昭和6年(1931)8月から9月にかけての約1ヶ月、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎は宮城県石巻から岩手県宮古までの三陸海岸を主に船で旅しました。その行程に含まれていた宮城県女川町の海岸公園に、四基からなる光太郎文学碑が建立されたのが平成3年(1991)。地元ご在住の画家・貝(佐々木)廣氏が中心となり、全ての費用を町内外の方々からの「100円募金」で賄いました。
そして平成23年(2011)3月11日。東日本大震災に伴う大津波が女川の町を呑み込みました。
氏の奔走で建立された光太郎文学碑も被災。4基中の2基は海底に沈み、失われました。建立当時に日本一の大きさと言われたメインの碑は倒壊、何とか陸上に引き上げられたものの、その後長らくそのままでした。
震災後の女川町での大きな動きの一つとして、「いのちの石碑」の建立が挙げられます。町内21箇所の津波到達地点より高い場所に避難の目印となるよう建てられたもので、震災の年に当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちが発案しました。
今年3月6日(水)の『読売新聞』さん。全国の「自然災害伝承碑」を取り上げた記事の中で、「いのちの石碑」についてもご紹介下さいました。長大な記事ですので、抜粋で。
全国に2000基超…「伝承碑」から学ぶ大災害の教訓
ただ、逆に「「災禍を思い出したくない」「地価が下がってしまう」といった住民の声に配慮して、登録を見送っている自治体もある」とのこと。
難しい問題ですね。
難しい問題といえば、震災後の女川町での大きな動きのもう一つ、女川原発の再稼働。『朝日新聞』さん、今朝の「天声人語」。
(天声人語)311への手紙
宮城県女川町を見下ろす丘の上で、これを書いています。いかがお過ごしですか? あの日と同じように、さっきまで小雪が風に舞っていました。あなたたちを忘れぬようにという空からのメッセージでしょう▼東日本大震災の1カ月後に、ここから見た光景を思い出します。視界いっぱいのがれき。3階建てのビルの屋上に自動車が場違いに転がっています。あなたをさらった津波が残したのでしょう。街全体が沈み、道は海の中へ続いているかのようです。女川原発は、最悪の事態をなんとか免れました▼原発に重大事故が起きたら車で避難を。車のない人は、県や自治体が用意したバスなどが来るまで待って――。震災後につくられた各地の避難計画はそう言います。国も内容を了承しました▼計画を発動しなければならない時、どんな光景が目の前に広がっているか。そうした対応が可能か。自治体も、国も、裁判所も、知らないはずがありません。たった13年前のことです。能登半島でも道が崩れ、救援が立ち往生するさまを見ました▼なぜでしょう。あなたたちの命の代わりに学んだはずのことが、なぜこんなふうになってしまうのでしょう。女川原発は秋にも再稼働するそうです。復興の街を風がただ吹きぬけてゆきます▼いや問うべき相手はあなたでなく、遺(のこ)された私たち自身でしたね。震災後の社会をつくったのは私たちなのですから。それでは、またお便りします。この丘からならば、きっと届くと信じています。「またお便りします」の文面が、最悪の内容にならないよう、祈らずには居られません。
【折々のことば・光太郎】
二日には書初めをやりませう。廿九日には畠山さんに進呈するため半切大の紙に「天地寿」と書きました。
「畠山さん」は光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村在住の日本画家・畑山崇山。子息の崇一は光太郎の影響で詩作にも取り組みました。