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昨日、東京神田の東京古書会館で開催中の明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観(一般プレビュー)に行って参りました。昨年に引き続き、2度目でした。
 
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江戸期以前から現代までの二千数百点の出品物が所狭しと並び、全てをじっくり見ようと思ったら一日がかりでしょう。あまり時間もなかったので、光太郎がらみの出品物を中心に一部だけ観て参りました。
 
出品物は基本的に手に取って観ることができます。その点が文学館などとの大きな違いです。光太郎がらみの出品物も、ショーケースに入っていた与謝野寛宛書簡、短歌揮毫の色紙以外は手に取って観てみました(その2点も会場の方に頼めばケースから出してくれたのかも知れませんが)。
 
今回の出品物は以前から知っているものばかりでしたが、やはり生で見ると違います。特に識語署名入の随筆集『美について』は、数年前にネットの画像で観た時には筆跡的に少し怪しいかも、と思っていたのですが、実物を観るとオーラが漂っていました。不思議なもので、その手のオーラは画像では判りません。
 
その他の草稿や書名本なども、ビリビリとオーラを発していました。自宅兼事務所にも光太郎の署名本や草稿、短冊や書簡などが少なからずあるのですが、やはり違ったものに触れると違ったパワーを感じます。
 
その他、光太郎以外にも関係の深かった人物のもの……与謝野夫妻、草野心平など……さらに光太郎智恵子と直接の関連はないようですが、朝ドラ「花子とアン」で再び脚光を浴びている柳原白蓮のものなど、興味深く拝見しました。
 
いいものを観る(それも、手に取って観られるという贅沢)というのは非常にいいことですね。
 
カラー版厚冊の目録(2,000円)は、文生書院さんなど、加盟各店に注文すれば入手できます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月5日
 
昭和4年(1929)の今日、東京朝日ギャラリーで開催されていたデッサン社第三回展覧会が閉幕しました。
 
光太郎は大正期のデッサンを元に智恵子の背中を描いた「ほくろ」を出品したそうです。
 
デツサン社ではずばり「デツサン」という雑誌を刊行しており、大正15年(1926)の第三輯の表紙絵は光太郎が描いています。もしかするとその原画も展示されたのではないかなどと考えていますが、詳細が不明です。今後、調査してみます。
 
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「明治古典会七夕古書大入札会」。毎年この時期、神田の東京古書会館で、年に一度開かれる古書籍業界最大のイベントの一つです。
 
一般下見展観 2014年7月4日(金)、5日(土)
入札会 7月6日(日) 業者のみ
 
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今年も豪華目録が発行され、サイトに画像入りでアップされました。
 
昨年は光太郎関係で、詩人の高祖保に宛てたものが一括で出され、新発見のものだったため驚きました。残念ながら、今年は目録で見る限りは加盟各店で以前から目録やサイトに載せていたものばかりですが、現物を手に取ってみられる機会は滅多にないので、行ってみようと思っています。
 
ちなみに光太郎関連の出品物は以下の通りです。入札最低価格の後の数字は「万円」が単位です。
 
随筆『美について』道統社 初版 函付 ペン書識語署名入 数ヵ所に校正入 昭16
入札最低価格:10

詩集『記録』龍星閣 初版 カバー付 毛筆識語署名入 昭19 入札最低価格:10

詩稿「蒋先生に慙謝す」 ペン書400字詰完 北川太一鑑定書付 昭22 三枚
入札最低価格:20

草稿「詩人寺田弘君から……」(寺田弘編『傷痍軍人詩集』序 昭18)
ペン書400字詰完 二枚 入札最低価格:10

草稿「(書評)宮崎稔・木村直祐共編詩集『再起の旗』」 ペン書400字詰完 三枚
入札最低価格:ナリユキ

書簡 与謝野寛宛 毛筆 封筒付 全集所収 三通 入札最低価格:35

小室浩画賛幅「秋果」 自題共箱(裏に両者署名) 34×49 一幅
入札最低価格:20

色紙「やせこけし…」 北川太一鑑定書付 雑誌「炬火」に掲載の短歌
入札最低価格:ナリユキ
 
ところで一昨年のこのブログに「いけないものが混ざっている」と書きましたが、同じものが今年も出品されています。どれがそうとは明記しませんが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月27日
 
