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昨日に続いて、花巻グルメ系。

まずは道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」、昨日販売分の画像をいただきました。
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新米ご飯、麦飯、牛カツ、鮭ポテト、根菜の肉味噌かけ、大根とわかめのバター炒め、塩麹入り卵焼き、白菜の塩漬け、サツマイモとりんごの甘煮だそうで。肉食系男子の当方としては(笑)、牛カツや肉味噌かけがうれしいところですし、鮭ポテトというのもどんなものだろうと気になります。サツマイモとりんご、これも共に好物でして、それがコラボされているというのもいいですね。

もう1件。「光太郎ランチ」メニューの考案に当たられているやつかの森LLCさんが商品開発に関わられたお菓子。少し前に現物が送られてきました。ありがたし。
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クッキー3種の詰め合わせです。
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上から順に、まずチョコ味。
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控えめな甘さとカカオのほろ苦さ、練り込まれたアーモンドの風味がいい感じです。

続いてチーズ味。
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チーズ感はそれほど強くなく、チーズは苦手という方でも、チーズ味と云われなければ分からないかも知れません。非常に香ばしい風味でした。

色鮮やかなストロベリー味。
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昔のカルメ焼きのような食感です。製法的にも共通するのでしょう。イチゴの香りがふわっと広がります。

袋から出した画像。盛ったのはクリムトの絵皿ですが、心霊写真のようになってしまいました(笑)。
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すると、かたわらのマッサージチェアでぷーすか眠っていた怪獣が目を覚まし……
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「おやつニャ!」とチーズ味をくわえてさっとテーブルの下に。油断も隙もありゃしません(笑)。
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猫にチョコ味は禁物ですし、ストロベリーもフレーバーがきつい感じで、「まあこれならいいか」と、割って小指の先ほど与えました。

ところで商品名は「こうたろう&ちえこ ブランデンブルグの森」。箱に入っていた栞にその由来が。
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「ブランデンブルグ」はJ.S.バッハの有名な曲ですね。光太郎はこの曲が好きで、ずばり「「ブランデンブルグ」」という長い詩(昭和23年=1948)も書きました。

さらに、帰京後の昭和27年(1952)11月に行った講演「南沢座談」から。

ある時山を歩いていたら、見晴らしの方から、ブランデンブルグの曲のあのくり返しのところがきこえて来るのです。開拓のどこかで、すばらしい蓄音機を買つたな、と思つて暫らく耳を傾けていたのですが、そのあとで開拓の人に会つたとき、「開拓じや、だれかすばらしい蓄音機の盤を買つたな」というと、誰もそんなものは買わないという。つまりわたしの幻聴だつたのです。砂漠を歩いている人が水をほしがつていると、本当に水が湧いているようにみえるのと同じことなのでしよう。わたしは気味がわるくなつて、ぞつとしました。それからすぐに花巻の宮沢さんの親戚の清六さんという人の家に行つて、そこにすつかりそろつているブランデンブルグをかけてもらいました。それをきいていると、まるでのどがかわいているとき水をのむように、音楽が身体中にしみわたつてゆくのです。音楽がこんなにも心理的に人間を左右するものだということを発見しておどろきました。それは耳できいているのでなく、皮膚から空気の振動を通してきいているというような感じです。盲目の人が物にふれ、指の先から触覚を通して音をきくというのと同じことです。わたしは人間にこれほど音楽が必要だということをはじめて知つたのです。

正確な筆録はされていないようで、賢治実弟の清六を「親戚」とするなどしていますが、おおむね光太郎の語った通りでしょう。「音楽」というものの本質を、さらっと語る光太郎。さすがです。

ところで「ブランデンブルグ」は、ドイツの地名ですが、そこそのものより、ベルリンの「ブランデンブルグ門」からベルリン動物園の間に広がる広大な森が有名です。光太郎、ドイツには足を踏み入れていませんが、バッハの曲からの連想でしょう、蟄居生活を送っていた太田村の山小屋周辺の森を「ブランデンブルグの森」と呼ぶこともあったようです。

さて、「こうたろう&ちえこ ブランデンブルグの森」、おそらく道の駅はなまき西南さんなどで販売されているのだと思われます。花巻土産の定番の一つとなってほしいもので、ぜひ皆様、お買い上げを。

ついでというと何ですが、先月、智恵子の故郷・福島二本松に行った際に購入したレモンケーキ。
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こちらも道の駅(道の駅「安達」智恵子の里さん)で販売されています。

【折々のことば・光太郎】

のどかに晴、 九時頃中西夫人宅にて皆と一緒にお雑煮を祝ふ、桑原さんが記念撮影、 来訪者なし、 平熱、 風なくよき日和なり、


昭和30年(1955)1月1日の日記より 光太郎73歳

昭和30年(1955)の年明けです。光太郎の生命の炎、あと1年3ヶ月。まだ差し迫ってどうこうという状況ではありませんでした。

中西夫人宅」は、起居していた貸しアトリエの母屋、「桑原さん」は美術評論家の桑原住雄です。

光太郎が戦後の七年間、蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)に隣接する花巻高村光太郎記念館さんでの企画展です。

企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」

期 日 : 2022年11月23日(水・祝)~2023年3月21日(火・祝)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 12月28日(水)~2023年1月3日(火)
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円

彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、戦後、62歳の時に太田村山口(現花巻市)へ移住し、約7年間の独居自炊の生活を送りました。山小屋での光太郎の食事内容は日記等に残されており、野菜等は自給でしたが、村人や友人たちの援助、そして光太郎の工夫により豊かな食生活を送っていたことがわかります。

この企画展では、光太郎の「食」をテーマに、手作りのおやつや好きな飲み物に焦点をあて、光太郎風のハイカラな食の楽しみ方を紹介します。
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同館では、以前にも企画展示「光太郎の食卓」が行われました。その際は光太郎の「食」全般についてのものでしたが、今回は特に「おやつ」に着目しての展示となります。

花巻まち散歩マガジン machicoco(マチココ)』さんで連載中の「光太郎レシピ」や、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」などの考案、調理等に当たられているやつかの森LLCさんの協力で、岩手時代の光太郎日記等から、光太郎が食したであろう「おやつ」を再現した写真パネル、光太郎に食の援助を行った人物の紹介パネルなどの展示になるそうです。

図録、とまではいきませんが、関連する内容をまとめた冊子を無料配付するとのことで、その半分ほどでしょうか、当方が執筆しました。また、そのあたりを元に、オンライン講座の形で当方が講師として語る動画が来月には公開予定です。その収録等のため、来月初めに現地に行って参ります。

もう1件。今年7月、道の駅はなまき西南さんで開催された「器と楽しむ光太郎ランチ」展の巡回が行われています。

器と楽しむ光太郎ランチ

期 日 : 2022年10月20日(木)~11月21日(月)
会 場 : 土沢カフェくるみ 岩手県花巻市東和町土沢8区115
時 間 : 10:00~17:00
休 業 : 火・水曜日
料 金 : 無料
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花巻ご在住のMICHINOさんという方の色鉛筆画で、道の駅はなまき西南さんで販売されている「光太郎ランチ」を洒落た器に盛りつけて描いた作品。それから実際に「光太郎ランチ」に添えられたメニュー表(光太郎の日記等も引用されています)もセットになっています。

また、MICHINOさんの絵本『器と楽しむ光太郎ランチ』も販売されているようです。
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それぞれ、ぜひ足をお運びください。

明日も花巻グルメ系の話題で。

【折々のことば・光太郎】

神経痛は相かはらずいたむ、動くのがおつくう、(略)ラジオなどきいてゐる、 明朝は九時頃中西夫人の方にて雑煮を祝ふこと、


昭和29年(1954)12月31日の日記より 光太郎72歳

神経痛」は結核性の肋間神経痛です。「中西夫人の方」は、起居していた貸しアトリエの母屋。昭和29年(1954)が暮れて行きます。

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ青森県十和田湖でのイベントです。実は申込期間を過ぎてしまっていますが、キャンセル等があるかもしれませんのでよろしく。また、こういう取り組みもあるんだよ、ということで。

ONSEN・ガストロノミーウォーキング in カミのすむ山 十和田湖

期 日 : 2022年11月12日(土)
会 場 : 十和田湖畔休屋(青森県十和田市) 十和田湖休平(秋田県小坂町)
定 員 : 100名 (4枠×25名) ※定員になり次第締め切り
​資 格 : 6km程度の距離を歩ける方
      交通規則及び当イベントのきまりやマナーを守れる方
      年齢、性別等は一切問いません
時 間 :  9:00 受付開始 (十和田湖観光交流センター「ぷらっと」前)
       9:30 晴山獅子舞演舞開始(30分間)
      10:00 枠①スタート   (  9:45受付締切)
      10:30 枠②スタート   (10:15受付締切)
        晴山獅子舞演舞開始(30分間)
      11:00 枠③スタート   (10:45受付締切)
      11:30 枠④スタート   (11:15受付締切)
      15:00 ゴール締切 (十和田湖観光交流センター「ぷらっと」前)
料 金 : 大人・小人(小学生以上)同額 4,000円
       (ガストロノミー(お食事・飲み物)、温泉入浴券、傷害保険)

日本の魅力溢れる温泉地を舞台に、ゆっくりと歩く目線で、その地域の「食」「自然」「文化・歴史」を体感する「ONSEN・ガストロノミーツーリズム」。昨年度よりその趣旨で観光プログラムを取り組み始めて、検証を行なった一般社団法人十和田奥入瀬観光機構はこの度、一般社団法人ONSEN・ガストロノミーツーリズム推進機構が特別協力を担う日帰りイベントシリーズの「ONSEN・ガストロノミーウォーキング」に参入し、十和田湖畔温泉に特有の地域資源をウォーキングによって、一度に満喫できる「ONSEN・ガストロノミーウォーキング in カミのすむ山 十和田湖」を開催いたします。

11月12日(土)に行われる当イベントは、十和田湖畔休屋(青森県十和田市)及び十和田湖休平(秋田県小坂町)エリアの観光スポットを繋ぐ約6kmのコースを、ご参加者各自のペースで15:00までに歩いていただきます。沿道には美味しい地酒と、地元に根ざした食材にこだわった品数豊かな料理が用意され、ゴールではお土産として、地域の誇りの食材及びお菓子の配布がございます。十和田市伝統芸能の晴山獅子舞のご鑑賞や十和田神社のお参りより、この土地ならではの文化もぜひご吟味いただきたく存じます。ウォーキング後は入浴券を利用して、十和田湖畔温泉または奥入瀬渓流温泉に浸かり、お癒しの時間を過ごせます。

当イベントは国立公園である十和田湖の温泉地としての魅力を引き出し、多くの方にご体験いただくことで、地域の活性化を図っております。ご多忙の中、誠に恐縮に存じますが、ぜひご取材、ご紹介賜りますようお願い申し上げます。

ウォーキング距離:6km
所要時間:2〜3時間(温泉入浴時間は含まれておりません)
スタート/ゴール地点:十和田湖観光交流センター「ぷらっと」前 桟橋前広場
見どころ: 晴山獅子舞、十和田神社、乙女の像、十和田ビジターセンター など
※当日の天候等により、コースは予告なく変更する場合がございます。
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「乙女の像」もコースに含まれています。
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その他、雄大な自然を「めぐる」、十和田バラ焼きやヒメマスなどを「たべる」、そして温泉に「つかる」(温泉はコース設定に入って居らず、各自でだそうですが)。「るるぶ」ならぬ「るるる」ですね(笑)。
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これまで、一般社団法人十和田奥入瀬観光機構さんの主宰する冬のイベントは、令和元年度(2019年度)まで「十和田湖冬物語」、そして一昨年度、昨年度と「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe」として、それぞれ長期間の開催でした。しかし今年度は11月12日(土)の一発勝負のようです。昨年度の「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe」開催中に、コロナ禍第7波がズドンと来て大変なことになったのも影響しているのでしょうか。いずれまた旧に復してほしいものなのですが……。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃水野清氏玄関まで、紀念碑や の紙持参、


昭和29年(1954)10月31日の日記より 光太郎72歳

水野清氏」は、親友だった作家・水野葉舟の子息。のちに政界に打って出、建設大臣、総務庁長官などを歴任されましたが、この当時はNHKさんに勤務されていました。令和元年(2019)に亡くなっています。

紀念碑」は葉舟の暮らした千葉成田三里塚に建てられた葉舟歌碑、「 の紙」(空白部分は一字不明)もそれに関わるかと思われます。元々光太郎が揮毫するはずだったのですが、体調がすぐれず断念、代わりに窪田空穂が筆を揮いました。

このところ、紹介すべき事項等が多く、3件まとめてご紹介します。

まず、文京区立森鷗外記念館さんの特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」を取り上げた、『産経新聞』さんの記事。

初出展続々 没後100年「鷗外遺産」展

 森鷗外記念館(東京都文京区)で、特別展「鷗外遺産 直筆資料が伝える心の軌跡」が始まった。今年生誕160年、没後100年の文豪・森鷗外に、さまざまなアプローチで光をあててきた同館が「記念事業のハイライト」という展示。今年明らかになった新資料など、出品総数80点のうち21点が「展覧会初出展」とあって注目されそうだ。
 同展は「書簡篇」「原稿篇」の2部構成。書簡篇の19通のうち、18通は今夏、島根県津和野町の森鷗外記念館への寄託で明らかになった鷗外宛て書簡400通の一部で、もちろんすべて展覧会初登場。
 発信者は、夏目漱石・鏡子、正岡子規、永井荷風、与謝野晶子、小山内薫、高村光太郎、高浜虚子、中村不折ら15人。たとえば、鷗外の推薦で慶應義塾大学教授になった荷風は、雑誌「三田文学」を創刊する際の意気込みなどを報告。虚子は、陶芸家・書家の北大路魯山人から相談を受け、鷗外に紹介する内容(12月1日から展示)。
 原稿篇では大正5年、鷗外が54歳のときの新聞連載「渋江抽斎」の49、50回の原稿や、同作などの史伝出版に向けた広告原稿も今年の新資料。作品執筆の経緯や新聞連載時から出版までの変遷もわかる。
 一方、16歳の鷗外が東大医学部でドイツ語の講義を書き取り、日本語に訳して冊子にした、初めての〝著作〟ともいわれる「筋肉通論」も初出展となった。
 同展監修の須田喜代次大妻女子大名誉教授は「書簡を見ていくと、鷗外を包み込んでいた文化の広がり、鷗外文化圏が浮かび上がる。16歳と54歳のときの原稿も同時に見られる。いずれも丁寧な推敲、修正など、ものを書くときの姿勢が16歳の森林太郎からもうかがえる」と話している。
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同展レポートはこちら。光太郎から鷗外宛書簡について考察しております。

続いて『毎日新聞』さんに月イチで連載の、和合亮一氏による「詩の橋を渡って」。氏が新刊の現代詩集を紹介するというコンセプトですが、光太郎を引き合いに出して下さっています。

野村喜和夫氏の『美しい人生』(港の人)と『シュルレアリスムへの旅』(水声社)、それから谷元益男氏の『越冬する馬』(思潮社)の三冊が取り上げられ、そのうち『越冬する馬』の評で、光太郎の名。

004 谷元益男の『越冬する馬』(思潮社)のタイトルに早くも次の季節の到来を。「老いた男は 何百匹ものサカナを/釣り上げただろう」。高村光太郎は詩を言葉の彫刻であると語ったが、研ぎ澄まされた筆先が心の中の風景や記憶を鮮明に彫り上げる。山や田に囲まれた土地で暮らしている人々の生き様が足し引きなく描かれている。「ダムは ゆらゆらと水を湛(たた)え/山深い色を映して/巨大な一枚の絵のように/静かに 男の前に立っていた」

和合氏、この連載では時折光太郎に触れて下さっています。ありがたし。

令和2年(2020)5月 令和2年(2020)7月 令和2年(2020)12月

最後は雑誌です。平成29年(2019)の朝ドラ「とと姉ちゃん」ヒロインのモデルとなった大橋鎭子が創刊した『暮しの手帖』2022年10-11月号
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元NHKアナウンサーの山根基世さんへのインタビュー「こころざしって何だろう?」中に、やはり光太郎。

 飾り立てた言葉でなくていい。心のこもった、正直な言葉。地に足のついた、人間の言葉を交わしたいと切実に思って。
 「インターネットでは、瞬間の反応でやりとりする言葉があぶくのように生まれていて、それに慣れると、ゆっくり、じっくりとものを考える時間がなくなっていく。思考力が弱っていくのを、私自身も感じています」
 そんななかで折々に思い出すのが、高村光太郎がある小学校に書いて贈った、「正直親切」という言葉だという。
 「若い頃はわからなかったけれど、最近は、人間にとって大切なことだと思うの。ある年齢になった高村光太郎が、本気で気がついて、小学生たちに『覚えておいてね』という気持ちをこめたのではないかしら。熟考された言葉は、短くて簡潔でも、打つ力があるわね」


「正直親切」は、花巻郊外旧太田村に蟄居中だった光太郎が、山小屋近くの山口小学校に校訓として贈った言葉です。残念ながら同校は廃校となりましたが、その跡地にその書を使ったモニュメントが残るほか、光太郎母校の荒川区立第一日暮里小学校さん、光太郎と交流のあった故・田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市の新宿小学校さんに、それぞれ同じ書を刻んだ石碑が設置されています。

記事では山根さんが力を入れられている朗読の勉強会についても触れられています。

それから、光太郎には触れられていませんでしたが、当会会友・渡辺えりさんが連載をお持ちで、これは存じませんでした。題して「あの時のわたし」。もう第23回だそうで。これまでの連載の中で、亡きお父さまと交流のあった光太郎に触れられているのかな、という気がしました。あるいはこれからかもしれません。今度お会いした時に訊いてみます。

というわけで、『暮しの手帖』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

筑摩書房より全集の印税3分の1くる、小切手(230,018円、)冷蔵庫の前借80,000円引らし、

昭和29年(1954)9月12日の日記より 光太郎72歳

全集」は『日本文学全集』第24巻「高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治集」。「冷蔵庫」についてはこちら。それにしても、当時の23万円というのは破格ですね。しかもそれで3分の1。それだけ売れたということなのでしょうが。確かにこの時期からあと、この手の文学全集ものは大流行していきます。

一昨年から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんに入っているテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。今月分の画像を送っていただきました。
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今月のメニューは、新米御飯、石垣団子、チキンソテーきのこソース、鱈と牛蒡の煮込み、りんごと胡桃のサラダ、葡萄ジュース寒天、シュークルート、塩麹入り卵焼き。「収穫の秋」ですので、新米や、りんごなども採れたてのものを使われているのでしょう。

