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「満目蕭條」という語で、冬の厳しい美と、自分の生き方を重ねた光太郎。
 
一昨日(元日)の西日本新聞さんにはこんなコラムが載りました。
 
冬に題を求めた詩を高村光太郎はいくつも書いた。〈きつぱりと冬011が来た〉で始まる「冬が来た」はよく知られている。そのなかで〈冬よ/僕に来い、僕に来い〉とも書いている
▼「冬が来る」と題した詩もある。〈冬が来る/寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る〉で始まる。「冬の奴(やつ)」という詩にはこんな一節も。〈ああ、冬の奴がおれを打つ、おれを打つ。/おれの面皮をはぐ。〉
▼木々を裸にし、万物に生地をさらさせる冬が、光太郎は好きだった。人の心の風景からも飾りものをはいでいく決然とした寒さを愛した。精神を研がせ、鍛えてくれる厳しさを友とした
▼今冬の日本列島は12月から震えた。冬が来るのも、寒気が厳しさを増すのも、早かった。冬将軍に抱かれて迎える新年は気分がいっそう締まる。暖房の効いた家から抜け出し、澄んだ冷気に洗われながら光太郎の詩を口ずさみたくなる
▼空の下で身一点に感じることができれば万事において文句はない、と書いた詩人もいる。寒空の下で身一点に感じるものがあれば、正月と向き合う心の背筋が張る。モノがあふれる現代では、そぎ落としたい精神のぜい肉を誰しも少なからずまとっている
▼光太郎は「冬の言葉」と題した詩で〈冬が又(また)来て天と地とを清楚(せいそ)にする。〉ともつづった。詩人に倣って構えていえば、新年がまた来て天と地とを清楚にする。そして、人には皆、正月はきっぱりとやってくる。
=2013/01/01付 西日本新聞朝刊=
 
「人には皆、正月はきっぱりとやってくる。」その通りですね。皆さんはどのようなお正月をお過ごしでしょうか。テレビでは被災地の正月の風景がよく流れています。
 
あらためて、今年一年が良き年であることを祈ります。
 
【今日は何の日・光太郎】1月3日

明治34年(1901)の今日、鎌倉で与謝野鉄幹率いる新詩社の集いに参加。由比ヶ浜で焚火をして20世紀の迎え火としました。

大晦日となりました。本年もいろいろとお世話になり、ありがとうございました。
 
思えば4月に「連翹忌運営委員会代表」という肩書を拝命、光太郎顕彰に専念することとなり、北川太一先生から名跡を引き付いた冊子「光太郎資料」を2回刊行するかたわら、各地で行われたイベント等にお邪魔いたしました。花巻、仙台、石巻、女川、二本松、川内村と、やはり東北が多かったのですが、その他群馬、長野、和歌山、福岡にも。東京や横浜は調査もあったため数えきれず……。
 
おそらく来年もそうなると思います。ありがたいことにすでに講師依頼なども数件舞い込んできています(日程さえ合えば何処へなりとも参上いたします)。
 
そうした中で、多くの方から励ましのお言葉、「光太郎資料」送付に対する過分なる御礼の御手紙等いただきました。また、各地でのイベントの御案内、新しく世に出た書籍・雑誌等の御恵贈にもあずかりました。ありがとうございます。
 
それ以外にも古書店の目録やら、註文した書籍などもあり、そんなこんなで、当方の自宅兼事務所には郵便物が多く届きます(郵便屋さんには『この家は一体何なんだ?』と思われているかも知れません)。最近は宅配業者さんのメール便なども多いのですが、やはり郵便が主流です。
 
郵便といえば切手。皆様方から届いた郵便物に貼られていた切手を切り取り、使用済み切手を収集している団体-公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)様に寄附しました。以前は個人名で送っていたのですが、今回、「高村光太郎連翹忌運営委員会」名義で送りました。すると先週、その団体から御礼状が届きましたので、ご報告いたします。
 
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こちらでは使用済み切手を集めて換金、日本人保健医療スタッフをアジア・アフリカや東日本大震災被災地に派遣する一助としています。皆様から寄せられた郵便物に貼られていた切手が、こういうところに役立っています。
 
今月分の寄附団体として、JOCS様のサイトにて高村光太郎連翹忌運営委員会も名前を載せていただきました。

今後もこれは継続していこうと思っております。
 
今日も早速、宮城の荒井真澄様より来春行われるピアノコンサート・墨画展のご案内をいただきました。かわいらしい切手が貼ってあり、次回寄付に向けての第1号です。
 
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ピアノコンサート・墨画展は、5月のこのブログで御紹介した「シューマンと智恵子抄」のお三方(朗読・荒井真澄さん/ピアノ・齋藤卓子さん/墨画・一関恵美さん)のユニットによるものです。また改めて御紹介します。
 
さて、ブログの方ですが、5月に開設以来、243日間、今日まで1日も休むことなく更新し続けました。閲覧いただきありがとうございました(やはり鉄道ネタの日は閲覧数が多いということがわかりました)。行き当たりばったりで、内容の薄い時も多いのですが、新着情報の紹介という意味ではそれなりに機能したかと思います。来年も休まず更新していきますので、よろしくお願いいたします。

昨日のこのブログ、普段より閲覧数が明らかに多かったのですが、理由がよくわかりません。
 
もしかしたら鉄道ネタだったので、いわゆる「鉄ちゃん」の皆さんが検索ワード的な部分からご来訪下さったのかな、と思い、今日は二匹目のドジョウを狙ってみます。
 
先月くらいでしたか、こんなものを手に入れました。
 
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古い絵葉書です。写っているのは花巻電鉄。光太郎がよく利用した路線です。
 
七年間の厳しい山小屋生活での一番の妙薬は、ある意味山の出で湯でした。花巻は温泉の宝庫です。光太郎は昭和20年(1945)6月、肺炎が恢復した後に西鉛温泉で一週間湯治したのを皮切りに、鉛温泉、大沢温泉、志戸平温泉、花巻温泉、台温泉など、花巻温泉郷と呼ばれる数々の温泉によく足を運んでいました。
 
そうした際や、花巻市街に用事があって出かける際などに使われたのが花巻電鉄です。花巻電鉄は花巻市街から花巻温泉方面への鉄道線(花巻温泉線)と、西鉛温泉行きの軌道線(鉛線)の二系統がありました。
 
山小屋のあった山口地区から最も近かった駅(といっても4㌔㍍ほどありました)が、軌道線の二ツ堰駅。ここから光太郎曰く「夢の話みたいな可愛らしい電車」(「花巻温泉」昭和三十一年 『全集』第十巻)に乗りました。実際、軌道線の車両は、なんと幅1㍍60㌢しかなかったそうです。
 
当方、「鉄ちゃん」ではありませんので、詳しいことはよくわかりませんが、絵葉書に写っている車両は「デハ3」というタイプで、現在、JR花巻駅近くに静態保存されています。見るからに縦長で、変わった形ですね。そこで「馬面電車」「ハーモニカ電車」などと呼ばれて親しまれていたそうです。
 
場所は大沢温泉。当方が花巻に行く際に定宿にしているところで、光太郎もよく宿泊しました。鉛線の駅があったとのことです。
 
そうそう、花巻電鉄といえば、こんなものも手に入っています。
 
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交通公社などが作成した正式な物ではなく、盛岡の旅館が配っていたもののようですが、東北本線、大船渡線など岩手県内を走っていた路線のポケット版時刻表です。「昭和24年9月15日改訂」とあり、もろに光太郎が太田村山口に住んでいた時期のものです。
 
最後のあたりに花巻電鉄も載っています。
 
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意外と本数が多いのに驚きました。花巻電鉄は昭和44年(1969)には廃線となり、現在は路線バスとなっていますが、花巻高村記念会の高橋氏に聞いた話では、高村山荘行き路線が廃止になるとのこと。ある意味、淋しい話ですね。
 
当方生活圏の千葉県銚子市にはわりと有名なローカル線、銚子電鉄が走っています。経営危機をいろいろな奇抜なアイディアで乗り越え、頑張っています。当方、「鉄ちゃん」ではありませんが、鉄道の旅は大好きです。がんばってほしいものです。
 
さて、本日も鉄道ネタ。閲覧数がどうなるか楽しみです(笑)。

最近、こんなものを手に入れました。
 
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「鉄道荷札」。宅配便などのなかった時代、鉄道で荷物を発送する際につけたタグです。年配の方にはなつかしいものかもしれません。当方は、子供の頃、こんなのがあったっけなとうっすらとした記憶がある程度ですが。
 
太田村山口の住所になっていますので、戦後昭和20年(1945)から27年(1952)までのものです。
 
宛先の「長沼重隆」は、英文学者・翻訳家。アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンの研究、翻訳などを行っていました。同じくホイットマンの翻訳を手がけた光太郎とは戦前から交流があり、光太郎は長沼の訳書の紹介文などを書いています。また、戦後の日記や書簡に長沼の名が散見されますし、長沼宛の書簡も何通か確認できています。
 
ここまではこの荷札を手に入れる前から、当方の脳内データベースにありました。そこで改めて長沼について調べてみると、昭和26年(1951)10月27日付の光太郎からのこんな葉書が『高村光太郎全集』第15巻に載っていました。
 
おてがみいただきました、 長い間拝借してゐたので、ご返却いたさうと思つてゐながら、ついのびのびになつてゐました、 ヰロリの煙がひどいため、大分くすぶりましてまことに申しわけございませんがおゆるし下さい。拙訳「自選日記」の貴下蔵本もその前拝借いたし居りますので、これも同封御返却申上げます。ひどい古本になつてすみません。 ここは書留小包の発送がむつかしいので近日花巻にまゐつて発送の事御諒承下さい。
 
これに先立つ昭和21年の書簡では、ホイットマンの原著と、光太郎訳の「自選日記」(大正10年=1921刊)を長沼から送られて借りた旨の記述があり、「長い間拝借していた」というのはこれらを指すと思われます。光太郎、自分の出版物を借りていますが、おそらく空襲で焼けてしまい、手元になかったと推定されます。
 
そして興味深いのは、上記はがきの宛先住所が、荷札に書かれた「新潟市医学町二CIE図書館内」と同一であること。その前年に送られた長沼宛の葉書では同じ新潟でも別の住所になっています。となると、上記はがきで返却のため「花巻にまゐつて発送」と書かれている、まさにその際に使われたのが、この鉄道荷札なのではないかと思われます。荷札に年月日の記載がないので確証はありませんが、そうそう何度も鉄道便を使っていないと思います。
 
