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028明後日、英国のエリザベス女王の国葬が行われるとのこと。

同女王は大正15年(1926)のお生まれで、当会顧問であらせられた故・北川太一先生より1歳年少でした。即位されたのは昭和27年(1952)。光太郎の書き残したものにその御名は確認できていませんが、現上皇陛下が翌年、女王の戴冠式出席のため、横浜から船でイギリスに向かわれた際の談話が残っています。

明治以来イギリスの影響をもつとも多く受けていながら、いまの日本で一番欠けているのはジヨンブルのイギリス的性格だ。人間同士が信じ合うこと、不信に対するきびしい批判――他の国では持ち得ないものである。(談話筆記「皇太子さまを送る」より 昭和28年=1953) 

欧米留学中の明治40年(1907)から翌年にかけ、ロンドンにも居住していた光太郎。芸術の分野ではあまりイギリスから学ぶことはなかったと述懐していますが、人々の暮らしぶり、重厚な伝統などには非常に好感を持っていたようです。「ジヨンブル」は「典型的英国人」の意。

同女王、明治43年(1910)、日英博覧会の際に英王室へ日本から贈られた「台徳院殿霊廟模型」(光太郎の父・光雲が監督となって制作)を、平成27年(2015)に、日本に返還する労を執って下さいました。現在、芝増上寺さんの宝物展示室で公開されています。

その国葬が明後日だそうで、既に献花に訪れる一般国民が5㌔㍍もの長蛇の列を成していたというニュースを昨日拝見しました(今朝のニュースでは8㎞)。およそ国葬に値しない人物の国葬を強行しようとし、反対のデモの列が生じているどこぞの国とは大違いですね(笑)。ついでにいうなら呼ばれもしないのに参列見送りを発表して失笑を買ったトンマもいる国ですが(笑)。

さて、「国葬」というと、光太郎にずばり「国葬」の語を題名に使った詩があります。昭和18年(1943)、山本五十六元帥の国葬に際し、『毎日新聞』に寄稿したものです。

   山本元帥国葬009

元帥山本五十六提督の遺骨
いま国葬の儀によつて葬らる。
元帥の勲功めもあやに、
同胞もとより之を熟知す。
われら心を傾けて元帥を送り奉り、
あらためて元帥のおん面影をしのぶ。008
元帥幼にして長岡のきかんぼ、
志を立てて不屈不撓、
外に使して君命を辱めず、
却つて鴃舌の老雄をも脅かす。
元帥身を以て東郷精神の根幹に生き、
更に近代戦術の機秘を握り、
機略に富み、機先を制し、
時に豪放、時に精緻。
若き世代の真面目(しんめんもく)を限りなく愛惜し、
長官の身をほとほと忘れて
一兵の身を忘れず、
丹心を秉(と)つて師友に降(くだ)る。
干戈の間(あひだ)文をすてず、
国風時として絶唱。011
眼(まなこ)笑ひ、口怒り、
むしろ学童腕白の趣あり。
かくの如き提督の力、敵を撃ち、
忽ち太平洋に不敗の堅陣を布き、
更に猛進つひに陣頭の空に隠れたまふ。
国民喪に服していま元帥を送り奉り、
心武者ぶるひして元帥に祈る。012
元帥の成したまはんとせしところ、
われら必ずこれを遂げん。
元帥叱咤して遠くわれらを導きたまへ。


山本の戦死はこの年4月18日、国葬の挙行は6月5日でした。

当時の記録映像が残っています。
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死者を悼むのは人として当然のことでしょう。しかし、その死をもプロパガンダに利用した当時の世情には呆れます。
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「元帥に続け」、つまり「死ね」ということでしょうか。

現在、国民の過半数が反対している国葬を強行しようとしている勢力、また、その被葬当該人物が、戦前戦時のこうした思想を美徳とする輩である(あった)ことに、激しく違和感を感じますね。当該勢力は「国民喪に服していま元総理を送り奉り、心武者ぶるひして元総理に祈る。元総理の成したまはんとせしところ、われら必ずこれを遂げん。」という方向に持って行きたいのでしょうが。そうは問屋が卸しません。

ところで、英女王の逝去に際し、バッキンガム宮殿上空にはみごとな二重の虹が架かったそうです。
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9月27日(火)、ある国には、超大型台風でも来るのではないでしょうか(笑)。

【折々のことば・光太郎】

午后四時木村修吉郎氏迎にくる、谷口吉郎氏くる、一緒に山王「山の茶屋」行、佐藤春夫、安倍能成、谷口吉郎、田村剛、余、座談会、十和田公園について、

昭和29年(1954)1月8日の日記より 光太郎72歳

この年3月の雑誌『心』に掲載された座談会「自然の中の芸術」当日です。前年に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関して。当初建立予定だった十和田湖子(ね)の口地区には許可出来ない、と、横槍を入れてきた人物が含まれています。その横槍も正当な理由ではなく、自分がプロジェクトから外された腹いせというのが明白で、光太郎と青森県を仲介した佐藤春夫などは激怒。別の機会に「これは芸術の尊厳のために正しく大声叱呼して糾明すべきだとわたくしは心外に堪えない」と書きました。座談会で初めてその件を知ったという安倍能成も憤慨。光太郎の言いたかったことを代弁してくれています。当該人物は「丁寧な説明」をしようとしたようですが、却って火に油、燃料投下(笑)。

いつの時代にもこういう輩がいるのですね(笑)。

最近、相次いで、訪欧された方々から、光太郎ゆかりの地の画像をいただきましたのでご紹介します。

まず、ロンドン。今年の連翹忌に初めてご参加下さった、千葉ご在住の安藤仁隆氏から。娘さんご夫婦がロンドンにお住まいだそうで、そちらに行かれた際に廻られたそうです。

光太郎は明治40年(1907)6月19日、1年あまりを過ごしたニューヨークを後に、大西洋を渡ってイギリスに向かいました。まだ航空旅客機は運用されてしておらず、利用したのはホワイトスターライン社の「「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)でした。ホワイトスターライン社は、この5年後に、かの有名な「タイタニック」を就航させます。「オーシャニック」は、そのタイタニックにつながる「スピードを犠牲にする一方、安定して快適な航海ができるような豪華大型客船」という画期的なコンセプトを初めて実現した船でした。クルーの何人かもかぶっています。