昭和17年(1942)の今日、雑誌『冬柏』に散文「与謝野夫人晶子先生を弔ふ」が掲載されました。
 
この年5月29日に亡くなった与謝野晶子の追悼文です。のち、9月に刊行された晶子遺作集『白桜集』に転載されました。

近刊です。

『日本美術全集 17 前衛とモダン』003

小学館刊行
北澤憲昭著 
定価 :本体15,000円+税 
発売日 2014/06/25
 
判型/頁 B4判/320頁
 
 
美術「誕生」を経て、美術「変容」へ
明治末から大正にかけて、日本の近代美術は内面性と社会性に目覚めてゆきます。高村光太郎が芸術の絶対自由を叫び、荻原守衛は内的生命を高らかに歌い上げ、岸田劉生が内なる美を唱えます。
伝統派の絵画に、装飾性に満ちた清新な地平が切り開かれたのもこの時代でした。
そして、アヴァンギャルドたちは絵画や彫刻の枠から美術を解き放ち、民芸運動は美術と生活につながりを見出してゆきます。
関東大震災に見舞われたこの時代は、明治がつくりあげた美術が激しく揺さぶりをかけられた時代でもあったのです。
黒田清輝、青木繁から始まるこの巻では、明治が創り上げた美術が大いに変容していく時代に登場した作品を、「自己表現の自覚」と「社会性への目覚め」という新しい視点と数多くの作品で俯瞰します。

目次
 はじめに  北澤憲昭
 テクノロジーからアートへ ―― 制度史的なスケッチ  北澤憲昭
 「表現」の絵画  北澤憲昭
  (コラム)日本近代美術史にみるユートピア思想  足立 元
  (コラム)震災の記録画  ジェニファー・ワイゼンフェルド 
 図案と写真  森仁史
  (コラム)書の近代 ―― 「型」から造型へ  天野一夫
 偶景『狂った一頁』 ――日本映画と表現主義の邂逅  藤井素彦
 都市空間のなかの造型 ―― 建築・彫刻・工芸  藤井素彦
 いけばなの近代化と未遂の前衛  三頭谷鷹史
 前衛――越境する美術  滝沢恭司
 図版解説
 関連年表
 序文英訳・英文作品リスト
 
『日本美術全集』。小学館さんの創業90周年記念ということで、一昨年から全20巻の予定で刊行中です。刊行開始時、この手の全集ものの刊行は時代の流れに逆行しているという批判、「大丈夫か?」と危ぶむ声などがありました。そのあたりは、編集委員でもある美術史家の辻惟雄氏による「日本美術全集の刊行にあたって」に詳しく書かれています。
 
世界あるいは日本の美術史上の作品を網羅して、パブリック(一般読者層)に提供する大型の「美術全集」が日本で初めて刊行されたのは、昭和初期の平凡社版『世界美術全集』(1927〜30)が最初とされる。
第二次大戦後、平凡社から再び『世界美術全集』が出された。そのとき高校3年だった私は、父にねだって、黄色い布の表紙に皮の背表紙をつけた第1回配本を手に入れた。そのときの喜びは忘れられない。
以後、角川書店版『世界美術全集』を経て、小学館の『原色日本美術』(1966‐1972)が空前の美術出版ブームを巻き起こし、その余熱のなかで、学研版『日本美術全集』(1977-80)、講談社版『日本美術全集』(1990‐94)、小学館版『世界美術大全集(西洋編・東洋編。日本美術は含まず)』(1992‐2001)と続いた。しかし、このあたりで、美術全集の刊行は途切れてしまう。編集費の増加が定価を釣りあげた。テレビの美術番組や展覧会カタログが充実してきた。執筆内容がアカデミックで難解になった。大型本を置く場所がない、などの理由に加えて、コンピュータによるデジタル画像の普及が、紙に印刷する美術図書の存続を脅かしている、という見方もある。
だが、そのような状況にあっても、従来の大型版『美術全集』は引き続き必要だ。
美術作品の観賞には、大型の図版が必須である。将来それは、家庭に備えられた大型の液晶パネルに表示された画像に取って代わるかもしれない。だが決して簡単には実現しないだろう。版権など、ややこしい問題が控えているからだ。場所塞ぎとはいえ、大型本『美術全集』の役割はまだまだ続くだろう。ただ、古びた内容だけは御免だ。
今回の企画は、アカデミズムの世界からスタートしながら、あえて日本美術の広報担当者を目指す山下裕二氏の案に基づいて発足した。気鋭の若手美術史家の登場を促すと同時に、難解な論文をチェックする。最近の研究成果を反映させ、若者の美意識にも添った新たな作品の価値づけをする。新鮮で魅力ある図版を載せる。「東アジアの中の日本美術」(第6巻)、「若冲・応挙、みやこの奇想」(第14巻)「激動期の美術」(第16巻)、「戦争と美術」(第18巻)など、巻立てにも新しさを盛り込む――こうした様々の工夫がなされている。
20年ぶりの『日本美術全集』に、ご期待いただければ幸いである。
 