ちなみに「CIE図書館」は、戦後、GHQ幕僚部の一つ、民間情報教育局が全国23カ所に作らせた開架式の図書館です。
 
このように、パズルのピースがはまっていくような感覚。これがこの手の研究の一つの醍醐味ですね。ただ、まだ不確定要素が多いので、もう少し調べてみます。

昨日の朝日新聞社会面に「祈 新春 被災地より、一足お先に」という記事が大きく載りました。曰く、
 
東日本大震災から2度目の年越しがやってくる。震災の年だった1年前は出すのを控えた年賀状を、この年の瀬はしたためる人たちがいる。被災地から寄せられた年賀状を紹介する。
 
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11月の草野心平「かえる忌」でお目にかかった福島川内村の遠藤村長のものも載っています。
 
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また、詩人の和合亮一氏のものも。和合氏とは震災前に一度、二本松で行われた智恵子命日の集い「レモン忌」でご一緒させていただきました。震災後は氏のツイッターで発信された詩がかなり取り上げられましたね。
 
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光太郎の「道程」へのオマージュにもなっています。
 
その他、女川、二本松など光太郎・智恵子ゆかりの地からのものが。
 
先日も書きましたが、もうすぐ「一昨年の大震災」と書かねばならなくなります。今回の衆議院選挙では争点になりませんでしたが、被災地復興、喫緊の課題として新政権には取り組んでほしいものです。

小沢昭一さんの訃報が報じられました。また一人、昭和の名優が逝ってしまいました……。
 
小沢さんといえば、俳優としての活動以外にも、歌の方面でも活躍なさいました。
 
当方、小沢さんのCDを1枚持っています。
 
「昭一爺さんの唄う 童謡・唱歌」 平成20年 日本コロムビア 定価2,000円
 
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昔なつかしの童謡、唱歌23曲が収録されており、その中に、光太郎作詞、飯田信夫作曲の「歩くうた」が収められています(もちろん小沢さんの歌で)。この歌が作られたのは昭和15年(1940)、オリジナルのレコードとしては「侍ニツポン」「隣組」なども歌った徳山璉(たまき)によるものなどがビクターから発売され、ヒットしました。
 
また、曲と曲の合間には、小沢さんの語りによるそれぞれの曲の解説など。「歩くうた」に関しては「しつこい歌」とおっしゃっています。たしかに、全部で4番まであり、その中で「あるけ」という単語がなんと48回も出てきます。
 
しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、このCDでは1,2番のみが歌われています。
 
光太郎自身、しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、後に詩集『をぢさんの詩』に収録した際、歌としての3番をカットしています。
 
何はともあれ、小沢さんのご冥福をお祈り申し上げます。

11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にて、大阪在住の研究者、西浦基氏から、写真その他の貴重な資料をいただきましたので御紹介します。
 
氏は精力的に海外にも出かけられている方で、以前の『高村光太郎研究』に、フランスのロダン美術館などのレポートを寄稿なさったりしています。今年はスイス、イタリア、フランスを廻ってこられたとのことで、そのうち特に、光太郎が海外留学の末期に旅行で訪れたスイスのルセルンでは、光太郎が泊まったホテル(ホテルクローネ)なども訪れられたそうです。詳細は恐らく『高村光太郎研究』に載ると思いますので、以下、氏からいただいた写真のみ紹介します。

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光太郎、スイスでも船に乗っています。
 
 今日は滊船(サルウン ボオト)に乗つて十人余りの旅客と共に「キヤトルス キヤントン」の湖を縦断して、フリユウレンの村に上陸した。
(「伊太利亜遍歴」 明治45年=1912)

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「「キヤトルス キヤントン」の湖」は、ルツェルン湖。ドイツ語名はVierwaldstätterseeで、「4つの森の州(カントン)の湖」の意味だそうです。
 
光太郎のこの旅は、スイス経由でイタリア各地を約1ヶ月で回っています。昭和29年に書かれた「父との関係」によれば「帰国する前にイタリヤを見たいと思つて、クツク会社のクーポンを買つた。そしてクーポン通りにイタリヤを見物して歩いた。」とのこと。「クツク会社」はイギリスの旅行代理店、トーマス・クック・グループ。この旅行についても詳細を調べるようにと、北川太一先生から宿題を出されています。
 
当方、日本国内では光太郎の足跡を辿る旅をさんざんやりましたが、まだ海外では故地を巡るということをしていません。こちらもいずれ、とは思っています。

11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にての当方の発表、題は「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」。昭和17年(1942)10月15日発行『海運報国』第二巻第十号に載った光太郎の随筆「海の思出」の検証でした。その内容を延々紹介して参りましたが、今回で一区切りです。
 
「海の思出」、最後は「私は海が実に好きだ。私は船に乗ると急に若くなる。」の一言で締めくくられます。『海運報国』という船舶関連の雑誌に載った文章なので、一種のリップサービスかな、と思いましたが、既知の光太郎作品にあたってみると、どうもそれだけではなさそうです。
 
△東京の自動車は危険で、あれに乗るには戦闘準備をしてゐないとならないので嫌い。汽車は酔ふから嫌い。汽船は動けば動くほどいゝ気持になつてきて、ちつとも酔はないのです。
(「〔生活を語る〕」『詩神』第2巻第6号 大正15年=1926)
 
  若し此世が楽園のやうな社会であつて、誰が何処に行つて働いても構はず、あいてゐる土地なら何処に棲んでも構はないなら、私はきつと日本東北沿岸地方の何処かの水の出る嶋に友達と棲むだらう。そこで少し耕して畠つものをとり、少し漁つて海つものをとり、多く海に浮び、時に遠い山に登り、さうして彫刻と絵画とにいそしむだらう。船は私のなくてならない恋人となるだらう。私は今でも船のある処は時間の許す限り船に乗る。船と海との魅力は遼遠な時空の故郷にあこがれる私の生物的本能かも知れない。曾て海からはひ上つて来た私の祖先の血のささやきかも知れない。船の魅力は又闇をわけて進む夜の航海に極まる。其は魂をゆする。
(「三陸廻り」『時事新報』 昭和6年=1931)
 
『海運報国』の発行元、日本海運報国団は、光太郎がこういう考えの持ち主だと知って、執筆を依頼したのかもしれません。
 
さて、長々と「海の思出」に書かれた内容を検証して参りましたが、既知の作品や年譜に載っていない新事実は以下の通りでした。
 
幼少年期        ・小学校で蒲田の梅園に遠足に行ったこと
               ・十四歳頃、江ノ島に一人旅をしたこと
渡米(明治39年=1906)   ・ヴィクトリア経由であったこと
渡英(同40年=1907)    ・ホワイトスター社の「オーシャニック」に乗船したこと
渡仏(同41年=1908)    ・ニューヘブン~ディエップ間の航路を使ったこと
 
一篇の随筆を新たに見つけただけで、これだけの新事実が判明しました。ここまでたくさん判明するのは珍しいケースですが、新発見の短い書簡一つにも、新事実が含まれているというのはよくあるケースです。まだまだ埋もれている光太郎作品はたくさんあると考えられ、その発掘にさらに精を出したいと思います。
 
さて、以上、「海の思出」に「書かれていたこと」ですが、「書かれていないこと」にも注目してみたいと思います。
 
「書かれていた」思い出は、明治末の留学時代のことがメインで、ほんの少し幼少年期の話でした。たしかに留学の際には四年ほどの間にぐるりと地球を一周、その移動の大半が船に乗ってのことでしたので、いつまでも記憶に残っていても不思議ではありません。しかし、光太郎の人生に於いて、もう一回、長い船旅をしたことがあります。
 
それは昭和6年の夏。『時事新報』に載った紀行文「三陸廻り」の執筆のためのもので、宮城の石巻から岩手の宮古まで、少しは陸路を使っていますが、そのほとんどを船で移動しています(この旅で女川との関わりができたわけです)。しかし、「海の思出」では、この時の話には一切触れていません。
 
確かに留学時代のように、大洋を渡った001わけではありませんが、それなりに長い距離ですし、何より「海の思出」が書かれた昭和17年の時点から考えれば、11年しか経っていません。それなのに40年近く前の留学の話がメインなのです。これはどういうことでしょうか。
 
「書かれていないこと」についての考察は、とかく恣意的になりがちで、えらい学者先生には怒られるかも知れませんが、あえて考えてみると、三陸旅行中に智恵子の統合失調症が顕在化したという事実を無視できません。光太郎にとって、三陸旅行はつらい記憶を呼び覚ますものでもあったので、「海の思出」に書かなかった(または書けなかった)のではないか、と思えてしかたがありません。いかがでしょうか?
 
以上、「海の思出」に関するレポートを終わります。

明治42年(1909)、光太郎は、ニューヨーク、ロンドン、パリでの3年余の留学を終える決意をし、3月から4月にかけ、締めくくりにイタリアを旅行します。パリから陸路、スイス経由でイタリアに入り、ヴェニス、フィレンツェ、ローマ、ナポリなどを廻ってルネサンス期の芸術作品などを見た光太郎、それらの持つ圧倒的な力に打ちのめされます。
 
先の高村光太郎研究会で、大阪在住の研究者・西浦氏から光太郎が廻った各所の写真等をいただきました(今年、行かれたそうです)。後のブログでその辺りも紹介しようと思っています。
 
さて、光太郎。5月にはいったんロンドンに渡り、テムズ河口から日本郵船の船に乗って、帰国の途に就きます。到着地は神戸港でした。「海の思出」には以下のように書かれています。
 
 日本に帰る時は盛夏の頃ロンドンから郵船の松山丸とかいふ小さな汽船に乗つたが、事務長の好意で愉快な航海をした。
 
この一節を読んで、「あれっ?」と思いました。既知の光太郎作品や年譜では、この時に乗った船の名が、「松山丸」ではなく、すべて「阿波丸」となっているからです。よくある光太郎の記憶違いなのだろうと思いました。「盛夏の頃」というのも間違いで、正確には5月15日です。同様に、船名も単なる間違いだろうと思いました。『高村光太郎全集』第21巻に収録されている、親友だった水野葉舟にあてた書簡は帰国の船中から書かれたもので、「阿波丸船上より」とか「五月十五日に倫敦からこの阿波丸にのり込んで今は地中海の上に居る。」と書いてあるので、まず「阿波丸」で間違いないと思ったのですが、一応調べてみました。
 
