カテゴリ: 文学

都内から古書即売会の情報です。

この手の即売会、規模の大小はいろいろあって、以前よりぐっと減ったものの小規模なものまで含めれば常にどこかしらで開催されてはいる感じですが、今回ご紹介するのはそれなりに大規模、ネット上でも積極的に宣伝が為されています。ちなみに「ABAJ」というのは「日本古書籍商協会」さんだそうで。

ABAJ 国際 2024稀覯本フェア

期 日 : 2024年3月15日(金)~3月17日(日)
会 場 : 東京交通会館展示会場 カトレアサロンA・B 千代田区有楽町2-10-1
時 間 : 3月15日(金)12時〜19時 /16日(土)10時〜18時 /17日(日)10時〜16時
料 金 : 無料

 向春の候、皆様には益々のご健勝の事とお慶び申し上げます。いつも私共ABAJ(日本古典籍商協会)並びに会員各位に対して格別のご支援とお引き立てを賜り誠に有難うございます。
 今日、激動の国際情勢と変化を求められる世情の中で、書物の価値は益々高くなるものと確信いたしております。この度のフェアでは内外の有力書店28社の協力により精選された稀覯本を展示して皆様のご来場をお待ち申し上げます。
 2024年が皆様にとりまして大躍進の年となります様、心より祈念致します。

2024年2月吉日
ABAJ 会長(日本古書籍商協会)北澤一郎
ABAJ国際稀覯本フェア実行委員会一同
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出品目録に依れば日本の古典籍と洋書が中心ですが、日本近代ものもちらほら。

その中で、札幌の弘南堂書店さん(30年程前に一度お伺いしました)で、光太郎のそれを含む萩原朔太郎追悼文の直筆原稿25人分。
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昭和17年(1942)8月の雑誌『四季』第67号で、この年5月に没した朔太郎の追悼特集を組み、それに寄せられた原稿です。光太郎の稿は「希代の純粋詩人-萩原朔太郎追悼-」という題でした。下画像の右端です。
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一括で残っていたんだ、という感じでした。

さらに弘南堂さん、光太郎第一詩集『道程』もご出品。
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カバー欠ですが、識語署名入り。識語は聖書の一節です。

ご興味おありの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

それで「開闡郷土」の揮毫も思の外すらすら書けました。

昭和21年(1946)11月22日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「開闡(かいせん)」は「開き広める」の意。茨城取手の素封家だった宮崎の父・仁十郎らに依頼され、取手の長禅寺に郷土の開拓発展の歴史を振り返り、功労者を顕彰する的な碑を建てることになり、その題字「開闡郷土」を光太郎が揮毫しました。ところがこの時書いた揮毫を宮崎が列車の網棚に置き忘れ、のちに再度揮毫することになります。

碑は長禅寺参道石段右側に現存しますが、繁茂する篠竹に覆われ、視認が困難な状況になっています。
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地方紙掲載記事から2件、ご紹介します。

まず、『長野日報』さん。

尾崎喜八、没後50年 その詩心を訪ねて

 山や自然を愛した詩人、尾崎喜八(1892~1974年)が亡くなって、今年2月で50年になった。喜八は1946年9月から7年間、富士見に滞在した。その縁で茅野市豊平小、岡谷南高校(岡谷市)、富士見町富士見小学校など諏訪地域をはじめ、県内の小中学校、高校を中心に生涯で40を超える校歌を作詞し、今でも多くの児童・生徒たちに歌われている。激動の20世紀を生きた詩人の心の変遷を、「自註 富士見高原詩集」などを手掛かりにたどってみた。

■自然や人間を賛美する詩人
 東京市京橋に生まれた喜八は、京華商業学校を経て中井銀行に就職。武者小路実篤や志賀直哉などが創刊した雑誌「白樺」の影響を受け、理想主義的な作風の下、自然や人間を賛美する詩人として出発した。
 30歳で最初の詩集「空と樹木」を刊行すると、「道程」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎、フランスのノーベル文学賞作家ロマン・ロランとも手紙を通じて交流した。
 喜八は夏の暮らしを描いた「高層雲の下」から「クリスマス」、「大根」に至るまで、日々の生活の景色と心情を自由な形で歌った。第5詩集「行人の歌」に納めた「私の詩」では、素朴な魂の人びと、日々の悪戦を戦う人びとに自分の詩を贈りたいとし、〈私は自分の詩によって 彼らの楽しい伴侶でありたい〉と願った。
 自然観察の成果を集めた随筆集「山の絵本」、独学でドイツ語を習得してヘルマン・ヘッセの翻訳も刊行し、旺盛な文学活動を展開。大正期の自由主義的雰囲気が去り、昭和初年の世界恐慌、ファシズムと戦争のにおいが濃くなる中、配給の芋を題材にした「此の糧」、銃後の民衆を歌った「同胞と共にあり」を書名に選んだ詩集も出版した。

■敗戦で心に傷 生き直す決心
 しかし日本は1945年8月に敗戦を迎え、精神的に傷を負う。「慙愧と後悔」から世の中や過去から離れ、「全く無名の人間として生き直すこと」を願い、46年9月に元伯爵渡辺昭が富士見高原に所有していた別荘「分水荘」へと移り住む。〈人の世の転変が私をここへ導いた。 古い岩石の地の起伏と めぐる昼夜の大いなる国、〉(「土地」)へとやって来た。
 富士見の地で「春の牧場」「夏の小鳥が……」「或る晴れた秋の朝の歌」など高原の四季を折り込んだ詩を創作。厳しく美しい自然と、その中にあって貧しくもひたむきに生きる人びとの賛歌を詠んだ。自らの心情を書名に掲げ55年に刊行した詩集「花咲ける孤独」は、遅咲きの詩人の後期を代表する作品となった。
 一方で地元の人との温かい交流も生まれ、講演のほか校歌制作も依頼されるようになる。県内では旧岡谷南部中(49年制定)、信大付属松本中(51年)岡谷南高校(52年)茅野市豊平小(同)などを手掛け、今も多くの学校に歌碑が立つ。
 喜八は校歌作詞の思い出をつづった文章で、「書く前に必ず一度はその学校まで行って、そこの校庭のまんなかに立って周囲の風景だのを見ないと気が済まない」とし、北海道の1校を除き、「その他はどんな山間僻地へもすすんで出掛けた」と振り返った。
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■書く前に必ず訪れイメージ
 多くの校歌がそうであるように、喜八の詞も1番は山川草木など身近な自然の情景が歌われ、2、3番と続くにつれ、理想や希望への意志が込められる。豊平小の2番は〈清くけだかい白樺を 朝な夕なの校庭に 遠い古人の生活を しのぶ遺跡は村のうち 歴史と知恵のふるさとに うまれて学ぶうれしさよ〉とある。
 富士山、八ケ岳、校章のモチーフ駒草が詠われた岡谷南高の3番は〈真夏を山に鍛えては 氷に冬を楽しみつ 平和文化に国を成す 理想のもとに学ぶなる 見よや我等が愛する母校 岡谷の南高等校 月雪花の信濃路に 誉の其の名わが母校〉と結ばれる。
 52年11月に東京都世田谷区、66年12月に神奈川県鎌倉市に居を移すも、富士見高校(56年)、旧富士見高原中(60年)、茅野市永明中(63年)、岡谷南部中(64年)、そして40校目に富士見小(72年)の校歌を作った。
 富士見小の3番は〈理想は高い空の雲 心は広い地のながめ 両親、仲間、先生たちの 愛の思い出富士見高原 ここに学んで人と成る日も幼な心の帰るふるさと このふるさとを忘れまい〉。喜八によると、「詩は言葉と文字の芸術であると同時に作者の心の歌でもある」。校歌もまた詩の一つであると考えた喜八にとって、この連は富士見で過ごした日々を想起した”心の歌”であったかもしれない。

■言葉の探求は今もこの地で
 富士見町高原のミュージアムには喜八の自筆原稿、愛用のカメラ、自然観察に使用した双眼鏡、登山靴など寄贈資料から成るコーナーがある。島木赤彦や伊藤左千夫など多くの歌人や文人にゆかりがある同町では、毎年秋に詩の心を後世につなげる「富士見高原詩のフォーラム」が開かれる。自分の心を凝視し、自然と一致する瞬間を見つけようとする言葉の探究は、今も富士見の地で続けられている。

光太郎智恵子と交流の深かった、尾崎喜八。没後50年ということで、改めて脚光を浴びつつあるようで、昨年末には同趣旨の記事が『毎日新聞』さんにも。

令孫にあたられる石黒敦彦氏、光太郎と喜八に関する新刊書籍の刊行などを考えられているようで、来(きた)る4月2日(火)の連翹忌の集いにてその件をお話下さるそうです。ありがたし。

もう1件、『岩手日報』さんから。

「ぼくのほそ道」俳句大会選考会 

 岩手日報社「ぼくのほそ道」俳句大会の受賞句が決まった。対象句は応募句506句の中から一次選考を通過した60句。選考会は盛岡市内丸の同社で開かれ、俳人の白濱一羊さん、高野ムツオさん、文化部の戸舘大朗記者が作品を合評した。

入選 きらきらとぼくのほそ道雪踏めば 奥州・岩渕正力

高野 これは話題にしないといけないんじゃないですか。
戸舘 とてもうれしい一句です。ありがとうございます!
白濱 「挨拶句」ですね。連載名の言葉を詠み込んで、ちゃんと句になっている。
高野 雪を踏んだら、あるはずもないが、ぼくのほそ道が現れて、見えた気がした。発想がいい。
戸舘 自らの「ほそ道」を歩いているという句ではない?
高野 雪を踏む、でなく雪踏めば、だからね。この表現だと、踏んで現れた、という意味だろう。
白濱 高村光太郎みたいだね。「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
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「ぼくのほそ道」俳句大会、「ぼくの」と冠されているので、若い世代対象の企画かと思ったのですが、さにあらずでした。

入賞句それぞれの評が載っていたのですが、光太郎がらみのもののみ抜粋しました。もっとも、句自体が完全に光太郎オマージュというわけではないようですが、おそらく審査員の方が評されたことを、作者の方も感じていたのではないかと思われます。

喜八の記事にしてもそうですが、光太郎を引き合いに出しても「高村光太郎? 誰、それ?」という状況になってしまいますと、成り立ちません。そうならないよう、今後とも顕彰活動に力を注いで参りますので、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

今度詩碑には小生直接加筆して補正彫鏨する事になりました。多分十一月中には出来るでせう。


昭和21年(1946)10月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「詩碑」は昭和11年(1936)、光太郎が揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑です。
まだ東京にいた最初の揮毫の際、花巻から送られてきた原稿の通りに揮毫したところ、賢治が手帳に書いた通りでなかった箇所が複数ありました。そこで、碑前に足場を組んで訂正箇所を光太郎が直接書き込み、石工の今藤清六が鏨(たがね)で彫りました。
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賢治が元々手帳に「ヒドリ」と書いていた箇所は「ヒデリ」のまま残されました。光太郎が最初に揮毫した昭和11年(1936)の時点で、遺族等の間で既に「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記だろうという説が半ば定説化しており、光太郎は花巻から送られてきた原稿が「ヒデリ」となっていたそのままを書いたわけです。

ところが、さる高名な宗教学者のセンセイが、この改変を光太郎の仕業と思い込み、あちこちで喧伝しています。「違う」と指摘が相次いでも改める風もなく、超迷惑です。脳が硬直化すると、一度こうだと思い込んだことは訂正できなくなってしまうのでしょうか。そうはならないように努めたいものです。

既に始まっている展示です。

状況をわかりやすくするため、『北海道新聞』さん記事から。

賢治、有島の初版本 100年の時超えて 道立文学館 特別展に200冊

015 道立文学館(札幌)で特別展「100年の時を超える」が開かれている。宮沢賢治の詩集「春と修羅」(1924年=大正13年)、有島武郎の訳した「ホヰットマン詩集」(2冊、21、23年)初版本など主に明治、大正期に出版された約200点を、外国文学、詩集、歌集・句集・川柳、小説など6項目に分けて展示している。
 すべて道立文学館の所蔵。ケースに入って手にすることはできないが、主な作者や本の概要、装丁などについて解説文を付けている。
 このうち外国文学では、米国の詩人ウォルト・ホイットマンの「ホヰットマン詩集」は、有島が翻訳と装丁を手がけた。表紙はホイットマンの手書きの原稿の写しの上に、表題を記した紙を斜めに貼っている。
 貴重なのは宮沢賢治の「春と修羅」で、賢治の生前に刊行された唯一の詩集。萩原朔太郎の初詩集「月に吠える」(17年)は54編を収録し、病的で奇怪な感覚を描いて反響を呼び、日本の近代詩を代表する詩集となった。高村光太郎の第1詩集「道程」(14年)は初版本と白布装の「異本」があり、異本には高村直筆の書き込みがある。
 このほか画家竹久夢二が装丁した吉井勇「源氏物語情話」(18年)、坪内逍遥の「新曲 浦島」(04年)、芥川龍之介の名作童話「杜子春」などを収めた豪華本「三つの宝」(28年)もある。
 苫名直子副館長は「100年前の本に込められた作り手の思いとともに、200点を超える書籍を見て日本の近代文学のバリエーションの豊かさを感じ取ってほしい」と話している。
 3月24日まで。月曜休館。一般500円、高大生250円、中学生以下と65歳以上無料。問い合わせは同館、電話011・511・7655へ。

開催情報を。

特別展「100年の時を超える ―〈明治・大正期刊行本〉探訪―」

期 日 : 2024年2月3日(土)~3月24日(日)
会 場 : 北海道立文学館 札幌市中央区中島公園1番4号
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日(ただし、月曜日が祝日等の場合は開館)
料 金 : 一般500(400)円、高大生250(200)円、中学生以下・65歳以上無料
      ( )内は10名以上の団体料金

 明治・大正――この時代、西洋の制度や文化を取り入れて世の中が大きく変わり、今の我々の社会や生活の基盤がつくられます。多くの混乱を伴いながら急速な近代化への道を進む中で、本の世界にも当時の文学の新潮流や社会情勢が反映され、多種多様な書籍が出版されました。併せて装幀も抒情的な感性を示すもの、色鮮やかでモダンなものなどが次々と登場し、魅力が尽きません。
 北海道立文学館では、貴重な初版本も含め、この時期に刊行された本を多数所蔵しています。1926年に大正が幕を閉じてから、100年が経とうとする今、近代日本の息吹を感じさせる本の数々によって、明治・大正という時代に思いを馳せていただければ幸いです。
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フライヤーには画像がありませんが、光太郎第一詩集『道程』の通常版と「異本」と、二種類が出ているとのこと。

通常版は当方の書架にも一冊ありますが、紺色の紙の表紙です。
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こちらと、さらに白い布装だという「異本」。おそらく献本として少部数作られた私家版と思われます。

この私家版『道程』に関しては、稀覯本研究家であらせられる秀明大学さん学長・川島幸希氏が、平成24年(2012)4月の『日本古書通信』さんの連載「私がこだわった初版本」で紹介され、さらに平成26年(2014)には同大の学祭・飛翔祭の際に展示なさいました。

今回展示されているという「異本」、これと同一のものか、あるいは川島氏が所蔵されていたものか(氏は入手なさったものも手許に置いておかないことが多いようなので)、という感じです。

ちなみに文語定型詩全盛だった当時の「詩集」という概念を突き抜けていた『道程』、売れ行きはさんざんで、光太郎曰く、きちんと版元から売れたのは七冊だけだったとのこと。現在残っているもののほとんどは光太郎から友人知己等に贈られたものと推定されます。

刊行翌年の大正4年(1915)以降、残本を改装して奥付を変えたものが何度か刊行され、国会図書館さんでデジタルデータとして公開されているものもこちらです。道立文学館さんで今回展示されているものは、同館の所蔵リストに依れば大正3年(1914)刊とのことですので、これではないでしょう。

他に宮沢賢治の『春と修羅』、北原白秋が『思ひ出』、薄田泣菫の『白羊宮』、吉井勇著・竹久夢二装幀『源氏物語情話』、萩原朔太郎『月に吠える』などが並んでいます。

文豪マニアの方など、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

この四日の朝山を降りて花巻に来ました、智恵子の祥月命日と亡父の十三回忌の法要を五日に当地の松庵寺といふ浄土宗のお寺で営みました。


昭和21年(946)10月7日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

光太郎、敬虔な仏教徒というわけではなかったのですが、この手の法要はほとんど欠かしませんでした。 

参加者募集型の朗読系イベント情報を2件。

まずは和歌山県から。

和み朗読サロン

期 日 : 2024年2月22日(木)
会 場 : カルチャーべルーム 和歌山市杉ノ馬場1-44ベルネットビル2F
時 間 : 14時40分~15時30分
料 金 : 1,500円

高村光太郎の「智恵子抄」を朗読します。和み朗読教室は、和み楽しく学べる教室です。朗読がはじめてという方、大歓迎! 聞き参加可能です。 高村光太郎の世界を一緒に感じてみませんか?
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「和み朗読教室」という団体さんがいろいろワークショップをなさっている中の一環のようです。ただし、朗読してみたいという方の参加申し込みは先週〆切りでした。それでもまだ空きがあるかもしれませんし、聞くだけの参加も可能とのことです。

もう1件、都内からこちらは朗読者とスタッフの募集。

4/19(金)上野水上音楽堂でイベント開催決定!出演者・スタッフ大募集!朗読の祭典を一緒に作りませんか?

募集要項
【ソロ部門】
 ・出演時の朗読時間は8分程度
 ・オーディション参加費:2,000円

【群読部門】
 ・2~4名のチームでお申し込みください
 ・出演時の朗読時間は15分程度
 ・オーディション参加費:4,000円

 ※オーディション参加者(チームメンバー)は、合否に関わらず当日イベントの入場無料!
 ※出演決定者には、当日スタッフとして簡単なお手伝いもお願いいたします。

【当日スタッフのみでの参加者】
 ・イベントを楽しみながら一緒に盛り上げてくださる方を募集します!
  (応募フォームからお申し込みください)
 ・入場無料でイベントをお楽しみいただけます。交通費支給(上限3,000円)。

応募方法
 ②このポストをいいね&リポスト
 ③課題3作品から1作品選んで朗読を録音
 ④応募フォームよりお申し込み&課題音源投稿
 ⑤お申し込みから1週間以内に参加費をお振込みください
【銀行口座】
 GMOあおぞらネット銀行(金融機関コード:0310) 支店名 法人営業部(支店コード:101)
 普通 1507296 口座名義 朗読らいおん合同会社 ロウドクライオン(ド

課題・審査基準
【課題】
 ①「月夜とめがね」小川未明(指定の抜粋部分)
 ②「走れメロス」太宰治(指定の抜粋部分)
 ③「人類の泉」高村光太郎
   (群読部門はチーム全員で群読してください)

【審査基準】
 ・本番を想定し朗読が聴こえる最低限の声量
 ・テーマ「いのち」への思いが伝わる読み
 ・ステージでの朗読経験の有無は問いません

【注意事項】
 ・課題音源は.wav形式または.mp3形式にてご提出下さい。
 ・本番で読む作品は青空文庫掲載作品に限ります。「いのち」というテーマから、
  ご自身(チームメンバー)の自由なイメージで2次審査開始時までに選書して下さい。
 ・出演者には、イベントで選書の理由についてインタビューします。
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本番は4月だそうですが、その参加者募集ということです。課題三作品に『智恵子抄』所収の光太郎詩「人類の泉」(大正2年=1913)が入っています。群読でやるというのも面白そうですね。

我こそは、と思う方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

まつたく毎日訪問客に責められてゐます。一昨日一人、昨日一人、今日四人といふやうなわけです。そして一日中の一番よい時間を取られるのであとは何も出来ません。夜は早くねて朝四時頃起き、朝食を早くすませて、九時前に一仕事する外ありません。今さうやつてゐます。 一聯の長い詩が出来さうです。

昭和21年(1946)9月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村。光太郎は隠棲のつもりでも、光太郎を慕う人々が放っておいてくれないという状況、結局、厳寒期を除いてずっと続きました。

「一聯の長い詩」は、翌年の雑誌『展望』に発表した連作詩「暗愚小伝」でしょう。

花巻より帰って参りましたが、そちらのレポートの前に、テレビ番組の再放送情報を。

まずは一昨日、初回放映があった「にほんごであそぼ」

にほんごであそぼ 道

地上波NHK Eテレ 2024年2月15日(木) 15:35〜15:45 2月17日(土)  07:00〜07:10

書道で学ぶにほんご・名文たかし・ぐうたらちんたら/道、朗読(津田健次郎)・こどもスタジオ/僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る「道程」高村光太郎、偉人とダンス/結局のところ、間違った道でも、いつもどこかには通じているものなのだ。(ジョージ・バーナード・ショー)、うた「道程」

【出演】南野巴那 津田健次郎 齋藤孝 青柳美扇 世田一恵 中村彩玖 川原瑛都 川田秋妃
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続いて、今日の午後です。2時間ドラマの再放送。

おかしな刑事8 居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査!東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!