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あえてこの時代にこうした豪華全集を世に問う小学館さんの英断、出版社としての良心に敬意を表さざるを得ません。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月23日
 
平成7年(1995)の今日、テレビ朝日系「驚きももの木20世紀」で「愛の詩集「智恵子抄」の悲劇―高村光太郎と妻・智恵子―」が放映されました。
 
司会は三宅裕司さん、麻木久仁子さ005ん。スタジオゲストは斎藤慶子さん、故・池田満寿夫さん。ナレーションは伊東由美子さん、間宮啓行さん。
 
Vには北川太一先生、高村規氏、さらには、光太郎の親友・水野葉舟のお嬢さんで、やはり光太郎と交流のあった詩人・尾崎喜八と結婚した故・尾崎実子さん・栄子さん母娘、智恵子の姪・斎藤美智子さん、岩手時代の光太郎を知る宮森祐昭さんがご出演。犬吠埼、九十九里、二本松、花巻、そして今はなき不動湯温泉などでのロケ、その他資料の静止画像も豊富でしたし、俳優座の皆さんによる再現Vも素晴らしい作りでした。
 
翌年にはブックマン社から関連書籍『驚きももの木20世紀 作家、その愛と死の秘密』が刊行され、この回の内容も約30ページでまとめられています。

今日は68回めの広島原爆の日です。この後、長崎原爆の日、そして終戦記念日と続き、この時期はあの戦争を振り返るイベントが続きます。
 
先頃、当時の世の中が彫刻家に何を求め、彫刻家たちがどのように戦争と向き合っていたのか、そういった点に関する考察が書かれた書籍が刊行されました
平瀬礼太著 平成25年7月1日 吉川弘文館刊 定価1,700円+税
 
戦争イメージから、平和のシンボルへ…。戦時体制下、戦争関連作品を創り続けた彫刻家の苦難の歴史から、近代日本彫刻の変容を描く。
戦時体制下、彫刻界ではどのような活動がなされていたのか。材料不足や表現活動の制限に不自由さを感じながらも、戦勝記念碑やモニュメントなど、戦争に関連した作品の創作を続けていた彫刻家たちの苦難の歴史を辿る。戦後、戦争イメージが、平和のシンボルに姿を変えながら現代まで残存している動向などにも言及し、近代日本彫刻の変容を描く。
 
目次(詳細項目略) 000
 近代彫刻の変容―プロローグ
 戦争と彫刻
  近代日本の彫刻と戦争
  芸術と社会
 戦争の時代
  戦争の時代への突入と彫刻
  彫刻制作への圧力
  傷痍軍人と彫刻
 日米開戦の衝撃
  変転相次ぐ彫刻活動
  盛り上がる彫刻界
  銅像の行方
  突き進む彫刻
 戦後へ
  敗戦とともに
  混乱の中で
 まだ終わらない戦争―エピローグ
 
光太郎についても随所に記述があります。
 
戦時中、光太郎は詩の方面では大政翼賛会文化部、中央協力会議などに関わった他、日本文学報国会の詩部会長の任に就いていました。そして実際に戦意高揚の詩を多数発表しています。
 
彫刻の方面では、実作としては他の彫刻家のように兵士の像などを造ったわけではありませんが、昭和17年(1942)には造営彫塑人会顧問に推され、就任しています。この会はその綱領によれば、「大東亜建設の国家的要請に即応して国威宣揚、日本的モニュマンタル彫塑を完成して、指導的世界文化の確立を期すこと、国民的造営事業に対し挺身隊たらんとすること」が謳われたそうです。
 
