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光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村にある高村光太郎記念館さんでの企画展です。

令和5年度高村光太郎記念館企画展「光太郎と吉田幾世」

期 日 : 2023年10月5日(木)~11月30日(木)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円 高村山荘は別途料金

吉田幾世は盛岡友の会生活学校(現盛岡スコーレ高等学校)の創始者です。高村光太郎と吉田幾世の関わりについて写真や掛け軸などの資料とともに紹介します。
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 2023年11月2日(木) 10:00~12:00 高村光太郎記念館第一展示室
 講師 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
 高村光太郎と吉田幾世の交流について解説。

 申し込み締め切り日 10月20日(金)
 定員をこえる場合は抽選となります。
 定員に達しない場合は、定員に達するまで引き続き募集いたします。
 次のいずれかの方法でお申し込みください。
 高村光太郎記念館(0198-28-3012)へお電話ください。
 専用申込フォームへアクセスし、必要事項をご入力のうえ、ご送信ください。

吉田幾世(大正元年=1912~平成15年=2003)は、盛岡出身の教育者。戦前に羽仁吉一・もと子夫妻が東京東久留米に創設した自由学園に学びました。卒業後、昭和7年(1932)に郷里に帰ってから、羽仁夫妻の創刊で、明治末から光太郎が数多くの寄稿をした雑誌『婦人之友』の友の会盛岡支部の仕事なども行いました。その流れの中で、吉田は友の会のメンバーと共に、昭和8年(1933)、「盛岡友の会生活学校」(現・盛岡スコーレ高等学校さん)を開校させ、自由学園の精神を受け継ぐ岩手女子教育の新生面を担うこととなりました。

戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に光太郎が移住すると、吉田は『婦人之友』に光太郎の寄稿を仰ぐべく山荘を訪れ、以後、学校ぐるみでの光太郎とのさまざまな交流が続くことになります。吉田が生徒たちを引き連れて光太郎の山小屋を訪れたり、光太郎が盛岡の同校で講演を行ったり、さまざまなアドバイスをしたりと。

そうした交流についての紹介、それから光太郎から吉田や同校などに贈られた書、当時の古写真などを展示します。当方、展示パネルおよびフライヤー裏面の解説文を執筆いたしました。

特に書は、新たに確認されたこれまで未公開のものの展示も。こういう書を書いた、という記録は残っていたものの、その現物が確認できていなかった作品が含まれ、「こんなものも見つかった」という報せと共に市役所さんから送られてきた画像を見て仰天しました。

11月2日(木)には関連行事としての当方の講座があります。今回、参加資格に花巻市在住とか勤務とかの縛りが特に無いようなので、ぜひどうぞ。もちろん展示のご高覧も、です。

【折々のことば・光太郎】

毎日お送りの書きものは面白くよんでゐますが一々御返事は書きません、御ゆるし下さい、

昭和14年(1939)8月20日 野澤一宛書簡より 光太郎57歳

野澤一は山梨県出身の詩人。昭和4年(1929)から同8年(1933)まで四尾連湖畔に独居生活を送り、そののち上京。なぜか面識がなかったと思われる光太郎に対し膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けました。その数300通超、一通が3,000字を超えることもありました。光太郎、ある意味辟易しながら、それを面白がってもいました。

智恵子の故郷・福島二本松でのイベントです。

観月の宴~十五夜~

期 日 : 2023年9月29日(金)
会 場 : 二本松市市民交流センター 福島県二本松市本町二丁目3-1
時 間 : 18:00~19:30
料 金 : 500円(お茶菓子代)

十五夜の当日に、抹茶と和菓子を楽しみながら、箏(こと)の音色と共に月見をいたします。「ほんとの空」に輝く仲秋の名月を眺めてみませんか?

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直接は光太郎智恵子には関わらないと思いますが、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を使われては、紹介しないわけにはいきません(笑)。

ただし、定員30名、既に埋まっているという話でした。それでもキャンセル等あるかもしれませんので、一応。

今年の十五夜は9月29日(金)なのですね。智恵子が亡くなった昭和13年(1938)の十五夜は智恵子葬儀の執り行われた10月8日だったようで、その日の模様を後に回想して謳った詩「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)の最終行は、「外は名月といふ月夜らしい。」でした。何だか智恵子がなよたけのかぐや姫のように、月へ帰っていったような気がします。

当日、晴れるといいですね。

【折々のことば・光太郎】

おたよりと桃一箱昨日頂戴、まことに忝く存じました、今年はお盆にも別に何もいたしませんが、智恵子が好きだつた桃を見て感慨に堪へません、早速智恵子に供へました、まだ小生智恵子が死に去つたといふやうな気がしません、この桃も一緒に食べるやうな気がします、


昭和14年(1939)7月10日 水野葉舟宛書簡より 光太郎57歳

光太郎、智恵子の陰膳的にビールをコップ二つに注いでおくと、いつのまにかそちらも無くなっているという回想を残しています。絶対、自分で飲んで居るんですけれど(笑)。

光太郎の盟友の一人、岸田劉生について、一昨日の『朝日新聞』さん夕刊の週一連載「美の履歴書」で大きく取り上げられました。現在、六本木の泉屋博古館東京さんで開催中の「楽しい隠遁生活―文人たちのマインドフルネス」出品作「塘芽帖」の紹介で、ちらりと光太郎の名も。

美の履歴書:814「塘芽帖」岸田劉生 秋の日、思い巡らすのは

 濃厚でグロテスクな麗子像で知られる、画家の作品とは思えない。ささっとした筆致で、肩の力を抜いて描いたような印象だ。舞台は、作者の岸田劉生が鎌倉に構えた画室「塘芽庵」。秋の日、ほおづえをつき、物思いにふける自身の姿を描いている。
 季節の移ろいに心境を託して作られたこの画帖(がじょう)には、南画風のツバキやタケノコ、ナスなどの絵もある。「塘芽」とは、中国画(唐画)を収集した劉生の雅号だ。
 本作は孤独や憂愁がにじみながら、自然に囲まれた静謐(せいひつ)な環境での思案に穏やかさも感じる。「冬臥(とうが)山人」(冬に寝てばかりいる)「冬瓜(とうがん)山人」(冬瓜ばかり描いている)と、言葉遊びをしながら、自らを揶揄(やゆ)。さらに「飽画(ほうが)山人」とまで書いている。
 つまりは、「絵に飽きた」。ただ、泉屋博古館東京の野地耕一郎館長は「描く意欲はまだまだ持ち続けていたのでは。巻き返しを図ろうとしていた時代の産物だと思う」と話す。
 関東大震災で被災し、京都へ移った劉生は、美術作品を買いあさり、茶屋遊びにおぼれ、生活や制作に支障をきたす。そんな状況を一新して再起を図るため、1926年に引っ越したのが鎌倉だった。野地さんは、冬臥山人などと自身を笑っているところについても、「自分を外側から冷たく見ている。劉生の成長や成熟、酸いも甘いもかみわけ始めたところを感じます」。
 これは28年ごろの作品とみられる。翌29年に中国東北部を訪れ、意欲的に創作した油彩の風景画は温かみがある。新たな境地へ、何かをつかみかけていた時期だったのだろう。だが同年、体調を崩していた劉生は、帰国して急逝する。38歳だった。

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美の履歴書
・名前 塘芽帖
・生年 1928年ごろ
・体格 縦33.3㌢×横48.1㌢
・素材 紙本墨画着色
・生みの親 岸田劉生(1891~1929)
・親の経歴 東京・銀座生まれ。独学で水彩画を描き始め、黒田清輝の主宰する白馬会葵橋洋画研究所で本格的に洋画を学ぶ。雑誌「白樺(しらかば)」で紹介されたゴッホらポスト印象派の作品に衝撃を受ける。1912年に高村光太郎らとヒュウザン会を設立した。15年には木村荘八や椿貞雄らとともに草土社を結成。春陽会にも名を連ねた。デューラーや北方ルネサンスの写実的な作品に傾倒したり、浮世絵や中国絵画に学んで東洋的な油彩画や日本画を手がけたりと、画風が変遷。娘の麗子をモデルに描いた。中国東北部への旅行から帰国後、山口県で死去。
・日本にいる兄弟姉妹 東京国立近代美術館や京都国立近代美術館などに。
・見どころ 「冬瓜山人」とあるように、劉生はトウガンをモチーフにした静物画をいくつも描いた。実際、円窓がある鎌倉の画室で撮影された、ほおづえをつく劉生の写真がある。


紹介されている作品は令和元年(2019)、東京駅構内の東京ステーションギャラリーさん他を巡回した「没後90年記念 岸田劉生展」に出品されて拝見しました。それまで劉生の日本画についてはほとんど存じませんで、ああ、こんな絵も描いていたんだ、という感じでした。

記事にある「トウガンをモチーフにした静物画」はこちらなど。
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劉生というと、ポスト印象派風の「道路と土手と塀(切通之写生)」や、なぜか題名が「智恵子抄」だと勘違いされている「麗子」シリーズなどが有名ですが、これはこれで劉生の一境地ですね。
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円窓がある鎌倉の画室で撮影された、ほおづえをつく劉生の写真」はこちら。
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『朝日』さんの「美の履歴書」、取り上げられるのはマイナーな作家や「作者不明」というものも多く、劉生クラスのメジャーどころだと今回のようなあまり有名ではない作品にスポットが当てられるケースがほとんどです。ぜひとも光太郎や父・光雲、実弟・豊周なども取り上げていただきたいところですが……。

【折々のことば・光太郎】

おてがみ拝見して驚きました。二三日考へてゐましたがどうも弱りました、此は当然横山大観氏あたりが引きうけるものではないでせうか、もう一度お考へ下さい、

昭和14年(1939)1月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎57歳

茨城取手の長禅寺に建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」題字揮毫に関わります。碑の揮毫というと、既に昭和11年(1936)、花巻に建てられた宮沢賢治(ちなみに今日が命日)の「雨ニモマケズ」碑の揮毫をしていますが、芋銭とはおそらく面識も無かったのではないかと思われ、一旦は固辞しました。しかし結局は三顧の礼を尽くされて引き受け、この年6月には除幕となりました。
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光太郎の揮毫は題字のみです。

花巻グルメ系、2件ご紹介します。

まず、光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」として月イチで出店されている花巻市土沢地区の「ワンデイシェフの大食堂」さん。9月13日(水)がご出店日でした。

かつて光太郎が実際に作ったメニューを現代風にアレンジしたり、光太郎が使った食材を取り入れたりしたメニューは以下の通り。

栗ご飯、アンチョビサンド(軽くトーストしたバケットにレタス・チーズ・ドライトマトをのせアンチョビソースとオリーブオイル)、ピーマンの肉詰め(人参・コーン・エリンギを細かいサイノメに切り和風だしのあんかけに)、林檎とナッツのサラダ(リーフレタスに皮つきのリンゴを刺してオシャレに盛り付け)、夕顔のポトフ(大きめに切った夕顔に鶏の旨味が染み込ませ)、ゴーヤの佃煮、舞茸スープ、お新香、コーヒーゼリーサンデー(寒天とコーンフレークの食感も加えアイスとチョコソース・バナナ・ポッキーのトッピング)、お茶(煎茶にミントを加えて煎れたモロッコ風ミントアイスティー)。
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専門の料理人でない皆さんがここまで作るか、という感じですね。

9月15日(金)には、道の駅はなまき西南さんでの豪華弁当「光太郎ランチ」の販売もありました。
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こちらのメニューは以下の通り。

栗ご飯、そば粉クレープ鶏照りレタス、牛肉入りジャガバタ炒め、里芋と厚揚げの煮物、塩麹入り卵焼き、きゅうりとトマトの酢の物、蒸しかぼちゃのごまかけ、舞茸当座煮、糠漬け、フルーツ。

どちらにも光太郎が好んだ栗ご飯や舞茸が入っています。秋ですね。

それぞれ末永く愛されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の死は小生にとつてかなりひどい打撃ですがしかし遠からず平常の常態に復して今度は猛烈に仕事に専念しようと考へてゐます、四十九日がもうぢきです、

昭和13年(1938)11月16日 更科源蔵宛書簡より 光太郎56歳

智恵子の死にも不屈の光太郎。しかし前年に始まった日中戦争は既に膠着化、挙国一致体制が求められ始め、彫刻も詩作も自由には出来なくなっていきます。

「絵手紙」の創始者、小池邦夫氏が先月末に亡くなりました。今月初めには訃報が出たようですが、気づきませんでした。今朝の『朝日新聞』さん一面コラム「天声人語」に氏が亡くなったことが書かれていて知った次第です。

共同通信さん配信記事。

書家の小池邦夫さん死去 絵手紙を普及、82歳021

 手がきの素朴な絵と文字で心情を伝える絵手紙の普及に努めた書家の小池邦夫(こいけ・くにお)さんが8月31日午後3時57分、胃がんのため東京都狛江市の自宅で死去した。82歳。松山市出身。葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。喪主は妻恭子(きょうこ)さん。後日、お別れの会を開く予定。
 東京学芸大書道科で学び、1985年に日本絵手紙協会を設立。「ヘタでいい、ヘタがいい」を合言葉に絵手紙の普及に励み、初心者の指導にも力を入れた。2021年に文化庁長官表彰。著書に「小池邦夫絵手紙50年」など。

小池氏故郷のテレビ愛媛さん。

絵手紙の創始者 松山出身の小池邦夫さん 胃がんのため死去 葬儀は近親者で

絵手紙の創始者で松山市出身の小池邦夫さんが、8月末に亡くなっていたことが5日までに分かりました。82歳でした。
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小池さんは8月31日に胃がんのため都内の自宅で亡くなりました。82歳でした。葬儀は近親者のみで執り行われる予定です。
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小池さんは松山市生まれで松山東高校から東京学芸大学へ進学。19歳から絵手紙を描き始め1985年に日本絵手紙協会を設立し、テレビなどによる発信で全国に文化を広げました。
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また2021年には文化の振興に貢献したとして文化庁長官表彰を、去年は松山市文化スポーツ栄誉賞を受賞していました。
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小池さんの絵手紙はその時々に感じた感動を素直に表現。思いがそのまま相手に伝わるのが特徴でした。
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日本絵手紙協会は「故人の遺志を引き継ぎ、絵手紙の普及活動に取り組む」としています。

氏が主宰されていた日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。氏が光太郎ファンだったようで、繰り返し光太郎特集を組んで下さいましたし、平成29年(2017)6月号から令和2年(2020)3月号まで「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されていました。
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また、氏の編著等でも、光太郎の絵手紙をご紹介下さったりも。

『心を贈る絵手紙入門』(平成11年=1999 日本放送協会出版)。当時のNHK教育テレビで放映されていた「趣味悠々」のテキストです。
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『芸術家・文士の絵手紙』(平成16年=2004 二玄社)。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

智恵子葬儀も無事終了、明日は早や三七日となりました、明日は春子と一緒に墓参をいたします、


昭和13年(1938)10月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎57歳

智恵子実母に宛てた書簡から。「春子」は智恵子の姪にして、当時の一等看護婦の資格を持ち、南品川ゼームス坂病院で智恵子の付き添いを務めた長沼春子です。

葬儀は10月8日、駒込林町のアトリエ兼住居で執り行われました。その様子を謳った詩。約3年後、詩集『智恵子抄』刊行に際し、書き下ろされました。
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   荒涼たる帰宅

 あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
 智恵子は死んでかへつて来た。
 十月の深夜のがらんどうなアトリエの
 小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
 私は智恵子をそつと置く。
 この一個の動かない人体の前に
 私はいつまでも立ちつくす。
 人は屏風をさかさにする。
 人は燭をともし香をたく。
 人は智恵子に化粧する。
 さうして事がひとりでに運ぶ。
 夜が明けたり日がくれたりして
 そこら中がにぎやかになり、
 家の中は花にうづまり、
 何処かの葬式のやうになり、
 いつのまにか智恵子が居なくなる。
 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
 外は名月といふ月夜らしい。

画像は最近流行りのモノクロ画像をカラー化するアプリで作ってみました。

昨日、別件でご紹介した『広報はなまき』9月15日号からもう1件。

いいトコ発見! 地域おこし協力隊 自分の内から出る自由なものを大切に‐学びの場を通した地域のつながりを作る。国内外の文化交流を推進する‐ 森川沙紀

「協力隊の任期3年間、あなたのワクワクすることだけをしてください」
 昨年着任時のあいさつ回りをしていた際、ある人に言われた言葉です。自分が楽しんでいることは必ず相手にも伝わる―そう信じ、毎日協力隊の活動をしています。
 大学の専門が英語で米国に5年間留学していたため、私は英語を生かして地域の人たちとつながりを作りたいと考えています。
    昨年度は詩人・彫刻家で晩年の7年を花巻で過ごした、高村光太郎の談話筆記「花巻温泉」を英語に翻訳しました。本年度は米国の女性詩人エミリー・ディキンソンと宮沢賢治について学ぶ講座の開催、市内の保育園で英語の歌と絵本の読み聞かせなどを行っています。
 協力隊の活動は自由ですが、見たこ
と聞いたこと全て勉強になり無駄なことは一つもありません。全てがつながっている、影響・呼応し合っている―協力隊2年目に学んだことです。
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高村光太郎の談話筆記「花巻温泉」を英語に翻訳」についてはこちら

昨年5月から花巻市の地域おこし協力隊員として活動されている森川沙紀さん。大阪のご出身だそうですが、「大学の時、岩手出身の友人に花巻を案内してもらい自然豊かな花巻が大好きになりました。いつか花巻に移住したいと思い15年、ようやく夢が叶いました」だそうで。いろいろ御苦労もあるかと存じますが、さらなるご活躍を期待いたします。

もう1件、『日本経済新聞』さんの岩手版から。宮沢賢治実弟・清六の令孫たる宮沢和樹氏へのインタビューです。

「雨ニモマケズ」は祈りの言葉 商業化には思い尊重を 宮沢和樹・林風舎社長 賢治没後90年 イーハトーブの経済㊦

014 賢治作品を現在私たちが読めるのは、賢治の弟、宮沢清六の存在が欠かせない。賢治の死後も原稿の詰まった「兄のトランク」を守り、高村光太郎らの力を借りながら出版社に作品を売り込んだ。清六の孫で賢治の商品を扱う林風舎(岩手県花巻市)社長の宮沢和樹氏は今も愛唱される「雨ニモマケズ」は「賢治の祈りの言葉だった」と語る。

――賢治の残したメッセージは現代的です。先見の明でしょうか。
「ちょっと違う。予言者とも違う。科学の知識と法華経がベースにあった。盛岡高等農林学校では地質を学び、半分はフィールドワークだった。どちらかというと理系人間で、今もし尋ねられたら自分のことを地質の専門家と答えたと思う」

――「石っこ賢さん」と呼ばれていたそうですね。有名な「雨ニモマケズ」もその中から生まれた?
「これは自分に向けて書いた言葉だ。原稿用紙に書いていないので作品ではない。『丈夫ナカラダヲモチ欲ハナク』と述べた後に『サウイフモノニワタシハナリタイ』と書いた。そういうものに自分はなっていないということだ。祈りの気持ちだったのだろう」

