カテゴリ: 光太郎遺珠

001当会発行の冊子『光太郎資料』55集、完成し、各所には概ね発送し終えました。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)に、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、平成5年(1993)、36集までを不定期に発行されていたものです。平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、当会として会報的に年2回発行しております。

北川先生の時代、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、そのあたりは受け継がせていただいております。表紙の「光太郎資料」の文字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。


その手作り感も踏襲し、現在はパソコンで原稿を作成、印刷(両面コピー)のみ地元の印刷屋さんに頼み、経費節減のため丁合(ページごとに紙をまとめること)、ホチキス留め製本は一冊ずつ当方が行っています。それでも一号分の印刷費、送料、ラベルや封筒などの消耗品で10万円ほどかかっています。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第十九回 音楽・映画・舞台芸術
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、音楽・映画・舞台芸術に関する散文、雑纂、書簡等のうち、明治大正期のものを集成しました。
 アンケート 初めて蓄音機を聞いた時(大正11年=1922)
 アンケート 我が好む演劇と音楽(明治44年=1911)
 散文 辞書を喰ふ女優(大正8年=1919)
 散文 外国映画と思想の輸入(大正9年=1920)
 書簡 田村松魚宛2通(大正8年=1919、大正9年=1920)
 書簡 吉村幸夫宛(大正11年=1922)

光太郎、サブカルチャー的な方面にもいろいろ興味があったようで、蝋管式蓄音機の話や、好きな芸能人の話など。長唄の六代目芳村伊十郎、ロシア人女優アラ・ナジモワ(光太郎はニューヨーク留学中に舞台を見ています)、フランスの女優メアリー・ガーデンとジョーゼット・ルブラン、子役時代の初代水谷八重子、音楽はフランス音楽、戯曲でメーテルリンク等々。

000・光太郎回想・訪問記  「千鳥と遊ぶ智恵子さん」  北条秀司
これまであまり知られていない(と思われる)、光太郎回想文を載せているコーナーです。「「光太郎遺珠」から」を「音楽・映画・舞台芸術」としたので、劇作家の北條秀司の文章から。戦時中、駒込林町のアトリエを訪れた際の回想、光太郎最晩年に「智恵子抄」舞台化を企画し、そのために智恵子役の初代水谷八重子が、中野の貸しアトリエに光太郎を訪れた件、結局光太郎が歿した翌年に上演された舞台「智恵子抄」の話などです。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 彰義隊
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』昭和4年(1929)1月『江戸文化』第三巻第一号。光雲を含む各界の著名人等による座談会筆録です。慶応4年(1868)、江戸城無血開城後の上野戦争で、薩長相手に奮戦した彰義隊に関する元隊士の回想等が語られます。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第十九回  磯部温泉(群馬県)
現在も使われている温泉記号「♨」発祥の地とも言われる、群馬県の磯部温泉を紹介しました。確認できている限り、明治42年(1909)と大正15年(1926)の2回、光太郎がここを訪れています。
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・音楽・レコードに見る光太郎 「初夢まりつきうた」(その三)
昭和25年(1950)、当時あった地方紙『花巻新報』や、花巻商工会議所などから依頼されたと思われる、花巻商店街の歌的な「初夢まりつきうた」についての三回目。昨年、盛岡の岩手県立図書館さんで調査した結果、新発見がいろいろあり、それをまとめました。
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・高村光太郎初出索引(年代順 三)
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では明治44年(1911)から同45年(1912、大正改元前の7月)までに初出があったものを掲載しました。
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ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーもご希望があれば)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお振り込み下さい。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい(このブログのコメント欄(非表示可)、当方フェイスブック等からでも)。
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【折々のことば・光太郎】

晴、朝もや美し。 坂上まで散歩。うぐひすしきりなり。アマドコロ、チゴユリなどとつて写生。

昭和22年(1947)5月28日の日記より 光太郎65歳

「坂上」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋裏手、光太郎歿後「智恵子展望台」と呼ばれるようになったところでしょう。「アマドコロ」は、遠く明治末、智恵子が『青鞜』の表紙にあしらった花です。この絵、以前はスズランと言われていましたが、どうみてもアマドコロですね。

光太郎、智恵子がアマドコロを描いていたのを知っていたのか、知らなかったのか、何ともいえないところですが……。左が智恵子のアマドコロ、右が光太郎のアマドコロです。
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昨日の続きで、新たに見つけた光太郎ブロンズ彫刻の代表作「手」に言及のある随筆「手」(昭和2年=1927)をご紹介します。

今日は第2段落の途中からで、いわば後半部分です。いよいよ彫刻「手」について言及されます。

手全体の形が其人に似てゐるのは誰でも気がつく事であらう。私が自分の手をモデルにして作つた手の彫刻(今秋田雨雀君所蔵のもの)を見て、水野葉舟君は私の歩く姿に似てゐると言はれた。甚だ微妙な観察であるが、此の類似点は私も確に認めるのである。

昨日ご紹介した分では、葉舟の母の実枝が光太郎の手の形状を褒めたエピソードが紹介されていましたが、息子の葉舟は彫刻「手」のフォルムが光太郎の歩く姿だ、と、ある意味、詩的な指摘(笑)。光太郎自身も、それを認めるにやぶさかでないとしています。この点もこれまでに見つかっていた作品にそういった内容はありませんでした。

秋田雨雀君所蔵のもの」は、元々有島武郎が所蔵していましたが、その自裁に伴い、秋田の手に移りました。現在、竹橋の国立近代美術館さんに収められている「手」がそれです。

この後、一旦、彫刻「手」から離れて、様々な人物の手について。

ユウゴオの手、ロダンの手、シヤヷンヌの手、皆その人の通り、その作品の通りといへる。フランソワ・コツペエの神経質な手などは可笑しい程に彼である。知人の手で深く印象に残つてゐるのは、歌人窪田空穂氏の手で、氏の手の表情は不思議な力があり、又堅靱で、しなやかで、味の深い氏の歌の姿そのままに生きてゐるかと思ふ。今から二十四五年前に見た時の氏の手さへ今だにはつきりおぼえてゐる。此は私事に亘るが一昨年死んだ母の手をあまりまざまざとおぼえてゐるので、その骨と靱帯ばかりのやうな手の事を思出すと懐かしさに胸がふさがる。あの手にもう触れないのかと思ふと堪らなく切ない気がする。今でも寝てゐる時母の手を触覚だけで感じる事がある。歌人の山田邦子さんの指先のつぼまり方の美しさもよくおぼえてゐる。信州上高地の強力嘉門次の四角な手の立派さにも打たれた。

003ユーゴー、ロダン、シャヴァンヌ、コッペ(詩人)らの手については、写真か何かで見た感想でしょうか。

山田邦子」は歌人。明治末の結婚後今井姓となり、大正5年(1916)には光太郎彫刻のモデルを務めていますが、なぜかここでは旧姓の山田で表記されています。

嘉門次」は上條嘉門次。日本近代登山の父・ウォルター・ウェストンの案内人として働いた人物です。したがって、「強力」は「きょうりょく」ではなく「ごうりき」、シェルパ的な意味合いですね。大正2年(1913)、ここにも名の出ている窪田空穂らと共に、さらに智恵子も後から合流し、光太郎は一夏を上高地で過ごしました。その際にウェストンも滞在中で、いろいろ話をしたりしたことが、随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)などに語られています。ただ、上條の名はこれまで『高村光太郎全集』に見あたりませんでした。やはり会っていたのか、という感じです。

ピヤノを弾く人の指は特別に不思議な発達をする。指の形は時として害はれるが手の甲がすばらしく美しくなる。ホヰスラアは『音楽は分からないがサラサテの指の動くのを見てゐると面白い』と言つた相だが、私も倫敦でキユベリツクのヴアイオリンを聴いた時、その独立した生物のやうな指の動きにびつくりした。指を飼つてゐる人のやうな気がした。三味線でもあの棹を往来して甲どころを押へる指を見てゐるとたまらなく深い味に誘はれる。役者では好きな故か團十郎のが眼に残つてゐる。酒井の太鼓であの柱へかけた手の形が眼前に彷彿する。五代目菊五郎の弁天小僧が例の店の場で烟草入に指をつつ込んだ左の手の美しさも忘れない。

キユベリツク」は、チェコ出身の作曲家、ヴァイオリニストのヤン・クベリーク。光太郎が在英中にその演奏を聴いたという事実も、これまでに確認できていませんでした。

十郎」は九代目市川團十郎、「五代目菊五郎」は五代目尾上菊五郎。「酒井の太鼓」、「弁天小僧」は歌舞伎の演目に関わります。光太郎、彼らの肖像彫刻も手がけましたが、現存が確認出来ていません。下の画像、左が菊五郎像(明治36年=1903)、右は「ピアノを弾く手」(大正7年=1918)です。
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この後で、再びブロンズ彫刻「手」の関連。

日本の仏像の手に美しいものの多いのは言ふまでもない。此頃写真で誰でも見る広隆寺の木彫弥勒菩薩の手は世界の彫刻の中でも稀有なものの一つである。仏の手の印相は皆神秘的で美しいが、施無畏の印相の如きは一番簡単でしかも端厳さと優美さとに満ちてゐる。真言の九字の印は皆気味の悪い程実感の強いもので、初めの臨の三昧耶の印など、何といふ犯し難い備へであらう。
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上の画像は光太郎令甥の写真家、故・髙村規氏撮影になるものですが、これが「施無畏」の相です。通常は観音像などが右手でこの形をとりますが、光太郎は自らの左手をモデルにしたので逆になっています。「一番簡単でしかも端厳さと優美さとに満ちてゐる」、なるほど。

真言の九字の印」は、真言密教に置ける邪気を払う呪文的な印相。「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」です。
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光太郎の祖父・中島兼松は香具師で、各種寺社仏閣の縁日などにも関わっていたため、こうした呪文などにも通じていたようで、光太郎詩「その年私の十六が来た」(昭和2年=1927)には「おぢいさんは闇の中に起き直つて/急急如律令と九字を切つた」という一節があります。

ここまでで、昨日から続く弟2段落です。

そして最後の第3段落。

 手にウマ手といふ手がある相である。此は先輩白瀧幾之助氏の話であるが、氏の近親が大阪のさかり場で或る料理屋をして居られたといふ事で、料理番を雇ふ時、まづその手を見るのだ相である。すらりとして器用な敏捷な指を持つ料理番よりも、むしろ、づんぐりした太い鈍い指を持つ方を選ぶといふ話で、かういふ手をウマ手と称して其方の人は珍重するといふ事である。十数年前聞いた話であるけれども暗示的なので時々思ひ出す。

この「ウマ手」に関しては、昭和15年(1940)に書かれた評論「高田君の彫刻」にも、やはり白瀧から聞いた話として同じことが書かれていました。

この名人と上手との比較話は昔から何にでもあるが、どうも動かせない真理が中にあるやうだ。昔の木彫の職人の間にも、光り手と錆び手といふ話があつたといふ事を、学生の頃父から聞いた事がある。光り手といふのは其職人の手にかかると何から何まで自然と綺麗になり、道具箱から鑿小刀に至るまでいつのまにかぴかぴか光るやうになつてしまふ人の事を指し、錆び手といふのは、あべこべに自然に何でも薄汚なくなり、鑿其他の刃物の表(おもて)(背面)が黒く錆びついて来る人の事をいふのだ相である。さうして昔からの言ひ伝へでは、光り手の人は上手になり、錆び手の人は名人になるといふ左甚五郎式通りの話である。自分の鑿が光りもせず錆びも為ない処を見ると、僕は上手にも名人にもなれないのかなと思つた事がある。

この件も、昭和13年(1938)に書かれた随筆「手」に同様の記述がありました。

最後は左利きに関して。光雲や高田博厚が左利きだったというのは、当方、存じませんでした。

左利きは器用だと昔から言ふ。親玉はレオナルド・ダ・ヸンチで、彼の手書は多く左手で逆に書いてあるので其れを読むには鏡に映して読む。デツサンの陰影の線が多く左上から右下に向つて走つてゐる。私の父も左利きだが、右手も馴らすので結局左右両手が利く訳である。宮本武蔵は左利きだつたといふ、確證が無いかしらと思ふ。私の友人では彫刻家の高田博厚君が左利きで、時としてレオナルド流に字を逆に書く。高田君の製作は、左利きに甚だ秀でた才能があるといふ事の立派な例證になる。

これで400字詰め原稿用紙7枚程の全文です。
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光太郎が「手」について、実に様々なことを考えつつ制作に当たっていたというのが、如実にわかりますね。ある意味、「手フェチ」に近いのではないかとさえ思われます(笑)。

結局、水野葉舟が指摘した通り、彫刻「手」は光太郎自身の姿の反映といった面があり、様々な手に対する思いや、自身が歩んできた歴史の結晶が彫刻「手」なのではないかと思われます。

今年4月の記事にも書きましたが、今後、彫刻「手」について論考等を書かれる方は、「手紙」、「手」の二篇を参考にしていただきたく存じます。というか、これらを参考にしなければ彫刻「手」を語ることはできませんね。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

また私は彫刻家である。だから第一部門で選ばれるならわかるが、第二部門では不本意だ

談話筆記「(芸術院会員とは)」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

12月22日『毎日新聞』東京版から。「芸術院会員を拒否 “人選に不明朗” 高村光太郎氏が批判」という記事に附された談話の最後の部分です。

記事本文は以下の通り。

彫刻家であり詩人である高村光太郎氏(七〇)は去月十三日の芸術院会員補充選挙で永井荷風氏らとともに、第二部(文芸部門)の会員に選ばれたが、現在の芸術院のあり方に対する不満から受諾を拒否している。日本芸術院では所定の手続きを経て年内にも正式に文部大臣から任命しようとしていた矢先だったので、高橋誠一郎院長ら首脳部で善後処置について協議しているが、二十一日文部省宇野芸術課長が高村氏を訪問、受諾拒否の理由を書面で芸術院あてに提出してくれるよう申入れた。
高村氏は昭和二十二年十月にも帝国芸術院(日本芸術院の前身)から会員に推挙されたが、当時は岩手県の山中にこもり再び世にでることを好まず辞退したことがあり、こんどで二度目である。この高村氏拒否の理由は芸術院がとかく“養老院”などとウワサのある折から、そのあり方に対する痛烈な批判の言として注目される。高村氏の意見は次の通り。

この後に光太郎談話が入り、さらに高橋誠一郎院長の談話なども続きますが、割愛します。同じ昭和28年(1953)12月26日執筆の「日本芸術院のことについて――アトリエにて1――」(『新潮』第五十一巻第二号)中に、次の一節があります。

世上、新聞などで、辞退の理由として、現今の芸術院会員の人選について不満があるからといふやうに伝へられたが、これは間違で、現在の人事はまづあんなものだらうと思つてゐる。補充会員の選出方法については又別に意見があるが、それには今触れない。又新聞で、私が彫刻家であるのに文学部門から推せんされたのがをかしいといふので辞退したやうにも言はれたが、これは談笑の間に私が早解りするやうに、「それでは親爺におこられるよ」などといつたからであらう。

おそらく、ここで言う「新聞」がこの記事を指していると思われます。

否定してはいますが、「私は何を措いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。」(「自分と詩との関係」昭和15年=1940)とまで自負していた光太郎。「第一部門で選ばれるならわかるが、第二部門では不本意だ」というのは本音だったのではないでしょうか。

先々週、先週と、駒場の日本近代文学館さん、横浜の神奈川近代文学館さんに調査に行きました。
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当方のライフワークは、光太郎の書き残した作品-特に筑摩書房『高村光太郎全集』に漏れているもの-を集成することです。現在、高村光太郎研究会さんから年刊で発行されている雑誌『高村光太郎研究』内に「光太郎遺珠」の題で枠をいただいております。で、そろそろ次号(2021年4月発行予定)に向け、原稿をまとめる時期なので、紹介すべき作品の発掘、さらにその裏取りです。

