙のうちに迫る。
 一切をかけて死んで生きる時だ。
 さういふ時がもう其処に来てゐる。
 迫り来るものは仮借せず、
 悠久の物理に無益の表情はない。
 吾が事なほ中道にあり、
 世の富未だ必ずしも餓莩(がへう)を絶つに至らず、
 人みな食へないままに食ひ
 一寸先きの闇を衝いて生きる日、
 枚(ばい)を銜んで迫り来るものは四辺に満ちる。
 既に余が彫蟲の技は余を養はず、
 心をととのへて独り坐れば
 又年が暮れて歴日はあらためられる。
 巷に子供ら声をあげて遊びたはむれ、
 冬の日は穏かにあたたかく霜をくづし
 紫陽花の葉は凋み垂れて風雅の陣を張り、
 山雀は今年もチチと鳴いて窓を覗きこむ。
 すべて人事を超えて窮まる処を知らない。
 さればしづかに強くその時を邀(むか)へよう。
 一切の始末を終へて平然と来るを待たう。
 悉く傾けつくして裸とならう。
 おもむろに迫る未曾有の時
 むしろあの冬空の透徹の美に身を洗はう。
 清らかに起たう。
 
昭和12年(1937)12月の作品で、翌年の『中外商業新聞』に発表されました。一読し、身辺に大きな変化が訪れているけれど、決意を新たに頑張ろう、的な内容に読めます。

この年は日中戦争が勃発した年なので、その意味では生活も大きく変わった部分があったと思われます。そして、そうした外的環境もさることながら、光太郎の内面も大きく変わりつつありました。その要因は、智恵子。この時期、智恵子は「値(あ)ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)となり、南品川ゼームス坂病院で紙絵を作り続ける毎日でした。
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   値(あ)ひがたき智恵子

 智恵子は見えないものを見、
 聞えないものを聞く。

 智恵子は行けないところへ行き、
 出来ないことを為る。

 智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
 わたしのうしろのわたしに焦がれる。

 智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
 限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

 わたしをよぶ声をしきりにきくが、
 智恵子はもう人間界の切符を持たない。

智恵子をこうしてしまった原因の一つは、「芸術家あるある」で、俗世間とは極力交渉を絶つ生活にもあったのではないかと、光太郎は反省します。そしてそうした生活を続けていては、自分もおかしくなるかも、と考えた可能性もあります。

   美に生きる

 一人の女性の愛に清められてseisaku
 私はやつと自己を得た。
 言はうやうなき窮乏をつづけながら
 私はもう一度美の世界にとびこんだ。
 生来の離群性は
 私を個の鍛冶に専念せしめて、
 世上の葛藤にうとからしめた。
 政治も経済も社会運動そのものさへも、
 影のやうにしか見えなかつた。
 智恵子と私とただ二人で
 人に知られぬ生活を戦ひつつ
 都会のまんなかに蟄居した。
 二人で築いた夢のかずかずは
 みんな内の世界のものばかり。
 検討するのも内部生命
 蓄積するのも内部財宝。
 私は美の強い腕に誘導せられて
 ひたすら彫刻の道に骨身をけづつた。

こちらは戦後、戦時中の戦争責任を含め、自らの半生を省みて作られた連作詩「暗愚小伝」中の一篇。昭和22年(1947)の作です。

「これではいかん」というわけで……

   最低にして最高の道
 無題
 もう止さう。
 ちひさな利慾とちひさな不平と、
 ちひさなぐちとちひさな怒りと、
 さういふうるさいけちなものは、
 ああ、きれいにもう止さう。
 わたくし事のいざこざに
 見にくい皺を縦によせて
 この世を地獄に住むのは止さう。
 こそこそと裏から裏へ
 うす汚い企みをやるのは止さう。
 この世の抜駆けはもう止さう。
 さういふ事はともかく忘れて
 みんなと一緒に大きく生きよう。
 見えもかけ値もない裸のこころで
 らくらくと、のびのびと、
 あの空を仰いでわれらは生きよう。
 泣くも笑ふもみんなと一緒に
 最低にして最高の道をゆかう。

こちらは智恵子没後の昭和15年(1940)の作ですが、最初に引用した「未曾有の時」にも通じる内容ですね。しかし、「みんなと一緒に」という方向に梶をきったものの、その「みんな」が「戦争」という狂瀾怒涛に呑み込まれて行き、さらには光太郎自身、その旗振り役とならざるを得なくなってしまったというのが、大いなる悲劇でした。

さて、紫陽花。

昨日は、神戸文化ホールさんの巨大壁画に原画として使われた智恵子紙絵をご紹介しましたが、他にも紫陽花をモチーフにした紙絵が存在します。上の「値(あ)ひがたき智恵子」の脇に載せたもの(『紙絵と詩 智恵子抄』昭和40年=1965初版 伊藤信吉 北川太一 髙村規編 社会思想社現代教養文庫の表紙に使われました)も「おそらく紫陽花でしょうし、下記の紙絵も「あじさい」の題が付けられています。
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いい感じですね。

ところで紫陽花。

昨日、御朱印マニアの妻と共に、茨城県潮来市の寺院に行って参りました。近年、「あじさい寺」として有名になってきた「二本松寺」という寺院です。智恵子の故郷、二本松とは無関係のようですが、変わった寺号ですね。

平成20年(2008)ごろから、ご住職がコツコツ紫陽花を増やし、目標1万株を達成、「あじさいの杜」として有料公開を始めて、テレビ等でも紹介されるようになりました。昨日も盛況。当方らはまだすいていた午前中に訪れましたが、帰る際には駐車場待ちの車で渋滞が発生していました。
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1万株、たしかに見応えがありました。
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さらにすごいと思ったのは、近年開発されたと思われる、いろいろな紫陽花が多いこと。「こんな紫陽花があるのか」的な。
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本堂付近には、紫陽花を使ったオブジェ的なものも。
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流行りの花手水も紫陽花でした。
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智恵子が見たら、さぞ喜んだだろうと思いました。

都心からは遠いのですが、ぜひお越し下さい。

【折々のことば・光太郎】

篠田定吉氏くる、水野君碑の事、

昭和28年(1953)3月7日の日記より 光太郎71歳

水野君」は水野葉舟。明治中期、『明星』以来の親友でしたが、昭和22年(1947)に歿しています。その歌碑を、葉舟の移り住んだ千葉成田の三里塚に立てる計画が持ち上がり、その件でしょう。「篠田定吉」は三里塚にほど近い印旛郡宗像村(現・印西市)在住の人物で、戦前から光太郎と面識がありました。

のちに歌碑の建設が具体化した頃、光太郎に碑面揮毫の依頼がありましたが、折悪しく健康がすぐれず断念、代わりに窪田空穂が筆を執りました。

通販サイト・フェリシモさんで販売している「日本近現代文学の世界に浸る 文学作品イメージティー」。全4セット、月イチで1セットずつ届くシステムになっています。注文したところ、まず4月分として「中島敦 著『山月記』× 虎に還るように色が変化するお茶」が届き、続く5月分でお目当ての「高村光太郎 著『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶」が届きました。予定では5月中旬には届くはずが、品切れ状態だったそうで、月末にずれ込みました。
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文庫本サイズのケースに、ティーバッグ17個入り(「Tバック」ではありません(笑))。
003
早速、賞味。「中島敦 著『山月記』× 虎に還るように色が変化するお茶」は、青い紅茶(矛盾していますが(笑))で、ヴィジュアル的にインパクトがありましたが、こちらはいたって普通の色です。しかし、商品説明に「はじけるように香りが立ち上る、新鮮なレモンをトッピング」とあり、「ああ、確かにレモンティーだ」。最初からレモンピール(皮を粉末にしたもの)が混ぜてあるわけです。
004
まぁ、それだけなのですが(笑)、それでも高級な茶葉を使ってはいるんだろうな、というのは分かりました。当方、基本的には珈琲党なのですが。ただ、もしかすると「ドイツ製」というのに惑わされているのかもしれませんが(笑)。

言わずもがなですが、『智恵子抄』に収められ、南品川ゼームス坂病院での智恵子の臨終を謳った「レモン哀歌」(昭和14年=1939)由来です。

  レモン哀歌 005
 
 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズいろの香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう

レモンについては、翌年に書かれた随筆「智恵子の半生」の中で、このようにも書いています。

 私自身は東京に生れて東京に育つてゐるため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず、彼女もいつかは此の都会の自然に馴染む事だらうと思つてゐたが、彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかつた。彼女は東京に居て此の要求をいろいろな方法で満たしていた。家のまはりに生える雑草の飽くなき写生、その植物学的探究、張出窓での百合花やトマトの栽培、野菜類の生食、ベトオフエンの第六交響楽レコオドへの惑溺といふやうな事は皆この要求充足の変形であつたに相違なく、此の一事だけでも半生に亘る彼女の表現し得ない不断のせつなさは想像以上のものであつたであらう。その最後の日、死ぬ数時間前に私が持つて行つたサンキストのレモンの一顆を手にした彼女の喜も亦この一筋につながるものであつたらう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗はれてゐるやうに見えた。
(略)
 百を以て数へる枚数の彼女の作つた切紙絵は、まつたく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛憐の情の訴でもある。彼女は此所に実に健康に生きてゐる。彼女はそれを訪問した私に見せるのが何よりもうれしさうであつた。私がそれを見てゐる間、彼女は如何にも幸福さうに微笑したり、お辞儀したりしてゐた。最後の日其を一まとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑ふ表情をした。すつかり安心した顔であつた。私の持参したレモンの香りで洗はれた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去つた。昭和十三年十月五日の夜であつた。


これ以前のかなり早い時期から、駒込林町の光太郎アトリエではレモンが使われていました。詩人・歌人の上田静栄の回想から。上田は智恵子の親友・田村俊子の弟子でした。

 ひろい東京に田村御夫妻の他に知人もない私にとつて、あのアトリエの雰囲気と(高村)御夫妻の様子は東京のすべてを代表してゐるやうに魅力のあるものに思はれた。智恵子夫人をいたはりながら客の間をとりなされる高村先生の態度が、いかにも男らしく優雅なものに見えて深く心に残つた。(田村)女史のお相手に夫人は静かに椅子にかけられたまま、高村先生がアトリエの北のすみの水屋にたたれて、レモンの浮いた冷たい飲み物をつくつてみなにすすめられた。たけの高いハイカラなガラスのコツプで、散歩のあとなのでとても美味しく頂いた。
(未定稿「美しき思ひ出の人びと」昭和34年=1959頃 『歌文集 こころの押花』昭和56年=1981所収)

これが大正4年(1915)頃のことです。光太郎智恵子が結婚披露を行ったのが大正3年(1914)ですので、まだ新婚の時期です。レモンは明治の早い時期に日本へ輸入されていましたが、それにしてもシャレオツですね。

さて、「『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶」。「室生犀星 著『蜜のあわれ』× 燃えている金魚のように赤いお茶」、「江戸川乱歩 著『孤島の鬼』× 宝石より魅力的なチョコレートの紅茶」、「中島敦 著『山月記』× 虎に還るように色が変化するお茶」との4点セットで、月イチでの送付(順番はフェリシモさん任せ)です。単価は1セット税込み1,980円。

先月、朗読イベントとコラボした企画で、大正浪漫喫茶­秋葉原和堂さんが『文豪達のティータイム -日本近現代文学の世界へ-』を開催し、オリジナルコラボフードとのセットでの販売も行われました。光太郎に関しては「高村光太郎のレモンケーキ~ざくろゼリー添え~」。そちらも結構な入りだったようで、一時、紅茶は品切れでした。そこで当方自宅兼事務所に「『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶」が届いたのは予定より遅れたのですが、品切れ状態も解消されたようです。

オンラインで注文可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

晴、 午前モデル、 午后石炭一トン来る、


昭和28年(1953)2月6日の日記より 光太郎71歳

石炭」はストーブ用です。

戦前、駒込林町のアトリエでは、粘土の凍結防止のためにストーブを焚き続け、それを詩「金」(大正15年=1926)では「工場の泥を凍らせてはいけない。/智恵子よ、/夕方の台所が如何に淋しからうとも、/石炭は焚かうね。」と謳っていました。「工場」はアトリエ、「」は粘土です。喰うものを喰わなくても石炭に「金」を使うのだという宣言です。「智恵子抄」が嫌いだ、という人の中には、こういう光太郎の身勝手さが我慢ならない、という意見もあるようです。

戦後のこの時期は、どちらかというと粘土の凍結防止よりも、モデルにヌードになってもらうためということで、ストーブをガンガン焚いていたようです。光太郎自身は七年に及ぶ花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活で、マイナス20度の世界に耐え抜いていましたので。

それにしても「トン」単位で石炭を買うというのも凄い話ですね(笑)。

注文しておいたDVDが届きました。

今年1月に公演があった、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団さんの第146回定期演奏会ライヴです。
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新実徳英氏に委嘱作曲の「愛のうた ― 光太郎・智恵子 ―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」、初演が含まれています。
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楽譜が1月に全音さんから出版されており、購入。メロディーなどはこんな感じかというのは何となく分かっていましたが、実際の演奏を聴いてみるとやはりいろいろ発見がありますね。普通は「百聞は一見にしかず」ですが、音楽に関しては「百見は一聞にしかず」。楽譜を見ているだけではわからないことだらけでした。

