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どうもネタ不足に陥りつつありまして、昨日もご紹介した紫陽花ネタでもう1日、引っ張らせていただきます。

昨日は、紫陽花がモチーフの智恵子紙絵を原画とした神戸文化ホールさんの巨大壁画についてでしたが、光太郎詩にも紫陽花が謳われているものがあります。ただし、花が枯れてしまってからの様子ですが……。

   未曾有の時
戦時アトリエ前ピン
 未曾有の時は沈黙のうちに迫る。
 一切をかけて死んで生きる時だ。
 さういふ時がもう其処に来てゐる。
 迫り来るものは仮借せず、
 悠久の物理に無益の表情はない。
 吾が事なほ中道にあり、
 世の富未だ必ずしも餓莩(がへう)を絶つに至らず、
 人みな食へないままに食ひ
 一寸先きの闇を衝いて生きる日、
 枚(ばい)を銜んで迫り来るものは四辺に満ちる。
 既に余が彫蟲の技は余を養はず、
 心をととのへて独り坐れば
 又年が暮れて歴日はあらためられる。
 巷に子供ら声をあげて遊びたはむれ、
 冬の日は穏かにあたたかく霜をくづし
 紫陽花の葉は凋み垂れて風雅の陣を張り、
 山雀は今年もチチと鳴いて窓を覗きこむ。
 すべて人事を超えて窮まる処を知らない。
 さればしづかに強くその時を邀(むか)へよう。
 一切の始末を終へて平然と来るを待たう。
 悉く傾けつくして裸とならう。
 おもむろに迫る未曾有の時
 むしろあの冬空の透徹の美に身を洗はう。
 清らかに起たう。
 
昭和12年(1937)12月の作品で、翌年の『中外商業新聞』に発表されました。一読し、身辺に大きな変化が訪れているけれど、決意を新たに頑張ろう、的な内容に読めます。

この年は日中戦争が勃発した年なので、その意味では生活も大きく変わった部分があったと思われます。そして、そうした外的環境もさることながら、光太郎の内面も大きく変わりつつありました。その要因は、智恵子。この時期、智恵子は「値(あ)ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)となり、南品川ゼームス坂病院で紙絵を作り続ける毎日でした。
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   値(あ)ひがたき智恵子

 智恵子は見えないものを見、
 聞えないものを聞く。

 智恵子は行けないところへ行き、
 出来ないことを為る。

 智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
 わたしのうしろのわたしに焦がれる。

 智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
 限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

 わたしをよぶ声をしきりにきくが、
 智恵子はもう人間界の切符を持たない。

智恵子をこうしてしまった原因の一つは、「芸術家あるある」で、俗世間とは極力交渉を絶つ生活にもあったのではないかと、光太郎は反省します。そしてそうした生活を続けていては、自分もおかしくなるかも、と考えた可能性もあります。

   美に生きる

 一人の女性の愛に清められてseisaku
 私はやつと自己を得た。
 言はうやうなき窮乏をつづけながら
 私はもう一度美の世界にとびこんだ。
 生来の離群性は
 私を個の鍛冶に専念せしめて、
 世上の葛藤にうとからしめた。
 政治も経済も社会運動そのものさへも、
 影のやうにしか見えなかつた。
 智恵子と私とただ二人で
 人に知られぬ生活を戦ひつつ
 都会のまんなかに蟄居した。
 二人で築いた夢のかずかずは
 みんな内の世界のものばかり。
 検討するのも内部生命
 蓄積するのも内部財宝。
 私は美の強い腕に誘導せられて
 ひたすら彫刻の道に骨身をけづつた。

こちらは戦後、戦時中の戦争責任を含め、自らの半生を省みて作られた連作詩「暗愚小伝」中の一篇。昭和22年(1947)の作です。

「これではいかん」というわけで……

   最低にして最高の道
 無題
 もう止さう。
 ちひさな利慾とちひさな不平と、
 ちひさなぐちとちひさな怒りと、
 さういふうるさいけちなものは、
 ああ、きれいにもう止さう。
 わたくし事のいざこざに
 見にくい皺を縦によせて
 この世を地獄に住むのは止さう。
 こそこそと裏から裏へ
 うす汚い企みをやるのは止さう。
 この世の抜駆けはもう止さう。
 さういふ事はともかく忘れて
 みんなと一緒に大きく生きよう。
 見えもかけ値もない裸のこころで
 らくらくと、のびのびと、
 あの空を仰いでわれらは生きよう。
 泣くも笑ふもみんなと一緒に
 最低にして最高の道をゆかう。

こちらは智恵子没後の昭和15年(1940)の作ですが、最初に引用した「未曾有の時」にも通じる内容ですね。しかし、「みんなと一緒に」という方向に梶をきったものの、その「みんな」が「戦争」という狂瀾怒涛に呑み込まれて行き、さらには光太郎自身、その旗振り役とならざるを得なくなってしまったというのが、大いなる悲劇でした。

さて、紫陽花。

昨日は、神戸文化ホールさんの巨大壁画に原画として使われた智恵子紙絵をご紹介しましたが、他にも紫陽花をモチーフにした紙絵が存在します。上の「値(あ)ひがたき智恵子」の脇に載せたもの(『紙絵と詩 智恵子抄』昭和40年=1965初版 伊藤信吉 北川太一 髙村規編 社会思想社現代教養文庫の表紙に使われました)も「おそらく紫陽花でしょうし、下記の紙絵も「あじさい」の題が付けられています。
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いい感じですね。

ところで紫陽花。

昨日、御朱印マニアの妻と共に、茨城県潮来市の寺院に行って参りました。近年、「あじさい寺」として有名になってきた「二本松寺」という寺院です。智恵子の故郷、二本松とは無関係のようですが、変わった寺号ですね。

平成20年(2008)ごろから、ご住職がコツコツ紫陽花を増やし、目標1万株を達成、「あじさいの杜」として有料公開を始めて、テレビ等でも紹介されるようになりました。昨日も盛況。当方らはまだすいていた午前中に訪れましたが、帰る際には駐車場待ちの車で渋滞が発生していました。
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1万株、たしかに見応えがありました。
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さらにすごいと思ったのは、近年開発されたと思われる、いろいろな紫陽花が多いこと。「こんな紫陽花があるのか」的な。
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本堂付近には、紫陽花を使ったオブジェ的なものも。
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流行りの花手水も紫陽花でした。
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智恵子が見たら、さぞ喜んだだろうと思いました。

都心からは遠いのですが、ぜひお越し下さい。

【折々のことば・光太郎】

篠田定吉氏くる、水野君碑の事、

昭和28年(1953)3月7日の日記より 光太郎71歳

水野君」は水野葉舟。明治中期、『明星』以来の親友でしたが、昭和22年(1947)に歿しています。その歌碑を、葉舟の移り住んだ千葉成田の三里塚に立てる計画が持ち上がり、その件でしょう。「篠田定吉」は三里塚にほど近い印旛郡宗像村(現・印西市)在住の人物で、戦前から光太郎と面識がありました。

のちに歌碑の建設が具体化した頃、光太郎に碑面揮毫の依頼がありましたが、折悪しく健康がすぐれず断念、代わりに久保田空穂が筆を執りました。

通販サイト・フェリシモさんで販売している「日本近現代文学の世界に浸る 文学作品イメージティー」。全4セット、月イチで1セットずつ届くシステムになっています。注文したところ、まず4月分として「中島敦 著『山月記』× 虎に還るように色が変化するお茶」が届き、続く5月分でお目当ての「高村光太郎 著『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶」が届きました。予定では5月中旬には届くはずが、品切れ状態だったそうで、月末にずれ込みました。
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文庫本サイズのケースに、ティーバッグ17個入り(「Tバック」ではありません(笑))。
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早速、賞味。「中島敦 著『山月記』× 虎に還るように色が変化するお茶」は、青い紅茶(矛盾していますが(笑))で、ヴィジュアル的にインパクトがありましたが、こちらはいたって普通の色です。しかし、商品説明に「はじけるように香りが立ち上る、新鮮なレモンをトッピング」とあり、「ああ、確かにレモンティーだ」。最初からレモンピール(皮を粉末にしたもの)が混ぜてあるわけです。
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まぁ、それだけなのですが(笑)、それでも高級な茶葉を使ってはいるんだろうな、というのは分かりました。当方、基本的には珈琲党なのですが。ただ、もしかすると「ドイツ製」というのに惑わされているのかもしれませんが(笑)。

言わずもがなですが、『智恵子抄』に収められ、南品川ゼームス坂病院での智恵子の臨終を謳った「レモン哀歌」(昭和14年=1939)由来です。

  レモン哀歌 005
 
 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズいろの香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう

レモンについては、翌年に書かれた随筆「智恵子の半生」の中で、このようにも書いています。

 私自身は東京に生れて東京に育つてゐるため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず、彼女もいつかは此の都会の自然に馴染む事だらうと思つてゐたが、彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかつた。彼女は東京に居て此の要求をいろいろな方法で満たしていた。家のまはりに生える雑草の飽くなき写生、その植物学的探究、張出窓での百合花やトマトの栽培、野菜類の生食、ベトオフエンの第六交響楽レコオドへの惑溺といふやうな事は皆この要求充足の変形であつたに相違なく、此の一事だけでも半生に亘る彼女の表現し得ない不断のせつなさは想像以上のものであつたであらう。その最後の日、死ぬ数時間前に私が持つて行つたサンキストのレモンの一顆を手にした彼女の喜も亦この一筋につながるものであつたらう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗はれてゐるやうに見えた。
(略)
 百を以て数へる枚数の彼女の作つた切紙絵は、まつたく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛憐の情の訴でもある。彼女は此所に実に健康に生きてゐる。彼女はそれを訪問した私に見せるのが何よりもうれしさうであつた。私がそれを見てゐる間、彼女は如何にも幸福さうに微笑したり、お辞儀したりしてゐた。最後の日其を一まとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑ふ表情をした。すつかり安心した顔であつた。私の持参したレモンの香りで洗はれた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去つた。昭和十三年十月五日の夜であつた。


これ以前のかなり早い時期から、駒込林町の光太郎アトリエではレモンが使われていました。詩人・歌人の上田静栄の回想から。上田は智恵子の親友・田村俊子の弟子でした。

 ひろい東京に田村御夫妻の他に知人もない私にとつて、あのアトリエの雰囲気と(高村)御夫妻の様子は東京のすべてを代表してゐるやうに魅力のあるものに思はれた。智恵子夫人をいたはりながら客の間をとりなされる高村先生の態度が、いかにも男らしく優雅なものに見えて深く心に残つた。(田村)女史のお相手に夫人は静かに椅子にかけられたまま、高村先生がアトリエの北のすみの水屋にたたれて、レモンの浮いた冷たい飲み物をつくつてみなにすすめられた。たけの高いハイカラなガラスのコツプで、散歩のあとなのでとても美味しく頂いた。
(未定稿「美しき思ひ出の人びと」昭和34年=1959頃 『歌文集 こころの押花』昭和56年=1981所収)

これが大正4年(1915)頃のことです。光太郎智恵子が結婚披露を行ったのが大正3年(1914)ですので、まだ新婚の時期です。レモンは明治の早い時期に日本へ輸入されていましたが、それにしてもシャレオツですね。

さて、「『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶」。「室生犀星 著『蜜のあわれ』× 燃えている金魚のように赤いお茶」、「江戸川乱歩 著『孤島の鬼』× 宝石より魅力的なチョコレートの紅茶」、「中島敦 著『山月記』× 虎に還るように色が変化するお茶」との4点セットで、月イチでの送付(順番はフェリシモさん任せ)です。単価は1セット税込み1,980円。

先月、朗読イベントとコラボした企画で、大正浪漫喫茶­秋葉原和堂さんが『文豪達のティータイム -日本近現代文学の世界へ-』を開催し、オリジナルコラボフードとのセットでの販売も行われました。光太郎に関しては「高村光太郎のレモンケーキ~ざくろゼリー添え~」。そちらも結構な入りだったようで、一時、紅茶は品切れでした。そこで当方自宅兼事務所に「『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶」が届いたのは予定より遅れたのですが、品切れ状態も解消されたようです。

オンラインで注文可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

晴、 午前モデル、 午后石炭一トン来る、


昭和28年(1953)2月6日の日記より 光太郎71歳

石炭」はストーブ用です。

戦前、駒込林町のアトリエでは、粘土の凍結防止のためにストーブを焚き続け、それを詩「金」(大正15年=1926)では「工場の泥を凍らせてはいけない。/智恵子よ、/夕方の台所が如何に淋しからうとも、/石炭は焚かうね。」と謳っていました。「工場」はアトリエ、「」は粘土です。喰うものを喰わなくても石炭に「金」を使うのだという宣言です。「智恵子抄」が嫌いだ、という人の中には、こういう光太郎の身勝手さが我慢ならない、という意見もあるようです。

戦後のこの時期は、どちらかというと粘土の凍結防止よりも、モデルにヌードになってもらうためということで、ストーブをガンガン焚いていたようです。光太郎自身は七年に及ぶ花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活で、マイナス20度の世界に耐え抜いていましたので。

それにしても「トン」単位で石炭を買うというのも凄い話ですね(笑)。

注文しておいたDVDが届きました。

今年1月に公演があった、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団さんの第146回定期演奏会ライヴです。
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新実徳英氏に委嘱作曲の「愛のうた ― 光太郎・智恵子 ―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」、初演が含まれています。
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楽譜が1月に全音さんから出版されており、購入。メロディーなどはこんな感じかというのは何となく分かっていましたが、実際の演奏を聴いてみるとやはりいろいろ発見がありますね。普通は「百聞は一見にしかず」ですが、音楽に関しては「百見は一聞にしかず」。楽譜を見ているだけではわからないことだらけでした。

ステージに上がった合唱団員は50名ほど。オケはオケの編成としては少なめで、サブタイトルに「フルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」とあるとおり、管はフルートとクラが1本ずつのみ。トランペットやらトロンボーンやらの金管は入っておらず、打も入っていません。合唱50人に対しては、この位の編成が適正なのでしょう。大編成でわちゃわちゃやる「第九」のような曲でもありませんし。もっとも、「第九」は合唱曲としてとらえるとかなり異端なのですが。
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全6曲中の1曲目、「山麓の二人」。通常、「智恵子抄」を組曲にする場合、最初は光太郎と智恵子が出会った頃や智恵子がまだ健康だった頃の詩(「人に」とか「あどけない話」とか)をテキストにする例が多いのですが、いきなり「わたしもうぢき駄目になる」。不安を煽るような曲想で、「この組曲全体で作られるのは、甘ったるい情調本意の世界観ではないんだぞ」と宣言しているかのようでした。
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2曲目、「千鳥と遊ぶ智恵子」。1曲目と較べると、九十九里浜の色鮮やかな初夏の風景、その一部と化した智恵子が描かれているだけあって、陽の光を感じさせるような明るい感じの部分も。それでもフルートやテノールのソロで表現される千鳥の鳴き声が、もの哀しさを湛えています。
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続く「値がたき智恵子」。もはや完全に夢幻界の住人となってしまった智恵子。ア・カペラの歌から始まり、すぐ歌なしのオケ。それが掛け合いのように繰り返され、やがて中間部では渾然一体に。終盤、またア・カペラの部分も。
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「間奏曲-悲しみの淵へ-」。歌詞はなく、歌が入るところはヴォカリーズです。言葉に出来ない光太郎の思い、というイマジネーションでしょうか。
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そして智恵子の臨終を謳った「レモン哀歌」。ドラマとしてはヤマ場の部分ですが、全体に抑制され、訥々とした光太郎のモノローグといった感がありました。ところどころ激しい部分もありましたが。高音二声が「智恵子はもとの~智恵子となり~」とやっている裏でバリトンとベースが「智恵子~智恵子、智恵子」と連呼するなど、「なるほど」と思いました。最後も「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」の後にトゥッティーで「智恵子~」。同じ手法は最後の「元素智恵子」でも使われていました。
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光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を送っていたイメージ。諦念も感じさせつつ軽快な8分の6拍子が基本。特にこの曲ではクラが効果的に使われているように感じました。最後は長いヴォカリーズのあと、やはり原詩にはない「智恵子智恵子智恵子ー」。この程度の詩の改変はありでしょう。
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作曲の新実氏がステージに上がり、指揮の佐藤正浩氏とのトーク。
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光太郎智恵子に関する話がほぼなかったのが残念でしたが……。

DVDとブルーレイ、送料込みで5,000円。映像無しのCDは同じく3,000円です。オンラインで注文可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

大宮工作所より回転台、心棒届く、板も届く、 小坂さんくる、とりつけ夕方になる、

昭和28年(1953)1月24日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために移り住んだ東京中野の貸しアトリエに、彫刻用回転台の部品が届けられました。部品は前年から届いてはいましたが、この日で全て揃い、組み立てたようです。

回転台は、平成30年(2018)、
十和田湖観光交流センター「ぷらっと」さんに寄贈された、戦時中の高射砲の台座を改造した大きなもの。手配をしたのは助手を務めた小坂圭二でした。
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先週の『北海道建設新聞』さん、一面コラムから。

透視図 2022年05月25日

友だちとはいつも一緒にいて、仲良く笑い合える関係と考える人がほとんどでないか。詩人の高村光太郎は少し違ったらしい。「友よ」という作品にそれが示されていた▼後段の一節を引く。「友とは同じ一本の覚悟を持つた道づれの事だ 世間さまを押し渡る相棒だと僕を思ふな 百の友があつても一人は一人だ 調子に乗らずに地でゆかう お互にお互の実質だけで沢山だ その上で危険な路をも愉快に歩かう」。岸田首相が23日、日本を訪れたバイデン米大統領と会談したとの報に触れ、その詩を思い出した。同盟関係とはまさにそういうものだろう。戦争の抑止と平和維持のために、それぞれが応分の責任を果たす。ただの仲良しこよしではない▼どちらかといえば存在感の薄い両首脳だが、会談の内容は濃かったようだ。首相が防衛力の強化と裏付けになる防衛費の増額、「反撃能力」の確保を表明すると、大統領も米国の「核の傘」や通常戦力による「拡大抑止」を約束。強固な同盟関係を印象づけた。日本では小声で語られるのが常だった防衛費の積極的増額や反撃、核といった言葉が、具体性を伴って違和感なく前面に出てきている。ロシアのウクライナ侵略で日本でも戦争の危機を真剣に考える空気が醸成されたからに違いない▼戦争は話し合いで回避できる、防衛問題については議論もしたくないといったいわゆる「お花畑」論的反発が今回大きくないのも事情は同じだろう。戦争を前提に置かねばならないのは悲しい現実だが、「危険な路を愉快に」歩くには日米同盟の強化が必要である。

引用されている「友よ」は、昭和6年(1931)、前田鐵之助主宰の雑誌『詩洋』に掲載されたもので、当方も好きな詩の一つです。

   友よ

 まづ第一に言つておかう
 僕から世間並の友誼などを決して望むな
 僕は君の栄達などを決して望まぬ
 君のちいさな幸福などを決して祈らぬ
 君は見るだらう
 僕が逆境の友を多く持ち順境の友をどしどし失ふのを
 なぜだらう
 逆風の時に持つてゐた魂を順風と共に棄てる人間が多いからだ
 僕に特恵国は無い
 僕の固定の友は無い
 友とは同じ一本の覚悟を持つた道づれの事だ
 世間さまを押し渡る相棒だと僕を思ふな
 百の友があつても一人は一人だ
 調子に乗らずに地でゆかう
 お互にお互の実質だけで沢山だ
 その上で危険な路をも愉快に歩かう
 それでいいのだと君は思つてくれるだらうか

光太郎数え49歳、ここで言う「」は、特定の人物を想定しているものではないような気がします。この時期の「」といえば、当会の祖・草野心平や、その周辺にいた黄瀛、真壁仁、更科源蔵、猪狩満直、尾形亀之助らの詩人、それからこの年渡欧した彫刻家の高田博厚らが思い浮かびます。それぞれ、確かに「順境」とは言えない人々で、そのすべてに捧げる、という意味合いに読み取れます。「順境」の人々――文壇や美術界でいわゆる「大家(たいか)」となりつつあった人々とは、疎遠とは言わないまでも、一定の距離を置いていたようです。「逆風の時に持つてゐた魂を順風と共に棄てる人間」と感じる人物が実際に複数いたのでしょう。

それにしても、頭の良くない当方などは、バイデン大統領、結局、「YOUは何しに日本へ」と感じているのですが、どうなのでしょうか。「「フミオ」「ジョー」と呼び合う」などとも報道されていますが、どーーーーーーーでもいい気がします(笑)。それこそ「お互にお互の実質だけで沢山だ」です。
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まぁ、小学校での銃乱射事件を受けて「教師に銃を」とスピーチした前大統領より100倍マシだと思います(笑)。「教師に銃を」発言を批判するのも「お花畑」と言われてしまうかも知れませんが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

好晴、温、午后風、冷、 朝の雑煮と夕食とを中西さん宅によばれ、一同と会食、

昭和28年(1953)1月1日の日記より 光太郎71歳

昭和28年(1953)の元日、光太郎数え71歳となりました。光太郎の命の炎もあと3年と少しです。おそらくそういう自覚があったものと思われ、この時期に手がけていた生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、異例の速さで完成にこぎつけます。

002ちなみにネット上では「高村光太郎の最後の作品」「完成まで1年余りかかった」という頓珍漢な記述が為され、さらにそれをコピペしてブログ等に引用する人が多くて閉口しています。「最後の大作」であって「最後の作品」ではありません。「最後の作品」は、小品ながら、「乙女の像」除幕式の際に配付された「大町桂月記念メダル」です。また、「完成まで1年余り」かかっていませんし、「1年余りかけるなんて凄い」という文脈は、まるでわかっていませんね。光太郎は一つの彫刻に、最長15年近くかけた例もありました。

中西さん宅」は、光太郎が起居していた貸しアトリエの大家(おおや)だった故・中西利夫宅。貸しアトリエと同じ敷地内で、未亡人の富江夫人、子息らが居住していました。

この年もそうだったかどうか不明ですが、子息らは光太郎からお年玉を貰ったそうで、原稿用紙を折りたたんで作ったポチ袋が中西家に現存しています。

昨日に続き、明日、没後80周年となる与謝野晶子関連で。

『産経新聞』さんのおそらく関西版で、「火に燃えて動きし 与謝野晶子」という特集記事が3回にわたって掲載されました。その第1回では光太郎についても触れて下さっています。

