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昨日、新刊の『吉本隆明 全質疑応答Ⅰ 1963~1971』(論創社)、『吉本隆明全集26[1991-1995]』(晶文社)を御紹介しましたが、晶文社さんのサイトを細かく調べましたところ、少し前の刊行でしたが、まだありました。

吉本隆明全集18[1980-1982] 

0032019年1月 吉本隆明著 晶文社 定価7,480円(本体6,800円)

社会の転換期に生み出される「現在」の文学を論じた初めての本格的文芸時評『空虚としての主題』と、名作古典文学の深層と構造を鮮やかに描き切った『源氏物語論』、長く継続的にその主題を追って書き継がれた「アジア的ということ」などを収録する。単行本未収録3篇。第19回配本。月報は、安藤礼二氏 山本かずこ氏 ハルノ宵子氏が執筆。

【目次】

Ⅰ 空虚としての主題
 書きだしの現象論/抽象的と具象的/イメージの行方/背景のしくみ/感性による否認/固執された〈意味〉/持続された思惟/さまざまな自然/「私」および「彼」の位置/「私」小説に出あう/物語を超えて/嫌悪としての描写/現在という条件/あとがき/文庫版のためのあとがき

Ⅱ 源氏物語論
第Ⅰ部 母型論/第Ⅱ部 異和論/第Ⅲ部 厭離論/第Ⅳ部 環界論/あとがき/わが『源氏』/文庫のための註/『源氏』附記

Ⅲ 
鳥の話/天の河原ゆき[『野性時代』連作詩篇30]/旅の終り[『野性時代』連作詩篇31]/水の死/
夢は枯野[『野性時代』連作詩篇32]/魚の木/水の絵本[『野性時代』連作詩篇33]/融けた鏡[『野性時代』連作詩篇34]/掌の旅[『野性時代』連作詩篇35]/木の説話[『野性時代』連作詩篇36]/本草譚/坂の曲がり[『野性時代』連作詩篇37]/追憶[『野性時代』連作詩篇38]/葉の魚[『野性時代』連作詩篇39]/葉の声――入江比呂さんに――/

アジア的ということⅠ/アジア的ということⅡ/アジア的ということⅢ/アジア的ということⅣ/アジア的ということⅤ/アジア的ということⅥ/アジア的ということⅦ/「アジア的」なもの

村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』/「文学者」という画像/川端要壽のこと/『赤光』論/村上一郎論/『初期心的現象の世界』について/ドストエフスキーのアジア/源氏物語と現代――作者の無意識――

『野性時代』アンケート/「百人一答ジャパネスク」アンケート/諏訪優/横光利一/際限のない詩魂[高村光太郎]/わが子は何をする人ぞ/果樹園からリンゴを盗む/『言葉という思想』あとがき/『試行』第五六〜五七号後記

解題(間宮幹彦)

吉本隆明全集20[1983-1986] 

0022019年9月 吉本隆明著 晶文社 定価7,480円(本体6,800円)

埴谷雄高との論争「重層的な非決定へ」と『死の位相学』の序に代えて書き下ろされた「触れられた死」などの評論・エッセイと連作詩の最後の時期を収める。第21回配本。月報は、中島岳志氏 岩阪恵子氏 ハルノ宵子氏が執筆。

【目次】

祖母の影絵/メッセージ[『野性時代』連作詩篇63]]/風文字[『野性時代』連作詩篇64]/字の告白/「さよなら」の椅子[『野性時代』連作詩篇65]/余談/声の葉/深さとして 風のいろとして/活字のある光景/活字都市

大衆文化現考 ロック・グループの世界/ビートたけし芸の変貌/「戦場のメリークリスマス」/地崩れして動く劇画/現在の名画の条件/「YOU」の中の糸井重里/リンチ機械としてのテレビ/小劇団の場所/三浦和義現象の性格/オモチャ・ショー/「オールナイトフジ」論/ロス五輪私感/夏を越した映画/エレクトロニクスショー/光る芸術のこと/ハイ・コミュニケーションに触れる/ファッション・ショー論/クイズ番組論/テレビCMの変貌
季評・大衆文化 科学万博印象記/映画の話/ふたつの出来事/退場にあたっての弁
n個の性をもった女性へ/告別のことば――橋川文三――/未踏の作業――渡辺寛『流され王の居場所』/映像から意味が解体するとき/情況への発言――中休みのうちに[一九八四年五月]/ミシェル・フーコーの死/スケベの発生源/『ゴルゴダのことば狩り』について/山本育夫小論/ファッション/情況への発言――中休みをのばせ[一九八四年一一月]/江藤淳についてのメモ/私の町――谷中・団子坂・駒込吉祥寺/政治なんてものはない――埴谷雄高への返信/元祖モラトリアム人間/思い出の劇場――海辺の劇場/北川太一の印象/重層的な非決定へ――埴谷雄高の「苦言」への批判/情況への発言――中休みの自己増殖[一九八五年七月]/マラソンについて/触れられた死/異論を介しての『火まつり』/現代電波絡繰試論/ニューヨーク・ニューヨーク/一枚の絵――カンジンスキイ「バラ色の諧調」/佃ことばの喧嘩は職業になりうるか/文化の現在 現在を読む120冊の本――現在・準現在・準古典・古典/中沢新一を真っ芯で。/恐怖・不安・孤独――近未来と恐怖映画/遇わなくなってからの清岡卓行の詩/松岡祥男について/阿蘇行/「黒澤充夫・辞典のための挿絵展」のために/
本について/たった一つの黄金風景/詩について/10年先の、僕の恋人たちの風景/『それから』という映画/文学者と戦争責任について/情況への発言――雑多な音響批判[一九八六年二月]/食うべき演劇/イエスの方舟・千石剛賢/高橋留美子「めぞん一刻」/「主題」という幻化または「幻化」という主題[山崎哲]/少年の日の界隈/高村光太郎の書/編集者としての安原顯/こだわり住んだ町/『アンチ・オイディプス』論――ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ批判/傾面の映画――『山の焚火』/『日本の原像』註記/ふた色の映画/表現機械としてのワープロ/国語の教科書/わたしの現況/蠢めく家族――安田有『スーパーヒーローの墓場』/鮎川信夫――別れの挨拶/島尾敏雄氏を悼む/権力について――ある孤独な反綱領/情況への発言――海路の日和[一九八六年一一月]/歯について/ 

『野性時代』アンケート/電話アンケート スターリンがメジャーになるには?/『夕刊イトイ』復刊お祝いコメント/坂本龍一コンサート「MEDIA BAHN」/執筆者コメント/ウイークリー・データ一九八四・九・一〇―一六/ボクの二十代/「書店」を語る/原子力エネルギー利用は不可避/田原克拓『続・性格と心の世界』/山崎龍明『仏教の再生』/親鸞理解に不可欠の存在――石田瑞麿/
野戦攻城の思想[橋川文三]/田原克拓『初期・性格と心の世界』/E・M・シオラン『歴史とユートピア』/文芸史の新しい波――『日本文芸史』/「問いと答え」――『室生犀星未刊行作品集』/
『対幻想』まえがき/『死の位相学』あとがき/『重層的な非決定へ』あとがき/『難かしい話題』あとがき/『恋愛幻論』あとがき/『さまざまな刺戟』あとがき/著者のことば ――『吉本隆明全集撰』/結合について――『白熱化した言葉』序/イメージとしての文学――『白熱化した言葉』あとがき/対談を終えて――『知のパトグラフィー』あとがき/『都市とエロス』あとがき/
『漱石的主題』まえがき/『試行』第六二~六六号後記

解題(間宮幹彦)

同全集、基本的に編年体の編集ですので、複数の巻にぽつりぽつりと、光太郎。そのため、気がつきませんでした。また、第20巻には、当会顧問であらせられ、吉本の盟友でもあった故・北川太一先生を論じる「北川太一の印象」。これも存じませんでした。急ぎ図書館等で調べようと思いました。

昭和40年代から50年代にかけ、編年体ではない『吉本隆明全著作集』が勁草書房さんから刊行され、そのうち第8巻が「作家論Ⅱ 高村光太郎」。昭和32年(1957) 飯塚書店刊行の評論集『高村光太郎』全文を含め、その後に出された光太郎関連の文章、講演筆録などが網羅されていますが、いかんせん昭和48年(1973)の刊行なので、その後のものは載っていません。

そういう意味では、『決定版 吉本隆明、光太郎を語る』的な書籍が刊行され、網羅されると有り難いのですが……。

同じことは光太郎の著作にも言えるような気がします。『高村光太郎、宮沢賢治を語る』みたいな書籍を出せば、そこそこ売れるように思います。

さて、晶文社さんの『吉本隆明全集』、全38巻+別巻1の予定で、今後も刊行が続きます。注意して見ていこうと思っております。
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【折々のことば・光太郎】

ひる頃学校。学校忘年会、校長さん、上田、高橋、平賀先生、保健婦さん、開拓事務所の八重樫さん、藤原さん等にて教室にて会食。余は酒一升(弘さんよりのもの)、林檎十個持参。四時小屋にかへる。


昭和23年(1948)12月26日の日記より 光太郎66歳

子供たちは冬休み中だったのでしょうが、先生達は昼間から学校で忘年会(笑)。のどかな時代だったということですね。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の盟友だった、故・吉本隆明氏関連です。この国で初めて、まるまる一冊、光太郎を論じた評論集『高村光太郎』(昭和32年=1957 飯塚書店)を刊行した吉本、その後も折に触れ、光太郎を論じ続けました。そうした『高村光太郎』の補遺的な短文等が掲載された新刊を御紹介します。

吉本隆明 全質疑応答Ⅰ 1963~1971 

2021年8月3日 吉本隆明著 論創社 定価2,200円+税

テーマ別で編集された『吉本隆明質疑応答集』シリーズを刷新し、時系列で並べ直した『吉本隆明 全質疑応答』始動! 全5巻を予定し、新たに発見された前シリーズ未収録の「質疑応答」も収録。巻末に菅原則生による解説を付す。
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目次
【九州大学新聞主催】 1963年11月23日
  情況が強いる切実な課題とは何か
【国際基督教大学ICU祭実行委員会主催】 1964年1月18日
  芸術と疎外 
【『コスモス』主催。日比谷図書館において】 1966年4月2日
  高村光太郎について―鷗外をめぐる人々 
【東京都立大学附属高等学校第18回記念祭において】 1966年10月22日
  日本文学の現状 
【関西大学学生有志主催】 1966年10月29日
  知識人―その思想的課題
【大阪市立大学社会思想研究会・大阪市立大学新聞会共催】 1966年10月31 日
  国家・家・大衆・知識人
【国学院大学学生(学部等不明)主催】 1966年11月21日
  現代文学に何が必要か 
【中央大学学生会館常任委員会主催】 1967年10月12 日
  現代とマルクス 
【早大独立左翼集団主催】 1967年10 月21日
  ナショナリズム―国家論 
【東京大学三鷹寮委員会主催】 1967年10月24日
  詩人としての高村光太郎と夏目漱石
【明治大学駿台祭二部実行委員会主催】 1967年11月1日
  調和への告発 
【東京医科歯科大学新聞会主催】 1967年11月2日
  個体・家族・共同性としての人間 
【京都大学文学部学友会主催】 1967年11月12日
  再度情況とはなにか 
【国学院大学文芸部・国学院大学文化団体連合会共催】 1967年11月21日
  人間にとって思想とは何か
    ―『言語にとって美とはなにか』および『共同幻想論』にふれて
【関西大学学生図書委員会主催】 1967年11月26日
  幻想としての国家
【大学セミナーハウス(東京都八王子市)主催】 1971年5月30日
  自己とは何か―ゼーレン・キルケゴールの思想を手がかりとして 
【青山学院大学現代文化研究会主催】 1971年6月5日
  思想的課題としての情況 
【名古屋ウニタ書店主催】 1971年12月19日
  国家・共同体の原理的位相

それから、晶文社さんから刊行中の『吉本隆明全集』。平成26年(2014)発行の第5巻に、『高村光太郎』全文が収録されており、他に、第7巻、第4巻第10巻、第9巻第12巻でも光太郎に触れられていましたが、このほど刊行された第26巻でも光太郎関連が。

吉本隆明全集26[1991-1995] 

0012021年8月 吉本隆明著 晶文社 定価7,150円(本体6,500円)

『ハイ・イメージ論』の続編「IV」ともいうべき『母型論』と中東湾岸戦争についての発言などを収める。単行本未収録6篇(「些事を読みとる」「鶴見さんのこと」「太宰治を思う」ほか)。第27回配本。

月報は山崎哲さん(劇作家)、菅原則生さん(『続・最後の場所』)、ハルノ宵子さん(作家・漫画家)が執筆。

【目次】

Ⅰ 
母型論
序/母型論/連環論/大洋論/異常論/病気論Ⅰ/病気論Ⅱ/語母論/贈与論/定義論Ⅰ/定義論Ⅱ/起源論/脱音現象論/原了解論/あとがき/新版あとがき/

中東の切迫/中東湾岸戦争私論――理念の戦場はどこにあるのか――/中東戦争と太平洋戦争/「芸」としてみた中東戦争/良寛書字――無意識のアンフォルメル――/濃密な圧力感を生命力とする映画――ベルイマン『牢獄』――/はじめの高村光太郎/気球の夢/「二十世紀末の日本文化を考える」/
些事を読みとる/思想を初源と根底から否定する――ニーチェ『偶像の黄昏/アンチクリスト』――/泥酔の思い出/健康への関心/海老原博幸の死/エロスに融ける良寛――瀬戸内寂聴『手毬』――/情況への発言――〈切実なもの〉とは何か――[一九九一年五月]/鶴見さんのこと/上野公園の冬/「父の像」/芸能人の話/土井社会党の失点/小川徹の死/衝撃の映像/こんどソ連で起こったこと/『海からの光』と出遇ったこと/老齢ということ/辰吉の試合と『愛される理由』/中島みゆきという意味/修羅場を知った編集者――安原顯著『「編集者」の仕事』を読んで――/ラフカディオ・ハーンとマルチニーク島/軍国青年の五十年/ちいさな熊本論/ビートたけしの映像/

かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』論。/黒澤明『夢』『八月の狂詩曲』など。/大川隆法『太陽の法』論。/Mr.ホーキング、出番です。/つげ義春『無能の人』その他。/『日本語の真相』って何?/
『生死を超える』は面白い/『男流文学論』は女流ワイ談でしょう/上田紀行『スリランカの悪魔払い』『トランスフォーメーション・ワークブック』/テレビ的事件(1)――『原理講論』の世界――/『国境の南、太陽の西』の眺め/テレビ的事件(2)――象徴になった婚約――/『磯野家の謎』東京サザエさん学会編/大友克洋『AKIRA』1~6/『マディソン郡の橋』はどうか/岩井克人『貨幣論』/

太宰治を思う/対談を終わって/『試行』第七〇号後記

解題(間宮幹彦)

90年代の吉本、マスコミの需要もあったのでしょうが、芸能関係やサブカルチャー方面など、その論じる対象は本当に幅広くなっていたというのがよくわかります。そうした傾向を批判する向きがないでもありませんが、いわゆる「専門バカ」より良いと思いますし、吉本の場合、どんなに手を広げても、それぞれに深い洞察に基づいて論じられていて、単なる雑学好きが蘊蓄を傾けているといった趣にはなっていません。それだけに、語り継がれる存在なのでしょうが。

さて、それぞれ、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜青年会の旗の図案をかく。


昭和23年(1948)12月24日の日記より 光太郎66歳

「青年会」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区の、山関青年会。この旗は現存します。
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8月9日(月)、地元の皆さん限定で行われた第30回女川光太郎祭について、仙台に本社を置く『河北新報』さんが報じて下さいました。

「三陸廻り」90年に敬意 高村光太郎文学碑に献花

 戦前に宮城県女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのび、町内の「女川光太郎の会」が9日、町海岸広場内の文学碑に献花した。碑は東日本大震災で被災して昨夏に再建を果たし、会員らが建立からの30年間に思いを巡らせた。
 光太郎は1931年に石巻から金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古までを旅し、紀行文「三陸廻(めぐ)り」を著した。光太郎が石巻に向かって東京を出発した日から今月9日で丸90年を迎え、町民5人が光太郎の詩や紀行文を刻んだ文学碑に花を手向けた。
 碑は震災の津波で亡くなった町内の画家貝広さん=当時(64)=が中心となって91年に3基を建てた。1口100円の募金活動で建設費を募り、約10年がかりで完成させた。
 女川港の水揚げ場を詠んだ「よしきり鮫(ざめ)」を記した詩碑が震災の津波で流出。主碑が倒れ、詩碑1基が残った。貝さんの思いを継いだ会員らが残った2基の再建を町に要望。町が護岸工事を終えた海岸広場に昨年8月ごろ、設置した。
 毎年8月9日に光太郎の詩を朗読する「光太郎祭」は、新型コロナウイルスの影響で昨年から献花のみ実施している。92年に始まり、今年で30回目を迎えた。
 光太郎の会の須田勘太郎会長(81)は「多くの方の支えで碑を再建できた。貝さんら先人の思いをつなぎ、これからも祭りを続けたい」と語った。
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昨年に引き続き、今年も一般の方の参加はなく、女川光太郎の会の皆さんによる、光太郎文学碑への献花のみ行われました。来年こそは、旧に復してほしいものです。

