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仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん。1月24日(日)に載ったコラムです 

デスク日誌(1/24):あぁ雪国

 雪化粧した山が快晴の空に映える。美しい。門灯に照らされた銀世界の夜景は幻想的。眺める分にはいいが、雪がしんしんと降り積もれば試練の域だ。
 山形総局は自社の建物。前任者から申し送りされた「大切な仕事」に除草と雪かきがある。着任し初めての冬は昨年12月半ばから早くも雪の日が増え、暖冬の昨季分を含むかのようだ。
 気合を入れ、玄関前や駐車場など朝から雪かきに精を出す。白いウエアに、前任地の塩釜支局で魚市場取材のため購入した白い長靴。以前いた泉支局(現・富谷支局)の時に頂いたラジオ体操や山岳遭難救助隊の赤い帽子に、緑の手袋が定番スタイルになった。
 新雪なら踏みしめる感覚が楽しい。高村光太郎の詩「道程」の一節<僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る>の気分だ。若手だった青森総局時代、「けんかになるから隣の敷地には絶対除雪しないこと」と教わったことも思い出す。ただ除雪車が路肩に残していく雪の塀には閉口する。
 近年では珍しい大雪。候補者陣営関係者も同僚も奔走した山形県知事選は、本日が投開票日だ。どうか荒天になりませんように。
(山形総局長 松田佐世子)

同紙は東北一円を範囲としていますので、山形総局があり、そちらのデスク方がご執筆なさったようです。

やはりこの冬の雪は尋常ではないようで、温暖な房総に暮らしている身としては申し訳ないような気がします。

同じ東北、岩手花巻の高村光太郎記念館さんのブログサイトから、最近の画像を拝借。
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太平洋側である岩手でこうですから、日本海側の山形は推して知るべし、ですね。左下はウサギの足跡です。

昨年末のこのブログで書きましたが、光太郎が面白いと思って日記にスケッチした通りですね。
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明日が節分、明後日は立春です。雪国の皆さん、もう少しのご辛抱を。


【折々のことば・光太郎】

晴、風なし、朝やや冷える。露一ぱい。 食前、分教場の近くまで馬糞を拾ひにゆく。塵取りと箒を持ちゆく。

昭和21年(1946)5月1日の日記より 光太郎64歳

畑の肥料のためなのでしょうが、ここまでやっていたのですね……。

10月8日(月・祝)、宿泊した福島二本松を後に、愛車を北に向け、東北道、山形道と乗り継いで、山形県天童市に参りました。

目指すは出羽桜美術館さん。こちらで「開館30周年記念所蔵秀作展 第二部「日本画と文士の書」」が開催中です。当方、見逃しましたが、10月7日(日)、NHKさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」で取り上げられました。

蔵王の山懐を抜け、2時間程で到着しました。

美術館母体の酒造メーカー、出羽桜酒造さん。

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その一角に美術館さん。瓦葺きの大きな屋敷と蔵を改装して美術館したそうで、実に趣のある佇まいです。

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元々、亡くなった先代の社長さんが集めた、李朝陶磁や、「瞽女・明治吉原細見記」シリーズで有名な画家・斎藤真一の絵を中心にして設立されたそうです。それ以外にも書画の類もたくさん収蔵されており、今回はその展示です。

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まず順路通りに行くと「画」の方から。チラシにも使われている宮本武蔵の「葡萄栗鼠図」(山形県指定有形文化財)が目玉でしたが、その他に竹久夢二の作品も複数展示されていて、「おっ」と思いました。

そして「書」。失礼ながら、実際に眼にするまで高をくくっていましたが、ビッグネームの優品揃いで、目を剥きました。すなわち、夏目漱石、正岡子規、芥川龍之介、會津八一、土井晩翠、斎藤茂吉、与謝野夫妻、尾崎紅葉、島崎藤村、幸田露伴、川端康成、吉井勇、北原白秋、高浜虚子、島木赤彦、堀口大学……。

そして光太郎。特に「撮影禁止」という表示がなかったので、撮らせていただきました。

「智恵子抄」に収められた詩「郊外の人に」(大正元年=1912)冒頭のワンフレーズで、「わがこころは今 大風の如く君に向へり」。智恵子と二人で過ごした千葉犬吠埼から帰り、自分のパートナーとなるべきはこの女性しかいない、と思い定めての「宣言」です。

筆跡的には戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に逼塞していた時期のものと思われますが、「智恵子抄」の詩句を大きく書いたものは他に類例が確認できて居らず、貴重なものです。