ステージに上がった合唱団員は50名ほど。オケはオケの編成としては少なめで、サブタイトルに「フルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」とあるとおり、管はフルートとクラが1本ずつのみ。トランペットやらトロンボーンやらの金管は入っておらず、打も入っていません。合唱50人に対しては、この位の編成が適正なのでしょう。大編成でわちゃわちゃやる「第九」のような曲でもありませんし。もっとも、「第九」は合唱曲としてとらえるとかなり異端なのですが。
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全6曲中の1曲目、「山麓の二人」。通常、「智恵子抄」を組曲にする場合、最初は光太郎と智恵子が出会った頃や智恵子がまだ健康だった頃の詩(「人に」とか「あどけない話」とか)をテキストにする例が多いのですが、いきなり「わたしもうぢき駄目になる」。不安を煽るような曲想で、「この組曲全体で作られるのは、甘ったるい情調本意の世界観ではないんだぞ」と宣言しているかのようでした。
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2曲目、「千鳥と遊ぶ智恵子」。1曲目と較べると、九十九里浜の色鮮やかな初夏の風景、その一部と化した智恵子が描かれているだけあって、陽の光を感じさせるような明るい感じの部分も。それでもフルートやテノールのソロで表現される千鳥の鳴き声が、もの哀しさを湛えています。
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続く「値がたき智恵子」。もはや完全に夢幻界の住人となってしまった智恵子。ア・カペラの歌から始まり、すぐ歌なしのオケ。それが掛け合いのように繰り返され、やがて中間部では渾然一体に。終盤、またア・カペラの部分も。
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「間奏曲-悲しみの淵へ-」。歌詞はなく、歌が入るところはヴォカリーズです。言葉に出来ない光太郎の思い、というイマジネーションでしょうか。
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そして智恵子の臨終を謳った「レモン哀歌」。ドラマとしてはヤマ場の部分ですが、全体に抑制され、訥々とした光太郎のモノローグといった感がありました。ところどころ激しい部分もありましたが。高音二声が「智恵子はもとの~智恵子となり~」とやっている裏でバリトンとベースが「智恵子~智恵子、智恵子」と連呼するなど、「なるほど」と思いました。最後も「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」の後にトゥッティーで「智恵子~」。同じ手法は最後の「元素智恵子」でも使われていました。
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光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を送っていたイメージ。諦念も感じさせつつ軽快な8分の6拍子が基本。特にこの曲ではクラが効果的に使われているように感じました。最後は長いヴォカリーズのあと、やはり原詩にはない「智恵子智恵子智恵子ー」。この程度の詩の改変はありでしょう。
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作曲の新実氏がステージに上がり、指揮の佐藤正浩氏とのトーク。
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光太郎智恵子に関する話がほぼなかったのが残念でしたが……。

DVDとブルーレイ、送料込みで5,000円。映像無しのCDは同じく3,000円です。オンラインで注文可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

大宮工作所より回転台、心棒届く、板も届く、 小坂さんくる、とりつけ夕方になる、

昭和28年(1953)1月24日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために移り住んだ東京中野の貸しアトリエに、彫刻用回転台の部品が届けられました。部品は前年から届いてはいましたが、この日で全て揃い、組み立てたようです。

回転台は、平成30年(2018)、
十和田湖観光交流センター「ぷらっと」さんに寄贈された、戦時中の高射砲の台座を改造した大きなもの。手配をしたのは助手を務めた小坂圭二でした。
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先週の『北海道建設新聞』さん、一面コラムから。

透視図 2022年05月25日

友だちとはいつも一緒にいて、仲良く笑い合える関係と考える人がほとんどでないか。詩人の高村光太郎は少し違ったらしい。「友よ」という作品にそれが示されていた▼後段の一節を引く。「友とは同じ一本の覚悟を持つた道づれの事だ 世間さまを押し渡る相棒だと僕を思ふな 百の友があつても一人は一人だ 調子に乗らずに地でゆかう お互にお互の実質だけで沢山だ その上で危険な路をも愉快に歩かう」。岸田首相が23日、日本を訪れたバイデン米大統領と会談したとの報に触れ、その詩を思い出した。同盟関係とはまさにそういうものだろう。戦争の抑止と平和維持のために、それぞれが応分の責任を果たす。ただの仲良しこよしではない▼どちらかといえば存在感の薄い両首脳だが、会談の内容は濃かったようだ。首相が防衛力の強化と裏付けになる防衛費の増額、「反撃能力」の確保を表明すると、大統領も米国の「核の傘」や通常戦力による「拡大抑止」を約束。強固な同盟関係を印象づけた。日本では小声で語られるのが常だった防衛費の積極的増額や反撃、核といった言葉が、具体性を伴って違和感なく前面に出てきている。ロシアのウクライナ侵略で日本でも戦争の危機を真剣に考える空気が醸成されたからに違いない▼戦争は話し合いで回避できる、防衛問題については議論もしたくないといったいわゆる「お花畑」論的反発が今回大きくないのも事情は同じだろう。戦争を前提に置かねばならないのは悲しい現実だが、「危険な路を愉快に」歩くには日米同盟の強化が必要である。

引用されている「友よ」は、昭和6年(1931)、前田鐵之助主宰の雑誌『詩洋』に掲載されたもので、当方も好きな詩の一つです。

   友よ

 まづ第一に言つておかう
 僕から世間並の友誼などを決して望むな
 僕は君の栄達などを決して望まぬ
 君のちいさな幸福などを決して祈らぬ
 君は見るだらう
 僕が逆境の友を多く持ち順境の友をどしどし失ふのを
 なぜだらう
 逆風の時に持つてゐた魂を順風と共に棄てる人間が多いからだ
 僕に特恵国は無い
 僕の固定の友は無い
 友とは同じ一本の覚悟を持つた道づれの事だ
 世間さまを押し渡る相棒だと僕を思ふな
 百の友があつても一人は一人だ
 調子に乗らずに地でゆかう
 お互にお互の実質だけで沢山だ
 その上で危険な路をも愉快に歩かう
 それでいいのだと君は思つてくれるだらうか

光太郎数え49歳、ここで言う「」は、特定の人物を想定しているものではないような気がします。この時期の「」といえば、当会の祖・草野心平や、その周辺にいた黄瀛、真壁仁、更科源蔵、猪狩満直、尾形亀之助らの詩人、それからこの年渡欧した彫刻家の高田博厚らが思い浮かびます。それぞれ、確かに「順境」とは言えない人々で、そのすべてに捧げる、という意味合いに読み取れます。「順境」の人々――文壇や美術界でいわゆる「大家(たいか)」となりつつあった人々とは、疎遠とは言わないまでも、一定の距離を置いていたようです。「逆風の時に持つてゐた魂を順風と共に棄てる人間」と感じる人物が実際に複数いたのでしょう。

それにしても、頭の良くない当方などは、バイデン大統領、結局、「YOUは何しに日本へ」と感じているのですが、どうなのでしょうか。「「フミオ」「ジョー」と呼び合う」などとも報道されていますが、どーーーーーーーでもいい気がします(笑)。それこそ「お互にお互の実質だけで沢山だ」です。
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まぁ、小学校での銃乱射事件を受けて「教師に銃を」とスピーチした前大統領より100倍マシだと思います(笑)。「教師に銃を」発言を批判するのも「お花畑」と言われてしまうかも知れませんが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

好晴、温、午后風、冷、 朝の雑煮と夕食とを中西さん宅によばれ、一同と会食、

昭和28年(1953)1月1日の日記より 光太郎71歳

昭和28年(1953)の元日、光太郎数え71歳となりました。光太郎の命の炎もあと3年と少しです。おそらくそういう自覚があったものと思われ、この時期に手がけていた生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、異例の速さで完成にこぎつけます。

002ちなみにネット上では「高村光太郎の最後の作品」「完成まで1年余りかかった」という頓珍漢な記述が為され、さらにそれをコピペしてブログ等に引用する人が多くて閉口しています。「最後の大作」であって「最後の作品」ではありません。「最後の作品」は、小品ながら、「乙女の像」除幕式の際に配付された「大町桂月記念メダル」です。また、「完成まで1年余り」かかっていませんし、「1年余りかけるなんて凄い」という文脈は、まるでわかっていませんね。光太郎は一つの彫刻に、最長15年近くかけた例もありました。

中西さん宅」は、光太郎が起居していた貸しアトリエの大家(おおや)だった故・中西利夫宅。貸しアトリエと同じ敷地内で、未亡人の富江夫人、子息らが居住していました。

この年もそうだったかどうか不明ですが、子息らは光太郎からお年玉を貰ったそうで、原稿用紙を折りたたんで作ったポチ袋が中西家に現存しています。

昨日に続き、明日、没後80周年となる与謝野晶子関連で。

『産経新聞』さんのおそらく関西版で、「火に燃えて動きし 与謝野晶子」という特集記事が3回にわたって掲載されました。その第1回では光太郎についても触れて下さっています。

火に燃えて動きし 与謝野晶子  (上)国を愛し家族を愛し まことの心歌い上げ

  激しい恋心を大胆に表現した第1歌集「みだれ髪」で文壇に衝撃を与え、詩や評論、源氏物語の現代語訳など多彩な足跡を残した堺市出身の歌人、与謝野晶子。感じたことを感じたままに、刺激的な表現も辞さなかった創作や言動はときに物議をかもした。文学でも家庭でも、情熱の火を燃やし続けた歌人は、今年が没後80年。命日の29日を前にその足跡をたどってみたい。
※火に燃えて動きし…晶子の代表的な詩「山の動く日」の一節。自立に向け動き出す女性たちを火山にたとえた
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挑戦的な言葉
〈あゝをとうとよ君を泣く/君死にたまふことなかれ〉
多作だった晶子の作品のなかで、夫の与謝野鉄幹が主宰する雑誌「明星」に発表された「君死にたまふこと勿れ」は、最もなじみのある作品といえるだろう。日露戦争に出征した弟・鳳籌三郎(ほうちゅうざぶろう)への思いを詠んだ長詩だ。
  晶子は、堺の実家の和菓子商「駿河屋」を継ぐ立場にあった籌三郎の身を案じる肉親の情をストレートに歌い上げる。
〈旅順の城はほろぶとも/ほろびずとても何事か〉など、国を挙げて戦争に協力する風潮が支配的だった当時の社会に挑戦的ともとれる言葉を重ね、論争を巻き起こしたことは有名だ。
 明治・大正期の詩人で評論家の大町桂月(1869~1925年)は「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと言ふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判。危険思想と評して晶子を攻撃した。
 これに対し、晶子は明星で発表した反論文「ひらきぶみ」の中で、戦地に赴く兵士を駅で見送る親兄弟たちが大声で万歳を叫ぶ一方で、気を付けて無事帰るよう伝える場面も見られることを挙げ「彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候」とした。
 論争は鉄幹らが桂月宅に直接出向いて会見し、桂月が攻撃の矛を収めたことで決着した。出征していた籌三郎は帰還し、のちに家業を継いでいる。

思いを率直に
 反戦・非戦の詩として語られることの多い「君死にたまふこと勿れ」。ただ、与謝野晶子記念館(堺市)の矢内一磨学芸員は「戦争賛成か反対かといった単純な色分けでは理解できない」と指摘する。
 晶子と交流のあった文学者たちも「反戦でも何でもない。ただ弟に生きて帰れと言っただけなんだ」(高村光太郎)、「戦争否定の詩とか平和主義の詩とか読む現代の流行は、当年それを乱臣賊子の詩と読んだ人があつたのと同様に読む者の勝手であらう。しかしそのどちらも同じやうに作者晶子にとつては恐らく迷惑な事であらう」(佐藤春夫)など、懐疑的な見方を示していた。
 「ひらきぶみ」では「この国に生れ候私は、(中略)この国を愛で候こと誰にか劣り候べき」と愛国の心を強調。明治天皇の崩御の際には嘆き悲しむ心情を詠み、太平洋戦争中の昭和17年、四男の出征では「水軍の大尉となりてわが四郎 み軍(いくさ)に往く 猛く戦へ」と鼓舞する短歌を歌っている。
  矢内氏は「戦争肯定か反対か、でわける考え方は一見わかりやすいが、そこで思考停止に陥ってしまい、晶子の本質をとらえられなくなる恐れがある。そのときどきに感じた思いを率直に表現するのが晶子の作風」と話す。その心を晶子はこう表現する。「歌は歌に候。(中略)まことの心を歌ひおきたく候」(ひらきぶみ)

認め合った2人
 論争では敵役に回った桂月だが、晶子の才能を認め、もり立てた理解者でもあった。
 民俗学者で歌人・釈迢空としても知られた折口信夫(1887~1953年)は、晶子への追悼文で「晶子さんをあれだけの人として(中略)相当早い時期に認めたのは大町桂月さんでした」と寄せている。
 旅と酒を愛し、多くの紀行文を残した桂月は大正14年に死去。晶子は新聞「横浜貿易新報」(神奈川新聞の前身)でその死を深く悼んだ。
 「今思ひ出すと、当時私のやうな者を眼中に置いて下さつた先生の厚意を感謝したい。猶お目に掛るたびに先生が私の歌を褒めて激励して下さつたことも永く忘れることが出来ない」。桂月は晶子の才能を愛し、晶子もその恩を忘れることはなかった。

堺に残る歌碑の数々
 明治34年6月、与謝野晶子は生まれ育った堺を後に上京し、恋心を募らせていた歌の師、鉄幹のもとへ走った。歌集「みだれ髪」にそのときの心情を伝える一首がある。
  〈狂ひの子われに焔(ほのお)の翅(はね)かろき百三十里あわただしの旅〉(恋に狂った私は炎でできた羽をつけ百三十里を飛んでいく。あわただしい旅…)
 その後、鉄幹との新生活をスタートさせた晶子だが、結婚に反対していた兄、鳳秀太郎とは絶縁状態になるなど、失ったものも大きかった。晶子の長男、光の回想によれば晶子の父、鳳宗七が死去した際、喪主だった秀太郎は葬儀のために堺に戻ってきた晶子の参列を拒否したという。
〈古さとの小さき街の碑に彫られ百とせの後あらむとすらむ〉(故郷で私の歌は碑に彫られ、100年後にもあり続けるでしょう)
 自分を歓迎しない故郷への複雑な感情が詠ませた歌だろうか。しかし、ふるさとは晶子の歌をたたえる。与謝野晶子記念館によると、晶子の歌碑は堺市内だけで26基を数えるという。自分の心情に忠実に生きた晶子の文学が持つ魅力ゆえなのかもしれない。