火に燃えて動きし 与謝野晶子  (上)国を愛し家族を愛し まことの心歌い上げ

  激しい恋心を大胆に表現した第1歌集「みだれ髪」で文壇に衝撃を与え、詩や評論、源氏物語の現代語訳など多彩な足跡を残した堺市出身の歌人、与謝野晶子。感じたことを感じたままに、刺激的な表現も辞さなかった創作や言動はときに物議をかもした。文学でも家庭でも、情熱の火を燃やし続けた歌人は、今年が没後80年。命日の29日を前にその足跡をたどってみたい。
※火に燃えて動きし…晶子の代表的な詩「山の動く日」の一節。自立に向け動き出す女性たちを火山にたとえた
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挑戦的な言葉
〈あゝをとうとよ君を泣く/君死にたまふことなかれ〉
多作だった晶子の作品のなかで、夫の与謝野鉄幹が主宰する雑誌「明星」に発表された「君死にたまふこと勿れ」は、最もなじみのある作品といえるだろう。日露戦争に出征した弟・鳳籌三郎(ほうちゅうざぶろう)への思いを詠んだ長詩だ。
  晶子は、堺の実家の和菓子商「駿河屋」を継ぐ立場にあった籌三郎の身を案じる肉親の情をストレートに歌い上げる。
〈旅順の城はほろぶとも/ほろびずとても何事か〉など、国を挙げて戦争に協力する風潮が支配的だった当時の社会に挑戦的ともとれる言葉を重ね、論争を巻き起こしたことは有名だ。
 明治・大正期の詩人で評論家の大町桂月(1869~1925年)は「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと言ふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判。危険思想と評して晶子を攻撃した。
 これに対し、晶子は明星で発表した反論文「ひらきぶみ」の中で、戦地に赴く兵士を駅で見送る親兄弟たちが大声で万歳を叫ぶ一方で、気を付けて無事帰るよう伝える場面も見られることを挙げ「彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候」とした。
 論争は鉄幹らが桂月宅に直接出向いて会見し、桂月が攻撃の矛を収めたことで決着した。出征していた籌三郎は帰還し、のちに家業を継いでいる。

思いを率直に
 反戦・非戦の詩として語られることの多い「君死にたまふこと勿れ」。ただ、与謝野晶子記念館(堺市)の矢内一磨学芸員は「戦争賛成か反対かといった単純な色分けでは理解できない」と指摘する。
 晶子と交流のあった文学者たちも「反戦でも何でもない。ただ弟に生きて帰れと言っただけなんだ」(高村光太郎)、「戦争否定の詩とか平和主義の詩とか読む現代の流行は、当年それを乱臣賊子の詩と読んだ人があつたのと同様に読む者の勝手であらう。しかしそのどちらも同じやうに作者晶子にとつては恐らく迷惑な事であらう」(佐藤春夫)など、懐疑的な見方を示していた。
 「ひらきぶみ」では「この国に生れ候私は、(中略)この国を愛で候こと誰にか劣り候べき」と愛国の心を強調。明治天皇の崩御の際には嘆き悲しむ心情を詠み、太平洋戦争中の昭和17年、四男の出征では「水軍の大尉となりてわが四郎 み軍(いくさ)に往く 猛く戦へ」と鼓舞する短歌を歌っている。
  矢内氏は「戦争肯定か反対か、でわける考え方は一見わかりやすいが、そこで思考停止に陥ってしまい、晶子の本質をとらえられなくなる恐れがある。そのときどきに感じた思いを率直に表現するのが晶子の作風」と話す。その心を晶子はこう表現する。「歌は歌に候。(中略)まことの心を歌ひおきたく候」(ひらきぶみ)

認め合った2人
 論争では敵役に回った桂月だが、晶子の才能を認め、もり立てた理解者でもあった。
 民俗学者で歌人・釈迢空としても知られた折口信夫(1887~1953年)は、晶子への追悼文で「晶子さんをあれだけの人として(中略)相当早い時期に認めたのは大町桂月さんでした」と寄せている。
 旅と酒を愛し、多くの紀行文を残した桂月は大正14年に死去。晶子は新聞「横浜貿易新報」(神奈川新聞の前身)でその死を深く悼んだ。
 「今思ひ出すと、当時私のやうな者を眼中に置いて下さつた先生の厚意を感謝したい。猶お目に掛るたびに先生が私の歌を褒めて激励して下さつたことも永く忘れることが出来ない」。桂月は晶子の才能を愛し、晶子もその恩を忘れることはなかった。

堺に残る歌碑の数々
 明治34年6月、与謝野晶子は生まれ育った堺を後に上京し、恋心を募らせていた歌の師、鉄幹のもとへ走った。歌集「みだれ髪」にそのときの心情を伝える一首がある。
  〈狂ひの子われに焔(ほのお)の翅(はね)かろき百三十里あわただしの旅〉(恋に狂った私は炎でできた羽をつけ百三十里を飛んでいく。あわただしい旅…)
 その後、鉄幹との新生活をスタートさせた晶子だが、結婚に反対していた兄、鳳秀太郎とは絶縁状態になるなど、失ったものも大きかった。晶子の長男、光の回想によれば晶子の父、鳳宗七が死去した際、喪主だった秀太郎は葬儀のために堺に戻ってきた晶子の参列を拒否したという。
〈古さとの小さき街の碑に彫られ百とせの後あらむとすらむ〉(故郷で私の歌は碑に彫られ、100年後にもあり続けるでしょう)
 自分を歓迎しない故郷への複雑な感情が詠ませた歌だろうか。しかし、ふるさとは晶子の歌をたたえる。与謝野晶子記念館によると、晶子の歌碑は堺市内だけで26基を数えるという。自分の心情に忠実に生きた晶子の文学が持つ魅力ゆえなのかもしれない。

よさの・あきこ 1878~1942年。堺県堺区甲斐町(現・堺市)に生まれる。明治31年、与謝野鉄幹の短歌に刺激を受け、本格的に歌作に開眼。33年、鉄幹の東京新詩社に参加し「明星」で短歌を発表した。34年、歌集「みだれ髪」を出し、鉄幹と結婚。近代日本の浪漫主義を代表する歌人として多くの作品を残した。婦人問題・教育問題など時事評論の分野でも積極的な発言を続けた。

  君死にたまふこと勿れ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)

 あゝをとうとよ君を泣く
 君死にたまふことなかれ000
 末に生れし君なれば
 親のなさけはまさりしも
 親は刃をにぎらせて
 人を殺せとをしへしや
 人を殺して死ねよとて
 二十四までをそだてしや

 堺の街のあきびとの
 旧家をほこるあるじにて
 親の名を継ぐ君なれば
 君死にたまふことなかれ
 旅順の城はほろぶとも
 ほろびずとても何事か
 君知るべきやあきびとの
 家のおきてに無かりけり

 君死にたまふことなかれ
 すめらみことは戦ひに
 おほみづからは出でまさね
 かたみに人の血を流し
 獣の道に死ねよとは
 死ぬるを人のほまれとは
 大みこゝろの深ければ
 もとよりいかで思されむ

 あゝをとうとよ戦ひに
 君死にたまふことなかれ
 すぎにし秋を父ぎみに
 おくれたまへる母ぎみは
 なげきの中にいたましく
 わが子を召され家を守り
 安しと聞ける大御代も
 母のしら髮はまさりけり

 暖簾のかげに伏して泣く
 あえかにわかき新妻を
 君わするるや思へるや
 十月も添はでわかれたる
 少女ごころを思ひみよ
 この世ひとりの君ならで
 あゝまた誰をたのむべき
 君死にたまふことなかれ
    「明星」明治37年9月号

君死にたまふこと勿れ」。記事にあるとおり、発表時に大町桂月らによってバッシングにあったことは有名ですが、桂月が「晶子の才能を認め、もり立てた理解者でもあった」というのは存じませんでした。

桂月といえば、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、元々、十和田湖周辺の国立公園指定15周年を記念し、十和田湖の観光開発等に功績のあった桂月、元青森県知事・武田千代三郎、地元の村長だった・小笠原耕一の三人を顕彰するモニュメントとして作られたものでした。

そこで光太郎、「君死にたまふこと勿れ」バッシングを念頭に、

僕は若い頃大町さんに怒鳴られたりなんかして、よく知つてゐるんだから、貴様こんなものを立てたといつて怒られるだらうといふ事が、頭に出て来て、それでどうも弱つたんです。
(座談「自然の中の芸術」 昭和29年=1954)

と発言しています。

どういうシチュエーションで光太郎が桂月に怒鳴られたのかは不明ですが、桂月にしてみれば、光太郎は「非国民」与謝野晶子の生意気な弟分、という感覚があったのかも知れません。

それにしても「君死にたまふこと勿れ」、現代のロシアの女性たちも同じようなことを考えている、と信じたいものです。「すめらみこと」ならぬ「大統領」は「戦ひに おほみづからは出でまさね」ですから。

「火に燃えて動きし 与謝野晶子」、この後、「(中)コロナの〝失政〟100年前に見通していた晶子」「(下)「源氏物語」現代語訳の先駆け 小林一三ら財界人が支援」と続きます。長いので割愛しますが、晶子のエネルギッシュな活動ぶりに改めて感心させられました。

【折々のことば・光太郎】

花巻の阿部博氏よりリンゴ一箱届く


昭和27年(1927)12月27日の日記より 光太郎70歳

阿部博氏」は花巻の林檎農家。宮沢賢治の教え子でもあります。かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋にも足繁く通っていました。帰京後もリンゴを送ってくれ、東京の店頭で売られているリンゴが不味いと感じていた光太郎は感謝していました。


明後日、5月29日(日)は、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の忌日「白桜忌」です。晶子は昭和17年(1942)に亡くなりましたので、今年は没後80周年ということになり、例年よりも注目が集まっているように感じます。

角川文化振興財団さん発行の雑誌『短歌』。東京大学教授の坂井修一氏による評論「かなしみの歌びとたち」という連載が一昨年から為されていますが、今年4月号5月号の記事をご紹介します。
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まず4月号。副題は「『白櫻集』の残したもの」。晶子の遺作歌集にして、晶子没年の昭和17年(1942)9月刊行の『白櫻集』を中心に据えられています。

『白櫻集』、序文を光太郎と有島生馬が書いています。
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晶子には弟子もたくさんいたはずですが、それらを差し置いて遺稿集の序文を光太郎、有島生馬が書いているというのが意外といえば意外です。確かに光太郎はこの時点では晶子と直接交流があった人物の中では「重鎮」の部類だったかも知れませんが……。ただ、仮にそこで弟子筋から文句が出たとしても、それを黙らせるに足る、本質を突いたいい文章ですね。

坂井氏、この光太郎の序文を引きつつ、やはり光太郎同様、晶子がたどり着いた晩年の歌境を高く評価されています。

ちなみに題名の『白櫻集』は、晶子の戒名「白桜院鳳翔晶燿大姉」にちなむとのこと。当方、勘違いしておりました。芥川龍之介の「河童忌」や太宰治の「桜桃忌」同様、先に『白櫻集』ありきで、そこから忌日の「白櫻忌」が命名された、と。

続いて5月号。「近代ならざる近代短歌の意義について」。こちらでは晶子をはじめ、近代歌人の作に「我」や「世俗」はあっても、「市民」という意識が不在だ、という論が展開されています。晶子にしても石川啄木にしても、「市民」意識は短歌より詩や評論などでそれが表されている、と。なるほど、と思いました。

そうした論の中で、晶子が「山の動く日」を寄せた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)の智恵子による表紙絵画像が載っています。ただし、今号には智恵子・光太郎の名は出て来ませんが。

そして『短歌』、既に6月号も出ています。未読ですが、坂井氏、5月号を受け、「市民」を前面に押し出したプロレタリア短歌に言及されているのではないかと思われます。5月号にそういう予告的な一節がありましたので。

「かなしみの歌びとたち」、いずれ単行本化されることを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

藤島氏と二人ニユートーキヨー、東生園、ブロードヱー、日劇、ストリツプ見物、電車でかへる、

昭和27年(1952)12月25日の日記より 光太郎70歳

藤島氏」は、光太郎の身の回りの世話等をしてくれていた詩人の藤島宇内、「ニユートーキヨー」はビアホール、「東生園」は銀座に今も健在の中華料理店です。「ブロードヱー」は浅草の「六区ブロードウェイ」、「日劇」は有楽町にあった劇場です。

ストリツプ」は浅草で見たと思われます。数え70歳(もうすぐ71歳)の光太郎、性的関心というより、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、モデル以外の女体も見ておきたかったということなのでしょう。あるいはそれを言い訳にしてのただのエロジジイだったのかもしれませんが(笑)。

PR誌というか文芸同人誌というか、不思議な雑誌の『とんぼ』。当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書を多数刊行されている文治堂書店さんの発行です。

第14号が過日届きました。
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作曲家・仙道作三氏による北川先生の追悼文「人間の魂を愛し続けた人 北川太一」が掲載されています。仙道氏、平成元年(1989)に、北川先生監修、山本鉱太郎氏台本の「オペラ智恵子抄」を書かれ、都内や光太郎ゆかりの宮城県女川町などで上演されました。その話を根幹に、やはり北川先生が関係なさった「オペレッタ注文の多い料理店」(平成4年=1992初演。公式パンフレットに北川先生の「オペレッタ「注文の多い料理店」に寄せて」という一文)、「オペラ五重塔」(平成7年=1995初演。幸田露伴の『五重塔』を元に、北川先生が台本ご執筆)等についても言及されています。

それから、平成29年(2017)に亡くなった、版元の文治堂書店さん創業者・渡辺文治氏の追悼文「渡辺文治さんのこと」(佐藤博久氏ご執筆)も掲載されています。

ついでに言うなら、当方の連載「連翹忌通信」。前号までは、留学中にアメリカからイギリスへ向けて乗船した船ブロンズ彫刻「手」に関するものなど、新たに発見された光太郎文筆作品等について書いてきましたが、今号からは「もの」の発見に関わる内容で書くことにしました。そこでまず、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、イギリスの染色作家、エセル・メレ作のホームスパン毛布について。あと2年くらいはこの手のネタで攻めようと思っております(笑)。

ご入用の方、文治堂さんのサイトまで。頒価500円だとのことです。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃藤島さん亀井勝一郎氏同道来訪、一時NHKの車にて放送会館、30分間対談放送、一月三日午前十一時半放送の由、(録音)、


昭和27年(1952)12月25日の日記より 光太郎70歳

NHKさんのラジオで放送された、光太郎と諸人物との対談は、この年3月の真壁仁とのもの、昭和30年(1955)の草野心平とのものの録音がNHKさんに残っており、それぞれそこから文字に起こして『高村光太郎全集』に載せてあります。また、平成17年頃、盛岡放送局のアナウンサー(氏名不詳)との対談(昭和24年=1949、何らかの事情で未放送)を録音したテープも見つかり、こちらも文字に起こして北川先生と当方の共編『光太郎遺珠2006』に掲載しました。

ところがこの日の亀井との対談は失われています。亀井側の資料等で、一部分でも文字起こししたものでもあれば、と思うのですが……。

福岡に本社を置く『西日本新聞』さんの一面コラム、先週土曜の掲載分です。

春秋 マスクの「心配り」は外さずに

「青葉若葉に野山のかげろふ時、/ああ植物は清いと思ふ。」。高村光太郎の「新緑の頃」である。山々の粧(よそお)いもぐっと明るくなって、今年もこの詩のような季節が到来した▼今日は二十四節気の一つ「小満」。万物が成長し、生命力がみなぎる時期という。そんなおめでたい時節なら「大満」とすべきなのに、なぜ「小」なのか▼言葉が生まれた中国では、最大限まで行き着くのは慎むべきと考えられた。ピークに達したら後は欠けて、衰えるしかない。完成に向かい進歩する「小」にあえてとどめた、との説がある。昔の中国人は随分と謙虚だったのだろう▼若葉が萌え出でるとともに、マスクがつらい季節になってきた。欧州では、交通機関での着用義務を解除した国もある。世界は「脱マスク」の流れが加速しているようだ▼国内でも「屋外では、会話をしない場合に」などの条件で、不要とする議論も起きている。統一ルールを求める声も出始めた。ただ他国はどうあれ私たちは「和」を重んじる国民性だ。他者へ着用を強いる圧力にならないように、同時に非着用が周囲への不快感を与えないように、心配りだけは外さずにいたい▼冒頭の詩はこう続く。「植物はもう一度少年となり少女となり/五月六月の日本列島は隅から隅まで/濡れて出たやうな緑のお祭。」周りの状況が許せばマスクを取り、さわやかな光に、空気に、緑の祭りを楽しみたい。

引用されている詩「新緑の頃」は、昭和15年(1940)5月6日の作。光太郎詩の中では意外と有名な一篇で、特にこの季節、このように時折、各種朗読や新聞一面コラム等で取り上げられます。

   新緑の頃KIMG6275

 青葉若葉に野山のかげろふ時、
 ああ植物は清いと思ふ。
 植物はもう一度少年となり少女となり
 五月六月の日本列島は隅から隅まで
 濡れて出たやうな緑のお祭。
 たとへば楓の梢をみても
 うぶな、こまかな仕掛に満ちる。
 小さな葉つぱは世にも叮寧に畳まれて
 もつと小さな芽からぱらりと出る。
 それがほどけて手をひらく。
 晴れればかがやき、降ればにじみ、
 人なつこく風にそよいで、
 ああ植物は清いと思ふ。
 さういふところへ昔ながらの燕が飛び
 夜は地蟲の声さへひびく。
 天然は実にふるい行状で
 かうもあざやかな意匠をつくる。

美しい初夏の自然を謳っている詩ではありますが、やはり昭和15年(1940)。日中戦争は泥沼化の様相を呈し、その打開のため、翌年には無謀な太平洋戦争に突入する時期です。そこで「日本の美」を高らかに謳い上げることで、国民の結束をはかろうという意図も見え隠れします。そういう部分を差っ引いて読めば、いい詩ですが。

上の画像は自宅兼事務所の桜の木です。ついでに自宅兼事務所の「新緑」を何枚か。

秋には真っ赤になるコキア。
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過日、碌山美術館さんで購入してきた蕎麦の種がわっと芽を出し、蕾もつけていました。
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植えた覚えもないのに何故か生えている(笑)桑の木。実がなっています。
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紫陽花も蕾が出てきています。
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光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに咲いていた連翹の子孫。かつて毎年、連翹忌の集いには剪って持参していましたが、ここ3年はそれも中止で、伸び放題です。
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そして「新緑の頃」にも謳われた楓。
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植物にはコロナもマスクも関係なく、季節を謳歌していますね。

それにしてもマスク。この国は同調圧力の国ですが、本当に「心配りだけは外さずに」うまく付き合いたいものです。

【折々のことば・光太郎】

青森読売の人くる、彫刻経過を語る、 東奥日報の人くる、同様の話、撮影、

昭和27年(1952)12月22日の日記より 光太郎70歳

彫刻経過」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の進捗状況。

『東奥日報』では、翌年の元日の紙面で記事になりました。
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小見出しにもなっていますが、この中で光太郎が十和田湖の印象を「乙女」と表しています。それが像の通称「乙女の像」の遠因の一つとなった部分もあるような気がします。

朗読CDの新盤です。

朗読喫茶 噺の籠~あらすじで聴く文学全集~あらくれ/詩集「永訣の朝」/金色夜叉

2022年5月18日 噺RECORD 定価2,200円(税込み)

「朗読喫茶 噺の籠 ~あらすじで聴く文学全集~」シリーズは人気・実力を兼ね備える豪華声優陣が、日本近現代の名作文学を原作に、本作の為に書き下ろされたオリジナルあらすじ台本を朗読します。1人の声優が1作品を朗読。1タイトルあたり3作品収録し、一期あたり、6タイトルで全18話の作品を制作します。

あらくれ/徳田秋声       朗読:永塚拓馬
詩集「永訣の朝」/宮沢賢治 他 朗読:森川智之
金色夜叉/ 尾崎紅葉      朗読:葉山翔太
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詩集「永訣の朝」/宮沢賢治 他」の「」が光太郎です(笑)。その他はラインナップに入っていません。だったら「宮沢賢治/高村光太郎」としていただきたかったのですが(笑)。

賢治の「永訣の朝」「無声慟哭」に続き、光太郎詩は「樹下の二人」、「あどけない話」、「風にのる智恵子」、「山麓の二人」、「レモン哀歌」、「亡き人に」。

朗読なさっているのは、声優の森川智之さん。森川さんの言葉がジャケットに印刷されています。

宮沢賢治の詩といえば、私が思い出すのは有名な「雨ニモマケズ」ですが、今回は「永訣の朝」「無声慟哭」となかなかにヘビーなラインナップで、宮沢賢治の魂の叫びを感じながら味わいました。「永訣の朝」の「あめゆじゆとてちてけんじゃ」の方言のところがなかなか難しかったです。宮沢賢治らしい表現が斬新で好きです。また高村光太郎の詩も読ませていただきましたが、智恵子抄の愛の詩がとても切なく、愛情たっぷりな言葉たちが心の中に流れ込みました。芸術家であり、詩人でもある高村光太郎の「智恵子抄」は夫婦の叙事詩的な趣きで、どれだけ強く愛していたのかを思い、その当時に想いを馳せつつ読ませていただきました。是非、この名作を私の朗読で楽しんでください。

気負わず、衒わずの、いい朗読でした。ある意味淡々とした読み方ですが、それが却って自然ですし、余計な色がついておらず、言葉がすんなり入ってきます。

最近、YouTube等に光太郎詩の朗読が続々アップされているのですが、それはそれでありがたいものの、玉石混淆の状態です。「それはあんまりだろ」というものも少なくありません。まずは朗読より漢字の読み方を勉強しようよ、みたいな。そして余計な気負い、衒いがたっぷりで、「さあ! 感動して下さい!」みたいなものも多いのが現状です。

