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光太郎の父・光雲の手になる彫刻が施された祭車の出る祭礼です。

桑名石取祭

期 日 : 2023年8月5日(土)・6日(日)
会 場 : 春日神社(桑名宗社)周辺 三重県桑名市本町46番地
時 間 : 8/5 午前10時 献石神楽朝御饌祭 午後5時30分 夕御饌祭
      8/6 午後5時30分 夕御饌祭 午後6時10分 斎火受渡・渡祭始式
         午後6時30分~午後11時30分ごろ 渡祭

 「日本一やかましい祭り」「天下の奇祭」として知られる、桑名市の春日神社を中心に行われる祭です。華麗な装飾を施した30数台の祭車に鉦や太鼓をつけ、それらを一斉に打ち鳴らす音が、見る者を圧倒させる勢いある勇壮な祭りで、桑名の夏の風物詩として、地元の方に昔から親しまれています。
 本楽では春日神社への巡行を行うため、旧東海道などを練り歩くその姿は荒々しく、勇敢さを感じると言われています。立川和四郎富重の彫刻や高村光雲作の飾り物をもつ歴史的にも価値の高い祭車もあり、各地区の住民は総出で参加し、一年一度の最大の娯楽行事ともなっています。2007(平成19)年3月7日に国の重要無形民俗文化財に指定され、2016(平成28)年12月1日には、「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録されました。
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光雲の手になる彫刻が施された祭車は「羽衣」。地区の名前でしょうか。
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他にも「太一丸」という団体?の祭車にも光雲工房作の彫刻が使われていますが、こちらは人手不足で最近出ていないようです。

同祭、昨年、BSイレブンさんで、祭りのハイライト「渡祭」の一部が生中継されました。メインの撮影場所は、春日神社(桑名宗社)さん。周辺を練り歩いた各祭車が、籤で決められた順番にここにやってきて、御神前で鉦や太鼓を打ち鳴らし、いわば演奏・演舞を奉納します。
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ちょうど放送が始まった時間、まさに「羽衣」の祭車の順番でした。
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光雲の手になる彫刻も、何となくわかりました。

ただ、これより後の順番だった祭車はしっかり彫刻などが映り、番組ゲストの小川雅生氏(桑名石取祭保存会研究員)による細かな解説もあって、「羽衣」も、もう少し後の登場だったらよかったのに、という感じではありました。
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ちなみにゲストはもうお一方、女優の大西礼芳さん。三重県のご出身だそうで。
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大西さん、光太郎と面識のあった村岡花子をモデルとした平成26年(2014)の朝ドラ「花子とアン」や、『青鞜』編集部を舞台とした演劇「私たちは何も知らない」にご出演されていた方です。

番組では、平成28年(2016)に同祭を含む日本全国33の山車祭りがユネスコ世界遺産に登録された件についても触れられていました。
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一度、拝見に伺いたいものです。お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

草津へ来ましたがちゑ子は始めてです、お湯がよいのでからだにきき相談に思ひます、

昭和8年(1933)5月18日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

心を病んだ智恵子の湯治のため、草津に。この際は現在も続く旅館「望雲」さんに宿泊しました。8月から9月にかけては、東北、栃木と複数の温泉めぐりに出かけ、そちらは有名ですが、草津行きの件はあまり取り上げられていません。

三重県の紀北民俗研究会さん発行の雑誌『奥熊野の民俗』第16号。

『毎日新聞』さんの三重版で紹介されており、その中で光太郎の名が出ていました。ネットで記事全文が読めない状況でして、「紀北町の元学校職員で、趣味でカメラや俳句に親しんだ故東正佳さんが72年ごろ発行した句集に、詩人で彫刻家の高村光太郎と47年に交わした往復書簡が ...」とのこと。

『高村光太郎全集』には「東正佳」の名は出て来ません。ただ、三重県在住で「東正巳」という人物は、日記の巻に名がある他、書簡を収めた第21巻に「東正巳」宛て書簡が29通(昭和18年=1943~昭和26年=1951のもの)収録されています。三重で同人誌的な雑誌と思われる『海原』を発行し、自身でも詩歌の創作をしていた人物のようでした。そこで「東正佳」じゃなくて「東正巳」の間違いなんじゃないの? またはよく似た名前の別人? などと思いつつ、取り寄せました。

『毎日新聞』さんの記事は読めませんでしたが、『紀北町ニュース』の記事が読めまして、そちらに入用の際の連絡先が載っていました。こちらには光太郎の名は出て来ませんでしたが。

