カテゴリ:彫刻/絵画/アート等 > 美術評論

001古いというほど古い訳ではありませんが、こんな書籍を入手しました。

昭和62年(1987)刊行の『岩手の美術と共に歩んで』。著者は岩手大学名誉教授であらせられた画家の故・佐々木一郎氏(大正3年=1914~平成21年=2009)。版元の記載がなく、おそらく自費出版と思われます。

先頃、花巻駅前の「やすらぎの像」について書きました時に、作者の故・池田次男氏が岩手県立美術工芸学校に学ばれたことを知り、同校について調査中、この書籍の存在を知りました。

佐々木氏は同校の活動を通じて光太郎とも親しく、『高村光太郎全集』にその名が頻出します。さらにこの書籍に光太郎に関する回想等が載っているということですので、購入しました。

手元に届き、開いてみてまず驚いたのは、巻頭のグラビアページ。昭和23年(1948)、美術工芸学校開校の際に光太郎が寄せた、原稿用紙4枚にわたる祝辞がそのままの形で掲載されていました。
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祝辞自体は『高村光太郎全集』第11巻に収録されており、初めて読んだわけではありませんが、光太郎の文字で読むと、また違った印象でした。

そして、光太郎の写真。
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キャプションがなく、正確な日付が不明ですが、右に写っている式次第が「校舎落成式次第」となっており、おそらく開校の翌年・昭和24年(1949)の11月17日です。光太郎は前年の開校式には欠席しましたが、校舎落成式には出席したというのが初めて確認できました。というのは、この年の光太郎日記が失われており、11月に盛岡に行っていたことは分かっていたものの、詳細な行動が今一つ不明であるためです。

また、別の日の写真。
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こちらのキャプションは「高村光太郎先生の講演」とのみ書かれており、年月日は不明です。光太郎が同校で講演(講話)をしたのは、確認できている限り、上記の昭和24年(1949)の11月以外に、昭和25年(1950)の1月と5月、昭和27年(1952)の7月です。手前に写っている生徒たちの服装、夏服と冬服が混在していることから、昭和25年(1950)5月がもっともあり得るかな、という感じですね。

こんな写真も。
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「校舎落成作品展での高村先生」だそうで。すると、最初の写真と同じ昭和24年(1949)ですね。この写真は花巻高村光太郎記念館さんの説明パネルにも使われていた記憶があります。

グラビアページ以外の本文でも、光太郎に関して随所に触れられています。上記の光太郎が寄せた開校式祝辞、同じく光太郎による「第一回卒業式によせて」(昭和26年=1951)は全文が収録されていますし、「高村先生との出会い」「美校と高村先生」という項があります。

こんな一節が。光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪問した際の記述です。

 或日、先生をたずねた時、先生はまだやすんでおられた。掛布団の上に軍隊用の毛布をかけられ、その上を茣蓙で覆うておられたが、すき間からの雪が、休んでおられる先生の体のとおりうっすらと白く積っていて、何とごあいさつしたらよいものか、言葉も出なかった。

寝ている布団にもうっすらと雪が積もることがあった、というエピソードの具体的な証言です。

それから、喀血した血の溜まった洗面器を見せられたことも紹介されています。いつも接していた村人や花巻町の人々などには、結核の件は秘匿していた光太郎も、時折訪ねてくるだけの佐々木氏には隠さなかったのですね。

その他、美術工芸学校に関わったりした、様々な岩手の美術家たちのエピソード等が語られています。深沢省三・紅子夫妻、舟越保武、森口多里、堀江赳、萬鉄五郎などなど。さらに当方も何度か足を運んだ盛岡市の岩手県立美術館が開館に至るまでの経緯なども。

岩手は美の世界でも日本のホープだと思っている」という光太郎の言葉が引かれています。たしかに、ある意味そういう部分があるのだな、と納得させられる書籍でした。

古書市場等にて入手可能です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

尚二十日清潔法検査日につき十九日に掃除しておくやうにとの事。

昭和21年(1946)9月17日の日記より 光太郎64歳

山小屋を訪れた村人からの伝言です。「清潔法検査」は、伝染病予防などのため、地域の自治会や市町村の担当者が各戸を廻って衛生状態等を点検したことだそうです。

新刊です。

書の風流 近代藝術家の美学

2021年1月31日 根本知著 春陽堂書店 定価2,200円+税

様々なジャンルの芸術家の代表的な書をビジュアルに見せながら、彼らの美学を論じる!

本書に登場する藝術家は、自身の専門分野以外に、「書」にも勤しんだ。それは、展覧会で審査されるものではないから、 まさに「風流」だった。さらには自身の藝術から抽出された美学をもって筆をとったため、どの人物の書も実に個性的だった。 よって本書では、その美学を一つずつ浮き彫りにすることを目標にした(「はじめに」より)

著者紹介
根本 知(ネモトサトシ)(著/文)
書家。平成25年、大東文化大学大学院博士課程修了。博士号(書道学)取得。 現在、大東文化大学文学部書道学科、放送大学教養学部人間と文化コース、大東文化大学第一高等学校、 日本橋三越カルチャーサロンなどで教鞭を執る。 テレビ・雑誌でも活躍中。
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目次
 はじめに
 松田正平 書と原点
   松田正平の評価 犬馬難鬼魅易 書について
 「書く」と「掻く」
 熊谷守一 書と心象
  身の丈に合うことば 守一の生活 小さなもの音
  守一の絵とフォーヴ へたも書のうち
 柳宗悦 書と用
  民藝について 独走と作為 「こと」と「もの」
  他力道 用の美について 書の模様化
  柳宗悦の書の原点
 白井晟一 書と常
  簡素な美 特異な工夫 戦争と原爆の図
  原爆堂計画 縄文的なるもの
  ヤスパースと原爆堂
 内側に満ちる光
 中川一政 書と遅筆
  一政の絵について 一政の読みやすい書
  一政の書に対する姿勢 一政と金冬心 自分のための技術 ムーヴマン 一政の眼
 高村光太郎   書と造型
  光雲と智恵子 姿勢は河の如く、動勢は水の流の如く 造型美論 書について
 武者小路実篤 書とことば
  「新しき村の精神」 「天に星 地に花 人に愛」 「自然は不思議」
  「君は君 我は我なり されど仲よき」
「龍となれ 雲自づと来たる」 戦後の書壇について
 おわりに

基本、書道論です。しかし、取り上げられている人々は、光太郎を含め、いわゆる「書家」ではありません。武者小路を除いて(武者も文人画的なものをよく描いていましたが)、全員が美術家です。そして程度の差こそあれ、それぞれに優れた書も残したことで有名。そこで、彼等の美術造型意識が、ある種の「余技」的な書作品にどう反映されているか、といった論考です。したがって、彼等の書そのものより、その背景がどうであったのかといった点に主眼が置かれ、いっぷう変わった書論集となっています。

おどろいたのは、光太郎ともども熊谷守一と中川一政が取り上げられていること。この三人、昨年開催予定だったもののコロナ禍で中止となった、富山県水墨美術館さんでの「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」ともろにかぶります。やはり美術界から書をよくした人物というと、この3人は外せないのかな、という感じですね。

ちなみに富山の展覧会、来年度以降に開催の方向、と、公式HPに出ました。まだ確定ではないようですが、当方としましても、諸方への作品の借り受けや図録の編集など、数年越しに関わっていた展覧会ですし、何より、ぜひ皆さんに光太郎書の優品の数々(本邦初公開のものも多数展示予定でした)をご覧頂きたいので、立ち消えにならないようにと願うばかりです。
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閑話休題。本書で取り上げられている人物は、熊谷、中川以外にも、光太郎と浅からぬ縁。柳宗悦と武者は光太郎の朋友でしたし、建築家の白井晟一は高村光太郎賞造型部門の受賞者です。

そういった意味でも興味深い一書でした。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

学校のうしろに一軒、家を建てかけてゐる。村人多数にて萱ぶき屋根の萱をふいてゐる。棟の方に萱の束を並べてゐるのが見える。春昼の普請風景のどかに見える。

昭和21年(1946)5月5日の日記より 光太郎64歳

萱(茅)葺き屋根、いいですねぇ。……と、光太郎も思ったことでしょう(笑)。

明治美術学会さん発行の雑誌『近代画説』。雑誌といってもハードカバーに近い上製で、パラフィン紙がかけられた立派なものです。先月発行された第29号、執筆者のお一人である小杉放菴記念日光美術館学芸員の迫内祐司氏からいただきました。多謝。

氏の玉稿は「今戸精司――趣味人としての彫刻家」。光太郎と東京美術学校彫刻科で同級生だった今戸精司(明治14年=1881~大正8年=1919)に関する労作です。明治期の光太郎の日記にはその名が頻出します。また、武者小路実篤や志賀直哉ら白樺派の作家と親しく、光太郎と武者を引き合わせた人物でもあるそうです。
9784908287336 000
近代日本美術史は、作品の現存しない作家をいかに扱うことができるか?」という特集の中の一篇で、題名の通り、今戸の彫刻は現存が確認できていないそうです。年譜を読むと、確かに数え39歳の短い生涯でしたが、各種展覧会に出品したり、作品の頒布会が行われたりもしていましたし、文芸誌『明星』や『スバル』に作品の写真が載ったり、短歌を寄稿したりもしています。それでも作品の現存が確認出来ていないのは、主に関西を拠点に活動していたことが大きいのでしょう。やはり昔からこうした部分でも東京偏重の風潮がありました。

加えて、今戸が目指した方向性が「生活空間にあった小品」とでもいうような彫刻で(そのため氏の玉稿、副題に「趣味人としての彫刻家」とあるわけです)、その流行が長く続かなかったこと、弟子という弟子が居なかったことなどで、その存在が忘れられていったということのようです。

決して技倆が劣っていたわけではないことは、残された作品の写真からもわかります。
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左は明治34年(1901)、美校在学中の作で「世捨人」。光太郎も出品した第2回彫塑会展出品作です。右は晩年の「貧婦」(大正7年=1918)、再興第5回院展に出品されたものです。

これほどの腕を持った彫刻家の作品の現存が確認できていないというのは、実に惜しいところです。ただ、迫内氏も指摘していますが、一般の収集家の元などにあることも考えられますし、情報をお持ちの方はご一報いただければ幸いです。ちなみに今戸は「蝸牛」と号していたこともあり、その名での作品もあったでしょう。

昭和12年(1937)、大阪で今戸の遺作展が開催され、光太郎はそれを観ることは叶いませんでしたが、今戸を偲ぶ短歌三首を送っています。いずれも『高村光太郎全集』に漏れていたものでした。

わが友の今戸精司はしらぶれぬ物の一義をたゞ追ひしため
わが友の今戸精司は捨石となるをよろこび世を果てしかな
わが友の今戸精司は色しろくまなこつぶらに骨太かりき

しらぶれぬ」は古語で「調子に乗らない」といった意味です。

昨年亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生、今戸の追悼文集『追遠』(これも稀覯書です)を元に、「今戸精司略伝」を書かれ、『光太郎資料』第4号(昭和36年=1961)に発表されました(迫内氏、これをだいぶ参照されたそうです)。しかし、北川先生、『追遠』刊行後に寄せられた上記短歌三首はご存じなかったようです。

ちなみに北川先生一周忌となりましたが、この一年間に、こうした『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎作品等が、大量に見つかりました。それらを先生にお見せしたかった、という思いと、泉下の先生のお導きでそれらを見つけることが出来たのではないかという思いと、相半ばです。

さて、『近代画説』第29号、目次は以下の通り。迫内氏玉稿以外にも、忘れられかけた作家が多数取り上げられ、こうした作家の業績なりを伝えてゆくことの重要性、そして同時に謎の作家に光を当てることがいかに困難であるかも感じられ、頭の下がる思いでした。

[巻頭論攷]
・山本鼎の生いたち 付論 国柱会との関わり(金子一夫)
[特集 近代日本美術史は、作品の現存しない作家をいかに扱うことができるか?]
・特集解題 近代日本美術史は、作品の現存しない作家を
いかに扱うことができるか?(大谷省吾)
・国安稲香─京都の近代「彫塑」を育てた彫刻家(田中修二)
・今戸精司─趣味人としての彫刻家(迫内祐司)
・自己に忠実に生きようとした画家─船越三枝子(コウオジェイ マグダレナ)
・「近代日本美術史」は「女性人形作家」を扱うことができるのか?
─上村露子を例に(吉良智子)
[公募論文]
・公募論文の査読結果について(塩谷純)
・大阪博物場と同美術館─書を起点として─(前川知里)
・「民衆藝術家」矢崎千代二のパステル表現─「色の速写」と作品の値段─(横田香世)
・荒城季夫の昭和期美術批評─忘れられた〈良心〉(渡邊実希)
[研究発表〈要約〉]
・戦時下の東京美術学校─工芸技術講習所の活動と意義─(浅井ふたば)
・太田喜二郎研究─京都帝国大学関係者との交流を中心に─(植田彩芳子)
・矢崎千代二とパステル画会─「洋画の民衆化」を目指して─(横田香世)
・萬鐵五郎の雲と自画像─禅を視点とする解釈(澤田佳三)
・文展における美人画の隆盛と女性画家について─松園を中心に─(児島薫)
・山本鼎の生いたち─新資料による解明、そして国柱会のこと─(金子一夫)
・戦時下の書と空海(志邨匠子)
・前衛書家上田桑鳩に見る書のモダニズム
─「日本近代美術」を周縁から問い直す(向井晃子)
・太平洋画会日誌にみる研究所争議と太平洋美術学校の開校
─洪原会、NOVA美術協会の活動にもふれて(江川佳秀)
編集後記(児島薫)
明治美術学会 会員業績録(2019年4月1日~2020年3月31日)

各種オンライン書店等で購入可(定価3,000円+税)です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午后、木の枝の写生ペン画。「北方風物」へやるもの。葉書よりやや小にかく。

昭和21年(1946)3月2日の日記より 光太郎64歳

光太郎、7年間の山小屋暮らしの中で、折に触れ身の回りの自然や道具類などをスケッチし続けました。「北方風物」は、詩人の更科源蔵が北海道で刊行していた雑誌です。

前月に鉛筆で描いたものをペンで清書。そこで日付は2月15日となっています。

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今日は新聞のみですが……。

まず『日本経済新聞』さん、10日夕刊の掲載です。

読書日記 ナレーター 近藤サト(2) 「緑色の太陽」 芸術の核心を見る手助け

美術史や美術論が好きだ。といっても評論家や研究者による論考はいまいち肌に合わず、実作者の言葉にひかれる。一方でやはりアーティストは文章より作品のほうがすばらしいのが悩ましい。