まず日本近代文学館さん。こちらに所蔵されている「特別資料(肉筆物など)」の中に、『高村光太郎全集』に漏れているものがあるのは以前から存じていました。ただ、「光太郎遺珠」も毎号のページ数に限りがあり、一年間でけっこう紹介すべき作品がたまるもので、これまで手を付けずにいました。次号分はまだ頁数に余裕があり、いよいよこちらの作品を発掘するぞ、というわけでした。

事前に閲覧させていただく資料名を申請しておき、当日は専用のコーナーで閲覧。

まずは散文。「リルケ全集について」という題で、400字詰め原稿用紙ほぼ一枚でした。「リルケ」はドイツの詩人、ライナー・マリア・リルケ。光太郎が敬愛していたロダンの秘書を務めていた時期もありますし、光太郎がパリ留学中に住んでいたカンパーニュ・プルミエ-ル街17番に暮らしていたこともあり(その当時、光太郎は知らなかったそうですが)、間接的には縁の深い人物です。

これまでも『高村光太郎全集』既収録作品にリルケの名は散見されましたが、ほとんどはロダンとの絡みや、同じ建物に住んでいたことについて、ちょっと触れられていた程度でした。それが原稿用紙一枚、リルケについてということで、興味深いものでした。

調べてみましたところ日本での『リルケ全集』は、光太郎生前に2回刊行されているようです。昭和6年(1931)に弥生書房から一巻もの、昭和18年(1943)に三笠書房から『第五巻』のみ(この手の全集は第一巻から順に刊行されない場合も多く、第一回配本が第五巻で、おそらく戦時中ということもあり、途絶したようです)。今回のものは使われている原稿用紙から、昭和18(1943)年版のもののために書かれたとほぼ確定出来ます。どうやら内容見本のために書かれた文章のようです。ただ、活字になったのかどうかが不明でして、今後の課題です。

それから書簡が6通。すべて葉書です。

まず独仏文学者にして光太郎らと共に「ロマン・ロラン友の会」を立ち上げた片山敏彦、光太郎に自著の題字を揮毫して貰ったり、雑誌の企画で光太郎と対談したりした高見順に宛てたものが1通ずつ。片山と高見は交流の深い人物だったのに、これまで彼ら宛の書簡は確認出来ていませんでした。

それから作詞家・童謡詩人の藤田健次に宛てたものが2通、文芸評論家・小田切進宛てが1通。両名ともこれまで『高村光太郎全集』の人名索引にその名が見えず、こういう人物とも交流があったのか、という感じでした。

そして、当会の祖・草野心平宛が1通。心平宛の書簡は既に30通あまりが『高村光太郎全集』に収録されており、それらはおそらくすべていわき市立草野心平記念文学館さんで所蔵されているはずなのですが、その間隙をぬうものでした。

日本近代文学館さんの「特別資料」については以上。

それから、それ以外に、雑誌に掲載された散文を1篇発見しました。それが本日のブログタイトル「ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2」というわけです。「その2」があれば「その1」があったわけで、「その1」については今年4月にご紹介しました。大正8年(1919)の雑誌『芸術公論』に載った「手紙」という文章です。こちらはブロンズ彫刻「手」の制作間もない時期に書かれたもので、見つけた時には驚愕しましたが、今回、間を置かずまたしても彫刻「手」に関わる文章を見つけてしまい、さらに驚いております。

問題の文章、題名はずばり「手」。昭和13年(1938)の雑誌『新女苑』にも「手」という文章が掲載され、『高村光太郎全集』に既収ですが、それとは別物です。今回のものは昭和2年3月1日発行の雑誌『随筆』第2巻第3号。原稿用紙7枚程の長い随筆です。ちなみに雑誌『随筆』からは、短いアンケートが2篇、既に『高村光太郎全集』に採録されていましたが、今回の「手」は漏れていました。

疑問点が一つ。原稿用紙7枚程の長さなのですが、3段落にしか分かれていません。したがって、一つの一つの段落が異様に長いのです。その意味では少し読みにくい感もありました。どうも編集の段階でもっと分かれていたはずの段落を結合して、改行回数を減らし、紙幅を短くしたのではないかと思われます。確証はありませんが。

で、今日は第1段落、そして第2段落の途中まで(いわば前半)をご紹介します。

全体としては、「手」に関するさまざまな思い出や蘊蓄(うんちく)などを書き連ねています。その中にブロンズ彫刻「手」に関わる記述もあるわけです。今日ご紹介する前半部分は、ブロンズ彫刻「手」についての記述の直前まで。別にもったいぶるわけではありません(笑)。長さの都合でそうなるのです。

さて、以下に引用し(固有名詞等の明らかな誤字は訂正しました)、適当な所で区切りつつ、解説を挿入します。

 私は英国に居た時、食卓でよく手をほめられた。義理にも面相がほめられないので、手がその用を勤めたのかも知れないが、その度に私は手に目をつける事が殆ど習慣になつてゐる国民もあるのだといふ事に興味を覚えた。容貌を見ると同じ様に手を見るのが日常の次第になつてゐるのを面白いと思つた。或貸間を見に行つた時、其処のミセスが入口での握手だけで『彫刻家でいらつしやるのでせう』と私に話しかけた事さへある。後できけば其は或風景画家の未亡人であつたといふ事だから、此の推察の由来も成程と思へたものの、其時は一寸びつくりした。

英国に居た時」は、パリに移る前の明治40年(1907)から翌41年(1908)にかけてです。確認出来ている限りその間に2回、居を移していて、その関係で「或貸間を見に行つた」のでしょう。「或風景画家」は誰だか分かりません。ここで挙げられたエピソード、おそらく既知の文章にはなかったように思われます。

さういふわけで其頃は、自分の容貌のゼロな事を知つてゐる私も、手にだけは大に自信を得て、人と握手するのを好み、又人の手にも強い興味を持つた。握手の時の触感によつて人の感情なり其人の為人についてかなり微妙な処まで感じられる事を知つた。手についての私の興味は其頃から急激に意識的になつて来た。日本では握手するといふやうな野蛮な習慣が無いので、触感による感知を得る事が出来ないけれど、しかし手を見る事の喜は昔日よりも一層強くなつて来てゐる。

人為」は「ひととなり」と読むべきでしょう。

日本で私の手をほめてくれたのは友人水野葉舟君のお母さま一人だけである。早春の夜、お母さまを訪ねて火鉢にあたつてゐた時、『まあ、あなたのお手はいいお手だ』とほめられたのである。男の手などについて殆ど感じを持たない日本の習慣を知つてゐたので、此時も一寸びつくりした。しかし後で考へると、このお母さまは何か淘宮術のやうな俗間信仰に凝つておいでのやうに聞いたから、その方面から特別に手を観察する習慣を持つて居られるのだらうと思はれた。この時以外では、日本で私の手が問題になる時は大抵、『君の手は馬鹿に大きいね』位なものである。
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水野葉舟君のお母さま」は水野実枝。このエピソードも当方、存じませんでした。光太郎、大正6年(1917)には実枝とその夫にして日本勧業銀行のお偉いさんだった勝興夫妻の肖像画を描いています。

淘宮術」は天保年間に横山丸三が創始した気功法にも通じる修養法。「健全な精神は健全な肉体に宿る」的な考えに基づくもののようです。のちに水野葉舟は心霊術や怪異譚などの方面に牽かれていきますが、その背景に母の淘宮術への傾倒からの影響があったのかもしれません。

『君の手は馬鹿に大きいね』。石川啄木の短歌「手が白く/且つ大なりき/非凡なる人といはるる男に会ひしに」のモデルが光太郎ではないかという説があります。

下の画像は光太郎のデスマスクならぬデスハンド。写真撮影は光太郎令甥の故・髙村規氏です。
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対象物が写っていないのでわかりにくいのですが、規氏によれば「自分の手を重ねてみると関節一つ分大きい」そうで。

ここまでが第1段落で、続いて弟2段落。

 大層手前味噌を並べたやうであるが、此は手の魅力といふものは決して変態性慾者などの目をつける単なる美形にのみあるのでなくて、私のやうな無骨(ぶこつ)なものにも亦あるのだといふ事を言ひたい為であつた。あらゆる人の手に、手そのものに既に不可抗の誘惑があるのである。私自身、手に対する執着が強く、手の彫刻習作をしばしば作るため、私の家には手首の彫刻が少くない。今後もむろん色々作るであらう。

手の彫刻習作」「手首の彫刻」には、ブロンズ彫刻「手」も含まれていると思われます。

今は別に手の持つ彫刻的要素を語るつもりでないから、その組立や幾何学的機構の美については言及しないが、何しろ圓い腕が急に平たく広がつて、その平たい場面から五本の枝が生えるのであるから、造化も其の生やし方に苦心した事であらう。全く人智を絶してゐて、親指の出方などは真に奇想天外である。私は一体、物の分岐する点を興味深く観察する者である。何故分岐するか、如何に分岐するかを検査するのは特別に面白い。人間の胴体が二本の脚に移つてゆく仕掛を見ると、その事だけで既に驚く。私がよく臍から下、腿から上の部分だけを画にかいたり、彫刻にすると、人は甚だ奇怪な推察をするが、其は全く私の此の感動を知らないからである。此の部分の持つ彫刻的魅力に一度気がつくと、さういふ不躾な観察は出来なくなるに違ひない。手の指の分岐の仕方の必然さは更に巧緻で変化があり、一日見てゐても飽きるといふ事が無い。掌は高々四五寸平方のものでありながら、その広大さは海のやうに思へる。成程孫悟空が一生懸命に馳け出せるわけで、私は自分の掌を見つめてゐると、どんな大きなものでも掴めさうな気がして来て、理窟に外れた自信が出て来る。

今は別に手の持つ彫刻的要素を語るつもりでない」と言いつつ、結構語っています(笑)。

臍から下、腿から上の部分だけを画にかいたり、彫刻にする」。残念ながら写真を含めて実作の現存が確認出来ていません。もろに下腹部なわけで、「人は甚だ奇怪な推察をする」というのもうなずけます(笑)。

昔の人が掌を見て、その中に人の運命を見ると思つたのも無理でない。私は手相術(キロマンシイ)といふものを更に信じない者だが、それでも真面目くさつていろんな意味をつけてゐるのには興味をひかれる。日本のは誰でも知つてゐるだらうが、外国でも似た事をやつてゐる。フランスでは例の三本のすぢを、上のを心情線、中のを頭脳線、親指側のを生命線といつてゐる。まんなかを縦に貫く線は日本と同じやうに運命線にしてゐる。更に七宮を作つて、親指のつけ根を金星宮、食指の根を木星宮、将指(なかゆび)の根を土星宮、無名指のを太陽宮、季指のを水星宮と称び、その下に火星宮、月宮がつゞいてゐる。そして夫々にいろんな意味をつけてゐる。しかし手相術などといふものは元来東洋の方が本家らしく、日本のものの方が遙に興味が深いかと思ふ。

手相術はインド発祥だそうですが、日本で広く行われているのはヨーロッパ経由のものだそうです。そこで占星術の要素が組み込まれ、何とか宮というのがあてられているとのこと。光太郎がやけにこのあたりに詳しいのは意外でした。
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食指」は人さし指、「無名指」は薬指、「季指」は小指です。

続いて指紋の話。

指紋の学問は近来すばらしい細密な研究にまで到達してゐるやうであるが、つひでに言ふと私の指紋は手のも足のも総流れで、中の一本は叮嚀にもぶちまけた様に左右に流れてゐる。生来の無器用を示してゐるのだ相である。手の甲の方で興味のあるのは静脈の形で、電車の中で向側の人々の其をみると千変万化だ。私のは杓子(しやもじ)型である。指の中で一番やさしいのは素より薬指であらう。紅つけ指といふ程あつて、この指の爪は大抵の人のが原型を留めてゐる。特色の一番あるのはむろん親指で、親指は多く其人の形をしてゐる。マムシの出来る人のは大抵逆に反る。私のは逆に直角に反るので粘土の塑造には甚だ都合がいい。

総流れで、中の一本は叮嚀にもぶちまけた様に左右に流れてゐる」は、指紋の種類のうちの「弓状紋」を指しているのではないかと思われます。日本人には10%しか存在しないそうですが。

杓子(しやもじ)型」は、血管2本が手首から指先にかけて広がっている形が、手の甲にしゃもじを乗せたように見える手だそうで、俗信ではこの形の手を持つ人は食うに困らない、とのこと。
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こちらは髙村規氏撮影の「手」です。ちょっとわかりにくいのですが、確かに薬指の付け根あたりに「しゃもじ」が現出しています。

マムシ」は、いわゆる短指症のずんぐりした親指をさす場合と、蝮が鎌首をもたげた姿のように親指を外側に反らせた様子の2種類の意味があって、ここでは後者でしょう。画像の親指はいわば「超マムシ」(笑)、「私のは逆に直角に反る」。これは本当です。最晩年の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作中の動画が残っていて、実際にそうなっています。
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ここまでで、第2段落の途中、全体の5分の3くらいでしょうか。この後、いよいよブロンズ彫刻「手」そのものについての言及があります(ただ、それほど長くというわけではないので、過剰に期待しないで下さい(笑))が、長くなりましたので、以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

鋼鉄の武器は取り上げられた今日、身に寸鉄帯びずといふ芭蕉の心境に入るより仕方がないので我々文化人が中心になつて本気に働かなければならんと思つてゐます。


談話筆記「新しき文化 高村光太郎氏の話 造りたい「文化村」
 必要が生み出す美」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

昭和20年8月28日『新岩手日報』から。同25日、盛岡市の岩手公会堂内多賀食堂で開催された「物を聴く会」での談話筆記です。

談話の前に以下のリード文が先行します。「真と美と」以下は、終戦の玉音放送に題を採った詩「一億の号泣」からの引用です。

戦争終結の聖断を拝して『真と美と到らざるなき我等が、未来の文化こそ』一億の『号泣を母胎としてその形相を孕まん』と新日本建設へ輝かしき示唆を与へた詩人、彫刻家高村光太郎氏を迎へて盛岡文化報国会では廿五日夕四時から県庁内公会堂多賀大食堂で物を聴く会を開催した。同氏は今春東京で戦災に遭ひ花巻町に疎開し故詩人宮澤賢治氏令弟清六氏方に滞在中、再び花巻空襲に遭遇し現在は同町南館佐藤昌氏方に滞在し自炊生活を営んでゐる。

身に寸鉄帯びずといふ芭蕉の心境」は、芭蕉の紀行文『のざらし紀行』中の「腰間に寸鉄をおびず。襟に一嚢をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵有。俗にして髪なし。」からの連想と思われます。

また、「一億の号泣」にも「鋼鉄の武器を失へる時/精神の威力おのづから強からんとす」という一文があります。

001当会発行の冊子『光太郎資料』54集、完成しました。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、36集までを不定期に発行されていたものです。平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、当会として年2回発行しております。北川先生の時代には、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、そのあたりは引き継がせていただいております。表紙の「光太郎資料」の文字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。

現在はパソコンで原稿を作成、印刷(両面コピー)のみ地元の印刷屋さんに頼み、経費節減のため丁合(ページごとに紙をまとめること)、ホチキス留め製本は一冊ずつ当方が行っています。それでも一号分の印刷費、送料、ラベルや封筒などの消耗品で10万円ほどかかっています。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第十八回 父母弟妹・親族・姻族(二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、親族や姻族に宛てた書簡等を載せました。

