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10月24日(火)、『毎日新聞』さんの奈良版記事から。飛鳥時代、「蝦夷(えみし)」と呼ばれた東北方面の人々と都のあった飛鳥との関わりについてです。

「万葉古道」を尋ねて 交流・別れ・流浪/127 山田道/4 蝦夷の民、飛鳥京目指す

 大和政権が律令による中央集権化を進めた7世紀ごろ、国への反抗、服従を繰り返した最北の民・蝦夷(えみし)が、恭順の意思を示すため、山田道を飛鳥の京(みやこ)を目指してやって来た。
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 この連載で万葉時代に入れている時期だ。蝦夷は、「日本書紀」には景行紀から持統紀までに登場。斉明紀(7年間)には32カ所に蝦夷の字が出る。始まりは、6世紀半ば、大和朝廷が地方豪族を任じた国造(くにのみやつこ)の支配地域から外れた東北地方以北の住民を、政権の側から呼んだ名だった。蝦夷の地は、新潟、宮城両県の中部を結ぶ線の北だが、境界は時代により変化している。
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 581(敏達天皇10)年2月の「書紀」の記述は、蝦夷と国の関係を示す。
  「蝦夷数千、辺境に寇(あたな)ふ(害意を示す)」。首領らを呼び「詔(みことのり)して」今「(景行天皇の世のように)元悪を誅(ころ)さむとす」と言うと首領らは「恐懼(かしこ)みて(恐れ敬い)」、「泊瀬(はつせ)(桜井市)の中流(川の中)に下て、三諸岳(みもろのおか)(三輪山)に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)」った。「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫」、「天闕(みかど)に事(つか)へ奉らむ」。
 敏達天皇の訳語田(おさだの)幸玉宮は磐余(いわれ)にあった。蝦夷は、東国からの街道が通じていた名張を経て初瀬の谷の道を下ったのだ。
 次は蝦夷との緊張を示す。
 647(大化3)年、「渟足柵(ぬたりのき)(新潟市付近)を造りて、柵戸(きのへ)(屯田兵)を置く」。 
 万葉歌に出る北限地周辺の一つに、東山道は巻十四「東歌」にある「陸奥國」の「安達太良(あだたら)の嶺」(福島県)(3428)がある。高村光太郎の詩集「智恵子抄」が名を広めた。北陸道は、佐渡島の対岸にある神の山「弥彦(いやひこ)」(新潟県弥彦村)(巻十六 3883)。 福島県の南側は防人たちの出身地だ。
 蝦夷の生活、姿の描写も「書紀」にある。 659(斉明天皇5)年7月、遣唐使は「道奥(陸奥)の蝦夷男女二人」を伴い、唐第3代の高宗に見せた。
 高宗が「此等(これら)の蝦夷の國」の位置を問うと、使者は「國は東北に有り」、蝦夷には「三種有り。遠き者をば、都加留(つかる)(津軽)と名(なづ)け、次の者をば麁(あら)蝦夷と名け、近き者をば熱(にき)蝦夷と名く」と答えた。2人は熱蝦夷で毎年、朝廷に「入(まい)り貢(たてまつ)る」。蝦夷の「國」には「五穀」は無く「肉(しし)を食(くら)ひて存活(わたら)ふ」。家屋は「無し。深山の中にして、樹の本に止住(す)む」。
 高宗は初めに「日本國の天皇(すめらみこと)」の平安を尋ね、「日本」の国号の最古の使用例の一つとされるが、誤写の可能性も指摘される。それまで中国書で日本は「倭国」であり、日本人も自ら倭と呼んでいた。
 皇帝は2人の蝦夷を見て「身面(むくろかほ)の異(け)なるを見て、極理(きはま)りて(この上なく)喜び怪む(不思議だ)」と珍しがったが、2人は倭人の生活圏に一番近い蝦夷だった。同行させたのは倭国が多様で大きいと示したかったのだろう。わざと異装をさせていたのではないか。蝦夷の地は倭国の外と意識されていたことも分かる。2人は飛鳥に寄っただろうし、7世紀、東国から飛鳥京に行くには、山田道を通った。 西日本で稲作が広がった弥生~古墳時代の紀元前5~紀元6、7世紀、北海道は稲作をせず、狩猟、漁、採集を中心とした続縄文文化の時代だった。同文化は後期(3~6世紀ごろ)には、東北地方北部にも渡り広まる。 稲作は、弥生時代前期に本州日本海側北端の津軽に伝わった後、中期以降は衰退、7世紀末頃までその状態が続く。
 唐に行った蝦夷の説明と続縄文文化の特徴は重なる部分がある。
 「夷」は中国では、東方の未開蛮族を指す。蝦夷は蔑称だが、強さも意味した。「乙巳(いっし)の変」(645年)で殺された蘇我入鹿の父親で、自宅に火をかけて死んだ大臣の名は蝦夷だ。「壬申(じんしん)の乱」(672年)の大海人皇子方の「豪傑」の一人に鴨君蝦夷がいる。
 斉明紀には、「渡嶋(わたりのしま)の蝦夷」が出る。「渡嶋」は北海道とみられるが、斉明4年には「阿倍引田臣比羅夫、肅愼(みしはせ)を討ちて、生羆(ひぐま)二つ・羆の皮七十枚を獻(たてまつ)る」。ヒグマは北海道に生息し本州にはいない。
 「書紀」は蝦夷と肅愼を区別した。
 斉明6年3月にも、阿倍臣に肅愼国を討たせた。臣が「陸奥の蝦夷」を船に乗せて行くと、「渡嶋の蝦夷」が海辺に居て「肅愼が我らを殺そうとする」と助けを求めた。戦いとなり「賊破れて己が妻子を殺す」。5月には一転して「石上(いそのかみの)池(いけ)の邊(ほとり)」(天理市)で「肅愼四十七人に饗(あへ)たまふ(饗応した)」。
 「書紀」は、蝦夷と肅愼の関係には触れていない。現在のアイヌ文化の形成は13世紀以後とされる。 7世紀、飛鳥に来た蝦夷はどんな文化、歴史を持っていたのか。以上のように、なお不明な点が多い。