そんな中で彫刻家であり詩人の高村光太郎による芸術論『緑色の太陽』(岩波文庫)は異彩を放つ。初めて手にしたのは90年代後半だったか。一読して私が覚えたのは、憤りだった。なぜこれを、小中学校で教えてくれなかったのかと。
表題作「緑色の太陽」に光太郎は記す。「僕が青いと思ってるものを人が赤だと見れば、その人が赤だと思うことを基本として、その人がそれを赤として如何(いか)に取扱っているかをSCHAETZEN(評価)したいのである」「人が『緑色の太陽』を画いても僕はこれを非なりとは言わないつもりである。僕にもそう見える事があるかも知れないからである」
太陽を緑色で描いていい。光太郎がこれを記したのは明治43年(1910年)。私の祖父母の時代に存在した論考だ。それなのに、私が幼いとき誰もそんなことは言わず、太陽は赤と刷り込まれ、芸術の核心から遠ざけられた。大人になり自分で探さなければ「緑色の太陽」にたどり着けないなんてあんまりだ。
光太郎の芸術論は、わかっているけれど言語化できないことを鮮やかに文章にする。結論を押しつけるのではなく、違う視点を差し出して、ものを見る手助けをしてくれる。もしかしたら光太郎は自信のない、私たちによく似た人物だったのではないか。居丈高な評論とは対照的な筆致から、そんなことも感じる。

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岩波文庫の『緑色の太陽』。当会顧問の北川太一先生による編集・解説で、昭和57年(1982)に刊行されました。光太郎生前に『緑色の太陽』という書籍があったわけではなく、光太郎の評論・エッセイから30篇ほどをセレクトして一冊にまとめたものです。標題は明治43年(1910)の雑誌『スバル』に発表された同名の評論から。「日本初の印象派宣言」と評されたり、光太郎と出会う前の智恵子がこれを読んで感激したりといったものです。001

近藤さん、テレビ東京系の美術番組「美の巨人たち」でナビゲーターを務められるなど、美術にも造詣が深く、光太郎の言わんとする点をよく押さえて下さっています。

一読して私が覚えたのは、憤りだった」。えっ、何でだよ! それがすぐ「なぜこれを、小中学校で教えてくれなかったのかと」。巧い構成です。

さて、岩波文庫『緑色の太陽』。岩波さんのサイトで調べてみましたところ、「在庫なし」扱いでした。古書市場では普通に入手できますが、これを機に重版を希望します。

文庫の重版といえば、新潮文庫版の『智恵子抄』、過日、都内の新刊書店で令和になってからの重版を見かけました。百二十何版だったかでした。ありがたい。

もう1件。過日の岩手花巻「高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の件を、地元紙『岩手日日』さんが報じて下さっています。 

詩人、彫刻家遺徳しのぶ 光太郎記念館講座 受講者が詩碑巡り

【花巻】高村光太郎記念館講座「詩と林檎(りんご)のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」は7日、花巻、北上両市内で開かれた。高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表=千葉県香取市=を講師に、受講者が両市に建つ詩碑を見学。本県に大きな足跡を残した詩人、彫刻家の遺徳をしのんだ。
 光太郎作品に親しむ男女27人が受講。花巻市花城町のまなび学園を発着点に、光太郎の文字を拡大して刻まれた「開拓に寄す」太田開拓三十周年記念碑=同市太田=や「ブランデンブルグ」詩碑=北上市二子町=などを現地確認した。
 名称や所在地、建立年などが示された資料が配付されたほか、小山代表が各地で詳細に説明。花巻市双葉町内に建つ「松庵寺」詩碑の説明では「(光太郎は)戦争中は(妻の)智恵子に関する詩を書かなかったが、戦後になって初めて書いたのがこの『松庵寺』。石碑もいつかは朽ち果ててしまう物であり、次世代に語り継がなければならない。ゆかりの地である岩手の皆さん、よろしくお願いします。」と呼び掛けていた。
 専門家の解説付きで詩碑を見回る貴重な機会だけに、どの受講者も満足そうな表情。
 同市豊沢町の照井富士子さん(67)は、「きのう詩集を一冊読み終えたばかりで、改めて感動した。ホテルでの昼食もおいしかったし、とても楽しかった。来年もぜひ参加したい」と顔をほころばせていた。

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「来年」があるかどうか分からないのですが(笑)。

書かれたのは顔見知りの記者さん。さも同行したかの如き書きぶりですが、最終見学地の松庵寺さんで待ちかまえていてそこだけでの取材でした(笑)。まぁ、受講者27名プラス市役所の方々、高村光太郎記念館のスタッフの皆さんも数名ずつ同行し、バスは満席、バスの後ろから乗用車一台での移動でしたし、時間も長かったのでそんなもんでしょう。

それにしても台風19号。1週間ずれていたら、と、ぞっとしました。前日のレモン忌にしてもこの碑巡りにしても、やはり雨男・光太郎のせいで(笑)、途中、パラパラと雨に見舞われましたが、パラパラ程度で助かりました。


【折々のことば・光太郎】

からだの中で養つたもの、うまく言ひ現はせないが、何といふか、全身を搏つやうなもの、さうだ、全身から湧きあがり燃えあがるものでなければだめだ。

談話筆記「芸術する心」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

談話筆記だけに光太郎の生の声がよく表されていますね。

今月15日の『毎日新聞』さん夕刊に、以下の記事が載りました。同紙特別編集委員・梅津時比古氏の、音楽に関する連載エッセイです。

音のかなたへ 自筆原稿からの音

 久しぶりに会った彼は、少し日に焼けたせいか、引き締まってたくましく見えた。
 ぼろぼろに古びて茶色になった箱入りの本をこちらへ差し出した。『ベートーヴェン研究 小原國芳編』(東京イデア書院)。
 「開けてください」と短く言った。
 箱から出してまず奥付を見ると、昭和二年十月二十日の発行である。
 何かが挟まれていてすぐにあいてしまった頁(ページ)には、「二つに裂かれたベエトオフエン(幻想スケッチ)」と題された高村光太郎の詩が載っていた。
 <(略)春がヴィインの空へやつて来て、/さつき窓から彼をのぞき込んだ。(略)>
 彫刻家、詩人の高村の作品の中でもよく知られた詩である。最後を結ぶのは<彼は二つに引き裂かれて存在を失ひ、/今こそあの超自然な静けさが忍んで来た。/オオケストラをぱたりと沈黙させる神の智慧が、/またあの窓から来たのである。>。ここに主眼があるのだろう。高村は、二つに引き裂くものを、人から裏切られる絶望と、 一人立つ歓喜として、その上で、自然を神の書物とするヨーロッパ根源の思想をベートーベンに見ている。
 頁に挟まっているのは何か。茶色に変色した松屋製の400字詰め原稿用紙2枚が紙のこよりでとじてあった。青いインクで「二つに裂かれたベエトオフエン(幻想スケッチ)」が書いてある。本では「ぢつとして」とあるのが原稿には「じつとして」となっているなど違いがある。
  彼の話では東京・神田の古本屋で本を買った後、その場で頁をめくっていると原稿が出てきたとのこと。店主が慌ててすぐ鑑定士を呼んで見せると、高村の自筆原稿に間違いないとの結果が出た。買い戻したいと言う店主を、支払いは済んだ、と振り切ってきたという。
 自筆と思われる字は、若々しい高ぶりが匂い立つ。高村のベートーベンに対する真摯( しんし)な思いが震えている。丁寧だが勢いのある青い字体のひとつひとつが、罫線(けいせん)からあふれ出ている。原稿用紙に音がはねる。こよりは最愛の智恵子がよったのでは、と想像も湧く。
 彼はそれを私にくれると言う。そんな貴重なものを、と固辞したが、譲らない。
 かつてレコード会社に勤めていた彼は、その後、仕事の変遷を経て、今は学生のときにアルバイトをしていた仕事に何十年ぶりかに復帰した。都内の公園にある池のボート番である。「ボートを洗うときの寒さが応えるが、毎日、沈んでゆく夕日を見ているのは至福」と言う。 自然はすなわち哲学なのだろう。高村の詩に書かれている、野にいるベートーベン像が重なった。 何かに打たれ、原稿付きの本を受け取った。

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光太郎の自筆詩稿がはさまった書籍を譲られた、というのです。

譲ってくれたという友人は、それを古書店で購入、古書店主はそれが挟まっていたことに気づいていなかったそうで、すると、たいした値をつけていなかったのでしょう。

鑑定士を呼んで見てもらったら、確かに光太郎の自筆原稿だったそうで(この場合の「鑑定士」というのがどういう人なのか興味深いところですが)、確かに画像で見ても光太郎の筆跡です。使われている原稿用紙もよく光太郎が使っていたもの。

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詩は、「二つに裂かれたベエトオフエン」。梅津氏曰くの「高村の作品の中でもよく知られた詩である」というのには疑問符が付きますが、昭和2年(1927)4月9日(火)の執筆で、初出は雑誌『全人』第10号(ベートーヴェン百年祭記念号)。『全人』は、玉川大学さんの広報誌として、現在も月刊で刊行が続いています。梅津氏が譲られたという『ベートーヴェン研究』は、同じ昭和2年の10月に出た、玉川大学さんの創立者・小原國芳の編刊です。おそらく光太郎の許諾を得て、『全人』から『ベートーヴェン研究』へ転載されたのでしょう。挟まっていたという詩稿は、その転載の際に改めて書き送ったか、『全人』掲載時に送られたか、いずれにしても玉川さんの関係者の旧蔵だったという可能性が高いと思われます。

全く別の可能性として、「二つに裂かれたベエトオフエン」は、昭和4年(1929)に新潮社さんから刊行された『現代詩人全集第9巻』にも転載されており、同書は光太郎自身が掲載詩を選択していますので、そちらからの流出ということも考えられなくはありません。ただし、『現代詩人全集第9巻』掲載時には、サブタイトル的な「(幻想スケツチ)」の語が除かれているので、やはりこの詩稿は昭和2年(1927)のものである可能性が高いと考えられます。

こういうこともあるのですね。


ちなみに、「二つに裂かれたベエトオフエン」、全文は以下の通りです。


      二つに裂かれたベエトオフエン
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 「病める小鳥」のやうにふくらがつて
 まろくじつとしてゐた彼は急に立つた。
 甥に苦しめられる憂鬱から、
 一週間も森へゆかなかつたのに驚いた。
 春がもうヴイインの空へやつて来て、
 さつき窓から彼をのぞき込んだ。
 水のせせらぎが何を彼に話しかけ、
 草の新芽がどんな新曲を持つて来たか、
 もう約束が分つたやうでもあり、
 また思ひも寄らないやうでもあり、
 いきなり家を飛び出さうとした彼は、
 ドアを明けると立ち止つた。
 今日はお祭、
 着かざつた町の人達でそこらが一ぱい。
 ベエトオフエンは靴をみた。
 靴の割れ目を見た。

 一時間も部屋を歩いたが怒は止まない。
 怒の当体の無い怒、
 仕方が無いので昔は人と喧嘩した。
 「私は世界に唯一人だ」と006
 いつかも手帳に書いてみた。
 彼は憤然として紙をとる。
 怒の底から出て来たのは、
 震へる手で書いてゐるのは、
 おゝ、何のテエマ。
 怒れる彼に落ちて来たのは、
 歓喜のテエマ。
 彼は二つに引き裂かれて存在を失ひ、
 今こそあの超自然な静けさが忍んで来た。
 オオケストラをぱたりと沈黙させる神の智慧が、
 またあの窓から来たのである。


別件ですが、光太郎自筆原稿というと、先月、こういうこともありました。

ネットオークションで光太郎の自筆原稿一枚が売りに出たのです。こちらは詩稿ではなく評論で、題は「神護寺金堂の薬師如来」。驚愕しました。それがいわば「ミッシングリンク」だったためです。

これは、昭和17年(1942)の7月から12月にかけ、雑誌『婦人公論』に連載された「日本美の源泉」の第4回の冒頭に当たります。連載終了後、同誌の編集者だった栗本和夫が、光太郎から送られてきた原稿34枚を和綴じに仕立て、保存していました。昭和47年(1972)には、中央公論美術出版さんが、それをそのまま復刻し、限定300部・定価15,000円で刊行しました。

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当会顧問・北川太一先生による同書の別冊解説から。

 結局三月(注・昭和19年=1944)から『婦人公論』は休刊、七月には「営業方針において戦時下国民の思想善導上許しがたい事実がある」として、中央公論社は改造社とともに情報局から自発的廃業を申し渡される。
 残務整理を担当するために残った栗本の仕事の一つに原稿処分のことがあった。永年の雑誌原稿は1ヶ月ごとに袋に収めて丁寧に保存されていたが、ひろげるとうず高く、八畳間いっぱいをこえる夥しい量であったという。原稿の散佚することをふせぐために、しかも、旧稿が目に触れてすら、危機が著者にも編集者にも及びかねないそんな情況の中で、栗本は朝から夕まで一週間にわたってそれらを破棄し続けた。
 しかし、どうしても破り捨てることの出来ない幾つかの草稿が栗本にはあった。その一つが光太郎の「日本美の源泉」である。くり返し探したけれど、どこで失われたのか、第四回の最初の一枚だけは、見つけることができなかった。

そこで、同書ではその1枚文だけ、掲載誌から起こした活字で埋めています。

その「ミッシングリンク」的な1枚が出て来たので、驚愕したのです。この1枚があれば、まさにコンプリートなわけで。旧蔵者は同じ中央公論社の湯川龍造という編集者だったそうで、他にも湯川旧蔵だった文豪の草稿類がごっそり売りに出され、その点でも驚愕しました。

こういうこともあるのですね。

それにしても、戦時中、中央公論社でこのような事態だったというのは、意外と言えば意外でした。もうすぐ平成も終わり、令和となりますが、こうした昭和の暗黒時代に戻るようなことがあってはいけないとつくづく思いました。しかし、「昭和」、「令和」の「和」つながりには、昭和の暗黒時代をこそ範としようとする現政権のどす黒い野望の如きものがほの見えるようで、素直に改元を喜べません。考えすぎでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

もうネコヤナギの花が出るだらう。林の中のあの立派なコブシにも白い花が一めんにさくだらう。今、山の中の早春は清冽なにほひに満ちてゐる。

散文「早春の山の花」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

書かれた日付は3月25日。岩手の山間部では、3月末で早春という感覚なのですね。

サンタさんはやっぱりいるのですね。昨年の000クリスマスイヴの日のこのブログで、国書刊行会さん刊行の『中村傳三郎美術評論集成』をご紹介しました。定価27,000円+税の大著ですのでなかなか手が出ないもので、「サンタさんが置いていってくれていないものか」と書いたところ、本当に届きました。

著者の故・中村傳三郎氏のご子息であらせられる中村徹氏がこのブログをご覧下さいまして、それなら、と贈って下さった次第です。深く感謝いたしております。

重さ1.65キログラム、1,000ページ余、刊行までに3年余りかかったというのもうなずけます。目次だけでも10ページ、それも二段組みで(本文も二段組み)です。

編集は、小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員の藤井明氏。氏からご労苦のさまを伺っておりましたが、実物を手にとって、改めてこれは大変だったろうな、と実感させられました。

「彫刻篇」「絵画篇」「工芸篇」に分かれ、国立博物館付属美術研究所(現・国立文化財機構東京文化財研究所)
に勤務されていた故・中村氏が、さまざまな新聞雑誌や展覧会図録などに発表された文章の集成です。ご専門が近代彫刻史だったため、「彫刻篇」の分量がもっとも多く、随所で光太郎や光雲に触れられています。その他、ロダンや荻原守衛、平櫛田中をはじめ、光太郎・光雲ゆかりの彫刻家が一堂に会している感があります。また、ともに光太郎と交流のあった鈴木政夫、土方久功など、一般にはほとんど知られていない彫刻家もしっかり紹介されているのには舌を巻きました。これを読まずして近代日本彫刻史を語るなかれ、という感がしました(当方もまだ読了していませんが(笑))。