地上波テレビ朝日 2024年2月14日(水) 13:55〜15:50

ある日、東京タワー近くの公園を訪れた鴨志田は、30年前に同所で起きた幼女誘拐事件の被害者の父と再会する。その事件の主犯は交通事故死、懸命な捜査の甲斐なく共犯者の行方もわからないままだった。その夜、会社社長の冬木が刺され、重体となる事件が発生。冬木のもとには「東京タワーは知っている」という脅迫状が届いていた。そんな中、ホームレスの男・駒田が刺殺体で発見された。鴨志田は“駒田”という名字が気にかかり…

◇出演者 伊東四朗、羽田美智子、石井正則、小倉久寛、辺見えみり、山口美也子、
     木場勝己、小沢象、丸山厚人、菅原大吉 ほか
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初回放映時(平成23年=2011)のサブタイトルが「地上333メートルの殺意!! ホームレスが隠した事件の謎!? 安達太良山で待ち受ける真実!! 『智恵子抄』に秘められた想いとは…」。事件関係者の一人が、智恵子の故郷・二本松出身という設定で、安達太良山、岳温泉、智恵子生家などでのロケが敢行されました。

もう1件。

偉人の年収 How much? 選 歌人 与謝野晶子

地上波NHK Eテレ 2024年2月17日(土) 20:00~20:30

教科書に載るような偉人たちはいくら稼いでいたの?お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる!今回は「情熱の歌人」与謝野晶子の素顔に迫ります。

愛の歌集「みだれ髪」で衝撃的にデビューした与謝野晶子。初めての収入は何に使った?夫・与謝野鉄幹のヨーロッパ留学を実現するための費用4000万円(現在価値)を用意するため、晶子が始めたこととは?大正時代には男女の意識の変革を訴え、昭和になるとあることに打ち込んだ晶子。鉄幹死後の晩年の年収は?グローバルな視点でいまの私たちにも訴えかけてくる与謝野晶子の姿を今野浩喜が演じ、谷原章介、山崎怜奈と語り合う。

出演者 【司会】谷原章介,山崎怜奈,【出演】今野浩喜
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初回放映は先月8日でした。光太郎の姉貴分・与謝野晶子ということで、ひょっとすると光太郎に触れられるかな、と思って拝見したのですが、残念ながら触れられず。それでもなかなか見応えがございました。
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光太郎には触れられませんでしたが、光太郎が終生敬愛し続けたロダン。
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さらに、晶子が現代語訳をした『源氏物語』については、光太郎とも交流の深かった堀口大学、佐藤春夫の評。
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光太郎も与謝野夫妻の雑誌『冬柏』に「所感-与謝野晶子『新新訳源氏物語』-」(昭和14年=1939)という一文を寄せているのですが。

それから、拝見していて「ありゃま」。コメンテーターとして、神奈川大学さんの講師・小清水裕子氏がビデオ出演なさいました。同氏、当会主催の連翹忌の集いにも複数回ご参加下さっています。
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それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

検閲済みの印など捺されておハガキが届きました。小生のハガキも時々捺印されてゆくでせう。


昭和21年(1946)9月11日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

GHQの指導でしょうか、私信まで検閲対象だったわけで。戦時中でも一般人のそれは対象にはなっていなかったと思うのですが。それもこれも敗戦国だから仕方がなかったのですが、こんな時代に逆戻りすることがあってはなりませんね。

1年以上前の刊行ですが、つい最近入手しました。

世界で最初に飢えるのは日本 食の安全保障をどう守るか

2022年11月16日 鈴木宣弘著 講談社(講談社+α新書) 定価900円+税

いまそこに迫る世界食糧危機、そして最初に飢えるのは日本、国民の6割が餓死するという衝撃の予測……アメリカも中国も助けてくれない。国産農業を再興し、安全な国民生活を維持するための具体的施策とは?
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目次002
 まえがき
 序章 「クワトロ・ショック」が日本を襲う
  「飢餓」が現実になる日
  「大惨事が迫っている」国際機関の警告
  コロナで止まった「種・エサ・ヒナ」
  ウクライナ戦争で破壊された「シードバンク」
  世界で起こっている「食料・肥料争奪戦」
  「バイオ燃料」が引き起こした食糧危機
  一日三食「イモ」の時代がやってくる
  日本には「食料安全保障」が存在しない
  「市場戦争」と「自己責任」が食糧危機を招いた
  なぜ「食料増産」をしないのか
 第一章 世界を襲う「食の10大リスク」
  穀倉地帯を直撃した「ウクライナ戦争」
  国力低下の日本を直撃「中国の爆買い」
  人手不足を悪化させた「コロナショック」
  もはや当たり前になった「異常気象」
  「原油価格高騰」で農家がつぶれる
  世界の食を牛耳る「多国籍企業」
  食を軽視する「経産省・財務省」 
  「今だけ、カネだけ、自分だけ」の「新自由主義者」が農業を破壊する
  「農業生産の限界」が近付いている
 第二章 最初に飢えるのは日本
  日本の食料自給率はなぜ下がったのか
  コメ中心の食を壊滅させた「洋食推進運動」
  食料は武器であり、標的は日本
  コメ中心の食生活がもたらす「10のメリット」
  有事にはだれも助けてくれない
  「食料はお金で買える」時代は終わった
  「食料の収益性」を挙げても危機は回避できない
  「食料自給率を上げたい人人はバカ」の問題点
 第三章 日本人が知らない「危険な輸入食品」
  台湾で「アメリカ産豚肉の輸入反対デモ」が起きたワケ
  「成長ホルモン牛肉」の処分地にされる日本
  「輸入小麦は危険」の理由
  「日米レモン戦争」とポストハーベスト農業の真実
  ポテトチップスに使われる「遺伝子組み換えジャガイモ」
  輸入食品の危険性は報じられない
  世界を震撼させた「モンサントペーパー」
  「遺伝子組み換え表示」が実際に無理になったワケ
  表示の無効化に負けなかったアメリカの消費者
 第四章 食料危機は「人災」で起こる
  世界中で「土」が失われている
  化学肥料農業を脅かす「リン枯渇問題」と「窒素問題」
  農薬が効かない「耐性雑草」の恐ろしさ
  世界に広がる「デッドゾーン」
  多国籍企業が推進する「第二の緑の革命」
  「アメリカだけが利益を得られる仕組み」が食料危機をもたらす
  「牛乳余り問題」という人災
  「買いたくても買えない」人には人道的支援を
  あってはならない「酪農家の連鎖倒産」
 第五章 農業再興戦略
  「日本の農業は過保護」というウソ
  日本農業の「三つの虚構」
  農業の大規模化はムリ
  有機農業で中国にも遅れをとる
  「農業への補助金」実は大したコストではない
  「みどりの食料システム改革」
  「GAFAの農業参入」という悪夢
  「三方よし」こそ真の農業
  給食で有機作物を
  「ローカルフード法」は日本を変えるか
  日本のお金が「中抜き」される理由
  「ミュニシパリズム」とは何か
  「新しい食料システム」の取り組み
  「有機農業&自然農法」は普及できるか
 あとがき

著者の鈴木宣弘氏は東京大学大学院農学生命科学研究科教授。食糧問題に関する提言をされる中で、光太郎の言葉を引用されています。当方が最初に気づいたのは一昨年3月の地方紙『長周新聞』さんに載った「【緊急寄稿】日本は独立国たりえているか―ウクライナ危機が突きつける食料問題」という記事で、光太郎最晩年の詩「開拓十周年」(昭和30年=1955)の一節、「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」が引用されていました。その後(その前からも)、鈴木氏、ことあるごとにこの一節を紹介されています。そして今回ご紹介する『世界で最初に飢えるのは日本 食の安全保障をどう守るか』でも。

それにしても目次を見ただけでもショッキングな言葉が並んでいますね。しかし、陰謀論者の強引な牽強付会とは一線を画し、きちんとしたエビデンスに基づいて理路整然と論が展開しています。

こういう問題についつい目を背けがちなのは、国民はバカでいてほしいと願う、壺の大好きな為政者たちの思う壺なのかも知れません。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

貴下に頂いた南瓜も成り、真壁さんにいただいた帯紫茄子も種子から育てて大成績をあげ、既に毎朝新鮮なのを賞味して居ります。


昭和21年(1946)9月5日 更科源蔵宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村でまがりなりにも三畝の畑を開墾し、野菜類はほぼ自給していた光太郎、昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」では「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言しています。
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ネタ不足となってきまして、では「自分でネタを作ってしまえ」と(笑)、いわゆる「漢字ナンクロ」を自分で作ってみました。

きっかけは昨年10月に発行された漢字ナンクロの専門誌『別冊漢字館 Vol.112』。「特集 ある芸術家の愛と哀 高村光太郎」というわけで、昨年生誕140周年だった光太郎にちなむ漢字ナンクロを3問掲載して下さいました。

それを実際に解いてみて、さらに他の光太郎にからまない問題も一通り解き、すると、ふと思いました。「これなら俺にも作れるんじゃね?」(笑)。

で、出来たのが下記です。

まずは昭和3年(1928)の光太郎詩「あどけない□」。「□」は問題の一部ですので「□」です。
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空欄になっている10文字の漢字を埋めて下さい。光太郎智恵子ファンの皆様には簡単ですね(笑)。

その同じ番号の漢字を下記に埋め、残り34文字も考えて下さい。
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判った漢字は下記のチェックリストにも埋めていきましょう。
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そして「9」、「12」、「24」……と埋めていくと、光太郎智恵子に関わる単語(固有名詞ですが)が現れます。

014最近はこの手のアプリもあって、それだと選択肢があってPCやスマホ上でピッピッピと選んで埋めていける感じなのですが、このサイトはそういうテクノロジーに対応していませんので、すみませんが、上記3枚の画像をプリントアウトし、鉛筆片手にチャレンジして下さい(笑)。

「簡単に作れるだろう」と高をくくっていたら、そうでもありませんでした。単純にマス目に熟語等を埋めるだけなら意外に簡単なのですが、それでは問題として成立しません。問題として成立させるためのルールというか縛りというか、いろいろハードルがありまして。

その1、一つの漢字を複数回使う。「11」~「44」は最低2回、使っています。1回しか出てこない文字は問題にせず、ヒントを兼ねて最初に埋めておくというルールです。「1」~「10」には1回しか出てこないものもありますが、最初の「あどけない□」の詩の中にも使われているので、そこは勘弁して下さい(笑)。

その2、常用漢字以外は避ける。今日の記事、下の方に出てくる「瀝」などというような漢字は使っていませんので、御安心を(笑)。

その3、黒マスが上下左右に隣り合っていてはいけない。これは通常のクロスワードパズルなどでも同じですね。ただ、アプリではこのルールは適用されていませんし、紙版でも「スケルトン」というタイプの問題だとそうではないのですが。

その4、最初に埋めておく漢字が上下左右に隣り合っていてはいけない。これはかなり高いハードルでした。そのために次のその5との兼ね合いが難しゅうございました。

その5、一般的ではない語は避ける。苦言を呈させていただければ専門誌やアプリではこの点のハードルが低く設定されています。物書きの端くれの当方も「こんな言葉知らねーよ」というのがけっこう使われていまして。そこで、そういう文句が出ないようにと考えて作りました。しかし、一度完成したところで妻に解いてもらったところ、「こんな言葉知らねーよ」が続出(笑)。駄目出しをくらったのは「城代家老」「紫禁城」「大本営」などなど。「この程度の言葉知らんのか」と言うと後が怖いので(笑)それはぐっと飲み込み、その周辺の部分は変えました。それでもまだ無理くり感のある語はどうしても残っています。すみません。

013その6、全ての白マスがつながっていなくてはならない。二度目に完成した後、見直してみたら、左下5分の1くらいの部分が黒マスに遮断され、孤島になっていました。右のような感じで。このルールはマストではないのかな、とも思ったのですが、やはり美しくないので変えました。

そんなこんなで三度目の正直(笑)。明日から世間的には三連休と言うことで、多少はお時間おありのことと存じます。ぜひチャレンジしてみて下さい。

ただし、誠に申し訳ありませんが、正解した方の中から抽選で××名様に……とはいきませんのでよろしく(笑)。

【折々のことば・光太郎】

おハガキ二枚届き、本当に安心しました。 滴瀝をまだ書かない事に気づきました。今日明日にも書きます。

昭和21年(1946)8月30日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

「滴瀝」は光太郎の親友で、この頃病床にあった水野葉舟の歌集。その題字の揮毫を頼まれていました。戦前の昭和15年(1940)に出た版の題字も光太郎が書きました。
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テレビ放映の情報です。

まず、新作。

にほんごであそぼ 道

地上波NHK Eテレ 2024年2月12日(月) 8:35~8:45 
再放送 2月15日(木) 15:35〜15:45 2月17日(土)  07:00〜07:10


書道で学ぶにほんご・名文たかし・ぐうたらちんたら/道、朗読(津田健次郎)・こどもスタジオ/僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る「道程」高村光太郎、偉人とダンス/結局のところ、間違った道でも、いつもどこかには通じているものなのだ。(ジョージ・バーナード・ショー)、うた「道程」

【出演】南野巴那 津田健次郎 齋藤孝 青柳美扇 世田一恵 中村彩玖 川原瑛都 川田秋妃
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これまでも繰り返し光太郎詩を取り上げてきて下さった「にほんごであそぼ」。今回は「道程」で、現在流布している詩集『道程』(大正3年=1914 10月)収録の9行のものではなく、雑誌『美の廃墟』に発表(同年3月)された初出の102行バージョン。さすがに長いので抜粋ですが。

昨年、スタッフさんから読み方等のレファレンス依頼があり、その際には「2024年1月放映予定」と伺ったのですが1月中に無く、「お蔵入りか?」と思ったところ、2月に入ってのオンエアとなりました。

さらに「うた「道程」」。おそらく故・坂本龍一氏作曲の番組オリジナル曲と思われます。

続いて再放送系。

びじゅチューン!「指揮者が手」

地上波NHK Eテレ 2024年2月6日(火) 17:30〜17:35 2月9日(金) 23:50〜23:55

古今東西の美術作品を井上涼のユニークな発想でうたとアニメーションに。今回は、高村光太郎の彫刻「手」(東京国立近代美術館)。この彫刻は、指をやんわり曲げていたり親指が反り返っていたりと、細かいニュアンスを伝えようとしているみたいに見える。これは、オーケストラを動かす指揮者なのかもしれない!「て」という音を効果的に取り入れた歌詞で、左手一本で音楽を自由にあやつる孤高の指揮者を歌う。

【出演】井上涼,【声】ジョリー・ラジャーズ

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初回放映は平成30年(2018)。その後、繰り返し再放送されてきましたし、令和2年(2020)発売の『びじゅチューン! DVDBOOK 5』にも収録されています。笑えます(笑)。

もう1件。

花ふぶき女スリ三姉妹のみちのく温泉デラックス無銭ツアー

BS松竹東急 2024年2月10日(土) 08:00〜10:00

逮捕も覚悟で一世一代の大仕事! 先祖代々のスリ一家に育った三姉妹、美恵・佳恵・沙恵は父譲りの妙技でスリを働いていた。そんな三人が、温泉とスリの旅にみちのくへ向かう。三人を見張る老刑事堀田もその後を追った。旅先で沙恵は松岡というエリート風の青年に出会い一目惚れ。その彼が会社の重要書類を盗まれて困っていると知り、沙恵たち三人は、川田たち三人のスリグループから、書類を取り返そうとするが…。

【公開・放送年】1988年
【出演者】叶和貴子、美保純、宮下順子、佐野浅夫、美木良介、八名信夫、宮尾すすむ、
     ビートきよし(ツービート)、猪野修平、美角友亮、不破万作 ほか


初回放映が昭和63年(1988)、地上波テレビ朝日さん系列での「火曜スーパーワイド」枠でした。光太郎第二の故郷・岩手県花巻市が主な舞台で、ストーリーとは直接の関わりはありませんが、郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)、光太郎が碑文を揮毫した桜町の宮沢賢治詩碑などでのロケが行われました。
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それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

先日は宮崎稔さんに託されて林檎、瓜などたくさんお届けくだされ、早速井戸の中につるし置きて、翌日宮崎さんや丁度来訪せられた佐藤昌先生等と一緒に賞味いたしました。『旭』と申しますが、早成林檎の爽味うれしく、一句試みました。  秋晴れて林檎一万枝にあり  まことに貴家の林檎園は壮観であります。


昭和21年(1946)8月22日 佐藤雪江宛書簡より 光太郎64歳

佐藤雪江は花巻病院長・佐藤隆房夫人。佐藤家でも林檎園を持っていたのですね。まったく花巻のリンゴは美味です。来週にはまた行って参りますので、ゲットして来ます。

俳句は戦後、十句ほど確認できているうちの一句です。

映画の公開情報です。

風よ あらしよ 劇場版

公 開 : 2024年2月9日(金)~ 全国順次公開
上 映 : 新宿ピカデリーほか
出 演 : 吉高由里子(伊藤野枝) 永山瑛太(大杉栄) 松下奈緒(平塚らいてう)
      美波(神近市子) 玉置玲央(村木源次郎) 山田真歩(堀保子)
      朝加真由美(辻美津) 山下容莉枝(渡辺八代) 栗田桃子(保持研
      高畑こと美(尾竹紅吉) 福田ユミ(中野初) 成田瑛基(奥村博史)
      金井勇太(和田久太郎) 芹澤興人(久板卯之助) 永瀬ゆずな(大杉魔子)
      音尾琢真(甘粕正彦) 石橋蓮司(渡辺政太郎) 稲垣吾郎(辻潤)ほか
演 出 : 柳川強
脚 本 : 矢島弘一
音 楽 : 梶浦由記

 関東大震災後の混乱のさなか、ひとりの女性が憲兵に虐殺された。女性解放運動家の伊藤野枝。貧しい家で育った野枝は、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」という言葉に感銘を受け、結婚をせず上京。自由を渇望し、バイタリティ溢れる情熱で「青鞜社」に参加すると、結婚制度や社会道徳に異議を申し立てていく。伊藤野枝を演じたのは吉高由里子。平塚らいてうに松下奈緒。また野枝の第一の夫、ダダイスト・辻潤を稲垣吾郎が、また後のパートナーとなる無政府主義者・大杉栄を永山瑛太が演じる。吉川英治文学賞を受賞した村山由佳の評伝小説『風よ あらしよ』を原作に、向田邦子賞受賞の矢島弘一が脚本を担当する。本作の演出を務めた柳川強は「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子の波乱万丈の人生を描いたNHK連続テレビ小説「花子とアン」のディレクターも務めており、本ドラマでも主演を演じきった吉高由里子とは9年ぶりのタッグを組んだ。ひとりの女性の短くも激しい生涯から100年経ったいま――なにがかわり、なにが残されているのか。