書籍の見返しや扉に書いたものは以前から知られていました。それらを元に複製の色紙が作られたりもしています。また、昨年、川端康成のコレクションの中から扇面に揮毫したものも見つかっています。しかし、こちらは半切の紙で、大作といっていいでしょう。

おそらく戦後、あの太田村の山小屋で、何を思ってこの書の筆をふるったのか、興味深いところです。


「開館30周年記念所蔵秀作展 第二部「日本画と文士の書」」、10月21日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

近代日本に天成の詩人があるか、近代日本に純粋と称し得る詩人があるか、近代日本に性情そのものに根ざす詩人らしい尖鋭の詩人があるかと人にきかれたら、即座に萩原朔太郎があると答へよう。

散文「希代の純粋詩人――萩原朔太郎追悼――」より
 
昭和17年(1942) 光太郎60歳

「尖鋭」の語が無ければ、当方は勿論「高村光太郎」と答えます。「尖鋭」さでは、やはり朔太郎ですね。

昨日に引き続き、書道ネタで。

山形県から企画展情報です。 

開館30周年記念所蔵秀作展 第二部「日本画と文士の書」

期 日 : 2018年9月7日(金)~10月21日(日)
会 場 : 出羽桜美術館 山形県天童市一日町1-4-1
時 間 : 9:30~17:00
料 金 : 一般500円、高大生300円、小中生200円
休 館 : 月曜日[祝祭日の場合は翌日]

 毎回好評を博している日本画展を今年も開催します。今回目玉となるのは、7年ぶりの公開となる宮本武蔵の山形県指定有形文化財「葡萄栗鼠図」です。
 宮本武蔵は二刀流の剣豪、兵法家としてよく知られていますが、余技として書画もたしなみ、達磨図や野鳥の姿を描いた水墨画が多く残されています。その中でも出羽桜美術館が所蔵する「葡萄栗鼠図」は来歴が明らかであることや、伝世する作品の中では、武蔵が動物を主題とした唯一の作品ということもあり大変貴重です。
 この作品は水墨画で、縦長の画面右側高い位置に果実を実らせた葡萄の木と、その木の枝にとまる栗鼠の姿が描かれています。画面の下部のたっぷりとした余白や垂れ下がる葡萄の蔓で高さを演出したり、栗鼠の尾などに見られるような迷いのない素早い筆致で躍動感を表現したりするなど、随所にさりげない研鑽の跡がみられる素晴らしい作品です。
 その他にも天童市指定有形文化財に指定されている歌川広重の作品や竹久夢二、小松均、今野忠一ら山形県出身画家の作品、高村光太郎、夏目漱石、会津八一、斎藤茂吉ら文人の書も一堂に展示します。

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出羽桜美術館さん、母体は日本酒000メーカー・出羽桜酒造さんです。開館30周年だそうで、地方でのメセナ(企業の社会貢献)の例としては、早い時期からのものだったように思われます。

今回の目玉はチラシにも掲載されている宮本武蔵の絵だそうですが、光太郎を含む文人の書も併せて展示とのこと。

以前に他の方のブログで、こちらに光太郎の書が所蔵されているという情報は得ておりました。しかし、常設展示というわけではなさそうなので、これまで足を運んだことはありませんでした。それが今回展示されるということですので、拝見に伺おうと思っております。

半切の用紙に書かれたもので、「わがこころは今大風の如く君に向へり 光」と読み、大正元年(1912)に書かれた詩「郊外の人に」の書き出しのフレーズです。「君」は無論、智恵子。二人で過ごした千葉犬吠埼から帰り、己のパートナーとなるべきはこの人しかいない、と思い定めての「宣言」です。後に詩集『智恵子抄』にも収められました。

寡聞にして他に類例を存じませんが、画像で見る限り、光太郎の筆跡で間違いはなく、おそらく戦後の花巻郊外太田村での蟄居生活中の作と思われます。

10月になるかと存じますが、行って参りましたらレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

たとひどのやうな上層機構の発展があるとしても、詩の根本が人間の真情に基づいてゐなかつたら全て空の空なるものであらう。人間性の真情のみが共感を喚び起す。それは底につらなる深い地下泉であつて、中途のさまざまなさし水のやうなものではない。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「わがこころは今大風の如く君に向へり」といった詩句は、まさに「人間性の真情」の発露ですね。