林風舎(岩手県花巻市)の社名は賢治作品「北守将軍と三人兄弟の医者」の登場人物からとった

――賢治そのものがビジネスになっているという指摘があります。
「ビジネス化は大事なことだ。映画やアニメ、美術、演劇、音楽に広がっている。宇宙飛行士の毛利衛さんや野口聡一さん、水沢VLBI観測所(岩手県奥州市)の本間希樹所長も賢治ファンを公言してくれている」 「ただ商品を売るための看板としてしか考えていない人とは全然違う。作品の著作権は切れているが、かつて(私たちの意向を無視して賢治を商業利用された今そこまでされることはなくなった。人格や思いを尊重して使うことには賛成だ」

――スタジオジブリ作品にも影響を与えています。
「アニメ映画『セロ弾きのゴーシュ』を監督した高畑勲さんや鈴木敏夫さんと祖父は何度も会っている。『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』など多くの作品に賢治の世界を感じることができる。祖父は賢治のプロデューサーだった」

――岩手ではソーシャルビジネスの起業も盛んです。
「盛岡高等農林の卒業生で海外に出て地元に学校を作ろうとした人もいた。農業の6次産業化が言われるが、当時生産が大変だった納豆の加工の起業に高等農林は関係している。賢治と同級生だった成瀬金太郎の後継者による納豆生産は今も続いている」

――全国植樹祭で天皇陛下が賢治の「虔十」に言及されました。
「賢治さんもここまで来たんだなあと式典会場で思った。『虔十公園林』に『ああ、全く誰が賢く、誰が賢くないかはわかりません』というくだりがある。賢治が虔十に託して語ったように、そのときには皆に認められず、後にならないと価値がわからないこともたくさんある」

記者の目 生前に作家や詩人としてほぼ無名だった賢治が長命だったらと想像せずにはいられない。起業家や社会活動家になっていただろうか。SNSを駆使して情報発信をしていたかもしれない。 賢治の生年と没年には津波が三陸沿岸を襲った。スーパー台風や大雨、山火事、沸騰する地球。「地質の専門家」なら、人類の活動が地球史で無視できないほど大きくなった「人新世」という時代へのヒントをきっと示したはずだ。

和樹氏とは今年2月、光太郎がかつて暮らした花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)の太田地区振興会さん主催で行われた公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」でご一緒させていただきました。

そちらが好評だったということで第2弾が企画されています。まだ細かな情報が公開されていませんが、11月1日(水)、会場は宮沢賢治イーハトーブ館ホールだそうです。

今回は和樹氏、そして先述の森川沙紀さん、さらに生前の光太郎をご存じの複数の方々にパネラーとなっていただき、当方はコーディネーター。いろいろと興味深いお話が聞けるのではないかと思っております。詳細が出ましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

智恵子はとうとう昨夜病院で亡くなりました、 昨夜遺骸を自宅に連れてきました、 あはれな一生だつたと思ひます、


昭和13年(1938)10月6日 難波田龍起宛書簡より 光太郎56歳
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直接の死因は長く煩っていた粟粒性肺結核でした。

光太郎令甥の故・髙村規氏(光太郎実弟・豊周子息)の回想に依れば、まだ存命ということにして、南品川ゼームス坂病院から駒込林町の光太郎自宅兼アトリエまでタクシーで運んだそうです。当時でも遺骸を運ぶには霊柩車等の使用が義務づけられていたのでしょうが、それは面倒だと。

規氏回想から。

 だいぶ前のことですが、銀座で高村光雲の木彫の写真展をやった時に千葉の方から電話がかかってきましてね。僕が電話に出たら「あなたは私のことを知らないでしょうけれども藍染橋って言えばわかるでしょう」って言うから、「ああ、よく知ってますよ」って。「そこの角で根津神社のすぐそばなんですが、僕はあの当時智恵子さんが亡くなった時、ハイヤー会社をやってたんですよ。僕は社長で運転手もやってたんです。あなたのお父さんはものすごく機転の利く人で、智恵子さんが亡くなった時、僕に「すぐ迎えに行きたいんだけど、ゼームス坂病院まで回してくれ」って頼まれた。僕はすぐゼームス坂病院へ行った。その時、あなたのお父さんが院長と親しかったせいもあるんだけど、機転を利かせて、智恵子さんを亡くなったことにしてなかったんだって。病気は病気だけれどもまだ生きてることにして、後ろの席へ座らせて帰って来たんですよ。光太郎先生とあんたのお父さんとお付きの人がいて、私が運転して」という話を聞きました。
 なんで亡くなった人をハイヤーに乗っけて帰って来られたのか長いこと不思議だなあって思ってたんですが、その電話でやっとわかったんですね。だからね、亡くなってなかったんですよ。実際には亡くなってたけれども、(『碌山美術館報』第34号 「碌山忌記念講演会 伯父高村光太郎の思い出」)

そのタクシー会社はおそらく「藍染タクシー」。斎藤という人物が社長さんでした。営業所の大家さんだった津谷宇之助という人物が、光太郎にゼームス坂病院を紹介したようです。

作曲家の西村朗氏の訃報が出ました。

「共同通信」さん配信記事。

作曲家の西村朗さん死去 オペラ「紫苑物語」

005 オペラ「紫苑物語」など多くの作品を残した作曲家の西村朗(にしむら・あきら)さんが7日午後8時12分、右上顎がんのため東京都内の病院で死去した。69歳。大阪市生まれ。葬儀は近親者で行った。喪主は妻優子さん。
 NHK・Eテレ「N響アワー」の司会、いずみシンフォニエッタ大阪や草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルの音楽監督を務めた。東京音楽大の教授として後進の指導にも尽力した。
 1977年、エリザベート王妃国際音楽コンクール作曲部門大賞。2013年紫綬褒章。
 19年には、新国立劇場の委嘱で作曲した新作「紫苑物語」が話題を集めた。

『朝日新聞』さん。

作曲家の西村朗さん死去 現代音楽で世界的活躍、N響アワー司会も

 現代音楽の作曲家で、「N響アワー」などの司会でも広く知られた西村朗(にしむら・あきら)さんが7日、右上顎(じょうがく)がんで死去した。69歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻優子さん。
 大阪市生まれ。東京芸大で矢代秋雄、野田暉行に師事。西洋音楽の語法に立脚しつつ、音高やリズムのずれによって多層的な響きを紡ぐ「ヘテロフォニー」の手法を確立した。
 代表作にインドネシアやモンゴルなど、アジア各国の民族の感性を縦横に採り入れた「2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー」など。クロノス・カルテットなど世界的なアーティストから新作委嘱を受け、ウィーン・モデルン音楽祭などで演奏されてきた。2019年、新国立劇場で石川淳の短編を原作にした新作オペラ「紫苑(しおん)物語」が大野和士の指揮で初演され、世界的な話題を集めた。
 武満徹作曲賞など数多くの審査員を歴任した。いずみシンフォニエッタ大阪、10年から草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルの音楽監督も務めた。軽妙な語り手としても知られ、NHK教育「N響アワー」の司会を09年から12年まで務め、現在もNHKFM「現代の音楽」の解説を務めていた。
 東京音大教授。エリザベート国際音楽コンクール大賞、尾高賞など受賞多数。
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西村氏、平成20年(2008)に関西合唱団さんの依嘱で「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」を作曲、同団の第73回定期演奏会で演奏がなされました。翌年には全音さんから楽譜が出版されています。

その後、平成30年(2018)の全日本合唱コンクール第71回大会高校Bグループ(33人以上の大編成)に出場した九州地区代表・鹿児島高等学校音楽部さんが第3曲「レモン哀歌」を歌われました。同部は一昨年の第74回大会では第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」でみごと銀賞に輝きました。

YouTube上に同部の演奏がアップされています。


楽譜集巻頭の氏による「作品解説」。

 関西合唱団の委嘱により作曲。この組曲は、私としては初めて高村光太郎の詩をテキストとして作曲した合唱曲です。ここに用いた詩はいずれも有名なもので、かなり以前から読み親しんでいたものですが、最近になって急に感ずるところが強く深まったものでもあります。ようやくにして詩境に理解が近づいたということかもしれません。
 光太郎(1883~1956)の生涯は日本近代の激動期とも重なっており、伝記などが示すとおり、一人の芸術家としてはその社会的な実生活環境と個人的な内的精神生活の両面において、特異なまでに複雑困難な一生を送ったと言えるでしょう。おそらく、その魂は一生を通じて安息の時を得ることはなかったと思われます。詩集「智恵子抄」(1941)、「典型」「智恵子抄その後」(1950)などには光太郎の魂の孤独と悲哀と絶望が鋭く表現されています。これらは単なる抒情詩集ではありません。より厳しく生と死と人間存在の孤独を描いたものです。晩年、敗戦後の虚脱を経ての隠遁生活のなかで、あるいは、かつてのその清らかな心を病んで先に旅立っていった愛妻、智恵子の思い出だけが老詩人の魂を救い、一点のレモンのように純化されていったのかもしれません。
 光太郎の没後半世紀、「心の時代」と言われて久しい今日ですが、しかしながら「時代の心」は一層貧しくなっているかにも思えます。光太郎の「レモン」は私たちの魂を救ってくれるのでしょうか。
 第1曲は海辺の風光の中での夢幻的な魂の孤独。異界からの千鳥の声と智恵子の遠景。第2曲は峻険な山塊のように残酷に分断されていく二つの意識。魂の呻くような叫びの断章。そして第3曲、レモン哀歌。祈り。


「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」、歌い継がれていってほしいものです。

謹んで氏のご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

【折々のことば・光太郎】

大層あたたかくなりました、皆様おかはり無い事と存じます、小生も元気で毎日仕事してゐます、先日病院へまゐりましたが今月も智恵子に会はずにかへりました、興奮するといけないと思つて案じられます、春先になるといつも悪くなるやうに思ひます、


昭和13年(1938)3月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎56歳

かつて智恵子が千鳥と遊んでいた九十九里浜に暮らす、智恵子の母宛の書簡から。

「家族との面会は興奮状態を引き起こすので控えてほしい」的な指示が智恵子入院先のゼームス坂病院の医師からあったのは確かですが、それにしても光太郎、面会する頻度が極端に落ちました。変わり果てた智恵子の姿を見るにしのびなかったのでしょうか。九十九里で療養していた昭和9年(1934)には、ほぼ毎週、見舞いに訪れていたのですが……。

智恵子は心の病以外にそれ以前から罹患していた結核も進み、余命約半年です。

まずは8月21日(月)、信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さんの一面コラム「みすず野」。このコラム、たびたび光太郎にふれて下さっていますが(今月4日にも)、またしても光太郎の名。

2023.8.21 みすず野

〈日本山岳史上、最大のハプニング〉は―現在の上高地帝国ホテルが開業した翌年―昭和9(1934)年8月21日に明神池で起きた。〈オカミさん事件〉と言い伝えられる(牛丸工さん著『内野常次郎小伝―上高地の常さん』)◆秩父宮妃殿下を「オカミさん」と呼んだのだから、大変だ。時は戦前。昭和天皇の弟宮のきさきである。お付きの人たちのうろたえぶりを松本出身の作家・山本茂実さんが『喜作新道』に〈この男は少しバカでございますから...〉と書いている。宮様の〈常さん、オカミさんでよろしい!〉の一声に一堂は胸をなで下ろす◆ウォルター・ウェストンと上条嘉門次の出会いに始まって、数々の登山家や芸術家―例えば高村光太郎に窪田空穂、近くだと『氷壁』の井上靖など―が上高地の名を広めた。もちろん人々の足を向けさせたのは山岳と清流がつくる景観だが、さまざまな人生があったことも語り継ぎたい◆偉業を成し遂げたわけではないけれど、伝わる無欲と天衣無縫の人柄から一服の清涼をもらう。常さんは〈少しバカ〉どころか、山本さんと牛丸さんも書いておられるように〈上高地の大恩人〉である。

まぁ、今回の光太郎は話のついで、的な感じですが(笑)。

それにしても、〈オカミさん事件〉。存じませんでした。ただ、フリー百科事典ウィキペディアの勢津子妃殿下の項にちゃんと記述がありますね。また、手元にある上高地関連の書籍や雑誌などを調べてみましたところ、やはり記載されていました。読み飛ばしていました。下記は令和2年(2020)発行の『山と渓谷』増刊号「最も美しい上高地」から。
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内野常次郎の名は『高村光太郎全集』に見あたりませんが、上條嘉門次の弟子だったということで、大正2年(1913)に智恵子と共に一夏を上高地で過ごした光太郎も会っていたかもしれません。嘉門次については光太郎、「信州上高地の強力嘉門次の四角な手の立派さにも打たれた。」(随筆「手」 昭和2年=1927)と書き記しています。「強力」は「きょうりょく」ではなく「ごうりき」ですね。

それにしても「オカミさんでよろしい!」と言われたという秩父宮親王の神対応、見事です。

これより以前の昭和3年(1928)、ご夫妻のご成婚に際し、光太郎が詩を寄せています。これもある意味、失礼な詩。題して「或る日」。

  或る日(昭和三年九月二十八日)000

 今日はあの人の結婚する日だ。
 秋が天上の精気を街(ちまた)に送る。
 こんな日に少女が人に嫁ぐのはいい。
 
 山でも一緒に歩きたいほど
 あのいきいきした好い青年が
 こんな日に少女(をとめ)の肌を知るのはいい。
 
 むづかしい儀式と荘厳とが
 あの二人を日ねもす悩ますさうだが、
 何もかもどしどし通過して
 結局二人きりになればいいのだ。
 
 さうしてこの初秋のそよそよする夜に
 二人一しょにねればいいのだ。

002宮様のご成婚ということが明記されていませんが、サブタイトルの「昭和三年九月二十八日」がその日ですので、それでわかるだろ、ということです。ただし、これは戦後になって『高村光太郎選集』(昭和28年=1953完結)に収められる際に付されたものらしく、光太郎の手元に残された草稿にはありません。初出発表誌が不明なので、確かめられませんが。

やはり戦後の昭和25年(1950)、この詩を雑誌『サンデー毎日』に転載させてくれ、という依頼があり、光太郎は承諾しました。ところが、発行された同誌を見て、仰天。挿絵が田舎の花嫁の輿入れ風景になっていたためです。このあたり、以前にも書きました

また、この詩以外にも、昭和28年(1953)、親王が50歳の若さで急逝された際、「悲しみは光と化す」(『朝日新聞』)という談話で、哀悼の意を表しています。国民に人気の高かった秩父宮雍仁親王には、光太郎も親近感を抱いていたようです。余談ですが、光太郎の歿後、当会の祖・草野心平が、そこから題名を拝借して、光太郎追悼文(新潮文庫版『智恵子抄』解説)を書いています。

閑話休題。上高地という場所、「みすず野」にあるとおり、本当にさまざまな人々の人生が交錯した場所なのだな、と、改めて思いました。実は当方、足を踏み入れたことがありませんで、いずれ、と思っております。

【折々のことば・光太郎】

父は今晩三時とうとう眠るやうに長逝しました。お葬式を十四日にするので今度参上するのは初七日をすませてからになるでせう。 ちゑさんの容態が気になりますが仕方がありません。


昭和9年(1934)10月10日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

光太郎の父・光雲が数え83歳の生涯を閉じました。智恵子は心を病んで、九十九里浜に移り住んでいた母親と妹夫婦の元に預けられています。義父の死が理解出来る状態だったかどうか……。

まず、8月19日(土)、『東スポ(東京スポーツ)』さんの配信記事から。紙面にも載ったのでしょうか。

泉房穂氏 還暦迎え〝岸田政治〟にズバリ「異次元なんて言葉遊び」「まやかしだ」

000  元兵庫県明石市長の泉房穂氏が19日、自身の「X」(旧ツイッター)を更新し、自身の誕生日に〝決意表明〟を行った。
 この日X(旧ツイッター)で誕生日を祝う風船が飛んだことについて「日付が変わり『風船』がいっぱい上がってきた。素直に嬉しい」と喜ぶと「昨日までの60年間、自分なりには精一杯生きてきた。〝人生1周目〟が終わり、いよいよ今日から〝人生2周目〟が始まる。皆さん、これからも引き続き、よろしくお願いいたします」とつづった。
 また誕生日を祝うコメントが多く届けられていることに「皆さん、「『お誕生日おめでとう』と『お祝い』をしていただき、ありがとうございます」と感謝の気持ちを明かすと「『明石の街を、やさしくしてみせる』との10歳の誓いを、人生1周目をフルに使ってやってきた。今日から人生2周目。『国の政治も、やさしく変える』との60歳の誓い。さて、変えるまでに何年必要なんだろう…」と投稿。60歳という節目に新たな誓いを立てたようだ。
 さらに、〝やさしく変える〟と誓った「国の政治」について「私は日本に政治がないと思う。ほんとの政治をしてほしいと思う。みんなは驚いて総理を見る。今の総理を選んだのは、昔ながらの汚い派閥政治だ。異次元なんて言葉遊びも、やってるフリのまやかしだ。私は国民の負担を気にしながら思う。国民のために、官僚や業界の反対を押し切ってでも決断して実行するのがほんとの政治だと思う」と自身の見解を示すと、ユーザーから大きな反響が寄せられている。

問題のポスト(「ツイート」という語はマスク氏によって滅ぼされましたね)がこちら
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言わずもがなですが、『智恵子抄』所収の光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)のリメイク。GB(グッジョブ)ですね(笑)。

しかし、『東スポ』さんに光太郎の名がなかったので、他の方から「東スポのこの記事書いた人、高村光太郎はおろか『智恵子抄』も読んだこともない、知らないんじゃないかと思ってしまった」という指摘。まさかそんなことはあるまい、とは思うのですが……。

泉氏も後追いのポストで……
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まぁ、以前には、歌手のサンプラザ中野くん氏が、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)オマージュで新社会人となる若者へのエールを送ったところ、氏のオリジナルだと思われて報道されたりネット上で絶賛されたりといったこともありましたが……。

ちなみに泉氏、もう1件「あどけない話」インスパイアを投稿なさいました。
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これもいいですね。

さて、とりとめのないこのブログ記事にオチを付けるため、智恵子の文章を。大正13年(1924)5月、雑誌『女性』に載った「総選挙に誰れを選ぶか?」の問いに対するアンケートの回答です。

もしあったら……リンカーンのやうな政治家を選びませう。日本にだつて一人ぐらゐ、正しい事のために利害なんかを度外に置いて、大地にしつかりと誠実な根を持ち、まつすぐに光りに向つて、その力いつぱいの生活をする喬木のやうな政治家があつてもいゝだらうとおもひます。さういふ政治家なら有頂天になつて投票することでせうとおもひます。

もしあったら」は投票権。戦前には女性の参政権がありませんでしたので。

ところが、この後は消極的な内容。

しかしうまくその時までに、私達がほんとに尊敬し信ずることの出来る政治家が出てくれなければ、棄権するよりほかないかとおもはれます。情実や術数の巣のやうな政党なんかてんでだめですね。

現代でもこのような考えでの棄権が多いのではないでしょうか。なんとかこの現状を変えていきたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

小生は七日には参上出来るでせう。それまでに嘉納治五郎先生の肖像を作つてしまふつもりでゐます。

昭和9年(1934)7月3日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

大正期にはしっかりした意見を雑誌に寄せていた智恵子も、心を病んで九十九里浜に移り住んでいた母親と妹夫婦の元に預けられています。

嘉納治五郎先生」は、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎師範。「肖像」は光太郎の父・光雲の代作として光太郎が作ったレリーフです。光雲は実在の人物の肖像や、カービングではないモデリング制作を苦手としていましたので、同様の例がいくつもあります。
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左端は、髙村家に残っていた原形からブロンズに鋳造したもの。10年前の「生誕130年彫刻家高村光太郎展」の際にお借りして出品しました。

