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毎年夏に、青森県十和田湖畔で行われている「十和田湖湖水まつり」。コロナ禍のため今年は中止と思いきや、時期と形を変えての実施だそうです。 

期 日  : 2020年8月28日(金)~8月30日(日)
会 場  : 十和田湖畔休屋地区
問合せ : 十和田湖観光交流センターぷらっと 0176-75-1531

願いを込めた1,000個の「スカイランタン」が、十和田湖の夜空へ浮かび上がる!
自然豊かな十和田八幡平国立公園にある十和田湖休屋で、スカイランタンを打ち上げるお祭りを開催します。
打ち上げ会場は、青森県と秋田県の県境にある桂ヶ浜。湖面には、オレンジやブルーのスカイランタンの光が映し出され、幻想的な世界をお楽しみいただけます。
また、会場ではマルシェをはじめ、スカイランタンにつけられる短冊やバルーン、アイロンビーズの
ワークショップを開催します。それぞれの願いや思いを込めて、一斉に夜空へ打ち上げよう!

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短冊に願い事を書いたスカイランタンを大空へ
 スカイランタン打ち上げ(要予約)料金:3,000円(税込)
 スカイランタンにはヘリウムガスを浮力とし、LEDランプを内蔵、
 細い糸付きでリリースし、イベント終了後お持ち帰りいただけます。
 申し込み方法 プランを選択し、WEBにて決済。
 観覧入場無料(新型コロナウイルス感染予防対策のガイドラインに則り登録が必要となります)

とわだこマルシェ
 8/29(土)、30(日) ※28日は開催なし 11:00〜20:30

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例年ですと、花火の打ち上げやカヌー体験、そして光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが為されていましたが、今年は大幅に内容を変更し、ランタン打ち上げをメインとするとのこと。また、時期的にも7月中旬だったのが、8月末に変更になっています。

ランタンの打ち上げ、静かなブームですね。光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海による仁王像のライトアップが為される信州善光寺さんの「長野灯明まつり」などでも実施されています。

コロナ感染症拡大防止にお気を付けつつ、都合のつく方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

わかくて、新らしくて、水々しくて みみつちくて、アンチイムで かうなると ヴイユ・コロムビエよりもいいな

詩「カジノ・フオリイはいいな」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

004詩「カジノ・フオリイはいいな」は、筑摩書房『高村光太郎全集』完結(平成10年=1998)以後、唯一新たに見つかった詩です。

「カジノ・フォーリー」は、昭和4年(1929)、浅草水族館二階の余興場を本拠として設立された軽演劇団。エノケンこと榎本健一が在籍し、分派等の曲折を経て同8年(1933)まで存続し、一世を風靡しました。川端康成が小説「浅草紅団」で取り上げたことでも有名です。宣伝のための雑誌『カジノ・フオーリー』が発行され、その創刊号にこの詩が載りました。

「アンチイム」は仏語「intime」、「くつろいでいるさま、親しいさま」。「ヴイユ・コロムビエ」はパリ6区のヴィユ・コロンビエ通りに立つ劇場。フランス現代演劇の発信地でした。

秋田県小坂町の町立総合博物館郷土館さんを経由して、詩集『智恵子抄』(昭和16年=1941)版元の龍星閣さんから書籍を頂きました。

昨年いただいた『澤田伊四郎 造本一路』(以下、「本篇」)という書籍の続編というか、補完するもので、『澤田伊四郎 造本一路 図録編』。「本篇」同様、重厚な造りの豪華本です。
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澤田伊四郎は龍星閣創業者にして、『智恵子抄』刊行を光太郎に提案した人物です。

目次は以下の通り。

はじめに
澤田伊四郎の略年譜(補遺)
父・龍星閣のこと  澤田城子
(『龍星閣 澤田城子の歩んだ道』(二〇一六年三月五日発行の「父・龍星閣のこと」を再録)
龍星閣刊行の装幀本(写真抄)
終わりに
付 龍星閣刊行書目録

「澤田伊四郎略年譜(補遺)」は、「本篇」印刷中に新たに見つかった澤田の日記をもとにしたもの。

「父・龍星閣のこと」は、目次の注解にあるとおり、『龍星閣 澤田城子の歩んだ道』からの抄出。この書籍も手に入れたいと思いつつ、なかなか見つかりませんで、その意味では実にラッキーでした。

そして「龍星閣刊行の装幀本(写真抄)」が、この書籍の肝です。戦前から平成にかけ、龍星閣から刊行されたほとんどの書籍のカラー写真が掲載されています。

「本篇」では、龍星閣の社史的なクロニクルが細かに記載されていたのですが、そこに図版があまりなく、その部分では残念に思っておりました。今回の「図録編」では、戦時中に刊行されて龍星閣自体にも保存されていない一部の書籍を除く、150点ほどの刊行書のほぼすべてがカラー写真で収められています。

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記念すべき初版『智恵子抄』(昭和16年=1941)。見返しには昨日もご紹介しました「うた六首」のうちの「わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき」が揮毫されています。「25頁」とあるのは、「本篇」での記録箇所を表します。

