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バイデン氏優位と伝えられていますが、まだまだ予断を許さない米国大統領選挙。5日付の『東京新聞』さんが、一面コラムで光太郎詩にからめて論評なさっています

筆洗

米国大統領選挙を書こうと思うのだが、浮かぶのは高村光太郎の有名な詩である。<きつぱりと冬が来た/八つ手の白い花も消え/公孫樹(いちょう)の木も箒(ほうき)になつた>(「冬が来た」)▼長い選挙戦を振り返れば、かの国の「現在」の苦悩と悲しみをのぞかせた闘いだったといえるだろう。思い出すのは醜悪なテレビ討論会か。トランプ大統領が民主党のバイデン前副大統領の発言を何度もさえぎり、持論をまくしたてる、あの場面である▼思いやりはおろか敬意もない。あったのは意見を異にする者への憎しみと怒りだけである▼それ以上にうめいた光景は投票の前日である。商店がショーウインドーや店の入り口をバリケードでふさいでいる。選挙の結果によっては起きかねない暴動や略奪をおそれての準備らしい▼分断の時代と言われて久しいが、もはや、分断を超え、選挙戦の結果さえ受け入れられぬ敵意の時代に入ったのか。それはあまりに厳しい冬である。<きつぱりと冬が来た>。あのバリケードがひどい時代を迎えた人々の冬ごもりのように見えてしかたがない▼選挙戦は大接戦となった。小欄の締め切り時間までには、明確な勝敗は定まらなかった。<冬よ/僕に来い、僕に来い>。あの詩は冬を堂々と受け止める決意の詩だった。どちらが当選するにせよ、分断の冬をどう受け止めるか。悲しいことに春の予感はしない。
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光太郎と米国大統領といえば、リンカーン。光太郎はだいぶシンパシーを抱いていたようで、随筆等で繰り返し彼の名や事績をあげていますし、ずばり「エブラハム リンコン」という詩(大正12年=1923)も書いています。

初出は雑誌『RÔMA-JI』。当時流行っていたローマ字表記運動の雑誌で、したがって、ローマ字で発表されましたが、漢字仮名交じりの異稿も存在しますので、そちらを引用します。

  エブラハム リンコン

己(おれ)はとうとう大統領になつてしまつた。
今日は三月四日だが、
まだ少し寒い。
今かうやつて坐つてゐるのが、
小さい時から、お伽噺の御城でも見る様に、003
新聞の挿画でよく見た
あのホワイト ハウスだから驚く。
己は大統領になりたかつたのだらう。
候補者になつて、あんなに演説をして、
あんなに此の位置をのぞんでゐた
シワアドを追ひ越してまで、
とうとう此の椅子に坐つたのだからな。
だが、己は本当に大統領になる事を、
こんな立派な処に坐る事を、
こんなまぶしいGloriusな目にあふのを、
曾て心から望んだか。
NO! NEVER!
此に似たものを望んだが、
此は望まなかつた。
己が望んだものは、其では何だ。
己にも、今になると、よく分らない。
余り現実の形がはつきり迫つて来ると、
名のつけられない心の影が何処かへ、
一寸した処へ隠れてしまつて、
その癖、
この現実を本当と思ふにしては、
どうも、その影の方が本当すぎる。
見えない様で見えて、
捉まうとすれば捉めない。
別の事を熱望しながら、
うかうか上を見てゐたうちに、
いつのまにか、こんな着物を、
自分でも望んで着せられた事になる。
ああ、己は変にさびしい。

ケンタツキイの材木割り。004
帽子の中をオフイスにしてゐた
ニユウ サレムの郵便局長。
スプリングフヰルドの弁護士。
己は、其間に、何をした。
あたり前過ぎる事をしただけだ。
バイブルに書いてある事の中で、
己にわかるところ、
成程と思ふところを、
むしように欲しただけの事だ。
人間は誰でも同じ様に、太陽の
日を受けて生く可きものだといふだけだ。
あとは神様次第。
己が奴隷制度に反対するのが、
何で己の手柄であらう。
誰でも心に感じてゐる事を、
己は唯一切を棄てて熱望するだけなんだ。
いつでも、子供が菓子を欲しがるやうに、
ただ良心を欲しがるだけだ。

南の人達が起す内乱はもう避け難い。
己のまはりに居るのは日和見(ひよりみ)ばかり。
軍人はみな弱い。
ただ頼みになるのは、
己と同じ様な、
あの、野山や町に居る只の人間。
まだ力と火とを心の中に持つ、
あの、己があんなに沢山会つた事のある人達だ。
己を「アンクル エエブ」といつてくれる
あの無邪気な兄弟達だ。005

ああ、演説の時間が来た。
それではみんなにしやべらう。
己のしやべる事にうそは無いが、
いつでも、しやべつてゐる事とまつたく違つた、
もつと奥の事がしやべりたくて、
そのくせ、しやべるとあれだけになつてしまふ。
今日はどうか、みんなに己の心が伝へたい、
この寂しい「アンクル エエブ」の平凡な決心が。


光太郎がリンカーンに心酔、とまではいかないのでしょうが、シンパシーを感じていたのがよくわかりますね。

画像は米国サウスダコタ州の「マウント・ラシュモア・ナショナル・メモリアル」。明治39年(1906)に渡米した光太郎を助手として雇ってくれた彫刻家、ガットソン・ボーグラムの手になる巨大彫刻で、ワシントン、ジェファーソン、ルーズベルト、そしてリンカーンの4人の大統領の肖像です。