なかなか個人では入手しにくいとは存じますが、およそ彫刻に関係する大学さんや美術館さん、それから公共図書館さんなどでは必ず置いてほしいものです。よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

私は美術家としての生活を聊か変へた。もつと変へるであらう。従来の美術家の生き方がだんだん堪へられなくなつて来た。もう自分にはロダン流の、(又従つて日本の九分通りの、或は全部の美術家の、)生活態度が内心の苦悶無しには続けてゆけない。

散文「近状」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

元々展覧会への出品をほとんどしなかった光太郎ですが、さらに、注文を受けて作品を作る、という行為にも疑義を感じ、このような発言をしています。それではいったいどうやって生活して行くんだ、ということになります。結局は、「内心の苦悶」を抱えながら、注文仕事やら光雲の代作や下職(肖像彫刻をやや苦手としていた光雲のための原型制作など)やらを続けて行かざるを得ませんでした。

重厚で良質な学術書を多数手がけられている国書刊行会さんの新刊です。

中村傳三郎美術評論集成

2018年11月2日  中村傳三郎著  藤井明編
書刊行会  定価27,000円+税

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目次
 彫刻篇
  第三科(彫塑)
  藤川勇造
  “鏡獅子”と首相 ほか
 絵画篇
  光風会展覚書
  自由美術
  下村観山、土田麦僊、富田渓仙(作品図版解説)ほか
 工芸篇
  推薦文(戸島甲喜)
  集団・版第一〇回展によせる
  現代工芸展をみて ほか
 解説 藤井明
 中村傳三郎著作リスト
 年譜

昭和5年に設立され、戦後、近代日本美術の研究を大きく発展させた東京文化財研究所。同研究所の彫刻部門を担い、日本におけるロダン評価を広めるなど今日の近代日本彫刻史研究の基礎を築いた中村傳三郎の美術論を集大成する。

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中村傳三郎は大正5年(1916)、兵庫出身の美術評論家。光太郎とも交流がありました。亡くなる3年前の平成3年(1991)、文彩社さんから 『明治の彫塑 「像ヲ作ル術」以後』という好著が出版されましたが、それ以外に研究紀要や美術雑誌などに発表したものの集成です。おそらく光太郎や、その父・光雲に触れられていると思われます。

「思われます」というのは、未入手なもので……。定価27,000円+税というところで二の足を踏んでいます。

編集に当たられたのは、このブログにたびたびご登場いただいている、小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員の藤井明氏。ことによると「献呈」の紙片が挟まって送られてくるかな、と不埒なことを考えていたのですが、あまちゃんだったようです(笑)。


いったいに、国書刊行会さんの刊行物はそうでして、今年2月には田中修二氏編『近代日本彫刻史』という、これまた重厚な書籍が出ています。

近代日本彫刻史

2018年2月21日 田中修二著 国書刊行会 定価14,000円+税

彫刻という領域を工芸的な造形なども含めて広く考察し、江戸時代から明治期、および昭和戦前・戦中期から戦後期という大きな時代の変化を連続的にとらえる視点を踏襲しつつ、個々の作家や作品についての記述を充実。近代日本彫刻史の通史として先例のない、包括的かつ学術的な書籍。今後の近代日本彫刻史研究における基本文献になるとともに、より広く、日本美術史や西洋の彫刻史を研究するうえでの必須参考文献。

目次
第一章 江戸から明治へ
 日本彫刻史のつながり 彫刻の境界 江戸時代の彫刻とは 江戸時代の仏像
 名工、名匠たち
 西洋彫刻との出会い 西洋人にとっての日本と彫刻 
 コラム①『光雲懐古談』に見る江戸の彫刻 
第二章 彫刻のはじまり 
 破壊と形成 「像」から「彫刻」へ 職人から彫刻家へ 工部美術学校の開校
 工部美術学校の教育と最初の洋風彫刻家たち 「彫刻」の成立 表現技法の交流
 コラム②彫刻と解剖学
第三章 「彫塑」の時代 
 東京美術学校 明治二〇年代の展開 銅像の時代 銅像、仏像、置物、人形
 「彫刻」と「彫塑」
 転換期としての明治三〇年代 文展へ 
 コラム③アール・ヌーヴォーと日本彫刻 
第四章 文展とロダニズム 
 明治四〇年代におけるそれぞれの世代 試みの場としての文展 文展の「進歩」
 彫刻を見る速度と距離 
「ロダン彫刻入京記」の時間と時代
 ロダニズムと近代日本彫刻史観 再興日本美術院彫刻部の創設
 
 第一次世界大戦とロダンの死 コラム④彫刻を支える人たち 
第五章 大正期における展開 
 両大戦間期の西洋彫刻 帝展、院展、二科展の彫刻 
 発表の場の多様化―東台彫塑会と曠原社など
 彫刻を語る言葉
 「古寺巡礼」の時代 彫刻家の生活 彫刻の普及と「地方」 関東大震災以後の彫刻
 コラム⑤描く彫刻家 
第六章 華やかな活気と戦争への道程 
 昭和期のはじまりと構造社 彫刻と建築の新たな関係 昭和前期における工芸の展開
 プロレタリア彫刻の動向と帝展彫刻の位置 在野展の興隆
 近代・清楚・古代―二科会、国画会の彫刻など 近代日本彫刻の歴史化
 「地方」への拡がり
 コラム⑥画家と彫刻 
第七章 戦争から戦後へ 
 帝展改組と彫刻界 戦時下における彫刻の主題 
 遠く離れたものへ―古典主義、植民地、シュルレアリスム 抽象とモニュメント
 戦時下の彫刻の位置
 戦争と彫刻と敗戦 戦後彫刻の出発点 平和の象徴としての彫刻
 コラム⑦近代日本彫刻とアジア 
第八章 戦後彫刻の展開 
 セメントと空と花と 在野団体の隆盛と抽象彫刻 具象表現の追求とその思想
 欧米からの影響
 「近代日本彫刻史」の成立 マネキンと怪獣 「彫刻」の変貌
 コラム⑧木彫表現の拡がり 
第九章 現代の彫刻へ 
 ネオ・ダダと読売アンデパンダン展 グループ展と団体展 画廊の空間
 彫刻を展示する場所
 新たな素材、技法、表現への試み 彫刻教育の様相
 「彫刻」への問いかけ
 彫刻の「環境」―「もの派」の誕生 大阪万博とその前後
 コラム⑨彫刻の自由──結びにかえて
年表 文献一覧 掲載図版一覧 索引

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さらに、やはり田中氏編で平成22年(2010)から同25年(2013)にかけて刊行された『近代日本彫刻集成』全三巻の重版も、今年出ました。 

近代日本彫刻集成

 幕末・明治編    2010/09/16 定価45,000円+税
 明治後期・大正編 2012/01/31 定価47,000円+税
 昭和前期編     2013/05/29 定価53,000円+税

カラー図版300点、モノクロ図版600点の圧倒的な作品写真、詳細な作品・作家解説、歴史的文献を再録し、近代日本彫刻が辿った歴史に沿って、内容をわかりやすく整理した初の本格的研究書。既存の近代日本彫刻史においては取り上げられることの少なかった作品や戦争で失われた銅像などの貴重な画像も多数掲載し、「近代日本彫刻」の全体像を提示する集成。
 
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もうこうなると、個人が購入するものではないのかな、という気もしますが……。


今日はクリスマスイヴ。明日の朝、眼が醒めたらこれら5冊、サンタさんが置いていってくれていないものかと、またまた不埒なことを考えています(笑)。


【折々のことば・光太郎】

自分が草で言へば路傍の雑草、木で言へば薪になる雑木、水で言へば地中の泉である事は既に知つてゐます。しかし此の大きな自然の中では萬物が自己の生活を十全に開展せしめ進展せしめて、互に其の同胞と呼びかはす事を許されてゐます。

散文「「一隅の卓」より 二」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

既に東京都心で暮らしていた壮年期から、自己も自然の一部、と、思い定めていた光太郎。たびたび北海道や東北の太平洋岸、或いは山間の温泉地などへの移住を夢見ていましたが、あくまで夢。約20年後、実際に花巻郊外の山村に落ち着くことになるとは、思っていなかったでしょう。

『日本経済新聞』さんと『朝日新聞』さんに碧海(おうみ)寿広氏著『仏像と日本人』(中公新書)の書評が出ました(『読売新聞』さんにも出たようですが、ネット上で読めません)。

まず、『日経』さん。光太郎の名も出して下さっています。 

仏像と日本人 碧海寿広著 信仰か芸術か 葛藤の近現代  

 本来的には信仰の対象であった仏像を、私たちは明治以降、美術作品として「鑑賞」の対象にもしていった。そしていま、日本人は仏像をどのような眼差(まなざ)しで見ているのか、その過程を丹念に追ったのが本書だ。

明治元年(1868年)の神仏分離令を契機とした廃仏毀釈の嵐は、寺院や仏像に巨大なダメージを与えた。そこからの復興の道筋として、寺院の什宝(じゅうほう)を「文化財」と見なし、国が保護するという形ができる。やがてそれらの文化財は、新しい「美術史」という学問の枠組みの中に取り込まれ、美術館・博物館制度の整備と軌を一にして、保護、研究、そして鑑賞の対象となっていった。
 こうした仏像の「鑑賞」は、戦前まで『古寺巡礼』の和辻哲郎を代表とする、教養を持つ男性たちの、いわばエリート文化の側面が強かった。しかし戦後の映像メディアの発達、奈良・京都への修学旅行の普及、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンなどを背景とした、古社寺や仏像が目的の「観光」は、性別・年齢・社会階層を問わない大衆文化へと変じていく。その間、和辻をはじめ、亀井勝一郎、高村光太郎、土門拳、入江泰吉、白洲正子ら「鑑賞」する者の中に常に生じていた、信仰か芸術かという葛藤への、それぞれの向き合い方への言及も非常に興味深い。
 そして現在、評者自身も文化財としての仏像の「鑑賞」を助け、促す、メディアでの活動を仕事としている。その立場から見たとき、学んだり考えたり、実際に仏像の前まで足を運んだりするステップを省き、直感的にその見方を示すことで、鑑賞の大衆化に貢献してきた、これまでの仏像写真のあり方が、変化していることを感じる。
 現在、所蔵先や画像権利者に対して支払う使用料が高額で、(紙媒体の制作経費が相対的に低下していることもあるが)メディア側が広報用に無料で提供される画像を頻繁に利用、切り口を特定の展覧会に依拠したものが目立つようになった。寺や美術館・博物館といった「場」から、展覧会という、結ばれてはほどかれる「こと」との関係性が強くなっていく結果、人々が仏像に向ける眼差しが今後どう変化する、あるいはしないのか、密(ひそ)かに注視している。

《評》美術ライター 橋本 麻里



続いて『朝日』さん。こちらは光太郎の名はありませんでしたが。 

(書評)『仏像と日本人』 碧海寿広〈著〉

 ■信仰の対象? 文化財とみる?
 このところ仏像ブームが000続いている。われわれは何を求めて仏像を見に行くのだろう。
 本書は、近現代において日本人が仏像とどのように向き合ってきたか、その変化を追う。面白いのは、見る側の視線が世情とともに揺れ動くことだ。
 明治のはじめ、仏像が大きな危機を迎えたのはよく知られている。仏教排斥運動によって、多くの寺や仏像が破壊されたのである。そのとき、それを救ったのが文化財という思想だった。万国博覧会への出展や、博物館での展示、さらには寺院自身が宝物館を建て、文化的価値の高いモノは国宝や文化財に指定されていった。つまり宗教性を薄めた結果、難を逃れることができたのである。有名なフェノロサと岡倉天心による法隆寺の秘仏開扉も、信仰を棚上げにしたからこそ可能になった出来事だった。
 その後、和辻哲郎の『古寺巡礼』が仏像鑑賞ブームを巻き起こしたが、戦争が始まると、人々はまた仏像に祈るようになる。
 信仰の対象とする立場と美術と見る立場の間で揺れ動いていくわけだが、それらは互いに対立するばかりではない。たとえ信仰心がなくとも、仏像を自分の足で訪ね歩くことによって受ける感動が、仏を感得する喜びとそんなに違うはずがない、と断じた白洲正子の慧眼(けいがん)には唸(うな)らされた。
 現在はどうだろう。サブカル視点で見ている人も少なくなさそうだが、各人が仏像を前に何らかの感情に包まれたなら、そこから個別の美や宗教の経験を創造できる、と本書はあらゆる態度を肯定して清々(すがすが)しい。
 実は私は、全国に散在する巨大仏(高さ何十メートルを超すような大仏)を訪ねて回ったことがある。そのときこれらの仏像をどういう態度で見ればいいかとまどった。美術として鑑賞するには大味だし、真剣に拝むには突飛(とっぴ)すぎた。仏像自体の枠組みさえも今後は変化していくのかもしれない。そんなことを思う。
 評・宮田珠己(エッセイスト)


なかなか注目を集めているようです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間の代弁者といふ以上、詩人は或る訴へを持つ。人間の心霊に対する訴、人間の感情に対する訴、さうして自然に向つての訴。詩人があらゆる段階を踏んで進み得る究極が、自然との同化、自然への没入、彼我圓融の境であることをしばしば見る。

散文「ホヰツトマンの事」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

その好例として、光太郎はワーズワースや芭蕉を挙げています。しかし、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンは、その境地をも超えた存在として語られています。曰く「彼は訴へない。ただぶちまける。彼の言葉は雨のやうにただざんざんと降る。」

そこで当方が思い出すのは、当会の祖・草野心平です。来週、心平の企画展が、山梨県立文学館さんで開幕します。また稿を改めてご紹介します。

新刊情報です。 

仏像と日本人 宗教と美の近現代

2018年7月25日  碧海(おうみ)寿広著 中央公論新社(中公新書) 定価860円+税 

仏像鑑賞が始まったのは、実は近代以降である。明治初期に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐、すべてに軍が優先された戦時下、レジャーに沸く高度経済成長期から、〝仏像ブーム〟の現代まで、人々はさまざまな思いで仏像と向き合ってきた。本書では、岡倉天心、和辻哲郎、土門拳、白洲正子、みうらじゅんなど各時代の、〝知識人〟を通して、日本人の感性の変化をたどる。劇的に変わった日本の宗教と美のあり方が明らかに。


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目次

 まえがき
 序章 仏像巡りの基層
  1 寺院とは何か  2 前近代の古寺巡礼  3 江戸の開帳
 第1章 日本美術史の構築と仏教―明治期
  1 廃仏毀釈と文化財  2 フェノロサ・岡倉天心・小川一真  3 博物館と寺院
 第2章 教養と古寺巡礼―大正期
  1 古美術を巡る風習  2 和辻哲郎の『古寺巡礼』  3 教養としての仏像
 第3章 戦時下の宗教復興―昭和戦前期
  1 危機の時代の仏像  2 美術の拒絶―亀井勝一郎
  3 秘仏をめぐる心性―高村光太郎
 第4章 仏像写真の時代―昭和戦後期①
  1 資料・美術・教化  2 古寺「写真」巡礼―土門拳と入江泰吉
  3 礼拝と展示のあいだ
 第5章 観光と宗教の交錯―昭和戦後期②
  1 古寺と仏像の観光化  2 信じることと歩くこと―白洲正子
  3 古都税をめぐる闘争
 終章 仏像巡りの現在
  1 仏像ブームと『見仏記』  2 美と宗教のゆくえ
 あとがき 参考文献


著者の碧海氏は、龍谷大学などで教鞭を執られている宗教学者。その見地から、近代以降の「仏像」受容の変遷を追った好著です。

第3章の「秘仏をめぐる心性―高村光太郎」では、永らく秘仏とされ、明治期にフェノロサによってそのヴェールが剥がされた法隆寺夢殿の救世観音像を軸に、光太郎の美術観を論じています。

要約すれば、光太郎にとって「美」とは、手にとって見せられる形而下的なものではなく、人意以上のものの介在によって生み出される形而上的なもの、従って、宗教観に近い美術観であったという指摘。「なるほど」と思いました。

他の部分はまだ斜め読みですが、路傍の石仏に花を手向け、信仰の対象として拝む見方と、博物館や美術館、さらには観光地と化した寺院で美術作品として仏像を見る見方との相剋、明治以降の「仏像」の見方の変遷と、そのターニングポイントに位置した人々を論じています。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

Ima koko de ‘Shi’(Uta) wo tsukuru toki ni kanjita koto wo itte miru to, fudan ‘Shi’ wo kaku toki ni niyakkai ni shite furisuteyô to shitemo hanarenai mono wa, kodomono toki kara kyôiku sareta Shina no moji to kangofû no iiarawashikata de aru ; sore ga jama ni natte honto ni Essentialna mono wo dasenai koto ga yoku aru. Dasu koto ga dekinai nominarazu, sono yûrei no yôna mono ga Essentialna mono wo kabusete shimatte, kaette namajikka omomuki wo soete kuru.

