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岐阜県から展覧会情報です

第82回企画展「どうぶつ集合!」

期 日 : 2021年1月7日(木)~3月14日(日)
会 場 : 大垣市守屋多々志美術館 岐阜県大垣市郭町2丁目12番地
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週火曜日(2月23日(祝)は開館)、1月13日(水)、2月12日(金)、2月24日(水)
料 金 : 一般 300円(団体20人以上 半額150円) 18歳未満 無料

 市の栄誉市民であり、文化勲章受章者として郷土が誇る日本画家守屋多々志は、歴史画の第一人者として活躍しました。大垣市守屋多々志美術館は、守屋画伯の作品や資料を紹介する美術館として、平成13年7月28日に開館しました。
 この美術館は、守屋家と株式会社大垣共立銀行の協力によって、同銀行郭町ビルの改修後、市が無償で借り受け暫定的に整備したものです。
 作品保存の難しい日本画作品のため、常設展示は行っておりませんが、3,300点の作品と資料を整理しつつ、2ヶ月ごとに入れ替えて展示し、多くの作品をご覧いただけるように企画展や特別展でご紹介しています。
 美術館は、大垣駅南口から徒歩10分の市の中心地にあります。多くの皆様に守屋多々志の作品を鑑賞していただき、美術に親しんでいただければ幸いです。

「馬を描くことは誰にも負けぬ」と守屋が自負したとおり勇壮でいきいきとした駆ける馬、異国に嫁ぐ王女を背に誇らしげな《繭の傳説》のラクダ、《萩の宿》の夜の静寂を表す猫、《桃太郎》のお供に加わり得意顔の猿や忠心の犬など、名脇役となった動物が描かれた作品を集め展示します。
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日本画家の守屋多々志(大正元年=1912~平成15年=2003)。当方、寡聞にして存じませんでした。調べてみましたところ、東京美術学校卒ですので、科は違えど光太郎の後輩に当たります。日本美術院に属し、法隆寺の金堂壁画、高松塚古墳の壁画模写などにも加わっています。平成13年(2001)には文化勲章も授与されていました。

で、今回の展覧会の出品作に「智恵子と光太郎」と題した絵が含まれています。
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昭和9年(1934)、千葉県九十九里浜での光太郎と智恵子ですね。なぜ「どうぶつ集合!」に光太郎智恵子? と思ったところ、主な展示品解説のページに答えがありました。

《智恵子と光太郎》(1993年、大垣市蔵)
 こちらは1993年、守屋が81歳の時に描いた《智恵子と光太郎》という作品です。日本近代詩の礎を築いた高村光太郎と、その妻で画家の高村智恵子を描いています。
 智恵子は大学を卒業後、女性洋画家として活躍する中で光太郎と出会い、創作活動にますます打ち込むようになります。しかし、昭和6~7年ごろに酒造業を営む実家が破産し、家族が散り散りになってしまいました。その頃、智恵子自身も画家としてスランプに陥るなど、精神的に弱り切ってしまったことから健康を害してしまい、その後の闘病も虚しく昭和13年に亡くなりました。智恵子の死後、光太郎はふさぎこんだ生活を送りますが、昭和16年に妻に関する詩集『智恵子抄』を刊行します。
 この作品の場面は、智恵子が昭和9年5月から12月にかけ療養した九十九里浜の真亀海岸だといいます。この地で「千鳥と遊ぶ智恵子」、「風に乗る智恵子」などが詠まれました。初夏の日差しが、やわらかい色調で二人を包んで降り注いでいます。精神を病んだ智恵子はまるで幼女のように無邪気な様子で描かれています。光太郎も足元の小さな蟹を見つめ、智恵子と過ごす時間を穏やかに見守っているようです。

「足元の小さな蟹」だそうで。また、よく見ると左上の方には千鳥の足跡らしき点々も。

守屋は歴史画を得意としたということで、智恵子の九十九里浜療養も、ある意味、歴史の一コマといえるかも知れませんね。ちなみにこの作、平成5年(1993)に開催された第48回春の院展出品作だそうです。

近くでの開催でしたら飛んでいく所ですが……。お近くの方、コロナ禍には十分お気を付けつつ、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