今年7月3日(金)の米国独立記念日に、トランプ大統領はここで演説をしました。その中で、コロナ禍拡大を抑えられなかったことには言及せず、昨今、南北戦争時代の南部連合(奴隷制度推進派)の人物の彫像が各地で撤去されている現状に対し、非難したそうです。刻まれている4人のうち、ワシントンとジェファーソンは、個人で多数の奴隷を所有していたことを踏まえての発言ですね。では、リンカーンに対してはどう申し開きをするのか、興味深い所です。
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ところでトランプ氏、仮に再選したら、もしかするとこの画像のように、自分の肖像を5人目としてこの岩壁に刻ませるのではないかとさえ思えてきます。まるで、それが問題視されて追究を受けるまで平気で進めようとしていた、何処かの国の「○○○○記念小学校」のようですね(笑)。

さて、米国大統領選挙、どうなりますことやら……。

【折々のことば・光太郎】

国民士気の源泉は健康な精神生活にある、しかも健康な精神生活は身辺日常の健康美の力に培はれてゐることを見逃す事が出来ない


散文「工場に“美”を吹込め 高村氏・美術家の新奉公を促す」より
昭和16年(1941) 光太郎59歳

昭和16年12月5日の『大阪毎日新聞』に載った、おそらく談話筆記。同月8日に予定されていた第二回中央協力会議での提案「工場施設への美術家の動員」の骨子です。結局この日は太平洋戦争開戦の日と重なったため、日程が大幅に変更され、光太郎の提案は為されずに終わりました。

アメリカの首都ワシントンDCにある国立美術館・ナショナル・ギャラリー・オブ・アートで開催中の企画展です。光太郎の父・高村光雲の代表作にして重要文化財「老猿」が海を渡って展示されています。

The Life of Animals in Japanese Art 「日本美術に見る動物の姿」展 

期  日  : 2019年6月2日(日)~8月18日(日)
       3rd and 9th Streets along Constitution Avenue NW, Washington, DC.
時  間 : 月~土 10:00~17:00  日 11:00~18:00
主  催 : 独立行政法人国際交流基金
          ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントンD.C.)
       ロサンゼルス・カウンティ美術館

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国際交流基金(ジャパンファウンデーション)は、米国のナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントンD.C.)及びロサンゼルス・カウンティ美術館との共催により、両美術館において「日本美術に見る動物の姿」展を開催します。
日本では古墳時代から、人々は動物や自然と共に歩み、共に生きてきました。1500年以上の長きにわたって動物は人間の友として、また時には人間を超える超自然の力として、様々な形で造形美術や文学の重要な主題となってきました。動物が芸術表現上、これほど主要な地位を獲得してきたことは日本文化の特徴の一つといえます。本展覧会では、人々の暮らしや精神風土、宗教観と深く関わってきた多彩な動物表現を、絵画、彫刻、漆芸、陶芸、金工、七宝、木版画、染織、写真など様々なメディアを通して探究します。
本展では日米あわせて約100の重要なコレクションから貴重な作品300点以上を展示します。このうち、7点の重要文化財を含む180点近くの作品は、これまでほとんど海外で紹介されることのなかった日本で所蔵されている作品です。この歴史的な機会は、日米両国における多くの関係者の協力によって実現することとなりました。本展のキュレーターはロサンゼルス・カウンティ美術館日本美術部長であるロバート・シンガー氏と千葉市美術館館長の河合正朝氏が務め、日本の専門家のチームが共同キュレーターとして参加しています。なお、シンガー氏は1973年度の国際交流基金日本研究フェローであり、自身のキャリアの初期に日本に長期滞在し、日本美術の研究を行いました。
ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーにとって本展は、「大名美術展」(1988年)、「江戸:日本の美術 1615-1868」(1998年)、「伊藤若冲-動植采絵」展(2012年)に続く4番目の大型日本美術展となります。2012年に開催された「伊藤若冲」展では一か月の会期中に231,658人もの観客が訪れるなど、日本美術への関心は高まりを見せています。「動物」という新たな切り口に挑む本展の開催により、米国において日本文化への理解が一層深まることが期待されます。


早速、NHKさんで紹介されていました。

ワシントンで「日本美術に見る動物の姿」展

アメリカの首都ワシントンにある国立美術館で、日本人が昔から動物と共生してきたことを表す日本の絵画や彫刻などの美術品を集めた展示会が始まりました。
「日本美術に見る動物の姿」展と題した展示会は、日本の国際交流基金などの主催でワシントンにある国立美術館で始まりました。
5日、行われた式典では日本とアメリカの専門家たちが展示品の説明に立ち「自然との共生が日本の文化の特色だ」と語り、美術品を通して動物を大事にする日本の文化を感じ取ってほしいと展示会の意義を強調しました。
会場には古墳時代の犬や鳥の埴輪から国の重要文化財となっている高村光雲作の木彫り「老猿」それに竜をあしらった江戸時代の武将のかぶとなど動物をテーマにした美術品300点余りが展示されています。
また、ファッションデザイナーの三宅一生さんや前衛芸術家、草間彌生さんの作品もあって、古代と現代の日本のアートが楽しめるようになっています。
今回の展示会を企画したロサンゼルス・カウンティ美術館のロバート・シンガー氏は「西洋美術では、動物をここまで取り上げない。日本の美術には動物への親しみがある」と話しています。