 「女は、家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫が死んだあとは子に従う」事が正しく美しいとされた大正時代。男尊女卑の風潮が色濃い世の中に反旗を翻し、喝采した女性たちは社会に異を唱え始めた。
 物語の主人公は、福岡の片田舎で育った伊藤野枝。貧しい家を支えるための結婚を蹴り上京する。平塚らいてうの言葉に感銘を受け手紙を送ったところ、青鞜社に入ることに。青鞜社は当初、詩歌が中心の女流文学集団であったが、やがて伊藤野枝が中心になり婦人解放運動に発展していく。野枝の文才を見出した第一の夫、辻潤との別れ、生涯のパートナーとなる無政府主義の大杉栄との出会い、波乱万丈の人生をさらに開花させようとした矢先に関東大震災が起こる。そして混乱のさなか、理不尽な暴力が彼女を襲うこととなる……。
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令和2年(2020)に刊行された村山由佳氏の長編小説『風よ あらしよ』を原作に、一昨年、NHK BSプレミアムさん(当時)で放映された全3回のドラマを再編、「劇場版」として公開するものです。

村山氏の原作には登場する光太郎と智恵子、残念ながら登場しませんが、智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)が重要なモチーフとして繰り返し使われています。
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松下奈緒さん扮する平塚らいてうや、永山瑛太さんの大杉栄はじめ、登場人物の中には光太郎智恵子と交流のあった人々も多数。
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主役の伊藤野枝を演じられたのは、今年の大河ドラマ「光る君へ」で「まひろ」こと紫式部を熱演されている吉高由里子さん。吉高さんといえば、当方、光太郎とも面識のあったと思われる村岡花子を演じられた「花子とアン」の印象が非常に強いのですが、紫式部、伊藤野枝、村岡花子と、時代背景は違えど、共通する情熱やしたたかさを持ったある種たくましくもたおやかな部分もあり、なおかつ悪く云えば生意気な女性のイメージですね。吉高さんはこうした女性を演じられたら一級品ということでしょう。

ちなみに「光る君へ」で、大河史上、一、二を争うゲス野郎ともいえる藤原道兼を演じられている玉置玲央さん、「風よ あらしよ」では逆に大杉率いるアナーキスト一派の「良心」ともいうべき村木源次郎役です。当初は「源兄(げんにい)」と呼ばれ、子供たちにも慕われていた村木ですが、大杉・野枝夫妻の没後には大杉の「ああいう奴がほんもののテロリストになる」という予言の通りになっていきます。時間軸としてそのあたりまでは描かれないのですが。

というわけで、「風よ あらしよ 劇場版」、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

本当に辻潤と四人で一度でものまなかつたのが心残りです。辻潤の江戸ツ子気質の性根から来てゐる行動の末々を本当に分つてゐる人は少ないでせう。


昭和21年(1946)8月1日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎64歳

光太郎は野枝の最初の夫、辻潤とも交流がありました。

大正13年(1924)刊行の陶山篤太郎詩集『銅牌』の序文を光太郎が書き、英訳を辻が手がけています。また、昭和14年(1939)に刊行された西山勇太郎詩集『低人雜記』では、光太郎が題字を、辻が序文を担当しました。後の西山宛の光太郎書簡には辻の名が頻出します。また、昭和29年(1954)に刊行された『辻潤集』全二巻の編集委員には、光太郎も名を連ねました。

西山は辻と交流の深かった詩人です。光太郎はこの頃、西山の主宰していた雑誌に、戦時中に餓死した辻の追悼文を依頼され、乗り気だったのですが、結局実現しなかったようです。それが書かれていればもう少し詳しく辻と光太郎の関係性が分かったところですが。

「四人」は光太郎、辻、西山、もう一人はおそらく西山や光太郎と親しかった風間光作と思われます。

ちなみに辻潤、「風よ あらしよ」では稲垣吾郎さん。登場当初はりりしく颯爽としていましたが、次第にダメ男ぶりを遺憾なく発揮していきます。
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まず、新刊書籍の紹介を。2ヶ月ほど経ってしまっていますが。歌集です。

燃える花

2023年11月15日 沢本ひろみ著 文芸社 定価1,000円+税

「古と今は変はりて変はらざり 逢瀬の後は後朝のメール」「『レモン哀歌』の一語一語は哀しみと愛の重さで胸にしたたる」「軒借りて過ぐるを待ちぬ時の雨 嵯峨の紅葉は濡れまさりつつ」──鋭い感性と溢れる思いで読んだ短歌の数々を、〈黎明〉〈友〉〈初恋〉〈京の旅〉〈母〉〈愛〉など、カテゴライズしてまとめた。短歌による自分史ともいえる、素の作者が詰まった一冊。

著者プロフィール
本名・宮崎裕巳。東京都出身。早稲田大学教育学部卒業。都立高校の国語科教師として長年勤務し、後、私立高校でも教鞭を執る。2021年11月より「塔」短歌会に所属。東京都在住。
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目次
 黎明
  自然/音楽/文学/日本舞踊/房総にて/蓼科にて/諸々
 友
 初恋―初夏の陽―
 ヨーロッパ旅行
  パリ/グラナダ/アテネ/ドイツ
 京の旅
 恋―触れられぬ背―
 歌舞伎
  鷺娘/吉野山/梅川忠兵衛/紅葉狩/船弁慶/市川海老蔵丈/歌舞伎見物
 母
 愛 ―燃える花―
 後書き


内容説明欄に「『レモン哀歌』の一語一語は哀しみと愛の重さで胸にしたたる」と、光太郎がらみの歌が一首引かれていますが、これ以外にも二首、光太郎や智恵子抄からのインスパイアが。ありがたし。

「後書き」から。

 私が短歌に心を惹かれたのは、高校生の時です。現代文の授業で近代の短歌を学習し、その時初めて与謝野晶子や若山牧水、石川啄木などの歌と出会いました。目を瞠るような思いで読んだのをよく覚えています。五七五七七という制限された枠組みの中に秘めている豊かな世界に魅了されました。
 同じ頃に詩や小説にも目が啓き、様々な文学に親しんで過ごす内に、少しずつ歌を作り始めたのは、自然な成り行きであったかもしれません。


その後社会人となられ、一時期短歌の世界から離れられていたのが、ふとまた作歌を始められたとのこと。ところがいわゆる「現代短歌」にはある種の違和感を感じられているそうです。

 現代の歌はことごとく写実的な日常詠でなくてはならないのか。それ以外の歌は受け入れられないのか。私は悩みました。
 そんな私の中に、かつて心を躍らせて読んだ明治の歌人達の歌が甦りました。「哀しい」「さびしい」「恋しい」等の語をためらわずに用い、時には自分の感情をたたきつけるように直截に表現した歌。(略)多彩な人々が、自由に個性的に詠んだ歌の世界は、私に小さな勇気をくれました。
 
そこで、時代遅れかもしれないスタイルで、切実な思いやらを自分らしく自由に言葉にすることを心がけているとのことです。

腑に落ちました。いいな、と思える歌が多く、なぜそう感じたかというと、当方もよく眼にする「明治の歌人達の歌」に範を採られているからなのですね。

ちなみに与謝野夫妻の『明星』が本格的な文学活動の出発点だった光太郎も、生涯に1、000首近い短歌を詠んでいます。詩と異なり、手控えの原稿に残すことをしなかったので、未知のものも続々見つかり続けています。高村光太郎研究会さんから4月発行予定の『高村光太郎研究』に、昨年新たに見つけたもの三首を紹介する予定です。

さて、取り上げるべき事項がまた山積して参りまして、『智恵子抄』がらみで近々開催される朗読会の件もご紹介しておきます。

大人のための朗読会

期 日 : 2024年2月4日(日)
会 場 : 佐野市立図書館 栃木県佐野市大蔵町2977
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

高村光太郎作「レモン哀歌 他」、森鴎外作「高瀬舟」、太宰治作「貨幣」の朗読を行います。
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もう1件、『毎日新聞』さんの京都版に、舞鶴市での朗読会の案内も出ていました。ただしこちらはネットで調べてもそれ以上の情報が出て来ませんで……。

第140回かざはな朗読会 

2月2日(金)13時半、舞鶴市溝尻の市勤労者福祉センター。舞鶴今昔物語より「消えた温泉」など、宮沢賢治作「雪渡り」、高村光太郎作「智恵子抄」より。参加無料。主催は朗読愛好会かざはな。

以上、よろしくお願いします。

【折々のことば・光太郎】

痩せてバツタのやうな此の部落の子供達は見かけよりも健康で、元気で、毎日午前十時半の体操の時間には角力やリレー競争で運動会のやうな騒ぎです。分教場の生徒(尋常科)男女合せて三十八名、皆性質のよい、素直な、ハキハキした子供達です。これで田植や草刈には一ぱしの役をつとめて居ます。小生の小屋へもよく野菜や漬物などを持つて農家から使ひに来ます。「コレ、ケル」といひます。「コレヲ進上」といふ意味です。


昭和21年(1946)7月17日 和田豊彦宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、山小屋近くの山口分教場の子供たちについて。戦後となりましたが、教育基本法はまだ施行前で「尋常科」の呼称が残っていたのでしょう。和田は光太郎もたびたび寄稿した『週刊少国民』の編集に当たっており、送られてくる同誌を子供たちに貸してやって……という話の流れです。

新聞記事から、またまた紹介すべき事項が溜まってまいりましたので、2件まとめて。

まずは『毎日新聞』さん。当会顧問であらせられた故・北川太一先生の盟友にして、この国で初めて光太郎を正面から捉えた評論集を刊行した、故・吉本隆明氏がらみです。

エッセー『隆明だもの』刊行 漫画家・ハルノ宵子さん 人間・吉本隆明、衝撃の実像

012 漫画家のハルノ宵子、といえば戦後を代表する思想家・吉本隆明(たかあき)の長女、多子(さわこ)さんのペンネームだが、その人が昨年末にエッセー『隆明(りゅうめい)だもの』(晶文社)を出した。驚くのは、これが知られざる吉本家の内情を明かした一種の暴露本なのである。
 「あとがき」で「吉本主義者の方々の、幻想粉砕してますね」と自ら評し、帯に「吉本家は、薄氷を踏むような“家族”だった」ともある。つづられる吉本と妻の和子(ともに2012年死去)の夫妻間の激しい葛藤、この両親と、著者および妹で作家の吉本ばななさんとの親子間の複雑な心理劇は、全共闘世代の「教祖」といわれ、絶大な影響力を持った吉本の実像として確かにショッキングだ。
  晩年に取材する機会を持った記者もそうだが、吉本と関わった多くの人々が、論争的な著作からすると意外な親しみやすい人柄にひかれた。今でいう「略奪愛」で結ばれた妻と、2人の娘に恵まれた家庭は、はた目には仲むつまじいものとしか見えなかった。
 ところが、本書によると吉本自身が「だいたい10年に1度」「不安定で、攻撃的なサイクル」に入る人であり、和子は「家族皆が振り回された」激しい性格だったという。「父(吉本)が10年に1度位荒れるのも、外的な要因に加えて、家がまた緊張と譲歩を強いられ、無条件に癒しをもたらす場ではなかった」からだとも書いてある。
013 この点について聞くと、ハルノさんは「家では母がすごい力を持っていましたからね。洗濯や料理も進んでやった父ですが、母の気持ちを真っ向から受け止めたり、包容したりする力はない人でした。母は心を支えてほしかったのだと思いますが」よと話す。
 本書は、刊行継続中の『吉本隆明全集』(全38巻・別巻1)の月報に掲載された文章を軸に、ばななさんとの姉妹対談、編集者によるインタビューで構成されている。対談でもハルノさんは「本当いうと、彼(吉本)は結婚すべき人格ではないような気がするんですよね。つまり、妻を支えてとか、そういう意味ではまったく期待できないですね」と手厳しく語っている。
 ハルノさんは1980年代に漫画家としてデビューするものの、妹が独立すると、母が体調を崩したこともあり、やがて家事や、多忙な父のマネジャー役を引き受けざるを得なくなった。しばしば両親の争いの板挟みにもなった。対談でも母の「怖さ」が繰り返し話題になるが、何かにつけてハルノさんを頼りにした母との関係は「共依存だった」とも表現する。
 あまりに個性的な 家族の中で一人、犠牲を強いられたともいえるが、本のトーンは決して暗くない。ユーモアを含んだ柔らかい文体や自作のイラストの効果もあるが、著者の冷静な批評的まなざしに負うところが大きい。そこに自然な愛情や敬意もにじみ出る。「結果的に、家に縛られているうちに面白いものを見せてもらったということになりますかね。状況を楽しむしかなかったですから」と笑顔で語る。
014 父母の葛藤は「一つの家の中に2人の表現者がいる難しさ」だったのではないかという。もともと小説を書いていて結婚後に筆を断った和子は、晩年に俳句を始めている。この見方は、詩人・彫刻家の高村光太郎が画家の智恵子と築いた家庭内の男女の緊張に注目した吉本の評論『高村光太郎』(57年)を思い起こさせ、興味深い。
 他にも、吉本が96年に伊豆の海で遊泳中に溺れた事件を境に「眼(め)も脚も急激に悪くなって」いく様子など、家族でなければ知り得ない生々しい証言は多い。亡くなる4、5カ月前、自宅で大きな音がしたので確かめると、既に視力や運動能力が衰えた身なのに外出の服装をして「玄関の石のたたきに父が転がっていた」という場面に、胸をつかれる読者もいるだろう。
 書名のいわれを尋ねると、「(書家・詩人の相田みつをの)『にんげんだもの』から」。なるほど「ヨシモトリュウメイも一人の人間だった」ということか。吉本の等身大の姿を語ってやまないこの本は、今後の「吉本伝」作家にとって必読の、また頼もしい文献となるに違いない。


『隆明だもの』、店頭で手にとって立ち読みしたのですが、直接光太郎智恵子に触れている部分は見あたりませんでした。まぁ立ち読みであって精読はしていませんから見落としがあるかも知れませんが。

しかし吉本氏夫妻の関係性が光太郎智恵子のそれを彷彿とさせられる、という記者氏の感想。なるほどと思いました。夫婦同業の苦労は、小説『智恵子飛ぶ』を書かれた津村節子氏などもたびたび言及されており(夫は故・吉村昭氏)、その仕事内容がクリエイティブであればあるほど、そうした傾向が強くなるんだろうなと思います。

続いて『山形新聞』さん。彼の地ご出身で、亡きお父さまが光太郎と交流がおありだった劇作家・女優の渡辺えりさんの連載エッセイです。

渡辺えりのちょっとブレーク (224)希望の年を願って

 新しい年が明けた。しかし、能登半島地震の被害はすさまじく、羽田の飛行機事故も痛ましく、波乱の年明けとなった。山形の皆さまは大丈夫だったでしょうか?
 高齢者の避難が困難な現実を目の当たりにし、日頃からご近所の様子などが分かるよう、交流を欠かさないことが大切だと感じた。私が子ども時代の山形市村木沢を思い出す。毎日、いろり端で青菜漬けをつまみながら緑茶をすすり、よもやま話に花を咲かせていた年配の方たちの笑顔が浮かぶ。避難の際の高齢者の保護を考えなくてはいけない。
 年末はロックライブで叫び、31日の大みそかは新宿・京王プラザホテルの宿泊客限定コンサートでシャンソンを歌った。そして今月は、私が演劇の舞台を創作して50年になる記念に劇中歌の中からえりすぐった20曲をレコーディングしている。年末年始は「歌」の仕事が続いた。
 また、うれしいニュースがある。今年5月に山形公演が決まったことだ。コロナ禍に書いた2人芝居を大幅に直し、高畑淳子さんと共演する。昨年の2本立て公演「ガラスの動物園」「消えなさいローラ」と同様に私が演出する。今回は作品も私が書く。コントラバスとバンドネオンの生演奏に加え、歌も披露する。1時間40分の短い作品だ。高畑さんと私は同じ年。ジャンルの違う演劇を続けてきた2人が、ユーモアたっぷりにさまざまな人生を演じる。山形市のやまぎん県民ホールで上演するので、ぜひいらしてください。
 そして今、人形劇「星の王子さま」の脚本を執筆している。結城座という江戸時代から続く人形劇の劇団の新作を依頼された。結城座さんとのコラボは今回で3作目。今年9月の公演だが、オリジナルの人形も制作するため、1月末が締め切りなのだ。
 私ならではの「星の王子さま」を作ろうと考えている。あまりに有名な作品だが、平和を願いながら星空の中で行方不明となったサンテグジュペリの精神を大切に脚色していくつもりだ。
 コロナ禍で中止になっていた学校公演も始まる。山形でも上演させていただきたい作品だ。高村光太郎もファンだった結城座。人形を使いながら、せりふをしゃべる技術の高さを見てほしい。世界にない手法の人形劇だ。
 2月4日は、天童市民文化会館でコンサート「世界は日の出を待っている~渡辺えり 平和への歌声」を開催する。地元で長年活躍しているビッグバンドからの依頼で歌う。「世界は日の出を待っている」は、関東大震災が起きた1923(大正12)年に作られた曲で、春の訪れとともに世界平和を祈っている。同市制施行65周年記念のコンサートとなる。「久しぶりに温泉に入れるのでは?」と期待している。
 そして、仕事で年末年始に会えなかった母ちゃんとも会えるはず。5月17日は父の命日。山形公演の準備で命日に故郷に帰れるのも、皆さまのおかげと父の愛情だと思っている。
 山形の皆さまにとって今年が光に満ちた希望の年でありますように。お互いに持ちつ持たれつ、支え合って生きていきましょう。今年もよろしくお願いします。(俳優・劇作家、山形市出身)
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あいかわらずバイタリティーにあふれていらっしゃいます(笑)。

今年は「江戸糸あやつり人形芝居 結城座」さんとのお仕事もなさるそうで、「高村光太郎もファンだった結城座」とのご紹介。

ファンだったかどうか当方は存じませんが、確かに光太郎、詩の中で座長の九代目結城孫三郎を登場させています。昭和5年(1930)、雑誌『詩・現実』に発表した「のつぽの奴は黙つてゐる」。特異な詩です。

    のつぽの奴は黙つてゐる

『舞台が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマツクスといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技藝員で、名誉教授で、金は割かた持つてない相ですが、何しろ佛師屋の職人にしちやあ出世したもんですな。今夜にしたつて、これでお歴々が五六百は来てるでせうな。喜壽の祝なんて冥加な奴ですよ。運がいいんですな、あの頃のあいつの同僚はみんな死んぢまつたぢやありませんか。親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか。何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。万能足りて一心足らずてえ奴ですな。いい気な世間見ずな奴でせう。さういへば親爺にちつとも似てませんな。いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。やれやれ、式は済みましたか。ははあ、今度の余興は、結城孫三郎の人形に、姐さん連の踊ですか。少し前へ出ませうよ。』

『皆さん、食堂をひらきます。』

滿堂の禿あたまと銀器とオールバツクとギヤマンと丸髷と香水と七三と薔薇の花と。
午後九時のニツポン ロココ格天井(がうてんじやう)の食慾。
ステユワードの一本の指、サーヴイスの爆音。
もうもうたるアルコホルの霧。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ、スピーチ。
老いたる涙。
萬歳。
痲痺に瀕した儀禮の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同士の我慢の崩壊。

何がをかしい、尻尾がをかしい。何が残る、怒が残る。
腹をきめて時代の曝し者になつたのつぽの奴は黙つてゐる。
往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考へてゐる。

詩は昭和5年(1930)の作ですが、語られている場面はそれより2年前の昭和3年(1928)4月16日、東京会館で開催された、父・光雲の喜寿記念祝賀会です。

昨年、雑誌『美術新論』第3巻第5号(昭和3年=1928 5月)にその際の写真が掲載されているのを見つけ、智恵子も写っていたことに仰天しました。結婚後の智恵子が写った写真は10葉たらずしか確認できていませんでしたので。
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2週間ほど後に、渡辺さんとお会いする予定がありますので、結城座さんのお話を伺っておこうと思います。