よさの・あきこ 1878~1942年。堺県堺区甲斐町(現・堺市)に生まれる。明治31年、与謝野鉄幹の短歌に刺激を受け、本格的に歌作に開眼。33年、鉄幹の東京新詩社に参加し「明星」で短歌を発表した。34年、歌集「みだれ髪」を出し、鉄幹と結婚。近代日本の浪漫主義を代表する歌人として多くの作品を残した。婦人問題・教育問題など時事評論の分野でも積極的な発言を続けた。

  君死にたまふこと勿れ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)

 あゝをとうとよ君を泣く
 君死にたまふことなかれ000
 末に生れし君なれば
 親のなさけはまさりしも
 親は刃をにぎらせて
 人を殺せとをしへしや
 人を殺して死ねよとて
 二十四までをそだてしや

 堺の街のあきびとの
 旧家をほこるあるじにて
 親の名を継ぐ君なれば
 君死にたまふことなかれ
 旅順の城はほろぶとも
 ほろびずとても何事か
 君知るべきやあきびとの
 家のおきてに無かりけり

 君死にたまふことなかれ
 すめらみことは戦ひに
 おほみづからは出でまさね
 かたみに人の血を流し
 獣の道に死ねよとは
 死ぬるを人のほまれとは
 大みこゝろの深ければ
 もとよりいかで思されむ

 あゝをとうとよ戦ひに
 君死にたまふことなかれ
 すぎにし秋を父ぎみに
 おくれたまへる母ぎみは
 なげきの中にいたましく
 わが子を召され家を守り
 安しと聞ける大御代も
 母のしら髮はまさりけり

 暖簾のかげに伏して泣く
 あえかにわかき新妻を
 君わするるや思へるや
 十月も添はでわかれたる
 少女ごころを思ひみよ
 この世ひとりの君ならで
 あゝまた誰をたのむべき
 君死にたまふことなかれ
    「明星」明治37年9月号

君死にたまふこと勿れ」。記事にあるとおり、発表時に大町桂月らによってバッシングにあったことは有名ですが、桂月が「晶子の才能を認め、もり立てた理解者でもあった」というのは存じませんでした。

桂月といえば、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、元々、十和田湖周辺の国立公園指定15周年を記念し、十和田湖の観光開発等に功績のあった桂月、元青森県知事・武田千代三郎、地元の村長だった・小笠原耕一の三人を顕彰するモニュメントとして作られたものでした。

そこで光太郎、「君死にたまふこと勿れ」バッシングを念頭に、

僕は若い頃大町さんに怒鳴られたりなんかして、よく知つてゐるんだから、貴様こんなものを立てたといつて怒られるだらうといふ事が、頭に出て来て、それでどうも弱つたんです。
(座談「自然の中の芸術」 昭和29年=1954)

と発言しています。

どういうシチュエーションで光太郎が桂月に怒鳴られたのかは不明ですが、桂月にしてみれば、光太郎は「非国民」与謝野晶子の生意気な弟分、という感覚があったのかも知れません。

それにしても「君死にたまふこと勿れ」、現代のロシアの女性たちも同じようなことを考えている、と信じたいものです。「すめらみこと」ならぬ「大統領」は「戦ひに おほみづからは出でまさね」ですから。

「火に燃えて動きし 与謝野晶子」、この後、「(中)コロナの〝失政〟100年前に見通していた晶子」「(下)「源氏物語」現代語訳の先駆け 小林一三ら財界人が支援」と続きます。長いので割愛しますが、晶子のエネルギッシュな活動ぶりに改めて感心させられました。

【折々のことば・光太郎】

花巻の阿部博氏よりリンゴ一箱届く


昭和27年(1927)12月27日の日記より 光太郎70歳

阿部博氏」は花巻の林檎農家。宮沢賢治の教え子でもあります。かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋にも足繁く通っていました。帰京後もリンゴを送ってくれ、東京の店頭で売られているリンゴが不味いと感じていた光太郎は感謝していました。


明後日、5月29日(日)は、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の忌日「白桜忌」です。晶子は昭和17年(1942)に亡くなりましたので、今年は没後80周年ということになり、例年よりも注目が集まっているように感じます。

角川文化振興財団さん発行の雑誌『短歌』。東京大学教授の坂井修一氏による評論「かなしみの歌びとたち」という連載が一昨年から為されていますが、今年4月号5月号の記事をご紹介します。
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まず4月号。副題は「『白櫻集』の残したもの」。晶子の遺作歌集にして、晶子没年の昭和17年(1942)9月刊行の『白櫻集』を中心に据えられています。

『白櫻集』、序文を光太郎と有島生馬が書いています。
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晶子には弟子もたくさんいたはずですが、それらを差し置いて遺稿集の序文を光太郎、有島生馬が書いているというのが意外といえば意外です。確かに光太郎はこの時点では晶子と直接交流があった人物の中では「重鎮」の部類だったかも知れませんが……。ただ、仮にそこで弟子筋から文句が出たとしても、それを黙らせるに足る、本質を突いたいい文章ですね。

坂井氏、この光太郎の序文を引きつつ、やはり光太郎同様、晶子がたどり着いた晩年の歌境を高く評価されています。

ちなみに題名の『白櫻集』は、晶子の戒名「白桜院鳳翔晶燿大姉」にちなむとのこと。当方、勘違いしておりました。芥川龍之介の「河童忌」や太宰治の「桜桃忌」同様、先に『白櫻集』ありきで、そこから忌日の「白櫻忌」が命名された、と。

続いて5月号。「近代ならざる近代短歌の意義について」。こちらでは晶子をはじめ、近代歌人の作に「我」や「世俗」はあっても、「市民」という意識が不在だ、という論が展開されています。晶子にしても石川啄木にしても、「市民」意識は短歌より詩や評論などでそれが表されている、と。なるほど、と思いました。

そうした論の中で、晶子が「山の動く日」を寄せた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)の智恵子による表紙絵画像が載っています。ただし、今号には智恵子・光太郎の名は出て来ませんが。

そして『短歌』、既に6月号も出ています。未読ですが、坂井氏、5月号を受け、「市民」を前面に押し出したプロレタリア短歌に言及されているのではないかと思われます。5月号にそういう予告的な一節がありましたので。

「かなしみの歌びとたち」、いずれ単行本化されることを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

藤島氏と二人ニユートーキヨー、東生園、ブロードヱー、日劇、ストリツプ見物、電車でかへる、

昭和27年(1952)12月25日の日記より 光太郎70歳

藤島氏」は、光太郎の身の回りの世話等をしてくれていた詩人の藤島宇内、「ニユートーキヨー」はビアホール、「東生園」は銀座に今も健在の中華料理店です。「ブロードヱー」は浅草の「六区ブロードウェイ」、「日劇」は有楽町にあった劇場です。

ストリツプ」は浅草で見たと思われます。数え70歳(もうすぐ71歳)の光太郎、性的関心というより、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、モデル以外の女体も見ておきたかったということなのでしょう。あるいはそれを言い訳にしてのただのエロジジイだったのかもしれませんが(笑)。

PR誌というか文芸同人誌というか、不思議な雑誌の『とんぼ』。当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書を多数刊行されている文治堂書店さんの発行です。

第14号が過日届きました。
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作曲家・仙道作三氏による北川先生の追悼文「人間の魂を愛し続けた人 北川太一」が掲載されています。仙道氏、平成元年(1989)に、北川先生監修、山本鉱太郎氏台本の「オペラ智恵子抄」を書かれ、都内や光太郎ゆかりの宮城県女川町などで上演されました。その話を根幹に、やはり北川先生が関係なさった「オペレッタ注文の多い料理店」(平成4年=1992初演。公式パンフレットに北川先生の「オペレッタ「注文の多い料理店」に寄せて」という一文)、「オペラ五重塔」(平成7年=1995初演。幸田露伴の『五重塔』を元に、北川先生が台本ご執筆)等についても言及されています。

それから、平成29年(2017)に亡くなった、版元の文治堂書店さん創業者・渡辺文治氏の追悼文「渡辺文治さんのこと」(佐藤博久氏ご執筆)も掲載されています。

ついでに言うなら、当方の連載「連翹忌通信」。前号までは、留学中にアメリカからイギリスへ向けて乗船した船ブロンズ彫刻「手」に関するものなど、新たに発見された光太郎文筆作品等について書いてきましたが、今号からは「もの」の発見に関わる内容で書くことにしました。そこでまず、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、イギリスの染色作家、エセル・メレ作のホームスパン毛布について。あと2年くらいはこの手のネタで攻めようと思っております(笑)。

ご入用の方、文治堂さんのサイトまで。頒価500円だとのことです。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃藤島さん亀井勝一郎氏同道来訪、一時NHKの車にて放送会館、30分間対談放送、一月三日午前十一時半放送の由、(録音)、


昭和27年(1952)12月25日の日記より 光太郎70歳

NHKさんのラジオで放送された、光太郎と諸人物との対談は、この年3月の真壁仁とのもの、昭和30年(1955)の草野心平とのものの録音がNHKさんに残っており、それぞれそこから文字に起こして『高村光太郎全集』に載せてあります。また、平成17年頃、盛岡放送局のアナウンサー(氏名不詳)との対談(昭和24年=1949、何らかの事情で未放送)を録音したテープも見つかり、こちらも文字に起こして北川先生と当方の共編『光太郎遺珠2006』に掲載しました。

ところがこの日の亀井との対談は失われています。亀井側の資料等で、一部分でも文字起こししたものでもあれば、と思うのですが……。

福岡に本社を置く『西日本新聞』さんの一面コラム、先週土曜の掲載分です。

春秋 マスクの「心配り」は外さずに

「青葉若葉に野山のかげろふ時、/ああ植物は清いと思ふ。」。高村光太郎の「新緑の頃」である。山々の粧(よそお)いもぐっと明るくなって、今年もこの詩のような季節が到来した▼今日は二十四節気の一つ「小満」。万物が成長し、生命力がみなぎる時期という。そんなおめでたい時節なら「大満」とすべきなのに、なぜ「小」なのか▼言葉が生まれた中国では、最大限まで行き着くのは慎むべきと考えられた。ピークに達したら後は欠けて、衰えるしかない。完成に向かい進歩する「小」にあえてとどめた、との説がある。昔の中国人は随分と謙虚だったのだろう▼若葉が萌え出でるとともに、マスクがつらい季節になってきた。欧州では、交通機関での着用義務を解除した国もある。世界は「脱マスク」の流れが加速しているようだ▼国内でも「屋外では、会話をしない場合に」などの条件で、不要とする議論も起きている。統一ルールを求める声も出始めた。ただ他国はどうあれ私たちは「和」を重んじる国民性だ。他者へ着用を強いる圧力にならないように、同時に非着用が周囲への不快感を与えないように、心配りだけは外さずにいたい▼冒頭の詩はこう続く。「植物はもう一度少年となり少女となり/五月六月の日本列島は隅から隅まで/濡れて出たやうな緑のお祭。」周りの状況が許せばマスクを取り、さわやかな光に、空気に、緑の祭りを楽しみたい。

引用されている詩「新緑の頃」は、昭和15年(1940)5月6日の作。光太郎詩の中では意外と有名な一篇で、特にこの季節、このように時折、各種朗読や新聞一面コラム等で取り上げられます。

   新緑の頃KIMG6275

 青葉若葉に野山のかげろふ時、
 ああ植物は清いと思ふ。
 植物はもう一度少年となり少女となり
 五月六月の日本列島は隅から隅まで
 濡れて出たやうな緑のお祭。
 たとへば楓の梢をみても
 うぶな、こまかな仕掛に満ちる。
 小さな葉つぱは世にも叮寧に畳まれて
 もつと小さな芽からぱらりと出る。
 それがほどけて手をひらく。
 晴れればかがやき、降ればにじみ、
 人なつこく風にそよいで、
 ああ植物は清いと思ふ。
 さういふところへ昔ながらの燕が飛び
 夜は地蟲の声さへひびく。
 天然は実にふるい行状で
 かうもあざやかな意匠をつくる。

美しい初夏の自然を謳っている詩ではありますが、やはり昭和15年(1940)。日中戦争は泥沼化の様相を呈し、その打開のため、翌年には無謀な太平洋戦争に突入する時期です。そこで「日本の美」を高らかに謳い上げることで、国民の結束をはかろうという意図も見え隠れします。そういう部分を差っ引いて読めば、いい詩ですが。

上の画像は自宅兼事務所の桜の木です。ついでに自宅兼事務所の「新緑」を何枚か。

秋には真っ赤になるコキア。
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過日、碌山美術館さんで購入してきた蕎麦の種がわっと芽を出し、蕾もつけていました。
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植えた覚えもないのに何故か生えている(笑)桑の木。実がなっています。
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紫陽花も蕾が出てきています。
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光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに咲いていた連翹の子孫。かつて毎年、連翹忌の集いには剪って持参していましたが、ここ3年はそれも中止で、伸び放題です。
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そして「新緑の頃」にも謳われた楓。
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植物にはコロナもマスクも関係なく、季節を謳歌していますね。

それにしてもマスク。この国は同調圧力の国ですが、本当に「心配りだけは外さずに」うまく付き合いたいものです。

【折々のことば・光太郎】

青森読売の人くる、彫刻経過を語る、 東奥日報の人くる、同様の話、撮影、

昭和27年(1952)12月22日の日記より 光太郎70歳

彫刻経過」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の進捗状況。

『東奥日報』では、翌年の元日の紙面で記事になりました。
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小見出しにもなっていますが、この中で光太郎が十和田湖の印象を「乙女」と表しています。それが像の通称「乙女の像」の遠因の一つとなった部分もあるような気がします。