談話筆記「Rômaji de shi wo kaku toki no kokoromochi 」より
大正12年(1923) 光太郎41歳

雑誌『ローマ字』に載った談話筆記のため、ローマ字表記です。漢字仮名交じりに書き下してみます。

今ここで「詩」(歌)を作る時に感じた事を言つてみると、普段「詩」を書く時に荷厄介にして振り捨てようとしても離れないものは、子供の時から教育された支那の文字と漢語風の言ひ表し方である。それが邪魔になつてほんとにエツセンシヤルなものを出せない事がよくある。出す事が出来ないのみならず、その幽霊のやうなものがエツセンシヤルなものをかぶせてしまつて、却つてなまじつか趣をそへて来る。

言葉の有りようについて、深い省察を常に行っていた光太郎ならではの言です。ただ、戦時中には空疎な漢文訓読風、大言壮語調の翼賛詩を乱発することになってゆくのですが……。

昨日に引き続き、いただきものです。  

続装丁家で探す本 追補・訂正版

2018年6月20日 かわじもとたか著 杉並けやき出版発行 星雲社発売 定価6,000円+税

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むかしの装丁家だから活字で残したい−。装丁家430人の装丁本9100冊の情報を掲載。「ブログで探す装丁本」「田村泰次郎「肉体の門」の装丁家たち」など、装丁家について記した装丁挿話も収録。両開き本。【「TRC MARC」の商品解説】


労作です。光太郎を含む近現代の芸術家たちが誰のどんな本の装幀を手がけたのか、そのリストがメインです。その数429名、9,000冊余のデータが記され、456ページです。さらにそれと別にエッセイ的な「装丁挿話」167ページが掲載されています。

平成19年(2007)に正編が刊行され、今回その続編ということですが、こうしたリストを一冊にまとめたものの類例がないということで、貴重な資料です。

光太郎に関しては、協力させていただきました。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』別巻に、光太郎のそれのリストが載っていますので、その情報を提供しました。しかし、『高村光太郎全集』のリストは、「装幀・題字」で、書籍全体の装幀ではなく、題字のみ光太郎の揮毫というものも一緒に掲載されています。そこで、明らかにそういうものは除かれています。ただ、書籍によっては光太郎の関与の度合いが不明のものも多く、装幀まで手がけているのか、題字揮毫のみなのか不明というものも実は多く存在します。

著者のかわじ氏と書簡やメールのやりとりをした中で、とにかく日本では装幀者の扱いが低い、と言うことを嘆かれていました。正編の方の「TRC MARC」さんの商品解説では、「個人名の付いた美術館で何故装丁本を集めないのか? 図書館では何故、装丁家で本が探せないのか?」とありますが、まさにそのとおりですね。

昨今は少しずつ状況が改善されてきているようで、たとえば神奈川近代文学館さんのサイトの蔵書検索ページでは、雑誌を除く図書で「装幀・挿画者名」での検索が可能になっていますし、日本近代文学館さんのサイトの検索ページでも、個々の図書の注記欄に「装幀・誰々」と記述があればフリーワード検索で引っかかります。また、各地の文学館さんでも装幀に的を絞った企画展等が散見されます。しかし、確かにまだまだですね。

ちなみに光太郎に関しては、昭和48年(1973)、春秋社発行の『高村光太郎 造型』(『高村光太郎選集』別巻)に、その時点で把握されていた光太郎装幀、題字揮毫の書籍の図版が全て掲載されていますし、平成12年(2000)に静岡アートギャラリーさんで開催された「高村光太郎の書 智恵子の紙絵」展で、光太郎装幀、題字揮毫の書籍を多数展示して下さいました。

どうも当方の感覚としては、全体の装幀を手がけたものと、題字揮毫のみのものと、厳密に区別する必要性をあまり感じません。ただ、光太郎にしてみれば、題字を揮毫してあげたのに、装幀全体は気に入らない、みたいなケースはあったかもしれません。カラフルな表紙の色と、光太郎の枯淡的書体が合っていないと感じる書籍も実在します。

いずれにせよ、かわじ氏の提唱される「装幀者の地位向上」的な動きは、もっとあっていいと思われます。

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【折々のことば・光太郎】

人物がよく把握されており、瑣末的技巧におちいらず、彫刻としての構造も堅固であり、動勢も強く、全体としての魅力に富み、生きている。この生命観がその頃の一般彫刻に欠けていたのである。

散文「荻原守衛 北條虎吉肖像」より 
昭和26年(1951) 光太郎69歳

盟友・荻原守衛の作品評ではありますが、結局、光太郎自身が目指す彫刻の在り方が表現されているような気がします。

こういうケースは結構あるように思われます(文学系でも)。

新刊書籍です。  

彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ

2018年6月30日  小田原のどか編集  トポフィル  定価2,700円+税

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彫刻とは何か?── 「空白の時代、戦時の彫刻」と「この国の彫刻のはじまりへ」の2つの特集を柱に、 8本の書き下ろし論考、2人の彫刻家へのインタビュー、鼎談、詩を収録。 この国が孤立主義と軍国主義に落ちこんでいった時代と併走し、国家権力の流れを映し出した「彫刻」に光を当てる。 彫刻をめぐる叢書「彫刻 SCULPTURE」創刊号(次刊は2019年夏、刊行予定)。

目次
 【巻頭言】小田原のどか「近代を彫刻/超克する」
 【インタビュー】小谷元彦「彫刻の変わらなさ」
 【詩】山田亮太「報国」
 ■特集I:空白の時代、戦時の彫刻
  平瀬礼太「戦争に似合う彫刻」
  千葉慶「公共彫刻は立ったまま眠っている──神武天皇像・慰霊碑・八紘一宇の塔」
  椎名則明「鑿の競作──《和気清麻呂像》建設を巡る諸問題」
  迫内祐司「近代日本における戦争と彫刻の関係──全日本彫塑家連盟を中心に」
 【鼎談】白川昌生+金井直+小田原のどか「『彫刻の問題』、その射程」
 ■特集II:この国の彫刻のはじまりへ
  金子一夫「工部美術学校の彫刻教育の歴史的意義」
  髙橋幸次「ロダンの言説輸入と高村光太郎──「道」について」
  田中修二「彫刻と地方(試論)──朝倉文夫と北村西望の場合から」
  小田原のどか「空の台座──公共空間の女性裸体像をめぐって」
【インタビュー】青木野枝「彫刻という幸いについて」
[資料]マップ・年表・索引


文字色を変えて目立つようにしましたが、日大芸術学部さんの教授で、連翹忌にもご参加下さり、このブログにもたびたび登場されている髙橋幸次氏による論考「ロダンの言説輸入と高村光太郎──「道」について」が掲載されている他、他の箇所でもたびたび光太郎、それから光太郎の父・高村光雲に言及されています(索引がついているので、ありがたいかぎりです)。

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amazonさんで註文をしておりまして、届くのが来月初めとのことでしたが、昨日届きました。「早いな」と思って開封してみると、なんと「謹呈」の文字。髙橋先生のご指示だそうで、大感謝です。amazonさんの方はキャンセルいたしました。

髙橋先生以外にも、平成25年(2013)に刊行された『彫刻と戦争の近代』著者の平瀬礼太氏(以前は姫路市立美術館さんにお勤めでしたが、愛知県美術館さんに異動されているようです)、平成6年(1994)刊行の『近代日本最初の彫刻家』を書かれた田中修二氏(大分大学教授)など、見知ったお名前も多く、「ほう」という感じでした。

500ページ超の厚冊ですが、それだけに読み応えがありそうです。また、「彫刻を巡る叢書」の第1巻という位置づけだそうで、第2巻は来夏の刊行とのこと。すばらしい取り組みです。

それから、奥付によると、彫刻家の小田原のどか氏が「編集・造本・発行」となっており、なるほど、インパクトのある装幀ですし、中身も美しく仕上がっています。図版も多く、理解の手助けとなっています。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】002

手法は相当荒々しいけれど確かに彫刻になつている。当時のお人形じみた日本の彫刻の中にこんなものが作られているのはおもしろい。

散文「荻原守衛 銀盤(柳敬助像)」より
 
和26年(1951) 光太郎69歳

昨冬、信州安曇野の碌山美術館さんで、学芸員の武井敏氏との対談形式による美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」をやらせていただき、レジュメ作成のために、改めて光太郎が荻原守衛について書いたものを読み返してみました。明治末に彗星の如く現れ、強烈な光芒を遺して逝ってしまった守衛に対し、的確な讃辞が与えられています。それも、盟友としての身びいきに終始することなく、批判すべきところは批判しつつ、しかしそれを差し引いてもどれだけ守衛の彫刻を認めていたかが、文章の端々から伝わってきます。

そして、今日ご紹介した一節にしてもそうですが、守衛が亡くなって数十年経った光太郎最晩年まで、そのスタンスが不変だった点に、守衛に対する敬愛の念の深さを改めて感じます。

上記『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』では、守衛についてもかなり言及されています。

「角川文庫」ブランドを展開するKADOKAWAさんでのキャンペーンです。

角川文庫 創刊70周年 みんなで選ぶ、復刊総選挙 第一期 日本の名作

角川文庫は、本を生み出し続けて70年。記念すべき出版1作目は、ドストエフスキーの「罪と罰」でした。
それから、何千、何万もの作品を世に送り出す間に時代は変わり、流行も変わり、娯楽もずいぶん変わりました。もちろん、本の楽しみ方も例外ではありません。
ただ、どんなに年を経ようとも、ずっと変わらないのは角川文庫が「紙の本」を作りつづけること。
いつでも、どこでも、誰でも、ページをめくるだけで、自由気ままに楽しめる本を作りつづけたいのです。
そして、この先の10年も、100年も、本を愛するひとの一番近くで寄り添いたい。
今日もポケットや鞄の中にひそみ込み、自由な想像の世界へ連れ出す時を待っています。
みんなの文庫へ 発見!角川文庫 70周年

角川文庫創刊70年の歴史の中には、数多くの名作が存在します。この貴重なアーカイブの中から、創刊70周年記念復刊を行います!
日本の名作・日本のエンタテインメント・海外作品の3つのジャンルに分けて、3ヶ月毎に全3回の選挙を実施。
読者の皆様に選ばれた上位作品の各5点を、スペシャル新カバーで復刊いたします!


投票方法
候補作品リストから、投票したい作品を選び、投票フォームへ必要事項を入力したあと、投票ボタンをクリックしてください。
※期毎に3回まで投票できますが、同じ作品への投票は1回までとなります。(同じ作品への複数回の投票は1票として集計します)

投票期間
第一期「日本の名作」:2018年4月2日(月)12:00〜6月28日(木)23:59

プレゼント
投票いただいた読者の方から抽選で、一期あたり100名様・合計で300名様に、図書カードNEXT1000円分をプレゼント!

結果発表
結果発表は、10月上旬頃に本サイトにて公開予定です。


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というわけで、70周年を迎える角川文庫で、それを記002念しての復刊キャンペーンです。投票により、第一期「日本の名作」、第二期「日本のエンタテインメント」、第三期「海外作品」から、上位作品の各5点を、スペシャル新カバーで復刊するとのこと。

かつて角川文庫のラインナップに入っていた光太郎の著書が3冊、候補リストに入っています。

『高村光太郎詩集』。初版は光太郎が亡くなった昭和31年(1956)、当会の祖・草野心平の編集により刊行されました。解説も心平が担当しています。

大正9年(1920)から、昭和28年(1953)までの光太郎詩146篇が収められています。初版刊行当時、流通していた他の光太郎詩集との重複を出来るだけ避けようという意図が見える選択です。それでも『智恵子抄』中の数篇や、詩集『典型』に収められた連作詩「暗愚小伝」などは外せない、という判断だったようです。

評論集『美について』。初版刊行は昭和35年(1960)11月10030日。当会顧問・北川太一先生、それから光太郎と交流が深かった伊藤信吉の解説です。

同名の評論集は、昭和16年(1941)8月、道統社からハードカバーで刊行されていますが、収められている作品はかなり異なります。道統社版は大正10年代から刊行直前までの、どちらかというと随筆系が多いのですが、角川文庫版は明治期の「緑色の太陽」や、長文評伝「オーギュスト・ロダン」(昭和2年=1927)なども含みます。

さらに昭和42年(1967)には筑摩選書版が出ましたが、そちらとも作品の選択が異なります。

そして『詩集 道程 復元版』。大正3年(1914)に刊行された光太郎第一詩集『道程』の覆刻です。角川文庫としては昭和26年(1951)にラインナップに入り、その後、昭和43年(1968)に改版が刊行されました。いずれもやはり当会の祖・草野心平が解説を執筆しています。今回の候補リストでは、改版の刊行日時で登録されています。

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角川さんでは、同様の復刊キャンペーンを、平成元年(1989)にも、「40周年」ということで行いました。その際は、「外国文学」、「現代日本文学」、「社会 歴史」、「伝記」、「宗教 哲学 思想」、「日本古典」というジャンル分けで、合計30冊が復刊されました。そして『詩集 道程 復元版』も選ばれています。右上の画像がそれです。