すると、この当時、日本郵船には「松山丸」「阿波丸」ともに就航していたことがわかりました。ただし、「松山丸」は3,099トンの小さな船で、一方の「阿波丸」は6,039トンと、「松山丸」の倍位の大きさでした。
 
明治34年(1901)10月、東洋堂刊の『風俗画報増刊乗客案内郵船図会』によれば、欧州航路の説明として、「此航路に供用する汽船は悉く六千噸以上の双螺旋大汽船にして。電気燈、煽風機等諸般の設備其の他の結構。総て最新式に拠れり。」とあります。「松山丸」は明治18年(1985)の建造ですから「最新式」とは言えませんし、何より「六千噸以上」の条件に当てはまりません。
 
また、昭和59年 海人社刊『日本郵船船舶百年史』によれば、欧州航路に就航した船の中に、「阿波丸」の名はありますが、「松山丸」の名はありません。
 
やはり「松山丸」と書いたのは光太郎の記憶違い、従来通り「阿波丸」に乗ったと断定してよいでしょう。
 
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この点を高村光太郎研究会で発表したところ、北川太一先生から「何もないところから『松山丸』という実在の船の名が出て来るというのも考えにくいので、もしかしたら、他の時に他の場所で『松山丸』という船に乗ったのかもしれないから、調べるように」と、宿題を出されてしまいました(さらにイタリア旅行についても宿題を出されています)。参りました(笑)。
 
ちなみに「阿波丸」。太平洋戦争中に米潜水艦に撃沈された有名な「阿波丸事件」の「阿波丸」とは別の船です。やはり船名使い回しで、光太郎が乗ったのはⅠ世、大戦中に撃沈されたのはⅡ世です。余談になりますが、明治45年(1912)、東京市長・尾崎行雄から贈られ合衆国ワシントンポトマック河畔に植えられた桜6,040本を運んだのが、光太郎の乗った「阿波丸」Ⅰ世です。同じ「阿波丸」でも、Ⅰ世は日米友好のシンボルを運び、Ⅱ世は米軍により撃沈。皮肉なものですね。
 
9/12のブログに書きましたが、現在、横浜港に保存されている「氷川丸」。「阿波丸」と同じく日本郵船の船です。ただ、「氷川丸」の方が20年ほど新しく、総排水量も11,622トンと「阿波丸」の2倍程の大きさなのですが、参考になるかと思い見て来ました。なかなか面白いものがありました。皆さんも横浜にお立ち寄りの際にはぜひ行ってみてください。
 
「海の思出」、最後は「私は海が実に好きだ。私は船に乗ると急に若くなる。」の一言で締めくくられます。次回、この一言をめぐる考察を書き、このレポートを終えさせていただきます。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポート。あと少しです。
 
明治40年(1907)の渡英の際、光太郎が乗った船がホワイトスター社の船「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)と判明したことを書きました。
 
「オーシャニック」での船旅でのエピソードを、「海の思出」に光太郎はこのように書きます。
 
私と同じ船室に居た若いフランスの男に君の住所は何処かとたづねたら、「僕の住所は僕の帽子のあるところだ、」と答へた。
 
まるで映画のワンシーンのようですね。「僕の住所は僕の帽子のあるところだ、」なかなか言えるセリフではありませんね。映画といえば、こんなエピソードも。
 
驚いたのはその船に乗つてから初めて知り合つた米国の男女が一週間の航海のうちに恋愛成立、上陸したらすぐ結婚式をあげるのだと一同に披露したことであつた。一同は大にそれを祝つた。
 
映画の「タイタニック」を彷彿させます。もっとも、あちらのディカプリオとケイト・ウィンスレットは例の氷山衝突事故のため、永遠の別れを余儀なくされましたが……。
 
さて、「タイタニック」といえば、光太郎が乗った「オーシャニック」と同じ、ホワイトスター社の船です。処女航海(結局、これで沈没してしまうのですが)は明治45年(1912)。光太郎が「オーシャニック」で渡英した5年後です。この2隻、単に同じホワイトスター社の保有というだけでなく、かなり密接な関係があります。
 
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すなわち、前回のこのブログで書いた「オーシャニック」の基本理念、「豪華な設備と乗り心地のよさ」を発展させていったものが「タイタニック」なのです。また、「タイタニック」のクルーの中に、「オーシャニック」のクルー経験者が4人います。マードック1等航海士、ライトラー2等航海士、ピットマン3等航海士、ムーディ6等航海士の4人です。特にライトラー2等航海士とピットマン3等航海士は、光太郎が乗船した明治40年の時点で、「オーシャニック」に乗っていたようです。
 
「タイタニック」は氷山との衝突による沈没という悲劇的な末路をたどりましたが、「オーシャニック」もその末路は哀れでした。
 
華やかな名声に包まれたこの客船には、短い寿命しかなかった。一九一四年、第一次大戦が勃発するや、仮装巡洋艦に改装され、第一〇巡洋船隊に配属されて作戦行動に出る。ところが、大型商船に無経験な海軍士官が艦長になっていたせいか、悪天候のなかでシェトランド諸島の島で座礁沈没、わずか一五年の生涯を閉じてしまう。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
諸行無常、盛者必衰ですね……。
 
「海の思出」、この後は明治41年(1908)の渡仏に関する短い記述が続きます。
 
 英仏海峡はニユウヘブン――ヂエツプを渡つた。至極平穏な数時間で、私はその間にドオデエの「サフオ」を読み了(おは)つた。海峡の現状を新聞で読むと感慨無きを得ない。
 
何気なく書いてありますが、ニユウヘブン(ニューへブン・英)――ヂエツプ(ディエップ・仏)間の航路を使ったというのも、今まで知られていた光太郎作品や年譜には記載されていませんでした。ちなみにここには現在も航路が通っています。
 
「海峡の現状」は、この「海の思出」が書かれた昭和17年(1942)に、「ディエップの戦い」という連合軍のフランスへの奇襲上陸作戦が行われたことなどを指していると思われます。
 
さらに「海の思出」は、留学の末期(明治42年=1909)にイタリア旅行に行って訪れたヴェニスの記述をへて、同じ年の帰国に関して記されます。そちらは次回に。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポートの5回目です。
 
前回、明治40年(1907)の渡英の際、光太郎が乗った船がホワイトスター社の画期的な船「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)と判明したことを書きました。
 
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では、「オーシャニック」、どこが画期的だったのでしょうか。
 
この当時、大西洋を最速で渡った船に「ブルーリボン賞」という賞が与えられる制度がありました。ホワイトスター社の船も、何度か受賞しています。しかし、「最速」にこだわるあまり、乗り心地や乗客の利便性を後回しにする傾向も見られました。
 
当時、スピードが速いと人気のあったドイツ客船は、高速という誉れの蔭に、船体振動という恥部を隠していたわけである。船旅の快適さを考えた振動軽減への配慮よりも、とにかく海象のいかんにかかわらず、蒸気圧を最大に上げて、フルスピードで航海する。そして一時間でも早く目的地に到着するというのが、船会社側のやり方であった。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
2~3時間を短縮するために多大の犠牲を払い、その短縮された時間を到着したニューヨークやマージー川(※リバプール)で錨を降ろして(入港待ちをして)過ごすのは無駄なことだったのである。(中略)ニューヨークへの到着は、暗くなってからだと意味がなかった。乗客は入国手続きを待つために、翌日まで船内に留まることになったからである。(『豪華客船スピード競争の物語』平成10年 デニス・グリフィス著 粟田亨訳 成山堂)
 
ホワイトスター社のイズメイ社長は、こうした風潮に疑問を持ちます。また、コストの問題もありました。
 
ドイツのライバルに勝つためには、二三ノットを出す必要があるが、これには建造費が割高になることから計画を変え、機関の出力を二万八〇〇〇馬力(KWDG=ドイツ船籍の客船、カイザー・ウィルヘルム・ディア・グロッセは三万一〇〇〇馬力)に抑えた。こうして、スピードを犠牲にする一方、安定して快適な航海ができるような大型船、という新しいコンセプトに到達した。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
そうしてエンジンにかかるコストを抑えた分を、内装に回したのです。
 
上等級の船客設備などは、スケールの大きさと豪華さでは、当時で群を抜くと評判を得る。ドーム付き天井の一等食堂は、両舷の大スカイライトから採光されていたり、図書室は念の入った装飾で、人びとを驚嘆させるに充分なものだった。スティアレジ客室のスペースも、他社船よりゆったりしたものだった。(中略)オセアニックは、その豪華な設備と乗り心地のよさで、〈大海原の貴族〉と称えられるようになる。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
速力の不足は、船室と公室の水準が非常に高いことで、補って余りあるものだった。(中略)2本の大変背の高い煙突は、優雅で堂々とした印象をかもし出した。そして速力を追求することだけが大西洋航路客船の目指す絶対目標ではなく、乗客は高水準の船旅や到着時間の確実性をも同じくらい熱望していることを、この船は示して見せたのである。出力に余裕があるために、単調ともいえるほどの定時運転で大西洋を横断できたのであった。ホワイトスター・ラインにおいては、この船は完全な「1週間船」だった。(『豪華客船スピード競争の物語』平成10年 デニス・グリフィス著 粟田亨訳 成山堂)
 
こうした「オーシャニック」の特徴は、「海の思出」や既知の作品「雲と波」に語られる光太郎の回想と一致します。
 
ニユウヨオクから英国サウザンプトンまで一週間の航程であつた。これは又「アゼニヤン」の時とは雲泥の相違で毎日好晴に恵まれて、まるで湖水でも渡るやうな静かな海であつた。(「海の思出」)
 
 大洋を渡るのは二度目になるが、前の時とは違つて今度は出帆の日から今日まで実に静かな美しい海を見つづけた。前の時にはこんなにやさしいあたたかい趣が大洋にあらうとは夢にも思はなかつた。
(略)
 今度の航海の愉快な事は非常だ。全く此の大きな船が揺籃の中に心地よく抱かれてゐる様だ。此の親しむ可くして狎るべからざる自然のTendernessとCalmnessとは僕の心をひどく暖かにして呉れた。と共に又自然の力の限り無く窮り無い事を感ぜしめられる。(「雲と波」)
 
ホワイトスター社では、この船の成功に自信を得て、速度より乗り心地の追及をさらに進めます。その結果、ブルーリボン賞とはほとんど無縁となりますが、このコンセプトが船客には支持されました。特に富裕層は同社の船に好んで乗船したそうです。
 