朗読CDの新盤です。

朗読喫茶 噺の籠~あらすじで聴く文学全集~あらくれ/詩集「永訣の朝」/金色夜叉

2022年5月18日 噺RECORD 定価2,200円(税込み)

「朗読喫茶 噺の籠 ~あらすじで聴く文学全集~」シリーズは人気・実力を兼ね備える豪華声優陣が、日本近現代の名作文学を原作に、本作の為に書き下ろされたオリジナルあらすじ台本を朗読します。1人の声優が1作品を朗読。1タイトルあたり3作品収録し、一期あたり、6タイトルで全18話の作品を制作します。

あらくれ/徳田秋声       朗読:永塚拓馬
詩集「永訣の朝」/宮沢賢治 他 朗読:森川智之
金色夜叉/ 尾崎紅葉      朗読:葉山翔太
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詩集「永訣の朝」/宮沢賢治 他」の「」が光太郎です(笑)。その他はラインナップに入っていません。だったら「宮沢賢治/高村光太郎」としていただきたかったのですが(笑)。

賢治の「永訣の朝」「無声慟哭」に続き、光太郎詩は「樹下の二人」、「あどけない話」、「風にのる智恵子」、「山麓の二人」、「レモン哀歌」、「亡き人に」。

朗読なさっているのは、声優の森川智之さん。森川さんの言葉がジャケットに印刷されています。

宮沢賢治の詩といえば、私が思い出すのは有名な「雨ニモマケズ」ですが、今回は「永訣の朝」「無声慟哭」となかなかにヘビーなラインナップで、宮沢賢治の魂の叫びを感じながら味わいました。「永訣の朝」の「あめゆじゆとてちてけんじゃ」の方言のところがなかなか難しかったです。宮沢賢治らしい表現が斬新で好きです。また高村光太郎の詩も読ませていただきましたが、智恵子抄の愛の詩がとても切なく、愛情たっぷりな言葉たちが心の中に流れ込みました。芸術家であり、詩人でもある高村光太郎の「智恵子抄」は夫婦の叙事詩的な趣きで、どれだけ強く愛していたのかを思い、その当時に想いを馳せつつ読ませていただきました。是非、この名作を私の朗読で楽しんでください。

気負わず、衒わずの、いい朗読でした。ある意味淡々とした読み方ですが、それが却って自然ですし、余計な色がついておらず、言葉がすんなり入ってきます。

最近、YouTube等に光太郎詩の朗読が続々アップされているのですが、それはそれでありがたいものの、玉石混淆の状態です。「それはあんまりだろ」というものも少なくありません。まずは朗読より漢字の読み方を勉強しようよ、みたいな。そして余計な気負い、衒いがたっぷりで、「さあ! 感動して下さい!」みたいなものも多いのが現状です。

ちなみに昨年には同じシリーズで「朗読喫茶 噺の籠 ~あらすじで聴く文学全集~ 坊ちゃん/耳なし芳一・雪女/詩集「生きる」」がリリースされ、光太郎詩「道程」と「冬が来た」が含まれていました。併せてお買い上げ下さい。

【折々のことば・光太郎】

石膏やさん娘さんを助手にしてくる、夕方ちかく終り、先日とつた分を一体持参、

昭和27年(1952)12月14日の日記より 光太郎70歳

「石膏やさん」は牛越誠夫、道具鍛冶千代鶴是秀の娘婿です。この日とその前に取った石膏は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための小型試作のものでした。小型試作は2体作り、位置関係等を確かめるのにも使ったようです。

昨日は沖縄県の復帰50周年ということで、県と政府による記念式典等が開催されました。

当方、沖縄と光太郎といえば、3篇の詩(うち2篇は光太郎以外の詩人の作品)を思い浮かべます。

まずは光太郎。

太平洋戦争末期の昭和20年(1945)4月1日に書かれ、翌日の『朝日新聞』に掲載された詩です。

   琉球決戦

 神聖オモロ草子の国琉球、
 つひに大東亜戦最大の決戦場となる。
 敵は獅子の一撃を期して総力を集め、
 この珠玉の島うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、
 万座毛(まんざまう)の緑野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)に、
 あらゆる暴力を傾け注がんずる。
 琉球やまことに日本の頸動脈、
 万事ここにかかり万端ここに経絡す。
 琉球を守れ、琉球に於て勝て。
 全日本の全日本人よ、
 琉球のために全力をあげよ。
 敵すでに犠牲を惜しまず、
 これ吾が新機の到来なり。
 全日本の全日本人よ、
 起つて琉球に血液を送れ。
 ああ恩納(おんな)ナビの末孫熱血の同胞等よ、
 蒲葵(くば)の葉かげに身を伏して
 弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、
 猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ
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米軍が沖縄に上陸したのは、まさにこの詩が書かれた4月1日午後4時06分。翌日の『朝日新聞』一面には「沖縄本島に敵上陸」の記事を載せ、社説も「沖縄決戦」のタイトルで書かれました。

その直後の4月7日、連合艦隊旗艦だった戦艦大和以下6隻の艦艇は、沖縄への海上特攻中、鹿児島県枕崎沖の東シナ海で米艦隊と遭遇、撃沈されています。沖縄では非戦闘員を巻き込んだ地上戦は6月23日まで続き、沖縄県民4人に1人が亡くなりました(日本軍の戦死者は11万人)。ただ、その詳細は「本土」で報じられることはあまりなかったようです。

こうした翼賛詩などを恥じ、戦後の光太郎が岩手花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居したことは、これまでもこのブログで触れて参りました。光太郎の胸中に、沖縄の人々などに対する鎮魂の意があったことを信じたいものです。

光太郎、沖縄出身の詩人とも交流がありました。そこで、当方が思い起こす2篇目の詩は、そのうちの一人、伊波南哲(いばなんてつ)が書いた作品、昭和18年(1943)3月作です。

  讃 ・与那国島
    001
 荒潮の息吹にぬれて
 千古の伝説をはらみ
 美と力を兼ね備えた
 南海の防壁与那国島。
 行雲流水
 己の美と力を信じ
 無限の情熱を秘めて
 太平洋の怒濤に拮抗する
 南海の防波堤与那国島。
 宇良部岳の霊峰
 田原川の尽きせぬ流れ
 麗しき人情の花を咲かせて
 巍然とそそり立つ与那国島よ。
 おゝ汝は
 黙々として
 皇国南海の鎮護に挺身する
 沈まざる二十五万噸の航空母艦だ。

伊波は明治35年(1902)、石垣島出身。ただ、大正12年(1923)、数え22歳で上京し、近衛兵となりました。除隊後は警視庁に勤務、そのかたわら詩作に励み、光太郎も寄稿したり題字を書いたりした雑誌『詩之家』(佐藤惣之助主宰)同人となり、光太郎の知遇を得たようです。昭和17年(1942)には光太郎の序文、棟方志功の装幀で『麗しき国土』という詩集を刊行しています。時期が時期だけに、やはり翼賛詩集です。

そしてその翌年に書かれたのが上記の「讃・与那国島」。この詩は早速その年のうちに与那国島に詩碑が作られ、県民の戦意高揚に資することが期されました。意外といえば意外、当然といえば当然ですが、沖縄県民自身もこうした翼賛詩を書いていたわけで……。ちなみに詩碑文を揮毫した人物は、戦後、碑文から自分の名前を削り取ってしまったそうです。

その伊波と同郷で親しかった詩人・山之口貘。伊波より一つ年下の明治36年(1903)生まれです。伊波同様、若いうちに故郷の沖縄を出て上京、ただ、「官」に軸足を置いていた伊波と異なり、ボヘミアン的な詩人でした。ついた職業は数知れず、「貧乏暮らしあるある」が売りでもありました。当会の祖・草野心平主宰の『歴程』同人にも名を連ね、光太郎と共に写っている写真も残っています。下の方に載せておきます。後列左端が山之口、前列中央が光太郎です。

しかし、『高村光太郎全集』に山之口の名は出て来ません。ただ、光太郎歿後になりますが、昭和34年(1959)、『定本山之口貘詩集』が第2回高村光太郎賞(詩部門)を受賞しています。同時受賞が草野天平(心平実弟・故人)、造型部門は豊福知徳でした。

山之口の詩で思い出すのが、以下です。高村光太郎賞受賞前年の昭和33年(1958)、まだ米軍統治下だった沖縄に、33年ぶりで帰郷した際の情景が歌われています。

   弾を浴びた島
001
 島の土を踏んだとたんに
 ガンジューイとあいさつしたところ
 はいおかげさまで元気ですとか言って
 島の人は日本語で来たのだ
 郷愁はいささか戸惑いしてしまって
 ウチナーグチマディン ムル
 イクサニ サッタルバスイと言うと
 島の人は苦笑したのだが
 沖縄語は上手ですねと来たのだ

ガンジューイ」は「お元気でしたか」、「ウチナーグチマディン ムル イクサニ サッタルバスイ」が「沖縄弁まで みんな 戦争に やられたのか」。当時の沖縄の状況の一面が象徴されています。この「ウチナーグチ」の衰微は、50年前の復帰により、さらに加速することになるのですが……。

伊波南哲、山之口貘ときて、さらに言うなら、沖縄ではありませんが同じく南西諸島、昭和28年(1953)まで米軍統治下にあった奄美大島出身の泉芳朗の件も思い出します。

そんなこんなで、復帰50年。ロシアによるウクライナ侵攻もあり、実に色々考えさせられました。

再び「琉球決戦」。

珠玉の島うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、/万座毛(まんざまう)の緑野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)」。「さんばる」のルビは「やんばる」の誤りだと思われますが、この風景描写、伊波や山之口から聞いたものなのかもしれません。

そして「全日本の全日本人よ、/琉球のために全力をあげよ。」「全日本の全日本人よ、/起つて琉球に血液を送れ。」は、基地問題等の解決していない現代の視点から見て、まさにその通りですね。無論、戦争当時の大和のように軍艦を送り込め、という意味ではなく、です。

【折々のことば・光太郎】

午后谷口さんより岡といふ人来り、床下検分、補強方依頼す、 尚床下に人のねてゐたあとあり、中西夫人パトロールに告げ巡査来て調べる、


昭和27年(1952)12月1日の日記より 光太郎70歳

谷口さん」は谷口吉郎。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を含む設置場所一帯の設計を任された建築家です。「谷口さんより」は「谷口さんの事務所より」という意味でしょう。

床下の補強云々は、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエが、元々、水彩画家の中西利雄が建てたもので、「乙女の像」のような巨大彫刻の重量を想定していないと判断されたためです。

その床下に入り込んで寝ていたというのは、現代で言うところのホームレスのような感じでしょうか。

まず『産経新聞』さんの関西版コラムから。

浪速風 言論の自由を考える

ウクライナ侵略でロシアの言論統制・封殺が行われている今だからこそ、注目したい催しがある。「古都・京の記憶に残すべき戦時の日仏交流」。15日にロマン・ロラン研究所(京都市左京区)が、アンスティチュ・フランセ関西稲畑ホール(同)で行うトークと詩の朗読会である
▶ロランは、反ファシズムを貫いたフランスの作家で、高村光太郎、倉田百三らと交友があり、昭和46年、仏文学者の宮本正清(故人)が同研究所を設立した。宮本がロランに共鳴したのは、立命館大教授だった20年6月、京都府警に突然連行され、終戦まで拘束された経験があるからだ
▶反戦思想を持っている疑いだけで拷問され、食事は1日握り飯1個。牢獄では虱(しらみ)による出血でシャツが真っ赤に染まった。そんな日本に二度としないという思いを宮本は詩集『焼き殺されたいとし子らへ』に込めた。会では、その朗読やヱイ子夫人らによるトークが行われる。午後2時から。入場自由。

『産経』さんらしからぬイベントの紹介ですが、詳細は以下の通り。

財団法人ロマン・ロラン研究所設立50周年記念 古都・京の記憶に残すべき 戦時の日仏交流―関西日仏学館―〈トークと詩の朗読〉 

期 日 : 2022年5月15日(日)
会 場 : アンスティチュ・フランセ関西 稲畑ホール 京都市左京区吉田泉殿町8
時 間 : 午後2時~4時
料 金 : 無料

戊辰戦争の始まりである鳥羽伏見の戦いから冷めやらぬ揺れ動く幕末京都、外国人立ち入り禁止の長い眠りから慌ただしく覚めようとしている。時は1868年(慶応4)3月、舞台は京都御所、フランス公使レオン・ロッシュは、じりじりするほど待たされ漸く紫宸殿に招じられた。先帝の急死から即位したばかりの若干16歳、直衣姿の天皇の前にオランダ公使とともに進み出た。これが京都とフランスの交わりの第一歩である。政変混乱のなか、ミヤコにフランスの一粒の種が撒かれ、やがてそのシンボル「関西日仏学館」が誕生。点から線へのタイムトンネルに入ってみませんか。

<トーク>
パネリスト
 加賀美幸子氏 元NHKエグゼクティブアナウンサー(理事待遇)
 ジュール・イルマン氏 在京都フランス総領事、 アンスチティチュ・フランセ関西 館長
 宮本ヱイ子 『京都ふらんす事始め』著者(当研究所理事)
 西成勝好 大阪市大名誉教授(当研究所理事長)
 コーディネーター:和田義之 弁護士(当研究所理事)

