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光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんより、画像を頂きました。同社でメニュー考案にご協力なさり、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分です。猫の七福神が宝船に乗って、正月らしさを演出していますね(笑)。
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お品書きは、赤飯、白米、焼き鮭、豚肉のトマトケチャップ煮、とろろ芋の酢醤油ブロッコリー添え、赤かぶの酢漬け、塩麹入り卵焼き、デザートはパイナップルの罐詰とリンゴのコンポートだそうです。

赤飯に白米で紅白の彩り。なるほど。豚肉のトマトケチャップ煮には人参と玉葱、もち麦が入っているそうです。

毎月のことですが、光太郎日記からの引用文等を印刷したリーフレットもついています。これで税込み800円とのこと。

毎月のメニューの考案も中々大変だと存じますが、末永く愛され続けて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】000

ひる頃草野心平氏くる、写真アルバムについての質問いろいろ、今宿屋にかんづめの由、

昭和31年(1956)2月19日の日記より
 光太郎74歳

写真アルバム」は筑摩書房発行の『日本文学アルバム 高村光太郎』。前年から当会の祖・草野心平が編集、解説文の執筆にあたり、光太郎が歿しておよそ2週間後の4月20日に刊行されました。心平、何としても光太郎存命中に仕上げたかったようで、「宿屋にかんづめ」。その甲斐あってか、光太郎が歿する2日前にゲラを見せることができたそうです。

年末年始の新聞から、光太郎智恵子の名が載った記事、3件ご紹介します。

まず青森県の地方紙『陸奥新報』さん。俳句を紹介するミニコラムで、12月25日(日)の掲載でした。

冬野ゆく歩幅を父の鼓動とし(泉 風信子)

「歩幅」は目標へ向う意志である。父への共鳴でもある。冬野という厳しい世界を生きていく男の宿命でもある。高村光太郎の詩のフレーズが思い浮かんでくる。
 句集『遠花火』より。

句の作者、故・泉風信子(いずみ・ふうしんし)氏は、元同社常務取締役。青森県現代俳句協会会長などを歴任されたそうです。少年時代にはかの寺山修二と親交が深かったとのこと。

言わずもがなですが、「高村光太郎の詩のフレーズ」は、詩「道程」の「ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ」でしょう。

続いて『読売新聞』さん。12月28日(水)夕刊の一面コラム。

よみうり抄

高村光太郎の「花のひらくやうに」という詩にある。<ねむり足りて/めざめる人/その顔幸(さいはひ)にみち…>◆100年余り前に書かれた一節に現代人の理想が重なる。睡眠の質の向上をうたう乳酸菌飲料、スマホのアプリを使った睡眠改善プログラム…今年の話題に「睡眠市場」の活況があった◆高齢者の不眠を取り上げた数年前の記事で、専門家が語っていたのを思い出す。「治ることをあきらめることで、治ることもある」。現状を受け入れることで辛(つら)さから解放される不眠もある、と◆この1年の集大成として今がある。老化に孤独、意に沿わぬ待遇、子供の成績不振――仕事納めの職場を後にした道すがら、身辺の諸事に思いをめぐらせた方もあろう。こんなとき、先の言葉は役に立つ◆心の中の耳朶(じだ)に響く異論もある。努力と工夫で眠りが足りるに越したことはないではないか。万民が現状を受け入れるなら、政治家は要らなくなる。頷(うなず)きつつ思う。詮ないこだわりの「仕分け」を進め、新鮮な気分で年を越してみたい。
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引用されている「花のひらくやうに」は、大正6年(1917)元日発行の雑誌『感情』に掲載されたものです。

   花のひらくやうに

 花のひらくやうに
 おのづから、ほのぼのと
 ねむり足りて
 めざめる人
 その顔幸(さいはひ)にみち、勇にみち
 理性にかがやき
 まことに生きた光を放つ
 ああ痩せいがんだこの魂よ
 お前の第一の為事(しごと)は
 何を措いてもようく眠る事だ
 眠つて眠りぬく事だ
 自分を大切にせよ
 さあようく
 お眠り、お眠り

前半の睡眠の質云々はともかく、最後のあたり「万民が現状を受け入れるなら、政治家は要らなくなる。」が、この詩とどう結びつくのか、魯鈍な当方の頭脳ではさっぱり理解出来ません。

「万民よ、現状を受け入れて、政治家が不要な世の中にしようじゃないか」ということでしょうか? それとも、「万民よ、四の五の言わずに政治家の言うことに従いなさい」ということでしょうか。

最後に『毎日新聞』さん。1月4日(水)の掲載でした。

「東京には屋根がある」小池知事、太陽光推進呼びかけへ

000 小池百合子都知事は2022年12月28日、毎日新聞のインタビューに応じ、戸建て住宅への太陽光パネル設置について「機運の醸成に努めていく」と、他の道府県にも推進を呼びかけていく考えを示した。主な一問一答は以下の通り。
◇「見える化」で行動変える
 ――太陽光発電の推進は、他県にもノウハウを広げる考えはあるか。
◆10年くらい前に自宅に太陽光パネルを付けた。面白いのは、(電力消費の)「見える化」をすると生活が変わる。どの部屋の明かりを消すと、どのくらい(消費電力量が)下がるかと(考えるようになる)。大きく行動を変える。
 実は1970年代のオイルショックの頃、太陽光パネルは日本がリードして進めた技術だった。環境相の頃に補助金を予算要望したが、認めてもらえなかった。今振り返ると、気候変動についてはまさにあの時が分かれ目で、もっとやるべきだったと思う。
 なぜこの国が無理して南進して戦争に陥ったかというと、エネルギーがなかったからじゃないですか。それから状況は変わっていない。再生エネルギーは一つの選択肢。ましてや原発の問題がある中で。
 「智恵子抄」で「東京に空が無い」という言葉が有名だけれども、「東京には屋根があって、空いてるじゃないか」と強く言いたい。
 太陽光発電を付けることは防災の観点からも有効だ。近隣県との共同メッセージや、全国知事会での呼びかけなどで機運の醸成に努めていく。

◇気候変動、一気にギアを
 ――これまで知事として脱炭素化に取り組んできた。改めて、どういう東京にしたいか。
◆今、強めるところは何かというと、やはり気候変動とエネルギー不足。一気にギアを(上げて)ふかす。意志を持ってやらないといけない。その意志の源泉は何かというと、安心・安全で、世界から選ばれる街を作るということだ。
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このインタビューに対し、ツィッター上などでは、得意の論点ずらしやご飯論法を駆使し、ネトウヨが噛みついています。政府が「原発ありき」の原子力村の片棒を担いでいる現状ですから、ネットサポーターたるネトウヨにとって反原発、再生可能エネルギー推進派は国賊に同じ、という理屈ですね。

やはりツイッター上で、「本来、これは国がやるべき施策なのでは?」という至極まっとうな書き込みもありました。太陽光、こうした場合には無害で、しかも膨大なエネルギー量がほぼ無限に降り注いでいるのに、それを有効活用しない手は無いように思われますが、原子力村の村民たちには認めがたいのでしょう。

原子力に関しては、光太郎存命中の1950年代からすでに「平和利用」という「神話」が提唱され、太平洋戦争中に大本営発表にまんまと乗せられた光太郎、性懲りもなくまたうかうかとそれに乗ってしまいました。最晩年の詩「新しい天の火」、「生命の大河」(下記参照)などでそうした発言が見られます。そうした点は当方も絶対に許せません。

莫大な費用を費やしての、原子力船むつや高速増殖炉もんじゅの大失敗、東海原発での臨界事故、そしていまだ解決のめどすら立たない福島第一原発のメルトダウン、それを「アンダーコントロール」と言い放つ無節操……何度過ちを繰り返せば気が済むのでしょうか……。

【折々のことば・光太郎】

よみうりの人玄関まで、詩稿を渡す、


昭和30年(1955)12月20日の日記より 光太郎73歳

「詩稿」は、上にも書いた「生命の大河」。前日に書かれたもので、NHKさんの依頼による「お正月の不思議」とともに、光太郎最後の詩となりました。

  生命の大河

 生命の大河ながれてやまず、
 一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて
 ごうごうと遠い時間の果つる処へいそぐ。006
 時間の果つるところ即ちねはん。
 ねはんは無窮の奥にあり、
 またここに在り、
 生命の大河この世に二なく美しく、
 一切の「物」ことごとく光る。

 人類の文化いまだ幼く
 源始の事態をいくらも出ない。
 人は人に勝とうとし、
 すぐれようとし、
 すぐれるために自己否定も辞せず、
 自己保存の本能のつつましさは
 この亡霊に魅入られてすさまじく
 億千万の知能とたたかい、
 原子にいどんで
 人類破滅の寸前にまで到清した。

 科学は後退をゆるさない。007
 科学は危険に突入する。
 科学は危険をのりこえる。
 放射能の故にうしろを向かない。
 放射能の克服と
 放射能の善用とに
 科学は万全をかける。
 原子力の解放は
 やがて人類の一切を変え
 想像しがたい生活図の世紀が来る。

 そういう世紀のさきぶれが
 この正月にちらりと見える。
 それを見ながらとそをのむのは
 落語のようにおもしろい。
 学問芸術倫理の如きは
 うづまく生命の大河に一度は没して
 そういう世紀の要素となるのが
 解脱ねはんの大本道だ。

福島県郡山市にある老舗デパート、うすい百貨店さんで本日から始まるイベントです。

いいもの・たくさん・集マルシェ 旅するふくしま物産展

期 日 : 2023年1月5日(木)~1月11日(水)
会 場 : うすい百貨店 10階催事場 福島県郡山市中町13-1
時 間 : 10:00~18:30(最終日は午後5時閉場)

浜・中・会津の魅力が大集合! 
主催:福島県 共催:(公財)福島県観光物産交流協会
いずれの商品も売切れの際はご容赦くださいませ。お電話でのご注文はご容赦願います。交通事情により商品が入荷しない場合があります。
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008福島の百貨店で、福島の物産展。まさに「地産地消」ですが、一口に「福島」と言ってもかなりの面積(47都道府県中、堂々の第3位)ですし、太平洋沿岸の「浜通り」、西部の山中「会津」、そして智恵子の故郷・二本松を含む中央部「中通り」と、それぞれに文化や習俗も異なります。そういう意味では同じ県内でも「こんなものがあったのか」という状況になるのではないかと思われます。

調べてみたところ、昨年から既に始まっていました。10月に会津の「道の駅あいづ」さんで、11月には浜通りで「道の駅なみえ」さんでの実施でした。で、今回が最終、中通りでの開催となるわけですが、百貨店さんが会場のため、折り込みチラシが発行され、ネットにもアップされたため、当方の検索網に引っかかりました。

検索網に引っかかったのは、「ほんとの空」の語。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来です。

安達太良山中にあるチーズケーキ工房風花さんの商品も販売され、その中に「ほんとの空のクリームソーダ 1杯 650円」。令和2年(2020)に商品化されたもので、「ほんとの空と言われる、安達太良の空。そんな空をイメージしたソーダができました。どこまでも青い空を映したような「あおぞらソーダ」爽やかなアップルソーダです。バニラアイスはまるで空に浮かぶ雲のよう。溶かしながら色の変化も楽しめます。植物由来の着色料を使った青色です。」だそうで。
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お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

テレビは機械持参したしとの事ゆゑ断る、延期して録画にしてもらふこと


昭和30年(1955)11月11日の日記より 光太郎73歳

テレビ」は、撮影です。親しかった美術史家の奥平英雄との対談を放映したいという申し出がありましたが、当時は生放送が主流で、そうなると大量の機材を貸しアトリエに運び込んで中継ということになり、それは困る、ということでした。で、一旦は、録画なら、ということになったものの、それも実現せず、結局、光太郎が生前にテレビ出演することはありませんでした。

期日的には少し先の話ですが、〆切りの日程が迫っておりまして……。

令和4年度高村光太郎記念館講座「光太郎のそば粉おやつ教室」

期 日 : 2022年1月29日(日)
会 場 : 花巻市生涯学園都市会館(まなび学園) 岩手県花巻市花城町1-47
時 間 : 午前10時30分から正午 まで
料 金 : 1,000円程度(材料代、保険料)
対 象 : 花巻市在住の小学生とその保護者5組(抽選)
       注)きょうだいなどの場合は1名まで同行できます
締 切 : 1月6日(金)
申 込 : 定員をこえる場合は抽選となります。
      定員に達しない場合は、定員に達するまで引き続き募集いたします。
      次のいずれかの方法でお申し込みください。
      花巻市生涯学習課(0198-41-3587)へお電話ください。
      専用申込フォームへアクセスし、必要事項をご入力のうえ、ご送信ください。

高村光太郎にちなんだおやつを親子で作る講座です。そば粉を使ったカップケーキを作り、光太郎と食について学びます。

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現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の関連行事です。

光太郎が昭和20年(1945)秋から、花巻郊外旧太田村の山小屋で始めた蟄居生活。光太郎は、米よりも入手しやすいそば粉を使ってパンを作ることを思いつきます。味噌を加え、重曹をいれて焼いてふくらませ、もらい物のバターや黒蜜などをつけて食べてみると、なんとも美味しかったようで、繰り返しこれを作って食べていました。

講師はやつかの森LLCの皆さん。道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」や、花巻のタウン誌『花巻散歩Machicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」のメニュー考案をなさっている方々です。それらでもそば粉のパンは取り上げられていました。

対象は花巻市内ご在住の方に限るようですが、他の自治体等の皆さん、こういう取り組みもあるよ、ということで、ご参考までに。

明日もグルメ系の話題をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

宮崎丈二氏くる、「花霞」売出しの木版びらを持参、大正十二年のものらし、

昭和30年(1955)11月6日の日記より 光太郎73歳

宮崎丈二」は詩人。この頃、よく光太郎が起居していた貸しアトリエを訪れていました。「「花霞」売出しの木版びら」は、関東大震災直後、光太郎が智恵子の実家の福島長沼酒造から銘酒「花霞」を取り寄せ、にわか酒屋を始めた際に撒かれたものです。

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宮崎がどうやってこんな古いものを入手したのか、そのあたりは謎ですが。

今年一年を振り返る企画、最終回です。

10月4日(火)
若松英輔氏著『言葉を植えた人』が亜紀書房さんから刊行されました。「かたちの詩人――舟越保武」という項で光太郎に触れられています。
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10月5日(水)
当会から会報的な『光太郎資料』第58集を発行いたしました。

10月7日(金)
当会の祖・草野心平が創刊した詩誌『歴程』編集発行人で日本現代詩人会元会長の詩人・新藤凉子氏が亡くなりました。

10月8日(土)~12月11日(日)
千葉県市川市の市川市文学ミュージアムさんで、「月に吠えらんねえ展<ようこそ!おもひ まぼろし ことだまの街へ>」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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10月9日(日)~11月8日(火)
神奈川県鎌倉市のカフェ兼ギャラリー笛さんで「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その9」が開催されました。関連行事として10月16日(日)には朗読会も催されました。

10月11日(火)
心とカラダを整える おとなのための1分音読CDブック』が自由国民社さんから刊行されました。俳優の平田満氏による「道程」の朗読も含まれています。
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10月19日(水)~11月10日(木)
埼玉県東松山市の市民文化センターさんで、「彫刻家 高田博厚展2022」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。

10月20日(木)~11月21日(月)
岩手県花巻市の土沢カフェくるみさんで、「器と楽しむ光太郎ランチ」展が開催され、michino氏の色鉛筆画が展示されました。
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10月22日(土)~2023年1月29日(土)
文京区立森鷗外記念館さんで「特別展 鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」が開催され、新発見の光太郎から鷗外宛書簡が展示されました。
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10月25日(火)~10月30日(日)
大阪府豊中市の日本民家集落博物館さんで、「第28回游心会書道展-智恵子抄を中心に-高村光太郎の世界」が開催されました。

10月27日(木)~11月8日(火)
福島県二本松市の智恵子生家/智恵子記念館さんで「智恵子記念館開館30周年記念事業」が行われ、紙絵実物展示、生家二階部分特別公開、そして智恵子が着る予定だった花嫁衣装の特別展示が行われました。
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10月27日(木)~11月1日(火)
石川県金沢市の文化ホ-ル展示ギャラリーさんで「教材としての芸術資料 ー金沢美術工芸大学所蔵の工芸優品選ー 新キャンパス移転プロモーション展」が開催され、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周の作品が展示されました。

11月1日(火)~2023年3月31日(木)

福岡県柳川市の北原白秋生家・記念館さんで「北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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11月2日(水)~11月6日(日)
文京区の旧安田楠雄邸で、「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」が開催されました。

11月6日(日)
えつ子とまき子のコンサート 2022秋」が中央区の王子ホールさんで開催され、朝岡真木子氏作曲の「「智惠子抄」より 」あどけない話・レモン哀歌が演奏されました。歌唱は清水邦子氏、ピアノは朝岡氏でした。
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11月7日(月)・11月8日(火)
シャンソン系歌手モンデンモモさんのコンサート「新・智恵子抄 智恵子飛ぶ」が渋谷区のアコスタディオさんで開催されました。

11月8日(火)
文京区のBON ARTさんで朗読系の公演「満ちてゆく秋の午後 IN BON ART & 霜月 満月 一日遅れの誕生日」があり、仏訳『智恵子抄』の『Poèmes à Chieko』から、「山麓の二人」が朗読されました。
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11月8日(火)~11月21日(月)
茨城県水戸市の茨城大学図書館さんで、「茨城大学五浦美術文化研究所所員企画展2022 「つなぐ人 つなぐ文―手紙に「見る」そのひとらしさ―」が開催され、光太郎書簡が展示されました。

11月10日(木)
中央区の三越劇場さんで「朗読劇 智恵子抄」公演が行われました。昨年上演されたものの再演で、智恵子役が一色采子氏、光太郎役は松村雄基氏でした。11月13日(日)には、二本松市安達文化ホールさんで福島公演も行われました。
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11月12日(土)
京都市の本屋ともひさしさんで「茶子 TeaTime 小さな朗読会 ~2022 秋~」が開催され、「智恵子抄」中の詩篇朗読がありました。

11月12日(土)~12月3日(土)
京都市の知恩院さんで「秋のライトアップ2022」が行われ、光雲作の聖観音像のライトアップも為されました。
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11月12日(土)~12月25日(日)
和歌山市の和歌山県立美術館さんで「ニッポンの油絵 近現代美術をかたち作ったもの」展が開催され、光太郎油絵「佐藤春夫像」が出品されました。
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11月17日(木)
大分市のiichiko音の泉ホールさんで、コンサート「「智恵子抄」~智恵子と高村光太郎の生涯をたどって~」が行われ、清水脩氏作曲の「歌曲集「智恵子抄」(全曲)」が、三人の歌手の皆さんによって演奏されました。

11月20日(日)
『日本経済新聞』さんが、「美の粋 パンの会 文学との響き合い(下) 高村光太郎、作家の主観を重視 メンバーの間で「生の芸術」論争」という2面ぶち抜きの大きな記事を掲載して下さいました。

同日、兵庫県神戸市の日本基督教団神戸聖愛教会さんで、「やすらぎコンサートin神戸 癒しの響き 鐘シンフォニー(和編鐘)への誘い」が開催されました。和編鐘・有機音氏、朗読・大山りえ氏による「智恵子抄より 「愛はすべてをつつむ」抜粋版」がプログラムに入れられ、当方が「光太郎智恵子と神戸」と題し講話を行いました。
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11月23日(水・祝)~2023年3月21日(火・祝)
花巻市の花巻高村光太郎記念館さんで、企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」が開催中です。

11月26日(土)
文京区のアカデミー千石さんで第65回高村光太郎研究会が開催されました。発表は「彫刻家 高村光太郎」西浦基氏、「旧居アトリエと智恵子抄ゆかりの田村別荘(その変遷と間取りについて)」安藤仁隆氏でした。
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12月4日(日)
鳥取県日野郡日南町の日南町総合文化センターさんで、「Art train 2022『藝術列車』プレイベントVol. 0.5」が開催され、シャンソン系歌手モンデンモモさんによる「舞踊音楽劇 文藝ビジュアル『智恵子飛ぶ』」がプログラムに入れられました。
 
