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芸術の秋となりまして、このブログサイトにて紹介すべき事項がかなりたまって参りました。本日は光太郎第二の故郷・岩手花巻発の情報を5件ほどまとめて。

時系列順に、まず9月12日(月)、IBC岩手放送さんローカルニュース。花巻高村光太郎記念館さんで現在開催中の企画展示「光太郎、海を航る」についてです。

光太郎の海外留学時代の足跡たどる ゆかりの地で企画展/岩手・花巻市

 日本を代表する詩人で彫刻家の高村光太郎の海外留学時代の足跡をたどる企画展が、ゆかりのある岩手県花巻市で開かれています。
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 高村光太郎は東京美術学校=現在の東京藝術大学を卒業後、1906年からアメリカ、イギリス、フランスの3か国へ留学しています。
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光太郎が晩年を過ごした花巻市にある「高村光太郎記念館」では、企画展「光太郎、海を航る」が開かれていて、初公開となるイタリアから弟に宛てた絵はがきや解説付きのパネルなどが展示されています。
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およそ3年余りの海外生活は光太郎の価値観を大きく変え、旧態依然とした日本美術界に不満を持つようになります。会場にはこのほかにも留学時代を思う直筆の短歌や世界的な視野に立った芸術評論の原稿なども展示されています。
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企画展「光太郎、海を航る」は9月30日まで花巻市の高村光太郎記念館で開かれています。

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続いて9月15日(木)、市発行の『広報はなまき』さん。「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」という連載で花巻高村光太郎記念館さんの収蔵品をご紹介下さいました。
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こちらの書幅は、企画展示「光太郎、海を航る」の方ではなく、常設展示室の方に出品されていたと思います。

同じく9月15日(木)、一昨年から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。今月分の画像を送っていただきました。
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すりリンゴ入り蒸しパン、白六穀御飯、鶏肉カレー炒め、茄子の串焼き、大根菜の炒め、かぼちゃサラダ、塩麹卵焼き、きゅうりの糠漬け、フルーツ(ぶどう)だそうです。

メニューの考案などにあたられている「やつかの森LLC」さん、9月12日(月)には、花巻市の社会教育施設「まなび学園」さんで活動されている「わかくさ女性学級」での出前講座。「高村光太郎の山荘~ハイカラ料理を知ろう」と題し、光太郎が郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を送っていた頃の様子を寸劇にしたり、光太郎の「食」について紹介したりなさったそうです。こちらでも光太郎ゆかりのお弁当。
愛ちゃんの栗拾い
開会あいさつ
光太郎と菅原先生
山の少女朗読
かぼちゃのエピソード
ランチボックス
ランチボックス盛り付け
最後に『読売新聞』さん岩手版の記事。9月17日(土)の掲載でした。

賢治自筆「雨ニモマケズ」…記念館で手帳展示、県内6年ぶり

 花巻市の宮沢賢治記念館で、賢治が代表作の詩「雨ニモマケズ」を書き残した自筆手帳が16日、公開された。県内での展示は6年ぶりで、10日間限定の25日まで。貴重な手帳を一目見ようと多くの人が訪れている。
 手帳の大きさは縦13・1センチ、横7・5センチで、黒革で覆われている。165ページにわたり、文学作品の下書きやメモ、経典などが記され、「雨ニモマケズ」は51ページから60ページに書かれている。
 詩は、賢治が花巻の実家で闘病中だった1931年11月3日に書かれたものと推察されており、2年後の33年9月、賢治は37歳で生涯を閉じた。手帳は賢治の没後、東京都の喫茶店「モナミ」で高村光太郎や草野心平らを中心に開かれた追悼会で、弟・清六氏が持参した賢治愛用のトランクから見つかった。
 同館の牛崎敏哉学芸員は「本来人に見せるものとして書いたわけではない賢治の晩年の願いや祈りが込められている」と指摘する。
 初日の16日は、来館者が手帳に顔を近づけながら鉛筆の文字を観察する姿が見られた。手帳を見るために静岡県藤枝市から訪れた公務員名手小枝さん(55)は「当時この手帳を手にとって詩を書いたと思うと感慨深い。汗などもきっとにじんでいるのでしょう」と話していた。
 19日は、清六氏の孫・宮沢和樹氏による講演も行われる。開館は午前8時半~午後5時(入館は午後4時半まで)。入館料は一般350円、高校生・学生250円、小・中学生150円。問い合わせは同館(0198・31・2319)へ。
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岩手めんこいテレビさんのローカルニュースでも取り上げられていました。

賢治直筆『雨ニモマケズ』手帳公開 2016年以来2回目の限定公開<岩手・花巻市>

 普段は見ることができない宮沢賢治が手帳に書いた直筆の「雨ニモマケズ」。岩手県花巻市の宮沢賢治記念館では、開館40周年を記念して9月16日からこの手帳が公開されています。

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 2022年で開館40周年を迎えた花巻市の宮沢賢治記念館で、16日から始まった特別展示の目玉は、賢治直筆による『雨ニモマケズ』が書かれた手帳です。この手帳は、賢治生誕120周年にあたる2016年に一度だけ公開されたもので普段はお目にかかる事は出来ません。2021年、東北を中心とした大型観光キャンペーンの期間中に公開される予定でしたが延期となっていました。
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 この他にも貴重な作品が数々展示されていて訪れた人を楽しませていました。
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 大阪から来た人「(雨ニモマケズ)はイメージ残ってるので本物が見れて嬉しいです。直筆よね、貴重な経験だと思います」
 これらの貴重な作品は、9月25日まで展示されています。

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こちらには光太郎の名は出ませんでしたが、手帳の「発見」の現場となった、賢治歿後の昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の写真がパネル展示されているのがわかりました。『読売』さん記事はこのあたりを参考になさったのでしょう。光太郎は前列左から4人目です。
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さて、花巻。秋のいい季節となります。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

盛岡大慈寺小学校長さん佐藤氏くる、


昭和29年(1954)1月15日の日記より 光太郎72歳

光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居していた頃からの知り合いだった、盛岡の小学校長・佐藤憲政が、中野の貸しアトリエを訪問しました。このように、花巻や盛岡の人々が、上京したついでに光太郎の元を訪れるケースはあとを断ちませんでした。それだけ慕われていたということなのでしょう。

028明後日、英国のエリザベス女王の国葬が行われるとのこと。

同女王は大正15年(1926)のお生まれで、当会顧問であらせられた故・北川太一先生より1歳年少でした。即位されたのは昭和27年(1952)。光太郎の書き残したものにその御名は確認できていませんが、現上皇陛下が翌年、女王の戴冠式出席のため、横浜から船でイギリスに向かわれた際の談話が残っています。

明治以来イギリスの影響をもつとも多く受けていながら、いまの日本で一番欠けているのはジヨンブルのイギリス的性格だ。人間同士が信じ合うこと、不信に対するきびしい批判――他の国では持ち得ないものである。(談話筆記「皇太子さまを送る」より 昭和28年=1953) 

欧米留学中の明治40年(1907)から翌年にかけ、ロンドンにも居住していた光太郎。芸術の分野ではあまりイギリスから学ぶことはなかったと述懐していますが、人々の暮らしぶり、重厚な伝統などには非常に好感を持っていたようです。「ジヨンブル」は「典型的英国人」の意。

同女王、明治43年(1910)、日英博覧会の際に英王室へ日本から贈られた「台徳院殿霊廟模型」(光太郎の父・光雲が監督となって制作)を、平成27年(2015)に、日本に返還する労を執って下さいました。現在、芝増上寺さんの宝物展示室で公開されています。

その国葬が明後日だそうで、既に献花に訪れる一般国民が5㌔㍍もの長蛇の列を成していたというニュースを昨日拝見しました(今朝のニュースでは8㎞)。およそ国葬に値しない人物の国葬を強行しようとし、反対のデモの列が生じているどこぞの国とは大違いですね(笑)。ついでにいうなら呼ばれもしないのに参列見送りを発表して失笑を買ったトンマもいる国ですが(笑)。

さて、「国葬」というと、光太郎にずばり「国葬」の語を題名に使った詩があります。昭和18年(1943)、山本五十六元帥の国葬に際し、『毎日新聞』に寄稿したものです。

   山本元帥国葬009

元帥山本五十六提督の遺骨
いま国葬の儀によつて葬らる。
元帥の勲功めもあやに、
同胞もとより之を熟知す。
われら心を傾けて元帥を送り奉り、
あらためて元帥のおん面影をしのぶ。008
元帥幼にして長岡のきかんぼ、
志を立てて不屈不撓、
外に使して君命を辱めず、
却つて鴃舌の老雄をも脅かす。
元帥身を以て東郷精神の根幹に生き、
更に近代戦術の機秘を握り、
機略に富み、機先を制し、
時に豪放、時に精緻。
若き世代の真面目(しんめんもく)を限りなく愛惜し、
長官の身をほとほと忘れて
一兵の身を忘れず、
丹心を秉(と)つて師友に降(くだ)る。
干戈の間(あひだ)文をすてず、
国風時として絶唱。011
眼(まなこ)笑ひ、口怒り、
むしろ学童腕白の趣あり。
かくの如き提督の力、敵を撃ち、
忽ち太平洋に不敗の堅陣を布き、
更に猛進つひに陣頭の空に隠れたまふ。
国民喪に服していま元帥を送り奉り、
心武者ぶるひして元帥に祈る。012
元帥の成したまはんとせしところ、
われら必ずこれを遂げん。
元帥叱咤して遠くわれらを導きたまへ。


山本の戦死はこの年4月18日、国葬の挙行は6月5日でした。

当時の記録映像が残っています。
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死者を悼むのは人として当然のことでしょう。しかし、その死をもプロパガンダに利用した当時の世情には呆れます。
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「元帥に続け」、つまり「死ね」ということでしょうか。

現在、国民の過半数が反対している国葬を強行しようとしている勢力、また、その被葬当該人物が、戦前戦時のこうした思想を美徳とする輩である(あった)ことに、激しく違和感を感じますね。当該勢力は「国民喪に服していま元総理を送り奉り、心武者ぶるひして元総理に祈る。元総理の成したまはんとせしところ、われら必ずこれを遂げん。」という方向に持って行きたいのでしょうが。そうは問屋が卸しません。

ところで、英女王の逝去に際し、バッキンガム宮殿上空にはみごとな二重の虹が架かったそうです。
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9月27日(火)、ある国には、超大型台風でも来るのではないでしょうか(笑)。

【折々のことば・光太郎】

午后四時木村修吉郎氏迎にくる、谷口吉郎氏くる、一緒に山王「山の茶屋」行、佐藤春夫、安倍能成、谷口吉郎、田村剛、余、座談会、十和田公園について、

昭和29年(1954)1月8日の日記より 光太郎72歳

この年3月の雑誌『心』に掲載された座談会「自然の中の芸術」当日です。前年に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関して。当初建立予定だった十和田湖子(ね)の口地区には許可出来ない、と、横槍を入れてきた人物が含まれています。その横槍も正当な理由ではなく、自分がプロジェクトから外された腹いせというのが明白で、光太郎と青森県を仲介した佐藤春夫などは激怒。別の機会に「これは芸術の尊厳のために正しく大声叱呼して糾明すべきだとわたくしは心外に堪えない」と書きました。座談会で初めてその件を知ったという安倍能成も憤慨。光太郎の言いたかったことを代弁してくれています。当該人物は「丁寧な説明」をしようとしたようですが、却って火に油、燃料投下(笑)。

いつの時代にもこういう輩がいるのですね(笑)。

社会教育系イベント、対象が花巻市民等限定ですが……。

新花巻発見探訪ツアー「太田・湯口地区」

 コミュニティ会議の地域振興部会が主催する「新花巻発見探訪ツアー」の参加者を募集します。この事業は花巻市内各地の史跡・名勝や施設等を訪れ、私たちが暮らす花巻の郷土史や風土を学びます。
 今回の訪問地は、高村光太郎が山居7年を過ごした高村山荘や日本三清水と言われる清水寺がある太田地区と、仏教学者として知られる多田等観ゆかりの円万寺がある湯口地区を巡ります。

○期 日   9 月 22 日(木) 小雨決行
○訪問先  花巻市太田、湯口地区
○対象者
 花南地区に在住もしくは勤務する市民で、史跡・名勝に関心があり学ぶ意欲がある方
○集 合   08:30 花南振興センター(受付、体調チェック票提出)
○日 程
  08:45  花南振興センター出発
  09:00  高村光太郎記念館
   高村山荘、智恵子展望台、雪白く積めり詩碑を見学
  11:00  清水寺
   観音堂、山門、千体薬師堂、慈眼水堂を見学
  12:30  花巻市自然休暇村広場(昼食)
  13:30  円万寺
   観音堂、八坂神社、一燈庵を見学
  14:15  山の駅 昭和の学校(施設見学)
  15:20  道の駅 はなまき西南(休憩)
  16:00  花南振興センター到着予定
 ※天候や現地の状況によって日程を変更する場合があります。
○服 装  動きやすい服装、履きなれた靴、帽子
○持ち物  マスク、昼食、飲み物、おやつ、雨具、タオル、敷き物、筆記用具など
○参加料  1,200 円(入館料 3 館分、保険代)
 ※貸切バス代はコミュニティ会議が負担します。
○定 員  25 人(先着順)
○受 付  8 月 22 日(月)午前 9 時から受付開始。花南振興センター窓口へ直接
    もしくは花南地区コミュニティ会議(電話 24-4415、平日の 9 時~17 時)
     へお申込み願います。
 なお、感染症の拡大状況によっては事業を延期もしくは中止することが
 ありますので予めご了承ください。
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光太郎ゆかりの地を巡る史跡探訪ツアー。

まずは昭和20年(1945)秋から丸七年間、光太郎が蟄居生活を送った旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する髙村光太郎記念館さん及びその周辺。

続く清水寺さんは、光太郎が何度か足を運んだ寺院です。円万寺さんは、光太郎と交流のあった僧侶にしてチベット仏教学者の多田等観が堂守を務めていたところ。長い急坂を上った先にありますが、光太郎も上りました。

山の駅 昭和の学校さんにも行かれるのですね。さらには道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんにも。

地元の方々が対象ですが、以外と地元民が地元のことを詳しくは知らないというケースは往々にしてありますね。当方もそうです。ここにこんなものがあると知らなかったとか、存在は知っていてもどんな背景があるのか、細かな見どころ等々。もう3年前になりますが、当方が講師を務めさせていただき、花巻市、それから隣接する北上市をバスで廻った「岩手花巻高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の際にも、参加者の皆様からそうした声が聞かれました。

残暑も一段落という感じで、ただ、台風等が心配ですが、実りあるツアーとなるよう祈念いたしております。

各地自治体さんの社会教育担当の方々、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

晴れる、 春子さん子供二人つれてくる、モチ ワカサギをもらふ、 NHKの人くる、一月三日詩朗読の由(石黒達也) 「新潮」の野平氏くる、原稿に書き足して渡す(13枚)、 便 創元社の林氏くる、ウエルハーラン詩集出来、三冊持参、印税はマカベ氏宛のことをたのむ、 〈豊周夫妻くる〉

昭和28年(1953)12月26日の日記より 光太郎71歳

001たまたまでしょうが、千客万来(笑)。ただ、この頃、この日ほどではなくとも、起居していた中野の貸しアトリエにはほぼ毎日、誰かしらが訪れていました。

春子さん」は、智恵子の最期を看取った智恵子の姪。「詩朗読」はラジオ放送。俳優の「石黒達也」はたびたび光太郎詩の朗読を担当していました。「原稿」は翌年2月の『新潮』に載った散文「日本芸術院のことについて-アトリエにて1-」。「ウエルハーラン詩集」は、濁点が脱落していまして、『ヴェルハアラン詩集』。戦前に光太郎が訳した、ベルギー詩人・ヴェルハーレンの詩――さまざまな雑誌等に寄稿したもの――を、山形出身の詩人・真壁仁(「マカベ氏」)が編集しました。光太郎、あまり出版に乗り気でなく、印税もいらない、真壁にやってくれ、と、まぁ何とも気前のいいことで(笑)。そして実弟の豊周夫妻も。おそらく豊周が仲介した「倉田雲平胸像」がらみの用件と思われます。

今日の朝刊を開いて「ありゃま」でした。歌手のおおたか静流さんが亡くなったとのこと。

『朝日新聞』さん。

歌手・おおたか静流さん死去 「にほんごであそぼ」、「花」のカバー

004 NHK・Eテレ「にほんごであそぼ」への出演や喜納昌吉さんの「花」のカバーで知られた、歌手のおおたか静流(おおたか・しずる、本名小西静子〈こにし・しずこ〉)さんが5日、がんのため死去した。69歳だった。葬儀は近親者で営む。喪主は夫小西徳雄(こにし・とくお)さん。後日、お別れの会を開く予定。
 東京都出身。7歳からクラシックの声楽家に師事。一時は漫画家を志望したが、大学時代に歌手を志す。ジャズや民俗音楽の影響を受けたボーダーレスな音楽を数多く生み出した。
 喜納さんの「花」のカバーや、映画「シコふんじゃった。」(周防正行監督)で使われたザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」のカバーで知られるほか、数多くのCMソングを歌唱。「七色の声」の異名を持つ。「にほんごであそぼ」では、リズムや韻を踏んだ遊び心あふれる楽曲を作り、子どもたちと一緒にダンスや劇を披露していた。
 絵画や朗読など、ジャンルを超えた活動を続け、ワークショップ「声のお絵描き」の主宰を務めた。
 社会的な活動も多く、米国やフランスで東日本大震災追悼公演を開催したほか、広島の原爆投下時に爆心地にあったピアノを使った「ミサコのピアノ」コンサートシリーズ、核廃絶を訴える国際キャンペーンなどにも参加した。

時事通信さん。

歌手のおおたか静流さん死去005

 おおたか 静流さん(おおたか・しずる=歌手)5日午前、病気で死去、69歳。
 東京都出身。葬儀は近親者で行う。
 89年にユニット「ディド」でデビューし、翌年ソロに。クラシックやジャズ、民族音楽の影響を受けながら、日本情緒がにじむ独創的な作風の歌で知られた。喜納昌吉さんの曲をカバーした「花」などで知られ、多数のCM曲も歌唱。NHK・Eテレの番組「にほんごであそぼ」にもレギュラー出演した。