<詩の朗読> 
戦時下、関西日仏学館でフランス人教授オーシュコルヌと主事の宮本正清は突然理由なく拘束された。劣悪な警察署で61日間、拷問と生命の危機に晒され敗戦の日を迎え自由の身となる。苦難の歴史が刻まれたフランスのシンボル関西日仏学館の戦時の混乱を記憶すべきであろう。宮本正清(関西日仏学館主事(当時)、ロマン・ロラン研究・翻訳者、研究所設立者)の“戦時のつぶやき”詩集『焼き殺されたいとし子らへ』を読む。
朗読:*加賀美幸子(元NHK 理事待遇のエグゼクティブアナウンサー)
加賀美氏は1963年NHK入局。「女性手帳」「夜7時のテレビニュース」「バラエティー、テレビファソラシド」大河ドラマ「峠の群像」「風林火山」「ラジオ深夜便」「列島縦断 短歌・俳句スペシャル」など報道、教育、教養、情報その他多くの番組を担当。現在も「古典講読」「漢詩を読む」「悩み相談・渋護寺」「ドキュメンタリー」などを担当。「古典講読」は『万葉集』『源氏物語』『枕草子』『平家物語』『徒然草』『奥の細道』など、長年にわたって原文朗読を続けている。著書『こころを動かす言葉』『言葉の心・言葉の力』ほか。高校・中学の国語教科書にエッセイが取りあげられている。NHK会長賞、ダイヤモンドレディー賞、前島(密)賞、徳川夢声市民賞など受賞。「千葉市男女共同参画センター名誉館長」「NPO日本朗読文化協会朗読名誉会長」「放送人の会」理事「公益財団法人長寿科学振興財団」理事「日本文藝家協会員」「NHK文化センター」講師ほか。
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宮本正清。光太郎の朋友だった片山敏彦との関係、さらに光太郎も敬愛していたロマン・ロランとのからみで、何となくは存じておりましたが、光太郎とは直接の交流はなかったようで、改めてこういう人物だったんだ、と知りました。

戦前から戦時中にかけての文学者等への弾圧の歴史、逆に光太郎ら大多数の文学者等が翼賛体制に飲み込まれていった黒歴史、そのあたりは「臭いものに蓋」の感があり、一般にはよく知られていませんね。大杉栄・伊藤野枝夫妻、小林多喜二の虐殺などは比較的有名ですが、それでもまだ多くの謎に包まれています。

そしてロシアによるウクライナ侵攻。当方、非常に気になっているのが、ロシアの一文化人たちの動向です。国営テレビの女性スタッフが番組に乱入、「プロパガンダを信じないで」とのメッセージを出したりしましたが、それ以外の部分での動きが伝わってきません。戦前、戦中の日本よろしく、危険分子は投獄されたりしているのか、光太郎のようにプロパガンダを垂れ流す存在に成り下がっているのか……。

そして恐ろしいのはわが国での動き。「露助や支那が攻めてくるぞ! だから憲法改正だ! 再軍備だ! 核武装だ!」そういう世の中になって欲しくないものです。

【折々のことば・光太郎】

新宿米久にて六人牛鍋、タキシでかへる、十時


昭和27年(1952)11月28日の日記より

新宿米久」は、光太郎が戦前によく行っていた浅草米久の支店でしょう。

今年3月リリースのCDです。

シンガーソングライター 加藤昌則歌曲集

2022年3月23日 Octavia Records Inc 定価3,200円+税

宮本益光(バリトン) 加藤昌則(ピアノ) 崎谷直人(ヴァイオリン)

このようなタイトルのアルバムを発表する日が来るなんて、舞台に立ち始めたころは考えもしませんでした。クラシックというジャンルで、作詞・作曲を演奏家本人が担当すること自体、かなり珍しいことだと思います。二人が出会って、もう30年近くなります。がむしゃらに突っ走った20代、少しずつ認められてきた30代、自分のことが少しだけわかってきた40代、私たちはそれぞれの領域で活動を積み重ねつつ、知らぬ間に二人の世界を拡げてきたのだと思います。これは二人の日記帳のようなもの。二人にしか描けない魂の記録です。
宮本益光

作曲家・加藤昌則と歌っている宮本益光は東京藝大の同期だ。加えて、ここで作曲家はピアニストでもあり、歌手は詩人でもある。(中略)
加藤昌則という仲介者を経て自作を声に乗せることができている宮本益光は、まことに稀有な演奏家だ。「もしも歌がなかったら ゲーテは詩なんて書かなかっただろう」という自身の言葉(「もしも歌がなかったら」)の「ゲーテ」は、「私」と置換してもいいのである。微妙な音色の変化を含ませつつ、すべての曲に真正面から取り組む「詩人の歌唱」には、ただ感嘆。見事というほか、ない。
池辺 晋一郎(ライナーノーツより)
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曲目
 魔女の住む街 (詩・宮本益光)
 祈りの街 (詩・宮本益光)
 城壁となって (詩・宮本益光)
 落葉 (詩・千家元麿)
 俺らの町の数え歌 (詩・宮本益光)
 桜の背丈を追い越して (詩・宮本益光)
 詩がある (詩・宮本益光)
 そこにある歌 (詩・宮本益光)
 彦星哀歌 (詩・宮本益光)
 ここで歌うだけ (詩・宮本益光)
 レモン哀歌 (詩・高村光太郎)
 さくら (詩・たかはしけいすけ)
 「ME」より 恋歌 (詩・たかはしけいすけ)
 「花と鳥のエスキス」より ぼくの空 あたらしい日がくるたびに(詩・たかはしけいすけ)
 「名もなき祈り」より 空に 今、歌をうたうのは (詩・宮本益光)
 もしも歌がなかったら (詩・宮本益光)
 平和へのソネット (詩・宮本益光)
 またね、またね (詩・宮本益光)
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アルバムタイトルが「シンガーソングライター」ですが、「自分で作詞作曲し、歌う」という通常の意味のそれではありません。まず作詞は全20曲中、大半が歌唱担当の宮本益光氏。氏はバリトン歌手でありながら、詩集も出版なさっているそうです。そして全20曲、作曲はピアノを担当なさっている加藤昌則氏。というわけで、いわばお二人の合作。いうなれば「シンガーソングライターズ」とでも言うべきかと存じます。

宮本氏作詞でないものは、氏の詩の師・たかはしけいすけ氏の手になるものが5曲、光太郎とも交流のあった千家元麿のテキストで1曲、そして光太郎の「レモン哀歌」。

この「レモン哀歌」がプログラムに入っていたコンサート等は、当方が把握している限り、令和元年(2019)に加耒徹氏の歌唱で「歌道Ⅱ」と題した公演が福岡と東京で行われた他、同年の「4人のバリトンコンサート ハンサムなメロディー」でも加耒氏が歌われました。また、今回のCDで歌われている宮本氏で、「午後の音楽会 第136回プレミアムコンサート 宮本益光×加藤昌則 デュオリサイタル」。こちらは今年の2月、横浜での公演でした。それから情報を把握しておらずご紹介出来ませんでしたが、先月末に愛媛県八幡浜市で開催された「宮本益光バリトンリサイタル SINGER SONGWRITER 加藤昌則歌曲集」でも演奏されています。CDの発売記念的なコンセプトでしょう。宮本氏は八幡浜ご出身だそうです。
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「レモン哀歌」、これまでも様々な作曲家の方々などが曲を付けて下さっていますが、解釈がそれぞれですね。今回のように単発の場合と、組曲や歌曲集の中の一篇という場合では扱い方が異なってきますし、独唱の場合と合唱の場合とでも違います。バックボーンがシャンソンというモンデンモモさん、歌唱なしのインストゥルメンタルでピアノの荒野愛子さんなどはさらに毛色が変わっていますし。ちなみに演歌の坂本冬美さんにも「レモン哀歌」という曲があります。ただし、こちらは光太郎詩ではなく作詞家・たかたかし氏の詞ですが。
003
「レモン哀歌」だけでなく、他の詩まで範囲を広げれば、「道程」には、かの坂本龍一氏が曲を付けて下さいましたし、その他箏曲などの純邦楽、'70年代にはフォークソング調、さらには詩吟的なものや浪曲風まであります。それらを聴き較べてみるのも一興です。

さて、CD「シンガーソングライター 加藤昌則歌曲集」、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

うどんをとる、余は全部嘔吐す、 夕食とらず、


昭和27年11月24日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に当たり、以前の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中に悩まされていた結核性の肋間神経痛はかなりおさまったものの、それでも万全の体調とは言えない日々でした。光太郎の命ものこりあと3年半ほどです。

平成31年(2019)に刊行されたソフトカバー単行本の文庫化です。

すごい言い訳!―漱石の冷や汗、太宰の大ウソ―

2022年5月1日 中川越著 新潮社(新潮文庫) 定価693円

原稿が書けない。生活費が底をついた。追い詰められた文豪たちが記す、弁明の書簡集。

言い訳――窮地を脱するための説明で、自分をよく見せようとする心理が働くので、大方軽蔑の対象になる。しかし文豪たちにかかれば浅ましい言い訳も味わい深いものとなる。二股疑惑をかけられ必死に否定した芥川龍之介。手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した太宰治。納税額を誤魔化そうとした夏目漱石。浮気をなかった事にする林芙美子等、苦しく図々しい、その言い訳の奥義を学ぶ。
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目次

 はじめに
 第一章 男と女の恋の言い訳
  フィアンセに二股疑惑をかけられ命がけで否定した 芥川龍之介
  禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した 北原白秋
  下心アリアリのデートの誘いをスマートに断った言い訳の巨匠 樋口一葉
  悲惨な環境にあえぐ恋人を励ますしかなかった無力な 小林多喜二
  自虐的な結婚通知で祝福を勝ち取った 織田作之助
  本妻への送金が滞り愛人との絶縁を誓った罰当たり 直木三十五
  恋人を親友に奪われ精一杯やせ我慢した 寺山修司
  歌の指導にかこつけて若い女性の再訪を願った 萩原朔太郎
  奇妙な謝罪プレーに勤しんだマニア 谷崎潤一郎
  へんな理由を根拠に恋人の写真を欲しがった 八木重吉
  二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター 林芙美子

 第二章 お金にまつわる苦しい言い訳
  借金を申し込むときもわがままだった 武者小路実篤
  ギャラの交渉に苦心惨憺した生真面目な 佐藤春夫
  脅迫しながら学費の援助を求めたしたたかな 若山牧水
  ビッグマウスで留学の援助を申し出た愉快な 菊池寛
  作り話で親友に借金を申し込んだ嘘つき 石川啄木
  相手の不安を小さくするキーワードを使って前借りを頼んだ 太宰治
  父親に遊学の費用をおねだりした甘えん坊 宮沢賢治

 第三章 手紙の無作法を詫びる言い訳
  それほど失礼ではない手紙をていねいに詫びた律儀な 吉川英治
  親友に返信できなかった訳をツールのせいにした 中原中也
  手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した 太宰治
  譲れないこだわりを反省の言葉にこめた 室生犀星
  先輩作家への擦り寄り疑惑を執拗に否定した 横光利一
  親バカな招待状を親バカを自覚して書いた 福沢諭吉
  手紙の無作法を先回りして詫びた用心深い 芥川龍之介

 第四章 依頼を断るときの上手い言い訳
  裁判所からの出頭要請を痛快に断った無頼派 坂口安吾
  序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎
  弟からの結婚相談に困り果てた気の毒な兄 谷崎潤一郎
  もてはやされることを遠慮した慎重居士 藤沢周平
  独自の偲び方を盾に追悼文の依頼を断った 島崎藤村
  意外に書が弱点で揮毫を断った文武の傑物 森鴎外

 第五章 やらかした失礼・失態を乗り切る言い訳
  共犯者をかばうつもりが逆効果になった粗忽者 山田風太郎
  息子の粗相を半分近所の子供のせいにした親バカ 阿川弘之
  先輩の逆鱗に触れ反省に反論を潜ませた 新美南吉
  深酒で失言して言い訳の横綱を利用した 北原白秋
  友人の絵を無断で美術展に応募して巧みに詫びた 有島武郎
  酒で親友に迷惑をかけてトリッキーに詫びた 中原中也
  無沙汰の理由を開き直って説明した憎めない怠け者 若山牧水
  物心の支援者への無沙汰を斬新に詫びた 石川啄木
  礼状が催促のサインと思われないか心配した 尾崎紅葉
  怒れる友人に自分の非を認め詫びた素直な 太宰治
  批判はブーメランと気づいて釈明を準備した 寺田寅彦

 第六章 「文豪あるある」の言い訳
  原稿を催促され詩的に恐縮し怠惰を詫びた 川端康成
  原稿を催促され美文で説き伏せた 泉鏡花
  カンペキな理由で原稿が書けないと言い逃れた大御所 志賀直哉
  川端康成に序文をもらいお礼する際に失礼を犯した 三島由紀夫
  遠慮深く挑発し論争を仕掛けた万年書生 江戸川乱歩
  深刻な状況なのに滑稽な前置きで同情を買うことに成功した 正岡子規
  信と疑の間で悩み原稿の送付をためらった 太宰治
  不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない 徳冨蘆花
  友人に原稿の持ち込みを頼まれ注意深く引き受けた 北杜夫
  紹介した知人の人品を見誤っていたと猛省した 志賀直哉
  先輩に面会を願うために自殺まで仄めかした物騒な 小林秀雄
  謝りたいけど謝る理由を忘れたと書いたシュールな 中勘助

 第七章 エクスキューズの達人・夏目漱石の言い訳
  納税を誤魔化そうと企んで叱られシュンとした 夏目漱石
  返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者 夏目漱石
  妻に文句を言うときいつになく優しかった病床の 夏目漱石
  未知の人の面会依頼をへっぴり腰で受け入れた 夏目漱石
  失礼な詫び方で信愛を表現したテクニシャン 夏目漱石
  宛名の誤記の失礼を別の失礼でうまく隠したズルい 夏目漱石
  預かった手紙を盗まれ反省の範囲を面白く限定した 夏目漱石
  句会から投稿を催促され神様を持ち出したズルい 夏目漱石
  不当な苦情に対して巧みに猛烈な反駁を盛り込んだ 夏目漱石