「蝦夷」というと、平安初期の阿弖流為と坂上田村麻呂との戦いや、さらに平安末期の前九年・後三年の役などが有名ですが、それらより遡る飛鳥時代、蝦夷とヤマト王権との関わりを追っています。

それ以前から、ヤマト王権と小競り合いがあった蝦夷のうち、降伏したり捕虜になったりした者たちは「俘囚」として全国各地に強制的に移住させられるなどしていました。西日本でも蝦夷風の蕨手刀が出土するのがその証左。ちなみに鬼婆伝説で有名な観世寺さん(智恵子生家近く)で「鬼婆の出刃包丁」として伝えられ、展示されているのは蕨手刀です。

それでも「まつろわぬ」者たちも存続し、阿弖流為の乱に繋がりますし、処遇改善を求める俘囚の反乱なども頻発、平将門の挙兵もそうした流れの中に位置づける説もあります。遣唐使に連れられて海を渡ったという「蝦夷男女二人」も俘囚でしょう。

飛鳥京を経て唐の都・長安に渡った蝦夷。もしかすると「飛鳥には空が無い」「長安にも空が無い」とつぶやいたかも知れません。1,300年後に「東京に空が無い」と語った智恵子、蝦夷の血を色濃く受け継いだであろうその出自から、「あどけない話」が読み取れる気もします。無理くりですが(笑)。さらに言うなら、若い頃から北方の風土に惹かれ続け、ついに晩年には花巻郊外に隠棲した光太郎にも蝦夷の血が受け継がれていたのかも知れません。いっそう無理くりですが(笑)。

飛鳥時代ついでに奈良時代がらみで。

テレビ番組の再放送情報です。

再 興福寺 国宝誕生と復興の物語 つなぐ!天平の心

NHK BSプレミアム 2023年11月14日(火) 23:00〜00:00

平家南都焼き討ちに負けるな!大修理始まる奈良の象徴五重塔に匠がしかけた驚きの技!運慶が学んだ阿修羅の秘密!無著と法相六祖と天平彫刻を徹底比較!大迫力ドローン映像。

奈良興福寺が守り続けてきた天平の心と国宝の数々を探る▽秘仏続々登場!北円堂運慶作の弥勒・無著・世親や南円堂康慶作の観音・法相六祖▽古代と中世のハイブリッド?五重塔が美しい理由▽高村光太郎たたえた天平彫刻の写実と歴代美術史家が絶賛した無著像のリアルを徹底比較▽康慶の仏像に異を唱えた藤原氏!その革新性とは▽東大大学院日本建築研究の海野聡と奈良博彫刻担当の山口隆介が天平の心と中世の職人と仏師の思いに迫る

【出演】興福寺貫首 森谷英俊 奈良国立博物館学芸部主任研究員 山口隆介 
    東京大学大学院工学系研究科准教授 海野聡
【語り】柴田祐規子 【朗読】小澤康喬
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BS8Kさんで今年2月に初回放映があった番組で、2KのBSプレミアムさんでも3月と7月に放映がありました。

光太郎の評論美の日本的源泉」(原題は「日本美の源泉」)が使われます。
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ぜひ御覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

只今はとりあへず妹の家に立退いてゐますが五月中旬には岩手県花巻町の宮沢賢治さんの実家にまゐります。一時そこに滞在して木彫材料を得て仕事する気でゐます。これからは諸方を行脚いたします。


昭和20年(1945)4月30日 西出大三宛書簡より 光太郎63歳

4月13日の空襲でアトリエ兼住居を失った光太郎。その月のうちには花巻への疎開を決意していました。

前年には陸軍軍医学校での講習を受ける為に上京していた賢治の主治医だった佐藤隆房に花巻疎開を勧められていましたし、焼失してしまったと思われるものの、宮沢家からの誘いの書簡等もあったと思われます。

演奏会情報です。2月に横浜と広島で公演をなさった「藤木大地&みなとみらいクインテット」の皆さんが、新潟と奈良で。

まずは新潟。

りゅーとぴあ室内楽シリーズNo.49 藤木大地&みなとみらいクインテット

期 日 : 2023年5月3日(水・祝)
会 場 : りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館 新潟市中央区一番堀通町3-2
時 間 : 14:00~ 
料 金 : S : 4,500円 A : 3,500円

日本が世界に誇る国際的カウンターテナーの藤木大地と5人の名手による珠玉の室内楽コンサート 唯一無二の歌声を持つカウンターテナーの藤木大地が名手5人と共に創り上げる極上の時間

りゅーとぴあには2018年「りゅーとぴあ・オルガン・リサイタルシリーズNo.25」のゲスト出演以来の登場となる藤木大地。完璧にコントロールされた柔らかな美声と表現力に魅了された方も多くいらっしゃることでしょう。今回は往古来今、その歌声の魅力を余すことなく味わえる贅沢なプログラム。各界で活躍中の個性あふれる名ソリストたちが放つ輝かしい音色と、丁々発止のやり取りが楽しめる特別なアンサンブルは必聴必見です。この企画は、「横浜みなとみらいホール プロデューサー 2021-23」に就任した藤木大地が提唱する横浜市と地域の文化施設ネットワーク化プロジェクトの第一弾として開催します(他、神奈川県横浜市・横須賀市、奈良県大和高田市、広島県三原市、福岡県福岡市で実施)。