明治42年(1909)、欧米留学の末期に1ヵ月ほど旅して歩いたイタリアから実弟の道利に送った絵葉書(今年、花巻高村光太郎記念館さんに寄贈されました)、同じく花巻高村光太郎記念館さんに平成26年(2014)に寄贈された、実弟豊周の妻、美和にあてた書簡などを載せています。

・光太郎回想・訪問記  宝川温泉にちなんだ話 高村光太郎氏訪れる 鈴木重郎
これまであまり知られていない(と思われる)、光太郎回想文を載せているコーナーです。平成26年(2014)公開の映画「テルマエ・ロマエⅡ」(阿部寛さん主演)のロケ地にもなった群馬県の宝川温泉を光太郎は2度訪れていますが、その際の思い出を、同温泉主が回想した文章です。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 江戸の防御線――見附の話(その二)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第3巻第7号(昭和4年=1929)。光雲を含む各界の著名人等による座談会筆録です。底本には、平成18年(2006)柏書房発行、『大江戸座談会』を使っていますが、同書の監修に当たられた竹内誠氏(元江戸東京博物館館長)が、先月、亡くなっています。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十八回  宝川温泉/湯の小屋温泉(群馬県)
上記「光太郎回想・訪問記」とリンクさせました。宝川温泉は、かつては「熊と一緒に露天風呂に入れる温泉」というのが売りでした。光太郎が泊まった当時の建物、部屋が現存しているようです。
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さらに宝川温泉と同時期に訪れた湯の小屋温泉についても。

・音楽・レコードに見る光太郎 「初夢まりつきうた」(その二)
昭和25年(1950)、当時あった地方紙『花巻新報』や、花巻商工会議所などから依頼されたと思われる、花巻商店街の歌的な「初夢まりつきうた」についてです。確認できている限り、光太郎が歌詞として作った最後の作品です。

・高村光太郎初出索引(年代順 二)
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号は明治42年(1909)と翌43年(1910)に初出があったもの。

ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーもご希望があれば)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお振り込み下さい。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

他金融機関からの振り込み用口座番号

〇一九(ゼロイチキュウ)店(019) 当座 0782139


【折々のことば・光太郎】

よく「田舎に住みたい」という人がいます。しかし、ほんとうに田舎の生活が出来る人は少ないと思います。一カ月もしたら耐えられなくなってしまうでしょう。
談話筆記「高村光太郎先生説話 一八」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

「田舎」の定義にもよりますが……。光太郎が住んでいた当時の花巻郊外旧太田村、闇屋の買い出しさえ来なかったという場所でしたので……。

手前味噌で恐縮すが、当会発行の『光太郎資001料53』、完成しました。

本来、4月2日(木)に開催のはずだった第64回連翹忌の集い席上で配付し、その後、お申し込みいただいている各位、関係諸団体等に発送する予定でした。

元々は当会顧問であらせられた北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺等を旨として、36集までを不定期に発行されていたもので、平成24年(2012)から名跡を引き継ぎ、当会として年2回発行しております。北川先生の時代には、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、そのあたりは引き継がせていただいております。

現在はパソコンで原稿を作成、印刷のみ地元の印刷屋さんに頼み、経費節減のため丁合(ページごとに紙をまとめること)、ホチキス留め製本は一冊ずつ当方が行っています。それでも一号分の印刷費で7万円ほどかかっています。

表紙の「光太郎資料」の文字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第十七回 父母弟妹・親族・姻族(一)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、父・光雲、母・わか、妹・山端しづに関する光太郎作品をまとめました。

・光太郎回想・訪問記  
文壇の人々 高村光太郎氏(『秀才文壇』より)/日暮里渡辺町界隈(抄)(『長谷川利行』より)矢野文夫

これまであまり知られていない(と思われる)、戦前の光太郎回想文。短めのものを2篇載せました。「文壇の人々」は、明治45年(明治45年)4月、雑誌『秀才文壇』の第12巻第5号に載った無署名の記事ですが、光太郎と交流があった編輯主筆・野口安治の執筆によるものと思われます。一昨年、智恵子も通っていた太平洋画会(現・太平洋美術会)の松本昌和氏よりそのコピーを頂きました。
「日暮里渡辺町界隈」は、画家・長谷川利行(明24=1891~昭15=1940)と親しかった詩人・美術評論家・日本画家の矢野文夫(明34=1901~平7=1995)による、智恵子が歿した直後くらいの光太郎に関する回想。日暮里渡辺町界隈の飲み屋で時々光太郎と出くわしたことや、駒込林町の光太郎アトリエを訪問した体験談です。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 江戸の防御線――見附の話(その一)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第3巻第7号(昭和4年=1929)。父・光雲を含む各界の著名人による座談会筆録から。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十七回  川古温泉(群馬県)
昭和4年(1929)に光太郎が訪れ、詩「上州川古「さくさん」風景」(同)の舞台となった、群馬県みなかみ市の川古温泉をご紹介しています。

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・音楽・レコードに見る光太郎 「初夢まりつきうた」(その一)
昭和25年(1950)、当時あった地方紙『花巻新報』や、花巻商工会議所などから依頼されたと思われる、花巻商店街の歌的な「初夢まりつきうた」についてです。確認できている限り、光太郎が歌詞として作った最後の作品です。
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・高村光太郎初出索引(年代順 一)

現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、今号から年代順ということで。

ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

他金融機関からの振り込み用口座番号

〇一九(ゼロイチキュウ)店(019) 当座 0782139


【折々のことば・光太郎】

街を歩く時、松飾の香(にほひ)のする中で美しい娘さん達が追羽子をしてゐる図を思ひ出すと新年は全く新しい詩に満ちてゐますね。

アンケート「我家の三ヶ日」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

少々季節外れですが(笑)。「新年」同様、もうすぐやってくる「新年度」も例年であれば「新しい詩に満ちて」いるように思われますが、今年は新型コロナの影響で、なにやら不穏な新年度になりそうですが、こんな時こそ、心は豊かにしておきたいものです。

当会で会報的に発行している冊子です。元々009は当会顧問・北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺を旨として第36集まで不定期に発行されていたもので、第37集からその名跡を譲り受けました。題字は北川先生作の木版から採っています。4月の連翹忌、10月の智恵子忌日・レモンの日に合わせて年2回発行しております。ただ、今号は明日からの消費増税の関係で、既に発送済みです。

B5判ホチキス留め、49ページ。今号の内容は以下の通りです。

・ 「光太郎遺珠」から 第十六回 智恵子(三)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめています。今回は戦後の『智恵子抄』、『智恵子抄その後』に関する光太郎書簡をまとめました。

・ 光太郎回想・訪問記  「夕闇の中の光太郎」  澁川驍
これまであまり知られていない(と思われる)光太郎回想文。作家・評論家の澁川驍によるもので、昭和16年(1941)に聞いた光太郎明治末の留学時代の様子を、光太郎没後の昭和32年(1957)になって書いた特異な回想文です。ニューヨーク留学時代に助手として雇ってくれた彫刻家ガットソン・ボーグラムの妹のボディーガードを務めた話、イプセンの「人形の家」で主演した女優アラ・ナジモヴァに送った手紙とその返事の内容など、光太郎自身の回想等にも記述が無く、興味深いものです。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 江戸の見世物(その三)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第二巻第十号(昭和3年=1928)。光太郎の父・光雲を含む各界著名人による座談会の筆録から。

・ 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十六回  湯檜曾温泉
見つけるとついつい購入してしまう(最近はこの項を書くため積極的に探していますが)、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書を用い、それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今回は、詩「上州湯檜曾温泉」(昭和4年=1929)の舞台となった、群馬県湯檜曾温泉。

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・ 音楽・レコードに見る光太郎 「真珠港特別攻撃隊」(その二)
昭和17年(1942)、箏曲家の今井慶松の依頼で書かれ、翌年、今井の作曲で演奏された「真珠港特別攻撃隊」についてです。

・ 高村智恵子初出索引 
智恵子が生前に雑誌等に発表した文筆作品、表紙絵、カットなどを一覧表にしました。

・ 第63回連翹忌報告
4月2日(火)、日比谷松本楼様で執り行いました第63回連翹忌のレポートです。


ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバッ002クナンバーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

今号のみ欲しい、などという方は、このブログのコメント欄等でご連絡いただければと存じます。


【折々のことば・光太郎】

芸術には生命がなければならない。然らば自己内部の心核に深く深く突き入つたものでなければならない。換言すれば自己内部の生活から生れたものでなければならない。
談話筆記「気分本意の作家を排す」より
 大正3年(1914) 光太郎32歳


詩の代表作「道程」を執筆した同じ年の談話筆記。芸術観の部分でやはり相通ずるものがありますね。

先週、日比谷公園松本楼様で、光太郎を偲ぶ第63回連翹忌を開催いたしました。その際に参会者の皆さんにお配りした資料等をご紹介します。

013まず、手前味噌ですが、当会発行の『光太郎資料51』。B5判ホチキス留め、手作りの小冊子ですが、内容は濃いと自負しております。元々、当会顧問の北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺を旨として不定期に発行されていたもので、その名跡を譲り受けました。4月の連翹忌にかぶせて1回、10月の智恵子忌日・レモンの日に合わせて1回と、年2回刊行しております。当方編集になって15冊目です。

今号は、以下の内容です。

・ 「光太郎遺珠」から 第十五回 智恵子(二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、智恵子歿後の智恵子に関する光太郎作品をまとめました。

・ 光太郎回想・訪問記  「高村光太郎の思い出」 富士正晴/「高村光太郎 温かく大きな手」    遠山 孝
これまであまり知られていない(と思われる)、戦前、戦中の光太郎回想文。短めのものを2篇載せました。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 江戸の見世物(その二)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第二巻第十号(昭和3年=1928)。光太郎の父・光雲を含む各界の著名人による座談会筆録から。

・ 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十五回  法師温泉
見つけるとついつい購入してしまう、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書を用い、それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今回は、大正末から昭和初めにかけて、光太郎が4回ほど足を運んだ群馬県の法師温泉。明治28年(1895)に建築された、フランス風の飾り窓を持つ建築です。昭和56年(1981)には、当時の国鉄が発売した「フルムーンパス」のポスターやCMで、上原謙さんと高峰三枝子さんが熟年夫婦を演じられ、話題となりました。

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・ 音楽・レコードに見る光太郎 「真珠港特別攻撃隊」(その一)
昭和17年(1942)、箏曲家の今井慶松の依頼で書かれ、翌年、今井の作曲で演奏された「真珠港特別攻撃隊」についてです。

・ 高村光太郎初出索引(十五)
『高村光太郎全集』等収録の、生前に公表されなかったと思われる光太郎詩文をリストアップしました。

ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明
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015続いて、『尾崎喜八資料 特別号(第17号)』。光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八(上記法師温泉にも同道しています)の令孫・石黒敦彦氏主宰の尾崎喜八研究会さん刊行の冊子です。連翹忌会場でもスピーチでご紹介いただきましたが、いったん休刊されたものを今回、特別に再刊。

当会顧問の北川太一先生の未発表だった玉稿2篇が掲載されています。「「愛と創作」その詩と真実」、「ロランと光太郎をめぐる人々」の2篇です。休刊前に寄稿されていながらお蔵入りだったものとのこと。喜八やその周辺人物と光太郎との交流につき、当方も存じ上げなかった事柄がこれでもかとてんこ盛りです。

過日ご紹介した北川先生の新刊『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』にしてもそうですが、先生の幅広い視点からの御考察には脱帽です。

残部は当会名簿にある連翹忌ご欠席の方々等に発送いたしましたが、ご入用の方は仲介いたします。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。

016配付されたわけではありませんで、ギャラ代わりの執筆者割り当てでいただいたものですが、『高村光太郎研究50』。高村光太郎研究会からの刊行です。

こちらにも北川先生の玉稿が巻頭に。平成20年(2008)、宮城県女川町で開催された第17回女川光太郎祭での講演筆録「再びもう一度考えてみたいこと――平成二十年八月九日、女川高村祭談話――」。

それから昨秋、都内で開催された高村光太郎研究会でのご発表を元にされた佛教大学総合研究所特別研究員の田所弘基氏の、「高村光太郎「夏の夜の食慾」の解釈」。昨年『高村光太郎小考集』を刊行された西浦基氏の「虎落笛―長沼智恵子の母親おセンの生涯―高橋秀紀著を読む」。

さらに、またまた手前味噌ですが、当方編の「光太郎遺珠⑭」と「高村光太郎没後年譜 平成29年12月~30年12月」。

「光太郎遺珠⑭」は、この1年間で新たに見つけた、『高村光太郎全集』未収録の光太郎作品集です。

短めの散文が3篇。昭和17年(1942)の『美術文化新聞』第59号に載った「工場の美化運動」、同18年『読売新聞』掲載の「預言者的詩人 野口米次郎氏」、そして『新岩手日報』に同22年(1947)掲載の「人間的な詩人」(「きよう”賢治 十五回忌” 盛岡・花巻で盛んな記念集会」と題する記事に付された談話)。

それから、しばらく前から少しずつ掲載させていただいている「高村光太郎先生説話」。浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995、ひまわり社)よりの転載で、戦後、花巻郊外太田村で蟄居中の光太郎が、山小屋近くの山口小学校などで語った談話の筆録です。今回は昭和26年(1951)のもの。

さらに翻訳で「ロダンといふ人」。原著者はロダンの秘書だったジュディト・クラデル。明治43年(1910)、雑誌『秀才文壇』に3回にわたって連載され、3回目のみが『高村光太郎全集』に収められていましたが、1、2回目が中々見つからずにいたものを、昨秋、智恵子がかつて絵を学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会研究所さんからご提供を受けました。

そして、書簡。平成29年(2017)、『智恵子抄』版元の龍星閣現社主・澤田大太郎氏から、創業者で父の故・伊四郎の遺した厖大な資料のうち、光太郎、棟方志功他の関連が、伊四郎の故郷・秋田県小坂町に寄贈されました。そのうち、澤田に宛てた光太郎書簡で『高村光太郎全集』未収録の32通を載せさせていただきました。

「高村光太郎没後年譜 平成29年12月~30年12月」は、このブログの昨年暮れの記事を元にしています。

こちらもご入用の方は仲介いたします。当ブログプロフィール欄のメールアドレスまでご連絡下さい。


最後に、第63回連翹忌にて「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」他の音楽演奏をなさってくださった、ジオラマ作家兼ミュージシャンの石井彰英氏から、当日の演奏をyoutubeにアップしたというご連絡がありましたので、載せておきます。最後に演奏された「ずっとこのまま」のみですが。




【折々のことば・光太郎】

私はこれからもなほ若い人々を激励し、若い人々の進歩するのと一緒になつて真剣に日本の彫刻を育て、今まで世界に存在しなかつた新鮮な日本の美を作り出してゆきたいと願つてゐる。自分はすでに老境に近づき年齢からいへば過去に属する人間であるかもしれない。しかし自分にあたへられた本当の仕事はこれからであると信じてゐる。

談話筆記「子供の頃」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎にとって「本当の仕事」は、彫刻をはじめとする芸術の発展。当方にとっては「光太郎の生の軌跡を語り継ぐこと」。やはり「これから」です。

当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌――というよりは、同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第5号が届きました。

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巻頭近くに、当会顧問・北川太一先生の連作短歌「四月の雪」15首。昭和31年(1956)4月1日の光太郎昇天前日に始まり、同2日の死、同4日に青山斎場で行われた葬儀から火葬までの内容です。

近作で、その頃のことを思い返して作られたものかとも思いましたが、解説が付いており、それによればリアルタイムでその頃詠まれたものとのこと。昭和34年(1959)、北川先生が勤務されていた都立向丘高校定時制の生徒さん達が出されていた文芸誌『銀杏』が初出だそうです。