中央と右は当方が入手したもの。おそらく頒布(販売?)用に量産されたもので、あまりいい出来ではありません。いわゆる「抜きが甘い」状態です。素材もブロンズではなく、もっと軽い金属。裏面のラベルを見ると、ニセモノでないことはわかるのですが……。

花巻グルメ系、2件ご紹介します。

まず、光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」として月イチで出店されているワンデイシェフの大食堂」さん。8月3日(木)が4回目のご出店でした。

メニュー的には、サーモンと彩り野菜のガレットロール、ローストビーフの温野菜添え、トマトと卵の炒め物、里芋のクルミかけ、オカワカメの酢の物、オクラのスープ、ごはん、お新香、ベイクドチーズケーキ、カフェドシトロン。これで1,000円だそうですから、安いものですね。
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用意なさった34食分、完売だったそうです。次回は9月13日(水)の予定とのこと。

同じくやつかの森LLCさんがメニュー考案にあたられ、
道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん内の「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。
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豆おこわ、揚げジャガイモと鶏肉の甘辛炒め、生節入り夕顔煮、かぼちゃ煮、塩麹入り卵焼き、わかめとミョウガの酢の物かぼちゃの花添え、白茄子とミニトマトのコンポート、お新香、それからメニューには印刷されていませんが、さつまいもの蒸しパンも。

「こうたろうカフェ」、「光太郎ランチ」ともども、かつて光太郎が作ったメニューを現代風にアレンジしたり、光太郎が使った食材を使用したりして作られています。

毎月のメニューを考えるのも大変だと存じますが、末永く続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

山であなた方がつまれた木の芽草の芽をめづらしくよみました。藤の芽、山吹の新葉が喰べられるといふ事ははじめて知りました。タラの芽は小生も大好きで今年も千葉の田舎でとつてもらつて喰べました。コゴメの葉も上州の山奥の「湯の小屋」といふ処で先年喰べて大変うまいものと思つた事があります。小生は山に住んだら不自由はしないと思つてゐますが、そんな想像は結局想像に過ぎないでせうか。


昭和9年(1934)5月18日 中込友美宛書簡より 光太郎52歳

中込友美は戦後、戦災孤児のために「久留米勤労補導学園」を創設した人物。この当時、信州松本在住だったようです。で、その地から送られた食べられる野草的な内容の書簡に対する返信です。

小生は山に住んだら不自由はしないと思つてゐますが、そんな想像は結局想像に過ぎないでせうか」。約10年後に、花巻郊外旧太田村の山小屋に住み、実際に山菜類を貴重な食料とすることになるとは思っていなかったことでしょう。

地方紙『福島民友』さんから。

日本人は星より月の文化 渡部潤一さん「季節ごと違い楽しんで」

000 国立天文台上席教授の渡部潤一さん(会津若松市出身)は17日、福島市で「日本人はいかに宇宙を愛(め)でてきたか」と題して講演し、日本人の宇宙への向き合い方について解説した。
 国際天文学連合(IAU)の「アジア太平洋地域の天文学に関する国際会議(APRIM)」が7~11日に郡山市で開催されたことを記念し、県文化振興財団が企画した。
 渡部さんは「日本は季節感が明瞭なため、方位や季節を知る目的で星を見る必要がなかった」とした上で「日本人は星よりも月の文化」と紹介。小説や短歌にも月が登場することに触れ「季節ごと、時間ごとの月の違いを楽しみ、積極的にめでてほしい」と語った。
 月への信仰にも触れ、江戸時代、旧暦23日と26日に人々が集まり、寝ずに月の出を待ち祈る「月待ち行事」が流行したと説明。県内にも行事を記念して造られた月待ち塔が数多く残るとし「オールナイトで大宴会したようだ。楽しみの一つだったのだろう」と思いを巡らせた。
 渡部さんは「県内は天文施設も充実しており、日新館天文台跡(会津若松市)などの貴重な史跡も残っている」と解説。詩人高村光太郎の詩集「智恵子抄」の「ほんとの空」を例に挙げ「福島にはほんとの夜空がある。月や星を見上げ、自由に思いをはせてほしい」と話した。

この講演会、福島県歴史資料館さんで開催中の企画展示「収蔵資料展 空を眺めて-江戸・明治時代の天文・大気現象など-」の関連行事だったとのこと。
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福島ご出身の渡部氏、昨年やはり福島市で開催された「写真展 138億光年宇宙の旅」(同氏ご監修)で「ほんとの空」の語を使って下さいましたし、郡山市ふれあい科学館さんで過去6回開催された「ふくしま 星・月の風景 フォトコンテスト “ほんとの空”のあるふくしまの星・月の風景をあなたの感性で捉えて下さい。」で審査員を務められたりもなさいました。

今後とも福島の「ほんとの空」の伝道師として、ご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

ちゑさんの病気はどうか気ながに御看護下さい。今度は二十一日に参上いたし一泊御厄介になつて二十二日に帰京したいと存じてゐます。薬もその時持参します。父の方は今の処かはりありません。


昭和9年(1934)5月16日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心の病の療養のため智恵子を預けた九十九里の智恵子実母宛。「」はホルモン剤の「オバホルモン」。ほとんど効果はなかったのではないかと思われますが……。「父の方」は、光太郎の父・光雲が胃潰瘍で帝大病院に入院していたことを指します。
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掲載日順にまず『毎日新聞』さん。俳人・坪内稔典氏による「季語刻々」という連載コラム、8月11日(金)掲載分です。

季語刻々 立山の秋に腰掛けかりんとう 鶴濱節子

「立山の秋に腰掛け」が雄大でいいなあ。かりんとうが実にうまそう。句集「始祖鳥」(2012年)から。この作者、私の近所に住むが、かつていっしょに立山に登った。俳句仲間に山好きがいて彼に先導されての登山だった。以来、節子さんは山ガールだ。「安達太良(あだたら)の智恵子の空へ登山道」も彼女の作。今日は山の日。

メインは立山連峰の句ですが、最後に智恵子のソウルマウンテン・安達太良山の句。言わずもがなですが、「ほんとの空」の語が使われた光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)へのオマージュですね。

続いて『山形新聞』さん。8月13日(日)の一面コラムです。

談話室

▼▽「新鮮なものになるとまったくうまい」。明治生まれの詩人・高村光太郎はこう綴(つづ)る。果物や野菜、肉魚ではなくビールの話である。注ぎたてのグラスをぐっと干す。酷暑で、夜ごと欲しくなるという方は多いだろう。▼▽いつ飲んでもうまいが最初の一杯の喉越しは格別だ。高村は一口目の感動を「いつでも初めて気のついたような、ちょっと驚きに似た快味をおぼえる」と記す。そんな爽快感を大勢で味わえるイベントが先日、山形市で開かれた。山形一小旧校舎が会場の「ビアナイト」だ。▼▽こだわりグルメの店もあったが、この日の主役は県内にある複数の醸造所が手がけるクラフトビール。中には県の花・紅花を使った山形らしさ満開の地ビールもあった。若い人のビール離れが言われているが、会場では友人同士や会社の同僚といった感じの若者が多かった。▼▽大量生産とは異なる個性的な味や香りがクラフトビールの魅力だろう。加えて多彩なラベルが目を引く。「取りあえずビール」ではない楽しさがいい。高村は1、2本でやめておくのが良さそうとも書いている。味わいを追求するには度を超えないこと。助言は今に通じる。

引用元は昭和11年(1936)に雑誌『ホーム・ライフ』に発表された随筆「ビールの味」。以前も抜粋でご紹介しましたが、再掲します。

小さなコツプへちびちびついで時間をとつて飲んでゐるのは見てゐてもまづさうだ。(略)ビールは飲み干すところに味があるのだから飲みかけにすぐ後からまたつがれてしまつては形無しである。(略)ビールの新鮮なものになるとまつたくうまい。麦の芳香がひどく洗練された微妙な仕方で匂つて来る。どこか野生でありながらまたひどくイキだ。さらさらしてゐてその癖人なつこい。一杯ぐつとのむとそれが食道を通るころ、丁度ヨツトの白い帆を見た時のやうな、いつでも初めて気のついたやうな、ちよつと驚きに似た快味をおぼえる。麦の芳香がその時嗅覚の後ろからぱあつと来てすぐ消える。すぐ消えるところが不可言の妙味だ。(略)二杯目からはビールの軽やかな肌の触感、アクロバチツクな挨拶のやうなもの、人のいい小さなつむじ風のやうなおきやんなものを感じる。十二杯目ぐらゐになるとまたずつと大味になつてコントラバスのスタツカートがはひつて来る。からだがきれいに洗はれる。(略)何でもさうだがビールも器物で味が違ふ。錫の蓋のついたいはゆるシユタインで飲むとコクが出る。薄手の大きいギヤマンもよし、キリコもいい。いつも無色透明なのがいい。一番飲み心地のいいコツプの大きさは四分の一リツトルくらゐであらう。ビールはうまいが、本当の味は一二本で止めて置く所にあり相だ。(略)
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全文を読みたい方は、令和3年(2021)、平凡社さん刊行のアンソロジー『作家と酒』をどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子は一時よくなりかけたのに最近の陽気のせゐか又々逆戻りして、いろいろ手を尽したが医者と相談の上やむを得ず片貝の田舎にゐる妹の家の母親にあづける事になり、一昨日送つて来ました。小生の三年間に亘る看護も力無いものでした。鳥の啼くまねや唄をうたふまねをしてゐるちゑ子を後に残して帰つて来る時は流石の小生も涙を流した。


昭和9年(1934)5月9日 水野葉舟宛書簡より 光太郎52歳

昨日ご紹介した書簡と前後してしまいました。

九十九里浜に預けられた智恵子、その当日から「千鳥と遊ぶ智恵子」だったとは驚きです。

『朝日新聞』さん岩手版、8月10日(木)掲載の記事です。

(賢治を語る 没後90年)湯あみや自炊、昔の風情を 大沢温泉・高田貞一社長/岩手県

 花巻市の山あいにある秘湯「大沢温泉」は、北東北の詩人・宮沢賢治が通い詰めた温泉としても有名だ。賢治と温泉の関わりについて、同温泉の高田貞一社長(67)に聞いた。

――大沢温泉の歴史は?
 今から約1200年前、征夷大将軍だった坂上田村麻呂が蝦夷(えみし)軍の毒矢に負傷した際、現在の大沢温泉のお湯につかったところ、ほどなく傷が癒えた、と伝えられています。
――映画化された門井慶喜さんの直木賞受賞作「銀河鉄道の父」にも、大沢温泉が出てきます。
 賢治は少年のころ、信仰心のあつい父に連れられて、仏教会の講習会場だった大沢温泉に何度も足を運んでいます。学生時代は悪ふざけをして、湯をくみ上げる水車を止めてしまい、風呂場が大騒ぎになったという逸話も残っています。花巻農学校の教師時代には、生徒たちを引き連れて湯あみにも来ていたようです。
 また、賢治の死後になりますが、詩人の高村光太郎も1945年、空襲で東京のアトリエを焼失し、賢治の親類を頼って花巻に疎開しています。以後7年間、花巻を愛し、大沢温泉を「本当の温泉の味がする」と言って喜んで頂きました。
――温泉が賢治の作品にも影響したと思いますか?
 それはどうでしょうね。ただ、賢治の作品は岩手の大自然や生活などを題材にしたものが多いです。大沢温泉は山あいにあり、豊かな自然に恵まれています。あるいはそういうこともあったかもしれません。
――賢治の写真は今も、昔ながらの雰囲気が味わえる「湯治屋」に飾られています。
 宮沢家から頂いた集合写真はパンフレットに使わせて頂いたり、館内に飾らせて頂いたりしています。
 約200年前の建物で、賢治ゆかりの自炊部がある「湯治屋」も、賢治の時代から徐々に変わってきています。例えばトイレなどは水洗になり、自炊部で自分で料理して食事を取っている人は全体の1~2割程度。多くの方が館内の食堂でご飯を食べていらっしゃいます。
 かやぶきの屋根を含め、古い建物を維持していくのは大変ですが、賢治が通った場所でもあり、「昔ながらの雰囲気が好きだ」というお客さんもたくさんいるので、今後も維持していきたいと考えています。

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上記集合写真、明治39年(1906)の撮影だそうです。豊沢川にかかる「曲り橋」の上と思われます。手前のガス燈(?)が何ともいい感じです。
無題
というわけで、賢治や光太郎の息吹が今も確かに感じられる大沢温泉さん、花巻にお泊まりの際にはぜひご利用下さい。

【折々のことば・光太郎】

先程申すのを忘れましたが、ボール紙の菓子折の中にちゑさんのよく喰べるアツプルパイがありますから出して下さい。出さないと二三日で腐ります。今日は乗合が無くてタクシで来ました。


昭和9年5月12日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

千葉九十九里に移り住んでいた母と妹夫婦の元に預けた智恵子を見舞っての帰り、途中の大網停車場から。現代ならスマホで電話をかけるか、LINEを送るか、という内容ですね。「乗合」は乗合馬車かと思われます。

新聞記事から2件ご紹介します。

まず『宮崎日日新聞』さん、一昨日の一面コラム。

くろしお    コメ愛着

 1924年5月、医学留学の途中でドイツのミュンヘンにいた歌人斎藤茂吉は「夕ひとり日本飯くふ」の詞(ことば)書きを添えて歌を詠んでいる。「イタリアの米を炊(かし)ぎてひとり食ふこのたそがれの塩のいろはや」。
 連日の洋食に飽き、ようやく手に入れたコメ。しかし「?(か)みあてし砂さびしくぞおもふ」と続けて詠んでおり味や食感は日本と少し違ったのではないか。「コメを選んだ日本の歴史」(原田信男著)によると、望郷のさびしさはコメによってさらに増幅したようだ。
 また米国を経てロンドン・パリに留学した経験を持つ詩人の高村光太郎は肉食を謳歌(おうか)した。しかし56歳となった1939年「米のめしの歌」という詩で「米のめしくひ 味噌汁食べて、われらが鍛えた土性骨(どしょうぼね)。われらのいのち 米のめし」とうたい、コメを絶賛している。
 確かに今も外国を旅した人から「苦労したのは食事。日本のコメが恋しかった」という話はよく聞く。パンや肉食を好む人も年齢を重ねてコメ食になったという話も珍しくない。長年培われた食習慣は食の志向を決定づける。食が多様化した現在も日本人のコメへの愛着は信仰に近いといえそうだ。
 ただ2022年度の食料自給率がカロリーベースで前年度と同じ38%、生産額ベースで5ポイント低下の58%と聞くと、コメを中心とする日本の食が危ういと心配する。先進国では最低水準。輸入に頼らず食を守るには本県のような生産基盤の強化が求められよう。

引用されている「米のめしの歌」は、光太郎生前には活字になったことが確認できていない作品です。『高村光太郎全集』には、残された草稿から採録されました。
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   米のめしの歌004

      一
  茶わんもつのは  ひだりの手。
  箸をもつのは   みぎの手。
  米のめしくひ   味噌汁たべて、
  われらが鍛へた  土性骨。
  低きに居り    高きに住む。
  われらのいのち  米のめし。

      二
  朝日出るのは   野のひがし。
  夕日しづむは   山のにし。
  田植 草とり   稲こきをへて、
  りつぱに仕上げた 倉の米。
  粒々なほ     辛苦のあと。
  われらのいのち  米のめし。

      三
  秤もつのは    みぎの手。
  枡をもつのは   ひだりの手。
  神代ながらの   瑞穂の国は、
  八千万石     民の汗。
  たのむに足り   くへど飽かぬ。
  われらのいのち  米のめし。

草稿の欄外には、「国民歌第二試作」の文字が見えます。「国民歌」は、「文部省撰定日本国民歌」。日中戦争がすでに激化していた昭和13年(1938)、当時の文部省が「日本国民歌運動」の展開を開始しました。

これに先立つ昭和11年(1936)には、日本放送協会大阪中央放送局がラジオ番組「国民歌謡」の放送を開始しており、光太郎作詞の「歩くうた」(昭和15年=1940)も後にラインナップに組み込まれ、ヒットします。国としても同様の運動に本腰を入れ始めたのでしょう。文部省社会教育局による「日本国民歌運動」の主旨は、次のようなものでした。

 文部省に於きましては今般日本国民歌六篇を制定して之を公にすることになりました。我国に於ては現在遺憾乍ら国民の各層を通じて唱和すべき国民の歌と称すべきものが乏しいのでありまして、一段と国民的意識を振起す可き此の国運の大躍進期に際しては殊に其の思ひを深くするのであります。国民歌は一切の国民生活の基調をなす清純雄渾な国民的感情の表現でなければなりません。かゝる歌曲こそ国民の心を一に融和せしめその情操を高め志気を鼓舞するものであります。此度予定せられたる六篇はかゝる趣旨に基き我が国伝統の精神、理想、風物、生活等に取材して制作せられたるものでありまして之に携られた作詞家、作曲家の努力により何れも私共の希望を満たすものを得ました事は喜びに堪へぬ処であります。之が国民の凡てに唱和せられるに至る事を願ふ次第であります。尚文部省に於ては今後も此の企てを継続致すつもりでありますが、之が我が国の音楽文化を向上し、国民的情操の涵養に資する所とならば幸せあります。
  (『青年と教育』第四巻第三号 昭和14年(1939)3月)
 
携られた作詞家」の一人、斎藤茂吉が昭和13年(1938)12月2日に書いた日記には、以下の記述があります。

文部省ノ池崎参与官ノ所ニ行クト、「国民歌」ノ歌詞ヲ作ツテクレ、北原白秋、佐藤春夫、高村光太郎、茅野雅子、土岐善麿ノ諸君と一シヨ也。

おそらく光太郎にもほぼ同じ頃に依頼があったものと考えていいでしょう。これに応え、光太郎はおそらく二篇の詩を書き上げ、光太郎と組むことになった相棒の作曲家・箕作秋吉に送りました。一篇は「こどもの報告」。そしてもう一篇が「米のめしの歌」です。

このうち、「こどもの報告」の方が採用され、箕作が作曲。楽譜が出版されたり、レコード化されたりしました。
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    こどもの報告

      一
  めがさめる、とびおきる。
  晴れても降つても、一二三。
  朝のつめたい水のきよさよ。
  こゝろも、からだも、はつらつ。
  お父さまお早うございます。
  お母さまお早うございます。
  みんなもお早う。
  テテチー テテチー
  テタテ チト テタタ ター
  かしこきあたりを直立遙拝。
  それからご飯だ、ああうれし。
  かうしてぼくらのその日がはじまる。
  その日がはじまる。

      二001
  日がくれる、戸をしめる。
  勝つても負けても、ジヤンケンポン。
  夜のたのしいうちのまとゐよ。
  こゝろも、からだも、のびのび。
  お父さまおやすみなさいませ。
  お母さまおやすみなさいませ。
  みんなもおやすみ。
  タタタタ  タテタテ チー
       チテチテ  タテタト ター
  お国のまもりへ直立敬礼。
  それからお寝まき、ああらくだ。
  かうしてぼくらのその日がをはるよ。
  その日がをはるよ。

で、「米のめしの歌」の方はボツ。先述の文部省の趣意では「文部省に於ては今後も此の企てを継続致すつもり」とあったのが、「こどもの報告」を含む第一弾がどれも不評だったためではないかと推定されます。