ここで疑問に思うのは、渡米の際には特別三等の「アセニアン」で経費削減を図った光太郎が、渡英の際にはなぜこんな豪華客船に乗ったのかということ。その答えは昭和29年に書かれた「父との関係―アトリエにて―」にありました。
 
父の配慮で農商務省の海外研究生になることが出来、月六十円ばかりの金がきまつてくる事になつたので、六月十九日に船に乗つて大西洋を渡り、イギリスに移つた。
 
諸説ありますが、明治末の1円は現在の4,000円くらいにあたるとも言われます。そう考えると60円は240,000円。そして光太郎が「オーシャニック」で利用したのは2等。1等は目玉の飛び出る様な金額だったようですが、2等ならそれほどでもなく、利用可能だったのだと思われます。
 
長くなりましたが、明日はもう少しだけ「オーシャニック」の話と、続く渡仏、さらに帰国直前のイタリア旅行中の話を。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポートを続けます。
 
幼少年期、渡米に続いて書かれているのは、明治40年(1907)に、アメリカからイギリスに渡った際の話です。
 
最大の収穫は、渡英の際に乗った船が判ったことでした。
 
これまでに見つかっていた光太郎の文筆作品では、明治40年、渡英の船内で書かれた「雲と波」という比較的長い文章があり、航海の様子などは詳細に記されていました。しかし、肝心の船名は書かれていませんでした。また、昭和29年(1954)に書かれた「父との関係-アトリエにて-」という文章でも渡英に触れていましたが、船名の記述はなし。ただ、「ホワイト スタア線の二万トン級」とだけは書かれていました。「ホワイトスター」は、イギリスを代表する船会社で、明治45年(1912)には、かのタイタニックを就航させています。
 
さて、「海の思出」。
 
大西洋を渡つたのは一九〇七年の晩秋頃だつたと思ふが、この時は二萬トンからある「オセアニヤ」とかいふホワイト・スタア線の大汽船で、ニユウヨオクから英国サウザンプトンまで一週間の航程であつた。
 
と、船名が書かれていました。やはり船会社はホワイトスター社とのこと。そこで早速調べて見ましたが、同社の船には「オセアニア」という船名はありませんでした。しかし、よく調べてみると、同社の主要な船は「タイタニック」(Titanic)のように、すべて「~ic」で終わる名前を付けています。これをあてはめると「オセアニア」(Oceania)ではなく「Oceanic」となるはず。こう思って調べてみると、「Oceanic」、確かにありました!
 
まず、明治4年(1871)に就航した同社最初の大西洋横断船。ところが、これは渡米の際に乗った「アセニアン」と同じくらいの3,707トンしかなく、時期的にも古すぎます。しかし、洋の東西を問わず、船名は同じ名前を使い回す習慣があり、「Oceanic」にもⅡ世がありました。こちらは明治32年(1899)の就航。光太郎が渡英した同40年(1907)にも現役で航行していました。総トン数も17,272トン。光太郎曰くの「二萬トンからある」に近い数値です。
 
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ところで「Oceanic」の片仮名表記ですが、当たった資料によって「オセアニック」「オーシアニック」「オーシャニック」といろいろでした。いずれにせよ、「Ocean=海」の派生語ですので、ここからは「オーシャン」に近い「オーシャニック」と表記します。
 
さて、「オーシャニック」。ホワイトスター社のみならず、大西洋航路全体として見ても、画期的な船でした。画期的ゆえに、同社では記念すべき大西洋航路の初船と同じ「オーシャニック」の名を冠したのです。その画期的な部分が、「海の思出」や「雲と波」の光太郎の記述と合致します。どこがどう画期的だったのかは明日のこのブログで紹介します。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポートを続けます。少し長くなるかと思いますがよろしくお願いいたします。
 
昨日、明治39年(1909)の渡米について書きました。横浜からヴィクトリア経由でバンクーバーまでの船旅。乗ったのはカナダ太平洋汽船の「アセニアン」という船です。
 
高村光太郎研究会での発表に向け、改めて「アセニアン」について調べてみたところ、いろいろ面白いことがわかりました。
 
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まず、外洋を航海する船としては、非常に小さな船だったということ。
 
船のサイズは総排水量(船自体の重量)で表しますが、「アセニアン」は3,882トンというサイズです。これを他の艦船と比較してみればよくわかります。まず、明治42年(1909)、光太郎が留学から帰国する際に乗った日本郵船の「阿波丸」という船は、総排水量6,309トンと倍近く、同40年(1907)に大西洋横断に使った船は17,272トンと、およそ4倍です。
 
ちなみに世界の有名な艦船では、横浜港で保存されている「氷川丸」が11,622トン、かの「タイタニック」が46,328トン、大戦中の戦艦「大和」が64,000トン、先頃退役すると報道された米海軍の「エンタープライズ」が75,700トンです。
 
カナダ太平洋汽船では、6,000トン級の船も運航していましたが、そちらにはいわばエコノミークラスの「三等」がなく、「アセニアン」と姉妹船の「ターター」の2隻を「三等」と「特別三等」のみに設定していました。光太郎は「特別三等」を利用しています。「留学」とはいいつつ、経済的には余裕がなかったことがよくわかります。
 
それにしても、このトン数に関しては、光太郎の記憶がけっこういい加減だということが判りました。
 
・「アゼニヤン号はたつた六千噸の貧乏さうな船であつた。」(「遙にも遠い冬」 昭和2年=1927)
・「三千噸のボロ船にて渡米」(「山と海」 昭和5年=1930)
・「「アゼニアン号」という二千噸ぐらいの小さな船」(「青春の日」 昭和26年=1951)
・「「アゼニヤン」は四五千トンの小さな船」(「父との関係―アトリエにて―」 昭和29年=1954)
・「『アゼニヤン』といふ幾千トンかの小さい汽船」(「海の思出」 昭和17年=1942)
 
こういう点には注意したいものです。
 
また、「アセニアン」は、カナダ太平洋汽船の保有となる前に、イギリス海軍に徴用、明治33年(1900)の義和団事件に参加しています。
 
逆に智恵子に関わるほのぼのとした記述もあります。
 
西洋料理もろくに食べた事の無い私の船中生活は後で考へれば滑稽至極で、その時の日記を後年妻の智恵子と一緒によく読んで笑つた。(「父との関係―アトリエにて―」 昭和29年=1954)
 
たんねんにつけた日記があって、とても面白いものだったんだが焼いてしまった。毎日毎日びっくりすることばかり。まるで幕府の使者みたいなもので、あの頃は本当に一日がひと月位に相当した。
 食卓に出るものもはじめてのものばかり、ボーイに聞いては書いて置いた。あとで思うと何でもないものだったりして、智恵子とひっぱり出して、一緒に読んで、読みながら大笑いしたことがあった。(「高村光太郎聞き書」 昭和30年=1955)
 
明日は明治40年(1939)にアメリカからイギリスへの船旅についてレポートします。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」。
 
冒頭の幼少年期の思い出に続き、明治39年(1906)から同42年(1909)にかけての海外留学に関する話が続きます。まずは渡米。
 
これに関しては、既知の光太郎作品や年譜に書かれている以上のことはほとんどありませんでした。すなわち、
 
・明治39年2月に横浜を出航したこと。目的地はカナダのバンクーバー。
・カナダ太平洋汽船保有の「アセニアン」という小さな船に乗ったこと。
・荒天の連続でアリューシャン方面まで迂回し、長い船旅になったこと。
・波に揉まれ、船員まで船酔いになるほどだったこと。
 
などです。これらはくり返し色々な文章で述べられていることです。ただ、2点だけ、既知の作品や年譜に見当たらなかったことがありました。
 
一点目は「陸地近くなつた頃、流木が船に衝突して食堂のボオトホオルの厚ガラスを破り、海水が一度に踊り込んで来て大騒ぎした事がある」というエピソードです。
 
もう一点は、船がバンクーバー直行ではなく、ヴィクトリア経由であったことです。「程なくヴクトリヤを経て目的地へ無事についた。」という記述がありました。
 
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この点について調べてみたところ、明治34年(1901)9月13日の「官報」に以下のように書いてありました。「当港」はバンクーバーを指します。
 
新旧船共孰モ当加拿陀ヴ井クトリヤヘ寄港セル加拿陀太平洋鉄道会社ニテモ今船香港ヴァンクーヴァル線ニ向ヒテ従前ノ三「エムプレス」ノ外汽船「ターター」(総噸数四千四百二十五)及「アセニアン」(総噸数三千八百八十二)ノ二艘ヲ増航セシムルコトニ決定シ「ターター」は八月十四日香港ヲ、九月二十日当港ヲ発シ、「アセニアン」ハ同四日香港ヲ、十月十三日当港ヲ解纜スル予定ナリ
 
実際、カナダ太平洋汽船の航路はヴィクトリア経由でした。ただ、寄港したヴィクトリアで光太郎が下船したかどうかは不明です。したがって、これから論文、評伝等を書かれる方は、「光太郎はバンクーバーで初めて北米の土を踏んだ」といった断定的な書き方をすると誤りかも知れませんので気をつけて下さい。
 
それから、「アセニアン」、当方は勝手に横浜~バンクーバー間を航行する船だと思いこんでいましたが、実は香港~バンクーバーの航路で、横浜は寄港地の一つです。そこで、これもこれから論文、評伝等を書かれる方は気をつけてほしいものです。「横浜を出港したアセニアン」なら問題ありませんが、「横浜から出航したアセニアン」と書くと誤りです。細かい話ですが。
 
ちなみに「アセニアン」。スペルは「ATHENIAN」。光太郎の書いたものでは「アゼニヤン」となっていますが、現在では「アセニアン」と表記するのが一般的なようです。「イタリア」を昔は「イタリヤ」と書くこともあったのと同じ伝でしょう。
 
その他、特に新しい事実、というわけではありませんが、「アセニアン」についていろいろ調べてみて、「ほう」と思うことがいろいろわかりました。明日はその辺を。

11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にて、当方が発表を行いました。題は「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」。その内容について何回かに分けてレポートいたします。
 
今年に入り、光太郎が書いた「海の思出」という随筆を新たに発見しました。そこには今まで知られていた光太郎作品や、『高村光太郎全集』所収の年譜に記述がない事実(と思われること)がいろいろと書かれており、広く知ってもらおうと思った次第です。ちなみに先月当方が発行した冊子『光太郎資料』38には既に掲載しましたし、来年4月に刊行予定の『高村光太郎研究』34中の「光太郎遺珠⑧」にも掲載予定です。
 