その発会式での光太郎の演説が残っています。一部、抜粋します。
 
今、大東亜戦争の勃発によつて、日本国民は忽ち我が国体本然の姿に立ちかへり、御稜威の下、一切が国民の総力によつて成るべきことを確認するに至りました。この時記念碑的製作に従ふ吾等彫刻家は再び祖先の芸術精神を精神として、おのづから昨日の狭小な風習をあらたむべきは当然のことであります。此の造営彫塑人会の志すところは即ち、聖代に生をうけた彫刻家の総力をかかる時代に値する記念碑的彫刻の本然の姿が如何やうのものである可きかを究めようとするものでありませう。
 
著者の平瀬氏、この辺りに関して「ここには「緑色の太陽」があってもいいと個性尊重を謳いあげた往年の高村はいない。」と評します。ある意味、その通りです。
 
こうした戦時の彫刻界の流れについての考察が本書の中心です。一読の価値大いにあり、です。
 
ところで、著者の平瀬礼太氏、姫路市立美術館の学芸員さんで、当方、以前の調査で大いにお世話になった方です。明日はその辺りを。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月6日

昭和23年(1948)の今日、この月初めにできた面疔(めんちょう)がますます腫れたことを日記に記しました。

 
「面疔」は「とびひ」などと同じく黄色ブドウ球菌による感染症です。戦後の不自由な山小屋住まいの中では、このような苦労もあったのですね。

【今日は何の日・光太郎】 7月26日

大正4年(1915)の今日、天弦堂書房から評論『印象主義の思想と芸術』が刊行されました。
 
光太郎が単独で著したものとしては、その前年に刊行された詩集『道程』に続き、2冊目の書籍です。文庫判250ページほど。当時の定価で50銭です。

当方、カバーなしの裸本を一冊持っています。画像は扉と奥付です。
 
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少し前に古書店のサイトでカバー付きが売りに出ていたのですが、12,000円。そのくらいしてもおかしくありません。というか、相場から考えるとむしろ安いような気がしました。しかし12,000円という金額は、絶対評価としては安い金額ではありません。そう思っているうちに売れてしまいました。
 
目次を見ると、第一章は印象主義の概観。その後、二章から八章まで、代表的な作家一人ずつを論じています。マネ、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ドガ、セザンヌ。さらに後期印象派―ゴッホ、ゴーギャン、マチス―などについての簡単な記述もあります。
 
光太郎が紹介される際、「彫刻家、詩人」とされることが多くあります。たしかに光太郎は自分では「私は何を措いても彫刻家である」と述べていますし、好むと好まざるとに関わらず、詩人としての名声も高かったのは事実です。
 
しかし、筑摩書房版『高村光太郎全集』を見ると、この「印象主義の思想と芸術」を含む評論の類が非常に多い事に気づきます。その内容も美術や文学など多岐にわたるのですが、それぞれに異彩を放つものです。といって、途方もない論旨を展開しているわけではなく、ある意味、当たり前のことを当たり前に書いていながら、それが当たり前に感じられず、妙に納得させられる、そういう評論が多いのです。
 
もう少し、「評論家」としての光太郎にスポットが当たってもいいのでは、と感じます。
 
さて、『印象主義の思想と芸術』、のちに戦時中の評論集『造形美論』に収められた他、戦後には「筑摩叢書」の一冊として再刊されています。
 
ところがそれ以前に、大正11年に天弦堂版の紙型をそのまま使って、三徳社という出版社から再刊された記録があります。同社からこの年12月刊行の吉江孤雁『近代神秘主義の思想』の巻末広告に、同社の刊行物のラインナップとして『印象主義の思想と芸術』が入っています。
 
ただ、現物が確認できません。実際に刊行されたのか、広告のみ先行し、結局は刊行されなかったのか、不明です。
 
三徳社は、大正6年(1917)に中村徳治郎によって創業、他社の古い紙型によって旧刊書をしばしば再生した出版社だそうです。のちに「白楊社」と改称したということですが、ネットではその時期が大正10年(1921)となっているページがあります。しかし、国会図書館のデジタルデータでは同12年(1923)の刊行物も「三徳社」として登録されています。
 
情報をお持ちの方は、ご教示いただければ幸いです。

昨日のブログでご紹介しましたが、かの夏目漱石は美術に006も造詣の深い作家でした。
 
まとまった展覧会評としては唯一のものだそうですが、大正元年(1912)の『東京朝日新聞』に、12回にわたって「文展と芸術」という評論を書きました。「文展」とは「文部省美術展覧会」。いわゆるアカデミズム系の展覧会で、正統派の美術家はここでの入選を至上の目標にしていたと言えます。第一部・日本画、第二部・西洋画、第三部・彫刻の部立てで、上野公園竹之台陳列館で開催されていました。大正元年で6回めの開催でした。