プログラム
 ピアノ五重奏曲より 第3楽章(ショスタコーヴィチ)
 お客を招くのが好き(J.シュトラウス2世)
 アヴェ・マリア(マスカーニ)
 ヴォカリーズ(ラフマニノフ)
 魔王(シューベルト)
 私はこの世に忘れられた(マーラー)
 鎮められたあこがれ(ブラームス)
 ピアノ五重奏曲より 第4楽章(シューマン)
 静かな真昼(ヴォーン=ウィリアムズ)
 ネッラ・ファンタジア(モリコーネ)
 ヤンキー・ドゥードゥル(ヴュータン)
 レモン哀歌(加藤昌則)
 鴎(木下牧子)
 瑠璃色の地球(平井夏美)
 いのちの歌(村松崇継)

出演
 藤木大地(カウンターテナー) 成田達輝(ヴァイオリン) 山根一仁(ヴァイオリン)
 川本嘉子(ヴィオラ) 遠藤真理(チェロ) 松本和将(ピアノ)
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続いて、奈良。

ムジークフェストなら 藤木大地&みなとみらいクインテット

期 日 : 2023年5月21日(日)
会 場 : 大和高田さざんかホール 奈良県大和高田市本郷町6-36
時 間 : 15:00~
料 金 : 一般3,000円 高校生以下500円(当日各500円増)

初夏の大和路に響く 奇跡の歌声と心に染み入る極上のハーモニー
唯一無二の歌声を持つカウンター藤木大地が、今望みうる最高のクインテットと共に再びさざんかホールに登場! この企画は、「横浜みなとみらいホール プロデューサー 2021-2023」を務める藤木大地が提唱する横浜市と地域の文化施設ネットワーク化プロジェクトとして開催します(当館他、神奈川県横浜市・横須賀市、新潟市、広島県三原市、福岡市で実施)。

プログラム
 ピアノ五重奏曲 第3楽章 / ブラームス
 アデライーデ / ベートーヴェン
 魔王 / シューベルト
 リディア / フォーレ
 愛の讃歌 / モノ―
 静かな真昼 / ヴォーン=ウィリアムズ
 遠く、遠く、お互いから / ブリッジ
 ピアノ五重奏曲 第4楽章 / ショスタコーヴィチ
 I Dreamed a Dream / レ・ミゼラブル
 サンクタ・マリア / 加藤昌則
 アメリカの思い出 「ヤンキー・ドゥードゥル」Op.17 / ヴュータン
 レモン哀歌 / 加藤昌則
 鷗 / 木下牧子
 いのちの歌 / 村松崇継
 満ち足れる安らい、うれしき魂の悦びよ / バッハ

出演
 藤木大地(カウンターテナー) 成田達輝(ヴァイオリン) 周防亮介(ヴァイオリン)
 川本嘉子(ヴィオラ) 上村文乃(チェロ) 加藤昌則(ピアノ)
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新潟公演と奈良公演で、プログラムがだいぶ異なっていますが、双方に加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」が入っています。光太郎詩句を反映し、切なくも爽やかな印象の曲です。また奈良公演では加藤氏がピアノ担当です。

それぞれお近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

帰つて来ました。葉書も見ました。山では少しは画いた。まだ荷をといたばかり、東京の様子更にわからず。会ひたいと思つて居るから二三日うちに行くかも知れない。山の画でみてもらひたいのもある。 いろんな話すことがどつさりある様だ。


大正2年(1913)10月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎31歳

002」は智恵子と過ごし、結婚の約束を果たした信州上高地。「いろんな話すことがどつさりある」のは「智恵子がらみでしょうか。

少しは画いた」のは油絵。10月12日から神田三崎町のヴヰナス倶楽部で開催された生活社主催油絵展覧会に、上高地での油絵21点と彫刻1点、素描3点が出品されました。

油絵21点のうちの1枚の現存が確認できており、時折、光太郎展などに出ます。この1枚のみ、葉舟が入手し、現在は某美術館に寄託されているはずです。

他は生活社展のパンフレットにモノクロの画像が載っているものが2点、それ以外はどんなものか不明ですし、現存が確認できていません。何処かからひょっこり出てこないかな、と思っているのですが……。

生活社は、前年に結成されたフユウザン会が早くも方針の相違から分裂し、光太郎、岸田劉生、木村荘八、岡本帰一の四人で興したグループです。

奈良県から展覧会情報です 

期 日 : 2020年10月19日(月)~11月8日(日)
会 場 : 天理図書館 奈良県天理市杣之内町1050
時 間 : 9時00分~15時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