随筆集『某月某日』(昭和18年=1943)/翼賛詩集『記録』(昭和19年=1944)。

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詩文集『智恵子抄その後』(昭和25年=1950)/随筆集『独居自炊』(昭和26年=1951)。一昨年、これらの書籍の刊行に際してしたためられた『高村光太郎全集』未収録のものを含む、澤田に宛てた光太郎書簡がごっそり小坂町に寄贈されました(光太郎署名本の類も)。

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『智恵子抄』特装版。昭和27年(1952)、光太郎が最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため8年ぶりに岩手から帰京した記念として刊行されました。表紙は羊皮装です。

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光太郎が没した昭和31年(1956)の『赤城画帖』の普通版と特装版。明治期に描かれたスケッチブックの翻刻です。

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戦後の龍星閣では、同一の書籍で豪華な特装版が作られることが多かったのですが、澤田のポリシーとしては、著者に敬意を表して皮装などで豪華に造った特装版の方がスタンダードで、それに手が出ない人のために布装や紙装の普通版も出す、ということだったそうです。

さらに『光太郎智恵子』普通版と特装版(昭和35年=1960)。光太郎智恵子の書簡などを中心にしたもので、『智恵子抄』の裏側を描き出す、というコンセプト。『智恵子抄』紅白版。当時の皇太子ご夫妻(現・上皇陛下ご夫妻)のご成婚記念に、紅白の布で表紙を貼ったものです。『智恵子抄』五十周年愛蔵版(平成3年=1991)。

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他にも、光太郎が題字を揮毫した中村草田男の句集『火の島』(昭和14年=1939)、展覧会に寄せた光太郎の文章を序文として転用した土方久功『文化の果てにて』(昭和28年=1953)なども光太郎に関わります。

光太郎関連以外にも、いわば出版史上のエポックメーキング的な書籍の数々。岸田劉生の『劉生絵日記』(昭和27年=1952~同28年=1953)、棟方志功や竹久夢二の画集など。当方、存じませんでしたが、俳句の句集の出版に先鞭をつけたのが龍星閣だということですし、今では不動の人気を誇る竹久夢二も、その晩年から歿後しばらくは世間から忘れられていた存在で、龍星閣の画集によって復権した面があるとのこと。

改めて、気鋭の出版人・澤田伊四郎の業績につき、実感させられた次第です。

「本篇」ともども非売品と思われ、刊行部数もおそらく限られているのではないかと思われますが、お問い合わせは龍星閣さんまで。


【折々のことば・光太郎】

アメリカの大地から湧き出たやうな詩人、しかも時代と国土とに些かも極限されて居ない宇宙的詩人、此の不思議に大きいホヰツトマンの自然及び人類に対する全的信仰、絶対認容の精神が此等の日記の中に輝いてゐる。

雑纂「訳書広告 ホヰツトマン「自選日記」」より
 大正10年(1921) 光太郎39歳

アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマン(1819~1892)の日記を光太郎が翻訳し『自選日記』として刊行しました。その自然崇拝的態度などに、光太郎は共感を寄せていたようです。ただ、ホイットマン、南北戦争時には北軍を鼓舞する詩篇を書いてもいます(負傷兵の看護に当たるなどの慈善活動も行いましたが)。のちの15年戦争時の光太郎が大量の翼賛詩文を書き殴った一つの源流が、ここにも見えるような気がします。

日本女子大学校での智恵子の1級先輩にして、テニス仲間であった平塚らいてうが主宰して発刊し、その創刊号の表紙を智恵子が描いた、雑誌『青鞜』。その『青鞜』、そしてらいてうがらみの市民講座をご紹介します。

まず、秋田から。 

あきたスマートカレッジ  特別企画 恋と芸術の女流文学~北条常久特別講座~ 『青鞜』~平塚らいてふの人生と考え方にふれる~

期   日  : 平成30年11月13日(火)
場   所  : 秋田県生涯学習センター3階講堂
 秋田市山王中島町1-1
時   間  : 10:00~11:30
料   金  : 無料
講   師  : 秋田県生涯学習センター シニアコーディネーター 北条常久氏

北条常久シニアコーディネーターが、「県民読書おすすめ講座」で取り上げた瀬戸内寂聴の人生や作品を掘り下げて語り、恋と芸術に関する女流文学の旅へご招待する講座です。

なぜに寂聴? と思ったのですが、12月の講座は「『かの子撩乱』~岡本かの子と夫・一平、息子・太郎~」となっており、瀬戸内氏がお書きになった作品を基に、女性史的なアプローチというコンセプトのようで、今回も瀬戸内氏の小説『青鞜』を下敷きにされるようです。

講師の北条氏は、同じ「あきたスマートカレッジ」で、以前にも光太郎やその周辺人物に関わる講座をなさっています。



続いて、東京千代田区から。 

平成30年度 千代田区男女共同参画センターMIW講座 千代田区女性史編纂プロジェクト 平塚らいてうの生き方

期   日  : 平成30年11月21日(水)
場   所  : 
千代田区役所401会議室 東京都千代田区九段南1-2-1
時   間  : 18:30 ~20:00
料   金  : 無料
講   師  : 森まゆみさん(作家、編集者)