さて、漱石の「文展と芸術」。その第一回の書き出しはこうです。
 
芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである。
 
注・当時は送り仮名のルールがまだ確立されていませんので、「はじまって」は「始まつて」ではなく「始つて」、「おわる」も「終わる」でなく「終る」と表記されています。
 
この漱石の言に光太郎が噛みつきました。
 
『読売新聞』にやはり12回にわたって連載された光太郎の文展評「西洋画所見」の第8回で、光太郎はこう書きます。
 
この頃よく人から芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ陳腐な言をきく。此は夏目漱石氏が此の展覧会について近頃書かれた感想文に流行の 源(みなもと)を有してゐるのだといふ事である。
  (中略)
私の考へでは此一句はかなり不明瞭だとも思へるし、又曖昧だとも思へる。殊に芸術作家の側から言ふと不満でもある。
 
光太郎の論旨は、芸術作品に自己が投影されるのは当然のことであり、ことさら「自己を表現しよう」と思って制作を始めたことはなく、漱石の「自己の表現に始つて」という言には承服できないということです。
 
ただし、光太郎は「文展と芸術」を熟読していなかったようで、「西洋画所見」中には
 
私はつい其(注・「文展と芸術」)を読過する機会がなかつたので、此に加へた説明と條件とを全く知らないでゐる。
 
という一節もあります。
 
こうした光太郎の態度に漱石は不快感を隠しません。十一月十四日付の津田青楓宛て書簡から。
 
 高村君の批評の出てゐる読売新聞もありがたう 一寸あけて見たら芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ小生の言を曖昧だといつてゐます、夫から陳腐だと断言してゐます、其癖まだ読まないと明言してゐます。私は高村君の態度を軽薄でいやだと感じました夫(それ)であとを読む気になりません新聞は其儘たゝんで置きました。然し送つて下さつた事に対してはあつく御礼を申上ます
 
実は漱石の言は、芸術は何を表現するのか、芸術は誰のためにあるのかという問いに対する謂で、間接的に文展出品作の没個性や権威主義を批判するものであり、よく読めば光太郎は反論どころか共鳴するはずだという説が強いのです(竹長吉正『若き日の漱石』平成七年 右文書院 他)。
 
結局、漱石の方では黙殺という形を取り、論争には発展しませんでしたが、「文展と芸術」をよく読まず噛みついた光太郎に非があるのは明白です。
 
漱石は度量の広いところもありました。この年、時を同じくする十月十五日から十一月三日まで、読売新聞社三階で、光太郎、岸田劉生、木村荘八らによるヒユウザン会(のち「フユウザン会」と改称)第一回展覧会が開催され、反文展の会と話題を呼びました。光太郎は油絵「食卓の一部」「つつじ」「自画像」「少女」を出品。このうち「つつじ」は漱石と一緒に会場を訪れた寺田寅彦に買われたそうです。一緒にいた漱石は別に寺田を咎めたりはしていません。
 
ちなみに智恵子の出品も予告されたが実現しませんでした。
 
こうしたバトルについて、現在開催中の「夏目漱石の美術世界展」、それにリンクした雑誌『芸術新潮』の今月号、NHK制作の「日曜美術館」等で取り上げてくれれば、と残念です。
 
テレビで取り上げる、といえば、昨夜放映されたBS朝日の番組「にほん風景遺産「会津・二本松 二つの城物語」」で、光太郎の詩「あどけない話」「樹下の二人」が紹介されました。ありがたいことです。

 
【今日は何の日・光太郎】 6月5日

昭和8年(1933)の今日、岩波書店から「岩波講座 世界文学」第七回配本として、光太郎著『現代の彫刻』が刊行されました。
 
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当時の世界の彫刻界について、非常にわかりやすく書かれています。
 
当方、昔、神田の古書店で200円で購入しました。確かにペーパーバックの薄い書籍ですが、それにしても200円は光太郎に失礼だろう、と憤慨しつつ買いました。安く手に入ったのはいいのですが(笑)……。