 今秋、天理図書館は昭和5年の開館より90年の星霜を数えます。この期を祝して「天理図書館開館90周年記念展-新収稀覯本を中心に-」展を開催いたします。これは、平成22年に催した「天理図書館開館80周年記念特別展」に次ぐもので、それからの10年間に収蔵した資料に焦点をあてました。館蔵の国宝・重要文化財に指定されている資料の断簡、書簡や原稿などの自筆資料、また絵画や地図など、国内外の様々な分野の資料を展示いたします。これらをご清覧いただくことで、古典への関心を呼び起こし、書物文化の奥深さをより身近に感じていただくとともに、本館の活動にさらなるご理解を賜れば幸いです。
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出品目録
1   南海寄帰内法伝 巻第三断簡 奈良時代後期写
2   大鏡 巻中之上断簡 建久3年写
3   大鏡 巻第五断簡 千葉本 鎌倉時代写
4   本朝書籍目録 室町時代写
5   和名集 有坂本 室町時代後期写
6   梁塵秘抄郢曲抄 江戸時代後期写
7   舞楽帖 [土佐光起]画 江戸時代前期写
8   宇治拾遺物語 古活字版 寛永期頃刊
9   徒然草寿命院抄 古活字版 秦宗巴著 慶長6年跋刊
10  着到和歌断簡 後土御門天皇ほか自筆 室町時代中期写
11  後撰和歌集 甘露寺親長筆 明応4年写
12  宗祇座像  江戸時代初期写
13  賦何人連歌 [宗長]筆 長享2年写
14  連歌新式追加并新式今案等 里村玄仍筆 慶長2年写
15  発句帳 古活字版 寛永期頃刊
16  松花堂行状記 [佐川田昌俊]筆 寛永期写
17  石清水八幡献物帳 松花堂昭乗自筆 寛永16年写
18  音羽桜 松永貞徳ほか自筆 江戸時代前期写
19  「いきみ玉」発句画賛 野々口生白画 野々口立圃賛 江戸時代前期写
20  新撰都曲 池西言水編 元禄3年跋刊
21  我身皺 池西言水編 宝永4年序刊
22  いねあけよ 鬼貫初懐紙 爛々斎阿貢編 宝永6年序刊
23  仙家之杖 塘潘山編 寛保3年跋刊
24  花頂山中高徳院発句会「時雨」句 与謝蕪村自筆 明和8年写
25  「かはらけ売」自画賛 与謝蕪村自画賛 江戸時代中期写
25参 「炭売に」自画賛 与謝蕪村自画賛 江戸時代中期写
26  河内老嫗火近江手孕村 敵討両輌車 前編 稿本 山東京伝自筆 文化2年写
27  春雨物語 羽倉本 上田秋成自筆 文化6年奥書写
28  滝沢馬琴書簡 小津桂窓宛 滝沢馬琴自筆 天保7年写
29  半魚譜 森立之編 安政6年自序写
30  出島厨房図 [川原慶賀]画 江戸時代後期写
31  飼育場図 [川原慶賀]画 江戸時代後期写
32  西洋婦人馬上の図 石川大浪画 江戸時代後期写
33  永井荷風書簡 新延修三宛・日高基裕宛 永井荷風自筆 昭和11年
34  悪妻の手紙 原稿 川端康成自筆 昭和15年
35  えにしあらば 原稿 室生犀星自筆 昭和17年
36  文学の師医学の師 原稿 斎藤茂吉自筆 昭和17年
37  日本美の源泉 原稿 高村光太郎自筆 昭和17年
38  [J.レメリン] 小宇宙鑑 [ウルム] 1613年刊
   付:小宇宙の解説 [アウスブルグ] 1614年刊
39-1  [R.ダッドレー] 日本と蝦夷および朝鮮国と周辺諸島の図 
39-2  [R.ダッドレー] 中国沿岸、台湾および日本の南方諸島の部分図
39-3  [R.ダッドレー] 蝦夷の東部およびアメリカと蝦夷間の海峡の図
   『海の秘密』第3巻所収 フィレンツェ 1647年刊   
40  A.キルヒャー シナ図説 オランダ語版 アムステルダム 1668年刊
41         E.ケンペル 日本誌 ロンドン 1727-1728年刊 
42  C.ワーグマン ジャパン・パンチ 創刊号・第2号 横浜1862年[5]・6月刊

天理図書館さん、内外の稀覯書、肉筆物等005の蒐集に力を入れていて、これまでもこうした展覧会をたびたび開催されています。

右は、平成4年(1992)に開催された「天理秘蔵名品展」に出た光太郎草稿。大正2年(1913)3月、雑誌『趣味』に掲載され、翌年刊行の詩集『道程』にも収録された詩「カフエ・ライオンにて」。カフェ・ライオンは現在も続く銀座のビヤホール・ライオンの前身です。 

で、今回は、出品目録で「日本美の源泉 原稿 高村光太郎自筆 昭和17年」。

「日本美の源泉」は、昭和17年(1942)の7月から12月にかけ、中央公論社から発行されていた雑誌『婦人公論』に全6回で連載された美術評論で、その草稿を同社編集者の栗本和夫が和綴じに仕立て、保管していました。

昭和47年(1972)には、中央公論美術出版さんが、それをそのまま復刻し、二重函帙入り別冊解説付き限定300部・定価15,000円で刊行しました。別冊解説は当会顧問であらせられた故・北川太一先生でした。北川先生曰く「実用の文字であるだけに、かえってその人を見るような強靱な意力をひめ、刻み込むような筆力をもって終始たゆまぬ筆蹟」。まさしくその通りです。
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B4判の原稿用紙34枚を二つ折りにして和綴じにしてあり、内容的にもさることながら、その味わい深い文字、見ていて見飽きることがありません。
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その後、他の栗本の蔵書などと共に、財団法人栗本図書館(長野県諏訪郡富士見町)に収められていたのですが、そちらが閉館ということで、天理図書館さんの方に所蔵が移ったのだそうです。天理さんならこのように展示公開もなさって下さいますし、いい所に収まったと思います。

ところが、栗本が和綴じに仕立てた時点で、第四回の冒頭部分一枚が失われていました。復刻出版のその箇所は、仕方がないので活字で。
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ここに入るべき失われた一枚が、昨年、ネットオークションに出品され、驚愕しました。
神護寺湯川龍造
栗本と同じ中央公論社の編集者だった湯川龍造の旧蔵ということで、なるほど、そういうことだったか、という感じでした。湯川も他の作家の草稿などを多数所蔵していたとのこと。栗本にしても湯川にしても、それはネコババというわけではなく、戦時中の中央公論社の「自主廃業」に関わります。そのあたり、昨年のこのブログに書きましたのでご参照下さい。

今回の天理さんの展示、最初は湯川旧蔵のこの一枚が出るのかと思ったのですが、問い合わせてみましたところそうではなく、栗本旧蔵の方とのことでした。しかしそれはそれで名品であることに変わりはありません。

その他、上記出品目録の通り、なかなかの逸品が並ぶようです。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

天才は偉いのではありません。かえって欠点のある人の方がいいのです。天才は狂っているのです。頼まれないのにできるのですから。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二八」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

「天才は狂っている」、たしかに、ものすごいことが努力無しに出来てしまうというような、そういう存在は理屈に合わないといった意味ではそうかも知れませんね。

昨日の『読売新聞』さんの記事「内面や存在感 リアルに わがまちの偉人 龍馬像作った本山白雲」同様、光雲の系譜を継ぎ、光太郎と交流のあった彫刻家に関しての記事です。『毎日新聞』さんの奈良版から。 