太平洋戦争開戦前から、既にこうした翼賛詩を書いていた光太郎ですが、まだ真珠湾攻撃以前は国民の心を荒廃から救う、的な意図がメインでした。

『読売新聞』さんから。このところ、同紙では「わたしが見た戦争 戦争投書アーカイブ」として、戦前戦後の投書欄に載った読者投稿を時折再掲しています。下記は6月に紙面に掲載されたようですが、最近、ネット上にもアップされました。終戦翌月の投稿ですね。

進駐軍から貰った煙草の包装に魅入られる…日米の力の差痛感(1945年9月)

 道案内をしてやった進駐軍の兵士からアメリカ煙草を貰った。家に帰って秋窓の灯の下でその外装を眺めている中、次第に私はその豪奢な色彩に魅入られ、何か永い間の飢涸が醫されてゆくような感慨に浸った。それから改めて復員の友人に貰った「ほまれ」の袋をとり出し、これとそれとを引きくらべながら、ここにも懸絶する日米物力の差を見て、今さら愁然たる吐息をついた。
   忘れもせぬ昭和十六年十二月八日。その日開催された中央協力会議の席上で、詩人高村光太郎氏は「全国の工場に美術家を動員せよ」と提言し「健康や精神生活は身辺日常の美の力に培れることを看過すべからず。この美を欠くとき人心は荒廃する」と、いみじくも喝破されたのであったが、やんぬる哉、この提案は、美の何たるかを解せる官僚共によって、全面的な実現を封じられてしまった。
 「無用の用」を抹殺し、美を蔑ろにした結果は、戦時中、恐るべき人心の荒廃となって覿面に現われ、今なほ満目の焦土はこの世の飢餓地獄と化しつつある。この痛烈な現実的証跡を省るなら、せめて専売局よ、殺伐たる「みのり」の袋に色彩を点ぜよ。せめて運輸省よ、客車を明るうして標語ならぬ本格的美術ポスターを掲げてくれ。然らずんば、煙草の外装ひとつからも無批判的な外国文化心酔の傾向が、不幸な劣等感を助長しつつ、やがて滔々と始まるであろうかも知れぬのである。(1945年9月30日)

「中央協力会議」は、大政翼賛会の主催で、地方代表、各界代表の議員を選定、それらを一堂に集め、とりあえず下意上達の姿勢を見せ、国民の士気を高揚しようと始めたものです。光太郎も各界代表の議員(岸田国士の推薦で就任)として、昭和15年(1940)12月の臨時協力会議、翌年の第一回会議に出席し、発言しています。しかし、投稿にある昭和16年(1941)12月8日の第二回会議は、ちょうど開戦の日と重なったため、議員が集められたものの、それどころではなく流会となりました。

したがって、投稿の「詩人高村光太郎氏は「全国の工場に美術家を動員せよ」と提言」は実際には行われなかったのですが、そのあたりの経緯は戦中戦後の混乱期なので、投稿者もわからなかったのでしょう。実際には行われなかった提言ですが、会議に先立ち、こんな提言をするというのは報道されており、投稿者はそれを読んだのだと思われます。

工場に“美”を吹込め 高村氏・美術家の新奉公を促す

 国民士気の源泉は健康な精神生活にある、しかも健康な精神生活は身辺日常の健康美の力に培はれてゐることを見逃す事が出来ない、しかも戦ひが長期になれば人心がともすれば荒廃するからこれを緩和し同時に工場に働く産業戦士の頭を精神的な方向に向けるために美術家を総動員して大工場の食堂、休憩室、合宿所、病院などの設計に合理的な美を与へるばかりでなく壁面彫刻や■■をどしどし活用すべきである、一方いまのやうな時局は絵だけかいてゐてよいのだらうかとの美術家たちの気迷ひを一掃して明確な方向を示すことにもなると考へてゐる

昭和16年(1941)12月5日の『大阪毎日新聞』から採りました。「■」は活字が潰れ、判読不可能でした。

やがて太平洋戦争の敗色が濃厚となるにつれ、「国民の心を荒廃から救う」的な光太郎の意図は、変容していきます。すなわち、「滅私奉公」→「尽忠報国」→「挙国一致」→「七生報国」。

下記は大戦末期の、特攻隊を讃美する詩。『高村光太郎全集』では、やはり初出掲載誌不詳で残された草稿から採録していましたが、数年前、初出誌『陸軍画報』第13巻第2号(昭和20年=1945 2月1日)を入手しました。
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同誌、「特輯・全軍特攻」と銘打ち、特攻各隊の戦果や、散華した隊員達の遺詠なども載せています。
001 007
粛然とした気持にさせられます。しかし、彼らを無条件に「英霊」と讃えるのでもなく、逆に「犬死に」とディスるのでもなく、こうした悲劇がくり返されることの無いように、と考えて行動していくのが、現代に生きる我々の使命なのではないかと存じます。

【折々のことば・光太郎】

昨日午后二時に無事帰宅しました。今度はいろいろ御世話様に相成り御礼の申様もありません、斎藤さん御夫婦にも何卒よろしくお伝へ下さい。 長い間ちゑ子を中心に生活してゐたため、今ちゑ子の居ない此の家に居るとまるで空家に居るやうな気がします。病気のちゑ子がふびんでなりません。どうぞよろしく御看護願ひ上げます。


昭和9年(1934)5月9日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心を病んだ智恵子、もはや自宅での看護は不可能、と、千葉九十九里浜に移り住んでいた智恵子の母・センの元に預けます。智恵子がかつて「空が無い」と評した東京ではなく、自然豊かな九十九里浜で、母親や妹夫妻(斎藤さん御夫婦)に囲まれて暮らすことで、恢復を願ったのでしょう。

シニカルな見方をすれば、智恵子を棄てた、とも云えるかも知れませんが、そこまでは云いたくないところです。

光太郎第二の故郷とも云うべき岩手花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」の名で出店されているワンデイシェフの大食堂」さん。「一般の主婦(男性)やOL、学生、プロなどが日替わりでシェフになって、ランチを提供するレストラン」というコンセプトのレストランです。

7月27日(木)が3回目の出店だったそうで、画像等送って下さいました。メニュー的には、かつて光太郎が実際に使った食材や作った料理などの記録から、現代風にアレンジを施してのメニューとなっています。
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令和元年(2019)、福島県いわき市立草野心平記念文学館さんで開催された 「居酒屋「火の車」一日開店」の際にご一緒させていただいた、兵庫県ご在住の料理研究家・中野由貴さんが、当ブログをご覧になって足をお運びになり、フェイスブックでご紹介下さっています。インフルエンサー的な方のレポートは実に有り難いところです。

明後日、8月3日(木)にも「こうたろうカフェ」出店があるとのこと。次回メニューは「
サーモンのガレットロール・ローストビーフ・トマトと卵の炒め物・里芋のクルミかけ・お新香・ご飯・おくらのスープ・ベイクドチーズケーキ・コーヒー」だそうです。

紹介すべき事項がたまっていますので、もう1件、花巻関係で。

花巻高村光太郎記念館さんで開催中のテーマ展『山のスケッチ』につき、NHKのさんローカルニュースで取り上げられました。先月の放映でしたので、「来月」というのは今月のことです。

高村光太郎が疎開していた花巻で描いた植物などのスケッチ展

詩人で彫刻家の高村光太郎が、戦時中に疎開していた花巻市で描いた身近な植物などのスケッチの展示会が開かれています。
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高村光太郎は、昭和20年、62歳の時に空襲で東京のアトリエが焼け、宮沢賢治の弟の清六を頼って花巻に疎開して7年間を過ごしました。
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「山のスケッチ」と題された今回のテーマ展には、疎開中に光太郎が描いた身近な草花のスケッチなど7点が展示されています。
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このうち光太郎が湯治先の西鉛温泉で描いたスケッチは山菜の「ミズ」を描いたものです。
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昭和20年6月20日という日付けとともに「丈1尺5寸」などと観察した内容がつづられています。
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また白い6枚の花弁が優しいタッチで描かれた「チゴユリ」というスケッチや、光太郎が過ごした花巻の山口地区のかやぶき屋根の集落を描いた作品もあります。
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鹿児島県の奄美大島から観光で訪れたという男性は「光太郎さんの『道程』や『智恵子抄』の詩はよく知っていますが、スケッチは初めて見ました。小さな命を愛しながら過ごしていたのがわかりました」と話していました。
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高村光太郎のスケッチの展示は花巻市の高村光太郎記念館で来月31日まで開かれています。
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それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

もう略 肉どりは出来ました故仕上げる前に一度見て下さい、今週中は午前午后宅に居ります、

昭和8年6月19日 岩波茂雄宛書簡より 光太郎51歳

岩波書店の社章として依頼を受けたメダル制作に関わります。
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モチーフはミレーの「種まく人」。

以前にも書きましたが、これはボツとなりました。新たにエッチングで描かれた社章は、作者が不明です。

訃報を2件、亡くなった順に、ともに共同通信さんの配信記事から。

まずは僧侶にして教育評論家の無着成恭氏。

「山びこ学校」無着成恭さん死去 僧侶で教育評論家、96歳

000 中学生たちの生活記録集でベストセラーとなった「山びこ学校」の編者で、僧侶、教育評論家の無着成恭(むちゃく・せいきょう)さんが21日午前8時58分、敗血症性ショックのため死去した。96歳。山形市出身。自宅は千葉県多古町一鍬田292の福泉寺。葬儀・告別式は27日午前11時から福泉寺で。喪主は長男成融(せいゆう)氏。
 1948年に教師として赴任した山形県内の中学校で、生徒に生活の「なぜ」を考えさせる「生活つづり方運動」に取り組み、クラス文集をまとめた「山びこ学校」を51年に出版。大きな反響を呼び、映画化もされた。
 その後上京し、明星学園で教諭や教頭を務めた。64年からは、TBSラジオ「全国こども電話相談室」の回答者として長年出演。大分県国東市の泉福寺の住職も務めた。

無着氏,昭和57年(1982)に、明星学園さんの教壇に立たれていた頃の授業実践をまとめた『無着成恭の詩の授業』という書籍を刊行なさいました。
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ちなみに当方所蔵の同書、無着氏の署名本です。8章から成り、近現代の詩歌を扱った授業の実践記録で、8章のうちのひとつが「奪われた自由 高村光太郎 ぼろぼろな駝鳥」。
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中学1年生に当たる「7年生」の授業で、生徒さんたちの発言や授業後に書いた感想文が、実に的を得ています。大学などの偉いセンセイたちがノルマに追われて「紀要」等に発表する「論文」などよりも(笑)。まぁ、無着氏の巧みな誘導があってのことではありますが。
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その他、実践記録は附されていませんが、巻末の「わたしの愛唱詩抄――この六年間に授業で扱った詩・作品」という項に、「冬が来た」「道程」。

国語教育に携わる人には、ぜひ読んでいただきたい書籍です。

訃報、もう1件。

作家の森村誠一さん死去、90歳 「人間の証明」「悪魔の飽食」

001 映画化されたベストセラー小説「人間の証明」や、ノンフィクション「悪魔の飽食」などで知られる作家の森村誠一(もりむら・せいいち)さんが24日午前4時37分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。90歳。埼玉県出身。葬儀は家族葬で行う。後日お別れの会を開く予定。
 青山学院大を卒業後、大阪や東京のホテルに勤務する傍ら小説を書き、1969年に「高層の死角」で江戸川乱歩賞を受賞、本格的な作家活動に入った。73年に「腐蝕の構造」で日本推理作家協会賞を受け地歩を固めた。
 都心のホテルで起きた殺人事件を題材に人と人との絆を描いた代表作「人間の証明」(76年)が翌年映画化された。「野性の証明」(77年)も高倉健さん、薬師丸ひろ子さんの共演で大ヒット。映画と小説の相乗効果で一躍人気作家になった。「棟居刑事」シリーズ、「牛尾刑事・事件簿」シリーズなどテレビドラマ化された作品も多い。
 旧日本軍の「731部隊」を通して細菌兵器など戦争の暗部に迫ったノンフィクション「悪魔の飽食」も話題になった。

森村氏にも光太郎がらみのご著書があります。やはり昭和57年(1982)刊行の『新・人間の証明』。当方手持ちのものは昭和60年(1985)発行の角川文庫版です。
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昭和51年(1976)刊行で角川映画にもなった『人間の証明』で謎解き役だった棟居刑事が再登場、以後、「棟居刑事シリーズ」となっていく、いわば第2作です。ただし、内容が内容だけに「大人の事情」でしょう、映画化もテレビドラマ化もなされていません。

昭和56年(1981)に刊行されたノンフィクション『悪魔の飽食』を下敷きにし、旧日本軍の731部隊元隊員や家族などの関係者が次々と殺害され……という話です。

詳しいネタバレは避けますが、タクシー内で変死した(実は毒殺)最初の事件の被害者である中国人女性がレモンを持っていたという設定で、『智恵子抄』の「レモン哀歌」がらみの展開に。

やはり被害者の一人は実在の人物をモデルにしています。明治の末に智恵子が保養に訪れた福島県の原釜海岸で知り合い、その後姉弟のような文通をしていた鈴木謙二郎という当時の旧制米沢中学生です。小説では奥山謹二郎いう名ですが、原釜での智恵子とのエピソードなどはほとんどそのまま使われています。ここからは森村氏の創作で、奥山はその後、自分の娘を「智恵子」と名付けたり、物語の舞台となった1980年代には千駄木の光太郎智恵子旧居近くに一人住まいをしていたりと、初恋の相手であった智恵子の幻影を老人になっても抱き続けている、というわけです。

しかしその奥山老人は元731部隊員で、戦時中には旧満州でいろいろと……ということが明らかになり……。

『人間の証明』では、「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?」という西条八十の「ぼくの帽子」が効果的に使われていましたが(ジョー山中さんが唄った角川映画のテーマソングはその英訳で「Mama, Do you remember…」)、『新……』では「レモン哀歌」。ただしレモンは731部隊でも意外な使われ方をしていて、美しいだけのモチーフではありません。そこで、現在も版を重ねているハルキ文庫版では、表紙にメスが刺さった無気味なレモンがあしらわれています。
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さて、『無着成恭の詩の授業』、森村氏の『新・人間の証明』、それぞれ、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

目下妻の病気入院等にて寸暇無き次第です、


昭和7年(1932)7月25日 万造寺斉宛書簡より 光太郎50歳

智恵子、「病気入院」としていますが、実は睡眠薬アダリンを大量服用しての自殺未遂でした。7月15日朝に、智恵子が起きてこないことを不審に思った光太郎が発見しました。光太郎が気づくのが早かったため、一命はとりとめた智恵子ですが、この後、心の病は一進一退をくり返しつつ、しかしどんどん昂進していくことになります。

まず、山形県米沢市の上杉博物館さんで開催中の企画展「今泉篤男と美術」について、『山形新聞』さんから。

出身の評論家・今泉篤男の視点で味わう 米沢・上杉博物館で企画展

000  米沢市出身の美術評論家今泉篤男(1902~84年)の評論を通し、国内外の名品を味わう企画展「今泉篤男と美術」が、同市上杉博物館で開かれている。今泉と作家たちとの深い交流や、生涯持ち続けた美術への情熱を感じ取ることができる。
 今泉は織物工場を営む家に生まれた。東京帝国大(現東京大)で美学を学び、同世代の画家らに依頼されて批評の道に入る。東京国立近代美術館の初代次長、京都国立近代美術館初代館長を務め、画期的な展覧会を企画した他、日本の近代絵画を巡る問題提起が「今泉旋風」として議論を巻き起こすなど、美術界の底上げのための活動に力を尽くした。
 企画展では福王寺法林(米沢市出身)、小松均(大石田町出身)、ルノワール、高村光太郎、棟方志功らの作品約50点を今泉の評論とともに紹介している。
 アトリエを訪ねたり、旅に同行したりするなど、作家の人となりを知った上で批評を展開するのが今泉のスタイル。「接していて茫洋(ぼうよう)とした風貌のうちに温かさがあった」「この画家くらい知恵深い人は稀(まれ)だ」などの言葉もあり、名作を新たな視点で楽しむことができる。
 遠藤友紀主任学芸員は「美術界全体に足跡が残る今泉の仕事を多くの人に知ってほしい」と話す。8月20日まで。

他に『米沢日報』さんでも記事が出ましたが、光太郎の名が無いので割愛します。

続いて『信濃毎日新聞』さん。安曇野市の碌山美術館さんで今日開幕の夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』について。

代表作の「手」も 高村光太郎の作品展 安曇野市

 安曇野市出身の彫刻家、荻原碌山(本名守衛(もりえ)、1879~1910年)の作品を展示する同市の碌山美術館は22日から、彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の作品を集めた「高村光太郎展」を開く。荻原と親交があった高村の生誕140周年を記念。彫刻や詩の原稿など計32点を展示する。
 彫刻は10点。代表作の一つ「手」は、仏像の手の形から着想を得たとされ、しなやかな曲線で指を表現している。青森県の十和田湖畔に立つ裸婦像「乙女の像」の試作品も展示している。「荻原守衛」と題した詩の直筆原稿や詩集の原書、妻の智恵子が病床で紙を切り貼りして作った「紙絵」も並ぶ。
 碌山美術館学芸員の浜田卓二さん(39)は「詩的かつ彫刻的な感性で生まれた唯一無二の作品ばかり」と強調。荻原が自身の代表作「女」を壊そうとした際に、高村がやめるよう説得するなど「2人は互いの芸術を尊重し合っていた」と説明する。
 9月10日までの午前9時~午後5時10分。入館料は900円(高校生300円、小中学生150円)。
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ちなみに同館では、今週、中学生の職場体験学習を受け入れたそうで、展示作業の取り付けを手伝って下さった生徒さんもいらっしゃるとのこと。ありがたいことです。
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それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

当方、本日深夜に千葉を出て、安曇野に向かいます。途中の健康ランドで夜を明かす予定です。

【折々のことば・光太郎】

昨夜馬鈴薯一俵落手、こんなに沢山送つて下さつてまことにすみません。当分食ふものに事欠きません。籠城が出来ます、北海道のは種がちがふのかまつたくよいと思ひます。

昭和5年(1930)5月30日 更科源蔵宛書簡より 光太郎48歳

更科は北海道弟子屈在住だった詩人です。ジャガイモ「一俵」とは豪快ですね(笑)。

毎月15日に、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市の「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん内の「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。今月分がこちら。メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさんから画像を送りいただきました。
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メニューは「さやえんどう入り炒飯」「味噌焼おにぎり」「マグロ焼き魚」「じゃが玉ねぎ煮込み」「さやいんげんの油炒め」「トウモロコシ焼」「キュウリの酢の物」「こかぶ漬け」「塩麹入り卵焼き」「番茶寒天」だそうです。かつて光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋で作っていた野菜類がふんだんに盛り込まれています。

メニュー考案にあたられているやつかの森LLCさん、今月27日、花巻市東和町の「ワンデイシェフの大食堂」さんに「こうたろうカフェ」としてご出店の予定。
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そちらのメニュー、「白身魚のムニエル~バジルソース~」「ズッキーニのソテー」など。光太郎が好きだったバター、あんこなどをたっぷり使うそうで。茄子やキュウリなど夏野菜は、光太郎が暮らしていた花巻太田産を使われるとのことです。

花巻ついでにもう1件。今月15日発行の『広報はなまき』。
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市内の博物館・記念館等の文化施設などで所蔵している逸品を紹介する「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」というコーナーがあり、花巻高村光太郎記念館さんで開催中のテーマ展『山のスケッチ』で展示されている光太郎のスケッチが紹介されています。ただし、こちらは複製だったような気がするのですが……。