一首のみ引用。「うずたかく白きみほねのぬくもりに手触(たふ)れて申す永遠(とわ)のわかれを」。その悲しみやいかばかりだったと推察申し上げます。

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当方の駄文も載せていただいております。連翹忌、レモン忌の際にお配りしている当会刊行の『光太郎資料』や、高村光太郎研究会さん発行の『高村光太郎研究』に載せている「光太郎遺珠」(筑摩書房さんの『高村光太郎全集』が完結した平成10年(1998)以降に見つかり続けている、光太郎詩文の集成)についてです。

さらに、文治堂書店さん創業者にして、昨年亡くなった渡辺文治氏の追悼的な文章、北川先生ご子息・北川光彦氏の玉稿なども掲載されています。

10月に『光太郎資料』ご購読いただいている方には同封いたします。その他、ご入用の方はこちらまでご連絡ください。


【折々のことば・光太郎】

詩とは殆と生理にまでとどく程の、強い、已みがたい内部生命の力に推された絶対不二の具象による発言であつて、ああも言へる、かうもいへるといふ中の選択ではない。まして気随気儘な思ひつきなどでは決してありえない。

散文「詩の深さ」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

ただし、この文章を書いた頃の光太郎は、こけおどし的な漢文訓読調を多用した空疎な読むに堪えない翼賛詩を量産していましたが……。

今月2日、第62回連翹忌の日に刊行された雑誌です。

高村光太郎研究(39)

2018年4月2日 高村光太郎研究会 税込1,000円

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当方も所属する「高村光太郎研究会」の機関誌的に年刊発行されています。

目次は以下の通り。

 いまもう一度云っておきたいことがある―平成十九年八月九日、女川光太郎祭談話要旨―
   北川 太一
 「吉本隆明「高村光太郎」再訪」  赤﨑学
 『をぢさんの詩』について(五) ―詩作品に見る『をぢさんの詩』の位置―  岡田年正
 光太郎遺珠⑬ 平成三十年   小山弘明
 高村光太郎没後年譜 平成29年1月~12月  小山弘明
 高村光太郎文献目録         野末  明
 研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき     野末  明


当会顧問にして、生前の光太郎をご存じの北川太一先生は、このところ、「高村光太郎・最後の年」と題する連載を寄せられていましたが、今年は白内障の手術灯をなさり、書き下ろしができないとのことで、平成19年(2007)、宮城県女川町での女川光太郎祭におけるご講演をまとめられたものを寄稿なさいました。

それから、昨秋、アカデミー向丘で開催された第62回高村光太郎研究会で発表されたお二方が、それぞれの発表に関連する論考を寄せられています。

当方は2本、連載をさせていただいています。筑摩書房『高村光太郎全集』完結後に見つかり続ける光太郎文筆作品の紹介「光太郎遺珠」、それから昨年1年間の光太郎をめぐるさまざまな動きを記録した「高村光太郎歿後年譜」です。

「光太郎遺珠」は、短歌が一首(明治末と推定)、談話筆記で昭和26年(1951)、当時光太郎が暮らしていた花巻郊外太田村の山口小学校長・浅沼政規が筆録したもの、長短併せて7篇、書簡が23通。

比較的長命だったうえ、筆まめだった光太郎ゆえ、書簡はあ
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とからあとからたくさん出てきます。現在、秋田県小坂町の町立総合博物館郷土館で開催されている、「平成29年度新収蔵資料展」に出品されている、『智恵子抄』版元の龍星閣主・澤田伊四郎宛の書簡のうち、『全集』未収録のもの、2月に現地に行って筆写して参りましたが、今回の〆切には間に合わず、次号に廻します。

それでも23通。うち、何通かは実際に入手しました。

そのうちの1通。昭和5年12月17日付で、市川忠男というマイナーな詩人に送った絵葉書で、なぜか鵜飼いの鵜の写真です。この頃、光太郎が岐阜方面に行ったという記録はありません。

文面は以下の通り。

拝啓 貴著詩集“静なる草舎”をいただき、感謝します、
心静かな日にしづかによみたいと思つて居ります、
御礼まで一筆、
十二月十七日
 高村光太郎
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『静なる草舎』という詩集については確認できませんでした。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

いつも同じようなことを書いていますが、光太郎の筆跡、味のあるいい字ですね。当方、光太郎独特の崩し方にもだいぶ慣れてきました。

「高村光太郎歿後年譜」は、このブログの昨年末に書いた「回顧2017年」全4回を基にしています。


頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでこちらまでご連絡ください。


【折々のことば・光太郎】

人体を一つの物質と見て、何等の余分な甘味をも加へず、モデルを唯モデルとして彫刻しても其処に立派な芸術が成立つ筈である。ノイエ ザツハリヒカイトの彫刻の如しだ。その為には強盛な造形的意欲がいる。強盛な造形的意欲無しには物質自然の機微に迫る事覚束ない。

散文「」彫刻新人展評 文部省美術展覧会」より
 昭和11年(1936) 光太郎54歳

「ノイエ ザツハリヒカイト」は、独語で「Neue Sachlichkeit」。「新即物主義」と訳され、第一次大戦後に興った芸術運動です。モデルのポーズや表情などにより何かを物語らせる「表現主義」の対極に位置し、徹底したリアリズムに立脚しています。どうも光太郎、自身の肖像制作などで、この方面に興味を抱いていたように思われます。

明日は光太郎62回目の命日ということで、第62回連翹忌の集いを、午後5時半から、光太郎智恵子ゆかりの老舗西洋料理店・日比谷松本楼さん2階で執り行います。

今年は新年度最初の月曜日ということで、土・日だった一昨年、昨年と比べると、大幅に参加者が落ち込むのではないかと危惧しておりました。たしかに減りましたが、大幅な減にはならず、例年に近い約70名の参加申し込みを賜り、胸をなで下ろしております。

高村家とその血縁の皆様、生前の光太郎をご存じの方々、出版・教育・美術館・文学館関係者、音楽や舞台芸術等で光太郎智恵子の世界を取り上げて下さっている皆さん、光太郎と交流のあった面々のゆかりの方々、そして当方もそうですが、単なる光太郎智恵子ファンも。

また、各地で光太郎智恵子顕彰等に取り組んで腐っている方々なども多数ご参加下さり、遠くは四国愛媛、大阪、青森十和田、岩手は盛岡と花巻、宮城で女川に仙台、さらに新潟や長野などからも駆けつけて下さいます。ありがたいかぎりです。

そうした皆様や、参加は出来ないけれどよろしく頼む002というような方々から、各種イベントのチラシやパンフレット、刊行物(高村光太郎研究会所属の西浦基氏はご著書『高村光太郎小考集』、碌山美術館さんより館報第38号、文治堂書店さんからはPR誌『トンボ』の第4号第5号)などが参会者に配布されます。

そうした中で、当方編集の『光太郎資料』第49集もお配りします。元々は当会顧問の北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、不定期に発行されていたもので、その名跡を譲り受けました。4月の連翹忌にかぶせて1回、10月の智恵子忌日・レモンの日に合わせて1回と、年2回刊行しております。

今号は、以下の内容です。

・ 「光太郎遺珠」から 第十三回 短歌をめぐって(二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、昭和期の短歌実作、短歌に関わる書簡や散文をピックアップしました。

・ 光太郎回想・訪問記  「高村光太郎の抒情詩的エピソード」(抄) 平野威馬雄
詩人、フランス文学者の故・平野威馬雄氏(料理研究家・平野レミさんの父上です)による、戦時中の光太郎回想です。三河島にあった光太郎行きつけのトンカツ屋「東方亭」が一つの舞台です。

・ 光雲談話筆記集成 雑誌『キング』より
総合雑誌『キング』に載った、光雲の談話筆記2篇。「昔の芝居と今日の芝居」、「猫の話 鑿の話」。

・ 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十三回  盛岡市
見つけるとついつい購入してしまう、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書を用い、それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今回は昭和20年(1945)から27年(1952)まで、花巻町、そして花巻郊外の太田村に住んでいた光太郎が、確認できている限り8回は足を踏み入れた、花巻から北に40㌔㍍弱の盛岡を扱いました。

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・ 音楽・レコードに見る光太郎 「われら文化を」(その二)
昭和17年(1942)、信時潔(のぶとききよし)により作曲され、岩波書店店歌として、社章のデザインなどで光太郎と懇意にしていた同店店主・岩波茂雄の依頼で作られた、「われら文化を 岩波書店の歌」についてです。

・ 高村光太郎初出索引(十三)
生前に公表されたと思われる光太郎詩文のうち、初出発表誌不明・不詳等のもののリストとなります。

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B5判、全45ページ。手作りの冊子ですが、ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明


よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

幾何学の公理は中学校の生徒にも一応は認められる。けれども、芸術上の公理になると、凡才には少し解らなくなる。一身を芸術に燃やして真に人間の世に生きる非凡な勉強家だけに解る。

散文「文展分評 彫刻」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

さて、いよいよ明日は第62回連翹忌。「一身を芸術に燃やして真に人間の世に生き」た光太郎を偲び、盛会となることを祈念いたしております。

当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌――というよりは、同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第5号が届きました。奥付の発行日は1月15日となっています。

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元青森テレビアナウンサーの川口浩001一氏が、「十和田湖「乙女の像」秘話 ~太宰治が結ぶ隠れた絆~」という文章を寄せられています。川口氏、一昨年には同局の特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」のプロデュース的なこともなさいました。

「乙女の像」は、青森十和田湖畔に立つ、光太郎最後の大作。「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦像」というのが正式名称ですが、略して「十和田湖畔の裸婦(群)像」、通称「乙女の像」です。

元々が十和田湖周辺の国立公園指定15周年を記念し、十和田湖の景勝を世に知らしめるために功績のあった、作家・大町桂月、元知事・武田千代三郎、元地元村長・小笠原耕一の三氏を讃えるモニュメントとして企画されました。その時点での知事が、津島文治。太宰治の実兄です。

そして、地元の高校の校歌を作詞した縁で、たまたま十和田を訪れていた佐藤春夫が、津島知事に相談を受けます。どんなものを造ったらよいか、誰に依頼すればよいか、など。

津島知事の実弟・太宰は、昭和11年(1936)、第二回芥川賞をぜひ獲らせてくれるよう、書簡で懇願したことが有名です。津島知事としては「弟がいろいろご迷惑をおかけして……」という気持ちもあって、佐藤を下にも置かない歓待ぶりだったようです。ちなみに太宰は乙女の像プロジェクトが立ち上がる前に自裁しています。

そして佐藤がモニュメントの制作者として推挙したのが光太郎。佐藤と光太郎のつきあいは古く、大正3年(1914)に光太郎が佐藤の肖像画を描いた頃に遡ります。他にも光太郎を推す声は方々からあがり、津島知事もその方向でゴーサインを出します。光太郎への折衝の際には、佐藤が光太郎に長い手紙を書きました。「十和田湖に光太郎以外の制作物が立てられては、日本の恥だ」的な。

そうして実現した「乙女の像」。確かに太宰の存在がなければ、ありえなかったかもしれません。川口氏の文章、そうした経緯が簡略に記されています。


それから、前号より当方が連載を持たせていただいております。題して「連翹忌通信」。だいたいこんな流れで光太郎顕彰活動を執り行っていますよ、的な内容で始めました。前号は昨年で61回目を迎えた連翹忌の歴史を書かせていただきました。今号は、連翹忌の際にお配りしている当会刊行の『光太郎資料』や、高村光太郎研究会さん発行の『高村光太郎研究』に載せている「光太郎遺珠」(筑摩書房さんの『高村光太郎全集』が完結した平成10年(1998)以降に見つかり続けている、光太郎詩文の集成)について。

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特に、光太郎書簡について詳述しました。『高村光太郎全集』完結の時点で、3,101通が収録されていましたが、現在、通しで振ったナンバーは3,412。それ以外に諸事情によりナンバリングしていないものが50通ほどあります。これだけ見つかると、いろいろ未知だった事柄も見えてきました。『全集』完結時点で不明だった光太郎にとって重要な事項の日付が特定できたり、こんな人物とも交流があったのか、という人物宛の書簡が見つかったりといったところです。

詳しくは同誌をご覧下さい。版元の文治堂書店さんの連絡先は下記の通りです。頒価は400円だそうです。

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ちなみに、今春4月2日(月)開催予定の第62回連翹忌にご参加下さった方には、今号、それから前号もお配りするつもりで居ります。

第62回連翹忌につきましては、また近くなりましたらご案内申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

木を彫る秘密は絶えず小刀を研ぐにあり、切味を見せんが為にあらず、小刀を指の如く使はんが為なり。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

東京美術学校在学中には既に木彫から塑像へと軸足を動かしていた光太郎ですが、大正の半ば頃から昭和初期にかけ、再び木彫を手がけ、数々の名作を生み出しました。

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0014月2日の第61回連翹忌が近づいて参りました。

当方が編集・発行している冊子『光太郎資料』、年2回のうち、1回は連翹忌にあわせて発行しています(もう1回は半年後の智恵子忌日・レモンの日に合わせています)。

元々は当会顧問の北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、不定期に発行されていたもので、当方、5年前にその名跡を譲り受けました。

というわけで、第47集、頼んでおいた印刷が完了し、印刷屋さんから受け取って参りました。印刷のみ印刷屋さんにお願いし、ページ順に並び替える丁合という作業、その後のホチキス留めはすべて手作業でやっております(そこまで頼むと料金がさらにかかりますので)。

当方編集に移行してから11冊目の発行となりました。毎号ほぼ同一の章立てで、後世に残すべき光太郎関連の文字資料を様々な角度から載せております。

今回は

光太郎遺珠から 第11回 詩人として(四) 戦後・晩年
 ・昭和21年(1946) 松本政治宛書簡
 ・同24年(1949) 肥後道子宛書簡
 ・同25年(1950) 池田克己宛書簡 2通
 ・同 三宅正太郎宛書簡 2通
 ・同26年(1951) 雑纂「賞を受けて」
 ・同 川路柳虹宛書簡
 ・同27年(1952) 雑纂「“詩だけはやめぬ”」

筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類をテーマ、時期別にまとめています。

ちなみに上記にお名前のある肥後道子さん、その後ご結婚なさって姓が変わりましたが、十数年ぶりに今年の連翹忌にご参加くださるそうです。この書簡の思い出を語っていただこうと思っております。


光太郎回想・訪問記   白い手の記憶―高村光太郎の思い出― 堀口大学 / 『パアゴラ』より 斎藤玉男

光太郎と同時代の人々が残した光太郎回想も貴重な記録ですので、それらの集成も図っています。今回は詩人の堀口大学と、智恵子の主治医だったゼームス坂病院長・斎藤玉男のもの。それぞれに、これまでこの世界で知られていなかった(と思われる)新事実が語られています。

堀口に関しては、海外生活が長かった堀口が、ロダン関係の文献、逐次刊行物等を日本の光太郎に送っていたということなど。斎藤に関しては、智恵子の診察を引き受けるに至った経緯など。ただ、当人の述懐ですので、鵜呑みにするのも危険ですが。


光雲談話筆記集成 「因縁に感謝」 『仰高』より

光太郎の父・高村光雲は、『光雲懐古談』(昭和4年=1929)という長文の回顧録を一冊残していますが、それ以外にもさまざまなメディアに短文の回想を発表しています。それらも集成しておく必要があります。今回は、光雲ゆかりの金龍山大圓寺の発行になる『仰高』という冊子から。


昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第十一回 花巻電鉄 (岩手)