「奥熊野の民俗16号」発刊

 東紀州地域の元教員らでつくる紀北民俗研究会(田中稔昭会長)は、12年ぶりに機関誌「奥熊野(おくまの)の民俗16号」をこのほど発刊した。B5判98㌻。
 今回は17人が地域の歴史や文化、随想、民話などを寄稿。150部を作製し、会員や執筆者、県内外の図書館などに配分し、残り約70部を希望者に実費(700円+送料250円)で販売している。
 同研究会は、元紀北町教育長の故小倉肇氏が創設し、年1回発刊していたが、2010年から12月の15号から中断していた。
 購入申し込みは同研究会事務局の海山郷土資料館(紀北町中里 ☎0597-36-1948)で受け付けている。

で、届いたのがこちら。フライヤー的なものも同封されていました。
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頁を繰ってみると、「詩人 東正佳さんを知る」という記事がありました。太田豊治氏という元中学校の校長先生のご執筆です。

早速、拝読。1ページめで疑問が氷解しました。「東正佳」はペンネーム、本名が「東正巳」だというのです。さらに本業は公立学校の事務職員だったそうで、それも存じませんでした。

その他、東の人となり、業績等がいろいろ紹介されていました。中央の雑誌や新聞に句歌を投稿し、たびたび入選していたこと、単独で自身の句歌集も出版したこと、カメラも趣味で『アサヒグラフ』に写真が掲載されたことなど。

そして、光太郎との交流についても。

これまでに見つかっている光太郎から東宛の書簡では、東へ花巻郊外旧太田村の山小屋にクマゼミを送ってくれるよう依頼していたり、それ以外にも東から生活物資、書籍などが送られていたりといったことは分かっていました。特に興味深かったのは、「ヤギ」という珊瑚の一種を東から贈られ、それを使って蟬を彫ろうとしていたという書簡。ただし、その蟬の現物は確認できていません。

太田氏の玉稿を拝読し、驚いたのは、東の句歌集『海虹集』に光太郎からの書簡が三通転載されていたというくだり。調べてみましたところ、すべて既知のものでしたが。

光太郎から東宛の書簡は、散逸してしまっています。『高村光太郎全集』掲載のもののうち、東が発行していた『海原』に載ったものからの転載が9通、それを含め、平成21年(2009)には21通がまとめて市場に出ました。
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令和3年(2021)には、おそらくそのまま明治古典会七夕古書大入札会2021に出品。
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その際にはどうやら業者さんが買い取ったようで、その業者さんはネットオークションで1通ずつ小出しにして分売。

まぁ、内容さえ分かっていれば、売れてしまうのは仕方がないと思っております。怖いのは、未知のものがわけのわからない人などに買われて結局死蔵になってしまうことですが。

太田氏の玉稿に依れば、東は生涯独身。現在、住んでいた家は草深い空き家となり、表札の字はかすかに読み取れる、という状況だそうです。

東の句歌集『海虹集』。国会図書館さんのデジタルデータで調べたところ、昭和47年(1972)の刊行でした。そのものは見つかりませんでしたが、『紀伊長島町史』という書籍に書影が掲載されていました。

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こちらに載ったという書簡はすべて既知のものでしたが、こういう形で光太郎の未知の書簡が見つかることも結構あり、今後もそれらの発見に努めます。

【折々のことば・光太郎】

だしぬけにあなたから「秋の瞳」といふ詩集をもらつたのはうれしかつた。丁度房州へゆく時なので、ふところへ入れて、方々歩きながら、海だの、林だの、旅舎の二階だのでよみました。あなたの心を細かに感じられたやうでうれしかつた。純粋な感情の吐息はどこにでも生きてゐて、詩と自分の感じとがぴつたりあふ時はうれしかつた。御礼まで。

大正14年(1925)8月28日 八木重吉宛書簡より 光太郎43歳

確認できている限り唯一の八木宛書簡です。

先程の新発見の東宛書簡からも感じられますが、光太郎、どうも活字中毒に近かったのではないかと思われます。当方もそうなので、わかるなぁ、という感じなのですが。

2件ご紹介します。

日本一やかましい祭り「石取祭」〜鉦や太鼓がふたたび鳴り響く、桑名の夏〜

BSイレブン 2022年8月7日(日) 19:00~20:00

「桑名っ子」たちが待ちに待った、絢爛豪華な祭車の曳き回しが3年ぶりに復活!けたたましく鉦や太鼓が鳴り響く、日本一やかましい祭り「石取祭」を生中継!