勝治さんの話では昨朝は零下20度なりし由。今朝は零下十度との事。

昭和21年(1946)1月31日の日記より 光太郎64歳

「勝治さん」は、光太郎を花巻郊外太田村に招いた、分教場の教師です。

何気に書いてありますが、「零下20度」……トホホです(笑)。

昨日は日帰りで岐阜に行っておりました。

当方、東北には年10回ぐらいは足を運んでおりますが、長野県以西に行くことはあまりなく、新鮮でした。

途中の車窓からの富士山。

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東海道新幹線を名古屋で降り、東海道本線で西岐阜駅へ。駅前から路線バスに乗り、目的地の岐阜県図書館さんに着きました。

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こちらでは、先月から企画展「花子 ロダンのモデルになった明治の女性」が開催中です。

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明治元年(1868)、愛知に生まれ、明治35年(1902)に、コペンハーゲン動物園の見世物興行の踊り子募集に応じ渡欧、そのまま欧州に残り、実に20年近く経った大正10年(1921)まで、欧州各地やアメリカで日本人芝居一座の花形として絶賛され、ロダン彫刻のモデルとなった花子――本名・太田ひさ――を紹介する展覧会です。

このブログでも繰り返しご紹介していますが、昭和2年(1927)、書き下ろし評伝『ロダン』刊行に際し、光太郎が岐阜の妹の家に暮らしていた花子を訪ねています。その後に光太郎から送られた書簡のコピーや、評伝『ロダン』、光太郎訳の『ロダンの言葉』(花子に関する記述有り)も展示されていました。

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その他、花子に関する貴重な資料がずらっと並び、実に興味深く拝見しました。

花子の令孫がご存命です。花子自身は子を為さなかったのですが、帰国後に、実弟・角次郎の子の英雄を養子とし、その娘である澤田正子様がまだお元気です。ちなみにご主人の澤田助太郎氏も、花子の実妹・はまの令孫に当たります。

澤田氏は岐阜女子大学名誉教授であらせられ、血縁の花子に関し、実に詳細な研究をされました。その澤田夫妻から、岐阜県図書館さんに花子関連資料の数々が寄贈されており、今年は明治維新150年、花子生誕150年ということもあって、それらの資料の展示が為されているわけです。

企画展示を拝見した後、館内のレストランで昼食。そして午後1時30分から、関連行事として「「花子」紙芝居と映画」が、やはり館内の小ホールで開催されました。

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それぞれ約1時間ずつの2本立て。まずは伊藤今日子さんという方による、「三味線紙芝居「花子」」。

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近いものを挙げろ、と言われれば、講談でしょうか。伊藤さんが花子の生涯を語るのですが、太棹の三味線を弾きつつ、さらにスクリーンに「紙芝居」ということで静止画像を投影しながらでした。なかなか工夫された構成で、面白いと思いました。

つづいて、「なつかシネマ上映会 プチト・アナコ~ロダンが愛した旅芸人花子~」。映画だと思っていましたが、制作がテレ朝さんということで、どうもテレビで放映されたもののようでした。平成7年(1995)の作品だそうです。

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舞踏家の古川あんずさん演じる晩年の花子が、51ef784e麿赤兒さん扮する光太郎に、ロダンとの思い出を語る形で進行。完全なドラマ仕立てではなく、途中途中に矢島正明さんのナレーションで、花子の生涯が解説されました。ドラマ部分では、パリ郊外のロダン美術館でのロケもあり、「ほう」と思いました。ただ、麿赤兒さんの光太郎は、ちょっと濃かったな、という印象でした(笑)。

ラスト近くには、前述の光太郎から花子宛の書簡も紹介されていました。

三味線紙芝居、それから「プチト・アナコ」、ともに澤田助太郎氏原作のクレジット。

その澤田夫妻がお見えでした。終演後に少しお話をさせていただきました。

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以前にご夫妻で当会主催の連翹忌にご参加いただいたことがあったと記憶しております。また、助太郎氏のご講演を、文京区立森鷗外記念図書館(当時)で聴いた記憶も。

記憶が正しければ、助太郎氏、当会顧問の北川太一先生と同じ、大正14年(1925)のお生まれ。お元気そうで何よりでした。

というわけで、なかなかに充実の岐阜紀行でした。

企画展示の方は、来月24日まで。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

彫刻的分子と同時に私の中にある文学的分子は相当活発であつてこれをおし殺すわけにゆかない。それで勢のおもむくままに歌も書き詩も書いた。以前、人はよく私に向つて詩歌は私の余技かとたずねたものだが、私はこれを余技とはさらさら思わない。同じ重量で私の中に生きている二つの機能であつて、どちらも正面きつての仕事なのだ。