明日以降、これも溜まってしまった新刊書籍等を紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

彫刻家にとつては何といつても彫刻材を入手した時ほど心からうれしい事はありません。実に愉快に存じます。


昭和21年(1946)7月29日 東正巳宛書簡より 光太郎64歳

東正巳は三重県在住だった詩人、編集者。光太郎は東を通じて西村之雄という人物から椿の木材を入手し、その礼状の一節です。しかし、結局、花巻郊外旧太田村での7年間で、作品として発表した彫刻は一点も作られませんでした。

昨日はふと時間が出来まして、隣町の成田市に行っておりました。細かく言うと、市の南部、成田空港を擁する三里塚地区。かつて宮内庁の旧御料牧場があった場所です。関東大震災後、そこからほど近い場所に第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も訪問、詩「春駒」を作りました。

御料牧場の跡地の一角に整備された三里塚記念公園に、「春駒」を刻んだ詩碑が昭和52年(1977)に建立されていまして、何度も拝見に伺ったのですが、最近になってその近くに別のオブジェがあることを知りました。

それがこちら。
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空港関連施設の高いコンクリート壁、100㍍ほどにわたって描かれた壁画。地元の方々の手になるもののようです。

その1枚目が、「春駒」。隣町に住んでいながらこういうものがあったというのを全く存じませんで、汗顔の至りでした。
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先述の詩碑にも使われた光太郎自筆原稿を写したものです。

これが1枚目で、このあと、「むかしの三里塚」ということで戦前からの御料牧場が描かれた壁画がずらっと。まさに光太郎も目にした風景です。
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この後は現代の三里塚を描いた作品など。そちらは割愛させていただきます。

いつ頃描かれたものか明記はされていないのですが、近くの小学校を描いた絵のキャプションに「平成四年四月、七〇〇名、二一学級の児童が学んでいます」とあるので、その頃と思われます。

近くまで来ましたので、「春駒」詩碑も久しぶりに拝見。一昨年、やはり近くの三里塚コミュニティセンターさんで開催された「三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』展」を観に行った時は、上記画像の貴賓館が改修工事中で詩碑のある一角にも立ち入れませんでした。
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すっかり冬枯れて箒になっていますが、並木はパリ時代に光太郎が愛したマロニエです。

以前は詩碑まで勝手に行けたのですが、今は敷地内の御料牧場記念館さんの方にお願いして柵を開けていただくようになっていました。ちなみにやはり同じ敷地内のやんごとなき方々のための防空壕も同じ扱いです。
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貴賓館。改修工事もすっかり終わっているようで。

ここの庭のような一角に、葉舟の歌碑(左)と「春駒」詩碑(右)が並んで(といっても少し離れていますが)立っています。
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葉舟歌碑には短歌「我はもよ野にみそぎすとしもふさのあら牧に来て土を耕す」が刻まれています。昭和29年(1954)、元々光太郎が揮毫する予定で一度は承諾したのですが、健康状態がすぐれず、代わりに窪田空穂が筆を揮いました。

そして「春駒」詩碑。
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ブロンズパネル制作は西大由、光太郎実弟にして鋳金家だった豊周の弟子筋です。花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くの「雪白く積めり」詩碑パネルも西の手になるものでした。

碑陰記の筆跡は当会の祖・草野心平。
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何度も訪れた場所ですが、昭和52年(1977)の除幕の際にはここに西や当会顧問であらせられた故・北川太一先生、葉舟子息にして光太郎とも交流のあった元総務庁長官の故・水野清氏なども列席されたのだな(心平は欠席)と思うと、感慨深いものがありました。
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このあたり、昔から桜の名所です。その頃にぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

肋膜だつたとは驚きました。十分によく治してしまつて下さい。此頃は若い人のかかる病気に年輩の者もかかるやうです。脂とタンパクの不足の為かも知れません。

昭和21年(1946)7月15日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の光太郎から三里塚の葉舟へ。光太郎が山村での独居自炊を決心した陰には、親友の葉舟が開墾生活を送っていたことの影響も考えられます。他にも辺境で活動していた友人知己は少なからずいましたが。

その葉舟、約半年後に肋膜炎でこの世を去ります。

購入しようかするまいか迷ったのですが、結局、買ってしまいました。帯に光太郎の名を印刷されてしまいましたので(笑)。

大作家でも口はすべる 文豪の本音・失言・暴言集

2024年1月22日 彩図社文芸部編 彩図社 定価1,300円+税

 本書は、作家たちの本音や失言、暴言を集めたアンソロジーです。名作を生み出し、歴史に名を残した作家といえども、言葉選びを誤ることもしばしば。むしろ、必要以上に周囲を巻き込み、世間を騒がす問題に発展することもありました。
 師匠である佐藤春夫や井伏鱒二を作品内で皮肉って、大叱責を受けた太宰治。こき下ろした作家の弟子から決闘を申し込まれた、坂口安吾。雑誌の後記で、原稿料や各号の売れ行き、もうけの有無まで公開し続けた菊池寛。新聞社入社にあたり、教師時代の不満を新聞紙面にぶちまけた夏目漱石。「好きな人の夫になれないなら豚になる」と友人に漏らした、若き日の谷崎潤一郎……。
 収録したのは、明治から昭和にかけて活躍した、誰もが知る大作家の逸話。問題発言を含む随筆や手紙、日記、知人らの回想文などから、作家たちの言動を探りました。大作家による、人間味あふれるぶっ飛び発言の数々。楽しんで読んでいただけると、うれしく思います。
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[目次]
 はじめに
 第一章 口がすべって大目玉をくらう
  一、佐藤春夫を皮肉って大目玉をくらう太宰治
  二、井伏鱒二を怒らせて平身低頭の太宰治
  三、兄を呆れさせて恐縮する太宰治
 第二章 酒が入ってうっかり失言
  一、酔ってついつい暴言が出る中原中也
  二、坂口安吾の破天荒な飲みっぷり
  三、酒癖が悪すぎて顰蹙を買いまくる漱石の弟子
  四、高村光太郎、酔ったせいか森鷗外を怒らせる
 第三章 原稿をめぐるいざこざ
  一、編集者と作家の攻防
  二、文芸の商業化に苦言を呈する佐藤春夫
  三、作家兼編集者たちの驚きの言動
 第四章 愚痴や文句が喧嘩に発展
  一、漱石の愚痴と癇癪
  二、夏目漱石対自然主義作家たち
  三、同業者をこき下ろす作家たち
  四、菊池寛に企画をパクられたと怒る北原白秋
 第五章 性愛がらみの問題発言
  一、谷崎潤一郎の自由過ぎる性愛
  二、軽はずみな発言を連発する芥川龍之介
  三、遊びのつもりが痛い目に合う石川啄木
 引用出典・参考文献

解説が長々書いてあるわけではなく、作家本人の作を抜粋で並べたいわゆるアンソロジーです。

光太郎に関しては、大正6年(1917)の「軍服着せれば鷗外だ事件」。明治30年代(1900年前後)、光太郎が東京美術学校在学中に美学の講師として同校の教壇に立ち、その頃から権威的な態度に反発心を抱いていた鷗外のことを、鷗外の居ない酒の席で茶化したというものです。いつの時代にもそういうことをチクる奴はいるもので、それが鷗外の耳に入り、鷗外激怒(笑)、光太郎を呼びつけて説教という流れです。

引用されているのはこの件に触れた、鷗外の「観潮楼閑話」二篇と、昭和13年(1938)に光太郎が川路柳虹と行った対談「鷗外先生の思出」の一節です。

一昨年、文京区立森鷗外記念館さんで開催された特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」の際には、鷗外に呼びつけられる前に光太郎が鷗外に宛てた新発見の書簡が展示されました。これも収録されていれば完璧でしたが、さすがにそこまでは手が廻らなかったようです。

他の「文豪」たちのクズっぷりもなかなか笑えます。そうかと思うと「いやいや、この発言はもっともだ」というものもあったりです。人間味溢れるこうしたエピソードに触れることで、彼らがより身近に感じられるのではないでしょうか。

ご興味おありの方、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

草野心平君が歴程社といふ書房を始め、小生の「猛獣篇」を一冊として出したいといつて来ました。これは草野君のこと故承諾する気です。


昭和21年(1946)7月6日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

中国から無事帰還した当会の祖・草野心平。早速、出版に情熱を燃やしていました。連作詩「猛獣篇」を一冊にまとめるという構想は戦前からありましたし、この書簡にあるように戦後にも持ち上がったのですが、結局実現したのは光太郎存命中ではなく、没後の昭和37年(1962)でした。

新刊です。

ロゴスと巻貝

2023年12月27日 小津夜景著 アノニマ・スタジオ刊 定価1,800円+税

注目の俳人、小津夜景さんが綴る人生と本の記憶
山本貴光さん(文筆家・ゲーム作家)推薦
 細切れに、駆け足で、何度でも、這うように、本がなくても、わからなくてもーー読書とはこんなにも自由なのですね、小津さん
 
注目の俳人小津夜景さんは、選び取る言葉の瑞々しさやその博識さが魅力。本書では、これまでの人生と本の記憶を、芳醇な言葉の群で紡ぎ合わせる。過去と現在、本と日常、本の読み方と人との交際など、ざっくばらんに綴った40篇。
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目次
 読書というもの014
 それは音楽から始まった
 握りしめたてのひらには
 あなたまかせ選書術
 風が吹けば、ひとたまりもない
 ラプソディ・イン・ユメハカレノヲ
 速読の風景
 図書館を始める
 毒キノコをめぐる研究
 事典の歩き方
 『智恵子抄』の影と光
 奇人たちの解放区
 音響計測者(フォノメトログラフィスト)の午後
 再読主義そして遅読派
 名文暮らし
 接続詞の効用
 恋とつるばら
 戦争と平和がもたらすもの
 全集についてわたしが語れる二、三の事柄
 アスタルテ書房の本棚
 ブラジルから来た遺骨拾い013
 残り香としての女たち
 文字の生態系
 明るい未来が待っている
 自伝的虚構という手法
 ゆったりのための獣道
 翻訳と意識
 空気愛好家の生活と意見
 わたしの日本語
 ブルバキ派の衣装哲学
 わたしは驢馬に乗って句集をうりにゆきたい
 そういえばの糸口
 月が地上にいたころ
 存在という名の軽い膜
 プリンキピア日和
 軽やかな人生
 料理は発明である
 クラゲの廃墟
 人間の終わる日
 本当に長い時間
 梨と桃の形をした日曜日のあとがき
 引用書籍一覧

小津夜景氏という方、寡聞にして存じませんでしたが、注目の女流俳人だとのことです。いわゆる結社等には所属しない立場でやられているそうで、へそ曲がりの当方としてはシンパシーを感じます(笑)。

その小沢氏のエッセイ集ですが、目次にある通り「『智恵子抄』の影と光」という項を含みます。『智恵子抄』との出会い、その後、そして現在の『智恵子抄』とご自身、といった感じです。

出会いは意外なところからだったそうです。氏が小学6年生の折、当時ファンだったチェッカーズさん関連の書籍を読まれていて、その中にあったメンバーの武内享氏のインタビューで武内氏が愛読書として『智恵子抄』をあげられていたこと。それを読んでいたかたわらにお母さまがいらしたそうで、

「ねえ、おかあさん」
「なに」
「高村光太郎の『智恵子抄』って知ってる?」
「本棚にあるわよ」
 なんと。


素晴らしいお母さまですね。ここで「誰、それ?」「聞いたことない」となっていたら、話は終わってしまったかもしれないわけで。

そして小6当時の小津氏も素晴らしい。「知らない漢字だらけ」であったにもかかわらず、「辞書を引き、一字一句を拾うようにして」読まれたそうです。そして「かくして『智恵子抄』は自分にとって特別な詩集となった」とのこと。

それにしてもチェッカーズのメンバーの方が『智恵子抄』を愛読書と答えて下さっていたことは存じませんでした。沢田研二さん山口百恵さんなど、芸能界にそういう方は結構いらっしゃいますが。それから小津氏のエッセイでこれも初めて知ったのですが、かの「ドラえもん」で、のび太のパパが若い頃、ママへのラブレターに『智恵子抄』所収の「郊外の人に」(大正元年=1912)を綴ったというエピソードがあったそうです。

しかし小津氏、こうも述べられています。

とはいえ、告白しておいたほうがいいだろう。こうまでして読みはしたものの、わたしは一度たりとも『智恵子抄』をいいと思ったことがないってことを。もっと率直にいえば大嫌いである。

「あ゛?」と思いました。ここから先、いわゆるジェンダー論者の方々のように、男尊女卑の権化光太郎、的なディスりが始まるのか? と。

しかしさにあらずでした。「レモン哀歌」(昭和14年=1939)などを筆頭に、素晴らしい作品群であることは認めつつも、ある種の信用できなさが感じられる、というのです。

ある意味、妥当な見解と思われます。

「レモン哀歌」は宮沢賢治の「永訣の朝」などとの類似点が夙に指摘されてきました。光太郎は智恵子、賢治は妹のトシと、それぞれ最愛の大事な人を亡くした慟哭が謳われている点等々。しかし、そのスタンスはやはり異なりますね。「永訣の朝」はトシを失った悲しみがとにかくこれでもか、これでもかとダダ漏れになっている状態ですが、「レモン哀歌」は、それがいいか悪いかは別として、一つ高い次元からの視点で智恵子の最期を謳っているように感じます。「もっと泣けよ、喚けよ、智恵子が死んだんだぞ」と突っ込みたくなるような。

その理由としては、いろいろ考えられます。「レモン哀歌」執筆が智恵子の死の約4ヶ月後であること、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)10月5日まで、およそ五ヶ月も見舞いに行っていなかったことなどなど。

「レモン哀歌」自体も、「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」と結ばれますが、執筆は2月。桜など咲いていません。これは雑誌『新女苑』への掲載が4月とわかっていたため、その季節に合わせて架空の桜を持ち出したという説があります。おそらくそれで正解でしょう。ただし、やがて4月には実際に「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置」いたのだとは思いますが……。

小津氏、そうしたある種のうさん臭さを、俳人としての優れた感性で敏感に感じ取られたのではないかと思われます。この手の批判的な読みは大歓迎ですね(って、当方は光太郎ではありませんが(笑))。逆に手放しで「類い希なる純愛の詩集」「日本文学史上に燦然と輝く相聞歌」などと評されると、興醒めです。といって、ジェンダー論者の方々のようにその背景もろくに調べずディスりまくりや、自分以外は全員バカだと思っているようなとにかく「批判」だけの自称・研究者などは論外ですが。

一昨日届いたばかりで、他の項はまだ斜め読み状態です。それでも、だいぶ生きづらさを抱えて歩んでこられた方なのだな、というのはわかりました。今日、公共交通機関に長く乗って上京しますので、その行き帰りに精読しようと存じます。

皆様もぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間のお茶のおかげで此頃は朝一杯の煎茶がのめるので爽快を感じます。


昭和21年(1946)4月19日 真壁仁宛書簡より 光太郎64歳

戦後の物資不足の折、花巻郊外旧太田村に引っ込んだ光太郎を案じ、ほうぼうの友人知己がいろいろなものを送ってくれていました。茶は岩手県では産出されず、現在もそうですが、岩手の人々は食事の際に茶を飲むという習慣もないそうで、入手が困難。茶好きの光太郎は真壁からの茶を実に有り難く思ったようです。

清流出版さん発行の『月刊清流』。コンセプトは「すべての女性に贈るこころマガジン」だそうです。

その最新号、2024年2月号に「『智恵子抄』と智恵子」という記事が出ているというので、購入しました。
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智恵子の生涯のアウトライン紹介が主で、さらに『智恵子抄』から「あどけない話」(昭和3年=1928)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)の全文が掲載されています。

015しかし、「私たちにさまざまなことを気づかせてくれる、奇数月連載安芸正宏さんの「こころのヒント」。偶数月の号では、近号からキーワードを選び、「こころのヒント」の味わいを深めたいと思います。」だそうで、昨年9月号に載った「こころのヒント 「おしゃれ」って何だと思いますか? 流行に左右されないスタイル」というエッセイで、やはり『智恵子抄』収録の「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)が紹介されたことを受け、では智恵子や「智恵子抄」を紹介しよう、ということのようでした。

そこで、昨年9月号も追加で注文し購入した次第です。

「安芸正宏」さんという方、どこにもプロフィールが載っていませんが、一般社団法人実践倫理宏正会の名誉会長・上廣榮治氏のペンネームのようです。版元の清流出版さんもその系統の出版社なのですね。

ちなみに『月刊清流』さん、2017年9月号でも「詩歌(うた)の小径」という連載で、「あどけない話――高村光太郎」という記事を掲載して下さいました。

『月刊清流』さんは、書店での販売はおこなっておらず、公式サイトからオンラインで、それからAmazonさんでの取り扱いも最近始まったようです。

今号の目次はこちら。
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さて、明日はやはり『智恵子抄』がらみのエッセイの載った新刊書籍をご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

さすがに此の山の中にも春が来ました。まだ降雪も時にはありますがすぐに消え、日かげさす時は随分温かで暁天の朝靄うすむらさきに、黄セキレイの声やうぐひすの囀りもきこえはじめました。


昭和21年(1946)4月17日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移って初めての冬が終わりました。冬を愛した光太郎も、さすがにそこまで厳しい冬とは予想していなかったようで、春の訪れにほっとしている気配が見て取れます。

戦前戦後に光太郎と交流のあった岡山県豊田村(現・赤磐市)出身の詩人、永瀬清子を中心に据えた展示です。

永瀬清子展示室企画展「マンガで読む永瀬清子」

期 日 : 2023年12月8日(金)~2024年3月31日(日)
会 場 : 永瀬清子展示室 岡山県赤磐市松木621-1 赤磐市くまやまふれあいセンター2階
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

今春、永瀬清子の生涯がマンガになりました。永瀬清子が誕生し詩人を志す過程を中心に描いており、赤磐市立図書館などで読むことができます。この展示では、マンガを描くのに使われた資料とマンガ『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』とともに、永瀬清子の生涯を紹介します。
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案内文にあるとおり、昨年、永瀬の伝記マンガ『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』(シナリオ 和田静夫氏/マンガ 藤井敬士氏/赤磐市教育委員会発行)が刊行され、それを記念しての展示です。

マンガには光太郎も登場します。昭和9年(1934)、新宿のモナミで開催された宮沢賢治追悼会の場面、昭和15年(1940)に永瀬が自らの詩集『諸国の天女』序文を光太郎に依頼するシーンなど。

展示ではそのあたり、どういうふうに扱われているのか不明ですが、永瀬の年譜等展示されていれば、触れられていると思われます。

また、期間中の2月17日(土)には第25回朗読会「永瀬清子の詩の世界―貴方がたの島へ」も開催されます。
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007プログラムにはシンガーソングライター・沢知恵さんのコンサートも。永瀬は生前、ハンセン病療養施設への支援活動なども行っていましたが、沢さんも同様の活動に取り組んでいて、そうした関係でしょう。

余談になりますが、沢さんのお祖父様・金素雲の訳詩集『乳色の雲』(昭和15年=1940)には光太郎が挿画を寄せており、奇縁を感じました。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

四月十三日がまた廻りくるにつて、昨年のあの時の貴下の御厚情と一方ならぬご助力とを思ひ出し、真に忝い事だと思つてゐます。其後お訪ね下さつた宮沢家も全焼し、今年は此の山の中の一軒家で記念の日を迎へます。

昭和21年4月9日 寺田弘宛書簡より 光太郎64歳

昨年のあの時」は、米軍の空襲により駒込林町のアトリエが灰燼に帰した昭和20年4月13日を指します。この際、寺田が真っ先に光太郎の元を訪れ、燃えさかるアトリエを茫然と見る光太郎の姿を回想に残しています。

1週間経ってしまいましたが、群馬県の地方紙『上毛新聞』さん、今年元日に掲載された一面コラムです。

三山春秋 詩人の室生犀星が萩原朔太郎を訪ねて来たのは...