明日も女川系のネタを。

【折々のことば・光太郎】

夜蚊帳つり今夏はじめて


昭和23年(1948)7月22日の日記より 光太郎66歳

「蚊帳(かや)」。風流といえば風流ですね。

ハードカバーの文庫化です。

「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―

2021年8月1日 末盛千枝子著 新潮社(新潮文庫) 定価825円(税込)

それでも、人生は生きるに値する。彫刻家・舟越保武の長女に生まれ、高村光太郎に「千枝子」と名付けられる。大学を卒業後、絵本の編集者となり、皇后美智子様の講演録『橋をかける』を出版。だが、華々しい成功の陰には、幾多の悲しみがあった。夫の突然死、息子の難病と障害、そして移住した岩手での震災……。どんな困難に遭っても、運命から逃げずに歩み続ける、強くしなやかな自伝エッセイ。

目次000
 人生は生きるに値する――まえがきにかえて
 千枝子という名前
 卒業五十年
 父の葉書
 母、その師その友、そして家族
 IBBYと私
 私たちの幸せ――皇后美智子様のこと
 最初の夫、末盛憲彦のこと
 絵本のこと、ブックフェアのこと
 再婚しないはずだったのに
 逝きし君ら
 出会いの痕跡
 文庫版あとがき
 解説 山根基世

元版は、平成28年(2016)に同社からハードカバーで刊行されています。さらに遡れば、同社のPR誌『波』での連載(平成26年=2014)が最初でした。

著者の末盛さん、光太郎に私淑した彫刻家・舟越保武のご息女で、案内文にある通り、光太郎によって「千枝子」と名付けられました。舟越が命名を依頼したところ、光太郎は「女の子の名前は「ちえこ」しか思い浮かばないが、智恵子のように悲しい人生では困るから、字を替えましょう」と言ったとのことで。

その辺りの経緯や、名付け親である光太郎との盛岡での再会、平成27年(2015)に、盛岡の少年刑務所さんで開催された「高村光太郎祭」でご講演をなさった話などが、光太郎に関わる部分です。

それ以外に、絵本編集者としての日々、当時の皇后美智子さまとの交流、ご家族とのドラマ、そして東日本大震災についてなど、さまざまな方向に筆が進んでいます。

ハードカバー刊行直後、PR誌『波』に、中江有里さんによる書評が載りました。題して「朝ドラのヒロインのような人生」。それが共感を呼んだようで、過日の新聞広告でもそうしたキャッチコピーが使われていました。
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当方、中江さんより早く「NHKさんの朝ドラの主人公になってもおかしくないような感がしました」とこのブログに書きました(笑)。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃学校にて児童給食の粉ミルクをとかした牛乳の御馳走になる。脱脂粉乳の由なるが、味よろし。


昭和23年(1948)7月2日の日記より 光太郎66歳

脱脂粉乳。GHQの支援により、日本の学校給食に供されるようになって、地方によっては1970年代前半まで出されていたそうですが、当方、その頃入学した都内の小学校では既に瓶の牛乳でしたので、飲んだことがありません。

現在製造されているものは品質も向上、味や匂い等向上しているそうですが、この時代のそれは、不味いものの代名詞とまで言われていたものだったそうです。しかし、光太郎は「味よろし」とのコメントを残しています。

2月5日(金)の『読売新聞』さん夕刊から。

よみうり寸評

つい先日、東京五輪まであと半年という声を聞いたと思ったら、今度は北京五輪まで1年になったという。東京大会の延期で開催時期が近づいた◆羽生結弦、高木美帆…有力選手の活躍が報じられても、大舞台はだいぶ先のように感じていた。虚を突かれたような驚きを覚えつつ、時候ゆえか、ふと連想したのが梅と桜の開花前線だ◆列島を北上するにつれて双方は接近する。リンゴや梨の花も挙げて高村光太郎は〈東北の春〉の味わいを随筆に綴(つづ)った。〈春の花の代表が、前後する暇もなく、一時にぱっと開いて、まるで童話劇の舞台にでもいるような気を起させる〉◆夏季五輪のすぐあとに冬季五輪を観戦できるなら、うれしい話ではないか。と思ったところでコロナ下の厳しい現実に立ち返る◆北京の有力選手の話を本紙で読んだ。「まずは東京五輪の開催を願っている。そうすれば北京もきっと出来ると思う」。切実な気持ちを選手が抱えている時に…。紙幅が尽きるところで、かの発言に一言だけいう。なんてことを。

引用されているのは昭和26年(1951)3月に、『婦人之友』に発表された「山の春」の一節です。同欄では昨年の11月にも「山の春」からの引用がありました。ありがたし。

「山の春」は、数ある光太郎エッセイの中でも珠玉の一篇で、平成25年(2013)には、中学校3年生対象の「全国学力・学習状況調査」で問題文に使われたり、一昨年リリースされた声優の能登麻美子さんの朗読CDで取り上げられたり、昨年はNHKラジオの「石丸謙二郎の山カフェ」で朗読されたりしています。「青空文庫」さんにも登録がありますので、ぜひ全文をお読み下さい。

ちなみに当方自宅兼事務所の裏山では、既に梅は三~五分咲きといったところです。雪国の皆さんには申し訳なく思います。
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蛇足ながら、「かの発言」は、かの老害失言大王の「女性がたくさん入っている理事会は……」云々ですね。かの読売さんでもかばいきれないということでしょう。後から弾丸(たま)が飛んできている感たっぷりですね(笑)。

それでも「夏季五輪のすぐあとに冬季五輪を観戦できるなら、うれしい話ではないか」あたりには、「コロナに打ち勝った証に……」と言っている政権への忖度ありありですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

黒沢尻の郡司氏来訪。先日「ニュース」誌の記者と来て写真をとりし人。岩手地方の仏像の写真撮影をしたものを五六枚持参して見せらる。写真中々おもしろくとれたり。成島の毘沙門堂の諸仏、毘沙門天の足下の地神と称するもの、浄法寺村の天台寺の諸仏、立花村の毘沙門の二天像など。皆優秀な作なり。

昭和21年5月14日の日記より 光太郎64歳

成島の毘沙門堂の諸仏」、「浄法寺村の天台寺の諸仏」、「立花村の毘沙門の二天像」、それぞれ現存しているようです。

最近いただいた書籍、2点ご紹介します。

まず、文芸同人誌『青い花』第95号。詩人で朗読等の活動もなさっている宮尾壽里子様から。
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これまでも光太郎智恵子に関するエッセイや論考等を同誌にたびたび寄稿なさっていて、今号もエッセイ「巴里 パリ PARIS(三)」が掲載されています。
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昨年の6月、フランスに行かれたそうで、そのレポートです。明治41年(1908)から翌年にかけ、光太郎が暮らしたカンパーニュ・プルミエルのアトリエや、詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)に謳ったノートルダム大聖堂などが取り上げられています。

奥付がこちら。
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もう1冊、作曲家の仙道作三氏から『音響詩人 宮沢賢治』。氏は平成元年(1989)、オペラ「智恵子抄」なども作曲なさっています。
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音楽家の眼から見た賢治、というコンセプトで、特にコロナ禍の今こそ賢治作品だ、的な。光太郎智恵子にもちらっと触れて下さっています。
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装画はお嬢さんでパーカッショニストの仙道さおりさん。コロナ禍の今、ということでアマビエ様です。
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奥付はこちら。
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それぞれご入用の方、奥付画像をご参照の上、ご対応下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前、西鉛奥の部落からマタギが来る、熊の膽をかつた事のある人。熊の話などきく。

昭和20年(1945)8月3日の日記より 光太郎63歳

「西鉛」は、6月に滞在した西鉛温泉。その際に知り合ったマタギが、光太郎疎開先の宮沢家に訪ねてきたということでしょう。マタギや熊、そして鉛温泉は賢治の童話「なめとこ山の熊」にも登場します。

一週間後の8月10日には、花巻空襲。7月からたびたび空襲警報のサイレンが鳴ったことが日記に記されていますが、まだ呑気に構えていました。バッハの「ブランデンブルグ」レコード(賢治の遺品でしょうか)を聴いたり、賢治実弟の清六らと映画鑑賞に出かけたり……。

盛岡ご在住の加藤千晴氏から、ご著書が届きました。題して『高村光太郎と共に』。B6判で40ページ程の冊子です。

加藤氏、光太郎と年齢の離れた従妹、加藤照さんのご子息で、ご自身も赤ちゃんの時に光太郎の膝の上によじ登ったという方です。平成28年(2016)の花卷高村祭では、記念講演をなさいました。照さんは満100歳を超えられているはずですが、まだお元気のようです。
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内容的には氏のフェイスブックへの投稿をまとめられたものだそうで、氏が以前に出された『光太郎と女神たち』とかぶる部分もありますが、親族のお立場から見ての光太郎像ということで、貴重なものです。

下記は扉ですが、こうした画像もふんだんに掲載されています。
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表紙画像の扇子には、光太郎の長姉にして狩野派の日本画を学び、しかし数え16歳で病没した咲(さく)の手になる絵が描かれています。

扉の画像は左上から、ニューヨーク滞在中の光太郎、ニューヨークからの光太郎絵葉書、咲、加藤氏のお祖母様(=光太郎の叔母)・中山ふゆ、智恵子。

ご興味のある方、加藤氏フェイスブックのリンクはこちら。ただ、公開設定がどうなっているのかよくわかりませんので、たどり着けないという場合はご寛恕の程。

【折々のことば・光太郎】009

小豆の入つた赤飯を喰ひて、はかなく幼き日を思ひ出したり。真に此の赤飯をappreciateし、心から感謝の意を以て膳に向ふ人は余の家に余の母あるのみならん。


明治43年(1910)9月15日の日記より
 光太郎28歳

「appreciate」は英語で「感謝」。家族の中で光太郎の母・わかだけは、一家の生活が貧しかった光太郎の幼少期から、食べられることへの感謝の意を常に持ち続けていたというわけでしょう。父・光雲や、生活が安定してから育った光太郎の弟妹達は、台所のやりくりにはあまり意識が向かなかったということなのかも知れません。

右は上記加藤氏御著掲載のわかの写真。前著『光太郎と女神たち』にも小さく載っていましたが、今度は大きめに掲載されています。他では見たことのない写真でした。

どうも光太郎の顔立ちは、光雲よりわかに似たように思われます。

3件ご紹介します。

掲載順に、まず、『読売新聞』さん。11月11日(水)の夕刊一面コラム

よみうり寸評

山本周五郎の短編に、こんな台詞(せりふ)が出てくる。<もし秋だったらどんなに悲しかったでしょう。……木や草が枯れて、夜なかに寒い風の音などが聞こえたら>(「落ち梅記」)◆青々と色づいていた草木から、その色が消えてゆく。晩秋の光景に悲しみや寂しさが増すことはあっても、元気づけられるという話はあまり聞かない◆数少ない例だろう。<秋に木の葉の落ちる時、その落ちたあとにすぐ春の用意がいとなまれ……>と高村光太郎は随筆に綴(つづ)った。よく知られる英詩の一節「冬来たりなば春遠からじ」よりさらに早く、秋の落葉に春の萌芽(ほうが)があるのだと気づかされる◆これも春の兆しと受け止められよう。新型コロナのワクチンを開発中の米大手製薬会社が、臨床試験参加者の9割超で効果が確認されたと発表した。ただし安全性などで不明な点も多く、日本で接種が始まる時期は見通せない◆実用化を待ちつつ、来たる冬をしっかり耐え抜く。その覚悟を当面は固めるしかないのだろう。思えば冬を経ずに来る春はない。

引用されているのは、随筆「山の春」(昭和26年=1951)の一節です。

続いて、定期購読している、日本古書通信社さん発行の月刊誌『日本古書通信』の11月号(11月15日発行)。巻末に掲載のコラムです

談話室

▼10月9、10日、GoToを利用して花巻と盛岡に車で行ってきた。二日で走行距離一〇四三キロ、66歳になるが疲れもせず、まだ体力あるなと自信が持てた。主な目的は花巻在太田の高村光太郎山荘と、宮沢賢治生家跡、渋民村の石川啄木記念館。山荘で、光太郎は終戦前から昭和27年まで約七年間を過ごした。伊藤信吉さんが古通豆本『亡命高村光太郎』に書かれたように、戦争の痛手から再生する厳しい試練を自らに課した時間と所だ。山荘での生活は、詩「雪白く積めり」に象徴的である。当時山荘を訪ねた人は多い。七十年前どのくらい時間がかかったのか。今は花巻中心街から車で30分だが、当時は山荘から小さな鉄道の駅二ツ堰まで徒歩四キロ歩き、鉄道で花巻まで20分。東京から花巻までは充分一日を要したろう。確かに亡命に相応しい遠隔の地であった。記録は多いが実感できた。
 渋民では、啄木の「やはらかに柳あをめる」の歌碑の前に立ちたかった。啄木の「ふるさとの山」は、岩手山か、対面する姫神山か。両山だという説もあるが、姫神山はきれいな稜線だが、迫力が違う。岩手山がふるさとの山であろうと実感した。


終戦前から昭和27年まで」は誤りで、正しくは「終戦直後から昭和27年まで」です。

『亡命高村光太郎』は、光太郎と交流のあった伊藤信吉著。同社でかつてシリーズとして刊行していた「こつう豆本」の一冊で、書き下ろしではなく、雑誌『国文学 解釈と鑑賞』や、『高村光太郎全集』の月報に初出の文章を再掲したものです。
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「豆本」というだけあって、タテ10㌢、ヨコ7.5㌢の可愛らしい本です。

最後に、『日本農業新聞』さんの一面コラム。昨日の掲載です

四季 日ごと色づく木々の葉に、秋の深まりを知る

照り映える紅葉に、八木重吉の詩「素朴な琴」が重なる▽「この明るさのなかへ/ひとつの素朴な琴をおけば/秋の美くしさに耐えかねて/琴はしずかに鳴りいだすだろう」。詩人の郷原宏は、この詩を「おそらく日本語で書かれた最も美しい四行詩である」と評した。宗教詩人にして自然詩人の重吉の悲しいまでに澄んだまなざしが、 そこにある▽高村光太郎は、重吉の詩集に「このきよい、心のしたたりのやうな詩はいかなる世代の中にあつても死なない」との一文を寄せた。秋が巡るたびに、重吉の詩に浸るのをささやかな喜びとする。井上靖の詩の一節も忘れ難い。「刻一刻秋は深まり、どこかで、謙譲といふ文字を少年が書いています」(「十月の詩」より)▽北国からはもう雪の便りが届く。同じく井上に次の詩句がある。「ひしゝと迫る晩秋の寂しさを、落葉をふんでゆく母の老の姿に感ずる」(「冬の来る日」)。こちらの方が実感に近いか。 はらはら舞い落ちる落ち葉の中でも、ひときわ優美なのはイチョウである。今度は、フランク永井の歌った「公園の手品師」が頭の中で流れ始める▽<秋がゆくんだ冬がくる 銀杏は手品師 老いたピエロ>。長い影を引き連れ、散歩の足が伸びる。

光太郎の引用部分は、昭和18年(1943)に書かれた「八木重吉詩集序」から。ただ、戦時ということもあり、この時点では刊行に至りませんでした。

早世した八木重吉と光太郎、直接出会ったことはなかったようですが、当会の祖・草野心平らを通じ、その詩業に触れていたようですし、八木の未亡人・登美子とは交流がありました。

昨日までは季節はずれの暖かさでしたが、今日からは一転して平年並みの気温となっていくようです。秋も深まりつつありますね。

画像は自宅兼事務所の庭の紅葉です。
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【折々のことば・光太郎】

山岸氏の侠気は厚く謝するところなり。彫塑の上のみならず、文学上にてもかゝる方面に知人あるは最も都合よきことなればうれしともうれし。


明治36年(1903)4月2日の日記より 光太郎21歳

「山岸氏」は山岸荷葉。先日も書きましたが、光太郎より7歳年上の作家です。光太郎が五代目尾上菊五郎の肖像彫刻を作るに際し、いろいろと骨折ってくれました。

人脈が広がってゆくのを喜ぶ光太郎。当方も常々それを感じています。

朗読CDの新譜情報です。 

「能登麻美子おはなしNOTE」朗読CD第7弾 ルルとミミ/夢野久作

2019年12月28日 文化放送 定価3,000円
出演 能登麻美子  ジャケット AYA KAKEDA
無題2
【Disc-1】
1 ルルとミミ/夢野 久作

【Disc-2】
「能登麻美子おはなしNOTEアーカイブ」※データCD
1 録り下ろしトークパート
2 数の子は音を食うもの/北大路魯山人
3 木の花の咲くや姫(古事記より)/現代語訳:武田祐吉
4 喫茶店にて/萩原朔太郎000
5 雪に埋もれた話/土田耕平
6 笛吹きとプカ/ダグラス・ハイド
7 山の雪/高村光太郎
8 詩とはなにか/山之口獏
9 十年後のラジオ界/海野十三
10 ジェラルド太守の魔法/ケネディ・パトリック
11 赤いねこ/沖野岩三郎
12 春がくる前/小川未明
13 川へ落ちたたまねぎさん/村山籌子
14 三重宙返りの記/海野十三
15 朝/太宰治
16 世の中と女/芥川龍之介
17 ピアノ/芥川龍之介
18 三角と四角/巌谷小波004
19 化粧/神西清
20 お母さんの思ひ出/土田耕平
21 晩春/岡本かの子
22 飴チョコの天使/小川未明
23 桜間中庸の詩
   里の春、山の春/新美南吉
24 雨粒/石原純
25 居酒屋の聖人/坂口安吾
26 ふしぎな岩/林芙美子
27 夜/竹久夢二
28 高瀬舟/森鴎外
29 桜間中庸の詩
30 中原中也の詩
31 一緒に歩く亡霊/田中貢太郎
32 心の王者/太宰治
33 鶴の笛/林芙美子
34 不思議な帽子/豊島与志雄
35 うさぎさんとおほかみさん/村山籌子005
36 手風琴/小川未明
37 秋と漫歩/萩原朔太郎
38 指/江戸川乱歩
39 ざしき童子のはなし/宮沢賢治
40 三本の棗/片山広子
41 蟹のしょうばい/新美南吉
42 秋の歌/寺田寅彦
43 月夜のかくれんぼ/槇本楠郎
44 鳥箱先生とフウねずみ/宮沢賢治
45 路上/梶井基次郎
46 うた時計/新美南吉
47 キリストのヨルカに召された少年/フョードル・ドストエフスキー
48 三百年後/小倉金之助