入港したサザンプトンからロンドンへ、ニューヨークで知り合い、先に渡英していた画家の白滝幾之助らの世話で、テムズ河畔パトニー地区の下宿に落ち着きます。

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安藤氏からいただいた(以下同じ)、テムズ川にかかるパトニー橋。

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その近くのカフェ。

光太郎が下宿していた建物が現存しているそうです。

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その後、移ったチェルシー地区の下宿。現在はインテリアのショールームになっているとのこと。ただ、往時のまま天井が高く、彫刻家のアトリエとしてうってつけだそうです。ここで白瀧幾之助と共同生活をしました。

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近くには、光太郎が学んだロンドン・スクール・オブ・アートの跡。3年前に廃校となり、今はマンションだそうです。ここで光太郎は、後に来日して陶芸家となるバーナード・リーチと知り合いました。

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ただ、当時のイギリスはパリと比べれば、芸術の先進性では遅れをとっており、スクール・オブ・アートではデッサンを学んだ程度で失望して退校、それなら英国人の文化や本当の生活を知ろうと、技芸学校ポリテクニックに移ります。それも現在はマンションに様変わりしているそうです。

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そして翌明治41年(1908)、留学の最終目的地と定めていたパリへと旅立ちます(もっとも、前年すでに下見を兼ねてパリにいた荻原守衛を訪ね、一緒にロダンのアトリエに行ったりもしていました)。ちなみにこの年、ロンドンでは第4回オリンピックが開催されました。現代とは異なり、半年もの会期でした。

後年の回想から。

 私はロンドンの一年間で真のアングロサクソンの魂に触れたやうに思つた。実に厚みのある、頼りになる、悠々とした、物に驚かず、あわてない人間のよさを眼のあたり見た。そしていかにも「西洋」であるものを感じとつた。これはアメリカに居た時にはまるで感じなかつた一つの深い文化の特質であつた。私はそれに馴れ、そしてよいと思つた。(『父との関係』 昭和29年=1954)

光太郎は保守的な一面も持っており、一面軽薄なアメリカ文明とは異なる、格式ある「英国」のライフスタイルは、敬愛すべきものだったようです。農商務省海外実業練習生の資格を得て義務づけられた報告書「英国ニ於ケル応用彫刻ニ就イテ」(明治41年=1908)などにも、それが読み取れます。この点、同じくロンドンに留学しながら、彼の地でこっぴどく人種的劣等感を植え付けられた夏目漱石との相違は興味深いところです。


明日は、フランスへ行かれていたテルミン奏者の大西ようこさんによるパリの光太郎ゆかりの地訪問の様子からご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

小人に詩無し ただあるは詩才のみ 君子に詩無し ただあるは明哲保身の言のみ 詩を培ふもの ただ聖と愚とあつて殆し

詩「詩について」 昭和12年(1937) 光太郎55歳

『論語』からのインスパイアですね。「小人」は『論語』のとおりの「小人」でしょう。しかし「君子」は真の意味の「君子」ではなく、アイロニーとしての「君子」でしょう。「誤解を招く表現であったなら撤回します」的な「明哲保身の言」をもてあそぶ、ある意味、賢い人々への痛烈な皮肉ですね。

真に詩をものするには、それらを突き抜けた神に近い「聖」までたどりつくか、それと真逆の「愚」に徹底するか、二者択一だ、というところでしょうか。晩年の光太郎はこの境地に至ったように思えますが、そうなるまでに、まだまだ長い苦闘、多大な犠牲が必要でした。

昨日は、ATV青森テレビさんの番組制作取材に同行、千駄木の光太郎アトリエ跡などをめぐり、そこからほど近い当会顧問・北川太一先生のお宅にもお伺いし、そちらで北川先生と当方のインタビューを撮影しました。

今日も同じ件で、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエに行って参ります。


この件についてはまた明日、2日分まとめてお伝えします。今日は最近入手した光太郎書簡について。

海外留学で光太郎がロンドンにいた頃、パリにいた画家の白瀧幾之助にあてた絵葉書で、『高村光太郎全集』には収録されていないものです。

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こちらは宛名面。消印が明治41年(1908)1月2日。パリのテアトル通り16番地、白瀧幾之助宛てです。

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文面の書かれた面。写真ではなく、石版画的な感じでしょうか。何せ100年以上前の絵葉書です。宛名面に印刷された文言によれば、イングランド南部ワイト島に位置するカウズという町の風景で、「Royal Yacht squadron」と記されています。「squadron」は「艦隊」。調べてみましたところ、1815年に設立され、まさにカウズの町に本部があったヨットクラブだそうです。「Royal」ですから、英王室との関連もあるのでしょう。

さて、文面は以下の通り。1月2日ということで、ある意味、年賀状的な内容でもありますが、大半は白瀧からの問い合わせに回答する事務的な内容ですね。

新年の御慶申納候
僕の処へも荻原君から手がみがあつた。
柳君の最近の手がみにある番地は矢張り618w.114□とある。
此でいいのだらう。
□光太郎

□の二文字分が読めません。ちょうどよいと思って、北川先生にもご覧頂いたのですが、やはり読めませんでした。もう少し推理してみます。

追記 「114」の後は「st」(ストリート)、「光太郎」の前は「二日」ではないかと、碌山美術館さんの学芸員氏からご指摘がありました。なるほど。それで正解ですね。

荻原君」は碌山荻原守衛、「柳君」は画家の柳敬助。白瀧を含め留学生仲間で、明治39年(1906)には光太郎、柳、白瀧は同時期にニューヨークに居住していましたし、荻原もパリからニューヨークを訪れ、光太郎らと会っています。

この葉書が書かれた明治41年(1908)には、光太郎はロンドン、白瀧はパリ、柳はニューヨーク、そして荻原は一足早くパリからイタリア、ギリシャ、エジプトを経て日本へ帰国する途中でした。「僕の処へも荻原君から手がみがあつた。」というのは、その船旅の途次からの手紙という意味でしょう。

白瀧幾之助は、光太郎より10歳年長。明治31年(1902)に東京美術学校を卒業し、洋画家として白馬会に所属していました。禿頭で大男、留学生仲間からは「入道」とあだ名されていましたが、非常に面倒見のいい人物で、光太郎もニューヨークやロンドンでさんざん世話になっています。また、両者晩年の戦後に、交流が復活しています。