12月8日(木)
光太郎が登場人物の一人である演劇「青年団第96回公演『日本文学盛衰史』北海道・岩手公演」巡回が、北海道網走郡大空町教育文化会館さんで始まりました。原作が高橋源一郎氏、脚本・演出は平田オリザ氏でした。11日(日)には北海道中川郡幕別町百年記念ホールさん、13日(火)で北海道富良野市の富良野演劇工場さん、15日(木)に北海道大麻中町のえぽあホールさん、18日(日)が岩手県盛岡市の盛岡劇場さんでした。
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12月10日(土)
日本詩人クラブさんの2022年12月例会が、新宿区の早稲田奉仕園さんで開催され、当方の講演「2022年の高村光太郎――ウクライナ、そして『智恵子抄』――」、会員の皆様による「高村光太郎「智恵子抄」朗読ドラマ――発刊80周年を過ぎて振り返る」が行われました。

同日、文治堂書店さんからPR誌『とんぼ』第15号が発行されました。勝畑耕一氏による、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の奥様で、北川先生同様、生前の光太郎をご存じだった北川節子様の追悼文が掲載されています。それから、当方の連載「連翹忌通信」も。

12月10日(土)~2023年1月22日(日)
岩手県花巻市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、花巻市博物館、花巻市総合文化財センター、高村光太郎記念館の5館が連携し、統一テーマにより同一時期に開催される企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」が行われています。花巻高村光太郎記念館さんでは『高村光太郎の「開拓に寄す」』と題し、寄贈資料「開拓に寄す」とともに、関係資料の展示を行いました。
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12月14日(水)
ToneforestさんからCD「Be -別宮貞雄 歌曲集-」がリリースされました。別宮貞雄氏作曲「歌曲集 智恵子抄」全曲の、紀野洋孝氏(テノール)、森裕子氏(ピアノ)による演奏が収められています。

12月17日(土)~2023年2月19日(日)
杉並区立郷土博物館さんで、企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」が開催中です。光太郎に関わる展示も為されています。
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12月22日(木)
岩手県盛岡市の岩手大学学生センターさんで「岩手大学人文社会科学部【宮沢賢治いわて学センター】第16回研究会」が開催され、エリック・ブノワ 氏(ボルドー・モンテーニュ大学教授/フランス文学)、中里まき子氏(岩手大学人文社会科学部准教授/フランス文学)による「高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:『智恵子抄』仏訳体験に触れながら」という発表が為されました。

12月23日(金)~2023年3月15日(水)
福井市の福井県ふるさと文学館さんで「福井県ふるさと文学館・荒川区吉村昭記念文学館おしどり文学館協定5周年記念イベント 特集展示 津村節子「智恵子飛ぶ」~芸術家夫婦を描いて~」が開催中です。
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 12月(日付不明)
山梨県の中央線社さんから文芸同人誌『中央線』第79号が発行されました。坂本富江氏による「甲州の森の詩人 野澤一という人」が掲載されました。

それから、その都度の項には入れませんでしたが、花巻市のoffice風屋さんから、「光太郎レシピ」が連載されている『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』が4冊発行されました。今年途中から、それまで隔月刊だったものが、季刊へと移行されました。
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また、毎月15日には、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで豪華弁当「光太郎ランチ」が限定販売されました。
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以上、今年一年を振り返る「回顧2022」でした。

【折々のことば・光太郎】

前水道工事屋くる、湯沸器とりつけ終る、


昭和30年(1955)10月19日の日記より 光太郎73歳

終焉の地となった中野の貸しアトリエ。ガスは引いてあったので、ガス湯沸かし器でしょう。昭和30年当時、既にあったのですね。

今年一年を振り返る、7~9月編です。

7月1日(金)
土曜美術社出版さん発行の雑誌『詩と思想』7月号で光太郎と交流のあった詩人・高祖保の特集が組まれ、光太郎にも触れられました。
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7月4日(月)
岩手県花巻市の道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ、隣接するガソリンスタンド「リベルタはなまき西南SS」のオープンを記念し、運営会社の冨士見総業さんから光太郎・賢治関連等の新刊図書が大量に寄贈されました。

7月6日(水)
宝島社さんから硯昨真氏著のライトノベル『小説家・芥木優之介には恋と飯が足りていない』が刊行されました。「高村光太郎の牛鍋」の章で、詩「米久の晩餐」(大正10年=1921)がモチーフとして使われました。
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7月8日(金)・7月9日(土)
大阪府豊中市の大阪大学豊中キャンパス 学生会館で、「劇団星今宵 第一回公演 売り言葉」の公演がありました。登場人物が智恵子一人の演劇で、脚本は野田秀樹氏でした。

7月9日(土)
新宿区の矢来能楽堂さんで、和編鐘奏者・有機音(ゆきね)氏による「CD発売記念コンサート in矢来能楽堂 癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い」が開催されました。菜月ひとみ氏朗読による「智恵子抄より 愛はすべてをつつむ」がプログラムに入っていました。
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7月16日(土)~9月30日(金)
花巻高村光太郎記念館さんで、令和4年度高村光太郎記念館企画展「光太郎、海を航る」が開催され、光太郎から実弟道利に宛てた留学中のローマ絵葉書などが展示されました。

7月16日(土)~9月19日(月)
青森市の青森県近代文学館さんで、令和4年度特別展「教室で出会った文学」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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7月17日(日)
宮野真生子氏著、奥田太郎氏編『言葉に出会う現在』が、ナカニシヤ出版さんから刊行されました。「「一つになる」愛の果てに」の章が「⑴ 高村光太郎・智恵子夫妻の悲劇」「⑵ 二人が目指した理想の結婚」「⑶ 「一つになること」の真相」「⑷ 不可能な理想と化した「愛」」という構成になっていました。

同日、文芸評論家の近藤信行氏が亡くなりました。元山梨県立文学館館長であらせられ、在任中の平成19年(2007)には、同館で企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催して下さいました。その際には、関連行事として、光太郎令甥で写真家であらせられた故・髙村規氏、世田谷美術館館長・酒井忠康氏との鼎談「高村光太郎の人生 パリ・東京・太田村」をなさったり、同展図録には館長としての巻頭挨拶文「開催にあたって」、論考「高村光太郎の“戦後”」をご執筆されたりしました。

7月31日(日)
岩手県花巻市で、小学生時代、生前の光太郎にかわいがられ、近年まで光太郎の語り部として活動されていた高橋征一氏が亡くなりました。
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7月(日付不明)
michino絵本 器と楽しむ光太郎ランチ』が刊行されました。企画デザイン/文/写真/発行 やつかの森LLCさん、色鉛筆画/MICHINO氏でした。刊行を記念し、花巻市の道の駅はなまき西南さんで「器と楽しむ光太郎ランチ」展が開催されました。

8月4日(木)
『財界ふくしま』2022年9月号が、㈱財界21さんから発行されました。「時代の最先端を走り抜いた福島県出身の偉大な女性たち、そして現在日本の看護を支える「令和の瓜生岩子」―新島八重、高村智恵子、田部井淳子、そして福井トシ子―」という記事が掲載されました。
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8月5日(金)
渡辺祐真/スケザネ氏著『物語のカギ 「読む」が10倍楽しくなる38のヒント』が、笠間書院さんから刊行されました。「第二章 虫の視線で読んでみる」中の「メタファーを使いこなせ!-『呪術廻戦』で呪術師たちは何を祓うのか?」で、詩「道程」(大正3年=1914)を引いて下さいました。

8月6日(土)
3D彫刻複製さんから 「西郷隆盛像」高村光雲【大】が発売されました。
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8月6日(土)~9月25日(日)
台東区の 東京藝術大学大学美術館さんで、特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」が開催され、光雲作の「矮鶏置物(ちゃぼおきもの)」(明治22年=1889)、「鹿置物」(大正9年=1920)が展示されました。

8月7日(日)
北海道北見市総合福祉会館さんで「北見市朗読赤十字奉仕団創立40周年記念朗読会」が開催され、岩井正氏(元NHKアナウンサー)による「高村光太郎「智恵子抄」から「智恵子の半生」」がプログラムに入りました。

8月9日(火)
第9回 松岡貴史&みち子作品展 小川明子、加耒徹が歌う 新作日本歌曲コンサート」が世田谷区のオーキッドミュージックサロンさんで開催され、松岡みち子氏作曲の新作(初演)「『智恵子抄』~女性から見た智恵子と光太郎の愛のかたち~」が演奏されました。徳島公演が8月30日(火)、徳島県板野郡北島町の北島町立図書館 創世ホールさんで行われました。
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8月10日(水)
杉並区の名曲喫茶ヴィオロンさんで、朗読公演「ノスタルジックな世界」が開催され、「智恵子抄」が取り上げられました。朗読はMIHOE氏、藤澤由二氏がピアノ演奏をなさいました。

8月18日(木)
競馬に関するエッセイ集『月をみるケンタウルス 紳士の心得帳』(法橋和彦氏著 未知谷さん発行)が刊行されました。「松若騎手を悼みおくる高村光太郎の「秋の祈」」、「魔の三年目の悪相(紳士の心得帳1)」という章で光太郎詩が引用されました。
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同日、盛岡市ご在住だった、光太郎の年齢の離れた従妹、加藤照さんが亡くなりました。105歳の大往生でした。

8月16日(火)
当会顧問であらせられた故・北川太一先生の奥様、節子氏が亡くなりました。御夫妻で最晩年の光太郎を訪問されたことがおありでした。

8月18日(木)
福島県二本松市で、智恵子顕彰団体「智恵子の里レモン会」会長を務められていた、渡辺秀雄氏が亡くなりました。

8月26日(金)
郁朋社さんから智本光隆氏著の小説『猫絵の姫君 戊辰太平記』が刊行されました。若き日の光雲が登場します。
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8月27日(土)
盛岡市の岩手県立美術館さんで、「館長講座2022 作り手の視点 第2回 岩手の美術教育」が行われ、光太郎に触れられました。講師は同館館長・藁谷収氏でした。

8月30日(火)
朝日新聞出版さんから高橋源一郎氏著『ぼくらの戦争なんだぜ』が刊行されました。光太郎が序文を書き、詩「軍人精神」を寄せたアンソロジー『詩集 大東亜』、光太郎が推薦文を書いた山本和夫編『野戦詩集』などを取り上げ、光太郎にも言及されました。
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9月3日(土)~10月10日(月・祝)
調布市武者小路実篤記念館さんで、秋季展「作家の筆跡(ひっせき)」所蔵原稿名品展が開催され、
光太郎が訳した『ロダンの言葉』の一節「鐘の鳴るのをきゝに ロオマに行きたい」を光太郎が揮毫した短冊、実篤の書いた光太郎追悼文(昭和31年=1956)の原稿などが展示されました。

9月10日(土)~10月8日(土)
港区のタカ・イシイギャラリーさんを会場に、現代アート作家・梅津庸一氏の個展「緑色の太陽とレンコン状の月」が開催されました。光太郎の評論「緑色の太陽」からのインスパイア作品が展示されました。

9月10日(土)
平櫛田中著、小平市平櫛田中彫刻美術館さん編『平櫛田中回顧談』が、中央公論新社さんから刊行されました。随所で光雲、光太郎に触れられています。
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9月11日(日)
岩手県一関市の一関文化センターさんで、「曽部遼平 増田達斗 リートデュオリサイタル」の公演があり、増田達斗氏作曲の「あどけない話」がテノール歌手・曽部遼平氏の歌唱で演奏されました。豊橋公演が9月23日(金・祝)に開催されました。

9月15日(木)
京都市の池坊学園こころホールさんで「モンデンモモありがとうコンサート はじまりは 花に溢れ」が行われ、シャンソン系歌手のモンデンモモ氏と、華道家のロザリア氏のコラボによる「智恵子抄」収録詩にモモ氏が曲を付けた作品の演奏、ライブパフォーマンスが行われました。
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9月17日(土)~9月19日(月・祝)
特別企画 秋川雅史 木彫展」が、中央区の靖山画廊さんで開催されました。昨年の二科展入選作「木彫楠公像」が展示されました。

9月17日(土)
兵庫県養父市のやぶ市民交流広場さんで、「豊岡演劇祭2022」の一環として、高橋源一郎氏原作、平田オリザ氏脚本の演劇で、光太郎も登場人物の一人である演劇「日本文学盛衰史」が上演されました。9月24日(土)、25日(日)には豊岡市民会館さんでの上演もありました。
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9月17日(土)~10月16日(日)
第46回千葉県移動美術館」が木更津市郷土博物館金のすずさんで開催され、光太郎ブロンズ「薄命児男児頭部」が展示されました。
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9月22日(木)
岩手県花巻市で、光太郎が山居7年を過ごした高村山荘などを巡る「新花巻発見探訪ツアー太田・湯口地区」が開催されました。花巻市コミュニティ会議の地域振興部会さんが主催でした。

9月24日(土)
NHK FMさんの「ビバ! 合唱」で「合唱で聴く詩人の世界(13)~高村光太郎の世界」のオンエアがあり、清水脩氏、鈴木輝昭氏、西村朗氏、三好真亜沙氏、新実徳英作曲の「智恵子抄」詩篇に作曲された合唱曲が一挙に放送されました。
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同日、台東区の旧東京音楽学校奏楽堂さんで「清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界」が開催され、朝岡真木子氏作曲の独唱歌曲「組曲 智恵子抄」の演奏が行われました。歌唱は清水邦子氏、ピアノは朝岡氏でした。
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9月24日(土)・9月25日(日)
京都市の東山青少年活動センターさんで「演劇ビギナーズユニット2022(#28)修了公演XX文士(ハロゲンブンシ) 日本文学盛衰史」の公演がありました。高橋源一郎氏原作、平田オリザ氏脚本の演劇で、光太郎も登場人物の一人でした。

9月25日(日)
椿エンタープライズさん主催の演劇公演『
百花繚乱』が、福岡市のシアターカフェ愛と青春のふる~れさんで行われ、玄海椿氏のひとり芝居「智恵子抄」が上演されました。
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9月30日(金)
福島県二本松市で智恵子顕彰活動に当たっていた「智恵子の里レモン会」さんが、会長であらせられた渡辺秀雄氏の逝去に伴い、解散することを発表しました。

明日はこの項の最終回、10~12月をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】013

藤島宇内氏くる、武智鉄二氏の話を伝言、面のスケッチを示すこと、京都の或職人がそれによつて面打をすること、「智恵子抄」能形式演能のこと、


昭和30年(1955)10月9日の日記より
 光太郎73歳

武智鉄二構成演出、観世寿夫作曲の新作能「智恵子抄」。光太郎も乗り気で、面のスケッチも残しましたが、結局、光太郎生前には実現せず、昭和32年(1932)になって上演されました。

以後、ダイジェスト版の舞囃子の形式などで演じられることが多くありました。来年2月にも公演があります。近くなりましたらご紹介します。


今年1年を回顧する第2回、4~6月分です。

4月1日(金)
齋正機氏著『福島鉄道物語』が福島民報社さんから刊行されました。「ほんとの空」という章で智恵子に触れられています。
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同日、青土社さんから発行されている月刊文芸誌『ユリイカ』、4月号の巻頭に文芸評論家・中村稔氏による、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の回想文「故旧哀傷・北川太一 」が掲載されました。

4月2日(土)
第66回連翹忌でしたが、新型コロナウイルス感染症のオミクロン変異株による第6波で「まん延防止等重点措置」が発令され、集いは3年連続での中止となりました。

同日、高村光太郎研究会さんから『高村光太郎研究(43)』が発行されました。安藤仁隆氏による「光太郎・智恵子が暮らした旧居アトリエの建築について」、「智恵子抄ゆかりの「田村別荘」(その変遷と間取りについて)」、当方編集の「光太郎遺珠⑯」、「高村光太郎没後年譜 令和2年1月~令和3年12月」等が掲載されました。
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さらに同日、当会から『光太郎資料』第57集を発行いたしました。

4月2日(土)~5月8日(日)
台東区の東京藝術大学大学美術館さんで「藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑」展が開催され、光太郎の父・光雲を含む帝室技芸員とその候補者、東京美術学校教授らにより制作された木製のつづら折りになる小屏風「綵観」が出品されました。
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4月2日(土)~6月26日(日)
長野市の長野県立美術館さんで「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」展が開催され、光雲とその高弟・米原雲海による善光寺仁王像関連の展示が、AR技術を駆使して為されました。

4月9日(土)~6月5日(日)
神奈川県平塚市の平塚市美術館さんで「市制90周年記念 リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」が開催され、光雲木彫「魚籃観音」「寿老舞」が展示されました。その後、栃木県足利市立美術館さんに6月12日(日)~7月21日(木)、富山県高岡市美術館さんで7月29日(金)~8月31日(水)、広島県ふくやま美術館さんが9月23日(金・祝)~11月20日(日)、新潟市美術館さんへ11月29日(火)から2023年1月29日(日)、それぞれ巡回があり、さらに福岡県久留米市美術館さんには2023年2月11日(土・祝) 〜 2023年4月2日(日)で巡回予定です。
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4月15日(金)
全音楽譜出版社さんから『朝岡真木子歌曲集2』が刊行されました。独唱歌曲の組曲「智惠子抄」を含みます。

4月16日(土)~6月19日(日)
茨城県筑西市のしもだて美術館さん、廣澤美術館さん、板谷波山記念館さん3館合同の同時開催で「特別展 生誕150年記念 板谷波山の陶芸-近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯-」展が開催され、光太郎ブロンズ「手」、光雲木彫「三猿置物」「瓜生岩子像」が展示されました。その後、6月25日(土)~7月24日(日)に石川県立美術館さん、9月3日(土)~10月23日(日)で京都市の泉屋博古館さん、11月3日(木・祝)~12月18日(日)には港区の泉屋博古館東京館さんを巡回しました。来年1月2日(日)~2月26日(土)には茨城県近代美術館さんに巡回予定です。
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4月16日(土)~6月26日(日)
島根県益田市の益田市立雪舟の郷記念館さんで「雪舟等楊 終焉の物語 ~室町から令和へ~」展が開催され、光雲作の「雪舟禅師像」が出品されました。

4月19日(火)
朗読系公演「My Favorite Story ~美しき詩の世界~」が、荒川区の日暮里サニーホールさんで開催されました。「「智恵子抄」より抜粋 光太郎.智恵子へのオード」(宮尾壽里子氏の翻案構成・朗読、電子ピアノ・Yoshi氏)がプログラムに入りました。
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同日、渋谷区文化総合センター大和田 伝承ホールさんで「第11回 21世紀合唱音楽祭」が開催され、安藤由布樹氏作曲「女声合唱組曲 青鞜の女たち(ショパンのエチュードに基づくパラフレーズ) 」の初演がありました。「樹下の二人(高村智恵子のつぶやき)」を含みます。

4月22日(金)
NHK青森さんで放映されているロカールワイド「あっぷるワイド」で「"わが詩をよみて人死に就けり" 高村光太郎 ~「乙女の像」に込めた願い~」の放映がありました。
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4月23日(土)~5月8日(日)
千葉県成田市の三里塚コミュニティセンターさんで「三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』展」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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4月28日(木)~5月29日(日)
二本松市の智恵子生家/智恵子記念館さんで「高村智恵子生誕祭」が開催され、紙絵の実物展示、生家2階特別公開、上川崎和紙で作る「智恵子の紙絵」体験等の催しがありました。

4月29日(金)
BS松竹東急さんで、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)が放映されました。再放送は5月1日(日)でした。
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4月29日(金)~5月5日(木)
鎌倉市の建長寺得月楼さんで「三門楼上五百羅漢特別展」が開催され、通常非公開の光雲の師・高村東雲による鋳銅五百羅漢像の一部が展示されました。
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4月30日(土)
河出書房新社さんから同社編集部編『吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために』が刊行されました。随所で光太郎に触れられています。