思えば「光太郎ランチ」、お披露目会が行われたのが一昨年の10月でしたので、まる二年となったわけですね。メニューの考案などにあたられている「やつかの森LLC」さん、これ以外にも『花巻まち散歩マガジン machicoco(マチココ)』さんで連載中の「光太郎レシピ」も担当されていて、なかなかに大変だと存じます。どちらも末永く続いてほしいものです。

ところで、まだ詳細が発表されていませんが、来月末から開催される花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示で、次回は光太郎の食、特に「おやつ」系に絞ったものが計画されています。以前には「食」全体についての企画展示が為されましたが、次回は「おやつ」だそうで、実際にお菓子作りの講座等も企画されています。

当方も資料作成等、協力させていただいているところです。詳細が公表されましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】000

新潮の佐野英夫氏くる、ブドウ、桃もらふ、「天上の炎」文庫本のこと


昭和29年(1954)7月9日の日記より 光太郎72歳

佐野英夫氏」は、新潮社の編集者。『天上の炎』は、光太郎が敬愛していたベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの詩集。光太郎訳の元版は大正14年(1925)に新しき村出版部から刊行されました。その後、昭和26年(1951)には白玉書房から復刊。さらに昭和27年(1952)には、創元文庫のラインナップに入りました。そして新潮文庫。こちらは翌昭和30年(1955)に出ました。解説は創元文庫と同一の、金子光晴によるものでした。

詩人の新藤凉子氏が亡くなりました。

「時事通信」さん。

詩人の新藤凉子さん死去003

 新藤凉子さん(しんどう・りょうこ=詩人、詩誌「歴程」編集発行人、本名古屋涼子=ふるや・りょうこ)7日、間質性肺炎のため死去、90歳。鹿児島県出身。葬儀は家族で行った。歴程が後日、お別れの会を開く。喪主は長女美可(みか)さん。
 衣装研究室や文壇バー経営を経て「歴程」に参加。詩集「薔薇ふみ」で高見順賞。「連詩 悪母島の魔術師」(河津聖恵さん、三角みづ紀さんとの共著)で藤村記念歴程賞を受賞。日本現代詩人会の会長も務めた。

『読売新聞』さん。

「歴程」編集発行人で詩人の新藤凉子さん死去、90歳…詩集「薔薇ふみ」で高見順賞000

 詩誌「歴程」編集発行人で日本現代詩人会元会長の詩人・新藤凉子(しんどう・りょうこ、本名・古屋涼子=ふるや・りょうこ)さんが7日、間質性肺炎で死去した。90歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は長女、美可さん。
 鹿児島県生まれ。歴程の編集発行人を務めた。詩集「薔薇(ばら)ふみ」で高見順賞、詩集「薔薇色のカモメ」で丸山薫賞、河津聖恵、三角みづ紀さんとの連詩集「連詩 悪母島の魔術師」で藤村記念歴程賞を受賞した。

新藤氏、記事に有る通り、詩誌『歴程』の編集権発行人を務められていました。同誌は当会の祖・草野心平が創刊し、光太郎や宮沢賢治なども同人に名を連ねていたものです。

その『歴程』、心平追悼号(平成2年=1990)に氏が寄せられた「心平さんの思い出」から。

 心平さんは歴程を大切にされたが、歴程とは、そもそも何であったのだろうか。私にとっては、青春、そのものであったような気がする。昭和三十七年から今日まで、思えば肉親と同居するよりも、その付き合いは長い。それは偏に、心平さんの自在な人柄によるものだったと、今にしてつくづく思う。
 「伝統だよ、伝統……」と、歴程がいつまでも続くことを念願としておられたが、何よりも「先生」と呼ばれることを嫌われた。「若い人の方が未来がたくさんあるのだから、僕は若い人が先生だと思うよ」とのことである。誰もがシンペイさんと、親しみを込めてお呼びするのが、習わしだった。


当方、心平を祀る福島県川内村での「天山祭り」の際に、何度かお会いしました。氏は『歴程』を受け継がれたお立場でのスピーチや、心平作品の朗読等をなさいました。

『歴程』といえば、今朝の『朝日新聞』さんには、やはり一時『歴程』に依られた安水稔和氏の訃報も出ており、「えー」と言う感じでした。新藤氏と二日連続でしたし。

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 安水稔和さん(やすみず・としかず=詩人、元神戸松蔭女子学院大教授)8月16日に死去、90歳。葬儀は近親者で営んだ。
 神戸市生まれ。「歴程」同人などをへて、84年に詩誌「火曜日」を創刊(15年終刊)。89年、詩集「記憶めくり」で地球賞。95年の阪神・淡路大震災で自宅が半壊し、1週間後に詩「神戸 五十年目の戦争」を書いた。以降、震災について積極的に執筆し続け、詩集「生きているということ」は99年に晩翠賞を受けた。詩集「椿崎や見なんとて」で01年に詩歌文学館賞、詩集「蟹場まで」などで05年に藤村記念歴程賞。

謹んでご冥福をお祈り申し上げますと同時に、今後の『歴程』さん、心平や光太郎、賢治などから連綿と続くDNAを絶やさぬよう、そしてますますのご発展を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

午后草野心平、佐野英夫氏くる、一緒に神田の病院にゆき関先生に見てもらふ、レントゲン検査、心臓肥大ある由、


昭和29年(1954)5月26日の日記より 光太郎72歳

めっきり衰えた光太郎を案じ、心平と、新潮社の編集者・佐野英夫が、神田の出版健康保険組合診療所に光太郎を連れて行きました。「関先生」は関覚二郎。同所勤務の医師で、これ以前に美術史家の奥平英雄が光太郎に紹介した岡本圭三医師らと共に、いわば「チーム光太郎」として診療に当たりました。

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、青森県十和田湖からの情報です。

状況をわかりやすくするために、まずABA青森朝日放送さんのローカルニュースから。ただし、先月のもので、「17日」は9月17日(土)です。

「十和田湖ひめます」を味わって! 17日からキャンペーン開催

地域団体商標に登録されている「十和田湖ひめます」の、認知度向上を図るキャンペーンが17日から始まります。
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12日は、「十和田湖ひめますブランド推進協議会」の佐々木千佳子会長たちがキャンペーンをPRしました。期間中、十和田市や秋田県小坂町にある27の認証店舗が提供するヒメマス料理を食べて応募すると、抽選で50人に2千円相当の特産品が当たります。
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こちらは、十和田食堂の「十和田湖ひめますづけ丼定食」です。
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【「十和田湖ひめますブランド推進協議会」 佐々木千佳子会長】
「(ヒメマスは)甘い、とにかく身が軟らかくて甘い、そして奇麗なピンク色というのはなかなか目にすることはないと思うのですよ」
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キャンペーンは、17日から11月6日まで行われます。
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というわけで、詳細は以下。

十和田湖ひめますを食べようキャンペーン

”十和田湖ひめます”の魅力を広く皆さんに伝えるため、十和田湖ひめます認証店によるキャンペーンを開催します。食べ比べをするなど、十和田湖ひめます料理の美味しさをご堪能ください。

また、期間中に十和田湖ひめます料理を食べて応募した方から、抽選で50名様に十和田市または小坂町の「特産品」をプレゼントいたします。

応募用紙は各店舗に備え付けてあります。

開催期間 9月17日(土)~11月6日(日)

参加店(全27店舗

参加方法
十和田湖ひめます認証店にて、十和田湖ひめますメニューを食べると、応募用紙がもらえます。アンケート、必要事項を記入の上、認証店に設置してある応募箱に投函し、応募してください。

主催 十和田湖ひめますブランド推進協議会(事務局:とわだ産品販売戦略課内) 0176-51-6743
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上記マップのPDFファイル中に「乙女の像」の語があって、当方の検索網に引っかかった次第です。ヒメマスに舌鼓を打たれたあとは、ぜひ「乙女の像」にも足をお運びください。十和田湖周辺は、今夏の大雨被害が大変でした。その復興支援にもなりますので、是非よろしくお願いいたします。また、これから紅葉シーズンですし。

ちなみに認証店のロゴは、「乙女の像」もモチーフとしているそうです。多少の無理くり感が否めませんが(笑)。
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「乙女の像」といえば、テレビ番組の再放送。

ニッポン美景めぐり 十和田・奥入瀬

BSフジ 2022年10月17日(月) 01:05〜01:33

日本の美しい景観を求めて、俳優・和合真一がカメラ片手に日本各地をめぐる旅番組。
今回の旅先は、青森県の十和田市。十和田ビジターセンターで十和田湖の歴史を学ぶ。名産のひめます料理やご当地グルメを味わう。美しい景勝地、奥入瀬渓流を散策。大自然が生んだニッポンの美景をご紹介。

旅人:和合真一  ナレーター:服部潤
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初回放映は昨年7月。さらにその後、繰り返し再放送されていますが、ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。こちらでもヒメマス料理が紹介されますし。

【折々のことば・光太郎】

午后奥平さんとお医者さん岡本氏とくる、診察してもらふ、尚毎月一度みてもらふつもり、

昭和29年(1954)5月16日の日記より 光太郎72歳

かなり前から結核の自覚症状があったにもかかわらず、「肺の毛細血管が弱いので……」などと、頑として認めなかった光太郎。しかし、もはや彫刻制作不可能となった体調に、とうとう白旗を揚げました。

奥平さん」は、美術評論家の奥平英雄。「お医者さん岡本氏」は、岡本圭三医師。この後で加わる他の医師ともども、その死まで光太郎の主治医として診察、治療に当たってくれました。

元プロレスラー・国会議員のアントニオ猪木氏が亡くなりました。

「共同通信」さん。

アントニオ猪木さんが死去 プロレスブームをけん引

007 「燃える闘魂」のキャッチフレーズで昭和、平成のプロレスブームをけん引し、参院議員も務めたアントニオ猪木(本名猪木寛至=いのき・かんじ)さんが1日午前7時40分、心不全のため自宅で死去した。79歳。横浜市出身。マネジメント会社が明らかにした。
 中学の時にブラジルに移住。遠征した力道山の目に留まり、17歳の時に日本プロレス入団。力道山の死後、ジャイアント馬場とのコンビでプロレス人気を復活させた。
 89年にスポーツ平和党(当時)から出馬し参院選に当選。2013年の参院選では日本維新の会から立候補して国政へ復帰した。20年に心臓の病気を患っていることを公表した。

猪木さんといえば、今年5月にこのブログサイトで猪木さんについてご紹介させていただきました。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖にほど近い蔦温泉に「猪木家の墓」を建てられ、奥様の納骨をなさったという件。

各種訃報の中にも、その件に触れられたものが。

ABA青森朝日放送さん。

アントニオ猪木氏死去 青森・蔦温泉に猪木家の墓 「ゆかりの地」で死を悼む

 元プロレスラーのアントニオ猪木さんが亡くなりました。79歳でした。
 アントニオ猪木さんは、力道山にスカウトされてプロレスの道に入り、1972年に「新日本プロレス」を設立、プロレス全盛時代を築きます。1989年の参議院選挙で初当選し、国会議員となりました。
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【藤原祐輝アナウンサー】
 「十和田市、蔦温泉旅館のすぐ近くに猪木家のお墓があります。猪木さんご夫婦は生前、この蔦温泉を訪れ夫婦水入らずの時間を過ごしていたということです」
 「道」と力強く刻まれた猪木家の墓。2019年に亡くなった妻・田鶴子さんの納骨が5月に行われました。猪木さんの訃報を受け、お墓に手を合わせる人の姿も。
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【墓を訪れた男性】
 「いつも元気いっぱいで、私も元気もらっていましたね。私も随分力をもらったので、天国でも安らかに眠っていただきたいと思います」
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 蔦温泉旅館には猪木さん直筆の詩が飾られています。5月に訪れた際には、明るい人柄で周囲を笑わせていたそうです。その数カ月後の訃報…。
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【蔦温泉旅館・新山耕生支配人】
 「本当にびっくりですね。蔦温泉を見守っていただければなと思います」
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『日刊スポーツ』さん。

【猪木さん死去】妻田鶴子さんと通っていた青森・蔦温泉近くに墓建てていた 墓石に「道」足下に詩

 1日に79歳で亡くなったアントニオ猪木さんは、青森県十和田市の蔦温泉旅館近くに「アントニオ猪木家の墓」を建てていた。
 蔦温泉旅館は猪木さんと妻田鶴子さんが生前通っていたゆかりの地。猪木さんは今年5月22日に建立式を開き、19年に亡くなった田鶴子さんの納骨の儀を行っていた。墓の高さは猪木さんの現役時代の身長と同じ190センチ。墓石には「アントニオ猪木家」。詩集も出している猪木さんがよく口にした詩の題名「道」の文字が大きく刻まれ、足下には詩も記されている。
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 蔦温泉旅館は田鶴子さんについてホームページで「全身全霊でアントニオ猪木様に人生をささげてきた方。魅力あふれる女性でした」とし、旅館でのひと時を「良い思い出ばかりです」とつづっている。
 旅館は宿を愛した作家大町桂月の墓をおよそ100年に渡り管理している。猪木さんは旅館の墓の管理方法に信頼を置き、蔦温泉旅館を墓の場所に選んだという。墓は八甲田連峰内の旅館近くにある。

十和田湖の景勝美を広く世に紹介した明治の文豪・大町桂月にも触れられています。猪木家の墓は桂月の墓の並びに建てられました。ちなみに光太郎の「乙女の像」、元々は桂月ら、周辺の国立公園指定の礎を築いた「十和田の三恩人」を顕彰するというコンセプトで建てられたものでした。他の二人は元県知事の武田千代三郎、元法奥沢村長・小笠原耕一です。

仙台に本社を置く『河北新報』さん。

猪木さん、東北にも縁 仙台のおでん屋行きつけ、十和田に墓建立

 1日に死去したアントニオ猪木さんは東北にたびたび足を運び、各地で親交を結んできた。今年5月には青森県十和田市の蔦温泉旅館近くに「アントニオ猪木家の墓」を建てており、先年亡くなった最愛の妻田鶴子さんと共に葬られる見通しだ。
 「あまりにも突然のことでびっくりした」。行きつけだった仙台市青葉区一番町の「おでん三吉」の2代目、田村忠嗣さん(78)は驚きを隠せない様子だ。
 猪木さんの元妻、俳優倍賞美津子さんの父と田村さんの父が戦友だったのが縁で、交流が続いてきた。猪木さんは興行で仙台を訪れるたび、他の選手を連れて来店した。
 今年は墓の建立式に向かう途中で店に寄った。プロレス中継の実況で一世を風靡(ふうび)したフリーアナウンサーの古舘伊知郎さんと、定番の大根やイイダコなどのおでんをつまみながら、数年ぶりという酒を楽しんだ。
 車いすでの来店だったが、田村さんは「思っていたよりも元気だった」と回想する。同い年で「(えとの)ヒツジは高尚な動物なんだ」と2人で笑い合った思い出を語り「気さくな方だった」と冥福を祈った。
 「アントニオ猪木家の墓」は蔦温泉旅館から歩いて3分ほどの八甲田山麓に、ひっそりとたたずむ。「迷わず行けよ 行けば分かるさ」。墓石には猪木さんが引退試合のスピーチで残した名フレーズが刻まれている。
 蔦温泉は、猪木さんが最愛の妻・田鶴子さんと蔦温泉を繰り返し訪れていた思い出の地。墓を管理する城ケ倉観光(青森市)によると、猪木さんは墓を建てた理由を「ご縁というか、必然というか…」と話していたという。
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青森県の地方紙『デーリー東北』さん。

八戸の定宿に思い出の品々 十和田・蔦温泉には墓建立/アントニオ猪木さん死去

 アントニオ猪木さんはレスラー時代から晩年に至るまで、北奥羽地方ともゆかりが深かった。巡業で八戸市を訪れた際の定宿は、同市寺横町の老舗「柏木旅館」。旅館には、宿泊時の写真や新日本プロレスの創立10周年を記念して贈られた感謝状など思い出の品々が今も残る。
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 滞在時は2代目おかみの故柏木マツヱさん、3代目のまゆみさん(91)と仲良く茶の間で話していたという猪木さん。
 まゆみさんの娘、七穂さん(61)は「気さくでおおらかで優しい人だった。お酒はほとんど飲まず、茶の間で自分の家のようにくつろいでいた」と振り返る。
 市内でサバの塩焼きを購入していたことや、当時からプロテインを飲んで体づくりをしていたことも印象深いという。
 坂口征二さんやストロング小林さんらといった往年のスター選手と、旅館でマージャンを楽しんでいたエピソードも。七穂さんは「(体が大きいので)牌が小さく見えて面白かった」と懐かしむ。
 近年は疎遠になっていたが、闘病を知り、陰ながら応援していた。「亡くなったと聞いて驚いた。何とか治ってくれればと思っていたが」としのんだ。
011 猪木さんは晩年、十和田市の名湯・蔦温泉のコマーシャルにも出演していたほか、温泉近くに「アントニオ猪木家の墓」も建立。温泉ホームページによると5月に、猪木さんの亡妻・田鶴子さんを納骨しているという。
 訃報が届いた1日、墓には多くのファンが足を運んだ。正面に力強く「道」と刻まれた墓石。訪れた人たちは静かに手を合わせたり花を供えたりして、冥福を祈った。
 十和田市の男性会社員(37)は、「自分と知人が猪木さんの大ファン。今日はその知人の分もと思い、花を手向けに来た。病気療養中と聞いていたので、あまり長くないのかもしれないと覚悟はしていたが、残念です」と話した。

ただ、気になるニュースも。『東京スポーツ』さん。

アントニオ猪木さんのお墓は横浜市内の菩提寺に 愛妻が眠る場所とは別なワケ

 〝燃える闘魂〟のお墓はどうなるのか。1日朝に心不全で亡くなったプロレス界のスーパースター、アントニオ猪木さん(享年79)は、故郷の神奈川・横浜市鶴見区内にある猪木家の菩提寺に葬られる方向で、調整されていることがわかった。
 横浜市鶴見区出身の猪木さんは、13歳でブラジルに移住するまで同市内で育った。複数の関係者によると、猪木さんの生前から故郷・鶴見にある猪木家の墓に納骨すると取り決められており、その遺志に沿って調整されているという。
 猪木さんは、今年5月に故・田鶴子夫人とゆかりのある青森・十和田市内に「アントニオ猪木家の墓」を建立。自身も青森を訪れ、その様子をユーチューブチャンネルで公開していた。
 ただ、青森の墓は「アントニオ猪木家の墓」であり、猪木さんは本名の「猪木寛至」として葬られることを望んでいたようだ。

いずれにせよ、蔦温泉の「アントニオ猪木家の墓」、プロレスファンの聖地となるような気がします。同じ並びに墓のある大町桂月ら「十和田の三恩人」や「乙女の像」にもまたスポットが当たってほしいものです。