ちなみに昨年には同じシリーズで「朗読喫茶 噺の籠 ~あらすじで聴く文学全集~ 坊ちゃん/耳なし芳一・雪女/詩集「生きる」」がリリースされ、光太郎詩「道程」と「冬が来た」が含まれていました。併せてお買い上げ下さい。

【折々のことば・光太郎】

石膏やさん娘さんを助手にしてくる、夕方ちかく終り、先日とつた分を一体持参、

昭和27年(1952)12月14日の日記より 光太郎70歳

「石膏やさん」は牛越誠夫、道具鍛冶千代鶴是秀の娘婿です。この日とその前に取った石膏は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための小型試作のものでした。小型試作は2体作り、位置関係等を確かめるのにも使ったようです。

昨日は沖縄県の復帰50周年ということで、県と政府による記念式典等が開催されました。

当方、沖縄と光太郎といえば、3篇の詩(うち2篇は光太郎以外の詩人の作品)を思い浮かべます。

まずは光太郎。

太平洋戦争末期の昭和20年(1945)4月1日に書かれ、翌日の『朝日新聞』に掲載された詩です。

   琉球決戦

 神聖オモロ草子の国琉球、
 つひに大東亜戦最大の決戦場となる。
 敵は獅子の一撃を期して総力を集め、
 この珠玉の島うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、
 万座毛(まんざまう)の緑野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)に、
 あらゆる暴力を傾け注がんずる。
 琉球やまことに日本の頸動脈、
 万事ここにかかり万端ここに経絡す。
 琉球を守れ、琉球に於て勝て。
 全日本の全日本人よ、
 琉球のために全力をあげよ。
 敵すでに犠牲を惜しまず、
 これ吾が新機の到来なり。
 全日本の全日本人よ、
 起つて琉球に血液を送れ。
 ああ恩納(おんな)ナビの末孫熱血の同胞等よ、
 蒲葵(くば)の葉かげに身を伏して
 弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、
 猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ
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米軍が沖縄に上陸したのは、まさにこの詩が書かれた4月1日午後4時06分。翌日の『朝日新聞』一面には「沖縄本島に敵上陸」の記事を載せ、社説も「沖縄決戦」のタイトルで書かれました。

その直後の4月7日、連合艦隊旗艦だった戦艦大和以下6隻の艦艇は、沖縄への海上特攻中、鹿児島県枕崎沖の東シナ海で米艦隊と遭遇、撃沈されています。沖縄では非戦闘員を巻き込んだ地上戦は6月23日まで続き、沖縄県民4人に1人が亡くなりました(日本軍の戦死者は11万人)。ただ、その詳細は「本土」で報じられることはあまりなかったようです。

こうした翼賛詩などを恥じ、戦後の光太郎が岩手花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居したことは、これまでもこのブログで触れて参りました。光太郎の胸中に、沖縄の人々などに対する鎮魂の意があったことを信じたいものです。

光太郎、沖縄出身の詩人とも交流がありました。そこで、当方が思い起こす2篇目の詩は、そのうちの一人、伊波南哲(いばなんてつ)が書いた作品、昭和18年(1943)3月作です。

  讃 ・与那国島
    001
 荒潮の息吹にぬれて
 千古の伝説をはらみ
 美と力を兼ね備えた
 南海の防壁与那国島。
 行雲流水
 己の美と力を信じ
 無限の情熱を秘めて
 太平洋の怒濤に拮抗する
 南海の防波堤与那国島。
 宇良部岳の霊峰
 田原川の尽きせぬ流れ
 麗しき人情の花を咲かせて
 巍然とそそり立つ与那国島よ。
 おゝ汝は
 黙々として
 皇国南海の鎮護に挺身する
 沈まざる二十五万噸の航空母艦だ。

伊波は明治35年(1902)、石垣島出身。ただ、大正12年(1923)、数え22歳で上京し、近衛兵となりました。除隊後は警視庁に勤務、そのかたわら詩作に励み、光太郎も寄稿したり題字を書いたりした雑誌『詩之家』(佐藤惣之助主宰)同人となり、光太郎の知遇を得たようです。昭和17年(1942)には光太郎の序文、棟方志功の装幀で『麗しき国土』という詩集を刊行しています。時期が時期だけに、やはり翼賛詩集です。

そしてその翌年に書かれたのが上記の「讃・与那国島」。この詩は早速その年のうちに与那国島に詩碑が作られ、県民の戦意高揚に資することが期されました。意外といえば意外、当然といえば当然ですが、沖縄県民自身もこうした翼賛詩を書いていたわけで……。ちなみに詩碑文を揮毫した人物は、戦後、碑文から自分の名前を削り取ってしまったそうです。

その伊波と同郷で親しかった詩人・山之口貘。伊波より一つ年下の明治36年(1903)生まれです。伊波同様、若いうちに故郷の沖縄を出て上京、ただ、「官」に軸足を置いていた伊波と異なり、ボヘミアン的な詩人でした。ついた職業は数知れず、「貧乏暮らしあるある」が売りでもありました。当会の祖・草野心平主宰の『歴程』同人にも名を連ね、光太郎と共に写っている写真も残っています。下の方に載せておきます。後列左端が山之口、前列中央が光太郎です。

しかし、『高村光太郎全集』に山之口の名は出て来ません。ただ、光太郎歿後になりますが、昭和34年(1959)、『定本山之口貘詩集』が第2回高村光太郎賞(詩部門)を受賞しています。同時受賞が草野天平(心平実弟・故人)、造型部門は豊福知徳でした。

山之口の詩で思い出すのが、以下です。高村光太郎賞受賞前年の昭和33年(1958)、まだ米軍統治下だった沖縄に、33年ぶりで帰郷した際の情景が歌われています。

   弾を浴びた島
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 島の土を踏んだとたんに
 ガンジューイとあいさつしたところ
 はいおかげさまで元気ですとか言って
 島の人は日本語で来たのだ
 郷愁はいささか戸惑いしてしまって
 ウチナーグチマディン ムル
 イクサニ サッタルバスイと言うと
 島の人は苦笑したのだが
 沖縄語は上手ですねと来たのだ

ガンジューイ」は「お元気でしたか」、「ウチナーグチマディン ムル イクサニ サッタルバスイ」が「沖縄弁まで みんな 戦争に やられたのか」。当時の沖縄の状況の一面が象徴されています。この「ウチナーグチ」の衰微は、50年前の復帰により、さらに加速することになるのですが……。

伊波南哲、山之口貘ときて、さらに言うなら、沖縄ではありませんが同じく南西諸島、昭和28年(1953)まで米軍統治下にあった奄美大島出身の泉芳朗の件も思い出します。

そんなこんなで、復帰50年。ロシアによるウクライナ侵攻もあり、実に色々考えさせられました。

再び「琉球決戦」。

珠玉の島うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、/万座毛(まんざまう)の緑野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)」。「さんばる」のルビは「やんばる」の誤りだと思われますが、この風景描写、伊波や山之口から聞いたものなのかもしれません。

そして「全日本の全日本人よ、/琉球のために全力をあげよ。」「全日本の全日本人よ、/起つて琉球に血液を送れ。」は、基地問題等の解決していない現代の視点から見て、まさにその通りですね。無論、戦争当時の大和のように軍艦を送り込め、という意味ではなく、です。

【折々のことば・光太郎】

午后谷口さんより岡といふ人来り、床下検分、補強方依頼す、 尚床下に人のねてゐたあとあり、中西夫人パトロールに告げ巡査来て調べる、


昭和27年(1952)12月1日の日記より 光太郎70歳

谷口さん」は谷口吉郎。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を含む設置場所一帯の設計を任された建築家です。「谷口さんより」は「谷口さんの事務所より」という意味でしょう。

床下の補強云々は、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエが、元々、水彩画家の中西利雄が建てたもので、「乙女の像」のような巨大彫刻の重量を想定していないと判断されたためです。

その床下に入り込んで寝ていたというのは、現代で言うところのホームレスのような感じでしょうか。

まず『産経新聞』さんの関西版コラムから。

浪速風 言論の自由を考える

ウクライナ侵略でロシアの言論統制・封殺が行われている今だからこそ、注目したい催しがある。「古都・京の記憶に残すべき戦時の日仏交流」。15日にロマン・ロラン研究所(京都市左京区)が、アンスティチュ・フランセ関西稲畑ホール(同)で行うトークと詩の朗読会である
▶ロランは、反ファシズムを貫いたフランスの作家で、高村光太郎、倉田百三らと交友があり、昭和46年、仏文学者の宮本正清(故人)が同研究所を設立した。宮本がロランに共鳴したのは、立命館大教授だった20年6月、京都府警に突然連行され、終戦まで拘束された経験があるからだ
▶反戦思想を持っている疑いだけで拷問され、食事は1日握り飯1個。牢獄では虱(しらみ)による出血でシャツが真っ赤に染まった。そんな日本に二度としないという思いを宮本は詩集『焼き殺されたいとし子らへ』に込めた。会では、その朗読やヱイ子夫人らによるトークが行われる。午後2時から。入場自由。

『産経』さんらしからぬイベントの紹介ですが、詳細は以下の通り。

財団法人ロマン・ロラン研究所設立50周年記念 古都・京の記憶に残すべき 戦時の日仏交流―関西日仏学館―〈トークと詩の朗読〉 

期 日 : 2022年5月15日(日)
会 場 : アンスティチュ・フランセ関西 稲畑ホール 京都市左京区吉田泉殿町8
時 間 : 午後2時~4時
料 金 : 無料

戊辰戦争の始まりである鳥羽伏見の戦いから冷めやらぬ揺れ動く幕末京都、外国人立ち入り禁止の長い眠りから慌ただしく覚めようとしている。時は1868年(慶応4)3月、舞台は京都御所、フランス公使レオン・ロッシュは、じりじりするほど待たされ漸く紫宸殿に招じられた。先帝の急死から即位したばかりの若干16歳、直衣姿の天皇の前にオランダ公使とともに進み出た。これが京都とフランスの交わりの第一歩である。政変混乱のなか、ミヤコにフランスの一粒の種が撒かれ、やがてそのシンボル「関西日仏学館」が誕生。点から線へのタイムトンネルに入ってみませんか。

<トーク>
パネリスト
 加賀美幸子氏 元NHKエグゼクティブアナウンサー(理事待遇)
 ジュール・イルマン氏 在京都フランス総領事、 アンスチティチュ・フランセ関西 館長
 宮本ヱイ子 『京都ふらんす事始め』著者(当研究所理事)
 西成勝好 大阪市大名誉教授(当研究所理事長)
 コーディネーター:和田義之 弁護士(当研究所理事)

<詩の朗読> 
戦時下、関西日仏学館でフランス人教授オーシュコルヌと主事の宮本正清は突然理由なく拘束された。劣悪な警察署で61日間、拷問と生命の危機に晒され敗戦の日を迎え自由の身となる。苦難の歴史が刻まれたフランスのシンボル関西日仏学館の戦時の混乱を記憶すべきであろう。宮本正清(関西日仏学館主事(当時)、ロマン・ロラン研究・翻訳者、研究所設立者)の“戦時のつぶやき”詩集『焼き殺されたいとし子らへ』を読む。
朗読:*加賀美幸子(元NHK 理事待遇のエグゼクティブアナウンサー)
加賀美氏は1963年NHK入局。「女性手帳」「夜7時のテレビニュース」「バラエティー、テレビファソラシド」大河ドラマ「峠の群像」「風林火山」「ラジオ深夜便」「列島縦断 短歌・俳句スペシャル」など報道、教育、教養、情報その他多くの番組を担当。現在も「古典講読」「漢詩を読む」「悩み相談・渋護寺」「ドキュメンタリー」などを担当。「古典講読」は『万葉集』『源氏物語』『枕草子』『平家物語』『徒然草』『奥の細道』など、長年にわたって原文朗読を続けている。著書『こころを動かす言葉』『言葉の心・言葉の力』ほか。高校・中学の国語教科書にエッセイが取りあげられている。NHK会長賞、ダイヤモンドレディー賞、前島(密)賞、徳川夢声市民賞など受賞。「千葉市男女共同参画センター名誉館長」「NPO日本朗読文化協会朗読名誉会長」「放送人の会」理事「公益財団法人長寿科学振興財団」理事「日本文藝家協会員」「NHK文化センター」講師ほか。
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宮本正清。光太郎の朋友だった片山敏彦との関係、さらに光太郎も敬愛していたロマン・ロランとのからみで、何となくは存じておりましたが、光太郎とは直接の交流はなかったようで、改めてこういう人物だったんだ、と知りました。

戦前から戦時中にかけての文学者等への弾圧の歴史、逆に光太郎ら大多数の文学者等が翼賛体制に飲み込まれていった黒歴史、そのあたりは「臭いものに蓋」の感があり、一般にはよく知られていませんね。大杉栄・伊藤野枝夫妻、小林多喜二の虐殺などは比較的有名ですが、それでもまだ多くの謎に包まれています。

そしてロシアによるウクライナ侵攻。当方、非常に気になっているのが、ロシアの一文化人たちの動向です。国営テレビの女性スタッフが番組に乱入、「プロパガンダを信じないで」とのメッセージを出したりしましたが、それ以外の部分での動きが伝わってきません。戦前、戦中の日本よろしく、危険分子は投獄されたりしているのか、光太郎のようにプロパガンダを垂れ流す存在に成り下がっているのか……。

そして恐ろしいのはわが国での動き。「露助や支那が攻めてくるぞ! だから憲法改正だ! 再軍備だ! 核武装だ!」そういう世の中になって欲しくないものです。

【折々のことば・光太郎】

新宿米久にて六人牛鍋、タキシでかへる、十時


昭和27年(1952)11月28日の日記より

新宿米久」は、光太郎が戦前によく行っていた浅草米久の支店でしょう。

今年3月リリースのCDです。

シンガーソングライター 加藤昌則歌曲集

2022年3月23日 Octavia Records Inc 定価3,200円+税

宮本益光(バリトン) 加藤昌則(ピアノ) 崎谷直人(ヴァイオリン)

このようなタイトルのアルバムを発表する日が来るなんて、舞台に立ち始めたころは考えもしませんでした。クラシックというジャンルで、作詞・作曲を演奏家本人が担当すること自体、かなり珍しいことだと思います。二人が出会って、もう30年近くなります。がむしゃらに突っ走った20代、少しずつ認められてきた30代、自分のことが少しだけわかってきた40代、私たちはそれぞれの領域で活動を積み重ねつつ、知らぬ間に二人の世界を拡げてきたのだと思います。これは二人の日記帳のようなもの。二人にしか描けない魂の記録です。
宮本益光

作曲家・加藤昌則と歌っている宮本益光は東京藝大の同期だ。加えて、ここで作曲家はピアニストでもあり、歌手は詩人でもある。(中略)
加藤昌則という仲介者を経て自作を声に乗せることができている宮本益光は、まことに稀有な演奏家だ。「もしも歌がなかったら ゲーテは詩なんて書かなかっただろう」という自身の言葉(「もしも歌がなかったら」)の「ゲーテ」は、「私」と置換してもいいのである。微妙な音色の変化を含ませつつ、すべての曲に真正面から取り組む「詩人の歌唱」には、ただ感嘆。見事というほか、ない。
池辺 晋一郎(ライナーノーツより)
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曲目
 魔女の住む街 (詩・宮本益光)
 祈りの街 (詩・宮本益光)
 城壁となって (詩・宮本益光)
 落葉 (詩・千家元麿)
 俺らの町の数え歌 (詩・宮本益光)
 桜の背丈を追い越して (詩・宮本益光)
 詩がある (詩・宮本益光)
 そこにある歌 (詩・宮本益光)
 彦星哀歌 (詩・宮本益光)
 ここで歌うだけ (詩・宮本益光)
 レモン哀歌 (詩・高村光太郎)
 さくら (詩・たかはしけいすけ)
 「ME」より 恋歌 (詩・たかはしけいすけ)
 「花と鳥のエスキス」より ぼくの空 あたらしい日がくるたびに(詩・たかはしけいすけ)
 「名もなき祈り」より 空に 今、歌をうたうのは (詩・宮本益光)
 もしも歌がなかったら (詩・宮本益光)
 平和へのソネット (詩・宮本益光)
 またね、またね (詩・宮本益光)
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アルバムタイトルが「シンガーソングライター」ですが、「自分で作詞作曲し、歌う」という通常の意味のそれではありません。まず作詞は全20曲中、大半が歌唱担当の宮本益光氏。氏はバリトン歌手でありながら、詩集も出版なさっているそうです。そして全20曲、作曲はピアノを担当なさっている加藤昌則氏。というわけで、いわばお二人の合作。いうなれば「シンガーソングライターズ」とでも言うべきかと存じます。

宮本氏作詞でないものは、氏の詩の師・たかはしけいすけ氏の手になるものが5曲、光太郎とも交流のあった千家元麿のテキストで1曲、そして光太郎の「レモン哀歌」。

この「レモン哀歌」がプログラムに入っていたコンサート等は、当方が把握している限り、令和元年(2019)に加耒徹氏の歌唱で「歌道Ⅱ」と題した公演が福岡と東京で行われた他、同年の「4人のバリトンコンサート ハンサムなメロディー」でも加耒氏が歌われました。また、今回のCDで歌われている宮本氏で、「午後の音楽会 第136回プレミアムコンサート 宮本益光×加藤昌則 デュオリサイタル」。こちらは今年の2月、横浜での公演でした。それから情報を把握しておらずご紹介出来ませんでしたが、先月末に愛媛県八幡浜市で開催された「宮本益光バリトンリサイタル SINGER SONGWRITER 加藤昌則歌曲集」でも演奏されています。CDの発売記念的なコンセプトでしょう。宮本氏は八幡浜ご出身だそうです。
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「レモン哀歌」、これまでも様々な作曲家の方々などが曲を付けて下さっていますが、解釈がそれぞれですね。今回のように単発の場合と、組曲や歌曲集の中の一篇という場合では扱い方が異なってきますし、独唱の場合と合唱の場合とでも違います。バックボーンがシャンソンというモンデンモモさん、歌唱なしのインストゥルメンタルでピアノの荒野愛子さんなどはさらに毛色が変わっていますし。ちなみに演歌の坂本冬美さんにも「レモン哀歌」という曲があります。ただし、こちらは光太郎詩ではなく作詞家・たかたかし氏の詞ですが。
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「レモン哀歌」だけでなく、他の詩まで範囲を広げれば、「道程」には、かの坂本龍一氏が曲を付けて下さいましたし、その他箏曲などの純邦楽、'70年代にはフォークソング調、さらには詩吟的なものや浪曲風まであります。それらを聴き較べてみるのも一興です。

さて、CD「シンガーソングライター 加藤昌則歌曲集」、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

うどんをとる、余は全部嘔吐す、 夕食とらず、


昭和27年11月24日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に当たり、以前の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中に悩まされていた結核性の肋間神経痛はかなりおさまったものの、それでも万全の体調とは言えない日々でした。光太郎の命ものこりあと3年半ほどです。

平成31年(2019)に刊行されたソフトカバー単行本の文庫化です。

すごい言い訳!―漱石の冷や汗、太宰の大ウソ―

2022年5月1日 中川越著 新潮社(新潮文庫) 定価693円

原稿が書けない。生活費が底をついた。追い詰められた文豪たちが記す、弁明の書簡集。

言い訳――窮地を脱するための説明で、自分をよく見せようとする心理が働くので、大方軽蔑の対象になる。しかし文豪たちにかかれば浅ましい言い訳も味わい深いものとなる。二股疑惑をかけられ必死に否定した芥川龍之介。手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した太宰治。納税額を誤魔化そうとした夏目漱石。浮気をなかった事にする林芙美子等、苦しく図々しい、その言い訳の奥義を学ぶ。
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目次

 はじめに
 第一章 男と女の恋の言い訳
  フィアンセに二股疑惑をかけられ命がけで否定した 芥川龍之介
  禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した 北原白秋
  下心アリアリのデートの誘いをスマートに断った言い訳の巨匠 樋口一葉
  悲惨な環境にあえぐ恋人を励ますしかなかった無力な 小林多喜二
  自虐的な結婚通知で祝福を勝ち取った 織田作之助
  本妻への送金が滞り愛人との絶縁を誓った罰当たり 直木三十五
  恋人を親友に奪われ精一杯やせ我慢した 寺山修司
  歌の指導にかこつけて若い女性の再訪を願った 萩原朔太郎
  奇妙な謝罪プレーに勤しんだマニア 谷崎潤一郎
  へんな理由を根拠に恋人の写真を欲しがった 八木重吉
  二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター 林芙美子

 第二章 お金にまつわる苦しい言い訳
  借金を申し込むときもわがままだった 武者小路実篤
  ギャラの交渉に苦心惨憺した生真面目な 佐藤春夫
  脅迫しながら学費の援助を求めたしたたかな 若山牧水
  ビッグマウスで留学の援助を申し出た愉快な 菊池寛
  作り話で親友に借金を申し込んだ嘘つき 石川啄木
  相手の不安を小さくするキーワードを使って前借りを頼んだ 太宰治
  父親に遊学の費用をおねだりした甘えん坊 宮沢賢治

 第三章 手紙の無作法を詫びる言い訳
  それほど失礼ではない手紙をていねいに詫びた律儀な 吉川英治
  親友に返信できなかった訳をツールのせいにした 中原中也
  手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した 太宰治
  譲れないこだわりを反省の言葉にこめた 室生犀星
  先輩作家への擦り寄り疑惑を執拗に否定した 横光利一
  親バカな招待状を親バカを自覚して書いた 福沢諭吉
  手紙の無作法を先回りして詫びた用心深い 芥川龍之介

 第四章 依頼を断るときの上手い言い訳
  裁判所からの出頭要請を痛快に断った無頼派 坂口安吾
  序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎
  弟からの結婚相談に困り果てた気の毒な兄 谷崎潤一郎
  もてはやされることを遠慮した慎重居士 藤沢周平
  独自の偲び方を盾に追悼文の依頼を断った 島崎藤村
  意外に書が弱点で揮毫を断った文武の傑物 森鴎外