5月16日(月)
地上波NHK総合で「鶴瓶の家族に乾杯 市川猿之助が鎌倉でがんばる人を探す旅&坂道を走る人を叱る」の放映があり、光太郎実妹・しづ令孫の山端夫妻がご出演、光太郎やしづについて語られました。
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5月17日(火)
戦中、戦後に光太郎と交流のあった渡辺正治氏(渡辺えりさん御父君)が亡くなりました。
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5月18日(水)
CD「朗読喫茶 噺の籠~あらすじで聴く文学全集~あらくれ/詩集「永訣の朝」/金色夜叉」が、噺RECORDさんからリリースされました。光太郎詩「樹下の二人」、「あどけない話」、「風にのる智恵子」、「山麓の二人」、「レモン哀歌」、「亡き人に」を含みます。朗読なさっているのは、声優の森川智之氏でした。
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5月20日(金)
名古屋市の宗次ホールさんで「ランチタイム名曲コンサート vol.2313 音の情景 語りの調べ ~風を聴く~」が開催され、シューマン作曲「飛翔」に乗せて、光太郎詩「風にのる智恵子」朗読が為されました。ピアノは佐藤美和氏、朗読は野田育子氏でした。
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5月23日(月)~6月1日(水)
豊島区の映画館・新文芸坐で「丹波哲郎 生誕100年祭」が開催され、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」も上映されました。

6月1日(水)
写真家の田沼武能氏が亡くなりました。生前の光太郎を撮影された他、光太郎令甥でやはり写真家だった髙村規氏とは、同じ木村伊兵衛門下ということで親しくなされ、平成26年(2014)の規氏のご葬儀では、弔辞を読まれました。

6月2日(木)
慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団さんの第146回定期演奏会DVDが発売されました。1月に公演があった演奏会のライブ録画で、新実徳英氏に委嘱作曲の「愛のうた ― 光太郎・智恵子 ―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」、初演が含まれています。
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6月10日(金)
文治堂書店さんからPR誌『とんぼ』第14号が発行されました。作曲家・仙道作三氏による当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼文「人間の魂を愛し続けた人 北川太一」、平成29年(2017)に亡くなった、版元の文治堂書店さん創業者・渡辺文治氏の追悼文「渡辺文治さんのこと」(佐藤博久氏ご執筆)、当方の連載「連翹忌通信」が掲載されました。

6月13日(月)
BSJapanextさんで、二本松市を舞台とした「徳永ゆうきの一期一会はなうた旅 #12」の放映があり、智恵子に触れられました。再放送が6月20日(月)に為されました。
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6月17日(金)~7月23日(土)
京都市の京都精華大学ギャラリーTerra-Sさんで、「京都精華大学ギャラリーリニューアル記念展 越境ー収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座」が開催され、 3月、東京上野の森美術館さんで開催された「VOCA展2022 現代美術の展望-新しい平面の作家たち-」に、智恵子紙絵、『青鞜』表紙絵オマージュの「はいけい ちえこ さま」を出品され、VOCA佳作賞を受賞された谷澤紗和子氏が、同作を出品なさいました。

6月27日(月)
石川善助詩集『亜寒帯』復刻版』が、モリナカヒデキ氏編で、あるきみ屋さんから刊行されました。昭和11年(1936)刊行の元版の光太郎による序文も収録されました。
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6月30日(木)
文藝春秋さんから夢枕獏氏著『仰天・俳句噺』が刊行されました。「第四回 「おおかみに螢が一つ――」考」という章で、光太郎について触れられています。

同日、河出書房新社さんから奥泉光氏/加藤陽子氏著『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』が刊行されました。「Ⅱ なぜ始めたのか、なぜ止められなかったのか」で光太郎に言及されています。
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明日は7~9月を。

【折々のことば・光太郎】

后、NHKより録音にくる、草野心平さんと「よもやま話」2回分、20分づつ2回、十月十八日、廿五日放送の由、


昭和30年(1955)9月25日の日記より 光太郎73歳

この際の対談テープがNHKさんに残っており、そこからCD化もされました。余命半年余りの光太郎でしたが、声にはまだ張りがあり、気のおけない心平との対談ということもあり、楽しそうに笑う場面も見受けられました。

もうそういう時期か、という感じですが、今年1年を振り返ります。今日は1~3月です。最初にお断りしておきますが、主な事項のみの紹介とさせていただきます。

と、その前に、昨年のこの項で漏れていた、昨年12月の件を少し。

2021年12月15日(水)
西川清史氏著『文豪と印影』が左右社さんから刊行されました。昭和15年(1940)、詩人の宮崎丈二を通じて依頼した、中国の斉白石制作の印が紹介されています。
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2021年12月20日(月)
あすなろ書房さんから宮川健郎氏編『日本の文学者36人の肖像(上)』が刊行されました。「高村光太郎 近代詩の父」という項を含みます。

さて、ここから2022年。

1月4日(火)~1月23日(日)
特別展 和歌山と皇室―宮内庁三の丸尚蔵館名品展―」が和歌山県立博物館さんで開催され、後期展示で光太郎の父・光雲の木彫「猿置物」(別名「猿・三番叟」 大正12年=1923)が出品されました。
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1月10日(月・祝)
東京芸術劇場さんで慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団さんの第146回定期演奏会が行われ、新実徳英氏作曲 『愛のうた ― 光太郎・智恵子 ―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために』の委嘱初演がありました。指揮は佐藤正浩氏、管弦楽はザ・オペラ・バンドさんでした。

1月15日(土)
同曲の楽譜『愛のうた―光太郎・智恵子―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために[ピアノ・リダクション(四手連弾)版]』が、全音楽譜出版社さんから刊行されました。
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1月15日(土)~3月13日(日)
群馬県立土屋文明記念文学館さんで、第114回企画展「写真で見る近代詩—没後20年伊藤信吉写真展—」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。

1月19日(水)   
岩手県の地上波テレビIBCテレビさん「で「わが町バンザイ【花巻市】」が放映され、高村山荘、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんの模様が紹介されました。
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1月20日(木)
致知出版社さんから齋藤孝氏著『齋藤孝の小学国語教科書 全学年・決定版』が刊行されました。光太郎詩「道程」、「レモン哀歌」が収められました。
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1月21日(金)
第2回 JILA朗読芸術祭」が墨田区のすみだトリフォニーホールさんで開催されました。朗読「智恵子抄 より」がプログラムに入れられ、小林己恵子氏、鈴木裕美氏の朗読が披露されました。

1月24日(月)
集英社さんから武田綾乃氏原作、むっしゅ氏作画のコミック『花は咲く、修羅の如く』第1巻が発行されました。朗読を愛する少女を主人公とした漫画で、光太郎詩「道程」が取り上げられました。
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1月25日(火)
地上波NHK Eテレさんで「びじゅチューン! 老猿は主役じゃなくても」が放映されました。アニメーション、歌、解説は井上涼氏でした。
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2月2日(水)~3月21日(月)
大阪市の大阪中之島美術館さんで開館記念の「Hello! Super Collection 超コレクション展 ―99のものがたり―」展が開かれ、光雲作の木彫「砥草刈(とくさがり)」(大正3年=1914)が出品されました。
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2月3日(木)~2月9日(水)
新宿区の日本写真会館さんで「髙村達写真展 髙村光雲の仕事」が開催されました。

2月5日(土)
亜紀書房さんから若松英輔氏著『詩集 美しいとき』が刊行されました。「あとがき」で光太郎に触れられていました。
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2月23日(水)~5月15日(日)
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんで、「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」展が開催され、光雲木彫「鈿女命」、光雲原型制作の鋳銅仏「准胝(じゅんてい)観音像」などが展示されました。

2月23日(水)
フェリシモミュージアム部さんから「日本近現代文学の世界に浸る 文学作品イメージティー」が発売されました。「高村光太郎著『智恵子抄』× 天のものなるレモンの紅茶」がラインナップに入っていました。
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2月24日(木)
横浜市栄区民文化センター リリスホールさんにおいて、「午後の音楽会 第136回プレミアムコンサート 宮本益光×加藤昌則 デュオリサイタル」が開催されました。宮本益光氏の歌唱で、加藤昌則氏作曲「レモン哀歌」がプログラムに入っていました。
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3月1日(火)
学研プラスさんから芳賀靖彦氏編『マンガ 教科書に出てくる美術・建築物語 ② 日本の美術 下』が刊行されました。雛川まつり氏作画「高村光雲「老猿」」が含まれていました。

3月1日(火)~3月6日(日)
中央区の東京銀座画廊・美術館さんで「古稀 北野攝山書展」が開催され、光太郎詩「牛」を書かれた作品が出品されました。
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3月2日(水)
NHK仙台放送局さん制作のローカルラジオ番組「ゴジだっちゃ!」で、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで、毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」が取り上げられました。
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3月5日(土)~5月29日(日)
京都市の清水三年坂美術館さんで「明治・大正時代の木彫」展が開催され、光雲木彫14点が展示されました。
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3月11日(金)~3月30日(水)
台東区の上野の森美術館さんで現代アートの「VOCA展2022 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─」展が開催され、谷澤紗和子氏作の智恵子作品(紙絵、雑誌『青鞜』表紙絵)からのインスパイア「はいけい ちえこ さま」が出品されました。

3月13日(日)
中央区の王子ホールさんで「朝岡真木子 歌曲コンサート 第5回」が開催され、朝岡真木子氏作曲の独唱歌曲「組曲〈智恵子抄〉」から「人に」が演奏されました。歌唱は清水邦子氏でした。
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3月19日(土)~4月9日(土)
大阪市のstudio Jさんで、現代アート作家・谷澤紗和子氏の個展「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 -」が開催され、智恵子作品(紙絵、雑誌『青鞜』表紙絵)からのインスパイア作品が多数展示されました。

3月20日(日)
日本近代文学館さんから『日本近代文学館年誌-資料探索』第17号が発行されました。吉田昌志氏による「尾崎紅葉と高村光太郎 ――その肖像制作をめぐって――」が掲載されました。
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3月23日(水)
Octavia Records IncさんからCD「シンガーソングライター 加藤昌則歌曲集」がリリースされました。歌唱は宮本益光氏。加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」が収められました。

3月25日(金)~4月5日(日)
京都市の知恩院さんで「春のライトアップ2022」が行われ、光雲作の鋳銅聖観音像もライトアップされました。
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3月28日(月)
書肆九十九合同会社さんより小田原のどか氏著『近代を彫刻/超克するー雪国青森編』が刊行されました。昨年12月から今年1月にかけて(本来2月まででしたが、コロナ禍のため会期短縮)、青森市の青森公立大学国際芸術センター青森 [ACAC]さんで開催された彫刻家・小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」図録です。光太郎作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像 昭和28年=1928)」を大きく取り上げています。

3月30日(水)
NHKラジオ第1さんの「マイあさ!」で、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで、毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」が取り上げられました。
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同日、オンライン会議アプリzoomを使用したリモート講座「若松ゼミ◆詩の教室 言葉のかたち、かたちであるコトバ――高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』を読む」の第1回が配信されました。4月27日(水)、5月25日(水)と、全3回でした。
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明日は4~6月を振り返ります。

【折々のことば・光太郎】

藤原嘉藤治氏くる、開拓十周年のこと「岩手川」とバタをもらふ、


昭和30年(1955)9月24日の日記から 光太郎73歳

藤原嘉藤治は、生前の宮沢賢治の親友で、光太郎ともども戦前の『宮沢賢治全集』出版にも携わりました。

戦後は郷里岩手に帰って岩手県開拓者連盟の仕事につき、昭和25年(1950)には、花巻郊外旧太田村に蟄居中だった光太郎に開拓5周年記念の詩「開拓に寄す」執筆を依頼、そして10周年となったこの年も記念の詩を依頼しました。光太郎はそれに応え「開拓十周年」という詩を執筆しています。

その辺りに関わる展示が、現在、花巻高村光太郎記念館さんで共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環としての『高村光太郎の「開拓に寄す」』で取り上げられています。

新刊系2冊ご紹介いたします。

まずは山梨県の中央線社さんから発行されている同人誌『中央線』の第79号。
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文芸誌というわけではなく、広く社会評論なども掲載されており、「総合同人誌」と銘打たれています。主に山梨県にご在住だったり、同県ご出身だったりという方々が寄稿されているようです。韮崎市ご出身で、平成27年(2015)にノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智博士の玉稿も掲載されています(というか、大村氏が「発行人」ということになっています)。また、当方、4年近く同県に居住していたことがあり、執筆者の皆さんのお名前を見て、「ああ、甲州特有の苗字だな」などと思いました。
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閑話休題、やはり韮崎市ご出身で、太平洋美術会(智恵子が籍を置いていた太平洋画会の後身)に所属されている坂本富江氏による「甲州の森の詩人 野澤一という人」が掲載されています。

野澤一は、現在の笛吹市出身の詩人で、市川三郷町の四尾連(しびれ)湖畔に山小屋を建て、独居自炊の生活を送った時期もありました。光太郎に私淑し、ほぼ一方的に光太郎へ膨大な書簡を送り続け、光太郎もその得意な才に注目し「大龍の訪れ」と評しました。戦後になっての光太郎の花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活、他にもそういう人物はいましたが、野澤の影響もあったのではないかと思われます。

坂本氏の稿は、そうした野澤と光太郎の関わりなどを論じたものとなっています。地元の皆さんに、地元出身ながら忘れられかけている先駆者の業績を紹介するという意味で、意義あるものと思われます。

奥付画像を載せておきますので、ご興味のおありの方、連絡先まで。
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もう一冊、新刊、というより復刊です。

着眼と考え方 現代文解釈の方法〔新訂版〕

2022年12月10日 遠藤嘉基/渡辺実 著 筑摩書房(ちくま学芸文庫) 定価1,500円+税

伝説の参考書『現代文解釈の基礎』の姉妹編、待望の復刊! 70の文章を読解し、言葉を「考える」ための、一生モノの力を手に入れよう。解説 読書猿。

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元版は、昭和35年(1960)。さらに今回の底本となった新訂版は昭和54年(1979)、中央図書出版さんから刊行されています。

元々は高校生向けの現代文参考書と思われますが、「日本語の教養を身につけたい全ての人へ」というキャッチコピーで、文庫判で覆刻したものです。昨年には姉妹編の「着眼と考え方 現代文解釈の基礎〔新訂版〕」が覆刻されて、意外と話題になったようで、二匹目のドジョウを狙ったと見えます。

光太郎の「気について」という散文が取り上げられています。昭和14年(1939)、雑誌『蛮』に掲載され、2年後に評論集『美について』に収録されました。そこで、本書では「美について」の題で掲載されていますが、正しくは「気について」です。「気」は、「気韻生動」などの「気」です。

類題の形を取り、全文(200字余りの短いもの)を5つに分けてバラバラに配置し、正しい順番に並べ替えよ、ということになっています。原題が「気について」であるということがわかっていれば、容易に正解にたどり着けます。しかし、提示されている題は「美について」。これだとちょっと迷いますね。それを狙ってあえて「美について」の題にしたのか、それとも単なる誤植の類なのか、著者のお二方が既に鬼籍に入っており、確かめようがありませんが。

元版が60年以上前ですが、大学入試共通テスト対策等にもまだ充分使えそうですし、筑摩書房さんの狙い通り、一般の読者にも有益な書物といえるような気がします。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

神経痛少〻いたむ。多くベッドにゐる、 家政婦さんよくはたらく、


昭和30年(1955)9月23日の日記より 光太郎73歳

「家政婦さん」はこの2日前から来てくれるようになった堀川スイ子。その前に雇っていた家政婦さんが今一つだったそうで、新しく雇い、今度は光太郎のお気に召したようで、その最期までを看取ってくれました。

翌年、光太郎が歿した直後に発行された『文芸 臨時増刊 高村光太郎読本』に、堀川による「高村先生の思ひ出」という飾らない文章が掲載されています。

智恵子がらみの最近の地方紙記事を2件。

まずは共同通信さんの配信記事で、全国の地方紙に掲載された記事です。

東京舞台さんぽ 「レモン哀歌」詩碑のある大井町

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883〜1956年)の「レモン哀歌」は、妻智恵子をしのんで編んだ詩集「智恵子抄」の中の1編。国語の教科書に取り上げられるなど、広く知られた近代詩の一つだ。東京都品川区のJR大井町駅近くにある詩碑を訪ねた。(共同通信=近藤誠)
 駅の東口から出て、北東にゆるゆると下るゼームス坂通りをしばらく進み、小道で左折すると、レモン哀歌の碑に出合う。晩年の智恵子はこの地にあったゼームス坂病院で療養生活を送り、38年に52歳で死去した。
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 「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた/かなしく白くあかるい死の床で」。智恵子の臨終を詠んだ詩が刻まれた碑は、推定される智恵子の背丈に合わせ、地元有志によって建てられた。手向けられたレモンが、晩秋の陽光を受けて輝いていた。
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 病院の名前にも関連するゼームス坂は、幕末に来日し、明治維新後はお雇い外国人として旧日本海軍の指導に尽力したという英国人J・M・ゼームスが暮らしたことから名付けられた。
 もとは浅間坂と呼ばれる急坂で地元の人々が大変苦労して歩いていたが、坂の途中に住んでいたゼームスが私財を投じて緩やかな坂に改修した。いつとなく、親しみと感謝を込めてゼームス坂と呼ばれるようになったという。現在ゼームス邸跡にはマンションが立っている。
 JR大井町駅の西側に店を構える「お江戸鎧せんべい岩本米菓」では、2019年からレモン哀歌にあやかったおかき「品川浪漫 レモン愛菓」を販売している。一口頬張ると香ばしい米のおいしさと、爽やかなレモンの風味が広がる。
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 【メモ】詩人の萩原朔太郎(1886〜1942年)は25年に群馬県から上京、大井町で生活を始めた。大井町緑地児童遊園には詩集「青猫」をモチーフとした「花子と太郎」像が設置されている。
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訪れたことのない方、ぜひ一度、足をお運びいただき、智恵子に思いを馳せていただきたいものです。

続いて智恵子の故郷・福島県の『福島民友』さんから。

ほんとの空...古里の情景たっぷり 来春開校・二本松実業高の校歌

 県教委が8日発表した二本松実業高(二本松市)の校歌には、豊かな歴史と文化があり、美しい自然を持つ二本松市の風景が表現されている。同校は県立高校改革の一環で二本松工と安達東が統合して来春開校する。
 校歌は、両校の伝統を受け継ぎながら、機械システム科や生活文化科など専門的な知識を学ぶ学校の生徒として、地域社会と共に未来へ向けて歩んでいく生徒を表現した。
 歌詞は校歌制作委員会が決定し、「安達太良山」「阿武隈川」「睡蓮(すいれん)」など、二本松市の景色をイメージさせる言葉が登場する。4番まであり、「現在(いま)を生きる これからの人」、「創ろう未来 つなごう心」など前向きな言葉を共通の歌詞に仕上げた。
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 ◇二本松実高校歌◇
  1番
 空の青さに 陽(ひ)の光
 榎戸(えのきど)の丘 一瞬(とき)の風
 力漲(みなぎ)り 舞う砂けむり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 遥(はる)かな夢を ほんとの空に

  2番
 白く聳(そび)える 故郷(ふるさと)の
 安達太良山の 季節(とき)の雲
 掌(てのひら)見つめ 歯を食いしばり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 明日(あす)を探して ほんとの空に
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  3番
 瞳に映る 煌(きら)めきは
 阿武隈川の 悠久(とき)の色
 その身に宿る 手業の実り
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 希望を胸に ほんとの空に

  4番
 睡蓮(すいれん)の花 微笑(ほほえ)ほほえんで
 霞(かすみ)が池に 青春(とき)の影
 まっすぐな道 どこまでも往(ゆ)き
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 生きた証(あかし)を ほんとの空に

4番まである校歌歌詞、すべての結びに光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を配して下さいました。現在の二本松工業高校さん、安達東高校さん両校の生徒さんから校歌に入れてほしい言葉を募り、両校の先生方で作る校歌制作委員会が作詞されたそうです。

そして作曲が何と「あまちゃん」や「いだてん」の大友良英氏。スカ調のにぎやかな校歌になるんじゃないかと、余計な心配をしてしまいます(笑)。是非とも野球の甲子園に出場していただき、この校歌を全国に響かせていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

「家の光」の人くる、「青年」を盤に吹込むとのこと、


昭和30年(1955)8月26日の日記より 光太郎73歳

『家の光』は光太郎もたびたび寄稿していた雑誌。版元の家の光協会は全国農業協同組合、現在のJAグループさんの関連団体でした。

そこで校歌ならぬ団体歌のような「家の光つどいの歌」のレコードを制作、そちらには光太郎は関わっていませんが、B面に光太郎詩「私は青年が好きだ」(昭和15年=1940)と、竹内てるよの「わたくし」の朗読をプレスしました。
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上記画像、当方が入手した現物なのですが、ジャケット、歌詞カード的なものがついておらず、詳細が不明です。発行年月日、朗読者、「家の光つどいの歌」の方の作詞者、作曲者、歌手などなど。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