27日、「ワンデイシェフの大食堂」さんの「こうたろうカフェ」、それからテーマ展『山のスケッチ』、それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

東京の夏にはまつたく年々愛想がつきます。とてもやりきれません。此は私の個人的生理に基づく事です。それでますます北緯五十度の方へ牽かれます。 北海道で自分の生活と仕事とを大成したい念願が強まるばかりです。山へヒツコムのでは無くて前進するのです。人生への一つの道を開墾するのです。そこを根拠にして一つの生活と空気とを創りたい気がします。


昭和3年(1928)9月25日 更科源蔵宛書簡より 光太郎46歳

夏の暑さに弱かった光太郎、明治末にほとんど無計画で北海道移住を企てましたがすごすごと1ヶ月程で退散したにも拘わらず、またぞろこの時期に北への憧れを募らせていました。

結局、この時期にもそれは果たせず、意外な形で実現するのは、戦後の花巻郊外旧太田村移住においてでした。

まずは7月8日(土)に行われた、川内村さんの第58回天山祭りについて。

『福島民報』さん。当方の名も出して下さいました。

福島県いわき市出身の詩人草野心平さんしのび献花や朗読 川内村で天山祭り 児童生徒が自作の詩披露

 福島県いわき市出身で、川内村名誉村民の詩人草野心平さんをしのぶ第58回天山祭りは8日、村内の村民体育センターで開かれ、村民やファン、現代詩誌「歴程」の同人らが心平さんに思いをはせた。
 実行員会の主催。村、村観光協会などの共催。福島民報社などの後援。村内外から100人以上が参加した。井出茂実行委員長、遠藤雄幸村長があいさつした後、歴程同人の斎藤貢さんと渡辺一夫村議会議長が祝辞を述べた。
 献花に続き、心平さん自身が朗読する「富士山 作品第肆」と「青イ花」のCDが流れた。川内小中学園6、7年生が歴程同人から指導を受けてつくった詩を披露した。歴程同人による朗読では、参加者が心平さんの詩の世界に浸った。
 心平さんの生誕120周年を記念し、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表が「草野心平と高村光太郎 魂の交流」と題して講演した。アトラクションでは、村に伝わる西郷獅子や紙芝居が披露された。
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同じ件で『福島民友』さん。

草野心平しのび詩朗読 生誕120周年、川内で天山祭り

 福島県川内村の名誉村民で「カエルの詩人」として知られる草野心平(いわき市出身)を顕彰する「天山祭り」が8日、同村で開かれた。今年は心平の生誕120周年に当たることから、関係者が詩の朗読などを通じて心平をしのんだ。
 雨模様だったため、会場を心平の蔵書を収めた「天山文庫」から、村民体育センターに移して開催した。会場には村民に加え、心平らが創刊した同人詩誌「歴程」の同人が集まり、実行委員会の井出茂委員長らが心平の写真に献花した。
 祭りでは、川内小中学園6、7年生による連詩「川内村の未来を創る」が朗読された。「か」から「る」までの文字を最初の一文字に、児童生徒14人が作詩したもので、川内での生活をみずみずしい言葉で詠み上げた。
 このほか、伝統芸能の西郷獅子や紙芝居なども披露された。
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続いて、『福島民報』さんの連載「福島県 今日は何の日」。

7月9日 1991年(平成3年)7月9日 智恵子の生家修復 仮オープン

001 二本松市の高村智恵子の生家が修復され仮オープンした。
 旧国道4号沿いにある智恵子の生家は造り酒屋で、1883(明治16)年に建てられた。木造2階建て延べ300平方㍍。智恵子は1886年に生まれ、女学校に進むまでこの家で生活した。
 しかし、智恵子の生家の長沼家は大正末期に没落し建物は人手に渡っていた。前年、ふるさと事業の一環として建物の永久保存を決定。建物を買い取るなどし修復していた。
 外観は全面的に化粧直しされ、醸造していた清酒「花霞」の大看板を設け、新酒のできたことを知らせる直径70㌢の杉の玉「酒林」も軒下に下げた。

ただし、民報さん、ネットに出た記事の見出しで1年間違えています。「1991年」は合っているのですが、カッコして「平成2年」。1991年は正しくは平成3年です。
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カッコの位置も変ですし、担当された記者? の方、かなりテンパッていたようですね(笑)。

調べてみましたところ、翌月の8月14日、当方、初めて智恵子生家を訪れていました。
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翌年4月には生家裏手に智恵子記念館がオープン。

まだ二本松市と合併する前の旧安達町の時代で、一連の事業には当時の竹下内閣の「ふるさと創成事業」で全国各市町村に配られた1億円が使われました。平成7年(1995)には、旧建設省が主催し、その1億円の使い方がナイスだったという自治体などに贈られた「手づくり郷土(ふるさと)賞」が安達町に授与されてもいます。
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バブル景気真っ盛りとはいえ、1億円をドブに捨てるような(死語ですかね(笑))使い方をした自治体も少なくない中、旧安達町の英断には頭が下がりました。それまで長沼家に関しては、初代の次助が流れ者だったこと、智恵子を含めた一家の悲惨な末路等もあり、この地域ではタブー扱いされていた面がありましたし……。

川内村さんの心平顕彰を含め、今後とも、継続して行っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

用事でちゑ子の帰京が二十日頃迠のびたため友の会の小旅行が月末まで出来なくなりました。 残念ながら此事ご報告まで。


昭和3年(1928)6月7日 今井武夫宛書簡より 光太郎46歳
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智恵子実家の長沼酒造は智恵子の弟・啓助があとを嗣いでいましたが、経営がどんどん傾き、この年にはどうしようもない状態になっていました。「智恵子は東京に空がないといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」の「あどけない話」が書かれたのが5月11日ですが、長沼酒造は不動産登記簿によれば、前日の5月10日に家屋の一部が福島区裁判所の決定で仮差し押さえの処分を受けています。翌昭和4年(1929)には、長沼家の全ての家屋敷は人手に渡り、実家の家族は離散、智恵子は帰るべきふるさとを失います。

友の会」は「ロマンロラン友の会」。「東方」の文字は、この年刊行された「友の会」メンバーによる雑誌『東方』の題字と同一の木版です。「あどけない話」も『東方』に掲載されました。

昨日は都内に出て、「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~【夜公演】」及び「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」と、ハシゴして参りました。レポートしたいところですが、本日は福島県川内村にて「第58回天山祭り」があり、もう出かけねばなりません。

それぞれのレポートは明日以降ゆっくり書くこととし、本日はサクッと書けるところで地方紙記事系のネタを2本。

まずは『岩手日報』さん。花巻高村光太郎記念館さんでのテーマ展『山のスケッチ』について報じて下さいました。

高村光太郎が見た自然美体感 花巻・記念館でテーマ展

 花巻市太田の高村光太郎記念館でテーマ展「山のスケッチ」が開かれている。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が花巻疎開の際に目にした花や山菜のスケッチ複製のほか、詩の直筆原稿も初公開。展示品を通して、光太郎が目にした自然の美しさを感じることができる。
 直筆原稿と水彩画、スケッチの精密複製など計11点と写真パネルを展示。スケッチは、散文「山の春」に登場する草花が中心で、ショウジョウバカマなど柔らかなタッチの作品だ。ゼンマイは繊細な筆遣いで、創作活動に生かすための精緻さが見て取れる。
 8月31日まで。午前8時半から午後4時半。一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは0198・28・3012へ。
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もう1件、『福島民報』さんから。

論説 【トクヨと智恵子】顕彰・交流の広がりを

  「日本女子体育の母」と呼ばれる二階堂トクヨは若いころに本県で学び、教え、二本松市出身の洋画家高村智恵子の少女時代に師弟の絆を結んだ。トクヨが創立した日本女子体育大学は今年10月、100周年の記念式典を催す。出身地の宮城県大崎市では顕彰する取り組みが進んでいる。改めて2人の歩みに光を当て、交流拡大につなげたい。
 トクヨは1880(明治13)年に生まれ、福島民報社初代社長の小笠原貞信の養女となって本県尋常師範学校(現福島大)で勉学に励んだ。卒業後、油井小の教員を務め、在籍していた6歳下の智恵子と親交を深めた。後年、トクヨが英国留学に旅立つ際、智恵子は夫となる高村光太郎と港で見送り、留学中の恩師に着物を送ったという。
 英国で女性の健康と体育の重要性を深く学び、日本の女子体育の道を切り開いていく。1922(大正11)年、東京に二階堂体操塾を創設し、女性の体育指導者の育成に努める。門下から陸上女子800メートルで日本女性初の五輪メダリストとなった人見絹枝が羽ばたいた。塾は専門学校、短大を経て日本女子体育大学となり、著名な選手と多くの指導者を輩出している。
 故郷の大崎市三本木地区で2016(平成28)年、有志らが「日本女子体育の母 二階堂トクヨ先生を顕彰する会」を発足させた。収集資料や研究成果を会報などで紹介し、生家のあった場所に案内板を設置した。地元の小学校で「二階堂トクヨ杯」のなわとび大会を開くなどして、功績を伝えている。
 本県でも智恵子との絆を入り口に、時代の先駆者となった生き方や思いを広く知ってほしい。二本松市智恵子記念館には智恵子が福島高等女学校(現橘高)時代に書いた手紙が展示されている。達筆の文面に「小笠原先生」としてトクヨが登場する。若き智恵子のユーモアと親しみがにじみ、ほほえましい。
 二本松市の「智恵子のまち夢くらぶ」をはじめ、郷土の偉人に熱い思いを寄せる人々がそれぞれの地元にいる。今年は高村光太郎の生誕140年にも当たり、関連する企画が各地で催されている。トクヨと智恵子への関心が高まり、ゆかりの地の顕彰・交流や相互研究がさらに深まるよう期待したい。

旧安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校で智恵子の恩師だった、二階堂トクヨの顕彰活動が起こっているそうで。

トクヨと智恵子についてはこちら。
福島民報あぶくま抄「女子体育の母」。
大河ドラマ「いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~」第二章。

ゆかりの地の顕彰・交流や相互研究がさらに深まるよう期待したい」。まさにそのとおりですね。

【折々のことば・光太郎】

いつぞやわざわざあなたが来て下さつて御話をきいてゐるうちに自然とその気になつて御承諾いたし、承諾した以上はどうしてもやらうと存じ、あれから一度「大調和」主催の講演会といふものに試みに出てみましたが、十分間位話すのがやつとの事にて、それも意味が本当には伝はらず、思ふ事と口から出る言葉とが甚だしく齟齬し、結局小生はとても講演は出来ない人間と思ひきめてしまひました。幸ひ今の処演説する必要の無い仕事を職業としてゐるわけで、此点大いに安心してゐる次第なのです。


昭和2年(1927)6月9日 石井鶴三宛書簡より 光太郎45歳

石井鶴三は彫刻家。光太郎と親しかった画家の石井柏亭の実弟です。この頃、自由学園さんで美術教師を務めていました。そこで、同校で光太郎に講演をしてくれるよう依頼、光太郎も一旦は引き受けたものの、結局、断っています。

当方も、あちこちで講演や市民講座講師等をする機会が多く(今日もこれから川内村で講演ですが)、いつも「意味が本当には伝はらず、思ふ事と口から出る言葉とが甚だしく齟齬」しているな、と感じています。人前でしゃべるのに抵抗はありませんが、自信もない、という感じです。光太郎もそうだったのではないかと思われます。

ただ、それが戦時中になると一転、かなり積極的に講演に取り組むようになっていきます。

嬉しい悲鳴ですが、またぞろ取り上げるべき事項が目白押しとなってきましたので、新刊の雑誌系、3冊まとめてご紹介します。

まず、新刊書店さんで平積みになっています、月刊の『文藝春秋』さん7月号。
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「総力特集 一〇〇年の恋の物語 一つの恋が時代を変えることもある」。
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まず新聞広告で知りました。かつてはこの手の特集を組んだ雑誌や、こうした内容をメインにした書籍等で光太郎智恵子が取り上げられることが多かったので、今回も光太郎智恵子の項はあるかな、と思ったのですが、項目としてはありませんでした。

しかしまだ諦めきれず(笑)、書店で立ち読みもしたのですが、光太郎智恵子の名は見つからず。

ところが、今年の第67回連翹忌にご参加下さった詩人の方からメールが来て、「光太郎智恵子が取り上げられてますよ」。

何とまぁ、冒頭の総論的な田原総一郎氏と下重暁子氏の対談「恋のない人生なんて!」の中で、ちらりとですが確かに触れられていました。一部分、載せます。
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立ち読みした際にここはスルーしていました。考えてみれば、下重氏、今年3月の『週刊朝日』さんでもちらりと光太郎を引き合いに出して下さっていましたので、「怪しい」と思うべきでした。

続いて同人誌。

やはり第67回連翹忌にご参加下さった詩人の谷口ちかえ氏がご送付下さいました、詩誌『ここから』16号。
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「テーマエッセイ 記憶に残る詩の一行」という項で、存じ上げない方ですが、斉藤なつみ氏という方が光太郎詩「冬の言葉」(昭和2年=1927)の最終行「一生を棒にふつて人生に関与せよと」を紹介して下さいました。多謝。

「冬の言葉」全文はこちら。

    冬の言葉
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 冬が又来て天と地とを清楚にする。
 冬が洗ひ出すのは万物の木地。

 天はやつぱり高く遠く
 樹木は思ひきつて潔らかだ。

 虫は生殖を終へて平気で死に、
 霜がおりれば草が枯れる。

 この世の少しばかりの擬勢とおめかしとを
 冬はいきなり蹂躪する。

 冬は凩の喇叭を吹いて宣言する、
 人間手製の価値をすてよと。

 金銭はむかし貴族を滅却した。002
 君達は更に金銭を泥土に委せよと。

 君等のいぢらしい誇りをすてよ、
 君等が唯君等たる仕事に猛進せよと。

 冬が又来て天と地とを清楚にする。
 冬が求めるのは万物の木地。

 冬は鉄碪(かなしき)を打つて又叫ぶ、
 一生を棒にふつて人生に関与せよと。

ちなみにこの詩の直前に書かれた「或る墓碑銘」という詩も、最終行が「一生を棒に振りし男此処に眠る」となっており、呼応している感があります。

奥付的な部分の画像を載せておきますので、ご入用の方、そちらまで。
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最後に一般には流通していない雑誌ですが……。

地銀の千葉銀行さんが展開するシニア世代向け会員制サービス「ひまわり倶楽部」の会報的な『ひまわり倶楽部』2023年6月号。年2回の発行だそうで。
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表紙が当会会友・渡辺えりさん。特集記事がえりさんによる「さんぶの里紀行」。千葉県の九十九里浜を含む一帯が「山武」といわれる地域で、そちらのレポートです。ちなみに九十九里町も属する「山武郡」は「さんぶぐん」なのですが、旧山武郡山武町、同蓮沼村などが合併してできた「山武市」は「さんむし」と、「武」の字の読み方が異なります。元々「さんむ」だったものが、いつの間にか「さんぶ」と読まれるようになり、合併の際には本来の読み方である「さんむ」に戻そう、ということで「さんむし」となりましたが、合併に入らなかった九十九里町などは「さんぶぐん」で通しています。複雑ですね。

で、えりさんの旅レポ(ご執筆はライターの方)は13ページにもわたり、全体の半分以上です。元々の企画では、山武地域中の山武市と東金市とを廻るというもので、そのように予告もされていたようですが、そこはえりさん、強引に「九十九里町も入れてちょうだい」(笑)。九十九里町は昭和9年(1934)に半年あまり、心を病んだ智恵子が療養し、光太郎がほぼ毎週見舞いに訪れた地です。詳しくはこちら。山形ご在住だったえりさんの亡きお父さまが生前の光太郎と交流があり、いつか九十九里町を訪ねたいとおっしゃっていたのが果たせず、えりさんご自身も行かれたことがなかったそうで。

3月半ばのことでした。自宅兼事務所でPCのキーボードを打っていると、突然、スマホにえりさんから電話。

「九十九里浜の智恵子が療養していたあたりに行きたいんだけど。光太郎の石碑とかあるのよね」
「そうっすね。そんならうちから1時間ちょっとのとこなんで、ご案内しますよ。で、いつごろですか?」
「いやいや、もう近くまで来てるのよ、千葉の銀行の雑誌の取材で」
「えっ?」
「でも智恵子が居たところの詳しい場所が分からないから」
「って、今、どちらにいらっしゃるんすか? 市町村の区分で云うと」
「えーと、山武市」
「ああ、だったらそこよりちょい南下したあたりです。九十九里町ってとこに「サンライズ九十九里」つう保養施設があるので、そこのフロントで訊いて下さい。石碑とか智恵子が居た家の跡とかはそこのすぐ近くです」
「「サンライズ九十九里」ね。わかった」
「そこの2階のエレベータホールに光太郎智恵子の銅像のミニチュアがありますから、そちらもご覧下さい」
「了解、ありがと」

とまぁ、こんなようなやりとりがありました。

その後、えりさんのフェイスブックに上がった画像。
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その後、こちらで拾ったハマグリの貝殻を、お父さまのご仏前に供えられたそうで。

そして『ひまわり倶楽部』さんの該当箇所。
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また数日前にえりさんからメールで「銀行の雑誌、出たよ」。で、当方、裏ルートで入手した次第です(笑)。

この手の情報ご提供、ありがたいかぎりです。お待ちしております。

【折々のことば・光太郎】

ロダン翁の事についてはおたづねいたし度き事まだまだ沢山有之 又折を見て推参拝聴いたし度事に存居候へば何卒よろしく願上候 余寒きびしき折柄御自愛専一に可被遊 尚ほ御家中皆々様にもよろしく被下処願上候 あなた様の居らるゝ為め岐阜といふ町までなつかしき心地いたされ 又参上いたす時をたのしみに致し居候


昭和2年(1927)2月10日 太田花子宛書簡より 光太郎45歳

太田花子は女優。確認できている限り、ロダンのモデルを務めた唯一の日本人です。光太郎はこの年刊行される予定の評伝『ロダン』執筆のため、引退して岐阜に隠棲していた花子を訪ね、ロダンとの思い出をインタビューしました。その礼状です。
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もう一度岐阜に行って話を聞きたい、とのことでしたが、それは果たせませんでした。

今日の朝刊を広げて「ああ……」という感じでした。

野見山暁治さん死去 戦没画学生の遺作に光、美術界を先導 102歳

 抽象性の高い伸びやかな画風で戦後の美術界を先導し、戦没画学生の遺作に光を当てたことでも知られる文化勲章受章者の画家、野見山暁治(のみやま・ぎょうじ)さんが22日、心不全のため福岡市の病院で死去した。102歳だった。葬儀は近親者で営んだ。後日、東京と福岡でお別れの会を開く予定。
 福岡県の炭鉱地帯、嘉穂郡穂波村(現飯塚市)で生まれた。1943年に東京美術学校(現東京芸術大)油画科を繰り上げ卒業し、中国東北部へ出征。病気で内地送還され、終戦を迎えた。
 戦後、自由美術家協会に参加(64年退会)。52年に渡仏し、64年までパリなどで制作した。58年に「岩上の人」で具象画家の登竜門だった第2回安井賞を受賞。渡仏中に水墨画など東洋の美への関心をもち、風景などをもとに、色と形が溶け合うような抽象性の高い画風へと変化した。
 帰国後、自宅のある東京のほか、福岡の海沿いにアトリエをもち、空や海、風など、うつろう自然と向き合って制作を続けた。東京国立近代美術館など、各地の美術館で大規模個展が何度も開かれた。
 戦争体験から、戦没画学生の遺族を回って遺作を集めた画集「祈りの画集 戦没画学生の記録」(共著)を77年に刊行。その遺作を展示する美術館「無言館」(長野県上田市)の設立に、作家の窪島誠一郎さんとともに尽力した。
 東京芸術大教授などとして多くの後進を育てた。東京芸大名誉教授。00年に文化功労者、14年に文化勲章。
 日本エッセイスト・クラブ賞の「四百字のデッサン」(78年)や自伝的エッセー「いつも今日」(05年)などを出し、名文家としても知られた。
 体調を崩し、今月8日から入院していた。