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「老猿」は、元々明治26年(1893)のシカゴ万博に出品するために制作されたもので、その後、アメリカで展示された事があるのかどうか存じませんが、いずれにしても久々の渡米でしょう。ちなみに平成28年(2016)には、台湾の國立故宮博物院での展示が為されています。

シカゴ万博翌年の明治27年(1894)には日清戦争が開戦するなど、アジアの覇王を目指していた当時の日本、ロシアとの関係もぎくしゃくしていました。日清戦争後にはいわゆる三国干渉で、下関条約によって得た遼東半島を返還せざるを得ず、後の日露戦争(明治37年=1904~同38年=1905)の遠因とも成りました。

シカゴ万博では、日本パビリオンと隣接してロシアのそれが設置され、「老猿」の眼光鋭い視線がたまたまその方向を向いていたため、日本がロシアに喧嘩を売っている図と解釈されました。「老猿」が右手に握っているのは、格闘の末、取り逃がした鷲の羽。これもロシア王室の紋章が鷲をモチーフにしていることから、深読みされた一因となりました。下は「老猿」制作に先立って光雲が描いたデッサンです。

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同展、9月~12月にはロサンゼルスのカウンティ美術館に巡回。展示替え等がなければ、「老猿」はしばらくアメリカに滞在ということになり、日本では見られません。

NHKさんで紹介されなかった他の出品作家は、伊藤若冲、河鍋暁斎、歌川国芳、曾我蕭白、岡本太郎、奈良美智、宮川香山など。作者不明の古いものも「鳥獣人物戯画」など、逸品ぞろいのようです。

渡米される方、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

ここに来てから満四年はたつので、春夏秋冬をいくつか繰返してゐる間に山の幸をいろいろおぼえて仕合せしてゐる。冬は雪が深いので何もないが、春夏秋には何かしら野生自生の食物が山にはある。

散文断片「山の幸いろいろ」より 昭和24年(1949)頃 光太郎67歳頃

光太郎歿後に見つかった原稿用紙1枚(以降欠)の文章から。おそらく『婦人之友』に不定期に連載された「山~」シリーズの下書き的なものかと思われます。

新刊情報です。
目次
◎米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯
 第一章 米国大統領への二つの手紙
 第二章 予科練の父
 第三章 軍人歌人
 第四章 硫黄島
 第五章 名誉の再会
 付録一 毛厠救命 豊子愷
 付録二 硫黄島から 市丸利之助の歌、折口春洋の歌 佐伯裕子
◎高村光太郎と西洋
 第一章「大和魂」という言葉―北京で『銀の匙』を読む―
 第二章 高村光太郎と西洋
 あとがき
新潮社版へのあとがき
出門堂版へのあとがき
「昭和」を大観した評論―二転三転の精神史 実像をあぶり出す― 中田浩二
鎮魂の紙碑に寄せて 土居健郎
解説 牧野陽子
著作集第7巻に寄せて―市丸家のご遺族―  平川祐弘


平川祐弘氏は、東大名誉教授で比較文学研究者。右派の論客として知られ、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」メンバーです。版元の勉誠出版さんから、「平川祐弘決定版著作集」全34巻が刊行中で、その第3回配本です。

表題は、太平洋戦争中、硫黄島で戦死した市丸利之助中将が残したルーズベルト宛の手紙から採られています。

もともとは平成8年(1996)に新潮社さんから刊行された『米国大統領への手紙』。絶版です。そちらは「第一部 米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯―」、「第二部 「大和魂」という言葉―北京で『銀の匙』を読む―」、第三部「高村光太郎と西洋」の三部構成ですが、今回のものでは第二部が何故か第二部に組み込まれているようです。

「あとがき」によれば、「言語や文化を異にする国家と国家の間の軋轢(あつれき)の中で生き、反応し、歌い、そしてその志を文字で述べた人間を扱った」とのこと。

さらに遡れば、第三部「高村光太郎と西洋」は、平成元年(1989)の雑誌『新潮』が初出です。章立ては以下の通り。光太郎に光雲もからめ、西洋受容史の一典型を論じています。

  誠実な人、insincereな人007
  ジャップの憤り
  ロダンの国にて
  彫刻家ガットソン・ボーグラム氏
  高村光太郎と父
  近代日本における父と子
  反動形成としての『智恵子抄』
  訳詩と劇作詩
  童話と実話
  戦前・戦中・戦後
  自己同化性の人
  人生を刻んだ人
  上野の西郷さんと十和田湖畔の裸女
  父としての役割
  楠公銅像


平川氏には『和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本』という著作もあり、こちらは主に森鷗外を論じつつ、光太郎にも触れられています。

元版は河出書房新社さんから、昭和51年(1976)に刊行。気付きませんでしたが、昨年、同社から「完本」の二字が加えられて再刊されていました。いずれ全著作集に組み入れられるのではないでしょうか。

完本 和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本

平川祐弘著 2016年6月28日 河出書房新社 定価3,800円+税

日本人は西洋という異質の文明と対峙したとき、その衝撃に対してどのように応答したか。明治という過渡期を縦横に考察し、「日本とは何か」を解き明かしてゆく画期的名著。著者代表作。