ちなみに当方、猪木さんの試合等は生で拝見したことはありませんが、お会いしたというか、お見かけしたというか、そういう経験はあります。

バブル前夜の学生時代、大学の合唱団に所属しており、団としてテレビの仕事も何度かさせていただいたりしまして、そのうち、昭和61年(1986)の大晦日、新高輪プリンスホテルさん飛天の間で公開生中継が行われた、当時あった歌番組「夜のヒットスタジオ」。この日は「世界紅白歌合戦」と銘打って、衛星生中継でロッド・スチュワートさんなどもご出演。当方らは谷村新司さん「昴」のバックコーラスをやりました。その頃の同番組司会が古舘伊知郎さん。古舘さんといえば、猪木さんの試合の実況でも有名でした。その関係でしょうか、客席に(ディナーショー形式でした)猪木さんがいらっしゃっていて、番組の合間に「猪木さんもいらしてます」的な紹介がありました。第一印象は「とにかくデカい」(上記、蔦温泉の「アントニオ猪木家の墓」の高さが190㌢で、現役時代の猪木さんの身長だそうです)。

体格だけでなく、人間的にも大きな人だった猪木さん。平成2年(1990)の湾岸戦争では、イラクに連行されたクウェート在留邦人41人の解放にご尽力されたり、「スポーツ外交」ということで、北朝鮮とのパイプを何とか繋げようと33回も渡航されたりなさいました。

対北朝鮮では、確かに目に見える大きな成果は上げられなかったかもしれません。「渡航制限のある国に行くのはいかがなものか」と苦言を呈したのは、当時の外務大臣。ちなみにその人物は先月、呼ばれもしていない英女王の国葬に「参列見送り」を表明して失笑を買いましたし、その後の「弔問外交」とやらでも何らかの成果があったということが報じられていません。そんな輩が何をか言わんや、ですね。

閑話休題。猪木さんのご冥福、衷心よりお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃上條憲太郎氏、岡茂雄氏、笹村氏くる、酒一升もらふ、談話30分、「坑夫」の揮毫を笹村氏に渡す、

昭和29年(1954)4月11日の日記より 光太郎72歳

上條憲太郎氏」は、元長野県教育長。「岡茂雄氏」は長野県出身の出版人。「笹村氏」は彫刻家の笹村草家人です。昭和33年(1958)に開館する碌山美術館さんに関する相談と思われます。

坑夫」は、荻原守衛滞仏中の彫刻で、光太郎が石膏にとって日本に持ち帰るように勧めました。「揮毫」は、碌山美術館さんに隣接する穂高東中学校さんに翌年除幕された「坑夫」の題字です。
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大正元年(1912)夏、結婚前の光太郎智恵子が愛を確かめ合った千葉県犬吠埼でのイベントです。

駅からハイキング ~関東最東端の犬吠埼と文学碑めぐりウォーキング・化石海水温泉を楽しむ~

期 日 : 2022年10月1日(土)~12月25日(日)
会 場 : 千葉県銚子電鉄笠上黒生駅~同犬吠駅
時 間 : 受付時間  9:00~12:00
      ゴール時間 安全にご参加いただくため16:30までにゴールしてください。
料 金 : 無料

JR 東日本の「駅からハイキング&ウォーキングイベント」。四季折々の絶景ポイントを味わいながら気軽に参加できる日帰りイベントです。参加無料!

【銚子電鉄共同開催】銚子を愛した文人墨客たちの足跡をめぐろう。ゴールは犬吠埼温泉でリラックス。犬吠埼灯台や銚子ジオパークの森など銚子の見どころ満載のコースです。
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駅からハイキング」は、JR東日本さんのキャンペーン的なイベント。様々なコースが設定されています。一部を除き参加予約は不要で、専用のスマートフォンアプリ「駅からハイキング」をダウンロードして、「コースに参加する」ボタンを押し、参加するコースを選択後、コースマップを元にハイキングスタート!同一日の受付時間内にスタートし、ゴール時間内までにゴールするというものです。参加回数に応じてドリンクなどが当たるプレゼント抽選に参加できるそうです。

さて、「関東最東端の犬吠埼と文学碑めぐりウォーキング・化石海水温泉を楽しむ」。銚子電気鉄道(銚子電鉄)さんとの共同開催で、スタート、ゴール共に同鉄道の駅となっています。
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銚電さんのサイトはこちら。「ハイキング、ウォーキングが好きな方はもちろん、国木田独歩や高村光太郎などの多くの文学碑がありますので、「文豪ストレイドッグス」がお好きな方や「文豪とアルケミスト」の特務司書の皆様にもおすすめです」とあり、当方の検索網に引っかかった次第です。ただし、光太郎文学碑はありませんのでよろしく。ぜひ建立されてほしいものなのですが……。

まぁ、それでも地球の丸く見える丘展望館さん、光太郎智恵子が宿泊したぎょうけい館さんなどの内部に光太郎智恵子に関する案内板等は設置されています。

また、今回のフライヤーにも光太郎智恵子の名。
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ちなみにトリビア的に紹介されている他の2件、東映さんのオープニング「荒波に磯」が犬吠埼だというのは存じていましたが、三越さんの包装紙も犬吠由来というのは今回初めて知りました。学生時代、三越さんでがっつりバイトをさせていただき、この包装紙でお歳暮の包装などもさんざんやったのですが(笑)。それから猪熊弦一郎デザインというのは存じておりましたが、やなせたかし氏の手も入っていたというのも初耳でした。

参加には、銚電さんの1日乗車券「弧廻手形(こまわりてがた)」(大人700円、小児350円)があると便利ですね。「ハーブガーデンポケットに設置してあるチラシとセットで、犬吠駅売店でお見せいただくと、ぬれ煎餅1枚をプレゼント!」だそうです。
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ところで銚電さんのサイトでは、上記の通りアニメ「文豪ストレイドッグス」やゲーム「文豪とアルケミスト」も持ち出されていますが、今回はそれらとは公式のタイアップではないようです。また別の機会にでもそれらときちんと提携し、「文豪列車」など運行してみるのもいいかもしれない、と思いました。これまでにアイドルグループとのタイアップや、お化け屋敷的なホラー列車などは実現していますので。

というわけでコロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜在宅、 〈机上の春蘭よく匂ふ、夜、〉


昭和29年(1954)4月2日の日記より 光太郎72歳

「春蘭」は銚子出身の詩人・宮崎丈二から贈られたものです。このちょうど2年後が、光太郎の命の尽きる日でした。

光太郎第二の故郷・岩手花巻がらみで、光太郎に関わる雑誌記事を2件ご紹介します。

まず、『日本古書通信』さん9月号。稀覯本コレクターにして秀明大学さん学長であらせられる、川島幸希氏の寄稿『近代作家の資料⑦ 宮沢賢治の詩稿付特製本』が掲載されています。
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題名にある「宮沢賢治の詩稿付特製本」は、宮城県で開かれた古書入札会に出たもので、昭和14年(1934)刊行の十字屋書店版『宮沢賢治全集』第三巻。それに先立つ昭和9年(1934)に文圃堂から出た最初の『宮沢賢治全集』(光太郎も編者の一人として名を連ねました)の紙型を転用したものです。題字も文圃堂版のために書かれた光太郎の揮毫が使い廻されています。
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こちらの見返しに、賢治の草稿の一部が貼り付けてあるというのです。そして、全集編纂に協力したという菊池暁輝宛の献呈署名。賢治は既に歿しており、実弟の清六の筆跡です。
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表紙には宮沢家の家紋。奥付には「宮沢家蔵版」と印刷され、検印の下には「特製第9号」の文字とゴム印。

川島氏、以前に同じ本の中島健蔵宛、やはり賢治の草稿が貼られたものをご覧になったことがあったそうです。また、谷川徹三(谷川俊太郎氏父君)宛のものも存在したとのこと。中島、谷川とも『宮沢賢治全集』編纂者です。そこで、これらの特製本は全集完成の礼として、清六が編纂者等に贈ったものではないか、というわけです。

編纂者としてクレジットされているのは中島、谷川以外に、清六、当会の祖・草野心平、光太郎、賢治の親友・藤原嘉藤治、森荘已池、横光利一の計8人。第1~8号はそれらの人びとに贈られ、菊池は編纂者ではありませんが、協力者ということで、「第9号」という推理です。有り得ますね。

その通りだとすれば、光太郎の手許にもあったはずなのですが、たとえそうだったとしても、昭和20年(1945)4月13日の空襲で、光太郎自宅兼アトリエと共に灰燼に帰してしまった可能性が高いように思われます。もし残っているとすれば、とんでもないものですが……。光太郎が誰かに貸し、その人物がいわゆる「借りパク」でもしていたら、残っているかもしれませんが……。光太郎の周辺で、一番借りパクをしそうなのは当会の祖・心平ですが(笑)、心平にも同じものが贈られたのであれば、その必要はありませんし。

しかし、ロマンのある話です。

もう1件。今年から季刊になった(以前は隔月刊)『花巻まち散歩マガジン machicoco(マチココ)』さん。通巻第32号です。
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平成29年(2017)の創刊号以来の連載「光太郎レシピ」。道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」同様、メニューの考案、調理等に当たられているのはやつかの森LLCさんです。

今号は「そば粉のガレットロール」。
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料理好きな方、ぜひ挑戦してみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后宮崎丈二氏くる、「魴鮄」の木彫持参、現存のこと分る、友人の道具屋所有の由、

昭和29年(1954)3月4日の日記より 光太郎72歳

この木彫「魴鮄(ほうぼう)」は大正13年(1924)の作。昭和2年(1927)の大調和美術展、昭和4年(1929)の荻生会主催美術展覧会に出品されたりもしました。その後、買い手がついて光太郎の手から離れました。

昭和20年(1945)の「回想録」に以下の記述があります。

私の乏しい作品も方々に散つて、今は所在の解らないものが多い。『魴鮄』など相当に彫つてあるので、時々見たいと思ふけれども行方不明である。何か寄附する会があつて、そこに寄附して、その会に関係のある人が買つたといふ話だつたが、その後平尾賛平さんが買つたといふ事も聞いたが、どうなつたか分からない。

平尾賛平はレート化粧品を商標とした平尾賛平商店の主。おそらく二代目で、東京美術学校に奉職する前の光雲に援助などもしていました。

その「魴鮄」を持ち込んだ宮崎丈二は、光太郎と交流のあった詩人。光太郎歿後の昭和37年(1962)に、この「魴鮄」を謳った詩を発表しています。

  蘭と魴鮄

花を開き初めた春蘭が
葉を垂れてゐる鉢の傍へ
高村光太郎作魴鮄を置いて眺める010
これはいゝ
思はず自分はさう云ひながらも
この心に叶つた快さを
どう説明していゝかは知らない

魴鮄はその面魂(つらだましい)を
それに打ち込んだ作者をさながらに現して
むき出しにしてゐる
ぎりぎりの簡潔さ しかも余すところなく
きつぱりとそのかたちに切られて
そして今こゝに
蘭の薫を身に染ませて

宮崎と親しく、光太郎アトリエにも出入りしていた北海道の材木商・浅野直也がこの後、「魴鮄」を入手、光太郎歿後の各種展覧会に出品されました。しかし、昭和41年(1966)、西武百貨店SSSホールで開催された「高村光太郎と智恵子展――詩情に生きる〈美と愛〉」以後、出品の記録が見あたりません。未だ現存しているのでしょうか。そうとすればぜひ見てみたいものです。

芸術の秋となりまして、このブログサイトにて紹介すべき事項がかなりたまって参りました。本日は光太郎第二の故郷・岩手花巻発の情報を5件ほどまとめて。

時系列順に、まず9月12日(月)、IBC岩手放送さんローカルニュース。花巻高村光太郎記念館さんで現在開催中の企画展示「光太郎、海を航る」についてです。

光太郎の海外留学時代の足跡たどる ゆかりの地で企画展/岩手・花巻市

 日本を代表する詩人で彫刻家の高村光太郎の海外留学時代の足跡をたどる企画展が、ゆかりのある岩手県花巻市で開かれています。
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 高村光太郎は東京美術学校=現在の東京藝術大学を卒業後、1906年からアメリカ、イギリス、フランスの3か国へ留学しています。
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光太郎が晩年を過ごした花巻市にある「高村光太郎記念館」では、企画展「光太郎、海を航る」が開かれていて、初公開となるイタリアから弟に宛てた絵はがきや解説付きのパネルなどが展示されています。
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およそ3年余りの海外生活は光太郎の価値観を大きく変え、旧態依然とした日本美術界に不満を持つようになります。会場にはこのほかにも留学時代を思う直筆の短歌や世界的な視野に立った芸術評論の原稿なども展示されています。
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企画展「光太郎、海を航る」は9月30日まで花巻市の高村光太郎記念館で開かれています。

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続いて9月15日(木)、市発行の『広報はなまき』さん。「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」という連載で花巻高村光太郎記念館さんの収蔵品をご紹介下さいました。
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こちらの書幅は、企画展示「光太郎、海を航る」の方ではなく、常設展示室の方に出品されていたと思います。

同じく9月15日(木)、一昨年から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。今月分の画像を送っていただきました。
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すりリンゴ入り蒸しパン、白六穀御飯、鶏肉カレー炒め、茄子の串焼き、大根菜の炒め、かぼちゃサラダ、塩麹卵焼き、きゅうりの糠漬け、フルーツ(ぶどう)だそうです。

メニューの考案などにあたられている「やつかの森LLC」さん、9月12日(月)には、花巻市の社会教育施設「まなび学園」さんで活動されている「わかくさ女性学級」での出前講座。「高村光太郎の山荘~ハイカラ料理を知ろう」と題し、光太郎が郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を送っていた頃の様子を寸劇にしたり、光太郎の「食」について紹介したりなさったそうです。こちらでも光太郎ゆかりのお弁当。
愛ちゃんの栗拾い
開会あいさつ
光太郎と菅原先生
山の少女朗読
かぼちゃのエピソード
ランチボックス
ランチボックス盛り付け
最後に『読売新聞』さん岩手版の記事。9月17日(土)の掲載でした。

賢治自筆「雨ニモマケズ」…記念館で手帳展示、県内6年ぶり

 花巻市の宮沢賢治記念館で、賢治が代表作の詩「雨ニモマケズ」を書き残した自筆手帳が16日、公開された。県内での展示は6年ぶりで、10日間限定の25日まで。貴重な手帳を一目見ようと多くの人が訪れている。
 手帳の大きさは縦13・1センチ、横7・5センチで、黒革で覆われている。165ページにわたり、文学作品の下書きやメモ、経典などが記され、「雨ニモマケズ」は51ページから60ページに書かれている。
 詩は、賢治が花巻の実家で闘病中だった1931年11月3日に書かれたものと推察されており、2年後の33年9月、賢治は37歳で生涯を閉じた。手帳は賢治の没後、東京都の喫茶店「モナミ」で高村光太郎や草野心平らを中心に開かれた追悼会で、弟・清六氏が持参した賢治愛用のトランクから見つかった。
 同館の牛崎敏哉学芸員は「本来人に見せるものとして書いたわけではない賢治の晩年の願いや祈りが込められている」と指摘する。
 初日の16日は、来館者が手帳に顔を近づけながら鉛筆の文字を観察する姿が見られた。手帳を見るために静岡県藤枝市から訪れた公務員名手小枝さん(55)は「当時この手帳を手にとって詩を書いたと思うと感慨深い。汗などもきっとにじんでいるのでしょう」と話していた。
 19日は、清六氏の孫・宮沢和樹氏による講演も行われる。開館は午前8時半~午後5時(入館は午後4時半まで)。入館料は一般350円、高校生・学生250円、小・中学生150円。問い合わせは同館(0198・31・2319)へ。
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岩手めんこいテレビさんのローカルニュースでも取り上げられていました。

賢治直筆『雨ニモマケズ』手帳公開 2016年以来2回目の限定公開<岩手・花巻市>

 普段は見ることができない宮沢賢治が手帳に書いた直筆の「雨ニモマケズ」。岩手県花巻市の宮沢賢治記念館では、開館40周年を記念して9月16日からこの手帳が公開されています。

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 2022年で開館40周年を迎えた花巻市の宮沢賢治記念館で、16日から始まった特別展示の目玉は、賢治直筆による『雨ニモマケズ』が書かれた手帳です。この手帳は、賢治生誕120周年にあたる2016年に一度だけ公開されたもので普段はお目にかかる事は出来ません。2021年、東北を中心とした大型観光キャンペーンの期間中に公開される予定でしたが延期となっていました。
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 この他にも貴重な作品が数々展示されていて訪れた人を楽しませていました。
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 大阪から来た人「(雨ニモマケズ)はイメージ残ってるので本物が見れて嬉しいです。直筆よね、貴重な経験だと思います」
 これらの貴重な作品は、9月25日まで展示されています。

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こちらには光太郎の名は出ませんでしたが、手帳の「発見」の現場となった、賢治歿後の昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の写真がパネル展示されているのがわかりました。『読売』さん記事はこのあたりを参考になさったのでしょう。光太郎は前列左から4人目です。
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さて、花巻。秋のいい季節となります。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

盛岡大慈寺小学校長さん佐藤氏くる、


昭和29年(1954)1月15日の日記より 光太郎72歳

光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居していた頃からの知り合いだった、盛岡の小学校長・佐藤憲政が、中野の貸しアトリエを訪問しました。このように、花巻や盛岡の人々が、上京したついでに光太郎の元を訪れるケースはあとを断ちませんでした。それだけ慕われていたということなのでしょう。

028明後日、英国のエリザベス女王の国葬が行われるとのこと。

同女王は大正15年(1926)のお生まれで、当会顧問であらせられた故・北川太一先生より1歳年少でした。即位されたのは昭和27年(1952)。光太郎の書き残したものにその御名は確認できていませんが、現上皇陛下が翌年、女王の戴冠式出席のため、横浜から船でイギリスに向かわれた際の談話が残っています。

明治以来イギリスの影響をもつとも多く受けていながら、いまの日本で一番欠けているのはジヨンブルのイギリス的性格だ。人間同士が信じ合うこと、不信に対するきびしい批判――他の国では持ち得ないものである。(談話筆記「皇太子さまを送る」より 昭和28年=1953) 

欧米留学中の明治40年(1907)から翌年にかけ、ロンドンにも居住していた光太郎。芸術の分野ではあまりイギリスから学ぶことはなかったと述懐していますが、人々の暮らしぶり、重厚な伝統などには非常に好感を持っていたようです。「ジヨンブル」は「典型的英国人」の意。

同女王、明治43年(1910)、日英博覧会の際に英王室へ日本から贈られた「台徳院殿霊廟模型」(光太郎の父・光雲が監督となって制作)を、平成27年(2015)に、日本に返還する労を執って下さいました。現在、芝増上寺さんの宝物展示室で公開されています。