■■評伝
 飄逸(ひょういつ)かつ朗らかに語り、画風も生き生きとした筆が魅力だった。しかしそこに潜む、鈍さ、重さ。102歳の人生をまっとうした野見山暁治さんは「近代」を背負い続けた画家だった。
 日本の産業化を支えた産炭地に生まれ、「すべて人工の中」で育った。美術学校を繰り上げ卒業させられ中国の戦地に向かったものの、病のため終戦は内地で迎えた。
 戦後は故郷のボタ山を描いたこともある。その後、華やかなパリで過ごし、伸びやかなタッチを獲得し、実際の風景や写真から心象とも抽象ともいえる画風を確立した。
 絵が売れることや名声には関心がなく、教員時代は多くの学生から慕われた。「無言館」に結実する戦没画学生への思いは強く、文化勲章を受けた後も「友人は戦争で亡くなったのに後ろめたい」と語った。
 晩年まで福岡県のアトリエ近くの海に潜り、活力に満ちた筆の伸びは永遠に元気なのではと思わせるほど最晩年まで衰えを見せなかった。「生き残った」身体をフルに動かした跡であり、100歳にして、絵を描くことは「こんなに楽しいものか」という境地を語っていた。
 産業化で富を生む一方、戦いや多くの矛盾を抱えた近代という時代。野見山さんは、その光と影を身をもって、色と形が溶け合う表現で示した人だった。

■■野見山暁治さんの歩み
1920年 福岡県穂波村(現・飯塚市)生まれ018
 38年 東京美術学校予科入学
 43年 同校油画科を繰り上げ卒業
 48年 自由美術家協会賞
 52年 私費留学生として渡仏(64年まで)
 58年 安井賞
 72年 東京芸術大教授に
 96年 毎日芸術賞
2000年 文化功労者に
 03年 東京国立近代美術館などで個展
 14年 文化勲章
 20年 東京メトロ・青山一丁目駅にステンドグラス
(『朝日新聞』)

直接、光太郎に関わられた方ではないのですが、当方、一度お会いしてお話を伺いました。氏は早世した荻原守衛を除いてほぼ唯一、光太郎が高く評価した彫刻家・高田博厚とパリで親しくなられ、昭和32年(1957)、高田の帰国に伴い、高田が使っていたアトリエを引き継いだ方です。そのため、高田の顕彰に力を入れている埼玉県東松山市に招かれ、平成30年(2018)に作家の堀江敏幸氏と公開対談をなさいました。その際にはおん年97歳。ジーパン姿でいらっしゃり、それがよく似合っていて舌を巻かされたのもいい思い出です。
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その前年に、鎌倉の高田のアトリエ閉鎖に伴い、そちらにあった作品や遺品類等が東松山市に譲渡されることとなり、その際にも一肌脱がれています。そこで、翌年の公開対談に繋がったようです。遺品類の中には、光太郎に関わる品も含まれていました。

また、記事にある通り、長野県上田市に開設された戦没画学生の作品を集めた「無言館」さんの設立にもご協力。この件は、昨年、日本テレビさん系で放映された「24時間テレビ45スペシャルドラマ 無言館」で描かれ、興味深く拝見しました。野見山氏の役は寺尾聰さんでした。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

この間母のなくなりました時はおこころのこもつた御てがみをいただいてあの時大変に慰められました。


大正14年(1925)10月6日 室生犀星宛書簡より 光太郎43歳

前月、光太郎の母・わかが68歳で大腸カタルのため亡くなりました。髙村家(光雲は健在)では、これを機に墓所を浅草の寺院から染井霊園に移し、墓石を新しく建立しました。これが現在も残っているものです。

訃報を2件。

まず、彫刻家にして元東京藝術大学さん学長の澄川喜一氏。今朝の『朝日新聞』さんから。

澄川喜一さん死去 彫刻家 スカイツリー監修

000 抽象的な木彫で知られた文化勲章受章者で、東京芸術大学長も務めた彫刻家の澄川喜一(すみかわ・きいち)さんが4月9日に91歳で死去していたことが分かった。同大学が発表した。
 島根県に生まれ、山口県の錦帯橋を見て木の造形にひかれ、同大学で彫刻を学んだ。母校の教授や美術学部長を歴任し、95年~2001年に学長を務めた一方、新制作展を中心に作品を発表。70年代後半から続く、木の反りを生かした抽象的な「そりのああるかたち」シリーズで評価された。 その造形性を生かし、東京湾アクアライン川崎人工島「風の塔」に関わり、東京スカイツリーではデザイン監修。平櫛田中賞、本郷新賞といいた彫刻賞のほか、日本芸術院会員にもなった。各地で石や金属による野外彫刻も多く手がけた。

戦後、東京美術学校から改組された東京藝術大学さんの美術学部彫刻科を卒業され、母校の教壇に立たれました。光太郎の父・光雲から連綿と続く同大の彫刻の伝統を受け継ぎつつも、革新的な抽象彫刻を得意とされました。さりとて具象彫刻を否定されたわけではなく、公共空間での彫刻のあり方として、光雲が主任となって制作された上野の西郷隆盛像などは高く評価なさいました。また、氏は島根県のご出身で、同郷の森鷗外の顕彰などにも関わられたことがありました。

もうお一方、昨日、亡くなられました。高村光太郎研究会にご所属されていた西浦基(にしうら・はじむ)氏。『雨男 高村光太郎』(平成21年=2009 東京図書出版会)、『高村光太郎小考集』(平成30年=2018 牧歌舎)と、2冊のご著書がおありでした。
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しばらく前から闘病されていたそうでしたが、昨年の高村光太郎研究会ではご病気をおして発表、今年の第67回連翹忌の集いにもご参加下さいました。

お通夜が本日6月22日(木)18時~、告別式は明6月23日(金)11時~、それぞれ大阪府泉南郡田尻町葬祭場(〒598-0092 大阪府泉南郡田尻町吉見335番地1)で執り行われるとのことです。

澄川氏、西浦氏、謹んでご冥福をお祈りします。

【折々のことば・光太郎】

急に来たくなつて、昨夜遅く高崎へ来て、今朝一番の汽車で沼田へ行くところです。右の窓には例の赤城、左には榛名がすつかり晴れ渡つて見えます。 今日は又山を歩いて法師の湯までゆかうと思つてゐます。


大正14年(1925)6月30日 水野葉舟宛書簡より 光太郎43歳

温泉好きだった光太郎、東京在住時には、特に上州の温泉をよく訪れました。「例の赤城」とあるのは、かつて水野と共に赤城山の猪谷旅館に長期滞在したことがあるためです。



今年2月、平凡社さん刊行、和田博文氏著の『日本人美術家のパリ 1878-1942』に関し、6月17日(土)、『東京新聞』さんから。

<土曜訪問>時代の風景 読み解く 1次資料駆使し日本モダニズム探る 和田博文さん(東京女子大特任教授)

000 近代日本の美術家は“芸術の都”パリにどう迎えられ、何を学んだのか。東京女子大特任教授の和田博文さん(69)の『日本人美術家のパリ1878−1942』(平凡社)は、明治から昭和戦前期の美術家たちのパリ体験に焦点を絞った最新の単著だ。高村光太郎、佐伯祐三、藤田嗣治らが、言葉や習慣の違いに戸惑いながらも新しい表現を求めて苦闘する日々を、彼らの手記や当時の紙誌の記事の資料をもとに丹念に跡付けた。
 「私は美術の専門家ではないですが」と前置きして「戦前の美術雑誌に載っているパリ関係の資料を、一度全部洗ってみようと。これはたいへんな作業で、誰もやったことがないんです」と大部の自著に達成感をにじませた。
 文化史、比較文化が専門で、とくに「モダニズム」研究の分野のトップランナーだ。モダニズムは、十九世紀末から二十世紀初めに世界で起きた文芸変革の潮流であり、和田さんはその時代のさまざまな資料の収集と調査、復刻を通じて、日本でのモダニズムの実相を明らかにしてきた。
 作家の宇野千代が一九三〇年代に創刊した雑誌『スタイル』は、女性の映画俳優を採用して洋装和装を問わず最先端の流行を発信。ファッション以外の趣味の文化を取り込む中で、食器の専門家として登場させたのが、シュールレアリスム詩誌『リアン』を創刊、マルクス主義にも傾倒した竹中久七だったことを突き止めた。
 また、そのころ文学雑誌に文学者の顔写真が掲載されるようになり、それが文学の読まれ方にどう影響したのかを考察した。「中原中也の瞳のぱっちり開いた、いかにも無垢(むく)な印象の写真が、彼の詩の読まれ方と連動した」。「モダンガール」の実像に迫るため、写真雑誌『アサヒカメラ』を端から端まで読んだ。
 和田さんは「モダニズムとは、最も新しいものに価値を見いだすという意味」と定義する。モダニズム期の一次資料(本、雑誌、詩集、写真、ポスターなど)からは、西洋のハイカラな文化や技術が、時間をかけて日本化されていく過程を読み取ることができる。「一次資料と向き合っていると、つくられた時代の風景がよみがえってくる」
 詩を研究していた三十代前半のころに転機があった。学生時代の友人が開いた古書店、石神井書林(東京都練馬区)との出会いだ。短詩系文学の専門で、有数の目録を誇っていた。「店主が古書つまり一次資料の話をしても、私は何も分からなかった」。全集と、誰かが書いた評論を机に置いて論文を書いても、それらを通り道に同じような論を再生産していくしかない。一次資料を徹底的に集めて論文を書くという研究スタイルに方針を転換した。
 ただ、戦前の古書は高額で一冊数万円はざらだ。当時勤めていた大学とは別に非常勤で勤めたりもして、一次資料の購入を続けた。その額は計約四千万円にも。この膨大な蓄積が、全百巻のシリーズ「コレクション・モダン都市文化」(ゆまに書房)の監修などに実を結んだ。
 「一次資料はジャンルに関係なく、どんどん広がっていき、ジャンルの違う資料が結び付いた時に、新しい知的なテーマが生まれる。だから私は、特定の専門の研究者ではなく、ジャンルをクロスする研究者になった」
 肩書は「人文学科日本文学専攻特任教授」だが、作家個人の名前を冠して書いた本は、宮沢賢治についての一冊だけという。
 六〇年代に日本近代文学館ができて資料を集め、出版社と大学の研究者と協力して個人全集を刊行する「作家主義」が隆盛したが、それも八〇年代終わりに終了したとみる。岩波書店も筑摩書房も今は個人全集をほとんど出していない。「全集を通して見えてくる風景が目新しくなくなった」
 かといって、近代文学が全く読まれないかというとそうではない。二〇一七年に編んだ二巻の『猫の文学館』(ちくま文庫)は多くの読者を獲得した。寺田寅彦、太宰治、佐藤春夫らの作品から、猫が生き生きと描かれる短編やエッセーを集めた。猫がいかに豊かなインスピレーションを作家に授けたかを知る、ユニークなアンソロジー。「作家主義は終わったが、文学はまだ面白い可能性を秘めていることを、いろいろな切り口で伝えたい」
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『日本人美術家のパリ 1878-1942』。好著だな、と感じつつ拝読したのですが、その舞台裏というか、制作秘話というか、なるほど、こういうことだったか、と思いました。

和田氏の強調されている「一次資料」の大切さ。まさにその通りですね。「一次資料はジャンルに関係なく、どんどん広がっていき、ジャンルの違う資料が結び付いた時に、新しい知的なテーマが生まれる」というくだりなど、まさに光太郎の実像を追究しようとする当方にとっては、我が意を得たり、です。

また、「戦前の古書は高額で一冊数万円はざらだ」も。そこで、国会図書館さんなどのデジタルアーカイブの普及が非常に有り難いのですが、結局、光太郎について多くのページを割いている書物はプリントアウトするより買ってしまった方がよく、しかしおいそれと手が出せなかったりもしています。

それにしても「岩波書店も筑摩書房も今は個人全集をほとんど出していない」はショックでした。云われてみればそんな感じはしていたのですが。ただ、逆に中小の出版社さんがいい個人全集に取り組んでいる例も見られ、頑張って欲しいなと思っています。

光太郎全集は増補改訂版が平成10年(1998)に完結。しかし、その後も故・北川太一先生や当方の渉猟で、未収録作品等の発見が大げさに云えば日々続いています。先述の国会図書館さんのデジタルデータリニューアルに伴い、見つかりすぎるほど見つかって、現在、探索は少し休止中です。ちょうど10年後には、光太郎生誕150周年。そのあたりでもう一度光太郎全集の改訂を行いたいものですが……。

ところで上記記事の最後にある『猫の文学館』(ちくま文庫)についてはこちら。『日本人美術家のパリ 1878-1942』同様、光太郎にも言及されています。併せてお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間片山さんがロマン ロランのてがみを持つて、高田君尾崎君と三人で来てくれました。 初めてあつて愉快でした。ロランのてがみは私を強く動かしました。

大正14年(1925)5月11日 田内静三宛書簡より 光太郎43歳

「片山さん」は片山敏彦。ロマン ロランと文通をしていました。「高田君」が高田博厚、「尾崎君」で尾崎喜八です。翌年には彼等と「ロマン ロラン友の会」を結成する光太郎、明治末のパリ留学中にはロマン ロランの家のすぐ近くに住んでいたのですが、その際にはそれを知りませんでした。

詩人の若松英輔氏。これまでのご著書オンラインラジオでの講座などで、たびたび光太郎を取り上げて下さっています。

最近また2件ほど。

6月10日(土)の『日本経済新聞』さん。

言葉のちから 書くとは〜高村光太郎と内村鑑三 若松英輔

 本を世に送ると「作者」という呼び名が与えられ、本に記されていることを何でも知っているように遇される。だが、実感は違う。作品名や本の題名は覚えていたとしても何を書いたのか、その本質はよく分かっていない。人は意識だけでなく、いわゆる無意識を活発に働かせながら書くからである。さらにいえば、意識が無意識とつながったとき、真の意味で「書く」ことが始まるとすらいえるように思う。
 部屋は本で埋まっているが、自分の本はない。
 最初の本を手にしたとき、奇妙というより、いわく言い難いという意味で妙な気分に包まれた。自分の名前が記されているのだが、自分のものではない心地が強くしたのだった。本はたしかに手のなかにある。しかし、本の本質というべきものは、すでに翼を得て、未知なる読者にむかって飛び立っていったように感じた。気が付かないうちに大人になった子どもが、自分の道を見つけて親に後ろ姿を見せながら前に進んでいくような光景が胸に広がったのである。
 書くことは手放すことである。書くことは言葉を育むことでもあるのだろうが、それは手放すことで完成する。彫刻家で詩人でもあった高村光太郎に「首の座」という詩がある。この詩を読んだとき、自らの実感を裏打ちされたように感じ、創作の真義をかいまみたようにも思った。
 「麻の実をつつく山雀(やまがら)を見ながら、/私は今山雀を彫つてゐる。/これが出来上ると木で彫つた山雀が/あの晴れた冬空に飛んでゆくのだ。/その不思議をこの世に生むのが/私の首をかけての地上の仕事だ。」(『高村光太郎詩集』)
 光太郎の彫刻に魅了されるのは、彫刻の形や姿が美しいからだけでなく、そこに生じた不可視ないのちの実在にふれるからなのではないか。彫刻家はいのちを生む。しかし、それを自分の手のなかに留めておくことはできない。手放すことで彼の仕事は完遂する。
 こうしたことは、本や彫刻にだけ起こるのではない。自分以外の人に対して行ったよいことや、成し遂げたと思えるようなものすべてにおいて留意すべきことなのだろう。意味あるもの、真の意味で善き出来事にするためには「手放す」さらには「忘れる」という営みの門をくぐらなければならない。
 経歴や過去の実績の話を得意げにされると興ざめになる。そこに立ち顕われるのは、影のようなもので、今、生きているその人ではない。過去を誇る人は、もっとも魅力があるのはかつて行ったことではなく、それらを昇華させ今、ここに存在しているその人自身であるのを忘れている。
 過去に失敗を経験した人は、簡単に過去を語らない。それを昇華させ、行動しようとする。そうした人が語り、あるいは語らずとも体現する何かに異様なまでのちからがあるのは、今を生きることの重みを無意識に実感しているからだろう。
 何かに執着し、誇ろうとするとき、人はそれを強く意識している。そのようなとき無意識はあまり活発に働いていない。人生もまた、一つの創作である。むしろ、今を生きるということ以上に、創造性を求められることはないのである。
 どう生きるかばかりに気をとられている人の言動が表現しているのは、ほとんどの場合、方法である。しかし、生きるとは何か、その本質を問う人は、生の本質を無言のうちに体現する。人は求めているものを全身で物語っている。
 人生の隠された意味、人生の秘義を体現する人は、必ずしも世にいう成功者ではない。ひたむきに生きる市井の人たちのなかにも賢者は存在する。
 無教会のキリスト教を説いた内村鑑三に『代表的日本人』という著作がある。原文は英語で内村はこの本を世界に向けて書いた。その試みは成就し、ケネディ大統領が愛読したという話もある。日本に陽明学をもたらした中江藤樹の章で内村は「真の感化とはなんであるか、この人物に学ぶがよろしいでしょう」と書いたあとこう続けた。
 「バラの花が、自分の香を知らぬと同じく、藤樹も自分の影響を知りませんでした」(鈴木範久訳)。美しい香りを身にまとい生きている人でも自らが放つ香りに気が付かず、うつむき加減でいることもある。その人自身が見過ごしているよきもの、そうした何かを見いだすのは他者の役割である。見過ごされがちな善きことに何を学ぶか。ここに人生の行き先を決定する重大な鍵があるように思われる。

引用されている光太郎詩は「首の座」(昭和4年=1929)。
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    首の座

 麻の実をつつく山雀(やまがら)を見ながら
 私は今山雀を彫つてゐる。
 これが出来上ると木で彫つた山雀が
 あの晴れた冬空に飛んでゆくのだ。
 その不思議をこの世に生むのが
 私の首をかけての地上の仕事だ。
 そんな不思議が何になると、
 幾世紀の血を浴びた、君、忍辱(にんじよく)の友よ、
 君の巨大な不可抗の手をさしのべるか。
 おお否み難い親愛の友よ、
 君はむしろ私を二つに引裂け。
 このささやかな創造の技は
 今私の全存在を要求する。
 この山雀が翼をひろげて空を飛ぶまで
 首の座に私は坐つて天日に答へるのだ。


「山雀」は「やまがら」。日本全域に広く分布している野鳥です。ただし、光太郎が彫ったという山雀の木彫は写真すら確認できていません。どこかにひっそりと残っていないものでしょうか。同じ野鳥の木彫でも「うそ」(大正14年=1925)は現存しています。