NHKさん。

歌手のおおたか静流さん死去 69歳 「にほんごであそぼ」に出演

 表現力豊かな歌声で知られ、NHK Eテレの「にほんごであそぼ」にも出演していた歌手のおおたか静流さんが今月5日、がんのため東京都内の自宅で亡くなりました。69歳でした。
 おおたか静流さんは東京都出身で、7歳からクラシックの声楽家に師事して歌を学び「七色の声」と言われた多彩な表現力で数々のCMソングを手がけたほか、ジャズや民族音楽など幅広いジャンルで活動しました。
 喜納昌吉さんのヒット曲「花」をはじめ「林檎の木の下で」、「悲しくてやりきれない」などのカバー曲でも知られ、個性豊かで透き通った歌声が話題となりました。
 また、NHK Eテレの番組「にほんごであそぼ」にも出演し、リズムにのせたことば遊びで人気を集めました。
 親族によりますとおおたかさんは今月5日、がんのため東京都内の自宅で亡くなったということです。
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おおたかさん、NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」では、坂本龍一さん作曲の「道程」も歌われていました。

東日本大震災があった次の年の平成24年(2012)に公開収録が行われ、翌年オンエアされて、さらにDVD化もされた「にほんごであそぼ 元気コンサート in 福島」。

作曲の坂本龍一さんご自身がピアノ伴奏、尺八の藤原道山さんもご参加。小錦八十吉さんや子供たちと一緒に、おおたかさんも歌唱で加わりました。
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また、平成30年(2018)の同番組では、おおたかさんのソロバージョンも。その後くり返し使われました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

文部省芸術課長宇野俊夫氏くる、理由書ほしとの事なれど必要なき旨を告げる、

昭和28年(1953)12月22日の日記より 光太郎71歳

日本芸術院会員推薦の辞退に関わります。辞退されることを想定していなかった文部省は対応にてんてこ舞いで、3日前に続き、またしても光太郎を訪問、推薦辞退の理由書を書けと迫ります。しかし光太郎、勝手に推薦しておいて、辞退するのにこちらから書面を提出せよとは何事だ! 的な対応。確かにその通りですね。








先週のNHK盛岡局さんローカルニュースから。花巻高村光太郎記念館さんで現在開催中の企画展示「光太郎、海を航る」についてです。

高村光太郎 海外留学中に送ったハガキなどを展示 花巻市

 詩人で彫刻家の高村光太郎がアメリカやヨーロッパに留学中に出されたハガキなどを展示する企画展が花巻市で開かれています。
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 高村光太郎は20代の時におよそ3年間、アメリカやイギリスそれにフランスに留学し、彫刻やデッサンなどを学びました。
 花巻市にある高村光太郎記念館で開かれている企画展には、高村光太郎が留学中に家族や知人に送ったはがきや執筆した直筆の原稿など20点が展示されています。
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 このうち明治42年の4月に光太郎の弟、道利にあてた絵はがきは今回、初めて公開され、旅行で訪れたイタリア・ローマの芸術や文化の高さに驚いた様子が記されています。
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 また明治41年1月に、当時パリに住んでいた画家の白瀧幾之助に宛てた絵はがきには、新年のあいさつなどが書かれています。
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 このほか昭和16年の芸術評論「ミケランジェロの彫刻写真に題す」の直筆の原稿4枚なども展示されています。
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 仙台市から訪れた人は「ヨーロッパでの生活の中で、日本を客観的に見ることができたのではないか」と話していました。
 花巻高村光太郎記念会の高橋卓也事務局長補佐は「欧米で実際に何を見て、聞いて暮らしていたのかを展示を通じて感じてもらいたい」と話していました。
 企画展は来月30日まで開かれています。

少し前ですが、市の『広報はなまき』7月15日号で、道利宛の葉書について紹介されていました。
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ついでに当方によるレポートもご覧下さい。

ニュースで述べられた通り、会期は9月30日(金)までです。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小春日和、映画班の人達四人同道、電車車中の撮影、二ツ堰より山口まで車、村長さん宅着 スルガさん宅エン側にて重次郎さん等と撮影、田圃の中、林間、小屋等撮影、 四時頃小学校行 村人の歓迎会あり、


昭和28年(1953)11月26日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに、花巻郊外旧太田村に帰りました。

半分はブリヂストン美術館の美術映画「高村光太郎」の撮影のためでもありましたが、当初の構想では、冬期には東京中野の貸しアトリエで、気候のいい時期には旧太田村の山小屋と、二重生活を目論んでいたようです。

美術映画「高村光太郎」から。
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晩年の光太郎に親炙し、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の奥様・北川節子様が、8月16日(火)に亡くなられました。享年94歳だったそうです。ご葬儀は御家族と近親者のみで、北川先生の時と同じく菩提寺の文京区浄心寺さんにて執り行われたとのこと。

昨日、ご子息光彦氏から通知の葉書が届き、驚いた次第です。そちらによれば、「亡くなる直前まで比較的元気で家族と共に自宅で過ごし、最後も家族に見守られながら静かに亡くなりました」。
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千駄木のお宅にお邪魔するたび、優しい笑顔で迎えて下さった節子様。連翹忌の集いや女川光太郎祭北川先生を囲む新年会等、いつも北川先生の傍らで、その優しい笑顔をふりまかれ、どんな場でもたちまち和ませてしまうという特技をお持ちでした。

節子様、光太郎最晩年の日記に登場されています。

后北川太一氏新婚の細君同伴来訪、二本松訪問の話をきく、(昭和30年(1955)10月27日)

北川先生は昭和27年(1952)には光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪問され、以後、何度も足を運ばれていましたが、この月20日に、当時勤務されていた定時制高校でのご同僚であらせられた節子様とご結婚なさり、初めてお二人でのご訪問でした。

二本松訪問」は、御夫妻の新婚旅行。その際の写真がこちらです。
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翌昭和31年(1956)、光太郎の亡くなった年にも。

后北川太一夫妻くる、メドツクもらふ、三時半辞去、新年詩の新聞贈呈、(昭和31年(1956)1月24日)

「メドツク」はワインと思われます。「新年詩の新聞」はおそらくこの年元日の『中部日本新聞』。詩「開びやく以来の新年」が掲載されていました。

節子様、この2回の会見の際の印象として、「光太郎先生はとても大きい人だった」と語られました。小柄だった御夫妻と較べての体格、という意味もありましょうが、それよりも光太郎の人格的な大きさということをおっしゃっていたのだと存じます。

節子先生(かつての教え子の皆さんがそうお呼びでしたので、当方もうつってしまいました)の笑顔に接することがもうできないのかと思うと、実に淋しい限りですが、北川先生の元に旅立たれたのだと考えれば、心が安らぎます。彼岸にてまた仲睦まじく、そして光太郎とも再会していただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

鼠穴ふさぎ、 夜在宅、うどん玉子等、 ネズミまだ出る、


昭和28年(1953)11月23日の日記より 光太郎71歳

前年まで7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋でも、ネズミは奇妙な同居人でしたが、北川御夫妻が訪問された中野の貸しアトリエでもネズミが出没。昭和20年代には珍しくなかったのかもしれません。

新刊です。

月をみるケンタウルス 紳士の心得帳

2022年8月15日 法橋和彦著 未知谷発行 定価2,000円+税

馬の挙動、騎手の振る舞い、血統や体重の増減、馬場の状態……あらゆるデータを蒐集して予想するレースの展開と出走馬の着順!その光の奥に数字と札束しか見ないようでは紳士の遊びとは言えまい。
 
傍らに馬券、視線の先でゴールを駆け抜ける馬と騎手、そのとき心に浮かぶのは長い人類の営み、個々の人間各々の業、喜び、美、文学に昇華された形而上学……
 
正統派ロシア文学者だからこそのディープなロシア文学への言及、日本、中国、フランス、エト・セトラ、走る馬を見ながら専門を越え、凡そ琴線に触れるあらゆる文学を想起する、前代未聞の競馬エッセイ――77年~79年日刊スポーツ連載
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目次

 「京都記念」を観戦してトルストイのトバク心得を思う
 高橋成忠最後の騎乗を見て、幻の名馬「ホルストメール」を思う
 サンケイ大阪杯をみて『アンナ・カレーニナ』の競馬を思う
 鳴尾記念をみて『スペードの女王』の賭けを思う
 「桜花賞」を見終えて中央競馬会をしかる
 『さつき賞』を予想して、ドストエーフスキイの『賭博者』を思う
 チエホフの『賭け』、「NHK杯」を見て思う
 ペチョーリンの賭け、オークスに敗れた馬に思う
 宝塚記念をみて、茂吉の『童馬漫語』を思う
 中京競馬をみて「連環万馬の計」を思う
 夏の中京万馬券を論じてマラルメの詩おもう
 小倉戦牝馬の好走見て火野葦平の『花と龍』を思う
 ブロンディン死の綱渡りに、馬と騎手の連帯を思う
 戦争で死んだ馬五十万頭、盛夏の「小倉」に思う
 小倉記念に無法松の「勇み駒」をきく
 阪神障害ステークスに、初秋の歌を聞く
 鱒二の「仲秋名月」を、長月特別に思う
 万馬券を逸して「ムツゴロウの大勝負」を思う
 4レース連続のコース・レコードに、ヴェルレエヌの「秋の歌」を思う
 松若騎手を悼みおくる高村光太郎の「秋の祈」
 菊花賞を見て漂泊の俳諧師一茶を思う
 エリザベス女王杯に思う、ヴァレリイの「海の墓標」
 セントウルステークスに三好達治の歌をきく
 「有馬記念」をみて釋迢空の歌をおもう
 一休宗純の魔界
 テンポイントの悲運を恨む
 ミカローズの好走にエセーニンの詩を思う
 淀の「忘れ水」
 ジェリコーの馬ととべ
 桜花賞トライアルの酒
 物狂わす〝桜の花の下〟
 「さつき賞」を見る
 郷原騎手の無念にパドックのドガを思う
 叱られ叱りとばして……
 ダービーに萩原葉子の『蕁草の家』を思う
 語らざれば愁なきに似たり
 宝塚記念の雪辱をはたす
 悶といふ字
 魔の三年目の悪相(紳士の心得帳1)
 三十にして立たず、四十にして惑う(紳士の心得帳2)
 漱石と馬券のはなし(紳士の心得帳3)
 勝負のひけどき(紳士の心得帳4)
 白地図の効用(紳士の心得帳5)
 鴎外の賭博論(紳士心得帳6)
 女性の同伴つつしむべし(紳士心得帳7)
 「三十六計逃げ馬」考(紳士心得帳8)
 グシケンに〝希望〟
 博奕の精神(紳士心得帳9)
 「花が石にも咲きはせじ」(紳士心得帳10)
 つるぎは折れぬ馬もたふれぬ(紳士心得帳11)
 イカロスと魔法の馬(紳士心得帳12)
 羊どしに泣く
 入試問題と馬の予想003
 花の下にて春死なん
 春なれや二月となれば
 上悍こそ大将の乗るべき馬
 「散ればこそ……」
 ぬれて匂ひし花や散るらん
 馬を見に行く
 天皇賞と「落馬結い」
 「五月は黒鹿毛をねらえ」
 黒鹿毛おおいに笑う
 「牝馬おおいに走る」
 木槿は馬にくはれけり
 我を絵にみる夏野かな
 万のことは頼むべからず
 「馬よ花野に眠るべし」
 「コガネムシは金モチだ」
 「数字と連想」
 続「数字と連想」
 解説 岩浅武久

サブタイトルが「紳士の心得帳」。しかしマナーとかファッションとかではなく、紳士の趣味とされてきた「競馬」に関するエッセイ集です。

著者の法橋(ほっきょう)和彦氏は、ロシア文学者にして大阪外語大名誉教授。氏が昭和52年(1977)から翌年にかけ、『日刊スポーツ』さんに連載なさっていた同名のコラムを一冊にまとめたものです。この書籍以前に、氏の退官記念にと、教え子の皆さんが氏の執筆目録を作成された際、本書の解説も書かれているやはりロシア文学者の岩浅武久氏が、『日刊スポーツ』紙の連載を見つけ、「これは面白い、何とか一冊にまとめられないか」と、奔走して出版されたものだそうです。

そういうわけで、およそ45年前の競馬界。競馬には詳しくない当方でも記憶している名馬の名が頻出します。テンポイント、トウショウボーイ、グリーングラス、カツラノハイセイコなどなど(ハイセイコーは既に引退していました)。

競馬を語ったエッセイ集ですが、法橋氏のご専門のロシア文学――トルストイ、チェーホフ、ドストエフスキーなど、さらには仏文でボードレールやヴェルレーヌ、そして日本文学にもからめて展開されています。目次からわかりますが、漱石、鷗外、太宰、芭蕉や一茶など。

そしてわれらが光太郎。「松若騎手を悼みおくる高村光太郎の「秋の祈」」という章で、詩「秋の祈」(大正3年=1914)が引かれています。

   秋の祈

 秋は喨喨(りやうりやう)と空に鳴り002
 空は水色、鳥が飛び
 魂いななき
 清浄の水こころに流れ
 こころ眼をあけ
 童子となる

 多端粉雑の過去は眼の前に横はり
 血脈をわれに送る
 秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
 地中の営みをみづから祝福し
 わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
 奮然としていのる
 いのる言葉を知らず
 涙いでて
 光にうたれ
 木の葉の散りしくを見
 獣(けだもの)の嘻嘻として奔(はし)るを見
 飛ぶ雲と風に吹かれるを庭前の草とを見
 かくの如き因果歴歴の律を見て
 こころは強い恩愛を感じ
 又止みがたい責(せめ)を思ひ
 堪へがたく
 よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまづ)く
 いのる言葉を知らず
 ただわれは空を仰いでいのる
 空は水色
 秋は喨喨と空に鳴る

第一詩集『道程』(大正3年=1914)の巻末を彩る詩で、おそらく『道程』のために書き下ろされたと推定されています。この後、光太郎は詩作を一旦中断します。確認出来ている限り、次に発表した詩は2年後の「我家」です。まぁ、いわば詩人としての一区切りをつけた、記念すべき作です。

「秋の祈」が書かれ、『道程』が出版された大正3年(1914)は、智恵子との結婚披露も行われました。父・光雲を頂点にいだく日本彫刻界と訣別し、展覧会等には作品を出さず(出せば「光雲の息子だから」という理由で、本質を理解されないまま入選してしまうことを危惧したと思われます)、智恵子と手を取り合って、この国に新しい芸術を根付かせていこうという悲壮な決意を固めていた時期でした。詩「道程」の「僕の前に道はない/僕の後に道は出来る」も、そうした表れです。

さて、この詩が引用され、語られたのは松若勲騎手。昭和52年(1977)11月5日、京都競馬場の第9レースで起こった大規模な落馬事故で亡くなりました。この事故を機に、安全対策の見直しが図られたそうです。法橋氏もこの項でそれを訴えていました。

そして法橋氏、生前の松若騎手、「秋は喨喨(りやうりやう)と空に鳴り/空は水色、鳥が飛び/魂いななき/清浄の水こころに流れ/こころ眼をあけ/童子となる」ような騎乗ぶりであったとし、この詩のような心境でレースに臨み続けた生涯だったのだろう、と結んでいます。多少の無理くり感がありますが、若松騎手の人柄にも接していた法橋氏にとっては、そういう感じだったのでしょう。

他に、「魔の三年目の悪相(紳士の心得帳1)」という章でも光太郎詩。こちらでは明治44年(1911)に書かれた「根付の国」が使われています。

   根付の国

 頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
 魂をぬかれた様にぽかんとして
 自分を知らない、こせこせした
 命のやすい
 見栄坊な
 小さく固まつて、納まり返つた
 猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、
  鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

章題中の「魔の三年目」は、「競馬を始めて三年目」の意。ビギナーズラックも終わって、思わぬ散在にこりて手を引く人も多い中、逆に一発逆転のギャンブルとしての側面に取り憑かれ、泥沼にはまり出すのもこの時期だそうです。そうなった人々の顔つきは「根付の人」のようだ、というわけで。さもありなん、ですね。

こんな感じで、各章、競馬を語りながらの人生論、文化論、歴史論、そして紳士論となっています。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

吉澤といふ狂信者のやうな人くる 折紙をやる由、門口でかへす、


昭和28年(1953)11月17日の日記より 光太郎71歳

折紙」で「吉澤」となると、平成17年(2005)に亡くなった折紙作家・吉澤章氏かな、と思ったのですが、不分明です。

もしそうだとすると、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」でも取り上げられた「蝉」など、光太郎の木彫「蝉」の影響があったのかもしれません。

000福島県二本松市で、智恵子顕彰団体「智恵子の里レモン会」会長を務められていた、渡辺秀雄氏が亡くなりました。昨日、ご葬儀(家族葬)だったそうです。

レモン会さんでは、10月5日の智恵子忌日「レモンの日」に合わせ、それと最も近い日曜日という期日設定で、智恵子を偲ぶ「レモン忌」の集いを主催なさっています。ただ、一昨年、昨年と、コロナ禍のため中止となり、最後に開催されたのは令和元年(2019)でした。したがって、当方、最後にお会いしたのもその時。コロナ禍となって以後、最後にお会いしたのがコロナ禍前、という方の訃報がこのところ相次いでおり、一層胸を痛めております。

その際の画像。会の冒頭近く、主催者挨拶をされる渡辺氏。
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その前年。
004
005
智恵子の里レモン会さんは、昭和63年(1988)、晩年の光太郎と交流のあった故・伊藤昭氏が立ち上げられ、一度消滅したものの、平成17年(2005)に渡辺会長の下で復活。以来、先述の通り、智恵子を偲ぶ「レモン忌」の運営を続けて来られました。

渡辺氏個人は、レモン会さんの活動以外に、同じ二本松でやはり智恵子顕彰をされている「智恵子のまち夢くらぶ」さんにも協力を惜しまず、同会主催の「智恵子講座」の講師「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査員、「智恵子抄」出版80周年記念文集へのご寄稿などもなさいました。

また、当会主催の連翹忌にもたびたびご出席下さいましたし、平成27年(2015)に光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村の高村山荘前で行われた「第58回高村祭」では、当方が講演を仰せつかると、福島から駆けつけて下さいました。翌朝、宿で見たローカルニュースに「福島から訪れた人」という肩書きで氏のインタビューが流れ、笑えたのが今となってはいい思い出ですし、様々な機会での氏の魅力溢れるお人柄に触れたことを思い起こすと、滂沱禁じ得ません……。
002
謹んでご冥福をお祈り申し上げます

【折々のことば・光太郎】006

十和田の像は冬中雪囲ひの由、


昭和28年(1953)11月11日の日記より 光太郎71歳


十和田の像」は、前月に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。設置当初の数年間は、豪雪による被害が恐ろしいということで、冬期間、右のような状態にしていたそうです。

その後、ここまでやらなくても大丈夫ということがわかり、雪囲いはやめました。

岩手県盛岡市からイベント情報です。

館長講座2022 作り手の視点 第2回「岩手の美術教育」

期 日 : 2022年8月27日(土)
会 場 : 岩手県立美術館 岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
時 間 : 14:00-15:30(開場13:30)
料 金 : 無料

当館の藁谷収館長が専門の彫刻を中心に「作り手の視点」で語る美術講座。彫刻作品の制作の裏側や美術教育などをテーマとして、全4回シリーズでお話しします。当日、直接ホールにお越しください。参加無料、申込不要です。