光太郎ゆかりの地の古絵葉書が少なからず手に入っており、それらの地と光太郎智恵子らの縁を綴っています。今回は、光太郎もよく利用した花巻電鉄を扱いました。

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音楽・レコードに見る光太郎   「新穀感謝の歌」(その三)

昭和16年(1941)、信時潔の作曲で歌曲となった光太郎作詞の「新穀感謝の歌」に関して。歌曲以外にも二世観世喜之節附による謡曲も作られ、同年と翌年に、財団法人日本文化中央聯盟主催の「新穀感謝祭奉献能の会」で演じられたことなどを書きました。

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光太郎詩に曲が附けられた音楽作品は少なからず存在しますが、それらの作曲の経緯、演奏の実態など、従前の研究ではほとんど手がつけられていません。このあたりもライフワークとしていくつもりでおります。


高村光太郎初出索引(十一)

発表された光太郎の文筆作品、装幀・挿画などの作品を、掲載誌の題名50音順に表にまとめています。


B5判、全50ページ。手作りの冊子ですが、ご入用の方にはお頒けいたします。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします(連翹忌ご参加の場合は、4月発行分は進呈)。このブログ左上プロフィール欄に記載の連絡先までご連絡ください。


【折々のことば・光太郎】

暖炉に入れる石炭が無くなっても、 鯰よ、 お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。
詩「鯰」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

木彫の代表作の一つ、「鯰」に関する詩です。下の画像は光太郎令甥・髙村規氏によるものです。

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昨日ご紹介した詩「金」では、粘土の凍結を防ぐため「夕方の台所が如何に淋しからうとも、 石炭は焚かうね。」としていた光太郎ですが、その石炭も無くなると、では、木彫なら、ということでしょうか。これも危険な考えですね……。

当方も会員に名を連ねさせていただいている高村光太郎研究会発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』に、連載を持たせていただいております。
 
題して「光太郎遺珠」。筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』増補版が平成11年(1999)に完結しましたが、その後も見つかり続ける光太郎智恵子の文筆作品を集成しています。
 
平成18年(2006)に、光太郎没後50年を記念して、当会顧問・北川太一先生との共編で第一弾を厚冊の単行書として刊行しましたが、その後も続々と補遺作品が見つかり続けるため、現在はほぼ1年間に見つけた新たな文筆作品の集成として雑誌『高村光太郎研究』中の連載という形で続けております。
  
『高村光太郎研究』は4月2日の光太郎忌日・連翹忌の刊行。原稿締め切りが今月いっぱいということで、このたび脱稿しました。
 
今回の「光太郎遺珠」に載せた作品は以下の通りです。智恵子のものはなく、すべて光太郎の作品です。

短歌
金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかにかけていろいろ凉かぜの吹く
九段下の書道用品店・玉川堂さん所蔵の短冊から採らせていただきました。明治末と推定できます。

散文
「貧弱なる個性の発露」 明治45年(1912)5月1日『東洋時論』第三巻第五号
信州安曇野の碌山美術館さん学芸員の武井敏氏からご教示いただきました。長い美術評論です。

「希望 親切な案内役を」 昭和23年(1948)11月7日『花巻新報』第七十二号
「岩手は日本の背骨 ノロイが堅実」 昭和24(1949)年9月28日『花巻新報』第百十五号
ともに岩手の地方紙『花巻新報』から。前者は創刊に寄せた談話筆記、後者は宮澤賢治に関わる講演の筆録です。後編のみ『高村光太郎全集』に既収ですが、前編を新たに見つけました。

「高村光太郎先生説話」
花巻郊外太田村の山口小学校で折に触れて語った光太郎の講演、談話を、同校校長の故・浅沼政規氏が筆録していたものです。膨大な量なので分割して掲載。今回は昭和25年(1950)上半期の分を掲載しました。

翻訳
「モンテスパンの序」 昭和4年(1929)3月10日『南方詩人』第六輯
ロマン・ロラン作の戯曲「モンテスパン夫人」の序文の訳です。原典は大正12年(1923)にアメリカで出版された同書の米国版です。昨年、雑誌『日本古書通信』に紹介されました。

書簡
長沼せき子宛 室生犀星宛 翁久允宛 「夜の鏡」幹事宛 佐伯郁郎宛(2通) 松下英麿宛 石川佀宛 西倉保太郎宛(4通) 旭谷正治郎宛(4通) 内村皓一宛(2通) 黒須忠宛
参考書簡 丹塚もりえ宛
書簡は毎年のようにたくさん見つかっています。リンクを貼った部分をご参照いただければわかりますが、足で集めてもいます。

アンケート000
a.画家が描くといふ事を如何にお考へになりますか b.画家に何を要求なされますか 昭和14年(1939)12月25日『美術文化』第二号

短句
針は北をさす
岩手県奥州市の佐伯郁郎生家・人首文庫さん所収の色紙から採録しました。

題字
『花巻新報』
『高村光太郎全集』別巻に不完全な記述がありますが、詳細な点が判明したので掲載しました。


ご協力いただいた団体、個人の皆様には感謝申し上げます。

『高村光太郎研究』第37号、4月2日の第60回連翹忌の席上で販売開始、頒価は1,000円の予定です。上記以外に北川太一先生の玉稿、やはり当方編集の「高村光太郎没後年譜 平成27年1月~12月/未来事項」なども載る予定です。ご入用の方は、こちらまでご連絡下さい。後ほど郵送いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

ふと見えて消しは神か水色のみけしさながら夜はあけにけり
明治34年(1901) 光太郎19歳

「みけし」は「御衣」。貴人の衣服を言う尊敬語です。「けし」は「着る」の尊敬語「けす」の名詞化。夜明けの清澄な空を「さながら」「水色のみけし」のようだと謳っています。

今月2日、第59回連翹忌の日に刊行された雑誌です。 

高村光太郎研究(36)

2015/04/02 高村光太郎研究会 税込1,000円

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当方も所属する「高村光太郎研究会」の機関誌的に年刊発行されています。

目次は以下の通り。

高村光太郎・最後の年 1月(2)   北川 太一
高村光太郎と雑誌『創作』 ―自選短歌作品を中心に 山田吉郎
詩人野澤一という人 ―そして高村光太郎との関係性― 坂本富江
光太郎遺珠⑩ 平成二十七年   小山 弘明
高村光太郎没後年譜 平成二十六年(二〇一四年)一月~十二月/未来事項  小山 弘明
高村光太郎文献目録         野末  明
研究会記録・寄贈資料紹介     野末  明

北川太一先生の「高村光太郎・最後の年 1月(2)」は、光太郎日記以外に、これまで公表されていない、主として金銭出納を記録した「おぼえ帖」、書簡等の授受を記した「通信事項」も使いながら、昭和31年(1956)の光太郎を追う連載です。ご自身の光太郎訪問記も記され、貴重な記録です。

山田氏の論考は、昨秋の第59回高村光太郎研究会でのご発表を元にしたものです。

坂本富江さんは、光太郎と交流のあった詩人・野澤一、そして野澤、坂本さんの故郷・山梨県と光太郎の関連について述べられています。坂本さんは太平洋美術会会員でもあり、自筆のスケッチも掲載されています。

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拙稿「光太郎遺珠⑩」、「高村光太郎歿後年譜」についてはこちら

頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでこちらまでご連絡ください。

ところで「連翹忌の日に刊行」といえば、連翹忌での配付資料等。当方刊行の冊子『光太郎資料』、各種チラシ・パンフレット類など、以前はクロネコヤマトの「メール便」で、ご欠席の方などにすぐ発送していました。ところが「メール便」が3月いっぱいで終了、新たに「DM便」に移行しました。その結果、利用者登録が必要となり、申請中です。いましばらくお待ち下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月9日

昭和21年(1946)の今日、詩人の寺田弘に葉書を書きました。

拝啓 御無沙汰しましたが、「虎座」や詩壇消息の雑誌など拝受して、貴下の撓まぬ御努力をありがたい事と存じました。
四月十三日がまた廻りくるにつれ、昨年のあの時の貴下の御厚情と一方ならぬ御助力とを思ひ出し、真に忝い事だと思つてゐます。其後お訪ね下さつた宮澤家も全焼し、今年は此の山の中の一軒家で記念の日を迎へます。幸に小生健康、貴下の御健勝、お仕事の進展を念じ上げます。

四月十三日」云々は、前年に駒込林町のアトリエが空襲で全焼し、すぐ近くに住んでいた寺田が駆けつけてくれたことを指します。

この折の寺田の回想が、平成24年(2012)に刊002行された『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』に掲載されています。元々は平成21年(2009)に同題のラジオ番組でオンエアされたものです。

 空襲で高村光太郎さんの家が焼けたときに、一番最初に駆け付けたのが私なんです。二階の方が燃えていて、誰もいないんです。その二階の燃えていた場所が智恵子さんの居間だったんですけど、そこから炎がどんどん燃えだして、それを高村光太郎さんは、畑の路地のところで、じっと見つめてたんですよね。
 そして、「自分の家が燃えるってのはきれいなもんだね、寺田くん」って、これには驚きましたね。その翌日、焼け跡の後片付けをやってたら、香の匂いがしたんですよ。高村さんが「ああ、智恵子の伽羅が燃えている」って、非常に懐かしそうにそこに立ち止まったのが、印象的でしたね。

芥川龍之介の「地獄変」を思わせるエピソードですね。

年2007回、当方が刊行している手作りの冊子、『光太郎資料』。その43集、原稿が仕上がり、印刷に廻しました。

以前にもご紹介しましたが、この『光太郎資料』、元々は昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、当会顧問にして高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が第36集まで刊行されていたものですが、その名跡をお譲りいただきました。当方が刊行し始めた第37集から数えて7冊目の刊行ということになります。

毎回、6本ほどの記事を連載形式で載せています。

「光太郎遺珠」から
高村光太郎研究会から刊行されている雑誌『高村光太郎研究』の連載として、筑摩書房から刊行された増補版『高村光太郎全集』補遺作品を「光太郎遺珠」の題でまとめていますが、そちらは新たに見つかったものをその都度出している形です。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介しているものです。

今回は「造形作家として(五) 十和田湖畔の裸婦群像」と題し、最晩年の十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)にかかわるものを紹介しています。


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光太郎回想・訪問記 「高村光太郎氏とアトリエと袴と」 高山辰夫」 / 「高村光太郎氏のこと」 近藤憲二
大正期の光太郎回想です。
 
光雲談話筆記集成   浅草の話(下)その2  『漫談 江戸は過ぎる』より
 
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第七回 安達(福島)
光太郎や智恵子、光雲ゆかりの地の古い絵葉書の画像と共に、その地の概要、光太郎や智恵子・光雲との関わりなどを紹介しています。

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音楽・レコードに見る光太郎 「こどもの報告」(三)
昭和14年(1939)、「文部科学省選定日本国民歌」の一つとして作られた光太郎作詞の歌曲に関しての論考です。

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高村光太郎初出索引(七) は行(一)


4月2日の第59回連翹忌の席上でご参会の皆様には無料で配布いたします。また、当会名簿にお名前のある方で、連翹忌当日ご欠席の方には後ほど郵送いたします。

ご入用の方は、こちらまでご連絡下さい。

併せて連翹忌の参加者も募っております。よろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月1日

平成元年(1989)の今日、NTT東北岩手支社より、50度数テレホンカード「小屋の入り口に安らぐ高村光太郎」が発行されました。

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花巻郊外太田村の山小屋での光太郎と、当時の筆跡「人は野をおもひ山をおもふ 光」が印刷されています。

携帯電話の普及により、めっきり見かけなくなったテレホンカードですが、当方、光太郎智恵子、光雲がらみのテレカを50枚程持っています。ネットオークションなどで見かけると、ついつい買ってしまいます(笑)。

当方も所属している「高村光太郎研究会」という会があります。そちらの機関誌的な雑誌『高村光太郎研究』が、年刊で発行されています。発行日は毎年、光太郎忌日・連翹忌の日に設定しています。

こちらが昨年刊行の第35号です。

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第36号の刊行が近づいて参りまして、当方の連載「光太郎遺珠」、それから今年から担当することになった「高村光太郎没後年譜」の校正稿が送られて来、昨日、朱筆を入れたものを主宰の野末明氏に返送しました。そちらが2校ということで、これで校了です。

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以前にもご紹介しましたが、「光太郎遺珠」は、筑摩書房の『高村光太郎全集』が平成10年(1998)に完結した後、さらに見つかり続ける光太郎智恵子の作品を網羅するものです。

今回載せるものは以下の通りです。

まず、短歌が一首。昭和26年(1951)のもので、もともと与謝野晶子の没後十周年記念講演会に際し、電報として贈られた片仮名書きものが『高村光太郎全集』に収められていますが、雑誌『スバル』に漢字ひらがな交じりで掲載された形を見つけましたので、そちらを載せました。

それから戦後の談話筆記。花巻郊外太田村の山口小学校長だった浅沼政規が、PTAの会合、講演会などで語った光太郎の言葉を記録していたものです。浅沼は最晩年の光太郎に校閲を求め、活字にすることを希望していましたが、光太郎の健康状態がそれを許さず、その時点ではその話は流れました。平成7年(1995)に浅沼が花巻で私刊した『高村光太郎先生を偲ぶ』という書物に掲載されていますが、広く世に知らしめるため、子息の浅沼隆氏に承諾を得、掲載させていただきます。ただ、量が多いので、今年から3~4カ年計画です。

雑纂として、新聞記事に付された光太郎のコメントが3件。日本女子大学校創設者・成瀬仁蔵の胸像制作を依頼された際のものと、太平洋戦争直前、大政翼賛会第一回中央協力会議に出席する際のコメント、そして十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)除幕のため、昭和28年(1953)秋に青森入りした際の談話です。

乙女の像に関しては、制作にかかる前の構想スケッチ、その完成記念会での挨拶に用いたメモ書きも載せました。

書簡が13通。昨年開催された盛岡てがみ館さんでの企画展「高村光太郎と岩手の人」、山形の最上義光歴史館さんの企画展「第6回 市民の宝モノ2014」、鎌倉の笛ギャラリーさんでの「回想 高村光太郎 尾崎喜八詩と友情」に出品されたものや、『朝日新聞』さんの岩手版で発見が報じられたもの、などです。

さらに座談会が一篇。戦時中のものです。

書簡に関しては新しい発見をどんどん載せていますが、その他はページ数の都合により、数年前に発見したものを順次小出しにしている状態です。


「高村光太郎没後年譜」は昨年1年間の光太郎がらみの出来事――このブログでご紹介してきたようなこと――を時系列でまとめたものです。やはりページ数の都合があり、大きな出来事しか載せられないのが残念ですが、なるべく記述を簡潔にし、できるだけ多くの項目を設定しました。

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『高村光太郎研究』第36号、4月2日の第59回連翹忌の席上で販売開始、頒価は1,000円です。上記以外に北川太一先生の玉稿なども載るはずです。ご入用の方は、こちらまでご連絡下さい。後ほど郵送いたします。

併せて連翹忌の参加者も募っております。よろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月28日

昭和4年(1929)の今日、萬里閣書房から河野桐谷(こうのとうこく)編 『漫談 江戸は過ぎる』が刊行されました

540頁にわたる大冊ですが、「維新の巻」「江戸の巻」の二部に分かれ、30余人の談話から構成されています。

「はしがき」によれば「五六年前から、田中智学先生、高村光雲先生等の下に、江戸文化研究の座談会を月一回開いて、それが国醇会の名の下に今でも継続してゐる。」とあります。

光雲談話は「江戸の巻」の半分以上を占め、題目は「歳の市の話」「両国の夕凉み」「浅草の話(上)」「浅草の話(下)」「新落語 喜の字」。いずれも幕末から明治初年の回想譚ですが、その記憶力には舌を巻かされます。光太郎の生まれ育った背景、その思想上のバックボーンを 知る上で、貴重な記録です。