鉦や太鼓の音色が、3年ぶりに桑名のまちに鳴り響く。地元の人が「日本一やかましい祭り」と呼ぶ、三重県桑名市の「石取祭」。神様に五穀豊穣の願いを届ける為、3日3晩、鉦や太鼓を叩き続け、けたたましい音を響かせながら、絢爛豪華な祭車が街を練り歩く「天下の奇祭」。その起源は江戸時代初期に神社に石を奉納する儀式から始まったと言われ、何世代もの「桑名っ子」にとって1年で最も心が躍る夏の一大行事。
しかしコロナ禍により、2年も過ごした「静かな夏」。幼い頃から鉦と太鼓の音を聴いて育ってきた「桑名っ子」たち。今夏、待ちに待った祭車の曳き回しが復活!鉦と太鼓の爆音が桑名の夜を埋め尽くす―「国指定の重要無形民俗文化財」指定、ユネスコ無形文化遺産に登録された石取祭の渡祭の一部を生中継!

出演者
 中久木大力(三重テレビアナウンサー) 奥村莉子(三重テレビアナウンサー)
 小川雅生(桑名石取祭保存会 研究員) 大西礼芳(俳優/三重県度会町出身)


三重県桑名市の「石取祭」。春日神社さんに石を奉納する祭りで、毎年8月第1日曜日とその前日の土曜日に執り行われています。太鼓と鉦の囃子にのって「祭車」と呼ばれる山車が曳き廻され、「日本一やかましい祭り」を名乗っています。40台あまり出る祭車の中に、光太郎の父・光雲とその弟子たちの手になる彫刻を施した祭車が2台。平成28年(2016)には、全国33件の同様の祭りと一括でユネスコ世界文化遺産に指定されました。

その石取祭の生中継だそうで、テレビ的にはなかなかのチャレンジャーですね。雨天の場合など、どうするのでしょうか。多少の雨ならやってしまうのでしょうが、このところ、各地で豪雨災害が頻発していますし……。まぁ、とりあえず拝見してみます。

もう1件。

プレミアムステージ「僕は歌う、青空とコーラと君のために/私たちは何も知らない」

NHK BSプレミアム 2022年8月7日(日) 23:20~4:11

8月のプレミアムステージは、<前半>に、ヒトハダ公演「僕は歌う、青空とコーラと君のために」。 <後半>は、二兎社公演「私たちは何も知らない」のアンコール放送。

23:20〜 ヒトハダの旗揚げ公演、鄭義信・作・演出の「僕は歌う、青空とコーラと君のために」。昭和25年、朝鮮戦争勃発当時。東京郊外にある進駐軍専用のキャバレーで営業する男性コーラスグループの笑いあり、涙ありの青春と友情の物語。【出演】大鶴佐助 浅野雅博 尾上寛之 櫻井章喜 梅沢昌代 /翌1:36:15〜 二兎社公演「私たちは何も知らない」のアンコール放送。【作・演出】永井愛【出演】朝倉あき ほか


演劇公演2本が放映され、そのうち後半が二兎社公演「私たちは何も知らない」。令和元年(2019)から翌年にかけ、全国を巡回したもので、平塚らいてう、伊藤野枝ら、青鞜同人の群像劇です。テレビ放映は令和2年(2020)に続き、二度目。そこで「アンコール放送」と謳われています。創刊号の表紙を描いた智恵子は登場しませんが、セリフの中には名が出て来ました。
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ところで、岩野清(いわのきよ)役は、大西礼芳さん。偶然ですが、上記「日本一やかましい祭り「石取祭」〜鉦や太鼓がふたたび鳴り響く、桑名の夏〜」でも、三重県ご出身ということで、ゲスト出演なさいます。
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ありゃま、という感じでした(笑)。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

一時雨の中を迎の車で上十條伊藤忠雄氏宅にゆく、谷口藤島、筏氏と同道、鋳金裸像七尺のもの2体の位置をきめる、


昭和28年(1953)10月9日の日記より 光太郎71歳

「鋳金裸像」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。伊藤忠雄による鋳造が終了し、細かな位置決めが「行われました。下記の写真はこの日、撮影されたものと思われます。
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当方が監修、一部執筆した『十和田湖乙女の像のものがたり』(平成27年=2015 十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会編)から採りました。キャプションが「6月23日」となっていますが、誤りです。その日も伊藤の工房に行っていますが、6月の時点では石膏原型1体のみで、2体揃っているのは鋳造後です。

この後、延々十和田湖まで運ばれ、現地に設置されることになります。『十和田湖乙女の像のものがたり』には、設置工事の監督だった元青森県技師・小山義孝氏の証言、工事中の写真等も掲載されています。ただ、輸送がどのように行われたのか、今のところ関係資料が見つかっていません。
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光太郎の父・高村光雲関連で2件。 