人気声優の能登麻美子さん。文化放送さん運営のインターネットラジオ「AG-ON」で、古今の文学作品を朗読する「能登麻美子おはなしNOTE」という番組をお持ちです。その録音を集めたCDの第7弾だそうで、光太郎の随筆「山の雪」(昭和26年=1951)が収められています。

このシリーズで光太郎作品が取り上げられるのは2度目。最初は平成28年(2016)発行の「第3弾 シグナルとシグナレス」でした。その際は、やはり随筆の「珈琲店より」(明治43年=1910)が収録されていました。美声もさることながら、しっとり落ちついたいい雰囲気の朗読でした。

で、今回の第7弾。「このシリーズ、まだ続いていたんだ」と、嬉しくなりました。ネットで注文できます。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩を朗読するといふ事は人が詩を熱愛するのあまりに起こる衝動である。われにもあらず声に出るのである。その朗読をきく者は音響といふ要素の力に変形した詩の力に打たれる。詩は朗読といふ音響によつて淘汰され、洗練される。朗読のゆるがせに出来ないわけが此所にある。

散文「照井瓔三著『国民詩と朗読法』序」より
 昭和17年(1942) 光太郎60歳


光太郎の朗読観、なるほど、といった感じですね。ただ、戦前の光太郎はあまり朗読に魅力を感じていなかったふしがあります。それが、開戦後、翼賛詩の朗読会などに積極的に出演するようになり、そうした中で改めて朗読の良さに気づいたようです。翼賛詩を通じて、というのが少し残念です。

当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌――というよりは、同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第七号が届きました。これまで同様、表紙は春陽会会員の成川雄一氏。相変わらず味のある絵で、花を添えて下さっています。

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いつの間にか連載を持つことになってしまい、拙稿も載っております。だいぶ以前にこのブログでご紹介した、『高村光太郎全集』未収録の随筆「海の思出」についてです。従来不明だった、明治40年(1907)、ニューヨークからロンドンへ渡った際に乗った船が、かのタイタニックと同じホワイトスターライン社のオーシャニックという船だったことが判明した件について書きました。


当会顧問・北川太一先生の玉稿も掲載されています。

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文治堂書店さんから刊行された、服部剛氏の詩集『我が家に天使がやってきた ダウン症をもつ周とともに』の書評欄に、詩人や医師、学生の皆さんのそれとともに掲載されています。心を病んでから奇跡のような紙絵を制作し始めた智恵子に絡め、的確な評です。


また、「編集後記」では、光太郎を敬愛し、膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けた詩人・野沢一に触れられています。野沢は「日本のソロー」とも称されています。

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昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、野沢が独居自炊の生活を送った山梨県の四尾連湖で、野沢を偲ぶ集いが今年の10月にあったそうで、そのレポートを兼ねています。


……という『トンボ』第七号。来春の第63回連翹忌にご参加下さる方には進呈いたします(ギャラ代わりに現物支給でごそっと頂いておりますので(笑))が、その前にご入用の方は、文治堂書店さん(bunchi@pop06.odn.ne.jp)までご連絡下さい。


【折々のことば・光太郎】

完全無缺な人格のやうに書き上げられたものよりも私などには其の瑕だらけな処を見せられた方がうれしい。

散文「「一隅の卓」より 一」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

光太郎が翻訳もした、ロダンの秘書であったマルセル・チレルの書いたロダン伝記の評です。

いったいに伝記というもの、描こうとする人物へのリスペクトが不可欠ですが、だからといって暗黒面をなかったことにしてはいけないものでもありましょう。批判ばかりでも仕方がありませんが。

8月31日(金)~9月2日(日)の花巻行で入手した書籍を2冊。 

まんがでイッキ読み! 浅見光彦 怪奇トラベルミステリー

2018年9月10日 内田康夫 原作 あさみさとる/夏木美香 画 ぶんか社 定価600円+税

あさみさとる「風葬の城」
旅雑誌の取材で会津にやってきた光彦。漆器作りの現場を見学していると、職人である平野浩司が急に苦しみだし、そのまま亡くなってしまう。第一発見者となってしまった光彦は、その様子から平野氏の死が毒物による他殺だと推理する。徐々に明らかになっていくある業界の不正や金の動き。そこに隠されていた、大きな陰謀とは――?


あさみさとる「『首の女』殺人事件」

光彦と幼馴染の野沢光子は、姉・伸子の紹介で知り合った宮田治夫と「高村光太郎・智恵子展」へ出かける。そこで光太郎の彫刻「蝉」を熱心に見ていた男が記憶に残った。ところがその男が福島県安達太良山の麓で殺され、宮田も島根県江の川で水死体で発見される。事件後、脅迫めいた「怪電話」に伸子は悩まされることになり、光彦に相談を持ちかける。
 
夏木美香「教室の亡霊」
群馬県の公立中学校の教室で、かつてその学校で教鞭を執っていた男の死体が発見された。毒殺されたと見られる被害者のポケットには、新人教師・梅原彩とのツーショット写真が。さらに渦中の彩が顧問を務める陸上部員の父親が殺され…? 次々と事件に巻き込まれる彩を助けて欲しいと依頼を受けた光彦が、現代の教育問題に迫る。

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というわけで、今年3月に亡くなった推理作家・内田康夫氏原作の「浅見光彦シリーズ」から3本のコミック化です。別に「怪奇」ではないと思いましたが(笑)。

紹介文の通り、光太郎智恵子をモチーフとした「『首の女』殺人事件」が入っています。裏表紙のイラスト(画像右)がそちら。小説は昭和61年(1986)に刊行されています。

小説の浅見光彦シリーズは100本を超え、コミック化も'90年代後半には始まり、これまでにかなりの作品が取り上げられてきました。しかし、当方の知る限り「『首の女』殺人事件」はこれまでコミック化されておらず、残念に思っていました。コンビニのコミックコーナーで「浅見光彦」の文字を見つけるたびに「『首の女』殺人事件」の文字を探しては、「やはり、ないか」を繰り返すこと10数年(笑)。

しかし、ついに、8月31日(金)、花巻高村光太郎記念館さんをあとにして、宿泊先の鉛温泉さんに向かう途中、花巻南温泉郷入口のファミリーマートさんに立ち寄って、これを発見し、思わず心の中で快哉を叫びました。また、不思議な縁も感じました。

調べてみると、同じぶんか社さんで刊行している『まんが このミステリーが面白い!』 8月号(6月発売)が初出でしたが、そちらには気づきませんでした。

さっそく鉛温泉さんで読みました。「『首の女』殺人事件」で約150ページ。細かなところが割愛されたり、原作が昭和末期を舞台としているのを平成末期の現代に置き換えたりしている以外、ほぼ原作どおりで、なかなか読み応えがありました。

ぜひお買い求め下さい。

ちなみにフジテレビさん(平成18年=2006)とTBSさん(平成21年=2009)でドラマ化され、それぞれBS放送やCS放送で年に数回、再放送されています。明後日にもBSフジさんで再放送があります。併せてご覧下さい。。 

<BSフジサスペンス劇場>『浅見光彦シリーズ22 首の女殺人事件』

BSフジ 2018年9月7日(金)  12時00分~13時58分

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる !! 

原作 内田康夫
出演 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか


もう一冊。 

出会いの人びと

昭和58年2月20日 鈴木實著 熊谷000印刷出版部
定価1,500円+税
 

9月1日(土)、花巻高村光太郎記念館さんでの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓 part2」の講師を務め終え、花巻市街から東北新幹線の新花巻駅などをぶらついているなかで立ち寄った、ショッピングセンター・銀河モールさんの中のTSUTAYA 花巻店さんで発見しました。

こういう書籍がないかな、と思って立ち寄って、まさにこういう書籍が手に入ったので、こちらでも思わず心の中で快哉を叫び、不思議な縁も感じました(笑)。昭和58年(1983)の書籍が新刊書店に並んでいたというのも驚きです。

著者の鈴木實氏は、元花巻北高校さんの校長先生。大正5年(1916)のお生まれだそうですので、まだご存命かどうか……。父君は宮沢賢治が技師として働いていた東北砕石工場を興した鈴木東蔵。そうした縁もあって、昭和23年(1948)に谷川徹三の揮毫で建立された賢治の「農民芸術概論綱要」碑の建立に奔走されました。

最初は宮沢家に話を通さずにその計画を進め、光太郎に揮毫を依頼したそうです。ところがそれでは筋が通らないと光太郎に強く諭されたというエピソード、さらに、やはり昭和23年に同志社大学教授だった浜田与助を光太郎の山小屋に案内したエピソードなどが語られています。また、鈴木氏は光太郎を敬愛していた高田博厚とも交流があり、高田の項でも光太郎の話題が出て来ます。

調べてみると、昭和23年8月25日の光太郎日記に記述がありました。

学校にゆかんとせし頃(十時半頃)土沢より鈴木氏といふ青年、同志舎(「社」の誤り)大学の浜田先生といふ人を案内して来る。一緒に学校にゆく。郵便物を出すため学校にゆく旨のべる。(略)浜田先生と談話。同氏は哲学専攻の由。長坂町に滞在との事。土沢では長嶌氏といふクリスチヤン農家を訪ねられたらし。長嶌氏より林檎5個もらふ。尚浜田氏よりドラ焼20数個もらふ。 十一時半頃浜田氏等帰らる。

この時の様子がかなり詳しく語られていて、興味深く拝読しました。浜田の子息が智恵子と同じ統合失調症の末、亡くなった話が出たこと、ミケランジェロや当時流行の某彫刻家を引き合いに出しての芸術論に花が咲いたこと、そして鈴木氏と浜田の帰りしな、光太郎が「まだいいですよ」と引き留めたこと(鈴木氏が光太郎の周辺人物に聞いた話では、こういうことはめったになかったそうで)などなど。

「農民芸術概論綱要」碑云々のエピソードも光太郎日記に記述があるのではないかと思われます。ただ、鈴木氏の名が記されていないようで、索引から調べることも出来ません。宿題としておきます。

この手の光太郎日記などを補完する回想等、非常に貴重なものです。今後も発見に努めようと思います。


【折々のことば・光太郎】

詩は決して紙の上だけでは出来ないし、又決して態度や心構だけでも出来ない。詩はその人の存在全部から立ち登る必然のものであつて、しかもその精神を神経組織に変調しながら表現する技術は、時代と共に何処までも進展する。とにかく停滞は自然の理法に反する。われわれは日々に新しくならなければならぬ。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

戦後、光太郎は「心はいつでもあたらしく」という語を地元の太田中学校や盛岡少年刑務所に贈りましたが、その背景にはこうした考えがあったのですね。

このところ、新刊書籍を頂く機会が多く、助かっています。昨日は歌人の松平盟子様から下記書籍が届きました。ありがたし。  

真珠時間 短歌とエッセイのマリアージュ

2018年7月24日  松平盟子著  本阿弥書店  定価2,600円+税

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言葉・音楽・旅など時の移ろいに心を寄せ、綴り続けた四半世紀の軌跡。

松平様が編集発行なさっている短歌誌『プチ★モンド』に連載されたエッセイ「真珠時間」、「琥珀時間」を根幹に、『読売新聞』さん連載のコラム「短歌あれこれ」、そして書き下ろしエッセイ「光太郎とラリックをつなぐ「蝉」」が掲載されています。

「ラリック」はルネ・ラリック。フランスのガラス工芸作家です。現代でもラリックブランドのガラス工芸品は日本でも人気ですね。先行するガレやドームとともに、その分野の三大巨匠と称されることもあります。ちなみに上記『真珠時間』カバーの装幀にもラリックの作品があしらわれています。

そのラリックと光太郎をつなぐ仮説、的なエッセイですが、かなり正解である確率の高い説です。

光太郎の談話筆記に「パリの祭」という作品があります。明治42年(1909)、欧米留学からの帰朝後に『早稲田文学』に発表されたものです。前年、ロンドンからパリに渡り、およそ1年間を過ごしたパリのさまざまな風物が語られています。

その中に、ラリックに関する記述も。ただ、ラリックという人物についてではなく、工芸品店としてのラリックについてです。

冬になると美術工芸品の新物が盛に売り出されます。工芸品でパリに名高い店が二軒ある。一つはラリツクと言つてプラース ド バンドーンにある店。二つと同じ品を作らないのを誇りとしてチヤンとラリツクの銘を打つて置きます。も一つをガイヤールと言ふ。この二軒は競争で新物を作り出し売出すのです。

「プラース ド バンドーン」はパリ1区のヴァンドーム広場。カルティエやティファニーも店を構えています。「ガイヤール」はリュシアン・ガイヤール。やはりガラス工芸作家ですが、日本ではあまり知られていないようです。

光太郎がパリに滞在していた明治41年(1908)、ラリックは、それまでジュエリーデザインを主軸にしていたのを、それ以前から手がけていたガラス工芸に軸足を移したとのこと。香水商フランソワ・コティから香水瓶のデザインを注文されたことがきっかけだそうです。

その頃、パリではジャポニスムはまだ大きな流れとして健在でした。ガラス工芸の分野でも、ガレやドームが日本風の意匠を取り入れたことは有名ですし、ラリックや先述のガイヤールも例外ではありませんでした。

そして、ラリックには蝉をモチーフにし002た作品があります。右の画像は『真珠時間』から採らせていただきました。

光太郎がパリでそれを目にし、のちに木彫「蝉」を制作する一つの契機となったのではないか、というのが松平様の仮説です。

4月頃でしたか、松平様から「こういう文章を発表するのでチェックして欲しい」ということで、今回の草稿が送られて来て一読。「なるほど」という感想でした。確証はありませんが、否定する材料もなく、あり得る話だな、というところです、とお答えしておきました。

ただ、「論文」として発表できる質の内容ではなく、そのあたりは松平様もよくおわかりのようで、「エッセイ」としての発表です。しかし、光太郎彫刻を考える上で、一石を投じる提言であることは間違いありますまい、と存じます。

他のエッセイの部分を読み(まだ熟読は致しておりませんで、斜め読みですが)、こうした発想にいたられた理由が少し解ったような気がしました。すなわち、パリに滞在されたことがおありだということ。やはり彼の地での見聞がないとたどり着かない発想だと思いました。

版元サイトから注文可能です。是非お買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

牛酪(バタ)を臭いと言ふ人には本当の牛酪を嘗めさせるに若くはない。

散文「熊野と公衆」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

「熊野」は「ゆや」と読み、三浦環主演のオペラの題名です。衣裳も背景もすべて歌舞伎風、歌舞伎の公演の間に上演され、うまくいけば日本独特の歌劇の誕生、ということになったのですが、結果は「公衆」に、さんざんな酷評をされました。

光太郎は、単に管弦楽や合唱に慣れていない「公衆」が浅はかな批判を展開しているとし、「本物」に触れることの重要性への提言として、上記の一節を記しています。

大阪在住、高村光太郎研究会員の西浦基氏から新著が届きました。 

高村光太郎小考集

2018年1月28日  西浦基著  発行 牧歌舎  発売 星雲社  定価1,800円+税

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帯文より
高村光太郎の作品と人生に独自の視点から迫る労作

彫刻家であり、詩人である高村光太郎。かの『智恵子抄』の作者でもある光太郎の一連の作品の紹介に加え、寡黙であるが故に強そうに見えて優柔不断なところもあるその人生を余すところなく探求する。
後半部ではロダンやミケランジェロの見聞など、著者のヨーロッパ旅行記も掲載。