地方紙『山形新聞』さんの一面コラム、25日日曜日の掲載分です。

談話室 2017/06/25付

▼▽江戸時代後期に清貧、自由の生涯を貫いた僧良寛。歌人、書家として知られるが漢詩も多く残した。中にこんな一節がある。「花開く時蝶来(ちょう)り 蝶来る時花開く」。花にも蝶にも作為などない。互いに招き、導かれる。
▼▽その人の訃報にふと良寛の詩が浮かんだ。山形市の吉田コトさん。99年の人生は波乱に富む。20歳の頃「宮沢賢治名作選」の編集に関わった。没してからまだ5年。原稿は岩手・花巻の生家の柳行(やなぎごう)李(り)に入ったままだった。賢治の弟清六が手渡す原稿を、行李の蓋(ふた)に仕分けた。
▼▽「名作選」は無名だった詩人・童話作家再発見のきっかけとなる。高村光太郎ら文化人との交流も生まれた。私生活では22歳で結婚。子宝にも恵まれるが太平洋戦争のさなか、夫が病で半身不随になる。戦後は山形市に一銭店「天満屋」を開き、大黒柱として生活を支えた。
▼▽貧乏暮らしながら店には多くの人が訪れ、交流の場になった。人生相談を持ち掛けられたり、山形大の苦学生にはご飯を振る舞ったり。知的好奇心も衰えない。80歳を過ぎても週1回、東北芸術工科大に通って講義を聴講した。「時には蝶、時には花」を体現した人だった。


訃報の記事も載ったようなのですが、ネット上で不鮮明な画像でしか発見できませんでした。それによると土曜が葬儀だったそうなので、亡くなったのは先週でしょうか。吉田コトさん。作家の吉田司氏のお母様で、宮沢賢治の教え子だった松田甚次郎を助け、賢治実弟の清六ともども、昭和14年(1939)に刊行された『宮沢賢治名作選』の編集実務に当たられた方です。

その編集に当たっていた頃、「山形賢治の会」で一緒だった詩人の真壁仁の紹介で、本郷区駒込林町の光太郎と会っています。以下、平成20年(2008)、有限会社荒蝦夷さん刊行の『吉田コト子思い出語り 月夜の蓄音機』より。

「山形賢治の会」を立ち上げて間もなく、000中央大学に進学していた弟が軽い脊椎カリエスを患った。一人で下宿生活が送られなくなったので、私が上京して炊事の面倒を見ることになった。(略)高村光太郎さんに初めて会ったのはこのころだ。真壁さんから私に手紙が来たんだっけ。「高村先生に会いに上京します。ご一緒しましょう」って。私が『宮沢賢治名作選』を手伝っていたころ、政次郎さんが私に光太郎さんの話を聞かせてくれたことがあったの。賢治が生前、『春と修羅』だったか詩集を自費出版して、いろんな人に送ったらしいんだけど、お礼の返事をよこしたのが高村光太郎と詩人の草野心平の二人だけだったんだって。賢治はその葉書がくちゃくちゃになっても、お守りみたいに大事にしてたって。その話を聞いて私は光太郎さんに会ってみたくなったんだ。それで清六さんに紹介状を書いてもらったんだけど、まだ光太郎さんに会いに行ってなかった。真壁さんはこの紹介状のことを知ってて、私を誘ってくれたんだね。

『春と修羅』(大正13年=1924)の礼状をよこしたのが、光太郎と心平だけだったという話。他では読んだことがないのですが、有り得る話です。くちゃくちゃになった葉書を賢治がお守りのように持っていたというのも。そこで2年後に、賢治は光太郎を訪ねていったのでしょう。

上京した真壁さんと二人で光太郎さんを訪ねた。真壁さんは、私のことを三割も五割も足して光太郎さんに話してくれたっけ。「コトさんは真面目で一生懸命、本も読むし文章も書く」って。光太郎さんが「詩の勉強をなさい。書けるように教えてあげます」って言ってくれた。だのに私ったら「授業料が高いでしょう」なんて言ったんだよ、高村光太郎に向かって(笑)。田舎っぺだよね。そして「詩を書くよりも孤児院のお手伝いのような仕事がしたいと思っています」なんて話もした。親のいない寂しさを味わっていたから、ホントにそんな仕事がしたかったの。光太郎さんは「手伝いなんて言わずに、自分で作りなさい。相談にのってあげるから、またいらっしゃい」と言ってくれた。

残念ながら、光太郎の書き残したものの中に、この会見の模様は確認できません。ただ、同行した真壁仁に送った光太郎書簡から、昭和14年(1939)の3月から4月頃だったと推定できます。