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今回も、光太郎著書のうちのどれかが選ばれてほしいものです。このあと早速、当方はサイトから投票をしますが、皆さんもよろしくお願い申し上げます。組織票ということになると、何だか、プロ野球のオールスターファン投票や、アイドルグループの選抜総選挙のようですが(笑)。



【折々のことば・光太郎】

正真正銘な自己の五臓六腑の感じ、欲し、見、望み、指さすところを基本とし、第一歩的足がかりとする処から一切は始まるのである。これが中々出来ない。しかしこれを本当に踏むことが出来ればそれは確実に地を踏み、天を踏むことなのである。その上は感性と知性との錬磨によつて何処までも生え抜きの芸術を育成させることが出来るに違ひないし、死ぬまで進歩発展するに違ひない。さもないものは皆浮遊の芸術として終る。

散文「上野の現代洋画彫刻」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳


造形芸術についての発言ですが、文学についても言えることでしょう。「道程」によって、「第一歩的足がかり」を踏み、死ぬまで進歩発展(時には道を誤ったり、後退したりもしましたが)した光太郎の道程に思いが馳せられます。

新刊情報です。

片隅の美術と文学の話

2017年4月27日 求龍堂 酒井忠康著 定価2,800円+税

文豪や詩人、画家たちのサイドストーリー
 『鍵のない館長の抽斗』に続くエッセイ集第2弾。
 館長の抽斗奥からさらに出てきた、文学と美術をめぐる32の物語。
 現代日本を代表する美術史家、世田谷美術館館長・酒井忠康の軽妙かつ深い見識によって、近代日本を代表する文豪や詩人、画家たちの精神が映し出され、一筋縄ではいかない強烈な個性の作家たちの生き様が目に浮かぶ。
 「鏑木清方《三遊亭円朝》をめぐる話」…鏑木清方と麻生三郎が、三遊亭円朝を挟み、時空を超えて江戸と昭和を繫ぐ。「川端康成と古賀春江」…川端康成の心を揺らし続けた画家・古賀春江について。「芥川龍之介の河童の絵」…芥川龍之介の人生を写したかのような自身による河童の絵の話。「渋澤龍彦の最後の注文書」…偶然に見せてもらえた、生前最後の本の注文書について等、読み出すと止められない、読書心をくすぐる名エッセイ集。

目次
 Ⅰ文学と美術
  志賀直哉と「美術」
  高村光太郎―パリで秘密にしたもの001
  高村光太郎の留学体験

  鏑木清方《三遊亭円朝》をめぐる話
  谷崎潤一郎の美的側面
  夢二と同時代の美術
  川端康成と古賀春江
  芥川龍之介の河童の絵
  『枕草子』に駆らられた断章
  岡倉天心の『茶の本』―もっもっと深く知りたい日本
  夏目漱石の美術批評「文展と芸術」
  時代をとらえた眼の人

 Ⅱ詩と絵画
  村山塊多と詩と絵画
  萩原朔太郎の装幀
  西脇順三郎の絵
  幻影の人、西脇順三郎の詩と絵画
   対談 吉増剛造(詩人)×酒井忠康
  「瀧口修造 夢の漂流物」展に寄せて
  文具店の溝口修造
  中島敦と土方久功
  喪失と回生と―保田與重郎
  吉田一穂の書と絵のこと
  高見順と素描
  画人・三好豊一郎002
  画家の詩、詩人の絵
   対談 窪島誠一郎(無言館館長)×酒井忠康
 
 Ⅲ文学散歩
  かまくら文士の片影
  安岡章太郎展の一隅
  近藤啓太郎『大観伝』にまつわる消された話
  渋澤龍彦の最後の注文書
  ある日の磯田光一
  前田愛と小林清親
  ある消息―山田稔著『マビヨン通りの店』
  曠野の一軒家―米村晃太郎と神田日勝
  再会の夜の雪道―加藤多一

 Ⅳ描かれたものがたり
  美術と文学の共演

 あとがき


世田谷美術館館長の酒井忠康氏による、雑誌、展覧会図録などに発表された散文、対談を集めたものです。

第一章で、「高村光太郎―パリで秘密にしたもの」「高村光太郎の留学体験」の2編が配されているほか、光太郎と交流のあった人物をメインにした項などでも、光太郎に触れる箇所があります。村山槐多の項、平塚市美術館さんから全国を巡回した「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」展図録に掲載された、窪島誠一郎氏との対談など。

その他、光太郎には触れられないものの、やはり交流のあった人物が多く取り上げられており、興味深く拝読しております。志賀直哉、岡倉天心、夏目漱石、萩原朔太郎、土方久功、高見順などなど。

酒井氏のご著作、昨秋にはみすず書房さんから、『芸術の海をゆく人 回想の土方定一』が刊行され、やはり光太郎にも触れられています。あわせてお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

なにがし九段のさす駒は 見えない造化の絲を持つ。 飛車、角、金、銀、 桂馬の道化にいたるまで、 うてば響いて自然とはたらき 寄せればかへし、 ちればあつまり、 波のやうでもあり、雲のやうでもあり、 はつきりは誰も知らぬ深いところから ただなごやかに動いてゐる。

詩「なにがし九段」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

珍しく、将棋を題材にしています。「なにがし九段」は十三世名人・關根金次郎。慶応年間の生まれですので、この頃は大御所の域に達しています。

その名人の駒の動きに「美」を見いだす光太郎。視覚的な造形美というより、一定の秩序や理法にのっとり、なおかつ意外性も持ち合わせた「見えない造化の絲」を讃えているのでしょう。

同じように「見えない造化の絲」を持つものへの賛美は、多方面にわたります。詩歌における言葉の用法もそうですし、音楽や、アスリートのファインプレイ、はたまた能楽師の動きなどにもそれを見いだしています。深く「美」を感じ得る魂には、そこかしこに「美」が感じられるのですね。そういう感性、見習いたいものです。

将棋と言えば、昨今、14歳プロ棋士・藤井聡太四段の快進撃が話題になっています。大御所とはまたひと味違う駒運び、光太郎が見たらどう表現するかと、興味深いところです。

新刊情報です。久々にものすごく読みごたえのある書籍でした。

職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容

2017年2月10日 土田昇著 みすず書房 定価3,700円+税

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刀工名家に生まれ、廃刀令後の明治に大工道具鍛冶として修行し、道具を実際に使う大工たちの絶賛によってゆるぎない地位を得た千代鶴是秀(1874-1957)。
修業時代に師から使用者重視という製作思想の根幹を心に刻みつけられた是秀の、機能美の極致のような作品の中で、唯一ほかと異なるたたずまいをもつのが一群のデザイン切出小刀である。自由で流麗な意匠をまとったこれら切出群は、実用面からいえば使いにくく、道具が道具でなくなるギリギリの地点に位置する。抜群の切味を隠し持ちながら、使用されることを想定しない非実用の美。道具鍛冶として名声を得ながら、是秀はなぜ実用を犠牲にした美しいデザイン切出を作ったのか。
著者は祖父、父と三代にわたる大工道具店を営む中で、長年、千代鶴是秀の作品に向き合ってきた。是秀からじかに教えをうけた父、土田一郎から伝えられた貴重な話や資料を手がかりに、朝倉文夫らとの交わりをはじめ、是秀の周囲の芸術家や文化人、職人たちの跡をたんねんにたどり、その作風変化の謎を時代という大きな背景の中でひとつひとつときほぐしてゆく。鑿や鉋、切出と深く対話するように。鍛冶文化の豊かさを伝えながら。


明治から昭和にかけて活躍し、名人と謳われた大工道具鍛冶の千代鶴是秀(ちよづる・これひで)の評伝です。

色々な意味で、すさまじい職人と言わざるを得ません。師匠の石堂寿永ともども、砂鉄から作る日本古来の玉鋼(たまはがね)に見切りを付け、輸入物の洋鋼(ようはがね)での制作を選択します。明治も後期となると入手できる玉鋼の品質にばらつきが生じたためです。使う人の立場に立ってその品質を追求するなら、あっさりと伝統を打ち破るという革新性には感服しました。

一方で、機能性を犠牲にし、デザイン性を重視した非実用的な切り出し小刀なども制作しています。それでいてその製法は古来の方式ににのっとった、手間暇のかかる方法であるという矛盾。通常の刃物は、使うたびに研がれ、摩滅していく、いわば消耗品です。しかし、非実用的な刃物であれば、使われることがないので研ぐ必要もなく、そのフォルムを保ち続けます。著者の土田氏曰く「道具というものの消えてなくなる哀れな運命をもしかすると身にまとわずにすむかもしれないものとして提示した可能性はとても高い」。哲学的とさえ思われます。

その他、古来の名工の技術を徹底的に調べ上げて取り入れたり改良したり、制作に際しては動力を伴う機械類を一切使用しなかったり、戦時中には粗製濫造で済まされる軍刀の制作に手を染めなかったり、本当に色々な意味で、すさまじい職人と言わざるを得ません。


詳細が不明なのですが、光太郎は是秀の作った鑿(のみ)ないしは彫刻刀を使っていたと思われます。

『高村光太郎全集』には、是秀の名が四ヶ所に現れます。

うち三ヶ所は、光太郎から是秀に宛てた書簡です。いずれも昭和20年(1945)、東京を焼け出され、岩手花巻の宮沢賢治実家、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌宅に身を寄せている際にしたためられました。

五月十五日附の貴翰岩手県花巻にて拝受しました、小生五月十五日東京発当地にまゐり居ります。当分此地に落ちつく気で居りますが其後肺炎にかかり昨今漸く恢復に向ひました次第、いづれ全快の上いろいろ申上げたく存じます。東京の空襲ますます烈しき由、目黒方面は如何でせうか、切に御安泰をいのります、おてがミ拝受のしるしまで、(6月9日)

この文面から、二人は旧知の仲だったことがうかがえます。ちなみに是秀は光太郎より9歳年長です。

拝復 毎々御見舞のおてがミ拝受忝く存じます、東北地方も今日では烈しい戦場となりましたが花巻町はいまのところ無事で居ります。小生目下彫刻用の雑道具をあつめたり、砥石を探したりして居ります。刃物類など中々入手に困難の状態です。 東京に居られて御無事なのは此上もない幸運と存じ上げます、ますます御健勝のほど祈上げます、(8月3日)

やはり刃物関係の話題が出ています。かつて是秀作の刃物を使っていたことが推測されます。そして、この一週間後に宮沢家は空襲で全焼、佐藤昌宅に一時的に移り、以下の書簡をしたためます。

八月十八日付の貴翰拝受 小生八月十日花巻町空襲の際又々戦火に見舞はれて罹災、目下さし当つての避難中にて、近く太田村といふ山間の地に丸太小屋を建てる予定でありますが、火事のため、折角少々集めた刃物其他を又焼失いたしました。 お言葉により鉋、鑿、手斧、まさかりなど、あらためてそのうちお願申上げたく存じ居りますが、とりあへず御返事まで 艸々(8月28日)

是秀から光太郎に、刃物類提供の申し出があったことがわかります。

ところが、結局それは実現しなかったと思われます。この翌月からの、光太郎が郵便物の授受を記録したノートに是秀の名が見えず、日記にも是秀から大工道具類を受け取ったという記述がありません。

これで是秀とのつながりは切れたのかと思いきや、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、故・中西利雄のアトリエを借りて住んでいた昭和28年(1953)の日記に、突如、是秀の名が出て来ます。

七月八日 水 くもり、雨、 鶴千代是秀翁くる、 

光太郎、「千代鶴」を「鶴千代」と誤記していますが、これは間違いなく是秀でしょう。是秀がなぜ訪ねてきたのか、どんな話をしたのかなどは、一切記述がありません。ただ、是秀の娘婿の牛越誠夫が、粘土で作った塑像をブロンズに移す際の石膏型を作る石膏取り職人で、「乙女の像」の石膏取りを担当しており、その関係があったとは推定できます。

『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』には、牛越の娘(=是秀の孫)と光太郎が一緒に写った写真が牛越家に伝わっていたという記述がありました。ちなみに同書を読むまで、是秀と牛越が義理の親子だったとは存じませんでした。

さて、光太郎は是秀の作った鑿(のみ)ないしは彫刻刀を使っていたと思われる、と書きましたが、長くなりましたので、そのあたりの考察は明日書きたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

おう冬よ、 このやはらぎに満ちた おん身の退陣の荘重さよ。 おん身がかつて あんなに美美しく雪で飾つた桜の木の枝越しに、 あの神神しいうすみどりの天門を、 私は今飽きること無く見送るのである。

詩「冬の送別」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

「春が来た」と言わずに「冬が往ってしまった」とするあたり、冬をこよなく愛した光太郎の本領発揮です。寒さに弱い当方には到底考えつきません(笑)。

「美美しく」は古語「美美(びび)し」=「美しい、はなやかである」の連用形。誤植ではありません(笑)。

日曜日の朝、当地はうっすらと雪が積もりました。「美美し」とは思いましたが、「冬はもういいよ」という感覚です。愛犬は大喜びで雪の上を転げ回っていました。気が知れません(笑)。

新刊情報です。

芸術の海をゆく人 回想の土方定一


酒井忠康著 2016年11月22日発行 みすず書房 定価 4,968円(本体4,600円)

目次 I
 土方定一の戦後美術批評から 007
 土方定一の詩、その他
 高村光太郎と土方定一
 暗い夜の時代  杉浦明平の「日記」から
 土方定一・周作人・蒋兆和のことなど
 北京にて  中薗英助と土方定一
 ある消息  詩人・杉山平一
 II
 ブリューゲルへの道  海老原喜之助
 ある書簡  松本俊介と土方定一
 わが身を寄せて  野口弥太郎
 土方定一のデスマスクと田中岑
 年賀状の牛と柳原義達
 ある日のローマ  飯田善國
 扉をひらく  一原有徳
 若いモンディアルな彫刻家  若林奮
 III
 『岸田劉生』についての覚書き
 『渡辺崋山』をめぐる話
 再読『日本の近代美術』
 『ドイツ・ルネサンスの画家たち』の思い出
 反骨・差配の大人  編集者・山崎省三
 歴史家として  編集者・田辺徹
 不思議な魔力  編集者・丸山尚一
 はぐれ学者の記  菊盛英夫
 二人の出会い  土方定一と匠秀夫
 追想のわが師
 土方定一の影  児童生徒作品展のことなど
 あとがき 土方定一略年譜 初出一覧 図版一覧

日本初の近代美術館である“カマキン”こと神奈川県立近代美術館の館長をながく務めた土方定一(1904-1980)は、アナーキズム詩人から出立したのちに美学者となり、美術批評家の草分けとしなった。館長就任以後も旺盛な批評活動を行い、また数々の芸術賞選考委員を務めるなど、指導者的役割を果たした泰斗である。
若き学芸員補として同館に勤務した酒井は、老境にさしかかった八方破れの館長を公私ともに支えることとなり、近代日本の芸術の海に針路を示す土方船長の肩越しに海を望み、その広さ、深さ、波濤の激しさを目の当たりにする。