ならまち暮らし:南都銀行の羊の彫刻=寮美千子 /奈良

 森川杜園(とえん)は、幕末から明治にかけて奈良で活躍した一刀彫りの名手だ。その展覧会が、ならまちの「にぎわいの家」であったのだが、コロナ騒動で外出を控えていたら、見逃してしまった。残念だと思っていたら、同じように残念がっている人がいた。友人の友人の水谷(みずのや)園(その)さん(74)だ。祖父・水谷鉄也が郡山中学(現在の郡山高校)在学中に森川杜園に師事。杜園晩年の最後の弟子だったという。
 園さんは、20代でフランスに渡り、長く彼の地で暮らし、一時帰国で京都に滞在中。「園」という名も、杜園から一字もらったもので、なんとしても杜園の作品に触れたいという。それならと、友人が一肌脱ぎ、杜園作品を見せてくれる古物商を見つけて、彼女を奈良に招待した。わたしも協力し、わが家にお泊まりいただくことになった。
 実は、園さんの祖父・鉄也の作品が、奈良に残されている。東向商店街の南都銀行本店の柱にある羊と花綵(はなづな)の装飾彫刻だ。
 彼がこれを作ることになった経緯が興味深い。鉄也は郡山中学に在学中に、奈良県の技師宅に寄宿していた。そこによくやってきたのが、建築家・長野宇平治。当時、奈良県庁舎を設計するために横浜から奈良に赴任していた。二人は顔見知りになる。
 杜園を喪(うしな)った鉄也は、上京し東京美術学校で高村光雲に木彫を学ぶ。高村光太郎が学友だった。卒業後、大阪博覧会の噴水の観音像を製作していたとき、偶然、長野が見学に来て再会を果たす。彼は、日銀大阪支店新築の技師長として赴任していたのだ。長野35歳、 鉄也26歳。
 杜園の弟子だった少年が、立派な彫刻家となっていることに驚いた長野は、さっそく鉄也に日銀の装飾彫刻を依頼。ここから、二人は協力して数々の名建築を手がけることになった。その一つが、1926(大正15)年竣工(しゅんこう)の現南都銀行本店だ。
 東向商店街のアーケードに阻まれて全貌が見えないが、実に立派な古典ギリシャ様式の建造物だ。
 正面のイオニア式円柱の羊の彫刻が、鉄也の作品である。
 「戦争中、祖父のブロンズ像の多くが金属供出で鋳潰(いつぶ)されました。フランスで学び、ロシア風のミジンスキーというあだ名を持っていた祖父には、欧米の友人が多くいました。自分の作品が弾丸になって友を殺すことになるとは、どんなにかつらかったことでしょう。祖父は生きる気力をなくし、死ぬような病気でもなかったのに、戦争中に67歳で亡くなってしまったのです。死後、駒込の家も空襲にあい作品を焼失。だから石造りのこんな作品が残っているのが、とてもうれしいんです」
 しかし、調べると鉄也は「爆弾三勇士像」「乃木希典像」といった戦争協力的な作品も作っている。皮肉にもそれらは「軍神」であるために供出されなかった。
 「美術学校教授として断れなかったのかも。片瀬江ノ島の乃木希典像は最後の最後まで残りましたが、戦後、軍神ゆえに引き倒されました。祖父はそれを知らずに亡くなりました。かえってよかったのかもしれません」
 豊かさの象徴である羊の彫刻。その背後には、思わぬ物語が刻まれていた。(敬称略)

水谷鉄也、記事にあるとおり、光太郎の同級生でした。入学前から森川杜園のもとで修行していたため、確かな腕を持ち、卒業制作「愛之泉」は光太郎をおさえて主席でした。

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上記は光太郎の学年の彫刻科卒業写真(明治35年=1902)。光太郎は後列左から3人目、前列左から4人目には光雲も写っています。この中に水谷もいるはずなのですが、残念ながらどれだかわかりません。おわかりになる方、ご教示いただければ幸いです。

当方、水谷の作品は、自宅兼事務所のある市内に銅像が有りますし、それ以外にも何度か拝見しましたが、やはり確かな技量を持つ彫刻家だな、という印象でした。

南都銀行さんにあるという作品は存じませんでしたが、同行のサイトで調べてみると、建築としては国の登録有形文化財にも指定されているそうでそれなりに知られているもののようです。水谷の装飾彫刻は「ギリシア様式の古典的な建造物のなかで、とりわけ目を引くのが正面のイオニア式円柱に施された「羊」の彫刻ですが、これは設計者の長野氏と懇意だった東京美術学校教授の水谷鉄也氏の作品です。「羊」の由来には諸説あるようですが、古代ヨーロッパにおいて民に多くの富をもたらした家畜を金融機関のシンボルとして採用したのではないかという説が有力です。なお、この「羊」の彫刻は建物東側壁面の装飾にも用いられています」とのことでした。

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戦時中、ブロンズの作品は供出の憂き目にあったという点、昨日ご紹介した本山白雲と同じですね。残った物は「軍神」のもの。それも戦後には「軍神」ゆえ撤去されてしまったというのですから皮肉な運命です。

供出に関しては、光雲や光太郎も例外ではありません。そのため、現在では写真でしか見られない作品が数多くあります。光太郎作品ですと、岐阜県恵那郡岩村町にあった「浅見与一右衛門銅像」、宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられた「青沼彦治像」、千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられた「赤星朝暉胸像」など。光雲では熊本の水前寺公園に建てられた「長岡護全銅像」(水谷が助手として名を連ねています)、東京・向島の「西村勝三像」など。

それにしても、お孫さんの「自分の作品が弾丸になって友を殺すことになるとは、どんなにかつらかったことでしょう」という一言、刺さりますね。光太郎は戦時中にはこのような発言はしていません。できなかったという部分もあるのかも知れませんが……。