▼詩人の室生犀星が萩原朔太郎を訪ねて来たのは1914(大正3)年。前橋駅で初めて顔を合わせた時、互いの印象は最悪だった。「肩を怒らし、粗野で荒々しい感じ」(朔太郎)、「何て気障(きざ)な虫酸(むしず)の走る男」(犀星)と語っている▼詩から想像していた風貌とのギャップに双方ともに落胆したが、およそひと月の滞在中に仲は深まる。犀星が上京すると今度は朔太郎が頻繁に会いに行き、一緒に高村光太郎の家を訪ねたり、上野公園へ出かけたりした▼互いの存在は創作の刺激になったのだろう。出会った頃は作品が評価されず暮らしも苦しかった犀星は才能を開花。「二魂一体」(犀星)と言うほどに、生涯の親友となった▼莫逆(ばくぎゃく)の友、心腹の友など友情にまつわる言葉は多い。その存在によって吉がもたらされることもあれば凶に転ぶこともある▼「益者三友損者三友」は論語の教えである。自分のためになる友は三通り、ためにならない友も三通りいる。前者は直言してくれる者、誠実な者、物事を深く知っている者であり、後者は不正直、不誠実、口先だけの者。大切にすべき人を説くこの思想は、江戸時代には広く庶民にも浸透していたという▼新しい年を迎えた。辰(たつ)年は変化の多い年とされる。それぞれの身にも小さな波、大きな波が寄せるかもしれない。行き詰まったとき頼りになるのは益者の友。相手にとっての自分も、そうありたい。

光太郎に朔太郎、犀星。年齢的には光太郎が最年長の明治16年(1883)の生まれ、次いで明治19年出生の(1886)の朔太郎(智恵子と同年です)、そして犀星が最も若く明治22年(1889)の生まれです。
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光太郎は朔太郎、犀星とはそれほど親しかったわけではありませんでしたが、「三山春秋」にあるとおり、二人が駒込林町のアトリエに揃って訪ねてきたことがあり、その件は犀星の随筆「天馬の脚」(昭和4年=1929)に述べられています。

それによれば犀星の光太郎評は「裏側へのびてゆく奥の深い人である。小説を書いてゐたら別の意味の志賀君のやうな人になつてゐたらう。物を研め考へることは当今の文人の比ではない。話をしてゐても気取らず平明で、それでゐてある程度まで他人を容れない冴えをもつてゐる。」「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。世上に騒がれてゐるやうな人物が何だ。吃吃としてアトリエの中にこもり、青年の峠を通り抜けてゐる彼は全く羨ましいくらゐの出来であつた。」。そして帰り道、犀星が朔太郎に「かうして高村君を君と訪ねてかへると一寸若くなつたやうな気がするね。」すると「萩原も笑ひながら、いろいろな意味でねと言つた。

当方、朔太郎に関してはあまり詳しくないのですが、朔太郎もこの際の訪問記的なことを書いているのでしょうか。御存じの方、御教示いただければ幸いです。

しかし犀星、光太郎歿後に書かれた『我が愛する詩人の伝記』(昭和33年=1958)では、光太郎をディする方向に梶を切っていますが……。

光太郎にとっての「益者の友」といえるのは、同年生まれだった水野葉舟、そしてちょうど20歳下でしたが、当会の祖・草野心平でしょうか。
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無理くりですが、今日は「成人の日」。新成人の皆さんも、「益者の友」といえる友を得て、人生を豊かにしていっていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

フキノタウは三里塚の土の香りをなつかしいと思ひました。こちらでも此頃やうやく雪の下からフキノタウを発見しました。出はじめれば無限にあるわけです。 いただいたのは早速蕗味噌に作つて賞味します。


昭和21年(1946)4月1日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

光太郎もたびたび訪れた千葉三里塚に隠棲していた葉舟からフキノトウが送られ、その礼状の一節です。温暖な房総と雪深い花巻郊外旧太田村では、春の訪れが何ヶ月もずれます。当方も今月末に房総から花巻郊外旧太田村に足を運ぶ予定でいますが、その点のみが気の重いところです。

昨年12月22日(金)、『日本経済新聞』さんの記事から。

日本復帰70年 「奄美のガンジー」泉芳朗を語り継ぐ

 鹿児島県奄美地方で12月25日は特別な日だ。1946年のGHQ(連合国軍総司令部)の二・二宣言で、奄美を含む北緯30度以南の島々は米軍統治下におかれた。その後、奄美群島が悲願の日本復帰を果たしたのが70年前、53年のこの日だった。
 復帰運動の先頭に立ったのが泉芳朗(ほうろう)(1905〜59年)だ。ハンガー・ストライキを実施し、復帰を訴えた姿からインドのマハトマ・ガンジーになぞらえ「奄美のガンジー」と呼ばれている。
 私が代表を務める「泉芳朗先生を偲(しの)ぶ会」では、功績を後世に伝えようと記念碑建立や出前授業を行っている。設立したのは私の父、豊春だ。泉先生の秘書を務め、復帰運動をそばで支えた。59年に泉先生が亡くなったあとは、奄美群島の各市町村が12月25日を日本復帰記念日に制定するよう奔走した。私も幼いころから話を聞かされ、実際にお目にかかったこともある。当時は親戚のおじさんだと思っていた。
 泉先生は、鹿児島県の徳之島出身。学校を卒業後、小学校で教員をする傍ら、詩作に打ち込んだ。28年に上京し、詩人の高村光太郎とも交友。再び島に戻った後は、教育者と詩人の二足のわらじで活動した。
 外国となった奄美は本土への渡航が制限され、黒糖や大島紬(つむぎ)など特産品の流通も禁止された。生活は苦しく、島民は密輸や密航に手を染めた。復帰を望む声が東京在住の奄美出身者らから広がり、51年2月には奄美で復帰協議会が結成される。議長に就任したのが教育者として信頼を集めていた泉先生だった。
 直後に始まった満14歳以上を対象とした請願署名には、実に島民の99.8%が名を連ねた。私の父の名前もそこに見られる。大規模な集会も開催され、取り締まる米兵との衝突も起きた。

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 51年8月に泉先生は名瀬市(現鹿児島県奄美市)の高千穂神社で5日間の断食を決行し、多くの島民が後に続いた。泉先生の詩「断食悲願」には強い決意がにじむ。〈膝を曲げ 頭を垂れて/奮然 五体の祈りをこめよう/祖国帰心/五臓六腑の矢を放とう〉。詩の力は復帰運動を戦う島民の大きな力となり、うねりは一層大きくなった。
 しかし、すぐには実を結ばなかった。52年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効され日本は主権を回復。北緯29度線以北の島々は復帰を果たしたが、奄美は依然、米軍統治下におかれた。この日は奄美では「痛恨の日」と呼ばれている。
 その翌日、泉先生は子供たちの前に日本国旗を示し、祖国の旗を覚えておくよう呼びかけた。そのことで米軍から注意を受けた際、一歩も譲らず説き伏せたという。父はよくその場面をあげ、胆力のすさまじさを語っていた。同年には名瀬市長に当選し「市政と復帰一如」をスローガンに精力的に活動する。教育者、詩人、政治家の3つの顔で、島民を鼓舞し続けた。
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 53年8月にダレス米国務長官が奄美を日本に返す用意があると発表した「ダレス声明」を経て、その日はやってきた。同年12月25日、奄美は歓喜に沸いた。泉先生は「皆さん、これで八年の苦難は達成して、きょう、この日の我々は、本当の日本人になったのであります」と挨拶し、万歳三唱した。島民はちょうちん行列で喜びあった。
 今年の復帰70周年の日にも、ちょうちん行列が予定され、当時の光景がよみがえるはずだ。奄美が米軍統治下にあったことを知らない世代も増えた。泉先生の功績とともに、先人たちの悲願の先に、今があることを伝えていきたい。
  
12月25日(月)に行われた奄美群島の米軍統治下からの日本復帰70周年記念式典に先立ち、復帰運動を主導した泉芳朗の功績を振り返るといったコンセプトの記事です。

徳之島の
伊仙村(現伊仙町)出身で、戦後は名瀬市長も務めた泉ですが、戦前は教員を務めるかたわら詩人としても活動し、10年ほどは東京に在住していました。その頃光太郎とも親交を結び、光太郎も出席した座談会の司会を務めたり、自身の主宰する雑誌の題字を光太郎に揮毫して貰ったりした他、光太郎と同じ書籍や雑誌に寄稿することもしばしばでした。戦後も光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、岩手から帰京した直後の昭和27年(1952)に、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪問しています。くわしくはこちら

先月の奄美群島の日本復帰70周年。今一つ報道されなかったように感じています。九州の地方紙などでは改めて占領下を振り返る特集記事などが出ていましたが……。沖縄が永らく米軍統治の扱いだったことは歴史の教科書にも記載がありますが、小笠原諸島、そして奄美群島もそうであったことは忘れられつつあるように思われます。ウクライナの件など、世界的にも領土問題が顕在化しているこの時期、過去に学ぶ必要をひしひしと感じるのですが……。

【折々のことば・光太郎】

おハガキ二通及「週刊朝日」二冊、珍しい新聞一束拝受、ありがたく存じました。 小屋の写真はよくうつつてゐると思ひました。談話の筆記は所々間違へたりしてゐます。ともかく、こんな小屋に独居自炊してゐると思つて下さい。人家からは三丁程離れた山腹で下に見える湧き水の水を汲んで炊事してゐます。勝手元の厨芥を夜兎が来てたべるやうです。鼠は夕方遠くからやつて来て小生の座辺へも平気で来ます。大切なローソクをかぢるのは閉口です。

昭和21年(1946)3月24日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

光太郎の元に送られた『週刊朝日』のうち、この年2月24日号(第48巻第7号)には、花巻郊外旧太田村の光太郎の暮らしぶりが紹介されました。この手の記事としては最も早い時期のものの一つです。
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題して「雪にもめげず 疎開の両翁を東北に訪ふ」。故郷・山形に居た斎藤茂吉も紹介されています。

少し前にご紹介した佐高真氏著『反戦川柳人 鶴彬の獄死』の中で、歴史作家の藤沢周平が同郷の茂吉に対し、戦後も皇国史観から抜け出せず、戦争協力への反省も行わなかったことを痛烈に批判したことが紹介されています。また佐高氏もこう書いています。

 光太郎より一つ年上だった茂吉は、一九四五年の四月に故郷に疎開し、大石田の名家の離れに住んだ。その時、茂吉六十三歳。妻子と離れての独居で病気をしたりもしているが、上下二部屋ずつある家で、光太郎の小屋とは比ぶべくもなかった。また、結城哀草果とか板垣家子夫とか、地元の歌の弟子が献身的に世話をしている。

光太郎も太田村の山小屋に入る前は、花巻町の佐藤隆房邸に厄介になっており、佐藤や宮沢賢治実弟の清六らが献身的に世話してくれていました。その生活を続けなかったところにも光太郎の偉さがあるというわけですね。

おそらく光太郎は登場しないとは思われますが……。

偉人の年収 How much? 歌人 与謝野晶子

NHK Eテレ 2024年1月8日(月) 19:30~20:00 

教科書に載るような偉人たちはいくら稼いでいたの?お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる!今回は「情熱の歌人」与謝野晶子の素顔に迫ります。

愛の歌集「みだれ髪」で衝撃的にデビューした与謝野晶子。初めての収入は何に使った?夫・与謝野鉄幹のヨーロッパ留学を実現するための費用4000万円(現在価値)を用意するため、晶子が始めたこととは?大正時代には男女の意識の変革を訴え、昭和になるとあることに打ち込んだ晶子。鉄幹死後の晩年の年収は?グローバルな視点でいまの私たちにも訴えかけてくる与謝野晶子の姿を今野浩喜が演じ、谷原章介、山崎怜奈と語り合う。

出演者 【司会】谷原章介 山崎怜奈 【出演】今野浩喜
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昨年からレギュラー放映されている番組で、上記番組紹介欄にあるとおり「お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる」というコンセプトです。

何度か拝見しましたが、当方事務所兼自宅のある千葉県香取市の偉人・伊能忠敬の回や、当方がある意味光太郎以上に尊敬する土方歳三の回などは、特に興味深いものでした。

毎回、再現V的な中で今野浩喜さんがそれぞれの偉人に扮し、スタジオのMC谷原章介さんと山崎怜奈さんに突っ込まれるという作り。今回も今野さんが与謝野晶子を無理くり演じられます。
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晶子の夫・鉄幹与謝野寛は、本格的に文学的活動を始めた頃の光太郎の師。晶子も光太郎の姉貴分といった立ち位置でした。そこで「夫・与謝野鉄幹のヨーロッパ留学を実現するための費用4000万円(現在価値)を用意」には光太郎も関わります。明治44年(1911)のことです。

その費用の捻出のため、晶子は自作の短歌百首を散らし書きした「百首屏風」を複数制作して販売しました。それ以外に、光太郎が絵を描き、晶子が短歌を揮毫した屏風も作られました。下記は阪急グループの創始者・小林一三の旧蔵品。
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また、後から晶子も寛を追って渡欧しますが、その際、寛から晶子への指示は「あなた一人で来るのは無理だろうから光太郎君についてきてもらいなさい」。さすがに光太郎の随伴は実現しませんでしたが。

その後も与謝野夫妻と光太郎の交流は続き、不即不離の関係でした。現在確認できている光太郎生涯最後の短歌にも晶子が詠われました。

十和田湖に泛びてわれの言葉なし晶子きたりて百首うた詠め

昭和27年(1952)、彫刻家としての生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため、十和田湖に遊んだ際の詠です。「泛びて」は「うかびて」と読みます。寛は昭和10年(1935)、晶子も昭和17年(1942)、既に亡くなっているのですが。

そんなわけで、番組内でちらっとでも光太郎に触れられるとありがたいのですが……。ともあれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

お約束してゐた「海にして」の揮毫、硯が凍って書けませんでしたが、この二三日時候ゆるみ、雪もとけはじめました位、今日悪筆をふるひましたので別封でお送りしました。


昭和21年(1946)3月25日 岡崎清一郎宛書簡より 光太郎64歳

「海にして」は明治39年(1906)、光太郎が渡米の折に船中で詠んだ短歌です。

海にして太古の民のおどろきをわれ再びす大空のもと

光太郎自身は、「此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屡〻(しばしば)揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。」(「ある日の日記」雑誌『キング』第5巻第9号 昭和4年=1929)と書いています。

2024年となりました。あけましておめでとうございます。
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個人としては喪中でして、個人の皆さんへの賀状は欠礼させていただきましたが、高村光太郎連翹忌運営委員会として法人各位には上記の賀状を送らせていただきました。
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画像は光太郎詩「龍」(昭和3年=1928)、光太郎が手許に残した自筆原稿です。詩は以下の通り。

     
 
 一天の黒雲を咄嗟に破り、
 大洋の波を漏斗(じやうご)に吸ひあげ、
 あんたんたる熱帯の島かげに、
 ぎりぎりとまき起す水の柱を
 斜に光るは爪、
 縦につんざくは
 尾端の剣、
 眼を射る火花の
 一瞬、
 海底を干して、
 洞穴にへうへうの風をよび、
 気圧の鬱血に
 暴烈の針をさし、009
 たちまち見え、たちまち隠れ、
 天然の素中に
 清涼無敵の秩序を
 投げて
 天上する波、
 龍。


連作詩「猛獣篇」の一篇として書かれ、雑誌『草』第六号に掲載されました。

アナーキストやプロレタリア文学者達と近い位置にいた頃の作品だけに、世俗に馴れず、孤高の位置を保とうという意志を、天上に駆け上がる龍に託して謳いあげた一篇です。一時期の光太郎詩の真骨頂とも言えるでしょう。

さて、昨年は光太郎生誕140周年でしたが、令和6年(2024)はどんな「周年」かをご紹介します。

150年前 明治7年(1874) 光太郎生誕前 光太郎の父、光雲が11年の奉公を終え、「光雲」の名を許され独立しました。

130年前 明治27年(1894) 光太郎12歳 シカゴ万博で光雲の木彫「老猿」が優等賞を受賞しました。
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120年前 明治37年)(1904) 光太郎22歳 イギリスの美術雑誌『ステュデイオ』でロダンの「考える人」の写真を初めて見、衝撃を受けました。
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110年前 大正3年(1914) 光太郎32歳 10月、第一詩集『道程』を刊行しました。12月には長沼智恵子と上野精養軒にて結婚披露を行いました(入籍はずっと後、昭和8年=1933)。
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100年前 大正13年(1924) 光太郎42歳 連作詩「猛獣篇」の第一作「清廉」を書きました。

90年前 昭和9年(1934) 光太郎52歳 5月から12月、心を病んだ智恵子が九十九里浜に移っていた母・セン、妹・セツの元で療養生活を送りました。10月、父・光雲が没しました。同じ月、前年に没した宮沢賢治の作品を集めた文圃堂版『宮沢賢治全集』全三巻が刊行され、その装幀、編集にあたりました。
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80年前 昭和19年(1944) 光太郎62歳 光太郎の黒歴史、三種類刊行したうちの最後の翼賛詩集『記録』を刊行しました。

70年前 昭和29年(1954) 光太郎72歳 ブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館さん)が「美術映画 高村光太郎」を制作、公開しました。
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特筆すべきは大正3年(1914)の、詩集『道程』刊行及び智恵子との結婚披露110周年でしょうか。110周年というのがちょっと半端ですが。ちょうど100周年ということであれば、連作詩「猛獣篇」。そのあたりにからむ企画展示等、どこかでやっていただければ幸いなのですが……。

さてさて、今年はどういうとしになりますやらですが、今年も変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

こちらはまだまつたく雪に埋れてゐます。木の芽もまだ堅く草木の冬眠はまださめません。


昭和21年(1946)3月3日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

立春を過ぎて1ヶ月ですが、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)はこういう状況でした。3月でこういう状況というのは予想していなかったようです。

このところ少し前に刊行された書籍の紹介を続けて参りましたが、本日ご紹介するのは今月出た新刊です。

大人もときめく国語教科書の名作ガイド

2023年12月25日 山本茂喜 著 野宮レナ イラスト 東洋館出版社 定価1,350円+税

大人になった今だからこそ味わいたい、国語教科書の知られざる魅力

子どもの頃に誰もが読んだ国語教科書は、古今東西の名作を集めた珠玉のアンソロジーだった!長らく国語教育に携わった著者独自の審美眼で選んだ「大人もときめく」作品の数々。定番教材から知る人ぞ知る教材まで、授業では教わらなかった読み方や作品背景、よもやま話が満載。もう一度教科書作品を読み直したくなること不可避な、あの頃に戻れるブックガイド。