当時流行っていた「ピクチャーレコード」という種類のSP盤ですが、レトロな感じが実にいいですね。

昨日のこのブログ、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」の件、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の件につきましてご紹介しました。

すると、午後になって、『花巻散歩Machicoco(マチココ)』さんの最新号が届きました。
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平成29年(2017)の創刊以来、「光太郎レシピ」という連載が続いています。「光太郎ランチ」同様、やつかの森LLCさんのご協力で、光太郎の日記や書簡、周辺人物の証言などから、光太郎が食べたメニューを現代風にアレンジして紹介するものです。ちなみに表紙の焼きおにぎりは関係ありません(笑)。

今号はこちら。「カブとインゲンのブルイエとヴァンショー(ホットワイン)」だそうで。
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もう1件、グルメ系で。

今年2月に、通販会社・フェリシモさんから「日本近現代文学の世界に浸る 文学作品イメージティー」が発売されました。〈高村光太郎 著『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶〉を含む4セット(他に〈中島敦著『山月記』× 虎に還るように色が変化するお茶〉〈室生犀星著『蜜のあわれ』× 燃えている金魚のように赤いお茶〉〈江戸川乱歩著『孤島の鬼』× 宝石より魅力的なチョコレートの紅茶〉)で、申し込むと毎月1セットずつ届く(バラ売りはなく、届く順番もフェリシモさん任せ)というシステムです。

004一般のお店で取り扱いが始まりました。もしかすると複数のお店で販売されているかも知れませんが、当方が情報を得たのは横浜桜木町のSTORY STORY YOKOHAMAさん。JR桜木町駅を出てすぐの「コレットマーレ」さん5階にある、老舗書店の有隣堂さん系列の書店兼雑貨店です。上記4セット以外にも、それ以前からフェリシモさんで出していた「日本近現代文学の世界へ 文学作品イメージティー」の4セット(〈芥川龍之介著「蜘蛛の糸」×蓮が香る紅茶〉〈夏目漱石著「虞美人草」×アイスクリームが香る紅茶〉〈坂口安吾著「桜の森の満開の下」×桜が香る緑茶〉〈宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」×苹果(りんご)が香る紅茶〉)も販売されています。

過日、都内に出た際に桜木町まで足を伸ばし、〈高村光太郎 著『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶〉と、〈宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」×苹果(りんご)が香る紅茶〉を買い込んで参りました。バラで複数ずつ買えるというのがありがたいところです。
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〈高村光太郎 著『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶〉は以前にもいただきましたが、〈宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」×苹果(りんご)が香る紅茶〉は初。「苹果(りんご)が香る」ということでしたが、フレーバーはきつくなく、爽やかな感じでした。
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複数点ずつ購入して参りまして、ギフトにも使っております。皆様も是非お買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ラジオで日米水泳をきく、

昭和30年(1955)8月6日の日記より 光太郎73歳

「日米水泳」は「第4回日米対抗水上競技大会」。「フジヤマのトビウオ」と称された古橋廣之進らが出場し、神宮水泳場、さらに大阪でも開催されました。

光太郎が戦後7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)近くの道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」、今月販売分の画像が届きました。
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今月のメニューは青豆入り麦飯、白六穀ご飯、チキンステーキ、ロール白菜、いか大根、かぼちゃ煮、塩麹入り卵焼き、お新香、焼きりんごだそうです。意外とヘルシーな献立かな、という気がしました。

グルメ系でもう1件。

高村山荘と隣接する花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」、今月初めに現地に赴き、展示解説の動画撮影に臨みましたが、先週、公開されました。

令和4年度高村光太郎記念館企画展「光太郎、つくりくふ。-おやつ編-」展示解説①

令和4年度高村光太郎記念館企画展「光太郎、つくりくふ。-おやつ編-」展示解説②

令和4年度高村光太郎記念館企画展「光太郎、つくりくふ。-おやつ編-」展示解説③

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計40分ほどを3本に分割しています。何とまぁ、かなりの手間だったと思いますが、字幕をつけて下さったので、当方の顔より字幕の方をご覧になって下さい(笑)。

企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」は来年3月21日(月)までの開催です。

ところで、同時開催されている花巻市内の他の文化施設4館との共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」について、地元紙『岩手日日』さんが報じて下さいました。

先人の偉業知って スタンプラリーも 市内5施設共同企画展

 2022年度花巻市共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」は、市内五つの文化施設で開かれている。各施設が花巻ゆかりの先人らを取り上げ、偉業への関心や古里への愛着を育む。期間中はスタンプラリーなどのイベントもある。2023年1月22日まで。

 花巻新渡戸記念館(高松)、萬鉄五郎記念美術館(東和町土沢)、市博物館(高松)、市総合文化財センター(大迫町大迫)、高村光太郎記念館(太田)の5館が連携した企画展。

 花巻新渡戸記念館では十和田市の開拓に貢献した新渡戸稲造の父十次郎、萬鉄五郎記念美術館では石川啄木らとともに活躍し、同級生だった萬とも生涯を通じて交遊があった東和町出身の歌人小田島孤舟、市博物館では杣(そま)やマタギなど山をなりわいの場とした人々、市総合文化財センターでは早池峰山の植物研究に関わってきた先人、高村光太郎記念館では光太郎の詩「開拓に寄す」などを紹介している。

 14日には、市民ら22人が参加して共同企画展開催の5館を巡るツアーが行われ、各館の企画展担当者による展示解説や調査研究の成果に耳を傾けた。市博物館の松橋香澄学芸調査員は「山をなりわいの場とした人の暮らしや道具を紹介する展示。名前は伝えられていないが、今につながる暮らしをつくった先人たちを知ってほしい」と話していた。

 スタンプラリーは、開催館5館中3館のスタンプを集めると記念品がもらえる。残る2館と協賛館1館のスタンプでさらに記念品が入手できる。協賛館は宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、石鳥谷農業伝承館、石鳥谷歴史民俗資料館、早池峰と賢治の展示館。記念品の受け取りは開催館のみ。

 問い合わせは市文化会館=0198(24)6511=へ。

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こちらは来年1月22日(日)までの会期です。

もう現地は雪に包まれる日が多くなっていますが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕食は桑原氏紹介の神田淡路町の支那料理「好々」の出張料理、女将来て料理す、北京料理、皿数多くして中西氏宅一同にてくふ、アトリエに桑原氏とくふ、中々美味、

昭和30年(1955)7月24日の日記より 光太郎73歳

4月末からこの月初めまで、宿痾の肺結核のため赤坂山王病院に入院していた光太郎。結局、治癒は難しいとのことで中野の貸しアトリエに戻って療養。食慾は衰えず、この日は中華料理に舌鼓。「中西氏宅」は貸しアトリエの大家、「桑原氏」はそちらと親しかった美術史家・桑原住雄です。

先週になりますが、地方紙二紙の一面コラムで光太郎に触れて下さいました。

12月6日(火)、仙台に本社を置く『河北新報』さん。

河北春秋

PXL_20221215_001147173 葉を落とし「箒(ほうき)」になった姿に、詩人高村光太郎は<きつぱりと冬が来た>と詠んだ。イチョウが季節の移ろいを告げている。葉がカモの水かきに似ていることに由来する中国の「鴨脚」の発音が語源とされる▼仙台藩出身で日本初の近代的国語辞書『言海』を編んだ大槻文彦(1847~1928年)はイチョウの語源に「脳を悩まし」「満腹の疑い」を抱き続けていた。増訂版となる『大言海』では「鴨脚の字の、支那、宋代の音なり」と示し、記す▼「此語原は、予が三四十年間、苦心して得たるものなり」。永島道男著『言葉の大海へ「大言海」を愉しむ』に詳しい。「辞書の中に筆者が顔を出すなんて」信じられないけれど、「苦心の、苦心の、苦心の末に解明したのですからわかってあげたい」とも▼文彦、祖父の蘭(らん)学者玄沢、父の儒学者磐渓。「三賢人」を輩出した大槻家関係資料(一関市博物館所蔵)が国の重要文化財に決まった。『大言海』草稿など4000点を超える▼文彦は玄沢の遺戒「遂げずばやまじ、の精神」で編さんしたと、『言海』の巻末「ことばのうみのおくがき」に書く。必ず最後までやり遂げよ。求められるのは決意、責の重さへの自覚と覚悟か。職を去った閣僚たちを他山の石に、遺戒を心にきっぱりと刻もう。

このところの気候は、いかにも「きつぱりと冬が来た」ですね。画像は自宅兼事務所近くのイチョウの古木です。こちらもまさしく「箒」になってしまいました。

続いて、『東京新聞』さん。12月8日(木)付けです。

筆洗

 「記憶せよ、十二月八日/この日世界の歴史あらたまる/アングロ・サクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」−。高村光太郎の詩である。一九四一年、真珠湾攻撃への興奮が伝わってくる▼真珠湾攻撃の日である。光太郎に限らず、その日、日本人は熱狂した。長年の米英による圧力。その閉塞(へいそく)感を打ち破る奇襲に対し、国民は胸のすくような思いとなった。分からないでもない。しかし、それが国民に塗炭の苦しみを与える悲劇の入り口であった▼あの時代にむしろ近づいてはいないか。弾道ミサイルなどの発射拠点を攻撃する敵基地攻撃能力の保有をめぐる議論が進む▼共同通信の世論調査によると約六割が敵基地攻撃能力の保有を容認している。弾道ミサイルが発射される前に基地を攻撃することができれば、国民はより安全になるはず。そう考えるのも理解できる。自衛のためと言われれば、反対もしにくい▼それでも身構えるべきはそれが専守防衛の枠組みを超え、国際法の禁じる先制攻撃と結果的に何も変わらぬ危険性があることだろう▼ミサイル発射の動きを見て敵基地を攻撃したとする。それで敵国がわが国への攻撃を断念してくれるとは考えにくく、待っているのはわが国の敵基地攻撃に端を発した長きにわたる戦争状態ではないのか。臆病か。されど、悲劇の入り口に二度と近づきたくないのである。

まさにわが意を得たり、という内容でした。そこで、12月10日(土)に行われた日本詩人クラブさんの12月例会での講演で紹介させていただきました。

さて、もう1件。

過日ご紹介した杉並区立郷土博物館さんでの企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」。明後日開幕ですが、その予告報道が共同通信さんから配信され、全国の地方紙に載ったようです。

詩人・尾崎喜八回顧展、写真家側面も 東京の杉並区立郷土博物館

 009 山と自然を題材にした詩や散文で知られた尾崎喜八(1892~1974年)の回顧展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」が17日から、東京・杉並区立郷土博物館で開かれる。2023年2月19日まで。尾崎の子孫から寄贈された多数の資料を公開する。
 尾崎はクラシック音楽を巡る随想、外国文学の翻訳も手がけた他、写真にも関心を寄せ、山野の植物、雲、長く住んだ杉並の農村風景などを数多く撮影した。
 本展は自ら撮影した写真約60点、著書約50点、詩人で彫刻家の高村光太郎から贈られた彫刻や、詩人でドイツ・フランス文学者の片山敏彦、詩人・歌人で野鳥研究家の中西悟堂らとの交遊を示す写真やはがき、フランスの作家ロマン・ロランからの手紙などで構成する。
 尾崎は東京市京橋区(現東京都中央区)で生まれ、商業学校を卒業した後、会社勤めをしながら文学活動を始めた。代表作に詩集「花咲ける孤独」(55年)、随筆集「山の絵本」(35年)、随筆「音楽への愛と感謝」(73年)がある。
 関東大震災後から終戦前年まで、実家へ戻った間を除いて現在の杉並区に在住。戦後は長野県富士見村(現富士見町)で足かけ7年過ごし、数々の作品を書いた。その後東京に戻り、晩年は神奈川県鎌倉市で暮らした。
 担当の学芸員は「尾崎の業績全般を知ってもらいたい。地元杉並の人や詩に関心のある人はもちろん、写真関係の方にも見ていただけるとうれしい」と話している。
 観覧料100円。休館日は月曜と第3木曜(祝日の場合は翌日)、12月28日~1月4日。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

転出証明書瀬川さんより届く、


昭和30年(1955)6月4日の日記より 光太郎73歳

「転出」は、戦後7年間の蟄居生活を送った岩手から東京中野へ、です。

元々、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」完成後は、岩手に帰るつもりでいた光太郎、実際、像除幕後の昭和28年(1953)初冬に10日間ほど帰ったのですが、宿痾の肺結核の悪化が山での暮らしを許さず、再々上京していました。それでも住民票を移動させずにいましたが、もはや身体の状況が山へ帰ることは不可能なほど悪化しているという自覚があったのでしょう、岩手の知人を介し、とうとう転出届けを出しました。届けの日付は6月1日だったことが、『高村光太郎全集』に漏れていた葉書の発見により、10年ほど前に明らかに出来ました。

また、かつて光太郎が暮らしていた稗貫郡太田村は前年に周辺の村とともに花巻町に合併、花巻市となったことも転出の一因と思われます。もはや太田村が無い、というのは光太郎にとって淋しかったのではないでしょうか。

追記 御本人がコロナ感染で延期だそうです。

まずは演奏会情報を。

紀野洋孝テノール・リサイタル

東京公演
 期 日 : 2022年12月18日(日)
 会 場 : 旧東京音楽学校奏楽堂 東京都台東区上野公園8番43号
 時 間 : 18:30開場 19:00開演
 料 金 : 前売 一般 3,000円 学生 1,000円 当日 一般 3,500円 学生 1,500円

大分公演
 期 日 : 2022年12月23日(金)
 会 場 : iichiko音の泉ホール 大分県大分市高砂町2番33号 
 時 間 : 18:30開場 19:00開演
 料 金 : 前売 一般 3,000円 学生 1,000円 当日 一般 3,500円 学生 1,500円

出 演 : 紀野洋孝(テノール) 森裕子(ピアノ)
曲 目 : 
 F.P.トスティ:〈薔薇〉〈祈り〉〈理想の人〉
 山田耕筰:〈この道〉〈かやの木山の〉〈六騎〉〈城ヶ島の雨〉〈みぞれに寄する愛のうた〉
 別宮貞雄:歌曲集《智惠子抄(改訂新版)》

博士号取得とCD“別宮貞雄作品集「Be」”の発売を記念して、東京と大分で『紀野洋孝テノール・リサイタル』行うことになりました!!! リサイタルの前半はお馴染みのトスティと山田耕筰の作品、後半は博士課程でも研究してた別宮貞雄の超大作《智惠子抄》を演奏します!! 《智惠子抄》は歌曲を超えたモノドラマのような作品で、涙なしには歌えない、聴けない、劇的で感動的な名作です! 別宮貞雄生誕100年没後10年の超特別メモリアルな今年聴いてほしいゴリゴリに押しに推しまくっている名作です!本当に沢山の方に知ってほしい、聴いてほしい、歌ってほしい作品です!
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故・別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」全曲が演奏されます。同曲は昭和57年(1982)の作品で、翌年に初演、昭和61年(1986)には音楽之友社さんから楽譜が刊行されています。

CDでは、故・永田峰雄氏による演奏で全曲が収録されたものが出ている他、抜粋で収められているものが数種類。紀野氏他、演奏会でもぽつぽつプログラムに入れて下さっている方もいらっしゃいます。共に男声、女声、双方が取り組んで下さっています。

他の作曲家の方の「智恵子抄」と較べ、別宮氏のそれは先に曲ありきではなく、本当に智恵子を思う光太郎の語り口が感極まってメロディー化したような、そういう感じに聞こえます。紀野氏曰く「歌曲を超えたモノドラマのような作品で、涙なしには歌えない、聴けない、劇的で感動的な名作」。なるほど、と思いました。

今回の演奏会はCD発売記念ということで、そのCD、注文しておいたのが昨日届きました。歌曲集「智恵子抄」ほか、別宮氏の作品を集めたものです。

Be -別宮貞雄 歌曲集-

2022年12月14日 Toneforest 定価3,000円+税

紀野洋孝(テノール) 森裕子(ピアノ)

歌曲集《智惠子抄(改定新版)》 詩:高村光太郎
 1. 人に002
 2. 深夜の雪
 3. 僕等
 4.晩餐
 5. あどけない話
 6. 人生遠視
 7. 千鳥と遊ぶ智惠子
 8. 山麓の二人
 9. レモン哀歌
歌曲集《淡彩抄》 詩:大木惇夫 
 10.泡001
 11. 蛍
 12. 入墨子
 13. 涼雨
 14. 別後
 15. 燈
 16. 天の川
 17. 青蜜柑
 18. 鷺
 19. 春近き日に
歌曲集《二つのロンデル》より 詩:加藤周一
 20.  さくら横ちょう

早速拝聴しましたが、紀野氏の歌唱、光太郎の魂が乗り移ったかのような、心の叫びがあますところなく表現されていました。

ぜひお買い求め下さい。

ところで、毎日更新しているこのブログサイトですが、紹介すべき事項が多く(もう今年いっぱいは書くことが決まっているような状況です)、失礼とは存じますが、クラシック歌曲系がらみで併せてもう1件。

今日の『朝日新聞』さん朝刊にバリトン歌手・坂本博士氏の訃報が出ていました。

坂本博士さん死去

 坂本博士さん(さかもと・ひろし=バリトン歌手、サカモト・ミュージック・スクール校長)3日、誤嚥(ごえん)性肺炎で死去、90歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻旦子(あさこ)さん。
 54年、東京芸大声楽科卒。57年に藤原歌劇団公演「ラ・ボエーム」のマルチェッロ役でデビュー。63年に始まったNHK「歌おうよ世界の友よ」に1年間レギュラー出演するなどメディアでも活躍。作曲家としても東日本大震災復興のための「絆三部作」など、歌曲、合唱曲、ミュージカルなどを幅広く手がけた。

坂本氏、昭和50年(1975)、キングレコードさんからリリースされた「なつかしの国民歌謡 NHK国民歌謡」というLPレコードで、光太郎作詞、飯田信夫作曲の「歩くうた」(昭和15年=1940)を歌われていました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

三時半、北川太一氏くる、智恵子の原稿二枚持参、クツキーをもらふ、


昭和30年(1955)5月27日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核悪化により入院していた赤坂山王病院に、当会顧問であらせられた故・北川太一先生がお見舞いに行かれました。こうした機会に北川先生は光太郎本人へ、その生涯に関しての聞き取り調査を行い、「高村光太郎聞き書」(『高村光太郎全集』別巻所収)としてまとめられました。

「智恵子の原稿」は詳細不明ですが、おそらく北川先生、智恵子が雑誌に寄稿した散文の原稿を入手され、光太郎に見せたのでは、と思われます。懐かしい智恵子の筆跡を見たであろう光太郎、どのような感想を持ったのか、あいにく、日記には記されていませんが。

一昨日、昨日と、一泊二日で岩手に行っておりました。レポートいたします。

12月3日(土)、新花巻駅に正午頃到着。
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待合室兼観光案内スペース。
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花巻東高校出身の大谷翔平選手コーナー。
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午後2時から花巻高村光太郎記念館さんで、現在開催中の企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の展示解説をせよ、ということで、駅でレンタカーを借り、市内太田地区方面へ。

まだ時間が早いので、記念館にほど近い道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。
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産直コーナーの中に、光太郎関連グッズ等のスペース。
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少し離れたところで、先頃発売され始めた新商品「こうたろう&ちえこ ブランデンブルグの森」が販売されていました。それから、「智恵子のレモンキャンディ」も。
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無料休憩スペース的な一角に、今夏、道の駅に隣接して作られたガソリンスタンド「リベルタはなまき西南SS」のオープン記念で、スタンドを経営する冨士見総業さんから寄贈された光太郎賢治関連書籍等のコーナー。
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その脇では、「宮沢賢治と俳句」というミニ展示。
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花巻俳句協会さんの肝煎りのようでした。
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さて、花巻高村光太郎記念館さんへ。