目次
第Ⅰ部 高村光太郎小考集
はじめに  自伝・略歴
第一章  高村光太郎の詩:「レモン哀歌」、他
根付の国 レモン哀歌 『暗愚小伝』二十篇の中の「二律背反」から:協力会議
第二章  高村光太郎の選択 流された選択・迷った選択・断固たる選択
第三章  彫刻に燃える ロダンとロダンに師事した荻原守衛とロダンに私淑した高村光太郎と
1 美しい二つのロダン美術館  2 ロダンの紹介  3 ロダンの出世作と女と艶裸体 
4 バルザック 
 5 ロダンの対人関係  6 ロダンの欲と創意工夫
7 ロダンに魅了された人々
  8 ロダンが下彫り職人、鋳造職人に厳しく指示した訳
追悼文その1 追悼文その2
第四章  高村光太郎の「伊太利亜遍歴」を見る
1 清浄なるスイスから  2 「ヹネチアの旅人」と随筆「伊太利遍歴」と絵ハガキと
3 著者個人の旅行の模様  4 琅玕洞(グロック・アズーラ)  5 ポンペイ
第五章  一枚の写真
碌山の恋
第六章  あぁ! わが青春の『智恵子抄』
1 詩集『智恵子抄』から見る描写の変遷  2 詩集『智恵子抄』誕生の経緯
3 詩集『智恵子抄』と随筆「智恵子の半生」の矛盾
第七章  高村光太郎の「AB HOC ET AB HAC」から 明治43年『スバル』に発表
第八章  『画論(アンリイ・マテイス)』高村光太郎訳(一九〇八年(明治四十一年)十二月)
1 マチスとの関わり  2 上から目線の光太郎  3 『画論(アンリイ・マテイス)』
4 荻原守衛との交誼とマチスから受けた影響を考える  
5 高村光太郎の模刻する技術力の高さを見る
6 高村光太郎の「彫塑総論」と「彫刻十個條」(全集四巻)
7 高村光太郎の贅肉についての文章を見る  8 『十和田湖畔の裸婦群像』を見て
9 智恵子をイメージできたかどうかについての、光太郎の芸術家としての脳内を考える
10 『十和田湖畔の裸婦群像』制作の頃
11 完成頃の関係者との会食時の挨拶メモ  12 制作
13 像建設の経緯について  14 ロダンと荻原守衛と高村光太郎の違いを見る
15 ロダンと荻原守衛と高村光太郎の作品に就いて  16 ある共同討議での事
17 『十和田湖畔の裸婦群像』の中型試作通称「みちのく」の顔は誰に似ているのだろうか?
18 『画論(アンリイ・マテイス)』と『十和田湖畔の裸婦群像』  19 総括として
第Ⅱ部 楽の断片
第一章 旅愁のパリ(フランス:二〇〇九年七月)
詩と恋愛 パリの夕暮れ 考える人を見る ロダンの恋 ジベルニー近郊のセーヌ川の朝
エトルタの海岸
  絶景エトルタの機転(クールベとモネ) サラサラ サラ 
初夏の青空(オンフルール) 旅愁(オンフルール)
年表
第二章 怒濤の嵐、船内のジャズ(イギリス:二〇一〇)年秋
『ロダンの言葉』ポール・グゼル筆録・高村光太郎訳 カレーの市民 ドーバー海峡
二〇一一年(卯年)春
 (献句) 犬句 犬柳 犬歌 沈まぬ夕陽
第三章 哀の六根 楽の六根 官能のシックスセンス
(晩八句) 高村光太郎に思いを馳せる・楽のひと時 (晩歌)平成二十四年七月三十一日
晩歌(母の死を悼む)  生を一考 お葬式 旅愁(マッターホルン) 哀の六根 楽の六官
官能のシックスセンス
第四章 歴史のひとこま―ガリレオ
概要 科学と宗教 異端審問所はガリレオを拷問にかけたか
第五章 美しき国ドイツ:二〇一一年秋
ケルン 妖精の生まれる国(デュッセルドルフ) ベルリン(ウンター・デン・リンデン)
マイセン
  ドレスデンの朝 アルテ・マイスター プラハ
第六章 清浄なるスイスとリヨン:二〇一二年十月
参考文献


一昨日届いたばかりで、まだ読んでおりませんが、とり急ぎ、ご紹介しておきます。


【折々のことば・光太郎】

美とは決してただ奇麗な、飾られたものに在るのではない。事物ありのままの中に美は存するのである。美は向うにあるのではなく、こちらにあるのである。

散文「美」より  昭和14年(1939) 光太郎57歳

この頃から光太郎は、頼まれて筆を執る色紙などの揮毫に「美しきもの満つ」「美ならざるなし」といった言葉を好んで書くようになります。

昨日に引き続き、新刊情報です。 

文豪文士が愛した映画たち ─昭和の作家映画論コレクション

2018年1月11日 根本隆一郎編 筑摩書房(ちくま文庫) 定価950円+税

モンローを川端康成が語り ヒッチコックを江戸川乱歩が論じる シネマに魅せられ、熱く語った作家たち

谷崎、荷風、乱歩・・・映画に魅せられた昭和を代表する作家二十数名の映画に関する文章を編む。読めば映画が見たくなる極上シネマ・アンソロジー。

昭和を代表する作家が新聞や雑誌を中心に寄稿した映画に関する文章を集める懐かしく魅力的なシネマ・ガイド。“映画を見ていなくても楽しめる”オリジナル・アンソロジー。「映画黄金時代」の名作、傑作を中心に作品を選定。

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目次
第1章 アメリカ映画を読む
 福永武彦   「怒りの葡萄」とアメリカ的楽天主義    
 高見順     「陽のあたる場所」を見る              
 井上靖     ピクニックを観る                      
 柴田錬三郎 必死の逃亡者                          
 高見順     「チャップリンの独裁者」を見る        
 ◆ヒッチコックと乱歩
  江戸川乱歩 ヒチコック技法の集大成――見知らぬ乗客
  江戸川乱歩 ヒチコックの異色作――ダイヤルMを廻せ
  江戸川乱歩 恐怖の生む滑稽――ハリーの災難   
  江戸川乱歩 ヒッチコックのエロチック・ハラア                                  
第2章 ヨーロッパ映画を読む         
 林芙美子  「女だけの都」への所感             
 開高健   日本脱出の夢                       
 林芙美子  情婦マノンを観て                   
 伊藤整   映画チャタレイ夫人の恋人           
 三島由紀夫 ジャン・コクトオへの手紙――悲恋について 
 大岡昇平  “美女と野獣について”             
 池波正太郎 『ブルグ劇場』封切りのころ
 福永武彦  映画の限界と映画批評の限界         
 壇一雄   人間万歳=デ・シーカの眼           
 高見順   「恐怖の報酬」                     
 寺山修司  円環的な袋小路                     
 遠藤周作  あたらしい純粋映画 ――“5時から7時までのクレオ”
 吉行淳之介 心理のロマネスク ――ルネ・クレマンの「居酒屋」
 佐藤春夫  「ホフマン物語」を観る
 ◆オリンピック映画の傑作 
   高見順   映画の感動に就いて――オリンピア第一部
  高村光太郎 「美の祭典」
第3章 憧れの映画スタア/映画人
 ◆チャールズ・チャップリン
  藤本義一  ペーソスとペースト
  井上ひさし 無国籍語の意味
  大岡昇平  チャプリンの復活
 ◆ジャン・コクトオ
  林芙美子  コクトオ
  三島由紀夫 稽古場のコクトオ
 ◆マリリン・モンロー
  安部公房  モンローの逆説
  川端康成  大女優の異常
 ◆ルイ・ジュヴェ 
    岸田国士  ルイ・ジュヴェの魅力
 ◆ピーター・ローレ
  色川武大  故国喪失の個性――ピーター・ローレ
 ◆ジェームス・ディーン
  寺山修二  ぼくはジェームス・ディーンのことを思い出すのが好きだ
第4章 文豪文士と映画
 ◆「カリガリ博士」を巡って
  谷崎潤一郎 「カリガリ博士」を観る
  佐藤春夫  「カリガリ博士」
 ◆映画界を斬る
  柴田錬三郎 映画は「芸術」にあらず
  五味康祐  西方の音――映画「ドン・ジョバンニ」
  池波正太郎 映画人は専門家の物知らずになってはいないか?
 ◆映画を巡って
  川端康成  頻々たる文芸作品の映画化に就いての感想――映画的批評眼を
  阿川弘之  志賀さんと映画
  井上ひさし ある地方都市のハリー・ライム
  松本清張  スリラー映画
  獅子文六  映画に現れたユーモア
  今日出海  この映画と私――「戦場にかける橋」
第5章 文豪文士、映画を語る
  関千恵子  太宰治先生訪問記
  永井荷風  永井荷風先生 映画「ゾラ」の『女優ナナ』を語る
  司馬遼太郎 「映画革命」に関する対話
編者あとがき


最近はやりのアンソロジー系です。

光太郎の散文「美の祭典」(昭和15年=1940)が収録されています。巻末の出典一覧では、同年の『キネマ旬報』1940年最終特別号となっていました。同じ筑摩書房さんの『高村光太郎全集』では、アンケートとして「「美の祭典」を観る」の題名で、第20巻に掲載されています。そちらの解題では、初出は雑誌『科学知識』第20巻第12号(昭和15年=1940 12月1日発行)となっています。他に東郷青児、中川一政ら12名も回答しているとのこと。おそらくこれが『キネマ旬報』に転載されたのではないかと思われますが、逆もあるかも知れません。日本近代文学館さんの書誌情報では、該当の『キネマ旬報』も同じ日の発行日になっています。2冊をつきあわせて調べてみればわかりそうですが、『科学知識』の該当号は、当方のよく利用する日本近代文学館さん、国立国会図書館さん、神奈川近代文学館さんに所蔵がありません。

ところで、この文章、かなり以前に全文をこのブログでご紹介していました。「美の祭典」という映画が、昭和11年(1936)のベルリンオリンピックの記録映画で、このブログを始めた平成24年(2012)がロンドンオリンピックだったものですから、そのからみです。それから他の対談でも「美の祭典」の話題になり、それもご紹介しています。

光太郎、通常の映画もよく観ていました。今日ご紹介した『文豪文士が愛した映画たち』が、主に昭和期前半の作品を集めているのに対し、光太郎は既に大正期に映画評論をいくつか発表しています。純粋な映画雑誌としては大正8年(1919)の『活動旬報』では、「辞書を喰ふ女優」と題し、「奇跡の薔薇」に出演したアラ・ナジモヴァを紹介していますし、翌年の『活動倶楽部』には「外国映画と思想の輸入」(目次では「外国活動写真と思想の輸入」)と題する長文を寄せています。こちらでは、メアリー・ガーデン、ジョーゼット・ルブランなどが紹介されています。ちなみにどちらも『高村光太郎全集』未収録ですが、当会顧問の北川太一先生と当方で共編した厚冊の『光太郎遺珠』(平成19年=2007)に収めてあります。

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少し前にご紹介した「七つの芸術」(昭和7年=1932)という散文では、彫刻や絵画とともに、映画も「七つ」に入れて論じていました。こういうことを考え出すと、「光太郎と映画」という論文が一本書けそうです(笑)。

さて、『文豪文士が愛した映画たち』、ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

彫刻の根柢を成す者は触覚感であるが、これは物に立体的に触れてゆく感覚で、直接の接触の外、眼で触れる視覚の触覚感ともいふべき彫刻独自の領域がある。
散文「彫刻」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

この伝で行けば、光太郎、映画なども「触覚的に」観ていたのでしょうか。世界初4Dの映画鑑賞ですね(笑)。

新刊情報です。 

永井和子随想集 日なたと日かげ

2018年1月11日 永井和子著 笠間書院 定価2,500円+税

更新されてゆく日々の陰影をスケッチした著者初の随想集。
平安古典を軸に、歌舞伎・演劇評、序文、追悼、ほか 「オノ・ヨーコさんの力」等、文学者としての眼が捉えた
縦横無尽の短文58篇で構成。

【本書はこれまで折々にふれて様々な立場から記した短文の中から幾つかを選び、まとめて一冊としたものである。全体を、Ⅰ随想的なもの・Ⅱ日本の平安文学に関するもの・Ⅲ先生方・先輩方の思い出・Ⅳそのほかの短文・Ⅴ追悼の記、におおまかに分け、ほぼ執筆年時順に配列した。そのため表記その他に統一性を欠くが、明らかな誤脱等を改めたほかは、もとのままとした。
 本書の『日なたと日かげ』はこうしたこれまでの日々・時間を象徴する言葉として書名としたものであり、具体的には原子朗氏の詩による。巻頭の一文〈「老い」と「日なたと日かげ」と〉を参照されたい。多くの方々と出会い、豊かな「時」に恵まれたことを思うと感謝は盡きない。】......「まえがき」より

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「たじろぐ――高村智恵子のこと 智恵子の切り絵――レモン会」というエッセイが掲載されています。初出は平成14年(2002)の『レモン会報』。毎年10月の、智恵子を偲ぶ「レモン忌」をはじめ、福島二本松で智恵子の顕彰に当たられている「智恵子の里 レモン会」さんの会報で、現在のレモン会は渡辺英雄会長ですが、その前に会長を務められていた、故・伊藤昭氏の頃のものです。

平成11年(1999)に伊藤氏の案内で、智恵子生家・智恵子記念館を訪れられたこと、翌年の「レモン忌」で、ご主人の故・永井克孝氏がご講演をされたこと等が描かれています。当時の「レモン忌」は、智恵子の実家・長沼家の菩提寺である満福寺さんで開催されていたそうで(現在は結婚式場的なJAさんの施設)、ご住職の追悼供養、地元の方々のご詠歌などもプログラムに入っていたとのこと。

「たじろぐ」というのは、智恵子の紙絵を眼にされてのご感想です。

なんという新鮮な美しさであろう。本物の切り絵はおだやかな初々しさに満ち、そのまま暖かく落ち着きながら精気がみなぎりわたって、それ自体が躍動している。私は、作者が生命の深淵に極めて自然に降ろした無垢の眼と、そこからさらりと汲み上げた純度の高い「形と色」に直対して、言葉もなかった。たじろぐ、というのはこのことか、と思った。

当方も実物の紙絵を初めて見た学生時代、同じようなことを感じました。おそらく、そういう方は多いのではないでしょうか。「智恵子の紙絵、あるある」的な(笑)。しかし、このようにうまく言葉に表すことができるのは、『枕草子』、『源氏物語』等の古典文学の研究がご専門ゆえのことでしょう。

そういうわけで、本書の大半はご専門の古典文学に関する
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ものですが、そうかと思うと、歌舞伎やシェークスピア、果てはオノ・ヨーコにまで話題が及びます。ぜひお買い求め下さい。


ところで、当時のレモン会伊藤昭会長は、旧油井村の智恵子生家近くに育ち、昭和23年(1948)には、花巻郊外太田村の山小屋の光太郎に会いに行かれました。平成3年(1991)から翌年にかけ、『毎日新聞』福島版に連載されたものを、近代文藝社から自費出版、さらに地元福島の出版社・歴史春秋社から同7年(1995)に再刊した『愛に生きて 智恵子と光太郎』という御著書がおありでした。入門編の智恵子評伝として好著ですが、平成11年(1999)に再版された後、絶版となっているようです。復刊が待たれます。


【折々のことば・光太郎】

飛行家が飛行機を愛し、機械工が機械を愛撫するやうに、技術家は何によらず自分の使用する道具を酷愛するやうになる。われわれ彫刻家が木彫の道具、殊に小刀(こがたな)を大切にし、まるで生き物のやうに此を愛惜する様は人の想像以上であるかも知れない。


散文「小刀の味」より 
昭和12年(1937) 光太郎55歳


この後、名工と呼ばれる鍛冶職人の手になる小刀のすばらしさが語られます。

ちなみに智恵子が紙絵制作の際に使っていたのは、マニキュア用の先の曲がったハサミ一丁だったそうです。

当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌――というよりは、同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第5号が届きました。奥付の発行日は1月15日となっています。

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元青森テレビアナウンサーの川口浩001一氏が、「十和田湖「乙女の像」秘話 ~太宰治が結ぶ隠れた絆~」という文章を寄せられています。川口氏、一昨年には同局の特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」のプロデュース的なこともなさいました。

「乙女の像」は、青森十和田湖畔に立つ、光太郎最後の大作。「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦像」というのが正式名称ですが、略して「十和田湖畔の裸婦(群)像」、通称「乙女の像」です。

元々が十和田湖周辺の国立公園指定15周年を記念し、十和田湖の景勝を世に知らしめるために功績のあった、作家・大町桂月、元知事・武田千代三郎、元地元村長・小笠原耕一の三氏を讃えるモニュメントとして企画されました。その時点での知事が、津島文治。太宰治の実兄です。

そして、地元の高校の校歌を作詞した縁で、たまたま十和田を訪れていた佐藤春夫が、津島知事に相談を受けます。どんなものを造ったらよいか、誰に依頼すればよいか、など。

津島知事の実弟・太宰は、昭和11年(1936)、第二回芥川賞をぜひ獲らせてくれるよう、書簡で懇願したことが有名です。津島知事としては「弟がいろいろご迷惑をおかけして……」という気持ちもあって、佐藤を下にも置かない歓待ぶりだったようです。ちなみに太宰は乙女の像プロジェクトが立ち上がる前に自裁しています。

そして佐藤がモニュメントの制作者として推挙したのが光太郎。佐藤と光太郎のつきあいは古く、大正3年(1914)に光太郎が佐藤の肖像画を描いた頃に遡ります。他にも光太郎を推す声は方々からあがり、津島知事もその方向でゴーサインを出します。光太郎への折衝の際には、佐藤が光太郎に長い手紙を書きました。「十和田湖に光太郎以外の制作物が立てられては、日本の恥だ」的な。

そうして実現した「乙女の像」。確かに太宰の存在がなければ、ありえなかったかもしれません。川口氏の文章、そうした経緯が簡略に記されています。


それから、前号より当方が連載を持たせていただいております。題して「連翹忌通信」。だいたいこんな流れで光太郎顕彰活動を執り行っていますよ、的な内容で始めました。前号は昨年で61回目を迎えた連翹忌の歴史を書かせていただきました。今号は、連翹忌の際にお配りしている当会刊行の『光太郎資料』や、高村光太郎研究会さん発行の『高村光太郎研究』に載せている「光太郎遺珠」(筑摩書房さんの『高村光太郎全集』が完結した平成10年(1998)以降に見つかり続けている、光太郎詩文の集成)について。