第2回 「岩手の美術教育」
 疎開した彫刻家高村光太郎と美術評論家森口多里の交流が始まり、岩手美術研究所、岩手県立美術工藝学校、盛岡短期大学美術工藝科、岩手大学特設美術科へと発展的に継承された岩手の美術教育は、多くの美術に関わる人材を輩出してきました。これまでの検証と、今後の展望を紐解きます。

講 師 : 藁谷収(わらがいおさむ) [当館館長]
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藁谷館長、平成31年(2019)の同講座「岩手の近代彫刻Ⅱ」、同30年(2018)の「岩手大学教育学部出前講座「彫刻ってこう観るの!? 光太郎の作品から入る近代芸術の世界」」でも、光太郎と岩手について語って下さいました。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

運送屋七尺石膏像を持ちくる、十和田関係の費用旅費日当等全部払(42,000)


昭和28年(1953)11月4日の日記より 光太郎71歳

七尺石膏像」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型。鋳造を担当した伊藤忠雄の工房から帰ってきた、というわけですね。現在は光太郎の母校・東京藝術大学さんに収められています。七尺像ということでなかなか大変なのですが、ぜひ展示する機会を設けてほしいものです。

費用旅費日当等」は運送屋さん関係と思われます。

光太郎第二の故郷、岩手花巻からの情報を2件。

まず、毎月恒例の光太郎ランチ。一昨年から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当です。

今月分がこちら。
220815
2208151
2208152
20220815
赤飯、小豆餅、牛すき煮、じゃがいも甘辛煮、鰹フライ、白菜と南瓜の花の酢の物、塩麹卵焼き、お新香、デザートだそうで。酢の物がさっぱりしていて美味しかったそうです。西瓜が夏らしく、また彩りも添えていますね。

3枚目の画像、背景は道の駅のインフォメーションコーナーで開催されている、地元ご在住のMICHINOさんという方の色鉛筆画「器と楽しむ光太郎ランチ」です。

花巻からもう1件、日帰りツアー的な案内です。

花巻電鉄の軌跡 廃線跡の今

期 日 : 2022年8月28日(日)
料 金 : 5,000円

【8/28(日)限定!】
JR花巻駅、花巻温泉郷から出発し、現在は廃線の「花巻電鉄」跡を巡るガイド付きツアーです。当時の様子を写真で振り返り、現在の様子を写真に収めていただくフォトツアーです。

【乗車場所】JR花巻駅東口、花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、廣美亭、台温泉バスロータリー、新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、志戸平温泉(ホテル志戸平・游泉志だて)、松倉温泉風の季

【下車場所】JR花巻駅東口、JR新花巻駅西口、花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、廣美亭、台温泉バスロータリー、新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、志戸平温泉(ホテル志戸平・游泉志だて)、松倉温泉風の季

09:20 花巻駅東口
09:40 新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、
     大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、
     志戸平温泉(ホテル志戸平・志だて)、松倉温泉風の季
10:10 花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、
     台温泉バスロータリー、廣美亭
花巻電鉄【花巻温泉駅跡】(15分)
花巻電鉄【花巻温泉線廃線跡スポット】(60分)
源氣屋にて白金豚ランチ(50分)
花巻電鉄【中央花巻駅跡、西花巻駅跡、西公園跡、稲荷前駅跡、馬面電車、花巻駅跡】(100分)
15:00 JR花巻駅東口
15:20 JR新花巻駅西口
15:40 花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、
     台温泉バスロータリー、廣美亭
16:10 新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、
     大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、
     志戸平温泉(ホテル志戸平・志だて)、松倉温泉風の季
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昭和20年(1945)から27年(1952)にかけ、当時の花巻町および郊外太田村で暮らした光太郎が生活の足として使った花巻電鉄。左上は光太郎も乗ったデハ3型、静態保存されているものです。その廃線跡を廻るツアーとのこと。「廃線」と聴くだけでロマンを感じますね。廃線にならずに済んでいればそれにこしたことはなかったのかもしれませんが……。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后新宿三越にゆき書棚をかふ、


昭和28年(1953)11月3日の日記より 光太郎71歳

およそ1週間前には丸井で本棚を購入しましたが、さらに三越でも(笑)。

どれがどうと特定出来ませんが、このあたりかな、というのが下の画像です。
002

各地で行われた光太郎智恵子がらみの講演会等の報道を、3件。

まずは石川県金沢市。『北陸中日新聞』さんから。

人柄巧みに描き出す 犀星「我が愛する詩人の伝記」 記念館20周年 池澤夏樹さん講演

000 室生犀星記念館の開館二十周年を記念して、作家、詩人の池澤夏樹さんが七日、金沢市文化ホールで講演した。犀星が交流のあった十一人の詩人たちについて書いた「我が愛する詩人の伝記」について「自分を出しながら、相手の人柄を書くのが犀星」と解説した。
 北原白秋、高村光太郎、萩原朔太郎、釈迢空、堀辰雄、立原道造…。犀星は、その生き様と作品を交流や見聞きしたエピソードとともに描き出している。
 白秋は犀星あこがれの詩人。女性問題で挫折したことも「同情的に書いている」と。光太郎については「言葉を尽くしてほめたたえている」と紹介した。
 朔太郎は犀星が生涯の友情を貫いた詩人。池澤さんは「心と心が溶け合って、すべての振る舞いを認め合い、手を携えて生きたように見える」と表現。「詩人や作家には江戸っ子と、地方から上京した人がいる」といい、朔太郎が妻と別れて前橋に帰る時の詩「帰郷」と、「ふるさとは遠きにありて−」で知られる犀星の「小景異情」とを対比して「帰ってはいけない場所としての『故郷』があった」と語った。
 釈迢空が養子とした歌人藤井春洋との別れの場面の描写を「犀星は小説家として書いている」と指摘した池澤さん。「犀星は生涯、詩と小説を両輪で書いた珍しい人。大いに学ぶべきだと思う」と締めくくった。
 「我が愛する−」は一九五八年の出版。昨年、濱谷浩の写真を加えた「写文集 我が愛する詩人の伝記」(中央公論新社)として改めて出された。

金沢市の室生犀星記念館さん開館20周年記念講演会だそうで、これは事前に把握していませんでした。光太郎の章も含む、犀星による『我が愛する詩人の伝記』、ここにきてまた復刊がなされたりで注目されており、いい傾向だと思います。

続いて福島市。『福島民報』さん。

謎が多い宇宙の魅力紹介 写真展「138億光年 宇宙の旅」監修の国立天文台上席教授渡部潤一さん講演

 福島県福島市のとうほう・みんなの文化センター(県文化センター)で開催中の写真展「138億光年 宇宙の旅」を監修する国立天文台上席教授渡部潤一さん(会津若松市出身)は14日、同センターで講演した。
 講演は7月24日に引き続き2回目。「138億光年の宇宙の先へ―ほんとの空がある福島から―」と題し、謎が多い宇宙の魅力を紹介した。「夜空は誰もが見ることのできる最も広い時空間」と語り、自由に思いをはせ、癒やされてほしいと呼びかけた。さらに「福島は天文ファンの聖地」と述べ、宇宙と福島の関わりを説明した。
 日本天文遺産に認定された会津藩校日新館天文台跡については「見える形で残された貴重な日本最古の天文台跡で、国宝級だ」と熱弁した。
 写真展は福島民報社が創刊130周年記念事業として21日まで催している。
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過日ご紹介した、福島市で開催中の「写真展 138億光年宇宙の旅」関連行事としての講演会。サブタイトルに光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を入れて下さいました。多謝。

余談ですが、渡部氏、NHKさんで8月11日(木)放映の「コズミックフロント 流星群 星降る夜の謎」にご出演。興味深く拝見いたしました。

最後に都内から。『朝日新聞』さん。

近代史、「わかりやすい物語」どう脱却 奥泉光さん・加藤陽子さん、対談

 小説家の奥泉光さんと歴史学者の加藤陽子さんが、太平洋戦争下で言葉や物語が果たした役割について語り合った。共著『この国の戦争』(河出新書)の刊行にあわせたオンラインによるトークイベントが先月、東京都内で開かれた。
 同書は3回にわたる対談をまとめたもの。「軍人勅諭」などの公文書をはじめ、戦時中に書かれた軍人の手紙や作家の文章など膨大な史料に対し、文学者と歴史家という別の立場から「批評」を重ねたという。通底するのは「わかりやすい物語」からいかに脱却し、客観的に歴史を捉えるかという点だ。
 奥泉さんは、対話によって近代史の通説をうのみにはできないと改めて確認したという。たとえば三国同盟は「日本は単に勝ち馬にのりたかったのではなく、東南アジアの権益をもらうためだった。ドイツを牽制(けんせい)したわけです」。
 すると加藤さんは、当時日本が唱えた「大東亜共栄圏」という言葉を取り上げ、「日本が戦後処理のなかで植民地をもらうには言葉がいる。なぜこの言葉が出てくるか、誰が物語を作るのか。改めて気をつけて史料を読まなくてはいけない」と話した。
 視聴者から「同調圧力と戦うには?」という質問が届き、加藤さんは、「組織の構成員に女性を増やしてみる。弱い人に目が向くと思いますよ」。奥泉さんは「他者と対話的に関わる、そうした理念を求めていくこと」と答えた。

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記事中に光太郎智恵子の名はありませんし、トーク中に名が出たか分かりませんが、書籍の中で触れられている『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』刊行記念の対談だそうで。

先頃、太平洋戦争77回目の終戦記念日を迎えましたが、ウクライナ情勢の泥沼化しつつある昨今、例年以上に戦争について考えさせられる年となってしまっています。

ちなみに奥泉氏、終戦記念日には、NHKラジオ第1さんの「高橋源一郎と読む「戦争の向こう側」2022」にご出演。作家の高橋源一郎氏、詩人の伊藤比呂美氏とご対談。戦況が厳しくなる戦時下、様々な行動や表現が制限される中、「それでも書き続けた作家たち」というテーマでした。

太宰治をメインに扱っていましたが、光太郎もちらっと。光太郎が序文を書き、詩「軍人精神」を寄せたアンソロジー『詩集 大東亜』(昭和19年=1944 日本文学報国会編 河出書房)が取り上げられ、光太郎についても語られました。
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高橋氏が「軍人精神」を朗読、その後に伊藤氏に感想を求めたところ、「馬鹿馬鹿しくて途中から聴いてられなかった」的な(笑)。それが正常な反応でしょう。こんなものを現代においても涙を流してありがたがる輩が少なからずいるのには呆れます。今年も終戦記念日前後、この手の光太郎詩をSNSに上げて喜んでいる愚か者が見受けられました。

しかし、光太郎、戦後はこうした翼賛詩を書き殴り、多くの前途有為な若者たちを死地に追いやる旗振り役をしたことを真摯に反省し、花巻郊外の不自由な山村で七年間もの蟄居生活を自らに科しました。同様の作品を発表した他の文学者にはほとんど見られなかったこの態度、これこそが光太郎を光太郎たらしめるものだと、当方は思っています。

こうした負の部分も含め、さまざまな皆さんに、光太郎について正しく語り継いでいっていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

夜ラジオで智恵子抄の琴をきく、米川敏子さん、


昭和28年(1953)11月1日の日記より 光太郎71歳

米川敏子さん」は、生田流の箏曲家。後に人間国宝となりました。「智恵子抄の琴」は、米川作曲の「千鳥と遊ぶ智恵子」。15分以上の大作です。
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CD化もされています。

まず米川本人の演奏。
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二代目米川敏子氏による新しいテイク。
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「踏んだり蹴ったり」とはこのことか、という感じです。

青森県十和田市の国道103号十和田湖畔子ノ口-宇樽部の3.5キロが、大雨による土砂崩れで全面通行止めとなっているそうです。

RAB青森放送さん、昨日のローカルニュース。

十和田湖観光に影響 子ノ口~宇樽部 通行止め

 先週の大雨の影響で土砂崩れが発生し十和田湖周辺の道路は通行止めが続いており観光に影響が出ています。
004
 十和田市では12日の夕方から激しい雨が降り、十和田湖の子ノ口交差点から宇樽部までの国道103号が土砂崩れで通行止めになりました。
005
 13日の午後には通れるようになりましたが同じ場所で土砂崩れが発生しその日の夕方から再び通行止めが続いています。
006
 十和田湖には休屋地区の乙女の像などに行く予定だった観光客が訪れていましたが通行止めのため子ノ口で引き返していました。
007
★観光客
乙女の像があるのでいけるかなと思ったんですけどもうそこで通行止めなのでしょうがないので子ノ口に来ました」
008
「(通行止めは)途中で標識でわかりました 行きたいところに行けないのはちょっと残念かなと思いますね」
009
 子ノ口にある「みずうみ亭」には売店や食堂を利用する人がいつもの年の半分ほどしかいないということです。
010
★みずうみ亭 勝田和彦 社長
「この大雨の被害さえなければほんらいは押すな押すなの観光客でにぎわっている時期ですのでこの時期に通行止めなんてあるとがっかりです」
011
 県はきょう午前から土砂の撤去作業を行っていますが通行再開のめどは立っていません。

ATV青森テレビさん。

大雨でルート寸断・十和田湖観光に影落とす

8月、津軽地方を中心に降った記録的な大雨は、青森県南地方にも被害をもたらしました。十和田湖周辺ではその前の週にも大雨被害が発生し観光に大きな影響が出ています。
013
「夏の観光シーズンを迎えている十和田湖。ですがこちら、奥入瀬渓流とを結ぶ道路は今も通行止めが続いていて、多くの人の足に影響を及ぼしています」
014
8月12日夜の雨で十和田湖畔では土砂が道路に流出し、現在も2か所で通行止めが続いています。このため青森市から休屋地区へ行くには、新郷村などを経由する必用があり、客足が遠のく原因になっていると言います。
015
※十和田奥入瀬観光機構地域事業部 安藤巖乙(あんどう・いわお)部長
016
「(この週末は)かなりお客さん多い時期だったので問い合わせは多かったですね。(十和田湖に)どうやって行ったらいいですかという問い合わせが多かったです」
017
そして去年の倍の乗客を見込んでいた遊覧船は、8月3日と先週の2度の大雨でさらに大きな影響を受けています。
018
※十和田観光電鉄 湯瀬功一(ゆぜ・こういち)さん
「お盆の帰省客にも期待していましたので少しずつ増えてきているという実感がありましたけれども、一番痛いのは土砂崩れと大雨の影響でしょうね」
021
大雨被害でアクセスが不便になったことで、関係者は日程がタイトな団体客が敬遠すると見ていて、今後その影響は拡大しそうです。
022
もう3年目となるコロナ禍の影響もあり、その上、今回の豪雨被害。衷心より御見舞い申し上げます。日本中、どこの観光地も程度の差こそあれ、似たような状況なのかな、という気もしますが……。

一日も早く平穏な毎日が来ることを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

汽車でめざめ、十時45分上野着、 伊藤氏藤島氏と地下で生ビール、モデルと別れる、伊藤氏と別れ、藤島氏とタキシで中野まで、十二時過ぎかへる、 小憩、 夫人にみやげもの進呈、

昭和28年(1953)10月25日の日記より 光太郎71歳

10月21日に行われた、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式に伴う青森行から、寝台車で帰京しました。「夫人」は貸しアトリエの大家・中西夫人です。

8月10日(水)の『読売新聞』さん文化面から。

[鉄道150年]文化を運ぶ<5>美術・工芸 海外誘客に一役 気鋭の画家がポスター 車両に城や仏閣風天井

000 桜の木のもとで、静かにほほえむ女性。着物の柄や花びらが一筆一筆丁寧に描き込まれ、雪をいただく富士が遠くに裾を伸ばす。
 「大正の広重」と呼ばれた絵師、吉田初三郎による鉄道省国際観光局の1930年のポスター「Beautiful Japan(駕籠に(かご)に乗れる美人)」だ。約1万枚が発行された。
 中国東北部を走る南満州鉄道とユーラシア大陸を横断するシベリア鉄道の連絡運輸が11年頃に始まると、欧州との時間的距離は格段に縮まった。日本では12年、半官半民の外客誘致組織「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」が設立される。
 外貨獲得と文化を宣伝するため外国人観光客の誘致が進み、30年の鉄道省国際観光局発足により、動きはより本格化した。二つの世界大戦の戦間期、欧米では中産階級にも旅行ブームが広がっていた。
 各組織や汽船会社、ホテルなどは、競うように観光ポスターや旅行案内書、雑誌を発行し、誘客キャンペーンを展開した。表紙をはじめビジュアルな部分は、吉田のほか、版画家の川瀬巴水(はすい)、図案化の杉浦非水ら気鋭の美術家が起用された。「大部数で多色刷りは、彼らにも大きな仕事だった」と、武蔵野美術大の木田拓也教授(近代工芸史・デザイン史)は説明する。
 豪華な装幀や洗練されたデザインを凝らし、写真をたくさん載せた刊行物も多く作られた。「外国の目を意識することが、出版印刷技術の向上にもつながったのではないか」と、関西学院大の荒山正彦教授(刊行の文化史)は話す。
 これらの出版物には、「美しい日本」を象徴する四季の自然や神社仏閣などとともに、西洋風のホテルをはじめ近代都市としての姿も描かれた。木田教授は「日本は外国人客の誘致を通して、より客観的に自国文化の魅力や将来像を考えることになった」と指摘する。
 戦前の鉄道や海運の発展は、東洋の優美さと近代性を併せ持つ国としての“自画像”を日本に意識させるきっかけともなった。

*「御料車」に外国要人001
 日本の美術や工芸技術は、皇族方が乗るための鉄道車両「御料車」にも生かされた。第1号は1876年、明治天皇の京都-神戸間の鉄道開業式出席を前に製造された。明治、大正、昭和にかけて18両が製造され、うち1両が重要文化財、8両が鉄道記念物に指定されている。
 西欧のロイヤルレトレインの様式を取り入れながら、日本的な文様や図柄を装飾に用いた。明治後期から大正期の6~9号には、城郭や仏閣を思わせる折上(おりあげ)二重天井が採用された。外国からの賓客を迎えた10号には展望デッキが備えられた。1922年に来日した英皇太子のエドワード・アルバート殿下や、シャム国皇帝、満州国皇帝が乗車した記録も残る。
 日本画家の川端玉章(ぎょくしょう)や橋本雅邦(がほう)、漆芸家の六角紫水(しすい)、彫刻家の高村光雲ら、歴代の車両の内装には、時代を画する芸術家が関わっていた。