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併せてご紹介しておきます。


【折々のことば・光太郎】

大きなる自然こそは我が全身の所有なれ しづかに運る天行のごとく われも歩む可し
詩「冬の朝のめざめ」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

「運る」は「めぐる」。「自然」崇拝、讃美の光太郎、本領発揮という感があります。

京都から学会の情報です。 
期 日 : 2015年10月9日(金)受付11時30分より
場 所 : 京都外国語大学 国際交流会館会議室(9号館4階)京都市右京区西院笠目町6

 総合司会 村上裕美氏(関西外国語大学短期大学部)

研究発表第一部(12時00分~13時20分)
 司会 佐久間みかよ 氏(和洋女子大学)
 瀧口美佳氏(立正大学)「超絶主義者たちと北欧神話」
 貞廣真紀氏(明治学院大学)「ソローの味覚」

研究発表第二部(13時30分~14時50分)
 司会 高梨良夫 氏(長野県短期大学)
 松島欣哉氏(香川大学)
  「Orestes A. Brownsonのエマソン批評――“Literary Ethics”を中心に」
 藤田佳子氏(奈良女子大学)「<心>の探索――中・後期のエマソン」

日本ソロー学会創立50周年記念大会シンポジウム(15時~17時30分)
 司会 伊藤詔子氏(広島大学)
 テーマ:ソロー学会50周年記念シンポジアム――回顧と展望
 パネリスト:
 小野和人氏(九州大学):「学会50年(その概括ないし瞥見)」
 山本晶氏(慶応大学):
「ヘンリー・ソロー、宮澤賢治その他の〈孤独〉と〈食物〉――東洋思想、政治思想、食習慣との関連において考える」
 齊藤昇氏(立正大学):「ソロー・野澤一・高村光太郎」
 上岡克己氏(高知大学):「大学におけるソロー教育の意義」
 伊藤詔子氏(広島大学):「核時代の“Civil Disobedience”」

総会(17時35分~18時00分)

懇親会(18時00分~20時00分)
 司会 元山千歳氏(京都外国語大学)
 京都外国語大学ユニバーシティギャラリー 9号館6階(会費:6,000円)
  京都市右京区西院笠目町6


ソローはヘンリー・ディビッド・ソロー(1817~1862)。アメリカの詩人、作家です。マサチューセッツ州の湖畔に丸太小屋を構え、自然と親しむ自給自足の生活を送ったことで知られています。

そのソローの生き方に触発されて、山梨県の山中の四尾連(しびれ)湖畔の小屋に独居生活を送り、「日本のソロー」と称されたのが、明治37年(1904)年生まれの詩人・野澤一です。

野澤はさらに光太郎にも心酔、昭和14年(1939)頃から、亡くなる同20年(1945)までの間に、300通あまりの長文の書簡を送り続けました。光太郎からの返信は数回、しかし、そんなことはおかまいなしに、一方的に手紙を書き続けたといいます。光太郎は辟易しながらも、野澤の特異な才を評価しました。くわしくはこちら

のちに花巻郊外太田村の山小屋で独居生活を始めた光太郎、早くから辺境の地での自然に親しみながらの芸術制作という夢を持っていました。青年期には北海道移住を志し、実際に札幌郊外月寒まで行きましたし、その後も繰り返し、そうした希望を語っています。その陰には、活動する友人知己の存在もあったと思われます。北海道の更級源蔵、山形で真壁仁、千葉三里塚に水野葉舟、宮崎新しい村では武者小路実篤、そして花巻の宮澤賢治。そうした中に、野澤も加えていいのかも知れません。ただ、ソローに関しては、今のところ残された光太郎詩文にその名は見えません。

日本ソロー学会さんの全国大会、そうしたソローの精神の、日本での後継者としての野澤一、そして光太郎が語られるのだと思います。宮澤賢治に関する言及もあるようですね。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月2日

平成16年(2004)の今日、群馬県立土屋文明記念文学館で、第16回企画展「群馬の詩人-近現代詩の革新地から-」が開幕しました。

萩原朔太郎、大手拓次ら群馬出身、または出身でなくとも居住したことのある詩人50余名を取り上げるものでした。

その中には光太郎と交流のあった詩人も多く、特に清水房之丞、新島栄治に関しては、同館所蔵の光太郎から両名宛の書簡も展示されました。清水に関しては詩集『炎天下』に寄せた光太郎の序文の草稿も並びました。

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昨日のブログ、【今日は何の日・光太郎】で、明治39年(1906)、カナダ太平洋汽船の貨客船、アセニアンで海外留学に旅立ったこと、そして節分にちなむアセニアン船上で詠んだ短歌を紹介しました。
 