 おわりに
 参考・引用文献一覧

 解説 郷原宏

平成31年(2019)に刊行されたソフトカバー単行本は、『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』。サブタイトルが変更されていますが、内容的には同一のようです。文庫化に当たり、郷原宏氏の解説が新たに添えられましたが。

われらが光太郎については、「序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎」という項を設けて下さいました。読んでその通りの内容で、菊池正という詩人からの序文を書いてくれ、という依頼に対して送られた断りの書簡を根幹としています。

光太郎曰く「ところで序文といふ事をもう一度考へませう。一体序文などいるでせうか。何だか蛇足のやうに思へます。」「他の人の序をつけるのは東洋の風習でせうが、再考してもよくはないでせうか。序文とは結局何でせう。

著者・中川氏によれば、

 これは一つのいい方法です。頼み事を断りたいときには、光太郎のように、頼み事自体が不要なのではと、疑問を投げかけます。もし相手がなるほど不要かもと納得すれば儲けものです。依頼事は消滅し、罪悪感を覚える必要も消えます。自己責任を回避するための完璧な言い訳の完成です。結構いろいろと使えそうです。

なるほど。

ただ、以前にも書きましたが、光太郎はこれより前に菊池の詩集に序文を書いてやっていますし、当会の祖・草野心平はじめ、確認できている限り60篇ほどの序跋文を様々な人物の著書に寄せています。その意味ではちょっと説得力に欠ける「言い訳」かもしれません(笑)。

ところで光太郎の「序文」。注意が必要です。光太郎歿後に刊行された、ある詩人の詩集(それも二種類、まったく別の人物のもの)に付されている光太郎署名の「序文」で、どうも怪しいものがあります。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には収録されていません。『全集』編纂にあたられた当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、その二人の詩人に「草稿を見せて欲しい」と言ったところ、「ない」との返答。さらに、「どういうやりとりがあって書いてもらったのか」との問いにも、まともに答えられず。光太郎が確かにその「序文」を書いたという裏付けになる書簡等も存在せず。文体も光太郎の文体っぽくない部分が目につきます。こういう例は、他の作家にもあるのでしょうか?

閑話休題。『すごい言い訳!―漱石の冷や汗、太宰の大ウソ―』、他の作家達の「言い訳」も、それぞれに笑えたり、参考になったりと、有益な書物です。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

電話871番は既に誰かが横取りせし事わかる、24年の由、


昭和27年(1952)11月22日の日記より 光太郎70歳

871番」は、戦前から戦時中にかけ、焼失した駒込林町のアトリエ兼住居にひかれていた電話の番号です。戦時中の葉書などには、この番号が入ったゴム印が使われていました。
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固定電話の加入権というのは、一つの財産といった意味合いがあり、それを担保にしての借金というのも、比較的近年まで行われていたようです。

ところが戦後のドサクサで、光太郎が持っていた権利が横取りされてしまっていたらしいそうで(笑)。これより前、花巻郊外旧太田村で蟄居生活を送っていた頃も、この加入権について実弟の豊周に問い合わせたりしていましたが、不明だったようです。

土地などに関しても、そういうことがけっこうあったようですね。焦土と化した場所に杭を打ち、「ここは自分の土地だった」と言ってしまった者勝ち、のような。

楽譜の新刊です。

朝岡真木子歌曲集2

2022年4月15日 朝岡真木子作曲 全音楽譜出版社 定価2,800円+税
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朝岡真木子の珠玉の歌曲作品集。


収録曲
 祈りのように  作詞 : 貞松瑩子
 口笛  作詞 : 西岡光秋
 君死にたもうことなかれ  作詞 : 与謝野 晶子
 さくらの はなびら  作詞 : まど・みちお
 風のこころ  作詞 : 大竹典子
 さんまのうた  作詞 : 大竹典子
 そのとき 十八の春  作詞 : 岡崎カズヱ
 今をしむ  作詞 : 岡崎 カズヱ
 梅干し  作詞 : 岡崎 カズヱ
 メヌエツト  作詞 : 立原道造
 灯台への道  作詞 : 柏木隆雄
 おにぎりのうた  作詞 : 柏木隆雄
 黒豆のなっとう  作詞 : 中野惠子
 ながれ星  作詞 : 星乃 ミミナ
 水たまり  作詞 : 星乃 ミミナ
 吹抜保  作詞 : 茨木 のり子
 春のとおりゃんせ  作詞 : 宮中雲子
 対処  作詞 : 宮田滋子
 まど・みちおの詩による組曲「りんごを ひとつ」  作詞 : まど・みちお
  あめ/ことり/貝のふえ/ちいさな ゆき/はっぱと りんかく/一ばん星/リンゴ
 組曲「智惠子抄」  作詞 : 高村 光太郎
  人に/あどけない話/千鳥と遊ぶ智惠子/値ひがたき智惠子/レモン哀歌

朝岡真木子さんという方の作曲された、独唱歌曲の作品集です。大トリの位置に「組曲「智恵子抄」」全5曲が収録されています。

当方が把握している限り、昨年今年と、この中から抜粋でプログラムに入った演奏会が開催されましたし、令和元年(2019)には全5曲が演奏された演奏会「伊藤晶子ソプラノリサイタル ~演奏生活70周年を記念して~」もありました。ただ、この時のプログラムと今回出版された楽譜集とで、構成が違っています。演奏会では今回の楽譜集に無い「風にのる智恵子」が入っていて、逆に楽譜集に掲載されている「値ひがたき智恵子」がありませんでした。「風にのる智恵子」は、結局、ボツにしてお蔵入り、ということでしょうか。楽譜集に載っていた初演記録では、「人に」「あどけない話」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」の全4曲という扱いで、平成13年(2001)に初演されていました。

追記 令和元年(2019)の演奏会で「風にのる智恵子」がプログラムに入っていたのはフライヤーの印刷ミスだそうで、やはり「値ひがたき智恵子」だったそうです。

楽譜集が手元に届きまして、早速、キーボードでメロディーを追ってみました。割と素直に作曲されていて、意外といえば意外でした。独唱歌曲だから、というためかもしれません。合唱だと、各声部の掛け合いやら和音やらで、これでもか、これでもかと、非常に複雑な作りになっている曲が多いのですが、独唱は伴奏としてのピアノがあるものの、基本的にメロディーライン一本での勝負、すると、衒う必要もないのかな、と思いました。

それでも単純明快というわけでもなく、転調や拍子の変更などもあり(多用、というほどではないのでそれが煩わしくありません)、さらに組曲全体での構成の妙に感心しました。

楽譜集巻頭の朝岡さんによる「はじめに」から。

 歌曲を作曲します時は、まず最初に詩を何度も朗読して、そのイメージや色合いを味わい、大切な言葉、空気感、言葉のリズム感などを受け取っています。

当然といえば当然ですが、これが出来ていない「何でこの詩にこういうメロディーなんだ?」という作品も少なからずあるように思えてなりません。それがその作曲者の解釈なんだといわれればそれまでですが……。その点、今回の「組曲「智恵子抄」」、いい感じです。

「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」と、智恵子への抑えられない想いを謳った「人に」。しかし、その想いも高らかな愛のほめ歌というわけではなく、「おずおずと」という側面があり、そうした部分がよく表されていると思います。

「あどけない話」。智恵子の心を病む前段階の、「あどけない」といいつつ「あどけなくない」内容。その不安感、しかしまだここで踏みとどまれれば……という感じ、そういったものが上手く表現されているように感じます。思い切ってピアノ伴奏を単純化し(途中まで右手一本です)、この後の曲想との違いを明確にしてもいるようです。

「千鳥と遊ぶ智恵子」。アレグロ→アダージョ→モデラート、最後はレントまでテンポを落とし、不安を煽るような半音進行が見事です。終末部分はメロディー無しの朗読という指定です。

部分的な変更を除いて8分の5拍子、アレグレットの「値ひがたき智恵子」。毀れてしまった智恵子、それをなすすべもなく見つめる光太郎の姿が浮かびます。

そして終曲「レモン哀歌」。これまでと一転して静謐な世界。うまいまとめ方です。

楽譜集が出ると、CDも欲しくなってしまいます。どこかのレーベルさんでおねがいしたいところですね。また、楽譜集が出たことにより、演奏会等で取り上げられる機会が増えることも期待いたします。

【折々のことば・光太郎】

不在中朝日社会部の人来て飛行機にのれといひをりし由、


昭和27年(1952)11月18日の日記より 光太郎70歳

戦前は、新聞社がまだ珍しかった飛行機に文士を乗せてレポート等を書いてもらうという企画がよくありました。昭和4年(1929)には斎藤茂吉ら4人の歌人がやはり朝日さんの飛行機に搭乗し、機上で短歌を詠んだり、昭和10年(1935)には読売さんが「流行作家リレー飛行」なる企画を立ち上げ、林芙美子が「飛行機の旅」というエッセイを書いたりしました。

戦後もまだこういう企画があったのですね。残念なことに光太郎は断りましたが。

新刊です。

吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために

2022年4月30日 河出書房新社編集部編 河出書房新社 定価1,800円+税

没後10年、揺れ動く時代に対峙し続けた吉本隆明の著作を、今どう読むか。吉本が見ていたものを私たちは見落としていないだろうか。これからも読み続けるための入門書。
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目次・収録作品
【巻頭対談】 鹿島茂×小峰ひずみ 吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる
【入門】 安藤礼二 時代との対峙、その「敗北」から今を考える
【特別寄稿】 ハルノ宵子 いつも途上
【論考】
 小田原のどか 吉本隆明と〈彫刻の問題〉
 綿野恵太 宮沢賢治と高村光太郎の自然史 
 平山周吉 吉本隆明は「試行」のままに
 瀬尾育生 「異神」について
 友常勉 ゾンビとセトラー国家、そして日本資本主義論争――『共同幻想論』の読み方
【吉本隆明アンソロジー】
 〈ロングインタビュー〉×加藤典洋×高橋源一郎×瀬尾育生 詩と思想の60年
 〈小説〉坂の上、坂の下/ヘンミ・スーパーの挿話/順をぢの第三台場/手の挿話
  解題:樋口良澄 物語を書く吉本隆明 
【吉本論コレクション】
 埴谷雄高/谷川雁/村上一郎/竹内好/鮎川信夫/鶴見俊輔
【吉本隆明ブックガイド】安藤礼二
吉本隆明略年譜

わが国で初めてのまとまった光太郎論『高村光太郎』(昭和32年=1957)を書いた吉本隆明。当会顧問であらせられた故・北川太一先生とは、戦前の東京府立化学工業学校、戦後の東京工業大学で共に学び、光太郎や宮沢賢治について語りあい、その後、数十年にわたって光太郎顕彰・研究を共にした仲でした。
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画像は昭和60年(1985)の書道雑誌『墨』から。左から故・疋田寛吉氏、吉本、石川九楊氏、北川先生。座談会「光太郎書をめぐって」の際のショットです。

北川先生の書かれた回想(すべて『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』文治堂書店 平成31年=2019所収)から。

 隆明さんは書いている。「北川太一とわたしは、いわば高村光太郎の資料の探索については、草分けの存在であった」と。僕たちの卒業した深川の都立化学工業というのは不思議な学校だった。近くにはまだ広い草原や水溜まりや溝川があって、腹の紅いイモリやダボハゼや大きな鮒さえが泳いでいた。僕は落ち零れの第二本科、四組の昆虫少年で、本科の隆明さんと話す機会は殆どなかったが、しかし僕のクラスにもニイチェを説く安田三郎とか、オウム事件の頃の日弁連会長土屋公献とか、「ファウスト」を無理やり読ませた加藤進康とか変わった連中が沢山いた。加藤は後に工大で隆明さんが演出した太宰治の「春の枯葉」を演じたりした。しかし多くは町工場や手わざで生きる職人の子弟で、卒業したのは太平洋戦争が始まった昭和十六年十二月、それぞれの道にバラバラになったけれど、その頃僕らが同じように引かれたのは、高村光太郎や宮沢賢治だった。隆明さんの家は月島の舟大工、僕は日本橋の屋根屋の次男坊。ことに高村さんに引かれたのは、そんな下町の職人の血だったかも知れない。
(「隆明さんへの感謝」平成19年=2007)
 
 光太郎の詩集「道程改訂版」が世におくられたのも昭和一五年、たぐい稀な愛の詩集として『智恵子抄』が出たのはその翌年。戦争詩とともに、どれも僕等を夢中にさせた。太平洋戦争が始まり、繰上げ卒業で、進学組の吉本は米沢高等工業に、就職組の僕は学費を稼ぎながら東京物理学校の夜学生になって、それぞれの時間を紡いだ。進行する民族戦争に、どちらも死を覚悟した愛国青年だった。戦い終わり、海軍技術科士官として飛行予科練習生たちといのちをかけた南四国から帰ったあと、工業大学進学を選んだ時、すでに吉本は大学にいた。そして二人ともアトリエを焼かれて花巻郊外に孤座しているという高村光太郎が、いま何を考えているか、そればかりが気になった。光太郎がここに至った道を明らかにしない限り、これから何ができようかと思いつめた。そしていつのまにか、僕は重い荷物を負った定時制高校の生徒の中に埋没し、吉本は渦巻く自分の想念の生み出し手になっていた。
(「吉本と光太郎」平成26年=2014)