桑名石取祭

期 日 : 2018年8月4日(土)、5日(日) 001
会 場 : 三重県桑名市本町春日神社周辺 

石取祭(いしどりまつり)は、桑名南部を流れる町屋川の清らかな石を採って祭地を浄(きよ)めるため春日神社に石を奉納する祭りで、毎年8月第1日曜日とその前日の土曜日に執り行われています。
 町々から曳き出される祭車は、太鼓と鉦で囃しながら町々を練り回ります。 試楽(土曜日)の午前0時には叩き出しが行われ、祭車は各組(地区)に分かれ、組内を明け方まで曳き回し、その日の夕方からも各組内を回り、深夜にはいったん終了します。
 本楽(日曜日)は午前2時より本楽の叩き出しが明け方まで行われ、いよいよ午後からは各祭車が組ごとに列を作り、渡祭(神社参拝)のための順番に曳き揃えを行います。 浴衣に羽織の正装で行き交う姿は豪華絢爛な祭絵巻を醸し出します。一番くじを引いた花車を先頭に午後4時30分より曳き出された祭車は列をなし、午後6時30分からは春日神社への渡祭が順次行われます。
 渡祭後は七里の渡し跡(一の鳥居)を経て、午後10時頃より始まる田町交差点における4台ずつの祭車による曳き別れが行われるのも見逃すことのできない場面です。


光雲作の飾り物をつけた祭車も出るという祭りです。公式サイトはこちら

昨年はこのブログでご紹介するのを失念いたしまして、一昨年に書いた記事がこちら。光雲作の飾りをつけた祭車についても書きました。また、一昨年には、この祭りを含む全国33の山車祭り系が、ユネスコ世界文化遺産に一括指定されています。

お近くの方、ぜひどうぞ。


もう1件、光雲がらみで。 

明治150人の偉人投票キャンペーン

今年は明治改元から150年目!それにちなんでこの度、明治時代にゆかりのある150人の偉人の人気投票を実施します。
『えっ!? あの偉人が西郷隆盛と共演!?』
見事1位になった偉人は、9月8日(土)より開催予定のイベント、リアル脱出ゲーム『帝國ホテル支配人の偉大なる推理』のストーリーに登場します!!あなたの1票がストーリーを変える!?

期間 2018年8月7日(火)17:00まで
投票方法(応募方法)
STEP1明治村公式twitter(@meijimura_pr)をフォローしてください。
STEP2あなたが好きな偉人の[投票ボタン]を押して、ツイートをすれば投票完了!

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候補の150人は既にエントリーされており、その中で誰が1位になるか、だそうです。どちらかというと大正から昭和の光太郎は入っていませんが、光雲は堂々の出馬です(笑)。

ただ、同じ芸術家でも漱石や鷗外、晶子、また、伊藤博文、大久保利通、大隈重信ら新政府の要人達(西郷隆盛は別格扱いで不出馬ですが)、さらには野口英世や福沢諭吉と言った学者系もあなどれません(笑)。

おそらく光雲がトップということはあり得ないでしょうが、せめて上位にランクインして欲しいものです。

しかし、エントリーされた150人を見ると、明治という時代の活気というか、華やかさというか、もちろん暗黒面もあったのですが、ある種の濃密なエネルギー的なものを感じます。大正、昭和、そして来年には終わる平成の150人となると、どういうラインナップになるのかな、などと思いました。


【折々のことば・光太郎】

私はポエジイの為に何の寄与もしてゐない。此の形式でなければどうしても昇華し得ないものが自分の肉体と精神とに鬱積して来るので已むを得ず書いてゐる。さうして出来たものを自分では詩と呼んでゐる。