散文「自伝」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

彫刻を純粋造型たらしめるため、余計な心の叫び等は排除し、それは詩歌で吐き出すという、他の文章でも繰り返し語られている彫刻と詩のいわば分業。最晩年になっても、その考えに変わりはなかったようです。

新刊情報です。といっても2ヶ月ほど経ってしまっていますが……。 

ロダンを魅了した幻の大女優マダム・ハナコ

2018年6月9日  大野芳(おおのかおる)著  求龍堂  定価1,800円+税

ロダンのモデルになった唯一の日本人、女優マダム・ハナコとは誰なのか?
巨匠ロダンを魅了しモデルになった唯一の日本人、それは明治時代の末、日本から遠く離れたヨーロッパで熱狂的な人気を博した女優マダム・ハナコだった。
花子探索の道にはまった二人の研究者澤田助太郎と資延勲の成果をもとに、花子の波乱の人生をまとめたノンフィクション。
明治時代の末、恋にやぶれてヨーロッパに旅立ったひとりの女性がいた。女優となった彼女は、一座を率いてヨーロッパ・ロシアを巡業し、一大センセーションを巻き起こした。 明治35年から大正10年に帰国するまでの約20年間、「マダム・ハナコ( 花子)」という芸名で人気を博した。切腹するシーンを演じる花子は、身長136cmの小さな体にもかかわらず、舞台上での存在感は圧倒的で、彫刻家ロダンの目にとまり、彼女をモデルにした彫刻を何点も残している。

目次001
 プロローグ
 第一章 花子探索の旅
 第二章 花子の生い立ち
 第三章 花子ヨーロッパへ
 第四章 ロダンと花子
 第五章 世界大戦争
 終章 料亭「湖月」のマダム
 マダム・ハナコ関係略年譜
 あとがき


平成26年(2014)、『中日新聞』さんと、系列の『東京新聞』さんに連載された「「幻の女優 マダム・ハナコ」を再構成、加筆訂正されての単行本化です。

このブログでは新聞連載時にちらっとご紹介しました。その後、単行本化されるだろうと思っていたのですが、6月に刊行されていたのに気づきませんでした。

気づいたのは『朝日新聞』さんに書評が載ったおかげでした。 

(書評)『ロダンを魅了した幻の大女優 マダム・ハナコ』 大野芳〈著〉

 ■西洋人のハート、誠意で射抜く
 本書は明治35(1902)年から大正10(1921)年までの約20年間、西欧で女優マダム・ハナコとして活躍し、ロダンにも愛(め)でられて多数の彫刻のモデルとなった太田花子の足跡を、本人からの聞き書きと内外の史料や証言、埋もれた記録を掘り起こしつつたどった労作である。
 不幸な生い立ちを背負った花子は芸者屋へ売られ、駆け落ちした男にも捨てられて失意のどん底に。国際博覧会など日本ブームにわくドイツへ渡って女優になり、やがて一座を組んで西欧諸国を巡業、ロシアの涯(は)てからニューヨークまで縦横無尽に駆け巡って大人気を博す。異国の言葉もわからず知識もない花子がよくあの時代に活躍できたものだと驚嘆させられる。
 とはいえ、それだけなら「世界の涯てに日本人がいた!」という程度の感嘆符で終わってしまう。本書の肝はそこではない。
 なぜ花子は西洋人にこれほどモテたのか。西洋人から見れば子供のような体形の花子が舞台の上で切腹の場面などをリアルに演じて拍手喝采を浴びる。東洋人の女優が珍しかったのは確かだろうが、本書に掲載された数々の写真を見ても、正直、花子は美女ではなく、愛くるしいとも言い難い。
 著者は巧みにその謎を解いてみせる。夫が死んだときも、開幕が迫る中、列車の中で号泣しつつ巡業地へ向かう花子。山賊が出るという山道で遅れ、塵穢(ほこり)にまみれたまま舞台の前で観客に詫(わ)びる花子。巡業の列車ではトイレでも必死で異国語を覚えた。どこにいてもロダンを気づかって手紙を書き、ロダンの内妻を思いやる。やっぱり心なのだ。それだけは世界共通!
 森鴎外をはじめ当時の日本人は、芸者あがりの花子を酷評し嘲笑した。誤解の元となる短編まで書いた。だからこそ、著者は本書を世に問うたのではないか。表層で人を評価してはいけない。言語や知識を越えた誠意だけが、人を、世界を動かすのだ……と。
 評・諸田玲子(作家)
     *
 『ロダンを魅了した幻の大女優 マダム・ハナコ』 大野芳〈著〉 求龍堂 1944円
     *
 おおの・かおる 41年生まれ。ノンフィクション作家。『北針』『宮中某重大事件』『戦艦大和転針ス』など。