といっても、まずは記念館ではなく、敷地内の高村山荘。光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋です。套屋に覆われたこの山小屋内に光太郎の魂の分霊がいまも居るような気がしていまして、「光太郎先生、また来ました」とご挨拶。今年3回目ですが(笑)。
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既に雪が降ったのですが、まだ根雪になってはいません。
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そして記念館。
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早速、展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」を拝見。
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昨今のこの手の展示で流行ですが、大きなタペストリーが実に効果的です。等身大(より小さいのですが)光太郎パネルも。こちらは以前に作られたものの使い回しです。
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そうこうしているうちに市役所の皆さんがご到着。当方のべしゃくる解説を録画し、YouTubeで配信するそうで、光太郎の生涯を俯瞰しつつ、関連するパネル展示ごとにシナリオを考えて喋りました。

図録、とまではいきませんが無料で配付の冊子。
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前半部分は当方の執筆です。配信動画用に喋った内容もこちらとかぶっています。
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というわけで、「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」、期間が長く来年3月21日(火・祝)まで。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜新宿天兼といふにて天ぷら夕食、車で往復<天兼といふ家中々上等、>


昭和30年(1955)4月9日の日記より 光太郎73歳

天兼」さん、現在も新宿に健在です。おそらく再訪したいと思ったのでしょうが、残念ながら宿痾の肺結核のため、この日が生涯最後の外食(入院食は除きます)となったようです。

智恵子の故郷・福島二本松から光太郎智恵子がらみの報道を2件。

まずは11月13日(日)に行われた、朗読劇「智恵子抄」二本松公演の模様を伝えた記事。『福島民報』さんから。

智恵子と光太郎の夫婦愛、朗読劇で熱演 俳優一色さんら 福島県二本松市で公演

  詩集「智恵子抄」で知られる詩人で彫刻家の高村光太郎と芸術家の智恵子の夫婦愛を描く朗読劇「智恵子抄」は13日、福島県二本松市安達文化ホールで上演された。葛藤に苦しみながらも光太郎への愛を貫く智恵子の魂を表現する一色采子さんらの熱演に、大きな拍手がわいた。
 昨年に続き、智恵子の古里で催す2度目の公演。二本松市出身の日本画家・大山忠作さんの長女で俳優の一色さんが再び智恵子を演じ、光太郎役の松村雄基さんら新たなキャストと共に臨んだ。
 芸術の探究や生活の困窮の中で苦悩を深め「二本松に行きたい」と願う智恵子の心、美のきらめきを切り絵に表す様子、妻を思い続ける光太郎の姿を「あどけない話」「樹下の二人」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」などの朗読と演技、音楽でつづった。多くのファンや文学愛好者らが詰め掛け、痛切な愛の世界に見入った。
 新派アトリエの会の主催・製作、松竹、二本松市教委の協力。アフタートークでは一色さんらが舞台のエピソードや二本松の印象などを披露した。
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続いて、『朝日新聞』さん。十日ほど前の夕刊に載った記事です。少し長いのですが、全文を。

「ほんとの空」の下の若者たち 農業と発電両立し福島産守る

 その取材に向かう前、私は11年前の取材ノートを読み返した。
 「2011年10月12日」のページを探す。東京電力福島第一原発の事故が起きて初めて、福島県庁が県産米の放射能検査の結果を発表した日だ。
 安全基準ぎりぎりのコメもあったが、基準はすべてクリアした。次のやり取りが残っていた。
 佐藤雄平知事(当時)「農水省が決めた倍の地点で調査した。安全性が確認され、安堵(あんど)している」
 私「安全宣言ですか?」
 知事「まあ、安全宣言といえば、安全宣言だなあ」
 その後、基準を超えたコメが、県内の複数の田んぼで見つかった。地区単位でコメの出荷が制限される。今のような風評被害ではなく、「実害」だ。将来を絶望し、自ら命を絶つ農家もいた。

 被害を受けた地域の一つが、福島県の北中部にある二本松市だった。原発から50㌔余り離れていても、放射線量は高かった。
 10月中旬、その二本松を久しぶりに訪れた。
 自然豊かな二本松を代表する「安達太良山」。「東京には空が無い」で有名な詩集「智恵子抄」で、作者の高村光太郎の妻智恵子の話として、この山の上を「ほんとの空」とつづった。
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 その空の下では今、若者たちが発電と農業を両立させる「ソーラーシェアリング」(営農型太陽光発電)を手がけている。農作物を育てながら同じ土地で発電して電気を売り、収入を増やす手法だ。
 長さ70㍍の「壁」が3列半。壁の材料は230枚の太陽光パネルだ。耕作放棄地だった農地は今年3月、日本初という「垂直型ソーラーの農場」に変わった。
 運営は「二本松ご当地エネルギーをみんなで考える株式会社」(略称ゴチカン)。社長兼社員の近藤恵(けい)さん(42)を、自然エネルギーで著名な飯田哲也さんや二本松市、地元農家らが支える。
 パネルの壁と壁は10㍍空いており、トラクターが余裕で通れる。50㌔㍗の電気をつくりながら地面では牧草を育てている。
 「実験ですか?」と私が尋ねると、近藤さんは「経済的になりたっているので、すでに実用です」と胸を張った。
 「垂直に立てても受ける光のロスはわずかです」。土地を効率的に利用するなら、斜めに置くよりも、垂直のほうがよさそうだ。
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 東京都出身の近藤さんは、筑波大で農林業を学び、一般社団法人「二本松有機農業研究会」で修行を積んだ。原発事故の前まで、農薬や化学肥料をほとんど使わない有機農法で、コメや野菜を得意客に直接販売していた。
 11年もコメは作った。「お客さんは『近藤さんのコメだから安心です』と言ってくれたが、心苦しかった。基準内の玄米からは放射能が多少検出されても、白米にするとゼロになることや、うちの子どもにも食べさせていると添え書きを入れて、コメを送りました」
 農業を諦め、二本松の農協に勤めた。与えられた仕事は、東電に損害賠償請求する農家の手伝いだった。知らない農家から「お前は国側か!」と怒鳴られた。
 さらに心が痛む仕事が待っていた。収穫されたものの、出荷停止になったコメの処分だ。
 「米袋には顔見知りの農家の名前も書いてあって……。捨てるのが、つらかったですよ」
 農業から話はそれるが、二本松市は原発周辺の避難者を大量に受け入れた。市民にはさらに遠くへ避難する人もいた。12年には市内で放射能に汚染されたマンションが見つかった。原発周辺の砕石が土台に使われていたためだった。
 私は当時の混乱ぶりを取材していた。なので、二本松の印象は極めて暗い。当時のノートを見返したのも、それを忘れちゃいけないと思ったからだ。

 近藤さんは農協を2年半で辞めた。有機農業研究会に「エネルギー部会」をつくり、再生可能エネルギーと農業の両立を学び始める。避難指示が出た福島県飯舘村で営農型太陽光発電が先行していると知るや、事業主体の飯舘電力に頼み働かせてもらった。
 垂直ソーラーがある牧草地から車で約10分、6㌶の畑の地上3㍍に、9500枚のパネルが並ぶ。
 頭上にはブドウ棚の鉄線が張り巡らされている。近藤さんと働く塚田晴(はる)さん(20)、菅野雄貴さん(38)が4ヶ月かけ作業した。4月にはシャインマスカットなど100本のブドウの苗を植えた。
 パネル下でも通常の75%の日照を確保できる。塚田さんは「再来年には味見ができるくらいに成長しているでしょう」と話す。
 塚田さんは原発事故のとき、小学3年だった。それまでは家族5人で、近藤さんのいた有機農業研究会の有機野菜を食べ、稲刈り体験にも参加していた。
 11年3月17日。母の実家の神戸に避難する。二本松からタクシーに乗り、新幹線が通っていた栃木県のJR那須塩原駅へ向かった。父は運転手に心付けも含め3万円を渡した。
 以来、塚田家ではこの日を「避難の日」とし、毎年3万円で外食する。事故の恐怖や故郷を去る悔しさを忘れないためだ。
 塚田さんが小学5年のとき、研究会の当時の代表、大内信一さん(81)が、福島の農家の現状を話すため、消費者団体の招きで大阪に講演にきた。
 母と聴きに行った。会場から大内さんに厳しい質問が飛んだ。「福島産は危険だ」「子どもに食べさせていいのか」――。
 聞いていて、ムッとした。「何だよ。消費者って、こんなに簡単に生産者から離れていくんだ」
 毎年お盆に福島へ帰省すると、二本松の大内さんの田んぼをのぞきにいくようになっていた。
 高校は三重県の農業学校に進み、果樹を専攻した。3年生のとき、二本松から近藤さんがスカウトにきた。太陽光発電の下で、専門をいかすチャンスだった。
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 塚田さんは自分のためにブドウ栽培を用意してくれたと思っている。が、近藤さんの本当の狙いは違ったようだ。
 「『シャインマスカットォ~』とか『ソーラーシェアリングゥ~』とか、ほかとあまりくらべるものがない果物や農法で攻めないと、放射能の問題は突き抜けられないと思ったのです」
 消費者庁の調査では、原発事故後、福島のコメや野菜を敬遠し続ける消費者は今も1割弱いる。
 生産する側も、作付けなどが一時制限された二本松や福島、伊達、相馬の4市では、計3割の田畑が営農を休止したままだ。
 ありきたりの品種や手法では新たな道はひらけない。本当の空の下、そんな切実さが、近藤さんたちの闘いから伝わった。

「再稼働ありき」で、こうした再生可能エネルギーの普及を妨害すらしているのではないかと思われる「原発村」の魑魅魍魎どもは、こうした記事を「くだらん」と一蹴するのではないでしょうか。「(笑)」とつけたいところですが、「(怒)」ですね。

【折々のことば・光太郎】

平熱、少〻息切れする、シヤベリ過ぎらし、


昭和30年(1955)1月2日の日記より 光太郎73歳

この日は、当会の祖・草野心平をはじめ、年始の挨拶的な訪問者が多く、会話が弾んだようです。それはそれで嬉しかったのでしょうが、肺結核にはあまりよろしくなかったようで……。

昨日に続いて、花巻グルメ系。

まずは道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」、昨日販売分の画像をいただきました。
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新米ご飯、麦飯、牛カツ、鮭ポテト、根菜の肉味噌かけ、大根とわかめのバター炒め、塩麹入り卵焼き、白菜の塩漬け、サツマイモとりんごの甘煮だそうで。肉食系男子の当方としては(笑)、牛カツや肉味噌かけがうれしいところですし、鮭ポテトというのもどんなものだろうと気になります。サツマイモとりんご、これも共に好物でして、それがコラボされているというのもいいですね。

もう1件。「光太郎ランチ」メニューの考案に当たられているやつかの森LLCさんが商品開発に関わられたお菓子。少し前に現物が送られてきました。ありがたし。
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クッキー3種の詰め合わせです。
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上から順に、まずチョコ味。
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控えめな甘さとカカオのほろ苦さ、練り込まれたアーモンドの風味がいい感じです。

続いてチーズ味。
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チーズ感はそれほど強くなく、チーズは苦手という方でも、チーズ味と云われなければ分からないかも知れません。非常に香ばしい風味でした。

色鮮やかなストロベリー味。
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昔のカルメ焼きのような食感です。製法的にも共通するのでしょう。イチゴの香りがふわっと広がります。

袋から出した画像。盛ったのはクリムトの絵皿ですが、心霊写真のようになってしまいました(笑)。
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すると、かたわらのマッサージチェアでぷーすか眠っていた怪獣が目を覚まし……
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「おやつニャ!」とチーズ味をくわえてさっとテーブルの下に。油断も隙もありゃしません(笑)。
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猫にチョコ味は禁物ですし、ストロベリーもフレーバーがきつい感じで、「まあこれならいいか」と、割って小指の先ほど与えました。

ところで商品名は「こうたろう&ちえこ ブランデンブルグの森」。箱に入っていた栞にその由来が。
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「ブランデンブルグ」はJ.S.バッハの有名な曲ですね。光太郎はこの曲が好きで、ずばり「「ブランデンブルグ」」という長い詩(昭和23年=1948)も書きました。

さらに、帰京後の昭和27年(1952)11月に行った講演「南沢座談」から。

ある時山を歩いていたら、見晴らしの方から、ブランデンブルグの曲のあのくり返しのところがきこえて来るのです。開拓のどこかで、すばらしい蓄音機を買つたな、と思つて暫らく耳を傾けていたのですが、そのあとで開拓の人に会つたとき、「開拓じや、だれかすばらしい蓄音機の盤を買つたな」というと、誰もそんなものは買わないという。つまりわたしの幻聴だつたのです。砂漠を歩いている人が水をほしがつていると、本当に水が湧いているようにみえるのと同じことなのでしよう。わたしは気味がわるくなつて、ぞつとしました。それからすぐに花巻の宮沢さんの親戚の清六さんという人の家に行つて、そこにすつかりそろつているブランデンブルグをかけてもらいました。それをきいていると、まるでのどがかわいているとき水をのむように、音楽が身体中にしみわたつてゆくのです。音楽がこんなにも心理的に人間を左右するものだということを発見しておどろきました。それは耳できいているのでなく、皮膚から空気の振動を通してきいているというような感じです。盲目の人が物にふれ、指の先から触覚を通して音をきくというのと同じことです。わたしは人間にこれほど音楽が必要だということをはじめて知つたのです。

正確な筆録はされていないようで、賢治実弟の清六を「親戚」とするなどしていますが、おおむね光太郎の語った通りでしょう。「音楽」というものの本質を、さらっと語る光太郎。さすがです。

ところで「ブランデンブルグ」は、ドイツの地名ですが、そこそのものより、ベルリンの「ブランデンブルグ門」からベルリン動物園の間に広がる広大な森が有名です。光太郎、ドイツには足を踏み入れていませんが、バッハの曲からの連想でしょう、蟄居生活を送っていた太田村の山小屋周辺の森を「ブランデンブルグの森」と呼ぶこともあったようです。

さて、「こうたろう&ちえこ ブランデンブルグの森」、おそらく道の駅はなまき西南さんなどで販売されているのだと思われます。花巻土産の定番の一つとなってほしいもので、ぜひ皆様、お買い上げを。

ついでというと何ですが、先月、智恵子の故郷・福島二本松に行った際に購入したレモンケーキ。
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こちらも道の駅(道の駅「安達」智恵子の里さん)で販売されています。

【折々のことば・光太郎】

のどかに晴、 九時頃中西夫人宅にて皆と一緒にお雑煮を祝ふ、桑原さんが記念撮影、 来訪者なし、 平熱、 風なくよき日和なり、


昭和30年(1955)1月1日の日記より 光太郎73歳

昭和30年(1955)の年明けです。光太郎の生命の炎、あと1年3ヶ月。まだ差し迫ってどうこうという状況ではありませんでした。

中西夫人宅」は、起居していた貸しアトリエの母屋、「桑原さん」は美術評論家の桑原住雄です。

光太郎が戦後の七年間、蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)に隣接する花巻高村光太郎記念館さんでの企画展です。

企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」

期 日 : 2022年11月23日(水・祝)~2023年3月21日(火・祝)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 12月28日(水)~2023年1月3日(火)
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円

彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、戦後、62歳の時に太田村山口(現花巻市)へ移住し、約7年間の独居自炊の生活を送りました。山小屋での光太郎の食事内容は日記等に残されており、野菜等は自給でしたが、村人や友人たちの援助、そして光太郎の工夫により豊かな食生活を送っていたことがわかります。

この企画展では、光太郎の「食」をテーマに、手作りのおやつや好きな飲み物に焦点をあて、光太郎風のハイカラな食の楽しみ方を紹介します。
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同館では、以前にも企画展示「光太郎の食卓」が行われました。その際は光太郎の「食」全般についてのものでしたが、今回は特に「おやつ」に着目しての展示となります。

花巻まち散歩マガジン machicoco(マチココ)』さんで連載中の「光太郎レシピ」や、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」などの考案、調理等に当たられているやつかの森LLCさんの協力で、岩手時代の光太郎日記等から、光太郎が食したであろう「おやつ」を再現した写真パネル、光太郎に食の援助を行った人物の紹介パネルなどの展示になるそうです。

図録、とまではいきませんが、関連する内容をまとめた冊子を無料配付するとのことで、その半分ほどでしょうか、当方が執筆しました。また、そのあたりを元に、オンライン講座の形で当方が講師として語る動画が来月には公開予定です。その収録等のため、来月初めに現地に行って参ります。

もう1件。今年7月、道の駅はなまき西南さんで開催された「器と楽しむ光太郎ランチ」展の巡回が行われています。

器と楽しむ光太郎ランチ

期 日 : 2022年10月20日(木)~11月21日(月)
会 場 : 土沢カフェくるみ 岩手県花巻市東和町土沢8区115
時 間 : 10:00~17:00
休 業 : 火・水曜日
料 金 : 無料
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花巻ご在住のMICHINOさんという方の色鉛筆画で、道の駅はなまき西南さんで販売されている「光太郎ランチ」を洒落た器に盛りつけて描いた作品。それから実際に「光太郎ランチ」に添えられたメニュー表(光太郎の日記等も引用されています)もセットになっています。

また、MICHINOさんの絵本『器と楽しむ光太郎ランチ』も販売されているようです。
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それぞれ、ぜひ足をお運びください。

明日も花巻グルメ系の話題で。

【折々のことば・光太郎】

神経痛は相かはらずいたむ、動くのがおつくう、(略)ラジオなどきいてゐる、 明朝は九時頃中西夫人の方にて雑煮を祝ふこと、


昭和29年(1954)12月31日の日記より 光太郎72歳

神経痛」は結核性の肋間神経痛です。「中西夫人の方」は、起居していた貸しアトリエの母屋。昭和29年(1954)が暮れて行きます。

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ青森県十和田湖でのイベントです。実は申込期間を過ぎてしまっていますが、キャンセル等があるかもしれませんのでよろしく。また、こういう取り組みもあるんだよ、ということで。

ONSEN・ガストロノミーウォーキング in カミのすむ山 十和田湖

期 日 : 2022年11月12日(土)
会 場 : 十和田湖畔休屋(青森県十和田市) 十和田湖休平(秋田県小坂町)
定 員 : 100名 (4枠×25名) ※定員になり次第締め切り
​資 格 : 6km程度の距離を歩ける方
      交通規則及び当イベントのきまりやマナーを守れる方
      年齢、性別等は一切問いません
時 間 :  9:00 受付開始 (十和田湖観光交流センター「ぷらっと」前)
       9:30 晴山獅子舞演舞開始(30分間)
      10:00 枠①スタート   (  9:45受付締切)
      10:30 枠②スタート   (10:15受付締切)
        晴山獅子舞演舞開始(30分間)
      11:00 枠③スタート   (10:45受付締切)
      11:30 枠④スタート   (11:15受付締切)
      15:00 ゴール締切 (十和田湖観光交流センター「ぷらっと」前)
料 金 : 大人・小人(小学生以上)同額 4,000円
       (ガストロノミー(お食事・飲み物)、温泉入浴券、傷害保険)

日本の魅力溢れる温泉地を舞台に、ゆっくりと歩く目線で、その地域の「食」「自然」「文化・歴史」を体感する「ONSEN・ガストロノミーツーリズム」。昨年度よりその趣旨で観光プログラムを取り組み始めて、検証を行なった一般社団法人十和田奥入瀬観光機構はこの度、一般社団法人ONSEN・ガストロノミーツーリズム推進機構が特別協力を担う日帰りイベントシリーズの「ONSEN・ガストロノミーウォーキング」に参入し、十和田湖畔温泉に特有の地域資源をウォーキングによって、一度に満喫できる「ONSEN・ガストロノミーウォーキング in カミのすむ山 十和田湖」を開催いたします。

11月12日(土)に行われる当イベントは、十和田湖畔休屋(青森県十和田市)及び十和田湖休平(秋田県小坂町)エリアの観光スポットを繋ぐ約6kmのコースを、ご参加者各自のペースで15:00までに歩いていただきます。沿道には美味しい地酒と、地元に根ざした食材にこだわった品数豊かな料理が用意され、ゴールではお土産として、地域の誇りの食材及びお菓子の配布がございます。十和田市伝統芸能の晴山獅子舞のご鑑賞や十和田神社のお参りより、この土地ならではの文化もぜひご吟味いただきたく存じます。ウォーキング後は入浴券を利用して、十和田湖畔温泉または奥入瀬渓流温泉に浸かり、お癒しの時間を過ごせます。

当イベントは国立公園である十和田湖の温泉地としての魅力を引き出し、多くの方にご体験いただくことで、地域の活性化を図っております。ご多忙の中、誠に恐縮に存じますが、ぜひご取材、ご紹介賜りますようお願い申し上げます。