「地方の公立美術館としてはユニークな企画展で知られ、わたしにもちょっとばかり誇りに思えるところがあった。もちろん企画展だけではない。陣頭指揮にあたっていた土方定一という人の仕事の采配に感心するところが大いにあったからである。氏を囲んで学芸諸先輩と過した夜の〈宴会〉などは、闘いにたとえればちょっとした“作戦会議”の観を呈していた」
(「再読『日本の近代美術』」)

師の影を追ううちに同館館長に就任、批評家として美術界に提言する立場となった著者は、いまなお師の影のなかにいる、と述懐する。師から弟子へ受け継がれた系譜をみずからたどりながら、日本美術の来し方行く末を問いなおす味わい深いエッセイ集。


世田谷美術館館長の酒井忠康氏による、氏が師事した元神奈川県立近代美術館館長・土方定一に関するエッセイ集です。

土方は本業の他に、草野心平主宰の『歴程』同人で、詩にも取り組んでいました。そこで、心平経由で光太郎とも縁があり、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の際には、在京建設委員の一人となり、光太郎の十和田湖下見(昭和27年=1952)、翌年の像除幕式に参加したりしています。

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上は昭和28年(1953)、「乙女の像」除幕式。左から光太郎、佐藤春夫、谷口吉郎(建築家)、土方、伊藤忠雄(鋳金家)です。

また、光太郎歿後は、当時、副館長だった神奈川県立近代美術館で、いち早く「高村光太郎・智恵子展」を開催するのに尽力しました。

そういうわけで、本書にも「高村光太郎と土方定一」の一項があり、おそらく他の部分でも光太郎に言及されていると思います。

ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

女房の縞の財布に五十両     大正9年(1920) 光太郎38歳

俳句というより川柳ですね。この年、友人の作家・田村松魚にあてた葉書にしたためられました。「良妻讃美は大賛成です。」の一言が添えられており、松魚の二度目の妻・妙子に関わると思われます。

先週は、外で働いている妻と娘がボーナスを貰ってきました。といっても、昔と違い、振り込みですが。当方、金銭的な部分では、二人におんんぶにだっこです(笑)。

昨日、埼玉県東松山市の元教育長で、生前の光太郎をご存じの田口弘氏から、市へ光太郎の肉筆資料等のご寄贈があった旨ご紹介いたしました。その件が今日、『東京新聞』さんの埼玉版で報じられています。今日の時点で、他紙では報じられていないようですが、今後、記事が出る可能性もありますので、しばらく様子を見てから『東京新聞』さんの記事をご紹介します。

今日は、1週間前の『日本経済新聞』さんに載った記事から。

「リーダーの本棚 辺境から世界を見つめる」と題された読書面の記事で、世田谷美術館館長の酒井忠康氏へのインタビューです。

酒井氏がピックアップされた「私の読書遍歴」という項に、光雲談話筆記『光雲懐古談』が紹介されています。

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インタビュー本文は長い上に、光太郎、光雲、智恵子の名が出て来ませんので、テキスト化はしません。上記画像、クリックで拡大しますので、そちらでお読み下さい。

当方の書架には酒井氏が関係された書籍が何点かございます。

『日本の近代美術11 近代の彫刻』(大月書店 平成6年=1994)。酒井氏の責任編集です。「高村光雲《老猿》」「高村光太郎《腕》」という章があり、ともに神奈川県立近代美術館学芸員(当時)の堀元彰氏のご執筆です。

『高村光太郎 いのちと愛の軌跡』(山梨県立文学館 平成19年=2007)。同名の企画展図録です。酒井氏の論考「高村光太郎の留学体験」が掲載されています。また、同展の関連行事として、酒井氏、当時の同館館長の近藤信行氏、光太郎令甥の故・高村規氏のお三方による鼎談「高村光太郎の人生 パリ・東京・太田村」も開催されました。

『画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』(青幻舎 平成27年=2015)。昨年の平塚市美術館さんから全国巡回が始まり、現在、最後の巡回先の北海道立函館美術館さんで開催中の同名の企画展図録を兼ねた書籍です。平塚市美術館館長代理・土方明司氏(光太郎と縁が深く、酒井氏の師でもあった美術史家・土方定一の子息)の司会で、信濃デッサン館・戦歿画学生慰霊美術館無言館館長・窪島誠一郎氏との対談が収録されています。光太郎についても触れられています。

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006そして、氏が「私の読書遍歴」でご紹介された『光雲懐古談』。その前半部分を文庫化した『幕末維新懐古談』(岩波書店 平成7年=1995)。解説を酒井氏がご執筆なさっています。

昨年、NHKさんの「日曜美術館」で、「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」が放映されました。光雲制作の秘仏が初めて御開帳された「高野山開創1200年 金堂御本尊特別開帳」にからめての企画でしたが、ディレクター氏は、同番組のブログで、そもそものきっかけは『光雲懐古談』の衝撃的な面白さだったと述べられています。

内容もさることながら、光雲の語り口の妙、たしかに「衝撃的な面白さ」です。この点は、光太郎も影響を受けているのではないかと思われます。光太郎の文章も非常に読みやすく、範としたいものですが、その素養のある部分は、非常に語りがうまかったという光雲から受け継いでいるような気がします。

岩波文庫版はまだ版を重ねているようですので、ぜひお読み下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

森々と更け行く闇のむかつをにひとりたのしむ電(いなづま)のかげ

明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「むかつを」は「向つ丘」。「向こうに見える丘」といったところでしょうか。万葉集などに使われている古語です。

新刊、といっても2ヶ月前ですが、気付くのが遅れ、紹介が遅くなりました。 
2016/03/10 筑摩書房(ちくま新書) 墨威宏著 定価960円+税


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知らなかった!銅像の真実
歴史的人物や偉人の像、アニメのキャラクター像など日本全国の銅像を訪ね歩き、カラー写真と共に、エピソードや現地の情報を盛り込んで紹介する楽しい一冊。
明治期に欧米から入ってきた「銅像」文化は日本人に合っていたらしく、日本風にアレンジされて各地に次々に建てられていった。明治期後半には偉人の像、昭和初期には全国の小学校に二宮金次郎像、近年はアニメのキャラクター像なども立ち、第三次ブームと呼べるほど増え続けている。それぞれの銅像の背負っているものを掘り下げていくと、日本の近現代史が見えてくる。
 
目次
第1章 秘められた歴史
第2章 謎の銅像
第3章 昭和の記憶
第4章 源平合戦の虚実
第5章 戦国武将の盛衰
第6章 幕末の群像
第7章 銅像が語る文学史


基本的に、全国の銅像を紹介する項立てになっており、「第1章 秘められた歴史」の中で、光太郎の父・光雲が制作主任となって作られた「楠木正成像」「西郷隆盛像」が扱われています。

同時に、「銅像」受容の歴史を考察する作りにもなっており、楠公像、西郷像の項では、サブタイトルを「銅像会社設立を考えた光雲」とし、光太郎にも触れています。

特に日露戦争後、武功のあった軍人などの像を造る機運から、一種の銅像ブームが起こりました。光雲が「銅像会社」の構想をぶちあげたのは、光太郎が欧米留学から帰った明治42年(1909)です。日本郵船の阿波丸という船で、神戸港に着いた光太郎を迎えに来た光雲が、東京への汽車の中で光太郎に語りました。

「弟子たちとも話し合つたんだが、ひとつどうだらう、銅像会社といふやうなものを作つて、お前をまんなかにして、弟子たちにもそれぞれ腕をふるはせて、手びろく、銅像の仕事をやつたら。なかなか見込があると思ふが、よく考へてごらん。」
(「父との関係」 昭和29年=1954)

この光雲の構想は単なる思いつきではありません。楠公像や西郷像同様、東京美術学校として受注し、光雲を中心に山崎朝雲、本山白雲らが携わった銅像がかなりありましたし、光太郎の実弟・豊周は既に鋳金の道に進み始めていました。実際に光雲の残した綿密な構想メモも現存し、ビジネスとして非常に見込みのある企画だったといえます。

しかし、光太郎にとっては、功成り名遂げた人物の自己顕示、または周囲のゴマすりのような形での銅像制作は、俗なもの、芸術にあらず、という感覚でした。

私はがんと頭をなぐられたやうな気がして、ろくに返事も出来ず、うやむやにしてしまつた。何だか悲しいやうな戸惑を感じて、あまり口がきけなくなった。
(同前)

結局、光太郎は光雲を頂点とする日本彫刻界とは縁を切り、独自の路線を歩み始めます。光雲も、光太郎が乗ってこないなら、ということで銅像会社の構想は断念しました。

ただし、光太郎、のちに光雲の代作で銅像の原型制作は何度もやっていますし、銅像ならぬ肖像彫刻も数多く手がけています。『銅像歴史散歩』にも紹介されている光雲像、日本女子大学校初代校長・成瀬仁蔵(NHKさんの朝ドラ「あさが来た」における成澤泉)像など。

単なる「銅像」と「肖像彫刻」の境界がどこにあるのか、難しいところです。おおざっぱにいえば、作者があまり前面に出て来ず、モデルとなった人物の顕彰、という点が中心になっているもの、いわば「誰々作った」がメインなのが「銅像」、それに対し、作者が重要で、「誰々作った」という感覚で捉えるべきなのが「肖像彫刻」、といえそうな気がしますが、その線引きは曖昧模糊としています。

今後も考察を続けてみたいと思います。

ところで『銅像歴史散歩』。定価960円+税と、新書としては高額です。これは、ほぼ全ページカラーで画像が多数使われているせいでしょう。その意味では妥当な価格です。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

夏は来ぬものみなみちよかがやけよ生めよふえよととどろくちから
明治37年(1904) 光太郎22歳

当方、夏は大好きです。しかし、急に暑くなったせいで、あちこちで急に冷房が使われはじめ、かえってそれにやられました。夏風邪気味です。

昨日の『日本経済新聞』さんの紙面から。 

生きる命 十選 掌編の試み (1)高村光雲「老猿」

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作家の丸山健二氏が、「危機と緊張感に満ちた生をおのれの本能と才知のみで生きる命」を宿した美術品10種を選び、それぞれを評する連載です。「掌編」と謳っており、評と言うより、短編小説の趣さえあります。

第1回で、光雲作の「老猿」を取り上げて下さいました。「感情や本能の高い障壁を乗り越えてきた証としての、強い意志に支えられた心組み」を持ち、「深い孤独を背負ってはいても、しかし、鋭い眼光には啓発されること大なるものがあり」、「心魂の奥深くには、他者の心中を思いやる、門外不出の宝物を秘めている」と描写されます。

そのまま作者・高村光雲その人を評しているようにも感じられます。そして、そうした血脈は、長男・光太郎にも受け継がれているのではなかろうかとも思いました。

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左が光雲、右が光太郎。明治24年(1891)、光雲39歳、光太郎8歳のカットです。


さて、「老猿」。上野の東京国立博物館さんに収められ000ていますが、残念ながら現在は展示されていません。同館では「博物館に初もうで」ということで、「えとの申の特集、そして松竹梅に鶴亀など、吉祥をテーマにした作品の数々」などを展示中ですが、「老猿」はラインナップに入っていません。なんだかもったいないような気がしますが、作品保護などの観点もあって、「あるから展示する」というわけにもいかないのでしょう。

一昨年昨年と、夏の時期に展示されていますので、今年もそうなるのかな、と思っています。

詳細が解りましたらまたお知らせいたします。


【折々の歌と句・光太郎】001

寒き日の自炊の水を運びけり
明治39年(1906) 光太郎24歳

画像は我が家の「老猿」ならぬ「老犬」です。つい先だって、12歳になりました。寒くなるとこの犬の水も凍るのですが、今シーズンはまだそうなっていません。

ここ数日、関東地方は記録的な暖かさでしたが、このあとは冬らしくなるそうです。

今日、平成27年(2015)4月2日は、光太郎の59回目の命日です。午後5時30分から、日比谷公園内の松本楼様において、第59回連翹忌の集いを開催いたします。

参加申し込みは昨年を下回りましたが、生前の光太郎を知る方々が6名、さらに、初めて参加されたり、久しぶりに参加されたりする方々の中に、ビッグな方のお名前もあり、「濃い」連翹忌になりそうです。

レポートは明日以降、執筆いたします。

さて、生前の光太郎を知る方のお一人で、当会顧問にして、第50回までの連翹忌を運営されていた北川太一先生。先月でおん年90歳になられましたが、まだまだお元気で、今日もご参加下さいます。

そんな北川先生の新著が完成しましたのでお知らせします。

ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―

2015年4月2日 文治堂書店刊 定価1,800円+税

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帯文より

明治が大正に変わる1912年、光太郎は斎藤与里の熱意を受け岸田劉生、木村荘八等とともにヒュウザン会を興す。北山清太郎の支援・協力により催された展覧会は「公」に対するアンデパンダンであった。

目次
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Ⅰ プロローグ
Ⅱ さまざまな前景 装飾美術展その他
Ⅲ 展覧会前夜 明治から大正へ
Ⅳ ヒュウザン会始まる 新聞のキャンペーンが成果
Ⅴ さまざまな反響(一) 寅彦と「ツツジ」と漱石
Ⅵ さまざまな反響(二) 光太郎の詩「さびしきみち」
Ⅶ 第二回展に向かって 北山清太郎の功績
Ⅷ 第二回展覧会開催 関如来の展覧会評
Ⅸ ヒュウザン会崩壊 人見東明(清浦青鳥)のエール
Ⅹ ヒユウザン会から生活社へ 尾崎喜八ら、若き詩人との交遊
主要人物生没年
あとがき


元々は、平成14年(2002)~同23年(2011)、高村光太郎研究会発行の雑誌『高村光太郎研究』に連載されたものです。目次を見ればおおよそ見当がつくかと思いますが、明治末から大正初めにかけての、光太郎もその中心にいた画壇、特に公設の文部省美術展覧会(文展)に「対抗」して結成されたヒュウザン会をめぐる光太郎評伝です。「どうやってここまで細かく調べているんだ?」と思うほど、当時の事象が精細に網羅されています。

当方、中身の校閲をさせていただきました。元々の『高村光太郎研究』に載った段階で、きちんと校閲が為されていなかった部分があり、意外と苦労しました。そうしましたところ、「編集協力」ということで名前を載せてくださいましたし、北川先生の「あとがき」でも当方にふれて下さっています。恐縮至極です。

ご注文は、版元の文治堂書店さんまで。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月2日001

平成10年(1998)の今日、筑摩書房刊行の増補版『高村光太郎全集』が完結しました。

最初の『高村光太郎全集』は、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)から刊行が開始され、同33年(1958)に全18巻が完結しました。

平成6年(1994)、増補版全21巻+別巻1の刊行が始まり、同10年(1998)の今日、別巻が刊行され、完結しました。

上記の『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』や、当方が刊行している冊子『光太郎資料』もそうですが、光太郎がらみの出版物はやはり連翹忌当日の4月2日を発行日にすることが多くあります。

別巻は、全巻の索引や詳細な年譜が載っているため、当方、毎日のように手に取っています。したがって、もはや表紙はボロボロです。

注文しておいた書籍が届きました。NHK Eテレさんで放映中の「日曜美術館」で司会を務められている、俳優の井浦新さんのエッセイ集です。 
2014年8月6日 青幻舎 定価1,600円+税
 