その国葬が明後日だそうで、既に献花に訪れる一般国民が5㌔㍍もの長蛇の列を成していたというニュースを昨日拝見しました(今朝のニュースでは8㎞)。およそ国葬に値しない人物の国葬を強行しようとし、反対のデモの列が生じているどこぞの国とは大違いですね(笑)。ついでにいうなら呼ばれもしないのに参列見送りを発表して失笑を買ったトンマもいる国ですが(笑)。

さて、「国葬」というと、光太郎にずばり「国葬」の語を題名に使った詩があります。昭和18年(1943)、山本五十六元帥の国葬に際し、『毎日新聞』に寄稿したものです。

   山本元帥国葬009

元帥山本五十六提督の遺骨
いま国葬の儀によつて葬らる。
元帥の勲功めもあやに、
同胞もとより之を熟知す。
われら心を傾けて元帥を送り奉り、
あらためて元帥のおん面影をしのぶ。008
元帥幼にして長岡のきかんぼ、
志を立てて不屈不撓、
外に使して君命を辱めず、
却つて鴃舌の老雄をも脅かす。
元帥身を以て東郷精神の根幹に生き、
更に近代戦術の機秘を握り、
機略に富み、機先を制し、
時に豪放、時に精緻。
若き世代の真面目(しんめんもく)を限りなく愛惜し、
長官の身をほとほと忘れて
一兵の身を忘れず、
丹心を秉(と)つて師友に降(くだ)る。
干戈の間(あひだ)文をすてず、
国風時として絶唱。011
眼(まなこ)笑ひ、口怒り、
むしろ学童腕白の趣あり。
かくの如き提督の力、敵を撃ち、
忽ち太平洋に不敗の堅陣を布き、
更に猛進つひに陣頭の空に隠れたまふ。
国民喪に服していま元帥を送り奉り、
心武者ぶるひして元帥に祈る。012
元帥の成したまはんとせしところ、
われら必ずこれを遂げん。
元帥叱咤して遠くわれらを導きたまへ。


山本の戦死はこの年4月18日、国葬の挙行は6月5日でした。

当時の記録映像が残っています。
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死者を悼むのは人として当然のことでしょう。しかし、その死をもプロパガンダに利用した当時の世情には呆れます。
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「元帥に続け」、つまり「死ね」ということでしょうか。

現在、国民の過半数が反対している国葬を強行しようとしている勢力、また、その被葬当該人物が、戦前戦時のこうした思想を美徳とする輩である(あった)ことに、激しく違和感を感じますね。当該勢力は「国民喪に服していま元総理を送り奉り、心武者ぶるひして元総理に祈る。元総理の成したまはんとせしところ、われら必ずこれを遂げん。」という方向に持って行きたいのでしょうが。そうは問屋が卸しません。

ところで、英女王の逝去に際し、バッキンガム宮殿上空にはみごとな二重の虹が架かったそうです。
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9月27日(火)、ある国には、超大型台風でも来るのではないでしょうか(笑)。

【折々のことば・光太郎】

午后四時木村修吉郎氏迎にくる、谷口吉郎氏くる、一緒に山王「山の茶屋」行、佐藤春夫、安倍能成、谷口吉郎、田村剛、余、座談会、十和田公園について、

昭和29年(1954)1月8日の日記より 光太郎72歳

この年3月の雑誌『心』に掲載された座談会「自然の中の芸術」当日です。前年に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関して。当初建立予定だった十和田湖子(ね)の口地区には許可出来ない、と、横槍を入れてきた人物が含まれています。その横槍も正当な理由ではなく、自分がプロジェクトから外された腹いせというのが明白で、光太郎と青森県を仲介した佐藤春夫などは激怒。別の機会に「これは芸術の尊厳のために正しく大声叱呼して糾明すべきだとわたくしは心外に堪えない」と書きました。座談会で初めてその件を知ったという安倍能成も憤慨。光太郎の言いたかったことを代弁してくれています。当該人物は「丁寧な説明」をしようとしたようですが、却って火に油、燃料投下(笑)。

いつの時代にもこういう輩がいるのですね(笑)。

社会教育系イベント、対象が花巻市民等限定ですが……。

新花巻発見探訪ツアー「太田・湯口地区」

 コミュニティ会議の地域振興部会が主催する「新花巻発見探訪ツアー」の参加者を募集します。この事業は花巻市内各地の史跡・名勝や施設等を訪れ、私たちが暮らす花巻の郷土史や風土を学びます。
 今回の訪問地は、高村光太郎が山居7年を過ごした高村山荘や日本三清水と言われる清水寺がある太田地区と、仏教学者として知られる多田等観ゆかりの円万寺がある湯口地区を巡ります。

○期 日   9 月 22 日(木) 小雨決行
○訪問先  花巻市太田、湯口地区
○対象者
 花南地区に在住もしくは勤務する市民で、史跡・名勝に関心があり学ぶ意欲がある方
○集 合   08:30 花南振興センター(受付、体調チェック票提出)
○日 程
  08:45  花南振興センター出発
  09:00  高村光太郎記念館
   高村山荘、智恵子展望台、雪白く積めり詩碑を見学
  11:00  清水寺
   観音堂、山門、千体薬師堂、慈眼水堂を見学
  12:30  花巻市自然休暇村広場(昼食)
  13:30  円万寺
   観音堂、八坂神社、一燈庵を見学
  14:15  山の駅 昭和の学校(施設見学)
  15:20  道の駅 はなまき西南(休憩)
  16:00  花南振興センター到着予定
 ※天候や現地の状況によって日程を変更する場合があります。
○服 装  動きやすい服装、履きなれた靴、帽子
○持ち物  マスク、昼食、飲み物、おやつ、雨具、タオル、敷き物、筆記用具など
○参加料  1,200 円(入館料 3 館分、保険代)
 ※貸切バス代はコミュニティ会議が負担します。
○定 員  25 人(先着順)
○受 付  8 月 22 日(月)午前 9 時から受付開始。花南振興センター窓口へ直接
    もしくは花南地区コミュニティ会議(電話 24-4415、平日の 9 時~17 時)
     へお申込み願います。
 なお、感染症の拡大状況によっては事業を延期もしくは中止することが
 ありますので予めご了承ください。
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光太郎ゆかりの地を巡る史跡探訪ツアー。

まずは昭和20年(1945)秋から丸七年間、光太郎が蟄居生活を送った旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する髙村光太郎記念館さん及びその周辺。

続く清水寺さんは、光太郎が何度か足を運んだ寺院です。円万寺さんは、光太郎と交流のあった僧侶にしてチベット仏教学者の多田等観が堂守を務めていたところ。長い急坂を上った先にありますが、光太郎も上りました。

山の駅 昭和の学校さんにも行かれるのですね。さらには道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんにも。

地元の方々が対象ですが、以外と地元民が地元のことを詳しくは知らないというケースは往々にしてありますね。当方もそうです。ここにこんなものがあると知らなかったとか、存在は知っていてもどんな背景があるのか、細かな見どころ等々。もう3年前になりますが、当方が講師を務めさせていただき、花巻市、それから隣接する北上市をバスで廻った「岩手花巻高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の際にも、参加者の皆様からそうした声が聞かれました。

残暑も一段落という感じで、ただ、台風等が心配ですが、実りあるツアーとなるよう祈念いたしております。

各地自治体さんの社会教育担当の方々、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

晴れる、 春子さん子供二人つれてくる、モチ ワカサギをもらふ、 NHKの人くる、一月三日詩朗読の由(石黒達也) 「新潮」の野平氏くる、原稿に書き足して渡す(13枚)、 便 創元社の林氏くる、ウエルハーラン詩集出来、三冊持参、印税はマカベ氏宛のことをたのむ、 〈豊周夫妻くる〉

昭和28年(1953)12月26日の日記より 光太郎71歳

001たまたまでしょうが、千客万来(笑)。ただ、この頃、この日ほどではなくとも、起居していた中野の貸しアトリエにはほぼ毎日、誰かしらが訪れていました。

春子さん」は、智恵子の最期を看取った智恵子の姪。「詩朗読」はラジオ放送。俳優の「石黒達也」はたびたび光太郎詩の朗読を担当していました。「原稿」は翌年2月の『新潮』に載った散文「日本芸術院のことについて-アトリエにて1-」。「ウエルハーラン詩集」は、濁点が脱落していまして、『ヴェルハアラン詩集』。戦前に光太郎が訳した、ベルギー詩人・ヴェルハーレンの詩――さまざまな雑誌等に寄稿したもの――を、山形出身の詩人・真壁仁(「マカベ氏」)が編集しました。光太郎、あまり出版に乗り気でなく、印税もいらない、真壁にやってくれ、と、まぁ何とも気前のいいことで(笑)。そして実弟の豊周夫妻も。おそらく豊周が仲介した「倉田雲平胸像」がらみの用件と思われます。

今日の朝刊を開いて「ありゃま」でした。歌手のおおたか静流さんが亡くなったとのこと。

『朝日新聞』さん。

歌手・おおたか静流さん死去 「にほんごであそぼ」、「花」のカバー

004 NHK・Eテレ「にほんごであそぼ」への出演や喜納昌吉さんの「花」のカバーで知られた、歌手のおおたか静流(おおたか・しずる、本名小西静子〈こにし・しずこ〉)さんが5日、がんのため死去した。69歳だった。葬儀は近親者で営む。喪主は夫小西徳雄(こにし・とくお)さん。後日、お別れの会を開く予定。
 東京都出身。7歳からクラシックの声楽家に師事。一時は漫画家を志望したが、大学時代に歌手を志す。ジャズや民俗音楽の影響を受けたボーダーレスな音楽を数多く生み出した。
 喜納さんの「花」のカバーや、映画「シコふんじゃった。」(周防正行監督)で使われたザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」のカバーで知られるほか、数多くのCMソングを歌唱。「七色の声」の異名を持つ。「にほんごであそぼ」では、リズムや韻を踏んだ遊び心あふれる楽曲を作り、子どもたちと一緒にダンスや劇を披露していた。
 絵画や朗読など、ジャンルを超えた活動を続け、ワークショップ「声のお絵描き」の主宰を務めた。
 社会的な活動も多く、米国やフランスで東日本大震災追悼公演を開催したほか、広島の原爆投下時に爆心地にあったピアノを使った「ミサコのピアノ」コンサートシリーズ、核廃絶を訴える国際キャンペーンなどにも参加した。

時事通信さん。

歌手のおおたか静流さん死去005

 おおたか 静流さん(おおたか・しずる=歌手)5日午前、病気で死去、69歳。
 東京都出身。葬儀は近親者で行う。
 89年にユニット「ディド」でデビューし、翌年ソロに。クラシックやジャズ、民族音楽の影響を受けながら、日本情緒がにじむ独創的な作風の歌で知られた。喜納昌吉さんの曲をカバーした「花」などで知られ、多数のCM曲も歌唱。NHK・Eテレの番組「にほんごであそぼ」にもレギュラー出演した。

NHKさん。

歌手のおおたか静流さん死去 69歳 「にほんごであそぼ」に出演

 表現力豊かな歌声で知られ、NHK Eテレの「にほんごであそぼ」にも出演していた歌手のおおたか静流さんが今月5日、がんのため東京都内の自宅で亡くなりました。69歳でした。
 おおたか静流さんは東京都出身で、7歳からクラシックの声楽家に師事して歌を学び「七色の声」と言われた多彩な表現力で数々のCMソングを手がけたほか、ジャズや民族音楽など幅広いジャンルで活動しました。
 喜納昌吉さんのヒット曲「花」をはじめ「林檎の木の下で」、「悲しくてやりきれない」などのカバー曲でも知られ、個性豊かで透き通った歌声が話題となりました。
 また、NHK Eテレの番組「にほんごであそぼ」にも出演し、リズムにのせたことば遊びで人気を集めました。
 親族によりますとおおたかさんは今月5日、がんのため東京都内の自宅で亡くなったということです。
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おおたかさん、NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」では、坂本龍一さん作曲の「道程」も歌われていました。

東日本大震災があった次の年の平成24年(2012)に公開収録が行われ、翌年オンエアされて、さらにDVD化もされた「にほんごであそぼ 元気コンサート in 福島」。

作曲の坂本龍一さんご自身がピアノ伴奏、尺八の藤原道山さんもご参加。小錦八十吉さんや子供たちと一緒に、おおたかさんも歌唱で加わりました。
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また、平成30年(2018)の同番組では、おおたかさんのソロバージョンも。その後くり返し使われました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

文部省芸術課長宇野俊夫氏くる、理由書ほしとの事なれど必要なき旨を告げる、

昭和28年(1953)12月22日の日記より 光太郎71歳

日本芸術院会員推薦の辞退に関わります。辞退されることを想定していなかった文部省は対応にてんてこ舞いで、3日前に続き、またしても光太郎を訪問、推薦辞退の理由書を書けと迫ります。しかし光太郎、勝手に推薦しておいて、辞退するのにこちらから書面を提出せよとは何事だ! 的な対応。確かにその通りですね。








先週のNHK盛岡局さんローカルニュースから。花巻高村光太郎記念館さんで現在開催中の企画展示「光太郎、海を航る」についてです。

高村光太郎 海外留学中に送ったハガキなどを展示 花巻市

 詩人で彫刻家の高村光太郎がアメリカやヨーロッパに留学中に出されたハガキなどを展示する企画展が花巻市で開かれています。
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 高村光太郎は20代の時におよそ3年間、アメリカやイギリスそれにフランスに留学し、彫刻やデッサンなどを学びました。
 花巻市にある高村光太郎記念館で開かれている企画展には、高村光太郎が留学中に家族や知人に送ったはがきや執筆した直筆の原稿など20点が展示されています。
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 このうち明治42年の4月に光太郎の弟、道利にあてた絵はがきは今回、初めて公開され、旅行で訪れたイタリア・ローマの芸術や文化の高さに驚いた様子が記されています。
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 また明治41年1月に、当時パリに住んでいた画家の白瀧幾之助に宛てた絵はがきには、新年のあいさつなどが書かれています。
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 このほか昭和16年の芸術評論「ミケランジェロの彫刻写真に題す」の直筆の原稿4枚なども展示されています。
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 仙台市から訪れた人は「ヨーロッパでの生活の中で、日本を客観的に見ることができたのではないか」と話していました。
 花巻高村光太郎記念会の高橋卓也事務局長補佐は「欧米で実際に何を見て、聞いて暮らしていたのかを展示を通じて感じてもらいたい」と話していました。
 企画展は来月30日まで開かれています。

少し前ですが、市の『広報はなまき』7月15日号で、道利宛の葉書について紹介されていました。
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ついでに当方によるレポートもご覧下さい。

ニュースで述べられた通り、会期は9月30日(金)までです。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小春日和、映画班の人達四人同道、電車車中の撮影、二ツ堰より山口まで車、村長さん宅着 スルガさん宅エン側にて重次郎さん等と撮影、田圃の中、林間、小屋等撮影、 四時頃小学校行 村人の歓迎会あり、


昭和28年(1953)11月26日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに、花巻郊外旧太田村に帰りました。

半分はブリヂストン美術館の美術映画「高村光太郎」の撮影のためでもありましたが、当初の構想では、冬期には東京中野の貸しアトリエで、気候のいい時期には旧太田村の山小屋と、二重生活を目論んでいたようです。

美術映画「高村光太郎」から。
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晩年の光太郎に親炙し、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の奥様・北川節子様が、8月16日(火)に亡くなられました。享年94歳だったそうです。ご葬儀は御家族と近親者のみで、北川先生の時と同じく菩提寺の文京区浄心寺さんにて執り行われたとのこと。

昨日、ご子息光彦氏から通知の葉書が届き、驚いた次第です。そちらによれば、「亡くなる直前まで比較的元気で家族と共に自宅で過ごし、最後も家族に見守られながら静かに亡くなりました」。
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千駄木のお宅にお邪魔するたび、優しい笑顔で迎えて下さった節子様。連翹忌の集いや女川光太郎祭北川先生を囲む新年会等、いつも北川先生の傍らで、その優しい笑顔をふりまかれ、どんな場でもたちまち和ませてしまうという特技をお持ちでした。

節子様、光太郎最晩年の日記に登場されています。

后北川太一氏新婚の細君同伴来訪、二本松訪問の話をきく、(昭和30年(1955)10月27日)

北川先生は昭和27年(1952)には光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪問され、以後、何度も足を運ばれていましたが、この月20日に、当時勤務されていた定時制高校でのご同僚であらせられた節子様とご結婚なさり、初めてお二人でのご訪問でした。

二本松訪問」は、御夫妻の新婚旅行。その際の写真がこちらです。
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翌昭和31年(1956)、光太郎の亡くなった年にも。

后北川太一夫妻くる、メドツクもらふ、三時半辞去、新年詩の新聞贈呈、(昭和31年(1956)1月24日)

「メドツク」はワインと思われます。「新年詩の新聞」はおそらくこの年元日の『中部日本新聞』。詩「開びやく以来の新年」が掲載されていました。

節子様、この2回の会見の際の印象として、「光太郎先生はとても大きい人だった」と語られました。小柄だった御夫妻と較べての体格、という意味もありましょうが、それよりも光太郎の人格的な大きさということをおっしゃっていたのだと存じます。

節子先生(かつての教え子の皆さんがそうお呼びでしたので、当方もうつってしまいました)の笑顔に接することがもうできないのかと思うと、実に淋しい限りですが、北川先生の元に旅立たれたのだと考えれば、心が安らぎます。彼岸にてまた仲睦まじく、そして光太郎とも再会していただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

鼠穴ふさぎ、 夜在宅、うどん玉子等、 ネズミまだ出る、


昭和28年(1953)11月23日の日記より 光太郎71歳

前年まで7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋でも、ネズミは奇妙な同居人でしたが、北川御夫妻が訪問された中野の貸しアトリエでもネズミが出没。昭和20年代には珍しくなかったのかもしれません。

新刊です。

月をみるケンタウルス 紳士の心得帳

2022年8月15日 法橋和彦著 未知谷発行 定価2,000円+税

馬の挙動、騎手の振る舞い、血統や体重の増減、馬場の状態……あらゆるデータを蒐集して予想するレースの展開と出走馬の着順!その光の奥に数字と札束しか見ないようでは紳士の遊びとは言えまい。
 
傍らに馬券、視線の先でゴールを駆け抜ける馬と騎手、そのとき心に浮かぶのは長い人類の営み、個々の人間各々の業、喜び、美、文学に昇華された形而上学……
 
正統派ロシア文学者だからこそのディープなロシア文学への言及、日本、中国、フランス、エト・セトラ、走る馬を見ながら専門を越え、凡そ琴線に触れるあらゆる文学を想起する、前代未聞の競馬エッセイ――77年~79年日刊スポーツ連載
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目次