「元始女性は太陽であった」という『青鞜』の創刊の辞が有名な平塚らいてう。『「青鞜」の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ』の著者である森まゆみさんに、女性同士で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を発刊したご自身の経験を交えながら平塚らいてうの生き方を語っていただきます。

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平成25年(2013)に『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』を刊行された、森まゆみさんによる講座です。


それぞれ、智恵子にもがっつり触れていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

彼の詩篇が蒐められて今初めて詩集となる。ありし日の彼を思ひ出して、まるで炸裂した榴弾を見るやうな気がする。

散文「石川善助遺稿詩集「亜寒帯」序」より
 昭和11年(1936) 光太郎54歳

石川善助は明治34年、仙台生まれの詩人です。漁船員や雑誌記者などの経験もありました。昭和7年(1932)、事故のため、数え32歳の若さで早世しています。

「炸裂した榴弾」。すごい比喩ですね。

まずは10月30日(火)、NHK秋田放送局さん発のローカルニュース。あきた文学資料館さんで開催中の「特別展示 明治150年秋田を訪れた文人たち」を紹介するものです。 

秋田ゆかりの文人紹介の展示

 秋田市の「あきた文学資料館」には、明治から昭和にかけて、秋田を訪れた9人の文人のエピソードを紹介するパネルや著書などが展示されています。
 秋田には豊かな自然や文化を作品に描こうと訪れる文人も多かったということで、歌人・若山牧水のパネルでは、「名に高き 秋田美人ぞ これ見よと 居ならぶ見れば 由々しかりけり」と、秋田の女性の美しさを詠んだ歌などが紹介されています。
 
また、秋田出身の文化人と親交のあった人も多く、詩人で彫刻家の高村光太郎が、小坂町出身の出版人に宛てた67通の手紙も、期間限定で展示されています。
 小坂町に寄贈された光太郎の手紙がすべて展示されるのは、今回が初めてで、岩手県に疎開していたときに、空襲に遭ったことなどが書かれ、当時の生活や人間関係の交流の様子がうかがえます。

あきた文学資料館の京極雅幸副館長は、「文人たちが、秋田で何を見て何を感じたかを知ることで、秋田の魅力を感じてほしい」と話していました。
 展示会は12月27日まで開かれていて、高村光太郎の手紙は11月4日まで展示されています。

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東北のローカルニュースといえば、過日ご紹介した、十和田湖観光交流センター「ぷらっと」の光太郎コーナーリニューアルに関し、RAB青森放送さんのニュースで報じられたそうです。弘前在住の大学時代の友人が、LINEで画像を送ってくれました。何も連絡しておかなかったのですが、当方が映っていることに気づいて撮ってくれたとのこと。

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同じ件を報じた、『デーリー東北』さんの記事がこちら。

高村光太郎の逸話紹介 関係者がトークセッション

  十和田湖観光交流センター「ぷらっと」2階展示スペースにある「高村光太郎コーナー」が28日、リニューアルオープンした。同日、セレモニーとイベントが行われ、同湖のシンボルである「乙女の像」を制作し、彫刻家や詩人として活躍した高村について、関係者がトークセッションを通じ人柄や逸話を紹介した。 同コーナーは、新たにブロンズ製の高村の胸像と、乙女の像の制作で使用された回転台を展示し、解説文のパネルを設置した。 胸像は、戦後に岩手県花巻市で生活していた高村をモチーフに、彫刻家の田村進さん(青森市)が制作。旧日本軍の高射砲の台座として使用した物を転用した回転台は、彫刻家の北村洋文さん(東京)が所有していた。 胸像と回転台はそれぞれ十和田市に寄贈され、同日のセレモニーで小山田久市長が、田村さんと北村さんに感謝状を贈呈した。 続いてトークセッションでは、田村さんと北村さん、リニューアルを監修した高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会代表の小山弘明さん(千葉県)の3人がマイクを握った。 北村さんは「野辺地町出身で、乙女の像の制作に助手として携わった小坂圭二先生から、『使わないと意味がない』と言われて頂いた」と回転台を所有した経緯を説明。田村さんは「(乙女の像の)除幕を記念した高村の講演会があり、待ち伏せしてサインをもらおうと思った。背は大きく声は割と低かった」と振り返った。 小山さんは「高村の生前最後の大作で半年ほどの速いスピードで完成した。十和田湖のシンボルの一つとして愛し続けてほしい」と乙女の像をアピールした。

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光太郎、そして智恵子が愛した「みちのく」の地での、さまざまな顕彰活動。今後もいろいろと続きます。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

私は彫刻家だ。彫刻の悦は、黙つてすぱりと、生きてゐる内天の自然を、まるごとのまま、幽、顕のあはひからつかみ出すところにある。

散文「陶山篤太郎詩集「銅牌」序」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

「乙女の像」も、そういう見地から造られたのでしょう。

秋田県小坂町の町立総合博物館郷土館さんを経由して、詩集『智恵子抄』(昭和16年=1941)版元の龍星閣さんから書籍を頂きました。

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題して『澤田伊四郎 造本一路』。故・002澤田伊四郎氏は龍星閣さん創業者です。昨年には光太郎からの書簡類などが、郷里の秋田県小坂町に寄贈されています。また、竹久夢二関連は千代田区に寄贈、今年、東京ステーションギャラリーさんで公開され、話題を呼びました。