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特に、光太郎書簡について詳述しました。『高村光太郎全集』完結の時点で、3,101通が収録されていましたが、現在、通しで振ったナンバーは3,412。それ以外に諸事情によりナンバリングしていないものが50通ほどあります。これだけ見つかると、いろいろ未知だった事柄も見えてきました。『全集』完結時点で不明だった光太郎にとって重要な事項の日付が特定できたり、こんな人物とも交流があったのか、という人物宛の書簡が見つかったりといったところです。

詳しくは同誌をご覧下さい。版元の文治堂書店さんの連絡先は下記の通りです。頒価は400円だそうです。

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ちなみに、今春4月2日(月)開催予定の第62回連翹忌にご参加下さった方には、今号、それから前号もお配りするつもりで居ります。

第62回連翹忌につきましては、また近くなりましたらご案内申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

木を彫る秘密は絶えず小刀を研ぐにあり、切味を見せんが為にあらず、小刀を指の如く使はんが為なり。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

東京美術学校在学中には既に木彫から塑像へと軸足を動かしていた光太郎ですが、大正の半ば頃から昭和初期にかけ、再び木彫を手がけ、数々の名作を生み出しました。

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冬柏【復刻版】全26巻・別冊1

『明星』終刊後、晩年の与謝野寛・晶子が最も力を注いだのが雑誌『冬柏(とうはく)』であった。寛が昭和一〇(一九三五)年、晶子が昭和一七(一九四二)年に没して後、平野万里、田中悌六、近江満子らが二人の遺志を引き継ぎ、昭和二七(一九五二)年まで刊行された。
収録内容は、短歌を中心に現代詩・随筆・小論・漢詩・絵画・写真等幅広い。また「消息」欄は寛・晶子をはじめ新詩社の同人の活動や動向が詳細に記されていて、一〇頁以上にわたる号もあり、貴重である。
『明星』同様、寛・晶子研究に必須の、そして短歌史また広く文学や芸術研究に欠かせない重要資料である。

◇推薦=馬場あき子・太田 登・澤 正宏・今川英子
 
◆体裁=A5判・上製・総約15,300頁 ◆別冊=総目次・索引(分売価格2,000円+税)
◆揃定価=470,000円+税
 
◎配本概要
・第1回配本(第1〜3巻・別冊1)   2017年10月      揃定価56,000円+税
・第2回配本(第4〜6巻)     2018年1月刊行予定    揃定価54,000円+税
・第3回配本(第7〜10巻)      2018年6月刊行予定   揃定価72,000円+税
・第4回配本(第11〜14巻)    2018年11月刊行予定    揃定価72,000円+税
・第5回配本(第15〜18巻)    2019年4月刊行予定   揃定価72,000円+税
・第6回配本(第19〜22巻)    2019年8月刊行予定   揃定価72,000円+税
・第7回配本(第23〜26巻)    2020年1月刊行予定   揃定価72,000円+税

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上記説明にあるとおり、『冬柏』は、第二次『明星』(大正10年=1921~昭和2年=1927)の後継誌として、光太郎を文学の道にいざなった与謝野夫妻が心血を注いだ雑誌です。

内容見本には「主要執筆者一覧」という項目もあり、光太郎の名も。

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光太郎の同誌への寄稿は、確認できている限り、以下の通りです。

第3巻第3号 昭7(1929)2月  「旧友石井柏亭氏」『高村光太郎全集』 第7巻
第6巻第4号 昭10(1935)4 月  「与謝野先生を憶ふ」  〃   第8巻
第10巻第10号 昭14(1939)10月 「所感-与謝野晶子『新新訳源氏物語』-」〃 第19巻
第13巻第7号   昭17(1942)/6月    「与謝野夫人晶子先生を弔ふ」  〃     第3巻
第13巻第9号   昭17(1942)/8月  「与謝野晶子歌集「白桜集」序」  〃    第8巻

このうち、 「与謝野夫人晶子先生を弔ふ」のみ詩で、他は散文。「与謝野先生を憶ふ」は『東京朝日新聞』からの転載です。

これ以外にも、もしかすると『高村光太郎全集』に漏れている光太郎作品が無いとは言い切れません。また、光太郎以外の書いたもので、光太郎に言及されているものもあるかと思われます。その点、第1回配本に「別冊(総目次・索引)」があるので、調べやすいように思われます。

なかなか個人で購入するようなものではありませんが、公立図書館さん等できっちり揃えていただきたいものです。

また、内容見本には、「『冬柏』時代の与謝野寛・晶子と旅・短歌」という年表が載っています。これだけでもかなりの労作だな、と思いました。

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それによれば、与謝野夫妻、ほぼ毎月のように旅に出て、その旅先で詠んだ歌を『冬柏』に載せています。当方の生活圏も含まれ、それは存じませんでした。明治末に当地を訪れたことは存じていましたが。

「ご当地ソング」ならぬ「ご当地短歌」ということで、観光宣伝にいかがでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

自己の内に此の人類の絶えない泉の意味を明らかに強く感得した芸術家の芸術だからこそよいのである。そして此(ここ)が芸術の価値の根本義である。
散文「言ひたい事を言ふ」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

こと芸術に関しては、ポジティブシンキングの光太郎の立ち位置がよく表されています。

12/3(日)、長坂町の清春芸術村をあとに、次なる目的地、南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区を目指しました。

ここには光太郎の足跡が残っています。昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のためです。

翌年、春陽堂書店から刊行された『日本の母』の跋文より。

 第一線で皇軍将士が死を鴻毛の軽きに比し勇戦敢闘するのも、国内で国民挙つて米英撃滅の戦力増強に挺身敢闘するのも、これ万邦無比の国体を戴き三千年の誇るべき伝統に培はれた日本民族の優秀なる精華の具顕であるが、しかもこの強兵健民を直接に育てた母の庭訓を忘れてはならぬ。偉大なるこの母の力、それは決していはゆる良妻賢母や烈婦貞女のみを謂ふのではなく、実に農山漁村にあつて、市井の巷にあつて、黙々として我児を慈しみ育む無名の母の力こそ偉大なのである。(略)聖戦完遂の国民士気昂揚を計るために、この尊き無名の母を一道三府四十三県及び樺太の全国津々浦々に尋ねて「日本の母」として顕彰することにしたのである。

光太郎を含む49名の文学者が駆り出され、各道府県1人(東京府のみ2人)ずつ、軍人援護会の協力で選定された「日本の母」を訪問し、そのレポートが『読売報知新聞』に掲載され、のちに単行本化されました。単行本では北から南への順ですが、『読売報知新聞』での初出は順不同だったようで、光太郎が執筆した回が最終回でした。どの道府県に誰が行くというのも一貫性がなく、香川の壺井栄、石川の深田久弥などはそれぞれの出身地ですが、佐藤春夫が茨城、川端康成で長野など、あまりゆかりのなさそうな組み合わせもありました。光太郎も山梨にはあまり縁がなかったはずです。

光太郎が訪問したのは、当時の南巨摩郡穂積村。現在の富士川町です。ここに住んでいた井上くまが「日本の母」の山梨県代表でした。

くまは光太郎より5歳年下の明治21年(1888)生まれ。もともと隣村の出身でしたが、結婚して夫婦で穂積村に移住、2人の男児をもうけました。ところが夫は病弱で、昭和のはじめに早世。以来、薪売りや他家の手伝いなどをしながら女手一つで2人の子を育て、2人共に召集。弟の方は満州で戦病死していました。その後も報国の志篤く、軍費調達のための保険や土木作業の徴用などに積極的に協力、そのために「日本の母」選定に至ったようです。

光太郎のレポートから。

痩せた小柄の五十がらみに見える井上くまさんが絣の木綿著の筒袖の縞の羽織をひつかけて、元気のよい笑顔で私達を招じ入れた。来意を告げる。『遠いとこへよくお出でしいした』と小母さんはきちんと坐つてお辞儀をする。甲高くない稍さびた、しかし音幅のあるその声がまづ快かつた。次の部屋に一同座を占める。正面の床の間一ぱいが仏壇がはりになつて居り、南無妙法蓮華経の掛軸の下に若い兵隊さんの同じ写真が二枚立てかけてあつた。戦病死された次男重秋君の面影である。一同まづ霊前に焼香する。小母さんは何かと立ち働いて茶など運ぶ。(略)小母さんは坐つて問はれるままに思出しては話す。方言に甚だ魅力があり、時時私には分らない事もあつたが、それは大森さんや望月さんが通訳してくれた。


さて、中部横断自動車道の増穂ICで下り、町役場などの立ち並ぶ中心街を抜けて、ヘアピンカーブの続く山道を登ります。ちょうどこの日は「ゆずの里 絶景ラン&ウォーク大会」だそうで、走っている方とすれちがいました。目指すは光太郎の文学碑。「日本の母」顕彰で光太郎がここを訪れたことを記念して、昭和62年(1987)に建てられています。

文学碑のすぐ手前に「ダイヤモンド富士」観測スポット。冬至の前後、ここから富士山頂上に上る日の出が見える場所です。

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そこから100㍍ほどで、光太郎文学碑。

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おそらく富士山に似た形の自然石を選んだのでしょう。刻まれているのは、折にふれ光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」という短句。「みつ」は「満つ」。「満ちる」の古語ですね。

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以前にも書きましたが、光太郎は変体仮名的に「み」を片仮名の「ミ」で書く癖があり、「うつくしきものミつ」となっています。書簡でも「おてがミありがたう」的な表記が散見されます。ところが、そうした事情に疎い方々の間で、この碑文を「うつくしきもの三つ」と読み(さる高名なゲージツ家のセンセイも、そのように誤読しています)、「三つ」はこの地にある富士山、特産の××……などという誤解が生じ、そのように紹介されているサイトも存在します。ある意味「都市伝説」のような、こうした誤解が広まってしまうのは仕方がないことなのかも知れませんが。

当方、この地を訪れるのは20数年ぶり2回目。初めて訪れたのは、甲府に家族旅行で来たついででした。その際には、家族を車中に待たせていたこともあり、この碑のみ見て帰りました。しかし今回は一人ですので、車を駐めて周辺を歩きました。

碑の近くには上高下地区の家々。

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光太郎が訪問した井上家も残っているという話を聞いていたので、それを探します。たまたま庭にいた方を発見、訊いてみたところ、あの家だよ、と教えて下さいました。ありがたや。

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馬の背に揺られて上ってきた光太郎のレポートに「上高下の家々が見え、その間を縫つて馬はもつと高い一番外れの茅ぶきの一軒家の前にとまる。」とあり、そのとおり、集落の一番外れでした。ただし、茅ぶきだった屋根はトタン張りになっていました。

この家だと教えて下さった方の話では、かつて息子さんが住んでいらしたそうですが、もう山を下り、空き家になっているということ。光太郎レポートと照らし合わせてみると、2人いて共に出征した男児のうち、弟の方は戦病死というわけでしたが、兄の方は無事に復員できたようです。お会い出来ればなおよかったのですが、家が確かめられたのはラッキーでした。

74年前、光太郎がこの家を訪れたのかと、感慨にふけることしばし。

再び光太郎レポートから。

 珍客があると必ず出す習慣であるといふおだら(うどん)を小母さんは一同に御馳走してくれた。いろんな野菜の煮付を手にのせてくれる。それが実にうまく、私は遠慮なくたべた。話が一応すんだのでふと振りむいて外を見る。軒端一ぱいにさつきの富士山がまつたく驚くほど大きく半分雪をかぶつて立つてゐる。実に晴れやかに、爽やかに、山の全貌を露出して空を支へるやうに聳えてゐる。(略)こんな立派な富士山は初めて仰いだ。富士山を見るなら上高下に来よと私は言ひたい。三十八戸の上高下部落の人々も此霊峰をこよなきものとして崇敬してゐる。(略)霊峰は幾代となく此部落の人達の魂の中にその霊気を吹きこんだに違ひない。(略)自然は人をつくる。この霊峰の此の偉容に毎日毎朝接してゐる上高下の部落は幸である。井上くまさんその人には素よりだが、此部落全体としての雰囲気に感動したといふ事を私は強調したい。(略)その富士山の美を斯くばかり身に浴びてゐる上高下の部落に「日本の母」井上くまさんの居るのは自然である。

さらに、こちらも以前にもご紹介しましたが、昭和18年(1943)に刊行されたアンソロジー『国民詩選』(題字揮毫も光太郎)のために、光太郎は「山道のをばさん」という詩も書き下ろしています。


   山道のをばさん
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 汽車にのり乗合にのり馬にのり、
 谷を渡り峠を越えて又坂をのぼり、
 甲州南巨摩郡の山の上、
 上高下(かみたかおり)といふ小部落の
 通称山道(やまみち)のをばさんを私は訪ねた。
 「日本の母」といふいかめしい名に似もやらず
 をばさんはほんとにただのをばさんだつた。
 「遠いとこ、さがしいとこへよくお出でしいして」と、

 筒つぽのをばさんは頭をさげた。
 何も変つたところの無い、あたり前な、
 ただ曲つた事の何より嫌ひな、
 吾身をかまはぬ、
 働いて働いて働きぬいて、
 貧にもめげず、
 不幸を不幸と思ひもかけず、
 むすこ二人を立派に育てて、
 辛くも育て上げた二人を戦地に送り、
 一人を靖國の神と捧げて

 なほ敢然とお国の為にと骨身を惜しまぬ、
 このただのをばさんこそ
 千萬の母の中の母であらう。
 あけつ放しなをばさんはいそいそと、004
 死んだむすこの遺品(かたみ)をひろげて
 手帳やナイフやビールの栓ぬきを
 余念もなくいじつてゐる。
 村中の人気がひとりでにをばさんに集まり、
 をばさんはひとりでに日本の母と人によばれる。
 よばれるをばさんもさうだが
 よぶ人々もありがたい。
 いちばん低い者こそいちばん高い。
 をばさんは何にも知らずにただうごく。
 お国一途にだた動く。
 「心意気だけあがつてくらんしよ」と、
 山道のをばさんはうどんを出す。
 ふりむくと軒一ぱいの秋空に、
 びつくりする程大きな富士山が雪をかぶつて
 轟くやうに眉にせまる。
 この富士山を毎日見てゐる上高下の小部落に
 「日本の母」が居るのはあたりまへだ。


手放しの誉めようですが、実際にこの地に行くと、大げさではないことが実感されます。ぜひ足をお運びください。

明日は甲信レポート最終回、市川三郷町の四尾連湖です。


【折々のことば・光太郎】

床の間の傍に米櫃が置いてあつても気にならない位の人は珍らしくもありません。全然、趣味などといふ事は眼中になく、物を見て気にならない代りに面白いと思ふ事もないのであります。そして、金剛砂の様なザラザラした一生を、口小言を言ひながら送つて行く人であります。此種の人は僕等にとつては縁なき衆生であります。

散文「室内装飾に就いて」 治44年(1911) 光太郎29歳

たしかにこういう生活でなく、「うつくしきものみつ」という心持ちで日々を送りたいものですね。

毎年そうなのですが、芸術の秋ということで、この時期はご紹介すべきイベントが多く、また、それらのイベントに行ったレポートも書かねばなりません。いきおい、速報性があまり問われない、新刊書籍の紹介が後回しになっています。ことに出たてのものでなく、少し経ってから気づいて慌てて購入したものなどは、なおさら「旬」を逃したような気がして、いっそう後回しになってしまっています。

光太郎第二の故郷とも言うべき、岩手花巻系の出版物も、ご紹介していないものが4冊ほどたまってしまいました。今日明日で、2冊ずつご紹介します。

今日は花巻高村光太郎記念館さんに関わるものを。 

低反発枕草子

2017年1月15日 平田俊子著 幻戯書房 定価2,400円+税

東京・鍋屋横町ひとり暮らし。 三百六十五日の寂しさと、一年の楽しさ。 四季おりおりの、ささやかな想いに随(したが)いて……


著者の平田俊子さんは、詩人、劇作家、小説家。さらに立教大学さん他で教壇にも立たれています。また、光太郎にも触れた平成27年(2015)刊行の詩集『戯れ言の自由』で、第26回紫式部文学賞を受賞されました。

本書は、『静岡新聞』さんに、平成26年(2014)から翌年にかけて連載された同名のエッセイの単行本化です。

同書の中で「光太郎ファン」を自称され、随所に光太郎智恵子の名を出して下さっています。光太郎終焉の地・中野アトリエや、光太郎智恵子が婚約を果たした信州上高地などのゆかりの地も歩かれていますし、ことに花巻高村光太郎記念館さん・高村山荘が多く登場します。

ただ、執筆時期が、館のリニューアルオープン前、花巻市街のまなび学園さんに間借りしていた時期だったようで、現在の様子とは異なっています。リニューアル後に行かれたのかどうか、興味のあるところです。

その他、題名の通り清少納言さながらに、四季折々の随想、宮仕え(大学でのお仕事)の様子など、軽妙な文章で語られており、無聊の慰めとさせていただきました。

ぜひお買い求め下さい。


もう1冊。定期購読しています隔月刊の花巻タウン誌です。 

花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ) vol.4

2017年10月20日 Office風屋 定価500円(税込み)

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裏表紙に連載「光太郎のレシピ」が掲載されています。花巻高村光太郎記念会さん、特に女性スタッフさんたちの協力で作られています。太田村での光太郎日記から、光太郎がどんな料理を作り、食べていたのかを紹介するものです。

今号は「オクラの種のスープ」「支那料理風甘酢あんかけ」「抹茶」。あんかけはレシピも詳しく載っています。ちなみにオクラやセロリといった西洋野菜は、光太郎が東京から種子を取り寄せ、この地に広めたそうです。

この連載も、出来るだけ長く続いてほしいものです。


明日も花巻系、特に宮沢賢治と光太郎のつながりについて書かれたものをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

まことの美を知る苦しめる者に幸あれ。 苦しみのためへし折れて をさな児の心にかへつた只の人こそ 天のものなる美を知るのだ。

詩「人間拒否の上に立つ」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

ロダンと共に、終生敬愛してやまなかったルネサンスの巨匠・ミケランジェロを題材にした長詩です。

晩年の光太郎は、むしろロダンよりもミケランジェロに傾倒していたようで、対談などでもその名が多く見られます。満で88歳まで生き、さらに老年期に入っても旺盛な制作意欲を見せたミケランジェロに、自らを重ね合わせていたように思われます。

まことの美を知る苦しめる者」「苦しみのためへし折れて をさな児の心にかへつた只の人」は、ミケランジェロであると同時に、かくありたいと願う光太郎自身の姿でしょう。

光太郎、それから光太郎の父・光雲の作品が載ったアンソロジー的な書籍を2冊、ご紹介します。

猫の文学館Ⅰ 世界は今、猫のものになる

2017年6月10日 筑摩書房(ちくま文庫) 和田博文編 定価840円+税

猫たちがいきいきと描かれている短編やエッセイを一冊に。内田百閒(けん)が、幸田文が、大佛次郎が、川端康成が、向田邦子が魅せられた猫大集合!