 「京都記念」を観戦してトルストイのトバク心得を思う
 高橋成忠最後の騎乗を見て、幻の名馬「ホルストメール」を思う
 サンケイ大阪杯をみて『アンナ・カレーニナ』の競馬を思う
 鳴尾記念をみて『スペードの女王』の賭けを思う
 「桜花賞」を見終えて中央競馬会をしかる
 『さつき賞』を予想して、ドストエーフスキイの『賭博者』を思う
 チエホフの『賭け』、「NHK杯」を見て思う
 ペチョーリンの賭け、オークスに敗れた馬に思う
 宝塚記念をみて、茂吉の『童馬漫語』を思う
 中京競馬をみて「連環万馬の計」を思う
 夏の中京万馬券を論じてマラルメの詩おもう
 小倉戦牝馬の好走見て火野葦平の『花と龍』を思う
 ブロンディン死の綱渡りに、馬と騎手の連帯を思う
 戦争で死んだ馬五十万頭、盛夏の「小倉」に思う
 小倉記念に無法松の「勇み駒」をきく
 阪神障害ステークスに、初秋の歌を聞く
 鱒二の「仲秋名月」を、長月特別に思う
 万馬券を逸して「ムツゴロウの大勝負」を思う
 4レース連続のコース・レコードに、ヴェルレエヌの「秋の歌」を思う
 松若騎手を悼みおくる高村光太郎の「秋の祈」
 菊花賞を見て漂泊の俳諧師一茶を思う
 エリザベス女王杯に思う、ヴァレリイの「海の墓標」
 セントウルステークスに三好達治の歌をきく
 「有馬記念」をみて釋迢空の歌をおもう
 一休宗純の魔界
 テンポイントの悲運を恨む
 ミカローズの好走にエセーニンの詩を思う
 淀の「忘れ水」
 ジェリコーの馬ととべ
 桜花賞トライアルの酒
 物狂わす〝桜の花の下〟
 「さつき賞」を見る
 郷原騎手の無念にパドックのドガを思う
 叱られ叱りとばして……
 ダービーに萩原葉子の『蕁草の家』を思う
 語らざれば愁なきに似たり
 宝塚記念の雪辱をはたす
 悶といふ字
 魔の三年目の悪相(紳士の心得帳1)
 三十にして立たず、四十にして惑う(紳士の心得帳2)
 漱石と馬券のはなし(紳士の心得帳3)
 勝負のひけどき(紳士の心得帳4)
 白地図の効用(紳士の心得帳5)
 鴎外の賭博論(紳士心得帳6)
 女性の同伴つつしむべし(紳士心得帳7)
 「三十六計逃げ馬」考(紳士心得帳8)
 グシケンに〝希望〟
 博奕の精神(紳士心得帳9)
 「花が石にも咲きはせじ」(紳士心得帳10)
 つるぎは折れぬ馬もたふれぬ(紳士心得帳11)
 イカロスと魔法の馬(紳士心得帳12)
 羊どしに泣く
 入試問題と馬の予想003
 花の下にて春死なん
 春なれや二月となれば
 上悍こそ大将の乗るべき馬
 「散ればこそ……」
 ぬれて匂ひし花や散るらん
 馬を見に行く
 天皇賞と「落馬結い」
 「五月は黒鹿毛をねらえ」
 黒鹿毛おおいに笑う
 「牝馬おおいに走る」
 木槿は馬にくはれけり
 我を絵にみる夏野かな
 万のことは頼むべからず
 「馬よ花野に眠るべし」
 「コガネムシは金モチだ」
 「数字と連想」
 続「数字と連想」
 解説 岩浅武久

サブタイトルが「紳士の心得帳」。しかしマナーとかファッションとかではなく、紳士の趣味とされてきた「競馬」に関するエッセイ集です。

著者の法橋(ほっきょう)和彦氏は、ロシア文学者にして大阪外語大名誉教授。氏が昭和52年(1977)から翌年にかけ、『日刊スポーツ』さんに連載なさっていた同名のコラムを一冊にまとめたものです。この書籍以前に、氏の退官記念にと、教え子の皆さんが氏の執筆目録を作成された際、本書の解説も書かれているやはりロシア文学者の岩浅武久氏が、『日刊スポーツ』紙の連載を見つけ、「これは面白い、何とか一冊にまとめられないか」と、奔走して出版されたものだそうです。

そういうわけで、およそ45年前の競馬界。競馬には詳しくない当方でも記憶している名馬の名が頻出します。テンポイント、トウショウボーイ、グリーングラス、カツラノハイセイコなどなど(ハイセイコーは既に引退していました)。

競馬を語ったエッセイ集ですが、法橋氏のご専門のロシア文学――トルストイ、チェーホフ、ドストエフスキーなど、さらには仏文でボードレールやヴェルレーヌ、そして日本文学にもからめて展開されています。目次からわかりますが、漱石、鷗外、太宰、芭蕉や一茶など。

そしてわれらが光太郎。「松若騎手を悼みおくる高村光太郎の「秋の祈」」という章で、詩「秋の祈」(大正3年=1914)が引かれています。

   秋の祈

 秋は喨喨(りやうりやう)と空に鳴り002
 空は水色、鳥が飛び
 魂いななき
 清浄の水こころに流れ
 こころ眼をあけ
 童子となる

 多端粉雑の過去は眼の前に横はり
 血脈をわれに送る
 秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
 地中の営みをみづから祝福し
 わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
 奮然としていのる
 いのる言葉を知らず
 涙いでて
 光にうたれ
 木の葉の散りしくを見
 獣(けだもの)の嘻嘻として奔(はし)るを見
 飛ぶ雲と風に吹かれるを庭前の草とを見
 かくの如き因果歴歴の律を見て
 こころは強い恩愛を感じ
 又止みがたい責(せめ)を思ひ
 堪へがたく
 よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまづ)く
 いのる言葉を知らず
 ただわれは空を仰いでいのる
 空は水色
 秋は喨喨と空に鳴る

第一詩集『道程』(大正3年=1914)の巻末を彩る詩で、おそらく『道程』のために書き下ろされたと推定されています。この後、光太郎は詩作を一旦中断します。確認出来ている限り、次に発表した詩は2年後の「我家」です。まぁ、いわば詩人としての一区切りをつけた、記念すべき作です。

「秋の祈」が書かれ、『道程』が出版された大正3年(1914)は、智恵子との結婚披露も行われました。父・光雲を頂点にいだく日本彫刻界と訣別し、展覧会等には作品を出さず(出せば「光雲の息子だから」という理由で、本質を理解されないまま入選してしまうことを危惧したと思われます)、智恵子と手を取り合って、この国に新しい芸術を根付かせていこうという悲壮な決意を固めていた時期でした。詩「道程」の「僕の前に道はない/僕の後に道は出来る」も、そうした表れです。

さて、この詩が引用され、語られたのは松若勲騎手。昭和52年(1977)11月5日、京都競馬場の第9レースで起こった大規模な落馬事故で亡くなりました。この事故を機に、安全対策の見直しが図られたそうです。法橋氏もこの項でそれを訴えていました。

そして法橋氏、生前の松若騎手、「秋は喨喨(りやうりやう)と空に鳴り/空は水色、鳥が飛び/魂いななき/清浄の水こころに流れ/こころ眼をあけ/童子となる」ような騎乗ぶりであったとし、この詩のような心境でレースに臨み続けた生涯だったのだろう、と結んでいます。多少の無理くり感がありますが、若松騎手の人柄にも接していた法橋氏にとっては、そういう感じだったのでしょう。

他に、「魔の三年目の悪相(紳士の心得帳1)」という章でも光太郎詩。こちらでは明治44年(1911)に書かれた「根付の国」が使われています。

   根付の国

 頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
 魂をぬかれた様にぽかんとして
 自分を知らない、こせこせした
 命のやすい
 見栄坊な
 小さく固まつて、納まり返つた
 猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、
  鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

章題中の「魔の三年目」は、「競馬を始めて三年目」の意。ビギナーズラックも終わって、思わぬ散在にこりて手を引く人も多い中、逆に一発逆転のギャンブルとしての側面に取り憑かれ、泥沼にはまり出すのもこの時期だそうです。そうなった人々の顔つきは「根付の人」のようだ、というわけで。さもありなん、ですね。

こんな感じで、各章、競馬を語りながらの人生論、文化論、歴史論、そして紳士論となっています。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

吉澤といふ狂信者のやうな人くる 折紙をやる由、門口でかへす、


昭和28年(1953)11月17日の日記より 光太郎71歳

折紙」で「吉澤」となると、平成17年(2005)に亡くなった折紙作家・吉澤章氏かな、と思ったのですが、不分明です。

もしそうだとすると、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」でも取り上げられた「蝉」など、光太郎の木彫「蝉」の影響があったのかもしれません。

000福島県二本松市で、智恵子顕彰団体「智恵子の里レモン会」会長を務められていた、渡辺秀雄氏が亡くなりました。昨日、ご葬儀(家族葬)だったそうです。

レモン会さんでは、10月5日の智恵子忌日「レモンの日」に合わせ、それと最も近い日曜日という期日設定で、智恵子を偲ぶ「レモン忌」の集いを主催なさっています。ただ、一昨年、昨年と、コロナ禍のため中止となり、最後に開催されたのは令和元年(2019)でした。したがって、当方、最後にお会いしたのもその時。コロナ禍となって以後、最後にお会いしたのがコロナ禍前、という方の訃報がこのところ相次いでおり、一層胸を痛めております。

その際の画像。会の冒頭近く、主催者挨拶をされる渡辺氏。
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その前年。
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智恵子の里レモン会さんは、昭和63年(1988)、晩年の光太郎と交流のあった故・伊藤昭氏が立ち上げられ、一度消滅したものの、平成17年(2005)に渡辺会長の下で復活。以来、先述の通り、智恵子を偲ぶ「レモン忌」の運営を続けて来られました。

渡辺氏個人は、レモン会さんの活動以外に、同じ二本松でやはり智恵子顕彰をされている「智恵子のまち夢くらぶ」さんにも協力を惜しまず、同会主催の「智恵子講座」の講師「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査員、「智恵子抄」出版80周年記念文集へのご寄稿などもなさいました。

また、当会主催の連翹忌にもたびたびご出席下さいましたし、平成27年(2015)に光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村の高村山荘前で行われた「第58回高村祭」では、当方が講演を仰せつかると、福島から駆けつけて下さいました。翌朝、宿で見たローカルニュースに「福島から訪れた人」という肩書きで氏のインタビューが流れ、笑えたのが今となってはいい思い出ですし、様々な機会での氏の魅力溢れるお人柄に触れたことを思い起こすと、滂沱禁じ得ません……。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます

【折々のことば・光太郎】006

十和田の像は冬中雪囲ひの由、


昭和28年(1953)11月11日の日記より 光太郎71歳


十和田の像」は、前月に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。設置当初の数年間は、豪雪による被害が恐ろしいということで、冬期間、右のような状態にしていたそうです。

その後、ここまでやらなくても大丈夫ということがわかり、雪囲いはやめました。

岩手県盛岡市からイベント情報です。

館長講座2022 作り手の視点 第2回「岩手の美術教育」

期 日 : 2022年8月27日(土)
会 場 : 岩手県立美術館 岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
時 間 : 14:00-15:30(開場13:30)
料 金 : 無料

当館の藁谷収館長が専門の彫刻を中心に「作り手の視点」で語る美術講座。彫刻作品の制作の裏側や美術教育などをテーマとして、全4回シリーズでお話しします。当日、直接ホールにお越しください。参加無料、申込不要です。

第2回 「岩手の美術教育」
 疎開した彫刻家高村光太郎と美術評論家森口多里の交流が始まり、岩手美術研究所、岩手県立美術工藝学校、盛岡短期大学美術工藝科、岩手大学特設美術科へと発展的に継承された岩手の美術教育は、多くの美術に関わる人材を輩出してきました。これまでの検証と、今後の展望を紐解きます。

講 師 : 藁谷収(わらがいおさむ) [当館館長]
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藁谷館長、平成31年(2019)の同講座「岩手の近代彫刻Ⅱ」、同30年(2018)の「岩手大学教育学部出前講座「彫刻ってこう観るの!? 光太郎の作品から入る近代芸術の世界」」でも、光太郎と岩手について語って下さいました。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

運送屋七尺石膏像を持ちくる、十和田関係の費用旅費日当等全部払(42,000)


昭和28年(1953)11月4日の日記より 光太郎71歳

七尺石膏像」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型。鋳造を担当した伊藤忠雄の工房から帰ってきた、というわけですね。現在は光太郎の母校・東京藝術大学さんに収められています。七尺像ということでなかなか大変なのですが、ぜひ展示する機会を設けてほしいものです。

費用旅費日当等」は運送屋さん関係と思われます。

光太郎第二の故郷、岩手花巻からの情報を2件。

まず、毎月恒例の光太郎ランチ。一昨年から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当です。

今月分がこちら。
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赤飯、小豆餅、牛すき煮、じゃがいも甘辛煮、鰹フライ、白菜と南瓜の花の酢の物、塩麹卵焼き、お新香、デザートだそうで。酢の物がさっぱりしていて美味しかったそうです。西瓜が夏らしく、また彩りも添えていますね。

3枚目の画像、背景は道の駅のインフォメーションコーナーで開催されている、地元ご在住のMICHINOさんという方の色鉛筆画「器と楽しむ光太郎ランチ」です。

花巻からもう1件、日帰りツアー的な案内です。

花巻電鉄の軌跡 廃線跡の今

期 日 : 2022年8月28日(日)
料 金 : 5,000円

【8/28(日)限定!】
JR花巻駅、花巻温泉郷から出発し、現在は廃線の「花巻電鉄」跡を巡るガイド付きツアーです。当時の様子を写真で振り返り、現在の様子を写真に収めていただくフォトツアーです。

【乗車場所】JR花巻駅東口、花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、廣美亭、台温泉バスロータリー、新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、志戸平温泉(ホテル志戸平・游泉志だて)、松倉温泉風の季

【下車場所】JR花巻駅東口、JR新花巻駅西口、花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、廣美亭、台温泉バスロータリー、新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、志戸平温泉(ホテル志戸平・游泉志だて)、松倉温泉風の季

09:20 花巻駅東口
09:40 新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、
     大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、
     志戸平温泉(ホテル志戸平・志だて)、松倉温泉風の季
10:10 花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、
     台温泉バスロータリー、廣美亭
花巻電鉄【花巻温泉駅跡】(15分)
花巻電鉄【花巻温泉線廃線跡スポット】(60分)
源氣屋にて白金豚ランチ(50分)
花巻電鉄【中央花巻駅跡、西花巻駅跡、西公園跡、稲荷前駅跡、馬面電車、花巻駅跡】(100分)
15:00 JR花巻駅東口
15:20 JR新花巻駅西口
15:40 花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、
     台温泉バスロータリー、廣美亭
16:10 新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、
     大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、
     志戸平温泉(ホテル志戸平・志だて)、松倉温泉風の季
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昭和20年(1945)から27年(1952)にかけ、当時の花巻町および郊外太田村で暮らした光太郎が生活の足として使った花巻電鉄。左上は光太郎も乗ったデハ3型、静態保存されているものです。その廃線跡を廻るツアーとのこと。「廃線」と聴くだけでロマンを感じますね。廃線にならずに済んでいればそれにこしたことはなかったのかもしれませんが……。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后新宿三越にゆき書棚をかふ、


昭和28年(1953)11月3日の日記より 光太郎71歳

およそ1週間前には丸井で本棚を購入しましたが、さらに三越でも(笑)。

どれがどうと特定出来ませんが、このあたりかな、というのが下の画像です。
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各地で行われた光太郎智恵子がらみの講演会等の報道を、3件。

まずは石川県金沢市。『北陸中日新聞』さんから。

人柄巧みに描き出す 犀星「我が愛する詩人の伝記」 記念館20周年 池澤夏樹さん講演

000 室生犀星記念館の開館二十周年を記念して、作家、詩人の池澤夏樹さんが七日、金沢市文化ホールで講演した。犀星が交流のあった十一人の詩人たちについて書いた「我が愛する詩人の伝記」について「自分を出しながら、相手の人柄を書くのが犀星」と解説した。
 北原白秋、高村光太郎、萩原朔太郎、釈迢空、堀辰雄、立原道造…。犀星は、その生き様と作品を交流や見聞きしたエピソードとともに描き出している。
 白秋は犀星あこがれの詩人。女性問題で挫折したことも「同情的に書いている」と。光太郎については「言葉を尽くしてほめたたえている」と紹介した。
 朔太郎は犀星が生涯の友情を貫いた詩人。池澤さんは「心と心が溶け合って、すべての振る舞いを認め合い、手を携えて生きたように見える」と表現。「詩人や作家には江戸っ子と、地方から上京した人がいる」といい、朔太郎が妻と別れて前橋に帰る時の詩「帰郷」と、「ふるさとは遠きにありて−」で知られる犀星の「小景異情」とを対比して「帰ってはいけない場所としての『故郷』があった」と語った。
 釈迢空が養子とした歌人藤井春洋との別れの場面の描写を「犀星は小説家として書いている」と指摘した池澤さん。「犀星は生涯、詩と小説を両輪で書いた珍しい人。大いに学ぶべきだと思う」と締めくくった。
 「我が愛する−」は一九五八年の出版。昨年、濱谷浩の写真を加えた「写文集 我が愛する詩人の伝記」(中央公論新社)として改めて出された。

金沢市の室生犀星記念館さん開館20周年記念講演会だそうで、これは事前に把握していませんでした。光太郎の章も含む、犀星による『我が愛する詩人の伝記』、ここにきてまた復刊がなされたりで注目されており、いい傾向だと思います。

続いて福島市。『福島民報』さん。

謎が多い宇宙の魅力紹介 写真展「138億光年 宇宙の旅」監修の国立天文台上席教授渡部潤一さん講演

 福島県福島市のとうほう・みんなの文化センター(県文化センター)で開催中の写真展「138億光年 宇宙の旅」を監修する国立天文台上席教授渡部潤一さん(会津若松市出身)は14日、同センターで講演した。
 講演は7月24日に引き続き2回目。「138億光年の宇宙の先へ―ほんとの空がある福島から―」と題し、謎が多い宇宙の魅力を紹介した。「夜空は誰もが見ることのできる最も広い時空間」と語り、自由に思いをはせ、癒やされてほしいと呼びかけた。さらに「福島は天文ファンの聖地」と述べ、宇宙と福島の関わりを説明した。
 日本天文遺産に認定された会津藩校日新館天文台跡については「見える形で残された貴重な日本最古の天文台跡で、国宝級だ」と熱弁した。
 写真展は福島民報社が創刊130周年記念事業として21日まで催している。
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過日ご紹介した、福島市で開催中の「写真展 138億光年宇宙の旅」関連行事としての講演会。サブタイトルに光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を入れて下さいました。多謝。