その辺りに伴う記念出版ということで、どうも非売品のようです。定価等の記載もありません。添え状によれば、主に秋田県内の図書館等に寄贈されたようです。

カラー印刷の堅牢な函に収められ、本体は『智恵子抄』戦後新版(昭和26年=1951)を思わせる赤布貼。豪勢な作りです。本文272頁、ちょっとした厚冊です。

目次的には以下の通り。

 本の芸術家
 澤田伊四郎の略年譜と著作・刊行物など
 澤田伊四郎写真抄
 終わりに
 付 龍星閣刊行書目録

このうち「澤田伊四郎の略年譜と著作・刊行物など」が全体の約9割を占め、龍星閣さん創業前の大正7年(1918)から、澤田氏の没後、『智恵子抄』五十年記念愛蔵版が刊行された平成3年(1991)までの、澤田氏と龍星閣のあゆみがまとめられています。

ほぼほぼ個人経営であった龍星閣さん、社主のあゆみがおおむね社史でもある、という感じです。

単なる年表にとどまらず、合間合間に重要事項の解説や、各種メディアからの引用文などが挟み込まれ、興味深く拝読いたしました。

それについて言及する立場にないので、詳細は割愛しますが、光太郎没後に「智恵子抄裁判」というのがあり、龍星閣さんにとっては不本意な結果に終わっています。しかし、澤田伊四郎という人物がいなければ、『智恵子抄』が世に送り出されることはなく、おそらく光太郎の名も今ほど人口に膾炙していないでしょう。

そうしたもろもろも含め、この場を使いましてあらためて謝意を表します。


【折々のことば・光太郎】

Hon ni kore hodo natsukasimi no ayu, Tama no yô ni reiro to shita shikisai to Shinkei no utsukushiku mattaki shijinn no Iki to tansoku towo kiita kotowa arimasen. Jimen no naka kara deta mono no yô ni Precieuse na hikari ga arimasu ne.

散文「尺牘」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

題名の「尺牘」は「せきとく」と読み、「手紙」の意。北原白秋に宛てた、『思ひ出』献呈への謝辞です。雑誌『朱欒(ザムボア)』に発表されました。

なぜかローマ字で書かれていますが、無理くり書き下してみます。

ほんに此程懐みのある、珠のやうに玲瓏とした色彩と神経の美しく全き詩人の意気(息?)と嘆息とを聞いた事は有りません。地面の中から出た物のやうにPrecieuseな光が有りますね。

Precieuse」はおそらく仏語の「Précieuses 」で、「貴重な」の意です。

秋田県から企画展情報です。  

特別展示「明治150年秋田を訪れた文人たち」

期 日  : 平成30年10月2日(火)~12月27日(木)
場 所  : 
あきた文学資料館 秋田市中通6丁目6-10
時 間  : 午前10時~午後4時
料 金  : 無料
休館日  : 毎週月曜日

秋田には多くの文人が訪れました。たとえば明治27年、小説『蒲団』の田山花袋は、仙岩峠で足をくじき、地元民に助けられました。大正5年、旅と酒を愛する歌人若山牧水が千秋公園で歌を詠み、料亭で秋田の酒を堪能しました。昭和2年、泉鏡花が日本新八景に選ばれた十和田湖へ旅行し、湖を胡桃の実の割目に青い露を湛えたようだと書きました。昭和20年、武者小路実篤が戦火を避けて家族とともに稲住温泉に疎開し、ここで8月15日を迎えました。昭和26年には坂口安吾が、昔好きだった婦人が生まれた秋田を訪れ、「秋田犬訪問記」を書きました。
なぜ彼らは秋田を訪れたのでしょうか。展示では、秋田ゆかりの人物との交流の様子や秋田を描いた作品を紹介します。

共催展示
本展示を共催する小坂町、五城目町、横手市が所蔵する貴重な資料を、月替わりで展示します。

10月2日(火)~11月4日(日)小坂町立総合博物館郷土館収蔵
稀覯本を出版したことで知られる小坂町出身の澤田伊四郎に届いた高村光太郎からの書簡をすべて展示します。

11月6日(火)~12月2日(日)五城目町教育委員会所蔵
才を惜しまれながら若くして亡くなった矢田津世子に宛てた坂口安吾の書簡をすべて展示します。

12月4日(火)~12月27日(木)
横手市雄物川郷土資料館収蔵
昭和20年、横手市出身の画商旭谷正治郎を頼り稲住温泉に疎開した武者小路実篤。旭谷に宛てた実篤の書簡を展示します。