*現代列車に継承
 御料車の精神は現在、国内各地を走る豪華列車にも生かされている。JR九州の「ななつ星in九州」は、ふんだんに木をあしらった内装に様々な工芸技術を用いた美しい車両で知られる。デザインを手がけ、JR九州のデザイン顧問を務める工業デザイナーの水戸岡鋭治さん(75)は、「御料車には最高のものを作りたいという美術工芸家や職人の心意気、国力が凝縮されている。かけた手間暇の分だけ感動が生まれることを体現したお手本のような列車で、その心を継承することが大切だ」と語る。
 「ななつ星」は外国人にも人気で、昨年、米国の旅行雑誌の読者投票で1位に選ばれた。一台の車両に凝縮した日本人の美意識や感性、技術が、世界に誇れるものであることを現代に伝えている。


御料車に関しては、平成27年(2015)に富山県水墨美術館さんで「北陸新幹線開業記念 お召列車と鉄道名画 ~東日本鉄道文化財団所蔵作品を中心に~」が開催され、光太郎の父・光雲が手がけた装飾彫刻も展示されました。同展図録から。
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その他、川端玉章や橋本雅邦、六角紫水なども関わっていたとなると、さながら「動く美術館」ですね(笑)。

ちなみに東京駅丸の内口の東京ステーションギャラリーさんでは、今年10月から来年1月にかけ「鉄道と美術の150年」展を開催するそうです。予告では河鍋暁斎や五姓田義松、長谷川利行、香月泰男の絵画などがピックアップされています。上記光雲監督作品もぜひ出していただきたいところです。

ところで、「鉄道150年」ということで、いろいろ記念行事等が行われていますが、逆に廃線の危機にさらされている鉄道も少なからずあり、複雑な思いです……。

【折々のことば・光太郎】

午后三時頃湖畔御前浜にてモニユマン除幕、 雨かなりふる、


昭和28年(1953)10月21日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」がついに除幕されました。
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除幕式直前。像は紅白幕に覆われています。
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大町桂月令孫の幼女がお母さんに助けられて紐を引き、除幕。
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三本木高校女生徒による献花。
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それらを見つめる光太郎、佐藤春夫(青森県と光太郎の仲介役)、谷口吉郎(公園全体の設計担当)、伊藤忠雄(鋳金家)ら。後列には像のモデルを務めた藤井照子も。
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三本木高校女生徒による佐藤春夫作詞「湖畔の乙女」合唱。このあたりの方々で、ご存命の方はまだいらっしゃると思います。
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光太郎スピーチ。

これが昭和28年(1953)ですので、来年は70周年となります。「乙女の像」も古稀を迎えるというわけで(笑)。それから、同じく来年は光太郎自身の生誕140年。ちょっと半端ですが、一応区切りのいい周年です。関係の方々、生誕140周年記念のなにがしか、できれば美術館さん・文学館さん等での大規模な企画展等を計画していただきたいものです。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県花巻市で、光太郎の語り部として活動されていた高橋征一さんが亡くなりました。

昭和20年(1945)、空襲で東京駒込林町のアトリエ兼住居を焼け出された光太郎は、5月、花巻の宮沢賢治の実家に疎開。終戦となっても帰京せず、逆に花巻郊外の旧太田村に鉱山の飯場小屋を移築してもらって住み始めます。

その山小屋近く(といっても1㎞弱)の太田小学校山口分教場(のち山口小学校)に通っていた児童の一人が、高橋さん。昭和25年(1950)の同校学芸会の際に撮られたこの写真で、右から二人目に写っています。
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コロナ禍前の令和元年(2019)5月に、旧太田村で開催されたの第62回高村祭のローカルニュースから。

その前年に開催された第61回高村祭では、他の3人の方々とともに太田村在住時の光太郎の思い出を語って下さいました。聞き手は当方でした。4人のうち、高橋愛子さんも既に亡くなっています。
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高橋さん、平成28年(2016)に花巻市太田地区振興会さんから刊行された『高村光太郎入村70年記念 ~思い出記録集~ 大地麗』の編集にあたられたり、同じ年には花巻高村光太郎記念館さんで無料配付されていたリーフレット『たかしとせいいち ぼくたちが出会った光太郎先生』で、上記写真左端の浅沼隆さんと共に、光太郎の思い出を証言して下さったりも。
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その他、折々の新聞記事などでも、高橋さんの証言が紙面を飾っています。

河北新報「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」。
新聞各紙から。
「とうほく名作散歩 詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む」。

さらに昭和51年(1976)、読売新聞社盛岡支局発行の『201人の証言 啄木・賢治・光太郎』でも。
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同書から、最上部画像の光太郎サンタについて。
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戦前には、「芸術家あるある」で「俗世間とは極力交わらない」、戦時中には歪んだ愛国意識で国民を鼓舞し死地に追いやった光太郎。戦後、老境に入ってようやく自然に世間と交われるようになった、その頃をご存じの高橋さん……。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

夕方リーチ、石川欣一氏等くる、リーチとアトリエで一寸話、明日出発して東北旅行の由、
昭和28年(1953)10月3日の日記より 光太郎71歳

「リーチ」は陶芸家のバーナード・リーチ。明治41年(1908)、英国留学中の光太郎と知り合ったのがきっかけで、来日。戦前は日本、イギリス、そして中国などを行ったり来たりしていましたが、昭和10年(1935)に帰国後はしばらく母国にとどまり、この年、久しぶりに来日し、光太郎らと雑誌で座談を行ったりもしました。そしてこの日が、光太郎とリーチ、今生の別れとなりました。

サイクルスポーツ愛好家の方々向けのキャンペーンです。

ツール・ド × Volcano to Seaふくしま

火山から太平洋へ 山、里、海がつなぐ絶景ルート
 福島市・二本松市・伊達市・相馬市エリアで3ヶ月限定でお届けします! 絶景と歴史が織り成すコースを走れる、このエリア。ルートには吾妻山・安達太良山の紅葉、伊達氏の歴史、朝日が綺麗な松川浦など、各市の魅力を詰め込んでいます。さらに、エリア内には飯坂・土湯・高湯・岳の4つの温泉地や豊富な果物・海産物など疲れを癒す要素もたくさん!100kmを超える2コースの走破を目指し、福島市・二本松市・伊達市・相馬市を満喫してください。

キャンペーン期間:2022年 7月30日(土)~10月31日(月)

サイクリング専用アプリツール・ドを使って走る!
 このキャンペーンに欠かせないのが、サイクリング専用アプリツール・ド! コースMAPで進行方向を確認できたり、途中の「ご当地スポット」にチェックインできたり、オリジナルフォトフレームが付いた記念写真を撮れたり、ゴール後に完走特典をGETするための完走証明をしたり。 このアプリを使えば、サイクリングの楽しさが広がること間違いなし。

0041コースを完走すればVolcano to Seaふくしまfinisherに認定!
 コースのいずれかを完走した方は、Volcano to Seaふくしまfinisherの証オリジナル手ぬぐいをプレゼントします。お帰りの際はゲットした手ぬぐいを持って、温泉へお立ち寄りください。
 ※各コース、先着200名様ずつとなります。
 ※なくなり次第、終了となりますので予めご了承ください。
 ※完走したコースそれぞれで手ぬぐいをお渡しします。

2コースを完走すればVolcano to Seaふくしまマイスターに認定!005
 キャンペーン期間中に「Volcanoコースいずれか1コース」と「Seaコースいずれか1コース」の合計2コースを完走した方をVolcano to Seaふくしまマイスターと認定します。Volcano to Seaふくしまマイスターの名に相応しく、オリジナル猪革キーホルダーと認定証を進呈します。
 ※先着100名様となります。
 ※なくなり次第、終了となりますので予めご了承ください。
 ※認定証は全員に発行します。

Volcano to Seaふくしまを走って記念を残そう!
 Volcano to Seaふくしまfinisherボードにチェキを貼ってSIGN ON!!

豪華賞品が当たるフォトコンテストを開催!
 「ふくしま」をテーマにした思い出の写真を大募集。#ボルふくをつけてSNS(twitter/instagram)に投稿するだけで、地元のお土産をGETできるかも!?

コース
 安達太良山を一望できるスカイピアあだたらからスタート。クライマックスは磐梯吾妻スカイラインのヒルクライムです。コース近辺には岳温泉、高湯温泉、土湯温泉など県内自慢の温泉地もぜひお楽しみください。スポットや拠点などで福島の新鮮なフルーツをはじめとした農産物などもお土産にいかがでしょうか。
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コースストーリー
1 スカイピアあだたら 眺望の温泉保養館008
 安達太良山を間近に『本当の空』を眺めながら日帰り温泉を楽しめます。同じ敷地内にスケートボード、スラックライン、ボルダリングが楽しめる『スカイピアあだたらアクティブパーク』があります。汗を流した後にゆっくりと日帰り温泉は如何でしょうか。
2 道の駅安達
 「智恵子抄」でおなじみの安達太良山を一望できる「北と南の玄関口」
007 ドライバーの快適な休憩施設や、道路利用者と地域との情報発信や地域連携の機能が満載されています。地元の朝採り野菜や1,000年の伝統を今に伝え手漉き創作和紙が体験して楽しめる「二本松市和紙伝承館」などがあります。平成25年にオープンした下り線の道の駅には、焼き立てのパンがいつでも楽しめる「二本松ベーカリー」、ゆったりした時間と空間が楽しめる「カフェ」や広い芝生の休憩スペースもあります。
3 アンナガーデン 福島の街を一望する丘の上に、ヨーロッパの雰囲気漂う街並みが広がる
 吾妻連峰の山麓に位置する個性豊かでこだわりの逸品を扱う店舗が並び、美酒・美食・ショッピングなどを楽しめます。
4 道の駅ふくしま ふくしまの魅力が凝縮
 2022年4月27日にオープンしたふくしまの新しい道の駅です。ここでは、農作物を代表とする特産物の購入はもちろん、それらを利用したレストランも並んでいます。サイクリングの休憩地点としてもよし、福島周辺の観光情報も詰まっているためその前後の観光拠点としてもおすすめです。
5 高湯温泉観光協会 白濁の湯で癒す温泉地
 東北初の「源泉かけ流し宣言」をした高湯温泉の情報発信拠点。併設の「共同浴場あったか湯」では露天風呂で日帰り入浴が楽しめる。
6 浄土平ビジターセンター 雄大な自然の玄関口
 浄土平周辺の自然を模型やパネル写真等を通して紹介する施設。自然観察会やトレッキングなどの行事も随時行っている。
7 スカイピアあだたら
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Volcanoコース 120km(道の駅ふくしま発着)
1 道の駅ふくしま 2 高湯温泉観光協会 3 浄土平ビジターセンター 4 スカイピアあだたら
5 道の駅安達 6 アンナガーデン 7 道の駅ふくしま


Seaコース110km(相馬市千客万来館発着)
1 相馬市千客万来館 2 浜の駅松川浦 3 不動尊公園 4 まちの駅やながわ
5 道の駅伊達の郷りょうぜん 6 まきばのジャージー 7 相馬市千客万来館

Seaコース110km(まちの駅やながわ発着)
1 まちの駅やながわ 2 道の駅伊達の郷りょうぜん 3 まきばのジャージー
4 相馬市千客万来館 5 浜の駅松川浦 6 不動尊公園 7 まちの駅やながわ

専用アプリを使って、福島県内4つのコースを自転車で走り抜けよう、ということですね。ただ、4コースではありますが、「Volcano(火山)コース~福島・二本松~」、「Sea(海)コース~相馬・伊達~」、ともに2箇所ずつ「拠点」が設けられ、どちらの拠点からスタートしてもOK、スタートと同じ拠点へゴールするというルールで、実質2コースです。

このうち「Volcano(火山)コース~福島・二本松~」は、安達太良山、道の駅「安達」智恵子の里などが含まれています。

それにしても、火山あり、海ありと、改めて福島県の魅力が感じられますね。自転車愛好家の皆様、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小笠原耕三は耕一の誤とわかり、メダルの内山さんに速達ハガキを出し、三を一に直してもらふやうたのむ、


昭和28年(1953)9月29日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の完成作となった小品「大町桂月メダル」。翌月行われた「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」除幕式に際し、関係者に記念品として配付されたものです。

桂月の肖像と、桂月以下、「十和田の三恩人」の名が刻まれましたが、このうち道路整備等に腐心した元法奥沢村長・小笠原耕一の名が、誤って「耕三」と光太郎に伝えられ、その通り陽刻してしまいました。正しくは「耕一」だとわかり、すでに鋳造師の元に送られていた粘土原型を、慌てて直してもらったとのこと。

なぜか誤りの「耕三」バージョンが世に出ています。試鋳されたものが出回ってしまったのでしょうか。

一昨日の『中日新聞』さん一面コラム。

中日春秋 2022年7月28日

 首相在任中に病に倒れ、退陣後に没した自民党の小渕恵三氏に対する国会での追悼演説は二〇〇〇年五月、野党・社民党の村山富市元首相が行った▼小渕氏が首相時代に開催地を沖縄に決めたサミットが迫っていた。氏が学生時代から通い、米国統治下の苦難を学んだ土地▼日本は東京以外でのサミット開催経験がなかったが、慎重論に与(くみ)せずあえて沖縄を選んだことを村山氏は称(たた)えた。「熱い思いが沖縄の人々をどれほど勇気づけているかは、立場こそ違え、長年沖縄問題に取り組んできた私には痛いほどわかります」「沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった」▼安倍晋三元首相への追悼演説を同じ自民の甘利明氏が行う案に野党から異論が出ている。人選は遺族の意向らしい。自民党首相経験者への追悼演説は野党が行うのが慣例で、党派を超えて哀悼の意を表してきた。大平正芳氏の場合も、社会党委員長が演説した▼今回は、反発も承知で安倍氏の国葬を決めながら、追悼演説は身内…。再考した方がよさそうに思える▼村山氏は、小渕氏が愛唱した高村光太郎の詩『牛』を引用し、人柄をしのんだ。「牛は随分強情だ/けれどもむやみとは争はない/争はなければならない時しか争はない/ふだんはすべてをただ聞いてゐる/そして自分の仕事をしてゐる」。我を通すべきことの選択を誤ると、民の心も離れる。

当初、8月3日召集の臨時国会で検討されていた追悼演説は、なぜか延期の方向だそうですが、その理由の一つが、指名されたA氏が「静かな環境でやるべき」とのたまったとのことで、まさに「おまいう」(笑)。大臣室で現金を受け取った人物の発言とは思えませんね。

平成12年(2000)5月に衆議院本会議で行われた、村山富市氏による小渕恵三氏への追悼演説。光太郎に関わる部分の前後のみ抜粋します。

000 昭和三十八年の初当選以来、福田、中曽根元総理らと議席を争った厳しい選挙区環境がつくり出した庶民的な「人柄の小渕」は、総理になってからも何ら変わることはありませんでした。
 昨年、ブッチホンという流行語大賞に選ばれたほど、常に市井の声に耳を傾け、国民と同じ目線で物事を見る屈託のない姿勢は、国民の共感するところでございました。
 君がよく愛唱した高村光太郎の
  牛は随分強情だ
  けれどもむやみとは争はない
  争はなければならない時しか争はない
  ふだんはすべてをただ聞いてゐる
  そして自分の仕事をしてゐる
  生命をくだいて力を出す
君の人生はまさにこの詩のごとくでありました。
 君の人柄について語るとき、いつも謙虚であろうとした君の姿勢について触れないわけにはいきません。
 みずからが凡人であることを片時も忘れないよう心がけておられました。それは、口に出せば簡単ですが、凡人にはなかなかできないことであります。いかなる地位にあっても偉ぶらず、常に謙虚で目線を低く生きる、そして凡人だから懸命に努力する、そうした姿勢が凡庸に見えて非凡という境地を開かれたのであります。(拍手)
 その牛にも似た、地道で人知れぬ努力があったからこそ、一国の指導者にまで上り詰めたのでありましょう。
 もはやこの議場に君の温容を目にすることはできません。耳を澄ませば、今も、力強い中にも優しさのこもった声が聞こえてくるではありませんか。
 小渕君、君に課せられた宰相という厳しい重責は、君に一刻の休息も許しませんでした。本当に御苦労さまでした。

もう22年も経つか、という感じですが、この頃はこの頃でいろいろあったものの、まだ健全な世界でしたね。

「牛」全文はこちら(閲覧注意! 超長い詩です(笑))。

【折々のことば・光太郎】

午前十時頃大町桂月の長男芳文氏と文京区文化係長中出忠勝といふ人来る、メダルなど見せる、亡父によく似てゐるとの事、


昭和28年(1953)9月27日の日記より 光太郎71歳

完成作としては光太郎最後の彫刻となった小品「大町桂月メダル」。翌月行われた「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」除幕式に際し、関係者に記念品として配付されたものです。元々「乙女の像」は、十和田湖の景勝美を世に広めた桂月ら「十和田の三恩人」顕彰のためのものでした。
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原型が完成し、桂月の子息に見てもらったとのこと。なぜ文京区の役人が同席していたのかは不明ですが。ちなみに子息・芳文は農学者。光太郎実弟にして藤岡家に養子に行った同じく農学者の孟彦とは昵懇の間柄でした。

ところで9月に行われる予定の「国葬」とやら(ここへきていろいろあるD社とのズブズブぶりが報じられていますが)で、当該人物の肖像を刻んだメダルなど配付されたりはしないでしょうね(笑)。

いわゆるライトノベルです。

小説家・芥木優之介には恋と飯が足りていない

2022年7月6日 硯昨真著 宝島社(宝島社文庫) 定価750円(税込み)

太宰治の“桜桃”、森鴎外の“饅頭茶漬け”――。謎の美女が繋ぐ“文豪グルメ”と“人の絆”。天才偏屈作家のほっこり恋物語!

芥木優之介は、大学時代に処女作で新人賞を総嘗めにし、文壇にデビューした小説家である。それから六年。全く文章を書けなくなった芥木は、古アパートで貧乏生活を送っていた。それは自身に課した「文筆業以外で稼いだ金で飯は食わない」ポリシーのため。そんな時、大家の姪という儚げな美女・こずえが現れる。栄養失調で意識が朦朧とする芥木に、“芋粥”を食べさせるこずえ。彼女にときめく芥木だが、「これからはお家賃の方をきちんとお願いします」と言われ、絶体絶命に! 偏屈で人間嫌いだった芥木だが、縁を切っていた人々と向き合うことになり……? 謎の美女が繋ぐ、“文豪グルメ”と“人との絆”。天才偏屈作家のほっこり恋物語!