100年以上前のロンドンからパリに送られた絵葉書が現存し、日本の当方の手元に届き、若き留学生たちの息吹が聞こえてきそうな内容……ある意味感無量です。


神田の古書店さんから入手しましたが、ほぼ同時期の白瀧宛書簡がごそっと売りに出ていました。光太郎からのものはこの1通だけでしたが、荻原のそれは3通含まれていました。早速、碌山美術館さんに連絡したところ、注文されたそうです。比較的長命だった光太郎の書簡はこれまでに3,400通余り見つかっていますが、夭折した荻原のそれは150通ほどしか知られておらず、新たに3通が加わったというのは大きいですね。これまでに見つかっていたものは、碌山美術館さんで昨年刊行の『荻原守衛書簡集』にまとめられています。

ちなみに光太郎の絵葉書は、70,000円でした。当分は節約に努めます(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

冬の空とほいかづちす黄に枯れて一馬(いちば)かげなき焼原(やけはら)の牧
明治39年(1906) 光太郎24歳

光太郎留学中の作です。ただし、最初の滞在国、アメリカで詠まれたものです。

昨年、イギリスのヘンリー・ムーア・インスティ000テュートさんと、武蔵野美術大学さんとの共同企画により、日英それぞれで「近代日本彫刻展(A Study of Modern Japanese Sculpture」が開催されました。

英国展は1月28日~4月19日、日本展は5月25日~8月16日。当方、日本展のみ拝見に行きました。

それぞれ光太郎の彫刻作品も展示されました。英国展では「手」(東京国立近代美術館蔵)、「白文鳥」。日本展ではそれにプラスして、朝倉彫塑館蔵の「手」も。2点の「手」は、ともに大正期に鋳造、台座の制作も光太郎自身と推定されるものです。

関連行事として、昨年の7月17、18の2日間、「国際シンポジウム The Study of Modern Japanese Sculpture」が、武蔵野美術大さんで開催されました。日英、さらに米韓の研究者も参加しての、内容の濃いものでした。こちらは存じませんでした。

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その全ての発表、発言を記録した冊子が先月作成されたということで、当方、武蔵野美術大さんから戴いてしまいました。以前に同展の図録をお送りいただいていましたので、住所等ご存じだったようです。

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一昨日届きまして、一気に読みました。そして、刮目しました。日本近代彫刻の特異性(西洋のそれと比較しての)、その中で光雲・光太郎の系譜が果たした役割などについて、一つの解答が提示されているように感じました。

江戸時代までの仏像彫刻、置物などから、維新後の文明開化の中で、どのように西洋彫刻の概念が取り入れられて行ったのか、そして変容した点としなかった点、さらにロダニズム的なものの受容、そうした中で特異な様相を示した日本近代彫刻。結局、「彫刻とは何か」という根源的な問いにまで遡る必要性があると結ばれ、まだまだ研究の余地はたくさんありそうですが、今後の研究の方向性に大きく啓示を与えるものだと感じました。

冊子は約150ページ、図版も豊富です。市販されず、研究室のプリンタと簡易製本機による制作だそうですが、それではもったいない気がしました。そこで礼状にはぜひ市販する方向でご検討下さい、的なことを書いておきました。

実現して欲しいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

野がくれの葉かげの寂し小花(をばな)にも厳たり神の威は漏らす無き
明治37年(1904) 光太郎22歳

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自宅兼事務所の庭、シロツメクサです。刈っても刈っても繁茂する旺盛な生命力には驚かされます。

光太郎彫刻が、海を渡ります。企画は武蔵野美術大学美術館さん。 
 
 
本学美術館がヘンリー・ムーア・インスティテュートと展覧会を共同開催します。
 
ヘンリー・ムーア・インスティテュートと武蔵野美術大学 美術館・図書館が共同開催する展覧会「近代日本彫刻展(A Study of Modern Japanese Sculpture)」が、1月28日よりイギリスで開催されます。高村光太郎、佐藤朝山、橋本平八などによる日本の優れた近代彫刻を紹介します。なお、本学美術館での開催は、5月25日(月)からです。
 
ヘンリー・ムーアは20世紀を代表する具象彫刻家。イングランド北部の都市・リーズ芸術学校に学びました。そこで、リーズに「ヘンリー・ムーア・インスティテュート」が設立されています。そちらのサイトから。 

A Study of Modern Japanese Sculpture

28th January 2015 - 19th April 2015 (2015年1月28日~4月19日)
 
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光太郎作品は、ブロンズの「手」、木彫の「白文鳥」が展示されるようです。他に、橋本平八、佐藤朝山、水谷鉄也、宮本理三郎といったラインナップになっています。
 
イギリスの皆さんが、光太郎をはじめとする日本彫刻をどう見るのか、興味深いところです。
 
 
「日本彫刻」「イギリス」といえば、昨夜のテレビ東京系「美の巨人たち」で、そういう話が出ました。
 
取り上げられたのは森田藻己(そうこ)。明治から昭和前期に活躍した根付師です。
 
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この番組は、毎回、ミニドラマ的な部分が間に挿入される構成になっており、昨夜は根付に興味を抱いたイギリス人女性が京都を訪れるという話になっていました。実際、イギリスなどで日本の根付は高く評価されているようです。
 
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ところで、過日のこのブログで、この番組の紹介を書いた時、「森田藻己は光雲とも交流のあった根付師です。光雲がらみの話が出ればいいのですが……。」と書きましたが、ありがたいことに、そういう話になりました。
 
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光雲が森田の根付けを愛用し、絶賛していたとのこと。
 
衛星放送のBSジャパンで、2月18日(水)の23時00分~23時30分に再放送があります。地上波テレビ東京系が受信できない地域の方は、こちらをご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月18日
 
昭和26年(1951)の今日、『朝日新聞』岩手版に、当時の岩手県知事・国分謙吉と光太郎との対談「新しき岩手の創造」が掲載されました。
 
国分は岩手初の民選知事です。光太郎詩「岩手の人」のモデルであるという説もあります。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポート。あと少しです。
 
明治40年(1907)の渡英の際、光太郎が乗った船がホワイトスター社の船「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)と判明したことを書きました。
 