左の画像は函、右の画像は表紙と背です。題字揮毫は光雲です。

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上記の『高村光太郎研究』とは別に、当会で刊行している『光太郎資料』という冊子がありますが、そちらで「光雲談話筆記集成」という項を設け、こちらの内容も少しずつご紹介しています。

また、昭和44年(1969)には、新人物往来社から復刻版が出されています。

版元の萬里閣書房は本書以外にも、光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)、東野善一郎著『天誅組天誅録』(同)、篠田鉱造著『幕末百話』(同)、子母沢寛著『新選組遺聞』(同)など、江戸時代を回顧する内容の書籍をこの時期に上梓しています。これはこの当時、いわゆる「江戸ブーム」が起こったことが背景にあります。

年2回、当方が刊行している手作りの冊子、『光太郎資料』。その42集が完成しました。以前から寄贈させていただいている団体、個人の皆さんには発送も完了しています。
 
以前にも解説しましたが、この『光太郎資料』、元々は昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が第36集まで刊行されていたものですが、その名跡をお譲りいただきました。当方が刊行し始めた第37集から数えて6冊目の刊行ということになります。
 
昨秋、第40集を刊行した際には、岩手の地方紙『岩手日日』さんでご紹介いただきました。
 
毎回、6本ほどの記事を連載形式で載せています。
 
「光太郎遺珠」から
高村光太郎研究会から刊行されている雑誌『高村光太郎研究』の連載として、筑摩書房から刊行された増補版『高村光太郎全集』補遺作品を「光太郎遺珠」の題でまとめていますが、そちらは新たに見つかったものをその都度出している形です。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介しているものです。
 
今回は「造形作家として(四) 岩手にて」と題し、光太郎の彫刻や絵画の造形作家としての側面を表すもののうち、戦中戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)の、岩手での生活の中で書かれたものを紹介しました。
 
光太郎回想・訪問記 長与善郎「高村光太郎君のこと」/宮芳平「宮芳平自伝(抄)」
大正期の光太郎回想です。
 
光雲談話筆記集成   浅草の話(下)その1  『漫談 江戸は過ぎる』より
 
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第六回 原釜海岸(福島)
 
音楽・レコードに見る光太郎 「こどもの報告」(二)
昭和14年(1939)、「文部科学省選定日本国民歌」の一つとして作られた光太郎作詞の歌曲に関しての論考です。
 
高村光太郎初出索引(六) な行
 
第五八回連翹忌報告
 
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ほとんど手製のもので、お恥ずかしい限りですが、ご希望の方には送料のみでお分けしています。このブログのコメント欄、またはこちらからご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。37集からのバックナンバーも僅かながら残っています。
 
逆にこちらから勝手に寄贈しているので、送られている団体・個人の方で「こんなものいらん」という方も、同様にご連絡下さい。また、毎回、「転居先不明」などで戻ってくるものがあります。該当の方もご連絡いただければ再送付いたします。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月16日
 
明治43年(1910)の今日、画家の津田青楓に絵手紙を書きました。
 
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僕は何にも為ないで暮してゐる。暮せないのに暮してゐる。どうにか暮さうと考へながら暮してゐる。
一遍東京へ出て来ませんか。展覧会もあるから。 光
C'est moi
 
絵は自画像です。その下の「C'est moi」は仏語で「これは私です」の意。
 
この前年に欧米留学から帰った光太郎は、ロダンを頂点とする彼地の芸術界の様相と、旧態依然とした日本のそれとの、目もくらむばかりの差異にうちのめされ、日本にも新しい芸術を根付かせようと苦闘していた時期です。

都立高校教諭の野末明氏が主宰する「高村光太000郎研究会」という会があります。機関誌的に雑誌『高村光太郎研究』を発行しています。
 
過日、その35集が刊行されました。
 
目次は以下の通り。
 
高村光太郎・最後の年 1月(1) 北川 太一
高村光太郎考――直哉と光太郎 大島 龍彦
光太郎遺珠⑨ 平成二十六年  小山 弘明
高村光太郎没後年譜・未来事項 大島 裕子
高村光太郎文献目録      野末  明
研究会記録・寄贈資料紹介   野末  明
 
論考二本、読み応えがあります。
 
それから当方の連載「光太郎遺珠」。新しく見つけた『高村光太郎全集』未収録の文筆作品等を紹介しています。内容細目は、脱稿した際のブログに書きました。
 
頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでご連絡ください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月10日
 
昭和20年(1945)の今日、駒込林町のアトリエを、渡辺正治氏が訪れました。
 
氏は女優・渡辺えりさんのお父さまで、今もご健在です。
 
戦時中に15歳で山形から上京、現・武蔵野市にあった中島飛行機の工場で働いていたそうです。
 
工場の先輩に、光太郎と手紙のやりとりをしていたという人がいて、都心方面の空襲のひどさから光太郎の身を案じ、光太郎の元に渡辺氏を遣わしたとのこと。
 
この際には光太郎もアトリエも無事で、氏は光太郎から署名入りの『道程 再訂版』をもらったそうです。
 
ところがその3日後の空襲でアトリエは炎上してしまいました。
 
戦後になっても氏と光太郎の交流は続き、そうした縁で渡辺えりさんも光太郎ファンに。画像は渡辺さん作の、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」のパンフレットです。

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年2回、当方が刊行している手作りの冊子、『光太郎資料』。その41集を脱稿しました。
 
以前にも解説しましたが、この『光太郎資料』、元々は昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が第36集まで刊行されていたものですが、その名跡をお譲りいただきました。当方が刊行し始めた第37集から数えて5冊目の刊行ということになります。
 
昨秋、第40集を刊行した際には、『岩手日日』さんでご紹介いただきました。

毎回、6本ほどの記事を連載形式で載せています。
 
「光太郎遺珠」から
高村光太郎研究会から刊行されている別誌『高村光太郎研究』の連載として、筑摩書房から刊行された増補版『高村光太郎全集』補遺作品を「光太郎遺珠」の題でまとめていますが、そちらは新たに見つかったものをその都度出している形です。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介しているものです。
 
今回は「造形作家として(三) 昭和・戦時」と題し、光太郎の彫刻や絵画の造形作家としての側面を表すもののうち、太平洋戦争前夜の昭和16年(1941)から、戦時中のものを紹介しました。
 「文部省へ 美の問題の統一」 (遺珠⑦所収) 昭和16年(1941)
 「書簡三二一八 平櫛田中宛」 (遺珠②所収) 同
 「菊池寛・尾崎士郎・高村光太郎文化鼎談」 (遺珠⑤所収) 同
 「飛行機の美」 (遺珠⑤所収) 昭和18年(1943)
 「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひされ」 (遺珠⑦所収) 同
 「火を噴く“神州の怒り” 征け・不退転の道 逞しき素朴美で敵撃滅」 (遺珠⑦所収) 昭和19年(1944)
 「書簡三二五二 内山義郎宛」 (遺珠④所収) 同
 「書簡三一五四 清水房之丞宛」 (遺珠①所収)昭和20年(1945)
 「彫刻について」(遺珠⑨掲載予定) 昭和15年(1940)前号補遺
 
光太郎回想・訪問記 上田静栄歌文集『こころの押花』より
あまり多くない、大正初期の光太郎・智恵子回想です。
 
光雲談話筆記集成   浅草の話(上) 『漫談 江戸は過ぎる』より
 
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第五回 福島高等女学校(福島)
先般、福島に調査に行つた際の成果も記しました。
 
音楽・レコードに見る光太郎 「こどもの報告」(一)
昭和14年(1939)、「文部科学省選定日本国民歌」の一つとして作られた光太郎作詞の歌曲に関しての論考です。
 
高村光太郎初出索引(五) た行(二)
 
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このあと、地元の印刷屋さんで印刷をしていただき、綴じ込みは自分で行います。上記はワープロソフトの画面をプリントスクリーン機能で取り込みましたので、カラーですが、印刷はモノクロです。
 
4/2の連翹忌にご参加いただける方には当日、会場でお渡しします。当会名簿に載っている方で、連翹忌にご欠席の場合はのちほど郵送します。
 
ご希望の方には送料のみ(80円)でお分けしています。このブログのコメント欄等からご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。37集からのバックナンバーも僅かながら残っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月4日

昭和2年(1927)の今日、書肆アルスの松本弘二に葉書を書きました。
 
この年4月にアルスから刊行された評伝『ロダン』に関わります。
 
お葉書及ゲラ刷落手、
今度は絶体絶命の気でやつてゐますが、まだ 三四十枚のこつてゐます、
今夜中にあぶない懸念が あります、
少し頭の運転が悪くなりました、毎日殆と徹夜です。
 
ゲラの校正に悪戦苦闘しているという内容ですが、この気持ち、よくわかります。上記の『光太郎資料』、プリントアウトしたものを校正したところ、7割方のページで訂正がありました。
 
「大政翼賛か異」→「大政翼賛」、「日本画経済的にも……」→「日本が経済的にも……」、「航空機による最初の飛行を実施した期待の一つが……」→「航空機による最初の飛行を実施した機体の一つが……」、「一行の部分」→「一行空きの部分」……。
 
まったく「少し頭の運転が悪くなりました」です。

昨日の【今日は何の日・光太郎 補遺】でご紹介した「高村光太郎研究会」発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』に、当方、連載を持たせていただいております。
 
題して「光太郎遺珠」。筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』増補版が平成11年(1999)に完結しましたが、その後も見つかり続ける光太郎智恵子の文筆作品を集成しています。
 
平成18年(2006)に、北川太一先生との共編で第一弾を厚冊の単行書として刊行しましたが、現在は「高村光太郎研究会」発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』中の連載という形になっております。
 
年刊誌の連載ですので、ほぼ1年間に見つけた新たな文筆作品の集成ですが、次から次へと見つかり続け、気がつけば9年目です。
 
『高村光太郎研究』は4月2日の光太郎忌日・連翹忌の刊行。原稿締め切りが今月いっぱいということで、このたび脱稿、昨日、研究会代表の野末明氏にデータとプリントアウトしたものを郵送しました。
 
今回の「光太郎遺珠」に載せた作品は以下の通りです。智恵子のものはなく、すべて光太郎の作品です。
 
散文
 「ロダン翁病篤し 大まかな芸術の主 作品は晩年に一転して静に成て来た」
   大正六年二月二日『東京日日新聞』
 「帽子に応用したアイリツシユレース」 大正十三年四月一日『婦人之友』第十八巻第四号
 「倫理の確立」 昭和十五年七月一日『東亜解放 日本版』第二巻第七号
 「彫刻について」 昭和十五年九月一日『新制作派』第五号
 
書簡
 平櫛田中宛 津田青楓宛  室生犀星宛 上田静栄宛(6通) 高祖保宛 伊藤祷一宛(2通)
 岩田シゲ宛 鈴木政夫宛 池田克己宛 田口弘宛
 
翻訳
 「死者」(ヴェルハーレン) 大正十四年二月一日『虹』第二巻二月号
 
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2015/1/9追記 この「死者」は訳詩集『天上の炎』の一篇として、『全集』第十八巻に収録されていたため、抹消します。
  
アンケート
 「口語歌をどう見るか(批判)」 大正十四年一月一日『芸術と自由』第一巻第八号
 「新婚旅行通知状(葉書回答)」 昭和十一年十一月一日『婦女界』第五十四巻第五号
 「昭和二十二年に望む事」 昭和二十二年一月一日『人間』第二巻第一号。
 
雑纂
 「高祖保宛『をぢさんの詩』献辞」 直筆
 「高村光太郎氏の話」 昭和二十五年十一月三日発行『山形新聞』
 「‶詩だけはやめぬ″」 昭和二十七年十一月十日『朝日新聞』
 
座談
 「第二回研究部座談会」 昭和十五年三月二十日発行『九元』第二号
 
短句
 「世界はうつくし」 直筆
 
参考資料
 「東京仮装会」 印刷案内状
 
我ながらよく見つけたものだと思います。しかし、当方一人の力ではここまで見つかりません。「こんなものを見つけた」と教えていただいたり、他の方の書かれたものの中から「光太郎がこんなものを書いている」という記述を見つけたりで、これだけ集まっています。ご協力、ご教示いただいた皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
また、刊行物であれば、それらを所蔵し、閲覧の用に供して下さっている図書館、文学館さまのご協力も欠かせません。こちらにも感謝です。さらには書簡を所蔵され、情報を提供して下さった個人、団体の皆様にも。
 
さて、『高村光太郎研究』。先述の通り、4月2日の光太郎忌日・連翹忌に刊行予定です。ご入用の方はご連絡いただければ仲介いたします。このところ、頒価は税込み1,000円ですので、今年も同じだと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月11日

昭和59年(1984)の今日、光太郎と交流のあった山形出身の詩人、真壁仁が歿しました。
 
戦時中、空襲による焼失を避けるため、亡き智恵子が残した千数百枚の紙絵を、光太郎は3箇所に分けて疎開させました。そのうちの1箇所が真壁の元で、真壁は戦後しばらくの間もそれを預かり、昭和24年(1959)に山形で開催された初の智恵子紙絵展では、この中から作品が選ばれました。

年2回、当方が刊行しております004冊子『光太郎資料』の第40集、当会の名簿に載っている方や、全国の主要な図書館、光太郎智恵子に関わりそうな文学館・美術館等に発送いたしました。
 
以前にも書きましたが、元々は昭和35年から平成5年にかけ、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が刊行されていたものの名跡をお譲りいただきました。
 
内容的には以下の通りです。
 
光太郎遺珠から 第4回 造形作家として(二) 昭和戦前
・ 昭和2年(1927) 福田正夫宛書簡
・ 同         八束清宛書簡
・ 昭和4年(1929) 中込純次宛書簡
・ 昭和5年(1930) 木彫「栄螺」短歌
・ 昭和8年(1933) 「『画工志願』読後感」
・ 昭和11年(1936) 「『青沼彦治翁遺行録』序」
・ 昭和13年(1938) 雑纂 高村光太郎作木彫小品・色紙・短冊頒布
・ 同         森川勇作宛書簡
・ 昭和15年(1940) 雑纂「(私信より)」
・ 同         座談 「第2回研究部座談会」008
・ 同         散文 「仕事場にて」
 
筑摩書房『高村光太郎全集』補遺作品です。テーマ別、時期別にまとめています。 
 
光太郎回想・訪問記 高村光太郎先生のブロンズ鋳造作品づくり 斎藤明
光太郎の弟で鋳金家の高村豊周の助手を長らく務めた人間国宝の鋳金家・斎藤明氏の回想です。実際に各地に残る光太郎ブロンズ彫刻を鋳造した時の経緯等が語られています。
 
光雲談話筆記集成 『漫談 江戸は過ぎる』より 両国の夕凉み(二)
 
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 三陸海岸(宮城・岩手)
 
音楽・レコードに見る光太郎 松本民之助作曲「わが大空」
 
高村光太郎初出索引 た行(一)
 
第五十七回連翹忌報告

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上記画像は原稿をプリントスクリーン機能で画像化したものです。したがって、カラーになっていますが、実際に印刷製本したものはモノクロです。
 
ホチキス留めの手製のもので(印刷のみ印刷屋さんに依頼)お恥ずかしい限りですが、ご希望の方には送料のみでお分けしています。このブログのコメント欄等からご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。37集からのバックナンバーも少々残っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月19日