「海の思出」、掲載誌は昭和17年(1942)10月15日発行『海運報国』第二巻第十号です。この雑誌は日本海運報国団という団体の発行で、翌昭和18年(1943)と、さらに同19年(1944)にも光太郎の文章が掲載されています(それらは『高村光太郎全集』「光太郎遺珠」に所収済み)。日本海運報国団は、その規約によれば「本団は国体の本義にのっとり海運産業の国家的使命を体し全海運産業人和衷協同よくその本分をつくしもって海運報国の実をあげ国防国家体制の確立をはかるを目的とす」というわけで、大政翼賛会の指導の下に作られた海運業者の統制団体です。
 
そういうわけで、昭和18年、同19年に掲載された光太郎作品はかなり戦時色の強いものでしたが、なぜか今回の「海の思出」は、それほど戦時に関わる記述がありません。まだ敗色濃厚という段階ではなかったためかもしれません。
 
では、どのような内容かというと、光太郎の幼少年期から明治末の海外留学時の海や船に関する思い出が記されています。
 
まず幼少年期。
 
 東京に生まれて東京に育つた私は小さい頃大きな海といふものを見なかつた。小学生の頃蒲田の梅園へ遠足に行つた時、品川の海を眺めたのが海を見た最初だつた。その時どう感じたかを今おぼえてゐないが、遠くに房州の山が青く見えたのだけは記憶してゐる。その後十四歳頃に一人で鎌倉江の島へ行つた事がある。この時は砂浜づたひに由比ヶ浜から七里ヶ浜を歩いて江の島に渡つたが押し寄せる波の烈しさにひどく驚いた。波打際にゐると海の廣さよりも波の高さの方に多く気を取られる。不思議にその時江の島の讃岐屋といふ宿屋に泊つて鬼がら焼を食べた事を今でもあざやかにおぼえてゐる。よほど珍しかつたものと見える。十六歳の八月一日富士山に登つたが、頂上から眺めると、世界が盃のやうに見え、自分の居る処が却て一番低いやうな錯覚を起し、東海の水平線が高く見上げるやうなあたりにあつて空と連り、実に気味わろく感じた。高いところへ登ると四方がそれにつれて盛り上るやうに高くなる。
 
 この中で、「小学生の頃蒲田の梅園へ遠足に行つた」「十四歳頃に一人で鎌倉江の島へ行つた」というのは既知の光太郎作品や年譜に記述がありません。はっきり明治何年何月とはわかりませんが、記録にとどめて置いてよいと思われます。江ノ島に関しては「十四歳頃」と書かれていても、単純に数え14歳の明治29年(1896)とは断定できません。意外と光太郎の書いたものには時期に関する記憶違いが目立ちますので。ただ、場所まで記憶違いということはまずありえないでしょう。実際、明治三十年五月刊行の観光案内『鎌倉と江之島手引草』の江ノ島の項には「金亀山と号し役の小角の開闢する所にして全島周囲三十余町 人戸二百土地高潔にして四時の眺望に富み真夏の頃も蚊虻の憂いなく実に仙境に遊ぶ思いあらしむ 今全島の名勝を案内せん(略)旅館は恵比寿屋、岩本楼、金亀楼、讃岐屋を最上とす 江戸屋、堺屋、北村屋之に次ぐ」という記述があり、光太郎が泊まったという讃岐屋という旅館が実在したことがわかります。ちなみに「鬼がら焼」は今も江ノ島名物で、伊勢エビを殻のまま背開きにし、焼いたものです。なぜか14歳くらいの少年が一人旅をし、豪華な料理に舌鼓を打っています。

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つづく「十六歳の八月一日富士山に登つた」は、昭和29年(1954)に書かれた「わたしの青銅時代」(『全集』第10巻)にも「わたしは、十六のとき祖父につれられて富士山に登つた」とあるので、数え16歳の明治31年(1898)で確定かな、と思うとそうではなく、どうやら記憶違いのようです。祖父・兼松の日記(『光太郎資料』18)によれば、富士登山は翌32年(1899)です。こちらの方がリアルタイムの記録なので優先されます。こういうところが年譜研究の怖ろしいところですね。
 
いずれにしても既に東京美術学校に入学してからで、彫刻科の卵だった時期です。「頂上から眺めると、世界が盃のやうに見え、自分の居る処が却て一番低いやうな錯覚を起し、東海の水平線が高く見上げるやうなあたりにあつて空と連り、実に気味わろく感じた。高いところへ登ると四方がそれにつれて盛り上るやうに高くなる。」こういった空間認識は、やはり彫刻家としてのそれではないでしょうか。
 
「海の思出」、このあと、留学時代の内容になります。以下、明日以降に。

今日は、11/20のブログで御紹介しました第57回高村光太郎研究会でした。
 
会場は湯島のアカデミア湯島。午後2時からということで、午前中は湯島にほど近い上野の国立西洋美術館に寄りました。11/14のブログで御紹介しました「ロダン ブールデル 手の痕跡」展を見るためです。こちらについてはまた後ほど詳しくレポートします。
 
そちらを見終わって、昼食をとりつつ歩いて湯島まで。東京も秋の風情がなかなかよい感じでした。
 
さて、研究会。この世界の第一人者、北川太一先生をはじめ、大阪から『雨男高村光太郎』の著者・西浦氏、花巻から花巻高村記念会の高橋氏、福島から元草野心平記念館の小野氏、地元東京で『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』の著者・坂本女史など、見知った顔が集まりました。ありがたいことです。
 
まずは前座で当方の発表「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」。つつがなく終わりました。発表内容についてはまた日を改めてこのブログでレポートします。
 
続いて國學院大學名誉教授の傳馬義澄氏によるご講演「高村光太郎『智恵子抄』再読」。

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昭和25年に刊行された光太郎の詩文集『智恵子抄その後』のあとがきに「「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。」と光太郎は書きました。それをふまえ、単純に「純愛の相聞歌」的な捉え方をすることへの警鐘、『智恵子抄』収録の詩篇から読み取れる二人の生活の様子、そして今後の若い世代へどう広めていくのかといった部分にまでお話がおよび、ご講演のあとの参加者でのフリートークでもその辺りの話題で盛り上がりました。

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その後、懇親会ということで、会場を移しました。そこでも高橋氏や坂本女史から新しい計画等のお話を伺い、そちらも非常に楽しみです。
 
今後、随時、「ロダン ブールデル 手の痕跡」展、当方の発表内容についてのレポート、そして新しい計画についての情報等アップしていきますのでお楽しみに。

追記 当初開設していたYAHOO!ブログ(2019年にサービス終了)での内容ですので、現在は実体に合っていませんのでよろしく。

昨日、こちらのブログで内容ごとに記事を読めるような設定にしたことと、「検索」機能についてお伝えしました。
 
他にもこのブログ、いろいろな機能がついています。例えばコメント欄。当方の住所やメールアドレス等ご存じの方はそちらでご連絡いただければ結構ですが、そうでない方は、コメント欄をご活用下さい。
 
各記事の下にこのような部分があります。
 
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ここの「コメント」をクリックすると下の画面が出ます。
 
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自由に文章をお書きいただいて、「投稿」ボタンをクリックすればOKです。
 
投稿したコメントを他の方に見られたくない場合には、文章を各欄の右の「内緒」というボックスにチェックを入れ、投稿していただければ、当方のみが読めるようになっています。
 
実際、この機能を使っていただいて、ご質問、ご依頼等がありました。他にも住所やメールアドレス、電話番号等をご存じの方からもいろいろとレファレンス(調査)のご依頼が来ています。
 
こんなご依頼等がありました。
 
・「光太郎資料」「高村光太郎研究」など、当方の関わっている冊子がほしい。
・光太郎の木彫作品を所蔵している美術館等を教えてほしい。
・戦時供出でなくなったブロンズの光太郎彫刻が他の彫刻家によって復元されているが、その経緯を教えてほしい。
・光太郎が作った俳句にはどんなものがあるか。
・日本全国で光太郎の筆跡を刻んだ石碑などはどのくらいあるか。
・光太郎の書(色紙、軸装、短冊など)はどこに所蔵されているか。
・自分が書いたもののチェックをしてほしい。
 
などなど。
 
それぞれ対応させていただきました。
 
出来る限りこうしたご質問やご依頼にはこたえますので、コメント欄等ご活用下さい。
 
申し訳ありませんが、迷惑メール対策ということもあり、メールアドレスや住所、電話番号はここでは公開しておりません。よろしくご寛恕の程。
 
 
出来る限り対応いたしますので、ご遠慮なく。

追記 当初開設していたYAHOO!ブログ(2019年にサービス終了)での内容ですので、現在は実体に合っていませんのでよろしく。

以前からご覧いただいている方はお気づきでしょうか。このページのレイアウトを少し変更しました。
 
この部分の左に広告があり、その下はプロフィール欄で光太郎智恵子の写真が出ています。さらにその下。ここは「書庫」の欄なのですが、ここで記事の内容ごとに見られるようにしました。フォルダのようなものです。昨日までは初期設定の通りすべての記事を「日記」に入れていましたが、カテゴリーで分けることが出来ることに気づき、変更しました。
 
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たとえばここで「彫刻/絵画」をクリックしてみます。すると主に彫刻や絵画について書いた最新の記事が表示されます。
 
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さらに左上の水色のバーのところにある「リスト」をクリックすると、主に彫刻や絵画に関する記事のタイトル一覧が出ます。
 
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「彫刻/絵画」以外のカテゴリーは、主に詩に関する内容の「詩」、音楽や演劇、テレビドラマや映画などに関わる「音楽/演劇等」、花巻や十和田、女川、福島関連が多いので「東北」、それから「智恵子」という項目も設定しました。分類不可能なものは「その他」に入れてあります。ただし、一本の記事でも詩に関して書いたり、彫刻にふれたりしている場合がありますので、あくまで目安です。
 
さらに細かく検索なさりたい場合は、画面左下に検索窓がありますのでご活用下さい(この機能は以前からありましたが)。
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ここに検索したいワード、たとえば「荻原守衛」と入力し、「検索」をクリックします。すると、まず記事のタイトルに「荻原守衛」が含まれている記事が出るはずです。ところが、タイトルに「荻原守衛」は使っていませんから、下のような画面になります。
 
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しかし守衛について書いていないわけではありません。すぐ上の「タイトル」の右にある▼ボタンを押して「内容」にしていただいて再び検索。すると、本文で「荻原守衛」の語が使われている最新の記事が表示されます。
 