「オーシャニック」での船旅でのエピソードを、「海の思出」に光太郎はこのように書きます。
 
私と同じ船室に居た若いフランスの男に君の住所は何処かとたづねたら、「僕の住所は僕の帽子のあるところだ、」と答へた。
 
まるで映画のワンシーンのようですね。「僕の住所は僕の帽子のあるところだ、」なかなか言えるセリフではありませんね。映画といえば、こんなエピソードも。
 
驚いたのはその船に乗つてから初めて知り合つた米国の男女が一週間の航海のうちに恋愛成立、上陸したらすぐ結婚式をあげるのだと一同に披露したことであつた。一同は大にそれを祝つた。
 
映画の「タイタニック」を彷彿させます。もっとも、あちらのディカプリオとケイト・ウィンスレットは例の氷山衝突事故のため、永遠の別れを余儀なくされましたが……。
 
さて、「タイタニック」といえば、光太郎が乗った「オーシャニック」と同じ、ホワイトスター社の船です。処女航海(結局、これで沈没してしまうのですが)は明治45年(1912)。光太郎が「オーシャニック」で渡英した5年後です。この2隻、単に同じホワイトスター社の保有というだけでなく、かなり密接な関係があります。
 
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すなわち、前回のこのブログで書いた「オーシャニック」の基本理念、「豪華な設備と乗り心地のよさ」を発展させていったものが「タイタニック」なのです。また、「タイタニック」のクルーの中に、「オーシャニック」のクルー経験者が4人います。マードック1等航海士、ライトラー2等航海士、ピットマン3等航海士、ムーディ6等航海士の4人です。特にライトラー2等航海士とピットマン3等航海士は、光太郎が乗船した明治40年の時点で、「オーシャニック」に乗っていたようです。
 
「タイタニック」は氷山との衝突による沈没という悲劇的な末路をたどりましたが、「オーシャニック」もその末路は哀れでした。
 
華やかな名声に包まれたこの客船には、短い寿命しかなかった。一九一四年、第一次大戦が勃発するや、仮装巡洋艦に改装され、第一〇巡洋船隊に配属されて作戦行動に出る。ところが、大型商船に無経験な海軍士官が艦長になっていたせいか、悪天候のなかでシェトランド諸島の島で座礁沈没、わずか一五年の生涯を閉じてしまう。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
諸行無常、盛者必衰ですね……。
 
「海の思出」、この後は明治41年(1908)の渡仏に関する短い記述が続きます。
 
 英仏海峡はニユウヘブン――ヂエツプを渡つた。至極平穏な数時間で、私はその間にドオデエの「サフオ」を読み了(おは)つた。海峡の現状を新聞で読むと感慨無きを得ない。
 
何気なく書いてありますが、ニユウヘブン(ニューへブン・英)――ヂエツプ(ディエップ・仏)間の航路を使ったというのも、今まで知られていた光太郎作品や年譜には記載されていませんでした。ちなみにここには現在も航路が通っています。
 
「海峡の現状」は、この「海の思出」が書かれた昭和17年(1942)に、「ディエップの戦い」という連合軍のフランスへの奇襲上陸作戦が行われたことなどを指していると思われます。
 
さらに「海の思出」は、留学の末期(明治42年=1909)にイタリア旅行に行って訪れたヴェニスの記述をへて、同じ年の帰国に関して記されます。そちらは次回に。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポートの5回目です。
 
前回、明治40年(1907)の渡英の際、光太郎が乗った船がホワイトスター社の画期的な船「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)と判明したことを書きました。
 
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では、「オーシャニック」、どこが画期的だったのでしょうか。
 
この当時、大西洋を最速で渡った船に「ブルーリボン賞」という賞が与えられる制度がありました。ホワイトスター社の船も、何度か受賞しています。しかし、「最速」にこだわるあまり、乗り心地や乗客の利便性を後回しにする傾向も見られました。
 
当時、スピードが速いと人気のあったドイツ客船は、高速という誉れの蔭に、船体振動という恥部を隠していたわけである。船旅の快適さを考えた振動軽減への配慮よりも、とにかく海象のいかんにかかわらず、蒸気圧を最大に上げて、フルスピードで航海する。そして一時間でも早く目的地に到着するというのが、船会社側のやり方であった。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
2~3時間を短縮するために多大の犠牲を払い、その短縮された時間を到着したニューヨークやマージー川(※リバプール)で錨を降ろして(入港待ちをして)過ごすのは無駄なことだったのである。(中略)ニューヨークへの到着は、暗くなってからだと意味がなかった。乗客は入国手続きを待つために、翌日まで船内に留まることになったからである。(『豪華客船スピード競争の物語』平成10年 デニス・グリフィス著 粟田亨訳 成山堂)
 
ホワイトスター社のイズメイ社長は、こうした風潮に疑問を持ちます。また、コストの問題もありました。
 
ドイツのライバルに勝つためには、二三ノットを出す必要があるが、これには建造費が割高になることから計画を変え、機関の出力を二万八〇〇〇馬力(KWDG=ドイツ船籍の客船、カイザー・ウィルヘルム・ディア・グロッセは三万一〇〇〇馬力)に抑えた。こうして、スピードを犠牲にする一方、安定して快適な航海ができるような大型船、という新しいコンセプトに到達した。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
そうしてエンジンにかかるコストを抑えた分を、内装に回したのです。
 
上等級の船客設備などは、スケールの大きさと豪華さでは、当時で群を抜くと評判を得る。ドーム付き天井の一等食堂は、両舷の大スカイライトから採光されていたり、図書室は念の入った装飾で、人びとを驚嘆させるに充分なものだった。スティアレジ客室のスペースも、他社船よりゆったりしたものだった。(中略)オセアニックは、その豪華な設備と乗り心地のよさで、〈大海原の貴族〉と称えられるようになる。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
速力の不足は、船室と公室の水準が非常に高いことで、補って余りあるものだった。(中略)2本の大変背の高い煙突は、優雅で堂々とした印象をかもし出した。そして速力を追求することだけが大西洋航路客船の目指す絶対目標ではなく、乗客は高水準の船旅や到着時間の確実性をも同じくらい熱望していることを、この船は示して見せたのである。出力に余裕があるために、単調ともいえるほどの定時運転で大西洋を横断できたのであった。ホワイトスター・ラインにおいては、この船は完全な「1週間船」だった。(『豪華客船スピード競争の物語』平成10年 デニス・グリフィス著 粟田亨訳 成山堂)
 