大佛次郎、寺田寅彦、太宰治、鴨居羊子、向田邦子、村上春樹…いつの時代も、日本の作家たちはみんな猫が大好きだった。そして、猫から大いにインスピレーションを得ていた。歌舞伎座に住みついた猫、風呂敷に包まれて川に流される猫、陽だまりの中で背中を丸めて眠りこんでいる猫、飼い主の足もとに顔をすりつける猫、昨日も今日もノラちゃんとデートに余念のない猫などなど、ページを開くとそこはさまざまな猫たちの大行進。猫のきまぐれにいつも振り回されている、猫好きにささげる47編!!

1 のら猫・外猫・飼い猫005
2 仔猫がふえる!
3 猫も夢を見る
4 猫には何軒の家がある?
5 そんなにねずみが食べたいか
6 パリの猫、アテネの猫
編者エッセイ 猫が宿る日本語


世の中、猫ブームだそうで、それに乗った企画のようです。日本近現代の猫に関するエッセイ、短編小説、童話、詩などが集められています。

第5章が「そんなにねずみが食べたいか」という題になっていますが、これは、この章に収められた光太郎詩「猫」(大正5年=1916)の冒頭の行「そんなに鼠が喰べたいか」から採っています。

その他、光太郎と関わりの深かった人々――与謝野晶子、佐藤春夫、室生犀星、三好達治、岡本一平、尾形亀之助ら――の作品も載っています。

しかし、時代が違うと言えばそれまでですが、昔の猫は平気で捨てられたり、避妊手術を受けられなかったり、餌は自分で調達しなければならなかったりと、いろいろ大変だったようです。

ちなみにわが家の猫、娘が拾ってきて1年半近くになりますが、お姫様のように過ごしております(笑)。

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もう1冊。 

コーヒーと随筆

2017年10月1日 mille books 庄野雄治006
 定価1,300
円+税

近代文学に造詣の深い、『コーヒーの絵本』の著者で徳島の人気焙煎所アアルトコーヒー庄野雄治が、コーヒーを飲みながら読んで欲しい随筆を厳選しました。大好評を博した『コーヒーと小説』の姉妹書、2冊続けて読むと何倍も楽しめる内容です。前作に続きカバー写真には、作品に登場する魅力的な女性の象徴として人気シンガーソングライター・安藤裕子さんを起用! 現代に生きる私たちにこそ響く、至極面白く読みやすい随筆20編です。コーヒーを飲みながらお楽しみください。
 
「新しいものは古くなるが、いいものは古くならない。それを証明する随筆集」
人はずっと変わっていない。百年前の人が読んでも、百年後の人が読んでも、同じところで笑って、同じところで泣くんじゃないのかな。コーヒーと一緒に、偉大な先達たちの真摯な言葉を楽しんでいただけると、望外の喜びだ。

掲載作品(掲載順)
「畜犬談」太宰治、「巴里のむす子へ」岡本かの子、「家庭料理の話」北大路魯山人、「立春の卵」中谷宇吉郎、「大阪の可能性」織田作之助、「陰翳礼讃」谷崎潤一郎、「変な音」夏目漱石、「恋と神様」江戸川乱歩、「余が言文一致の由来」二葉亭四迷、「日本の小僧」三遊亭円朝、「柿の実」林芙美子、「亡弟」中原中也、 「佐竹の原へ大仏を拵えたはなし」高村光雲、「大仏の末路のあわれなはなし」高村光雲、「ピアノ」芥川龍之介、「人の首」高村光太郎、「好き友」佐藤春夫、「子猫」寺田寅彦、「太陽の言葉」島崎藤村、「不良少年とキリスト」坂口安吾


光雲の2篇は、ともに昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に載ったもの。田村松魚による談話筆記です。内容的には、若き日の光雲が、悪友や実兄達と、明治22年(1889)、「佐竹っ原」と呼ばれていた現在の新御徒町あたりに、見せ物小屋を兼ねた張りぼての大仏を作った話。くわしくはこちら

光太郎の「人の首」は、昭和2年(1927)の雑誌『不同調』に掲載されたエッセイで、肖像彫刻をいろいろ手がけた経験から、人の首の魅力を語ったものです。


光太郎、光雲の作品、こういったアンソロジーに採録していただき、ありがたく存じます。それだけの魅力があると評価していただいているということでしょうが、まさしくその通りです。

光雲の談話筆記は、『光雲懐古談』以外にも、光雲存命中のいろいろな書籍等に断片的に収録されていますが、軽妙な語り口と、舌を巻くような確かな記憶力、豊富な話題で、面白いものばかりです。時代作家の子母澤寛は、新聞記者時代に光雲の談話筆記を採って『東京日日新聞』に載せ、絶賛しました。代表作『父子鷹』あたりには、光雲の語った江戸時代の様子が反映されているそうです。宴席では、その話芸の面白さから、芸妓衆が光雲のそばにばかり寄っていき、美術学校の同僚連は、「光雲先生とは呑みたくない」と言ったとか言わないとか(笑)。

光太郎のエッセイは、文体やら話の運び方やら、エッセイのお手本といえるようなものです。どうも、話芸に通じていた光雲の影響も無視できないような気がします。

今後とも、こういったアンソロジーへの採録が続くことを希望します。


【折々のことば・光太郎】

開拓の精神を失ふ時、 人類は腐り、 開拓の精神を持つ時、 人類は生きる。 精神の熟土に活を与へるもの、 開拓の外にない。

詩「開拓に寄す」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

盛岡市で行われた岩手県開拓五周年記念開拓祭に寄せた詩の一節です。

昭和51年(1976)には、花巻市太田の旧山口小学校向かいに、この一節を刻んだ「太田開拓三十周年記念」碑が除幕されました。

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詩集や詩歌評論などの出版に力を入れられている土曜美術出版さん刊行の月刊誌『詩と思想』。その今月号に拙稿が載っております。

以前に「智恵子抄」を取り上げて下さった雑誌で、存じていましたのでお受けしました(生意気なようですが、思想的に光太郎の精神と相容れなかったり、社としての矜恃が感じられなかったりするところからの依頼はお断りすることにしています)。

連翹忌の歴史や現状などについて書いてくれという依頼でしたので、そのような内容を。ところが文治堂書店さんのPR誌『トンボ』の方でも同一内容の指定があり、同じような内容になってしまいました。ただ、『誌と思想』さんの方が字数を多く指定されましたので、詳しく書いています。

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画像もほしいというので、今年をはじめ、最近の連翹忌の様子、それから昭和31年(1956)の光太郎葬儀の写真を提供しました。

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今年の連翹忌で朗読と演奏のコラボをお願いした、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんと、テルミン奏者大西ようこさん、それからお父様が光太郎と交流がおありで、連翹忌ご常連の渡辺えりさんなどなど。

連翹忌のよい宣伝になったかなと思います。

ところが、1箇所、とんでもない誤りをそのままにしてしまいました。昭和13年(1938)の智恵子の没年を14年としてしまったのです。認めたくないのですが、歳のせいか、最近、パソコンのミスタッチが多くなっています。たいがいはすぐ画面上でおかしなことになっていると気づいて訂正するのですが、ここはそのまま流してしまったようです。ゲラが送られてきて、校正もしたにもかかわらず気づきませんでした。

「3」と「4」もそうですが(テンキーではなくキーボード左上)、多いのはやはり隣のキーに触れてしまうこと。たまに「こうたろう」と叩いたつもりが「O」と「P」を間違えて「kぷたろう」などとなります(笑)。それから変換ミスですね。多分このブログでもやらかしていると思います。もっと気をつけねば、と思いました。

大きな書店さんでは雑誌コーナーに並んでいると思われますし、同社サイトから、またはAmazonさんなどでも注文可能です。ぜひお買い求め下さい。定価1,300円+税です。


【折々のことば・光太郎】

狂瀾怒涛の世界の叫も この一瞬を犯しがたい。 あはれな一個の生命を正視する時、 世界はただこれを遠巻にする。

詩「梅酒」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

前年に亡くなった智恵子が生前に作っておいた梅酒を台所で見つけ、智恵子を偲びながらそれを味わう、という詩です。

日中戦争は膠着状態、泥沼化。欧州では既に大戦の火蓋が切られています。それが「狂瀾怒涛の世界の叫」。しかし、それも亡き妻を偲ぶ「この一瞬」を「遠巻にする」というのです。

すでに翼賛詩をたくさん書き始めている光太郎ですが、智恵子に思いを馳せる時のみ、強引な言い方ですが人間性を回復できていたように思われます。それも翌年までのことですが……。

昨日に引き続き、最近入手した古資料等をご紹介します。今回は光太郎の父・高村光雲の関係で。


まず古絵葉書。

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国指定の重要文化財である「老猿」の写真が使われています。キャプションには「東京朝日新聞社主催 明治大正名作展覧会 (猿) 高村光雲氏作」とあります。

調べてみたところ、昭和2年(1927)6月に東京府美術館で開催されたもので、明治大正期の日本画・洋画・彫刻の代表作計460点を集め、会場は連日盛況で総入場者数は17万8千余人を記録、多くの人々に日本の近代美術というものをあらためて認知させることになったとのことです。

おそらくその会場などで販売されていたものと推定され、絵葉書ではありますが、普通に焼き付けされた写真の裏面に絵葉書のフォーマットを印刷したという感じです。作品題が現在使われている「老猿」ではなく、単に「猿」となっている点が興味深いところです。

この点も気になって調べたところ、昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』でも、口絵部分のキャプションが「猿」となっていました。

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しかし、本文では「栃の木で老猿を彫つた話」となっており、「老猿」の語が使われています。ただ、よく読むと、「老猿」の語は作品題というより、モチーフとして年老いた猿を作ったよ、という使い方になっているようです。いつから作品題として「老猿」が定着したのか、興味深いところです。


続いて、雑誌『キング』から。

昨日ご紹介した光太郎の「ある日の日記から」の関係で、その前後にやはり光太郎文筆作品が載ってはいまいかと探したところ、光太郎のものは見つけられませんでしたが、光雲の談話筆記が2点見つかりました。

まず昭和5年(1930)10月の第6巻第10号。「昔の芝居と今日の芝居」という題で2ページの談話が載っています。

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芝居好きだった光雲、当時や少し前の役者についていろいろ述べています。挙がっている名は初代中村吉右衛門(「吉右衛門」と書いて「はりまや」とルビが振られています。粋ですね)、十五代目市村羽左衛門、そして五代目中村歌右衛門。

さらに、昭和8年(1933)2月の第9巻第2号には、「猫の話 鑿の話」という談話も1ページ載っていました。

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猫に関しては、『光雲懐古談』にも載っている、徒弟修業時代に近所の猫の仕業に見せかけて、鰹の刺身をせしめた話、それから現在製本中の『光太郎資料47』に載せた、光雲ゆかりの金龍山大圓寺さんの発行になる『仰高』という冊子でも語られている、「団扇に眠る猫」について。下の写真は光太郎令甥・髙村規氏です。

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それから、木彫用の鑿について。写真が大きく載っており、最近、みすず書房さん刊行の『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』を読んだこともあり、興味深く感じました。

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いずれ、当方編集発行の『光太郎資料』に転載しようと思っております。


【折々のことば・光太郎】

この世では、 見る事が苦しいのだ。 見える事が無残なのだ。 観破するのが危険なのだ。
詩「苛察」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

連作詩「猛獣篇」の一作。上野動物園の大鷲をモチーフとしています。

この時期、さまざまな社会矛盾に目を向けざるを得ず、また、光太郎の元に集った若い詩人たちの影響などもあって、光太郎はアナーキズム系、プロレタリア文学系に近づいていきます。しかし、完全にはその方面には入れずじまい。そのあたりはまた後ほどご紹介します。

このブログでご紹介している内容は、主に以下のようなものです。これから行われる光太郎、光雲、智恵子関連のイベント等のご案内。それらに足を運んでのレポート。新刊出版物等のご紹介。関連するテレビ番組等のご紹介。新聞記事等で光太郎らにふれられたもののご紹介、などなど。

そういったものが集中する時期には、半月先まで記事の内容が決まっていたり、一回の投稿で何件もご紹介したりということもあるのですが、逆にネタに困ることもあります。あまりにも先に行われるイベントをご紹介しても仕方がありませんし、新刊書籍も版元のサイトで情報がアップされていないなどの場合には、ご紹介しにくい部分があります。

今がまさにその状態で、情報が少なく、困っています。

そこで、今回は、最近入手した古資料について。新刊書籍等は「皆様もぜひお買い求めください」的なまとめ方ができるのですが、古資料ですと、それができないので、あまりご紹介してきませんでした。

背に腹は代えられないので、こうした機会にご紹介しておきます。今回は、光太郎編。

筑摩書房さん刊行の『高村光太郎全集』に漏れているものの収集、というのが当方のライフワークでして、そういう関係がメインです。

まずは書簡。

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光太郎晩年、昭和28年(1953)4月10日付で、中央公論社の編集者・岩淵徹太郎に宛てたはがきです。とある古書店さんのサイトで見つけ、購入しました。

曰く、

選集六冊小包でいただきました、先日送つた金も返送され、甚だ恐縮な事です、
此間は久しぶりでおめにかかりましたが、この前よりも大変健康になられたやうに見うけました、

岩淵宛の書簡は、『高村光太郎全集』に5通掲載されていますが、これは漏れており、従前のものを補うものです。光太郎の住所は中野区桃園町四八 中西氏方。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、その制作まっさかりの時期です。

選集」は、この年一月に完結した『高村光太郎選集』全六冊。誰かに進呈するためにセットで注文したものと思われます。「此間は久しぶりでおめにかかりましたが」とありますが、4月7日の日記に岩淵来訪の記述があります。

内容的にそれほど重要なことが書かれているわけでもありませんし、光太郎の書簡はすでに3,400通ほどが知られていて、珍しいものではありませんが、味のあるいい字ですし、それなりに貴重なものです。


続いて雑誌『キング』第5巻第9号。昭和4年(1929)9月の発行です。

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002現在の講談社さんの前身、大日本雄弁会講談社の発行していた総合雑誌です。

これに、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎の文章が掲載されています。「ある日の日記」という総題で、光太郎、町田経宇(陸軍大将)、鈴木伝明(俳優)、朝倉文夫、山本久三郎(帝国劇場専務)の5人の日記が載せられています。

この時期の日記帳そのものの現存が確認できていないので、実際の日記からの抜粋なのか、このために書き下ろされたのか、あるいはこのために実際の日記を換骨奪胎したりふくらませたりしたのか、何とも言えませんが、光太郎に関しては、「六月十日」ということで、その日の出来事が記されています。

内容的には主に2点で、1点目は、改造社から刊行の『現代日本文学全集 第三十八篇 現代短歌集/現代俳句集』のために、自作短歌を選んだこと。「記憶に存するものの中(うち)稍収録に堪ふと認むるものをともかくも五十首だけ書きつく。」とあります。ちなみに同書に掲載された光太郎短歌は四十四首。この違いは何なのか、謎です。

笑ってしまったのは、海外留学のため、横浜港から出航したカナダ太平洋汽船の貨客船アセニアン船上での作「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」という短歌(明治39年=1906)についての記述。「此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屡〻(しばしば)揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。」たしかに当方もこの歌の書かれた短冊を持っています。

後半は、智恵子の母校・日本女子大学校から同窓会誌『家庭週報』の記者が訪れたことが書かれています。大正8年(1919)、同校創設者の成瀬仁蔵の胸像を光太郎が依頼され、なかなか完成しないため(結局、昭和8年=1933までかかりました)、時折同校関係者が光太郎をせっつきに来ていました。この際の記事が、同じ年の6月28日発行の『家庭週報』第990号に掲載されてもいます。光太郎、呑気に記者が持参した手作りの洋菓子「クレーム フアンティーヌ」を賞味しています(笑)。
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比較的長い文章ですが、『高村光太郎全集』に漏れていました。その理由は、おそらく、目次。目次には光太郎の名が無く、「各方面五名士」となっているのです。