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そこでやはり左上の水色のバーのところにある「リスト」をクリックすると、一覧が出ます。
 
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このページ、こうした機能もありますので、ご活用下さい。
 
さらに「コメント欄」がこの下にあり、こちらも活用していただきたいのですが、長くなりましたのでまた明日、そのあたりを書きます。

昨日のブログで、「古い物を000残す」ということについて書きながら、先月、歯医者の待合室で読んだ『週刊ポスト』の記事を思い出しました。イラストレーター・みうらじゅん氏のコラムです。
 
狙われる骨董コレクターの死 甲冑などには中東マネーも流入
 
老舗の古美術店主曰く。

「骨董病という言葉がありまして、一度はまってしまった人は、買い続けていかないと落ち着かない“中毒状態”に陥ってしまう人が多いのです」

 そのため、骨董集めをする人の中には家族に犠牲を強いてしまうこともあるらしい。「故人が収集したコレクションを見るのもイヤ! という遺族は珍しくありません。膨大なコレクションがあっても子供たちが興味を持つことは稀で、たいがいは処分されます」

 この連載の担当者Xが昭和50年代に発行された有名な神社の社史の中で、戦国武将ゆかりの赤備えを揃えた博物館があることを知ったそうだ。関心を覚えたXは、実物を見たいと、その博物館を検索してみた。ところが、全くヒットしない。あれ? と思って、所在地の役場に聞いたそうだ。

 すると、「昔は確かにありましたが、個人で収集したものを展示していたところで、その方が亡くなってから閉鎖されて、鎧もどこにいったのかわかりません」といわれた。せっかく一箇所に集められた「赤備え」は、離れ離れになってしまったのだ。

 同様の話は西日本の方でもあるらしい。これまた珍しい鎧のコレクターがいて、その人が亡くなった後、売りに出されてしまったそうだ。なんでもドバイの大富豪から引き合いがあったというのだ。

 そう。良質のコレクションは、虎視眈々と狙われている。

「親戚の中には、“これ、形見としてもらっていくね”なんて高価なものを狙う人もいるのです。価値のわからない遺族は狙われやすいですね」

 前出のように、甲冑などのジャンルは今や中東マネーも流入するほど活気づいている。だが、「骨董」というくらいだから「新製品」が売りに出されるわけではない。数少ない供給源である「コレクターの死」は狙われるってわけだ。

※週刊ポスト2012年10月12日号
 
いろいろ難しい問題をはらんでいますね。
 
個人の収集家が、家族を犠牲にして収集に明け暮れているようではやはりよくありません。まして個人が自分の収集欲を充たすためだけに収集し、公開も何もせず死蔵してしまったらそれは犯罪にも等しい行為です。

しかし、たとえ死蔵でも、きちんと物が残り、将来的にも保存されるということであればそれはそれで意義はあるでしょう。逆に「断捨離」ブームだからといって、何でもかんでも捨てられてしまっては困ります。
 
当方の自宅兼事務所にも数千点(と思われる……もはや数えられません)の光太郎関連資料が集まっています。幸い、甲冑とか焼き物とかと違い、単価が安いので家族に犠牲を強いるという状態にはなっていません。肉筆物などで単価の高い物も世の中には出回っていますし、まして彫刻作品となるととんでもない値になりますが、そういうものは収集の対象にしていません。そのため家族もある程度理解を示してくれているので助かっています。
 
そして「死蔵」にならないように、こういう物がありますよ、という情報の発信を出来るだけしていこうと考えています。そのためにもこのブログを活用していこうと思っていますので、宜しくお願いします。

昨日、これを書くつもりでしたが、女川からの記事が朝日新聞に載ったので、そちらを優先しました。
 
さて、11/2、3、4の金土日、埼玉県東松山市をメイン会場にして、「第35回日本スリーデーマーチ」が開催されました。
 
毎年11月、比企丘陵を舞台に繰り広げられるウォーキングの祭典ということで、国内のみならず、海外からの参加者も多く、今年は12万人もの参加者だったそうです。
 
さて、これが光太郎とどう関わるのかというと、大会初期の頃に礎を築いた元実行委員長、田口弘氏(元東松山市教育長、連翹忌にもご参加いただいています)が、生前の光太郎と関わっていたのです。
 
5年前の朝日新聞で、日本スリーデーマーチが30回の節目ということで、大きく特集を組みました。その時の記事から。
 
 彫刻家で詩人だった高村光太郎が、昭和15年につくった「歩く うた」という詩がある。
  歩け歩け 歩け歩け
  南へ北へ 歩け歩け
  東へ西へ 歩け歩け
  路ある道も 歩け歩け
  路なき道も 歩け歩け
    詩人で東松山市の教育長を76年から16年半務めた田口弘さん(85)=写真=は、「日本歩け歩け協会(日本ウオーキング協会の旧名)の『歩け』は、この詩が原点になっていると思うんです」と語る。「後に曲がついてレコード化されたが、4番まである詞には、軍隊的な言葉が一つも出てこない」
田口さんは中学の恩師が光太郎と交遊があった縁で、光太郎に傾倒。戦前の高村宅を訪れ、自分で書いた詩を見てもらったこともある。「先生は歩くのが好きで書斎にこもらずに、こまめに歩き回っていました。素朴な原始的な力強さを感じる、歩けでも師です」

田口さんは、日本スリーデーマーチが東松山市に会場が変わった第3回大会から第15回までの実行委員長。子どもたちの参加を働きかけ、第6回からは市内の全小中学生が3日間、日本全国や海外からのウオーカーと 歩くことを実現させた。
  (以下略)
 
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というわけなのです。
 
「歩くうた」は昭和15年に飯田信夫の作曲で「国民歌謡」として発表されました。ラジオでくり返し流れたり、徳山璉(たまき)の歌唱のレコードがヒットしたりで、当時の子供達はみんなでこれを歌いながら行進していたそうです。
 
「歩くうた」が発表されてから七十余年。戦闘機も爆撃機も飛んでいない空の下、歩くことを愛した光太郎の精神は今も息づいているのですね。
 
ちなみに当方、毎日がっつり歩いています。お供は愛犬・文吉(ぶんきち)。
 
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柴犬系雑種です。こいつと一緒に、朝と夕方、多い日で計10㎞以上歩く日もあります。おかげで自分も犬も、すこぶる健康です。
 
皆さんも、ぜひ、歩きましょう! 

昨日、10月5日は智恵子の命日、レモンの日でした。
 
智恵子が亡くなったのは昭和13年(1938)10月5日。没後74年ということになりますか。
 
下の画像は智恵子の死亡記事と、死亡広告です。

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これを読むと、葬儀は8日に行われたことがわかります。その葬儀の日を謳った光太郎の詩。
 

   荒涼たる帰宅001
 
 あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
 智恵子は死んでかへつて来た。
 十月の深夜のがらんどうなアトリエの
 小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
 私は智恵子をそつと置く。
 この一個の動かない人体の前に
 私はいつまでも立ちつくす。
 人は屏風をさかさにする。
 人は燭をともし香をたく。
 人は智恵子に化粧する。
 さうして事がひとりでに運ぶ。
 夜が明けたり日がくれたりして
 そこら中がにぎやかになり、
 家の中は花にうづまり、
 何処かの葬式のやうになり、
 いつのまにか智恵子が居なくなる。
 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
 外は名月といふ月夜らしい。
 
残された詩稿によれば、智恵子没後3年近く経った昭和16年6月11日の作。雑誌等に発表された形跡がなく、おそらくこの年8月20日刊行の『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定されます。
 
愛する者の死を謳い、詩集『智恵子抄』刊行。それで一区切りと考えたのでしょうか、以後、詩の中に智恵子が謳われることがなくなり、空虚な戦争詩の乱発の時期になります。再び智恵子が詩の中に登場するのは戦後になってからでした。
 
ひとまずレモンの日関連、これで終わります。

昨日のブログで御紹介した逸見久美氏の『新版評伝与謝野寛晶子』。本日の朝日新聞読書欄に紹介されました。
 
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ただ、昨日のお話の中でも、今日紹介されるということをおっしゃっていましたが、何やらあまり歓迎されていなかった御様子でした。読んでみて納得しました。もう少し違う切り口があるのでは、という評ですね。
 
多産だったというのは、知らなかった人にとっては驚きなのでしょうし、「評伝はこんな読み方もできる」というのは個人の勝手かも知れませんが。
 
この評を読んで思い出したのが光太郎の書いた散文「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」。大正15年(1926)の『婦人の国』という雑誌に載った文章で、『高村光太郎全集』の第20巻に載っています。
 
 結婚が恋愛の墓場であるとは一般によくいはれる言葉ですが、私は決してさうではないと思ひます。またさうであつてはならないと思ひます。少なくとも常に心に火を持つて生活してゐる人にとつて、結婚前の恋愛はお互に未知なものを探し求め相引く気持ちですし、結婚によつて一緒の生活をするやうになれば、更にまたその恋愛は充実し、ますます豊富になり完全になるべきです。
 芸術に対する考へ方などについてはいろいろ意見の相違もありますけれども、その意味に於てすぐ私の胸に浮んでくるのは、与謝野寛先生御夫婦です。先生たちの生活が恵まれたものであることは可なり有名な事実ですが、全く、もう結婚後三十年近くにもならうといふお二人の間(なか)が、未だ新婚当時と同じやうな恋人同士の生活なのです。
 喜びと悲しみ、意欲と望とが常に相剋(あひこく)してゐるこの世の生活では、永久に若々しい魂の情熱を失はない人々の道は、決して静かな滑らかな、平坦なものではありません。そこには常に波瀾があり、また凹凸があります。従つてお互の不断の精進と努力とが必要になつてきます。そしてそこには新鮮な生々した気分が醸し出され漲ります。与謝野夫妻がそれなのです。
  よい夫婦といつても、決して事なき平和といふのではなく、今でも時々争ひなどもされるらしい……といつてそんなお話をなさつたり、私たちの前で争つたりされるといふのではありませんが、折々争ひした後で口惜し紛れに詠んだやうな歌など見かけますから、歌に偽りがなければ事実でせう。その癖お二人ともお互いに相手を心から充分尊敬してゐられます。そしてその長い結婚生活の間中を、お二人はどんなにいゝ伴侶者として過ごされたことでせう。時々先生が対外的に何か失意なさつたやうな場合、晶子さんは一緒に沈んでしまはないで、その限りない熱情を籠めて慰め且つ励ますかと思ふと、また晶子さんがさういふ場合には先生が力づけるといふ具合にほんとによく助け合つてゐらした。
 