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関連文学講座

11月4日(日)午後1時30分~
文学講座 龍星閣に集う文化人と秋田 小坂町立総合博物館郷土館学芸員安田隼人氏

12月2日(日)午後1時30分~
文学講座 坂口安吾─矢田津世子との出会いから「秋田犬訪問記」まで
     秋田大学准教授山﨑義光氏


というわけで、詩集『智恵子抄』版元の龍星閣主人・澤田伊四郎にあてた大量の書簡類が展示されます。昨年、澤田の故郷である小坂町の総合博物館郷土館さんに寄贈されたもので、今年3月から5月にかけ『高村光太郎全集』未収録の分34通が「平成29年度新収蔵資料展」ということで同館に展示されまして、当方、2月GWに現地に伺い拝見して参りました。「高村光太郎からの書簡をすべて展示します。」とあるので、残り30数通も併せて展示されるのではないでしょうか。

11月4日(日)には、同館学芸員の安田氏による講座も予定されています。ちなみに同館では常設展示で光太郎の署名本を並べ始めています。

また、12月に展示予定の横手市雄物川郷土資料館収蔵の武者小路実篤書簡。横手市出身の画商旭谷正治郎に宛てたものだそうですが、同館にはやはり旭谷に宛てた光太郎書簡も寄贈されており、平成27年(2015)には企画展「横手ゆかりの文人展〜あの人はこんな字を書いていました」で展示され、拝見して参りました


ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

なほ賢治さんの作品の真価は今後ますますひろく人々の間に知られてゆき、後々には、あまねく世界中の人達にまで愛読せられるやうになることを信じて居るといふことを申添へて置きたいと存じます。
ラジオ放送「宮沢賢治十六回忌に因みて」より
 昭和23年(1948) 光太郎66歳

NHK盛岡放送局から、アナウンサーが代読しました。

賢治歿後にその作品群のすばらしさに気づき、『宮沢賢治全集』出版に骨を折った光太郎。その際に数ある出版社がなかなか承諾してくれなかったことなども語られています。

実際、今日では「雨ニモマケズ」などが国際的にも高く評価されるようになっており、そうなることを予言していた光太郎の炯眼には驚くばかりです。

周辺人物との関わりから、光太郎について記述された新聞記事を2本。

まずは9月2日(日)の『秋田魁新報』さん。 

ふるさと小紀行[小坂町・出版人・澤田伊四郎]「埋もれたもの」世に

 小坂町立総合博物館郷土館に7月、新たな常設コーナーができた。ショーケースに並ぶのは、竹久夢二、高村光太郎、棟方志功といった文化人の作品集。同町出身で出版社「龍星閣」(東京都千代田区)を創業した澤田伊四郎(1904~88年)が、世に送り出した本の数々だ。
  地元の大地(だいぢ)地区を除き、町内で澤田のことを知る人はこれまでそう多くなかった。親交があった同郷の日本画家、福田豊四郎(1904~70年)と比べ、知名度には差がある。
  注目されるきっかけは今年2月。澤田の長男で龍星閣現社長の大多郎さん(78)が前年、小坂町へ寄贈した膨大な資料の中から、高村に関する未公表資料が見つかった。
  代表作「智恵子抄」の続編の出版に向け、澤田と交わした書簡34通。全集に収録されていない資料だった。高村は当初「これはまずものにならないと思います」と記したが、約1年後には「たのしい詩集になりそうでたのしみです」と書いており、出版を巡る心境の変化が読み取れる。
  大多郎さんが寄贈した資料は、龍星閣の出版物やさまざまな文化人と交わした手紙などで、段ボールで13箱分に及んだ。
  小坂町教育委員会の学芸員、安田隼人さん(35)は「たまたま最初に手を付けた高村の書簡から、未刊行資料が見つかった。この『龍星閣コレクション』は、すごいものなんじゃないかとの思いが強まった」と話す。
  澤田は自身も詩などを創作し、学生時代から同人雑誌を手掛けてきた。1933(昭和8)年に龍星閣を創業。20代後半で編集・出版を専業とするようになった。
  モットーは「有名でないもの、埋もれたもの、独自なものを掘り上げて、世に送る」。龍星閣の出版物は革張りや金箔(きんぱく)といった豪華な装丁が特徴で、澤田の本作りへの情熱、作者に対する敬意がにじむ。
  憂いを帯びた美人画で知られる竹久夢二も、澤田が「掘り上げた」作家の一人だ。竹久の死後に資料収集に奔走し、10冊近い作品集を龍星閣から刊行した。安田さんは「現在に至る竹久夢二人気の中で、澤田が果たした功績は大きい」と指摘する。
  66(昭和41)年の県広報誌に掲載された対談記事で、澤田はこう語っている。「30年たった後の世に読み返して、そこに新しい価値を発見できるといったようなもの、そして他の出版社で出せないようなものというのが、私の出版方針です」
  くしくも逝去から30年。気骨の出版人の業績が、古里で再評価され始めた。

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今年2月に企画展「平成29年度新収蔵資料展」が開催され、その展示品の一部が7月から常設展示となった、小坂町の総合博物館郷土館さんがらみで、同町出身の龍星閣主・澤田伊四郎の紹介です。光太郎代表作の一つ『智恵子抄』などの版元ということもあり、光太郎についても言及して下さいました。