光太郎が敬愛したロダンのモデルを務め、光太郎が評伝『ロダン』(昭和2年=1927)執筆に際し、岐阜まで会いに行った日本人女優・花子の評伝です。

花子に関してはこちら。


本書でも随所で光太郎について言及して下さっています。

ちょうど上記リンクにもある岐阜県図書館さんの企画展「花子 ロダンのモデルになった明治の女性」が開催中ですので、これはもうそれを見に行け、と言う啓示なのだと思い、盆明けに行って来ることにしました。

皆様も本書お買い求めの上、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

言葉は生きものであるから、自分で使つてゐながらなかなか自分の思ふやうにならず、むしろ言葉に左右されて思想までが或る限定をうけ、その言葉のはたらきの埒外へうまく出られない場合が多い。人間の心情にはもつと深い、こまかい、無限の色合いがあるのに、言葉はそれを言葉そのものの流儀にしか通訳してくれない。

散文「言葉の事」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳


だから「言ふにいはれぬ」という常套句が使われるのだ、と光太郎は指摘しています。その通り、まったく言葉というやつは厄介ですね。

このところ、このブログで紹介すべき事項が多く、後手後手に回りがちです。こちらも既に始まっている企画展です。

花子 ロダンのモデルになった明治の女性

期 日 : 2018年7月8日(日)~9月24日(月・振休)
会 場 : 岐阜県図書館 岐阜市宇佐4-2-1
時 間 : 10時~18時
料 金 : 無料
休館日 : 毎週月曜(祝日の場合は翌日)、毎月最終金曜

県図書館では、企画展「花子 ロダンのモデルになった明治の女性」を下記のとおり開催します。
明治期にヨーロッパへ渡り、女優として活躍した花子(本名太田ひさ)は、帰国後の20余年を岐阜の地で過ごしました。
彫刻家ロダンがモデルとした唯一の日本人であり、森鴎外の短編小説のモデルとしても有名な花子の魅力と生涯を、写真や文献などで紹介します。

岐阜女子大学名誉教授・澤田助太郎氏から寄贈された花子関係資料やロダン作の花子像などを展示
 花子をモデルにしたロダン作のブロンズマスク2体(岐阜市、公益財団法人岐阜市国際交流協会所蔵作品)
 花子像の写真(ロダン作、新潟市美術館、国立西洋美術館等の所蔵品写真)
 ヨーロッパ巡業当時の写真、演劇関係資料他
 花子を題材とした文芸作品(森鷗外「花子」、高村光太郎「小さい花子」等
 花子に関する諸研究資料

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関連事業

花子トーク(全2回)
 場所:岐阜県図書館 2階 研修室(申込不要、各回先着60名) 時間:14:00~15:30
 第一回 : 平成30年7月22日(日)「花子と高村光太郎」
         講師:丸山幸太郎氏(岐阜女子大学教授兼地域文化研究所長)
 第二回 : 平成30年8月5日(日)「森鴎外の『花子』-岐阜ゆかりの女優の活躍」
         講師:林正子氏(岐阜大学副学長・地域科学部教授)

「花子」紙芝居と映画
 期日:平成30年8月19日(日)
 場所:岐阜県図書館 2階 多目的小ホール(申込不要、先着90名)
  <三味線紙芝居「花子」> 13:30~14:30  脚本・語り・三味線:伊藤今日子氏
  <なつかシネマ上映会> 14:30~15:30
     映画「プチト・アナコ~ロダンが愛した旅芸人花子~」


このブログで何度かご紹介して参りました、日本人女優・花子。確認できている限り、唯一、ロダンの彫刻モデルを務めた日本人です。そういうわけで、昨年公開された映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」にも登場していました。ロダンが花子をモデルに作った彫刻は十数点、うち、いくつかは日本でも見られます。

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光太郎は昭和2年(1927)、郷里の岐阜に花子を訪ね、その模様を出版社・アルスから書き下ろしで刊行した評伝『ロダン』に書き残しています。その際の章のタイトルが「小さい花子(プチ ト アナコ)」。上記要項に「高村光太郎「小さい花子」」とありますので、評伝『ロダン』が展示されるということでしょう。

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光太郎から花子に宛てた、訪問させてもらってありがとうございました、的な書簡も現存しています。