散文「小感」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

いわば自然発生的な詩、ということでしょうか。

今週火曜日に開幕した三重県立美術館さんの「再発見!ニッポンの立体」展について、報道が為されています。

まず、地元紙『伊勢新聞』さん。

土偶や仏像、「ペコちゃん人形」 県立美術館 「立体」テーマの企画展

007 「立体」をテーマにした企画展「再発見!ニッポンの立体」が二十四日、津市大谷町の県立美術館で始まった。縄文時代の土偶から「ペコちゃん人形」まで、約百五十点の立体作品が並ぶ。四月九日まで。
  日本の立体作品は西洋の影響を受けた彫刻に注目が集まりがちだが、前近代の作品にも焦点を当てようと企画。人や動物などの実物に近づけた作品やユーモアを意識した作品など、コンセプトごとに展示した。
  平安時代の仏像や高村光太郎の彫刻作品「兎」、津市在住の中谷ミチコさんによるレリーフなど、県内外の作品を集めた。佐藤製薬の「サトちゃん人形」など、現代のマスコットキャラクターも並ぶ。
  田中善明学芸員は「かつては信仰の対象だった立体作品は、芸術や商業にまで広がりを見せているが、表現の方法は昔と通じているところがあるということを感じてもらえれば」と話していた。
  観覧料は千円(学生八百円、高校生以下無料)。午前九時半―午後五時まで。月曜休館(三月二十日は開館、同二十一日は休館)。問い合わせは県立美術館=電話059(227)2100=へ。


続いて主催に名を連ねる『読売新聞』さんの三重版。

日本の立体作品展 県立美術館で開幕

 縄文時代から現代までの立体造形作品を集めた展覧会「再発見!ニッポンの立体」(読売新聞社など主催)が24日、津市大谷町の県立美術館で始まった。
 高村光太郎など著名な作家の芸術作品だけでなく、ペコちゃん人形や縄文土偶、彫刻など多彩な作品154点を展示。一本の木を削り出した彫刻家棚田康司さんの作品「卓の少年―太陽―」「卓の少年―月―」は、独特な少年の表情が目を引く。
 同館学芸普及課長の田中善明さんは「日本の立体作品に西洋文化が与えた変遷を楽しんでほしい」と話している。
 4月9日まで。午前9時半~午後5時。月曜休館(3月20日は開館し、21日休館)。一般1000円、学生800円、高校生以下無料。問い合わせは県立美術館(059・227・2100)。
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009その後、同館サイトで出品目録がアップされました。それによると、光太郎作品は、ブロンズの「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)、それから、これまで巡回してきた群馬県立館林美術館さん、静岡県立美術館さんでは出ていなかったと思われる、木彫の「兎」(明治32年頃=1899頃)が並んでいます。右の写真は光太郎令甥・故髙村規氏によるものです。

光太郎の父、高村光雲の木彫はこれまで同様2点。「江口の遊君」(明治32年=1899)と「西王母」(昭和6年=1931)です。さらに、光雲の師・高村東雲の「西行法師像」(江戸時代後期)もでているとのこと。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

冬は見上げた僕の友だ 僕の体力は冬と同盟して歓喜の声をあげる 冬よ、冬よ 躍れ、さけべ、腕を組まう

詩「冬の詩」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

光太郎は「冬の詩人」と称されることもあります。実際に冬を好み、冬を題材にした詩を多く書いた他、その硬質な述志の詩句が、冬の厳しさを連想させるためです。

当方、この点には共感できませず、愛猫と一緒にコタツで丸くなっております(笑)。

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三重県から企画展情報です。

昨年から始まり、群馬県立館林美術館さん、静岡県立美術館さんを巡回した企画展の、最終会場となります

再発見!ニッポンの立体

期 日 : 2017年1月24日(火)~2017年4月9日(日)
会 場 : 三重県立美術館  三重県津市大谷町11番地
時 間 : 午前9時30分~午後5時  (入館は午後4時30分まで)
休館日 : 月曜日(祝日休日にあたる場合は開館、翌日休館)
料 金 : 一般1,000(800)円 学生800(600)円 高校生以下無料
      ( )内は20名以上の団体料金、前売り料金

―土偶、仏像、人形からフィギュアまで約150点、大集合―
 日本には古くから仏像、神像、人形、置物、建築の彫物など、生活や信仰に結び付いた豊かな立体表現があります。ところが明治時代に入り西洋の彫刻が伝えられて以降、彫刻とそうでないものとに分けられたために日本古来の立体造形の多くは正統的な美術(ファイン・アート)として位置づけられませんでした。それでも、江戸時代以前の造形感覚が忘れられることはなく、精巧な技術を駆使して本物そっくりに似せることを目指したもの、それとは正反対の誇張や変形、単純化、戯画化などを加えたもの、小さなものや自然に寄せる日本人の感性に根ざしたもの等がつくられ、鑑賞され続けてきました。こうした流れは、現代のフィギュアやマスコットなどにも受け継がれているといえます。
 本展では、ジャンルを超えた多彩な立体表現約150点により、日本における立体表現が近代という時代の波を乗り越え、現在までどのように展開してきたのかを探ります。

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関連行事

美術セミナー 「再発見!ニッポンの立体」展にちなんで
1月28日(土)午前10時-午前11時30分
講師:毛利伊知郎(三重県立美術館顧問) 会場:亀山市文化会館 2階 会議室(亀山市東御幸町63)
事前申込不要、参加費無料