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目次
 芥川龍之介の芋粥  谷崎潤一郎の小鰺の二杯酢漬け  太宰治の桜桃 前編 
 太宰治の桜桃 後編  宮沢賢治の天ぷらそばとサイダー  高村光太郎の牛鍋
 森鷗外の饅頭茶漬け  夏目漱石の落花糖


主人公・芥木優之介。その名の通り、芥川龍之介を彷彿とさせられる小説家です。しかし、芥川と違って(ある意味共通して)、いろいろ考えすぎるあまり、なかなか作品が書けない、という設定です。まぁ、一言で言うと「面倒くさい」(笑)。そうなってしまったのには、そうなってしまうだけの理由―この業界特有の―があるのですが、それは読み進めていくうちにおいおい明かされていきます。

他の登場人物は、芥木に負けず劣らず面倒くさく、彼を一方的にライバル視する作家・津島修也(いわずもがなですが、「津島」は太宰治の本名由来です)、芥木ファンが嵩じて作家デビューを果たした書店員・三鳥(「島」ではなく「鳥」です)、善人だけれどズレまくっている編集者・滝谷(しかし、欲得ずくでない仕事態度が芥木を動かし、再びペンを執らせます)、そして借家の大家にしてヒロイン的なこずえら、個性豊かな面々。

そこに目次にあるような、文豪たちが書き残したさまざまな料理や食材がからみます。そういった意味でも近代文学オマージュ的要素もふんだんに盛り込まれています。

われらが光太郎に関しては、詩「米久の晩餐」(大正10年=1921)がモチーフの「高村光太郎の牛鍋」。この章には『智恵子抄』巻頭を飾った詩「人に」(「いやなんです/あなたのいつてしまふのが」)も使われ、こずえに対して揺れ動く芥木の心情が象徴されます。特に「――それでも恋とはちがひます」というフレーズ。

作者の硯昨真氏、存じ上げない方でしたが、どうもご自身のご経験をかなり落とし込んで書かれているのでは、と思われます。作家としてデビューし、編集者との丁々発止のバトルなどの苦労等。妙にリアリティーがあります。違っていたらごめんなさい、ですが。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

中野の祭礼、みこし出てゐる、 夜在宅、 タウリンエキスをのむ、

昭和28年(1953)9月15日の日記より 光太郎71歳

中野の祭礼」は、9月半ばということで、おそらく中野氷川神社さんの祭礼と思われます。「タウリン」、この頃にはもう広まっていたのですね。1000㍉㌘かどうかはわかりませんが(笑)。

特に何もなければ、新刊書籍の紹介を今日から4連発で。この系統はつい後回しになってしまい、溜まってしまいました。

まずは岩手から届いたミニブック。

michino絵本 器と楽しむ光太郎ランチ

2022年7月 企画デザイン/文/写真/発行 やつかの森LLC 色鉛筆画/MICHINO
 料理制作/ミレットキッチン花 定価700円(税込み)


癒しの時間

色鉛筆で花の絵を描くMICHINOさん。光太郎の魅力を発信する「光太郎ランチ」の応援団になっていただきました。

毎月「光太郎ランチ」弁当を買って来て器に盛り付ける。MICHINO風楽しみ方。1年間描き続け、その絵が素敵な本になりました。心癒やされる時間をぜひどうぞ。

お申し込み先 やつかの森LLC FAX 0198-29-2672 kotarocafe30@gmail.com
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現在、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで開催中の同名の展示を、一冊の絵本にしたものです。道の駅のテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」を洒落た器に盛りつけて描いた作品群。
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メニュー及び光太郎の日記等から抜粋された食に関する一節が左側のページ、右ページには地元ご在住のMICHINOさんという方の描いた色鉛筆画。12回分が掲載されています。合間には、「光太郎ランチ」実物の写真や、花を描いたMICHINOさんの色鉛筆画など。

道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん、花巻市街のマルカンさんで販売中ですし、FAX、メールでも注文可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后週間サンケイより吉岡達夫氏ら三人来たり写真をとつてゆく、

昭和28年(1953)9月1日の日記より 光太郎71歳

「週間」は「週刊」の誤り。光太郎、ときどきやらかします(笑)。「写真」はこちらの記事のためのもの。この年9月27日号に掲載されました。
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昨日の新聞二紙から。

まず、「土用丑の日」だったということで、『朝日新聞』さんの土曜版から、鰻の蒲焼きについての記事。かなり長いので全文は引用しませんで、後半のみを。前半では、土用丑の日に夏ばてを防ぐため、栄養価の高いうなぎを食べる慣習について、平賀源内がうなぎ屋のために考案し、広まったという『定説』について。「裏付けとなる文献が、今のところ見つかっていない」ということで、肯定する根拠も、さりとて否定する根拠もないそうです。さらに、隅田川下流域の「江戸前うなぎ」がブランド化していった歴史、調理方法の変遷など。

そして、後半。「江戸前うなぎ」の名店の一つで、光太郎も通った「駒形前川」さんに取材。こちらは令和元年(2019)の『週刊ポスト』さんでも、光太郎にからめて紹介されていました。光太郎の父・光雲が生まれた嘉永5年(1852)に出た「江戸前大蒲焼」番付にも載った店です。また、光雲といえば、光雲の談話筆記『光雲懐古談』(昭和4年=1929)に、前川さんが登場します。

(はじまりを歩く)江戸前うなぎ 東京都 白米とみりん、客層を広げる

 昼下がりの「駒形前川」。7代目主人の大橋一仁さん(43)が、かっぽう着姿で取材に応じてくれた。もとは川魚問屋だったが、220年ほど前、初代がうなぎ料理を始めた。「目の前が大川だから、前川。浅草へ遊びに行く人が舟で乗り付け、腹ごしらえする店だったみたいです」
 しょうゆとみりんを煮詰めた「生(き)だれ」。生だれをつぎ足し、つぼに入っているのが「母(ぼ)だれ」。これが代々続く秘伝のタレだ。「生だれと母だれ、なめると味が全く違う。母だれには、積み重なってきたうなぎのうまみがつまっている」という。
 うなぎをつぼにつけるのは、さばいて、串をうち、素焼きにして、蒸しに入れ、余分な脂を落とした後の工程だ。うなぎの身が、新しい良質な脂とうまみをつぼに落とし、同時に、母だれの熟成したうまみをたっぷり吸い込んで、再び焼かれる。
 老舗の蒲焼きが、甘くないのに、うまい理由は、ここにあった。

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 先代たちの歴史は「選択」の連続だった。関東大震災、東京大空襲では、つぼを大八車に載せて逃げた。店が焼失しても、ゼロから再出発した。2011年3月、東日本大震災の大きな揺れが店を襲ったその時も、一仁さんの父で6代目の一馬さんは、客や従業員の安否を確かめながら、つぼのことを鬼気迫る表情で案じていた。一馬さんは病気で他界し、7代目となった一仁さんが、長引くコロナ禍と向き合ってきた。
 店の伝統を裏付けるような資料を残す余裕は、先代たちになかったようだ。だからこそ、番付「江戸前大蒲焼」の存在は「色んな人にうちを知ってもらえて、ありがたい」。
 江戸前うなぎに「蒸す」という調理工程が加わった背景には、江戸時代後期のコレラの流行がある、と一仁さんは考えている。「より衛生的で安全な提供方法を考えた結果、先人は蒸すことを選択した。天然か、養殖かも、選択の一つ。守るべきこと。変えるべきこと。いつの時代も、両方を考えないといけない」
 江戸時代に花開いたうなぎ文化もいま、岐路に立たされている。稚魚や親ウナギの保全、人工孵化(ふか)や完全養殖。絶滅危惧種となってしまったニホンウナギと共存するための、新たな選択肢が模索されている。
 かつては筒を沈めるだけで、ウナギがとれたという隅田川。今でも釣りスポットとして人気だが、ネット上で「隅田川の魚は食べても美味だ」と薦める人は見かけない。
 目の前の水辺にいたヘンな魚を、焼いて食べたら、うまかった。しょうゆ、山椒、みりん、ご飯をつけたらもっとうまかった。そんなシンプルな話だったのだ。ある時までは。

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「駒形前川」は、池波正太郎、高村光太郎、山田耕筰といった文化人がひいきにしていた。現在は千葉県銚子市の問屋から天然に近い環境で育てた養殖うなぎ「板東太郎」などを仕入れている。雷門通りにある「やっこ」も、ジョン万次郎や勝海舟が訪れた名店だ。
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当方自宅兼事務所のある千葉県香取市。利根川の水運の要所として、江戸時代から続く古い街並みも残る観光地です。やはり利根川の関係で鰻も昔からの名物で、旧市街には江戸時代創業のうなぎ屋さんが数店。さらに住宅街である自宅兼事務所近くにはその支店も。

以前は、遠隔地の友人、仕事の打ち合わせに訪れた方などが訪ねてきた際には、そうした店にご案内することも少なくなかったのですが、最近はとんと足が遠のいています。とにかく美味ではありますが、やはり価格の問題がありまして……。以前は二千円ほどで食べられましたが、最近は四千円台と記憶しております。記事にもあった資源としての減少の問題が大きいのでしょう。

ちなみに今年の土用丑の日は、2回。昨日と、8月4日(木)も該当します。光太郎父子に愛された「駒形前川」さん、ぜひ足をお運び下さい。

もう1件、やはり昨日の『福島民報』さん。「福島県 今日は何の日」という連載です。

「福島県 今日は何の日」 1990(平成2)年7月23日 国体スローガン 友よ、ほんとうの空にとべ!

 1995年に開催した第50回国民体育大会のテーマ(愛称)が「ふくしま国体」、スローガン(合言葉)が「友よ ほんとうの空に とべ!」に決定した。
 テーマは美しい自然など本県の持つ特性を県名に込め、平仮名で柔らかく表現した。スローガンの「ほんとうの空」は「智恵子抄」などによって県内外に知られており、本県の全体的な印象として定着していると判断した。
 4月中旬からスローガンとテーマを公募し、テーマに1万7664点、スローガンに1万4250点が寄せられた。
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平成7年(1995)の「ふくしま国体」。このテーマに「ほんとうの空」の語が使われたことで、以後、福島の形容詞として、「智恵子抄」由来の「ほんとの空」、その変形種「ほんとうの空」の語が広く使われるようになっていきました。ただ、平成23年(2011)の東日本大震災による福島第一原子力発電所のメルトダウン以後、また違った意味が付加されるようになってしまったのは残念ですが……。

ちなみに「ふくしま国体」のテーマソング、佐藤信氏作詞、林光氏作曲の「ほんとうの空へ」は、現在でも時折コンサート等で演奏されています。
「林光ソングをうたい継ぐ(5)~ほんとうの空へ(1990年代)」。
合唱団じゃがいも第48回定期演奏会 林光さん没後10年を偲んで。
こちらも末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

山口小学校長浅沼氏今朝来訪の由、又午后くるとの事、 午后東方亭主人くる、トマトをもらふ、 山口小学校長くる、自園の桃をもらふ、


昭和28年(1953)8月24日の日記より 光太郎71歳

山口小学校」は、かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった小学校。そこの先生方や子供たちとは深い交流がありました。校長・浅沼政規は光太郎に関する貴重な回想を数多く残しました。子息の浅沼隆氏は、現在も光太郎の語り部として花巻で活動されています。

東方亭」は、戦前からの光太郎行きつけのトンカツ屋。荒川区の三河島に店がありました。

まず状況をわかりやすくするために、地方紙『陸奥新報』さん記事から。

教科書掲載の作家紹介/県近代文学館

 県近代文学館で特別展「教室で出会った文学」(9月19日まで)が開かれている。国語の教科書に掲載されるさまざまな文学作品は、子どもが文学の世界に触れる入り口でもあり、大人には懐かしい青春の思い出。同展は多くの教科書で取り上げられてきた森鷗外、夏目漱石、石川啄木、宮澤賢治、与謝野晶子、芥川龍之介、高村光太郎の7氏を第1部で、太宰治、三浦哲郎、寺山修司ら本県出身作家を第2部で紹介している。また黒石高校情報デザイン科の協力を得て作家たちのイメージイラストも展示されるなど、夏休みに子どもたちが楽しむことができる内容となっている。
 第1部では、森鷗外の「中村範宛書簡」や石川啄木の「金田一京助宛葉書」、宮澤賢治の「雨ニモマケズ手帳(複製)」、芥川龍之介の「自筆短冊」、高村光太郎の「桂月メダル」などが、貴重な初版本や当時掲載された雑誌などとともに展示。本県との意外な関わりを記した紹介文も目を引く。中でも与謝野晶子のコーナーでは、板柳町の歌人・安田秀次郎らの招きで、夫・鉄幹(寛)と夫婦で本県を訪れた際に書いた自作短歌の屏風(びょうぶ)も展示。見分けが付きにくいほどよく似た夫婦の直筆による多くの歌が詠み込まれており、貴重な展示物となっている。安田は、夏目漱石とも書簡のやり取りがあり、同書簡は本展が初公開。独自の町人文化が栄えた板柳町をはじめとする本県と、中央で活躍する文人との交流の深さが、第1部の展示から想像できる。
 第2部では、新課程の教科書に登場する本県出身作家に着目し、関連資料や最新の教科書などを展示。同館が調査した結果、圧倒的な数を誇ったのは、やはり太宰治で特に「走れメロス」は中学校の教科書すべてに掲載されているため、全国の中学生のいわば必読の書とも呼べる作品となっている。
 特別展では、来館者全員に黒石高校情報デザイン科作成のポストカードがプレゼントされるほか、夏休み期間中には小・中・高校生を対象にした「太宰治と文豪の秘密ガイドツアー」を実施。他にも「あおもり文学ゼミ『教室で出会った作家と青森』」、朗読劇「教室で出会った太宰作品メドレー」などのイベントが行われる。入館無料。問い合わせは同館(電話017-739-2575)へ。

というわけで、同展の詳細。

令和4年度特別展「教室で出会った文学」

期 日 : 2022年7月16日(土)~9月19日(月)
会 場 : 青森県近代文学館 青森県青森市荒川藤戸119-7
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 7月28日(木) 8月25日(木) 9月14日(水)
料 金 : 無料

 学校で使用する国語の教科書には様々な文学作品が掲載され、時代とともに掲載される作品も変化してきました。その中で、今も昔も多くの人に親しまれている作品や作家が存在します。
 今回の特別展では、青森県出身者という視点から離れ、教科書に作品が掲載され続けてきた7人の作家❶森鷗外(もり・おうがい)❷夏目漱石(なつめ・そうせき)❸石川啄木(いしかわ・たくぼく)❹宮澤賢治(みやざわ・けんじ)❺与謝野晶子(よさの・あきこ)❻芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)❼高村光太郎(たかむら・こうたろう)を大きく取り上げ、青森県との意外な関わりについても紹介します。
 また、太宰治、三浦哲郎、寺山修司といった、教科書に作品が掲載されている青森県出身作家の関連資料や最新の教科書も展示します。

主な展示資料
 森鷗外   「中村範宛書簡」 「舞姫」初出雑誌 等
 夏目漱石  「安田秀次郎宛書簡」 前期3部作・後期3部作(初版含む初期の本)等
 石川啄木  「金田一京助宛葉書」3通(実物展示は7/16~8/24)等
 宮澤賢治  「雨ニモマケズ手帳(複製)」 『春と修羅』初版本 等
 与謝野晶子 「安田秀次郎宛書簡」 「自作短歌屏風」等
 芥川龍之介 『羅生門』再版本 『傀儡師』『芋粥』初版本 自筆短冊 等
 高村光太郎 『道程』初版本 「桂月メダル」(レリーフ) 自筆色紙 等
 教科書掲載の太宰治、三浦哲郎、寺山修司関連資料と、新課程の教科書 等
 その他、初版本や初出雑誌、自筆資料等、多数展示します。
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関連行事

来館者にポストカードプレゼント
 今回の特別展のポスター及びちらしのイメージは黒石高等学校情報デザイン科に制作していただきました。来館者の方々に、黒石高等学校情報デザイン科制作のイメージが印刷されたポストカードをプレゼントします。
※イメージを複数制作していただいたため、各作品を使用したポストカード(数種類)をご用意しています。
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第2回あおもり文学ゼミ「教室で出会った作家と青森」 令和4年7月31日(日曜日)
 今回の特別展で取り上げる7人の作家について紹介し、青森との意外な関わりを解説する講座です。
 時間:14時00分から15時00分
 会場:青森県立図書館4階研修室
 講師:青森県近代文学館室長
 参加無料 事前申込不要 当日は会場へ直接お越しください。

朗読劇「教室で出会った太宰作品メドレー」 令和4年8月21日(日曜日)
 津軽地方を中心にドラマリーディング(朗読劇)上演活動を続けている声優劇団「津軽カタリスト」が、教科書に掲載されてきた「走れメロス」や「葉桜と魔笛」等、太宰治の作品の朗読劇を行います。
 時間:14時00分から15時20分
 会場:青森県立図書館4階集会室
 当日はYouTube( 津軽カタリストのチャンネル )でLIVE配信も行います。
 観覧無料 事前申込不要 当日は会場へ直接お越しください。

夏休み企画「太宰治と文豪の秘密ガイドツアー」
 夏休み期間中(7月22日~8/23日)、毎日3回ずつ、対象年齢に合わせた展示の解説を行います。
 小学生 10時~  中学生 14時~  高校生 16時~
 ※この時間以外にも、ご希望に応じて解説いたします。
 ※保護者や教職員、一般の方もご参加いただけます。

というわけで、主に若い世代を対象とした感じですが、はるか昔に「教室」を巣立たれた皆様もぜひどうぞ(笑)。

光太郎に関しては、まず『道程』初版本。大正3年(1914)、200部ほど自費出版で作られ、光太郎によれば、嘘かまことか、書店を通じてきちんと売れたのは七冊だけだったそうで、現在残っているものは、光太郎が友人知己に献呈したものがほとんどと考えられます(当方も一冊持っていますが)。それでも残本が多く、中身はそのままに奥付と外装を換えて何度か刊行されました。国会図書館さんのデジタルデータで公開されているものは、大正4年(1915)の改装本です。オリジナルの形で残っているものは、刊行後に関東大震災や太平洋戦争があったことを考えると、数十冊あるかないかと思われます。
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「桂月メダル(レリーフ)」。昭和28年(1953)10月、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際に関係者に配付されたもの。小品ではありますが、完成作としては光太郎最後の彫刻作品です。
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それから、「自筆色紙」。こちらは詳細不明です。やはり「乙女の像」の関連で、現地の関係者に揮毫して贈呈したものかな、と思われます。

それから「等」。光太郎本人の書ではありませんが、詩「道程」を大書した作品が展示されている模様です。
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ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

十和田休屋によき敷地を見つけて台石建設の万般の手筈を終わりし由、

昭和28年(1953)8月19日の日記より 光太郎71歳

「乙女の像」についてです。原型は既に完成していましたが、設置場所は宙に浮いた格好になっていました。というのも、元々この事業に関わっていた地元の怪しげなボスと旧厚生省の外郭団体のドンが、プロジェクトから外される形となり、その腹いせに当初建設予定地の子の口(ねのくち)への設置はまかり成らん、と、横槍を入れてきたためです。いつの時代にもこういう輩がいるのですね(笑)。