こういう暗黒の時代に戻ることがあってはならないと思いますし、昨日同様、こうした彫刻家にもっと光が当たって欲しいとも感じます。


【折々のことば・光太郎】

品性涵養の要諦は精神の清潔感を育成することにある。

散文「神裔国民の品性」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

「神裔」は「神の末裔」の意。やはりズブズブの翼賛的散文で、このような題名となり、最後は「神裔国民たる品性をますます琢磨しつつ戦ひたい」と結んでいます。それはさておき、引用した部分はそのとおりですね。精神の清潔感が不足している当方としては、この一言も刺さります(笑)。

光太郎の父・高村光雲の作品が出品される企画展で、今月初めまで愛知の豊橋市美術博物館さんで開催されていたものが、奈良に巡回です。

ニッポンの写実 そっくりの魔力

期 日 : 2017年11月23日(木・祝)~2018年1月14日(日)
会 場 : 奈良県立美術館 奈良県奈良市登大路町10-6
時 間 : 午前9時~午後5時
料 金 : 一般・大学生 400(300)円 高大生 250(200)円 小中生 150(100)円
      (  )内20人以上の団体料金
休館日 : 月曜日(祝日の場合はその翌平日) 12月27日(水)~1月1日(月・祝)

何かにそっくりなものを眼にしたとき、私たちは「すごい!これ、本物?」と、素朴な驚きを覚えます。
眼に見えるものをあるがままに再現することへの欲望は、私たちの心に深く根ざした、古くて新しい感情なのではないでしょうか。「現実の事象をそのまま写し取ること」-日本の近代美術家たちは、近世までの「写実」の伝統を土壌としながら、西洋美術の流入を大きな刺激として、多様な「写実」へのアプローチを試みてきました。そして現代では近年、精緻な写実表現を目指す動向とともに、彫刻や工芸においても、日本の伝統的な技術の上に、克明な再現を軸とする表現が注目を集めています。
その一方でまた、写実を包括した超絶技巧と呼ばれる表現形態では、絵画にとどまらず、日本の伝統技術を追究した木造彫刻・金属工芸をはじめ、人体、動植物、日用品を克明に再現した作品も際立って注目されています。また、映像の世界においても、これまでの「記録」としての画像を凌ぐ超密度な画素と装置、アプリケーションも広く一般に流通し、わたしたちの「写実」に対する認識を変化させつつあります。 
この展覧会では、あらゆる対象があらゆる形態で写実的に表現されうる現在の状況、それによりかわろうとしている今日の「リアル」に対する感性のありようを、約80点の写実絵画、超絶技巧による立体作品、高精細な映像作品を通じて考える機会としたいと思います。

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関連行事

(1)  記念対談「“そっくり”で読み解く写実の魅力」
  12月3日(日曜日)午後2時から午後3時30分 レクチャールーム
  講師:丸地加奈子(豊橋市美術博物館 主任学芸員)
  定員80名(12時30分開場・先着順) 要観覧券
(2)  講演会「新写実憧景」
  12月10日(日曜日)午後2時から午後3時30分 レクチャールーム
  講師:南城守(前奈良県立美術館学芸課長)
  定員80名(12時30分開場・先着順) 要観覧券
(3)  美術講座「そっくりの魔力」
  1月7日(日曜日)午後2時から午後3時30分 レクチャールーム
  講師:深谷聡(当館主任学芸員)  定員80名(12時30分開場・先着順) 要観覧券
(4) 学芸員によるギャラリー・トーク 12月16日(土曜日)、12月23日(土曜日・祝日)、
  1月13日(土曜日) 14時から15時頃まで 展示室 要観覧券
(5)  ミュージアムコンサート レクチャールームなど
(6)  ワークショップ「そっくり工作に挑戦!」1階無料休憩室 会期中随時・参加費無料


ありがたいことに公式サイトに出品リストが出ており、光雲作品は豊橋巡回と同じ3点とわかりました。

「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895・個人蔵)、「砥草刈(とくさがり)」(大正3年=1914・大阪市立美術館蔵)、「西行法師」(制作年不明・清水三年坂美術館蔵)の3点です。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

紅顔、白髪、 「記者殿」は超積極の世界に生きて 時代をつくり、時代をこえ、 刻々無限未来の暗黒を破る。

詩「記者図」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

この年1月の『新聞協会報』第1000号の記念号に載った詩で、「紅顔」の新米から「白髪」のベテランまで、新聞記者さんたちへのエールです。

「事件にぶつけるからだからは/火花となって記事が飛ぶ。/どこへでも入りこみ/どんな壁の奥でも見ぬく。」
「対象に上下なく、/冒険は日常茶飯。/紙と鉛筆とカメラとテープと、/あとはアキレス筋の羽ばたく翼。」といった部分もあります。

光太郎同様、戦時中は大政翼賛会の提灯持ちと化してしまった新聞社も、占領下のGHQによる新たな束縛の時期を経て、この頃には正常化していました。

ところが現代はどうでしょう。少しでも政権批判的な事を書けば、やれ「偏向報道」だの「工作員」だのと騒ぎ立てる輩にあふれ、国会議員まで「○○新聞死ね」と発言して憚らない現実。検証や批判―「暗黒を破る」使命を放棄し、与党の機関誌かと見まごう御用新聞もまかり通っています。