アーティスト・トーク
本展の出品作家が、出品作やこれまでの制作について、作品を前にお話します。
2月11日(土) 保井智貴 2月25日(土) 棚田康司 3月18日(土) 中谷ミチコ
いずれも午後3時から(40分程度を予定)参加には企画展観覧券が必要です。

ギャラリートーク
担当学芸員が展示室内で展覧会や作品についてわかりやすくお話しします。
1月29日(日) 2月12日(日) 3月12日(日) 3月26日(日)
いずれも午後2時から(1時間程度)

週末限定!だるま絵付け体験
展覧会カタログの表紙にもなっている「高崎だるま」のミニサイズに絵付けをしてみませんか。
水性ペンで模様を描いたり、布や紙をコラージュしたりしてオリジナルなだるまを作りましょう。
だるまは持ち帰ることができます。
開催日:会期中の土日祝日 場所:エントランスホール
参加無料・各日40個限定で、なくなり次第終了


光太郎のブロンズ彫刻が2点、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)。光雲の木彫も2点、。「江口の遊君」(明治32年=1899)、「西王母」(昭和6年=1931)が展示されるはず(電話で問い合わせてみたのですが、今一つ要領を得ませんでした)です。

追記 その後、上記以外に光太郎の木彫「兎」、光雲の師・高村東雲の「西行法師像」が出品されていることが判明しました。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

妥協は禁制 円満無事は第二の問題 己は何処までも押し通す、やり通す

詩「狂者の詩」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

旧態依然の日本美術界に、欧米仕込みの新風を吹き込む闘いの中で生まれた詩句です。この詩を書いた直前には、京橋の読売新聞社で第一回ヒユウザン会展が開催され、油絵を出品していました。

三重県桑名市の広報紙、『広報くわな』の今月号に、以下の記事が載りました。

桑名石取祭の祭車行事 ユネスコ無形文化遺産登録決定! ―桑名の宝が世界の宝に―

「桑名石取祭の祭車行事」は、文化庁からユネスコ無形文化遺産に登録提案され、平成28 年10月31 日に、ユネスコの評価機関から登録の勧告を受けました。その後、11 月30 日( 日本時間12月1 日未明) にエチオピアの首都アディスアベバで開催されたユネスコ無形文化遺産保護条約第11回政府間委員会で「山・鉾ほこ・屋台行事」が審議され、登録が決定しました。登録が決まった瞬間、石取会館に集まった関係者の人たちから歓喜の声が上がり、万歳三唱をするなどしてお祝いしました。これまで、地域の皆さんに愛されてきた「桑名石取祭」が世界の宝として認められたことにより、世界の皆さんに親しまれることになります。
石取祭は、江戸時代初期に始まったといわれ、桑名城下の町人や藩士が楽しみにしていた夏の祭りです。平成19年3月に国指定重要無形民俗文化財となりました。
 祭車と呼ばれる山車(だし)は43台あり、これほどの山車が一堂に会する祭りは全国的にも非常に珍しく、国指定重要無形民俗文化財のなかでは日本最多を誇ります。
 毎年8月第一日曜日に「本楽(ほんがく)」、その前日に「試楽(しんがく) 」が行われます。試楽の日の午前零時の「叩き出し」に始まり、本楽の日の深夜まで丸二日間行われ、祭車数十台が鉦(かね)や太鼓を盛大に打ち鳴らしながら市内を練り歩きます。漆塗(うるしぬ)り、蒔絵(まきえ)、象嵌(ぞうがん)、螺鈿(らでん)、透かし彫り、西陣織(にしじんおり)などで装飾した豪華絢爛(ごうかけんらん)に装飾した祭車も見どころです。

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以前にこのブログでご紹介しましたが、この祭りで引き廻される祭車の中に、光雲作の彫刻を施したものが2台含まれています。

登録の決定は記事にあるとおり昨年11月でした。単独の指定ではなく、日本全国33の祭りが一括指定されました。その中には、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市で行われている「佐原の山車行事」も含まれています。そこで、『広報かとり』に同様の記事が載りました。

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当地では、、二回の祭りが行われます(街の中心を流れる小野川を境に担当地区が異なります)。こちらの山車には残念ながら高村系の彫刻はありませんが、東京美術学校の同僚で、光雲と親しかった石川光明の家系が制作した彫刻があしらわれているものがあります。また、山車の上に飾られる人形の中には、光雲が絶賛したという「活人形(いきにんぎょう)」の安本亀八の作品が使われてもいます。