また、花子に関しては、光太郎の師・森鷗外が短編小説「花子」を明治43年(1910)に発表しています。今回はそちらの関連の展示物もあるようです。

関連事業としての講演会「花子と高村光太郎」が、明日、開催されます。

それから8月19日(日)には、映画「プチト・アナコ 〜ロダンが愛した旅芸人花子」の上映。この作品は存じませんでした。調べてみましたところ、平成7年(1995)の制作だそうです。物語は、舞踏家の古川あんずさん演じる晩年の花子が、麿赤兒さん扮する光太郎に、ロダンとの思い出を語る形で進行するそうで、ぜひ拝見したいものです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

強いと一緒に広く生きたい。大きく生きたい。のびやかに成長したい。そして、此と共に堪へがたく渇き求めるものは知識である。生きた知識である。

散文「文芸界の広さ」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

2年後に発表された詩の代表作「道程」にも通じるような、「生」への渇望が見て取れますね。

岐阜県から企画展情報です。

驚異の超絶技巧!明治工芸から現代アートへ

期 日 : 2018年6月30日(土)~2018年8月26日(日) 
会 場 : 岐阜県現代陶芸美術館 岐阜県多治見市東町4丁目2-5
時 間 : 午前10時~午後6時
料 金 : 一般 900(800)円 / 大学生 700(600)円 / 高校生以下無料
      ※( )内は20名以上の団体
休館日 : 月曜日 7月17日(火) (ただし、7月16日(月)は開館

 近年、明治工芸に対する注目度が飛躍的に高まってきました。陶磁、七宝、金工、牙彫、木彫、漆工、刺繍絵画など、おもに輸出用としてつくられた工芸作品が海外から里帰りし、多くの人が瞠目するようになったのです。2014年から翌年にかけて、当館など全国6会場を巡回した「超絶技巧!明治工芸の粋」展は、そんな明治工芸再評価の機運を盛り上げるための画期的な展覧会でした。

 大好評を博したその企画の第2弾として、明治工芸と現代アートの超絶技巧が対決する展覧会を開催します。明治工芸を産み出した工人たちのDNAを受け継ぎ、超絶技巧プラスαの機知に富んだ現代作家の作品も多数展示します。

参加現代アーティスト(五十音順)
青山悟(刺繍)、稲崎栄利子(陶磁)、臼井良平(ガラス)、大竹亮峯(木彫)、加藤巍山(木彫)、佐野藍(石彫)、更谷富造(漆工)、鈴木祥太(金工)、高橋賢悟(金工)、橋本雅也(牙彫)、春田幸彦(七宝)、本郷真也(金工)、前原冬樹(木彫)、満田晴穂(自在)、山口英紀(水墨)

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案内にあるとおり、平成26年(2014)から翌年にかけ、日本橋の三井記念美術館さんから始まり、静岡佐野美術館さん、山口県立美術館さん、郡山市立美術館さん、富山県水墨美術館さん、そして今回と同じく岐阜県現代陶芸美術館さんを巡回した展覧会「超絶技巧! 明治工芸の粋」の第二弾です。

今回も皮切りは三井記念美術館さんで、当方、昨秋に拝見して参りました。光太郎の父・高村光雲の木彫「布袋」像が展示されていました。

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おそらく今回も展示されるはずです。ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに同展はこの後、9月7日~10月21日で山口県立美術館さん、11月16日~12月24日に富山県水墨美術館さん、さらに年が明けて平成31年(2019)1月26日~4月14日には大阪のあべのハルカス美術館さんを巡回予定です。それぞれ、また近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

日本へ帰つて来てしまつてからは、滅多に会う機会もないけれど、今でもその面影は頭にあるし、好意をもつてその絵なども見ている。思い出すといい気持ちの人で、ああした人が頭の中に生きているということは愉快なものである。
談話筆記「パリの梅原龍三郎君」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

梅原龍三郎は、光太郎より5歳年少でした。光太郎が明治42年(1909)に留学を終えて帰国する際、貸借契約がまだ残っていたカンパーニュ・プルミエル街のアトリエを引き継いでくれました。当時から光太郎はパリに来ている他の日本人画家達より、頭一つ抜け出していると感じていたそうです。