ウォーキング距離:6km
所要時間:2〜3時間(温泉入浴時間は含まれておりません)
スタート/ゴール地点:十和田湖観光交流センター「ぷらっと」前 桟橋前広場
見どころ: 晴山獅子舞、十和田神社、乙女の像、十和田ビジターセンター など
※当日の天候等により、コースは予告なく変更する場合がございます。
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「乙女の像」もコースに含まれています。
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その他、雄大な自然を「めぐる」、十和田バラ焼きやヒメマスなどを「たべる」、そして温泉に「つかる」(温泉はコース設定に入って居らず、各自でだそうですが)。「るるぶ」ならぬ「るるる」ですね(笑)。
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これまで、一般社団法人十和田奥入瀬観光機構さんの主宰する冬のイベントは、令和元年度(2019年度)まで「十和田湖冬物語」、そして一昨年度、昨年度と「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe」として、それぞれ長期間の開催でした。しかし今年度は11月12日(土)の一発勝負のようです。昨年度の「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe」開催中に、コロナ禍第7波がズドンと来て大変なことになったのも影響しているのでしょうか。いずれまた旧に復してほしいものなのですが……。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃水野清氏玄関まで、紀念碑や の紙持参、


昭和29年(1954)10月31日の日記より 光太郎72歳

水野清氏」は、親友だった作家・水野葉舟の子息。のちに政界に打って出、建設大臣、総務庁長官などを歴任されましたが、この当時はNHKさんに勤務されていました。令和元年(2019)に亡くなっています。

紀念碑」は葉舟の暮らした千葉成田三里塚に建てられた葉舟歌碑、「 の紙」(空白部分は一字不明)もそれに関わるかと思われます。元々光太郎が揮毫するはずだったのですが、体調がすぐれず断念、代わりに窪田空穂が筆を揮いました。

このところ、紹介すべき事項等が多く、3件まとめてご紹介します。

まず、文京区立森鷗外記念館さんの特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」を取り上げた、『産経新聞』さんの記事。

初出展続々 没後100年「鷗外遺産」展

 森鷗外記念館(東京都文京区)で、特別展「鷗外遺産 直筆資料が伝える心の軌跡」が始まった。今年生誕160年、没後100年の文豪・森鷗外に、さまざまなアプローチで光をあててきた同館が「記念事業のハイライト」という展示。今年明らかになった新資料など、出品総数80点のうち21点が「展覧会初出展」とあって注目されそうだ。
 同展は「書簡篇」「原稿篇」の2部構成。書簡篇の19通のうち、18通は今夏、島根県津和野町の森鷗外記念館への寄託で明らかになった鷗外宛て書簡400通の一部で、もちろんすべて展覧会初登場。
 発信者は、夏目漱石・鏡子、正岡子規、永井荷風、与謝野晶子、小山内薫、高村光太郎、高浜虚子、中村不折ら15人。たとえば、鷗外の推薦で慶應義塾大学教授になった荷風は、雑誌「三田文学」を創刊する際の意気込みなどを報告。虚子は、陶芸家・書家の北大路魯山人から相談を受け、鷗外に紹介する内容(12月1日から展示)。
 原稿篇では大正5年、鷗外が54歳のときの新聞連載「渋江抽斎」の49、50回の原稿や、同作などの史伝出版に向けた広告原稿も今年の新資料。作品執筆の経緯や新聞連載時から出版までの変遷もわかる。
 一方、16歳の鷗外が東大医学部でドイツ語の講義を書き取り、日本語に訳して冊子にした、初めての〝著作〟ともいわれる「筋肉通論」も初出展となった。
 同展監修の須田喜代次大妻女子大名誉教授は「書簡を見ていくと、鷗外を包み込んでいた文化の広がり、鷗外文化圏が浮かび上がる。16歳と54歳のときの原稿も同時に見られる。いずれも丁寧な推敲、修正など、ものを書くときの姿勢が16歳の森林太郎からもうかがえる」と話している。
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同展レポートはこちら。光太郎から鷗外宛書簡について考察しております。

続いて『毎日新聞』さんに月イチで連載の、和合亮一氏による「詩の橋を渡って」。氏が新刊の現代詩集を紹介するというコンセプトですが、光太郎を引き合いに出して下さっています。

野村喜和夫氏の『美しい人生』(港の人)と『シュルレアリスムへの旅』(水声社)、それから谷元益男氏の『越冬する馬』(思潮社)の三冊が取り上げられ、そのうち『越冬する馬』の評で、光太郎の名。

004 谷元益男の『越冬する馬』(思潮社)のタイトルに早くも次の季節の到来を。「老いた男は 何百匹ものサカナを/釣り上げただろう」。高村光太郎は詩を言葉の彫刻であると語ったが、研ぎ澄まされた筆先が心の中の風景や記憶を鮮明に彫り上げる。山や田に囲まれた土地で暮らしている人々の生き様が足し引きなく描かれている。「ダムは ゆらゆらと水を湛(たた)え/山深い色を映して/巨大な一枚の絵のように/静かに 男の前に立っていた」

和合氏、この連載では時折光太郎に触れて下さっています。ありがたし。

令和2年(2020)5月 令和2年(2020)7月 令和2年(2020)12月

最後は雑誌です。平成29年(2019)の朝ドラ「とと姉ちゃん」ヒロインのモデルとなった大橋鎭子が創刊した『暮しの手帖』2022年10-11月号
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元NHKアナウンサーの山根基世さんへのインタビュー「こころざしって何だろう?」中に、やはり光太郎。

 飾り立てた言葉でなくていい。心のこもった、正直な言葉。地に足のついた、人間の言葉を交わしたいと切実に思って。
 「インターネットでは、瞬間の反応でやりとりする言葉があぶくのように生まれていて、それに慣れると、ゆっくり、じっくりとものを考える時間がなくなっていく。思考力が弱っていくのを、私自身も感じています」
 そんななかで折々に思い出すのが、高村光太郎がある小学校に書いて贈った、「正直親切」という言葉だという。
 「若い頃はわからなかったけれど、最近は、人間にとって大切なことだと思うの。ある年齢になった高村光太郎が、本気で気がついて、小学生たちに『覚えておいてね』という気持ちをこめたのではないかしら。熟考された言葉は、短くて簡潔でも、打つ力があるわね」


「正直親切」は、花巻郊外旧太田村に蟄居中だった光太郎が、山小屋近くの山口小学校に校訓として贈った言葉です。残念ながら同校は廃校となりましたが、その跡地にその書を使ったモニュメントが残るほか、光太郎母校の荒川区立第一日暮里小学校さん、光太郎と交流のあった故・田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市の新宿小学校さんに、それぞれ同じ書を刻んだ石碑が設置されています。

記事では山根さんが力を入れられている朗読の勉強会についても触れられています。

それから、光太郎には触れられていませんでしたが、当会会友・渡辺えりさんが連載をお持ちで、これは存じませんでした。題して「あの時のわたし」。もう第23回だそうで。これまでの連載の中で、亡きお父さまと交流のあった光太郎に触れられているのかな、という気がしました。あるいはこれからかもしれません。今度お会いした時に訊いてみます。

というわけで、『暮しの手帖』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

筑摩書房より全集の印税3分の1くる、小切手(230,018円、)冷蔵庫の前借80,000円引らし、

昭和29年(1954)9月12日の日記より 光太郎72歳

全集」は『日本文学全集』第24巻「高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治集」。「冷蔵庫」についてはこちら。それにしても、当時の23万円というのは破格ですね。しかもそれで3分の1。それだけ売れたということなのでしょうが。確かにこの時期からあと、この手の文学全集ものは大流行していきます。

一昨年から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんに入っているテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。今月分の画像を送っていただきました。
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今月のメニューは、新米御飯、石垣団子、チキンソテーきのこソース、鱈と牛蒡の煮込み、りんごと胡桃のサラダ、葡萄ジュース寒天、シュークルート、塩麹入り卵焼き。「収穫の秋」ですので、新米や、りんごなども採れたてのものを使われているのでしょう。

思えば「光太郎ランチ」、お披露目会が行われたのが一昨年の10月でしたので、まる二年となったわけですね。メニューの考案などにあたられている「やつかの森LLC」さん、これ以外にも『花巻まち散歩マガジン machicoco(マチココ)』さんで連載中の「光太郎レシピ」も担当されていて、なかなかに大変だと存じます。どちらも末永く続いてほしいものです。

ところで、まだ詳細が発表されていませんが、来月末から開催される花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示で、次回は光太郎の食、特に「おやつ」系に絞ったものが計画されています。以前には「食」全体についての企画展示が為されましたが、次回は「おやつ」だそうで、実際にお菓子作りの講座等も企画されています。

当方も資料作成等、協力させていただいているところです。詳細が公表されましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】000

新潮の佐野英夫氏くる、ブドウ、桃もらふ、「天上の炎」文庫本のこと


昭和29年(1954)7月9日の日記より 光太郎72歳

佐野英夫氏」は、新潮社の編集者。『天上の炎』は、光太郎が敬愛していたベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの詩集。光太郎訳の元版は大正14年(1925)に新しき村出版部から刊行されました。その後、昭和26年(1951)には白玉書房から復刊。さらに昭和27年(1952)には、創元文庫のラインナップに入りました。そして新潮文庫。こちらは翌昭和30年(1955)に出ました。解説は創元文庫と同一の、金子光晴によるものでした。

詩人の新藤凉子氏が亡くなりました。

「時事通信」さん。

詩人の新藤凉子さん死去003

 新藤凉子さん(しんどう・りょうこ=詩人、詩誌「歴程」編集発行人、本名古屋涼子=ふるや・りょうこ)7日、間質性肺炎のため死去、90歳。鹿児島県出身。葬儀は家族で行った。歴程が後日、お別れの会を開く。喪主は長女美可(みか)さん。
 衣装研究室や文壇バー経営を経て「歴程」に参加。詩集「薔薇ふみ」で高見順賞。「連詩 悪母島の魔術師」(河津聖恵さん、三角みづ紀さんとの共著)で藤村記念歴程賞を受賞。日本現代詩人会の会長も務めた。

『読売新聞』さん。

「歴程」編集発行人で詩人の新藤凉子さん死去、90歳…詩集「薔薇ふみ」で高見順賞000

 詩誌「歴程」編集発行人で日本現代詩人会元会長の詩人・新藤凉子(しんどう・りょうこ、本名・古屋涼子=ふるや・りょうこ)さんが7日、間質性肺炎で死去した。90歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は長女、美可さん。
 鹿児島県生まれ。歴程の編集発行人を務めた。詩集「薔薇(ばら)ふみ」で高見順賞、詩集「薔薇色のカモメ」で丸山薫賞、河津聖恵、三角みづ紀さんとの連詩集「連詩 悪母島の魔術師」で藤村記念歴程賞を受賞した。

新藤氏、記事に有る通り、詩誌『歴程』の編集権発行人を務められていました。同誌は当会の祖・草野心平が創刊し、光太郎や宮沢賢治なども同人に名を連ねていたものです。

その『歴程』、心平追悼号(平成2年=1990)に氏が寄せられた「心平さんの思い出」から。

 心平さんは歴程を大切にされたが、歴程とは、そもそも何であったのだろうか。私にとっては、青春、そのものであったような気がする。昭和三十七年から今日まで、思えば肉親と同居するよりも、その付き合いは長い。それは偏に、心平さんの自在な人柄によるものだったと、今にしてつくづく思う。
 「伝統だよ、伝統……」と、歴程がいつまでも続くことを念願としておられたが、何よりも「先生」と呼ばれることを嫌われた。「若い人の方が未来がたくさんあるのだから、僕は若い人が先生だと思うよ」とのことである。誰もがシンペイさんと、親しみを込めてお呼びするのが、習わしだった。


当方、心平を祀る福島県川内村での「天山祭り」の際に、何度かお会いしました。氏は『歴程』を受け継がれたお立場でのスピーチや、心平作品の朗読等をなさいました。

『歴程』といえば、今朝の『朝日新聞』さんには、やはり一時『歴程』に依られた安水稔和氏の訃報も出ており、「えー」と言う感じでした。新藤氏と二日連続でしたし。

安水稔和さん死去004

 安水稔和さん(やすみず・としかず=詩人、元神戸松蔭女子学院大教授)8月16日に死去、90歳。葬儀は近親者で営んだ。
 神戸市生まれ。「歴程」同人などをへて、84年に詩誌「火曜日」を創刊(15年終刊)。89年、詩集「記憶めくり」で地球賞。95年の阪神・淡路大震災で自宅が半壊し、1週間後に詩「神戸 五十年目の戦争」を書いた。以降、震災について積極的に執筆し続け、詩集「生きているということ」は99年に晩翠賞を受けた。詩集「椿崎や見なんとて」で01年に詩歌文学館賞、詩集「蟹場まで」などで05年に藤村記念歴程賞。

謹んでご冥福をお祈り申し上げますと同時に、今後の『歴程』さん、心平や光太郎、賢治などから連綿と続くDNAを絶やさぬよう、そしてますますのご発展を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

午后草野心平、佐野英夫氏くる、一緒に神田の病院にゆき関先生に見てもらふ、レントゲン検査、心臓肥大ある由、


昭和29年(1954)5月26日の日記より 光太郎72歳

めっきり衰えた光太郎を案じ、心平と、新潮社の編集者・佐野英夫が、神田の出版健康保険組合診療所に光太郎を連れて行きました。「関先生」は関覚二郎。同所勤務の医師で、これ以前に美術史家の奥平英雄が光太郎に紹介した岡本圭三医師らと共に、いわば「チーム光太郎」として診療に当たりました。

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、青森県十和田湖からの情報です。

状況をわかりやすくするために、まずABA青森朝日放送さんのローカルニュースから。ただし、先月のもので、「17日」は9月17日(土)です。

「十和田湖ひめます」を味わって! 17日からキャンペーン開催

地域団体商標に登録されている「十和田湖ひめます」の、認知度向上を図るキャンペーンが17日から始まります。
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12日は、「十和田湖ひめますブランド推進協議会」の佐々木千佳子会長たちがキャンペーンをPRしました。期間中、十和田市や秋田県小坂町にある27の認証店舗が提供するヒメマス料理を食べて応募すると、抽選で50人に2千円相当の特産品が当たります。
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こちらは、十和田食堂の「十和田湖ひめますづけ丼定食」です。
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【「十和田湖ひめますブランド推進協議会」 佐々木千佳子会長】
「(ヒメマスは)甘い、とにかく身が軟らかくて甘い、そして奇麗なピンク色というのはなかなか目にすることはないと思うのですよ」
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キャンペーンは、17日から11月6日まで行われます。
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というわけで、詳細は以下。

十和田湖ひめますを食べようキャンペーン

”十和田湖ひめます”の魅力を広く皆さんに伝えるため、十和田湖ひめます認証店によるキャンペーンを開催します。食べ比べをするなど、十和田湖ひめます料理の美味しさをご堪能ください。

また、期間中に十和田湖ひめます料理を食べて応募した方から、抽選で50名様に十和田市または小坂町の「特産品」をプレゼントいたします。

応募用紙は各店舗に備え付けてあります。

開催期間 9月17日(土)~11月6日(日)

参加店(全27店舗

参加方法
十和田湖ひめます認証店にて、十和田湖ひめますメニューを食べると、応募用紙がもらえます。アンケート、必要事項を記入の上、認証店に設置してある応募箱に投函し、応募してください。

主催 十和田湖ひめますブランド推進協議会(事務局:とわだ産品販売戦略課内) 0176-51-6743
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上記マップのPDFファイル中に「乙女の像」の語があって、当方の検索網に引っかかった次第です。ヒメマスに舌鼓を打たれたあとは、ぜひ「乙女の像」にも足をお運びください。十和田湖周辺は、今夏の大雨被害が大変でした。その復興支援にもなりますので、是非よろしくお願いいたします。また、これから紅葉シーズンですし。

ちなみに認証店のロゴは、「乙女の像」もモチーフとしているそうです。多少の無理くり感が否めませんが(笑)。
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「乙女の像」といえば、テレビ番組の再放送。

ニッポン美景めぐり 十和田・奥入瀬

BSフジ 2022年10月17日(月) 01:05〜01:33

日本の美しい景観を求めて、俳優・和合真一がカメラ片手に日本各地をめぐる旅番組。
今回の旅先は、青森県の十和田市。十和田ビジターセンターで十和田湖の歴史を学ぶ。名産のひめます料理やご当地グルメを味わう。美しい景勝地、奥入瀬渓流を散策。大自然が生んだニッポンの美景をご紹介。

旅人:和合真一  ナレーター:服部潤
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初回放映は昨年7月。さらにその後、繰り返し再放送されていますが、ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。こちらでもヒメマス料理が紹介されますし。

【折々のことば・光太郎】

午后奥平さんとお医者さん岡本氏とくる、診察してもらふ、尚毎月一度みてもらふつもり、

昭和29年(1954)5月16日の日記より 光太郎72歳

かなり前から結核の自覚症状があったにもかかわらず、「肺の毛細血管が弱いので……」などと、頑として認めなかった光太郎。しかし、もはや彫刻制作不可能となった体調に、とうとう白旗を揚げました。

奥平さん」は、美術評論家の奥平英雄。「お医者さん岡本氏」は、岡本圭三医師。この後で加わる他の医師ともども、その死まで光太郎の主治医として診察、治療に当たってくれました。

元プロレスラー・国会議員のアントニオ猪木氏が亡くなりました。

「共同通信」さん。

アントニオ猪木さんが死去 プロレスブームをけん引

007 「燃える闘魂」のキャッチフレーズで昭和、平成のプロレスブームをけん引し、参院議員も務めたアントニオ猪木(本名猪木寛至=いのき・かんじ)さんが1日午前7時40分、心不全のため自宅で死去した。79歳。横浜市出身。マネジメント会社が明らかにした。
 中学の時にブラジルに移住。遠征した力道山の目に留まり、17歳の時に日本プロレス入団。力道山の死後、ジャイアント馬場とのコンビでプロレス人気を復活させた。
 89年にスポーツ平和党(当時)から出馬し参院選に当選。2013年の参院選では日本維新の会から立候補して国政へ復帰した。20年に心臓の病気を患っていることを公表した。

猪木さんといえば、今年5月にこのブログサイトで猪木さんについてご紹介させていただきました。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖にほど近い蔦温泉に「猪木家の墓」を建てられ、奥様の納骨をなさったという件。

各種訃報の中にも、その件に触れられたものが。

ABA青森朝日放送さん。

アントニオ猪木氏死去 青森・蔦温泉に猪木家の墓 「ゆかりの地」で死を悼む

 元プロレスラーのアントニオ猪木さんが亡くなりました。79歳でした。
 アントニオ猪木さんは、力道山にスカウトされてプロレスの道に入り、1972年に「新日本プロレス」を設立、プロレス全盛時代を築きます。1989年の参議院選挙で初当選し、国会議員となりました。
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【藤原祐輝アナウンサー】
 「十和田市、蔦温泉旅館のすぐ近くに猪木家のお墓があります。猪木さんご夫婦は生前、この蔦温泉を訪れ夫婦水入らずの時間を過ごしていたということです」
 「道」と力強く刻まれた猪木家の墓。2019年に亡くなった妻・田鶴子さんの納骨が5月に行われました。猪木さんの訃報を受け、お墓に手を合わせる人の姿も。
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【墓を訪れた男性】
 「いつも元気いっぱいで、私も元気もらっていましたね。私も随分力をもらったので、天国でも安らかに眠っていただきたいと思います」
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 蔦温泉旅館には猪木さん直筆の詩が飾られています。5月に訪れた際には、明るい人柄で周囲を笑わせていたそうです。その数カ月後の訃報…。
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【蔦温泉旅館・新山耕生支配人】
 「本当にびっくりですね。蔦温泉を見守っていただければなと思います」
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『日刊スポーツ』さん。