「首の座」は罪人が斬首される際に座らせられる場所、またはそのような絶体絶命の状況。「土壇場」ともいいます。そういうところにいるつもりで造型芸術に取り組んでいるのだよ、ということでしょう。

若松氏、この詩の引用後、「彫刻家はいのちを生む。しかし、それを自分の手のなかに留めておくことはできない。手放すことで彼の仕事は完遂する。」と述べられていますが、これは「智恵子抄」所収の「美の監禁に手渡す者」(昭和6年=1931)を下敷きになさっているのだと思われます。


    美の監禁に手渡す者無題2

 納税告知書の赤い手触りが袂にある、
 やつとラヂオから解放された寒夜の風が道路にある。

 売る事の理不尽、購ひ得るものは所有し得る者、
 所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。

 両立しない造形の秘技と貨幣の強引、
 両立しない創造の喜と不耕貪食の苦(にが)さ。

 がらんとした家に待つのは智恵子、粘土、及び木片(こつぱ)、
 ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、つぶれる。

この時期、プロレタリア文学者やアナーキスト達と近い立ち位置だった光太郎ですが、その生活は、彫刻を買ってくれたり、肖像制作を注文したりしてくれる者――多くは資本家など、光太郎の大嫌いな俗世間での成功者――に支えられていました。そのあたりの苦悩が謳われています。

若松氏、もう1件、『中央公論』さんの今月号では光太郎の父・光雲に触れて下さっています。
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AI時代のことば力」の総題で数名の方が寄稿されている内の一篇、「沈黙のすすめ 好奇心を疑い、問う力を養う」と云う記事です。

曰く、

 詩人・高村光太郎の父である彫刻家・高村光雲の自伝『幕末維新懐古談』に「ノミが仕事させてくれない」というような言葉が出てきます。「ノミはただの道具ではない」「ノミが俺を連れて行く」と言いたくなることがあるのだと。
 私がものを書くときも、自分で書こうとしているときは上手くいかず、言葉が自分を連れて行ってくれたと感じるときほどよい仕事ができているように感じています。人との対話も同じで、人と人との間に関係ができれば、言葉が私を導いてくれる。


およそ文学でも造形芸術でも、それから音楽や舞台芸術等も含め、クリエイティブな仕事をする人間には、「ノミが俺を連れて行く」という感覚は「あるある」ではないでしょうか。もっとも、そうなるまでの修業というか、その境地に至るまでの努力というか、それが無ければ無理なのでしょうが。

そういった観点も含め「AI時代のことば力」、様々な分野の方がいろいろ論じられています。ぜひお買い求めを。

ところでAIと云えば、時事通信さんの配信記事でこんなのが出ました。

高村光太郎やミケランジェロをAI学習、像展示 スウェーデン

【AFP=時事】スウェーデンの首都ストックホルム国立科学技術博物館で現在、ミケランジェロ(Michelangelo)や高村光太郎(Kotaro Takamura)ら、彫刻界の巨匠5人の作品を人工知能(AI)に学習させてつくり上げられた彫刻「不可能な像」が展示されている。
 創造性とアートについての従来の概念に揺さぶりをかけるステンレス鋼製の像は、高さ1.5メートル、重さ500キロ。下半身を金属に覆われた中性的な人物が、片手でブロンズ製の地球をつかんでいる。
 コンセプトは、それぞれの時代に足跡を残した5人の著名な彫刻家の作風をミックスさせた作品をつくり出すことにあった。
 選ばれたのは、イタリアのミケランジェロ(1475-1564)、フランスのオーギュスト・ロダン(Auguste Rodin、1840-1917)、ドイツのケーテ・コルビッツ(Kathe Kollwitz、1867-1945)、日本の高村光太郎(1883-1956)、米国のオーガスタ・サベージ(Augusta Savage、1892-1962)。AIに5人の彫刻作品の画像を大量に学習させたという。
 三つのAIソフトを駆使して作品をつくり上げたスウェーデンの機械工学グループ「サンドビク(Sandvik)」の広報は、「現実には共同作業があり得なかった5人の巨匠による像」だと説明している。
 だが果たしてこれは芸術なのか、それとも技術の成果なのだろうか。
 同館で企画を担当しているジュリア・オルデリウス氏はAFPに、「これは人間がつくったものとは思えない」と指摘した上で、「芸術とは何かを定義することはできない。これは芸術だ、これは違うと考えるのは、人によって異なる。判断するのは作品を鑑賞する人それぞれだ」と語った。
 アート界におけるAIの役割について議論が行われる中、AIをめぐる未来については悲観していないと話す。
 「AIが創造性やコンセプト、アートやデザインについて行うことを不安に思う必要はない」「テクノロジーがコンセプトやアートを生み出す方法の一部になる新しい未来に適応していく必要があると思う」と話した。
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「何だかなぁ」という感じでしたので、今日まで取り上げずに来ました。

結局、AIには「首の座」に坐って物事を成し遂げる、という覚悟など持ちようがないわけで、そうなると光太郎が不可欠とした「生(ラ・ヴィ)」など、そこには存在し得ないわけです。

といって、人間が造ればこれ以上のものが必ず出来るかというと、そうでもありませんね。結局、「ノミが俺を連れて行く」という境地に達していない者の作で、「AI以下」と云われても仕方のないようなものもまかり通っているような気がしますし……。

「クリエイト」、実に難しいものです。

【折々のことば・光太郎】

今日「天上の炎」の印税貳百円たしかにおうけとりしました。こんなにもらつてはすまないやうな気もしますが又思ひがけない時にもらつて大変たすかります、

大正14年(1925)3月23日 木村荘五宛書簡より 光太郎43歳

「天上の炎」はベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの訳詩集。新しき村出版部から刊行されました。
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彫刻が寡作だった光太郎、こうした翻訳での収入がかなり大きかったようです。

グルメ系の取り組み3件です。

まず、光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんがメニュー考案に協力され、毎月15日、「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。かつて光太郎が自分で作ったりした料理を現代風にアレンジしたメニューが含まれるもの。今月分の画像等送っていただきましたのでご紹介します。
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今月のメニューは、「シュガートースト」、「グリーンピースのバターライス」、「鮭の塩焼き」、「豚肉と筍の煮物」、「イカとミズの酢味噌かけ」、「蕗の油炒め」、「卵焼き」、「蓬餅のきな粉かけ」だったそうです。

ミズや蕗、蓬など、山菜系がふんだんですね。かと思うと洋風のシュガートーストやバターライス。見事に東西の味覚が融合しているようです。

毎月15日、店頭販売は10食限定ということなのですが、予約が入ったのでしょうか、19食出たそうです。ありがたし。

2件目、同じくやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」の名で、先月から参入されている、花巻市東和町の「ワンデイシェフの大食堂」さん。「一般の主婦(男性)やOL、学生、プロなどが日替わりでシェフになって、ランチを提供するレストラン」というコンセプトのお店です。

こちらも15日(木)だったそうで、やはり画像等送って下さいました。
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メニュー的には「ちりめん山椒ご飯」、「ローストビーフと彩り野菜のガレットロール」、「むね肉の香味焼き」、「山菜ミズのたたき」、「ゼンマイの煮物」、「菊芋とラディッシュのピクルス」、「サヤエンドウと南瓜のサラダ」、「赤魚とミズのお吸い物」、「黒豆ゼリー」、「カフェドシトロン」。こちらでも旬のミズが使われていまして、光太郎詩「山菜ミズ」(昭和22年=1947)のレクチャーもして下さったそうです。

社会教育系の「シニア大学」の団体さん、先月も入らしたリピーターの方、今月初めてという方など、こちらも36食完売だとのことで。

お客様の声。「ウワバミ草(ミズ)って初めて知った」「父が好んで酒の肴にしていた」「手が込んでいる」「工夫されててどれもおいしい」「菊芋のピクルスをもっと食べたかった」「メニュー表を見ながらこれは何と味わった」だそうです。

3件目、富山県高岡市から。以前にやつかの森LLCさんが考案したレシピを元に、「光太郎ランチ」として個人でご自宅を開放して振る舞われている、茶山千恵子さんの取り組み。6月6日(火)、7日(水)、18日(日)と、3回行われたそうです。
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読書会を兼ねての開催だそうで、岐阜の高山、石川の金沢や七尾からいらしたという方も。
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茶山さん、来月は「宮沢賢治セット」で「ざる蕎麦」「炭酸ソーダ」「人参フライ🥕私流」「サラダ」だとのこと。

今後とも末永く継続して行っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

無題3木喰上人の遺跡絵葉書お送り下されて忝く存じます。柳さんの研究で図らず世に出た此等の彫刻を興味深く見て居ります。


大正14年(1925)1月30日 
硲真次郎宛書簡より 光太郎43歳

木喰は江戸時代後期の僧侶。100年程前の円空同様、諸国を行脚しながら独特な木彫の仏像(いわゆる木喰仏)を彫り続けました。近代に入ってのその再評価には、「柳さん」=柳宗悦の功績が大きかったようです。

光太郎のそのプリミティブな美を高く認め、「徹底した庶民的無差別的無我没入の境」(「技法について」昭和16年=1941)と評しています。







光太郎智恵子ゆかりのお店ということで、当会主催の連翹忌の集いで使わせていただいている日比谷松本楼さん。今年が創立120周年だそうです。

以前に紹介したつもりでいたのですが、忘れていた件がありました。

日比谷松本楼120周年記念特別プラン

期 間 : 令和5年4月1日から令和6年3月31日
会 場 : 日比谷松本楼本店2F/3F 個室・宴会場
料 金 : おひとりさま ¥12,000(4名様より)

お祝いのお席・同窓会・同期会・OB会・ご卒業記念・社内懇親会などさまざまなお楽しみのお席に、今年で120周年を迎える松本楼のあゆみをお料理でご堪能いただける特別なプランをご用意いたしました。

MENU
 ジャルダン・ドゥ・レギューム 季節野菜の菜園風 5代目シェフ六川スタイル
 八丈島うみかぜ椎茸のポタージュカプチーノ仕立て
 松本楼初代出身地より 
  信州サーモンの温かいキッシュ 東京ビーフの生ハムとセップ茸のコンフィ
 夏目漱石 小説「野分」の牛フィレ肉のステーキ 松本楼伝統のデミグラスソースとともに
 〆のハイカラ カレーライス または ハヤシライス
 詩集「智恵子抄」より 光太郎と智恵子のアイスクリームサンデー
 ⻑崎県そのぎ茶のパン・まつもとロール
 珈琲
※ 食材の仕入れ状況などによりメニューの内容が変更になる場合があります。

★ 特典 ★
 1: 乾杯用スパークリングワイン付
 2: フリードリンク(2時間)追加おひとりさま ¥3,000
 3: お祝いのホールケーキを特別価格でご提供
 4: 松本楼のレトルト食品を特別価格でご提供
 5: 花束・卓上装花をフローリストよりご提案いたします。(別途料金)

ご利用案内
料金にはお料理・乾杯酒・お部屋代・サービス料・消費税が含まれています。
ご利用時間は2時間を基本として、延⻑は30分ごとにおひとりさま ¥1,500のご負担となります。

お電話でのお問い合わせ
tel 03-3503-1453(日比谷松本楼本店 宴会営業部)
受付時間 10:00~20:00
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新潮文庫版『智恵子抄』所収の詩「涙」(大正元年=1912)に登場する「氷菓」=アイスクリームサンデーをメニューに入れていただきました。ありがたし。

ついでにと云うと何ですが、テレビ放映情報も

新美の巨人たち レトロ建築in日比谷公園×杏子(バービーボーイズ)

BSテレ東 2023年6月17日(土) 23:30~00:00

東京・千代田区「日比谷公園」は、今年で120周年。園内にはレトロな建物たちが感動的な美しさを今に伝えている。音楽の聖地「野音」も今年で100年、そんなレトロの美こそ「100年浪漫」。

日本初の近代西洋風公園には、各時代の建造物(「市政会館・日比谷公会堂」「日比谷松本楼」「日比谷図書文化館」「日比谷公園大音楽堂」など)が建ち並んでいます。威厳に満ちた「時計塔」、「日本のカーネギーホール」と呼ばれた音楽の殿堂…さらに「野音」のたくましき存在感。そんな「100年浪漫」の美の世界へ。

出演者 アートトラベラー:杏子(バービーボーイズ)  ナレーション:渡辺いっけい

音楽 【オープニング&エンディングテーマ】 作曲・編曲 亀田誠治
   オープニング曲「カミーユ」 エンディング曲「雨のカフェテラス」

系列の地上波テレビ東京さん系で、6月3日(土)に放映された回です。

日比谷公園さん自体も120周年だそうで、園内のさまざまな施設等が紹介されました。その中で、松本楼さんも。

当時の東京市のコンセプトが、「三つの洋」を取り入れることだったそうで……
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一つ目は、西洋の花卉。同園、現在も色とりどりのお花でいっぱいですね。
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二つ目で、野音や日比谷公会堂などによる、洋楽の普及。
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そして三つ目が……
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そこで、松本楼さん。
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日露戦争後の日比谷焼き討ち事件などがありましたので、現在の建物は昭和48年(1973)竣工の3代目だそうです。勝手にもう少し新しいと思い込んでいましたが、実はもうちょうど50周年なのですね。意外でした。
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そして……
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「来た来たぁ、光太郎、出るかぁ」と思ったのですが……
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残念、漱石にしてやられました(笑)。
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松本楼さんとしても、コスパを考えれば氷菓よりフィレステーキを推してほしいでしょうし(笑)。このステーキも上記「120周年記念特別プラン」に入っていますね。

さて、番組をご覧の上、「120周年記念特別プラン」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ロダンの彫刻もお返却しようと思ひながら一日一日と見てゐるのでのびて、此も大変長くなりました。近くお返しいたします。


大正13年(1924)6月8日 木村荘五宛書簡より 光太郎42歳

「ロダンの彫刻」は、明治44年(1911)、ロダンから白樺同人一同に贈られた三点のうちのどれか、または全部と思われます。またはその後、武者小路実篤や安達峰一郎(外交官)らがロダン作品を入手しており、そのあたりかもしれません。
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同人中の誰よりもロダンを敬愛していた光太郎ですので、なかなか手放せなかったようです。さすがに借りパクはしなかったようですが(笑)。
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この葉書も当方手元にあります。

新刊雑誌2件、ご紹介します。

まず、集英社さんで発行している文芸誌『kotoba』2023年夏号 。
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文芸誌と言っても、そう堅苦しいものではありません。新しい時代の表現や言葉のあり方をさまざまな切り口から論じたりといった文章が中心ですが、軽妙なエッセイや対談等も載り、読みやすいものです。扱われているモチーフも、メタバースやブルース・リー、漫画の『攻殻機動隊』、プロ野球にJリーグ、そうかと思うと憲法や原発など、硬派の話題も。4月に信州安曇野の碌山美術館さんでお会いした、東京藝大の布施英利氏の玉稿も載っていました。

その中で、英米文学者・阿部公彦氏の連載「日本語「深読み」のススメ」で、光太郎や谷川俊太郎氏の作品を引きつつ、詩が論じられています。サブタイトルは「詩の命」。

梗概的に「なぜ、詩は「形が命」といわれるのか。詩の「形」でとくに大事なのは何か。改行と繰り返しという、詩の形式の中でもごく地味な要素に注目すると私たちの言葉との付き合いの本質が見えてくる。」とあり、そのとおり、主に口語自由詩における改行とリフレインについて論じられています。

例として上げられているのが、光太郎詩代表作の一つ「道程」(大正3年=1914)。9行に分かち書きされている詩ですが、これを改行しないで書くとどうなるか、ということで……
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恐ろしく違和感がありますね。

では、その違和感の原因はどこにあるのか……といった話が一つ。

それから、末尾二行の「この遠い道程のため」を例に、リフレインの持つ効果についても論じられています。

他に、谷川俊太郎氏の「生きる」(有名な「生きる」が二種類ありますが、昭和31年=1956発表のソネットの方)も例としてあげられています。

口語自由詩の「改行」については、昔から論争の種です。古くは大正期、北原白秋と白鳥省吾・福田正夫らの間で、丁々発止のやりとりがありました。「改行がなかったらただの散文だろ」みたいな。

白秋は白鳥の「森林帯」という詩を槍玉に挙げています。その冒頭部分。

 萱や蕨の繁り合つてゐる
 山を越え山を越え
 一だんと高い山から望めば、
 遠い麓の広土は
 青たたみ数枚のやうに小さい、
 哀傷を誘ふほどにも何と云ふ可愛らしい世界であらう。

阿部氏がやったように、白秋はこれの改行をなくし、読点を補って……

萱や蕨の繁り合つてゐる、山を越え山を越え、一だんと高い山から望めば、遠い麓の広土は、青たたみ数枚のやうに小さい、哀傷を誘ふほどにも何と云ふ可愛らしい世界であらう。

白秋曰く

 これは原作者に対しては非常に気の毒ではあるけれども、詩の道の為めと思つて許していただきたい。
 読者はまた、之をただ読み下して読んでいただきたい。さうしてこれがどうしても散文で無い、詩である、自由詩である、と思はれるかどうか、詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れがあるか、どうか、それを感覚的に当つてゐただきたい。


この背景には、ざっくり云えば芸術至上主義的な白秋は「いかに」詩にするかを大切にし、後のプロレタリア文学に連なる白鳥ら民衆詩派は「何を」詩で表すかに軸足を置いていた、という立場の相違もあるようです。

「道程」の改行を取っ払うと非常に違和感があるのは、白秋曰くの「詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れ」が、白鳥のそれには無く(ファンの方、すいません)、「道程」には厳然としてそれが込められているからのような気がします。阿部氏、やはりそういったことを指摘されていますし、リフレインの効果についても、実に的確に論じられています。

まぁ、700余篇確認できている光太郎詩の全てが「詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れ」を持っているかというと、答は否、でしょう。特に戦後の自伝的な連作詩「暗愚小伝」などは、その点を諸家に批判されています。

さて、詩を作る方々、ぜひこちらをご購入なさり、お読みいただきたいものです。

雑誌ということで、ついでにもう1件。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生のさまざまな著作をはじめ、光太郎関連書籍を数多く出して下さっている文治堂書店さんのPR誌的な『とんぼ』。第十六号が届きました。
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今年1月に亡くなった、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエの所有者にして、生前の光太郎にかわいがられた中西利一郎氏の追悼文(文治堂書店社主・勝畑耕一氏と、当方)が載っています。

それから当方の連載「連翹忌通信」。今号は一昨年、茨城取手で発見した光太郎揮毫の墓標について。この連載、そうそうネタがあるわけでもなく、このブログでご紹介したような事柄を改めてまとめ直して使わせていただいております。前号では花巻市に寄贈された光太郎の父・光雲作の木彫「天鈿女命像」と、鋳銅製「准胝(じゅんてい)観音像」について書きました。

そういう意味ではある種、手抜きとも云えるような執筆なのですが、巻末にこんなことを書かれては、いい加減には書けないな、と思う今日この頃です。
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奥付画像を載せておきます。ご入用の方、版元まで。

【折々のことば・光太郎】

どうも何かするのがのろいので自分ながら困ります。


大正13年(1924)5月11日 木村荘五宛書簡より 光太郎42才

原稿が遅れるという言い訳の葉書から。自身を「牛」に例えることもあった光太郎ですので……(笑)。

こちらも当方手持ちの葉書です。
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毛筆で書かれています。墨をすっている暇があったら原稿書けよ、と言いたくなりますが(笑)。