思い出すといい気持ちの人で、ああした人が頭の中に生きているということは愉快なものである」と言われるような人物でありたいものですね。

岐阜県からの情報です。

梅弦ワンマンコンサート

日 時 : 2015年9月5日(土曜日) 午後7時(開場:午後6時30分)
場 所 : 岐阜県関市中池公園内 旧徳山村民家 関市塔ノ洞3855-1
出 演 : 
 梅弦(語り人あきが日本の詩や物語を独特のリズムで読み語り、弦術師aokiが即興でギターを演奏する変則的なスタイルのユニット)
料 金 : 無料
問い合わせ : 関市教育委員会文化課 0575-24-6455

旧徳山村民家にて「読み語りとギターの演奏」を開催します!
梅弦(うめげん)による、ワンマンコンサートです。
本を読むことを忘れ、音を楽しむことを忘れた大人のための読み語りを行います。
しっとりとした秋の夜、古民家でのゆったりとしたひとときをお楽しみください。
読み語りとギターの演奏です。
当日は、智恵子抄などを読み語りします。お楽しみに。

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梅弦さんに関しては、昨年のこのブログにてご紹介した『岐阜新聞』さんの記事にお名前がありました。 

東北と岐阜つながれ 岐阜市でイベント、黙とうも

 2014年03月10日 岐阜新聞
 東日本大震災をきっかけに、人とのつながり、支え合いを大切にしようと企画されたイベント「みんな友達!tunagari fes.2014」が9日、岐阜市金町の金公園で開かれ、大勢の人たちが触れ合いを楽しんだ。
 実行委員会(はやしちさこ代表)が開催し、5回目。手作りのお菓子や手芸品などの約120ブースが並び、家族連れらが出店者との会話を楽しみながら買い求めた。
 ステージイベントもあり、8グループが出演。関市のユニット「梅弦」は、震災で津波に流された松で作ったギターの演奏に合わせ、詩集「智恵子抄」を朗読した。
 地震発生時刻の2時46分には、来場者が黙とうをささげた。

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今度も『智恵子抄』の朗読をなさるとのことで、ありがたいかぎりです。


こうした活動をなさっている皆さん、こちらまでお知らせいただければ、このブログにてご紹介いたします。もっとも、それほど読者も多くなく、あまり宣伝にはならないかもしれませんが(笑)。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月22日000

平成元年(1989)の今日、元青森県副知事・横山武夫が歿しました。

横山は、昭和28年(1953)に除幕された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の計画段階からプロジェクトに関わり、青森県と光太郎とのパイプ役を務めました。

右の画像は、除幕式当日の光太郎と横山です。

また、歌人としても数冊の歌集を上梓し、県文化振興会議会長、県歌人懇話会会長、東奥日報社主催県短歌大会選者等を歴任、足跡を残しました。

下記七首は、除幕式当日の『東奥日報』に載った横山の短歌です。像が「乙女の像」という通称で呼ばれるようになる一因を作ったといえる作品群です。

三人(みたり)ありき人知らざりし湖の水の真澄を愛してやまず001
メトロポール山にありとぞカルデラ湖の水のほとりにたてる乙女子

みちのくの土の命をもりあげて乙女の像のたもつ量感

限りなき生の凝視かま裸の乙女子があひ向かひたつ

湖の水よなに呼ぶ指触れてたつ乙女子のもてる幸福(さひはひ)

みちみてる乙女の裸像目の前にわれは厳かの極みとぞなす

ここに遠き過去と未来をひとつにす水に匂ひて乙女たちつつ

また、昭和44年(1969)に刊行された横山の随想集『わが心の人々』には、光太郎に関する長い回想が含まれ、乙女の像の制作過程を知る上で貴重な記録となっています。

昨年の東京三井記念美術館さんから始まり、これまで静岡佐野美術館さん、山口県立美術館さん、郡山市立美術館さん、富山県水墨美術館さんを巡回した展覧会が、岐阜で開催されます。
 
全国巡回6館目の開催となりますが、とりあえずこれで終了のようです。

超絶技巧! 明治工芸の粋

場  所 : 岐阜県現代陶芸美術館 岐阜県多治見市東町4-2-5
期  間 : 2015/09/12~2015/12/06休催日月曜日(休日の場合は翌平日)
時  間 : 10:00~18:00(入館は17:30まで)
料  金 : 一般800円、大学生600円、高校生以下無料
主  催 : 岐阜県現代陶芸美術館