当方、2月GWに現地に伺い、報道されている署名本や書簡類を拝見して参りましたが、とてつもなく貴重な資料です。ぜひ足をお運びください。


続いて9月3日(月)の『東京新聞』さん東京都内版。 

文豪の足跡記す 街歩き冊子発行 森鴎外記念会・倉本事務局長

000 文豪・森鴎外(1862~1922年)を研究している「森鴎外記念会」(事務局・文京区)が、鴎外ら文学者の軌跡をたどる街歩きの冊子を発行している。倉本幸弘事務局長(66)が執筆・編集を担い、これまで2冊を刊行、現在は3冊目を準備中だ。倉本さん独特の目線から街へと誘う。 (中村真暁)
 二〇一六、一七年発行の二冊のコースは、いずれも鴎外が半生を過ごした「観潮楼(かんちょうろう)」(同区千駄木)跡に立つ区立森鴎外記念館が起点。一冊目の「観潮楼から芝、明舟町へ」は、鴎外が実際に歩いたと考えられる港区虎ノ門までの約六・五キロをたどる。続く「団子坂から谷中・上野へ」は、鴎外の小説「青年」の舞台となった上野や谷中(台東区)など、直径一キロほどのエリアを巡る。
 地域ゆかりの文学作品の場面や文学者のエピソードが盛り込まれており、「団子坂-」では、夏目漱石(一八六七~一九一六年)の「三四郎」の主人公が団子坂(千駄木)を下って行くと説明。その様子は、鴎外の小説「団子坂(対話)」でも触れられていると紹介、小説の該当部分を引用して載せた。東京芸術大(台東区上野公園)を取り上げたページには、鴎外の講義を聴講した詩人の高村光太郎(一八八三~一九五六年)による回想を掲載している。
 もともと、街歩きが好きな倉本さん。目的もなく歩いていると、目に留まった風景や建物から、文学作品などの知識が自然と頭に浮かんでくるという。
 冊子はそんな情報が満載で、細かな地図をあえて載せず、倉本さんが見た物、感じたことを文章と写真で表現した。「歩き方を押し付けたくない。自分の感性を大事にしてほしい。歩いてみて、東京はこんなに面白く、美しいところだったんだと感じてもらえれば」と倉本さんは話す。
 三冊目は、鴎外記念館から、奥浅草の台東区立一葉記念館に至るコースを予定している。シリーズのタイトルは「森鴎外記念会事務局長さんの散歩案内-東京は小さい、だから歩いてみよう-」。「観潮楼-」が十一ページ、コピー代として百五十円、「団子坂-」が十七ページ、百七十円。森鴎外記念館で扱っている。


近所に住み、美術学校での恩師でもあった鷗外。しかし、どうも若き光太郎、「権威」には反発したがる癖があったようで、偉そうな鷗外に親しめませんでした。大正に入ってからは、やはり権威的だった鷗外を揶揄し、「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、光太郎は鷗外宅に呼びつけられて叱責されたとのこと。鷗外はこの件を雑誌『帝国文学』に載った「観潮楼閑話」という文章に書いていますし、光太郎も後に高見順や川路柳虹との対談などで回想しています。何だか現代の若者がSNSに悪口を書き込んだとか書き込まないとかのトラブルの話のようです。さすがに暴力行為には発展しませんでしたが(笑)。
 
といって、光太郎は鷗外を嫌悪していたわけではなく、それなりに尊敬していましたし、鷗外は鷗外で、つっかかってくる光太郎を「仕方のないやつだ」と思いつつもかわいがっていた節があります。光太郎が明治末に徴兵検査を受けた際、身長180センチくらいの頑健な身体を持ちながら、徴兵免除となりました。理由は「咀嚼(そしゃく)に耐えず」。確かに光太郎、歯は悪かったのですが、それにしても物が噛めないというほどではありません。これはどうしたことかと思っていたら、帰り際に係官の軍人が「森閣下によろしく」とのたまったとのこと。与謝野寛あたりの配慮で、軍医総監だった鷗外が裏で手を回し、光太郎の徴兵を免除してやったらしいのです。

その鷗外・光太郎がらみの街歩き冊子ということで、良い試みですね。今度、森鷗外記念館さんに行った際にはゲットして参ります。みなさまもぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩とは決してある特殊の雰囲気の中(うち)だけにあるのではなく、人間の生きてゐるあらゆる場所に存在し、あらゆる心情に遍漫して居るのである。各人の心のまんなかにある一番大切なものから不可避の勢で迸出して来る言葉はみな詩となる。その吐かれた詩が又逆に人間活動の原動力となり、人間精神の滋味となる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

確かに当方など、光太郎詩から「人間活動の原動力」、「人間精神の滋味」を得させてもらっています。

昨秋、光太郎詩集の代表作の一つ、『智恵子抄』を昭和16年(1941)に刊行し、その後も光太郎の詩集や散文集などを手がけた出版社龍星閣創業者・故澤田伊四郎氏(小坂町出身)の遺品のうち、光太郎や棟方志功関連の資料およそ5,000点が寄贈され、今春、企画展「平成29年度新収蔵資料展」でそれらの一部を展示された、秋田県小坂町の総合博物館郷土館さん。