昨日と今日は、以前のこのブログで紹介した明治古典会七夕古書入札会の一般公開でしたが、昨日も今日も他に所用があり、結局行きませんでした。
 
さて、先日、石川光明やら大熊氏廣やら、明治の日本近代彫刻草創期の彫刻家の話題を書きましたので、手持ちの資料の中からそのあたりに関するものを引っ張り出しました。暇をみて読み返したいと思っています。 

明治の彫塑「像ヲ造ル術」以後」

平成3年(1991)3月30日 中村傳三郎著 文彩社 定価4000円+税

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書き下ろしではないのですが、結果的に明治期の彫刻の編年体的通観がなされています。それにしても、帯がいいですね。内容もさることながら、この帯に惹かれて購入したことを覚えています。 

平成6年(1994)3月1日 田中修二著 吉川弘文館 定価6,214円+税

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『明治の彫塑』がどちらかというと編年体で書かれているのに対し、こちらはどちらかというと紀伝体です。高村光雲、後藤貞行、大熊氏廣の三人について、一章ずつ費やして論じています。後藤貞行はやはり東京美術学校に奉職した彫刻家で、動物彫刻を得意とし、「楠木正成像」の馬、「西郷隆盛像」の犬を手がけています。他に、石川光明、米原雲海ら同時代の彫刻家、朝倉文夫、荻原守衛ら次の世代の彫刻家にも触れています。
 
明日はやはり以前のこのブログで紹介した練馬区立美術館さんの<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」に行って参ります。午後3時からなので、午前中は調査。日曜は国会図書館さん、駒場の日本近代文学館さんが休みですので、木場の東京都現代美術館さんに行きます。美術館でも、図書館のように図書の閲覧サービス等を行っているところがあり、東京都現代美術館さんもその一つです。

新刊情報です。 

スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡

坂本富江著 牧歌舎 平成24年7月10日 定価1,800円+税

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これも楽しみにしていた書籍の一つです。著者の坂本様から6月下旬に刊行予定と御案内を頂いておりましたが、少しずれ込んだようです。昨日届きました。
 
著者の坂本様は、若かりし頃の智恵子も所属していた太平洋画会の後身、太平洋美術会の会員(智恵子に惚れ込むあまり入会されたそうです)。高村光太郎研究会や福島の智恵子の里レモン会の会員でもあられます。
実は当方、タイトルの「スケッチで訪ねる」という文言から、勝手に単なる画集のようなものだろうと思いこんでいました。しかし、さにあらず。確かに坂本様のスケッチもたくさん載っていますが、それだけでなく、光太郎・智恵子ゆかりの地を訪れたレポートがびっしり書かれています。思わず一気読みしてしまいました。
 
画像でお判りになるかと思いますが、帯には渡辺えりさんの推薦文が掲載されています。曰く、「坂本さんのスケッチは温かく、まるで智恵子を抱きしめているように思える。智恵子自身が、故郷の山や川や植物を坂本さんと一緒に描いているようだ。」なるほど、その通りです。
 
驚いたことに、全ページカラー刷りの豪華な造りです(鉛筆スケッチはともかく、水彩でのスケッチはカラーでなければしょうがないといえばそれまでですが)。収められたスケッチは150点近く。その点数の多さもさることながら、訪れられた場所も実に多方面にわたっていて、その御労苦に頭が下がります(なんと、17年分のご成果だそうです)。定番の二本松、犬吠埼、十和田湖などはもちろん、智恵子が短期間暮らしていた雑司ヶ谷周辺や、1ヶ月程入院していた九段坂病院、人里離れた福島の不動湯温泉(光太郎直筆の宿帳が今も残っています)などなど。
 
そして文章を読むと、いろいろな場所で体当たり的取材を敢行されているバイタリティーにも感心させられました。さらに行間から滲み出る智恵子への愛惜の思いの深さ……。素晴らしい!
 
肝心のスケッチは、150点近くも収められていながら決してゴテゴテせず、全編を通して何というか、一つの統一された流れを感じました。時々、全ページカラー刷りというと「飲み屋街のネオンか?」と突っ込みたくなるようなけばけばしい書籍がありますが、この本はそういうことはまったくありません。表紙や見返し、年譜のページなど、智恵子が好きだったというエメラルドグリーンが非常に効果的に使われ、爽やかな感じです。さすがに絵心のある人は違いますね。羨ましい限りです。
 
是非とも第二弾「スケッチで訪ねる光太郎の旅」を出していただきたいものです。

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