こうした「オーシャニック」の特徴は、「海の思出」や既知の作品「雲と波」に語られる光太郎の回想と一致します。
 
ニユウヨオクから英国サウザンプトンまで一週間の航程であつた。これは又「アゼニヤン」の時とは雲泥の相違で毎日好晴に恵まれて、まるで湖水でも渡るやうな静かな海であつた。(「海の思出」)
 
 大洋を渡るのは二度目になるが、前の時とは違つて今度は出帆の日から今日まで実に静かな美しい海を見つづけた。前の時にはこんなにやさしいあたたかい趣が大洋にあらうとは夢にも思はなかつた。
(略)
 今度の航海の愉快な事は非常だ。全く此の大きな船が揺籃の中に心地よく抱かれてゐる様だ。此の親しむ可くして狎るべからざる自然のTendernessとCalmnessとは僕の心をひどく暖かにして呉れた。と共に又自然の力の限り無く窮り無い事を感ぜしめられる。(「雲と波」)
 
ホワイトスター社では、この船の成功に自信を得て、速度より乗り心地の追及をさらに進めます。その結果、ブルーリボン賞とはほとんど無縁となりますが、このコンセプトが船客には支持されました。特に富裕層は同社の船に好んで乗船したそうです。
 
ここで疑問に思うのは、渡米の際には特別三等の「アセニアン」で経費削減を図った光太郎が、渡英の際にはなぜこんな豪華客船に乗ったのかということ。その答えは昭和29年に書かれた「父との関係―アトリエにて―」にありました。
 
父の配慮で農商務省の海外研究生になることが出来、月六十円ばかりの金がきまつてくる事になつたので、六月十九日に船に乗つて大西洋を渡り、イギリスに移つた。
 
諸説ありますが、明治末の1円は現在の4,000円くらいにあたるとも言われます。そう考えると60円は240,000円。そして光太郎が「オーシャニック」で利用したのは2等。1等は目玉の飛び出る様な金額だったようですが、2等ならそれほどでもなく、利用可能だったのだと思われます。
 
長くなりましたが、明日はもう少しだけ「オーシャニック」の話と、続く渡仏、さらに帰国直前のイタリア旅行中の話を。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポートを続けます。
 
幼少年期、渡米に続いて書かれているのは、明治40年(1907)に、アメリカからイギリスに渡った際の話です。
 
最大の収穫は、渡英の際に乗った船が判ったことでした。
 
これまでに見つかっていた光太郎の文筆作品では、明治40年、渡英の船内で書かれた「雲と波」という比較的長い文章があり、航海の様子などは詳細に記されていました。しかし、肝心の船名は書かれていませんでした。また、昭和29年(1954)に書かれた「父との関係-アトリエにて-」という文章でも渡英に触れていましたが、船名の記述はなし。ただ、「ホワイト スタア線の二万トン級」とだけは書かれていました。「ホワイトスター」は、イギリスを代表する船会社で、明治45年(1912)には、かのタイタニックを就航させています。
 
さて、「海の思出」。
 
大西洋を渡つたのは一九〇七年の晩秋頃だつたと思ふが、この時は二萬トンからある「オセアニヤ」とかいふホワイト・スタア線の大汽船で、ニユウヨオクから英国サウザンプトンまで一週間の航程であつた。
 
と、船名が書かれていました。やはり船会社はホワイトスター社とのこと。そこで早速調べて見ましたが、同社の船には「オセアニア」という船名はありませんでした。しかし、よく調べてみると、同社の主要な船は「タイタニック」(Titanic)のように、すべて「~ic」で終わる名前を付けています。これをあてはめると「オセアニア」(Oceania)ではなく「Oceanic」となるはず。こう思って調べてみると、「Oceanic」、確かにありました!
 
まず、明治4年(1871)に就航した同社最初の大西洋横断船。ところが、これは渡米の際に乗った「アセニアン」と同じくらいの3,707トンしかなく、時期的にも古すぎます。しかし、洋の東西を問わず、船名は同じ名前を使い回す習慣があり、「Oceanic」にもⅡ世がありました。こちらは明治32年(1899)の就航。光太郎が渡英した同40年(1907)にも現役で航行していました。総トン数も17,272トン。光太郎曰くの「二萬トンからある」に近い数値です。
 
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ところで「Oceanic」の片仮名表記ですが、当たった資料によって「オセアニック」「オーシアニック」「オーシャニック」といろいろでした。いずれにせよ、「Ocean=海」の派生語ですので、ここからは「オーシャン」に近い「オーシャニック」と表記します。
 
さて、「オーシャニック」。ホワイトスター社のみならず、大西洋航路全体として見ても、画期的な船でした。画期的ゆえに、同社では記念すべき大西洋航路の初船と同じ「オーシャニック」の名を冠したのです。その画期的な部分が、「海の思出」や「雲と波」の光太郎の記述と合致します。どこがどう画期的だったのかは明日のこのブログで紹介します。

8/25のブログで紹介した高島屋横浜店さんにおいて開催中の「東と西の出会い 生誕125年 バーナード・リーチ展」に行って参りました。
 
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図録(\2,000)
 
当方、リーチの作品をまとめて観たのは初めてで、感動しました。素朴な作品が多いのですが、それが稚拙とか凡庸というわけではなく、温かみやしっかりと個性を感じさせるものでした。
 
ゴテゴテした装飾過剰に陥らず、外連味(けれんみ)や奇をてらうといったこともなく、「用の美」の精神が具現されていると感じました。光太郎も「用の美」の重要性をよく説いていました。ただし、光太郎の場合、戦時中の戦闘機などの機能美にそれを見ていたこともあるのですが……。
 
逆に、奇抜といえば奇抜なアイディア-たとえばアルファベットや数字を絵付けする-も秀逸だと思いました。それが違和感なく調和しており、しかし日本の陶芸家がこれをやると外連味と感じられるのかも知れません。
 
平日にもかかわらず会場はにぎわっていました。NHKさんの「日曜美術館」で取り上げられた影響もあるかも知れません。「これ、テレビでやってた作品だね」などと話しながら見ている老夫婦もいらっしゃいました。当方もテレビで得た知識が理解や鑑賞の手助けになりました。
 
にぎわっていたのはテレビの影響だけではないでしょう。もちろん、横浜という大都市だということもあります。しかし、美しいものを見たい、という欲求があるからこそ人が集まるのでしょう。そういう欲求が持てるのも人間の特権の一つだと思います。
 
忙しさに追われて日々を送っている皆さん、たまには美術館に足を運びませんか? 
 