 第五章 やらかした失礼・失態を乗り切る言い訳
  共犯者をかばうつもりが逆効果になった粗忽者 山田風太郎
  息子の粗相を半分近所の子供のせいにした親バカ 阿川弘之
  先輩の逆鱗に触れ反省に反論を潜ませた 新美南吉
  深酒で失言して言い訳の横綱を利用した 北原白秋
  友人の絵を無断で美術展に応募して巧みに詫びた 有島武郎
  酒で親友に迷惑をかけてトリッキーに詫びた 中原中也
  無沙汰の理由を開き直って説明した憎めない怠け者 若山牧水
  物心の支援者への無沙汰を斬新に詫びた 石川啄木
  礼状が催促のサインと思われないか心配した 尾崎紅葉
  怒れる友人に自分の非を認め詫びた素直な 太宰治
  批判はブーメランと気づいて釈明を準備した 寺田寅彦

 第六章 「文豪あるある」の言い訳
  原稿を催促され詩的に恐縮し怠惰を詫びた 川端康成
  原稿を催促され美文で説き伏せた 泉鏡花
  カンペキな理由で原稿が書けないと言い逃れた大御所 志賀直哉
  川端康成に序文をもらいお礼する際に失礼を犯した 三島由紀夫
  遠慮深く挑発し論争を仕掛けた万年書生 江戸川乱歩
  深刻な状況なのに滑稽な前置きで同情を買うことに成功した 正岡子規
  信と疑の間で悩み原稿の送付をためらった 太宰治
  不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない 徳冨蘆花
  友人に原稿の持ち込みを頼まれ注意深く引き受けた 北杜夫
  紹介した知人の人品を見誤っていたと猛省した 志賀直哉
  先輩に面会を願うために自殺まで仄めかした物騒な 小林秀雄
  謝りたいけど謝る理由を忘れたと書いたシュールな 中勘助

 第七章 エクスキューズの達人・夏目漱石の言い訳
  納税を誤魔化そうと企んで叱られシュンとした 夏目漱石
  返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者 夏目漱石
  妻に文句を言うときいつになく優しかった病床の 夏目漱石
  未知の人の面会依頼をへっぴり腰で受け入れた 夏目漱石
  失礼な詫び方で信愛を表現したテクニシャン 夏目漱石
  宛名の誤記の失礼を別の失礼でうまく隠したズルい 夏目漱石
  預かった手紙を盗まれ反省の範囲を面白く限定した 夏目漱石
  句会から投稿を催促され神様を持ち出したズルい 夏目漱石
  不当な苦情に対して巧みに猛烈な反駁を盛り込んだ 夏目漱石

 おわりに
 参考・引用文献一覧

 解説 郷原宏

平成31年(2019)に刊行されたソフトカバー単行本は、『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』。サブタイトルが変更されていますが、内容的には同一のようです。文庫化に当たり、郷原宏氏の解説が新たに添えられましたが。

われらが光太郎については、「序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎」という項を設けて下さいました。読んでその通りの内容で、菊池正という詩人からの序文を書いてくれ、という依頼に対して送られた断りの書簡を根幹としています。

光太郎曰く「ところで序文といふ事をもう一度考へませう。一体序文などいるでせうか。何だか蛇足のやうに思へます。」「他の人の序をつけるのは東洋の風習でせうが、再考してもよくはないでせうか。序文とは結局何でせう。

著者・中川氏によれば、

 これは一つのいい方法です。頼み事を断りたいときには、光太郎のように、頼み事自体が不要なのではと、疑問を投げかけます。もし相手がなるほど不要かもと納得すれば儲けものです。依頼事は消滅し、罪悪感を覚える必要も消えます。自己責任を回避するための完璧な言い訳の完成です。結構いろいろと使えそうです。

なるほど。

ただ、以前にも書きましたが、光太郎はこれより前に菊池の詩集に序文を書いてやっていますし、当会の祖・草野心平はじめ、確認できている限り60篇ほどの序跋文を様々な人物の著書に寄せています。その意味ではちょっと説得力に欠ける「言い訳」かもしれません(笑)。

ところで光太郎の「序文」。注意が必要です。光太郎歿後に刊行された、ある詩人の詩集(それも二種類、まったく別の人物のもの)に付されている光太郎署名の「序文」で、どうも怪しいものがあります。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には収録されていません。『全集』編纂にあたられた当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、その二人の詩人に「草稿を見せて欲しい」と言ったところ、「ない」との返答。さらに、「どういうやりとりがあって書いてもらったのか」との問いにも、まともに答えられず。光太郎が確かにその「序文」を書いたという裏付けになる書簡等も存在せず。文体も光太郎の文体っぽくない部分が目につきます。こういう例は、他の作家にもあるのでしょうか?

閑話休題。『すごい言い訳!―漱石の冷や汗、太宰の大ウソ―』、他の作家達の「言い訳」も、それぞれに笑えたり、参考になったりと、有益な書物です。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

電話871番は既に誰かが横取りせし事わかる、24年の由、


昭和27年(1952)11月22日の日記より 光太郎70歳

871番」は、戦前から戦時中にかけ、焼失した駒込林町のアトリエ兼住居にひかれていた電話の番号です。戦時中の葉書などには、この番号が入ったゴム印が使われていました。
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固定電話の加入権というのは、一つの財産といった意味合いがあり、それを担保にしての借金というのも、比較的近年まで行われていたようです。

ところが戦後のドサクサで、光太郎が持っていた権利が横取りされてしまっていたらしいそうで(笑)。これより前、花巻郊外旧太田村で蟄居生活を送っていた頃も、この加入権について実弟の豊周に問い合わせたりしていましたが、不明だったようです。

土地などに関しても、そういうことがけっこうあったようですね。焦土と化した場所に杭を打ち、「ここは自分の土地だった」と言ってしまった者勝ち、のような。

楽譜の新刊です。

朝岡真木子歌曲集2

2022年4月15日 朝岡真木子作曲 全音楽譜出版社 定価2,800円+税
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朝岡真木子の珠玉の歌曲作品集。


収録曲
 祈りのように  作詞 : 貞松瑩子
 口笛  作詞 : 西岡光秋
 君死にたもうことなかれ  作詞 : 与謝野 晶子
 さくらの はなびら  作詞 : まど・みちお
 風のこころ  作詞 : 大竹典子
 さんまのうた  作詞 : 大竹典子
 そのとき 十八の春  作詞 : 岡崎カズヱ
 今をしむ  作詞 : 岡崎 カズヱ
 梅干し  作詞 : 岡崎 カズヱ
 メヌエツト  作詞 : 立原道造
 灯台への道  作詞 : 柏木隆雄
 おにぎりのうた  作詞 : 柏木隆雄
 黒豆のなっとう  作詞 : 中野惠子
 ながれ星  作詞 : 星乃 ミミナ
 水たまり  作詞 : 星乃 ミミナ
 吹抜保  作詞 : 茨木 のり子
 春のとおりゃんせ  作詞 : 宮中雲子
 対処  作詞 : 宮田滋子
 まど・みちおの詩による組曲「りんごを ひとつ」  作詞 : まど・みちお
  あめ/ことり/貝のふえ/ちいさな ゆき/はっぱと りんかく/一ばん星/リンゴ
 組曲「智惠子抄」  作詞 : 高村 光太郎
  人に/あどけない話/千鳥と遊ぶ智惠子/値ひがたき智惠子/レモン哀歌

朝岡真木子さんという方の作曲された、独唱歌曲の作品集です。大トリの位置に「組曲「智恵子抄」」全5曲が収録されています。

当方が把握している限り、昨年今年と、この中から抜粋でプログラムに入った演奏会が開催されましたし、令和元年(2019)には全5曲が演奏された演奏会「伊藤晶子ソプラノリサイタル ~演奏生活70周年を記念して~」もありました。ただ、この時のプログラムと今回出版された楽譜集とで、構成が違っています。演奏会では今回の楽譜集に無い「風にのる智恵子」が入っていて、逆に楽譜集に掲載されている「値ひがたき智恵子」がありませんでした。「風にのる智恵子」は、結局、ボツにしてお蔵入り、ということでしょうか。楽譜集に載っていた初演記録では、「人に」「あどけない話」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」の全4曲という扱いで、平成13年(2001)に初演されていました。

楽譜集が手元に届きまして、早速、キーボードでメロディーを追ってみました。割と素直に作曲されていて、意外といえば意外でした。独唱歌曲だから、というためかもしれません。合唱だと、各声部の掛け合いやら和音やらで、これでもか、これでもかと、非常に複雑な作りになっている曲が多いのですが、独唱は伴奏としてのピアノがあるものの、基本的にメロディーライン一本での勝負、すると、衒う必要もないのかな、と思いました。

それでも単純明快というわけでもなく、転調や拍子の変更などもあり(多用、というほどではないのでそれが煩わしくありません)、さらに組曲全体での構成の妙に感心しました。

楽譜集巻頭の朝岡さんによる「はじめに」から。

 歌曲を作曲します時は、まず最初に詩を何度も朗読して、そのイメージや色合いを味わい、大切な言葉、空気感、言葉のリズム感などを受け取っています。

当然といえば当然ですが、これが出来ていない「何でこの詩にこういうメロディーなんだ?」という作品も少なからずあるように思えてなりません。それがその作曲者の解釈なんだといわれればそれまでですが……。その点、今回の「組曲「智恵子抄」」、いい感じです。

「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」と、智恵子への抑えられない想いを謳った「人に」。しかし、その想いも高らかな愛のほめ歌というわけではなく、「おずおずと」という側面があり、そうした部分がよく表されていると思います。

「あどけない話」。智恵子の心を病む前段階の、「あどけない」といいつつ「あどけなくない」内容。その不安感、しかしまだここで踏みとどまれれば……という感じ、そういったものが上手く表現されているように感じます。思い切ってピアノ伴奏を単純化し(途中まで右手一本です)、この後の曲想との違いを明確にしてもいるようです。

「千鳥と遊ぶ智恵子」。アレグロ→アダージョ→モデラート、最後はレントまでテンポを落とし、不安を煽るような半音進行が見事です。終末部分はメロディー無しの朗読という指定です。

部分的な変更を除いて8分の5拍子、アレグレットの「値ひがたき智恵子」。毀れてしまった智恵子、それをなすすべもなく見つめる光太郎の姿が浮かびます。

そして終曲「レモン哀歌」。これまでと一転して静謐な世界。うまいまとめ方です。

楽譜集が出ると、CDも欲しくなってしまいます。どこかのレーベルさんでおねがいしたいところですね。また、楽譜集が出たことにより、演奏会等で取り上げられる機会が増えることも期待いたします。

【折々のことば・光太郎】

不在中朝日社会部の人来て飛行機にのれといひをりし由、


昭和27年(1952)11月18日の日記より 光太郎70歳

戦前は、新聞社がまだ珍しかった飛行機に文士を乗せてレポート等を書いてもらうという企画がよくありました。昭和4年(1929)には斎藤茂吉ら4人の歌人がやはり朝日さんの飛行機に搭乗し、機上で短歌を詠んだり、昭和10年(1935)には読売さんが「流行作家リレー飛行」なる企画を立ち上げ、林芙美子が「飛行機の旅」というエッセイを書いたりしました。

戦後もまだこういう企画があったのですね。残念なことに光太郎は断りましたが。

新刊です。

吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために

2022年4月30日 河出書房新社編集部編 河出書房新社 定価1,800円+税

没後10年、揺れ動く時代に対峙し続けた吉本隆明の著作を、今どう読むか。吉本が見ていたものを私たちは見落としていないだろうか。これからも読み続けるための入門書。
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目次・収録作品
【巻頭対談】 鹿島茂×小峰ひずみ 吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる
【入門】 安藤礼二 時代との対峙、その「敗北」から今を考える
【特別寄稿】 ハルノ宵子 いつも途上
【論考】
 小田原のどか 吉本隆明と〈彫刻の問題〉
 綿野恵太 宮沢賢治と高村光太郎の自然史 
 平山周吉 吉本隆明は「試行」のままに
 瀬尾育生 「異神」について
 友常勉 ゾンビとセトラー国家、そして日本資本主義論争――『共同幻想論』の読み方
【吉本隆明アンソロジー】
 〈ロングインタビュー〉×加藤典洋×高橋源一郎×瀬尾育生 詩と思想の60年
 〈小説〉坂の上、坂の下/ヘンミ・スーパーの挿話/順をぢの第三台場/手の挿話
  解題:樋口良澄 物語を書く吉本隆明 
【吉本論コレクション】
 埴谷雄高/谷川雁/村上一郎/竹内好/鮎川信夫/鶴見俊輔
【吉本隆明ブックガイド】安藤礼二
吉本隆明略年譜

わが国で初めてのまとまった光太郎論『高村光太郎』(昭和32年=1957)を書いた吉本隆明。当会顧問であらせられた故・北川太一先生とは、戦前の東京府立化学工業学校、戦後の東京工業大学で共に学び、光太郎や宮沢賢治について語りあい、その後、数十年にわたって光太郎顕彰・研究を共にした仲でした。
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画像は昭和60年(1985)の書道雑誌『墨』から。左から故・疋田寛吉氏、吉本、石川九楊氏、北川先生。座談会「光太郎書をめぐって」の際のショットです。

北川先生の書かれた回想(すべて『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』文治堂書店 平成31年=2019所収)から。

 隆明さんは書いている。「北川太一とわたしは、いわば高村光太郎の資料の探索については、草分けの存在であった」と。僕たちの卒業した深川の都立化学工業というのは不思議な学校だった。近くにはまだ広い草原や水溜まりや溝川があって、腹の紅いイモリやダボハゼや大きな鮒さえが泳いでいた。僕は落ち零れの第二本科、四組の昆虫少年で、本科の隆明さんと話す機会は殆どなかったが、しかし僕のクラスにもニイチェを説く安田三郎とか、オウム事件の頃の日弁連会長土屋公献とか、「ファウスト」を無理やり読ませた加藤進康とか変わった連中が沢山いた。加藤は後に工大で隆明さんが演出した太宰治の「春の枯葉」を演じたりした。しかし多くは町工場や手わざで生きる職人の子弟で、卒業したのは太平洋戦争が始まった昭和十六年十二月、それぞれの道にバラバラになったけれど、その頃僕らが同じように引かれたのは、高村光太郎や宮沢賢治だった。隆明さんの家は月島の舟大工、僕は日本橋の屋根屋の次男坊。ことに高村さんに引かれたのは、そんな下町の職人の血だったかも知れない。
(「隆明さんへの感謝」平成19年=2007)
 
 光太郎の詩集「道程改訂版」が世におくられたのも昭和一五年、たぐい稀な愛の詩集として『智恵子抄』が出たのはその翌年。戦争詩とともに、どれも僕等を夢中にさせた。太平洋戦争が始まり、繰上げ卒業で、進学組の吉本は米沢高等工業に、就職組の僕は学費を稼ぎながら東京物理学校の夜学生になって、それぞれの時間を紡いだ。進行する民族戦争に、どちらも死を覚悟した愛国青年だった。戦い終わり、海軍技術科士官として飛行予科練習生たちといのちをかけた南四国から帰ったあと、工業大学進学を選んだ時、すでに吉本は大学にいた。そして二人ともアトリエを焼かれて花巻郊外に孤座しているという高村光太郎が、いま何を考えているか、そればかりが気になった。光太郎がここに至った道を明らかにしない限り、これから何ができようかと思いつめた。そしていつのまにか、僕は重い荷物を負った定時制高校の生徒の中に埋没し、吉本は渦巻く自分の想念の生み出し手になっていた。
(「吉本と光太郎」平成26年=2014)

 志願した海軍生活は一年足らずで終わり、改めて入学した工業大学で吉本や加藤に再会したのは昭和二十一年のことだった。大学の池のほとりで、今は岩手の山奥に独り棲む光太郎について暗くなるまで語り合った記憶がある。(略)工大の特別研究生として再び一緒になったのは昭和二十四年になってからだった。彼の研究室は同じ階にあった。二年間のその第一期を終わって吉本は東洋インキ製造に入社、二十七年には詩集『固有時との対話』が出来て、それを届けてくれた時、日本の明治以後の詩史を広く見通すための資料が見たいという希望が添えられていた。お花茶屋や駒込坂下町の吉本の家を訪ねたり、時に日本橋の我が家に来てくれたりが続いたけれど、昭和三十年に吉本が『現代詩』に「高村光太郎ノート」を発表し始めたことは、僕を興奮させた。年譜を補充するために光太郎の聞き書を取り始めていた僕は、すぐその雑誌を死の前年の光太郎に見せて、わが友吉本隆明について語ったのを覚えている。
(「死なない吉本」平成24年=2012)


引用が長くなりましたが、吉本思索史原点の一つが、光太郎、そして戦争だったということがよく分かります。

さて、『吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために』。

安藤礼二氏による「【吉本隆明ブックガイド】」では、昭和32年(1957)の『高村光太郎』が紹介され、綿野恵太氏の「宮沢賢治と高村光太郎の自然史」は題名の通り、吉本が光太郎をどうとらえていたか、その一端が語られています。また、「【巻頭対談】 鹿島茂×小峰ひずみ 吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる」、「〈ロングインタビュー〉×加藤典洋×高橋源一郎×瀬尾育生 詩と思想の60年」でも、「高村光太郎」がキーワードの一つに。さらに彫刻家・小田原のどか氏は「吉本隆明と〈彫刻の問題〉」で、『高村光太郎』、それから春秋社版『高村光太郎選集』別巻として刊行された『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973)のために書かれた「彫刻のわからなさ」を軸に、彫刻実作者の観点から、吉本を論じています。

版元案内文には「入門書」とありますが、どうしてどうして、実に読みごたえのある書籍です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜あたたかくねる、 アトリエで初めてめざめる。


昭和27年10月14日の日記から 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために移り住んだ東京中野の貸しアトリエで迎えた初めての朝でした。10月半ばといえば、それまで7年を過ごしてきた花巻郊外旧太田村の山小屋ではもう寒い時期ですが、東京では「あたたかくねる」だったのですね。

都内から朗読系公演の情報です。

My Favorite Story ~美しき詩の世界~

期 日 : 2022年4月19日(火)
会 場 : 日暮里サニーホール・コンサートサロン 東京都荒川区東日暮里5-50-5
時 間 : 18:00開場 18:30開演
料 金 : 2,500円(全席自由・税込)

プログラム ※出演順ではありません。
 岩井奈美<朗読>  ジャン・コクトー 「オペラ」より 抜粋
 倉地ひとみ<朗読> ギョーム・アポリネール 
  ミラボー橋 クロチルド 犬サフラン マリー わかれ
 宮尾壽里子<朗読> 電子ピアノ:Yoshi 
  高村光太郎・高村智恵子 翻案構成 宮尾壽里子
  「智恵子抄」より抜粋 光太郎.智恵子へのオード
 桜さゆり<朗読・ピアノ> 室生犀星 「愛の詩集」より 抜粋
 優木ももか Yuuki Momoca<ハープ弾き語り>
  ファン・ラモン・ヒメネス 「プラテーロとわたし」より 子守娘
 島映子 Shima Eiko<朗読> 
  大岡信 石の囁きを聴く~安田侃に~ 詩 名づけ得ぬものへの讃歌
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光太郎智恵子にも触れられた『詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer』などを刊行されている詩人の宮尾壽里子さん。

朗読にもあたられていて、平成31年(2019)の第63回連翹忌の集いでは、お仲間の方々とご一緒に「智恵子抄」朗読をご披露下さいました。その前年には、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で最優秀賞。その他、都内などでくり返し「智恵子抄」関連の朗読公演などをなさっています。

また、文芸同人誌『第四次 青い花』同人でもあらせられ、今回のチケットと共に昨年暮れに発行された第97号をご送付下さいました。
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他の同人の方による『詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer』書評、そして光太郎智恵子にも触れられた宮尾さんのエッセイ「東京・TOKYO・とうきょう」等が掲載されています。ご入用の方、奥付画像を載せましたのでそちらまで。

「My Favorite Story ~美しき詩の世界~」、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

かたづけを終る、あとの事をスルガ重次郎翁にたのむ。カギは同翁にあづける、

昭和27年(1952)10月9日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための帰京に関連します。翌10日、7年間暮らした花巻郊外旧太田村の山小屋を後にし、花巻町中心街で壮行会、その夜は大沢温泉に宿泊、東京に向けて夜汽車に乗ったのは、11日のことでした。

スルガ重次郎翁」は、光太郎に山小屋の土地を提供してくれた、太田村の顔役です。
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青土社さんから発行されている月刊文芸誌『ユリイカ』、4月号の巻頭に文芸評論家・中村稔氏による、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の回想文が、18ページにわたり掲載されています。
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題して「故旧哀傷・北川太一 」。中村氏による「忘れられぬ人々」という連載の第6回です。

中村氏は弁護士でもあらせられ、はじめに、弁護士として手がけられた「智恵子抄裁判」の件が語られています。

「智恵子抄裁判」、ご存じない方のために概略を記しますと、昭和16年(1941)に龍星閣から刊行された『智恵子抄』の著作者は誰か、ということが争われた裁判です。「そんなん、光太郎に決まってるじゃないか」とお思いの方が多いことと存じますが、ことはそう簡単ではありません。

そもそもは、光太郎歿後の昭和40年(1965)、龍星閣主の故・澤田伊四郎氏が、『智恵子抄』は自分が編集したものだとして、当時の文部省に著作権登録をしたことに端を発します。それを不服とした光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝となった髙村豊周が、その登録抹消を求めて、翌年、訴訟を起こしたのです。

澤田氏が著作権登録をした一番の目的は、当時、龍星閣に何の断りもなく、他社が(それも数多くの)「××版『智恵子抄』」的な書籍を続々と刊行したことに対する抗議でした。『智恵子抄』は龍星閣のものだ、というその主張、これはこれで正当なものなのでは、と、当方は思います。確かに、『智恵子抄』の最初の構想はは光太郎自身ではなく、澤田氏が持ち込んだ企画でした。そのあたり、少し前に書きましたので、こちらをご参照下さい。ただ、その後のプロセスとして、自分の名での著作権登録、というのは無理があったといわざるを得ません。

最初に澤田氏が光太郎に渡した『智恵子抄』の「内容順序表」が、実際に刊行された『智恵子抄』と比べると、かなり抜けが多いこと、刊行後の詩句の改訂等も光太郎自身の裁量がなければ不可能なことなどから、結局は澤田氏の著作権登録は取り消されるという判決になりました。