もうすこし続くのですが、長くなりますので、以下は明日。

誤植について延々と書いてきましたが、今回でひとまず終わります。
 
今日は光太郎自身の書いたものでの誤植から。
 
まずは明治43年(1910)の『婦人くらぶ』に発表された光太郎の散文。題名にご注目下さい。
 
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100年前にはまだ「スタイル」という外来語は一般的ではなかったのかも知れません。
 
数年前、神田のお茶の水図書館という女性史系の書籍、雑誌を主に収蔵している図書館で発見したのですが、見つけた時には笑いました。
 
笑って済まされなかった誤植が以下のもの。紙が貼り付けてあるのがおわかりでしょうか。
 
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こちらは昭和19年(1944)刊行の光太郎詩集『記録』初版から。
 
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『高村光太郎全集』第1巻の解題によれば、「天皇陛下」とすべきところが「天皇下陛」となっていたとのことです。
 
印刷、製本まで済んだところで、光太郎を敬愛していた他の詩人が誤植に気付いて版元の龍星閣や光太郎に連絡、そのため慌てて紙を貼り付けたそうです。これも『高村光太郎全集』第1巻の解題によれば、そのために発売が2ヶ月以上遅れたとのこと。
 
もし「天皇下陛」のまま流通してしまっていたら、不敬罪(当方のPC、まず『不経済』と出ました。こういうのが誤植の元ですね(笑))に問われてもおかしくない誤りです。
 
数日前にも書きましたが、一つの誤植で書籍や論文全体の信用度ががた落ちということもあり得ます。気をつけたいものです。

いろいろと誤植にまつわる話を書いてきましたが、光太郎自身は自著の誤植にはどう対応してきたのでしょうか。
 
平成11年(1999)に日本図書センターから刊行された『詩集 智恵子抄』愛蔵版という書籍があります。『智恵子抄』は昭和16年(1941)に龍星閣から刊行され、紆余曲折を経て龍星閣から刊行が続いていたのですが、それが差し止められたため、オリジナルに近いものを刊行する目的で出されたものです。校訂には北川太一先生が当たられました。
 
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巻末近くに北川先生の「校訂覚え書」が収録されているのですが、そこを読むと初版以来のテキストの有為転変のさまがよくわかります。
 
初版発行時にあった明らかな誤植(というより脱字)は再版ですぐに訂正されています。その他、細かな句読点や仮名遣い、一字空きなどの点でも光太郎は納得いかなかったようで、昭和18年(1943)4月の第9刷では全面的に改版。しかし、それにより新たな誤植が発生してしまいました。その後、戦後の白玉書房版(昭和22年(1947))、龍星閣復元版(同26年(1951))と、少しずつ訂正が行われています。
 
そして日本図書センター版では北川先生がそれら各種の版を総合的に見て、元に戻すべきところは元に戻し、さらに光太郎の草稿にまで当たって数箇所の訂正が入っています。
 
ここまで神経を使い、一字をもおろそかにしない姿勢、見習いたいものです。
 
今と違い、昔は「文選工」と呼ばれる職人さんが、原稿を見ながら活字を拾って版を組んでいたので、ミスが生じてしまうのは仕方がなかったのでしょう。
 
もちろんミスをしないことも大切ですが、それより大切なのは、ミスが生じてしまった後の対応をきちんとやることでしょう。『智恵子抄』に関しても、「ま、いっか」ではなく、とことんこだわった光太郎や出版社の姿勢、見習いたいものです。
 
そういえば、光太郎がらみで「トンデモ誤植」があったのを思い出しました。明日はそちらを。

昨日まで、著者名の取り違えや誤植といった件について書きました。人間のやることですし、笑ってすまされるようなミスならいいのですが、中には笑ってすまされはしない、義憤を感じるものもあります。
 
下の画像は、10数年前に刊行された書籍の表紙です(部分的にモザイクをかけてあります)。

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お気づきでしょうか? 問題の箇所を拡大してみましょう。

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ついでに裏表紙からも。
 
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「高村光太郎」とすべきところが「室生犀星」。あまりに低レベルのミスで、話になりませんね。さすがに中身は「高村光太郎」となっていますが、表紙は書籍の顔。それがこういうことでいいのでしょうか?
 
この書籍は、小学校の教員向けに国語の授業の進め方の実践例を紹介するもので、この手の書籍の版元としては最大手の某出版社から出ています。「最大手」ですよ、「最大手」。個人経営の街の古書店が目録で著者名を取り違えるのとは影響力が違いますね
 
これはあんまりだ、と思い、この出版社に手紙を送ったのですが、なんのかんのと理由をつけて、訂正されていません。いまだにこの社のオンラインショップでも堂々と訂正されないまま販売されているようです。しかも、この点で突っ込まれるのを警戒しているのでしょうか、他の出版物は鮮明な画像で表紙を紹介しているのに、このシリーズのみぼやけた画像になっています。こういうのを「姑息」というのでしょう。
 
それにしても、中身の部分を書いた人、監修者として名前を挙げられているえらい先生は、何にも言わなかったのでしょうか? その辺からの抗議があったとしても無視なのでしょうか
 
この社には「出版社」または「出版者」としての良心、矜恃、心意気、誇り、気骨といったものが感じられません。まぁ、ないでしょうが、仮に執筆依頼が来たとしてもお断りします。「渇しても盗泉の水を飲まず」といったところですね。
 
ところで、光太郎自身も誤植には悩まされていました。そうした場合に光太郎が執った措置を次回は御紹介します。

先日、古書目録などの記載内容に誤りが多い、という内容を書きました。
 
神保光太郎と高村光太郎を取り違えていたり、高浜虚子や木々高太郎が序文を書いているのに光太郎が書いたことになっていたりとかです。こういう例は混乱が生じるので、はた迷惑なのですが、人間のやることですのである意味仕方がないでしょう。
 
そこまで大がかりなミスではありませんが、それ以上に目立つミスとして「誤植」「誤変換」があります。書籍やインターネットサイト、そういう文字を使ったメディア全般で見受けられます。
 
非常に多いのが「知恵子抄」「千恵子抄」。これが西の横綱とすれば、東の横綱が「高村高太郎」「高村幸太郎」でしょう。

その他、実際に眼にした誤植の数々です。
 
「高山光太郎」……ある雑誌の光太郎特集号の目次にドーンと大きく掲げられていました。さすがに発行前に気付いて、「こりゃまずい!」と思ったようですが、印刷の訂正はできなかったらしく、正誤表が挟まっていました。

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「山のスッケチ」……インターネットサイトで見かけました。正しくは「山のスケッチ」、光太郎没後に刊行された花巻の山小屋での素描集です。山小屋での光太郎は読売文学賞の賞金十万円をそっくり地元に寄付してしまうなど、ケチではなかったんですが……。

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ちなみに光太郎を敬愛していた宮沢賢治の「春と修羅」の扉でも、「心象スケツチ」とすべきところが「心象スツケチ」となっているのは、意外と有名な話です。 

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「天井の炎」……火事になりそうです。ある書籍の光太郎年譜的なページから。正しくは「天上の炎」。ヴェルハーレンの詩集で、光太郎が翻訳したものです。「天上の炎」は太陽を表します。

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かくいう自分もよくやらかします。論文の中で「軍歌」と書くはずのところを「軍靴」としてしまったことがありますし、著書では「与謝野鉄幹」とすべきところをすべて「与謝野鉄寛」としてしまったことがあります。

しかし、他の人が書いたものの中には「与謝野鉄管」もありました。水道工事でも始めるのでしょうか。
 
誤植も笑ってすまされるものならいいのですが、その一つの誤植で書籍や論文全体の信用度ががた落ちということもあり得ます。気をつけたいものです。
 
5月から始めたこのブログももうすぐ半年、今日で144回目です。おそらくどこかしらでやらかしていると思います。何か気付かれたらご指摘下さい。

昨日のブログで、かわじもとたか氏編「序文検001索―古書目録にみた序文家たち」(杉並けやき出版発行)を紹介しました。今日はその姉妹編、「装丁家で探す本―古書目録にみた装丁家たち 」を調べに行ってまいりました。残念ながらこちらは光太郎の件数が少なく、すべて既に把握しているものでした。
 
さて、並行して「序文検索―古書目録にみた序文家たち」に載っていた、こちらで把握していない光太郎序文の調査も始めました。そのうちの一冊が、国会図書館などの主要な図書館に蔵書がなく、そこで古書店のサイトで探してみたら、出品されていました。
 
以前でしたら喜び勇んですぐに購入しましたが、最近はそんな愚は犯しません。「この書籍に高村光太郎の序文が載っているという情報を得たのですが、そうであれば購入します」と条件をつけました。すると、返ってきた答が「序文は高村光太郎ではなく高浜虚子です」。「高」しか合っていませんが……(笑)。これも以前でしたらがっかりしていましたが、最近はもう慣れてきました。こういうケース、時々あるので、予想していました。予想していたので昨日のブログにも「(いろいろ落とし穴があるので空振りに終わることも少なくありません)」と書きました。
 
古書目録、いいかげんに作っているわけではないのでしょうが、ミスが目立ちます。といっても、それは、人間のやることなので仕方がありません。要は書かれている内容を頭から信用しないことです。
 
もう10年以上前でしょうか、こんなことがありました。自宅に送られてきた古書目録に、ある詩華集(多くの詩人の合同詩集)が掲載されており、「高村光太郎」の名も。把握していないもので、価格も手ごろだったのでさっそく注文しました。数日後、届いた詞華集、いくらページをめくっても高村光太郎の作品は載っていません。代わりに載っていたのが同じく詩人の神保光太郎の作品。「光太郎」ちがいです。目録に「光太郎」しか書いてなければ100%こちらの早とちりですが、「高村光太郎」と書いてあっては古書店のミスですね。買わずに返品しました。
 
こんなこともありました。やはり目録に「詩集智恵子抄 高村光太郎 昭和19年 第15刷」とあったのです。龍星閣から刊行されたオリジナルの『智恵子抄』は第13刷までのはず。15刷があったとすれば、それはそれで大きな発見です。このときは「ほんとに15刷ですか?」と問い合わせてみたら、「すみません、13刷でした」とのこと。
 