余談ですが、渡部氏、NHKさんで8月11日(木)放映の「コズミックフロント 流星群 星降る夜の謎」にご出演。興味深く拝見いたしました。

最後に都内から。『朝日新聞』さん。

近代史、「わかりやすい物語」どう脱却 奥泉光さん・加藤陽子さん、対談

 小説家の奥泉光さんと歴史学者の加藤陽子さんが、太平洋戦争下で言葉や物語が果たした役割について語り合った。共著『この国の戦争』(河出新書)の刊行にあわせたオンラインによるトークイベントが先月、東京都内で開かれた。
 同書は3回にわたる対談をまとめたもの。「軍人勅諭」などの公文書をはじめ、戦時中に書かれた軍人の手紙や作家の文章など膨大な史料に対し、文学者と歴史家という別の立場から「批評」を重ねたという。通底するのは「わかりやすい物語」からいかに脱却し、客観的に歴史を捉えるかという点だ。
 奥泉さんは、対話によって近代史の通説をうのみにはできないと改めて確認したという。たとえば三国同盟は「日本は単に勝ち馬にのりたかったのではなく、東南アジアの権益をもらうためだった。ドイツを牽制(けんせい)したわけです」。
 すると加藤さんは、当時日本が唱えた「大東亜共栄圏」という言葉を取り上げ、「日本が戦後処理のなかで植民地をもらうには言葉がいる。なぜこの言葉が出てくるか、誰が物語を作るのか。改めて気をつけて史料を読まなくてはいけない」と話した。
 視聴者から「同調圧力と戦うには?」という質問が届き、加藤さんは、「組織の構成員に女性を増やしてみる。弱い人に目が向くと思いますよ」。奥泉さんは「他者と対話的に関わる、そうした理念を求めていくこと」と答えた。

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記事中に光太郎智恵子の名はありませんし、トーク中に名が出たか分かりませんが、書籍の中で触れられている『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』刊行記念の対談だそうで。

先頃、太平洋戦争77回目の終戦記念日を迎えましたが、ウクライナ情勢の泥沼化しつつある昨今、例年以上に戦争について考えさせられる年となってしまっています。

ちなみに奥泉氏、終戦記念日には、NHKラジオ第1さんの「高橋源一郎と読む「戦争の向こう側」2022」にご出演。作家の高橋源一郎氏、詩人の伊藤比呂美氏とご対談。戦況が厳しくなる戦時下、様々な行動や表現が制限される中、「それでも書き続けた作家たち」というテーマでした。

太宰治をメインに扱っていましたが、光太郎もちらっと。光太郎が序文を書き、詩「軍人精神」を寄せたアンソロジー『詩集 大東亜』(昭和19年=1944 日本文学報国会編 河出書房)が取り上げられ、光太郎についても語られました。
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高橋氏が「軍人精神」を朗読、その後に伊藤氏に感想を求めたところ、「馬鹿馬鹿しくて途中から聴いてられなかった」的な(笑)。それが正常な反応でしょう。こんなものを現代においても涙を流してありがたがる輩が少なからずいるのには呆れます。今年も終戦記念日前後、この手の光太郎詩をSNSに上げて喜んでいる愚か者が見受けられました。

しかし、光太郎、戦後はこうした翼賛詩を書き殴り、多くの前途有為な若者たちを死地に追いやる旗振り役をしたことを真摯に反省し、花巻郊外の不自由な山村で七年間もの蟄居生活を自らに科しました。同様の作品を発表した他の文学者にはほとんど見られなかったこの態度、これこそが光太郎を光太郎たらしめるものだと、当方は思っています。

こうした負の部分も含め、さまざまな皆さんに、光太郎について正しく語り継いでいっていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

夜ラジオで智恵子抄の琴をきく、米川敏子さん、


昭和28年(1953)11月1日の日記より 光太郎71歳

米川敏子さん」は、生田流の箏曲家。後に人間国宝となりました。「智恵子抄の琴」は、米川作曲の「千鳥と遊ぶ智恵子」。15分以上の大作です。
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CD化もされています。

まず米川本人の演奏。
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二代目米川敏子氏による新しいテイク。
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「踏んだり蹴ったり」とはこのことか、という感じです。

青森県十和田市の国道103号十和田湖畔子ノ口-宇樽部の3.5キロが、大雨による土砂崩れで全面通行止めとなっているそうです。

RAB青森放送さん、昨日のローカルニュース。

十和田湖観光に影響 子ノ口~宇樽部 通行止め

 先週の大雨の影響で土砂崩れが発生し十和田湖周辺の道路は通行止めが続いており観光に影響が出ています。
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 十和田市では12日の夕方から激しい雨が降り、十和田湖の子ノ口交差点から宇樽部までの国道103号が土砂崩れで通行止めになりました。
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 13日の午後には通れるようになりましたが同じ場所で土砂崩れが発生しその日の夕方から再び通行止めが続いています。
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 十和田湖には休屋地区の乙女の像などに行く予定だった観光客が訪れていましたが通行止めのため子ノ口で引き返していました。
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★観光客
乙女の像があるのでいけるかなと思ったんですけどもうそこで通行止めなのでしょうがないので子ノ口に来ました」
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「(通行止めは)途中で標識でわかりました 行きたいところに行けないのはちょっと残念かなと思いますね」
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 子ノ口にある「みずうみ亭」には売店や食堂を利用する人がいつもの年の半分ほどしかいないということです。
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★みずうみ亭 勝田和彦 社長
「この大雨の被害さえなければほんらいは押すな押すなの観光客でにぎわっている時期ですのでこの時期に通行止めなんてあるとがっかりです」
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 県はきょう午前から土砂の撤去作業を行っていますが通行再開のめどは立っていません。

ATV青森テレビさん。

大雨でルート寸断・十和田湖観光に影落とす

8月、津軽地方を中心に降った記録的な大雨は、青森県南地方にも被害をもたらしました。十和田湖周辺ではその前の週にも大雨被害が発生し観光に大きな影響が出ています。
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「夏の観光シーズンを迎えている十和田湖。ですがこちら、奥入瀬渓流とを結ぶ道路は今も通行止めが続いていて、多くの人の足に影響を及ぼしています」
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8月12日夜の雨で十和田湖畔では土砂が道路に流出し、現在も2か所で通行止めが続いています。このため青森市から休屋地区へ行くには、新郷村などを経由する必用があり、客足が遠のく原因になっていると言います。
015
※十和田奥入瀬観光機構地域事業部 安藤巖乙(あんどう・いわお)部長
016
「(この週末は)かなりお客さん多い時期だったので問い合わせは多かったですね。(十和田湖に)どうやって行ったらいいですかという問い合わせが多かったです」
017
そして去年の倍の乗客を見込んでいた遊覧船は、8月3日と先週の2度の大雨でさらに大きな影響を受けています。
018
※十和田観光電鉄 湯瀬功一(ゆぜ・こういち)さん
「お盆の帰省客にも期待していましたので少しずつ増えてきているという実感がありましたけれども、一番痛いのは土砂崩れと大雨の影響でしょうね」
021
大雨被害でアクセスが不便になったことで、関係者は日程がタイトな団体客が敬遠すると見ていて、今後その影響は拡大しそうです。
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もう3年目となるコロナ禍の影響もあり、その上、今回の豪雨被害。衷心より御見舞い申し上げます。日本中、どこの観光地も程度の差こそあれ、似たような状況なのかな、という気もしますが……。

一日も早く平穏な毎日が来ることを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

汽車でめざめ、十時45分上野着、 伊藤氏藤島氏と地下で生ビール、モデルと別れる、伊藤氏と別れ、藤島氏とタキシで中野まで、十二時過ぎかへる、 小憩、 夫人にみやげもの進呈、

昭和28年(1953)10月25日の日記より 光太郎71歳

10月21日に行われた、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式に伴う青森行から、寝台車で帰京しました。「夫人」は貸しアトリエの大家・中西夫人です。

8月10日(水)の『読売新聞』さん文化面から。

[鉄道150年]文化を運ぶ<5>美術・工芸 海外誘客に一役 気鋭の画家がポスター 車両に城や仏閣風天井

000 桜の木のもとで、静かにほほえむ女性。着物の柄や花びらが一筆一筆丁寧に描き込まれ、雪をいただく富士が遠くに裾を伸ばす。
 「大正の広重」と呼ばれた絵師、吉田初三郎による鉄道省国際観光局の1930年のポスター「Beautiful Japan(駕籠に(かご)に乗れる美人)」だ。約1万枚が発行された。
 中国東北部を走る南満州鉄道とユーラシア大陸を横断するシベリア鉄道の連絡運輸が11年頃に始まると、欧州との時間的距離は格段に縮まった。日本では12年、半官半民の外客誘致組織「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」が設立される。
 外貨獲得と文化を宣伝するため外国人観光客の誘致が進み、30年の鉄道省国際観光局発足により、動きはより本格化した。二つの世界大戦の戦間期、欧米では中産階級にも旅行ブームが広がっていた。
 各組織や汽船会社、ホテルなどは、競うように観光ポスターや旅行案内書、雑誌を発行し、誘客キャンペーンを展開した。表紙をはじめビジュアルな部分は、吉田のほか、版画家の川瀬巴水(はすい)、図案化の杉浦非水ら気鋭の美術家が起用された。「大部数で多色刷りは、彼らにも大きな仕事だった」と、武蔵野美術大の木田拓也教授(近代工芸史・デザイン史)は説明する。
 豪華な装幀や洗練されたデザインを凝らし、写真をたくさん載せた刊行物も多く作られた。「外国の目を意識することが、出版印刷技術の向上にもつながったのではないか」と、関西学院大の荒山正彦教授(刊行の文化史)は話す。
 これらの出版物には、「美しい日本」を象徴する四季の自然や神社仏閣などとともに、西洋風のホテルをはじめ近代都市としての姿も描かれた。木田教授は「日本は外国人客の誘致を通して、より客観的に自国文化の魅力や将来像を考えることになった」と指摘する。
 戦前の鉄道や海運の発展は、東洋の優美さと近代性を併せ持つ国としての“自画像”を日本に意識させるきっかけともなった。

*「御料車」に外国要人001
 日本の美術や工芸技術は、皇族方が乗るための鉄道車両「御料車」にも生かされた。第1号は1876年、明治天皇の京都-神戸間の鉄道開業式出席を前に製造された。明治、大正、昭和にかけて18両が製造され、うち1両が重要文化財、8両が鉄道記念物に指定されている。
 西欧のロイヤルレトレインの様式を取り入れながら、日本的な文様や図柄を装飾に用いた。明治後期から大正期の6~9号には、城郭や仏閣を思わせる折上(おりあげ)二重天井が採用された。外国からの賓客を迎えた10号には展望デッキが備えられた。1922年に来日した英皇太子のエドワード・アルバート殿下や、シャム国皇帝、満州国皇帝が乗車した記録も残る。
 日本画家の川端玉章(ぎょくしょう)や橋本雅邦(がほう)、漆芸家の六角紫水(しすい)、彫刻家の高村光雲ら、歴代の車両の内装には、時代を画する芸術家が関わっていた。

*現代列車に継承
 御料車の精神は現在、国内各地を走る豪華列車にも生かされている。JR九州の「ななつ星in九州」は、ふんだんに木をあしらった内装に様々な工芸技術を用いた美しい車両で知られる。デザインを手がけ、JR九州のデザイン顧問を務める工業デザイナーの水戸岡鋭治さん(75)は、「御料車には最高のものを作りたいという美術工芸家や職人の心意気、国力が凝縮されている。かけた手間暇の分だけ感動が生まれることを体現したお手本のような列車で、その心を継承することが大切だ」と語る。
 「ななつ星」は外国人にも人気で、昨年、米国の旅行雑誌の読者投票で1位に選ばれた。一台の車両に凝縮した日本人の美意識や感性、技術が、世界に誇れるものであることを現代に伝えている。


御料車に関しては、平成27年(2015)に富山県水墨美術館さんで「北陸新幹線開業記念 お召列車と鉄道名画 ~東日本鉄道文化財団所蔵作品を中心に~」が開催され、光太郎の父・光雲が手がけた装飾彫刻も展示されました。同展図録から。
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その他、川端玉章や橋本雅邦、六角紫水なども関わっていたとなると、さながら「動く美術館」ですね(笑)。

ちなみに東京駅丸の内口の東京ステーションギャラリーさんでは、今年10月から来年1月にかけ「鉄道と美術の150年」展を開催するそうです。予告では河鍋暁斎や五姓田義松、長谷川利行、香月泰男の絵画などがピックアップされています。上記光雲監督作品もぜひ出していただきたいところです。

ところで、「鉄道150年」ということで、いろいろ記念行事等が行われていますが、逆に廃線の危機にさらされている鉄道も少なからずあり、複雑な思いです……。

【折々のことば・光太郎】

午后三時頃湖畔御前浜にてモニユマン除幕、 雨かなりふる、


昭和28年(1953)10月21日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」がついに除幕されました。
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除幕式直前。像は紅白幕に覆われています。
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大町桂月令孫の幼女がお母さんに助けられて紐を引き、除幕。
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三本木高校女生徒による献花。
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それらを見つめる光太郎、佐藤春夫(青森県と光太郎の仲介役)、谷口吉郎(公園全体の設計担当)、伊藤忠雄(鋳金家)ら。後列には像のモデルを務めた藤井照子も。
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三本木高校女生徒による佐藤春夫作詞「湖畔の乙女」合唱。このあたりの方々で、ご存命の方はまだいらっしゃると思います。
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光太郎スピーチ。

これが昭和28年(1953)ですので、来年は70周年となります。「乙女の像」も古稀を迎えるというわけで(笑)。それから、同じく来年は光太郎自身の生誕140年。ちょっと半端ですが、一応区切りのいい周年です。関係の方々、生誕140周年記念のなにがしか、できれば美術館さん・文学館さん等での大規模な企画展等を計画していただきたいものです。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県花巻市で、光太郎の語り部として活動されていた高橋征一さんが亡くなりました。

昭和20年(1945)、空襲で東京駒込林町のアトリエ兼住居を焼け出された光太郎は、5月、花巻の宮沢賢治の実家に疎開。終戦となっても帰京せず、逆に花巻郊外の旧太田村に鉱山の飯場小屋を移築してもらって住み始めます。

その山小屋近く(といっても1㎞弱)の太田小学校山口分教場(のち山口小学校)に通っていた児童の一人が、高橋さん。昭和25年(1950)の同校学芸会の際に撮られたこの写真で、右から二人目に写っています。
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コロナ禍前の令和元年(2019)5月に、旧太田村で開催されたの第62回高村祭のローカルニュースから。

その前年に開催された第61回高村祭では、他の3人の方々とともに太田村在住時の光太郎の思い出を語って下さいました。聞き手は当方でした。4人のうち、高橋愛子さんも既に亡くなっています。
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高橋さん、平成28年(2016)に花巻市太田地区振興会さんから刊行された『高村光太郎入村70年記念 ~思い出記録集~ 大地麗』の編集にあたられたり、同じ年には花巻高村光太郎記念館さんで無料配付されていたリーフレット『たかしとせいいち ぼくたちが出会った光太郎先生』で、上記写真左端の浅沼隆さんと共に、光太郎の思い出を証言して下さったりも。
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その他、折々の新聞記事などでも、高橋さんの証言が紙面を飾っています。

河北新報「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」。
新聞各紙から。
「とうほく名作散歩 詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む」。

さらに昭和51年(1976)、読売新聞社盛岡支局発行の『201人の証言 啄木・賢治・光太郎』でも。
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同書から、最上部画像の光太郎サンタについて。
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戦前には、「芸術家あるある」で「俗世間とは極力交わらない」、戦時中には歪んだ愛国意識で国民を鼓舞し死地に追いやった光太郎。戦後、老境に入ってようやく自然に世間と交われるようになった、その頃をご存じの高橋さん……。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

夕方リーチ、石川欣一氏等くる、リーチとアトリエで一寸話、明日出発して東北旅行の由、
昭和28年(1953)10月3日の日記より 光太郎71歳

「リーチ」は陶芸家のバーナード・リーチ。明治41年(1908)、英国留学中の光太郎と知り合ったのがきっかけで、来日。戦前は日本、イギリス、そして中国などを行ったり来たりしていましたが、昭和10年(1935)に帰国後はしばらく母国にとどまり、この年、久しぶりに来日し、光太郎らと雑誌で座談を行ったりもしました。そしてこの日が、光太郎とリーチ、今生の別れとなりました。

サイクルスポーツ愛好家の方々向けのキャンペーンです。

ツール・ド × Volcano to Seaふくしま

火山から太平洋へ 山、里、海がつなぐ絶景ルート
 福島市・二本松市・伊達市・相馬市エリアで3ヶ月限定でお届けします! 絶景と歴史が織り成すコースを走れる、このエリア。ルートには吾妻山・安達太良山の紅葉、伊達氏の歴史、朝日が綺麗な松川浦など、各市の魅力を詰め込んでいます。さらに、エリア内には飯坂・土湯・高湯・岳の4つの温泉地や豊富な果物・海産物など疲れを癒す要素もたくさん!100kmを超える2コースの走破を目指し、福島市・二本松市・伊達市・相馬市を満喫してください。

キャンペーン期間:2022年 7月30日(土)~10月31日(月)

サイクリング専用アプリツール・ドを使って走る!
 このキャンペーンに欠かせないのが、サイクリング専用アプリツール・ド! コースMAPで進行方向を確認できたり、途中の「ご当地スポット」にチェックインできたり、オリジナルフォトフレームが付いた記念写真を撮れたり、ゴール後に完走特典をGETするための完走証明をしたり。 このアプリを使えば、サイクリングの楽しさが広がること間違いなし。

0041コースを完走すればVolcano to Seaふくしまfinisherに認定!
 コースのいずれかを完走した方は、Volcano to Seaふくしまfinisherの証オリジナル手ぬぐいをプレゼントします。お帰りの際はゲットした手ぬぐいを持って、温泉へお立ち寄りください。
 ※各コース、先着200名様ずつとなります。
 ※なくなり次第、終了となりますので予めご了承ください。
 ※完走したコースそれぞれで手ぬぐいをお渡しします。

2コースを完走すればVolcano to Seaふくしまマイスターに認定!005
 キャンペーン期間中に「Volcanoコースいずれか1コース」と「Seaコースいずれか1コース」の合計2コースを完走した方をVolcano to Seaふくしまマイスターと認定します。Volcano to Seaふくしまマイスターの名に相応しく、オリジナル猪革キーホルダーと認定証を進呈します。
 ※先着100名様となります。
 ※なくなり次第、終了となりますので予めご了承ください。
 ※認定証は全員に発行します。

Volcano to Seaふくしまを走って記念を残そう!
 Volcano to Seaふくしまfinisherボードにチェキを貼ってSIGN ON!!