余談になるけれど、太平洋戦争が終わるころ、光太郎さんは賢治の生家を頼って岩手に疎開したでしょう。そのあと、なんのときだったかは忘れたけれど、とにかく光太郎さんが山形に立ち寄ったことがあるの。光太郎さんから「もう二度と山形に来ることもないでしょうから、ぜひ会いましょう」と葉書をもらった。そこで、山形駅まで会いに行ったの。確か末っ子の司を背中におぶってた。だから、司も光太郎さんに会ってることになるの。

これは昭和25年(1950)10月のことです。県綜合美術展のため、光太郎は山形を訪れています。審査は断りましたが、批評なら、ということでした。11月1日には料亭野々村で、翌日には山形市教育会館美術ホールで、美術講演会が催され、この際には女優・渡辺えりさんのご両親もそれを聴かれています。渡辺さんのお父様・正治氏は戦時中から光太郎と親交がおありでした。

光太郎からコトさんへの葉書というのも、『高村光太郎全集』等に漏れています。残っていればいいのですが……。

コトさん、戦後は身体が不自由になられたご主人を支えつつがんばられたそうでしたが、実は当方、まだコトさんがご存命とは存じませんでした。99歳だったそうで……天寿ですね。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

とどめ得ない大地の運行 べつたり新聞について来た桜の花びらを私ははじく もう一つの大地が私の内側に自転する

詩「もう一つの自転するもの」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

前年には満州事変、この年には傀儡国家の満州国建国、五・一五事件。翌年には国際連盟脱退と、この国は泥沼の戦争へと一歩一歩進んでいました。

そうした世情とは別に、自分の中には「もう一つの自転するもの」があると宣言していた光太郎ですが、智恵子の心の病がのっぴきならないところまで進むと、「わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し/闃として二人をつつむこの天地と一つに」(「山麓の二人」)なるのです。

一昨日のこのブログでご紹介した、渡辺えりさんから花巻の高村光太郎記念館への資料ご寄贈の件、昨日の『岩手日日』さんに報道されました。 

光太郎ありき 父の人生 女優・渡辺えりさん ゆかりの資料を記念会へ

 演出家、劇作家としても活001躍する女優の渡辺えりさんが、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)ゆかりの資料2点を、花巻市の花巻高村光太郎記念会に寄贈した。資料は光太郎に心酔していた渡辺さんの父・正治さんに宛てられたはがきと署名入りの詩集「道程」。はがきは、かつて光太郎が稗貫郡太田村(現在の同市太田)で暮らしていた頃のもので、当時がしのばれる貴重な資料となっている。
 贈呈式は盛岡市渋民の姫神ホールで4日、生誕130年を迎えた同市出身の歌人・石川啄木をしのぶ「啄木祭」の閉会後に行われた。記念会の高橋邦弘業務執行理事が、講演や対談のためホールを訪れていた渡辺さんから資料を受け取った。
 渡辺さんらによると、詩集は終戦間近の1945(昭和20)年4月10日に、光太郎が東京のアトリエで正治さんにプレゼントした。安否確認で来訪した正治さんに、「記念に」とサインし手渡したという。米軍の空襲でアトリエが焼失する数日前のことだった。
 当時10代後半だった正治さんは、軍需工場で航空機の製造に携わっていた。空襲により生きた心地がしなかった時、戦争賛美の詩「必死の時」をそらんじたことで不思議と恐怖心が和らぎ、作者の光太郎に心酔するようになったという。
 はがきは戦後、古里の山形県で精進していた正治さんからの便りを受けたとみられる47年11月30日付の返信で、住所地は太田村。「宮沢賢治の魂にだんだん近くあなたが進んでいくやうに見えます」など後進を激励する内容で、当時の心境や思いがしのばれる貴重な資料と言える。
 記念会への寄贈は2000年に正治さん、13年に渡辺さんが、それぞれ花巻市太田の高村山荘詩碑前で行われた「高村祭」で講演した縁もあって実現した。
 ゆかりの資料について渡辺さんは「父は、自分は光太郎のおかげで生きていると常々話していた。はがきとサイン入りの本は父の人生そのもの」と話した。
 記念会では準備が整い次第、花巻市太田の高村光太郎記念館で資料を公開する方針。高橋理事は「貴重な本とはがきの寄贈で本当にありがたい。正治さんの意向に沿うよう取り扱いたい」とし、光太郎の人柄をより深く知る資料として丁重に扱う考えを示している。
 贈呈式には、市生涯学習課の市川清志課長や高村光太郎記念館職員の新渕和子さん、生前の光太郎と交流のあった高橋愛子さんらも出席。盛岡市渋民の石川啄木記念館の森義真館長も立ち会った。