それに対し、像を含む公園全体の設計を担当した建築家・谷口吉郎、光太郎の身の回りの世話等も行っていた詩人の藤島宇内が再度十和田湖に出向き、現在の設置場所である休屋御前ヶ浜にいい感じの場所を見つけ、交渉を済ませてきたというわけです。

7月16日(土)付『福島民報』さんから。

【写真展138億光年宇宙の旅】③人類宇宙探査の集大成

004 福島市のとうほう・みんなの文化センター(県文化センター)で十六日開幕する写真展「138億光年 宇宙の旅」は、高精細の天体写真で星空の美しさを伝える。監修する国立天文台上席教授渡部潤一さん(会津若松市出身)が見どころを寄稿した。

「ほんとの空がある」
 高村光太郎の妻・智恵子が、住んでいた東京にはなくて、故郷の二本松市だけに「ほんとの空」があると語った言葉から生まれた、『あどけない話』という詩である。福島にはまだ「ほんとの空」が残されている。それは夜の方がわかるかもしれない。東京では星座も結べないほど星が見えないが、福島では市街地を離れれば、まだまだ満天の星が見られるからだ。
 そんな「ほんとの空」のある福島には星を見に来る人も多いが、この夏は拍車がかかるかもしれない。最新の宇宙の写真展が福島市で開催されるからだ。展示されるのは、本紙のみんぽうジュニア新聞などでもしばしば紹介してきた驚くべき宇宙画像の数々。それらは現代の最新の観測装置群、例えばNASA(National Aeronautics and Space Administration、アメリカ航空宇宙局)のハッブル宇宙望遠鏡や数々の惑星探査機、日本の国立天文台がハワイに設置しているすばる望遠鏡や、欧米と共にチリに建設したアルマ望遠鏡など、世界中の最新鋭の望遠鏡群が撮影した画像だ。
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 百三十八億光年かなたの、宇宙の果てのかすかな銀河から、太陽系の惑星までさまざまな時間・空間スケールの異なる天体が並ぶ。美しさと鑑賞性を重視し、選び抜かれた画像群だ。宇宙から見た地球や立体的なオーロラなどの自然現象、人類の存在を示す夜景や人工建設物の造形、探査機が明らかにした驚くべき惑星の素顔の数々、そして何よりも芸術のような深宇宙の天体群の数々。可視光だけでなく、目に見えないエックス線から紫外線、赤外線までカバーして作られた疑似カラー合成画像は、美しさだけでなく、人類の宇宙探査の集大成でもある。
 これら深宇宙の天体の数々をたどり、百三十八億年の宇宙の歴史を感じていただくとともに、宇宙の中の地球という惑星に生きていることの奇跡を実感してもらえれば幸いである。

 わたなべ・じゅんいち 1960(昭和35)年、会津若松市生まれ。会津高、東京大理学部天文学科卒。東京大の大学院、東京天文台を経て、国立天文台上席教授を務めている。専門は太陽系小天体(すい星、小惑星、流星など)の観測的研究。国際天文学連合の惑星定義委員として準惑星のカテゴリーをつくり、冥王星をその座に据えた。2018(平成30)年から国際天文学連合副会長を務めている。61歳。

写真展「138億光年 宇宙の旅」についても、同紙から。

論説 【宇宙の旅写真展】地球いとおしむ機会に

 百億光年以上も離れた星々に間近に接し、想像力は果てなく広がる。きょう十六日から八月二十一日まで福島市のとうほう・みんなの文化センター(県文化センター)で開かれる写真展「138億光年 宇宙の旅」は、人類の英知を集めた最新画像で見る人を無限の時空へいざなう。地球や自らの存在を考える貴重な機会になる。
 写真展は、日本を代表する天文学者で国立天文台上席教授の渡部潤一さん(会津若松市出身)が監修した。米国航空宇宙局(NASA)をはじめ、世界の宇宙望遠鏡、惑星探査機などが捉えた写真百二十五点を大型の高品位銀塩プリントで紹介する。激しく噴き上がる太陽のプロミネンス(紅炎)、わし星雲の「創造の柱」と呼ばれる神秘的な領域など、多様な天体の姿が見られる。百三十億光年以上の距離にある銀河の写真も公開される。
 地球を捉えた写真の数々にも注目したい。月の地平線から浮かび上がる「地球の出」は、水と生命を湛[たた]える麗しさに息をのむ。地球は今、気候変動による環境破壊が進む。感染症や戦火にも脅かされている。持続可能な存在にするための国際目標(SDGs)がうたわれている。写真を通して県民が自分事と捉え、SDGsへの意識を日常の行動につなげるきっかけになればと願う。
 渡部さんは十五日付本紙への寄稿で、「福島にはまだ『ほんとの空』が残されている。それは夜の方がわかるかもしれない」と思いを伝えている。美しい満天の星空を末永く守るためにも、一人一人の心がけは欠かせない。
 宇宙航空研究開発機構(JAXA)の探査機はやぶさ2が小惑星りゅうぐうから持ち帰った砂などの試料に、「生命の源」ともいわれるアミノ酸が含まれていると分かり、世界を驚かせた。会津大や複数の県内企業がはやぶさ2のプロジェクトに深く関わっている。会場では、はやぶさ2の二分の一模型や、県内企業が手がけた人工クレーターをつくる衝突装置なども紹介される。未知の領域に挑む県人の潜在力も感じてほしい。
 渡部さんは「深宇宙の天体の数々をたどり、百三十八億年の宇宙の歴史を感じていただくとともに、宇宙の中の地球という惑星に生きていることの奇跡を実感してもらえれば」とも期待した。人種や国籍を問わず、誰もが同じ奇跡の上にあると知れば、互いを慈しむ心は深まる。未知なる宇宙の深淵[しんえん]に触れ、現在と、これからの地球を見渡す視界も広げたい。

同展詳細はこちら。

写真展 138億光年宇宙の旅-驚異の美しさで迫る宇宙観測のフロンティア-

期 日 : 2022年7月16日(土)~8月21日(日)
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 7/25(月)・8/8(月)
料 金 : 一般 1,200円 中高生 900円 小学生 600円

関連行事<講演会>
 講師 渡部潤一(国立天文台 上席教授)
 日時 7/23(土)13:30~15:00
 場所 2階会議室
 定員 200名(先着順)※定員になり次第締め切り
 申込 メールにて jigyo@fukushima-minpo.co.jp
    ※郵便番号、住所、氏名、年齢、電話番号を明記のうえお申込みください。
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コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃平凡社の美術全集よりくる、エジプト彫刻のグラビヤ解説4枚20日〆切、

昭和28年(1953)8月7日の日記より 光太郎71歳

この年9月5日発行の『世界美術全集 第4巻 古代エジプト』のための原稿です。

光太郎はプリミティブなエジプト彫刻の美を愛しました。欧米留学中の明治40年(1907)から翌年にかけ、ロンドン滞在中に大英博物館でエジプト彫刻をよく観ていたそうです。

それにしても、突然、書け、といわれても書けてしまうあたり、舌を巻かされます(笑)。
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文芸評論家の近藤信行氏が亡くなりました。『東京新聞』さんから。

近藤信行さん死去 文芸評論家

007 近藤信行さん(こんどう・のぶゆき=文芸評論家)17日、老衰のため死去、91歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。
 中央公論社で「中央公論」「婦人公論」などの編集に携わり、文芸誌「海」の編集長を務めた。「小島烏水 山の風流使者伝」で大仏次郎賞を受賞。山梨県立文学館の館長も務めた。
 登山関連の書籍を多数編さん。他の著書に「安曇野のナチュラリスト 田淵行男」など。

近藤氏、記事にあるとおり山梨県立文学館さんの館長を務められていまして、その関係もあって連翹忌にご参加下さったこともおありでした。

館長在任中の平成19年(2007)には、同館で企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催して下さいました。

その際には、関連行事として、光太郎令甥で写真家であらせられた故・髙村規氏、世田谷美術館館長・酒井忠康氏との鼎談「高村光太郎の人生 パリ・東京・太田村」をなさったり、同展図録には館長としての巻頭挨拶文「開催にあたって」、論考「高村光太郎の“戦後”」をご執筆されたりしました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

大町桂月のメダルをはじめる、


昭和28年(1953)8月4日の日記より 光太郎71歳

大町桂月のメダル」は、この年10月に開催された、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際、関係者に配られたものです。元々「乙女の像」が、十和田湖の景勝美を世に広めた大町桂月らを顕彰するモニュメントだったことに関わります。

小品ながら、完成した彫刻としては、光太郎最後の作品です。
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7月15日(金)、花巻高村光太郎記念館さん、そして高村山荘を後に、再び花巻市街へ。今回は、宿泊する大沢温泉さんにチェックインする前に、少し調べ物を、という計画を立てておりました(直前になってそう決めたのですが)。

そこで、花巻市立図書館さんへ。
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まず「郷土資料室」という部屋があり、光太郎関連で目新しい発見がないか、チェック。残念ながら、コピーを取る必要のあるものは発見出来ませんでした。

続いて「新聞資料室」。戦中・戦後の光太郎が花巻町及び郊外旧太田村にいた時期の新聞で、『高村光太郎全集』に洩れている光太郎の談話や講演筆記などが載っていないか、というわけです。ところが、光太郎がいた時期の新聞はあまりありませんでした。最も調べたいと思っていた『花巻新報』(題字揮毫、光太郎)は、光太郎帰京後の昭和30年代からのものしか所蔵されていません。それでも光太郎関係の記事は散見されるのですが、それらは既知。

しかし『岩手日報』は、昭和28年(1953)からのものが所蔵されており、そちらを拝見。光太郎、昭和27年(1952)には、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京していますが、昭和28年(1953)11月から12月にかけ、一時的に郊外旧太田村に帰っていますので、その頃の記事を調べました。

すると……
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まず光太郎が太田村に帰ってくると聞きつけた記者が、東京中野の貸しアトリエを訪問しての記事。光太郎を「六十九歳」としているのは誤りで、この時、満で70歳、数えで71歳です。光太郎の談話が笑えますね(笑)。1年ちょっとぶりに太田村に帰るということで、ウキウキしていたのかもしれません。

そして、花巻駅に下り立ったという記事。
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続いて太田村の山小屋に帰って。この時の記事が一番面積を取っていました。
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さらに、再上京についても。
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光太郎の言葉と、地の文と、もっと明確に分けて書けよ、と突っ込みを入れたくなりましたが、貴重な記録ではあります。

意外だったのは、「十和田湖畔の裸婦群像」を「みちのく」と表記していること。「乙女の像」という通称も既に使われていましたが(当初は通称というより、「仁王像」「騎馬像」のようなカテゴリを表す普通名詞でしたが、その後、「乙女の像」といえば十和田湖、となっていった感じです)、「みちのく」という愛称も既に広く使われていたのは発見でした。

それにしても、一芸術家が帰村したのしないの、また上京してしまったのと、いちいち大きく取り上げるあたり、時代背景というものもありましょうが、いかに花巻や太田村の人々に光太郎が愛されていたかの証左だな、とも感じました。また、光太郎の談話からは、逆に光太郎がどれだけ花巻や太田村を愛していたのかも読み取れますね。

この日は(というか、この日も)、花巻南温泉峡・大沢温泉さんに宿泊。
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直近2回(昨年12月今年3月)は、一人旅ではなかったため、ちょっと高級な山水閣さんに泊まりましたが、今回はホームグラウンド的な自炊部さんに。
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ちょっと高級な山水閣さんは、それはそれでいいのですが、やはり自炊部さんのこの狭さ風情がたまりません(笑)。

現代の『岩手日報』さん。花巻東高校出身の大谷翔平選手が一面トップ(笑)。
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現代の岩手人はとにかく大谷ラブなのでしょう。

そして露天風呂。
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KIMG6508何らのしがらみも無ければ、ここ(自炊部)で暮らしたいくらいです(笑)。

ちなみに廊下には、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎、海を航る」のポスターを貼って下さっていました。ありがたし。

翌日、レンタカーを新花巻駅前の営業所に返し、新幹線で盛岡へ。盛岡駅前の営業所返却にすればよかったかなとも思いましたが、今回はなかなか旅の行程を決めるのに手間取り、そうなってしまいました。

盛岡では岩手県立図書館さんへ。昨日に続き、郷土資料や昔の新聞で調査です。花巻市立図書館さんには揃っていなかった『花巻新報』もこちらではコンプリートされており、昨日同様、昭和28年(1953)の光太郎帰村前後を調べました(それ以前の号は一昨年に調査済み)。

すると、花巻市立図書館さんでコピーを取った『岩手日報』同様、やはり帰村の件が記事になっていました。
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「来春六月にはまた帰るよ」といって、再上京した光太郎。他の文献等でも、この時期、東京と岩手での二重生活を目論んでいたことが記されていましたが、それが裏付けられました。しかし、その念願は叶わず、結局は東京で療養生活を送ることになってしまい、再び岩手の土を踏むことはありませんでした。

「九州に建てる胸像」は、未完成のまま絶作となった「倉田雲平胸像」です。

また、同じく昭和28年(1953)9月の、宮沢賢治を追悼する賢治祭の記事。
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太田村在住中には、ほぼ欠かさず出席し、講話や講演を行っていた光太郎ですが、この年は上京していたため欠席。しかし、当会の祖・草野心平にメッセージの原稿を預け、心平が代読していました。『花巻新報』にこれが載っていたという情報は得ていませんでしたので、こりゃ新発見だろう、と期待しましたが、帰ってから調べましたところ、『高村光太郎全集』第8巻に「一言」の題名で載っていました。どうも心平が原稿を保存していて、全集編集に当たった当会顧問であらせられた故・北川太一先生に渡したようです。『花巻新報』に載っていたのがわかった、という意味では新事実と言える事柄ですが。

それから、岩手で出版された書籍等から、光太郎関連のいろいろな記述等を見つけました。高橋峯次郎関係、宮静枝関係など。

また、光太郎作の彫像「大倉喜八郎の首」についても、当方の知らなかった事実(とおぼしき事柄)が判明しました。
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この像、大正15年(1926)の作ですが、しばらく光太郎の手許を離れていて、昭和24年(1949)、盛岡在住だった彫刻家、堀江赳から光太郎に返却されました。なぜ堀江が持っていたのか、その経緯を当方は知らなかったのですが、『北の文学』という地方同人誌の第3号(昭和32年=1957)に、そのいきさつが記されていました。古館勝一という人物の書いた「高村光太郎ノート」という随筆とも評論ともつかない文章でしたが、それによれば堀江が戦時中に駒込林町の光太郎住居兼アトリエを訪れた際、空襲を危惧していた光太郎が、何か作品を預かってくれと言うので、堀江が「では、これを」と預かったそうです。

上記画像はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」の一コマ。太田村の山小屋で光太郎が「大倉喜八郎の首」を手に取っているシーンです。昭和28年(1953)の帰村は、この映画の撮影のためという側面もありました。

上記『岩手日報』記事中の光太郎談話に「山口部落の人々には驚いた。残して行った作物を留守中ちゃんと置いてある。誰も持って行かない。」とあります。「作物」は「さくもつ」と読めば「農作物」ということになりますが、それでは意味が通じません。「さくぶつ」と読んで、小屋に置きっぱにしていった「大倉喜八郎の首」や、書の作品、と読めば意味が解ります。そういうことなのではないでしょうか。

さて、こうした図書館等での調査、当方は3~4時間が限界です。それ以上続けると、集中力が途切れ、大事な記述等を見落とします。集中に優れた人は丸一日でも大丈夫なのでしょうが(笑)。そこでこの日も正午過ぎに調査終了。まだ『新岩手日報』やら、当たるべき資料が結構あるので、またの機会と致します。

以上、長々書きましたが、岩手レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

岩手の佐藤ひろしさん椛澤佳乃子さんくる、一緒に新宿、火の車、吾妻橋ビヤホール、江戸ツ子天ぷらにゆき東京駅で別れる、


昭和28年(1953)7月12日の日記より 光太郎71歳

佐藤ひろしさん」は、旧太田村の光太郎の山小屋近くの開拓地に入植していた青年で、かつては光太郎の山小屋を毎日のように訪れ、光太郎のパシリ的なこともやっていました(笑)。口さがない人々は「金魚のフン」と蔑んでいましたが、光太郎はこの青年を随分とかわいがっていました。

誤解を招く書き方ですが「岩手の」が修飾しているのは「佐藤弘さん」のみで、「椛澤佳乃子さん」は東京在住。ただ、旧太田村の山小屋もたびたび訪れていましたので、佐藤青年とも顔なじみだったようです。

7月15日(金)、道の駅はなまき西南さんを後に、車で10分ほどの花巻高村光太郎記念館さんへ。
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玄関前には、花巻農業高校生徒さん、保護者の皆さんにより寄贈されたベゴニアのプランター。ありがたし。
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こちらでは、7月16日(土)から企画展「光太郎、海を航る」が始まるということで、前日ですが、準備は終了していたため拝見して参りました。

メインは一昨年、都内の方から寄贈された、光太郎から3歳下の実弟・道利に宛てた絵葉書。明治42年(1909)、留学の最後に敢行したイタリア旅行中、ローマで投函されたものです。

今伊太利旅行中。今日羅馬に来りたり。古羅馬の偉大なりしを想見して驚かざるを得ず。

 四月四日  羅馬にて  高村光太郎          光

最後の「光」はサインです。
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解説パネルは、例によって当方が書かせていただきました。

同時期のもの、ということで、当方手持ちの絵葉書もお貸ししました。
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明治41年(1908)、当時滞在していたロンドンから、パリにいた留学中間で画家の白瀧幾之介に送ったものです。共通の友人として、碌山荻原守衛や、後に妻の八重ともども、光太郎と智恵子を結びつけた画家の柳敬助の名も記されています。

新年の御慶申納候 僕の処へも荻原君から手がみがあつた。柳君の最近の手がみにある番地は矢張り618w.114stとある。此でいいのだらう。  二日 光太郎

さらに、館蔵の書幅。
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戦後の筆跡ですが、明治39年(1909)、海外留学へと旅立った船上で詠んだ短歌「海にして太古の民の驚きをわれふたたびす大空のもと」が書かれています。枯淡というか、深奥というか、戦後に光太郎がたどり着いた境地がにじみ出ている書だと思います。

肉筆物では、草稿も。
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「ミケランヂエロの彫刻写真に題す」。昭和16年(1941)8月20日(龍星閣版『智恵子抄』初版と同日)アトリヱ社刊、天田文雄編の写真集『ミケランヂエロ MICHAEL ANGELO』のために書かれたものです。

当方手持ちの同書をお貸ししまして、ガラスケースに展示。
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左は『世界美術全集17 ルネサンスⅡ 西洋十六世紀』(昭和26年=1951 3月25日、平凡社刊。下中彌三郎編)。旧太田村の山小屋(記念館さんの敷地内)で、光太郎により執筆された「ミケランヂェロ・ブオナローティ」を収める他、ミケランジエロ作品の写真版17葉の解説も、かつてイタリア各地でそれらを実際に見た光太郎が執筆しました。
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ガラスケースは一つだけ。何やら展示の準備を始めたところ、もう一つ使う予定だったケースにカビが発生していたそうで……。そこで壁面での展示が中心です。解説パネルも文字が多く、一般の方には取っつきにくいように感じます。上記『世界美術全集17』の図版などもパネルにしてくれと頼んだのですが……。
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その他、もう一つのガラスケースに入れるはずだった、留学に関わる土地や船舶の古絵葉書などは、ディスプレイで投影。
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全体にはちょっと地味というか、寂しいというか……。もう一つガラスケースを何とか手配して、展示品を増やして下さいとお願いしてきましたが、どうなることやら、です。

隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間を暮らした山小屋)へ。
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北東北はまだ梅雨明けと発表されておらず、千葉の自宅兼事務所ではとっくに終わった紫陽花も咲いていました。
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山小屋内部。
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何十回目かの訪問ですが、来るたびに粛然とした気持にさせられます。

この後、市街に戻り、花巻市立図書館さんへ。光太郎が居た当時の新聞などの資料を渉猟して参りました。続きは、また明日。

【折々のことば・光太郎】

午前静子くる、ジユバン、アメなどもらふ、染井墓まゐりにゆく由、


昭和28年(1953)7月10日の日記より 光太郎71歳

静子」は光太郎のすぐ下の妹。上記の道利とは双子でした。道利は昭和20年(1945)、光太郎実家の庭に掘った防空壕に転落した事故が元で死亡。既に染井霊園の高村家墓所に入っていました。

キーワード「高村光太郎」で新着情報の検索をかけている中で、ヒットしました。

明治期に光太郎も中心人物として参加した芸術運動「パンの会」会場となり、婚約前の光太郎智恵子が訪れて、ハイカラな「氷菓」を食し、そしてコロナ禍前には光太郎を偲ぶ連翹忌の集いの会場として使わせていただいていた、日比谷松本楼さんでの求人情報です。

転職情報サイト「マイナビ転職」さんから。

明治から続く老舗洋食レストラン「松本楼」のサービスを提供していただく仲間を募集します

本店レストランやブライダル&バンケット、各支店など、様々な活躍の場で上質のサービスを提供しませんか?