常設展示でそれらの資料の内の一部を展示することになり、展示が始まったそうです。

NHKさんのローカルニュースから。 

出版人 澤田伊四郎展

 小坂町出身で、竹久夢二の画集などを数多く手がけた出版人、澤田伊四郎にまつわる資料の展示が小坂町の博物館で始まり、当時の書籍など貴重な資料を見ることが出来ます。
 小坂町の博物館「郷土館」では、今月から新たに、東京・千代田区の出版社「龍星閣」に関する資料が常設展示されています。
  「龍星閣」の創業者、澤田伊四郎は小坂町出身で、去年、遺族から2500点あまりの書簡や、およそ500冊の本や雑誌が寄贈されました。
 このうち、常設展には調査が終わった54点が示されています。
 大正ロマンを代表する画家、竹久夢二の画集は、革張りで、本の三方が金ぱくで装飾された豪華なつくりになっていて、澤田の出版へのこだわりをうかがい知ることができます。
また、彫刻家で詩人の高村光太郎が「龍星閣」から出版した詩集「智恵子抄」の初版本には光太郎が智恵子を思って詠んだ詩が直筆で書かれています。
 小坂町総合博物館「郷土館」の安田隼人学芸員は、「多くの人から要望があったため常設展示することにしました。竹久夢二の特装本などは貴重なもので、これだけ美しい本を見る機会は少ないので、ぜひ見に来て、龍星閣の仕事ぶりを知ってほしいです」と話していました。

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当方、2月GWに現地に伺い、報道されている署名本や書簡類を拝見して参りましたが、とてつもなく貴重な資料です。花巻高村光太郎記念館さんを除くと、こうしたものが常設で見られる場所は他にはほとんど無いように思います。

ぜひ足をお運びください。



【折々のことば・光太郎】

おしなべて考へてみると、外国の詩に、黙読して始めて其の味を味はふべき様なのは少い。朗読してはとても聴かれないが、黙読すれば面白いといふ様なのは少い。黙読しても面白いが、朗読すれば尚ほ面白いといふのが多い。黙読してゐるうちに自然と朗読されてしまふ様なのが多い。

散文「詩歌と音楽」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

昨日のこのコーナーでも「詩歌と音楽」という文章から引きましたが、たまたま同じ題名の別の散文です。

具体例として挙げているのは、ヴェルレーヌの詩。光太郎は前年までのパリ在住時に、プルースト研究家のマリー・ノードリンガー女史にフランス語を習っていましたが、その際に女史がテキストとして使ったのが、ヴェルレーヌなどの詩でした。それを暗誦させられた光太郎、はじめは童謡の歌詞かと思ったそうで、それほど平易かつリズミカルなわけです。また、欧州の詩の特徴としての踏韻なども聴いて心地よいと感じる原因の一つでしょう。

そして帰国後、日本でも平易な口語表現などを使って詩を書いていた北原白秋らがいて影響され、光太郎の詩作が本格化します。「黙読しても面白いが、朗読すれば尚ほ面白い」というのが、光太郎の詩作の一つの理想型になって行ったのではないでしょうか。

今春、名古屋で開催された企画展の巡回です。おそらく光太郎の父・高村光雲の木彫が出品されます。 

明治150年記念 華ひらく皇室文化 ―明治宮廷を彩る技と美―

期 日 : 2018年7月21日(土)~9月2日(日)
会 場 : 秋田市立千秋美術館 秋田県秋田市中通2-3-8
時 間 : 午前10時~午後6時
料 金 : 一般1000円(800円) 大学生700円(560円)  高校生以下無料
      ( )内は前売、20名以上の団体および秋田県立美術館との相互割引料金
       くるりん周遊パスで観覧の場合、一般700円 大学生500円

休館日 : 会期中無休

 平成30年は、明治維新から150年目の記念すべき年にあたる。欧米に比肩する近代国家を目指して進む明治という新たな時代の激流のなかで、皇室は外国使臣をもてなし、諸国との融和をはかるとともに、わが国独自の芸術を海外へと広く紹介し、美術・工芸の保護育成にも大きな役割を果たしました。
 本展では、明治宮殿を彩った染織品や調度品をはじめ、帝室技芸員による工芸品や書画など貴重な作品の数々から、明治宮廷の華やかな世界を紹介します。
 秋田会場では、明治政府の基礎固めをする上で大きな効果があった六大御巡幸のうち、秋田県内に滞在された明治14年の御巡幸ゆかりの品や、黒田清輝による重要文化財《湖畔》(東京国立博物館蔵)[展示予定期間:7月21日(土)~8月3日(金)]が特別出品されます。