 志願した海軍生活は一年足らずで終わり、改めて入学した工業大学で吉本や加藤に再会したのは昭和二十一年のことだった。大学の池のほとりで、今は岩手の山奥に独り棲む光太郎について暗くなるまで語り合った記憶がある。(略)工大の特別研究生として再び一緒になったのは昭和二十四年になってからだった。彼の研究室は同じ階にあった。二年間のその第一期を終わって吉本は東洋インキ製造に入社、二十七年には詩集『固有時との対話』が出来て、それを届けてくれた時、日本の明治以後の詩史を広く見通すための資料が見たいという希望が添えられていた。お花茶屋や駒込坂下町の吉本の家を訪ねたり、時に日本橋の我が家に来てくれたりが続いたけれど、昭和三十年に吉本が『現代詩』に「高村光太郎ノート」を発表し始めたことは、僕を興奮させた。年譜を補充するために光太郎の聞き書を取り始めていた僕は、すぐその雑誌を死の前年の光太郎に見せて、わが友吉本隆明について語ったのを覚えている。
(「死なない吉本」平成24年=2012)


引用が長くなりましたが、吉本思索史原点の一つが、光太郎、そして戦争だったということがよく分かります。

さて、『吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために』。

安藤礼二氏による「【吉本隆明ブックガイド】」では、昭和32年(1957)の『高村光太郎』が紹介され、綿野恵太氏の「宮沢賢治と高村光太郎の自然史」は題名の通り、吉本が光太郎をどうとらえていたか、その一端が語られています。また、「【巻頭対談】 鹿島茂×小峰ひずみ 吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる」、「〈ロングインタビュー〉×加藤典洋×高橋源一郎×瀬尾育生 詩と思想の60年」でも、「高村光太郎」がキーワードの一つに。さらに彫刻家・小田原のどか氏は「吉本隆明と〈彫刻の問題〉」で、『高村光太郎』、それから春秋社版『高村光太郎選集』別巻として刊行された『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973)のために書かれた「彫刻のわからなさ」を軸に、彫刻実作者の観点から、吉本を論じています。

版元案内文には「入門書」とありますが、どうしてどうして、実に読みごたえのある書籍です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜あたたかくねる、 アトリエで初めてめざめる。


昭和27年10月14日の日記から 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために移り住んだ東京中野の貸しアトリエで迎えた初めての朝でした。10月半ばといえば、それまで7年を過ごしてきた花巻郊外旧太田村の山小屋ではもう寒い時期ですが、東京では「あたたかくねる」だったのですね。

都内から朗読系公演の情報です。

My Favorite Story ~美しき詩の世界~

期 日 : 2022年4月19日(火)
会 場 : 日暮里サニーホール・コンサートサロン 東京都荒川区東日暮里5-50-5
時 間 : 18:00開場 18:30開演
料 金 : 2,500円(全席自由・税込)

プログラム ※出演順ではありません。
 岩井奈美<朗読>  ジャン・コクトー 「オペラ」より 抜粋
 倉地ひとみ<朗読> ギョーム・アポリネール 
  ミラボー橋 クロチルド 犬サフラン マリー わかれ
 宮尾壽里子<朗読> 電子ピアノ:Yoshi 
  高村光太郎・高村智恵子 翻案構成 宮尾壽里子
  「智恵子抄」より抜粋 光太郎.智恵子へのオード
 桜さゆり<朗読・ピアノ> 室生犀星 「愛の詩集」より 抜粋
 優木ももか Yuuki Momoca<ハープ弾き語り>
  ファン・ラモン・ヒメネス 「プラテーロとわたし」より 子守娘
 島映子 Shima Eiko<朗読> 
  大岡信 石の囁きを聴く~安田侃に~ 詩 名づけ得ぬものへの讃歌
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光太郎智恵子にも触れられた『詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer』などを刊行されている詩人の宮尾壽里子さん。

朗読にもあたられていて、平成31年(2019)の第63回連翹忌の集いでは、お仲間の方々とご一緒に「智恵子抄」朗読をご披露下さいました。その前年には、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で最優秀賞。その他、都内などでくり返し「智恵子抄」関連の朗読公演などをなさっています。

また、文芸同人誌『第四次 青い花』同人でもあらせられ、今回のチケットと共に昨年暮れに発行された第97号をご送付下さいました。
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他の同人の方による『詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer』書評、そして光太郎智恵子にも触れられた宮尾さんのエッセイ「東京・TOKYO・とうきょう」等が掲載されています。ご入用の方、奥付画像を載せましたのでそちらまで。

「My Favorite Story ~美しき詩の世界~」、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

かたづけを終る、あとの事をスルガ重次郎翁にたのむ。カギは同翁にあづける、

昭和27年(1952)10月9日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための帰京に関連します。翌10日、7年間暮らした花巻郊外旧太田村の山小屋を後にし、花巻町中心街で壮行会、その夜は大沢温泉に宿泊、東京に向けて夜汽車に乗ったのは、11日のことでした。

スルガ重次郎翁」は、光太郎に山小屋の土地を提供してくれた、太田村の顔役です。
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青土社さんから発行されている月刊文芸誌『ユリイカ』、4月号の巻頭に文芸評論家・中村稔氏による、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の回想文が、18ページにわたり掲載されています。
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題して「故旧哀傷・北川太一 」。中村氏による「忘れられぬ人々」という連載の第6回です。

中村氏は弁護士でもあらせられ、はじめに、弁護士として手がけられた「智恵子抄裁判」の件が語られています。

「智恵子抄裁判」、ご存じない方のために概略を記しますと、昭和16年(1941)に龍星閣から刊行された『智恵子抄』の著作者は誰か、ということが争われた裁判です。「そんなん、光太郎に決まってるじゃないか」とお思いの方が多いことと存じますが、ことはそう簡単ではありません。

そもそもは、光太郎歿後の昭和40年(1965)、龍星閣主の故・澤田伊四郎氏が、『智恵子抄』は自分が編集したものだとして、当時の文部省に著作権登録をしたことに端を発します。それを不服とした光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝となった髙村豊周が、その登録抹消を求めて、翌年、訴訟を起こしたのです。

澤田氏が著作権登録をした一番の目的は、当時、龍星閣に何の断りもなく、他社が(それも数多くの)「××版『智恵子抄』」的な書籍を続々と刊行したことに対する抗議でした。『智恵子抄』は龍星閣のものだ、というその主張、これはこれで正当なものなのでは、と、当方は思います。確かに、『智恵子抄』の最初の構想はは光太郎自身ではなく、澤田氏が持ち込んだ企画でした。そのあたり、少し前に書きましたので、こちらをご参照下さい。ただ、その後のプロセスとして、自分の名での著作権登録、というのは無理があったといわざるを得ません。

最初に澤田氏が光太郎に渡した『智恵子抄』の「内容順序表」が、実際に刊行された『智恵子抄』と比べると、かなり抜けが多いこと、刊行後の詩句の改訂等も光太郎自身の裁量がなければ不可能なことなどから、結局は澤田氏の著作権登録は取り消されるという判決になりました。

下記が最高裁による判決文です。
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この裁判、原告の豊周はほどなく亡くなり、豊周遺族が原告の地位を継承しましたが、たとえ豊周が存命だったとしても、こうした係争に関わる専門知識があった訳でもなく、また、日本文芸家協会の後押し(中村氏の弁護人選任もそうでした)もありましたが、それでもこうした裁判の前例はほとんどなく、髙村家の弁護にあたった中村氏、かなり苦労されたそうです。むべなるかな、ですね。

そこで、中村氏が意見を求めたのが、北川先生でした。北川先生、『智恵子抄』の成立、収録作品の選択からその後の改版の際の改訂等に付き、中村氏に事細かにレクチャーされ、その結果、『智恵子抄』の著作者は光太郎、という判決を勝ち得たとのことでした。

中村氏、そうした中での北川先生との関わり、さらに後半では、軍隊時代や戦後の定時制高校教師時代の北川先生、ガリ版刷りの『光太郎資料』(当方が引き継がせていただいております)などに触れられ、溢れ出る愛惜の思いを語られています。

ただ、残念ながら、「智恵子抄裁判」の部分で、古い話になってきましたので仕方がないのかも知れませんが、『智恵子抄』詩句の改訂等につき、事実誤認及び少なからずの誤植がありまして、これをそのまま論文等の典拠とされると非常に危険ですので、一応、指摘しておきます。

まず、詩「人類の泉」(大正2年=1913)について。

誤 「ピオニエ」というルビ  → 正 「ピオニエエ」というルビ

続いて詩「或る夜のこころ」(大正元年=1912)。

誤 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプリの林に熱を病めり
正 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプラアの林に熱を病めり

誤 同じ作品の第二一行の「こころよ、こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、読点を付したままになっている。
正 同じ作品の第二一行の「こころよ こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、一字空けたままになっている。

さらに、詩「冬の朝のめざめ」(執筆・大正元年=1912 発表・大正2年=1913)について。

誤 第二八行に 愛の頌歌(ほめうた)をうたふたり を 愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり と改めていることである。

初版でも「愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり」となっていますので、この前後は丸々削除する必要があります。

そうした点は差っ引いても、一読に値する文章ですので、ぜひお買い求め下さい。

また、中村氏、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第20巻(平成8年=1996)の月報にも「回想の『智恵子抄』裁判」という一文を寄せられています。こちらもぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

盛岡から学生2名来る、写真撮影、


昭和27年10月7日の日記より 光太郎70歳

学生2名」のうちのお一人が、のち、宮城県母子愛護病院(現・宮城県済生会こどもクリニック)の院長になられた熊谷一郎氏だったそうで、熊谷氏、平成4年(1992)の『河北新報』さんに、その際の回想文を寄せられています。
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同じような例として、のちに国語学者となられた宮地裕氏が、やはり学生時代の昭和22年(1947)に光太郎の山小屋を訪ね、熊谷氏同様、平成に入ってから回想文を書かれました。そちらは光村図書さんの中学校用国語科教科書に、かつて掲載されていました。

芸能関係で2件。

まずは3月27日(日)の『サンケイスポーツ』さん。

伊藤健太郎、1年5カ月前の事故「死ぬまで背負っていく」 ファン500人の前で約束 今の目標は地上波ドラマ復帰

 俳優、伊藤健太郎(24)が26日、東京都内で自身初のファンミーティングを開催し、約500人と交流した。2020年10月に自動車運転死傷行為処罰法違反などの疑いで逮捕され、不起訴処分となったが、本紙の取材に「事故のことは死ぬまで背負っていく」と真摯に表明。6月3日に主演映画「冬薔薇(ふゆそうび)」(阪本順治監督)の公開を控え、今後は「地上波ドラマに戻りたい」と前向きに目標を掲げた。
 ファンの温かい拍手に迎えられ、緊張気味だった伊藤の表情が和らぐ。事故から1年5カ月。ステージを360度囲んだ客席を見渡し、感謝の思いがあふれた。
 「こんなにたくさんの方々に来ていただけるとは…。支え続けてくださり、本当にありがとうございます」
 昨年6月に初めてファンクラブを開設。恩返しのために初開催した2部制のファンミーティングでは、主演ドラマ「東京ラブストーリー」の告白シーンをファン相手に再現し、「皆さんに向けて読むのにぴったり」と高村光太郎が妻への愛を歌った詩集「智恵子抄」を朗読。主演映画「冬薔薇」でメガホンを執った阪本監督らゲストとのトークでも盛り上げた。
 1時間強の時間はあっという間に過ぎ、〝再会〟に涙するファンも。伊藤は「これからも温かく、時には厳しく見守っていただけたら。お芝居している姿をたくさん見せられるように頑張っていきます」と約束した。
 昨年10月に主演舞台「SOULFUL SOUL」で俳優業に復帰。「冬薔薇」ではろくでなしな男役で新たな顔を見せ、本紙の取材に「自分が主演だと違う見え方がするけど作品として見てもらえたら」と願った。
 14歳でモデルとして芸能界に入り、14年にフジテレビ系「昼顔~平日午後3時の恋人たち~」で俳優デビュー。「バイトをしたことがなく、この世界しか知らない。1年間休んだ間、生業にできる他の職業を探したけど見つからなかった」と役者として生涯を全うする覚悟が決まった。
 20年公開の主演映画「十二単衣を着た悪魔」は平安時代にタイムスリップする内容だが、「僕は未来に行きたい。40年後もこの仕事をやれているのか気になる。過去に戻って事故をなかったことにしたいとは思わない」と全てを背負って前を向く。
 「地上波ドラマでスタートした役者人生。簡単ではないけど、戻れるように取り組みたい」。恩返しの〝第2の役者人生〟を地に足をつけて歩んでいく。
◆阪本監督がエール「また次の仕事へ」
 阪本監督は「『事故でけがをさせた人たちとは、ずっとつながっていてください』と(伊藤に)言っている」と明かし、「また次の仕事へ向かってほしい」とエール。伊藤はミュージックビデオに出演した「丁寧な暮らし」を歌うラッパー、gbもゲストに迎え、「作品に愛を持って取り組む姿に学ぶべきものがたくさんある」と刺激を受けていた。
■伊藤 健太郎(いとう・けんたろう)
 1997(平成9)年6月30日生まれ、24歳。東京都出身。2017年に映画「デメキン」で初主演。18年に日本テレビ系「今日から俺は!!」でブレークし、役名の「健太郎」から本名に改名した。19年に「コーヒーが冷めないうちに」で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。179センチ。
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光太郎も、順風満帆とは決して言えず、つまづきの多い生涯でした。自分がつまづいて転ぶだけならまだしも、他者を巻き込むことも多く……。ある種のモラハラといわれても仕方がないような態度で、妻・智恵子を追い込んでしまったのは事実ですし、戦時中にはプロパガンダ的に戦意高揚の詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に追いやりました。しかし、その都度、それを反省し、再び立ち上がりました。