下記が最高裁による判決文です。
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この裁判、原告の豊周はほどなく亡くなり、豊周遺族が原告の地位を継承しましたが、たとえ豊周が存命だったとしても、こうした係争に関わる専門知識があった訳でもなく、また、日本文芸家協会の後押し(中村氏の弁護人選任もそうでした)もありましたが、それでもこうした裁判の前例はほとんどなく、髙村家の弁護にあたった中村氏、かなり苦労されたそうです。むべなるかな、ですね。

そこで、中村氏が意見を求めたのが、北川先生でした。北川先生、『智恵子抄』の成立、収録作品の選択からその後の改版の際の改訂等に付き、中村氏に事細かにレクチャーされ、その結果、『智恵子抄』の著作者は光太郎、という判決を勝ち得たとのことでした。

中村氏、そうした中での北川先生との関わり、さらに後半では、軍隊時代や戦後の定時制高校教師時代の北川先生、ガリ版刷りの『光太郎資料』(当方が引き継がせていただいております)などに触れられ、溢れ出る愛惜の思いを語られています。

ただ、残念ながら、「智恵子抄裁判」の部分で、古い話になってきましたので仕方がないのかも知れませんが、『智恵子抄』詩句の改訂等につき、事実誤認及び少なからずの誤植がありまして、これをそのまま論文等の典拠とされると非常に危険ですので、一応、指摘しておきます。

まず、詩「人類の泉」(大正2年=1913)について。

誤 「ピオニエ」というルビ  → 正 「ピオニエエ」というルビ

続いて詩「或る夜のこころ」(大正元年=1912)。

誤 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプリの林に熱を病めり
正 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプラアの林に熱を病めり

誤 同じ作品の第二一行の「こころよ、こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、読点を付したままになっている。
正 同じ作品の第二一行の「こころよ こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、一字空けたままになっている。

さらに、詩「冬の朝のめざめ」(執筆・大正元年=1912 発表・大正2年=1913)について。

誤 第二八行に 愛の頌歌(ほめうた)をうたふたり を 愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり と改めていることである。

初版でも「愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり」となっていますので、この前後は丸々削除する必要があります。

そうした点は差っ引いても、一読に値する文章ですので、ぜひお買い求め下さい。

また、中村氏、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第20巻(平成8年=1996)の月報にも「回想の『智恵子抄』裁判」という一文を寄せられています。こちらもぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

盛岡から学生2名来る、写真撮影、


昭和27年10月7日の日記より 光太郎70歳

学生2名」のうちのお一人が、のち、宮城県母子愛護病院(現・宮城県済生会こどもクリニック)の院長になられた熊谷一郎氏だったそうで、熊谷氏、平成4年(1992)の『河北新報』さんに、その際の回想文を寄せられています。
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同じような例として、のちに国語学者となられた宮地裕氏が、やはり学生時代の昭和22年(1947)に光太郎の山小屋を訪ね、熊谷氏同様、平成に入ってから回想文を書かれました。そちらは光村図書さんの中学校用国語科教科書に、かつて掲載されていました。

芸能関係で2件。

まずは3月27日(日)の『サンケイスポーツ』さん。

伊藤健太郎、1年5カ月前の事故「死ぬまで背負っていく」 ファン500人の前で約束 今の目標は地上波ドラマ復帰

 俳優、伊藤健太郎(24)が26日、東京都内で自身初のファンミーティングを開催し、約500人と交流した。2020年10月に自動車運転死傷行為処罰法違反などの疑いで逮捕され、不起訴処分となったが、本紙の取材に「事故のことは死ぬまで背負っていく」と真摯に表明。6月3日に主演映画「冬薔薇(ふゆそうび)」(阪本順治監督)の公開を控え、今後は「地上波ドラマに戻りたい」と前向きに目標を掲げた。
 ファンの温かい拍手に迎えられ、緊張気味だった伊藤の表情が和らぐ。事故から1年5カ月。ステージを360度囲んだ客席を見渡し、感謝の思いがあふれた。
 「こんなにたくさんの方々に来ていただけるとは…。支え続けてくださり、本当にありがとうございます」
 昨年6月に初めてファンクラブを開設。恩返しのために初開催した2部制のファンミーティングでは、主演ドラマ「東京ラブストーリー」の告白シーンをファン相手に再現し、「皆さんに向けて読むのにぴったり」と高村光太郎が妻への愛を歌った詩集「智恵子抄」を朗読。主演映画「冬薔薇」でメガホンを執った阪本監督らゲストとのトークでも盛り上げた。
 1時間強の時間はあっという間に過ぎ、〝再会〟に涙するファンも。伊藤は「これからも温かく、時には厳しく見守っていただけたら。お芝居している姿をたくさん見せられるように頑張っていきます」と約束した。
 昨年10月に主演舞台「SOULFUL SOUL」で俳優業に復帰。「冬薔薇」ではろくでなしな男役で新たな顔を見せ、本紙の取材に「自分が主演だと違う見え方がするけど作品として見てもらえたら」と願った。
 14歳でモデルとして芸能界に入り、14年にフジテレビ系「昼顔~平日午後3時の恋人たち~」で俳優デビュー。「バイトをしたことがなく、この世界しか知らない。1年間休んだ間、生業にできる他の職業を探したけど見つからなかった」と役者として生涯を全うする覚悟が決まった。
 20年公開の主演映画「十二単衣を着た悪魔」は平安時代にタイムスリップする内容だが、「僕は未来に行きたい。40年後もこの仕事をやれているのか気になる。過去に戻って事故をなかったことにしたいとは思わない」と全てを背負って前を向く。
 「地上波ドラマでスタートした役者人生。簡単ではないけど、戻れるように取り組みたい」。恩返しの〝第2の役者人生〟を地に足をつけて歩んでいく。
◆阪本監督がエール「また次の仕事へ」
 阪本監督は「『事故でけがをさせた人たちとは、ずっとつながっていてください』と(伊藤に)言っている」と明かし、「また次の仕事へ向かってほしい」とエール。伊藤はミュージックビデオに出演した「丁寧な暮らし」を歌うラッパー、gbもゲストに迎え、「作品に愛を持って取り組む姿に学ぶべきものがたくさんある」と刺激を受けていた。
■伊藤 健太郎(いとう・けんたろう)
 1997(平成9)年6月30日生まれ、24歳。東京都出身。2017年に映画「デメキン」で初主演。18年に日本テレビ系「今日から俺は!!」でブレークし、役名の「健太郎」から本名に改名した。19年に「コーヒーが冷めないうちに」で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。179センチ。
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光太郎も、順風満帆とは決して言えず、つまづきの多い生涯でした。自分がつまづいて転ぶだけならまだしも、他者を巻き込むことも多く……。ある種のモラハラといわれても仕方がないような態度で、妻・智恵子を追い込んでしまったのは事実ですし、戦時中にはプロパガンダ的に戦意高揚の詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に追いやりました。しかし、その都度、それを反省し、再び立ち上がりました。

伊藤さんの今後にも期待したいところです。

続いて、Yahoo!さんのニュースサイトから。

『となりのチカラ』松本潤のまっすぐな“告白”が胸に刺さる 10分間の見事な長ゼリフ

 松本潤が主演を務める『となりのチカラ』(テレビ朝日系)第8話は最終回前のセミファイナル。注目は前回、灯(上戸彩)から出された宿題にチカラ(松本潤)がどのような答えを出すのか。そして、オンエア前から話題になっていた松本による、10分に及ぶ問題に対する長ゼリフである。
  改めてだが、灯が出した中越家についての課題は、「灯は仕事を辞めていいのか」「愛理(鎌田英怜奈)を怒鳴ったり叩いたりしていいのか」「高太郎(大平洋介)を塾に行かせていもいいのか」の3つ。テーブルを囲み、チカラは高太郎に、愛理に、灯にゆっくりと自分が出した答えを語りかけていく。
 テストの点数が低く、学校でも「バカ」とイジメられている高太郎。彼の取り柄はポジティブな性格と自分のことが好きなことだ。「お前にもそのうち好きなものがきっとできる。それについてもっともっと知りたくなる。そしたら自然と勉強したくなるんだ、人間は」ーー知りたいと思う知的好奇心は、子供を机に向かわせる一番の原動力である。そのことをきっかけに、きっと高太郎を好きと言ってくれる人は増えるはず。チカラや灯、愛理が高太郎を好きなように。そうチカラは高太郎に伝える。
 そのひねくれた性格から将来つらい目に遭うじゃないかと心配な愛理。彼女の数字で表現する口癖をチカラは「嘘をつきたくないからだもんな」と肯定する。「いつも正直でいて、誰に対しても分け隔てなくしたいっていうお前の意思だもんな」と話す性格は、灯とそっくりだ。チカラは高太郎と愛理に対して両膝をついて、2人と同じ目線になって話している。そして、共通しているのは子供多たちの名前の由来を明かしていることだ。高太郎は『道程』を書いた詩人・高村光太郎から、愛理はチカラの好きなレゲエで用いられる掛け声「アイリー!」から。光太郎ではなく間違えて高太郎にしてしまったこと、「アイリー!」が「最高に楽しい」を意味する言葉であることをプラスに転換しながら、ありったけの愛を注いでいく。
 そして、ラストは灯の仕事について。チカラが出した「したいようにすればいいと思う」は、灯のリアクションの通りに少々人任せに聞こえるかもしれないが、それは灯がすでにこれからの道を決断していることをチカラが察しているからだ。今の灯に足りないのは背中をポンッと押してくれる愛する人の言葉。いつも全力投球な灯にチカラは「そんなあなたを僕は大好きです。心から尊敬してます。一生そばにいたいです」とまっすぐな愛を涙ながらに伝える。それは前回、灯の実家であと一歩勇気が出ず口に出せなかった言葉でもあった。
 中越家の課題はこれで一旦の解決となったが、チカラにはまだ4つ目の問題が残されていた。それはマンションの住人、つまりはお隣さんたちの数々の問題だ。これまで散々人の家の問題に首を突っ込んできたチカラだったが、彼が出した結論は「もう何もしない」というまさかの発想。第8話はトラブルメイカーと噂されていた小日向(藤本隆宏)のボヤ騒ぎでラストを迎える。
 最終回は多くがまだ手つかずの住人の問題にチカラが向き合うのかが見どころとなる。第8話にて清江(風吹ジュン)がチカラに向けて言った「あなたに会えて良かった」という感謝の一言。現実から目を背けるチカラのヒントになるのは、きっとこの言葉だ。

当方、このドラマは拝見していませんでしたが、番組公式サイト内に、見逃し配信の項があり、視聴してみました。

問題の(別に問題があるわけではありませんが(笑))シーンは番組終盤。

チカラ そうだ、お前の名前は「高村光太郎」っていう有名な人から採ったんだ。パパが大好きな「道程」っていう詩を書いた人で……。
高太郎 「どうてい」?
チカラ あ、変な想像するな。「道のり」って意味だ。でも、「高村光太郎」は「光る」っていう字に「太郎」なのに、うっかりして「高い」っていう字にしちゃったんだ。「高村」の「高」に引っ張られてさ……。へへ、バカだろ、パパ?
高太郎 うん。
チカラ でも、こんなパパでも、ママと結婚できたんだ。だから、心配するな。これからきっと、高太郎のことを「バカ」って言う人より、お前を「好き」って言う人がどんどん増えてくる。今だって、パパはお前が大好きだし、ママも愛理も大好きだから。

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光太郎から名前を採ったという設定。やはり光太郎詩の持つポジティブ性ということで、光太郎なのでしょう。萩原朔太郎から採って「昨太郎」では成りたちません(朔太郎ファンの皆さん、すみません(笑))。

それにしても、「高太郎」。そう誤植されるケースが実際にかなりあるのには閉口します。ついでに言うと、「幸太郎」や「千恵子」「知恵子」なども。最も呆れたのは「高山光太郎」でしたが(笑)。
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閑話休題。

こうしたイベントやドラマ等で、「『智恵子抄』って何?」「高村光太郎って誰?」とならないよう、今後も啓発・顕彰を続けていこうと思いました。皆様方もご協力よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

藤根村の高橋峰次郎といふ人来訪、観音堂への揮毫依頼

昭和27年(1952)9月3日の日記より 光太郎70歳

藤根村」は現在の北上市。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の近くです。「高橋峰次郎」は正しくは「高橋峯次郎」。詳しくはこちら

新刊コミックスです。

ミカコ72歳 1

2022年3月5日 新久千映著 株式会社コアミックス 定価580円+税

72歳のミカコさんは夫を亡くしたばかり。今後は夫と暮らした家にこだわって一人暮らしをするつもり。心配な子や孫にスマホを持たされたところ、死んだおじいさんのアカウントと偶然繋がってしまい…。 読めば老後も悪くない、人生100年時代のおひとり様術(ライフハック)!
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『コミックゼノン』という月刊青年漫画誌に、昨年から連載されているもので、第1話などはWeb上で無料公開されています。

上記解説文にもありますが、夫を亡くした広島在住ミカコさんがスマホデビュー。すると、亡き夫のLINEアカウントがまだ残っており、既読にならないことを承知で、日記代わりにいろいろ書き込みをするように……という展開です。

第5話「気づかなかった自分が情けないわ」が、『智恵子抄』がらみの内容になっています。

ミカコさん、亡夫の蔵書を処分しようと、古書店さんに来てもらいます。ミカコさん自身は、あまり読書に縁がないようで……。
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意外にいい本が多くあることに驚く店主。すると、崩れた本の山から、ミカコさんが目をとめたのが……。

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紙絵と詩 智恵子抄』(昭和40年=1965初版 伊藤信吉 北川太一 髙村規編 社会思想社現代教養文庫)。ミカコさん、あるページに釘付けになります。
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そして……
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そのココロは……
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おそらく半世紀程も前でしょう、ミカコさんが亡夫から貰った手紙の文面が、そのままそこに載っていたというわけで(笑)。

ちなみにそれは詩「人類の泉」(大正2年=1913)だったようです。

   人類の泉

 世界がわかわかしい緑になつて008
 青い雨がまた降つて来ます
 この雨の音が
 むらがり起る生物のいのちのあらわれとなつて
 いつも私を堪らなくおびやかすのです
 そして私のいきり立つ魂は
 私を乗り超え私を脱(のが)れて
 づんづんと私を作つてゆくのです
 いま死んで いま生れるのです
 二時が三時になり
 青葉のさきから又も若葉の萌え出すやうに
 今日もこの魂の加速度を
 自分ながら胸一ぱいに感じてゐました
 そして極度の静寂をたもつて
 ぢつと坐つてゐました
 自然と涙が流れ
 抱きしめる様にあなたを思ひつめてゐました
 あなたは本当に私の半身です
 あなたが一番たしかに私の信を握り
 あなたこそ私の肉身の痛烈を奥底から分つのです
 私にはあなたがある
 あなたがある
 私はかなり惨酷に人間の孤独を味つて来たのです
 おそろしい自棄の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます
 私の生(いのち)を根から見てくれるのは
 私を全部に解してくれるのは
 ただあなたです
 私は自分のゆく道の開路者(ピオニエエ)です
 私の正しさは草木の正しさです
 ああ あなたは其を生きた眼で見てくれるのです
 もとよりあなたはあなたのいのちを持つてゐます
 あなたは海水の流動する力をもつてゐます
 あなたが私にある事は
 微笑が私にある事です
 あなたによつて私の生(いのち)は複雑になり 豊富になります
 そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです
 私は今生きてゐる社会で
 もう万人の通る通路から数歩自分の道に踏み込みました
 もう共に手を取る友達はありません
 ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
 私はこの孤独を悲しまなくなりました
 此は自然であり 又必然であるのですから
 そしてこの孤独に満足さへしようとするのです
 けれども
 私にあなたが無いとしたら――
 ああ それは想像も出来ません
 想像するのも愚かです
 私にはあなたがある
 あなたがある
 そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
 私は人から離れて孤独になりながら
 あなたを通じて再び人類の生きた気息(きそく)に接します
 ヒユウマニテイの中に活躍します
 すべてから脱却して
 ただあなたに向ふのです
 深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
 あなたは私の為めに生れたのだ
 私にはあなたがある
 あなたがある あなたがある

そこで、サブタイトルが「気づかなかった自分が情けないわ」。しかしミカコさん、これを機に、読書にも興味を持つように……。

その他にも、日々の何気ない出来事や、その時々の思いを、亡夫のアカウントに書き続けるミカコさん。それに気付き、はじめは認知症にでもなったかと心配していた娘や孫、職場(ミカコさんは医療事務の仕事をしています)の同僚たちも、「それもありか」と思うようになり、さらに少なからず影響を受けるようになり……という感じです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

美校にて生徒に一言話す、校長や教員諸氏に今度の仕事の事を話し、十月東京行きを告げる、 うなぎ屋にて一同より御馳走になり、バスにて花巻、タキシにて小屋、

昭和27年(1952)7月9日の日記より 光太郎70歳

美校」は岩手県立美術工芸学校。「校長」は森口多里、「教員諸氏」には深沢省三・紅子夫妻舟越保武佐々木一郎らがいました。「今度の仕事」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作です。

他の日の日記等でほとんど見かけたことがなく、おやっと思ったのが「バスにて花巻」の記述。当時、盛岡~花巻間の路線バスがあったのですね。

新刊刊行物、2件ご紹介します。

まず、小金井市の美術系古書店・えびな書店さんの在庫目録『書架』138号。軸装された光太郎の書が写真入りで紹介されています。
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おそらく色紙で、書かれているのは大正3年(1914)の詩「晩餐」の一節。

   晩餐

 暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を
 ぬれ鼠になつて
 買つた米が一升
 二十四銭五厘だ
 くさやの干(ひ)ものを五枚
 沢庵を一本
 生姜の赤漬
 玉子は鳥屋(とや)からアトリエの光太郎智恵子
 海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
 薩摩あげ
 かつをの塩辛

 湯をたぎらして
 餓鬼道のやうに喰ふ我等の晩餐

 ふきつのる嵐は
 瓦にぶつけて
 家鳴(やなり)震動のけたたましく
 われらの食慾は頑健にすすみ
 ものを喰らひて己が血となす本能の力に迫られ
 やがて飽満の恍惚に入れば
 われら静かに手を取つて
 心にかぎりなき喜を叫び
 かつ祈る
 日常の瑣事にいのちあれ
 生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ
 われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
 われらつねにみちよ

 われらの晩餐は
 嵐よりも烈しい力を帯び
 われらの食後の倦怠は
 不思議な肉慾をめざましめて
 豪雨の中に燃えあがる
 われらの五体を讃嘆せしめる

 まづしいわれらの晩餐はこれだ

詩は大正3年(1914)のものですが、色紙が書かれたのは、字体などの特徴からおそらく戦後と思われます。30年以上も前の詩からの引用ということになりますが、この詩は詩集『智恵子抄』に収められたもので、戦後に智恵子抄の復刊が相次ぎましたから、そうした際に読み返していて記憶に残っていたのでしょう。他にも「晩餐」の一節、あるいは少しだけの異同がある句を揮毫した書が複数、戦後期に書かれています。

GWレポート その2 小坂町立総合博物館郷土館企画展「平成29年度新収蔵資料展」。
朝日新聞 読書欄/読売新聞 読売俳壇。

それにしてもえびな書店さん、このところ、毎号のように目録に光太郎作品が載っています。中にはかつて他店で扱っていたものもありますが、そうでないものも多く、どういう入手ルートをお持ちなのか、まぁそのあたりは企業秘密なのでしょうが……。

131号(令和2年=2020) 132号(同) 135号(令和3年=2021) 136号(同) 137号(同)

で、それぞれ、それほど不当な高価格になっていません。今回のものは35万円。正直に言うと、「これ、安すぎないか?」という感じです。当方には手が出ませんが(笑)。

収まるべきところに収まって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

山にかへらんとして又盛岡に行くことにして汽車にて盛岡、菊屋に泊る、 下村海南の講演を公会堂できく、 夜民子の家にて天ぷら夕食、


昭和27年(1952)7月8日の日記より 光太郎70歳

銀行やら郵便局やらの用事で、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から花巻町中心街に出た後の記述です。

04a3454a-s菊屋」は現在の北ホテルさん、光太郎の盛岡での定宿でした。「下村海南」は官僚、新聞経営者、政治家、歌人。光太郎とは旧い知り合いでした。昭和17年(1942)の雑誌『知性』には、光太郎、下村、笠間杲雄(外交官)、岸本誠二郎(経済学者)での座談会「大東亜文化建設の課題」が収録されています。

民子」は、盛岡の「天よし」という飲み屋のマダム。「天よし」の店名も光太郎の命名だったそうです。彼女に贈った光太郎の書も存在します。曰く「うつくし かぐはし ほほゑまし」。民子のことでしょう。民子が長唄の免状を手にした祝いということでした。