【猪木さん死去】妻田鶴子さんと通っていた青森・蔦温泉近くに墓建てていた 墓石に「道」足下に詩

 1日に79歳で亡くなったアントニオ猪木さんは、青森県十和田市の蔦温泉旅館近くに「アントニオ猪木家の墓」を建てていた。
 蔦温泉旅館は猪木さんと妻田鶴子さんが生前通っていたゆかりの地。猪木さんは今年5月22日に建立式を開き、19年に亡くなった田鶴子さんの納骨の儀を行っていた。墓の高さは猪木さんの現役時代の身長と同じ190センチ。墓石には「アントニオ猪木家」。詩集も出している猪木さんがよく口にした詩の題名「道」の文字が大きく刻まれ、足下には詩も記されている。
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 蔦温泉旅館は田鶴子さんについてホームページで「全身全霊でアントニオ猪木様に人生をささげてきた方。魅力あふれる女性でした」とし、旅館でのひと時を「良い思い出ばかりです」とつづっている。
 旅館は宿を愛した作家大町桂月の墓をおよそ100年に渡り管理している。猪木さんは旅館の墓の管理方法に信頼を置き、蔦温泉旅館を墓の場所に選んだという。墓は八甲田連峰内の旅館近くにある。

十和田湖の景勝美を広く世に紹介した明治の文豪・大町桂月にも触れられています。猪木家の墓は桂月の墓の並びに建てられました。ちなみに光太郎の「乙女の像」、元々は桂月ら、周辺の国立公園指定の礎を築いた「十和田の三恩人」を顕彰するというコンセプトで建てられたものでした。他の二人は元県知事の武田千代三郎、元法奥沢村長・小笠原耕一です。

仙台に本社を置く『河北新報』さん。

猪木さん、東北にも縁 仙台のおでん屋行きつけ、十和田に墓建立

 1日に死去したアントニオ猪木さんは東北にたびたび足を運び、各地で親交を結んできた。今年5月には青森県十和田市の蔦温泉旅館近くに「アントニオ猪木家の墓」を建てており、先年亡くなった最愛の妻田鶴子さんと共に葬られる見通しだ。
 「あまりにも突然のことでびっくりした」。行きつけだった仙台市青葉区一番町の「おでん三吉」の2代目、田村忠嗣さん(78)は驚きを隠せない様子だ。
 猪木さんの元妻、俳優倍賞美津子さんの父と田村さんの父が戦友だったのが縁で、交流が続いてきた。猪木さんは興行で仙台を訪れるたび、他の選手を連れて来店した。
 今年は墓の建立式に向かう途中で店に寄った。プロレス中継の実況で一世を風靡(ふうび)したフリーアナウンサーの古舘伊知郎さんと、定番の大根やイイダコなどのおでんをつまみながら、数年ぶりという酒を楽しんだ。
 車いすでの来店だったが、田村さんは「思っていたよりも元気だった」と回想する。同い年で「(えとの)ヒツジは高尚な動物なんだ」と2人で笑い合った思い出を語り「気さくな方だった」と冥福を祈った。
 「アントニオ猪木家の墓」は蔦温泉旅館から歩いて3分ほどの八甲田山麓に、ひっそりとたたずむ。「迷わず行けよ 行けば分かるさ」。墓石には猪木さんが引退試合のスピーチで残した名フレーズが刻まれている。
 蔦温泉は、猪木さんが最愛の妻・田鶴子さんと蔦温泉を繰り返し訪れていた思い出の地。墓を管理する城ケ倉観光(青森市)によると、猪木さんは墓を建てた理由を「ご縁というか、必然というか…」と話していたという。
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青森県の地方紙『デーリー東北』さん。

八戸の定宿に思い出の品々 十和田・蔦温泉には墓建立/アントニオ猪木さん死去

 アントニオ猪木さんはレスラー時代から晩年に至るまで、北奥羽地方ともゆかりが深かった。巡業で八戸市を訪れた際の定宿は、同市寺横町の老舗「柏木旅館」。旅館には、宿泊時の写真や新日本プロレスの創立10周年を記念して贈られた感謝状など思い出の品々が今も残る。
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 滞在時は2代目おかみの故柏木マツヱさん、3代目のまゆみさん(91)と仲良く茶の間で話していたという猪木さん。
 まゆみさんの娘、七穂さん(61)は「気さくでおおらかで優しい人だった。お酒はほとんど飲まず、茶の間で自分の家のようにくつろいでいた」と振り返る。
 市内でサバの塩焼きを購入していたことや、当時からプロテインを飲んで体づくりをしていたことも印象深いという。
 坂口征二さんやストロング小林さんらといった往年のスター選手と、旅館でマージャンを楽しんでいたエピソードも。七穂さんは「(体が大きいので)牌が小さく見えて面白かった」と懐かしむ。
 近年は疎遠になっていたが、闘病を知り、陰ながら応援していた。「亡くなったと聞いて驚いた。何とか治ってくれればと思っていたが」としのんだ。
011 猪木さんは晩年、十和田市の名湯・蔦温泉のコマーシャルにも出演していたほか、温泉近くに「アントニオ猪木家の墓」も建立。温泉ホームページによると5月に、猪木さんの亡妻・田鶴子さんを納骨しているという。
 訃報が届いた1日、墓には多くのファンが足を運んだ。正面に力強く「道」と刻まれた墓石。訪れた人たちは静かに手を合わせたり花を供えたりして、冥福を祈った。
 十和田市の男性会社員(37)は、「自分と知人が猪木さんの大ファン。今日はその知人の分もと思い、花を手向けに来た。病気療養中と聞いていたので、あまり長くないのかもしれないと覚悟はしていたが、残念です」と話した。

ただ、気になるニュースも。『東京スポーツ』さん。

アントニオ猪木さんのお墓は横浜市内の菩提寺に 愛妻が眠る場所とは別なワケ

 〝燃える闘魂〟のお墓はどうなるのか。1日朝に心不全で亡くなったプロレス界のスーパースター、アントニオ猪木さん(享年79)は、故郷の神奈川・横浜市鶴見区内にある猪木家の菩提寺に葬られる方向で、調整されていることがわかった。
 横浜市鶴見区出身の猪木さんは、13歳でブラジルに移住するまで同市内で育った。複数の関係者によると、猪木さんの生前から故郷・鶴見にある猪木家の墓に納骨すると取り決められており、その遺志に沿って調整されているという。
 猪木さんは、今年5月に故・田鶴子夫人とゆかりのある青森・十和田市内に「アントニオ猪木家の墓」を建立。自身も青森を訪れ、その様子をユーチューブチャンネルで公開していた。
 ただ、青森の墓は「アントニオ猪木家の墓」であり、猪木さんは本名の「猪木寛至」として葬られることを望んでいたようだ。

いずれにせよ、蔦温泉の「アントニオ猪木家の墓」、プロレスファンの聖地となるような気がします。同じ並びに墓のある大町桂月ら「十和田の三恩人」や「乙女の像」にもまたスポットが当たってほしいものです。

ちなみに当方、猪木さんの試合等は生で拝見したことはありませんが、お会いしたというか、お見かけしたというか、そういう経験はあります。

バブル前夜の学生時代、大学の合唱団に所属しており、団としてテレビの仕事も何度かさせていただいたりしまして、そのうち、昭和61年(1986)の大晦日、新高輪プリンスホテルさん飛天の間で公開生中継が行われた、当時あった歌番組「夜のヒットスタジオ」。この日は「世界紅白歌合戦」と銘打って、衛星生中継でロッド・スチュワートさんなどもご出演。当方らは谷村新司さん「昴」のバックコーラスをやりました。その頃の同番組司会が古舘伊知郎さん。古舘さんといえば、猪木さんの試合の実況でも有名でした。その関係でしょうか、客席に(ディナーショー形式でした)猪木さんがいらっしゃっていて、番組の合間に「猪木さんもいらしてます」的な紹介がありました。第一印象は「とにかくデカい」(上記、蔦温泉の「アントニオ猪木家の墓」の高さが190㌢で、現役時代の猪木さんの身長だそうです)。

体格だけでなく、人間的にも大きな人だった猪木さん。平成2年(1990)の湾岸戦争では、イラクに連行されたクウェート在留邦人41人の解放にご尽力されたり、「スポーツ外交」ということで、北朝鮮とのパイプを何とか繋げようと33回も渡航されたりなさいました。

対北朝鮮では、確かに目に見える大きな成果は上げられなかったかもしれません。「渡航制限のある国に行くのはいかがなものか」と苦言を呈したのは、当時の外務大臣。ちなみにその人物は先月、呼ばれもしていない英女王の国葬に「参列見送り」を表明して失笑を買いましたし、その後の「弔問外交」とやらでも何らかの成果があったということが報じられていません。そんな輩が何をか言わんや、ですね。

閑話休題。猪木さんのご冥福、衷心よりお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃上條憲太郎氏、岡茂雄氏、笹村氏くる、酒一升もらふ、談話30分、「坑夫」の揮毫を笹村氏に渡す、

昭和29年(1954)4月11日の日記より 光太郎72歳

上條憲太郎氏」は、元長野県教育長。「岡茂雄氏」は長野県出身の出版人。「笹村氏」は彫刻家の笹村草家人です。昭和33年(1958)に開館する碌山美術館さんに関する相談と思われます。

坑夫」は、荻原守衛滞仏中の彫刻で、光太郎が石膏にとって日本に持ち帰るように勧めました。「揮毫」は、碌山美術館さんに隣接する穂高東中学校さんに翌年除幕された「坑夫」の題字です。
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大正元年(1912)夏、結婚前の光太郎智恵子が愛を確かめ合った千葉県犬吠埼でのイベントです。

駅からハイキング ~関東最東端の犬吠埼と文学碑めぐりウォーキング・化石海水温泉を楽しむ~

期 日 : 2022年10月1日(土)~12月25日(日)
会 場 : 千葉県銚子電鉄笠上黒生駅~同犬吠駅
時 間 : 受付時間  9:00~12:00
      ゴール時間 安全にご参加いただくため16:30までにゴールしてください。
料 金 : 無料

JR 東日本の「駅からハイキング&ウォーキングイベント」。四季折々の絶景ポイントを味わいながら気軽に参加できる日帰りイベントです。参加無料!

【銚子電鉄共同開催】銚子を愛した文人墨客たちの足跡をめぐろう。ゴールは犬吠埼温泉でリラックス。犬吠埼灯台や銚子ジオパークの森など銚子の見どころ満載のコースです。
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駅からハイキング」は、JR東日本さんのキャンペーン的なイベント。様々なコースが設定されています。一部を除き参加予約は不要で、専用のスマートフォンアプリ「駅からハイキング」をダウンロードして、「コースに参加する」ボタンを押し、参加するコースを選択後、コースマップを元にハイキングスタート!同一日の受付時間内にスタートし、ゴール時間内までにゴールするというものです。参加回数に応じてドリンクなどが当たるプレゼント抽選に参加できるそうです。

さて、「関東最東端の犬吠埼と文学碑めぐりウォーキング・化石海水温泉を楽しむ」。銚子電気鉄道(銚子電鉄)さんとの共同開催で、スタート、ゴール共に同鉄道の駅となっています。
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銚電さんのサイトはこちら。「ハイキング、ウォーキングが好きな方はもちろん、国木田独歩や高村光太郎などの多くの文学碑がありますので、「文豪ストレイドッグス」がお好きな方や「文豪とアルケミスト」の特務司書の皆様にもおすすめです」とあり、当方の検索網に引っかかった次第です。ただし、光太郎文学碑はありませんのでよろしく。ぜひ建立されてほしいものなのですが……。

まぁ、それでも地球の丸く見える丘展望館さん、光太郎智恵子が宿泊したぎょうけい館さんなどの内部に光太郎智恵子に関する案内板等は設置されています。

また、今回のフライヤーにも光太郎智恵子の名。
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ちなみにトリビア的に紹介されている他の2件、東映さんのオープニング「荒波に磯」が犬吠埼だというのは存じていましたが、三越さんの包装紙も犬吠由来というのは今回初めて知りました。学生時代、三越さんでがっつりバイトをさせていただき、この包装紙でお歳暮の包装などもさんざんやったのですが(笑)。それから猪熊弦一郎デザインというのは存じておりましたが、やなせたかし氏の手も入っていたというのも初耳でした。

参加には、銚電さんの1日乗車券「弧廻手形(こまわりてがた)」(大人700円、小児350円)があると便利ですね。「ハーブガーデンポケットに設置してあるチラシとセットで、犬吠駅売店でお見せいただくと、ぬれ煎餅1枚をプレゼント!」だそうです。
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ところで銚電さんのサイトでは、上記の通りアニメ「文豪ストレイドッグス」やゲーム「文豪とアルケミスト」も持ち出されていますが、今回はそれらとは公式のタイアップではないようです。また別の機会にでもそれらときちんと提携し、「文豪列車」など運行してみるのもいいかもしれない、と思いました。これまでにアイドルグループとのタイアップや、お化け屋敷的なホラー列車などは実現していますので。

というわけでコロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜在宅、 〈机上の春蘭よく匂ふ、夜、〉


昭和29年(1954)4月2日の日記より 光太郎72歳

「春蘭」は銚子出身の詩人・宮崎丈二から贈られたものです。このちょうど2年後が、光太郎の命の尽きる日でした。

光太郎第二の故郷・岩手花巻がらみで、光太郎に関わる雑誌記事を2件ご紹介します。

まず、『日本古書通信』さん9月号。稀覯本コレクターにして秀明大学さん学長であらせられる、川島幸希氏の寄稿『近代作家の資料⑦ 宮沢賢治の詩稿付特製本』が掲載されています。
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題名にある「宮沢賢治の詩稿付特製本」は、宮城県で開かれた古書入札会に出たもので、昭和14年(1934)刊行の十字屋書店版『宮沢賢治全集』第三巻。それに先立つ昭和9年(1934)に文圃堂から出た最初の『宮沢賢治全集』(光太郎も編者の一人として名を連ねました)の紙型を転用したものです。題字も文圃堂版のために書かれた光太郎の揮毫が使い廻されています。
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こちらの見返しに、賢治の草稿の一部が貼り付けてあるというのです。そして、全集編纂に協力したという菊池暁輝宛の献呈署名。賢治は既に歿しており、実弟の清六の筆跡です。
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表紙には宮沢家の家紋。奥付には「宮沢家蔵版」と印刷され、検印の下には「特製第9号」の文字とゴム印。

川島氏、以前に同じ本の中島健蔵宛、やはり賢治の草稿が貼られたものをご覧になったことがあったそうです。また、谷川徹三(谷川俊太郎氏父君)宛のものも存在したとのこと。中島、谷川とも『宮沢賢治全集』編纂者です。そこで、これらの特製本は全集完成の礼として、清六が編纂者等に贈ったものではないか、というわけです。

編纂者としてクレジットされているのは中島、谷川以外に、清六、当会の祖・草野心平、光太郎、賢治の親友・藤原嘉藤治、森荘已池、横光利一の計8人。第1~8号はそれらの人びとに贈られ、菊池は編纂者ではありませんが、協力者ということで、「第9号」という推理です。有り得ますね。

その通りだとすれば、光太郎の手許にもあったはずなのですが、たとえそうだったとしても、昭和20年(1945)4月13日の空襲で、光太郎自宅兼アトリエと共に灰燼に帰してしまった可能性が高いように思われます。もし残っているとすれば、とんでもないものですが……。光太郎が誰かに貸し、その人物がいわゆる「借りパク」でもしていたら、残っているかもしれませんが……。光太郎の周辺で、一番借りパクをしそうなのは当会の祖・心平ですが(笑)、心平にも同じものが贈られたのであれば、その必要はありませんし。

しかし、ロマンのある話です。

もう1件。今年から季刊になった(以前は隔月刊)『花巻まち散歩マガジン machicoco(マチココ)』さん。通巻第32号です。
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平成29年(2017)の創刊号以来の連載「光太郎レシピ」。道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」同様、メニューの考案、調理等に当たられているのはやつかの森LLCさんです。

今号は「そば粉のガレットロール」。
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料理好きな方、ぜひ挑戦してみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后宮崎丈二氏くる、「魴鮄」の木彫持参、現存のこと分る、友人の道具屋所有の由、

昭和29年(1954)3月4日の日記より 光太郎72歳

この木彫「魴鮄(ほうぼう)」は大正13年(1924)の作。昭和2年(1927)の大調和美術展、昭和4年(1929)の荻生会主催美術展覧会に出品されたりもしました。その後、買い手がついて光太郎の手から離れました。

昭和20年(1945)の「回想録」に以下の記述があります。

私の乏しい作品も方々に散つて、今は所在の解らないものが多い。『魴鮄』など相当に彫つてあるので、時々見たいと思ふけれども行方不明である。何か寄附する会があつて、そこに寄附して、その会に関係のある人が買つたといふ話だつたが、その後平尾賛平さんが買つたといふ事も聞いたが、どうなつたか分からない。

平尾賛平はレート化粧品を商標とした平尾賛平商店の主。おそらく二代目で、東京美術学校に奉職する前の光雲に援助などもしていました。

その「魴鮄」を持ち込んだ宮崎丈二は、光太郎と交流のあった詩人。光太郎歿後の昭和37年(1962)に、この「魴鮄」を謳った詩を発表しています。

  蘭と魴鮄

花を開き初めた春蘭が
葉を垂れてゐる鉢の傍へ
高村光太郎作魴鮄を置いて眺める010
これはいゝ
思はず自分はさう云ひながらも
この心に叶つた快さを
どう説明していゝかは知らない

魴鮄はその面魂(つらだましい)を
それに打ち込んだ作者をさながらに現して
むき出しにしてゐる
ぎりぎりの簡潔さ しかも余すところなく
きつぱりとそのかたちに切られて
そして今こゝに
蘭の薫を身に染ませて

宮崎と親しく、光太郎アトリエにも出入りしていた北海道の材木商・浅野直也がこの後、「魴鮄」を入手、光太郎歿後の各種展覧会に出品されました。しかし、昭和41年(1966)、西武百貨店SSSホールで開催された「高村光太郎と智恵子展――詩情に生きる〈美と愛〉」以後、出品の記録が見あたりません。未だ現存しているのでしょうか。そうとすればぜひ見てみたいものです。

芸術の秋となりまして、このブログサイトにて紹介すべき事項がかなりたまって参りました。本日は光太郎第二の故郷・岩手花巻発の情報を5件ほどまとめて。

時系列順に、まず9月12日(月)、IBC岩手放送さんローカルニュース。花巻高村光太郎記念館さんで現在開催中の企画展示「光太郎、海を航る」についてです。

光太郎の海外留学時代の足跡たどる ゆかりの地で企画展/岩手・花巻市

 日本を代表する詩人で彫刻家の高村光太郎の海外留学時代の足跡をたどる企画展が、ゆかりのある岩手県花巻市で開かれています。
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 高村光太郎は東京美術学校=現在の東京藝術大学を卒業後、1906年からアメリカ、イギリス、フランスの3か国へ留学しています。
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光太郎が晩年を過ごした花巻市にある「高村光太郎記念館」では、企画展「光太郎、海を航る」が開かれていて、初公開となるイタリアから弟に宛てた絵はがきや解説付きのパネルなどが展示されています。
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およそ3年余りの海外生活は光太郎の価値観を大きく変え、旧態依然とした日本美術界に不満を持つようになります。会場にはこのほかにも留学時代を思う直筆の短歌や世界的な視野に立った芸術評論の原稿なども展示されています。
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企画展「光太郎、海を航る」は9月30日まで花巻市の高村光太郎記念館で開かれています。

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続いて9月15日(木)、市発行の『広報はなまき』さん。「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」という連載で花巻高村光太郎記念館さんの収蔵品をご紹介下さいました。
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こちらの書幅は、企画展示「光太郎、海を航る」の方ではなく、常設展示室の方に出品されていたと思います。

同じく9月15日(木)、一昨年から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。今月分の画像を送っていただきました。
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すりリンゴ入り蒸しパン、白六穀御飯、鶏肉カレー炒め、茄子の串焼き、大根菜の炒め、かぼちゃサラダ、塩麹卵焼き、きゅうりの糠漬け、フルーツ(ぶどう)だそうです。

メニューの考案などにあたられている「やつかの森LLC」さん、9月12日(月)には、花巻市の社会教育施設「まなび学園」さんで活動されている「わかくさ女性学級」での出前講座。「高村光太郎の山荘~ハイカラ料理を知ろう」と題し、光太郎が郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を送っていた頃の様子を寸劇にしたり、光太郎の「食」について紹介したりなさったそうです。こちらでも光太郎ゆかりのお弁当。
愛ちゃんの栗拾い
開会あいさつ
光太郎と菅原先生
山の少女朗読
かぼちゃのエピソード
ランチボックス
ランチボックス盛り付け
最後に『読売新聞』さん岩手版の記事。9月17日(土)の掲載でした。