素顔のエッセイ
ポートレート満載、書き下ろしコラムも掲載
自分が興味をもったことに対して、
とことん突き詰めていく面白さを、
この本を通じて、体感してもらえると嬉しいです。
歴史・美術・日本の手仕事を、心から愛する井浦新が、
NHK「日曜美術館」での感動体験から人生観までを語りました。
紹介作家 本阿弥光悦、鈴木其一、河鍋暁斎、河井寛次郎、植田正治、藤城清治、ムンクほか全18篇。
特別コラム 「崇徳院が僕に舞い降りた」「展覧会の僕的見方」、「実はメモ魔なんです」ほか収録。
 
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井浦さんが司会に抜擢された昨年からの放映で、特に心に残っている18本について、それぞれの作家や作品を軸に、軽妙なエッセイが展開されています。
 
昨秋放映の「智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」も取り上げて下さいました。ありがたや。
 
その際には渋谷のNHKさんで、スタジオ収録に立ち会わせていただいたのですが、光太郎の彫刻に対する井浦さんの的確な表現に感心しました。今回もそれが生かされています。
 
ブロンズの『手』は、「関節のゴツゴツした感じや肉感が、ものをつくる人の手に見えてくる。職人の手というか、働いている人の生々しい手で、リアルさに迫力を感じます。」。
 
木彫の「鯰」には、「《鯰》の愛嬌のある顔と、木彫なのに、ヌメッとしているような皮膚感覚がたまりません。」。
 
同じく木彫の「蟬」では、「《蟬》の表現は、鋭い観察眼によるものですが、なんともさらっと彫られているところが凄い。」。
 
などなど。
 
特に感心したのは、「十和田湖畔の裸婦群像」(通称乙女の像)に対してです。番組の中では、十和田湖で実際に見て、なぜこの像がここのためにつくられたのか、違和感を感じたとおっしゃっていました。今回もそういう記述がありますが、それだけでなく、こうも書かれいています。
 
 だけど、今回の「日曜美術館」で、その違和感の理由が少しわかったような気がします。
 光太郎の生涯をとりまいていた、しがらみを一切脱ぎ捨てて、ひとりの人間として智恵子に向かった証でもあり、智恵子と自分のためだけに《裸婦像》をつくった。だから、人に見せるための「作品」になっていないのではないでしょうか。
 
十和田湖畔の裸婦像に対しては、以下のような、十和田の自然と一体化しているという評が一般的です。
 
 構想のすばらしさと、その大きさからくる重量感と、更にこの像の背景に原始林と湖のあることを念頭においたとき、私は宇宙性をもった或る深い「詩魂」を感じた。この像の立体感は、おそらく十和田湖の水面に対して過不足あるまい。
 (亀井勝一郎「美術と文学(二)」『群像』 講談社 昭和30年=1955)
 
 自然の中に置く彫刻はむずかしい。自然の大変な圧力を持ちこたえるだけの力のものか、あるいは自然の力の中に溶けてしまつているのだけが、美を感じさせる。湖畔の樹木の間に立っている緑青(ろくしよう)の二人の若い女は、自然の中にそれを見る者の心を反撥させることなく、調和していた。日本では、これだけに外の自然の中に出しておける彫刻は他に一つもない。ヨーロッパにだって滅多にない。
 (高田博厚「十和田湖像が意味するもの」『東京新聞』 昭和35年=1960)
 
しかし、井浦さんは、逆に十和田湖の風景の中のこの像に違和感を感じたそうです。それは、この像が智恵子の顔を持つことに由来し、個人的な制作動機も背景に持つことを鋭く見抜いているからで、ある意味、慧眼です。
 
光太郎自身も、公共の彫刻であるこの像に、個人的な制作動機が入っていることに後ろめたさを感じている部分があったようです。
 
 なお、東京のアトリエのことなどを相談しているうちに、「智恵子を作ろう」と、ひとりごとのように高村さんはいわれた。それはこんどの彫刻に対する作者自身の作意を洩されたものであつたが、高村さんはその言葉のあとで、そんな個人的な作意を十和田湖のモニユマンに含ませることは、計画者の青森県にすまないような気がすると、そんな意味の言葉を申し添えられたのである。
(谷口吉郎「十和田記念像由来」『文芸』臨時増刊号 河出書房 昭和31年=1956)

 
というわけで、なかなか鋭い井浦さんのご著書。ぜひお買い求めを。
 
光太郎以外にも、岡倉天心、宮澤賢治(藤代清治さんの影絵にからめて)、朝倉文夫など、光太郎と関わりの深い人物にも言及されています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月2日
 
明治37年(1904)の今日、新詩社清遊会で赤城山を訪れた与謝野鉄幹、三宅克己、石井柏亭、伊上凡骨、大井蒼梧、平野万里を案内しました。
 
光太郎は前月から赤城山に滞在、後から来た一行を迎えての案内でした。
 
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左から、大井、鉄幹、伊上、光太郎、石井、平野、撮影は三宅です。

昨日、東京神田の東京古書会館で開催中の明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観(一般プレビュー)に行って参りました。昨年に引き続き、2度目でした。
 
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江戸期以前から現代までの二千数百点の出品物が所狭しと並び、全てをじっくり見ようと思ったら一日がかりでしょう。あまり時間もなかったので、光太郎がらみの出品物を中心に一部だけ観て参りました。
 
出品物は基本的に手に取って観ることができます。その点が文学館などとの大きな違いです。光太郎がらみの出品物も、ショーケースに入っていた与謝野寛宛書簡、短歌揮毫の色紙以外は手に取って観てみました(その2点も会場の方に頼めばケースから出してくれたのかも知れませんが)。
 
今回の出品物は以前から知っているものばかりでしたが、やはり生で見ると違います。特に識語署名入の随筆集『美について』は、数年前にネットの画像で観た時には筆跡的に少し怪しいかも、と思っていたのですが、実物を観るとオーラが漂っていました。不思議なもので、その手のオーラは画像では判りません。
 
その他の草稿や書名本なども、ビリビリとオーラを発していました。自宅兼事務所にも光太郎の署名本や草稿、短冊や書簡などが少なからずあるのですが、やはり違ったものに触れると違ったパワーを感じます。
 
その他、光太郎以外にも関係の深かった人物のもの……与謝野夫妻、草野心平など……さらに光太郎智恵子と直接の関連はないようですが、朝ドラ「花子とアン」で再び脚光を浴びている柳原白蓮のものなど、興味深く拝見しました。
 
いいものを観る(それも、手に取って観られるという贅沢)というのは非常にいいことですね。
 
カラー版厚冊の目録(2,000円)は、文生書院さんなど、加盟各店に注文すれば入手できます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月5日
 
昭和4年(1929)の今日、東京朝日ギャラリーで開催されていたデッサン社第三回展覧会が閉幕しました。
 
光太郎は大正期のデッサンを元に智恵子の背中を描いた「ほくろ」を出品したそうです。
 
デツサン社ではずばり「デツサン」という雑誌を刊行しており、大正15年(1926)の第三輯の表紙絵は光太郎が描いています。もしかするとその原画も展示されたのではないかなどと考えていますが、詳細が不明です。今後、調査してみます。
 
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「明治古典会七夕古書大入札会」。毎年この時期、神田の東京古書会館で、年に一度開かれる古書籍業界最大のイベントの一つです。
 
一般下見展観 2014年7月4日(金)、5日(土)
入札会 7月6日(日) 業者のみ
 
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今年も豪華目録が発行され、サイトに画像入りでアップされました。
 
昨年は光太郎関係で、詩人の高祖保に宛てたものが一括で出され、新発見のものだったため驚きました。残念ながら、今年は目録で見る限りは加盟各店で以前から目録やサイトに載せていたものばかりですが、現物を手に取ってみられる機会は滅多にないので、行ってみようと思っています。
 
ちなみに光太郎関連の出品物は以下の通りです。入札最低価格の後の数字は「万円」が単位です。
 
随筆『美について』道統社 初版 函付 ペン書識語署名入 数ヵ所に校正入 昭16 入札最低価格:10

詩集『記録』龍星閣 初版 カバー付 毛筆識語署名入 昭19 入札最低価格:10

詩稿「蒋先生に慙謝す」 ペン書400字詰完 北川太一鑑定書付 昭22 三枚 入札最低価格:20

草稿「詩人寺田弘君から……」(寺田弘編『傷痍軍人詩集』序 昭18) ペン書400字詰完 二枚 入札最低価格:10

草稿「(書評)宮崎稔・木村直祐共編詩集『再起の旗』」 ペン書400字詰完 三枚 入札最低価格:ナリユキ

書簡 与謝野寛宛 毛筆 封筒付 全集所収 三通 入札最低価格:35

小室浩画賛幅「秋果」 自題共箱(裏に両者署名) 34×49 一幅 入札最低価格:20

色紙「やせこけし…」 北川太一鑑定書付 雑誌「炬火」に掲載の短歌 入札最低価格:ナリユキ
 
ところで一昨年のこのブログに「いけないものが混ざっている」と書きましたが、同じものが今年も出品されています。どれがそうとは明記しませんが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月27日
 
昭和17年(1942)の今日、雑誌『冬柏』に散文「与謝野夫人晶子先生を弔ふ」が掲載されました。
 
この年5月29日に亡くなった与謝野晶子の追悼文です。のち、9月に刊行された晶子遺作集『白桜集』に転載されました。

近刊です。

『日本美術全集 17 前衛とモダン』003

小学館刊行
北澤憲昭著 
定価 :本体15,000円+税 
発売日 2014/06/25
 
判型/頁 B4判/320頁
 
 
美術「誕生」を経て、美術「変容」へ
明治末から大正にかけて、日本の近代美術は内面性と社会性に目覚めてゆきます。高村光太郎が芸術の絶対自由を叫び、荻原守衛は内的生命を高らかに歌い上げ、岸田劉生が内なる美を唱えます。
伝統派の絵画に、装飾性に満ちた清新な地平が切り開かれたのもこの時代でした。
そして、アヴァンギャルドたちは絵画や彫刻の枠から美術を解き放ち、民芸運動は美術と生活につながりを見出してゆきます。
関東大震災に見舞われたこの時代は、明治がつくりあげた美術が激しく揺さぶりをかけられた時代でもあったのです。
黒田清輝、青木繁から始まるこの巻では、明治が創り上げた美術が大いに変容していく時代に登場した作品を、「自己表現の自覚」と「社会性への目覚め」という新しい視点と数多くの作品で俯瞰します。

目次
 はじめに  北澤憲昭
 テクノロジーからアートへ ―― 制度史的なスケッチ  北澤憲昭
 「表現」の絵画  北澤憲昭
  (コラム)日本近代美術史にみるユートピア思想  足立 元
  (コラム)震災の記録画  ジェニファー・ワイゼンフェルド 
 図案と写真  森仁史
  (コラム)書の近代 ―― 「型」から造型へ  天野一夫
 偶景『狂った一頁』 ――日本映画と表現主義の邂逅  藤井素彦
 都市空間のなかの造型 ―― 建築・彫刻・工芸  藤井素彦
 いけばなの近代化と未遂の前衛  三頭谷鷹史
 前衛――越境する美術  滝沢恭司
 図版解説
 関連年表
 序文英訳・英文作品リスト
 
『日本美術全集』。小学館さんの創業90周年記念ということで、一昨年から全20巻の予定で刊行中です。刊行開始時、この手の全集ものの刊行は時代の流れに逆行しているという批判、「大丈夫か?」と危ぶむ声などがありました。そのあたりは、編集委員でもある美術史家の辻惟雄氏による「日本美術全集の刊行にあたって」に詳しく書かれています。
 
世界あるいは日本の美術史上の作品を網羅して、パブリック(一般読者層)に提供する大型の「美術全集」が日本で初めて刊行されたのは、昭和初期の平凡社版『世界美術全集』(1927〜30)が最初とされる。
第二次大戦後、平凡社から再び『世界美術全集』が出された。そのとき高校3年だった私は、父にねだって、黄色い布の表紙に皮の背表紙をつけた第1回配本を手に入れた。そのときの喜びは忘れられない。
以後、角川書店版『世界美術全集』を経て、小学館の『原色日本美術』(1966‐1972)が空前の美術出版ブームを巻き起こし、その余熱のなかで、学研版『日本美術全集』(1977-80)、講談社版『日本美術全集』(1990‐94)、小学館版『世界美術大全集(西洋編・東洋編。日本美術は含まず)』(1992‐2001)と続いた。しかし、このあたりで、美術全集の刊行は途切れてしまう。編集費の増加が定価を釣りあげた。テレビの美術番組や展覧会カタログが充実してきた。執筆内容がアカデミックで難解になった。大型本を置く場所がない、などの理由に加えて、コンピュータによるデジタル画像の普及が、紙に印刷する美術図書の存続を脅かしている、という見方もある。
だが、そのような状況にあっても、従来の大型版『美術全集』は引き続き必要だ。
美術作品の観賞には、大型の図版が必須である。将来それは、家庭に備えられた大型の液晶パネルに表示された画像に取って代わるかもしれない。だが決して簡単には実現しないだろう。版権など、ややこしい問題が控えているからだ。場所塞ぎとはいえ、大型本『美術全集』の役割はまだまだ続くだろう。ただ、古びた内容だけは御免だ。
今回の企画は、アカデミズムの世界からスタートしながら、あえて日本美術の広報担当者を目指す山下裕二氏の案に基づいて発足した。気鋭の若手美術史家の登場を促すと同時に、難解な論文をチェックする。最近の研究成果を反映させ、若者の美意識にも添った新たな作品の価値づけをする。新鮮で魅力ある図版を載せる。「東アジアの中の日本美術」(第6巻)、「若冲・応挙、みやこの奇想」(第14巻)「激動期の美術」(第16巻)、「戦争と美術」(第18巻)など、巻立てにも新しさを盛り込む――こうした様々の工夫がなされている。
20年ぶりの『日本美術全集』に、ご期待いただければ幸いである。
 
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あえてこの時代にこうした豪華全集を世に問う小学館さんの英断、出版社としての良心に敬意を表さざるを得ません。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月23日
 
平成7年(1995)の今日、テレビ朝日系「驚きももの木20世紀」で「愛の詩集「智恵子抄」の悲劇―高村光太郎と妻・智恵子―」が放映されました。
 
司会は三宅裕司さん、麻木久仁子さ005ん。スタジオゲストは斎藤慶子さん、故・池田満寿夫さん。ナレーションは伊東由美子さん、間宮啓行さん。
 
Vには北川太一先生、高村規氏、さらには、光太郎の親友・水野葉舟のお嬢さんで、やはり光太郎と交流のあった詩人・尾崎喜八と結婚した故・尾崎実子さん・栄子さん母娘、智恵子の姪・斎藤美智子さん、岩手時代の光太郎を知る宮森祐昭さんがご出演。犬吠埼、九十九里、二本松、花巻、そして今はなき不動湯温泉などでのロケ、その他資料の静止画像も豊富でしたし、俳優座の皆さんによる再現Vも素晴らしい作りでした。
 