他にもアセニアン船上での短歌がいくつかありますので御紹介します。すべて『高村光太郎全集』第11巻所収です。
 
 いと安く生ひ立ち稚児(ちご)のこころもて今日あり国を出づと言ひける
 
 母見れば笑みてぞおはす旅ゆくを祝(ほ)ぐと衆(ひと)あり吉(よ)きにかあるべき
 
 おほきなる力とあつきなぐさめと我に来(く)たかき空を見る時
 
 地を去りて七日(なぬか)十二支六宮(ろくきう)のあひだにものの威を思ひ居り
 
 大海(おほうみ)の圓(まろ)きがなかに船ありて夜を見昼を見こころ怖れぬ
 
 西を見てひがしに及ぶ水の団(わ)とほかに真青(まさを)の大空と有り
 
 悪風は人あるゆゑに大法(たいはふ)をいしくも枉げずわが船に吹く
 
 大海(おほうみ)のふかきに墜ちしからす貝真珠となりぬ祝(ほ)ぎぬべきかな
 
 山国に生ひて山見ず波まくら二旬かつ経ぬ山見てけるよ
 
これらは翌明治40年(1907)の雑誌『明星』に掲載された他、大正4年(1915)の2月5日(明日ですね)に刊行された『傑作歌選別輯高村光太郎与謝野晶子』にも採られています。この書籍は詩集『道程』版元の抒情詩社から出たもので、刊行には光太郎の意志はあまり介在しておらず、版元が光太郎のために刊行してあげたという面が強いそうです。また、光太郎単独の歌集ではあまり売れそうにないので、晶子をセットにしたとのこと。何だか抱き合わせ販売のようですね。
 
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光太郎自身はアセニアン船上の歌以前の短歌には、与謝野鉄幹の添削が激しく入っており、純粋に自分の作ではない、という意識があったようです。
 
アセニアン船上の歌のうち、もっとも有名、かつ光太郎自身も自信作だった歌は、以下のものです。
 
海にして太古(たいこ)の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
 
明日はこの歌に関していろいろと。
 
【今日は何の日・光太郎】2月4日

昭和61年(1986)の今日、銀座鳩居堂画廊において、光太郎の書作品を集めた展覧会「高村光太郎「墨の世界」展-没後三十年を記念して-」が開幕しました。

今日は節分です。ということは明日から暦の上では春、ということになりますね。実際、当方の住む千葉県北東部ではだいぶ暖かくなり、昨日は18℃にもなりました。日なたではオオイヌノフグリやホトケノザが咲いています。今朝は犬の散歩中、近くの道ばたに水仙が咲いているのも見つけました。
 
【今日は何の日・光太郎】2月3日

明治39年(1906)の今日、横浜からカナダ太平洋汽船のバンクーバー行き貨客船アセニアンに乗り、出港。4年にわたる海外留学に出発しました。
 
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この海外留学で、世界最先端の芸術に触れ、光太郎芸術のバックボーンが形成されてゆきます。彫刻はもちろん、帰国後、かなり熱を入れた絵画もそうです。そういった造形芸術だけでなく、ヴェルレーヌやマラルメ、ボードレールといったあたりから、詩の上でも大きく影響を受けました。
 
留学前の詩はまだまだ習作のようなもので、文学活動の中心は与謝野鉄幹、晶子の新詩社での短歌でした。
 
光太郎がアセニアンの船上で作ったという節分にまつわる短歌も伝わっています。
 
 あしきもの追儺(やら)ふとするや我船を父母います地より吹く風
 
もともと節分会は「追儺(ついな)」という宮中の儀式が元になっているということで、この字をあてています。「やらふ」と訓読みにしているのは節分会の別称「鬼やらひ」から。「鬼は外」とばかりに日本から追われるようだ、というところでしょうか。
 
他にもアセニアン船上での短歌はいくつかあり、翌明治40年(1097)の『明星』に掲載されました。
 
明日はそのあたりから。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポートを続けます。少し長くなるかと思いますがよろしくお願いいたします。
 
昨日、明治39年(1909)の渡米について書きました。横浜からヴィクトリア経由でバンクーバーまでの船旅。乗ったのはカナダ太平洋汽船の「アセニアン」という船です。
 
高村光太郎研究会での発表に向け、改めて「アセニアン」について調べてみたところ、いろいろ面白いことがわかりました。
 
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まず、外洋を航海する船としては、非常に小さな船だったということ。
 
船のサイズは総排水量(船自体の重量)で表しますが、「アセニアン」は3,882トンというサイズです。これを他の艦船と比較してみればよくわかります。まず、明治42年(1909)、光太郎が留学から帰国する際に乗った日本郵船の「阿波丸」という船は、総排水量6,309トンと倍近く、同40年(1907)に大西洋横断に使った船は17,272トンと、およそ4倍です。
 
ちなみに世界の有名な艦船では、横浜港で保存されている「氷川丸」が11,622トン、かの「タイタニック」が46,328トン、大戦中の戦艦「大和」が64,000トン、先頃退役すると報道された米海軍の「エンタープライズ」が75,700トンです。
 
カナダ太平洋汽船では、6,000トン級の船も運航していましたが、そちらにはいわばエコノミークラスの「三等」がなく、「アセニアン」と姉妹船の「ターター」の2隻を「三等」と「特別三等」のみに設定していました。光太郎は「特別三等」を利用しています。「留学」とはいいつつ、経済的には余裕がなかったことがよくわかります。
 
それにしても、このトン数に関しては、光太郎の記憶がけっこういい加減だということが判りました。
 
・「アゼニヤン号はたつた六千噸の貧乏さうな船であつた。」(「遙にも遠い冬」 昭和2年=1927)
・「三千噸のボロ船にて渡米」(「山と海」 昭和5年=1930)
・「「アゼニアン号」という二千噸ぐらいの小さな船」(「青春の日」 昭和26年=1951)
・「「アゼニヤン」は四五千トンの小さな船」(「父との関係―アトリエにて―」 昭和29年=1954)
・「『アゼニヤン』といふ幾千トンかの小さい汽船」(「海の思出」 昭和17年=1942)
 