記事にある戦時中の正治氏の光太郎訪問体験は、株式会社文伸さん刊行の『戦時下の武蔵野 Ⅰ 中島飛行機武蔵製作所への空襲を探る』という書籍に詳しく書かれています。

その頃、渡辺正治氏がそらんじていたという光太郎詩「必死の時」は、以下の通り。昭和16年(1941)の作です。戦時中には旧制中学校の教科書にも採用されていました。

  必死の時002

必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋洋としてゆたかなのは
われら民族のならひである。
 
人は死をいそがねど
死は前方から迫る。

死を滅すの道ただ必死あるのみ。
必死は絶体絶命にして
そこに生死を絶つ。
必死は狡知の醜をふみにじつて
素朴にして当然なる大道をひらく。003
天体は必死の理によって分秒をたがえず、
窓前の茶の花は葉かげに白く、
卓上の一枚の桐の葉は黄に枯れて、
天然の必死のいさぎよさを私に囁く。
安きを偸むものにまどひあり、
死を免れんとするものに虚勢あり。
一切を必死に委(ゐ)するもの、
一切を現有に於て見ざるもの、
一歩は一歩をすてて
つひに無窮にいたるもの、
かくの如きもの大なり。

生れて必死の世にあふはよきかな、
人その鍛錬によつて死に勝ち、
人その極限の日常によつてまことに生く。
未練を捨てよ、
おもはくを恥ぢよ、
皮肉と駄々をやめよ。
そはすべて閑日月なり。
われら現実の歴史に呼吸するもの、
今必死のときにあひて、
生死の区区たる我慾に生きんや。
心空しきもの満ち、
思い専らなるもの精緻なり。
必死の境に美はあまねく、
烈々として芳しきもの、
しずもりて光をたたふるもの
その境にただよふ。
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ああ必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋々としてゆたかなのは
われら民族のならひである。


戦後、岩手花巻郊外太田村の山小屋に蟄居し、自らの戦争責任を反省する中で、この詩を書いたことも思い起こされます。

  わが詩をよみて人死に就けり 
 
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かつた。
その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
 

光太郎にとっては、「必死の時」はまったくの「負の遺産」だったわけですね。

昭和16年(1941)に「必死の時」を書いた時点では「爆弾は私の内の前後左右に落ちた。/電線に女の大腿がぶらさがつた。/死はいつでもそこにあつた。」という状況ではなかったはずですが、戦時中、求められてこの詩を揮毫して人に贈ったことがあったようです。

そのあたり、えりさんもおわかりのようで、啄木祭のご講演での、「今は啄木も想像しないような世の中になってきたのではないか」と言い、「文化人を残すためにも平和教育を受けた私たちが戦争を食い止めなければいけない」(『朝日新聞』)というご発言につながるのでしょう。えりさんの書かれた、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」も、光太郎の戦争責任にスポットを当てた内容でした。

光太郎を考える上で、避けて通れない問題でしょう。


【折々の歌と句・光太郎】

ああ我はDAHLIA(ダリア)の花を賞づるにも人を離れて思ひがたかり
明治42年(1909) 光太郎27歳

最近、ダリアの花というのもあまり見かけなくなったような気がします。昔はセレブの庭には必ずあり、光太郎も智恵子の実家、福島の長沼家に球根を贈り、それが咲いた際には近隣の住民が見物に来たというエピソードもあります。

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こちら、愛犬の散歩中に見かけました。庭ではなく、畑の一角に咲いていました(笑)。

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山形からの情報です。 
今年度で8回目の開催となる山形大学恒例の高校生朗読コンクールの 出場者を募集します。今年は、詩人で彫刻家であった高村光太郎の作品を取り上げます。 予選課題文は、福島二本松出身の妻智恵子との思い出を詩と散文で綴った『智恵子抄』から選びました。例年通り、今年も多くの東北地方の高校生の皆様の応募をお待ちしております。

【高校生朗読コンクール概要】
◆予選応募要項
・応募資格:東北6県(青森・秋田・岩手・宮城・山形・福島)在住の高校生、または各県内の高校に在学中の高校生
 ※高等専門学校生は1年生から3年生までとします。
  同一高校からの応募人数制限は設けません。
・予選課題:高村光太郎『智恵子抄』所収「智恵子の半生」の部分
       (新潮文庫版(平成15年改版)『智恵子抄』133~135頁)
・応募締切:平成27年6月30日(火)(当日必着)
詳細はこちら