明治33年(1900)の今日、東京美術学校の修学旅行で伊豆修善寺を訪れています。
 
光太郎は東京美術学校本科三年生。同四年生(最終学年)の修学旅行は以前にも紹介しましたが、2週間にわたる奈良・京都方面でした。この年は2泊3日、現代の感覚では「修学旅行」というより「宿泊学習」という感じかも知れません。ちなみに1年生では日光に2泊3日、2年生では箱根に1泊2日。毎年「修学旅行」という名称で行っていました。

4/2の連翹忌に向け、いろいろと準備中ですが、そのうちの一つ、当方編集の冊子『光太郎資料』第39集が完成しました。
 
元々は昭和35年から平成5年にかけ、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が第36集まで刊行されていたものですが、昨年、その名跡をお譲りいただき、年2回の刊行としております。当方が刊行し始めた第37集から数えて3冊目の刊行ということになります。
 
B5判86ページ、印刷は前回から地元の印刷業者さんにお願いしていますが、経費削減のため、丁合(ちょうあい)とホチキス留めは手作業です。
 
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メインは「「光太郎遺珠」から」ということで、平成10年の『高村光太郎全集』完結後に見つかり続けている光太郎作品の紹介です。「光太郎遺珠」は、現在、高村光太郎研究会から年1回刊行の雑誌『高村光太郎研究』に連載していますが、見つかり次第収録しているため、時期や内容的にはごった煮です。そこで『光太郎資料』では、時期や内容によってそれらを再構成して載せています。今回の副題は「造形作家として(一) 明治・大正期」。
 
その他、昨秋刊行の第38集からの続きで「光太郎回想・訪問記」ということで、木村荘太の小説『魔の宴』から、「光雲談話筆記集成」ということで、『漫談 江戸は過ぎる』から、「音楽・レコードに見る光太郎」ということで光太郎作詞の戦時歌謡「歩くうた」についての最終回、「高村光太郎初出索引」ということで50音の「さ」行で始まる書籍、雑誌等のリスト。さらに「昔の絵葉書で巡る光太郎紀行」ということで、花巻を取り上げました。
 
また、今号から連翹忌の報告も載せようと思い立ち、昨年の第56回連翹忌の記録も載せました。
 
連翹忌にご参加いただく方には、当日、会場にて配布いたします。また、ご欠席の場合もこちらのリストに載っている方、機関には後ほど発送いたします。
 
それ以外に欲しい、という方は、送料80円のみいただく形で発送いたしますので、コメント欄等からお申し込み下さい。
 
ただ、あくまで手作りの冊子ですので、あまり期待されても困るのですが……。
 
昨日も書きましたが、4月2日(火) 第57回連翹忌、参加申し込み締め切りが近づいて参りました。光太郎・智恵子を敬愛する方のご参加をお待ちしております。
 
【今日は何の日・光太郎】3月18日

昭和28年(1953)の今日、新宿でチャップリン主演の映画「ライムライト」を観ました。

『光太郎資料』38集を片付け000たと思ったら、もうすぐ39集の編集を始めました。これが自分の勉強にもなっています。
 
『光太郎資料』、メインは筑摩書房の『高村光太郎全集』で未収録だった作品群「光太郎遺珠」をテーマ別に再構築することです。37集では欧米留学関連、38集では新詩社・『スバル』・パンの会・『白樺』をまとめ、39集では造形作家としての光太郎に関わる作品をまとめようと思っています。
 
「光太郎遺珠」、現在は高村光太郎研究会で年刊刊行の雑誌『高村光太郎研究』に連載させていただいておりますが、どうしても「紙幅の都合」があります。自分一人で大量のページを占めるわけにもいかず、いきおい、図版等は絶対に必要なものを除いて割愛せざるを得ません。それでもかなりのページ数を費やしてしまい、他に削れるのは作品解題の部分だけです。ところが、それを言い訳に、調査が不十分なまま解題を書いていたな、と反省しています。
 
改めて個人編集の『光太郎資料』に載せるに際し、こういう所が不十分だったという点が目につき、調べてみるといろいろなことがわかります。そういう点で、自分の勉強にもなるというわけです。
 
例えば、明治 43年(1910)に光太郎は神田淡路町に日本初の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)を開きましたが、翌明治44年(1911)に書かれた葉書には、パリにも出店する計画がある旨を記しています。「光太郎遺珠」の段階では、ろくすっぽ調べもせず、解題に「巴里云々は他の書簡等にはその記述が見えず、そうした腹案があったことが初めて確認された。」と書きました。ところが、よくよく調べてみると、この葉書の書かれた年の『読売新聞』にちゃんと同じことが書いてありました。赤面ものですね。
 
「短く書かなければいけない」ということは「調べなくてよい」と同義語ではありませんね。個人編集の『光太郎資料』では、ページ数も気にする必要がありませんから、言い訳もできません。しっかり調べて書きたいと思っています。

当方が編集、刊行しております冊子、『光太郎資料』の第38集。連翹忌の名簿に名前のある方、全国の光太郎智恵子光雲に関係しそうな文学館、美術館、図書館等への発送を完了しました。
 
9/5のブログでも御紹介しましたが、元々は北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、不定期で刊行されていたもので、その名跡をお譲り頂き、当方が編集、刊行しております。題字は北川先生の時代のものをスキャンして使っています。
 
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刊行といっても、殆ど手作業です。原稿の作成はパソコン(北川先生の時代はワープロが導入された最後の頃を除き、鉄筆にガリ版だったので、雲泥の差だとは思いますが)。印刷は4月に刊行した第37集はパソコンのプリンタでプリントアウトしましたが、インクの消費量とそれに要する時間が膨大で、今回は印刷のみ地元の印刷業者に頼みました。丁合(ちょうあい…… 印刷された用紙を一冊になるようページ順に集める作業)と綴じ込みは自宅での手作業です。したがって、乱丁、落丁があるかも知れません。不良品はお取り替えいたします。
 
大正末から昭和初年、草野心平が刊行し光太郎も時々寄稿した伝説の詩誌『銅鑼』などもガリ版刷りでした。また、昭和37年、光太郎の七回忌に合わせてやはり草野心平が刊行した光太郎詩集『猛獣篇』もガリ版刷り(草野の覚書によれば逆に丁合や製本は業者に頼んだようですが)。光太郎に関しては豪華な製本よりこうした手作業が伝統です。
 
内容的には以下の通りです。

 「光太郎遺珠」から
別に高村光太郎研究会刊行の『高村光太郎研究』に年1回連載させていただいている「光太郎遺珠」。『高村光太郎全集』補遺作品集ですが、見つかったものから順にどんどん採録しているので内容的にはバラバラです。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介するものです。今回は「新詩社・『スバル』・パンの会・そして『白樺』」と題し、後々まで続いたそれらに関わった人々-与謝野夫妻、水野葉舟、伊上凡骨、木村荘太、森鷗外、武者小路実篤、木下利玄他-に関わるものを集めました。
 
 光太郎回想・訪問記
同時代の人の眼から見た光太郎、ということで集成しようと思っています。今回はパンの会の頃の光太郎が登場する木村荘太の自伝的小説「魔の宴」から。
 
 光雲談話筆記集成
大正から昭和初期にかけ、光太郎の父、光雲がさまざまな書籍、新聞等に幕末から明治初年の懐古談を発表しています。それらも集成していこうと考えています。今回は『漫談 江戸は過ぎる』(昭和4年 萬里閣書房)より「歳の市の話」。
 
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行
光太郎関連の資料を収集する中で、光太郎や智恵子、光雲ゆかりの地の古い絵葉書が少なからず手に入っています。それらの画像と共に、その地の概要、光太郎や智恵子・光雲との関わりなどを紹介していきます。今回は十和田湖とその周辺。ただ、失敗したな、と思ったのですが、十和田湖周辺は昔の絵葉書と現在で、あまり変わっていないようです。
 
 音楽・レコードに見る光太郎
光太郎が歌曲として作詞した詩、光太郎の詩に曲を付けた楽曲、光太郎・智恵子を題材とした音楽などを紹介します。第37集と今回で、光太郎作詞、飯田信夫作曲の国民歌謡「歩くうた」(昭和16年=1941)を取り上げました。DTMソフトで入力した楽譜も掲載しています。
 
 高村光太郎初出索引(二)
光太郎の文筆作品、装幀、絵画、題字等について、初出(と思われる)掲載誌を五十音順にソートし、索引の形にしました。第37集であ行、今回はか行。
 
手許にまだ残部があります。欲しいという方はご連絡ください。送料のみ(クロネコメール便で80円)頂く形でお分けいたします。

追記 クロネコメール便はサービス終了、クロネコDM便に移行し、送料160円となりました。

先日、『水滸伝』にからめて、光太郎の周囲は多士済001々、ということを書きました。それは、現在製作中の冊子『光太郎資料38』で、そういった感じの内容の部分があり、そこからの連想なのです。
 
『光太郎資料』。元々は北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、不定期で刊行されていたものです。結局、36号で休刊という形になっていました。初期の頃はガリ版刷りで、先生が高校に勤務されていた頃の教え子の方々、北斗会の皆さんがお手伝いなさって作られていました。
 
内容は多岐に亘り、一度目の『高村光太郎全集』の補遺、没後年譜、索引類、同時代の光太郎評、その他さまざまな光太郎関連資料が載せられていました。それらの成果は後に文治堂書店から刊行された『高村光太郎資料』全六巻や、二度目の『高村光太郎全集』、それから『連翹忌五十年』という書籍などに反映されています。
 
その伝統ある『光太郎資料』の名跡をお譲り頂き、幸い「好きにやってよい」というお墨付きも頂きましたので、もちろんアドバイスを賜りながらですが、本年4月に『光太郎資料37』を刊行いたしました。内容としては、以下の通りです。
 
 よろこびを告ぐ 『光太郎資料』の新生について  北川太一
 「光太郎遺珠」から         欧米留学をめぐって
 光太郎回想・訪問記        高村光太郎 父光雲をいたわる神々しい姿 大悟法利雄
 光雲談話筆記集成         『明治会見記』より
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  月寒牧場(北海道・札幌)
 音楽・レコードに見る光太郎   歩くうた(一)
 高村光太郎初出索引(一)
 編集後記
 
メインは「「光太郎遺珠」から」。以前にも書きましたが、二度目の『高村光太郎全集』完結後、さらに見つかった光太郎作品を「光太郎遺珠」として紹介し続けています。しかし、年1回、見つかったものから順にどんどん載せていますので、内容的にはバラバラです。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介するものです。
 
さて、『光太郎資料38』を今、製作中です。とりあえず、年2回の刊行ということにしました。編集の手間だけを考えれば季刊程度は可能なのですが、非売ですので、制作費や郵送料等すべて持ち出し、出せば出すほど赤字という状態となり、年2回が限界です。そこで、1回は連翹忌に合わせて4月2日、もう1回は智恵子の命日、レモン忌に合わせて10月5日の発行と設定しました。次号のラインナップは以下の通りです。
 
 「光太郎遺珠」から        新詩社・『スバル』・パンの会・そして『白樺』
 光太郎回想・訪問記       「魔の宴」(抄)その一 木村荘太
 光雲談話筆記集成        『漫談 江戸は過ぎる』より(一)
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  十和田湖とその周辺(青森)
 音楽・レコードに見る光太郎   歩くうた(二)
 高村光太郎初出索引(二)
 編集後記
 
前振りが長くなりましたが、メインの「「光太郎遺珠」から」で、新詩社、雑誌『スバル』や『白樺』、そしてパンの会関連の新資料をまとめました。そこで関わってくる人々がやはり多士済々、錚々たるメンバーなので、梁山泊に思い至ったのです。
  
この38号は連翹忌の御案内を差し上げている方には当方から発送します。また、37号もそうしましたが、光太郎と関連のありそうな全国の文学館、美術館、大きな図書館などにも勝手に送ります。この「勝手に送る」というのが北川先生の頃からの伝統でして、それを踏襲しています。
 
それ以外に37、38とも、欲しいという方はご連絡ください。送料のみ頂く形でお分けいたします。

長いこと研究に取り組んでいると、いろいろなことがあります。
 
いろいろな人との出会いがあったり、思わぬところでいろいろなことを依頼されたり、そういう部分が何年も経ってから違う形になってあらわれたり、面白いものです。
 
資料の収集に関してもそうですね。
 
つい先程、何の気なしに部屋の整理をしていたら、PCデスクの足下の棚から、10年近く前に使っていたMO(マグネット・オプティカル・ディスク)が出てきました。専用のリーダーが必要だったり、かさばったりで、最近はコンパクトなUSBメモリに押されて姿を消しつつありますが、これが出た当時は驚異でした。その前からあったCD-RWなどはデータの出し入れが面倒でしたし、外付けハードディスクを持ち歩くという発想もほとんどありませんでしたから。第一、フロッピーディスクがまだまだ現役でした。
 
容量が230MBというのが笑えます。今はUSBメモリでもGB単位です。「DOS/V」とか「PC-98」などの文字も入っており、歴史を感じます。

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さて、何が入っているか、さっぱり覚えていません。早速開いてみましたところ、「光太郎」というフォルダがあり、画像ファイルがたくさん入っています。思い出しました。10年近く前、当時の職場のPCで休憩時間等にインターネットを見ていて、 気になる画像などみつけると「あとで詳しく調べよう」と思って保存していましたのですが、忘れていました。
 
そこで今日、改めて見たところ、なんと、『全集』『遺珠』未登録の書簡(はがき)の画像がありました。いろいろな図書館等に出向いたり(昨年は葉書一通を見に、滋賀県の彦根まで行きました)、いろいろな資料を取り寄せたりして世に知られていない作品を見つけていますが、本当に自分の足下にそれがあったか、と思うと複雑な気持ちです。
 
今度こそ詳しく調査し、来年4月発行の「遺珠⑧」に載せます。

現に知られている光太郎作品のうち、どういった書物にどんな形で発表されたかがわかっていないものが数多く存在します。
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作品自体はのちに光太郎の詩集や散文集に収められたり、手許に原稿が残っていたりして、こういうものだ、とわかっているのに、それがまず最初にどういった書物にどんな形で発表されたかがわかっていない、ということです。
 
中には書き下ろしということもあると思われますが、時期的に見てそうではないだろうというものがほとんどで、こういったものの初出掲載誌をつきとめるということにも取り組んでいます。
 
そこで、今回もお願いですが、以下の作品について、「××という雑誌に発表されたはずだ」「自分が持っている○○という新聞に載っている」といった情報があれば御教示いただきたく存じます。
 
まずは詩です。
小娘                       大6
(奇麗にお化粧した)    大6
序曲        大9/2/9『自選日本現代名詩集』?
(詩歌の城に)      大12
象の銀行                 大15/2/7作
秋を待つ                 大15/9/27作 『群像』?  『地上楽園』第3巻第10号(S3)に『群像』より転載の記述
大きな嚔                 大15/11/20作
二つの世界              昭2/3/12作
不平な人に               〃
あけぼの                  〃
煩瑣派                    総題「エピグラム」昭2/4/15作
卑近美派                  〃
(うやうやしいのは)     総題「偶作」昭3/5/12作
(御岳山の行者は)       〃    
或る日      昭3/9/28作   昭4/2『現代文芸』6巻2号?   素人社?
触知       昭3/11/14作
存在                       昭3/11/30作
或る筆記通話           昭4/9/7作
非ユークリッド的    昭4/9/27作
秋が来たんだ           昭4/10/7作
春の一年生    昭5/5/2作 冨山房教科書?
レオン ドウベル    昭6/12/12作
潮を吹く鯨               昭13/4/8 『グラフィック』?   創美社?
米のめしの歌           昭14/1/6作
上海陸戦隊をおもふ   昭14/6/26作 『我が家』?
五月のうた              昭15/4/1作
雷電の夜                 昭15/6/27作
帝都初空襲              昭17/4/20作
粛然たる天兵          昭18/10/7作 『満州良男』?
全学徒起つ              昭18/10/24作 『立教大学新聞』?
海上日出                  昭18/12/14作 『海の村』?
古代の如く              昭19/5/10作 『壁詩』?
新春に面す              昭19/12/19 『農業新聞』?
皇国骨髄の臣           昭20/1/2 『陸軍画報』(2015/2追記 掲載誌入手できました)
おほぞらのうた       昭20/2/22作 『富士』?
試金石                     昭22/11/22作 『週刊朝日』?
クチバミ                  昭25/6/5作
 