掲載日順に、まず『毎日新聞』さん長野版。先日も触れた光太郎の親友・碌山荻原守衛とその支援者・相馬黒光について。光太郎にも触れてくださいました。

山は博物館 黒光が越えた保福寺峠 碌山との愛と苦悩の始まり

 パンや菓子の製造販売で知られる中村屋(東京都新宿区)を起こした女性、相馬黒光(こっこう)(本名・りょう、1876~1955年)は1897年3月、長野県東穂高村(現安曇野市)に嫁ぐため、東京方面から保福寺峠(1345メートル)を越えた。行く手に見えたのは壁のような北アルプス。後の苦難を暗示した。悩める黒光と言われる彫刻「女」(国指定重要文化財)を生んだ荻原碌山(ろくざん)(本名・守衛(もりえ)、1879~1910年)との出会いの入り口でもあった。
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 仙台生まれの黒光は、先進的な教育に取り組んでいた東京の明治女学校を卒業すると、縁談があった養蚕家・愛蔵と結婚。その村に碌山がいた。黒光が持ってきた長尾杢太郎の「亀戸風景」で油絵に目覚めた。木が立ち並ぶ川べりに牛1頭が立つ美しい絵だ。
 黒光の随筆などによると、「相馬家には湧き水があって、私が野菜洗いや洗濯に出てゆくので、碌山は心惹(ひ)かれたのか、よくきてスケッチをしていた」と振り返った。碌山は1899年5月の日記に「良子の君と対談数刻(アア、才智ある婦女子の会話は実に嬉(うれ)しき)」と親近感を表している。画家修業のため99年10月東京へ。1901年3月に渡米した。
 一方、利発な黒光は田舎暮らしを「長話にふける村の人にお茶を出したり、この沈滞、人間の自滅に至るみち」と思った。「田園生活の実世相は私を幻滅に導きました。農民が素朴と見えるのは外形にのみ眼(め)を止めるからで、生活が質素というよりみじめで、野生の姿。不倫も、草の伸びる如(ごと)く野獣の生ける如く存在し、心を暗くしました」。やがて体を壊し、夫婦で01年9月、東京に移り住んだ。本郷のパン屋「中村屋」を買い上げ、そのままの名前で開業した。
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 碌山の大きな転機は04年5月に訪れた。パリでオーギュスト・ロダンの彫刻「考える人」を見て、モデルをかたどるだけではない精神性に圧倒された。彫刻に転じ、07年にロダンの教えも受けた。安曇野市にある碌山美術館の学芸員、武井敏さん(48)は「碌山の作品は07年後半から劇的に変わる。モチーフの内面からにじみ出るものを感じられるようになった」と話す。
  碌山は08年3月、7年ぶりに帰国。中村屋の新宿支店近くにアトリエを構え、制作に励んだ。芸術仲間の高村光太郎は、伝習に縛られた日本の彫刻界で「(西洋の)彫刻界の大勢やロダンの意義を説き、愚蒙(ぐもう)状態に光明を放射した。現代日本の彫刻は荻原守衛からはじまった」と評価した。
 このころ黒光は「自分の悩みをじっと押さえ、悶々(もんもん)の裡(うち)にありました」。武井さんによると、夫の不倫が原因が原因で、黒光は「碌山は私に同情するようになり、性が違う者同士ですから生じた愛情に互いに苦しむようになりました。手をたずさえて走ることは訳はない。しかし家庭は事情があり、どうやらこうやら壊さないで、主人をも許してきた」と明かしている。
 武井さんは「黒光はその間、愛蔵の子供(四男と三女)を宿した。碌山は戸惑い、嫉妬したのではないか」と話す。碌山は光太郎ら友人への手紙で「日暮れて谷間をさまよう旅人の如く。頭が病んでいる」「見(み)っともない敗(まけ)をとっている。無為の人間となるかも知れぬ」「僕は惨めだ。僕は失ってしまった。―いやまだ失っていないが―」と書き送った。
 苦しみの中、09年に女性の絶望を表した「デスペア」を制作。10年3月には絶作となる「女」が完成した。黒光の子供は顔を見て「かあさんだ」と叫んだ。別のモデルがいるが、誰もが紛れもなく黒光と感じた。
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 翌月、30歳の碌山は中村屋で雑談中に血をはいた。黒光は「やがて大喀血(かっけつ)した(2日後の)同時刻が来ると、碌山は軽く噎(む)せた。また、大量の喀血があった。数分の後には呼吸が止まった」と記す。1カ月近く前、次男を亡くしたばかりで「再度の打撃は私を狂死させるばかり。信州へ行く碌山の柩(ひつぎ)にすがって狂態を演じ、(自室で)泣きつづけました」。
 アトリエには「女」が残った。「生々しい土のまま、女性の悩みを象徴しておりました。高い所に面を向けて繋縛(けいばく)から脱しようともがくような表情。肢体は地上より離れ得ず、両の手を後方にまわしたなやましげな姿体は、私自身だと直覚されるものがありました」

 「重畳として連なる山」
 1902年に東京から鉄道がつながるまで、安曇野やその南の松本に入るには、長野県の上田駅で降り、西側に連なる標高1500メートル前後の山のどこかの峠を、徒歩や馬で越えた。その一つが保福寺峠。さらに西の北アルプスの眺望が良く、社会活動家の木下尚江は1886年に松本から初めて東京に出た時を「保福寺峠に立ちて故(ふる)さとの山の偉大をはじめて見たり」と振り返った。
 近代登山初期の日本に足跡を残したイギリス人、ウォルター・ウェストンも91年に通り、「雪しまの山稜(さんりょう)や崇高な峰々が、落日に映えた空を背景に、輪郭も鮮やかにそびえている。日本のマッターホルン槍ケ岳や優美な常念岳、どっしりした乗鞍岳が特徴ある横顔を示している」と描写した。峠にはウェストンの「日本アルプス絶賛の地」の石碑がある。
 97年に越えた相馬黒光の感慨は逆で「人生行路難を暗示する如く、重畳として連なる高山大嶽(たいがく)ばかり。行く手を遮るように身構え、身がすくむようでした」と回顧した。山で隔絶された安曇野の暮らしは「ただ平穏無事、とり巻くのは退屈。太陽が昇る。保福寺峠が東にある。峠を越えて出ることはないのか、毎朝思う」と嘆いた。
 1964年に周辺4町村による林道が完成。67年に県道になり、現在は舗装した車道が走っている。
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いつも思うのですが、守衛と黒光、我らが光太郎智恵子とはまた違った、しかしある部分では共通する哀しい愛の物語を紡いだんだな、と感じます。

明日以降も紹介すべき事項が溜まっていますので、もう1件。一昨日の『世界日報』さんの一面コラム。一昨日が誕生日だった光太郎に触れてくださいました。

【上昇気流】小中学校の国語の教科書で文学作品の魅力に開眼した

 小中学校の国語の教科書で文学作品の魅力に開眼した。と書くと気恥ずかしいが、気流子が読書をするきっかけは、そうだった。学校の授業は、その意味で多くの作家と作品を教えてくれた▼夏目漱石や芥川龍之介などだが、逆に森鴎外などはその文章になじめずに長い間読むのを敬遠していた。文章の魅力を理解するには、時間が必要だったのだろうと今では思う▼俳句や短歌、詩の世界を開いてくれたのも、教科書だった。特に、春を詠んだ三好達治の「あはれ花びらながれ/をみなごに花びらながれ」と始まる「甃(いし)のうへ」は典雅な古文調の言葉がリズミカルな響きで心に染みた。桜の開花時期には、この詩が絵画のように浮かんでくる教科書の詩には、教訓的と感じたものもある。例えば、高村光太郎の「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」という言葉に始まる短い詩「道程」▼教訓的に感じたのは、その一節がよく教室の壁に額装されて掛けられていたためである。青年の野心に満ちた宣言のような詩は、青少年には共感しやすい。「道程」の原詩は100行を超えるものだったが、それを縮めたのが現在の詩。元の詩を読むと、自然という宇宙の理(ことわり)と超えなければならない彫刻の大家だった父との葛藤がつづられているのが分かる▼最近、ウクライナの「人道回廊」という言葉に触れて「道程」が思い浮かんだ。光太郎は、1883(明治16)年のきょうが誕生日である。

「人道回廊」と「道程」を結びつけるあたり、なるほど、という感じです。

触れられている「「道程」の原詩」はこちら。大正3年(1914)3月の雑誌『美の廃墟』に発表された初出形です。同じ年の10月、詩集『道程』に収めるにあたってばっさりと削り、現在流布している9行の形に改変されました。何度も書きましたが、ネット上などで初出形を「ほとんど知られていない「道程」の全文」などと紹介する記事が多く、辟易しています。「全文」ではなく「初出形」もしくは「原型」、あるいは『世界日報』さんにあるように「原詩」です。しかも「全文」と誤って書く輩に限って、「お前ら、知らなかったろ? 教えてやるわ」的なドヤ顔が浮かぶ書き方です(笑)。そのわりに引用部分が誤字脱字だらけだったり、勝手なところで連を分けたり。こういうのを「有害情報」と云います。

「有害情報」と言えば、各種SNS上で、一昨日、「今日は高村光太郎の誕生日」的な書き込みが多数。特に誤りもなくそう書いていただくのは有り難いのですが、中には光太郎と父・光雲を混同し、光雲の代表作「老猿」の画像を添えているものなども(これは一昨日に限らず、ですが)。一般の方々の認知度はそういうものなのでしょうか……。

ところで今年の誕生日で、光太郎は生誕139年となりました。で、これも以前に書きましたが、来年は生誕140年。ちょっと半端ですが、一応区切りのいい周年です。関係の方々、生誕140周年記念のなにがしか、できれば美術館さん・文学館さん等での大規模な企画展等を計画していただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

酸か湯より車にて青森県庁ににて知事にあふ、 中食、 後浅虫温泉行、東奥館、 夕方又青森、坂井家にて晩餐招待、あいさつす。民謡をきく、 後浅虫まで、

昭和27年(1952)6月20日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見を終え、青森市へ。仕掛け人の青森県知事・津島文治(太宰治の実兄)と面会しました。

「浅虫温泉」については、こちら

下記は光太郎が泊まった「東奥館」の、当方手持ち古絵葉書。残念ながら建物は現存しません。
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山口県で発行されている地方紙『長周新聞』さんに載った、東京大学大学院農学生命科学研究科教授・鈴木宣弘氏の寄稿。

【緊急寄稿】日本は独立国たりえているか―ウクライナ危機が突きつける食料問題

001食料争奪戦を激化させるウクライナ危機
 ウクライナ危機が勃発し、小麦をはじめとする穀物価格、原油価格、化学肥料の原料価格などの高騰が増幅され、最近、顕著になってきた食料やその生産資材の調達への不安に拍車をかけている。
 最近顕著になってきたのは、中国などの新興国の食料需要の想定以上の伸びである。コロナ禍からの中国経済回復による需要増だけではとても説明できない。例えば、中国はすでに大豆を1億300万トン輸入しているが、日本が大豆消費量の94%を輸入しているとはいえ、中国の「端数」の300万トンだ。
 中国がもう少し買うと言えば、輸出国は日本に大豆を売ってくれなくなるかもしれない。今や、中国などのほうが高い価格で大量に買う力がある。現に、輸入大豆価格と国産価格とは接近してきている。コンテナ船も日本経由を敬遠しつつあり、日本に運んでもらうための海上運賃が高騰している。日本はすでに「買い負け」ている。化学肥料原料のリン酸、カリウムが100%輸入依存で、その調達も困難になりつつある。
 一方、「異常」気象が「通常」気象になり、世界的に供給が不安定さを増しており、需給ひっ迫要因が高まって価格が上がりやすくなっている。原油高がその代替品となる穀物のバイオ燃料需要も押し上げ、暴騰を増幅する。国際紛争などの不測の事態は、一気に事態を悪化させるが、ウクライナ危機で今まさにそれが起こってしまった。

輸入前提の「経済安全保障」は危機感の欠如
 お金を出しても買えない事態が現実化している中で、お金で買えることを前提にした「経済安全保障」を議論している場合ではない。貿易自由化を進めて食料は輸入に頼るのが「経済安全保障」かのような議論には、根幹となる長期的・総合的視点が欠落している。
 国内の食料生産を維持することは、短期的には輸入農産物より高コストであっても、「お金を出しても食料が買えない」不測の事態のコストを考慮すれば、実は、国内生産を維持するほうが長期的なコストは低いのである。

日本は独立国と言えるのか
 「食料を自給できない人たちは奴隷である」とホセ・マルティ(キューバの著作家、革命家。1853 – 1895年)は述べ、高村光太郎は「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」と言った。
 はたして、2020年度の食料自給率が37.17%(カロリーベース)と、1965年の統計開始以降の最低を更新した日本は独立国といえるのかが今こそ問われている。不測の事態に国民を守れるかどうかが独立国の使命である。
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すずき・のぶひろ 1958年三重県生まれ。東京大学農学部卒業。農学博士。農林水産省、九州大学教授を経て、2006年より東京大学大学院農学生命科学研究科教授。専門は農業経済学。日韓、日チリ、日モンゴル、日中韓、日コロンビアFTA産官学共同研究会委員などを歴任。『岩盤規制の大義』(農文協)、『悪夢の食卓 TPP批准・農協解体がもたらす未来』(KADOKAWA)、『亡国の漁業権開放 資源・地域・国境の崩壊』(筑波書房ブックレット・暮らしのなかの食と農)、『農業消滅』(平凡社新書)など著書多数。

ロシアによるウクライナ侵攻は、言語道断としか云いようのない蛮行・愚挙ですが、遠い国の出来事と片付ける訳にはいきません。かつてわが国も傀儡国家満州国の建国をはじめ、周辺諸国に同様の行為を行い、「皇民化教育」などとほざいていたのですから。

そして、鈴木教授も指摘するように、じわじわと現在の我々の生活にも影響が及んできています。当方のように自家用車での移動が欠かせない田舎に住んでいますと、このところの原油高は実に困ります。さらにそれが進む可能性もあるわけで……。そして鈴木教授がメインで訴える食糧自給の問題……。不耕貪食の生活を送っている当方には、実に耳の痛い話ですが……。

1011引用されている光太郎の言葉「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」は、最晩年の詩「開拓十周年」(昭和30年=1955)の一節です。全文はこちら

光太郎、この詩を書いた時点ではもはや病床に就いていて、農耕は出来なくなっていましたが、昭和21年(1946)からの7年間は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で、狭いながらも畑を耕し、野菜類はほぼ自給していた光太郎の言葉だけに、重みがありますね。

ちなみに鈴木教授、同じ『長周新聞』さんに昨年寄稿なさった「 日本の食と農が危ない!―私たちの未来は守れるのか」という記事でも、同じ一節を引用されています。

ウクライナ問題、原油高や食料輸入のからみだけでなく、人道的に許されざる問題であることは、論を待ちません。一刻も早い、平和裡の解決を望みます。

【折々のことば・光太郎】

今週はじめてカツコーの声、ツツドリの声、セミの声をきく、夜ヨタカの声をきく、

昭和27年(1952)5月24日の日記から 光太郎70歳

当方は今朝、今年初めてウグイスの声を聞きました。鳴き始めの頃はまだうまく「ホーホケキョ」と鳴けず、変な鳴き方になっているのが笑えます。

新刊です。

マンガ 教科書に出てくる美術・建築物語 ② 日本の美術 下

2022年3月1日 芳賀靖彦編 学研プラス 定価3,600円+税

葛飾北斎《富嶽三十六景》、黒田清輝《湖畔》、東京駅など、日本の美術と建築を、オールカラーのマンガで紹介。作品の制作背景や込められた意味、作者の生涯を分かりやすく解説し、作品への感動が深まる。美術や社会の教科書に掲載の作品も、多数収録。


目次
 葛飾北斎「富嶽三十六景」  作画・糸貫律
 歌川広重「東海道五十三次」  作画・糸貫律
 高橋由一「鮭」  作画・灰木辰也
 辰野金吾「東京駅」  作画・雁川せゆ
 黒田清輝「湖畔」  作画・飯田要
 岸田劉生「麗子五歳之像(麗子像)」  作画・灰木辰也
 高村光雲「老猿」  作画・雛川まつり
 速見御舟「炎舞」  作画・大福もち子
 上村松園「序の舞」  作画・ノガミ陽
 岡本太郎「太陽の塔」  作画・灰木辰也
 コラム 日本美術史の流れ 江戸時代後半~現代
 コラム 浮世絵絵を楽しもう  
  
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日本近現代の美術作品等10点を、それぞれ10ページから16ページの短編漫画(オールカラー)で紹介しています。

光太郎の父・光雲の「老猿」(12ページ)。昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』を下敷きにし、光雲の生涯を追っていますが、色々小ネタもはさみ、感心させられました。

ちなみに語り手は光雲作の木彫「団扇に眠る猫」(昭和7年=1932)。
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漫画ならではの技法ですね。

「マンガ 教科書に出てくる美術・建築物語」は全5巻、こちらは第2巻の扱いです。他の巻は、「① 日本の美術 上」(鳥獣戯画、俵屋宗達《風神雷神図屏風》、法隆寺五重塔など)、「③ 仏教の美術」(東大寺大仏・金剛力士像、興福寺阿修羅像、法隆寺釈迦三尊像ほか)、「④ 世界の美術」(モナ・リザ、ダヴィデ像、落ち穂拾い、星月夜、考える人、サグラダ・ファミリア)、「⑤ 聖書の美術」(最後の晩餐、受胎告知、ピエタetc)。いずれも小学校高学年を対象に、ということですが、第2巻を見た限り、大人でも十分鑑賞にたえます。

やばい、目次を見ていると、他の巻も欲しくなってきました(笑)。特に「④ 世界の美術」。光太郎ががっつり影響を受けたロダンの「考える人」が取り上げられてしまっていますので。

ちなみに同じ学研さん刊行で、光太郎の章もある「マンガ名詩・短歌・俳句物語」と同じ体裁です。

全国の学校さん等で、ぜひ揃えてほしいものですね。

【折々のことば・光太郎】

山口小学校運動会、1000円寄附、十一時出かける、午后二時小屋にかへる、

昭和27年(1952)5月8日の日記より 光太郎70歳

山口小学校」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から1㌔㍍弱のところにあった小学校です。

日記が喪われている昭和25年(1950)の運動会では、光太郎、老人の部のビン釣り競走に出場しています(笑)。当時の校長・浅沼政規の回想『山口と高村光太郎先生』(平成7年=1995)より。

 午後の競技が開始。年長組の《びん釣り競争》となりました。この競技へ先生の参加をお願いすると、快く出場して下さいました。競技が始まりました。
 ひときわ会場が賑やかになり、拡声器の音も、先生への応援も大きくなりました。
 一等、二等とゴールしてきます。先生は少し手間取ったようでしたが、釣れたびんを手に、大股で走ってゴールインしました。一同からすごい拍手です。
 そして先生もみんなと一緒に会長席に向かい、会長から賞品を受け取られました。
 「しばらくぶりで走ってみましたが、にわかに走ったものですから、遅れてしまいました。でも、みんなと走れて愉快でしたよ。」と、おっしゃいました。
 この時の先生の姿に接した部落の人たちは、自分たちと親しく交わって下さろうとするお気持ちに、感謝の念を深くしました。

作家が紡いだ言葉が、まさしく食べ物が如ごとく体を構築する感覚を、もっとダイレクトに感じることが出来るイメージティー」だそうで。

YOU+MORE!×フェリシモミュージアム部 日本近現代文学の世界に浸る 文学作品イメージティーの会

心震わす言葉を飲み干して

大正から昭和、近現代日本で生まれた文豪の作品に着想を得て作り上げたイメージティー。本を読んで作品の魅力を知る。その先に進んでみたくて、嗅覚や味覚から作中に登場するモチーフを感じられるのはもちろん、一部は視覚でも楽しめるよう、作品を象徴する色に着目したお茶をご用意しました。
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月1セット ¥1,800(+10% ¥1,980) 1セットだけ(1ヵ月だけ)の購入も可能です。

■セット内容 / 1gまたは2g入りテトラティーバッグ17個、箱
■サイズ / 箱:縦約15cm、横約10.5cm、厚さ約3.5cm
※この商品は書籍ではありません。 ※箱に直接食品を入れないでください。 ※写真は作品をより楽しむための調理例です。
●毎月1回、4種類の中から、1種類ずつお届けします。(全種類届くと、以降はストップします)
(原産国名:ドイツまたは日本〔原料原産地名(茶葉):中国〕)

※2022年4月分(2022年3月下旬~2022年4月下旬)からのお届けになります。2022年3月分でお申し込みの場合、2022年4月分のご予約として承ります。
※各種キャンペーン・送料計算の対象はお届け月分になります。ご注意ください。
※各種W便・追加便などのお申し込みはできません。

※この商品は特性上、不良品・お届け間違い以外の交換・返品はお受けできません。不良品・お届け間違いの交換・返品は、期限内(商品到着後10日以内)にご返送ください。

■ マークの数字の回数だけ届くと、自動的にお届けが終了します。
■ 掲載画像の中から、毎月1種類をお届けします。
■ お届けする順番はフェリシモにおまかせください。
■ 1回だけのご注文も可能です。
ストップする場合は、お届け後にストップの連絡が必要です。

〈高村光太郎著『智恵子抄』× 天のものなるレモンの紅茶〉
私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ 「智恵子抄」より
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高村光太郎著の詩集『智恵子抄』に綴られた一編・レモン哀歌よりイメージした、「わたしの手からとったひとつのレモン」をモチーフにした紅茶です。

表紙側には高村光太郎の妻・智恵子が恋焦がれた、彼女の故郷にある「阿多多羅山」と、その上に広がる「ほんとの空」を。また、トパアズの香りを漂わせるレモンをデザインに取り入れ、思わずはっと目が覚めるような爽やかな色合いにまとめました。
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裏表紙側は病床の智恵子が作った「切り絵」をテーマに、二人の出会いを象徴する花・グロキシニヤで飾りました。光太郎のアトリエを訪ねる際に、智恵子がグロキシニヤの大鉢を持ってきたと光太郎は書き残しています。

《作品をもっと楽しむために…》
香りがはじけるように立ち上る、新鮮なレモンをトッピングして。まるで自身の半身のようにも思える大事な人と、一緒の時間を過ごしたい。そんな時におすすめなアレンジです。
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イメージティーを納めた本型パッケージは文庫本と同じサイズで、本好きのこころをくすぐります。

なるほど、いい感じですね。

他のラインナップは〈中島敦著『山月記』× 虎に還るように色が変化するお茶〉〈室生犀星著『蜜のあわれ』× 燃えている金魚のように赤いお茶〉〈江戸川乱歩著『孤島の鬼』× 宝石より魅力的なチョコレートの紅茶〉だそうです。

で、こちらのセットは「パート2」だそうで、既に「パート1」が出ていました。そちらは〈芥川龍之介著「蜘蛛の糸」×蓮が香る紅茶〉〈夏目漱石著「虞美人草」×アイスクリームが香る紅茶〉〈坂口安吾著「桜の森の満開の下」×桜が香る緑茶〉〈宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」×苹果(りんご)が香る紅茶〉だそうです。
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ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