◆本選概要
・日  時:平成27年9月13日(日)13:00~17:00(時刻は予定)
・会  場:山形市中央公民館多目的ホール
      (〒990-0042 山形市七日町一丁目2番39号 アズ七日町6階)
・課  題:高村光太郎氏の著書から、予選通過者それぞれに異なる部分を審査委員会が指定します。
※群読劇「ビルマの竪琴」と同時開催

(お問合せ)
山形大学エンロールメント・マネジメント部社会連携課  (TEL)023-628-4016

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今年で8回目を迎える「山形大学高校生朗読コンクール」。平成23年(2011)からは、東日本大震災を受け、参加資格を東北6県の高校生に広げて実施しています。

今年、初めて光太郎の作品が課題に選ばれましたが、過去7回の課題は以下の通り。

第1回 (平成20年=2008)~第3回(同22年=2010) 藤沢周平
第4回 (同23年=2011)              井上ひさし
第5回 (同24年=2012)~第7回(同26年=2014)    宮澤賢治

山形出身の藤沢周平、井上ひさしと来て、やはり東日本大震災との関連もあってのことでしょう、ここ3年間は宮澤賢治が取り上げられていました。そして光太郎。光太郎も3年くらい取り上げ続けていただきたいと思います(笑)。


こういう活動を通し、若い世代に光太郎智恵子の世界を深く知ってほしいものです。

9月の本選は一般公開されます。また近くなりましたらご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月19日

昭和27年(1952)の今日、青森八甲田山麓の酸ヶ湯温泉に一泊しました。

15日に花巻郊外太田村を発ち、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のための下見に十和田湖を訪れた流れです。

当日の日記から。

六月十九日 木
晴、 休屋より車にて青森道を走り、酸か湯につく、 入浴、植物園見物、(中略) 酸か湯の大湯めづらし、

酸ヶ湯温泉は大浴場「ヒバ千人風呂」で有名。「大湯めづらし」はそれを指しているのでしょう。「植物園」は今も続く東北大学植物園八甲田山分園です。

次の日は青森市に下り、県庁で津島文治青森県知事(太宰治の実兄)と対面、さらに浅虫温泉に宿泊しました。

当方、酸ヶ湯に宿泊したことはありませんが、昨年、3回十和田に行ったうちの2回、立ち寄りました。

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3/8(土)、9(日)と、山形、宮城、岩手と東北3県を歩いてきました。
 
まずは山形市の最上義光歴史館に行きました。現在開催中の企画展「第6回 市民の宝モノ2014」を観るためです。『高村光太郎全集』等に未収録と思われる昭和30年の光太郎葉書が展示されているとのこと。
 
東京発9:48の山形新幹線つばさ177号に乗り、一路山形へ。福島で仙台行きのやまびこ177号と切り離され、県境を越える頃には一面の銀世界、さらに吹雪になりました。
 
山形駅には12:39到着なので、途中で車内販売の駅弁で昼食。山形県産米「どまん中」を使った「牛肉どまん中」という人気の駅弁です。
 
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降り立った山形駅もやはり雪。目的地の最上義光歴史館まで15分程歩きました。
 
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さて、戦国武将・最上義光の記念館であるのに申し訳ないのですが、常設の義光関連の展示は飛ばし、目的の光太郎葉書に一直線。ありました。
 
表の宛名面は現物、裏の通信文の面はカラーコピーで展示されていました。まごうかたなき光太郎の筆跡、消印その他にも不審な点は一切ありません。間違いなく本物、しかも『高村光太郎全集』等未収録のものです。
 
受付でいただいたチラシの裏面に画像が載っていましたので、そちらは公開させていただきます。
 
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日付は昭和30年(1955)8月1日。宛先は花巻税務署。以前に書いた予想通り、花巻から東京中野に住民票を移したことについての内容でした。
 
この葉書により、住民票を移した日付が6月1日であることが明らかになりました。6月4日の日記に転出証明書が届いたという記述があり、その頃だろうとは推測できていましたが、はっきりした日付は不明でした。4月30日から7月8日まで、光太郎は赤坂山王病院に入院しており、その前後の日記は一日分の記述が非常に短いので、転出の届け出についても詳しく書かれていないのです。それが特定できたのは大きいと思います。
 
同館を通じて、所有者の方と交渉中です。文面など、当方編集の「光太郎遺珠」にて紹介できれば幸いです。
 
それにしても、「市民の宝モノ」という企画展。テレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」あたりにヒントを得ているのでしょうが、うまいことを考えるものだと感心しました。全国の自治体の皆さん、参考になさってはいかがでしょうか。
 