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目次
 はじめに
 第1章 「そのとき、胸の中で何かがはじけた」~初恋の日に戻れたら~
  1 初恋が心の中ではじけるとき/「赤い実はじけた」
  2 傷つきやすいあの子の思い出/「赤い実」
  3 雪国のラブロマンス/「わらぐつの中の神様」
  4 初恋の相手は先生だった? /「一房の葡萄」
  5 人生を照らす光の戯れ/「バッタと鈴虫」
  番外編 初恋は林檎の香り/「初恋」
 第2章 「あなたの指をお染めなさい」~扉の向こうは不思議なときめき~
  1 心の窓に映るもの/「きつねの窓」と「めもあある美術館」
  2 蝶なの? それとも…… /「白いぼうし」
  3 幻燈会の夜に/「雪わたり」と「やまなし」
  4 文豪の熱烈なラブレター/「杜子春」
 第3章 「ごん、お前だったのか」~愛おしい動物たちのお話~
  1 届かなかった思いとは/「ごんぎつね」
  2 究極の愛の形? /「スーホの白い馬」
  3 無償の愛ってなに? /「幸福の王子」
  4 穴に落ちた小さな命「ろくべえ まってろよ」
  5 大空翔る「えらぶつ」よ/「大造じいさんとがん」
  6 象たちの死が訴えるもの/「かわいそうなぞう」と「そしてトンキーも死んだ」
  7 きつねざくらが咲くとき/「チロヌップのきつね」
 第4章 「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」~遠ざかる思い出はセピア色~
  1 蝶は見つめていた/「少年の日の思い出」
  2 光り輝くマロニエの木/「モチモチの木」
  3 雪の夜にやってくるもの/「かさこじぞう」
  4 コスモスに託した思い/「一つの花」
 第5章 「そんなにもあなたはレモンを待っていた」~文豪もときめきがお好き~
  1 愛する人に捧げます/「レモン哀歌」
  2 あなたの魂、私があがなう/「銀の燭台」
  3 瞳に映った私の姿/「白」と「どろんこハリー」
  4 ベルリンの雪に消えた愛/「舞姫」
 おわりに

著者の山本氏、中高の国語科教諭を経て、現在は香川大学さんの名誉教授であらせられるそうです。「国語教科書はすぐれたアンソロジー」とし、小学校用から高校用まで、かつての教科書に掲載されていた(今も掲載されている)文学作品のうち、「「ときめき」を感じる」ものをセレクトし、作品の一部抜粋とあらすじ紹介、作品解説、さらに山本氏によるそれぞれの作品をテーマとした短歌が添えられています。

小中校生の頃には十分にわからなかったそれぞれの作品の世界観も、大人になってから読み返すと「なるほど、そういうことだったか」と、新たな発見に繋がるでしょう、というわけですね。

また、版元のサイトにこんな記述。「たとえタイトルやあらすじを忘れていても、「クラムボン」や「エーミール」などの言葉が引き金となって、当時の思い出がよみがえってくることがあるのではないでしょうか。」なるほど、「あるある」ですね(笑)。

版元サイトと言えば、本書のイラストを担当された野宮レナ氏による漫画が掲載されています。
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で、光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。「レモン哀歌」を含む第5章の章題が「「そんなにもあなたはレモンを待っていた」~文豪もときめきがお好き~」と、「レモン哀歌」冒頭の一文を使って下さいました。

過日ご紹介した『賢治学+(プラス)【第3集】』所収の中里まき子氏、エリック・ブノワ氏による講演録「高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:『智恵子抄』仏訳体験に触れながら」同様、賢治の002「永訣の朝」との対比など、的確に論じて下さっていますし、智恵子の顔を持つ「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」や、当方もお世話になっています信州安曇野の碌山美術館さん等にも触れられています。

ちなみに「レモン哀歌」、現在でも東京書籍さんで発行されている中学校3年生用の教科書『新しい国語 3』に掲載されています。これは今後とも外さずに採択され続けてほしいものですね。

というわけで、『大人もときめく国語教科書の名作ガイド』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

人家まで三丁位は離れてゐる此の小屋に雪をふんで鼠がもう来たのには驚きました。どうして探知するのでせう。


昭和21年(1946)1月18日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

前年秋から暮らし始めた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。鼠たちはこの後も奇妙な同居人(人ではありませんが)として居座り続けます。

翌年に詠まれた短歌に曰く

わが前にとんぼがへりをして遊ぶ鼠の来ずて夜を吹雪くなり

3月に刊行された書籍ですが、光太郎に関する記述が含まれていることを最近知り、慌てて購入しました。

反戦川柳人 鶴彬の獄死

2023年3月22日 佐高真著 集英社刊(集英社新書) 定価980円+税

 サラリーマン川柳のように、現代では風刺や批判をユーモラスに表現するものとして親しまれている川柳。しかし、「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」といった川柳を通じて、昭和初期、軍国主義に走る政府を真正面から批判し反戦を訴え続けた作家がいた。
 鶴彬、享年二十九。官憲に捕らえられ、獄中でなお抵抗を続けて憤死した”川柳界の小林多喜二”と称される鶴彬とはどのような人物だったのか。戦後約八十年、再び戦争の空気が漂い始めた今の日本に、反骨の評論家・佐高信が、鶴の生きた時代とその短い生涯、精神を突き付ける!
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目次
 はじめに――同じ年の明暗
 一 鶴彬を後世に遺そうとした三人004
  1 一叩人こと命尾小太郎の執念
  2 澤地久枝の彫心鏤骨
  3 伝達者、坂本幸四郎
 二 師父、井上剣花坊
  井上剣花坊、政治から文学へ
  「社会党ラッパ節」の添田唖蟬坊
  『日本』新聞で川柳に出会う
  伝統川柳と革新川柳
  井上信子と鶴彬
  田辺聖子は鶴彬をどう見たか
 三 兄事した田中五呂八との別れ
  鶴の兄弟子・田中五呂八
  現実主義と神秘主義に分裂する柳壇
  田中五呂八の死と鶴の追悼文
  木村半文銭への罵倒
 四 鶴彬の二十九年
  大逆事件と鶴の生きた時代
  剣花坊の娘・鶴子
  軍隊内での鶴彬
  鶴の最期
 五 石川啄木と鶴彬
  石川啄木をどう見ていたか
  「性急な思想」の波
  徳富蘆花の「謀反論」
 補章 短歌と俳句の戦争責任
  藤沢周平の斎藤茂吉批判
  高浜虚子の戦争責任
 おわりに
 参考文献


明治42年(1909)生まれの川柳作家・鶴彬(つるあきら)の評伝兼研究史です。

鶴は本書の帯にも印刷されている「万歳とあげて行つた手を大陸においてきた」などの強烈な反戦川柳を数多く詠み、そのため特高によって逮捕、最期は29歳の若さで獄死しました。

004平成11年(1999)、皓星社さんから刊行された井之川巨氏著『君は反戦詩を知ってるか 反戦詩・反戦川柳ノート』という書籍に「鶴彬-反戦川柳のはげしさとやさしさ」という20ページ程の項があり(ちなみに同書には「高村光太郎 戦争詩と自己批判」という項もあります)、鶴のアウトラインは存じていましたが、今回、『反戦川柳人 鶴彬の獄死』を読んでその生涯等をさらに詳しく知り、唸らされました。

川柳というと、ほのぼの、ユーモアといったイメージもありますが、鶴の作品はそういったものとは無縁です。まぁ、ユーモアと言えばブラックユーモアですが。

 屍のいないニュース映画で勇ましい
 出征の門標があってがらんどうの小店
 タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう
 手と足をもいだ丸太にしてかへし
 華やかに名を売り故郷へ骨が着き


太平洋戦争開戦前でしたが、既に日中戦争が始まっていた昭和12年(1937)、こういった作品が元で鶴は検挙され、翌年に獄死します。直接の死因は赤痢でしたが、それも赤痢菌を注射されての人体実験だったのではないかという説もあるそうです。

本書では更に、鶴の師匠や兄弟子らにも言及され、当時の川柳界の史的位置づけが為されていますし、戦後になってから鶴を顕彰し、その作品の埋没を防いだ人々(ノンフィクション作家・澤地久枝氏もその一翼を担っていたとは存じませんでした)の努力にも筆が及んでいます。

そして川柳同様、定形文学たる歌壇と俳壇の戦時中の動向。その中で翼賛歌を作り続けた斎藤茂吉に関する項で、光太郎との比較といった話になっています。歴史作家の藤沢周平が平成元年(1989)に行った講演からの引用がメインですが。

この講演の中で藤沢は同郷の茂吉が戦後になっても皇国史観から抜け出せず、戦時中の馬鹿げた翼賛歌への反省もしなかったことを手厳しく批判しています。それに対し、光太郎はきちんと自らを検証し、花巻郊外旧太田村の山小屋で自らを罰した、その違いは何なんだ……というわけです。

ちなみに藤沢の講演、平成23年(2011)に大月書店さんから刊行された澤田勝雄氏編『藤沢周平とっておき十話』に収録されていますし、佐高氏、平成26年(2014)に株式会社金曜日さんから刊行された辺見庸氏との対談集『絶望という抵抗』でも藤沢が茂吉と光太郎を論じたことに触れられています。
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さて、『反戦川柳人 鶴彬の獄死』をはじめ、本日ご紹介した書籍いろいろ、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

この辺は旧暦なのでまだ正月にはなりませんが、小生は二日吉例の書初をいたしました。天下和順日月清明と無料寿経の中の文句を書きました。

昭和21年(1946)1月18日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

終戦から4ヶ月あまり、藤沢周平が実地に見てそのみすぼらしさにショックを受けたという山小屋で「天下和順」と書き初めを書いた光太郎、その心境はいかばかりだったのでしょうか。

9月に刊行された、当会の祖・草野心平がらみです。価格が価格なので、入手していませんが……。

【文学・言語研究資料シリーズ4】『草野心平研究資料集』第1回配本 全3巻

2023年9月30日(土) 澤正宏編 クロスカルチャー出版 定価  99,000円(税込)

 宮澤賢治や中原中也を世に送り出しことで有名な詩人草野心平の生誕120周年、没後35周年記念出版。

 草野心平の詩、翻訳詩、随筆、評論、書評などを詩誌、雑誌、選詩集などに掲載された「初出形」で復刻。全集未収録の資料も網羅。

 「この資料集では、草野心平の戦後から没年までの著作も視野に入れて、彼が前衛的な詩人、アナキズムの詩人から、軍国主義に屈服し、戦争協力の詩を書いた詩人へと変貌した後、どう自分を立て直したかをたどれるよう、資料を収集しました」(澤 正宏「刊行にあたって」)。翻訳詩を含む詩約440篇、随筆、評論、書評など110本を全3巻に収載。第2巻の巻末には編集・解題者による小論、「表現者としてのアナキスト―草野心平とモダニズム詩 /プロレタリア詩」(13頁) と解題[書誌](75頁)を、第3巻の巻末に解題[書誌](43頁)を付しました。
 内容見本の推薦文には今や世界的な詩人の和合亮一氏が寄稿してくれました。気品ある文章で、「新しいまなざしと問いかけに満ちた、確かなシリーズの登場」と賛辞を送っています。和合亮一氏は心平詩の優れた読み手ですが、ここではまた、澤ー和合の師弟のまじわりにも触れて美しく語られています。

【特色】
❶草野心平が戦前、戦中、戦後のなかで発表した詩、うた、小説、童話、訳詩、詩論、評論、随筆、書評、解説、座談会などといった著作、発言などを、それらが発表された、ちょうど日本に「現代」が始まった時期〔著作は1923(大正12)年発表の時点より掲載〕から、心平が逝去する1988年までにおいて復刻・掲載。基本的にはすべて詩誌、雑誌、選詩集などに掲載されたときの「初出形」で復刻した。

❷第1巻・第2巻の『「詩篇・詩画集」』編では、中国からの帰国(戦前)前後に発表した詩を、現在では稀覯の詩誌である『想苑』『帆船』『毒草』『近代詩歌』『亞細亞詩脈』『北ヰ五十度』などより復刻することから始め、戦中では、戦時下の南京で刊行した、これも稀覯雑誌である『黄鳥』に掲載した詩などを復刻し、戦後では、稀覯書としては詩誌『至上律』、絵本『キンダーブック』、雑誌『造型文学』などから、それらに掲載の詩、「うた」などを復刻した。とくに草野心平とD・L・BLOCH(中国名・白緑黑)との共著である『黄包車(わんぽつ) 上海の黄包車に関する木版画六十』は、全集未収録の詩画集であり貴重である。

❸第3巻には、これまで全貌がつかめなかった戦前から戦中にかけての訳詩の殆どを、『アメリカプロレタリア詩集』(1929、31年)や詩誌などから選び復刻する(草野心平はカール・サンドバーグの訳詩や解説が多い)。また、この時期のプロレタリア詩やアナキズム詩に関わる詩論や、宮澤賢治、尾形亀之助、山村暮鳥、村山槐多らに関する評論、まとまっては読めなかった作家や詩人たちと、戦中、戦後に様々なテーマで行った座談会、その他、拾遺詩篇、随筆、書評、童話なども復刻。

第 1 巻 詩 1923(大正 12)年~ 1944(昭和 19)年
第 2 巻 詩 1946(昭和 21)年~ 1975(昭和 50)年
第 3 巻 翻訳詩 評論 詩論 随筆 書評 選評 編集後記 覚書 報告文など
1925(大正 14)年~ 1975(昭和 50)年
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編者の澤正宏氏には、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」などでお世話になっております。

ちとわかりにくいのですが、「第1回配本」で「全3巻」と謳われており、第2回配本以降もあるのかな、という感じです。版元のサイトで目次を拝見したところ、昭和50年(1975)までの作品の集成でそれ以後のものが収められていませんし、上記【特色】に記述がある「童話」も見あたりませんでしたので。

心平の「全集」と称するものは既に昭和50年代に全12巻で筑摩書房さんから刊行されています。しかし「全集」とは言う定、全ての文筆作品を網羅しているわけではなく、共著を除き単行書として刊行された心平の著書を、第1巻には何々から、第2巻にはこれこれからという感じで紀伝体的に収録しているので、雑誌等に発表しただけの詩文は洩れています。また、心平生前の刊行ですので、晩年の詩文も当然入っていません。いわば「選集」です。

今回の『草野心平研究資料集』は、それらの補遺等を目論んでジャンル毎に編年体での編集を採られているようです。これにより、一般に知られていなかった作品にもスポットがあたり、心平の全貌にかなり近づけると思われます。

また、当方としましても、光太郎に触れた詩文も数多く残していますので、ありがたいかぎりです。

公共図書館さん、大学さん等でぜひ買いそろえていただければ、と存じます。

【折々のことば・光太郎】

心を低くし精神を高くすれば人生は立派です。日常の些事を大切にすれば人生は豊富になります。


昭和21年(1946)1月17日 宮崎春子宛書簡より 光太郎64歳

前月、光太郎が仲介して詩人の宮崎稔と結婚した、智恵子の姪・春子宛の書簡から。結婚生活の心構え、的な感じでしょうか。簡単なようで難しいことを要求しているような気もしますが(笑)。

NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」。昨日放映分で光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)が取り上げられました。
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俳優・津田健次郎さんによる朗読でした。
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番組全体のサブタイトルが「健康」。心身のバランスを崩し、「かなしく白くあかるい死の床」にある智恵子、光太郎が持参したサンキストのレモンをがりりと噛んだことで、つかの間の「健康」を取りもどしました。光太郎曰く「わたしの手を握るあなたの力の健康さよ」。しかしそれもほんの一時のこと。ほどなく「あなたの機関はそれなり止まつた」……。

重い内容ですが、しかし詩全体には逆にレモンに象徴される清澄な明るさも漂い、天上へと誘(いざな)われていく智恵子の姿が描かれています。そのあたり、津田さんの朗読では的確に表現されていました。

今週中に2回、再放送があります

再 にほんごであそぼ「健康」

地上波NHK Eテレ 2023年12月21日(木) 15:35~15:45  12月23日(土) 7:00~7:10

2023年度の『にほんごであそぼ』は、毎回ひとつの『ことば』をテーマに掲げ、「なるほど、そういう意味だったのか、そういう歴史や背景があったのか」という新たな発見や学びをお届けします。新たに、世界の偉人の言葉をダンスしながら伝えたり、齋藤孝が名文を広めるべく学校を行脚し、こどもたちと触れ合うコーナーを新設。

従来の古典芸能や歌のコーナーもパワーアップ。こどもから大人まで楽しめるエンターテインメント豊かな番組になります。日本を越え世界を駆け巡る『にほんご』・過去と未来をタイムトリップする『にほんご』。その魅力に包まれた『ことば』の宇宙を旅しましょう。

書道で学ぶにほんご・ぐうたらちんたら/健康、朗読(津田健次郎)/「レモン哀歌」高村光太郎、偉人とダンス/健康について書かれた本を読むときは、注意深く読みなさい。もしそこに「書き間違い」があったなら、あなたは死ぬかもしれないのである。(マーク・トウェイン)、こどもスタジオ/風邪は万病のもと、歌舞伎/人情噺文七元結 番外編、うた「ピクニック にほんごであそぼメドレー」

【出演】南野巴那,津田健次郎,中村勘九郎,土橋慶一,青柳美扇,世田一恵,中村彩玖,川原瑛都,川田秋妃

また、NHKさんの見逃し配信サイト「NHKプラス」でも配信中。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

このたび稔君春子さん御結婚の儀めでたくとり行はせられました趣拝承およろこびに堪へません。両君並びに御一家の今後に幸あれとひたすらお祈り申上げます。

昭和21年(1946)1月5日 宮崎仁十郎宛書簡より 光太郎64歳

宮崎仁十郎は茨城県の素封家。子息で詩人の稔ともども光太郎とは戦前からの付き合いでした。前年末に光太郎が仲介し、南品川ゼームス坂病院で智恵子ががりりとレモンを噛んだ現場にもいた、智恵子の姪・春子と稔との結婚が実現しました。

6月に発行された書籍です。少し前に手に入れていたのですが、紹介するタイミングを失っていました。

賢治学+(プラス)【第3集】

2023年6月20日 岩手大学人文社会学部 宮沢賢治いわてセンター編 杜陵高速印刷出版部刊
定価1,800円+税

平素は「岩手大学 人文社会科学部 宮沢賢治いわて学センター」の活動へのご理解・ご支援・ご協力を賜り、誠にありがとうございます。当センターの第2回シンポジウムなどを特集した『賢治学+(プラス)』第3集が刊行されました。ご高覧いただければ幸いです。
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目次
《巻頭言》横山英信「『賢治学+(プラス)』第三集に寄せて」
《特集「盛岡藩の言論と出版」》
 〈報告〉宮沢賢治いわて学センター第二回シンポジウム
「盛岡藩の言論と出版」(木村直弘)
 〈総評〉宮沢賢治いわて学センター第二回シンポジウム「盛岡藩の言論と出版」(脇野 博)
 講演①「直訴と目安箱からみる盛岡藩政――南部利済の時代に注目して――」(兼平賢治) 
 講演②「盛岡藩における出版事業――盛岡・花巻・遠野――」(中村安宏)
 シンポジウム「盛岡藩の言論と出版」
 〈ディスカッション〉(司会:脇野 博、シンポジスト:兼平賢治、中村安宏)
《岩手大学人文社会科学部宮沢賢治いわて学センター研究会より》
 髙橋 愛「文学ツーリズムとその可能性」
 朴 鍾振「韓国における賢治絵本翻訳の展開――
ヨユーダン出版社の〈宮沢賢治コレクション〉――」 
 桑原尚子「国際開発・国際協力からみた宮沢賢治――
「農民芸術概論綱要」から読み解く――」
 中里まき子+エリック・ブノワ
  講演録「高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:
『智恵子抄』仏訳体験に触れながら」 
 岩手大学人文社会科学部宮沢賢治いわて学センター研究会のこれまで
《フォーラム「賢治学」》
〈エッセイ〉
 谷口義明「天文学者、宮沢賢治と遊ぶ――椀コの謎――」
 金野吉晃「賢治随想」
〈論文〉
 大野眞男「『春と修羅』第一集における括弧表現と語りの複層的構造に関する一試論」
 大沢正善「「風野又三郎」と『新編農業気象学』――宮沢賢治の高層気象学――」
 小松田儀貞「宮沢賢治の〈芸術〉――賢治という薬あるいは毒――」
 瀬川愛美「宮澤賢治のオノマトペとフランス語訳――
「なめとこ山の熊」と Les Ours de la Montagne Nametoko──」 
 木村直弘「デクノボーとしてのゴーシュ――愚者が智者となる〈革命〉をめぐって――」
《フォーラム「いわて学」》
〈エッセイ〉
 佐藤竜一「自転車を乗り回した漢学者・那珂通世――夏目漱石との接点をめぐって――」
 船場ひさお「岩手と横浜をつなぐ」
 前田千香子「公園林としての気仙茶の木々」
 寺崎 巖「いわてフィルハーモニー・オーケストラ」
〈論文〉
 家井美千子「岩手大学図書館蔵『十和田山本地由来記』テキストの特徴」
〈編集後記〉 (木村直弘)