リーチ展、以下の日程になっています。
 横浜・高島屋横浜店:9月19日~10月1日
 大阪・高島屋大阪店:10月10日~10月22日
 京都・高島屋京都店:10月31日~11月11日

昨日、高島屋でのバーナード・リーチ展についてお知らせしましたので、光太郎の書いた文章の中から、リーチに関する記述を紹介します。
 
まず、昭和8年に『工芸』という雑誌に発表された「二十六年前」という散文から。
 
ロンドンの名物のひどい濃霧になやませれてゐる時だつたから、むろん冬の事である。多分一九〇七年の十一月頃だつたらう。「ロンドン スクウル オブ アアト」のスワン教授の教室で素描に熱中してゐた私は、性来の無口と孤独癖とから、あまり他の生徒等との交渉を好まなかつたにも拘らず、その学校に於けるたつた一人の日本人の学生であつたところの私に何らかの興味を持つてゐるらしい幾人かの同級生のある事に気がついてゐた。休み時間に私がトルストイの「芸術とは何ぞや」を読んでゐると、後ろからそれをのぞきこんで、「君は彼をどう思ふ」など質問する者もゐた。(中略)或日その背の高い痩せた生徒がたうとう思ひ切つたやうに私に向つて口を切つた。「君はなぜ日本風な素描を描かないのか。」私は即座に返事した。「ヨオロツパの美術家が感ずるものを理解したいと思つて私はヨオロツパに来た。私は今此所で日本画を描かうと思つてゐない。それはずつとあとの事だ。」「なるほど、さうか。私は日本人が此所でどんな素描を描くかと思つて大きな興味を持つてゐたが、実は君の描くものが更に日本風でないので理解に苦しんだ。」私は此の背の高い、鼻の高い、眼のやさしい善良な生徒と、此日以来友達になつた。此がバアナアド リイチだつた。
 
いわゆるジャポニスムの流行はピークを過ぎた時期ですが、リーチは個人的に日本に惹かれていました。昭和26年に『中央公論』に発表された「青春の日」から。
 
リーチが僕のところにやつて来た時、たまたま僕がマンドリンをその頃習つていたので、それをいじつていた。何の気もなく、日本の民謡の「一つとや」をやつたら、リーチはそのメロデイをおれは知つていると言う。いや、これは日本の唄で、君が知るわけはないと言うと、リーチは香港で生れ、小さい時分に京都にも来たことがあるそうで、そのころに聞いたことが分つた。そんなことで、だんだん日本に熱を上げて、どうしても日本へ一度行くと言う。事実、リーチは間もなくそれを実行した
 
そしてリーチは日本で陶芸と出逢い、独自の境地を作り出します。やはり光太郎の「リーチ的詩魂」(昭和28年・『毎日新聞』)から。
 
リーチは焼物を日本で勉強したので、東洋の美はリーチの細胞にまでなつているが、その細胞にはまたリーチの血脈である西洋の美がみなぎつていて、東洋人ではちよつと出せない質がそこにある。器の把手などの面白い扱いはなどはリーチ自身も無意識だろうが、これは確に西洋の美だ。東洋と西洋とはリーチの中にひとりでにとけている。それがまことに愉快である。
 
これこそが国際交流、という気がします。

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バーナード・リーチ 『東と西を超えて 自伝的回想』
バーナード・リーチ著 福田陸太郎訳 日本経済新聞社 昭和57年 より
 
このところ、中韓との領土問題や、シリアでの日本人ジャーナリストの殉職など、国際的な事件が頻発しています。こういう時こそ、国境を超えて東と西の融合を図った先人の業績に思いを馳せるべきではないかと思います。そういうことが「歴史に学ぶ」ということなのではないのでしょうか。

今朝の『朝日新聞』さんを広げて知りました。 

東と西の出会い 生誕125年バーナード・リーチ展

会期情報000
東京・日本橋高島屋:2012年8月29日~9月10日
横浜・高島屋横浜店:9月19日~10月1日
大阪・高島屋大阪店:10月10日~10月22日
京都・高島屋京都店:10月31日~11月11日

バーナード・リーチは、イギリスの陶芸家です。元々、香港の生まれで、幼い頃には京都に暮らしていたこともありました。明治41年、ロンドン留学中の光太郎と知り合い、日本熱が高まって来日します。その後、たびたび来日、長期の滞在もあり、白樺派の面々、富本憲吉、浜田庄司らと親しく交わり、陶磁器の作成に独自の境地を展開しました。光太郎との交流も後々まで続いています。
 
さて、今回の展覧会では光太郎と直接関わる出品物があるかどうかわかりませんが、関東で開催中に1度行ってみようと思っています。

最近入手した昔の絵葉書です。

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恐らく明治、大正の頃のものでしょう。写っているのは日本郵船の「阿波丸」という船です。戦時中に米軍潜水艦に撃沈された有名な「阿波丸事件」の「阿波丸」とは別の船です。

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この船が何なのかというと、明治42年(1909)、光太郎が欧米留学から帰る時に乗った船なのです。留学の最終滞在地はパリでしたが、そちらから一旦ロンドンに渡り、阿波丸に乗り込みました。下船場所は神戸。光太郎の父・光雲が迎えに来ており、神戸からの汽車の中で、光太郎を中心に銅像を制作する会社を興す計画が語られましたが、光太郎は取り合いませんでした。
 
ところで、少し前に昭和17年(1942)の『海運報国』という雑誌に載った「海の思出」という少し長い光太郎の随筆を見つけました。今まで知られていなかった文章です。この中で、幼少年期の海の思い出-小学校の遠足で見た品川の海、14歳頃に一人旅で訪れた江の島、16歳で富士山頂から見た太平洋-、欧米留学で乗った船の思い出が語られています。
 