さて、再び山形駅まで歩き、高速バスを使って次の目的地、仙台を目ざしました。JR仙山線を使う手もあるのですが、高速バスの方が早い、安い、本数が多いと3拍子揃っています。
 
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仙台には午後3時前に着きました。ここでの目的地は仙台市博物館。情報が不十分だったので、行く前のブログには書きませんでしたが、現在、「東日本大震災復興記念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺-祈りとかたち」という企画展が開催されています。こちらには光雲の作品が2点。詳しくはまた後日書きます。
 
ところで今日は3.11。あの日から3年経ちました。震災関連の企画展ということで、今日は銀座の永井画廊さんでの「被災地への祈りのメッセージ展 高村智恵子紙絵展」に行って参ります。
 
明日は東北レポートをいったん中断、そちらをレポートすると思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月11日

大正12年(1923)の今日、詩「樹下の二人」を執筆しました。
 
     樹下の二人
 
   ――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。

 かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
 うつとりねむるやうな頭(あたま)の中に、
 ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
 この大きな冬のはじめの野山の中に、
 あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
 下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

 あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、
 ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
 ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
 ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
 無限の境に烟るものこそ、
 こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
 こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
 むしろ魔もののやうに捉へがたい
 妙に変幻するものですね。

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。

 ここはあなたの生れたふるさと、
 あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
 それでは足をのびのびと投げ出して、
 このがらんと晴れ渡つた北国(きたぐに)の木の香に満ちた空気を吸はう。
 あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
 すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
 私は又あした遠く去る、
 あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
 私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
 ここはあなたの生れたふるさと、
 この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
 まだ松風が吹いてゐます、
 もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。
 
詩集『智恵子抄』の中で、最も有名な詩の一つですね。
 
この年、福島に帰省中の智恵子のもとを訪れ、二人で歩いた智恵子生家周辺の自然の美しさに触発されて作ったものです。

戦国武将・最上義光(もがみよしあき)を顕彰する最上義光歴史館さん。平成元年(1989)、義光の居城であった出羽山形城の近くに建てられました。
 
その最上義光歴史館さんで、以下の企画展が開催中です。 
 
期 日 : 平成26年1月16日(木)~平成26年4月6日(日)
会 場 : 最上義光歴史館 (山形市大手町1-53) 第一展示室北側展示ケース
時 間 : 午前9時から午後4時30分まで
休 館 : 月曜日(国民の祝日と重なる場合はその翌日)
料 金 : 無 料

 
公式サイトより
さあさあお立会い!!今年も山形市民の「宝モノ」を紹介します!!
この展覧会は、山形市民を対象に、所蔵する「宝モノ」を募集して、歴史館の展示室に展示し、広く一般に公開する市民参加型の展覧会として企画しました。今年で6回目になります。
宝モノの名前と解説やコメントはすべて出品者にお願いしています!!
自慢の宝モノとそれにまつわる楽しいエピソードをご覧ください!!
 
現在出品中の「宝モノ」たち 件数40件 点数132点 出品者25名 ※宝モノの名称は出品者によります。
「上村松篁画伯干支飾扇」「鞍馬天狗(第1巻~第10巻)」「文政・天保 國郡全圖並大名武鑑」「蔵王高速電鉄(未成線)」「日本遊覧旅行地圖」高村光太郎(詩人・彫刻家)の葉書「縄文土器」「刀剱 脇指(拵付) 丹波守吉道」「刀剱 脇指(拵付) 近江守忠吉」「陸運会社看板」「連歌」「書状 文政年代 嘉永年代」「御手本(嘉永年代)」「集書」「掛軸(堀田備中守像)」「山水図 沈周」「山水図 狩野山楽」「山水図 岡田半江」「山水図 菱田春草」「蓮池図 富岡鉄齋」「壺」「贈答用掛け袱紗」「鶴松・梅・桜それぞれ図」「懐中手信号器」「茶の湯茶碗」「高嶋祥光 木版画」「一期一会」「拓本(中国名山八景)」「風鎮」「読売巨人選手 寄書扇子」「戦後50年メモリアルアルバム シリーズ切手第1~5集のうち 第5集私の選んだ懐かしのスター切手6種及びメロディアルバム(台紙)」「佐藤朝山(号)玄々 軸『仏頭』」「蓄音機2台(大小) SPレコード数枚」「焼き物」「銅製品」「鋳鉄製釣り灯籠」「リモコン怪獣バラゴン」「イコン」「70年前頃の霞城公園南門からの風景(西方向)」「富士山の掛軸」
 