こういう点には注意したいものです。
 
また、「アセニアン」は、カナダ太平洋汽船の保有となる前に、イギリス海軍に徴用、明治33年(1900)の義和団事件に参加しています。
 
逆に智恵子に関わるほのぼのとした記述もあります。
 
西洋料理もろくに食べた事の無い私の船中生活は後で考へれば滑稽至極で、その時の日記を後年妻の智恵子と一緒によく読んで笑つた。(「父との関係―アトリエにて―」 昭和29年=1954)
 
たんねんにつけた日記があって、とても面白いものだったんだが焼いてしまった。毎日毎日びっくりすることばかり。まるで幕府の使者みたいなもので、あの頃は本当に一日がひと月位に相当した。
 食卓に出るものもはじめてのものばかり、ボーイに聞いては書いて置いた。あとで思うと何でもないものだったりして、智恵子とひっぱり出して、一緒に読んで、読みながら大笑いしたことがあった。(「高村光太郎聞き書」 昭和30年=1955)
 
明日は明治40年(1939)にアメリカからイギリスへの船旅についてレポートします。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」。
 
冒頭の幼少年期の思い出に続き、明治39年(1906)から同42年(1909)にかけての海外留学に関する話が続きます。まずは渡米。
 
これに関しては、既知の光太郎作品や年譜に書かれている以上のことはほとんどありませんでした。すなわち、
 
・明治39年2月に横浜を出航したこと。目的地はカナダのバンクーバー。
・カナダ太平洋汽船保有の「アセニアン」という小さな船に乗ったこと。
・荒天の連続でアリューシャン方面まで迂回し、長い船旅になったこと。
・波に揉まれ、船員まで船酔いになるほどだったこと。
 
などです。これらはくり返し色々な文章で述べられていることです。ただ、2点だけ、既知の作品や年譜に見当たらなかったことがありました。
 
一点目は「陸地近くなつた頃、流木が船に衝突して食堂のボオトホオルの厚ガラスを破り、海水が一度に踊り込んで来て大騒ぎした事がある」というエピソードです。
 
もう一点は、船がバンクーバー直行ではなく、ヴィクトリア経由であったことです。「程なくヴクトリヤを経て目的地へ無事についた。」という記述がありました。
 
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この点について調べてみたところ、明治34年(1901)9月13日の「官報」に以下のように書いてありました。「当港」はバンクーバーを指します。
 
新旧船共孰モ当加拿陀ヴ井クトリヤヘ寄港セル加拿陀太平洋鉄道会社ニテモ今船香港ヴァンクーヴァル線ニ向ヒテ従前ノ三「エムプレス」ノ外汽船「ターター」(総噸数四千四百二十五)及「アセニアン」(総噸数三千八百八十二)ノ二艘ヲ増航セシムルコトニ決定シ「ターター」は八月十四日香港ヲ、九月二十日当港ヲ発シ、「アセニアン」ハ同四日香港ヲ、十月十三日当港ヲ解纜スル予定ナリ
 
実際、カナダ太平洋汽船の航路はヴィクトリア経由でした。ただ、寄港したヴィクトリアで光太郎が下船したかどうかは不明です。したがって、これから論文、評伝等を書かれる方は、「光太郎はバンクーバーで初めて北米の土を踏んだ」といった断定的な書き方をすると誤りかも知れませんので気をつけて下さい。
 
それから、「アセニアン」、当方は勝手に横浜~バンクーバー間を航行する船だと思いこんでいましたが、実は香港~バンクーバーの航路で、横浜は寄港地の一つです。そこで、これもこれから論文、評伝等を書かれる方は気をつけてほしいものです。「横浜を出港したアセニアン」なら問題ありませんが、「横浜から出航したアセニアン」と書くと誤りです。細かい話ですが。
 
ちなみに「アセニアン」。スペルは「ATHENIAN」。光太郎の書いたものでは「アゼニヤン」となっていますが、現在では「アセニアン」と表記するのが一般的なようです。「イタリア」を昔は「イタリヤ」と書くこともあったのと同じ伝でしょう。
 
その他、特に新しい事実、というわけではありませんが、「アセニアン」についていろいろ調べてみて、「ほう」と思うことがいろいろわかりました。明日はその辺を。

「一枚物」ということで、昨日は「第二回中央協力会議要旨」を紹介しました。
 
今日の一枚物は、まずこれです。

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昭和16年(1941)10月31日、牛込の城西仏教会館で開催された「文芸講演と詩朗読の会」のプログラムです。

やはりB4判の二つ折り一枚、両面印刷です。新潟を拠点に活動し、光太郎も寄稿した雑誌『詩と詩人』を刊行していた若い詩人のグループ「詩と詩人社」主催です。講演の部のトップバッターが光太郎です。残念ながらこの時の講演の内容は今のところ見つかっていませんが、どこかからひょっこり出てくることを期待しています。
 
ついでにもう一つ。

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紙ではなく木の板に印刷された物で、裏に金具がついており、壁掛けのようになっています(最初からそういう形だったのかどうかは不明ですが)。大きさは縦約18.5㌢、横約14㌢。これが何なのかというと、明治39年(1906)、留学のため渡米した光太郎がバンクーバーからモントリオールまで乗ったカナディアン・パシフィック・ラインの大陸横断鉄道のものです。正確な年代がわかりませんが、おそらく光太郎もこんな感じの列車に乗ったのだと思われます。
 