どうも今まで知られていた文章には載っていなかったと思われる事実がかなり語られており、現在、鋭意調査中です。秋に高村光太郎研究会という会合があるのですが、そこで発表を頼まれており、この件で発表するつもりで居ります。
 
そのためついこの前も国会図書館に調査に行きましたし、この絵はがきも購入しました。
 
後ほど調査した内容はこのブログでも紹介しましょう。

またオリンピック関連に戻ります。「またか」と思われるかも知れませんが、四年に一度のことですのでご寛恕の程。
 
『高村光太郎全集』の頁を繰っていて、光太郎がオリンピックに言及した箇所をまた発見しましたので、紹介します。
 
2篇あり、どちらも少し前に紹介した座談「新女性美の創造」と同じく、昭和11年(1936)のベルリンオリンピックに関係するものです。
 
まず、第二十巻に掲載されている「「美の祭典」を観る」という散文。座談「新女性美の創造」を紹介した時にも書きましたが、「美の祭典」はベルリンオリンピックの記録映画です。日本での公開は4年後の昭和15年。のんびりした話ですね。もっとも、純粋な記録映画ではなく、後から選手にもう一度演技してもらっての撮影、今で言う「やらせ」が多用されているとのことで、クランクアウトまでに時間がかかったようです。
 
初出は昭和15年12月1日発行の『科学知識』第20巻第12号。かなり畑違いの雑誌ですが、光太郎、本当にいろいろな分野の雑誌に寄稿しています。そのあたりについても後ほど書いてみようと思っています。
 
長い文章ではありませんので全文を紹介しましょう。「いかにも彫刻家」という視点が窺えます。
 
「美の祭典」の全体に叙情性の濃厚なのを認めた。闘争のスリルよりも均衡の美を求める努力と意志が著しい。体操と飛込とに一番多く時間を与へてゐるのでもわかる。
 編輯に於ける全体的構成の雄大なことと、撮影途上の細かい注意とは相変らず見のがし難い。常に個々の競技そのものよりも、その競技のうしろにある力と美とを表現しようとしてゐるし、又馬の蹄の先とか、日本女性の足の指とか、各国人の表情の相違とか、雲と帆、雲と人とか、さういふ数々の挿話のおもしろさを長からず短からず取り入れてゐる緻密さがある。
 体操の美には殊に感心した。人体の力の比例均衡を存分に満喫して満足した。無理のない運動の流暢さが如何に鍛錬された力の賜であるかを見た。女学生の集団体操の撮影の順序には微笑した。
 最後の飛込の天と水と人体との感覚は圧巻である。尚ほ水泳の葉室君の顔がこの上もなく美しくて嬉しかつた。
 
「葉室君」は葉室鐵夫。005子200㍍平泳ぎの金メダリストです。

女子200㍍平泳ぎの金メダリストは前畑選手ですから、アベック優勝だったのですね。

もう一篇、その前畑選手の名前が、昭和30年(1955)、光太郎最晩年の日記の巻末余白に記されたメモ書きに現れます(『高村光太郎全集』第十三巻)。
 
ベルリンオリムピツクで前畑秀子が二百米平泳で優勝したのは一九三六年。(浅草のカフエでその放送をきいたので年代おぼえの為書抜)
 
なぜ突然この時期に前畑選手の名前が出て来るのか不思議でしたが、8月5日~14日にかけての日記に、断続的に「夜日米水泳をラジオできく」といった記述があるので、その関係で思い出したのだと思います。
 
例の「前畑がんばれ!」を光太郎は浅草のカフェで聞いていたのですね。この時、智恵子はその終焉の地となった品川のゼームス坂病院で、有名な紙絵の制作にかかっていました。
 
ざっと調べた限りでは、光太郎とオリンピックの関連はこんなところでした。ロンドン五輪も後半戦に突入。会期中にまた何か見つけたら紹介したいと思います。

ロンドンオリンピックが盛り上がっています。柔道の松本薫選手の金をはじめ、日本選手のメダル獲得数がじわじわと増えてきていますね。
 
さて、オリンピックと光太郎の3回目。
 
『高村光太郎全集』の第13巻に載っている昭和27年(1952)7月19日(土)の光太郎日記には、「夜ヘルシンキのオリムピツク開会式の実況をラジオできく」の記述があります。その後も何回か同様の記述が続いています。現在の我々と同じように、日本選手の活躍に一喜一憂していたのかもしれませんね。
 
昭和27年(1952)の夏季オリンピックはフィンランドのヘルシンキでの開催。昭和11年(1936)のベルリンオリンピック以来、日本選手団が16年ぶりに参加しました。レスリングフリースタイルバンタム級で石井庄八選手が金メダルを獲得しています。当時は「武道は軍国主義の推進につながる」というGHQの指導で、柔道が弾圧を受けていました。そのため、レスリングに転向した柔道家も多かったと聞きます。現在に至るまで、日本のアマレスが一定のレベルを保っている背景にはこんな事情もあるのです。
 
この前年、昭和26年(1951)にはサンフランシスコ講和条約の調印、27年に入って4月に同条約の発効。GHQによる占領体制が解かれます。こうした日本の国際社会への復帰の流れの中でのヘルシンキ五輪。自らの戦争犯罪を自ら断罪する意味合いもあって、花巻の山小屋生活を続けていた光太郎は、どのような思いでラジオを聴いていたのでしょうか。
 
この頃の光太郎の動静を見てみましょう。この年3月には、青森県から十和田湖畔に建てるモニュメントの制作を依頼され、6月には現地を視察、7月には東京中野の中西利雄アトリエを借りて制作にあたることが決定、10月には7年ぶりの帰京。そして完成するのが十和田湖畔の裸婦像です。

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(十和田湖畔の裸婦像……最近入手した昔の絵葉書です)
 
日本の国際社会への復帰と時を同じくし、光太郎自身も彫刻界に復帰するのです。講和条約の締結・発効、オリンピックへの復帰などの世相と無関係ではないでしょう。
 
裸婦像完成後は、また花巻に帰るつもりでいた光太郎(家財道具も住民票もしばらくは花巻に残したままでした)ですが、宿痾(しゅくあ)の肺結核がそれを許しません。中野のアトリエで静かに息を引き取ったのは上京から4年後の昭和31年(1956)4月2日。この日を「連翹忌」として現在まで光太郎・智恵子を偲ぶよすがとし、集まりが続けられています。
 