そこで、同じ時期の『キング』に、同じようにこれまで知られていない光太郎の文章が載っている可能性もあると思い、駒場の日本近代文学館さんに行って、片っ端から調べました。するとやはり、目次に「諸名家」とだけあって、氏名が明記されていない記事がたくさんありました。しかし、光太郎のものは新たに結局発見できませんでした。

代わりに、やはり日本近代文学館さん所蔵の資料の中から、『高村光太郎全集』未収録の短歌を見つけました。掲載誌は明治39年(1906)刊行の『新詩辞典』。短歌の作り方テキスト的な書籍です。

作例、ということで、与謝野晶子ら多数の歌人の作品が載っており、光太郎の短歌も18首。その中で1首だけ、これまでに知られていなかったものが含まれていました。

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一刷毛(ひとはけ)のそれは上総か春の海光ましろき雲ながれゆく

クレジットは新詩社における光太郎の号「砕雨(さいう)」です。

上記の「海にして……」同様、太平洋を渡る船中での作なのか、それとも千葉方面を旅した際の作なのか、何とも言えません。この時期に千葉方面への旅行という記録が残っていません。あるいは東京にいて、「あの雲の真下は上総あたりかな……」的なことも考えられますし……。


というわけで、まだまだ眠っている光太郎文筆作品等はかなりありそうです。今後もその発掘に力を尽くします。


【折々のことば・光太郎】

印度産のとぼけた象、 日本産の寂しい青年、 群集なる「彼等」は見るがいい、 どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。

詩「象の銀行」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

明治39年(1906)から翌年にかけての滞米体験を下敷きとしています。セントラルパークの動物園で、客の投げる硬貨を上手に鼻で拾って貯金箱的な入れ物に入れる象を謳っています。

遠い異国からやって来たもの同士ということで、光太郎はこの象に奇妙な親近感を抱いていました。排他的な雰囲気のあったニューヨークは、光太郎にとってあまり居心地がよくなかったようです。

出版社コールサック社さんから、詩誌『コールサック』の最新号が届きました。毎号送って下さっています。恐縮です。

光太郎と交流のあった山梨出身の詩人・野澤一のご子息で、連翹忌ご常連の野澤俊之氏が、父君に関するエッセイを寄せられていました。題して「神秘の湖〝四尾連湖〟に寄せる思い」。

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「四尾連湖」は山梨県西八代郡市川三郷町にある小さな湖で、野澤一が昭和のはじめに約6年間、湖畔の丸太小屋で独居自炊の生活を送った場所です。

野澤一についてはこちら。



その丸太小屋のすぐ近くに「水明荘」という宿泊施設があり、そこの若女将さんが平成2年(1990)に書き、山梨県のふるさと作文コンクールで特別賞を受賞した作文が引用されています。四尾連湖判に野澤の詩碑が建立された頃の作です。光太郎についてもふれて下さっています。

当方、山梨県にも4年近く住んでいたことがありましたが、四尾連湖には行ったことがありません。直線距離で6㎞ほど離れた富士川町の高下地区には、光太郎の文学碑があります。昭和17年(1942)に、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会の事業で、黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の母を顕彰する「日本の母」顕彰事業のため、同地の井上くまの元を光太郎が訪れたことを記念して立てられました。建立は昭和62年(1987)。

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光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」の句が刻まれています。漢字仮名交じりにすれば「美しきもの満つ」、「この世は美しいもので満ちているよ」といった意味です。

ちなみに、少し前に光太郎の変体仮名使用についてちらっと書きましたが、これもそうで、片仮名の「ミ」を平仮名に混ぜて使うことが多くありました。日記でも「手紙」を「てかミ」と表記することがしばしばでした。

ところが、そうした事情に疎い方々の間で、この碑文を「うつくしきもの三つ」と読み(さる高名なゲージツ家のセンセイも、そのように誤読しています)、「三つ」はこの地にある富士山、特産の××……などという誤解が生じ、そのように紹介されているサイトも存在します。ある意味「都市伝説」のような、こうした誤解が広まってしまうのは仕方がないことなのかも知れませんが……。

他にも光太郎にまつわる「都市伝説」の類は少なくありません。「××神社の狛犬は光太郎の作である」、「××県の料亭の座卓には光太郎が包丁で彫った文字が残っている」など。実は後者の方は、ろくに確かめもせず、20年ほど前に当方も著書で紹介してしまったことがありますが、ガセネタです。

閑話休題。ほぼ毎年、4月22日に信州安曇野碌山美術館さんで開催される碌山忌にお邪魔していますが、その際には近隣、あるいは途中にある光太郎ゆかりの地、光太郎と交流のあった人々の記念館的なところに立ち寄ることにしています。四尾連湖もいずれその際に、と思っております。

富士川町の光太郎碑も含め、皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

彫刻はおれの錬金術、 出ないかも知れない金を求めて、 この禁苑の洞窟(ほらあな)に烈火をたく。 あんまりそばへ寄るな。

詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

「無」から「有」を生み出し、しかも単なる「有」でなく、「美」にまで昇華させる彫刻。たしかに「錬金術」にも似た部分があるかもしれませんね。

当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌――というよりは、同社と関連の深い皆さんによる同人誌的な『トンボ』の第3号が届きました。

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編集に当たられているのは、詩人の曽我貢誠氏。連翹忌ご常連にして、今年はコールサック社さんからアンソロジー詩集『少年少女に希望を届ける詩集』を編纂上梓されました。

当方にもお声がけくださり、曽我氏もご参加下さった8月の女川光太郎祭に関し、5ページほど書かせていただきました。このブログでとびとびにご紹介してきたような内容――平成のはじめに女川の地に光太郎文学碑が建立された経緯、それを記念して始まった女川光太郎祭、平成23年(2011)の東日本大震災による被害、そこからの復興、若い世代による新たな街づくりなどについてです。

また、目次には入っていませんが、光太郎と交流のあった詩人、野澤一のご子息・俊之氏による巻頭言、巻末には当会顧問・北川太一先生の近著『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』にからめてのエッセイが3編、それぞれ収録されています。

当方手元には50冊送られてきました。この際、送料のみでお頒けいたしますので、一冊140円、ゆうちょ銀行さんの振替口座――00100-8-782139  加入者名 小山 弘明――までご送金下さい。その際、ご住所ご芳名等、払込取扱票に書き込んでお知らせください。

追記 全冊はけました。

よろしくお願いいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

さいはひやあめつちに居て身は健(けん)に星かぞふべく指ほしいまま

明治36年(1903) 光太郎21歳

もうすぐ今年も終わりますが、当方、今年も健康に過ごすことができました。というか、このブログを始めた平成24年(2012)5月3日から数え、今日で1,700日目ですが、その間、微熱程度はあったものの、どうやら大事には至らず続けて参りました。

あらためて健康にすごせることの「さいはひ(幸い)」に感謝したいと思います。

このブログ、昨日の朝、閲覧数ががっつり跳ね上がりました。

この記事を書いている段階では、前日のアクセス解析がまだ集計中なので確認できませんが、どうやら2ヶ月ほど前に書いた「『少年少女に希望を届ける詩集』。 」という記事にアクセスが集中したのだと思われます。この記事は、コールサック社さんから刊行された同名の詩集(光太郎を含む近現代物故詩人の詩、各界に呼び掛けて募られた書き下ろしの詩などが掲載されています)の紹介でした。

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NHKさんの朝のニュース番組「おはよう日本」中の、関東甲信越向けのコーナーで、この詩集が取り上げられたため、ご覧になった方々がネットで検索し、当方のブログにたどりつかれたのだと考えたわけです。

当方もオンエアを拝見しました。

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編集に当たられた詩人の曽我貢誠氏は、4月の連翹忌や8月の女川光太郎祭にご参加下さっています。

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この後、曽我氏が中学校教諭だった頃、不登校だったという元生徒さんがご出演。その方の詩もこの詩集に掲載されています。自らの不登校体験を踏まえ、飾らない言葉で悩める少年少女に語りかける、素晴らしい詩でした。

さらにこの詩集を使っての学校現場での取り組みなども紹介されました。

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先日、曽我氏から、新聞各紙記事のコピーが届きました。

『朝日新聞』さん。

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『河北新報』さん。

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『北海道新聞』さんには2本の記事が。

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昨今、悲惨な事件が相次いで報道されています。この国の民度――若い世代に限ったことではなく、社会全体の――がどんどん低下しているように感じるのは、当方だけでしょうか。またいわゆる引きこもりなどの問題も。

嘘くさい政治屋どもの唱える中身のないお題目などより、この詩集に収められた珠玉の言葉に触れることで、社会全体に希望が溢れてほしいものです。

この詩集には光太郎の「道程」と「冬が来た」が収められています。どちらも大正3年(1914)、つまり100年以上前に書かれたものですが、今も色あせず現代人にも通じる内容です。光太郎の言葉が今を生きる人々の希望に繋がるとすれば、泉下の光太郎もきっと喜ぶことでしょう。


『少年少女に希望を届ける詩集』、版元のコールサック社さんのサイトから購入可能です。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき

昭和13年(1938)頃 光太郎56歳頃

今日はこの短歌を含む『智恵子抄』所収の「うた六首」に、作曲家野村朗氏が曲を付けた「連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六首」より」を聴きに、第20回TIAA全日本作曲家コンクール入賞者披露演奏会行って参ります。

昨日に引き続き、新刊情報です。 
2016/08/02   曽我貢誠・佐相憲一・鈴木比佐雄 編 コールサック社 定価1,500円+税

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詩人、作家、教育関係者などによる200人詩集。いまを生きる多感な少年少女へ、そっとエールをおくりたい。「教えるとは希望をともに語る語ること」(ルイ・アラゴン)。誰でもいつかは少年少女、そんな視点で心のうたをお届けします。学校で、塾で、電車の中で、家庭で読んでいただきたい1冊です。

目次
 はじめに 未来を切り開くために 曽我貢誠
 第一章 学ぶ
 第二章 歩む
 第三章 立つ
 第四章 こころ
 第五章 いのち
 第六章 希望
 第七章 家族の中で
 第八章 自然の中で
 第九章 世界の中で
 第十章 未来
 解説 『少年少女に希望を届ける詩集』 人間そのものを思うこと 佐相憲一 
 解説 少年少女のしなやかな心が語り合える詩集になることを願って
  『少年少女に希望を届ける詩集』に寄せて 鈴木比佐雄
 おわりに 曽我貢誠

編者お三方のうち、曽我貢誠氏は詩人で、連翹忌の御常連です。鈴木比佐雄氏は同社の社長さん。今年の連翹忌にご参加下さいました。佐相憲一は詩人、評論家、編集者。

広く募集した書き下ろしの稿と、光太郎などの物故詩人の作品が入り交じる構成になっています。詩が根幹ですが、エッセイ的な散文も多く収録されています。

ご存命の有名どころでは、谷川俊太郎氏、覚和歌子氏、あさのあつこ氏、落合恵子氏、新川和江氏、水谷修氏、尾木直樹氏、浅田次郎氏、小山内美江子氏、明石康氏など。

物故詩人としては、山村暮鳥、武者小路実篤、宮沢賢治、金子みすゞ、吉野弘、島崎藤村、河井酔茗、高田敏子、宗左近、坂村真民などにまじって光太郎も。光太郎の作品は、『道程』と『冬が来た』が掲載されています。

また、今年の連翹忌で、募集のチラシが配られたため、御常連の皆さんで、それに応じられた方々がいらっしゃいます。作曲家・野村朗氏、詩人・野澤一のご子息の野澤俊之氏。当方は、忙しさに取り紛れて欠礼いたしました。

上記2枚目の画像(裏表紙)で、寄稿者全員のお名前が確認できます。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

いつしんになきどよもせば袋もて採る気になれず蝉の腹を見る

大正13年(1924) 光太郎42歳

先週、岩手盛岡に2泊3日で行っておりましたが、その間に当ブログの閲覧数がまた跳ね上がりました。帰ってきてからアクセス状況の解析ページを調べてみると、『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』を刊行された末盛千枝子さん関連で、当ブログにたどり着かれた方がたくさんいらっしゃいました。

5月にも同じことがあり、その際には『日本経済新聞』さんと『朝日新聞』さんに書評が載った直後でした。そこで、また何かのメディアで取り上げられたのだろうと思い、そちらも調べてみました。

すると、まず7/12(13日未明)、NHKさんの「ラジオ深夜便」に末盛さんがご出演、「困難が私を導く」と題されてお話をされていました。

末盛千枝子さん「困難が私を導く」<7月12日(火)深夜放送>

末盛千枝子さんは、1986年に国際的な児童図書の展示会「ボローニャ国際児童図書展」でグランプリを受賞、その後、皇后・美智子さまの講演録やターシャ・テューダーの絵本を手がけるなど編集者として活躍してきました。しかしその陰では、夫の急死や経営していた出版社の閉鎖、移住した岩手で起きた東日本大震災など、さまざまな困難を乗り越えてきました。この「困難」こそ、自分の人生を導いてきた原動力だという末盛さんに、2回にわたってお話を伺いました。その1回目です。

こちらは2回に分けてのオンエアだそうで、2回目も近々放送されるでしょう。番組情報に気をつけていたいと思います。


それから、『週刊文春』さんでも取り上げられていました。

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文春さんというと、スキャンダルというイメージになりつつありますが、もちろんそういうわけではなく「新 家の履歴書」という連載で4ページにわたって末盛さんの紹介でした。

『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』についても触れられており、さらにその中で語られている光太郎との縁についても記述がありました。

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さかのぼって、7/10には、『産経新聞』さんにも書評が出ています 

【聞きたい。】末盛千枝子さん『「私」を受け容れて生きる-父と母の娘-』 世の中の良い所を見続ける

005「私にとってはそんなに大変なことではなかった。読んだ方の反応に、逆にびっくりしています」と末盛千枝子さん。皇后さまの講演録『橋をかける』や、皇后さまが英訳されたまど・みちおさんの詩集『どうぶつたち』などを手掛けた絵本出版社「すえもりブックス」の元代表だ。自伝的エッセーである本書では『橋をかける』にまつわるエピソードや、詩人の高村光太郎との交流、家族の思い出が語られる。
 大学卒業後、絵本出版社に勤めたがキャリア志向はなく結婚退社。しかし、夫は8歳と6歳の息子を残して急死。生来の難病を抱える長男はスポーツでのケガで下半身不随に。脳出血で倒れた再婚相手の看護、出版社の経営難など、“激動と波乱の人生”だが、語り口は非常に静かだ。表題にある「受け容(い)れて」生きることの尊さが胸にしみる。
 「自分の大変さではなく、世の中の良い所を見続けることがとても大事」と話す。例えば、天気の良い秋の日、長男がいるリハビリ専門病院では、生涯忘れられない風景を見たという。「息子の入院仲間で金色の髪をしたお兄さんがね、光り輝くようなイチョウの木の下で、2、3歳の子供と奥さんと一緒にお弁当を広げていた。病院でのピクニックは、本当に美しくまるで聖家族のよう。大変な最中でも、こういうことに出合う幸せがある」
 会社をたたみ平成22年、長男らとともに父の故郷の岩手県に居を移した。翌年の東日本大震災後、被災した子供たちに絵を届ける活動を開始。懸命に本を求める保育園児の姿に感動した。「ある子は、流されてしまった自分の大好きな絵本を見つけ『あった!』と、その本を抱きしめた。本好きの仲間と出会うのが何よりうれしい」。そしてこう言葉を接いだ。「困難があったからこそ今がある。いろんなことをこれで良かったと思える」。ほほ笑む末盛さんがとてもまぶしかった。(新潮社・1600円+税) 村島有紀

【プロフィル】末盛千枝子
 すえもり・ちえこ 昭和16年、東京生まれ。父は彫刻家の舟越保武。慶応大卒。63年「すえもりブックス」を設立。「3・11絵本プロジェクトいわて」代表。


『毎日新聞』さんと『読売新聞』さんでも取り上げて下さいましたし、NHKさんの、中江有里のブックレビュー・6月の3冊」でも紹介されています。

まだ読まれていない方、ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

いさましき夏の遠海(とほうみ)雲きれぬををしく晴れよ今は汝(な)が世ぞ
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日は「海の日」だそうで。しかし関東はまだ梅雨明けせず、今一つ青い空、もくもく白くわきあがる入道雲、という感覚になりませんね……。

光太郎を敬愛していた彫刻家の故・舟越保武氏の長女にして、絵本作家・編集者の末盛千枝子さんによる自伝的エッセイ『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』。「千枝子」と言う名を光太郎に付けて貰った経緯や、それがその後の人生に及ぼした影響などにも触れられています。

だいぶ好評のようで、もともと連載されていた新潮社さんのPR誌『波』に載った中江有里さんによるそれを皮切りに、あちこちに書評が出ています。『日本経済新聞』さんと、『朝日新聞』さんに載ったものがこちら。『福島民報』さん他の地方紙に載った評はこちら