翌年にはブックマン社から関連書籍『驚きももの木20世紀 作家、その愛と死の秘密』が刊行され、この回の内容も約30ページでまとめられています。

今日は68回めの広島原爆の日です。この後、長崎原爆の日、そして終戦記念日と続き、この時期はあの戦争を振り返るイベントが続きます。
 
先頃、当時の世の中が彫刻家に何を求め、彫刻家たちがどのように戦争と向き合っていたのか、そういった点に関する考察が書かれた書籍が刊行されました
平瀬礼太著 平成25年7月1日 吉川弘文館刊 定価1,700円+税
 
戦争イメージから、平和のシンボルへ…。戦時体制下、戦争関連作品を創り続けた彫刻家の苦難の歴史から、近代日本彫刻の変容を描く。
戦時体制下、彫刻界ではどのような活動がなされていたのか。材料不足や表現活動の制限に不自由さを感じながらも、戦勝記念碑やモニュメントなど、戦争に関連した作品の創作を続けていた彫刻家たちの苦難の歴史を辿る。戦後、戦争イメージが、平和のシンボルに姿を変えながら現代まで残存している動向などにも言及し、近代日本彫刻の変容を描く。
 
目次(詳細項目略) 000
 近代彫刻の変容―プロローグ
 戦争と彫刻
  近代日本の彫刻と戦争
  芸術と社会
 戦争の時代
  戦争の時代への突入と彫刻
  彫刻制作への圧力
  傷痍軍人と彫刻
 日米開戦の衝撃
  変転相次ぐ彫刻活動
  盛り上がる彫刻界
  銅像の行方
  突き進む彫刻
 戦後へ
  敗戦とともに
  混乱の中で
 まだ終わらない戦争―エピローグ
 
光太郎についても随所に記述があります。
 
戦時中、光太郎は詩の方面では大政翼賛会文化部、中央協力会議などに関わった他、日本文学報国会の詩部会長の任に就いていました。そして実際に戦意高揚の詩を多数発表しています。
 
彫刻の方面では、実作としては他の彫刻家のように兵士の像などを造ったわけではありませんが、昭和17年(1942)には造営彫塑人会顧問に推され、就任しています。この会はその綱領によれば、「大東亜建設の国家的要請に即応して国威宣揚、日本的モニュマンタル彫塑を完成して、指導的世界文化の確立を期すこと、国民的造営事業に対し挺身隊たらんとすること」が謳われたそうです。
 
その発会式での光太郎の演説が残っています。一部、抜粋します。
 
今、大東亜戦争の勃発によつて、日本国民は忽ち我が国体本然の姿に立ちかへり、御稜威の下、一切が国民の総力によつて成るべきことを確認するに至りました。この時記念碑的製作に従ふ吾等彫刻家は再び祖先の芸術精神を精神として、おのづから昨日の狭小な風習をあらたむべきは当然のことであります。此の造営彫塑人会の志すところは即ち、聖代に生をうけた彫刻家の総力をかかる時代に値する記念碑的彫刻の本然の姿が如何やうのものである可きかを究めようとするものでありませう。
 
著者の平瀬氏、この辺りに関して「ここには「緑色の太陽」があってもいいと個性尊重を謳いあげた往年の高村はいない。」と評します。ある意味、その通りです。
 
こうした戦時の彫刻界の流れについての考察が本書の中心です。一読の価値大いにあり、です。
 
ところで、著者の平瀬礼太氏、姫路市立美術館の学芸員さんで、当方、以前の調査で大いにお世話になった方です。明日はその辺りを。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月6日

昭和23年(1948)の今日、この月初めにできた面疔(めんちょう)がますます腫れたことを日記に記しました。

 
「面疔」は「とびひ」などと同じく黄色ブドウ球菌による感染症です。戦後の不自由な山小屋住まいの中では、このような苦労もあったのですね。

【今日は何の日・光太郎】 7月26日

大正4年(1915)の今日、天弦堂書房から評論『印象主義の思想と芸術』が刊行されました。
 
光太郎が単独で著したものとしては、その前年に刊行された詩集『道程』に続き、2冊目の書籍です。文庫判250ページほど。当時の定価で50銭です。

当方、カバーなしの裸本を一冊持っています。画像は扉と奥付です。
 
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少し前に古書店のサイトでカバー付きが売りに出ていたのですが、12,000円。そのくらいしてもおかしくありません。というか、相場から考えるとむしろ安いような気がしました。しかし12,000円という金額は、絶対評価としては安い金額ではありません。そう思っているうちに売れてしまいました。
 
目次を見ると、第一章は印象主義の概観。その後、二章から八章まで、代表的な作家一人ずつを論じています。マネ、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ドガ、セザンヌ。さらに後期印象派―ゴッホ、ゴーギャン、マチス―などについての簡単な記述もあります。
 
光太郎が紹介される際、「彫刻家、詩人」とされることが多くあります。たしかに光太郎は自分では「私は何を措いても彫刻家である」と述べていますし、好むと好まざるとに関わらず、詩人としての名声も高かったのは事実です。
 
しかし、筑摩書房版『高村光太郎全集』を見ると、この「印象主義の思想と芸術」を含む評論の類が非常に多い事に気づきます。その内容も美術や文学など多岐にわたるのですが、それぞれに異彩を放つものです。といって、途方もない論旨を展開しているわけではなく、ある意味、当たり前のことを当たり前に書いていながら、それが当たり前に感じられず、妙に納得させられる、そういう評論が多いのです。
 
もう少し、「評論家」としての光太郎にスポットが当たってもいいのでは、と感じます。
 
さて、『印象主義の思想と芸術』、のちに戦時中の評論集『造形美論』に収められた他、戦後には「筑摩叢書」の一冊として再刊されています。
 
ところがそれ以前に、大正11年に天弦堂版の紙型をそのまま使って、三徳社という出版社から再刊された記録があります。同社からこの年12月刊行の吉江孤雁『近代神秘主義の思想』の巻末広告に、同社の刊行物のラインナップとして『印象主義の思想と芸術』が入っています。
 
ただ、現物が確認できません。実際に刊行されたのか、広告のみ先行し、結局は刊行されなかったのか、不明です。
 
三徳社は、大正6年(1917)に中村徳治郎によって創業、他社の古い紙型によって旧刊書をしばしば再生した出版社だそうです。のちに「白楊社」と改称したということですが、ネットではその時期が大正10年(1921)となっているページがあります。しかし、国会図書館のデジタルデータでは同12年(1923)の刊行物も「三徳社」として登録されています。
 
情報をお持ちの方は、ご教示いただければ幸いです。

昨日のブログでご紹介しましたが、かの夏目漱石は美術に006も造詣の深い作家でした。
 
まとまった展覧会評としては唯一のものだそうですが、大正元年(1912)の『東京朝日新聞』に、12回にわたって「文展と芸術」という評論を書きました。「文展」とは「文部省美術展覧会」。いわゆるアカデミズム系の展覧会で、正統派の美術家はここでの入選を至上の目標にしていたと言えます。第一部・日本画、第二部・西洋画、第三部・彫刻の部立てで、上野公園竹之台陳列館で開催されていました。大正元年で6回めの開催でした。

さて、漱石の「文展と芸術」。その第一回の書き出しはこうです。
 
芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである。
 
注・当時は送り仮名のルールがまだ確立されていませんので、「はじまって」は「始まつて」ではなく「始つて」、「おわる」も「終わる」でなく「終る」と表記されています。
 
この漱石の言に光太郎が噛みつきました。
 
『読売新聞』にやはり12回にわたって連載された光太郎の文展評「西洋画所見」の第8回で、光太郎はこう書きます。
 
この頃よく人から芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ陳腐な言をきく。此は夏目漱石氏が此の展覧会について近頃書かれた感想文に流行の 源(みなもと)を有してゐるのだといふ事である。
  (中略)
私の考へでは此一句はかなり不明瞭だとも思へるし、又曖昧だとも思へる。殊に芸術作家の側から言ふと不満でもある。
 
光太郎の論旨は、芸術作品に自己が投影されるのは当然のことであり、ことさら「自己を表現しよう」と思って制作を始めたことはなく、漱石の「自己の表現に始つて」という言には承服できないということです。
 
ただし、光太郎は「文展と芸術」を熟読していなかったようで、「西洋画所見」中には
 
私はつい其(注・「文展と芸術」)を読過する機会がなかつたので、此に加へた説明と條件とを全く知らないでゐる。
 
という一節もあります。
 
こうした光太郎の態度に漱石は不快感を隠しません。十一月十四日付の津田青楓宛て書簡から。
 
 高村君の批評の出てゐる読売新聞もありがたう 一寸あけて見たら芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ小生の言を曖昧だといつてゐます、夫から陳腐だと断言してゐます、其癖まだ読まないと明言してゐます。私は高村君の態度を軽薄でいやだと感じました夫(それ)であとを読む気になりません新聞は其儘たゝんで置きました。然し送つて下さつた事に対してはあつく御礼を申上ます
 
実は漱石の言は、芸術は何を表現するのか、芸術は誰のためにあるのかという問いに対する謂で、間接的に文展出品作の没個性や権威主義を批判するものであり、よく読めば光太郎は反論どころか共鳴するはずだという説が強いのです(竹長吉正『若き日の漱石』平成七年 右文書院 他)。
 
結局、漱石の方では黙殺という形を取り、論争には発展しませんでしたが、「文展と芸術」をよく読まず噛みついた光太郎に非があるのは明白です。
 
漱石は度量の広いところもありました。この年、時を同じくする十月十五日から十一月三日まで、読売新聞社三階で、光太郎、岸田劉生、木村荘八らによるヒユウザン会(のち「フユウザン会」と改称)第一回展覧会が開催され、反文展の会と話題を呼びました。光太郎は油絵「食卓の一部」「つつじ」「自画像」「少女」を出品。このうち「つつじ」は漱石と一緒に会場を訪れた寺田寅彦に買われたそうです。一緒にいた漱石は別に寺田を咎めたりはしていません。
 
ちなみに智恵子の出品も予告されたが実現しませんでした。
 
こうしたバトルについて、現在開催中の「夏目漱石の美術世界展」、それにリンクした雑誌『芸術新潮』の今月号、NHK制作の「日曜美術館」等で取り上げてくれれば、と残念です。
 
テレビで取り上げる、といえば、昨夜放映されたBS朝日の番組「にほん風景遺産「会津・二本松 二つの城物語」」で、光太郎の詩「あどけない話」「樹下の二人」が紹介されました。ありがたいことです。

 
【今日は何の日・光太郎】 6月5日

昭和8年(1933)の今日、岩波書店から「岩波講座 世界文学」第七回配本として、光太郎著『現代の彫刻』が刊行されました。
 
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当時の世界の彫刻界について、非常にわかりやすく書かれています。
 
当方、昔、神田の古書店で200円で購入しました。確かにペーパーバックの薄い書籍ですが、それにしても200円は光太郎に失礼だろう、と憤慨しつつ買いました。安く手に入ったのはいいのですが(笑)……。

昨日と今日は、以前のこのブログで紹介した明治古典会七夕古書入札会の一般公開でしたが、昨日も今日も他に所用があり、結局行きませんでした。
 
さて、先日、石川光明やら大熊氏廣やら、明治の日本近代彫刻草創期の彫刻家の話題を書きましたので、手持ちの資料の中からそのあたりに関するものを引っ張り出しました。暇をみて読み返したいと思っています。 

明治の彫塑「像ヲ造ル術」以後」

平成3年(1991)3月30日 中村傳三郎著 文彩社 定価4000円+税

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書き下ろしではないのですが、結果的に明治期の彫刻の編年体的通観がなされています。それにしても、帯がいいですね。内容もさることながら、この帯に惹かれて購入したことを覚えています。 

平成6年(1994)3月1日 田中修二著 吉川弘文館 定価6,214円+税

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『明治の彫塑』がどちらかというと編年体で書かれているのに対し、こちらはどちらかというと紀伝体です。高村光雲、後藤貞行、大熊氏廣の三人について、一章ずつ費やして論じています。後藤貞行はやはり東京美術学校に奉職した彫刻家で、動物彫刻を得意とし、「楠木正成像」の馬、「西郷隆盛像」の犬を手がけています。他に、石川光明、米原雲海ら同時代の彫刻家、朝倉文夫、荻原守衛ら次の世代の彫刻家にも触れています。
 
明日はやはり以前のこのブログで紹介した練馬区立美術館さんの<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」に行って参ります。午後3時からなので、午前中は調査。日曜は国会図書館さん、駒場の日本近代文学館さんが休みですので、木場の東京都現代美術館さんに行きます。美術館でも、図書館のように図書の閲覧サービス等を行っているところがあり、東京都現代美術館さんもその一つです。

新刊情報です。 

スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡

坂本富江著 牧歌舎 平成24年7月10日 定価1,800円+税

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これも楽しみにしていた書籍の一つです。著者の坂本様から6月下旬に刊行予定と御案内を頂いておりましたが、少しずれ込んだようです。昨日届きました。
 
著者の坂本様は、若かりし頃の智恵子も所属していた太平洋画会の後身、太平洋美術会の会員(智恵子に惚れ込むあまり入会されたそうです)。高村光太郎研究会や福島の智恵子の里レモン会の会員でもあられます。
実は当方、タイトルの「スケッチで訪ねる」という文言から、勝手に単なる画集のようなものだろうと思いこんでいました。しかし、さにあらず。確かに坂本様のスケッチもたくさん載っていますが、それだけでなく、光太郎・智恵子ゆかりの地を訪れたレポートがびっしり書かれています。思わず一気読みしてしまいました。
 
画像でお判りになるかと思いますが、帯には渡辺えりさんの推薦文が掲載されています。曰く、「坂本さんのスケッチは温かく、まるで智恵子を抱きしめているように思える。智恵子自身が、故郷の山や川や植物を坂本さんと一緒に描いているようだ。」なるほど、その通りです。
 
驚いたことに、全ページカラー刷りの豪華な造りです(鉛筆スケッチはともかく、水彩でのスケッチはカラーでなければしょうがないといえばそれまでですが)。収められたスケッチは150点近く。その点数の多さもさることながら、訪れられた場所も実に多方面にわたっていて、その御労苦に頭が下がります(なんと、17年分のご成果だそうです)。定番の二本松、犬吠埼、十和田湖などはもちろん、智恵子が短期間暮らしていた雑司ヶ谷周辺や、1ヶ月程入院していた九段坂病院、人里離れた福島の不動湯温泉(光太郎直筆の宿帳が今も残っています)などなど。
 
そして文章を読むと、いろいろな場所で体当たり的取材を敢行されているバイタリティーにも感心させられました。さらに行間から滲み出る智恵子への愛惜の思いの深さ……。素晴らしい!
 
肝心のスケッチは、150点近くも収められていながら決してゴテゴテせず、全編を通して何というか、一つの統一された流れを感じました。時々、全ページカラー刷りというと「飲み屋街のネオンか?」と突っ込みたくなるようなけばけばしい書籍がありますが、この本はそういうことはまったくありません。表紙や見返し、年譜のページなど、智恵子が好きだったというエメラルドグリーンが非常に効果的に使われ、爽やかな感じです。さすがに絵心のある人は違いますね。羨ましい限りです。
 
是非とも第二弾「スケッチで訪ねる光太郎の旅」を出していただきたいものです。

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