こういう例はインターネットサイトにもいろいろあります。ある方のブログで、「××という本の序文を高村光太郎が書いている」という記述を見つけ、これも把握していないものだったので、当該書籍を古書サイトで出品している古書店さんに「この書籍に高村光太郎の序文が載っているという情報を得たのですが、そうであれば購入します」と送ったところ(今回と全く同じケースです)、「高村光太郎ではなく推理作家の木々高太郎です」……。「高浜虚子」よりは近いとは思いますが(笑)。
 
くりかえしますが、古書目録等、いいかげんに作っているわけではないのでしょうが、ミスが目立ちます。といっても、それは、人間のやることなので仕方がありません。要は書かれている内容を頭から信用しないことです。
 
このブログではそういうことのないように、細心の注意を払っていきたいと思っております。
 
かわじもとたか氏編「序文検索―古書目録にみた序文家たち」(杉並けやき出版発行)。まだ有望と思われる未確認情報が数件有りますので、そちらに期待します。

閲覧数が4,000件を超えました。ありがとうございます。
 
昨日、横浜に行ってきました。11月の高村光太郎研究会での発表のため、船と光太郎について調べており、その関係で、横浜開港資料館さん、日本郵船歴史博物館さん、そして山下公園の氷川丸を廻りました。
 
明治39年(1906)から42年(1909)にかけ、光太郎は留学ということで、アメリカ、イギリス、フランスに約1年ずつ滞在、ぐるっと地球を一周して帰ってきています。旅客機というもののなかった時代ですから、移動の大半は船。光太郎の船旅に関しては、これまであまり注目されていませんでしたが、いろいろと細かな新事実がわかってきました。詳細は研究会の後でブログに書きます。
 
横浜開港資料館さん、日本郵船歴史博物館さんでは海事関係の資料の閲覧が目的でしたが、時間の関係で開港資料館の方は閲覧室の利用だけにしました。日本郵船歴史博物館さんの方では、展示も興味深く拝見しました。

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そして氷川丸。初めて中に入ってみました。
 
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氷川丸は日本郵船さんが所有する船で、昭和5年(1930)、横浜~シアトル航路に就航し、約30年、洋上で活躍しました。現役引退後、山下公園に固定され、現在は産業遺産として内部を一般公開しています(観覧料200円)。かつてかの嘉納治五郎師範が、IOC会議の帰途この船に乗られ、そして洋上で亡くなりました。その他、チャップリンや秩父宮御夫妻なども。
 
光太郎は帰国の際に日本郵船さんの船「阿波丸」に乗っており、時期は20年ほどずれますし、氷川丸は阿波丸の2倍程の大きさなのですが、参考になるかと思い、見てみました。一等船客のための施設設備は非常に豪華で驚きました。船室(個室)はもちろん、食堂、読書室、社交室など、レトロな雰囲気とも相まって、いい感じでした。
 
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ただし、光太郎は帰国の際は船中無一文だったと述べており、三等船客だったのではないかと思います。三等船室は二段ベッドの8人部屋でした。凄い格差です。

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しかし、光太郎も明治40年(1907)、アメリカからイギリスに渡る際には豪華客船の二等船室を利用しています。このあたり、かのタイタニックにもからむ話になっており、調べていて興奮しました。
 
先述の通り、詳細は研究会の後でブログに書きます。お楽しみに。

俳優の内藤武敏さんの訃報が報じられました。亡くなったのは21日、既に近親の方々で葬儀が行われたとの事ですが、昨日になって報道されました。
 
内藤さんといえば、存在感のある渋い脇役でしたが、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」にも出演なさいました。配役は智恵子終焉の場所、ゼームス坂病院の院長でした。やはり渋い演技だったと記憶しています。ちなみに光太郎役は故・丹波哲郎さん、智恵子役は岩下志麻さん。他に石井柏亭が平幹二朗さん、光太郎の弟・豊周を中山仁さん、犬吠の太郎には故・石立鉄男さん、椿英介(=柳敬助)で故・岡田英次さん、その妻和子(=柳八重)が故・南田洋子さん、といったキャストです(「故」の字が多いのが残念です)。

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画像は映画パンフレットから採らせていただきました。
 
当方、松竹の「智恵子抄」は昨年、初めて視ました。
 
「智恵子抄」の映画は2回作られており、最初は昭和32年(1957)、東宝で原節子さんと故・山村聰さんの主演でした。こちらはビデオテープが発売されており、持っています。しかし、松竹の「智恵子抄」はビデオ、DVD等が発売されておらす、視たことがありませんでした。数年前にWOWOWで放映されたのですが、未だに加入していません。これを機に加入しよう、と妻に提案したのですが一蹴されました。
 
そんなこんなで、是非視たいと思っていたところ、チャンスが訪れました。
 
昨年、群馬県立土屋文明記念文学館で企画展「智恵子抄という詩集」が開催され、当方、お手伝いをさせていただきました。こうした企画展では、会期中の土日などに「関連行事」といって、講演会やパネルディスカッション、ミニコンサートなどを行うことが多くなっています。そこで、それをどうするかという話になった時に、迷わず「松竹の映画「智恵子抄」を上映しましょう!」と提案しました。都内にこの手の古い映画フィルムの貸し出しを行っている会社があり、松竹の「智恵子抄」もラインナップに入っているのを知っていましたので。結局その提案が通り、初めて松竹の「智恵子抄」を視る事ができました。一種の役得ですね(笑)
 
岩下志麻さんの鬼気迫る演技が印象に残りましたが、沢田院長役の内藤さんの渋い演技も記憶に残っています。
 
ご冥福をお祈りいたします。

このところ、光太郎と船に関する内容で攻めていますので、今回も最近入手した船がらみの資料を紹介します。
 
昭和6年(1931)に、岩手日報社から発行された「岩手縣全圖昭和六年版」の附録、「省線外乗車船賃金表」です。

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東北本線、岩手軽便線(宮沢賢治の代表作の一つ『銀河鉄道の夜』のモデルともいわれています)など、鉄道の運賃、営業キロ数などが記載されています。

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鉄道だけでなく、気仙沼~宮古間の三陸汽船(宮古航路)についても表が載っています。昭和6年(1931)といえば、まさしく光太郎が「三陸廻り」の旅をした年。しかもこの宮古航路に乗っているのです。面白いものが手に入ったと喜んでいます。
 
宮古航路における光太郎。まずは東華丸という船で約8時間かけて気仙沼から釜石へ。営業キロ数140.2㎞、料金は特等3円29銭、並なら2円19銭。ついで釜石から宮古へ、また約8時間、第2三陸丸という船に乗ります。営業キロ数104.5㎞、料金は特等2円54銭、並なら1円69銭。おそらく光太郎は特等には乗っていないと思われます。
 
同じ「省線外乗車船賃金表」によれば東京仙台間の東北本線が乗車賃一等8円56銭、急行料金一等2円。当時の物価としては豆腐1丁40銭、カレーライス10銭、ビール大瓶35銭。
 
手元にある書籍で、昭和5年(1930)発行の四六判上製函付のアンソロジー『日本現代詩選』が1円70銭、昭和8年(1933)発行の新潮文庫『大正詩選』が35銭。

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こういうのも調べてみると面白いものです。

昨日、十和田湖の遊覧船の会社が破産というニュースを紹介しました。
 
すると、青森の地方紙「デーリー東北」さんに以下のコラム(朝日新聞さんでいえば「天声人語」欄にあたる部分でしょう)が載りました。 

天鐘(2012/08/20掲載)

詩人で評論家の大町桂月が初めて青森県を訪れたのは1908(明治41)年8月下旬のこと。五戸町出身の鳥谷部春汀の誘いがきっかけ。14日間滞在し、地元の人々の案内で十和田湖などを探訪した▼湖上遊覧も楽しみ、神秘の湖の美しさに息をのむ。旅を終え、桂月は春汀が編集長を務める雑誌「太陽」に紀行文「奥羽一周忌記」を寄せた。それが十和田湖を世に知らしめ、後の国立公園の指定に道を開くことになる▼彫刻家で詩人の高村光太郎も湖上遊覧で十和田湖に魅せられた人物。52(昭和27)年、国立公園指定15周年を記念する像の制作を依頼され、詩人で小説家の佐藤春夫とともに現地を訪れた▼光太郎は湖上遊覧の後、「裸婦像でいいか」と周囲に漏らす。湖面に映る自らの姿をヒントに、向かい合う2人の女性像の構想を固めた。そして翌年完成したのが、十和田湖のシンボル、乙女の像だ▼エンジン付きの遊覧船が十和田湖に進水したのは、ちょうど100年前の8月。以来、修学旅行生や海外からの旅行客を乗せ、絶景を味わう役割を果たしてきた。しかし、近年は観光客の激減に見舞われている▼先日、遊覧船を運航する2社のうち1社が経営破綻し、民事再生法の適用を申請した。営業を続けながら再建を目指すという。特定の企業の問題にとどまらず、十和田湖が直面する課題が凝縮されているのではないか。時代に合った魅力ある観光はどうあるべきかが問われている。
 
「時代に合った魅力ある観光」、その通りですね。最近はわざわざ船に乗ろう、という人は少ないのではないでしょうか。当方も、子供が小さかった頃は各地の観光地でよく船に乗りましたが、一番最近船に乗ったのは? と訊かれると正確にいついつ、と答えられません。おそらく、数年前に千葉の富津から横須賀の久里浜までフェリーに乗ったのが最後と思われますが、何年前だったか、はっきりしません。十和田湖に行った時も(一人旅でしたが)「遊覧船? 高いからパス」という感覚でした。
 
交通機関としての船は、航空機や鉄道にスピードの点で勝負になりません。しかし、時間に余裕がある旅であれば、船を使うのも一興かと思います。こういうスピード時代だからこそ、かえってそれに逆行するのも面白いのではないでしょうか。最近、光太郎の船旅についていろいろ調べているもので、特にそう感じます。
 
以下、昭和6年に書かれた光太郎の「三陸廻り」の一節です。
 
私は今でも船のある処は時間の許す限り船に乗る。船と海との魅力は遼遠な時空の故郷にあこがれる私の生物的本能かも知れない。曾て海からはひ上つて来た私の祖先の血のささやきかも知れない。船の魅力は又闇をわけて進む夜の航海に極まる。其は魂をゆする。
 
今度十和田湖に行く機会があったら、船に乗ってみようと思っています。
 
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昭和三十年代と思われる絵葉書のセットの袋に印刷されていた十和田湖周辺地図です。
 

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