約一週間前に、『毎日新聞』さんにも載りました。 

『「私」を受け容(い)れて生きる 父と母の娘』 神様に「逃げなかった」と言いたい 末盛千枝子(すえもり・ちえこ)さん

 ターシャ・チューダーやM・B・ゴフスタインなどの000名作絵本の数々を世に送り出してきた編集者が自らの人生を振り返った。「ああいうことも、こういうこともあったなあ、と思い出しながら書くのは楽しい作業でした」と感慨深げに語る。
 1941年、彫刻家・舟越保武の長女として生まれた。「千枝子」という名は、父が面識のなかった高村光太郎を突然訪ね、つけてもらったという。後に、深いカトリック信仰に根ざした崇高な作品を残した父は、だじゃれや落語を愛する意外な一面も持っていた。「志ん生はテープで繰り返し聴いていました」
 家族の笑い声が聞こえてきそうな幼少時代だが、長女として我慢することもあったらしい。そんな時、絵本が近くにあった。
 「私にとって絵本は、希望を語るものであり、悲しむ子どものそばに寄り添ってくれるものだった」と記す。「自分がこれと思う本を一生の間に一冊でも」。大学を卒業すると、絵本の出版社「至光社」で働いた。
 主に海外版の編集に携わった後、NHKの音楽番組のディレクター、末盛憲彦と結婚。2人の息子を授かる。だが結婚から11年、夫が急死する。
 「たいまつを引き継ぎたい」。人々の心に光をともすのは音楽も絵本も同じ。「G・C・PRESS」で再び絵本の仕事をはじめ、『あさ One morning』で国際賞を受賞、やがて自ら「すえもりブックス」を創設する。皇后さまの『橋をかける 子供時代の読書の思い出』を出版し話題になった。
 青春時代に親しかった哲学者の古田暁(ぎょう)と再会、95年に2度目の結婚をする。このくだりは「書きにくかった」とはにかむ。2013年の古田の死去後、半世紀ほど前にバチカンで、若い2人がローマ法王に謁見している写真が見つかった。「知り合いの修道院の院長から『ジグソーパズルの最後のピースが出てきたのですよ』と言われ、気持ちが助かりました」
 顧みれば、波瀾(はらん)万丈な人生ではなかったか。「それは特にありません」と首を振り、「大変だと思ったことも、乗り越えた時の喜びがあると考えれば、それはそれで良いかな」と続ける。「たぶん、私は死ぬ時に言うと思います。『逃げませんでしたよ。これでいいですね、神様』と」<広瀬登>


それから『読売新聞』さん。ただし、こちらでは光太郎について触れられていません。 

『「私」を受け容れて生きる』 末盛千枝子さん

 写真撮影のため本にちなむものを頼むと、父が作001ったブロンズのレリーフを持ってきてくれた。自分の結婚式の引き出物だという。
 彫刻家、舟越保武さんの長女として生まれ、結婚や出産を挟んでタシャ・チューダーをはじめ絵本の出版を手掛け、「すえもりブックス」を設立。皇后さまの講演をまとめた本などを出版した。その著者が、人生を振り返った。
 「人生は、自分が思うようにはなりません。成るようになるものですね」。撮影の間、穏やかにほほ笑んだ。
 疎開先の自然豊かな岩手で育った少女時代。苦労する両親を見て芸術家だけとは結婚しないと思い、人生に臆病だった若い頃。30歳のとき出会い、仕事から帰ると子供のオムツにアイロンをかけるほど優しかった最初の夫は、自宅で突然に倒れて亡くなった。
 <パパは あをい そらの てんごくにいるのです(略)だから かそうばで やくのは ぬけがらだけです>
 幼い孫に、保武さんはこんな手紙を書いたという。
 「つらい出来事が起きた直後には、希望なんて見えません。でも、逃げずにいれば、それらと一緒に生きていけるように感じる。悲しみや苦しみに意味があると思えるようになる。悩むからこそ、人は色々なことを考え、深まってゆくのではないでしょうか」
 障害を抱えた長男、再婚した夫とともに、東京から岩手県八幡平市に引っ越し、東日本大震災を経験した。その後、2度目の夫も亡くしている。現在は被災地の子どもに絵本を届ける「3・11 絵本プロジェクトいわて」を発足させ、代表を務める。
 「津波で本を流された子どもが保育園に置いた段ボールの中から同じ本を見つけ、抱きしめた時の顔。本好きの同志として、忘れられませんでした」(新潮社、1600円)


先週水曜日には、NHKさんで午前中に放映されている「ひるまえほっと」という情報番組に、やはり中江有里さんがご出演、「中江有里のブックレビュー・6月の3冊」というコーナーで、この書籍を取り上げて下さいました。

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当方、たまたま運転中で、カーナビにはNHKさんが流れており、突然この書籍の紹介が始まったので驚きました。そういうわけで録画できなかったのが残念です。


さて、『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』。新潮社さんから好評発売中。ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

かたつむり早く角出せと思へどもじつと静まり蘭の根にねむる
大正13年(1924) 光太郎42歳

梅雨時というと、カタツムリですね。

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似たようなナメクジは許せませんが、なぜかカタツムリは愛らしいイメージがあるというのが不思議なところです。

光太郎、カタツムリを木彫で作っています。ただし、それがメインではなく、蓮根に添えてアクセントにしたものです。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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このブログも5年目に入りまして、閲覧数が10万件突破しています。ありがとうございます。割り算をすると、一日平均70件弱の閲覧を頂いています。

が、時折、閲覧数が跳ね上がります。イベントのレポートなどを載せた際に、そのイベントの関係者の方などがよくご覧下さるようです。

岩手花巻に滞在中だった先日の日曜日も急に多数のご訪問。その時はなぜ?という感じでした。前日には花巻のレポートを載せていましたが、携帯からの短い投稿でしたので、閲覧数の跳ね上がるような内容ではありませんでした。

携帯からではどの記事にアクセスがあったのかなどの解析が出来ません(そろそろタブレットを買え、ということでしょうか)。帰って参りまして、解析のページを見ると、末盛千枝子さんに関わる記事に多数のアクセスがあることがわかりました。

そこで思い当たったのが、新聞の書評欄。各紙おおむね日曜日に掲載されますが、末盛さんの新刊『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』の書評が、どこかの新聞に載ったので(近々書評が出るだろうと思っていました)、さらに同書についてネットでサーチされた方が当方ブログにたどりつかれたのだろう、というわけです。

果たして、ありました。

まず『日本経済新聞』さん。光太郎智恵子の名も出して下さいました。 

あとがきのあと 「私」を受け容れて生きる 末盛千枝子氏 困難を克服しつつ歩む人生

 彫刻家、舟越保武の長女。やはり彫刻家となった舟越桂の姉にあたり、家族の死や事故、震災、皇后美智子さまとの交流など起伏に富んだ人生を歩んできた。絵本作りに尽力し、国際児童図書評議会(IBBY)の理事も務めた。そんな半生を本書で振り返った。
 幼いころは裕福とはいえず、我慢の多い生活で心の支えになったのが絵本。やがてこれを仕事とし、美智子皇后さまにIBBYの退会でビデオで講演していただく機会を得た。「皇后さまはとても優しく気品があり、りんとした方。長男が入院したとき、すぐにお見舞いの電話を下さったことは忘れられない」と話す。
 皇后さまの気遣いは、スポーツの事故で体が不自由になった長男のこと。その父である最初の夫も54歳で突然死した。「こうした出来事がなければ今の人生はなかった。それで幸せかといわれれば分からない。でも、私に与えられた運命を受け入れて生きてきた」
 本書には実際、悲しみよりも感謝や慈しみの言葉が多くつづられる。それは、幼い弟の死をきっかけとした「信仰」ゆえだという。カトリックの指導者だった再婚相手から「神様はあなたをひいきしている」と言われたことが忘れられない。「困難を、神様からの宿題として受け止めて一つ一つ克服する私を見て、ある種のうらやましさを感じたのだろうと思う」とほほえむ。
 名付け親は父が尊敬した高村光太郎。「智恵子抄」で知られる高村の妻の名の漢字を替えて「千枝子」だ。
 2010年には岩手県八幡平市に引っ越し、東日本大震災を経験。被災地に絵本を届ける事業に奔走し、13年に再婚相手を看取ったことを機に、心の整理の一環として本書を書きとめた。「つらいことはたくさんあったけれど、決して不幸ではなかった。人生は生きるに値すると伝えたい」

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同日、『朝日新聞』さんにも書評が載りました。ただし、こちらには光太郎智恵子の名はありません。 

(著者に会いたい) 「私」を受け容れて生きる 父と母の娘 末盛千枝子さん(75)苦しかったことも自分の一部

 40年近く絵本の編集に携わってきた。「心を打つ絵本には、どこかに悲しみのひとはけが塗られている。そして、きちんと希望がある」と言う。平坦(へいたん)ではない自身の道程を著した本書を読むと、人生にも重なる言葉に思えてくる。
 父は彫刻家の舟越保武氏。7人きょうだいの長女で、大学卒業後、出版社で働いた。独立後、皇后美智子さまの講演録や英訳詩集を手がけ、親交を深めてきた。「『でんでん虫のかなしみ』というお話があってね、と最初に伺った時はびっくりして」。だれもが悲しみを背負っていることを伝える新美南吉の物語で、子どもの頃に出会った本が、のちの美智子さまを支えてきたのだと心に染みた。
 自身も困難に直面してきた。42歳の時、8歳と6歳の息子を残して夫が急死した。15年前には長男が事故で脊髄(せきずい)を損傷し、胸から下が動かなくなった。経営難に陥った出版社をたたみ、東京から父の故郷・岩手に移り住んでまもなく東日本大震災に遭う。
 「幸せとは、自分の運命を受け容(い)れることから始まる」との思いが書名の由来。だが「そう思えない時もあったのでは?」と尋ねると、「時間はかかるけれど、あきらめずにいれば、いつしか困難を乗り越え、強くなっていることに気づく。苦しかったことも、今の自分の一部なんですよね」としみじみと語った。
 病院からの帰り道、盛岡で車いすの長男と映画や展覧会を楽しむ。「東京では出来なかったこと。何が幸いするかわからない。ここでたくさん友だちを得たことも不思議なご褒美」とほほ笑んだ。被災した子どもたちに絵本を届ける活動を、今も仲間と続けている。

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当方、末盛さんとは2回お目にかかりました。最初は代官山で開催されたクラブヒルサイドさん主催の読書会「少女は本を読んで大人になる」(この記録集『少女は本を読んで大人になる』も好評発売中です)、二度目は一昨年の花巻高村祭。こういうと失礼ですが、本当に素敵なお年の召し方をされている方です。当方も、それから作家の中江有理さんも、「朝ドラのヒロインのよう」と感じています。ぜひお読み下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ
大正12年(1923) 光太郎41歳

今日、平成28年(2016)5月20日は、明治19年(1886)、福島県安達郡油井村(現・二本松市油井)に生まれた智恵子の130回目の誕生日です。

この短歌は、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な詩「樹下の二人」に添えられたものです。

光太郎最晩年、昭和30年(1955)に、当会顧問の北川太一先生が採った聞き書きには、以下の一節があります。

「樹下の二人」の前にある歌は安達原公園で作ったんです。僕が遠くに居て智恵子が木の下に居た。人というのは万葉でも特別の人を指すんです。
 詩の方はお寺に行く道の山の上に見晴らしの良いところがあってね、その土堤の上に坐って二人で話した。もう明日僕が東京に帰るという時でね。それをあとから作ったんです。詩と歌は別々に出来てそれをあとで一緒にしたわけだ。

二本松では今日から高村智恵子生誕130年記念事業「智恵子生誕祭」が行われます。明日、ぶらりと行ってみようと思っています。

過日のこのブログでご紹介した、末盛千枝子000さん著『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』が一冊、版元の新潮社さんから送られてきました。

おそらく第60回連翹忌関連の資料を末盛さんにお送りしたので、そのご返礼として、末盛さんのご指示だろうと解釈、ありがたく頂戴いたしました。ただ、自分でも一冊購入していますので、いずれどなたかに差し上げようと思っています。

新潮社さんで作られた同書のチラシ、さらに同社のPR誌『波』(元々、『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』は同誌の連載でした)の今月号に載った、中江有里さんによる書評のコピーが同封されていました。

チラシの方は、書籍のチラシというのはこういう風に作ればいいのだな、と、参考になります。


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中江さんの書評は、以下の通り。

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朝ドラのヒロインのような人生 ――『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』  中江有里

 以前テレビの取材で、末盛さんの弟さんで彫刻家の舟越桂さんにお会いしたことがあります。世田谷のアトリエにお邪魔してインタビューさせて頂いたのですが、その時はご家族のお話は伺わなかったので、皇后様のご講演録『橋をかける』を手がけられた名編集者である末盛さんが、このように波乱に満ちた人生を送られているとは、全く知りませんでした。四十二歳のとき最初の旦那さんを突然亡くされたこと、ご長男の難病と障害、再婚相手の方の介護と看取り、経営していた出版社「すえもりブックス」の閉鎖、そして岩手に移住した直後の東日本大震災……。お写真を拝見すると、とても品がありお優しそうでいらっしゃって、苦労や不幸をまったく感じさせない佇まいに驚くのですが、自伝的エッセイである本書を読み、その理由が分かったような気がします。
  末盛さんは、一九四一年に彫刻家・舟越保武さんの長女として生まれ、高村光太郎によって「千枝子」と名付けられました。「女の名前は智恵子しか思い浮かばないけれど、智恵子のような悲しい人生になってはいけないので字だけは変えましょうね」と高村さんは言われたそうです。その時点でもう、ある種の「運命」を感じてしまうのですが、彫刻だけで家族八人が食べていくことには、大変な困難が伴いました。そんな貧しさのなか、ひたむきに芸術と向き合うお父様と、お父様のことを尊敬し支え続けたお母様の生き様は、「本当に美しいものは何か」といったことや、生きる上での「覚悟」を末盛さんに教えたのだと思います。お金はなかったかもしれませんが、六人の子供たちはとても自由にそれぞれの生き方を選び取っていて――桂さんが苦労を承知の上で、お父様と同じ彫刻家という職業を選んでいるくらいですから。
  また、「信仰」も末盛さんの人生を語る上で欠かせないものです。末盛さんが小学校四年生のとき、八カ月で亡くなった弟さんの死をきっかけに、ご家族全員でカトリックの洗礼を受けました。外国人神父さまとの交流など、日本に暮らしながら「日本的でないもの」に幼い頃から触れてきたことで、この世界には様々な価値観が存在することを、自然と教えられたのでしょう。その中でも、大学時代にある神父さまから、「愛はすすめではなく、掟です」と言われたというエピソードは、その後の末盛さんの人生を示唆するようでもあり、かなり印象的でした。つまりは、最初の旦那さんの突然死といった、愛するがゆえに苦しみが与えられてしまう出来事があったとしても、愛を憎むことなく受け容れるのだということで、厳しい教えでありながら、「私にとってすべての始まりだった」と末盛さんは書かれています。
  空腹だからご飯が美味しく食べられるのと同じで、困難があるからこそ、幸せを感じることができる――末盛さんの人生を拝読して、何より強く感じたことです。そんな末盛さんを支えたものの一つに、忘れられない「ある光景」があったということに、私は非常に共感を覚えました。二十代半ば頃、末盛さんが初めてヨーロッパを旅され、スイスのアルプスに登られたときのこと。五十ドルもする登山鉄道に意を決して乗り込んだものの、すぐに土砂降りになってしまった。しかし頂上に近づくにつれて辺りは明るくなり、光り輝くアルプスの峰々を眺めることができた……そんな「奇跡」のような出来事なのですが、私自身も、旅行や撮影で、思いがけない瞬間に思いがけないほど美しい景色に出会ったことがあるので、その時の、言葉にできないほどの感動――天候といった自分ではどうにもできないことだからこそ強く心を打たれるし、まるでご褒美をもらったかのような、何かに守られているような確信めいた気持ちになるということが、本当によく分かります。それに、自分自身の存在を肯定されているようにさえ思えるのです。「信じること、希望し続けることという意味で、この光景は、私の人生の北極星のようなものになった」とあり、末盛さんの生き方の神髄を感じました。
  他にも、皇后様との友情や絵本編集者としての仕事など、常に前を向き生きるその姿には、読んでいる人の心を揺さぶり、励ます力があります。まるでNHKの朝ドラの主人公のように、この世界を肯定し続ける女性の「物語」に、今の時代だからこそ、一人でも多くの人に出会ってもらいたいです。

 

驚いたのは、「朝ドラのヒロインのような人生」という題名。先月、このブログで同書をご紹介した際に、末盛さんの来し方を、当方も「NHKさんの朝ドラの主人公になってもおかしくないような感がしました」と書きました。同じことを考える人がいるんだと、苦笑しました。NHKさん、ぜひご検討下さい(笑)。

ブログをお読み下さった皆様、ぜひお買い求め下さい。

光太郎に関する部分も必読ですが、後半の、東日本大震災の被害(末盛さんは岩手県八幡平市ご在住)から立ち直るというくだりも感動的でした。ご自分も大変な思いをされているのに、被災した子供達を思いやり、「3.11絵本プロジェクトいわて」を立ち上げ、心のケアに奮闘されたお話など。

九州では大変なことになっています。九州の皆さんにも、落ちつかれたら是非お読みいただきたいと思います。生活再建のための一つの指針となるかと存じます。


【折々の歌と句・光太郎】

つま立つて乙女が行くや春の雨    明治42年(1909) 光太郎27歳

「つま立つて」、彫刻家ならではの観察眼のような気がします。

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