豪華賞品が当たるフォトコンテストを開催!
 「ふくしま」をテーマにした思い出の写真を大募集。#ボルふくをつけてSNS(twitter/instagram)に投稿するだけで、地元のお土産をGETできるかも!?

コース
 安達太良山を一望できるスカイピアあだたらからスタート。クライマックスは磐梯吾妻スカイラインのヒルクライムです。コース近辺には岳温泉、高湯温泉、土湯温泉など県内自慢の温泉地もぜひお楽しみください。スポットや拠点などで福島の新鮮なフルーツをはじめとした農産物などもお土産にいかがでしょうか。
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コースストーリー
1 スカイピアあだたら 眺望の温泉保養館008
 安達太良山を間近に『本当の空』を眺めながら日帰り温泉を楽しめます。同じ敷地内にスケートボード、スラックライン、ボルダリングが楽しめる『スカイピアあだたらアクティブパーク』があります。汗を流した後にゆっくりと日帰り温泉は如何でしょうか。
2 道の駅安達
 「智恵子抄」でおなじみの安達太良山を一望できる「北と南の玄関口」
007 ドライバーの快適な休憩施設や、道路利用者と地域との情報発信や地域連携の機能が満載されています。地元の朝採り野菜や1,000年の伝統を今に伝え手漉き創作和紙が体験して楽しめる「二本松市和紙伝承館」などがあります。平成25年にオープンした下り線の道の駅には、焼き立てのパンがいつでも楽しめる「二本松ベーカリー」、ゆったりした時間と空間が楽しめる「カフェ」や広い芝生の休憩スペースもあります。
3 アンナガーデン 福島の街を一望する丘の上に、ヨーロッパの雰囲気漂う街並みが広がる
 吾妻連峰の山麓に位置する個性豊かでこだわりの逸品を扱う店舗が並び、美酒・美食・ショッピングなどを楽しめます。
4 道の駅ふくしま ふくしまの魅力が凝縮
 2022年4月27日にオープンしたふくしまの新しい道の駅です。ここでは、農作物を代表とする特産物の購入はもちろん、それらを利用したレストランも並んでいます。サイクリングの休憩地点としてもよし、福島周辺の観光情報も詰まっているためその前後の観光拠点としてもおすすめです。
5 高湯温泉観光協会 白濁の湯で癒す温泉地
 東北初の「源泉かけ流し宣言」をした高湯温泉の情報発信拠点。併設の「共同浴場あったか湯」では露天風呂で日帰り入浴が楽しめる。
6 浄土平ビジターセンター 雄大な自然の玄関口
 浄土平周辺の自然を模型やパネル写真等を通して紹介する施設。自然観察会やトレッキングなどの行事も随時行っている。
7 スカイピアあだたら
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Volcanoコース 120km(道の駅ふくしま発着)
1 道の駅ふくしま 2 高湯温泉観光協会 3 浄土平ビジターセンター 4 スカイピアあだたら
5 道の駅安達 6 アンナガーデン 7 道の駅ふくしま


Seaコース110km(相馬市千客万来館発着)
1 相馬市千客万来館 2 浜の駅松川浦 3 不動尊公園 4 まちの駅やながわ
5 道の駅伊達の郷りょうぜん 6 まきばのジャージー 7 相馬市千客万来館

Seaコース110km(まちの駅やながわ発着)
1 まちの駅やながわ 2 道の駅伊達の郷りょうぜん 3 まきばのジャージー
4 相馬市千客万来館 5 浜の駅松川浦 6 不動尊公園 7 まちの駅やながわ

専用アプリを使って、福島県内4つのコースを自転車で走り抜けよう、ということですね。ただ、4コースではありますが、「Volcano(火山)コース~福島・二本松~」、「Sea(海)コース~相馬・伊達~」、ともに2箇所ずつ「拠点」が設けられ、どちらの拠点からスタートしてもOK、スタートと同じ拠点へゴールするというルールで、実質2コースです。

このうち「Volcano(火山)コース~福島・二本松~」は、安達太良山、道の駅「安達」智恵子の里などが含まれています。

それにしても、火山あり、海ありと、改めて福島県の魅力が感じられますね。自転車愛好家の皆様、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小笠原耕三は耕一の誤とわかり、メダルの内山さんに速達ハガキを出し、三を一に直してもらふやうたのむ、


昭和28年(1953)9月29日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の完成作となった小品「大町桂月メダル」。翌月行われた「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」除幕式に際し、関係者に記念品として配付されたものです。

桂月の肖像と、桂月以下、「十和田の三恩人」の名が刻まれましたが、このうち道路整備等に腐心した元法奥沢村長・小笠原耕一の名が、誤って「耕三」と光太郎に伝えられ、その通り陽刻してしまいました。正しくは「耕一」だとわかり、すでに鋳造師の元に送られていた粘土原型を、慌てて直してもらったとのこと。

なぜか誤りの「耕三」バージョンが世に出ています。試鋳されたものが出回ってしまったのでしょうか。

一昨日の『中日新聞』さん一面コラム。

中日春秋 2022年7月28日

 首相在任中に病に倒れ、退陣後に没した自民党の小渕恵三氏に対する国会での追悼演説は二〇〇〇年五月、野党・社民党の村山富市元首相が行った▼小渕氏が首相時代に開催地を沖縄に決めたサミットが迫っていた。氏が学生時代から通い、米国統治下の苦難を学んだ土地▼日本は東京以外でのサミット開催経験がなかったが、慎重論に与(くみ)せずあえて沖縄を選んだことを村山氏は称(たた)えた。「熱い思いが沖縄の人々をどれほど勇気づけているかは、立場こそ違え、長年沖縄問題に取り組んできた私には痛いほどわかります」「沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった」▼安倍晋三元首相への追悼演説を同じ自民の甘利明氏が行う案に野党から異論が出ている。人選は遺族の意向らしい。自民党首相経験者への追悼演説は野党が行うのが慣例で、党派を超えて哀悼の意を表してきた。大平正芳氏の場合も、社会党委員長が演説した▼今回は、反発も承知で安倍氏の国葬を決めながら、追悼演説は身内…。再考した方がよさそうに思える▼村山氏は、小渕氏が愛唱した高村光太郎の詩『牛』を引用し、人柄をしのんだ。「牛は随分強情だ/けれどもむやみとは争はない/争はなければならない時しか争はない/ふだんはすべてをただ聞いてゐる/そして自分の仕事をしてゐる」。我を通すべきことの選択を誤ると、民の心も離れる。

当初、8月3日召集の臨時国会で検討されていた追悼演説は、なぜか延期の方向だそうですが、その理由の一つが、指名されたA氏が「静かな環境でやるべき」とのたまったとのことで、まさに「おまいう」(笑)。大臣室で現金を受け取った人物の発言とは思えませんね。

平成12年(2000)5月に衆議院本会議で行われた、村山富市氏による小渕恵三氏への追悼演説。光太郎に関わる部分の前後のみ抜粋します。

000 昭和三十八年の初当選以来、福田、中曽根元総理らと議席を争った厳しい選挙区環境がつくり出した庶民的な「人柄の小渕」は、総理になってからも何ら変わることはありませんでした。
 昨年、ブッチホンという流行語大賞に選ばれたほど、常に市井の声に耳を傾け、国民と同じ目線で物事を見る屈託のない姿勢は、国民の共感するところでございました。
 君がよく愛唱した高村光太郎の
  牛は随分強情だ
  けれどもむやみとは争はない
  争はなければならない時しか争はない
  ふだんはすべてをただ聞いてゐる
  そして自分の仕事をしてゐる
  生命をくだいて力を出す
君の人生はまさにこの詩のごとくでありました。
 君の人柄について語るとき、いつも謙虚であろうとした君の姿勢について触れないわけにはいきません。
 みずからが凡人であることを片時も忘れないよう心がけておられました。それは、口に出せば簡単ですが、凡人にはなかなかできないことであります。いかなる地位にあっても偉ぶらず、常に謙虚で目線を低く生きる、そして凡人だから懸命に努力する、そうした姿勢が凡庸に見えて非凡という境地を開かれたのであります。(拍手)
 その牛にも似た、地道で人知れぬ努力があったからこそ、一国の指導者にまで上り詰めたのでありましょう。
 もはやこの議場に君の温容を目にすることはできません。耳を澄ませば、今も、力強い中にも優しさのこもった声が聞こえてくるではありませんか。
 小渕君、君に課せられた宰相という厳しい重責は、君に一刻の休息も許しませんでした。本当に御苦労さまでした。

もう22年も経つか、という感じですが、この頃はこの頃でいろいろあったものの、まだ健全な世界でしたね。

「牛」全文はこちら(閲覧注意! 超長い詩です(笑))。

【折々のことば・光太郎】

午前十時頃大町桂月の長男芳文氏と文京区文化係長中出忠勝といふ人来る、メダルなど見せる、亡父によく似てゐるとの事、


昭和28年(1953)9月27日の日記より 光太郎71歳

完成作としては光太郎最後の彫刻となった小品「大町桂月メダル」。翌月行われた「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」除幕式に際し、関係者に記念品として配付されたものです。元々「乙女の像」は、十和田湖の景勝美を世に広めた桂月ら「十和田の三恩人」顕彰のためのものでした。
001
原型が完成し、桂月の子息に見てもらったとのこと。なぜ文京区の役人が同席していたのかは不明ですが。ちなみに子息・芳文は農学者。光太郎実弟にして藤岡家に養子に行った同じく農学者の孟彦とは昵懇の間柄でした。

ところで9月に行われる予定の「国葬」とやら(ここへきていろいろあるD社とのズブズブぶりが報じられていますが)で、当該人物の肖像を刻んだメダルなど配付されたりはしないでしょうね(笑)。

いわゆるライトノベルです。

小説家・芥木優之介には恋と飯が足りていない

2022年7月6日 硯昨真著 宝島社(宝島社文庫) 定価750円(税込み)

太宰治の“桜桃”、森鴎外の“饅頭茶漬け”――。謎の美女が繋ぐ“文豪グルメ”と“人の絆”。天才偏屈作家のほっこり恋物語!

芥木優之介は、大学時代に処女作で新人賞を総嘗めにし、文壇にデビューした小説家である。それから六年。全く文章を書けなくなった芥木は、古アパートで貧乏生活を送っていた。それは自身に課した「文筆業以外で稼いだ金で飯は食わない」ポリシーのため。そんな時、大家の姪という儚げな美女・こずえが現れる。栄養失調で意識が朦朧とする芥木に、“芋粥”を食べさせるこずえ。彼女にときめく芥木だが、「これからはお家賃の方をきちんとお願いします」と言われ、絶体絶命に! 偏屈で人間嫌いだった芥木だが、縁を切っていた人々と向き合うことになり……? 謎の美女が繋ぐ、“文豪グルメ”と“人との絆”。天才偏屈作家のほっこり恋物語!

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目次
 芥川龍之介の芋粥  谷崎潤一郎の小鰺の二杯酢漬け  太宰治の桜桃 前編 
 太宰治の桜桃 後編  宮沢賢治の天ぷらそばとサイダー  高村光太郎の牛鍋
 森鷗外の饅頭茶漬け  夏目漱石の落花糖


主人公・芥木優之介。その名の通り、芥川龍之介を彷彿とさせられる小説家です。しかし、芥川と違って(ある意味共通して)、いろいろ考えすぎるあまり、なかなか作品が書けない、という設定です。まぁ、一言で言うと「面倒くさい」(笑)。そうなってしまったのには、そうなってしまうだけの理由―この業界特有の―があるのですが、それは読み進めていくうちにおいおい明かされていきます。

他の登場人物は、芥木に負けず劣らず面倒くさく、彼を一方的にライバル視する作家・津島修也(いわずもがなですが、「津島」は太宰治の本名由来です)、芥木ファンが嵩じて作家デビューを果たした書店員・三鳥(「島」ではなく「鳥」です)、善人だけれどズレまくっている編集者・滝谷(しかし、欲得ずくでない仕事態度が芥木を動かし、再びペンを執らせます)、そして借家の大家にしてヒロイン的なこずえら、個性豊かな面々。

そこに目次にあるような、文豪たちが書き残したさまざまな料理や食材がからみます。そういった意味でも近代文学オマージュ的要素もふんだんに盛り込まれています。

われらが光太郎に関しては、詩「米久の晩餐」(大正10年=1921)がモチーフの「高村光太郎の牛鍋」。この章には『智恵子抄』巻頭を飾った詩「人に」(「いやなんです/あなたのいつてしまふのが」)も使われ、こずえに対して揺れ動く芥木の心情が象徴されます。特に「――それでも恋とはちがひます」というフレーズ。

作者の硯昨真氏、存じ上げない方でしたが、どうもご自身のご経験をかなり落とし込んで書かれているのでは、と思われます。作家としてデビューし、編集者との丁々発止のバトルなどの苦労等。妙にリアリティーがあります。違っていたらごめんなさい、ですが。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

中野の祭礼、みこし出てゐる、 夜在宅、 タウリンエキスをのむ、

昭和28年(1953)9月15日の日記より 光太郎71歳

中野の祭礼」は、9月半ばということで、おそらく中野氷川神社さんの祭礼と思われます。「タウリン」、この頃にはもう広まっていたのですね。1000㍉㌘かどうかはわかりませんが(笑)。

特に何もなければ、新刊書籍の紹介を今日から4連発で。この系統はつい後回しになってしまい、溜まってしまいました。

まずは岩手から届いたミニブック。

michino絵本 器と楽しむ光太郎ランチ

2022年7月 企画デザイン/文/写真/発行 やつかの森LLC 色鉛筆画/MICHINO
 料理制作/ミレットキッチン花 定価700円(税込み)


癒しの時間

色鉛筆で花の絵を描くMICHINOさん。光太郎の魅力を発信する「光太郎ランチ」の応援団になっていただきました。

毎月「光太郎ランチ」弁当を買って来て器に盛り付ける。MICHINO風楽しみ方。1年間描き続け、その絵が素敵な本になりました。心癒やされる時間をぜひどうぞ。

お申し込み先 やつかの森LLC FAX 0198-29-2672 kotarocafe30@gmail.com
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現在、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで開催中の同名の展示を、一冊の絵本にしたものです。道の駅のテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」を洒落た器に盛りつけて描いた作品群。
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メニュー及び光太郎の日記等から抜粋された食に関する一節が左側のページ、右ページには地元ご在住のMICHINOさんという方の描いた色鉛筆画。12回分が掲載されています。合間には、「光太郎ランチ」実物の写真や、花を描いたMICHINOさんの色鉛筆画など。

道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん、花巻市街のマルカンさんで販売中ですし、FAX、メールでも注文可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后週間サンケイより吉岡達夫氏ら三人来たり写真をとつてゆく、

昭和28年(1953)9月1日の日記より 光太郎71歳

「週間」は「週刊」の誤り。光太郎、ときどきやらかします(笑)。「写真」はこちらの記事のためのもの。この年9月27日号に掲載されました。
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昨日の新聞二紙から。

まず、「土用丑の日」だったということで、『朝日新聞』さんの土曜版から、鰻の蒲焼きについての記事。かなり長いので全文は引用しませんで、後半のみを。前半では、土用丑の日に夏ばてを防ぐため、栄養価の高いうなぎを食べる慣習について、平賀源内がうなぎ屋のために考案し、広まったという『定説』について。「裏付けとなる文献が、今のところ見つかっていない」ということで、肯定する根拠も、さりとて否定する根拠もないそうです。さらに、隅田川下流域の「江戸前うなぎ」がブランド化していった歴史、調理方法の変遷など。

そして、後半。「江戸前うなぎ」の名店の一つで、光太郎も通った「駒形前川」さんに取材。こちらは令和元年(2019)の『週刊ポスト』さんでも、光太郎にからめて紹介されていました。光太郎の父・光雲が生まれた嘉永5年(1852)に出た「江戸前大蒲焼」番付にも載った店です。また、光雲といえば、光雲の談話筆記『光雲懐古談』(昭和4年=1929)に、前川さんが登場します。

(はじまりを歩く)江戸前うなぎ 東京都 白米とみりん、客層を広げる

 昼下がりの「駒形前川」。7代目主人の大橋一仁さん(43)が、かっぽう着姿で取材に応じてくれた。もとは川魚問屋だったが、220年ほど前、初代がうなぎ料理を始めた。「目の前が大川だから、前川。浅草へ遊びに行く人が舟で乗り付け、腹ごしらえする店だったみたいです」
 しょうゆとみりんを煮詰めた「生(き)だれ」。生だれをつぎ足し、つぼに入っているのが「母(ぼ)だれ」。これが代々続く秘伝のタレだ。「生だれと母だれ、なめると味が全く違う。母だれには、積み重なってきたうなぎのうまみがつまっている」という。
 うなぎをつぼにつけるのは、さばいて、串をうち、素焼きにして、蒸しに入れ、余分な脂を落とした後の工程だ。うなぎの身が、新しい良質な脂とうまみをつぼに落とし、同時に、母だれの熟成したうまみをたっぷり吸い込んで、再び焼かれる。
 老舗の蒲焼きが、甘くないのに、うまい理由は、ここにあった。

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 先代たちの歴史は「選択」の連続だった。関東大震災、東京大空襲では、つぼを大八車に載せて逃げた。店が焼失しても、ゼロから再出発した。2011年3月、東日本大震災の大きな揺れが店を襲ったその時も、一仁さんの父で6代目の一馬さんは、客や従業員の安否を確かめながら、つぼのことを鬼気迫る表情で案じていた。一馬さんは病気で他界し、7代目となった一仁さんが、長引くコロナ禍と向き合ってきた。
 店の伝統を裏付けるような資料を残す余裕は、先代たちになかったようだ。だからこそ、番付「江戸前大蒲焼」の存在は「色んな人にうちを知ってもらえて、ありがたい」。
 江戸前うなぎに「蒸す」という調理工程が加わった背景には、江戸時代後期のコレラの流行がある、と一仁さんは考えている。「より衛生的で安全な提供方法を考えた結果、先人は蒸すことを選択した。天然か、養殖かも、選択の一つ。守るべきこと。変えるべきこと。いつの時代も、両方を考えないといけない」
 江戸時代に花開いたうなぎ文化もいま、岐路に立たされている。稚魚や親ウナギの保全、人工孵化(ふか)や完全養殖。絶滅危惧種となってしまったニホンウナギと共存するための、新たな選択肢が模索されている。
 かつては筒を沈めるだけで、ウナギがとれたという隅田川。今でも釣りスポットとして人気だが、ネット上で「隅田川の魚は食べても美味だ」と薦める人は見かけない。
 目の前の水辺にいたヘンな魚を、焼いて食べたら、うまかった。しょうゆ、山椒、みりん、ご飯をつけたらもっとうまかった。そんなシンプルな話だったのだ。ある時までは。

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「駒形前川」は、池波正太郎、高村光太郎、山田耕筰といった文化人がひいきにしていた。現在は千葉県銚子市の問屋から天然に近い環境で育てた養殖うなぎ「板東太郎」などを仕入れている。雷門通りにある「やっこ」も、ジョン万次郎や勝海舟が訪れた名店だ。
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当方自宅兼事務所のある千葉県香取市。利根川の水運の要所として、江戸時代から続く古い街並みも残る観光地です。やはり利根川の関係で鰻も昔からの名物で、旧市街には江戸時代創業のうなぎ屋さんが数店。さらに住宅街である自宅兼事務所近くにはその支店も。

以前は、遠隔地の友人、仕事の打ち合わせに訪れた方などが訪ねてきた際には、そうした店にご案内することも少なくなかったのですが、最近はとんと足が遠のいています。とにかく美味ではありますが、やはり価格の問題がありまして……。以前は二千円ほどで食べられましたが、最近は四千円台と記憶しております。記事にもあった資源としての減少の問題が大きいのでしょう。

ちなみに今年の土用丑の日は、2回。昨日と、8月4日(木)も該当します。光太郎父子に愛された「駒形前川」さん、ぜひ足をお運び下さい。

もう1件、やはり昨日の『福島民報』さん。「福島県 今日は何の日」という連載です。

「福島県 今日は何の日」 1990(平成2)年7月23日 国体スローガン 友よ、ほんとうの空にとべ!