グルメ系で2件。それぞれかつて光太郎が自分で調理したりしたメニューを元に、現代風の料理にアレンジしての取り組みです。

まずは富山県高岡市から。

地元を中心に演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている茶山千恵子氏が、ご自宅を開放して、ランチやらスイーツやらを予約の方々に振る舞われる活動もなさっていますが、今月(5月)から花巻のやつかの森LLCさん考案の「光太郎レシピ」を元に、「光太郎ランチ」の日も設定なさっています。

今月(5月)は1回のみの実施でしたが、ご好評だったということでしょう、来月(6月)は3回に増えました。
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一昨年、やつかの森LLCさんで刊行された「光太郎の食卓カレンダー」のうちの1食分を参考に作られるそうです。

それから岩手。本家のやつかの森LLCさんの活動です。

花巻市東和地区にある「ワンデイシェフの大食堂」さん。「一般の主婦(男性)やOL、学生、プロなどが日替わりでシェフになって、ランチを提供するレストラン」というコンセプトのお店で、こちらも今月(5月)からやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」という名で参入なさっています。
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6月は15日(木)に「こうたろうカフェ」。
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山菜の「ミズ」の語が2回。旬なのでしょう。正式には「ウワバミソウ」という名です。

以前にもご紹介しましたが、光太郎詩「山菜ミヅ」(昭和22年=1947)。
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    山菜ミヅ

 奥山の渓流に霧がこもつて
 岩の間にミヅが生える。山菜づくし
 ウハバミとまではゆかないが
 大きなシマヘビがぬらぬら居る。
 岩手の人はこの不思議な山菜を
 暗いうちから一日がかりで採つてくる。
 山の匂が岩手の町にただよつて
 ミヅは吸物となり煮びたしとなり001
 なんだかしらないどろどろな
 白緑いろのソースとなる。
 岩手の人は夏がくると
 何よりさきにミヅを思ひ出す。
 ぬめりがあつてしやきしやきして
 どこかひいやり涼しくて
 風雅なやうで精気絶倫。
 配給などとけちは言はず
 山の奥にはウハバミサウが
 ぬるぬるざわざわ生えてゐる。

カラー画像は昭和21年(1946)、光太郎が描いたスケッチ、モノクロ画像はそれを元に描かれ翌年の雑誌『婦人公論』第31巻第6号に詩「山菜ミヅ」と共に載ったものです。下の方は鶴首南瓜です。

さて、富山光太郎ランチ、花巻こうたろうカフェ、お近くの方(遠くの方も)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あなたの本を昨日うれしくおうけとりしました あれは雑誌に出たときも愛読したものです 世間でも認めてゐるやうですがあれは全く今の文学壇には珍らしいものです 事件でなしに生活が書かれて居ます あれをよむものは必ずあなたのこころのひゞきをうけとります そしてそのひゞきは人を脅かすものでなくて人をあたためるもの清めるものです 私は此をよみながらいくど微笑しいくど遠くを望み見たかしれません 私のやうに悪の分子の多いものにとつて斯ういふものは実に貴いものに思はれます 実際此をよんであなたを敬愛せずに居られる人が此世にあるだらうかと思はれます あなたに対する私の愛をどうか心からうけとつて下さい


大正9年(1920)3月30日 室生犀星宛書簡より 光太郎38歳

あなたの本」はこの月、新潮社から刊行された犀星の小説『結婚者の手記 あるひは「宇宙の一部」』。何だかほめ殺しに近いような手放しの賛辞ですね。

犀星と光太郎の関係は、なかなかに複雑です。犀星、昭和4年(1929)には光太郎をして「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。」(『天馬の脚』)と書いていたのに、光太郎歿後には「高村光太郎の伝記を書くことは、私にとって不倖な執筆の時間を続けることで、なかなかペンはすすまない、高村自身にとっても私のような男に身辺のことを書かれることは、相当不愉快なことであろう。」(『我が愛する詩人の伝記』)。

残された書簡によれば、互いの母親が亡くなった際にはそれぞれ衷心からのお悔やみ、励ましなど交わしていたようなのですが……。

一昨日のSBS静岡放送さんローカルニュースから。

梅酒づくりのシーズン到来。気をつけないと酒税法違反の可能性も

 もうすぐ梅の実の収穫シーズンです。肉厚で種が小さい品種「八房梅(やつふさうめ)」の栽培が盛んな静岡県島田市伊太地区の梅の畑では収穫を間近に控えた実がたわわに実っています。
 梅の生産から加工販売までを手掛ける「梅工房おおいし」の大石富佐子さんは「天候にも恵まれて、生育は順調。4トン程度の収穫を見込みたい」と話しています。
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 またスーパーやホームセンターには、梅酒づくりに使うビンや氷砂糖などが並び始めました。7月の季語でもある梅酒。アルコールの血行促進効果とクエン酸成分などが日々の疲れを取ってくれることから、日本では古くから多くの家庭で梅酒づくりが行われています。
古くは「薬」として利用されていた梅
あれも、これも法律違反に?
 「友人・知人に好評の自慢の梅酒。美味しさの秘密はホワイトリカー(甲類焼酎)でなく、日本酒とみりんで漬け込む特別なレシピ。あまりに評判がいいので、小分けにしてビン代程度のお金をもらっておすそわけするようになりました」。一見、なんの問題もなさそうな「梅酒の風景」ですが、実はその全てが酒税法に違反しています。手軽に作ることができる梅酒ですが、作り方から飲み方まで、法律で厳しく定められているのです。

あくまで「個人で飲むのであれば」
 本来どのような形であれアルコール度数1度以上の「お酒」を作るには酒税法に則って許可を取り、酒税を納めることが義務付けられています。しかし、梅酒づくりは1697(元禄10)年の『本朝食鑑』にも記されているほど日本人の生活に根を下ろした風習です。酒税法も「自分と家族が飲むのであれば」という条件付きで梅酒作りを例外としています。ですから友人・知人に評判になるほど広く振る舞うのはNGです。以前、関西のテレビ番組内で作った梅酒をゲストに振る舞う場面を放送してしまい、その局は後日謝罪放送をしました。

アルコール度数は20度以上が条件
 日本酒やみりんはホワイトリカーより旨味を多く含みます。しかし、法律では梅酒に使用する酒類はアルコール分20%であることと定めています。アルコール度数が低いと混入した野生酵母により発酵が進み、使ったお酒の本来のアルコール度数を上げてしまいますが、これも禁止行為。法律では酵母が働かなくなる20度以上のアルコールを使うように指示しています。毎日の料理を紹介する長寿テレビ番組ではみりんで作る梅酒を紹介し、後日内容を修正して放送したこともあるようです。
梅酒用の酒はどれも35度以上です
自家製梅酒の販売は厳禁
 もちろん無許可の販売は禁止されています。戦後の混乱期は各地で「カストリ」「どぶろく」など無許可の酒が横行し、当時の新聞にも税務署による大掛かりな取締の様子が記録されています。一方で家庭での梅酒づくりは続けられていたのでこの矛盾を解消するため1962年の酒税法改正で「家庭内での消費に限って梅酒づくりは合法」となりました。
 旅先の旅館の食前酒として手作りの梅酒が出されることがありますが、これは税務署への届け出をして①旅館内で作り、消費する、②量の上限を守る③土産として販売しない、といった条件の下、認められているそうです。

注文で作り、その場で飲めばOK
 それでは、バーなどで、複数の酒を混ぜて作るカクテルは「酒造り」に該当しないのでしょうか。法律では「酒類に水以外の物品を混和した場合において混和後のものが酒類であるときは、新たな酒類を製造したものとみなす(酒税法第43条)」としています。例えば「スクリュー・ドライバー」を作るためにウォッカにオレンジジュースを混ぜると酒類の製造とみなされ、取得に厳しい要件が義務付けられている酒類製造免許が必要になってしまいます。
しかしバーは免許を持たずカクテルを提供しています。これを可能にしているのが、「酒税法43条10項」です。この規定は「お客が飲む直前に混ぜるならいいです」としているため、店で客の注文を受けてから混ぜて、その場で飲ませることは酒類製造にあたりません。
 しかし、作り置きには問題があります。自家製の梅酒などアルコール20%以上の酒に酒以外のものを混ぜて漬け込み、客の注文に合わせて提供したい場合、事前に税務署への申告が必要です。また、アルコール度数20度以下のワインや日本酒に何かを漬け込んで作り置いた酒は、製造免許なしには提供できません。事前に果物をワインに漬けて用意しておくサングリアなどは「作り置き」「アルコール度数20度以下」なので、厳密に言えば法律に違反している、といえそうです。
注文を受けてから作り、その場で消費するのが条件です
梅酒は自分の楽しみのために
 「厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳りある甘さをわたしはしづかにしづかに味はふ」。詩集『智恵子抄』の中で、高村光太郎は先立ってしまった最愛の妻、智恵子が残していった梅酒を愛おしそうに口にします。自分と、ごく親しい人に見守られて熟成を重ねるのが梅酒です。飲み頃を迎える半年後を心待ちに、ルールを守ってお気に入りの一ビンを仕込んでみませんか。
漬けてから半年すると飲み頃になります
最後に光太郎詩「梅酒」を取り上げて下さいました。
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    梅酒
 
 死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
 十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
 いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
 ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
 これをあがつてくださいと、
 おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
 おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
 もうぢき駄目になると思ふ悲に
 智恵子は身のまはりの始末をした。
 七年の狂気は死んで終つた。
 厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
 わたしはしづかにしづかに味はふ。
 狂瀾怒濤の世界の叫も
 この一瞬を犯しがたい。
 あはれな一個の生命を正視する時、
 世界はただこれを遠巻にする。
 夜風も絶えた。

光太郎手控えの詩稿によれば、昭和15年(1940)3月31日の執筆。智恵子が亡くなっておよそ1年半、という時期です。

社会との関わりを極力避け、智恵子と二人で芸術精進の日々を送ろうとしていたかつての生活態度が智恵子を追い詰めたという反省、そうした生活を続けていては自分も精神の危機に見舞われるかも、というおそれもあったのでしょう。この時期の光太郎は180度方向性を変え、自ら積極的に世の中と関わろうとします。

しかし、光太郎にとっての悲劇は、その社会の方がおかしな方向に進んでいたこと。智恵子が亡くなる前年の昭和12年(1937)に始まった日中戦争は泥沼化、その膠着状態を打開しようと、翌昭和16年(1941)には太平洋戦争に突入することになります。

元々の『道程』時代からの一種の精神主義、かつて留学中のアメリカで受けた人種差別への苦い記憶、さらに遡れば幼い頃に祖父・兼松や父・光雲から叩き込まれた忠孝の精神などが頭をもたげ、大量の翼賛詩文を書き殴るようになってしまいました。世間もそうした光太郎を歓迎し、光太郎は一躍、時代の寵児となっていくわけです。

それでも亡き智恵子を偲ぶとき、そうした時代の寵児的な部分は影を潜めると、「梅酒」では謳われています。曰く「狂瀾怒濤の世界の叫も この一瞬を犯しがたい。 あはれな一個の生命を正視する時、 世界はただこれを遠巻にする。」。

ところが、「あはれな一個の生命を正視する」こと自体が減っていきます。智恵子に関する詩は、翌年、おそらく『智恵子抄』出版に際して書きおろされたと推定される「荒涼たる帰宅」を最後に、戦後まで作られることはありませんでした。

昭和20年(1945)4月13日、智恵子と過ごした思い出深い本郷区駒込林町の住居兼アトリエは空襲により灰燼に帰しました。智恵子の遺した梅酒は、それまでに飲みきっていたのかどうか。もしまだ残っていたとしても、戦火に失われたことでしょう。一ヶ月後、宮沢賢治の父・政次郎らの勧めで、光太郎は花巻町の宮沢家に疎開します。その宮沢家も終戦5日前の空襲で全焼。ある意味、地獄ですね。

そして戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋に移った光太郎は、7年間を送ることになります。当初は山中に芸術村を作る、的な無邪気ともいえる夢想を抱いていましたが、雪に閉ざされた日々は深い自省を迫り、光太郎は自らの山小屋生活を「自己流謫」(自分で自分を島流しにする)と位置づけました。高祖保松木喜之七ら、かつて交流の深かった人々の戦死の報なども影響したでしょう。

その太田村生活末期の昭和27年(1952)3月、NHKのラジオ放送のため、花巻温泉松雲閣で詩人・真壁仁との対談が録音されました。さらに自作詩の朗読も。その中に「梅酒」のそれも含まれていました。作品の選択は局の意向だったのか、光太郎の自選なのか、そのあたりは不明ですが、この時点で「梅酒」を朗読した光太郎の胸中は、いかばかりだったでしょうか。

NHKさんにはその際の音源が残されており、平成8年(1996)以後、二度ほどCD化もされました。ただ、もう流通していないようで、覆刻が待たれます。

【折々のことば・光太郎】

今日では百円以下ではとてもおわかちできないものです。 原型をお見せしませう。こんな風なものですが 高さは一尺弱で奥行五寸ほどのものです。出来るだけ近い鋳金の機会を以て完成してお送りしますが 今年中にといふ事にはお約束出来ないのを残念に存じます。 新年のあなたの机上に飾れたら私もうれしかった思ひますが むつかしいやうに思ひます。

大正8年(1919)12月11日 野田守雄宛書簡より 光太郎37歳

野田は滋賀県の銀行家。大正6年(1917)に入会者を募った「高村光太郎彫刻会」を通じて光太郎に彫刻を注文しましたが、ようやくその完成のめどが立ったという内容です。

送られた彫刻はブロンズの「裸婦坐像」。この書簡には粗いスケッチが描かれていました。
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今月1日、詩人の平田好輝氏が亡くなったそうで、奥様から訃報のお葉書を戴きました。おん年87歳であらせられたそうです。ご葬儀は3日、近親の方々で済まされたとのこと。
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氏には『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』(昭和48年=1973 東宣出版)というご著書がおありで、連翹忌の集いにも昭和50年代から平成の初めまで、8回ご参加いただいていました。

『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』、智恵子との関係性に軸を置いた光太郎評伝で、当方、大学の卒論執筆時にはかなり参考にさせていただきました。

同書の「あとがき」。

 昭和三十一年四月一日のことである。時ならぬ雪が、激しく降りだした。万愚節のことでもあり、まるで嘘のように思われたが、雪は激しく降り積んだ。
 そのころ、わたしは二十歳で、国文科の学生であり、なによりも詩を書くことに夢中になっていた。第一詩集に収めた作品のうちのいくつかを、このころに書いていた。
 まるで嘘のように降る激しい雪を見ながら、一体、何事が起こったのだろうと思った。わたしが生れた二日後に突如として首都を震撼させた二・二六事件の話は、成長するにつれて、折にふれ聞かされ、二・二六を思うと必ず雪のイメージがひろがったが、その二・二六を思わせるような、何か只事ならざるものに、その雪は思われた。
 激しい雪は四月一日から二日の早朝にかけて降り、東京一帯を真白の雪景色に包んだ。わたしの家の近所には、ゆるやかなスロープがあり、そこに俄かにスキーヤーたちが群がり、若い女や男のほかに、白髪まじりの人まで加わって、真面目にスキーを楽しみ始めたのであった。
 一体、何がどうなったのだろう。桜が満開の筈の時に、首都圏の中でスキーが始まっているとは。
 何か余程の異変があったものと思われた。思いついて、ラジオのスイッチをひねってみた。
 すると不意に、高村光太郎の死が、伝わってきたのだ。三月の中旬頃から、光太郎の容態がよくないことは、かすかに聞き知っていた。しかし、ラジオを通して、光太郎の死を知ったときに、じつに不意打の感じと、『ああ、やっぱりそうだったのか』という感じとが、同時に襲ってきた。光太郎が雪を降らせていたのだ。なァんだ、光太郎のせいだったんだ、と思い、むしろ心の奥深いところで哄笑したいような気持があった。窓から見えるスロープで、スキーを楽しんでいる大人たち、きみたちはなぜ今ごろ、そこでスキー靴を履いて滑っているのか、分っているか。これはみんな、光太郎が降らせた雪なんだよ。わたしは飛び出して行って、大声でふれてまわりたい気持だった。
 昭和三十一年、四月二日未明、高村光太郎、ついに逝く。雪激しく降り、真白に積る。光太郎、七十四歳。
 岩手の山小屋に一人で暮らしていたときには、小屋の中に雪が吹きこみ、光太郎は手帚を持って寝ていたという。ときどき気がついたときに、顔のまわりの雪を掃いてから、また眠るのである。六十代の高齢でありながら、なおも光太郎は山小屋に一人で住み、零下二十度にもなる所で、凜冽の冬を愛しながら暮らしていたのである。そんなにまで、冬や雪を愛し、冬や雪のことを歌った詩人は、ほかにない。
 その光太郎が東京で亡くなるにあたって、東京一帯が時ならぬ雪に見舞われたのは、光太郎にとっての当然であり、それこそ「自然」であった。雪激しく降り、光太郎はその雪に包まれながら死んだ。不思議であるけれども、不思議ではない。詩に夢中になっていた二十歳のわたしにとって、高村光太郎の死にざまは、なにかわたしの奥底を揺るがし、鼓舞してくれているような気がした。「天然の素中」という彼の言葉が、不意に分ったような気がした。わたしが一度も会いに行けないうちに、光太郎は、「天然の素中」に帰って行ってしまったのだ。どうすることもできない。いくら会いたいと思っても、もう会うことはできない。だが、それにも拘らず、わたしには、その四月二日が、正直いって、非常にうれしかった。激しく雪を降らせ、そして彼は死んでいったのである。何も知らないでスキーを持ち出して無心に滑っている大人たちの光景が、わたしの窓から見え、そんな人々に対しても、なにかほのぼのと心の底から親しみを感じたのである。
 いつか必ず、光太郎智恵子のことを書かねばならないと、そのとき思った。その後の十数年に、断片的には書いてきたが、自分の創作にかまけて、一冊に書きおろしてみたい気持を、気持だけのままおしやりながら、年月を過ごしてきた。
 ただ、光太郎智恵子のさまざまなイメージは、この年月の間にも繰り返しあたためてきたつもりである。
 そして、はからずも今度、東宣出版の慫慂を得て、この一本をまとめることが出来た。とくに、田辺辰俊氏と星野正三氏の励ましに深くお礼を申し上げたい。


蓋し、名文ですね。ついつい全文を引いてしまいました。

平田氏、詩人としても現役を続けられていました。当方がいろいろお世話になっている詩人の宮尾壽里子氏が送ってくださる文芸同人誌『青い花』(第四次)の同人であらせられ、枯淡の妙ともいえるような詩を発表なさっていました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

昨夜見えた相ですね。僕はとうと例の風邪にかかつたやうです。医者に見てもらつてねてゐます。夜は四十度以上になるやうです。食事がいけないのでつかれました。しかし気持は元気でゐます。 智恵子は亡父の一周忌で今国へ帰つてゐます。 此手紙はすぐすてて下さい。うつるといけないから


大正8年(1919)5月4日 田村松魚宛書簡より 光太郎37歳

「例の風邪」はこの年猛威をふるったスペイン風邪。しかし、実はそうではなく腸チフスだったことがのちにわかり、入院します。「とうと」は「とうとう」の誤記ですね。

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