白瀧幾之助氏よりヘラ十数本送り来る、


昭和27年(1952)4月10日の日記より 光太郎70歳

白瀧幾之助は光太郎より10歳上の画家。東京美術学校西洋画科出身で、光太郎の先輩です。遠く明治38年(1905)、ニューヨークに留学。翌年、やはり渡米してきた光太郎を迎え、いろいろ世話を焼いてくれました。さらに光太郎より一足早くロンドンに移り、ここでもあとを追ってきた光太郎の面倒を見てくれました。ロンドンではもう一人、画家の南薫造を交え、3人でつるんでいたそうです。禿頭で大男の白瀧は「入道」、小柄な南は「アンファン(仏語「enfant」=「子供」)」と呼ばれていました。光太郎はどんなあだ名だったか不明ですが。

その後、白瀧はパリへ。当方、その頃、ロンドンの光太郎からパリの白瀧へ送ったハガキをたまたま入手しました。

そして、またまた光太郎も白瀧に続いてパリ入りします。ただ、帰国は光太郎の方が早く、白瀧は明治44年(1911)までパリにとどまっていました。

しばらく途絶えていた二人の交流が、戦後のこの時期になって突如、復活。さらに光太郎帰京後の昭和29年(1954)には、白瀧が光太郎のアトリエを訪問しています。






新聞二紙から。

まずは『朝日新聞』さんの読書欄。当ブログサイトで今月初めにご紹介した、宮内悠介氏著『かくして彼女は宴で語る』の書評が出ました。

かくして彼女は宴で語る 明治耽美派推理帖 宮内悠介氏〈著〉 「牧神(パン)の会」舞台にアシモフ倣う

001 アメリカの作家、アイザック・アシモフに『黒後家蜘蛛(くろごけぐも)の会』というミステリがある。名士たちが食事会の傍ら未解決事件を推理する連作だ。最後に謎を解くのは名士たちではなく後ろで話を聞いていた給仕、というのがお決まりの形式。
 その『黒後家蜘蛛の会』を宮内悠介が明治末期の東京に甦(よみがえ)らせた。舞台となるのは実在した団体〈牧神(パン)の会〉。木下杢太郎や北原白秋、石井柏亭ら若き芸術家たちが結成したサロンだ。
 彼らは定期的に西洋料理屋に集い、自らが体験した謎や事件を語る。誰も真相を突き止められない中、最後に店の女中が「わたしからも一言よろしゅうございますか」と真相を言い当てる――と、本家に倣った短編が6話収録されている。
 個々の謎解きに膝(ひざ)を打つのはもちろんだが、本書は他にもさまざまな楽しみに満ちているのが特徴だ。
 まず事件の舞台が、団子坂や浅草十二階、上野で開催された勧業博覧会、ニコライ堂など、時代を色濃く映した名所であること。
 次いで綺羅星(きらほし)の如(ごと)き登場人物たち。前述の面々に加え、石川啄木が参加する回もあれば森鷗外が登場することもある。彼らが生き生きと闊歩(かっぽ)する様が浮かぶ。
 そしてこの時代ならではの事件の真相。それは時として彼らが挑む〈美〉の意味を問い、時として社会のありようを映し出し、さらには現代をも照射する。特に最終話がもたらす衝撃には思わず声が出た。
 場所、人、時代が三位一体となり、読者を物語に誘(いざな)う。明治の東京の温度や匂いまでもが立ちのぼるようだ。アシモフに倣って各編につけられた著者の覚え書きを読めば、著者が膨大な史料を下敷きにし、史実を絶妙に物語に生かしたことがわかる。軽やかな謎解き合戦を下から支えるのは、歴史と先人たちへの、著者の敬意に他ならない。
 SF作家と称されることの多い著者の、真正面からの本格ミステリである。歴史好きにもお薦めの一冊。
    ◇
みやうち・ゆうすけ 1979年生まれ、作家。2017年に『彼女がエスパーだったころ』で吉川英治文学新人賞。

同書の新聞広告には「まさに和製“黒後家蜘蛛の会” !! 本家と違う、耽美で複雑な雰囲気が日本!という感じがして面白い」とあり、元になった小説があったのだろうとは思っていましたが、上記の評を読んで納得しました。アメリカのアイザック・アシモフの推理小説だったのですね。当方、海外の本格ミステリー的なものはあまり読んだことがなく、存じませんでした。また、アシモフの名はSF作家として記憶していまして、推理小説も書いていたのか、という感じでした。それを言うなら著者の宮内氏も「SF作家と称されることの多い著者」だそうで、そういった部分も含めてのオマージュなのかと思いました。
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以前も書きましたが、「パンの会」は、光太郎も参加した芸術運動。しかし、本書は光太郎が欧米留学から帰する3ヵ月前の明治42年(1909)4月10日で終わっています。ぜひとも続編を執筆していただき、光太郎を登場させていただきたいものです。

ところが、各話の謎解きをする「彼女」の正体が、光太郎智恵子(特に智恵子)と関係の深かった、あの才媛だったということが最終話で明らかになり、続編が作りにくい構成。そこでいっそのこと、「彼女」を、初代「彼女」の後輩で、福島弁でボソボソと語尾の消えてしまうようなしゃべり方をし、着物の裾を長く引きずるようにして歩く丸顔の女性に交替させてしまってもいいのかな、などと思いました(笑)。ついでに言うなら、狂言廻しの役も、木下杢太郎だったのを光太郎に代えて(笑)。

もう1件。『読売新聞』さんの「読売俳壇」から。
001
投稿句自体ではなく、正木ゆう子氏の選評に光太郎の名。「足跡が付いて初めてそこが道だとわかる雪野。高村光太郎の詩「道程」の一節「僕の後ろに道は出来る」を思わせる」。

この冬は珍しく、温暖な千葉県でも3回ほど雪になりました。下の画像は1月7日(金)の明け方。自宅兼事務所近くの公園です。こうなったのは数年ぶりでした。
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この頃、ツィッターなどで、おそらく関東南部のあまり雪が降らない地方の皆さんが、やはり「道程」の一節を引用しつつ、雪景色を投稿されていました。雪国の方々には珍しくもない風景なのでしょうが。

ところで、今日は雨が降っています。また雪になるかな、と思ったのですが、今のところその気配はありません。2月も下旬となり、このまま春になってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

午前十時仙北町生活学校卒業式にゆく。談話一席、午食、


昭和27年(1952)3月30日の日記より 光太郎70歳

仙北町」は盛岡市仙北町。「生活学校」は現・盛岡スコーレ高校さんです。光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が出版していた雑誌『婦人之友』に感銘を受けた吉田幾世らが、良き家庭を築く生活の知恵を学ぶ場としてスタートしたといいます。同校では光太郎の薦めでホームスパン製作や果実ジュース作りをカリキュラムに取り入れ、それが受け継がれているそうです。

佐藤隆房編『高村光太郎山居七年』から。

 その頃の卒業式に招かれて来た高村先生は、職員室で
「この学校はアメリカのフロンティヤの開拓当時の学校によく似ています。今そのことを思い出しました。この開拓精神で農村に入っていくんですね。生徒は讃美歌を歌っているが、宗教学校ではないけれども身が引きしまる。フロンティヤの人達が開発に大いに努力して文化を築き上げたのだが……頼もしい感じがします。」
 吉田幾世さんはこのことばに深く感激しました。
(略)
 式に臨んで先生は
「岩手の女性は逞しいです。岩手山のように。日本人のバックボーンです。人間は誰でも詩人であり、又画家にもなれます。そのためには物を正しくみることです。正しく深く究めることによって誰でもかけるものです。」


下記は、この日、同校に贈られた色紙です。現在も同校に大切に保管されています。
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曰く「われらのすべてに満ちあふるゝものあれ」。大正3年(1914)に書かれた詩「晩餐」には、よく似た「われらのすべてに溢(あふ)れこぼるるものあれ われらつねにみちよ」 という一節があります。

新刊紹介です。

齋藤孝の小学国語教科書 全学年・決定版

2022年1月20日 齋藤孝著 致知出版社 定価2,600円+税

子供たちに一生の宝となる日本語力を身につけ、知性を身につけてもらう。それこそが次の世代にできる最高の贈り物である――。

そんな信念のもと、著者が渾身の思いを込めて作った理想の小学国語教科書。手に取られた方はその分厚さに驚かれ、子供には難しいのではと感じられるかもしれません。しかし子供が難しく感じないようにという大人の一方的な配慮で作られた教科書からは、古典などの硬い読み物が減り、子供の国語力もどんどん低下してしまっているのが現状です。

一方、「国語力を向上させる最も効果的な学習は名文に親しむこと」という方針に沿い本書に収録したのは、夏目漱石や芥川龍之介、シェイクスピアなど文豪の名作、『源氏物語』『徒然草』などの古典、宮沢賢治や金子みすゞの詩歌、坂本龍馬が姉に綴った手紙、松任谷由実、米津玄師などの歌詞まで約百三十作品。すべての漢字に読み仮名を振り、語彙力や漢字力を鍛えるとともに、設問や丁寧なポイント解説を加えることで、読解力や考える力が身につく内容になっています。

約五百五十頁もある教科書を小学校六年間で読み切ったという体験はその後の人生を歩んでいく支えともなることでしょう。大人の学び直しにもおすすめしたい、全国民に贈る教科書です。
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目次

 音読力をつけよう
  「いろはにほへと ちりぬるを」−いろは歌
  「あめんぼ あかいな アイウエオ」−五十音 北原白秋
  「青いお空の底ふかく、海の小石のそのように」−星とたんぽぽ 金子みすゞ
  「私は不思議でたまらない」−不思議 金子みすゞ
  「われは草なり 伸びんとす」−われは草なり 高見順
  「どっどど どどうど どどうど どどう」−風の又三郎 宮沢賢治
  「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く」−枕草子 清少納言
  「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」−道程 高村光太郎
 速音読トレーニング
  「つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが…」−注文の多い料理店 宮沢賢治
  「めんどなさいばんしますから、おいでんなさい」−どんぐりと山猫 宮沢賢治
  「眼や額からぱちぱち火花を出しました」−セロ弾きのゴーシュ 宮沢賢治
  「百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中」−名人伝 中島敦
  「一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた」−羅生門 芥川龍之介
  「ではおれがいいことを一つ教えてやろう」−杜子春 芥川龍之介
  「知らざあ言って聞かせやしょう」−白浪五人男 河竹黙阿弥
  「月日は百代の過客にして」−おくのほそ道 松尾芭蕉
  「山路来て 何やらゆかし すみれ草」−俳句松尾芭蕉
  「瘦蛙 まけるな一茶 是に有」−俳句小林一茶
  「菜の花や 月は東に 日は西に」−俳句与謝蕪村
  「ふるさとの 訛なつかし 停車場の」−短歌石川啄木
 感性を磨こう詩・歌
  「蜂と神さま」 金子みすゞ
  「リンゴ」 まど・みちお
  「ひばりのす」 木下夕爾
  「倚りかからず」 茨木のり子
  「表札」 石垣りん
  「母音−ある寂しい日私に与えて」 新川和江
  「糸」 中島みゆき
  「やさしさに包まれたなら」松任谷由実
  「秋桜」 さだまさし
  「ヨイトマケの唄」 美輪明宏
  「猫」 萩原朔太郎
  「およぐひと」 萩原朔太郎
  「月夜の浜辺」 中原中也
  「汚れつちまつた悲しみに…」 中原中也
  「生徒諸君に寄せる」 宮沢賢治
  「あすこの田はねえ」 宮沢賢治
  「落葉」 新美南吉
  「初恋」 島崎藤村
  「初恋」 村下孝蔵
  「百年後」 タゴール
 国語の世界を味わおう(1)日本文学・歌・評論
  「野ばら」 小川未明000
  「鼻」 芥川龍之介
  「女生徒」 太宰治
  「駈込み訴え」 太宰治
  「銀の匙」 中勘助
  「風琴と魚の町」 林芙美子
  「檸檬」 梶井基次郎
  「レモン哀歌」 高村光太郎
  「檸檬」 さだまさし
  「Lemon」 米津玄師
  「渋江抽斎」 森鷗外
  「歴史」 宮本浩次
  「草枕」 夏目漱石
  「陰翳礼讃」 谷崎潤一郎
  「四規七則」 千利休
  「茶の本」 岡倉覚三
  「新茶」 岡本かの子
  「画」 正岡子規
  「子規の画」 夏目漱石
  「平家物語」
  「耳なし芳一」 小泉八雲
  「怪談牡丹灯籠」 三遊亭圓朝
  「余が言文一致の由来」 二葉亭四迷
  「福翁自伝」 福沢諭吉
  「氷川清話」 勝海舟
  「夢酔独言」 勝小吉
  「論語物語」 下村湖人
  「論語」
  「論語と算盤」 渋沢栄一
  「おもろさうし」 沖縄古代民謡
  「アイヌ語のおもしろさ」 知里真志保
  「梟の神の自ら歌った謡『銀の滴降る降るまわりに』」作者不詳 知里幸恵・訳
  「方言」 ありがとう/おめでとう/がんばる/さようなら
 国語の世界を味わおう(2)世界の名作文学
  「赤毛のアン」 L・M・モンゴメリ
  「シャネル−人生を語る」 ポール・モラン
  「変身」 カフカ
  「ドン・キホーテ」 セルバンテス
  「レ・ミゼラブル」 ヴィクトル・ユーゴー
  「ファウスト」 ゲーテ
  「ベートーヴェンの生涯」 ロマン・ロラン
  「オイディプス王」 ソポクレス
  「罪と罰」 ドストエフスキー
  「カラマーゾフの兄弟」 ドストエフスキー
  「真夏の夜の夢」 シェイクスピア
  「ヴェニスの商人」 シェイクスピア
  「ロミオとヂュリエット」 シェイクスピア
  「ハムレット」 シェイクスピア
  「オセロー」 シェイクスピア
  「マクベス」 シェイクスピア
  「リヤ王」 シェイクスピア
  「第一之書 ガルガンチュワ物語」ラブレー
  「百年の孤独」 ガルシア=マルケス
  「真の独立への道」M・K・ガーンディー
 自分の気持ちを伝えよう(1)手紙・日記
  「にあんちゃん」 安本末子
  「字のない葉書」 向田邦子
  「息子・野口英世あての手紙」 野口シカ
  「ゴッホの手紙」
  「姉・坂本乙女あての手紙」坂本龍馬
  「わがいのち月明に燃ゆ」 林尹夫
  自分の気持ちを伝えよう(2)演説・宣言
  「ジュリアス・シーザー」シェイクスピア
  「北条政子の詞−『吾妻鏡』より」 北条政子
  「ゲティズバーグ演説」 リンカーン
  「我々の自由への行進は後戻りできない」 ネルソン・マンデラ
  「国連本部でのスピーチ」 マララ・ユスフザイ
  「そぞろごと」 与謝野晶子
  「元始女性は太陽であった。−青鞜発刊に際して」 平塚らいてう
 言葉の魅力を味わおう 和歌・漢詩
  「百人一首」
  「古今和歌集仮名序」 紀貫之
  「万葉集」
  「独楽吟」 橘曙覧
  「静夜思」 李白
  「春暁」 孟浩然
  「偶成」 西郷隆盛
  「春望」 杜甫
  「将に東遊せんとして壁に題す」 釈月性
  「雑詩 十二首(其の一)」 陶淵明001
 考える力をつけよう哲学
  「ソクラテスの弁明」 プラトン
  「方法序説」 デカルト
  「善の研究」 西田幾多郎
  「ツァラトゥストラ」 ニーチェ
  「パンセ」 パスカル
 もう一段上の日本語力
  「あさきゆめみし」 大和和紀
  「源氏物語」 紫式部
  「簡潔の美」 上村松園
  「葵上」 三島由紀夫
  「貧窮問答歌」 山上憶良
  「枕草子」 清少納言
  「徒然草」 兼好法師
  「土佐日記」 紀貫之
  「更級日記」 菅原孝標女
  「風姿花伝」 世阿弥
  「うひ山ぶみ」 本居宣長
  「独行道」 宮本武蔵
  「五輪書」 宮本武蔵
  「柴五郎の遺書」 石光真人・編
  「直訴状」 田中正造
  「国語の自在性」 西田幾多郎
 おわりに
 主要参考・引用文献
 コラム
  聞き上手になろう
  説明上手になるには
  新聞って面白いよ
  コメント力をつけよう

NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」の監修もなさっている齋藤氏、類著も多いのですが、「決定版」と謳われています。

光太郎作品は2篇、ともに詩で「道程」(大正3年=1914)、「レモン哀歌」(昭和14年=1914)。「レモン哀歌」に関しては、前後にレモンをモチーフにした他の作品を配しています。 梶井基次郎の小説「檸檬」(大正14年=1925)の全文、続いて「レモン哀歌」が挟まり、さだまさしさんの「檸檬」(昭和53年=1978)と来て、米津玄師さんの「Lemon」(平成30年=2018) 。

その意図はこういうことだそうで……
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確かにレモンという果実には「人間の情緒に深く訴えかける不思議な魅力」がありますね。同じ柑橘系でも「蜜柑哀歌」や「ゆず哀歌」ではさまになりませんし、ましてや他の果物では……。林檎あたりはまだポエムになりそうですが、例えばスイカ。「かなしく白くあかるい死の床で」智恵子がスイカにかぶりついたらギャグでしかありませんし、スイカを丸善の棚に置いたり、聖橋から投げたりしたら、超迷惑です(笑)。意味が解らない方は、ぜひ本書をお読み下さい(笑)。

【折々のことば・光太郎】

松雲閣別館。 昨夜はビールの御馳走になる。 ひる頃真壁氏との対談(朝の訪問三十日)録音をすます。放送局より謝礼をもらふ。


昭和27年(1952)3月27日の日記より 光太郎70歳

松雲閣別館」は、花巻温泉に現存します。「真壁氏」は詩人の真壁仁。「朝の訪問」は当時、NHKラジオで放送されていた番組です。この際の録音がNHKさんに残っており、市販CD化もされましたし、平成28年(2016)には「カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス」という番組でオンエアされました。

今日はSt.Valentine's Dayだそうで……。

昨日の『東京新聞』さんから。

亡き夫へのバレンタイン 書家・根岸君子さん 思いつづった詩集出版

005 国内外で高い評価を受ける足利市在住の書家、根岸君子さん(85)が亡夫への愛情を切々とつづった詩集「半夏生(はんげしょう)−受取人のない八十歳のラブレター−」を今月、出版した。闘病、死別、その後の五年間に感じた失意、孤独、寂寥(せきりょう)の思いを飾らない言葉で紡ぐ。三年前の展覧会で詩の一部を紹介したところ、「現代の智恵子抄のよう」と圧倒的な共感を得、多数の支援者に背中を押された。
 「誰(た)が為(ため)に生きるのかこの空虚(むなし)さ」「チョコレート供えて食べてと言う我に黙せし君のヴァレンタインデー」−。収録された二百五点の詩。九百点を超える作品の中から支援する編集者とともに厳選した。
 時間を追って詩が並び、微妙な心情の変化も伝わる。最後は「追憶の人とは言わせじわが胸の君は永遠なる我が恋人ぞ」で終わっている。題名の半夏生は夏場に白い花を付ける雑草。根岸さんは「静かに凜(りん)と生きる姿にひかれて」と言う。
 根岸さんは公務員などを経て五十五歳の時、前衛書家の茂木良作さんに師事。同市を拠点に心象風景を毛筆で表現する「墨象」で、フランスの国際公募展「ル・サロン」「サロン・ド・トーヌ」などに数多く入選している。夫の会社員の英次さんとは一九六三年に結婚。二〇一六年に死別した。
 二〇一九年六月、足利市内で開いた展覧会の際、「受取人のないラブレター」コーナーとして一部の詩を紹介したところ、二日間で約八百人が訪れる人気になった。連れ合いを亡くした高齢者や若いカップルが涙を流していたという。
 「心を整理して一歩を踏み出すために言葉をつづっただけ。本にするのはためらった」という根岸さん。「大切な人との時間はかけがえのないもの。本が改めて考えるきっかけになればうれしい」と願った。
 千三百二十円(税込み)。同市の岩下書店(通二)で販売している。郵送購入希望者は渡良瀬通信=電0284(72)6867=へ。

残された奥様の立場から、ということで、「逆・智恵子抄」とでも云うべきかと思いますが……。

本にするのはためらった」というくだり、光太郎の本家『智恵子抄』にも通じますね。

初版『智恵子抄』刊行を光太郎に進言した、出版社龍星閣主・澤田伊四郎の息女・城子氏の『智恵子抄の五十年』(平成3年=1991)から。

 こうして一冊にまとめたものを澤田が光太郎に届けたのは、『彼女の半生』を読んで一週間とたたぬうちであった。(略)光太郎は、一瞬「ギョッとした」表情を見せ、「明らかに好意を持たぬ顔つき」だった。(略)それから「内容順序表」を見て、感心したような、たまげたような感じで「ほうっ」という表情を見せた。澤田は「いけるな」と思った。
 光太郎は「預かっておきましょう」というような言葉を返した。すぐに許諾が得られるなどと思っていない澤田は、ひるまずに、このリストに洩れているような詩篇、未発表作品をいただきたいこと、制作年月日も教示してほしいことを申出て、その日は帰った。
(略)
 十日に一遍ぐらい 、様子を見ることを兼ねながらの澤田の訪問は続けられた。光太郎は「こういうものは今の時局に出せない」とか「愛情を売りものにしたくない」などと、しきりに拒絶をくりかえした。日中戦争は五年目に入り、太平洋戦争突入を控えて、国家総動員法のもとで日本全土は緊迫していた。一方、戦地と銃後、引き裂かれている夫と妻たちの関係など、道徳的な乱れもあらわれていた。
 この時こそ「男女の拠り所」「五臓六腑をさらけ出した愛情」の書物、「一般女性に対する男性のバイブル」、「女の一生の愛されている聖書」として、読む人をして感動にまきこまずにはおかぬ長篇詩集であると、澤田は自分がまとめた詩集の持つ意義とその不変の価値を光太郎に「百の言葉で説得した」。光太郎の心は澤田の説得にゆれながらも、いつもの拒絶に戻る日が続いた。
 ある時は「あれを出そうじゃないか」と許諾の電話が入って、澤田があわてて駈けつけて行くと、「君が団子坂をのぼってくるころいやになった。智恵子が可哀そうになった。やめようじゃないか」ということだった。