賢治自筆「雨ニモマケズ」…記念館で手帳展示、県内6年ぶり

 花巻市の宮沢賢治記念館で、賢治が代表作の詩「雨ニモマケズ」を書き残した自筆手帳が16日、公開された。県内での展示は6年ぶりで、10日間限定の25日まで。貴重な手帳を一目見ようと多くの人が訪れている。
 手帳の大きさは縦13・1センチ、横7・5センチで、黒革で覆われている。165ページにわたり、文学作品の下書きやメモ、経典などが記され、「雨ニモマケズ」は51ページから60ページに書かれている。
 詩は、賢治が花巻の実家で闘病中だった1931年11月3日に書かれたものと推察されており、2年後の33年9月、賢治は37歳で生涯を閉じた。手帳は賢治の没後、東京都の喫茶店「モナミ」で高村光太郎や草野心平らを中心に開かれた追悼会で、弟・清六氏が持参した賢治愛用のトランクから見つかった。
 同館の牛崎敏哉学芸員は「本来人に見せるものとして書いたわけではない賢治の晩年の願いや祈りが込められている」と指摘する。
 初日の16日は、来館者が手帳に顔を近づけながら鉛筆の文字を観察する姿が見られた。手帳を見るために静岡県藤枝市から訪れた公務員名手小枝さん(55)は「当時この手帳を手にとって詩を書いたと思うと感慨深い。汗などもきっとにじんでいるのでしょう」と話していた。
 19日は、清六氏の孫・宮沢和樹氏による講演も行われる。開館は午前8時半~午後5時(入館は午後4時半まで)。入館料は一般350円、高校生・学生250円、小・中学生150円。問い合わせは同館(0198・31・2319)へ。
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岩手めんこいテレビさんのローカルニュースでも取り上げられていました。

賢治直筆『雨ニモマケズ』手帳公開 2016年以来2回目の限定公開<岩手・花巻市>

 普段は見ることができない宮沢賢治が手帳に書いた直筆の「雨ニモマケズ」。岩手県花巻市の宮沢賢治記念館では、開館40周年を記念して9月16日からこの手帳が公開されています。

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 2022年で開館40周年を迎えた花巻市の宮沢賢治記念館で、16日から始まった特別展示の目玉は、賢治直筆による『雨ニモマケズ』が書かれた手帳です。この手帳は、賢治生誕120周年にあたる2016年に一度だけ公開されたもので普段はお目にかかる事は出来ません。2021年、東北を中心とした大型観光キャンペーンの期間中に公開される予定でしたが延期となっていました。
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 この他にも貴重な作品が数々展示されていて訪れた人を楽しませていました。
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 大阪から来た人「(雨ニモマケズ)はイメージ残ってるので本物が見れて嬉しいです。直筆よね、貴重な経験だと思います」
 これらの貴重な作品は、9月25日まで展示されています。

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こちらには光太郎の名は出ませんでしたが、手帳の「発見」の現場となった、賢治歿後の昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の写真がパネル展示されているのがわかりました。『読売』さん記事はこのあたりを参考になさったのでしょう。光太郎は前列左から4人目です。
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さて、花巻。秋のいい季節となります。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

盛岡大慈寺小学校長さん佐藤氏くる、


昭和29年(1954)1月15日の日記より 光太郎72歳

光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居していた頃からの知り合いだった、盛岡の小学校長・佐藤憲政が、中野の貸しアトリエを訪問しました。このように、花巻や盛岡の人々が、上京したついでに光太郎の元を訪れるケースはあとを断ちませんでした。それだけ慕われていたということなのでしょう。

028明後日、英国のエリザベス女王の国葬が行われるとのこと。

同女王は大正15年(1926)のお生まれで、当会顧問であらせられた故・北川太一先生より1歳年少でした。即位されたのは昭和27年(1952)。光太郎の書き残したものにその御名は確認できていませんが、現上皇陛下が翌年、女王の戴冠式出席のため、横浜から船でイギリスに向かわれた際の談話が残っています。

明治以来イギリスの影響をもつとも多く受けていながら、いまの日本で一番欠けているのはジヨンブルのイギリス的性格だ。人間同士が信じ合うこと、不信に対するきびしい批判――他の国では持ち得ないものである。(談話筆記「皇太子さまを送る」より 昭和28年=1953) 

欧米留学中の明治40年(1907)から翌年にかけ、ロンドンにも居住していた光太郎。芸術の分野ではあまりイギリスから学ぶことはなかったと述懐していますが、人々の暮らしぶり、重厚な伝統などには非常に好感を持っていたようです。「ジヨンブル」は「典型的英国人」の意。

同女王、明治43年(1910)、日英博覧会の際に英王室へ日本から贈られた「台徳院殿霊廟模型」(光太郎の父・光雲が監督となって制作)を、平成27年(2015)に、日本に返還する労を執って下さいました。現在、芝増上寺さんの宝物展示室で公開されています。

その国葬が明後日だそうで、既に献花に訪れる一般国民が5㌔㍍もの長蛇の列を成していたというニュースを昨日拝見しました(今朝のニュースでは8㎞)。およそ国葬に値しない人物の国葬を強行しようとし、反対のデモの列が生じているどこぞの国とは大違いですね(笑)。ついでにいうなら呼ばれもしないのに参列見送りを発表して失笑を買ったトンマもいる国ですが(笑)。

さて、「国葬」というと、光太郎にずばり「国葬」の語を題名に使った詩があります。昭和18年(1943)、山本五十六元帥の国葬に際し、『毎日新聞』に寄稿したものです。

   山本元帥国葬009

元帥山本五十六提督の遺骨
いま国葬の儀によつて葬らる。
元帥の勲功めもあやに、
同胞もとより之を熟知す。
われら心を傾けて元帥を送り奉り、
あらためて元帥のおん面影をしのぶ。008
元帥幼にして長岡のきかんぼ、
志を立てて不屈不撓、
外に使して君命を辱めず、
却つて鴃舌の老雄をも脅かす。
元帥身を以て東郷精神の根幹に生き、
更に近代戦術の機秘を握り、
機略に富み、機先を制し、
時に豪放、時に精緻。
若き世代の真面目(しんめんもく)を限りなく愛惜し、
長官の身をほとほと忘れて
一兵の身を忘れず、
丹心を秉(と)つて師友に降(くだ)る。
干戈の間(あひだ)文をすてず、
国風時として絶唱。011
眼(まなこ)笑ひ、口怒り、
むしろ学童腕白の趣あり。
かくの如き提督の力、敵を撃ち、
忽ち太平洋に不敗の堅陣を布き、
更に猛進つひに陣頭の空に隠れたまふ。
国民喪に服していま元帥を送り奉り、
心武者ぶるひして元帥に祈る。012
元帥の成したまはんとせしところ、
われら必ずこれを遂げん。
元帥叱咤して遠くわれらを導きたまへ。


山本の戦死はこの年4月18日、国葬の挙行は6月5日でした。

当時の記録映像が残っています。
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死者を悼むのは人として当然のことでしょう。しかし、その死をもプロパガンダに利用した当時の世情には呆れます。
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「元帥に続け」、つまり「死ね」ということでしょうか。

現在、国民の過半数が反対している国葬を強行しようとしている勢力、また、その被葬当該人物が、戦前戦時のこうした思想を美徳とする輩である(あった)ことに、激しく違和感を感じますね。当該勢力は「国民喪に服していま元総理を送り奉り、心武者ぶるひして元総理に祈る。元総理の成したまはんとせしところ、われら必ずこれを遂げん。」という方向に持って行きたいのでしょうが。そうは問屋が卸しません。

ところで、英女王の逝去に際し、バッキンガム宮殿上空にはみごとな二重の虹が架かったそうです。
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9月27日(火)、ある国には、超大型台風でも来るのではないでしょうか(笑)。

【折々のことば・光太郎】

午后四時木村修吉郎氏迎にくる、谷口吉郎氏くる、一緒に山王「山の茶屋」行、佐藤春夫、安倍能成、谷口吉郎、田村剛、余、座談会、十和田公園について、

昭和29年(1954)1月8日の日記より 光太郎72歳

この年3月の雑誌『心』に掲載された座談会「自然の中の芸術」当日です。前年に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関して。当初建立予定だった十和田湖子(ね)の口地区には許可出来ない、と、横槍を入れてきた人物が含まれています。その横槍も正当な理由ではなく、自分がプロジェクトから外された腹いせというのが明白で、光太郎と青森県を仲介した佐藤春夫などは激怒。別の機会に「これは芸術の尊厳のために正しく大声叱呼して糾明すべきだとわたくしは心外に堪えない」と書きました。座談会で初めてその件を知ったという安倍能成も憤慨。光太郎の言いたかったことを代弁してくれています。当該人物は「丁寧な説明」をしようとしたようですが、却って火に油、燃料投下(笑)。

いつの時代にもこういう輩がいるのですね(笑)。

社会教育系イベント、対象が花巻市民等限定ですが……。

新花巻発見探訪ツアー「太田・湯口地区」

 コミュニティ会議の地域振興部会が主催する「新花巻発見探訪ツアー」の参加者を募集します。この事業は花巻市内各地の史跡・名勝や施設等を訪れ、私たちが暮らす花巻の郷土史や風土を学びます。
 今回の訪問地は、高村光太郎が山居7年を過ごした高村山荘や日本三清水と言われる清水寺がある太田地区と、仏教学者として知られる多田等観ゆかりの円万寺がある湯口地区を巡ります。

○期 日   9 月 22 日(木) 小雨決行
○訪問先  花巻市太田、湯口地区
○対象者
 花南地区に在住もしくは勤務する市民で、史跡・名勝に関心があり学ぶ意欲がある方
○集 合   08:30 花南振興センター(受付、体調チェック票提出)
○日 程
  08:45  花南振興センター出発
  09:00  高村光太郎記念館
   高村山荘、智恵子展望台、雪白く積めり詩碑を見学
  11:00  清水寺
   観音堂、山門、千体薬師堂、慈眼水堂を見学
  12:30  花巻市自然休暇村広場(昼食)
  13:30  円万寺
   観音堂、八坂神社、一燈庵を見学
  14:15  山の駅 昭和の学校(施設見学)
  15:20  道の駅 はなまき西南(休憩)
  16:00  花南振興センター到着予定
 ※天候や現地の状況によって日程を変更する場合があります。
○服 装  動きやすい服装、履きなれた靴、帽子
○持ち物  マスク、昼食、飲み物、おやつ、雨具、タオル、敷き物、筆記用具など
○参加料  1,200 円(入館料 3 館分、保険代)
 ※貸切バス代はコミュニティ会議が負担します。
○定 員  25 人(先着順)
○受 付  8 月 22 日(月)午前 9 時から受付開始。花南振興センター窓口へ直接
    もしくは花南地区コミュニティ会議(電話 24-4415、平日の 9 時~17 時)
     へお申込み願います。
 なお、感染症の拡大状況によっては事業を延期もしくは中止することが
 ありますので予めご了承ください。
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光太郎ゆかりの地を巡る史跡探訪ツアー。

まずは昭和20年(1945)秋から丸七年間、光太郎が蟄居生活を送った旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する髙村光太郎記念館さん及びその周辺。

続く清水寺さんは、光太郎が何度か足を運んだ寺院です。円万寺さんは、光太郎と交流のあった僧侶にしてチベット仏教学者の多田等観が堂守を務めていたところ。長い急坂を上った先にありますが、光太郎も上りました。

山の駅 昭和の学校さんにも行かれるのですね。さらには道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんにも。

地元の方々が対象ですが、以外と地元民が地元のことを詳しくは知らないというケースは往々にしてありますね。当方もそうです。ここにこんなものがあると知らなかったとか、存在は知っていてもどんな背景があるのか、細かな見どころ等々。もう3年前になりますが、当方が講師を務めさせていただき、花巻市、それから隣接する北上市をバスで廻った「岩手花巻高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の際にも、参加者の皆様からそうした声が聞かれました。

残暑も一段落という感じで、ただ、台風等が心配ですが、実りあるツアーとなるよう祈念いたしております。

各地自治体さんの社会教育担当の方々、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

晴れる、 春子さん子供二人つれてくる、モチ ワカサギをもらふ、 NHKの人くる、一月三日詩朗読の由(石黒達也) 「新潮」の野平氏くる、原稿に書き足して渡す(13枚)、 便 創元社の林氏くる、ウエルハーラン詩集出来、三冊持参、印税はマカベ氏宛のことをたのむ、 〈豊周夫妻くる〉

昭和28年(1953)12月26日の日記より 光太郎71歳

001たまたまでしょうが、千客万来(笑)。ただ、この頃、この日ほどではなくとも、起居していた中野の貸しアトリエにはほぼ毎日、誰かしらが訪れていました。

春子さん」は、智恵子の最期を看取った智恵子の姪。「詩朗読」はラジオ放送。俳優の「石黒達也」はたびたび光太郎詩の朗読を担当していました。「原稿」は翌年2月の『新潮』に載った散文「日本芸術院のことについて-アトリエにて1-」。「ウエルハーラン詩集」は、濁点が脱落していまして、『ヴェルハアラン詩集』。戦前に光太郎が訳した、ベルギー詩人・ヴェルハーレンの詩――さまざまな雑誌等に寄稿したもの――を、山形出身の詩人・真壁仁(「マカベ氏」)が編集しました。光太郎、あまり出版に乗り気でなく、印税もいらない、真壁にやってくれ、と、まぁ何とも気前のいいことで(笑)。そして実弟の豊周夫妻も。おそらく豊周が仲介した「倉田雲平胸像」がらみの用件と思われます。

今日の朝刊を開いて「ありゃま」でした。歌手のおおたか静流さんが亡くなったとのこと。

『朝日新聞』さん。

歌手・おおたか静流さん死去 「にほんごであそぼ」、「花」のカバー

004 NHK・Eテレ「にほんごであそぼ」への出演や喜納昌吉さんの「花」のカバーで知られた、歌手のおおたか静流(おおたか・しずる、本名小西静子〈こにし・しずこ〉)さんが5日、がんのため死去した。69歳だった。葬儀は近親者で営む。喪主は夫小西徳雄(こにし・とくお)さん。後日、お別れの会を開く予定。
 東京都出身。7歳からクラシックの声楽家に師事。一時は漫画家を志望したが、大学時代に歌手を志す。ジャズや民俗音楽の影響を受けたボーダーレスな音楽を数多く生み出した。
 喜納さんの「花」のカバーや、映画「シコふんじゃった。」(周防正行監督)で使われたザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」のカバーで知られるほか、数多くのCMソングを歌唱。「七色の声」の異名を持つ。「にほんごであそぼ」では、リズムや韻を踏んだ遊び心あふれる楽曲を作り、子どもたちと一緒にダンスや劇を披露していた。
 絵画や朗読など、ジャンルを超えた活動を続け、ワークショップ「声のお絵描き」の主宰を務めた。
 社会的な活動も多く、米国やフランスで東日本大震災追悼公演を開催したほか、広島の原爆投下時に爆心地にあったピアノを使った「ミサコのピアノ」コンサートシリーズ、核廃絶を訴える国際キャンペーンなどにも参加した。

時事通信さん。

歌手のおおたか静流さん死去005

 おおたか 静流さん(おおたか・しずる=歌手)5日午前、病気で死去、69歳。
 東京都出身。葬儀は近親者で行う。
 89年にユニット「ディド」でデビューし、翌年ソロに。クラシックやジャズ、民族音楽の影響を受けながら、日本情緒がにじむ独創的な作風の歌で知られた。喜納昌吉さんの曲をカバーした「花」などで知られ、多数のCM曲も歌唱。NHK・Eテレの番組「にほんごであそぼ」にもレギュラー出演した。

NHKさん。

歌手のおおたか静流さん死去 69歳 「にほんごであそぼ」に出演

 表現力豊かな歌声で知られ、NHK Eテレの「にほんごであそぼ」にも出演していた歌手のおおたか静流さんが今月5日、がんのため東京都内の自宅で亡くなりました。69歳でした。
 おおたか静流さんは東京都出身で、7歳からクラシックの声楽家に師事して歌を学び「七色の声」と言われた多彩な表現力で数々のCMソングを手がけたほか、ジャズや民族音楽など幅広いジャンルで活動しました。
 喜納昌吉さんのヒット曲「花」をはじめ「林檎の木の下で」、「悲しくてやりきれない」などのカバー曲でも知られ、個性豊かで透き通った歌声が話題となりました。
 また、NHK Eテレの番組「にほんごであそぼ」にも出演し、リズムにのせたことば遊びで人気を集めました。
 親族によりますとおおたかさんは今月5日、がんのため東京都内の自宅で亡くなったということです。
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おおたかさん、NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」では、坂本龍一さん作曲の「道程」も歌われていました。

東日本大震災があった次の年の平成24年(2012)に公開収録が行われ、翌年オンエアされて、さらにDVD化もされた「にほんごであそぼ 元気コンサート in 福島」。

作曲の坂本龍一さんご自身がピアノ伴奏、尺八の藤原道山さんもご参加。小錦八十吉さんや子供たちと一緒に、おおたかさんも歌唱で加わりました。
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また、平成30年(2018)の同番組では、おおたかさんのソロバージョンも。その後くり返し使われました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

文部省芸術課長宇野俊夫氏くる、理由書ほしとの事なれど必要なき旨を告げる、

昭和28年(1953)12月22日の日記より 光太郎71歳

日本芸術院会員推薦の辞退に関わります。辞退されることを想定していなかった文部省は対応にてんてこ舞いで、3日前に続き、またしても光太郎を訪問、推薦辞退の理由書を書けと迫ります。しかし光太郎、勝手に推薦しておいて、辞退するのにこちらから書面を提出せよとは何事だ! 的な対応。確かにその通りですね。








先週のNHK盛岡局さんローカルニュースから。花巻高村光太郎記念館さんで現在開催中の企画展示「光太郎、海を航る」についてです。

高村光太郎 海外留学中に送ったハガキなどを展示 花巻市

 詩人で彫刻家の高村光太郎がアメリカやヨーロッパに留学中に出されたハガキなどを展示する企画展が花巻市で開かれています。
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 高村光太郎は20代の時におよそ3年間、アメリカやイギリスそれにフランスに留学し、彫刻やデッサンなどを学びました。
 花巻市にある高村光太郎記念館で開かれている企画展には、高村光太郎が留学中に家族や知人に送ったはがきや執筆した直筆の原稿など20点が展示されています。
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 このうち明治42年の4月に光太郎の弟、道利にあてた絵はがきは今回、初めて公開され、旅行で訪れたイタリア・ローマの芸術や文化の高さに驚いた様子が記されています。
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 また明治41年1月に、当時パリに住んでいた画家の白瀧幾之助に宛てた絵はがきには、新年のあいさつなどが書かれています。
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 このほか昭和16年の芸術評論「ミケランジェロの彫刻写真に題す」の直筆の原稿4枚なども展示されています。
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 仙台市から訪れた人は「ヨーロッパでの生活の中で、日本を客観的に見ることができたのではないか」と話していました。
 花巻高村光太郎記念会の高橋卓也事務局長補佐は「欧米で実際に何を見て、聞いて暮らしていたのかを展示を通じて感じてもらいたい」と話していました。
 企画展は来月30日まで開かれています。

少し前ですが、市の『広報はなまき』7月15日号で、道利宛の葉書について紹介されていました。
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ついでに当方によるレポートもご覧下さい。

ニュースで述べられた通り、会期は9月30日(金)までです。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小春日和、映画班の人達四人同道、電車車中の撮影、二ツ堰より山口まで車、村長さん宅着 スルガさん宅エン側にて重次郎さん等と撮影、田圃の中、林間、小屋等撮影、 四時頃小学校行 村人の歓迎会あり、


昭和28年(1953)11月26日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに、花巻郊外旧太田村に帰りました。

半分はブリヂストン美術館の美術映画「高村光太郎」の撮影のためでもありましたが、当初の構想では、冬期には東京中野の貸しアトリエで、気候のいい時期には旧太田村の山小屋と、二重生活を目論んでいたようです。

美術映画「高村光太郎」から。
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