伊藤さんの今後にも期待したいところです。

続いて、Yahoo!さんのニュースサイトから。

『となりのチカラ』松本潤のまっすぐな“告白”が胸に刺さる 10分間の見事な長ゼリフ

 松本潤が主演を務める『となりのチカラ』(テレビ朝日系)第8話は最終回前のセミファイナル。注目は前回、灯(上戸彩)から出された宿題にチカラ(松本潤)がどのような答えを出すのか。そして、オンエア前から話題になっていた松本による、10分に及ぶ問題に対する長ゼリフである。
  改めてだが、灯が出した中越家についての課題は、「灯は仕事を辞めていいのか」「愛理(鎌田英怜奈)を怒鳴ったり叩いたりしていいのか」「高太郎(大平洋介)を塾に行かせていもいいのか」の3つ。テーブルを囲み、チカラは高太郎に、愛理に、灯にゆっくりと自分が出した答えを語りかけていく。
 テストの点数が低く、学校でも「バカ」とイジメられている高太郎。彼の取り柄はポジティブな性格と自分のことが好きなことだ。「お前にもそのうち好きなものがきっとできる。それについてもっともっと知りたくなる。そしたら自然と勉強したくなるんだ、人間は」ーー知りたいと思う知的好奇心は、子供を机に向かわせる一番の原動力である。そのことをきっかけに、きっと高太郎を好きと言ってくれる人は増えるはず。チカラや灯、愛理が高太郎を好きなように。そうチカラは高太郎に伝える。
 そのひねくれた性格から将来つらい目に遭うじゃないかと心配な愛理。彼女の数字で表現する口癖をチカラは「嘘をつきたくないからだもんな」と肯定する。「いつも正直でいて、誰に対しても分け隔てなくしたいっていうお前の意思だもんな」と話す性格は、灯とそっくりだ。チカラは高太郎と愛理に対して両膝をついて、2人と同じ目線になって話している。そして、共通しているのは子供多たちの名前の由来を明かしていることだ。高太郎は『道程』を書いた詩人・高村光太郎から、愛理はチカラの好きなレゲエで用いられる掛け声「アイリー!」から。光太郎ではなく間違えて高太郎にしてしまったこと、「アイリー!」が「最高に楽しい」を意味する言葉であることをプラスに転換しながら、ありったけの愛を注いでいく。
 そして、ラストは灯の仕事について。チカラが出した「したいようにすればいいと思う」は、灯のリアクションの通りに少々人任せに聞こえるかもしれないが、それは灯がすでにこれからの道を決断していることをチカラが察しているからだ。今の灯に足りないのは背中をポンッと押してくれる愛する人の言葉。いつも全力投球な灯にチカラは「そんなあなたを僕は大好きです。心から尊敬してます。一生そばにいたいです」とまっすぐな愛を涙ながらに伝える。それは前回、灯の実家であと一歩勇気が出ず口に出せなかった言葉でもあった。
 中越家の課題はこれで一旦の解決となったが、チカラにはまだ4つ目の問題が残されていた。それはマンションの住人、つまりはお隣さんたちの数々の問題だ。これまで散々人の家の問題に首を突っ込んできたチカラだったが、彼が出した結論は「もう何もしない」というまさかの発想。第8話はトラブルメイカーと噂されていた小日向(藤本隆宏)のボヤ騒ぎでラストを迎える。
 最終回は多くがまだ手つかずの住人の問題にチカラが向き合うのかが見どころとなる。第8話にて清江(風吹ジュン)がチカラに向けて言った「あなたに会えて良かった」という感謝の一言。現実から目を背けるチカラのヒントになるのは、きっとこの言葉だ。

当方、このドラマは拝見していませんでしたが、番組公式サイト内に、見逃し配信の項があり、視聴してみました。

問題の(別に問題があるわけではありませんが(笑))シーンは番組終盤。

チカラ そうだ、お前の名前は「高村光太郎」っていう有名な人から採ったんだ。パパが大好きな「道程」っていう詩を書いた人で……。
高太郎 「どうてい」?
チカラ あ、変な想像するな。「道のり」って意味だ。でも、「高村光太郎」は「光る」っていう字に「太郎」なのに、うっかりして「高い」っていう字にしちゃったんだ。「高村」の「高」に引っ張られてさ……。へへ、バカだろ、パパ?
高太郎 うん。
チカラ でも、こんなパパでも、ママと結婚できたんだ。だから、心配するな。これからきっと、高太郎のことを「バカ」って言う人より、お前を「好き」って言う人がどんどん増えてくる。今だって、パパはお前が大好きだし、ママも愛理も大好きだから。

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光太郎から名前を採ったという設定。やはり光太郎詩の持つポジティブ性ということで、光太郎なのでしょう。萩原朔太郎から採って「昨太郎」では成りたちません(朔太郎ファンの皆さん、すみません(笑))。

それにしても、「高太郎」。そう誤植されるケースが実際にかなりあるのには閉口します。ついでに言うと、「幸太郎」や「千恵子」「知恵子」なども。最も呆れたのは「高山光太郎」でしたが(笑)。
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閑話休題。

こうしたイベントやドラマ等で、「『智恵子抄』って何?」「高村光太郎って誰?」とならないよう、今後も啓発・顕彰を続けていこうと思いました。皆様方もご協力よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

藤根村の高橋峰次郎といふ人来訪、観音堂への揮毫依頼

昭和27年(1952)9月3日の日記より 光太郎70歳

藤根村」は現在の北上市。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の近くです。「高橋峰次郎」は正しくは「高橋峯次郎」。詳しくはこちら

新刊コミックスです。

ミカコ72歳 1

2022年3月5日 新久千映著 株式会社コアミックス 定価580円+税

72歳のミカコさんは夫を亡くしたばかり。今後は夫と暮らした家にこだわって一人暮らしをするつもり。心配な子や孫にスマホを持たされたところ、死んだおじいさんのアカウントと偶然繋がってしまい…。 読めば老後も悪くない、人生100年時代のおひとり様術(ライフハック)!
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『コミックゼノン』という月刊青年漫画誌に、昨年から連載されているもので、第1話などはWeb上で無料公開されています。

上記解説文にもありますが、夫を亡くした広島在住ミカコさんがスマホデビュー。すると、亡き夫のLINEアカウントがまだ残っており、既読にならないことを承知で、日記代わりにいろいろ書き込みをするように……という展開です。

第5話「気づかなかった自分が情けないわ」が、『智恵子抄』がらみの内容になっています。

ミカコさん、亡夫の蔵書を処分しようと、古書店さんに来てもらいます。ミカコさん自身は、あまり読書に縁がないようで……。
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意外にいい本が多くあることに驚く店主。すると、崩れた本の山から、ミカコさんが目をとめたのが……。

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紙絵と詩 智恵子抄』(昭和40年=1965初版 伊藤信吉 北川太一 髙村規編 社会思想社現代教養文庫)。ミカコさん、あるページに釘付けになります。
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そして……
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そのココロは……
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おそらく半世紀程も前でしょう、ミカコさんが亡夫から貰った手紙の文面が、そのままそこに載っていたというわけで(笑)。

ちなみにそれは詩「人類の泉」(大正2年=1913)だったようです。

   人類の泉

 世界がわかわかしい緑になつて008
 青い雨がまた降つて来ます
 この雨の音が
 むらがり起る生物のいのちのあらわれとなつて
 いつも私を堪らなくおびやかすのです
 そして私のいきり立つ魂は
 私を乗り超え私を脱(のが)れて
 づんづんと私を作つてゆくのです
 いま死んで いま生れるのです
 二時が三時になり
 青葉のさきから又も若葉の萌え出すやうに
 今日もこの魂の加速度を
 自分ながら胸一ぱいに感じてゐました
 そして極度の静寂をたもつて
 ぢつと坐つてゐました
 自然と涙が流れ
 抱きしめる様にあなたを思ひつめてゐました
 あなたは本当に私の半身です
 あなたが一番たしかに私の信を握り
 あなたこそ私の肉身の痛烈を奥底から分つのです
 私にはあなたがある
 あなたがある
 私はかなり惨酷に人間の孤独を味つて来たのです
 おそろしい自棄の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます
 私の生(いのち)を根から見てくれるのは
 私を全部に解してくれるのは
 ただあなたです
 私は自分のゆく道の開路者(ピオニエエ)です
 私の正しさは草木の正しさです
 ああ あなたは其を生きた眼で見てくれるのです
 もとよりあなたはあなたのいのちを持つてゐます
 あなたは海水の流動する力をもつてゐます
 あなたが私にある事は
 微笑が私にある事です
 あなたによつて私の生(いのち)は複雑になり 豊富になります
 そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです
 私は今生きてゐる社会で
 もう万人の通る通路から数歩自分の道に踏み込みました
 もう共に手を取る友達はありません
 ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
 私はこの孤独を悲しまなくなりました
 此は自然であり 又必然であるのですから
 そしてこの孤独に満足さへしようとするのです
 けれども
 私にあなたが無いとしたら――
 ああ それは想像も出来ません
 想像するのも愚かです
 私にはあなたがある
 あなたがある
 そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
 私は人から離れて孤独になりながら
 あなたを通じて再び人類の生きた気息(きそく)に接します
 ヒユウマニテイの中に活躍します
 すべてから脱却して
 ただあなたに向ふのです
 深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
 あなたは私の為めに生れたのだ
 私にはあなたがある
 あなたがある あなたがある

そこで、サブタイトルが「気づかなかった自分が情けないわ」。しかしミカコさん、これを機に、読書にも興味を持つように……。

その他にも、日々の何気ない出来事や、その時々の思いを、亡夫のアカウントに書き続けるミカコさん。それに気付き、はじめは認知症にでもなったかと心配していた娘や孫、職場(ミカコさんは医療事務の仕事をしています)の同僚たちも、「それもありか」と思うようになり、さらに少なからず影響を受けるようになり……という感じです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

美校にて生徒に一言話す、校長や教員諸氏に今度の仕事の事を話し、十月東京行きを告げる、 うなぎ屋にて一同より御馳走になり、バスにて花巻、タキシにて小屋、

昭和27年(1952)7月9日の日記より 光太郎70歳

美校」は岩手県立美術工芸学校。「校長」は森口多里、「教員諸氏」には深沢省三・紅子夫妻舟越保武佐々木一郎らがいました。「今度の仕事」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作です。

他の日の日記等でほとんど見かけたことがなく、おやっと思ったのが「バスにて花巻」の記述。当時、盛岡~花巻間の路線バスがあったのですね。

新刊刊行物、2件ご紹介します。

まず、小金井市の美術系古書店・えびな書店さんの在庫目録『書架』138号。軸装された光太郎の書が写真入りで紹介されています。
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おそらく色紙で、書かれているのは大正3年(1914)の詩「晩餐」の一節。

   晩餐

 暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を
 ぬれ鼠になつて
 買つた米が一升
 二十四銭五厘だ
 くさやの干(ひ)ものを五枚
 沢庵を一本
 生姜の赤漬
 玉子は鳥屋(とや)からアトリエの光太郎智恵子
 海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
 薩摩あげ
 かつをの塩辛

 湯をたぎらして
 餓鬼道のやうに喰ふ我等の晩餐

 ふきつのる嵐は
 瓦にぶつけて
 家鳴(やなり)震動のけたたましく
 われらの食慾は頑健にすすみ
 ものを喰らひて己が血となす本能の力に迫られ
 やがて飽満の恍惚に入れば
 われら静かに手を取つて
 心にかぎりなき喜を叫び
 かつ祈る
 日常の瑣事にいのちあれ
 生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ
 われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
 われらつねにみちよ

 われらの晩餐は
 嵐よりも烈しい力を帯び
 われらの食後の倦怠は
 不思議な肉慾をめざましめて
 豪雨の中に燃えあがる
 われらの五体を讃嘆せしめる

 まづしいわれらの晩餐はこれだ

詩は大正3年(1914)のものですが、色紙が書かれたのは、字体などの特徴からおそらく戦後と思われます。30年以上も前の詩からの引用ということになりますが、この詩は詩集『智恵子抄』に収められたもので、戦後に智恵子抄の復刊が相次ぎましたから、そうした際に読み返していて記憶に残っていたのでしょう。他にも「晩餐」の一節、あるいは少しだけの異同がある句を揮毫した書が複数、戦後期に書かれています。

GWレポート その2 小坂町立総合博物館郷土館企画展「平成29年度新収蔵資料展」。
朝日新聞 読書欄/読売新聞 読売俳壇。

それにしてもえびな書店さん、このところ、毎号のように目録に光太郎作品が載っています。中にはかつて他店で扱っていたものもありますが、そうでないものも多く、どういう入手ルートをお持ちなのか、まぁそのあたりは企業秘密なのでしょうが……。

131号(令和2年=2020) 132号(同) 135号(令和3年=2021) 136号(同) 137号(同)

で、それぞれ、それほど不当な高価格になっていません。今回のものは35万円。正直に言うと、「これ、安すぎないか?」という感じです。当方には手が出ませんが(笑)。

収まるべきところに収まって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

山にかへらんとして又盛岡に行くことにして汽車にて盛岡、菊屋に泊る、 下村海南の講演を公会堂できく、 夜民子の家にて天ぷら夕食、


昭和27年(1952)7月8日の日記より 光太郎70歳

銀行やら郵便局やらの用事で、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から花巻町中心街に出た後の記述です。

04a3454a-s菊屋」は現在の北ホテルさん、光太郎の盛岡での定宿でした。「下村海南」は官僚、新聞経営者、政治家、歌人。光太郎とは旧い知り合いでした。昭和17年(1942)の雑誌『知性』には、光太郎、下村、笠間杲雄(外交官)、岸本誠二郎(経済学者)での座談会「大東亜文化建設の課題」が収録されています。

民子」は、盛岡の「天よし」という飲み屋のマダム。「天よし」の店名も光太郎の命名だったそうです。彼女に贈った光太郎の書も存在します。曰く「うつくし かぐはし ほほゑまし」。民子のことでしょう。民子が長唄の免状を手にした祝いということでした。

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