 1995年に開催した第50回国民体育大会のテーマ(愛称)が「ふくしま国体」、スローガン(合言葉)が「友よ ほんとうの空に とべ!」に決定した。
 テーマは美しい自然など本県の持つ特性を県名に込め、平仮名で柔らかく表現した。スローガンの「ほんとうの空」は「智恵子抄」などによって県内外に知られており、本県の全体的な印象として定着していると判断した。
 4月中旬からスローガンとテーマを公募し、テーマに1万7664点、スローガンに1万4250点が寄せられた。
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平成7年(1995)の「ふくしま国体」。このテーマに「ほんとうの空」の語が使われたことで、以後、福島の形容詞として、「智恵子抄」由来の「ほんとの空」、その変形種「ほんとうの空」の語が広く使われるようになっていきました。ただ、平成23年(2011)の東日本大震災による福島第一原子力発電所のメルトダウン以後、また違った意味が付加されるようになってしまったのは残念ですが……。

ちなみに「ふくしま国体」のテーマソング、佐藤信氏作詞、林光氏作曲の「ほんとうの空へ」は、現在でも時折コンサート等で演奏されています。
「林光ソングをうたい継ぐ(5)~ほんとうの空へ(1990年代)」。
合唱団じゃがいも第48回定期演奏会 林光さん没後10年を偲んで。
こちらも末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

山口小学校長浅沼氏今朝来訪の由、又午后くるとの事、 午后東方亭主人くる、トマトをもらふ、 山口小学校長くる、自園の桃をもらふ、


昭和28年(1953)8月24日の日記より 光太郎71歳

山口小学校」は、かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった小学校。そこの先生方や子供たちとは深い交流がありました。校長・浅沼政規は光太郎に関する貴重な回想を数多く残しました。子息の浅沼隆氏は、現在も光太郎の語り部として花巻で活動されています。

東方亭」は、戦前からの光太郎行きつけのトンカツ屋。荒川区の三河島に店がありました。

まず状況をわかりやすくするために、地方紙『陸奥新報』さん記事から。

教科書掲載の作家紹介/県近代文学館

 県近代文学館で特別展「教室で出会った文学」(9月19日まで)が開かれている。国語の教科書に掲載されるさまざまな文学作品は、子どもが文学の世界に触れる入り口でもあり、大人には懐かしい青春の思い出。同展は多くの教科書で取り上げられてきた森鷗外、夏目漱石、石川啄木、宮澤賢治、与謝野晶子、芥川龍之介、高村光太郎の7氏を第1部で、太宰治、三浦哲郎、寺山修司ら本県出身作家を第2部で紹介している。また黒石高校情報デザイン科の協力を得て作家たちのイメージイラストも展示されるなど、夏休みに子どもたちが楽しむことができる内容となっている。
 第1部では、森鷗外の「中村範宛書簡」や石川啄木の「金田一京助宛葉書」、宮澤賢治の「雨ニモマケズ手帳(複製)」、芥川龍之介の「自筆短冊」、高村光太郎の「桂月メダル」などが、貴重な初版本や当時掲載された雑誌などとともに展示。本県との意外な関わりを記した紹介文も目を引く。中でも与謝野晶子のコーナーでは、板柳町の歌人・安田秀次郎らの招きで、夫・鉄幹(寛)と夫婦で本県を訪れた際に書いた自作短歌の屏風(びょうぶ)も展示。見分けが付きにくいほどよく似た夫婦の直筆による多くの歌が詠み込まれており、貴重な展示物となっている。安田は、夏目漱石とも書簡のやり取りがあり、同書簡は本展が初公開。独自の町人文化が栄えた板柳町をはじめとする本県と、中央で活躍する文人との交流の深さが、第1部の展示から想像できる。
 第2部では、新課程の教科書に登場する本県出身作家に着目し、関連資料や最新の教科書などを展示。同館が調査した結果、圧倒的な数を誇ったのは、やはり太宰治で特に「走れメロス」は中学校の教科書すべてに掲載されているため、全国の中学生のいわば必読の書とも呼べる作品となっている。
 特別展では、来館者全員に黒石高校情報デザイン科作成のポストカードがプレゼントされるほか、夏休み期間中には小・中・高校生を対象にした「太宰治と文豪の秘密ガイドツアー」を実施。他にも「あおもり文学ゼミ『教室で出会った作家と青森』」、朗読劇「教室で出会った太宰作品メドレー」などのイベントが行われる。入館無料。問い合わせは同館(電話017-739-2575)へ。

というわけで、同展の詳細。

令和4年度特別展「教室で出会った文学」

期 日 : 2022年7月16日(土)~9月19日(月)
会 場 : 青森県近代文学館 青森県青森市荒川藤戸119-7
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 7月28日(木) 8月25日(木) 9月14日(水)
料 金 : 無料

 学校で使用する国語の教科書には様々な文学作品が掲載され、時代とともに掲載される作品も変化してきました。その中で、今も昔も多くの人に親しまれている作品や作家が存在します。
 今回の特別展では、青森県出身者という視点から離れ、教科書に作品が掲載され続けてきた7人の作家❶森鷗外(もり・おうがい)❷夏目漱石(なつめ・そうせき)❸石川啄木(いしかわ・たくぼく)❹宮澤賢治(みやざわ・けんじ)❺与謝野晶子(よさの・あきこ)❻芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)❼高村光太郎(たかむら・こうたろう)を大きく取り上げ、青森県との意外な関わりについても紹介します。
 また、太宰治、三浦哲郎、寺山修司といった、教科書に作品が掲載されている青森県出身作家の関連資料や最新の教科書も展示します。

主な展示資料
 森鷗外   「中村範宛書簡」 「舞姫」初出雑誌 等
 夏目漱石  「安田秀次郎宛書簡」 前期3部作・後期3部作(初版含む初期の本)等
 石川啄木  「金田一京助宛葉書」3通(実物展示は7/16~8/24)等
 宮澤賢治  「雨ニモマケズ手帳(複製)」 『春と修羅』初版本 等
 与謝野晶子 「安田秀次郎宛書簡」 「自作短歌屏風」等
 芥川龍之介 『羅生門』再版本 『傀儡師』『芋粥』初版本 自筆短冊 等
 高村光太郎 『道程』初版本 「桂月メダル」(レリーフ) 自筆色紙 等
 教科書掲載の太宰治、三浦哲郎、寺山修司関連資料と、新課程の教科書 等
 その他、初版本や初出雑誌、自筆資料等、多数展示します。
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関連行事

来館者にポストカードプレゼント
 今回の特別展のポスター及びちらしのイメージは黒石高等学校情報デザイン科に制作していただきました。来館者の方々に、黒石高等学校情報デザイン科制作のイメージが印刷されたポストカードをプレゼントします。
※イメージを複数制作していただいたため、各作品を使用したポストカード(数種類)をご用意しています。
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第2回あおもり文学ゼミ「教室で出会った作家と青森」 令和4年7月31日(日曜日)
 今回の特別展で取り上げる7人の作家について紹介し、青森との意外な関わりを解説する講座です。
 時間:14時00分から15時00分
 会場:青森県立図書館4階研修室
 講師:青森県近代文学館室長
 参加無料 事前申込不要 当日は会場へ直接お越しください。

朗読劇「教室で出会った太宰作品メドレー」 令和4年8月21日(日曜日)
 津軽地方を中心にドラマリーディング(朗読劇)上演活動を続けている声優劇団「津軽カタリスト」が、教科書に掲載されてきた「走れメロス」や「葉桜と魔笛」等、太宰治の作品の朗読劇を行います。
 時間:14時00分から15時20分
 会場:青森県立図書館4階集会室
 当日はYouTube( 津軽カタリストのチャンネル )でLIVE配信も行います。
 観覧無料 事前申込不要 当日は会場へ直接お越しください。

夏休み企画「太宰治と文豪の秘密ガイドツアー」
 夏休み期間中(7月22日~8/23日)、毎日3回ずつ、対象年齢に合わせた展示の解説を行います。
 小学生 10時~  中学生 14時~  高校生 16時~
 ※この時間以外にも、ご希望に応じて解説いたします。
 ※保護者や教職員、一般の方もご参加いただけます。

というわけで、主に若い世代を対象とした感じですが、はるか昔に「教室」を巣立たれた皆様もぜひどうぞ(笑)。

光太郎に関しては、まず『道程』初版本。大正3年(1914)、200部ほど自費出版で作られ、光太郎によれば、嘘かまことか、書店を通じてきちんと売れたのは七冊だけだったそうで、現在残っているものは、光太郎が友人知己に献呈したものがほとんどと考えられます(当方も一冊持っていますが)。それでも残本が多く、中身はそのままに奥付と外装を換えて何度か刊行されました。国会図書館さんのデジタルデータで公開されているものは、大正4年(1915)の改装本です。オリジナルの形で残っているものは、刊行後に関東大震災や太平洋戦争があったことを考えると、数十冊あるかないかと思われます。
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「桂月メダル(レリーフ)」。昭和28年(1953)10月、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際に関係者に配付されたもの。小品ではありますが、完成作としては光太郎最後の彫刻作品です。
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それから、「自筆色紙」。こちらは詳細不明です。やはり「乙女の像」の関連で、現地の関係者に揮毫して贈呈したものかな、と思われます。

それから「等」。光太郎本人の書ではありませんが、詩「道程」を大書した作品が展示されている模様です。
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ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

十和田休屋によき敷地を見つけて台石建設の万般の手筈を終わりし由、

昭和28年(1953)8月19日の日記より 光太郎71歳

「乙女の像」についてです。原型は既に完成していましたが、設置場所は宙に浮いた格好になっていました。というのも、元々この事業に関わっていた地元の怪しげなボスと旧厚生省の外郭団体のドンが、プロジェクトから外される形となり、その腹いせに当初建設予定地の子の口(ねのくち)への設置はまかり成らん、と、横槍を入れてきたためです。いつの時代にもこういう輩がいるのですね(笑)。

それに対し、像を含む公園全体の設計を担当した建築家・谷口吉郎、光太郎の身の回りの世話等も行っていた詩人の藤島宇内が再度十和田湖に出向き、現在の設置場所である休屋御前ヶ浜にいい感じの場所を見つけ、交渉を済ませてきたというわけです。

7月16日(土)付『福島民報』さんから。

【写真展138億光年宇宙の旅】③人類宇宙探査の集大成

004 福島市のとうほう・みんなの文化センター(県文化センター)で十六日開幕する写真展「138億光年 宇宙の旅」は、高精細の天体写真で星空の美しさを伝える。監修する国立天文台上席教授渡部潤一さん(会津若松市出身)が見どころを寄稿した。

「ほんとの空がある」
 高村光太郎の妻・智恵子が、住んでいた東京にはなくて、故郷の二本松市だけに「ほんとの空」があると語った言葉から生まれた、『あどけない話』という詩である。福島にはまだ「ほんとの空」が残されている。それは夜の方がわかるかもしれない。東京では星座も結べないほど星が見えないが、福島では市街地を離れれば、まだまだ満天の星が見られるからだ。
 そんな「ほんとの空」のある福島には星を見に来る人も多いが、この夏は拍車がかかるかもしれない。最新の宇宙の写真展が福島市で開催されるからだ。展示されるのは、本紙のみんぽうジュニア新聞などでもしばしば紹介してきた驚くべき宇宙画像の数々。それらは現代の最新の観測装置群、例えばNASA(National Aeronautics and Space Administration、アメリカ航空宇宙局)のハッブル宇宙望遠鏡や数々の惑星探査機、日本の国立天文台がハワイに設置しているすばる望遠鏡や、欧米と共にチリに建設したアルマ望遠鏡など、世界中の最新鋭の望遠鏡群が撮影した画像だ。
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 百三十八億光年かなたの、宇宙の果てのかすかな銀河から、太陽系の惑星までさまざまな時間・空間スケールの異なる天体が並ぶ。美しさと鑑賞性を重視し、選び抜かれた画像群だ。宇宙から見た地球や立体的なオーロラなどの自然現象、人類の存在を示す夜景や人工建設物の造形、探査機が明らかにした驚くべき惑星の素顔の数々、そして何よりも芸術のような深宇宙の天体群の数々。可視光だけでなく、目に見えないエックス線から紫外線、赤外線までカバーして作られた疑似カラー合成画像は、美しさだけでなく、人類の宇宙探査の集大成でもある。
 これら深宇宙の天体の数々をたどり、百三十八億年の宇宙の歴史を感じていただくとともに、宇宙の中の地球という惑星に生きていることの奇跡を実感してもらえれば幸いである。

 わたなべ・じゅんいち 1960(昭和35)年、会津若松市生まれ。会津高、東京大理学部天文学科卒。東京大の大学院、東京天文台を経て、国立天文台上席教授を務めている。専門は太陽系小天体(すい星、小惑星、流星など)の観測的研究。国際天文学連合の惑星定義委員として準惑星のカテゴリーをつくり、冥王星をその座に据えた。2018(平成30)年から国際天文学連合副会長を務めている。61歳。

写真展「138億光年 宇宙の旅」についても、同紙から。

論説 【宇宙の旅写真展】地球いとおしむ機会に

 百億光年以上も離れた星々に間近に接し、想像力は果てなく広がる。きょう十六日から八月二十一日まで福島市のとうほう・みんなの文化センター(県文化センター)で開かれる写真展「138億光年 宇宙の旅」は、人類の英知を集めた最新画像で見る人を無限の時空へいざなう。地球や自らの存在を考える貴重な機会になる。
 写真展は、日本を代表する天文学者で国立天文台上席教授の渡部潤一さん(会津若松市出身)が監修した。米国航空宇宙局(NASA)をはじめ、世界の宇宙望遠鏡、惑星探査機などが捉えた写真百二十五点を大型の高品位銀塩プリントで紹介する。激しく噴き上がる太陽のプロミネンス(紅炎)、わし星雲の「創造の柱」と呼ばれる神秘的な領域など、多様な天体の姿が見られる。百三十億光年以上の距離にある銀河の写真も公開される。
 地球を捉えた写真の数々にも注目したい。月の地平線から浮かび上がる「地球の出」は、水と生命を湛[たた]える麗しさに息をのむ。地球は今、気候変動による環境破壊が進む。感染症や戦火にも脅かされている。持続可能な存在にするための国際目標(SDGs)がうたわれている。写真を通して県民が自分事と捉え、SDGsへの意識を日常の行動につなげるきっかけになればと願う。
 渡部さんは十五日付本紙への寄稿で、「福島にはまだ『ほんとの空』が残されている。それは夜の方がわかるかもしれない」と思いを伝えている。美しい満天の星空を末永く守るためにも、一人一人の心がけは欠かせない。
 宇宙航空研究開発機構(JAXA)の探査機はやぶさ2が小惑星りゅうぐうから持ち帰った砂などの試料に、「生命の源」ともいわれるアミノ酸が含まれていると分かり、世界を驚かせた。会津大や複数の県内企業がはやぶさ2のプロジェクトに深く関わっている。会場では、はやぶさ2の二分の一模型や、県内企業が手がけた人工クレーターをつくる衝突装置なども紹介される。未知の領域に挑む県人の潜在力も感じてほしい。
 渡部さんは「深宇宙の天体の数々をたどり、百三十八億年の宇宙の歴史を感じていただくとともに、宇宙の中の地球という惑星に生きていることの奇跡を実感してもらえれば」とも期待した。人種や国籍を問わず、誰もが同じ奇跡の上にあると知れば、互いを慈しむ心は深まる。未知なる宇宙の深淵[しんえん]に触れ、現在と、これからの地球を見渡す視界も広げたい。

同展詳細はこちら。

写真展 138億光年宇宙の旅-驚異の美しさで迫る宇宙観測のフロンティア-

期 日 : 2022年7月16日(土)~8月21日(日)
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 7/25(月)・8/8(月)
料 金 : 一般 1,200円 中高生 900円 小学生 600円

関連行事<講演会>
 講師 渡部潤一(国立天文台 上席教授)
 日時 7/23(土)13:30~15:00
 場所 2階会議室
 定員 200名(先着順)※定員になり次第締め切り
 申込 メールにて jigyo@fukushima-minpo.co.jp
    ※郵便番号、住所、氏名、年齢、電話番号を明記のうえお申込みください。
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コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃平凡社の美術全集よりくる、エジプト彫刻のグラビヤ解説4枚20日〆切、

昭和28年(1953)8月7日の日記より 光太郎71歳

この年9月5日発行の『世界美術全集 第4巻 古代エジプト』のための原稿です。

光太郎はプリミティブなエジプト彫刻の美を愛しました。欧米留学中の明治40年(1907)から翌年にかけ、ロンドン滞在中に大英博物館でエジプト彫刻をよく観ていたそうです。

それにしても、突然、書け、といわれても書けてしまうあたり、舌を巻かされます(笑)。
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