近年、メディアでも取り上げられ注目を集める明治の工芸は、激動の時代に花開き、精緻きわまりない超絶技巧で私たちを魅了します。しかしその多くは当時輸出用として制作されていたため、海外で高い評価を得ながら、日本国内においては全貌を目にする機会がこれまでほとんどありませんでした。
忘れかけた明治工芸の魅力を伝えるべく、今や質・量ともに世界随一と評されるコレクションを築き上げたのが村田理如氏です。本展では村田氏の収集による京都・清水三年坂美術館の所蔵品から選りすぐりの逸品を一堂に公開します。
並河靖之らの七宝、正阿弥勝義らの金工、柴田是真・白山松哉らの漆工、旭玉山・安藤緑山らの牙彫、そして薩摩、印籠、刀装具、自在に刺繍絵画。多彩なジャンルにわたる約一六〇点の優品を通して、明治の匠たちが魂を込めた精密で華麗な明治工芸の粋をお楽しみください。

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【関連企画】
1、特別ギャラリートーク  2015年9月12日(土)10:30~11:30
本展作品所蔵者・村田理如氏(清水三年坂美術館館長)により、作品のみどころをお話しいただきます。

2、トークイベント「明治工芸の魅力を語る」 2015年10月31日(土)14:00~15:30 (セラミックパークMINO 国際会議場)
本展監修者・山下裕二氏(明治学院大学教授)と本展チラシでイラストを手掛ける気鋭の現代美術家・山口晃氏による記念対談。 
定員300名(先着順・要事前申込)、参加費無料。
※9月1日(火)10:00より、お電話(0572-28-3100)にてお申込みください。

3、ギャラリートーク
毎週日曜日13:30より当館学芸員によるギャラリートークを行います。会期中の催しにより、変更される場合があります。当館ホームページなどでご確認ください。

その他、会期中、美術館では様々な催しを予定しています。内容や日程、申込方法などの詳細は当館ホームページにてご案内します。


これまでの各会場とと同じく、光雲の木彫「西王母」「法師狸」が並ぶはずです。

他にも七宝、金工、自在置物、薩摩焼、象牙彫刻、漆工、刀装具などの逸品ぞろいです。お近くの方、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月20日000

昭和16年(1941)の今日、アトリヱ社から『ミケランヂエロ彫刻集』が刊行されました。

光太郎が序文「ミケランヂエロの彫刻写真に題す」を執筆しました。

ちなみに全く同じ昭和16年(1941)8月20日には、龍星閣から詩集『智恵子抄』、道統社から評論集『美について』が刊行されました。

『智恵子抄』と『美について』が同じ日の刊行ということには気づいていましたが、この『ミケランヂエロ彫刻集』も同じ日だったとは、改めて知りました。

昨日、光雲が制作主任であった上野の西郷さんの銅像について書きました。
 
西郷さんの銅像は戦時供出をまぬがれ、上野公園に現存しています。しかし、光雲作、光太郎作の銅像の類のうち、残念ながら供出されてしまったものも少なくありません。
 
それらについて御紹介すると同時に、情報等ございましたらご提供のお願いです。
 
まずは光太郎作品から。
 
浅見与一右衛門銅像
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『浅見与一右衛門翁と「岩村電車」 復刻版』より
 
大正7年(1918)、光雲の代作ということで、光太郎が制作。現在の岐阜県恵那郡岩村町に立てられました。浅見与一右衛門は天保14年(1843)の生まれ。岩村で酒造業と庄屋を兼ねた素封家で、維新後は岐阜県議会議長、衆議院議員などを務めました。また、岩村電車を開通させるなど、地域への貢献も大きく、地元民がその偉業を頌え、喜寿の記念に銅像建立を発願しました。除幕式は大正8年(1919)4月27日。浅見翁はまだ存命中でした(大正13年=1924歿)。
 
後年、光太郎はこの像について「銅像の代作では、木曽川のへりの村の村長さんのものがある。有徳な村長さんで、村中の人が金を出して作つたものだが、それがとても猫背のフロツクコートを着て膝のとび出したズボンをはき、シルクハツトを持つているところをこさえたものである。モデルのとおりにこさえたけれど、そんなに悪くない作のはずだ。だが村では不評判だつたことだと思う。父は、もう少しおまけした方がいいなどと言つたものだ。なにこういうところがかえつておもしろいのです、と言つてそのまま鋳金した。(「遍歴の日」昭和26年(1951)『高村光太郎全集』第10巻)と語っています。
 
「村長さん」というのは光太郎の勘違いなのではないかと思われます。上記の浅見翁経歴は、平成19年、地元で刊行された『浅見与一右衛門翁と「岩村電車」 復刻版』に依りましたが、県議会議長、衆議院議員という記述はあっても村長という記述はありません。ネットで調べても同様です。