とりあえず今日はこの辺で。

さて、先述の米国人学生とのバトル、「青春の日」「わが生涯」。ともに戦後の回想ですが、戦時中に書かれたものになると、少しニュアンスが異なります。
 
私は二十五、六歳のころ、ニューヨークのある美術研究所の教室で一人の米国人と喧嘩したことがある。彼は実に猛烈な力を揮つて一気に私を慴伏せしめようとした。級友をまはりに見物させて堂々とかかつて来たが、私に腕を握られることを嫌つて、いはゆるメリケンを濫発し、又は逆に私の上半身を抱きすくめようとした。その勢は実に圧倒的であつたが、恐らく彼はボクシングも、レスリングも妙手ではなかつたと見えて、幾度か私のやうなものにも投げつけられた。最後の力を出しきるまで彼は頑強に立上つて向かつて来たが、最後には彼は急に弱くなつた。私がうろおぼえの怪しげな逆手を取つた時、つひに「お前の勝だ」といつた。そして握手した。それ以後彼は現金なほど教室で威張らなくなり私の彫刻にいたづらもしなくなつた。
 
ここまでは、先の二篇とほぼ同じです。しかし、この後、話が意外な方向に進みます。
 
米国人は最大の力をまづ正面に出すのが好きである。いくらやられても出す。最後の力を出しきるまでははでに出す。その代り弱る時は急に弱くなる。米国人に対してはどんなことがあつても、その最後の力を出しきらせるまでやらなければならない。とても駄目だと思ふに至るまでこちらが頑ばると最後に急にへこたれる。
 
やはり戦時中ということで、対米戦争の方に話が進むのです。この文章の題名は「全国民の気合-神性と全能力を発揮せよ-」(昭和19年7月 『高村光太郎全集』第二十巻)。題名だけでも痛々しいと思います。
 
もはや日本軍はマリアナ沖海戦にも負け、サイパン島を失い、敗色は誰の目にも明らかな時期、さらにはこのころから大本営発表に「特攻」の文字が目立つようになります。

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光太郎も題名に「神性」の語を使っていますが、日本全体「今に神風が吹く」という神頼みの状態でした。そして翌昭和20年(1945)には「米国人に対してはどんなことがあつても、その最後の力を出しきらせるまでや」った結果の、広島、長崎への原爆投下。そして敗戦……。
 
来週には広島、長崎の原爆の日、再来週には終戦記念日です。いずれ光太郎と戦争とのからみを載せたいと思っています。

閲覧数が2,500を超えました。有り難うございます。
 
さて、光太郎自身が異種格闘技戦を行ったという事件。時は明治39年か40年、所はニューヨークの美術学校であるアメリカン・アート・スチューデント・リーグ。対戦相手は同じ学校に通う米国人の若者です。ここからは、光太郎自身の言葉を引用しましょう。
 
クラスの仲間で級長のような仕事をしている男が、僕の作りかけの彫刻に悪戯をして、粘土の腕を逆につけておいたりしてからかうので、ある日、その男の腕を逆に締め上げて降参させたことなどある。そしたら、当時は日露戦争の後で日本の柔道が評判になつていた頃だから、タツク(高村の愛称)は柔道をやるというので、クラスの連中が面白がつて、レスリングをやつたことのある学生と、教室を片づけて試合をやらせようとした。僕は柔道など大してやつたわけではないけれど、仕方がないのでその男と試合をして、どうにか勝つた。僕はアメリカに渡る前に、サンドー体操で鍛えて筋肉も発達していたから、負けるものかという気だつたのである。それから、皆余り僕に悪戯をしないようになつたのは有難かつた。
(「青春の日」昭和26年 『高村光太郎全集』第十巻)
 
高村 (前略)それから夜学へ通つてたけれども、向うの生徒の茶目つてないんですね。みんなモデル写生をやつて、帰りに布で包んでね、明日の晩また来るまで、そうやつとくんですよ。それが開けてみるとね、首がうしろ向きになつてたりする。誰かがいたずらして、知らん顔してるんですよ。みんなの顔見ると、黙つているんだけど、マネージャーがいるんです、そいつがどうも怪しいから、とうとう白状させちやつてね。そうしたら、みんなが仕事台を方附ちやつて、まん中へ広場をこさえちやつて、そこで二人でやれつて言うんですよ。

高見 日米対抗競技ですね(笑声)

高村 向こうはボクシングでやる。こつちは柔道。柔道なんか全然知らないんですよ。そうすると、ぼく
の手がちよつとさわると、ビリビリッてふるえて、手をひつこめるんですよ。

高見 強いと思つて、向うじや恐れたんでしよう。

高村 グッとひつぱると、向うは退くでしよう。ドーンと突くとね、思いきり、ぶつ倒れちやう。そうして二つ
三つ逆手か何かで押えちやうとね、とても大袈裟に参るんです。とうとうしまいにはいたずらしなくなつた、うん。
(対談「わが生涯」昭和三十年 『高村光太郎全集』第十一巻)
 