気骨ある「記者殿」の伝統の火を消さないで欲しいものですね。

今週月曜日の『日本経済新聞』さん。文化面で「あをによし奈良への憧憬十選」という連載が為されていて、その9回目です。

あをによし奈良への憧憬十選 9 細谷而楽「翁舞像」

 「翁」の面をつけて老人が舞う。「翁」とは「能にして能にあらざる曲」とも呼ばれる神聖な儀式の能曲。演者が神となって言祝(ことほ)ぎ、舞って天下泰平や五穀豊穣(ほうじょう)を祈る。
 この人形はその「翁」を舞う姿を造ったものだ。面や衣装に至るまでこまやかに表現されていて、彫刻の固さはさほど感じられない。
 これは木彫ではなく、天平時代の興福寺阿修羅像などと同じ「乾漆」という技法で造られている。作者は群馬県出身の細谷而楽(じらく)。東京美術学校塑像科で高村光雲に師事し、その後、奈良で仏像修復を扱う美術院で活躍する。特に乾漆彫刻の伝統技術を解明し、修復につなげた功績は大きく、新薬師寺十二神将の宮毘羅(くびら)大将(寺伝は波夷羅(はいら)大将)や法隆寺吉祥天像の修復は名高い。
 その技術が人形にも生かされている。細谷は昭和初期に春日大社が古典芸能の保存継承を目的に創設した「春日古楽保存会」で、金春流能楽師・桜間金太郎の舞う姿を見て、この乾漆で百体もの像を造ったという。これはその内の一つだ。
 奈良の文化財が今に守られ伝えられているのは、細谷のような人材と技術があったからだろう。その偉大な功績をしのぶよすがの翁舞像である。(1925年、乾漆彩色、像高36.3×幅18.7㌢、個人蔵)

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而楽細谷三郎。東京美術学校で光雲に師事、とありますが、学年としては光太郎と同期で、光太郎とのツーショット写真も残っています。左が細谷、右が光太郎。明治30年(1897)、光太郎14歳です。二人の奇妙な服装は、初期の東京美術学校の制服。「闕腋(けってき)」と呼ばれる昔の服を参考に制定されましたが、不評だったため程なく廃されました。

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細谷は明治8年(1875)または11年(1878)の生まれとされ、光太郎より8歳ないし5歳年長です。初期の美校ではさまざまな経歴の入学者がおり、生徒の年令の幅は広かったようです。

光太郎の文章等にもたびたび細谷の名が出て来ます。明治35年(1902)、それぞれが美校を卒業した際の卒業制作では、光太郎が日蓮(『獅子吼』)、細谷は俊寛と、それぞれ僧侶をモチーフにしたこと、同じ年の暮に、まだ実家で暮らしていた光太郎の彫刻室が火事で全焼した際に、後片付けの手伝いに来てくれたことなど。

卒業後、細谷は『日経』さんの記事にあるとおり、仏像修復の分野で活躍します。これには光雲が古社寺保存会の仕事もしていたため、そうした分野にも弟子たちの道筋を付けてやっていたという背景もあります。甲冑師の後裔だった明珍恒男などもそのクチでした。

それだけでなく、乾漆による実作でも上記のような秀作を残した細谷。この部分でも光太郎との関わりがあります。

昭和2年(1927)、青森十和田湖の道路整備等に尽力し、国立公園指定の礎を築いた地元の村長・小笠原耕一が歿しました。すると、小笠原と共に十和田湖周辺の開発を進めた元青森県知事の武田千代三郎が、盟友の死を悼み、自ら小笠原の塑像を制作しました。その原型を乾漆で完成させたのが細谷でした(画像左)。また、武田は自身の乾漆像の制作も細谷に依頼(画像右)。二つの像は十和田の蔦温泉にあった薬師堂に納められました。

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戦後になって、小笠原、武田、そして両者と親しく、文筆で十和田湖の魅力を広く世に紹介した大町桂月を併せた「十和田の三恩人」を顕彰する功労者記念碑として計画されたのが光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」です。

戦前から民間レベルで進められていた顕彰運動に細谷が関わっていて、戦後には光太郎がそのしめくくりに携わっているわけで、不思議な縁を感じます。

細谷而楽。もっと注目されていい作家だと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり

昭和13年(1938)頃 光太郎56歳頃

昨日の「ひとむきに……」同様、昭和16年(1941)刊行の『智恵子抄』に収められました。「おどろしき」は「恐ろしい」。

戦後、花巻に疎開した折、智恵子遺品の紙絵「いちご」にこの歌を添え、世話になった総合花巻病院長・佐藤隆房に謹呈。現在も花巻高村光太郎記念館に所蔵されています。

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今朝の『朝日新聞』さんの奈良版に以下の記事が載りました。 

戦時下を生きた詩人 奈良大で池田克己展

 明治末の吉野で生まれ、22歳で初の詩集を世に出した。戦時下の中国・上海で創作に力を注ぎ、文学界で光を放った。半ば忘れられた詩人の陰影を追う展示「海の彼方(かなた)の日本語文学 詩人・池田克己(かつみ)とその時代」が、奈良市山陵町の奈良大学図書館で開かれている。3月26日まで。
 豚の絵と「PIG」の文字を大書きした詩誌「豚」。表紙に写真やイラストをあしらったモダンな雰囲気の俳句雑誌「地図」、詩句誌「風地」……。いずれも池田克己(1912~53)が20代で刊行に関わったものだ。展示室には、大学や木田隆文准教授(43)が集めた古い雑誌が並ぶ。
 時は、軍靴の足音が近づく昭和10年代。吉野に暮らした池田が全国に呼びかけ、洗練された印刷物をつくっていたことについて、日本近代文学が専門の木田准教授は「林業で栄えていた当時の吉野には、最先端の情報も入ってきたのだろう」と見る。
 44年の3作目の詩集は高村光太郎が序文を寄せ、高見順らと詩誌を創刊するなど、日本を代表する詩人と交流があった。
 展示ケースには、「法隆寺土塀」という48年の作品もある。展示室では中身まで読めないが、中国で終戦を迎え、ぼろぼろに傷つき帰郷した池田が、白鳳・天平以来の時を超えた土塀を目の当たりにした心持ちをつづっている。
     ◇
 一方、「日本統治下上海の文化政策」「戦時上海の日本人文学者たち」と題した展示コーナーでは、占領政策を広めるために「大陸新報社」が出した雑誌、池田が始めた「上海文学研究会」の雑誌など、当時の出版物を紹介している。
 徴用が終わった後も上海にとどまった池田は、邦字紙「大陸新報」記者として活動する傍ら、現地の文学者仲間と創作に打ち込んだ。
 木田准教授はしかし、この時期のほとんどの資料が既に失われた、と指摘する。文学者や記者たちは占領政策に加担していた側面もあり、その仕事を顧みられることはあまりなかった。古書店などで集めたという書物は、歴史の大切な「証言者」だ。
 「複雑な国際関係の中を生きて、創作活動をやめなかった人たちがいた。彼らの行動を丁寧に捉え直すことが、この先の未来を考えるためにも必要ではないか」
 無料で、学外の人も見られる。2月29日~3月10日は蔵書点検で休み。開館時間などの問い合わせは図書館(0742・41・9507)。(栗田優美)
     ◇
■法隆寺土塀
 帽子にたまつた雨水をはらい000
 靴底につもった泥水を雑草になすり
 頬につたう雫をぬぐい
 龍田川からの一本道
 土砂降りしぶく一本道
 とうとう私はかえつてきた
 (略)
 私の中華民国十年の
 雑多矢鱈のボロボロの
 息せき切った一散の
 昏昏迷迷の
 びしょ濡れの
 前に立つ荒壁
 法隆寺土塀
     ◇
 〈池田克己〉 今の吉野町で生まれ、小学校卒業後、吉野工業学校(現・吉野高校)で建築を学ぶ。上京して写真を学び、地元に帰って写真館を営む傍ら、22歳で初詩集「芥は風に吹かれてゐる」を出版。1939年に上海へ派遣され、軍関係の建築にあたる。その後、邦字紙「大陸新報」記者に。45年11月に帰国し、40歳で他界するまで詩作を続けた。47年に創刊した詩誌「日本未来派」は、今も年2回発行されている。