昨年の12月22日に開催された「岩手大学人文社会科学部【宮沢賢治いわて学センター】第16回研究会」の記録中の、同大教授・中里まき子氏とボルドー・モンテーニュ大学教授のエリック・ブノワ氏による講演「高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:『智恵子抄』仏訳体験に触れながら」が収められています。「『智恵子抄』仏訳」は、一昨年、フランスのボルドー大学さんから出版された中里氏、ブノワ氏訳の『Poèmes à Chieko』です。
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同書、新潮文庫版『智恵子抄』を底本としていますので、多くの詩篇が訳されていますが、特に「レモン哀歌」(昭和14年=1939)について詳述されています。宮沢賢治いわて学センターさんでのご講演ということもあったのでしょうが、賢治の「永訣の朝」との類似性などが述べられています。光太郎は妻・智恵子、賢治は妹・トシと、それぞれ最愛といえる女性に先立たれ、おのおのの死の瞬間を謳い、そしてその間際に智恵子は「レモン」、トシは「あめゆじゆ」を口にし……。

こうした点は諸家によって夙に指摘されてきたことですが、さらにフランスの思想家、ジョルジュ・バタイユの日記が比較対象として挙げられています。バタイユは明治30年(1897)の生まれで、光太郎より14歳下、賢治とは一つ違い、同世代ですね。バタイユは智恵子が亡くなった同じ昭和13年(1938)、恋人のコレット・ペニョ(通称・ロール)を奇しくも智恵子・トシと同じく結核で亡くしています。そしてロールはその死の間際、智恵子の「レモン」、トシの「あめゆじゆ」と同じように、バタイユから受けとった薔薇の花を、まぁ当然食べはしませんでしたが、口づけをして……というわけで。

ついでに言うなら、ロールは智恵子同様に心の病でもあったようですが、バタイユ曰く「私が薔薇を手渡すと、彼女は異常な状態を抜け出して私に微笑み、はっきりと最後の言葉を述べた。「美しいわ」と言った」。レモンをがりりと噛んだ智恵子は「昔山巓でしたやうな深呼吸を一つ」しただけで言葉は発しませんでしたが、トシは賢治詩「松の針」によれば「ああいい さつぱりした まるで林のながさ来たよだ」とつぶやいたそうで、このあたりの洋の東西を問わない類似性には驚かされました。

それ以外の部分でも、「智恵子抄」中の「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な「樹下の二人」(大正12年=1923)と、戦後の『智恵子抄その後』に収められた「案内」(昭和24年=1949)との比較。「樹下の二人」は智恵子が光太郎に故郷・二本松をガイドするというシチュエーションが謳われていますが、「案内」では、光太郎が亡き智恵子に花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)周辺を紹介するという、主客の逆転といった点について述べられています。なるほど、と思いました。

Amazonさん等で入手可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

当地は雪がふかく三尺平均位になり、歩行困難な次第です。寒気も相当で万年筆も使用中に凍ります。幸ひ燃料があるので助かります。


昭和21年(1946)1月11日 矢沢高佳宛書簡より 光太郎64歳

厳寒期にはマイナス20℃にもなるという太田村の山小屋。書いている最中の万年筆のインクまで凍りました。

光太郎の名が出た新聞記事を2件。

まずは昨日の『千葉日報』さん。銚子市ジオパーク・芸術センターさんで開催中の「ぎょうけい館資料展」の紹介です。

伊藤博文ら著名人も訪れる 閉館の老舗宿、歩みに光 銚子「ぎょうけい館」30点展示で回顧

 明治期に創業し、1月末に閉館した銚子市犬吠埼の老舗旅館「ぎょうけい館」の歩みを紹介する企画展が、市ジオパーク・芸術センターで17日まで開かれている。昔の写真や館内に飾られていた美術品など約30点を展示している。
 展示などによると、海に臨む旅館からの絶景は多くの人々を魅了。伊藤博文や島崎藤村、国木田独歩、高村光太郎ら著名人も訪れたという。企画展は、閉館後に同旅館から市に寄贈された資料を活用した。
 大正から昭和に全国各地の鳥瞰(ちょうかん)図を手がけた吉田初三郎の作品「銚子遊覧交通名勝鳥瞰図」は、かつて館内の食堂や受付に飾られた。同旅館と犬吠埼灯台を含む名所や街並みが描かれている。
 旅館の外観写真展示では、明治後期の趣ある日本家屋風から平成以降の白い建物に至る変遷をたどれる。パンフレットや、ゆかりの文人の作品も紹介している。
 我孫子市から夫と来場した田口美由紀さん(65)は同旅館を繰り返し訪れていたといい「海の景色がきれいで料理もおいしいし、温かいスタッフばかりだった。飾ってあったものも見られて懐かしい」と話した。
 観覧無料、午前9時~午後5時。問い合わせは銚子資産活用協議会事務局(市教委文化財・ジオパーク室)(電話)0479(21)6662。
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同展、会期が明日まででして、もう少し早く紹介してくれれば良かったのに、という感じではありますが……。

続いて『朝日新聞』さん、12月13日(水)夕刊。

目立つ「本格」、刑事と挑む謎解き ミステリー小説ランキング、紹介

 年末の風物詩、ミステリー小説のランキングが出そろった。主なランキング(「週刊文春ミステリーベスト10」「このミステリーがすごい!」「本格ミステリ・ベスト10」「ミステリが読みたい!」)の上位作品には、謎解きプロセスの純度が高い「本格」作品が目立つ。
 文春、このミス、ミス読み1位、本ミス2位と圧倒的な支持を集めたのが米澤穂信「可燃物」(文藝春秋)。群馬県警捜査第一課の葛(かつら)警部を探偵役にした五つの事件が並ぶ。意外な凶器を扱った「崖の下」に始まり、動機探しや犯人当てなど、一編ごとに異なる趣向を施した謎解きのショーケース。著者初の警察ミステリーとのふれこみだが、組織内部のさや当てを描くような警察小説ではない。現実の捜査機関を使い、わかりやすく手がかりを提示することで、読み手に純粋な知恵比べを挑む。超常現象や未来技術を使った特殊設定ミステリーへの一つの回答とも言えよう。
 文春2位の東野圭吾「あなたが誰かを殺した」(講談社)も刑事が探偵役。ガリレオと並ぶ人気シリーズ探偵、加賀恭一郎ものの新作は別荘地で起きた一夜の連続殺人に始まる。犯人はすぐに逮捕されるが詳細を黙秘。被害者遺族が真相解明のために開いた会合に立会人として参加した加賀は、生存者の証言を一つひとつ検証していく。遺族それぞれが抱える秘密を小さな矛盾からあらわにし、事件の全容に迫っていくプロセスが鮮やかだ。
 一方、このミス2位、百鬼夜行シリーズ17年ぶりの長編となる京極夏彦「鵼(ぬえ)の碑(いしぶみ)」(講談社)は日光を主舞台に、「姑獲鳥の夏」からの面々が関わる五つの物語が並走する。とらえどころのない鵼そのままにもつれあう展開は、まさに本格ものの土台を揺さぶるアンチ・ミステリー。読み手を謎迷宮に誘う。
 ベテラン勢が上位を占めるなか、ロジックの大伽藍(がらん)を築いて本ミス1位となったのが鬼才、白井智之の「エレファントヘッド」(KADOKAWA)。精神科医が謎の薬を手にしたことで幸福な家族に悲劇が起きるのだが、猟奇的な不可能犯罪の連打、薬に端を発するぶっとんだ特殊設定、そこから生み出される多重推理を経ての合理的解決まで、冒頭から1行たりとも読み飛ばせない。持ち味のグロさ満載なのに、なんと美しい本格ミステリーなのかとため息をつく。
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 気鋭でいえば、文春、このミス2位の井上真偽「アリアドネの声」(幻冬舎)も収穫。大地震により地下5階に取り残された「見えない、聞こえない、話せない」女性を地上へと救出するタイムリミット・サスペンス。手に汗握る展開と、ラストの衝撃が心に残る。
 このミス、本ミス10位の荒木あかね「ちぎれた鎖と光の切れ端」(講談社)は昨年の江戸川乱歩賞受賞者の新作。クリスティの二つの有名作品へのオマージュを二部構成で展開する。前半は孤島ものの本格ミステリー、後半は連続殺人をめぐるサスペンスでありながら、共通する謎に別解を提示する意欲的な作りになっている。
 本格好きの記者のベストは白井作品だが、偏愛の一冊が柳川一「三人書房」(東京創元社)。江戸川乱歩になる前の平井太郎が、周りで起きた不思議な事件の数々を解き明かす。同時代を生きた宮沢賢治、宮武外骨、高村光太郎ら著名人の登場も楽しい。「二銭銅貨」発表から百年の節目にふさわしい、乱歩ファン必読の連作短編集だ。

残念ながら各種ランキング上位には漏れたようですが、柳川一氏『三人書房』を番外編として紹介して下さいました。
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記事には「乱歩ファン必読」とありますが、光太郎ファンも必読ですのでよろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

山小屋周囲積雪すでに三尺平均に及び、郵便屋さんも時々休みます。いよいよ冬籠りです。燈火なきため夜間執筆は不能です。蠟燭入手さへ困難な状態ですから。 夜は柴を焚いて暖と光とをとります。


昭和20年(1945)12月28日 竹之内静雄宛書簡より 光太郎63歳

激動の昭和20年(1945)も、こうして暮れて行きました。

テレビ放映情報を2件。

まずは新作です。

にほんごであそぼ「健康」

地上波NHK Eテレ 2023年12月18日(月) 08:35〜08:45
再放送 12月21日(木) 15:35~15:45  12月23日(土) 7:00~7:10

2023年度の『にほんごであそぼ』は、毎回ひとつの『ことば』をテーマに掲げ、「なるほど、そういう意味だったのか、そういう歴史や背景があったのか」という新たな発見や学びをお届けします。新たに、世界の偉人の言葉をダンスしながら伝えたり、齋藤孝が名文を広めるべく学校を行脚し、こどもたちと触れ合うコーナーを新設。

従来の古典芸能や歌のコーナーもパワーアップ。こどもから大人まで楽しめるエンターテインメント豊かな番組になります。日本を越え世界を駆け巡る『にほんご』・過去と未来をタイムトリップする『にほんご』。その魅力に包まれた『ことば』の宇宙を旅しましょう。

書道で学ぶにほんご・ぐうたらちんたら/健康、朗読(津田健次郎)/「レモン哀歌」高村光太郎、偉人とダンス/健康について書かれた本を読むときは、注意深く読みなさい。もしそこに「書き間違い」があったなら、あなたは死ぬかもしれないのである。(マーク・トウェイン)、こどもスタジオ/風邪は万病のもと、歌舞伎/人情噺文七元結 番外編、うた「ピクニック にほんごであそぼメドレー」

【出演】南野巴那,津田健次郎,中村勘九郎,土橋慶一,青柳美扇,世田一恵,中村彩玖,川原瑛都,川田秋妃

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これまでも繰り返し光太郎詩を取り上げてきて下さった「にほんごであそぼ」。現在の新作の放映は週1なのですね。

来週の新作放映がテーマが「健康」だそうで、その中で智恵子の臨終を謳った「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。俳優の津田健次郎さんの朗読が放映されます。
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津田さん、9月放送の回では「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)の朗読をなさいました。
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以前はそういうことがなかったのですが、今回の「レモン哀歌」放映に関しては、NHKさんから「詩句の漢字の読み方等確認をしてくれ」的な依頼がありまして、ご協力させていただきました。それが8月。収録が8月8日(火)だったそうで、4ヶ月以上経ってのオンエアなのかと意外でした。

ちなみに来春には「道程」も取り上げて下さる予定だそうです。それも現在流布している9行の詩集『道程』(大正3年=1914 10月)収録型ではなく、雑誌『美の廃墟』に発表(同年3月)された初出の102行バージョン。さすがに長いので抜粋のようですが。

もう1件、こちらは再放送です。

BSフジサスペンス劇場 浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件

BSフジ 2023年12月15日(金) 12:00〜14:00

福島と島根で起こった二つの殺人事件。事件の真相に光彦が迫る! ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる!!


<出演者>
中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作
榎木孝明 野際陽子 ほか
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推理作家の故・内田康夫氏が昭和61年(1986)に発表された「「首の女(ひと)」殺人事件」を原作に、ほぼ忠実に映像化した2時間ドラマです。初回放映は平成18年(2006)、二本松の智恵子生家、花巻の旧高村記念館等でのロケが敢行されました。その後、繰り返し再放送が為されています。

それぞれぜひ御覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

友人のたよりが来ると駒込に居るやうな錯覚をおこします。事実は今太陽が照りながら細かい雪が横ざまに降つてゐるといふ北国特有の天候の中にゐます。

昭和20年(1945)11月28日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎63歳

この月17日から花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での生活を始めました。11月にはもう降雪。最晩年の光太郎に親炙され、当会顧問であらせられた故・北川太一先生曰く「生涯で最も鮮烈な冬が来る」。

光太郎と交流の深かった詩人の尾崎喜八について、『毎日新聞』さんから。

山は博物館  博物学で人引きつけた尾崎喜八 戦後「隠棲」の富士見高原で

 以前登って感動した八ケ岳の裾野、富士見高原(標高約1000メートル)で、「晩年の落日のやうな生を託すると、どうして考へ得たであらう」。詩人の尾崎喜八(1892~1974年)は太平洋戦争に協力する作品を書いたことを悔やみ、非難もされて「恥を忍び、をもてを伏せて影のやうに生きて来た」。戦後、「隠棲(いんせい)」のつもりで長野県富士見村(現富士見町)に移り住んだが、自然全体を対象にした博物学の知識が人々を引きつけ、地域が放っておかなかった。
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 尾崎は若い頃、高村光太郎の詩の「権威や世俗への反逆精神に心酔」。理想主義、人道主義の白樺派と交流し、平和主義のフランス人作家、ロマン・ロランにも傾倒した。最初の詩集「空と樹木」を30歳の1922年に出版して以降、自然を題材にした作品を次々発表した。満洲事変翌年の32年、「新戦場」で<砕かれた頭、穴のあいた、みじめな胸。それぞれの労苦の母の最愛のものだつた。吾々(われわれ)を護国の鬼などと云(い)ふのはやめてくれ>と、反戦作品も世に出した。
  一方、30代で登山を始めた。35年7月出版の文集「山の絵本」は長野県の蓼科(たてしな)山への紀行文などを収め、地質や地形、樹木や草花、鳥、チョウなど自然を優しく情景描写。人との柔らかな交流も描き、名著とされる。 
   ヒューマニストとみられたが、変わる。42年10月、詩集「此(こ)の糧」を発表。同名の詩は<大君の墾(はり)の広野に芋は作りて、これをしも節米の、混食の料(しろ)とするてふ忝(かたじけな)さよ>と銃後の姿勢を説いた。「シンガポール陷落」は<汝等(なんじ)が最後の牙城ここに潰(つぶ)ゆ。これ天の時、天の理なり>、「特別攻撃隊」は<此の敵一挙に斃(たお)さずんば皇国(みくに)危しの至誠に燃えて征(い)つたのだ>と勇ましい。44年3月も詩集「同胞と共にあり」を発表。「第二次特別攻撃隊」「学徒出陣」などを入れた。
 45年4月、空襲で東京の家が焼け、終戦を挟んで転居を繰り返した。縁故により富士見高原の山荘「分水荘」に夫婦で着いたのは、54歳の46年6月。随筆などで戦時を振り返り、「同胞への力づけや慰めとして書いた詩。一生の恨事。体と心とだけで黙々と働けば良かった」。富士見では「貧窮に洗われ、孤独の味を嚙(か)みしめ生きた。当然のむくい」。さらに「『武器を取れ!』の喇叭(らっぱ)に身をふるわせ、調べを合わせた。不幸への共犯者。忘れ去られ、無名に生きたかつた」。
 だが、村人は慕い、近付いた。孫の石黒敦彦さん(71)は「博物学の知識が引きつけた」と指摘する。その象徴が、詩「老農」にある。尾崎は植物や鳥に詳しいと連れが紹介すると、老農は<流れにゆらいでゐる白い花の水草を抜いて示した。「梅花藻ですね」と私が言ふと、目を細めてうなづいた>。たやすく答えて感心され、自宅に招待されると、書棚に図鑑や入手困難な植物学の翻訳本が並んでいた。教養ある「そんな土地柄が祖父を受け入れた」と石黒さんは話す。
 尾崎の方でも<人の世の転変が私をこゝへ導いた>で始まる詩「土地」の注釈で、「山国の信州で人は自然の支配に従順で、そこから生活の知恵を生み、勤勉と忍耐と持久と好学の精神を学び養う。それ故(ゆえ)に土地と人々とを愛さずにはいられなかった」と書いた。
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 多くの人が分水荘を訪れては話を聞き、尾崎は時に散策に誘い出した。村民の一人は「(自然を)観察され、一篇(いっぺん)の詩が熟していたのかも知れない」と回想している。尾崎は特に、各種の植物と鳥、チョウを詠み込んだ。「落葉」は<ひろびろと枯れた空の下で白樺や楡(にれ)の葉がたえまもなく散つてゐる>、「足あと」は<けさは 森から野へつゞく雪の上に、堅い水晶を刻んだやうな一羽の雉(きじ)の足あとを見つけた。それで私の心が急にあかるくなつた>、「復活祭」は<枯草(かれくさ)の上を越年(をつねん)の山黄蝶(やまきちょう)がよろめいて飛ぶ。森の小鳥が巣の営みの乾いた地衣や苔(こけ)をはこぶ>と歌った。 石黒さんは「博物学と詩の融合が祖父の特質だ」とも指摘する。例えば「巻積雲(けんせきうん)」。雲の造型に美しさを見いだしたのも尾崎の特長だ。いわし雲とも呼ぶその雲から物理学の「クラドニ図形」を連想。鉄板への振動の与え方により、上にまいた粉がさまざまな模様を描く現象に発想を広げた。これらの作品は、戦後の代表作で55年2月出版の詩集「花咲ける孤独」に収めた。 田舎暮らしを長女に心配された尾崎は52年11月、7年住んだ富士見から東京に転居したが、その後も信州を訪れた。県内を中心に数十の校歌も作詞し、歌い継がれている。分水荘は既に解体され、跡地は「ふじみ分水の森」として開放されている。
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最晩年を過ごした北鎌倉の明月院にある尾崎喜八の墓

戦時中に翼賛詩文を大量に書き、戦後はそれを悔いて信州の僻村でしばらく蟄居生活。そして村人との心温まる交流……花巻郊外旧太田村の山小屋に7年間隠棲した光太郎と共通します。

ただ、現代、光太郎の太田村での生活の意味等、広く知られているとは言い難い状況です。こういうと何ですが、ましてや知名度の点で尾崎のそれはさらに知られていないと思われます。

そうした意味ではこういう記事、ありがたいところです。ちなみに『毎日新聞』さん、同じ「山は博物館」という連載では、先月8日に光太郎の隠遁生活について「光太郎「岩手の山」に自ら流刑 己の戦争詩に「暗愚」見る」として紹介して下さいました。反論に耳を貸さないつもりもありませんが、それに対して「単に若い頃からの夢だった山暮らしをしたかっただけ」などという浅い見方しかしない輩も多く、辟易しているのですが……。

浅い見方といえば、明後日は12月8日、太平洋戦争開戦の日で、毎年、SNS上で幼稚なネトウヨが光太郎の翼賛詩の一節を掲げて喜んでいます。彼らは戦後の光太郎の真摯な反省などには目もくれません。何なんでしょうね……。