というわけで、光太郎の葉書が展示されているとのこと。『高村光太郎全集』等に未収録の可能性もあると思い、問い合わせてみました。
 
すると、過日、ご丁寧に電話を頂き、光太郎晩年の昭和30年(1955)8月1日付けで、花巻税務署に送った葉書である旨、ご教示いただきました。調べてみましたところ、やはり『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。

また、この日の日記を調べてみると、<第一期納税、中野署へ払ズミ 花巻署へ通知>とありました。まさしくこの花巻署への通知というのが今回展示されているものでしょう。
 
昭和27年(1952)、光太郎は十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)制作のため、花巻郊外太田村から東京中野に出てきましたが、住民票はそのまま太田村に残していました。そのため税金は太田村に納めていたのですが、もはや健康状態が山での生活を許さず、さらに同29年(1954)には太田村が花巻町などと合併、花巻市となったこともあり、翌30年には中野に転出の手続きをとっています。そのあたりの事情が記されているのでは、と思われます。
 
さて、当方、明後日9日に盛岡てがみ館での企画展「高村光太郎と岩手の人」を観に行くので、明日は山形に寄り、問題の葉書を観てきます。詳しくは帰ってから。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月7日

平成14年(2002)の今日、山梨県増穂町(現・富士川町)の町立文化会館で、「『智恵子抄』を謳う」集いが開催されました。
 
ふじかわ文化倶楽部の主催で、県内若手音楽家が歌と朗読による「智恵子抄」を披露しました。
 
同町高下(たかおり)地区には、昭和17年(1942)、日本文学報国会の企画「日本の母」顕彰のため、光太郎が訪れています。また、それを記念して昭和62年(1987)には、光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」の短句を刻んだ碑も建立されました。

国会図書館での調査で、面白い資料を発見しました。
 
昭和25年(1950)11月3日の『山形新聞』に載った記事です。
 
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『高村光太郎全集』別巻の年譜に依れば、この年10月30日から11月3日まで光太郎は山形を訪れています。講演会を2回行った他、山形県総合美術展覧会の評、この評は11/1~3の同じ『山形新聞』に掲載されている事が以前から判っており、『高村光太郎全集』第19巻に収録されています。
 
さて、今回発見した記事は、その山形を訪れていた光太郎の元に、東京から舞踊家の藤間節子が訪ねてきた、というものです。
 
藤間節子(後に黛節子と改名)は、大正10年(1921)生まれの舞踊家。昭和24年、帝国劇場にて『智恵子抄』をモチーフにした舞踊を制作、発表しました。『智恵子抄』がこの手の舞台芸術で取り上げられた嚆矢です。
 
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『山形新聞』の記事によれば、構想したのは昭和18年。戦時中や戦後すぐの混乱期という時代背景もあったのでしょうか、すぐには実現しませんでした。そのあたりを受け、この記事には光太郎は次の談話を載せています。
 
藤間さんは一生懸命であるということは立派なことです、この人ならと私は自分の作品の舞踊化をゆるしたのですが、それから七年間もかかつて振付けを作り上げたというまじめさにはうたれます
 
さらに記事には藤間から光太郎にレコードが贈られ、早速、「試聴会」が開かれたとの記述もあります。「ヴィクター版レコード『千鳥と遊ぶ智恵子』ほか二曲」となっていますが、こうしたレコードの存在は把握して居らず、今後、調査してみます。
 
ただ、前年の帝国劇場でのリサイタルのプログラムによれば、小村三千三(みちぞう)作曲とした上で、

 A 浜辺…………千鳥とたわむれる智恵子
 B ひたむき……智恵子のひたむきな苦悶、憧れ、そして沈思
 C 切紙細工……童心にかえつた智恵子の住む世界は

との解説があり、三つの舞踊から為っていたことがわかります。おそらく、この伴奏音楽をレコード化したものと考えられます。
 
また、12月1日に藤間に宛てて書かれた書簡が『高村光太郎全集』第15巻に収められていますが、そちらにもこのレコードに関する話が載っています。以前にこれを読んだ時は、意味がよくわからなかったのですが、今回の記事で疑問が氷解しました。
 
こういう具合に、新しく発見した資料が、以前から判明していた資料の謎解きの鍵になるということが、時々あります。そういう時は非常に嬉しいものですね。

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