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このあたり、詳しくご存知の方は情報をいただければ幸いです。
 
この像が、残念ながら戦時中に金属供出の憂き目に遭いました。現在では、台座がひっそりと残っています。

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また、やはり「有徳の人」だったということで、地元で像を再建しようという運動が起こり、昭和60年(1985)、岩村町出身の彫刻家、永井浩氏によって新たな像が創られました。おそらく元々の像の写真等を参考にしたのでしょう、同じポーズで創られています。

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当方、3年前の夏に岩村を訪れました。旧中山道の宿場町、恵那から山中に入ったところで、浅見家をはじめ古い街並みが残り、風情のある場所でした。当方の住む千葉県香取市同様、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
 
他に岩村城跡や歴史資料館など、見どころも多いので、一度行かれる事をお勧めします。
 
次回も同じように供出されて現存しない光太郎彫刻について御紹介します。

昨日紹介した小説、下八十五著「盗作か? 森鴎外の『花子』」を読んで、改めて花子のことが気になり、手持ちの資料の中から花子関連をもう一度読んでみました。
 
つくづく不思議な女性です。きら星の如くそれぞれ違った光彩を放つ光太郎人脈の中でも、ひときわ異彩を放っている一人だと思います。
 
昨日書いた通り、花子は明治末から大正にかけ、欧州各地で日本人一座を率いて公演を続け、各地で絶賛されました。しかし、現在の日本で彼女の名を知っている人がどれだけいるか、このギャップ。それは花子が欧州で活躍していた頃からそうでした。
 
一つには、芝居の内容の問題があると思います。仮に花子一座が日本で公演したら、嘲笑と怒号に包まれたことでしょう。女性が切腹をしたり、剣豪と柔術家が闘ったりという荒唐無稽な内容なのです。これは何も花子の責任ではなく、外国人興行主の意向です。当時の欧州では正しい日本文化など理解されていませんから、過度に日本情調を演出した内容が受けていたのです。したがって当時の日本ではキワモノ扱い。どんなに花子が名声を勝ち得ても、本国日本では無視され続けていました。その流れが現代まで続いているのです。
 
そんな中で、花子に着目した鷗外や光太郎は、矢張り炯眼の持ち主と言えるでしょう。そして彼女を彫刻のモデルにしたロダンも。
 
驚いたことに花子一座の芝居は、全て日本語で演じていたそうです。プログラムやパンフレットの類には、あらすじ等が細かく書かれていたと言うことですが、一つ一つの台詞など、観客にはわかりません。それでも観客がこぞって花子を絶賛したのは、言葉を超えて伝えられた彼女の表現力のせいだと思います。ちょうど我々が、言葉の意味はわからなくとも外国のオペラやミュージカルに感動するのと同じでしょう。ロダンも、クライマックスに切腹して果てる断末魔の花子の表情に惹かれ、彫刻にすることを思い立ったそうです。荒唐無稽な内容がどうあれ、そうした表現力で観客を虜にした花子、立派な女優だと思います。
 
さて、下氏の調査等のおかげもあり、花子の故郷・岐阜県では、花子を見直そうという動きが巻き起こりました。花子の妹の孫に当たる澤田助太郎氏(連翹忌にご参加いただいたこともあります)は、詳細な評伝を書かれました。 

ロダンと花子

澤田助太郎著 中日出版社 平成8年(1996)10月 定価1,456円+税

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また、岐阜県としてもこんな本を出しています。 

マンガで見る日本真ん中面白人物史シリーズ3 花子 ロダンに愛された国際女優

澤田助太郎原案 里中満智子構成 大石エリー作画 岐阜県 平成12年(2000)3月 定価記載なし

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この漫画、昭和2年(1927)に光太郎が岐阜の花子を訪れる所から始まりますが、光太郎、随分とイケメンに描かれています。風采のあがらぬおっさんに描かれなくてよかったと思いますが(笑)。

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さらにこちらは4年前にお隣愛知で開かれた企画展のパンフレットです。 

特別展花子とロダン-知られざる日本人女優と彫刻の巨匠との出会い-

一宮市尾西歴史民俗資料館 平成20年10月

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それぞれ光太郎にも言及されています。
 
最後にもう一つ。花子が持ち帰ったロダンの彫刻二点は、現在は新潟市美術館さんに収められているそうです。今度新潟方面に行く時には、見に行ってみようと思っています。

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