ちなみに4年といえば、オリンピック。つまり光太郎の没した昭和31年(1956)も、オリンピックイヤーですね。この年は11月から12月にかけ(南半球ですから)メルボルンでオリンピックが開催されました。光太郎、空の上から日本人選手の活躍を一喜一憂しながら見守っていたのかも知れません。

昨日、ベルリンオリンピック関連の光太郎の発言を紹介しました。
 
その後、気になって調べてみましたところ、オリンピックと光太郎の関連がいくつか出てきました。
 
まず、現在、ロンドンオリンピックが開000催中ですが、ロンドンでのオリンピックは3回目。前回は終戦後の昭和23年(1948)。そして、最初にロンドンでオリンピックが開催されたのは明治41年(1908)。短期集中型でやっている今のオリンピックとは違い、会期が半年にも及んでいました。開会式が4月27日、閉会式が10月31日です。半年も続いていたというのは、どんなものだったのか、ちょっと想像がつきません。 
 
さて、明治41年といえば、光太郎はちょうどロンドン滞在中でした。
 
光太郎は、明治35年(1902)に東京美術学校彫刻科を卒業した後も研究科に残り、明治37年(1904)にはロダンの「考える人」を写真で見て激しい衝撃を受けます。根底から勉強し直そうと、翌38年(1905)には東京美術学校西洋画科に再入学(教授に黒田清輝や藤島武二、同級生に藤田嗣治や岡本一平。すごいメンバーです)。しかし「君は彫刻に専念すべきだ」という、彫刻科教授岩村透の勧めで、明治39年(1906)から、3年あまりにわたる留学に出ます。
 
まず目指したのはニューヨーク。1年あまりの滞在の後、大西洋を渡ってロンドンに向かったのが明治40年(1907)6月。ちなみに最近見つけた「海の思出」という散文があるのですが、それによればこの時の航海は、後にかのタイタニック号を保有するホワイトスターライン社の船、おそらくオーシアニック号での航海でした。
 
それから翌41年(1908)6月、パリに移るまでのまる1年、ロンドンに滞在します。最初のロンドンオリンピックはこの年4月27日が開会式。まさに光太郎がいた時期です。
 
ただ、この当時書かれた作品、後に往時を回想して書かれた作品等をざっと調べましたが、残念ながらオリンピック関連の内容は発見できませんでした(細かく探せばあるかも知れません)。光太郎の住んでいたチェルシーと、メイン会場だったホワイトシティ・スタジアムは直線距離にして2㎞ほどだったのですが。
 
もっとも、日本人選手の参加もありませんでしたし(日本人選手の参加は大正元年=1912のストックホルム大会から)、この時点ではまだオリンピックというもの自体が一般的でなかったのかも知れません。
 
光太郎とオリンピックの関わり、まだあります。明日も続けます。

ロンドンオリンピックが開幕しました。日本選手の活躍に期待したいものです。
 
オリンピックと言うことで、光太郎にもオリンピックがらみの発言があったことを思い出しました。
 
昭和16年(1941)1月24日から2月14日にかけ、『読売新聞』の婦人欄に連載された座談会「新女性美の創造」です。

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光太郎や宮本百合子など、出席者は総勢七名。上の画像では左から三人目が光太郎です。
 
この中で昭和11年(1936)に行われたベルリンオリンピックに関する話題が出ています。その部分のみ抜粋してみましょう。
 
高村「僕はこの間の「美の祭典」を非常に喜んで見ました。やはりあゝいふのは僕らの参考になります。さつき体操の話が出ましたがこれも勿論よいものですが、あの飛込みは素晴らしいものだ。第一水泳の人の身体は違ふ。」
吉田「水泳の人は非常に調和の取れた身体ですね。」
高村「前畑さんなどは普通では肥りすぎてゐるやうにいはれるけれども、僕などの立場から見ると実に美しいものですね。」
竹内「前畑さんは丁度理想的な寸法で決して肥りすぎてはをりません。あの人がドイツから帰つて来た日に私、宿舎へ行き、身体測定をしました。すると前畑さんに戦いを挑んだドイツのゲネンゲル女史と同じ格好をしてゐる。寸法でいひますと身長が一六〇糎(センチ)、胸の周りが九〇.二糎、これを身長との割合にすると五六.五になります。それから目方はあの人は五八瓩(キログラム)です。」
 
光太郎が見たという「美の祭典」は、ベルリンオリンピックの模様を記録した映画です。まだテレビがなかった時代、動画でオリンピックの様子を知るには、映画で見るしかなかったのですね。
 
ちなみに当方、昨夜はテレビでBS放送の柔道と地上波の女子サッカーを行ったり来たりしながら観ていました。さしもの光太郎も70年後にこんな便利な時代になっているとは思いもよらないでしょう。
 
「前畑さん」は、「前畑がんばれ!」の連呼で有名な水泳の前畑秀子選手です。昭和7年(1932)のロサンゼルスオリンピック200㍍平泳ぎで銀、4年後のベルリンオリンピックの同じ200㍍平泳ぎで、日本女性初の金メダルを獲得しました。同じ座談会によれば当時の日本女性の平均は身長150センチ、体重53キロだったそうですから、やはりかなり立派な体格だったようです。
 
「ゲネンゲル女史」は、ベルリンで前畑と死闘を演じたマルタ・ゲネンゲルです。
 
この部分の光太郎以外の発言者「吉田」は体育研究所技師・文部省体育官を務めていた吉田章信。「竹内」は竹内茂代。女医です。
 
この「新女性美の創造」、一昨年刊行の『高村光太郎研究(32)』所収の「光太郎遺珠⑥」に掲載しました。
 
オリンピックの歴史をひもとくと、この座談会が開かれた前年の昭和15年(1940)は第二次世界大戦のあおりで東京オリンピックが幻と化し、次の昭和19年(1944)もロンドン大会の予定だったのが中止。戦後になってようやく仕切り直しのロンドン大会が昭和23年(1948)に開かれました。ただし敗戦国である日本の復帰はさらに後、昭和27年(1952)のヘルシンキ大会からでした。
 
明日はその辺りを書こうと思っています。

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