微妙にディテールの違いがありますが、大筋は同じですね。光太郎、見事に米国学生から、怪しげなサブミッション(関節技)でギブアップを取っています。
 
その秘訣は光太郎自身も語って001いる「サンドー体操」。「サンドー」というのはドイツ人ボディビルダーのユージン・サンドウ。明治30年代に鉄アレイを使っての筋肉トレーニングを考案、これがボディビルの祖となったそうです。「シャーロック・ホームズ」のシリーズで人気を博したコナン・ドイルもこれにはまったとのこと。日本にも伝わっていたのですね。
 
ちなみに、光太郎は身長180㌢以上、当時の日本人としては規格外の体格でした。手足も異常に大きく、手の大きさに関しては色々な人が印象に残っていると語っていますし、足も光太郎自身曰く「13文半」=約32㌢。この体格があって、さらに筋肉も鍛えていたからこその勝利ですね。
 
さて、先述の米国人学生とのバトル、「青春の日」「わが生涯」ともに戦後の回想ですが、戦時中に書かれたものになると、少しニュアンスが異なります。明日はその辺を。

ロンドンでは熱い闘いが繰り広げられています。いろいろな競技がありますが、当方、一応黒帯を持っている関係で、特に柔道を興味深く見ています。以前から言われていることですが、国内の試合とは全く異なるといっても過言ではなく、正直、戸惑う部分もあります。松本薫選手以外金を取れないというのも、ある意味仕方がないのかなと思います。それにしても、連日遅くまで見ているので昼間眠くて仕方ありません。
 
さて、柔道。光太郎とも無関係ではありません。
 
光太郎と親交のあった歌人、大悟法利雄氏の回想『文壇詩壇歌壇の巨星たち』という書籍があります。平成10年(1998)6月、短歌新聞社さんの発行です。元は平成2年(1990)~4年(1992)、『短歌現代』という雑誌に連載されたものですが、この中に「高村光太郎」の項があります(今年4月に当方が作成した冊子『光太郎資料37』に掲載させていただきました)。

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この中に以下の記述があります。
 
光太郎が青森県から委嘱されて十和田湖畔にブロンズの女人像をつくることになり、その制作の必要上東京に出て来たのは昭和二十七年の秋だった。私はその中野区桃園町四八の故中西利雄画伯のアトリエに初めて訪ねていったとき、しばらく逢わないうちに光太郎がひどく老衰していることにすっかり驚いた。その時私は講道館から出ている雑誌「柔道」の編集に関係していて、全日本柔道選手権大会の観戦に誘い出してその座談会に出てもらうつもりで、ちょっとそのことを話してみると、かなり心を動かしたらしいが、光太郎は制作の都合と健康状態とから躊躇しているらしかった。それでも、ぜひにと勧めれば出てくれそうに見えたけれど、なにかしら痛々しい気がして、ぜひにとまでは言い出しかね、光太郎が若き日の外遊中にアメリカで柔道の前田光世と外人拳闘選手の決死的な試合を見た話などを聞いて帰って来た。
 
この時の座談が実現されていれば、とても面白いものになっただろうと、残念に思います。ちなみにこの当時、東京オリンピックの前ですから、まだ日本武道館は造られていませんので、柔道全日本選手権は旧両国国技館で開催されていました。
 
「前田光世」は講道館黎明期の柔道家。光太郎より一足早く柔道使節団の一員として渡米しています(前田、明治37年(1904) 光太郎、明治39年(1906))。親日家でもあったルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウスで柔道の試合を披露したりもしています。それ以外にも、滞在費稼ぎや柔道普及のために、ボクサーやプロレスラーなどとの異種格闘技戦を行いました。光太郎が見たというのはこうした試合の中の一つでしょう。
 
ちなみにその後、前田はブラジルにも渡り、柔道の種をまきました。今回のロンドン五輪にもブラジル選手がけっこう出場していますが、こういった背景があるのです。また、前田の教えを受けた現地人が作り出したのが有名なグレーシー柔術です。
 
光太郎自身の語った内容としては、『高村光太郎全集』第11巻に掲載されている高見順との対談「わが生涯」に以下の部分があります。これは昭和30年(1955)に行われた対談です。
 
高見 日露戦争の直後ですな。
高村 あくる年くらい。あの時に日本人の柔道家で、何んていつたかな、四段の人が興行して歩いた
んです。アメリカをね。あの時は日本人に好意を持つてた時で、その前は排日があつたんです、サンフランシスコだのでね。あの時はルーズベルトの言う事を聞いたというので、日本人に好意を持つてた。ぼくが歩いているとね、なんとかつていう日本人の柔道家とまちがえるんです。なんとかつて名前を呼んだり、ハロー、ジヤツプなんて言うんですよ。
 
ここでは光太郎、柔道家の名前を006ど忘れしているようですが、「四段の人」という点から、おそらく前田光世のことだと思われます。講道館四天王の一人、富田常次郎や佐竹信四郎という可能性もありますが。
 
「ルーズベルトの言う事を聞いた」というのは、彼の斡旋でポーツマス条約が締結された事を指しています。
 
さて、前田の活躍でアメリカでも「日本の柔道は凄い」という認識が広まります。すると、現代でもそう思われている部分があるようですが「日本人はみんな柔道ができる」との勘違いが生じていたようで、光太郎自身が異種格闘技戦を行う、という事件が起こります(史実です!)。その辺りは明日のこのブログで。

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