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実を言うと、当地の祭りが登録されたことに気を取られ、桑名の石鳥祭も含まれていたことに、最近まで気付いていませんでした。紹介するタイミングを逸したかと思っていましたが、『広報くわな』さんで大きく取り上げられたので、ラッキーでした。

日本が誇る遺産です。末永く続いてほしいものですね。


【折々のことば・光太郎】

くたびれたら休むのさ。

詩「雪の午後」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

正月休みも昨日まで、今日から仕事始めという勤め人の方々も多いと存じます。ご苦労様です。

飲食店や商業施設などでは、暮れも正月も関係なかったところもありました。世の中が便利なのはいいことですが、時には休むことも必要ですね。

三重県から展覧会情報です。 
期   日 : 2016年9月17日(土)~10月10日(月)  
会   場 : 三重県総合博物館 三重県津市一身田上津部田3060
時   間 : 午前9時~午後5時  (土日祝は午後7時まで)
休 館 日 : 月曜日(祝日の場合はその翌日)
料   金 : 無料

交流展示では、MieMuのシンボルでもある、津市内で発見された太古のゾウ「ミエゾウ」の標本のほか、南北朝時代に南朝側で活躍した北畠氏の拠点があった現在の美杉町多気にある遺跡の発掘資料や、藤堂氏入府以後、城下町として発展した江戸時代の津の様子がわかる絵図や古文書など、約480点の貴重な資料を展示します。さらに、市民に親しまれている神社や寺院等に奉納されている文化財を公開するほか、明治から平成にかけての津市が現在の市域に至るまでの合併の変遷をたどります。
1章 津のルーツ(旧石器・縄文・弥生・古墳時代)
2章 古代(奈良・平安時代)
3章 中世(鎌倉・室町時代)
4章 近世(安土桃山・江戸時代)
5章 近現代(明治・大正・昭和・平成)

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チラシ裏面に画像が掲載されていますが、光太郎の父・光雲作の「魚籃観音立像」が出品されます。

調べてみたところ、平成14年(2002)、三重県立美術館、茨城県近代美術館、千葉市立美術館、徳島県立近代美術館を巡回した企画展「高村光雲とその時代展」に出品されたものでした。

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明治36年(1903)の作。像高37㌢です。

「籃」は「らん」と読み、かごを表します。像の手に提げられているかごです。観音像のバリエーションとして「三十三観音」というカテゴリーがあり、「魚籃観音」も含まれます。中国起源の伝説に基づくもので、日本では単体で信仰されることは稀だそうですが、津市の蓮光院初馬寺さんには元禄期の石造仏「水掛け魚籃観音」が祀られており、漁業も盛んなこの地に魚籃観音信仰があったようです。

光雲には、他にも魚籃観音の作例があります。

ちなみに同じ三重県の桑名市では、光雲作の飾り物を施した祭車も出る「石取祭」が行われており、三重と光雲には色々縁があるようです。

意外と光雲作の木彫が見られる機会は多くなく、貴重な機会です。ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

こほろぎもかゝる夜はなけ湯のけぶり   明治34年(1901) 光太郎19歳

昼間はまだ蝉の合唱が聞こえますが、このところ日が暮れると、代わって秋の虫たちの競演です。季節は確実に進んでいますね。

来週末のイベントです。 

桑名石取祭

期   日 : 2016年8月6日(土)~2016年8月7日(日)
会   場 : 三重県桑名市春日神社周辺 三重県桑名市本町46番地
問い合わせ : 桑名市物産観光案内所 0594-21-5416

「日本一やかましい祭り」「天下の奇祭」として知られる、桑名市の春日神社を中心に行われる祭です。華麗な装飾を施した30数台の祭車に鉦や太鼓をつけ、それらを一斉に打ち鳴らす音が、見る者を圧倒させる勢いある勇壮な祭りです。桑名の夏の風物詩として、地元の方に昔から親しまれています。

本楽では春日神社への巡行を行うため、旧東海道などを練り歩くその姿は荒々しく、勇敢さを感じると言われています。立川和四郎富重の彫刻や高村光雲作の飾り物をもつ歴史的にも価値の高い祭車もあり、各地区の住民は総出で参加し、一年一度の最大の娯楽行事ともなっています。2007(H19)年3月7日に国の重要無形民俗文化財に指定されました。