【折々のことば・光太郎】

昨日は亡父の祥月命日なので松庵寺で心ばかりの法要を営みました。佐藤夫人も参詣してくれました。今この部屋でも線香の匂をなつかしく感じてゐます。

昭和20年(1945)10月10日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

松庵寺さんは花巻市双葉町に健在の寺院。光太郎所縁の寺として門前に説明板を掲げて下さっています。

ここで亡父・光雲と、同じく10月が命日だった智恵子の法要を営んでもらいました。8月にも松庵寺さんで起請文をもらった光太郎、おそらくその2日間の出来事を合成し、詩「松庵寺」を書きました。

   松庵寺
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 奥州花巻といふひなびた町の
 浄土宗の古刹松庵寺で
 秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
 まことにささやかな法事をしました
 花巻の町も戦火をうけて
 すつかり焼けた松庵寺は
 物置小屋に須弥壇をつくつた
 二畳敷のお堂でした
 雨がうしろの障子から吹きこみ
 和尚さまの衣のすそさへ濡れました
 和尚さまは静かな声でしみじみと
 型どほりに一枚起請文をよみました
 仏を信じて身をなげ出した昔の人の
 おそろしい告白の真実が
 今の世でも生きてわたくしをうちました
 限りなき信によつてわたくしのために
 燃えてしまつたあなたの一生の序列を
 この松庵寺の物置御堂の仏の前で
 又も食ひ入るやうに思ひしらべました

昭和16年(1941)、太平洋戦争開戦直前に出版された『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定される「荒涼たる帰宅」以後、ほぼ翼賛詩一辺倒で、発表された詩に智恵子が謳われることはありませんでしたが、戦争も終結し、再び智恵子が詩の世界に戻ってきました。

当会の祖、草野心平。今年生誕120周年を迎えて、地元福島では様々に顕彰活動等が行われました。そんな中から、地方紙『いわき民報』さんが組んだ「草野心平生誕120周年特集」 が、「ふるさと新聞アワード優秀賞」に輝いたとのこと。

まず先月7日の同紙報道。

いわき民報「草野心平生誕120周年特集」 ふるさと新聞アワード優秀賞

 メディア業界紙「文化通信」を発行する文化通信社(東京都千代田区、山口健代表取締役)が主催する「ふるさと新聞アワード」の第3回の受賞記事が決まり、いわき民報元日号掲載の「草野心平生誕120周年記念特集」と、心平も利用したJR小川郷駅の駅舎解体にかかる一連の報道が、「ひと」(一部「もの」)部門で優秀賞に輝いた。同部門での受賞は3年連続となる。
 文化通信社が創業75周年に合わせて、一昨年に創設した賞で、地域紙の持つ〝地域ジャーナリズム〟を全国に発信するとともに、各紙の権威と価値の向上、記者のやりがいにつなげるために毎年開催している。
 各分野で活躍する著名な外部審査員が記事を選考しており、今回も昨年と同様に、歴史家・作家の加来耕三、放送作家・脚本家の小山薫堂、中川政七商店会長の中川政七、温泉エッセイストの山崎まゆみ、ディスカバー・ジャパン代表取締役社長の高橋俊宏・各氏が参加した。18紙から寄せられた約200本の記事をまず、社内選考で各部門10本に絞った後、外部審査員が投票して各賞を決めた。
 優秀賞を受賞した正月版の特集は、今年生誕120周年を迎えた小川出身の詩人草野心平の偉業を振り返る内容で、心平の縁戚で弊紙連載「雜学ゼミナール」を担当する関内幸介さんをはじめ、市立草野心平記念文学館の学芸員、いわき地域学會の吉田隆治顧問、心平が立ち上げた「歴程」同人の齋藤貢氏らがテーマごとに、作品の魅力や人となりに迫った。
 また、心平が利用した往時の姿を残すJR小川郷駅の木造駅舎について、解体へとかじを取るJR側と保存を模索する住民たちの話し合い、解体を惜しむ声や、本紙の報道をきっかけに、福島高専の布施研究室がデジタルアーカイブを作成するなど、一連の動きを追った報道も合わせて受賞対象となった。
 審査員の高橋氏は、受賞作について「地元の偉人を『ゆかりの地域ならでは』の切り口で深掘りできるのが地域紙の強み。草野心平を丁寧にひもといた筆致はさすがだと思った」などと評価。個人的に天山文庫を訪れたこともあるといい、「(正月号は)そのロケーション、建物の佇まいに大感動したことを思い出しながら読ませていただいた」とコメントした。
 今回グランプリを受賞したのは、和歌山県新宮市の地方紙「熊野新聞」の記事「嗚呼壮絶かな、観光合戦!!」。表彰式は12月1日、東京都台東区の東天紅上野本店で行われる。

続いて表彰式に関して、やはり同紙から。

ふるさと新聞アワード表彰式 いわき民報社の草野心平特集に優秀賞

 メディア業界の専門紙「文化通信社」(東京都千代田区、山口健代表取締役)主催の第3回「ふるさと新聞アワード」の表彰式が1日、東京都台東区の東天紅上野本店で開かれた。Google News Initiative、PR TIMESの協賛。
 同アワードは同社創業75周年を記念し、2021(令和3)年から設けられた。地元に根差しながら社会、経済、文化などを日々伝える中で、独自の視点で掘り下げた優れた記事を表彰し、その努力に光を当て、地域紙の存在を広く発信することを目的にしている。
 いわき民報社は、今年の元日号(1月1日付)に掲載した「草野心平生誕120周年記念特集」が、「ひと」部門の優秀賞に選ばれた。この特集では、元市立草野心平記念文学館副館長の関内幸介さん、市教育文化事業団の渡辺芳一さん、同館専門学芸員の長谷川由美さん、同学芸員の馬目聖子さん、小泉屋文庫主宰の緑川健さん、いわき地域学會前代表幹事の吉田隆治さん、いわき賢治の会会長の小野浩さん、「歴程」同人の斎藤貢さんらの執筆協力を得て、紙面構成するなどあらためて郷土が生んだ、詩人草野心平の業績などを紹介した。
 審査員の高橋俊宏ディスカバー・ジャパン代表取締役は「地元の偉人をゆかりの地域ならではの切り口で、深掘りできるのが地域紙の強みである。草野心平を丁寧にひもといた筆致は、さすがだと思った。かなり力を入れて作られたことをひしひしと感じた」と評している。
 いわき民報社は、2021年に「シリーズ震災10年―未来へのメッセージ」が「ひと」部門最優秀賞、2022年に「『最後の詩』など直筆を紙面公開」が「ひと」部門最優秀賞、「常磐炭礦に女子野球チームの活躍」が同優秀賞を受賞している。
 表彰式には約30人が出席し、山口社長が「地域紙には、まだまだ大きな可能性を持っている。今後もこの取り組みを続けていきたい」とあいさつ。いわき民報社は、鈴木淳代表取締役社長が表彰状を受け取った。
 グランプリは、地元の鉄道路線の赤字状況を起点に、熊野の観光、交通の活性化などのヒントを探った熊野新聞(和歌山県新宮市)「嗚呼!!壮絶かな、観光合戦!!」が選ばれた。
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当該記事「草野心平生誕120周年特集」は今年元日の正月版に載ったものだそうですが、光太郎の名も記されていました。
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草野心平生誕120周年特集

 1903(明治36)年、卯年の5月12日、後に「蛙の詩人」として知られる草野心平は、5人きょうだいの二男として福島県岩城郡郡上小川村(現いわき市小川町)に産声を上げた。
 実祖父は渋沢栄一を師に仰ぎ、自由民権運動家の河野広中と親交のあった実業家で政治家の白井遠平。父親が叔父に養子入りした縁から、義理の祖父母に育てられた。幼少時は腕白で癇が強い子供だったというが、県立磐城中学校(現磐城高校)を中退し上京後、慶應義塾大をへて中国に渡り、詩や短歌を志す。
 酷い貧困を味わう中で新聞記者、屋台の焼き鳥屋、出版社の校正係などで食い扶持(ぶち)を繋(つな)ぎ、28(昭和3)年初の活版印刷の詩集「第百階級」を発表する。“ふるさと”への想いを心層深くに抱え、あらゆる人々とともに生きようという高い理想を掲げて蛙、富士山、天、石などを主題に次々と詩を生み出す一方、高村光太郎、萩原朔太郎、中原中也、北原白秋らと親交を深め、中央詩壇の発展に寄与。ふるさとで文学を志す猪狩満直、三野混沌、吉野せいとも心の会話を繰り返した。現在の日本詩壇に天才がゐるとしたなら、私はその名誉ある「天才」は宮澤賢治だと言ひたい――賢治を世に出すため、夭折後も力を尽くしたことは広く知られている。
 昭和59年にはいわき名誉市民、62年には文化勲章を受章。生涯1400篇余の詩を残したが、心平について語ることのできる市民はそう多くない。若い世代はなおさらだ。「『ケルルン クック。』の人だね」。国語の教科書に掲載されている「春のうた」で、かろうじて分かる程度か。本市にはいわき市立草野心平記念文学館をはじめ、全国に誇る心平ゆかりの財産が多く残る。生誕120周年を機に、あらためて心平が残した偉業を振り返り、後世に伝えていきたい。


写真は心平の村民の皆さんが建ててくれた別荘、川内村天山文庫で撮影されたもののようです。

引用部分は「特集」の冒頭ページの一部。おそらくこの他に複数ページあったか、その後、さまざまな切り口から「特集」の記事が掲載され続けたのではないでしょうか。上記表彰式の記事に「この特集では、元市立草野心平記念文学館副館長の関内幸介さん、市教育文化事業団の渡辺芳一さん、同館専門学芸員の長谷川由美さん、同学芸員の馬目聖子さん、小泉屋文庫主宰の緑川健さん、いわき地域学會前代表幹事の吉田隆治さん、いわき賢治の会会長の小野浩さん、「歴程」同人の斎藤貢さんらの執筆協力を得て、紙面構成」とあり、それぞれご執筆なさったのではないかと思われます。このうち半数程の方は当会主催の連翹忌にもご参加下さったことがおありです。

ちなみに昨年のこの賞では、同紙の心平がらみの記事が最優秀賞を受賞なさっていました。光太郎の名が出て来なかったので気づきませんでしたが。

心平の未発表にしておそらく最後の詩の発見についてで、『福島民報』さんなどでは今年に入ってから報じられていました。

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今後とも心平顕彰の一翼を担っていっていただきたいものです。心平は当会の祖ですので、当方も及ばずながら力をお貸ししていかねばならないのですが。

【折々のことば・光太郎】

お言葉の通りおなじみ深かつた駒込林町の拙宅もつひになくなり、あの当時を偲ぶよすがも消え去りました。小生はそのうち近村の山中に移住して開墾と仕事とに専念する気です。小屋も九分通り出来上りました。新文化の創造に努めます。厳寒零下二〇度の由ですが、冬に強い小生の事とて大に意気込んでゐます。 東京へはめつたに出かけないでせう。


昭和20年(1945)10月2日 日野岩太郎宛書簡より 光太郎63歳

心平も足繁く訪問した駒込林町のアトリエ兼住居は4月13日の空襲で灰燼に帰し、花巻の宮沢賢治実家に疎開。戦後になっても、結局「めつたに」どころか7年半も上京せずにいました。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生のさまざまな著作をはじめ、光太郎関連書籍を数多く出して下さっている文治堂書店さんから、PR誌的な『とんぼ』の第17号が届きました。
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4月に亡くなった評論家の芹沢俊介氏の追悼文、文治堂さんから詩集も覆刻されている光太郎と交流のあった詩人・野澤一が暮らした甲州四尾連湖のレポートなどが載っています。北川太一先生ご子息の光彦氏の詩文も。

それから当方の『連翹忌通信』。今年4月に発見した花巻市に残る光太郎が文字を揮毫した墓標についてです。

奥付画像を貼っておきます。ご入用の方は文治堂さんまでご連絡下さい。
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それから、文治堂さん社主の勝畑氏が関わっている「中西利雄アトリエを後世に残すために」という計画の企画書とフライヤーも。
無題
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昭和27年(1952)秋から光太郎が居住し、昭和31年(1956)、その終焉の地となった貸しアトリエの保存運動に関してです。以前にも同じものを頂きましたが、再び。文治堂さんのHPでもこれらが出てきます。

つい先月もちらっと見て参りましたが、いまだに健在のこの建物、きちんと保存し活用が出来るならそれにこしたことはありません。ただ、個人でとなるとなかなか難しいところがあり、運営委員会的な組織が必要とのこと。それはそうでしょうね。光太郎が入る以前はイサム・ノグチもここを使っており、そちら方面からのアプローチもあるようです。

予定では今夏には組織作りや署名活動開始、企画書とは別の小冊子配付となっているのですが、そのあたり、予定通り進行しているのかどうか……。先月辺り見学会的な催しがあったようですが……。

また具体的なことがわかりましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

小生は前に仮寓していた校長先生のお宅から昨日移転して、今度は花巻病院長の佐藤隆房先生のお宅に来ました。宮沢賢治の伝を書かれた先生です。そこの離れの二階が小生の室に宛てられました。四畳半が二間、一方を勉強室、一方が客間といふやうに出来てゐて大層便利です。


昭和20年(1945)9月11日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎63歳

光太郎が潺湲楼(せんかんろう)と名付けた佐藤隆房邸離れ、こちらも現存しています。二度ほど中に入れていただきましたが、なかなかに立派な造作です。ここで暮らし続ければそれなりに快適だったはずなのですが、ここでの生活は1ヶ月あまりで切り上げ、郊外旧太田村の山小屋に入ります。


新聞記事から2件ご紹介します。

まず、光太郎も登場する小説、柳川一氏の『三人書房』書評。今月初めの『読売新聞』さんから。

『三人書房』柳川一著  乱歩謎解き 賢治・大観ら鍵 評・金子拓(歴史学者・東京大教授)

 今年は江戸川乱歩が大正12年に「二銭銅貨」でデビューして100年という節目の年である。乱歩こと平井太郎は、デビュー前の大正8年2月から翌年10月にかけ、二人の弟と「三人書房」なる古本屋を営んでいた。自製のスクラップブック『 貼雑はりまぜ 年譜』によれば、店は本郷区駒込林町の団子坂上にあった。
 本書の書名にもなっている表題作「三人書房」は、そこに持ちこまれたある謎を解く物語であり、語り手はこの店に身を寄せていた乱歩の友人井上勝喜である。 本篇ほんぺん により作者はミステリーズ!新人賞を受賞した。本書にはその続篇4篇が併録され、いわゆる連作短篇集の体裁になっている。続篇のうち3篇が書き下ろしであり、すべて語り手が異なるという工夫がなされている。
 二作目の「北の詩人からの手紙」には宮沢賢治が謎解きの重要人物として登場する。『新校本 宮澤賢治全集』第十六巻下によると、賢治は大正7年から翌年3月まで妹トシの看病のため在京しているから、三人書房開業とかろうじて重なる。乱歩と賢治に接点があったかも、という設定にワクワクする。
 それだけでない。有名どころでいえば、宮武外骨や横山大観、高村光太郎も登場する。大観が語り手の一人となる一篇「秘仏堂幻影」は、デビュー直後の大正12年が舞台である。153 頁ページ からページをめくった瞬間、そうか、と驚かされた。この年は乱歩にとってだけでなく、大観にとっても重要な年であったわけか。
 あの謎や、登場人物のあの行動が、乱歩ののちの作品にこうつながってくるという仕掛けも巧妙で、語り口も乱歩のそれを強く意識しているとおぼしく、大正の雰囲気がただよう。本書は物騒な謎というより日常の謎に近い謎解きの物語であるが、そんな謎に 嬉々きき としてたわむれる乱歩の姿が 頬笑ほほえ ましい。その兄の姿を羨望のまなざしで見つめる二人の弟。次弟通は平井蒼太の筆名で小説を書いたことでも知られる。二人のことをもう少し知りたい人には、鮎川哲也の名著『幻の探偵作家を求めて』を薦めたい。(東京創元社、1870円)

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もう1件、過日、ちらっとご紹介しましたが、『福島民報』さんから。

創作に励み切磋琢磨 福島県いわき市の東日大昌平高文芸部 県文学賞入賞、活躍続く

 いわき市の東日大昌平高文芸部が近年、県文学賞で入賞を果たすなど目覚ましい活躍を遂げている。現在部員5人が在籍し、今年で顧問17年目を迎える斎藤久子教諭と切磋琢磨(せっさたくま)しながら短歌や俳句の創作に打ち込む。
 2000(平成12)年の開校とともに創部した。部員に短歌や俳句、小説などの指導をしながら斎藤教諭も創作をする。
 県文学賞では、2020(令和2)の第73回で当時の3年生が短歌部門で青少年奨励賞、2021年の第74回で斎藤教諭が短歌部門で準賞、昨年の第75回で仁田かのんさん(2年、当時1年)が短歌部門で青少年奨励賞をそれぞれ受賞。今年の第76回では猪狩冴空さん(2年)が詩部門、根本悠平さん(3年)が俳句部門でそれぞれ青少年奨励賞に輝き、同部としては4年連続入賞を果たした。
 県高校文芸コンクールでの活躍も顕著で、猪狩さんは今年の散文、短歌の両部門で優秀賞を受け、短歌部門で来年の全国高校総合文化祭への出場が内定している。
 創作に向かう感性を磨こうと、部員は市内外の美術館や偉人の生家での研修にも励む。二本松市出身の洋画家・高村智恵子の生家では「智恵子抄」を朗読したり、「レモン哀歌」にちなんで実際にレモンをかじったりして作品の世界に触れた。斎藤教諭は「現場に行かなければ分からないことがある。実体験を大事にしている」と話す。
 現在、部員は来年3月に発行する部誌「閃光」の編集作業を進めている。今後の活動について仁田さんは「さまざまなジャンルに挑戦し、うまく言語化できるようにしたい」、渡辺紗月さん(1年)は「多くの人に読んでもらえるような作品を作りたい」と目標を語った。
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高校の文芸部というと、過日、このブログで岩手県立花巻南高等学校文芸部さんについてご紹介しましたが、こちらは智恵子の故郷・福島県。ただし、同県の地区区分は沿岸部が「浜通り」、山間部が「会津」、その中間が智恵子の生まれた二本松を含む「中通り」で、記事にある東日本国際大学附属昌平高さんは「浜通り」のいわき市にあります。いわきと云えば、当会の祖・草野心平の出身地。そこで、記事にある「部員は市内外の美術館や偉人の生家での研修にも励む」とある中には心平生家も含まれているのかな、と思います。

それが浜通りの智恵子生家まで足を運んで下さり、「「智恵子抄」を朗読したり、「レモン哀歌」にちなんで実際にレモンをかじったりして作品の世界に触れ」て下さったそうで、すばらしいですね。顧問の先生の「現場に行かなければ分からないことがある。実体験を大事にしている」というお言葉に全てが集約されているような気もします。

今後ともさらなるご活躍を、と祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

子供等を何とかして純粋に聡明に育てなければ日本の今後があやぶまれます。又昔の状態に逆戻りするのでは情けない事ですから是非とも心ある者の努力が必要です。

昭和20年(1945)9月12日 水野葉舟宛書簡より 光太郎63歳

終戦から約1ヶ月、少しずつ「戦争」への省察が始まっています。やがてその矛先が自らの戦争責任へと向かっていき、連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)などに繋がります。

で、「子供等を何とかして純粋に聡明に育てなければ日本の今後があやぶまれます」。戦前からそういう考えはありましたが、特に戦後は具体的な行動でそれを実現しようともしていきます。この後移住する旧太田村の山小屋では、近くの山口分教場(のちに山口小学校)や太田中学校、盛岡だと県立美術工芸学校や生活学校(現・盛岡スコーレ高校さん)などにたびたび通い、若い世代へのエールを送り続けました。

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