日比谷公園内に店舗を構え、110年以上の歴史を重ねながら国内外のお客様に愛されてきた洋食レストラン「日比谷松本楼」。その歴史に裏打ちされた数々の料理、そしてそれを提供するサービススタッフのホスピタリティに対するファンも多く、自粛要請期間が明けてからは多くのお客様にご利用いただいています。今回は2022年4月より再開した各支店を含め、松本楼のサービスを多くの方に提供するスタッフを募集します!

創業は明治36年。日本でも有数の歴史を重ねてきた老舗レストラン・日比谷松本楼。多くの文化人をはじめとするお客様からの支持を受けながら、110年以上の歴史を重ねてきた実績は私たちの誇りです。

2021年に三井不動産との資本業務提携を結んだことで、今まで以上に安定した経営基盤の構築を実現。より安心して働ける環境が整ったことにより、さらなるサービスクオリティの向上に努めるようになりました。

これまで私たちが世代や国内外を問わず、多くのお客様から厚い支持を寄せられている背景には、会社全体でみんな一緒に協力しながら、お客様に喜んでいただけるサービスを提供する文化があります。

当社は人数がそこまで多いわけではないため、みんな顔と名前がわかるほどお互いが近い関係があります。だから担当フロアや部署が異なっていても、ちょっと大変だなと思ったらすぐにヘルプに入る。そんなチームワークの良さが私たちの最大の武器とも言えるのです。

ちなみに本店においては、日比谷公園のイベントにも積極的に参加。特に盆踊り大会(今年度は中止)は私たちが主催者となり、みんなが一丸となって成功に向けて力を発揮しています。

──来る2023年、松本楼は創業120年を迎えます。この新しい時代を迎えるにあたり、あなたと一緒に次の歴史をつくりたいと思います。

ご応募、お待ちしております。
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仕事内容
日比谷本店のレストランフロアをはじめ、あなたの希望する活躍の場で松本楼のサービスを提供していただきます★チームワークを発揮して働けます。具体的には以下の担当部署にて、それぞれのサービスを提供していただきます。原則として経験・スキルを考慮した上であなたの希望を優先します。

◎「ボア・ド・ブローニュ」
 ・オープン前の準備
 ・オーダーテイク001
 ・料理や飲み物の配膳
 ・会計業務 など
◎宴会サービス
 ・小規模個室から大宴会場でのサービス業務
 ・レストランウエディングなどでのサービス業務
◎各支店 ※店長候補として配属します
 ・ホールおよび会計業務
 ・売上や予算管理
 ・スタッフのシフト管理
 ・宴会のご案内 など
その他、キッチンカーの運営に携われる機会もございます。

対象となる方
★未経験・第二新卒歓迎★明るく楽しい雰囲気づくりが得意な方!何かしらのサービス経験をお持ちの方は即戦力としてお迎えします!

募集要項
 雇用形態 正社員
 勤務時間 10時~21時 【シフト制(実働7時間45分)】配属先部門によって異なります
 勤務地  ◎転勤なし
  本店:東京都千代田区日比谷公園1-2 
  東京ビッグサイト店:東京都江東区有明3-11-1 東京ビッグサイト 1F レストラン街
  東大工学部2号館店:東京都文京区本郷7-3-1 東京大学 工学部2号館1階
  学習院大学店・目白倶楽部:東京都豊島区目白1-5-1 学習院大学 中央教育研究棟12階
  立教大学セントポールズ会館店:
東京都豊島区西池袋3-34-1 立教大学 セントポールズ会館1階
  東京女子医大店・グリーンテラス:
東京都新宿区河田町8-1 東京女子医科大学総合外来センター3階
  杏林大学病院店・ガーデンテラス:
東京都三鷹市新川6-20-2 杏林大学医学部付属病院 外来棟6階
  横浜ジョイナス店:神奈川県横浜市西区南幸1-5-1 ジョイナス地下1階

給与
【月給】30万円~40万円+賞与年2回
 ※前職給与・経験・スキル・年齢等を考慮のうえ、決定します。
 ※賞与は業績に応じて支給します。
 ※試用期間3ヶ月あり(待遇面の変更はなし)
 ※上記には月42時間分の固定残業代(70,200円~)を含み、超過分は別途支給いたします。
 初年度の年収  400万円~550万円002
 昇給・賞与  昇給/年1回
 賞与/年2回  ※業績による
 諸手当  交通費全額支給
 休日・休暇  週休2日制(シフト休/月8日以上休み)
 有給休暇  慶弔休暇
 ★希望が通れば、日曜日や祝日も休暇取得可能です!
 福利厚生 各種社会保険完備
 健康診断(年1回) 国内研修 社割あり
 ⇒自社レトルト製品を社販価格で購入可能!自分用・ギフト用など、気軽に利用している社員が多数います!

マイナビ転職編集部より
 日比谷公園でレストラン事業を展開し、来年で創業120年を迎える松本楼。夏目漱石や高村光太郎、孫文などの著名人をも魅了した味とホスピタリティあふれるサービスは、今も世代を超えた支持を集めている。その松本楼の最大の強みは、そこで働く人たちのチームワークにある。連携しながらサービスの本質を極め、さらなる成長を目指したい方には理想的な職場だろう。未来志向の方は、ぜひ応募を検討していただきたい。

毎年4月2日の光太郎忌日、松本楼さんで開催していた連翹忌の集い。コロナ禍のため一昨年の第64回以来、開催できていません。来年こそは、と思っておりますが、またしてもBAナントカ変異株により、じわりじわりと感染が増加中。ほんとうにいいかげんにしてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

石塚友二氏等三人くる、デツサン一枚かす、南北と揮毫 雑誌表紙用、


昭和28年(1953)5月12日の日記より 光太郎71歳

石塚友二」は編集者。「南北」は石塚が関わって、この年9月に発刊した雑誌です。「デツサン」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のために描かれたもの。
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左は創刊号、右は昭和31年(1956)の第7輯。デッサンは同一ですが、光太郎揮毫の題字が異なります。こんな字も、なかなか書けそうで書けない字だと思います。

ちょいちょい話題にしておりました花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎、海を航る」。市のHPで詳細が公開されましたので、ご紹介します。

令和4年度高村光太郎記念館企画展「光太郎、海を航る」

期 日 : 2022年7月16日(土)~9月30日(金)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一 般 350円/高校生・学生 250円/小・中学生 150円

彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、明治39(1906)年から明治42(1909)年にかけてアメリカ、イギリス、フランスに留学しました。留学中、光太郎は現地の美術学校で彫刻やデッサンを学ぶ一方、農商務省の海外実業練習生として欧米の様々な応用芸術を調査していました。

本企画展では、留学中に差し出された手紙や執筆した散文を中心に紹介し、渡航で乗船した貨客船など、当時の海外渡航事情に関連した資料を併せて展示します。
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フライヤー裏面に紹介されている絵葉書は、一昨年、都内の方から寄贈されたものです。寄贈受け渡しの際には当方も同席、現物を拝見しましたが、驚きました。

まず、明治42年(1909)のものですから、100年以上経っている訳で、その点が一つ。そして何と言っても、宛先。光太郎実弟・道利宛なのですが、確認出来ている限り、道利宛の書簡はこれが初めての発見でした。

道利は光太郎のすぐ下の弟。高村家次男です。三女・しづと双子でした。光太郎より3歳年下の明治19年(1886)生まれなので、智恵子と同年です。
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左画像では、左から道利、しづ、光雲、光雲に抱かれているのは三男・豊周、そして光太郎。右画像は道利です。

光太郎もかなり変わった人物でしたが、道利は光太郎以上の変人と言われていました。東京外語学校を卒業したのですが、軍人になることを志望。しかし、父・光雲に反対されます。明治42年(1909)、留学から帰朝した光太郎が見るに見かね、翌年、神田淡路町に開設した画廊・琅玕洞の名目上の店主に据え、店番をやらせます。ところが道利は商売に対する熱意はまるでなく、あまっさえ、訪れた客に「あなたにこの絵の価値は分かりませんよ」などと言ったり、閉店時間になれば客がいようがいまいが照明を落としてしまったりしていました。そんなことも一因で、琅玕洞は経営が行き詰まり、わずか一年で譲渡されることになってしまいます。

さらに道利は、ドイツ語の個人教授をしていた近所に住む歌手・関鑑子と結婚したいと申し出ますが、これも光雲に却下されます。すると、半ば自暴自棄となり、大正10年(1921)頃、ふいっと渡欧してしまいました。しばらくは手紙が届いていたそうですが、やがて音信不通に。それが、光雲没後の昭和10年(1935)になって、フランスの日本大使館から、慈善病院のようなところに入院しているが、日本に送還するので引き取って欲しい、と高村家に連絡があり、光太郎が神戸まで迎えに行ったそうです。帰国後は豊周が家督を継いだ光太郎実家に住み、豊周から頼まれた翻訳などをしていたのですが、昭和20年(1945)、自宅敷地内に作った防空壕に誤って転落、それが元で亡くなりました。

寄贈された光太郎からの絵葉書。光太郎が欧米留学の最後に、ミケランジェロやダ・ヴィンチなどの作品を見ておこうと、約1ヶ月歩いたイタリア旅行中のものです。写真は、ローマのフォロ・ディ・トライアーノ。西暦紀元112年建設の公共広場です。

道利の住所は「横須賀要塞砲兵第二聯隊第三中隊四給養班」となっています。従来、道利が軍隊にいたという記録は確認できていません。徴兵されていたか、また「給養班」は将兵の食事を作る部署で、アルバイト的にここで働いていたのかも知れません。そういうことが可能だったのかどうか、当時の軍制に詳しい方、御教示いただければ幸いです。

寄贈されたこの絵葉書のお披露目が中心の企画展ですが、その他にも光太郎の海外留学等に関する資料がならびます。「そちらの所蔵品のうち、これこれを展示したらどうですか」という提案をさせていただきましたし、「こんなものを持っていますからご自由にお使い下さい」と、当方手持ちの資料もお送りしました。どの程度それが並ぶかわかりませんが、開幕の頃、行って観て参ります。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

余の作ピアノの手の鋳金持参の人あり、八王子の人といふ、余の作と確認す。誰かにかしたもの也。

昭和28年(1953)4月22日の日記より 光太郎71歳

問題のブロンズはこちらです。
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大正7年(1918)の作。ブロンズの代表作「手」と同時期のものです。

一昨日、横浜及び都内を歩いておりました。

まず、横浜の日本郵船歴史博物館さん。こちらでは、過日ご紹介した企画展「郵船文芸譚 -機関誌 『海運報國』をひもとく-」が開催されており、雑誌『海運報国』には光太郎も複数回寄稿していますので、光太郎関連の展示も為されているのではと思って拝見に伺いました。

10年前にもお邪魔し、その際は常設展示のみだったように記憶していましたが、それにしても10年経つか、と、ちょっぴり感慨にひたりました。
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常設展示の一角に、企画展「郵船文芸譚 -機関誌 『海運報國』をひもとく-」のコーナーという形でしたが、残念ながら、光太郎に関する展示はありませんでした。
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『海運報國』は文芸誌的な要素も含んでいました。このころ日本郵船の嘱託だった内田百閒の随筆をはじめ、船旅の思い出、海にまつわる掌編や、新造船披露航海の感想文など、作家や著名人による寄稿が誌面を飾りました。」という触れ込みだったので、そういうことなら光太郎は外せないだろ、と思っていたのですが……。

とりあげられていた文士等は、日本郵船さんの嘱託だった内田百閒をはじめ、宮城道雄、米川正夫、吉屋信子、岩田豊雄、津田青楓、西条八十、林芙美子、鈴木信太郎、辰野隆、小堀杏奴、深尾須磨子、田中貢太郎。それはそれで興味深く拝見しましたが……。

なぜここに光太郎の名がないのか、次のような理由が考えられます。

① 担当された方が光太郎の名を誌面に見つけたものの、「高村光太郎? 誰、それ? 知らん!」とスルー。
② 担当された方が誌面に光太郎の名を見つけたものの、「こいつは3流だから」とパス。
③ 担当された方が誌面に光太郎の名を見つけられなかった。
④ その他。


①、②であってほしくないものです(笑)。最も考えられるのは③かな、と。

ただ、④の可能性もなきにしもあらず。例えば、光太郎、『海運報国』には確認出来ている限り4回寄稿していますが、そのうち3回、「乏しきに対す」(第3巻第7号  昭18=1943 7/15) 、「決戦時生活の基礎倫理」(第4巻第1号  昭19=1944 1/15)、「神裔国民の品性」(第4巻第2号  昭19=1944 2/15)は、コッテコテの大政翼賛文。おそらく最初の寄稿の「海の思出」(第2巻第10号 昭17=1942 10/15)    は、戦争とはほとんど関係ないものの、日本郵船さんの船名を誤記していることなどが無視された原因かも知れません。

光太郎、明治42年(1909)5月、3年余に及ぶ欧米留学を切り上げ、イギリスのテムズ河口から日本郵船さんの「阿波丸」 に乗り込んで、帰国の途に就きました。当時書かれた文章にはちゃんと「阿波丸」と書かれています。ところが、約30年後に書かれた「海の思出」では「松山丸」と書いてしまいました。日本郵船さんには「松山丸」という船舶もありましたが、欧州航路で使われたものではありません。

ちなみに下記は光太郎が乗った「阿波丸」。最近手に入れた古絵葉書です。
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常設展示の方で、この手の昔の航路について、その歴史や背景などが詳しく説明されており、そちらも興味深く拝見いたしました。

追記、どうも『海運報国』ちがいのようでした。「『海運報国』の件、これは同タイトルの別雑誌と思われます。日本郵船歴史博物館で取り上げていたのは、日本郵船社内にある「郵船海運報国会」が発行した従業員向け機関誌で昭和14年5月創刊、18年3月号で廃刊。高村光太郎の著作が掲載されているのは「日本海運報国団」発行した『海運報国』。日本近代文学館の図書検索で確認したところ、こちらは昭和16年1月に創刊されたとあります。」とのコメントを頂きました。

上記絵葉書等、7月16日(土)から花巻高村光太郎記念館さんで開催される企画展「光太郎 海を航る」(仮称)で展示予定です。同展、今日付の『広報はなまき』で告知されているかな、と思ったのですが、ありませんでした。何だかなぁ……という感じですが……。また詳細が出ましたらご紹介します。

KIMG6381横浜を後に、都内へ。続いて向かったのは、九段下の昭和館さん。こちらは「昭和10年頃から昭和30年頃までの国民生活上の労苦を伝える実物資料を展示」ということで、主に戦時中のいろいろな品々を全国から寄贈を募り、展示している施設です。ただ、現在は映像、図書のみ寄贈を受け付けているそうです。

時間の都合もあり、展示は拝見しませんで、図書室に向かいました。こちらの図書室、なかなかのものです。開架でもかなりの数の図書がありますし、閉架(書庫)の蔵書数もすごいようです。そして、検索システムが素晴らしい!