というわけで、光雲作の飾り物をつけた祭車も出るという祭りです。公式サイトはこちら

調べてみましたところ、40台あまりの祭車が存在するようですが、そのうちの「羽衣」地区の祭車が大正12年(1923)の光雲の手になる飾り、また、「太一丸」という、こちらは地区でなく、何らかのグループでの参加と思われますが、この祭車の飾りは明治30年(1897)で光雲工房作となっています。また、「太一丸」の祭車は、共に光雲が制作主任を務めた上野の西郷隆盛像の犬、皇居前広場の楠木正成像の馬を手がけた後藤貞行による神鹿の飾りも装備しているそうです。

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このブログでも何度かご紹介した横浜伊勢佐木町の日枝神社例大祭、それから高村家お膝元の文京区本駒込・駒込天祖神社例大祭(今年は4年に一度の本祭だそうで、追ってご紹介します)など、光雲が飾りを手がけた神輿が繰り出す祭礼がいくつかあります。ただ、そういったものが全国にどの程度あるのか、はっきりつかめていないのが現状です。

うちの方の祭りで光雲作の神輿(山車・祭車)が出るよ、という方、こちらまでご教示いただければ幸いです。


【折々の歌と句・光太郎】

だしぬけにぢぢと声立てまた黙るかなしき蝉よ籠の中の蝉
大正13年(1924) 光太郎42歳

ネット検索で見つけました。三重県は志摩地域からのイベント情報です。  

大人のための朗読ライヴ 第7回 花笑み朗読会

日 時  2013年10月6日(日) 午後1:30~3:30ころ
会 場  コミュニティースペース花笑み (志摩市磯部町上之郷市営プールとなり)
入場無料
 
プログラム
『マラソン』堀ななえ 作/朗読 堀八重子
『子そだてゆうれい』民話/朗読 岡野恭子
『きまもり』杉みき子 作/朗読 岡野秋子
『芋ころりん』福島県 昔話/ストーリーテリング 森本時子
『注文の多い料理店』宮沢賢治 作/朗読 森下雅子
『チーン、ブツブツ』佐野洋子 作/朗読 江坂淳子
『智恵子抄』高村光太郎 作/朗読 牧野範子
 
 
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以前、朗読家の荒井真澄さんをご紹介した時にも書きましたが、光太郎の詩は意外と朗読向きです。
 
例えば「樹下の二人」のリフレイン「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」という短いフレーズも、「があたたらやまのひるのがあぶくまがわ」という「あ」そのものや母音の「A」の多用、光太郎ははっきり意識しているはずです。
 
「レモン哀歌」にしても「そんなにも/あなたはレモンをまっていた」と、日本古来の五音・七音(前後)での構成になる箇所も多く見受けられます。
 
朗読は静かなブームだそうで、全国の愛好家の方、どんどん光太郎作品を取り上げて下さい!
 
【今日は何の日・光太郎】 9月20日

明治34年(1901)の今日、東京美術学校での京都・奈良方面への修学旅行に出発しました。
 
この修学旅行で、特に奈良で白鳳・天平といった頃の仏像をたくさん見たことが、光太郎にとっての一つの転機となります。仏師の息子として生まれた光太郎ですから、仏像自体は子供の頃から見飽きるほど見ていたはずですが、江戸の様式化された仏像にはない迫力に打たれたのです。曰く、
 
本物とは似ても似つかない形のものが、素晴らしい迫真力をもつて迫つてきた。それで、学校で自分達がやつた柔弱な人形みたいなものは、実にくだらなく感じられてきた。そして奈良の仏像の、――本物とはまるで離れたようないろいろな恰好をした仏像が、何故そんなに強く人を感動させるのかということについて深く考えさせられた。なんだか彫刻というのは、いままでやつていたものと違うと言うことを感じた。あの修学旅行が、わたしたちを啓発したことは大変なものであつた。
(「わたしの青銅時代」 昭和29年=1954)
 
ここでいう「本物」とは「人間の肉体」という意味です。
 
「わたしたち」とありますが、他の生徒も同じだったようです。特にこの後、目をみはるほど進歩したのは、かつて美学の授業で空気を読めない素っ頓狂な質問をして講師の森鷗外を怒らせたりし、同級生からは一番出来が悪いと馬鹿にされていた生徒だったとのこと。
 
この後、光太郎は留学を経験し、ロダンを初めとする西洋近代彫刻にも打ちのめされることになりますが、単に打ちのめされただけでなく、修学旅行で学んだ日本古来の彫刻の要素と、西洋近代彫刻の要素を見事に融合させ、独自の境地を開いてゆくのです。
 
ちなみに「修学旅行」というと、現代では2泊3日とか3泊4日とかのイメージですが、この時の修学旅行はなんと2週間にも及んだそうです。

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