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この場面、平成9年(1997)刊行の『小学館版学習まんが人物館 高村光太郎・智恵子』(杉原めぐみ氏シナリオ/村野守美氏作画)ではこのように描いています。
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この後、結局は、澤田の提案を受け入れ、『智恵子抄』出版に踏み切ります。その裏側には、同書に収められた「智恵子の半生」(原題「彼女の半生」 昭和15年=1940)にある、次のような考えがあったのではないでしょうか。

大正昭和の年代に人知れず斯ういふ事に悩み、かういふ事に生き、かういふ事に倒れた女性のあつた事を書き記して、それをあはれな彼女への餞する事を許させてもらはう。一人に極まれば万人に通ずるといふことを信じて、今日のやうな時勢の下にも敢て此の筆を執らうとするのである。

ちなみに、『小学館版学習まんが人物館 高村光太郎・智恵子』、監修は当会顧問であらせられた、故・北川太一先生でした。

その北川先生による解説「詩集『智恵子抄』が語るもの」の一節。

 当時の日本は、中国大陸で始めた長い戦争のさなかにあって、すべてのものがその目的のために向けられていた時代でした。
 自由なものの考え方はおさえられ、素直な愛の表現すら、はばかられる日びのなかで、たくさんの若者たちが大陸で戦い、そして死んでゆきました。
 この年の十二月には、アメリカやイギリスを相手に、新しい戦争が始まろうとしていました。
 そんな若者たちが思いがけず手にしたこの詩集は、はじめ、くらべようもない愛の詩集として受けとられました。
 たしかにこれは一組の男女が生涯をかけ、さまざまな障害を越えてつらぬいた、そのいちずな愛の姿によって、戦いにあけくれた毎日に強い希望を与えたのです。
 しかし、いつか若者たちは、この詩集がただの愛の詩集であることの意味をはるかにこえて、もっと深く重い意味をもつことを感じ始めていました。
 私は卒業も近い旧制中学校の五年生でした。この国を守るために二十歳(はたち)になったら戦場に行くに違いないと信じこんでいた、私たち十代後半の若者は、この詩集をよみながら人間の意味について、生きること、死ぬことについて真剣に考え始めたものです。
 戦争の正しさを大声で押しつける、中身のない宣伝文句より、人と人との大きな愛のやりとりの大切さを語り、人間へのたしかな信頼をうたうこの詩集は、思想や風俗についての、ますます厳しい取りしまりにもかかわらず、戦争の時代をたえず読みつがれて、一九四四年までのわずか三年の間に、十三回も印刷されています。


北川先生は、この後、入学した東京物理学校を昭和19年(1944)に繰り上げ卒業、海軍省から技術見習尉官に任官され、浜名湖海兵団を経て、四国の松山海軍航空隊宇和島分遣隊に配属。本土決戦に備えてご自分より若い予科練の少年たちと共に、山中に塹壕掘りをしつつ敗戦を迎えられました。終戦時の位階は海軍技術少尉でした。

『智恵子抄』の出版は、澤田や光太郎の思惑も超えて、当時の若者たちに多大な影響を及ぼしたことがわかります。

しかし、その一方で光太郎は、「戦争の正しさを大声で押しつける、中身のない宣伝文句」のような詩文(それこそが光太郎詩の真髄、と、涙を流して有り難がる愚か者が現代でもいて、辟易しますが)も大量に書き殴りました。戦後になって、それを真摯に反省し、花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を送ったわけです。

さて、いろいろ書きましたが、泉下の光太郎も、もはや今となっては、冒頭『東京新聞』さんで紹介された根岸さんのように「大切な人との時間はかけがえのないもの。本が改めて考えるきっかけになればうれしい」と思っているのでは、と感じました。

【折々のことば・光太郎】

宮澤清六氏内村皓一氏来訪、岩手川一升豚鍋の材料いろいろもらふ。豚鍋をして岩手川をのむ。

昭和27年(1952)3月2日の日記より 光太郎70歳

寒い時には鍋パーティー(笑)。賢治実弟の清六、気鋭の写真家・内村皓一、そして光太郎。何とも面白いメンバーです。

J-pop系の新盤LPレコードです。

Love Logic<Clear Pink Vinyl/限定盤>

発売日 2022年2月16日005
アーティスト Minuano
レーベル Be Thankful Records
収録曲
 レモン哀歌
 春宵の哀しみ
 果てるともなく続く宙
 それいゆ
 午后の翼
 恋人たちの雨
 裸足のシルエット
 雨色日記
 恋、咲き初めり
 陽だまりの午後に


昨今、アナログレコードの人気が再燃しているとのこと。音楽はデータ配信で購入するのが当たり前、CDの市場もどんどん先細り、という時代なのに、です。価値観が多様化していることの表れの一つなのでしょうが、「データ配信では得られない、手で触れられる“新しい”価値」「デジタルにはない柔らかな音質」「インテリアとしても美しいジャケット」といった点で、若い世代にも浸透してきているそうです。
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最近は、あえてアナログレコードでしか新譜をリリースしないアーティストまでいるそうですし、過去の作品のリマスターなどもCDではなくアナログレコードで、というケースも目立ちます。

そうした流れの中での発売なのでしょう。「Minuano」というユニットの「Love Logic」というアルバム。平成21年(2009)にCDが発売されていましたが、限定版としてLPレコードが海外で生産され、逆輸入の形で販売されるとのこと。YouTubeにもアップされているのに販売するあたり、コアなファンの存在を見越してのことなのでしょうか。

「Minuano」に関しては、令和元年(2019)の『CDジャーナル』に以下の紹介。

パーカッショニストの尾方伯郎が主宰するプロジェクト。Lampの榊原香保里をヴォーカルにフィーチャーし、MPB、ジャズ、シティポップ、ソフトロック、クロスオーヴァーなどを現代的に再解釈したポップスを追求。2009年に1stアルバム『Love Logic』、翌2010年に2ndアルバム『ある春の恋人』を発表。2012年のデジタルEP『夏の幻影 EP』を経て、2019年に3rdアルバム『蝶になる夢を見た』をリリース。

ここに記述はありませんが、ボサノバ的なテイストも盛り込んでいるようです。1曲目、「レモン哀歌」。イントロのフルートがそんな感じです。



歌詞は光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)そのままではなく、それからのインスパイア。

 トパァズ色の香気 哀しくとろけて007
 囓りかけた愛を追いやる夕闇
 なまぬるい風が 辺りに一面
 窓硝子越しの季節がふるえた

 夜に揶揄われて 二人は有耶無耶な儘
 時間だけが過ぎてゆく 蝕むように

 月あかり照らす 老頭児たちの群れ
 手招きするように 二人を誘う

 夜に揶揄われて 二人は有耶無耶な儘
 時間だけが過ぎてゆく 蝕むように

 空想に耽る 遠い日々を想って
 嗚呼、溜め息一つ 静かな遊泳

 月あかり照らす 老頭児たちの群れ
 懐かしい音楽に 縺れて踊る


「智恵子抄」インスパイアの楽曲、米津玄師さんの「Lemon」などもそうだそうですが、過去にもさまざまなアーティストの方々が取り組んで下さっています。こうして復刻されることも喜ばしいことですし、さらにいろいろと新作が出ることも期待します。

【折々のことば・光太郎】

終日雪ふつてゐる、風なし、夜より朝にかけますます厳寒、0下15度、 ひる頃更科源蔵氏来訪、一時頃辞去。ヰスキー、チーズ等もらふ。


昭和27年(1952)2月5日の日記より 光太郎70歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、断熱材などの防寒設備などまったくないあばら屋でした。昭和20年(1945)から数えて7度目の冬とはいえ、老躯にはこたえたことでしょう。

更科源蔵は、北海道弟子屈在住だった詩人。同じ北国の更科も、光太郎の暮らしには驚いたのではないでしょうか。

2月5日(土)に亡くなった芥川賞作家・西村賢太氏と、氏が「没後弟子」を自称し、光太郎がその代表作『根津権現裏』の題字揮毫を担当した大正期の作家・藤澤清造関連。

『山形新聞』さんが一面コラムで取り上げました。

談話室

▼▽アパートの家賃を4年余りも払わなかった。酒に酔って暴行を働き、警察の厄介になったこともある。すると周りの人も離れていく。そんな時に支えになったのは、大正末-昭和初めに活動した藤沢清造の小説だった。
▼▽西村賢太さんが作家になる前の逸話である。清造作品の登場人物は社会の底辺で鬱屈(うっくつ)した心を抱える。作者自身、42歳だった昭和7年1月、奇行の末に公園で凍死した。恵まれない少年時代も似ており、「涙がでてくる程身につまされ」た。随筆「清造忌」でそう振り返る。
▼▽清造の「没後弟子」と称し、傾倒した。彼を巡る物語を多くつづってきただけではない。月命日のたび、石川県七尾市の菩提(ぼだい)寺にある清造の墓に詣でた。29歳から始めて25年。芥川賞を得て人気作家になってからも、毎月の七尾行を続けた。清造の脇に自らの墓標も立てた。
▼▽先月中旬、書評紙に載った対談では執筆の原動力を聞かれ「清造がいるからこそ、いまも小説を書く意地を持続できています」。変わらぬ思いを語った。それから1カ月足らず、まだ54歳の西村さんが急死したのは清造没後90年の命日直後である。奇(くす)しき縁(えにし)と言うほかない。

「清造没後90年の命日」に関して、先月の『中日新聞』さんが報じていました。

清造先生 見守ってて 芥川賞・西村賢太さん 合掌

 七尾市出身の作家、藤沢清造(せいぞう)(一八八九〜一九三二年)の没後九十年の命日の二十九日、「清造忌」が同市小島町の菩提(ぼだい)寺・浄土宗西光寺で営まれ、藤沢に心酔する芥川賞作家、西村賢太さん(54)が墓前に手を合わせた。
 藤沢は同市馬出町に生まれ、高等小学校を卒業して上京。一九二二年に貧困と病苦の中に生きる主人公を描いた長編私小説「根津権現裏」を発表した。島崎藤村らに評価されたが、その後は作品に恵まれない生活を送り、困窮の果てに東京・芝公園で凍死した。
七尾に26年墓参「おかげで食えてる」
 西光寺には五三年に藤沢の墓碑が建立され、当時の住民有志が一度だけ追悼会を開いた。西村さんらはその意思を継ぎ、途絶えていた追悼会を二〇〇一年に「清造忌」として復活させた。命日に毎年一、二人が参列している。西村さん自身は、月命日と命日に欠かさず墓参りを始めて二十六年目。〇二年には藤沢の墓の隣に自らの生前墓を建てた。
 午後四時半すぎ、墓を訪れた西村さんは缶ビールや酒などを供え、手を合わせた。墓参りを終え「最初に来た時は二十五年前で、俺も年をとったが、清造先生も遠くに行きましたね」としのび、「作家になる前から毎月(墓参りを)やっていたから小説で食っていけているんじゃないかと思う。清造先生のおかげ」と話した。
 西村さんは今夏にも藤沢清造の随筆集を出版する予定という。
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そして同じく『中日新聞』さん、西村氏の訃報を受けて。

「賢太さん 若かったのに」 訃報受け 生前墓に七尾市民 西光寺の高僧住職「真面目で紳士 残念で仕方ない」

 五日に五十四歳で亡くなった芥川賞作家の西村賢太さんの訃報から一夜明けた六日、西村さんが生前建てた墓がある七尾市小島町の西光寺(さいこうじ)には、墓参りに訪れる市民の姿があった。「若かったのに」「信じられない」。早すぎる別れを惜しむ声が聞かれた。
 「先週来たばかりだったんでしょ。本当に信じられない」。午前十時すぎ、同市栄町の永田房雄さん(73)は墓に積もった雪を手ではらうと、近くの和菓子店で購入した草餅を供え、静かに手を合わせた。
 西村さんは七尾出身の作家藤沢清造(一八八九〜一九三二年)に心酔。二〇〇二年に藤沢の墓の隣に自身の生前墓を建てた。藤沢の命日の一月二十九日を「清造忌」とし、月命日の墓参を欠かさなかった。先月も缶ビールや酒などを墓前に供えたばかりだった。
 永田さんは「お酒は隣にあるから、甘いものを味わってもらえたらと思って」としみじみ。西村さんに会ったことはないが、一一年に芥川賞を受けた「苦役列車」は手に取ったことがある。「難しくて理解できなかった気がする。改めてじっくり読み返そうと思う」
 住職の高僧英淳(こうそうえいじゅん)さん(69)は「西村さんは七尾の人よりもしょっちゅう寺に来てくれた。二月も二十八日に来ると話したばかり。いつもと同じ様子だったからびっくり。根は真面目で紳士。若すぎる。残念で仕方ない」と肩を落とした。寺に連絡があれば、遺骨を受け取りに行くという。
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西村氏の生前墓については、亡くなってから知りました。そして毎月墓参に訪れていたということも。その心酔ぶりは半端ではありませんね。

これを期に、また藤澤に脚光が当たることを期待するとともに、改めて西村氏のご冥福を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

午前十一時頃村会議員等10人余恭三さんの案内で来訪、小屋を見てゆく。一緒に小学校にゆく。一時間はかり座談。村長も来てゐる。後酒食。午後四時頃辞去、小屋にかへる。

昭和27年(1952)1月29日の日記より 光太郎70歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活も6年以上が過ぎ、今さら感がありますが、もしかすると新しく議員になった人々が挨拶に、という趣旨だったのかも知れません。

2月5日(土)付けの『毎日新聞』さん、「今週の本棚」欄。

堀江敏幸・評 『写文集 我が愛する詩人の伝記』=室生犀星・文、濱谷浩・写真 詩人たちの横顔を捉えた卓抜な批評

001 室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』は、一九五八年一月から十二月にかけて『婦人公論』に同題で連載された文章をまとめたものである。犀星没後六〇年として編まれた本書が写文集と題されているのは、初出時に犀星の散文に寄り添っていた濱谷浩の写真を呼び寄せているからだ。じつは写真の方も『詩のふるさと』として、犀星の本と同時に世に出ていた。
 濱谷浩の写真は、その清潔な構図と節度のある抒情(じょじょう)をもって、輪郭のない犀星の散文をみごとに支えている。詩人たちのゆかりの土地を訪ねて切り取ってきた鮮やかな映像と選ばれた詩との相乗効果で、収められた十二篇は文学紀行にもなっている。  北原白秋と柳河、高村光太郎と阿多多羅山・阿武隈川、萩原朔太郎と前橋、釈迢空と能登半島、堀辰雄と軽井沢・追分、立原道造と軽井沢、津村信夫と戸隠山、山村暮鳥と大洗、百田宗治と大阪、千家元麿と出雲、島崎藤村と馬籠・千曲川、そして作者犀星と金沢。濱谷浩の写真と並べると、詩の言葉に、書き手が触れた土地や人肌から発せられる気のようなものが含まれていることに気づかされる。
  しかし本書の真の魅力は、独特の律動を持った犀星の、手びねりの文章にある。純真で遠慮のない子どもとずる賢い大人が共存しているまなざしで捉えられた詩人たちの横顔は、いったんゆがみ、しばらくすると元にもどってあたらしい真実となり、知らぬ間に卓抜な批評として読者の心に焼き付けられるのだ。
 たとえば師の白秋が、詩誌『朱欒(ザムボア)』に投稿された犀星の詩について、十年後に酒の席でその原稿の字のひどく拙かったことを「ひときわ真面目な顔付」で指摘し、ではどうして採用してくれたのかと問われると、「字は字になっていないが詩は詩になっていたからだ」と答えた話。白秋の慧眼(けいがん)は犀星の文学の根を簡潔に言い当て、犀星はその現場の空気を逃さず、ぎゅっと拳に包む。白秋は犀星を「故郷の郷という字も碌(ろく)にかけない男だ」と評しているのだが、最もよく知られた犀星の詩「小景異情」の、遠きにありて思うものとしてのふるさとは、漢字が書けない男だから生まれたのだとつい言いたくなる陽性の逸話だ。
 犀星とおなじく白秋の雑誌の投稿者として親友となった萩原朔太郎との関係も控えておきたい。「私がたちの悪い女で始終萩原を追っかけ廻(まわ)していて、萩原もずるずるに引きずられているところがあった」。酒を飲み、口論して別れた晩の犀星は恋人に振られたように黙して「何処(どこ)に行ってもおちつきがなかった」という。理に立つ男と理を拒む男の、隔たりがあるからこその愛憎が、危うい譬(たと)えの中で小説の一場面になる。
 高村光太郎を智恵子に照らした一節にも、残酷な性愛の匂いがある。「かれが死ぬまで、智恵子の肉体がかれのお腹(なか)のうえにあって、かれの胃と腸をあたためていた」。「かれ」を無造作に繰り返すこんな寸評に触れると、光太郎の詩にはやわらかい腹部があって、大きな手がその上で見えない言葉の卵を包んでいるとしか思えなくなってくるだろう。その卵を孵化(ふか)させるのが詩の器だとすれば、愛する知友について四苦八苦しながら、字になっていない字で綴(つづ)っていた犀星こそ、真正の詩人と呼ばれるべきかもしれない。

写文集 我が愛する詩人の伝記』の書評、先月には和合亮一氏のそれが、『産経新聞』さんに掲載されましたが、今度は堀江敏幸氏の評。同書、錚々たる方々の歓心を買っているようです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

東京より毎日新聞出版部の三井良尚といふ人来訪、土方定一氏の紹介状持参、「日本の詩歌」総論執筆の件。結局承諾。


昭和27年(1952)1月15日の日記より 光太郎70歳

002『日本の詩歌』は、毎日新聞社から昭和29年(1954)4月に刊行されました。

その年1月の『毎日新聞』に連載された光太郎の評論「日本詩歌の特質」(日記にある「総論」でしょう)を巻頭に置き、その他、「日本の詩歌の系譜」(吉田精一)、「現代詩概観」(三好達治)、「近代短歌」(木俣修)、「近代俳句」(加藤楸邨)から成ります。
 
光太郎が編者となっていますが、実務は毎日新聞社図書編集部でした。

どうした事情があったのか不明ですが、依頼から執筆、刊行までけっこうなタイムラグがありました。

芥川賞作家の西村賢太氏の訃報が出ました。

時事通信さん。

西村賢太さん死去、54歳 私小説作家、芥川賞「苦役列車」

002 「破滅型」といわれる作風の私小説で知られ、「苦役列車」で芥川賞を受賞した作家の西村賢太(にしむら・けんた)さんが5日午前、東京都内の病院で死去した。
 54歳だった。関係者によると、4日夜にタクシー内で意識を失い、病院に運ばれたという。
 1967年、東京都生まれ。中学時代に不登校となり、高校進学はせず、港湾荷役や警備員などの仕事をしながら古書店に通った。私小説にのめりこみ、大正期の作家で同じく破滅型といわれた藤澤清造に心酔した。
 2003年、同人雑誌「煉瓦(れんが)」で小説を書き始め、翌年発表の「けがれなき酒のへど」が文芸誌「文学界」に転載。その後、相次いで作品を発表し、07年には「暗渠(あんきょ)の宿」で野間文芸新人賞を受賞した。
 11年、日雇い労働で糊口(ここう)をしのぐ若者の屈折を描いた「苦役列車」で芥川賞を受賞。翌年に映画化もされた。
 藤澤の菩提(ぼだい)寺の浄土宗西光寺(石川県七尾市)への墓参を続けた。後年まで「藤澤らの私小説に救われてきた」との思いを強く抱き、代表作「根津権現裏」を復刊させたほか、短編集の編集も担当した。

西村氏、記事にある通り、大正期のマイナー作家・藤澤清造に光を当てたことで、当方は記憶していました。

藤澤の代表作とされる『根津権現裏』(大正11年=1922)は、題字の揮毫が光太郎です。
001
装幀は工芸家の広川松五郎で、木版画は広川の手になるもの。函の「根津権現裏」という題字と、作者名「藤澤清造」が光太郎の筆です。
根津権現裏扉
こちらは同書の扉ですが、函の光太郎揮毫を広川が木版に写し取ったと推定されます。

光太郎と藤澤、直接の交流のあったことは確認できていません。ただ、光太郎と広川はいろいろな場面で繋がっており、どうも広川経由で光太郎への題字揮毫依頼が実現したものと思われます。

西村氏、この『根津権現裏』復刊を新潮社さんに働きかけ、平成23年(2011)に、氏の解説で文庫化されました。当方、その際にちょっとしたニュースになったのを記憶していました。

翌年にはやはり氏の解説、編集で、『藤澤清造短編集』も新潮文庫の一冊として刊行されています。また、『藤澤清造全集』の刊行も予告されましたが、そちらは頓挫。今後に期待したいところです。それから、こちらは存じませんでしたが、西村氏、令和元年(2019)には講談社さんから『藤澤清造追影』という書籍も刊行されています。

氏の藤澤評。

この人の、泥みたような生き恥にまみれながらも、地べたを這いずって前進し、誰が何と言おうと自分の、自分だけのダンディズムを自分だけの為に貫こうとする姿、そして、結果的には負け犬になってしまった人生は、私にこれ以上とない、ただ一人の味方を得たとの強い希望を持たせてくれたのである。

結果的には負け犬になってしまった人生」は、心を病んだ末、昭和7年(1932)、芝公園で凍死し、身元不明行旅死亡人として荼毘に付され、死後、遺品から藤澤だったと判明したことなどを指しています。

生き恥にまみれながらも、地べたを這いずって前進し、誰が何と言おうと自分の、自分だけのダンディズムを自分だけの為に貫こうとする姿」あたり、もしかすると光太郎もシンパシーを感じたかもしれません。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

昨日あたりよりタバコをやめる事にしたり。実際うまくなし。


昭和27年1月12日の日記より 光太郎70歳

1012光太郎、喫煙を始めたのは意外と遅かったようです。大正14年(1925)、数え43歳の時に回答したアンケート「紫煙問答」では、以下のように書いています。

小生、大ていのものはいけますが、タバコだけは生来甚だ不調法で、たまに試るときつと目をまはすか、胸をわるくするといふ次第故残念ながら何も申上げる資格がございません。

で、ここにきての禁煙宣言。しかしそれも守られなかったようで、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後の、中野の貸しアトリエで撮られた写真には、パイプをくわえたショットなども現存します。肺病病みのくせに、自殺行為ですね(笑)。





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