特に利用者登録も必要なく、自宅兼事務所のPCからアクセスし、「フリーワード」の項に「高村光太郎」と入力、検索をかけると、目次に光太郎の名が記された資料がダーッと出て来ます。それだけなら他の館でもそうなのですが、こちらのシステムは、おのおのの図書の目次が詳細に表示されるのです。さらに「フリーワード」で入力した「高村光太郎」の文字がハイライト表示で、長い目次の中でもすぐに見つけられます。その意味では国会図書館さんの「デジタルコレクション」とよく似ています。ここまでやってくださると、研究者にとっては「ありがたい」の一言です。
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007ただ、国会図書館さんのそれとは異なり、デジタルデータでそのページを閲覧することは出来ませんので、出向いて閲覧するという訳です。そこで、事前に調べた結果、残念ながら『高村光太郎全集』未収録の光太郎本人の文筆作品等は見つかりませんでしたが、光太郎について書かれた諸家の文章等で未知のものがあり、閲覧、さらにコピーを取って参りました。

中には光太郎の似顔絵が入ったものも。昭和16年(1941)ですから、光太郎59歳。当時の光太郎にしては少し髪が多すぎるようにも思えますが(笑)。

昭和館さん、他にも映像・音響室なども充実しているようですし、通常の展示ももちろん拝見しようと思いますので、また機会を見つけて足を運ぼうと思いました。何かお調べになりたいという方、ぜひ当たってみて下さい。

一昨日は、もう1箇所廻ろうかとも思っていたのですが、またじわりとコロナ感染者数が上がってきましたし、加えて殺人的な暑さ。またの機会に致します。

【折々のことば・光太郎】

夜十時頃水谷八重子、草野心平、松竹の人三人くる、「智恵子抄」の事については再考を求める、十二時過辞去、承諾保留、


昭和28年(1953)4月18日の日記より 光太郎71歳

e28cae2a水谷八重子」は初代・水谷八重子。光太郎は遠く大正9年(1920)に、子役時代の水谷が出演した舞台「青い鳥」(メーテルリンク作)を観ています。その後、友人の田村松魚に送った葉書には「チルチルになつた子は大変声の美しい子でした。ちよいと抱いてやりたい気のする子でした」と書いています。

智恵子抄」は、光太郎とも交流のあった劇作家・北条秀司の脚本。結局、光太郎生前には舞台化は実現せず、初演は光太郎歿後の昭和32年(1957)でした。光太郎、自分が俳優によって演じられるのに難色を示したようです。光太郎訳は新派の大矢市次郎でした。

北条の「智恵子抄」は、水谷/大矢の後、富司純子さん/故・高島忠夫さん有馬稲子さん/故・高橋昌也さんでも公演がなされました。そして昨秋、「朗読劇 智恵子抄」として、一色采子さん、横内正さんでも。

また後ほど詳しくご紹介しますが、「朗読劇 智恵子抄」は、今秋、再演が決定しました。光太郎役は松村雄基さんだそうです。

まだ詳細情報が出ていないのですが、来月中旬の「海の日」に合わせ、花巻高村光太郎記念館さんで企画展示「光太郎 海を航る」(仮称)が開催されます。光太郎が明治末に約3年半の欧米留学をしたことに焦点を当てたもので、同館に寄贈された留学先から日本の家族に送られた絵葉書のお披露目的な意味合いもあります。詳細が出ましたら、またご紹介します。

そこで、光太郎の欧米留学(米英仏伊)、移動に使った船などについて、解説パネルを1週間で書けという依頼(半命令(笑))があり、鋭意執筆中です。10年前に高村光太郎研究会という学会で「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」という発表をさせていただき、翌年刊行の機関誌『高村光太郎研究』に同題の論考を載せていただいたので、そのあたりをベースに、という依頼でした。

10年前のこのブログにも要旨を載せてありますので、ご高覧下さい。

光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-③。
光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-④。
光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-⑤。
光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-⑥。
光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-⑦。
光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-⑧。


「新発見随筆「海の思出」」というのは、昭和17年(1942)の雑誌『海運報国』に載った比較的長いもので、筑摩書房『高村光太郎全集』には漏れていました。この中で光太郎、幼少期の海にまつわる思い出や、欧米留学時に載った船などについて、様々な事柄を語っています。これにより、それまでに知られていた文章等には記述がなかった様々な事実が明らかになりました。詳細は上記リンクから。

前置きが長くなりましたが(ここまで前置きだったのです(笑))、「光太郎 海を航る」の説明パネルを書くに当たって、またネットでいろいろ調べていましたところ、横浜の日本郵船歴史博物館さんでこんな企画展が先月から開催されていることを知りました。

企画展 郵船文芸譚 -機関誌 『海運報國』をひもとく-

期 日 : 2022年5月21日(土)~9月25日(日)
会 場 : 日本郵船歴史博物館 神奈川県横浜市中区海岸通3-9
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(祝日の場合は開館、翌平日休館)
料 金 : 一般400円 65歳以上・中高生250円 小学生以下無料

『海運報國』は、郵船海運報国会という日本郵船と表裏一体の組織が刊行した機関誌で、現代の社内報と同じ位置づけであったと考えられます。創刊は昭和14(1939)年5月、月一回の発行で毎号100ページ前後にまとめられました。戦時色が深まる中、目次には社会情勢を反映したタイトルが並びます。一方、『海運報國』は文芸誌的な要素も含んでいました。
このころ日本郵船の嘱託だった内田百閒の随筆をはじめ、船旅の思い出、海にまつわる掌編や、新造船披露航海の感想文など、作家や著名人による寄稿が誌面を飾りました。社員による投稿も短歌、俳句、詩、研究論文や趣味の話まで、号を重ねるごとに賑わいを見せました。
本展は『海運報國』の特に文芸誌的な側面に焦点をあて関連資料とともに展観いたします。一見交わることがなさそうな「郵船」と「文芸」、この二つの接点を見出していただければ幸いです。
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船旅の思い出、海にまつわる掌編」には、光太郎の「海の思出」も含まれるわけで、もしかすると執筆者紹介的なコーナーなどで光太郎や「海の思出」に関するパネル展示があるかも知れません。

また、『海運報国』への光太郎の執筆は他にもあります。確認出来ている限りでは、以下の通りで、すべて散文です。

第2巻第10号 昭17(1942)/10/15  「海の思出」
第3巻第7号  昭18(1943)/7/15     「乏しきに対す」
第4巻第1号  昭19(1944)/1/15     「決戦時生活の基礎倫理」
第4巻第2号  昭19(1944)/2/15     「神裔国民の品性」

「海の思出」以外の3篇は、「戦時色が深まる中、目次には社会情勢を反映したタイトルが並びます。」とあるそのものです。

来週というか今週というか、3日後くらいに他にも都内で調査に訪れようと思っている場所がありますので、横浜まで足を延ばして来ようと思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夕方中西さん宅にスツポン問屋の村上氏料理人をつれてくる、柳沢博士らと会食、生血とキモをのむ、

昭和28年(1953)3月25日の日記より 光太郎71歳

中西さん」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借りていた貸しアトリエの大家で、同じ敷地内でした。

柳沢博士」は柳沢文正。医師で、柳沢成人病研究所の所長でした。「スツポン問屋の村上氏」は、おそらく現在も続く上野の「村上スッポン本舗」さんの関係と思われますが、詳細不明です。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

ちなみに当方、一度だけスッポンの生き血、賞味したことがあります。生き血といっても血液をそのまま呑むのではなく、日本酒に溶かしたものでした。

昨日に続き、花巻ネタです。

一昨日のNHKさん盛岡放送局のローカルニュースから。

街にベゴニアを 花巻農業高校の生徒と親が飾り付け

  まちを訪れる人を花で迎えようと、花巻農業高校の生徒と親などがベゴニアの花を駅や観光スポットに飾りました。
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花巻農業高校はこの取り組みを毎年、この時期に行っていて、まちの名物にもなっています。平成5年から始まり、ことしで30回目となりました。
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高校ではことしも3年生と親などあわせて50人余りが集まり、赤や白、ピンクの花をつけたベゴニアおよそ500株をプランターに植え、トラックに積み込んで市内の駅や観光スポットなどに運びました。
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ベゴニアは生徒たちが育てたもので、180個余りのプランターに植えられて市内の観光スポット13か所に飾られました。
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このうち「高村光太郎記念館」では、入り口にある案内板の下に並べられました。
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また観光客が多く利用するJR新花巻駅にも飾られました。花はこのあと11月はじめごろまで咲いて観光客を迎えます。
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3年生の女子生徒は「2月に種をまき、丁寧に育ててきた花を見て観光客が興味をもってもらえればと思います」と話していました。
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参加した父親の1人は「今まではコロナで外出を控える人も多かったですが、これから少しずつ外に出る機会が増えると思います。生徒が一生懸命、育てた花なので、きれいだなと思ってくれるとうれしいです」と話していました。
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頭が下がります。

花巻農業高校さんといえば、宮沢賢治が奉職していた花巻農学校の後身。そうした意味では賢治の没我利他的精神が根付いているのかも知れません。

また、コロナ禍前は、旧太田村で毎年5月15日(昭和20年=1945、光太郎が疎開のため花巻に向けて東京を発った日)に行われていた高村祭で、同校鹿踊り部の生徒さんたちが勇壮な舞を披露して下さっていました。
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またよろしくお願いしたいものです。

【折々のことば・光太郎】

盛岡の学校に祝電

昭和28年(1953)3月13日の日記より 光太郎71歳

盛岡の学校」は、岩手県立美術工芸学校。現在の岩手大学さん、岩手県立大学盛岡短期大学部さんなどにその流れが受け継がれています。光太郎と親交のあった美術史家・森口多里が校長を務め、同じく光太郎と親交のあった舟越保武、深沢省三・紅子夫妻などを教授陣に迎え(光太郎を名誉教授に、という話もありましたが光太郎自身が辞退しました)、岩手の美術教育振興に多大な足跡を残しました。

花巻郊外旧太田村在住時代の光太郎、たびたび同校を訪れて講演等を行ったり、都合が許せば卒業式などにも列席したりしていました。再上京後もそのつながりは続き、この日は卒業式へのメッセージの電報を送信しました。

現物が残っています。
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定期購読させていただいている『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』の第31号が届きました。前号で5周年となったのを機に、今号からいろいろと変更が。

まず、判型。これまでA5判だったものが、一回り大きくなりました。下の画像、左が今号、右が前号です。
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それから、これまで隔月刊で年6回発行だったものが、年4回となるそうで、いわば季刊への変更ということでしょう。今号はタイトル(ロゴも変更され、サブタイトルも「花巻まち散歩マガジン」から「花巻散歩」になりました)の下に「2022.SUMMER」とあります。総ページ数は32ページ、これまでと変わりません。定価も500円で据え置きです。
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特集1は賢治関係、特集2は、先頃NHKさんの「ふるカフェ系 ハルさんの休日▽岩手・花巻〜宮沢賢治が愛した花壇をめでるカフェ」で紹介された、茶寮かだんさんです。
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創刊号から連載されてきた「光太郎レシピ」も健在。昭和20年(1945)から堂27年(1952)にかけて、光太郎が花巻及び郊外旧太田村に住んでいた間の日記や書簡、周辺人物の証言等から、光太郎が作ったメニューを割り出し、現代風にアレンジするというコンセプトです。

今号は「花わさびのおむすびとわらびと山菜の天ぷら」。
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天ぷらのレシピがこちら。
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天ぷらはこの季節、夏バテ予防にもいいかもしれませんね。

メニューの考案、調理等に当たられているやつかの森LLCさんは、同様に光太郎日記等からのアレンジで手がけられているのが、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」。道の駅テナントのミレットキッチン花(フラワー)さんの商品です。

今月分はこちら。
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ニラ炒飯、豆ご飯、豚肉とみず(山菜)の煮込み、鮭の昆布巻き、じゅんさい、塩麹卵焼き、抹茶饅頭、お新香だそうで。

少し前にはくり返しラジオ番組で取り上げて下さっていました。さらにテレビ等の取材も入るとありがたいところですね。

さて、『マチココ』さん、花巻市内各所の協力事業所等で販売されている他、最近は盛岡市、北上市の書店さんなどでも取り扱っているようですし、オンラインで年間購読申し込みもできます。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

朝北川太一氏余の誕生祝とてイセエビ3尾持参、


昭和28年(1953)3月12日の日記より 光太郎71歳

光太郎誕生日は明治16年(1883)3月13日。満70歳となりましたが、この項、慣例により数え年で表記し、年齢加算もその年の元日としています。そこで「光太郎71歳」です。

当会顧問であらせられた、故・北川太一先生、伊勢海老3尾とは豪勢な(笑)。グッジョブですね(笑)。

2件ご紹介します。

まず今朝の『朝日新聞』さん。一面コラム「天声人語」、枕の部分に光太郎の名。

(天声人語)ノーヒットノーラン

詩人室生犀星が若かりし頃、高村光太郎はいつも一歩先にいる存在だった。自分では手が届かないような高名な文芸誌に、常に詩が掲載されている高村という若者がいる。名前を見るたび嫉妬を覚えたという▼「誰でも文学をまなぶほどの人間は、何時(いつ)も先(さ)きに出た奴(やつ)の印刷に脅かされる」と『我が愛する詩人の伝記』に書いている。脅かしたその人は生涯の好敵手となった。詩の世界でも競い合いの中に成長がある。ましてスポーツの世界では▼オリックスの山本由伸投手(23)が四球を一つ許しただけのノーヒットノーランを成し遂げた。きのうの紙面によると、ロッテの佐々木朗希投手(20)が4月に達成した完全試合に刺激された結果でもあるという▼山本投手は国際試合でも日本代表を引っ張る存在で、もともとは佐々木投手の方が刺激や教えをを受ける側だった。シーズンオフに自主トレーニングをともにし、山本投手を質問攻めにしたと本紙デジタル版が伝える。チームを越えた切磋琢磨(せっさたくま)がある▼今期の無安打無得点はこれで4投手目となり、一つのシーズンとしては1943年以来の記録という。1人の偉業が次の呼び水になる。そんな現象は日本陸上界の100㍍走でも数年前に見られた。長年の課題だった「10秒の壁」を破る選手が1人、また1人と続いた▼刺激という言葉を解剖すれば、憧れや驚き、あるいは嫉(ねた)みなど様々な要素があろう。誰かの成功をエネルギーとするためには自分のなかに確かなエンジンがいる。

犀星の『我が愛する詩人の伝記』、元版は昭和33年(1958)の刊行です。元々は雑誌『婦人公論』の連載で、その際に添えられていた濱谷浩の写真(同年、『詩のふるさと』として刊行)を一冊にまとめた『写文集 我が愛する詩人の伝記』が昨年刊行されましたし、平成28年(2016)に出た講談社文芸文庫版も健在のようです。
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「天声人語」にあるとおり、無名時代の犀星は6歳年長の光太郎を過剰に意識し、嫉妬を覚えていたようです。近くの田端に住んでいた犀星が、駒込林町の光太郎アトリエの前を通るたび……

千駄木の桜の並木のある広いこの通りに光太郎のアトリエが聳え、二階の窓に赤いカーテンが垂れ、白いカーテンの時は西洋葵の鉢が置かれて、花は往来のはうに向いてゐた。あきらかにその窓のかざりは往来の人の眼を計算にいれたある矜(ほこり)と美しさを暗示したものである。千九百十年前後の私はその窓を見上げて、ふざけてゐやがるといふ高飛車(たかびしや)な冷たい言葉さへ、持ち合すことのできないほど貧窮であつた。かういふアトリエに住んでみたい希(のぞ)みを持つたくらゐだ。四畳半の下宿住ひと、このアトリエの大きい図体の中にをさまり返つて、沢庵と米一升を買ふことを詩にうたひ込む大胆不敵さが、小面憎かつた。

ただ、以前にも書きましたが、『我が愛する……』では光太郎をディスりまくりの犀星に、光太郎を手放しで称賛する文章もあり、光太郎に対する見方は一筋縄ではいきません。

「天声人語」では、「脅かしたその人は生涯の好敵手となった。詩の世界でも競い合いの中に成長がある。」としていますが、一方の光太郎の方は、犀星など歯牙にも掛けていなかった、というより、そもそも光太郎は詩でも彫刻でも、誰かをライバル視し、ともに切磋琢磨しようという姿勢はほとんど見られませんでした。「人は人、自分は自分」みたいな。唯一例外的だったのは、彫刻家・碌山荻原守衛。しかし守衛は早世してしまいました。

さて、山本投手と佐々木投手、今後とも活躍を続けていただきたいものです。

も1件、先週の『読売新聞』さん文化面。やはり光太郎が本題ではありませんで、こちらは例えとしての引用のような形でしたが、光太郎の名を出して下さいました。

[書 2022]2氏それぞれの「すごい線」

 コロナ感染が落ち着いてきたからか、4月ころから書道展が活発になり、関西ではトップクラスの書家2人の個展が相次いだ。「書はつまるところ線」とはよく言ったもので、2氏の「すごい線」を堪能した。
(略)
 もうひとつの個展は「吉川蕉仙の書 Ⅱ」(4~5月)で、京都で開かれた。7年前に続く2回目の個展で、前回個展以降、日展、読売書法展、現代書道二十人展などに発表してきた作品群と近作との2部構成。吉川さんは現代を代表する王羲之書法の実践者で、数種類に分けられる羲之書のなかでも芯が強く、無骨な気分のものを好む。蘭亭序ならさまざまな模本のうち欧陽詢(おうようじゅん)が臨模したとされる定武本が好みで、本欄で前回掲載した神龍半印本などは「表情や変化が過ぎる」と敬遠する。
 今回の展示は文字造型を締める羲之ベースの作品と、池大雅に学んだのか、字形を解き放ち、懐を広げてみせるおおらかな書風とに大別できた。ただ双方に共通するのは「すごい線」から生じる「力が内にこもっていて騒がない」(高村光太郎)気分だろう。「だからこそ王羲之を攻める。ごくあたりまえの字を書いて、深さを、あるいは確かさを出していく」と言う。これを本格の書と呼ばずして何だろう。
 ここでは「あたりまえの字」として韓愈(かんゆ)(唐)の詩の一節を書いた作品を掲載する。「朝に出でゝ耕し、夜帰りて古人の書を読む。尽日(じんじつ)息(いこ)うことを得ず」

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引用されている光太郎の言葉は、昭和14年(1939)の雑誌『知性』に寄せた「書について」という文章の一節です。光太郎の書論として、あるいは一人光太郎に限らず、近代を代表する書論として有名なものですね。

書はあたり前と見えるのがよいと思ふ。無理と無駄との無いのがいいと思ふ。力が内にこもつてゐて騒がないのがいいと思ふ。悪筆は大抵余計な努力をしてゐる。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。良寛のやうな立派な書をまねて、わざと金釘流に書いてみたりもする。

この一節、書道に限らずあらゆる芸術の分野にあてはまるような気がします。彫刻や絵画などの美術、いわゆる現代アート、建築、さらには音楽、文芸、演劇、朗読等々……。それから料理でも、「ナントカソース添え」などで、せっかくの素晴らしいであろう素材の味がまったく消されてしまっているものなども。「大抵余計な努力をしてゐる。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。」その通りですね。

ちなみに同じ「書について」の中で、光太郎、記事にある王羲之についても言及しています。

羲之の書と称せられてゐるものは、なるほど多くの人の言ふ通り清和醇粋である。偏せず、激せず、大空のやうにひろく、のびのびとしてゐてつつましく、しかもその造型機構の妙は一点一画の歪みにまで行き届いてゐる。書体に独創が多く、その独創が皆普遍性を持つてゐるところを見ると、よほど優れた良識を具へてゐた人物と思はれる。右軍の癖というものが考へられず、実に我は法なりといふ権威と正中性とがある。

偏せず、激せず、大空のやうにひろく、のびのびとしてゐてつつましく」。万事そうありたいものですね。

【折々のことば・光太郎】008

藤島さんきて写真撮影、これは骨組、土つけの順序を参考にのこすため、


昭和28年(1953)3月11日の日記より
 光太郎71歳

藤島さん」は当会の祖・草野心平主宰の『歴程』の詩人・藤島宇内。写真撮影を趣味としており、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作過程をいろいろと撮影してくれていました。

おそらくこの日の前後に撮られたのが右の写真。レントゲン写真のように骨組みが映っていますが、定点にカメラを据え、別々の日に撮影した骨組みと本体の写真を多重露光して撮影したか焼き付けたかしたと考えられます。

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