つづいて散文です。
家                                            大10/5作
追憶-山村暮鳥-                     大13/12  新聞『いはらき』?
八十島稔詩集『紅い羅針盤』      昭2作?
揺籃の歌            昭11/8/26作
戦時の文化           昭16/12/13
美術立国            昭21/8/9作 メモ「盛岡美術連盟へ」
五十沢二郎著「歴史教室」推薦文 昭22/3/10作
展覧会に寄する言葉                  昭23/10/27作 『新岩手日報』?
信親と鳴瀧                                昭25/8/26作 『智恵子抄その後』?
十二月十五日                            昭25/12/16作 『いわてじん』?
美ならざるなし                           昭26,7頃
教材社「児童の図画工作」推薦文  昭27/10/4作
工房にて                                   昭27/12/17作 メモ「共同通信社へ」

「小娘」「象の銀行」などは光太郎の詩の中でもかなりメジャーなものなのですが、最初にどこに発表されたのか、未だに不明です。他にもかなり多いのですが、これでも『全集』完結後の「光太郎遺珠」の中で、『全集』の段階で不明・不詳だった初出掲載誌の情報が詩、散文併せて20篇あまり判明したことを報告しています。
 
光太郎はいわゆる商業資本の総合雑誌などにもそれなりに寄稿していますが、地方で発行された同人誌的なものや、まったく畑違いの雑誌などにも寄稿することが多く、なかなか全貌がつかめません。
 
「これがわかったからどうなんだ」と言われると身も蓋もありませんが、人脈的にこういうところにつながっていたんだとか、こういう雑誌に発表されたからこういう内容なんだ、というようなことがわかり、それはそれで重要なことだと思います。
 
というわけで、「××という雑誌に発表されたはずだ」「自分が持っている○○という雑誌に載っている」といった情報があれば御教示いただきたく存じます。

世に知られていない作品をどうやって見つけるか、という話を延々と続けてきました。今日はお願いです。
 
八方手を尽くしていろいろと見つけ続けていますが、中には存在がわかっていながら見つからないものもかなりあります。ソースは『高村光太郎全集』の年譜や解題に書かれている情報、北川太一先生や他の方に聞いて知った情報、古い雑誌に書かれていた情報などです。
 
  ①翻訳「ロダンと言ふ人」明治43年1月 雑誌『秀才文壇』掲載   (見つかりました)
  ②書簡「あめりかよりの書簡二通」明治44年2月? 雑誌『秀才文壇』掲載
  ③散文「感想断片」明治45年4月?  雑誌『秀才文壇』掲載
  ④散文?「皮肉屋と言ふ事は卑怯者と同じだ」大正2年4月? 雑誌『新文林』忠誠堂
  ⑤翻訳「フアン ゴツホの手紙(三)」同
  ⑥詩?「その午後に」大正2年5月 雑誌『水鴬』創刊号
  ⑦表紙画 雑誌『鉄針』大正3年1月 俳句雑誌
  ⑧散文?「文章座右銘」大正2~3頃 雑誌『中央文学』聖書の文句を仏蘭西語で紹介
  ⑨翻訳「テーンの芸術論」大正10年4月
  ⑩散文?「口語歌をどう見るか」『芸術と自由』 大正14年8月 一巻八号 (見つかりました アンケートでした)
  ⑪翻訳「栗色の顔をした野の若者よ」昭和2年1月 雑誌『太陽花』第2巻第1号 太陽花詩社 ホイットマン詩
  ⑫題字 雑誌『巨木』昭和3年6月
  ⑬散文?「生活の光彩」昭和15年5月 雑誌『オール女性』第8巻第2号
  ⑭題字 雑誌『詩層』昭和18年   (見つかりました)
  ⑮題字 雑誌『山脈』昭和24年頃
 
題名や掲載誌名、時期には多少のずれがあるかも知れませんし、結局掲載されずに終わったとか、単純な勘違いとかいうこともあるかもしれませんが、上記に関して何か情報のある方は御教示いただければ幸いです。
 
⑪の、翻訳「栗色の顔をした野の若者よ」に関し、信じられないようなエピソードがありますので、ご紹介します。数年前、掲載誌の雑誌『太陽花』第2巻第1号が、横浜・港の見える丘公園にある神奈川近代文学館に所蔵されていることをつきとめ、意気揚々と閲覧に行きました。所定の続きをし、係員の方に書庫から出してきていただき、手に取りました。まずは目次のページを見ますと、確かに「栗色の顔をした野の若者よ」高村光太郎訳という記述があり「よし!」と心の中で快哉を叫びました。ところが、ページを繰っても見つかりません。よく見ると、なんと、問題の「栗色の顔をした野の若者よ」が載っているはずのページだけが破り取られているのです。諦めきれず、係員の方に破れているページだけ他に保管していないかなど聞いてみましたが無駄でした。こういうこともあるんですね……。
 
ちなみに当方の生活圏にある銚子市青少年文化会館のロビーに、郷土の偉人を紹介するコーナーが作られています。その中で銚子出身の詩人・宮崎丈二も取り上げられており、光太郎から宮崎宛の書簡が4通ほど展示されています。その中の一通は『全集』第21巻に収められた大正15年(1926)11月16日付けの書簡番号2426ですが「太陽花への原稿を忘れないうちにあなたまでお届けして置きます。なるたけ短いものを選びました。」という一節が。しかも封筒には(原稿在中)の文字まで。まさしくこの「栗色の顔をした野の若者よ」の原稿とともに送られた書簡と思われます。銚子市青少年文化会館、時折用事があっていくのですが、そのたびこの書簡を見て神奈川近代文学館での苦い体験を思い出します。

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こうした因縁もあり、「栗色の顔をした野の若者よ」、絶対に見つけてやる!と心に誓っています。
 
2014/4追記 上記光太郎書簡の展示は2014/4現在、無くなっていました。
 
上記で挙げた他の作品も是非見つけたいと思っていますので、ご協力よろしくお願いいたします。

世に知られていない作品104をどうやって見つけるか、の3回目です。
 
昨日は書籍の形で世に出ているデータベースと照合するという話でした。今日はコンピュータを利用してのデータベースとの照合をテーマとします。
 
インターネットの普及により、全国各地の図書館や文学館それぞれの所蔵資料が居ながらにして検索できます。そのシステムも進化し続けており、以前は限られた情報しか得られなかったものが、詳細な情報まで得られるようになったケースも多くあります。
 
特に国立国会図書館さんでは所蔵資料のデジタル化が進み、戦前の書籍、雑誌などはほとんどデジタルデータでの閲覧となっています。以前は普通の図書館のように、申し込んだ書籍そのものを渡され自分で手に取って見ていたのですが、今は館内に設置されたパソコンの画面で目的の書籍を閲覧する、というシステムです。この変更、一長一短なのですが、すくなくともデータの検索の部分では長足の進歩を遂げました。「国立国会図書館デジタル化資料」というサイトを使えば、かなり詳しく検索が可能です。ただし、ほとんどの資料は館内限定閲覧の扱いですので、実際に国会図書館に行かないと見られません。同じ国会図書館のサイトでも「近代デジタルライブラリー」というサイトでは、自宅のパソコンで閲覧が可能です。ただ、こちらは見られる資料の数に限りがあります。それでも閲覧可能な点数がどんどん増え続けていますが。

他にもいろいろな図書館、文学館などで所蔵資料の検索、閲覧が可能です。また、必要な部分をプリントアウトして送ってもらうということも可能な場合があります。
「日本近代文学館」 http://www.bungakukan.or.jp/
「神奈川近代文学館」 https://www.kanabun.or.jp/guide-opac/
「群馬県立土屋文明記念文学館」 http://jmapps.ne.jp/tsuchiyakan/
「日本現代詩歌文学館」 http://opac.shiikabun.jp/opw/OPW/OPWMAIN.CSP?DB=LIB
「CiNii Books」 http://ci.nii.ac.jp/books/
 
また、古書店の在庫目録、新刊書籍の情報などもかなり詳しい検索、一部は閲覧が可能になっており、有効に活用できます。
「日本の古本屋」 https://www.kosho.or.jp/
「googlebooks」 http://books.google.co.jp/
 
さらに新聞記事のデータベース。これは個人で申し込むことも可能ですが、やはり図書館等に出向いて利用するのが賢い方法だと思います。
「朝日新聞 聞蔵ビジュアル」 http://database.asahi.com/index.shtml
「読売新聞 ヨミダス歴史館」 http://www.yomiuri.co.jp/database/
 
この分野は日々進化を続けており、有用なサイトを見つけ出す能力も問われます。
 
しかし、こうした便利なシステムの無かった時代に『全集』の編集に取り組まれ、多くの作品を網羅なさった北川太一先生をはじめとする先人の皆様のご努力には、頭の下がる思いです。

昨日のブログで、世に知ら1007れていない作品の見つけ方-他の人が作成したデータベースとの照合ということを書きました。
 
それではどういうデータベースと照合するのか、ということになりますが、大きく分けて2種類あります。1種類目は書籍の形で世に出ているもの、2種類目はコンピュータを利用してのデータベースです。
 
今回は1種類目の書籍の形で世に出ているものについて説明しましょう。
 
まず、居ながらにして手に入るものとしては、古書店の目録があります。全国の古書店の中には、独自の在庫目録を定期的に発行し、顧客に頒布してくれるところが多数あります。また、一軒の古書店だけではなく何軒かで合同の目録を作成したり、デパートなどでの古書市としてやはり何店か合同で目録を発行したりしているところもあります。そういうところは1、2度大きな買い物をすれば、新しい目録ができたら無料で送ってくれます。それから、『日本古書通信』という月刊誌があるのですが、そちらにも古書店の目録が掲載されていたり、「目録希望の場合は切手××円分送って下さい」といった広告が載っていたりし、非常に有益な雑誌です。
 
そんなこんなで、当方の自宅には月に10冊位の古書目録が送られてきます。こうした目録には「雑誌○○ 大正×年△月 高村光太郎「□□」掲載」などという情報が書かれており、この中でかなり光太郎関連の世に知られていない作品を見つけることができています。ただ、値のはるものもあり、全てを購入するわけにもいきません。そのため、『○○』という雑誌が所蔵されている図書館等を調べ、目的の号を見つけるのです。その際には後で述べる2種類目のコンピュータを利用してのデータベースを活用します。
 
古書目録の他に、いろいろな雑誌の総目録も利用価値の高いデータベースです。例えば、実際に当方が使ったものとしては、国書刊行会から出ている『美術関係雑誌目次総覧 明治・大正・昭和戦前篇』という全三巻の労作があります。これで「高村光太郎」の項を調べると、何年何月に発行された何々という雑誌に何々という作品が載っている、ということが書かれているのです。こうした書籍は雑誌ごとのものもかなり刊行されています。当方、大きな図書館等でこの手の書籍を閲覧し、情報を得るということをよくやっています。ただ、「索引」的な部分が充実していないもの-単に目次だけを羅列しているもの-はこの場合、あまり使えません。ひどいものになると古い雑誌の目次のページだけを画像ファイルにして一冊の本にしただけのものなどもあり、当然文字も読みにくく、もう少し考えてほしいな、と思います。
 
こういった情報の活用能力-受け取る側も、発信する側も-も、いわゆる「IT(information technology)」ということになるのでしょう。発信する側は、受け手がどのような情報を求めているのかを考え、受け取りやすい情報を提供すること、受け取る側はそれこそ情報の洪水の中から、いかに有益な情報にたどり着くか、これからの世の中は、こういった部分が大事だと思います。
 
といいつつ、このブログもどの程度「受け手がどのような情報を求めているのかを考え」ているか、と問われると、自信はないのですが……。
 
明日は2種類目のコンピュータを利用してのデータベースについて説明します。

昨日までのブログで、当方の研究の根幹の一つ、光太郎作品の集成に関わる「光太郎遺珠」を紹介しました。以前にも書きましたが、平成10年に『高村光太郎全集』の増補版全21巻+別巻が完結した後、さらに発見された作品集です。
 
現在、「光太郎遺珠」は野末明氏主宰の高村光太郎研究会が発行する年刊の雑誌『高村光太郎研究』に連載させていただいておりますが、しばらくはその形を取らせていただくことになると思います。まだまだ世に知られていない光太郎作品がたくさんあるはずですので。10ヶ月後の来年4月に出す予定の「光太郎遺珠」⑧、すでに編集が進んでおり、現時点で散文が3篇、書簡が13通(少し前に12通と書きましたが、さらに1通増えました)、雑纂が3篇。他に『高村光太郎全集』解題の補遺(『全集』刊行の時点で判明していなかった初出掲載誌の情報等)もあり、これだけでほぼいっぱいいっぱいのページ数です。
 
したがって、今後見つかるものは、書簡などの短いものであれば何とか収めますが、長いものは22ヶ月後、再来年発行の「光太郎遺珠」⑨に収めるつもりでいます。というか、すでに座談会筆録の長いものが2篇、それから関係各位との交渉が済んでいないため手をつけずにいる講演会筆録もあり、それらだけでも⑨のページが埋まる分量です。どうも長いスパンになりそうです。
 
さて、そういった世に知られていない作品をどうやって見つけるか、何回かに分けて説明しましょう。他の作家、詩人等について研究されている方は当方の手法が参考になるかと思いますし、逆に「こんな方法があるぞ」というのがあれば御教示いただければ幸いです。
 
まずは、言い方は悪いのですが「採集」の済んでいる作品の把握。これをしっかりやっておかないと、光太郎作品を見つけた際、それが既に知られている「採集」済みのものなのか、まだ世に知られていないものなのか、判断が付きません。幸い、『全集』別巻にはジャンルごとの「作品題名索引」が載せられていますし、「年譜」の項にはその年に発表・制作された作品のリストが載せられています。それにあたれば、光太郎作品を見つけた際、それが既に知られている「採集」済みのものなのか、まだ世に知られていないものなのか、判断が付きます。
 
当方はさらに一歩突っ込んで、パソコンで自分なりの索引を作成しました。作品の題名、掲載誌名、雑誌等であればその号数、発表年月日、ジャンル、『全集』「遺珠」の収録巻、その他の備考などの項目で、掲載誌ごとにまとめています(これは今年から当方が発行を引き継いだた冊子『光太郎資料』に少しずつ掲載を始めました)。パソコンデータの強みは「検索」機能が充実していること。データの打ち込みにはかなり時間を要しましたが、その分、検索は一瞬でできるようになりましたので、これは大きいと思います。例えば送られてくる古本屋の在庫目録に「雑誌「○○」 大正×年△月 高村光太郎「□□」掲載」などと書かれていたりするのですが、雑誌名の「○○」や作品名「□□」で検索をかけると、それが既に知られている「採集」済みのものなのか、まだ世に知られていないものなのか、ぱっとわかるというわけです。ただ、いろいろ落とし穴もあるので、そのあたりは後に詳述します。 

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要するに、他の人が作成したデータベース(古書店の目録など)との照合によって、自分のデータベースにないものを見つけるという作業が基本です。では、どういうデータベースと照合するのか、といったあたりを次回で紹介したいと思います。

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