この展覧会は存じませんで、早速調べてみました。 
期 間 : 2016年1月18日(月)~3月26日(土)
場 所 : 奈良大学図書館展示室(奈良市山陵町1500) ※一般の方も入館できます。
入場料 : 無料
 間 : 図書館開館時間に準じる(http://library.nara-u.ac.jp/nara/yotei.htm)。
     ※大学春休み期間は開館日が変動しますので、ご注意ください。

展覧会で取り上げる池田克己(1912-1953)は、奈良県吉野生まれの詩人です。
戦前の彼は、吉野を拠点に詩作を行い、詩雑誌「豚」を主催、全国的に注目される詩人となりました。
その後日中戦争に徴用、除隊後も上海に残り、その地で長江一帯に住む日本人・中国人の文学者を結集した上海文学研究会を結成。戦時下の上海でさまざまな日本語文学書を出版します。
そして戦後になって日本に帰国したのちも、日中で交流した詩人たちを再結集した詩サークル「日本未来派」を結成。戦後日本の現代詩の基礎を築きあげる活動をしました。
本展示では、その池田克己の足跡を関連する書物を取り上げながら紹介してゆきます。
展示図書のうち、特に戦時下の中国大陸で発行された日本文学関連図書は、国内外の図書館にも所蔵がないものがほとんどです。
なかには今回が新発見・初公開のものも多数含まれています。
 戦前期の奈良吉野でモダンな近代詩運動が繰り広げられていたことは、奈良県民の皆さんもあまりご存知ないことだと思います。
また〈日本文学〉が、海外にも広がっていたこと、そして〈日本人〉だけがそれを担っていたのではないということも今回の展示からは浮かび上がります。
 一人の詩人の足跡をたどりながら、〈日本語文学〉の多様さを感じていただければ幸いです。


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池田克己は明治45年(1912)生まれの詩人。特殊建設の現場監督として徴用され、中国大陸に渡って復員。昭和22年(1947)に、高見順、菊岡久利らと詩誌『日本未来派』を創刊しました。早くから光太郎を敬愛し、昭和19年(1944)に刊行された池田の詩集『上海雑草原』では光太郎に序文を依頼し、戦後は花巻郊外太田村の山小屋を訪れたりもしました。

こちらは昭和23年(1948)7月の『小説新潮』グラビアに載った池田撮影の光太郎ポートレート。

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また、当方、池田の名が記された光太郎書簡を持っております。昭和23年(1948)5月、札幌の『日本未来派』発行所の八森虎太郎に送ったものです。

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「落下傘」をいただき、又池田克己氏詩集をもいただき、何とも恐縮に存じました、 大変立派に出来てゐるので気持ちよく思ひました、 池田さんからは「法隆寺土塀」をもいただき、 この処詩の大饗宴です。

厚く御礼申上げます。

『朝日新聞』さんの記事に紹介されている『法隆寺土塀』についても触れられています。

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上記は昭和23年(1948)7月刊行の『日本未来派』第13号。『法隆寺土塀』の広告が出ています。


こういうマイナーな文学者を取り上げる企画展、各地の文学館さんでもちょっと難しいところがあると思います。そういう意味では大学さんで企画していただくのは非常にありがたいところですね。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

ワガ ヤマニライカヲモチテイチハヤクタヅ ネコシカレトカタリシコトゴ ト
昭和28年(1953) 光太郎71歳

池田の急逝に際し、光太郎が送った弔電に載せられた短歌です。当時の電報は片仮名のみでした。漢字平仮名交じりにすれば「我が山に ライカを持ちて いち早く 訪ね来し彼と 語ることごと」。上記のポートレートに関わります。


弔電、といえば、昨夜、当方も地元の郵便局から弔電を発送しました。

名古屋学芸大学教授で、『智恵子抄の新見と実証』(新典社 平成20年=2008)、『『智恵子抄』の世界』(同 平成16年=2004 奥様の裕子様と共編著)などのご著書のある大島龍彦氏が亡くなられました。

当方が現今の立場になる以前、光太郎忌日・連翹忌の仕切りを数年間やってくださり、高村光太郎研究会、名古屋高村光太郎談話会などでご活躍でした。

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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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