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関連事業

【特別講演会】昔語りは珠匣のごとく-平成に伝えられる明治の皇室文化-
日時:7月21日(土)午前10時30分~12時 
講師:彬子女王殿下
会場:アトリオン音楽ホール(定員550名 聴講無料)
申込:往復はがきの「往信用裏面」に郵便番号、住所、氏名(ふりがな)、年齢、電話番号を、「返信用表面」に郵便番号、住所、氏名を明記、1枚につき最大2名まで。
※2名で申し込みの場合は2名分の住所、氏名、年齢、電話番号を忘れずにご記入ください。
送り先:〒010-0001 秋田市中通二丁目3-8(アトリオン)
     秋田市立千秋美術館「彬子女王殿下講演会」係まで。
     6月21日(木)必着、応募者多数の場合は抽選。
                          
【講演会】明治宮廷が愛でた美術工芸品
日時:8月18日(土)午後2時~3時30分
講師:小松大秀(本展監修者・千秋美術館館長)
会場:千秋美術館3階講堂(定員70名 聴講無料)
申込:7月9日(月)午前9時30分より電話にて受付

【宮廷装束の着装実演】
日時:7月28日(土)[午前の部]午前11時~12時 [午後の部]午後2時~3時
講師:田中 潤氏(学習院大学非常勤講師)
会場:千秋美術館3階 講堂(事前申込不要、自由見学)

【ギャラリートーク】
日時:7月29日(日)、8月11日(土) 各日午後2時より30分程度
担当:千秋美術館学芸員
会場:企画展示室(申込不要、展覧会チケットが必要。) 

 【明治天皇の軌跡をたどる トーク&ウォーク】
明治14年北海道・東北御巡幸時の明治天皇の秋田滞在に注目し、展示室での作品鑑賞や資料を用いた解説に加えて、当時の視察先があった中通周辺を散策します。
日時:8月25日(土)午後2時~4時
担当:千秋美術館学芸員
会場:3階講堂ほか中通周辺 (定員20名、展覧会チケットが必要)
申込:7月24日(火)午前9時30分より電話にて受付


光雲の作品は、「魚籃観音像」。関連事業の小松館長による講演が「明治宮廷が愛でた美術工芸品 」ということですので、帝室技芸員であった光雲についても触れていただきたいものです。


ちなみにすぐ近くの千秋公園(久保田城址)には、幕末の久保田藩第12代藩主・佐竹義堯の銅像が建っています。

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もとは大正4年(1915)、東京美術学校に依頼があり、光雲が監督、白井雨山が原型制作を担当しました。しかし、こうした像の例に漏れず、戦時中に金属供出に遭い、現在のものは平成になってから復元されたものです。

併せてご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本の「美」を支那の美の一支流と見る見かたに私は同意しない。石清水のやうに水口は細いけれども、日本には美の源泉がある。その源泉の性質は、エジプトの美の源泉、ギリシヤの美の源泉、キリスト教芸術の美の源泉、支那の美の源泉などと同様の深さを持つて居り、決してただ地方的の特色があるといふやうな変種程度のものではない。

散文「五十澤二郎著「歴史教室」推薦文」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

明治期以降の、西洋の猿真似や袋小路に嵌った伝統芸術などには価値を認めなかった光太郎ですが、遠く古代から中世の日本美術には一定の理解を示していました。過剰に「神国日本」を讃美し、国民を煽っていた戦時中の反省から、連作詩「暗愚小伝」の執筆にかかっていた時期に書かれたこの文章、美の部分での日本の歴史はやはり否定できない、というスタンスが見て取れます。

4月29日(日)、千葉銚子で「仏と鬼と銚子の風景 土屋金司 版画と明かり展」及び、「銚子浪漫ぷろじぇくとpresents語り 犬吠の太郎」拝見した後、一旦自宅兼事務所に戻り、今度は北を目指しました。JRさんの在来線、東北新幹線を乗り継いで、午後8時30分過ぎ、岩手の盛岡に到着。この日は駅前のビジネスホテルで1泊し、翌朝、レンタカーを秋田は小坂町に向けました。

目指すは小坂町立総合博物館郷土館さん。3月から、「平成29年度新収蔵資料展」が始まっており、光太郎詩集の代表作の一つ、『智恵子抄』を昭和16年(1941)に刊行し、その後も光太郎の詩集や散文集などを手がけた出版社龍星閣創業者・故澤田伊四郎氏(小坂町出身)の遺品のうち、光太郎や棟方志功関連の資料およそ5,000点が、澤田の故郷である小坂町に、昨秋、寄贈され、その一部が展示されています。

展示が始まる前の2月にも現地に赴き、寄贈されたもののうち、約70通の光太郎から澤田宛の書簡類を拝見して参りました。既に筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に収録されているものと、そうでないものが半々。そうでない方はすべて筆写させて頂きました。そして展示が始まり、もう少し早く行くつもりでしたが、この時期となった次第です。

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入館は無料。ありがたいというか、欲がないというか(笑)。

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会場全景はこんな感じで。

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会場入り口の掲示。当方の名も記していただいており、恐縮しました。

問題の書簡類。『高村光太郎全集』未収録のもののみ34通がずらっと並べられていました。壮観でした。学芸員氏が頑張って、一通一通、活字に翻刻、キャプション的に並べてあり、光太郎筆跡に慣れていない方でもどんな内容か解るようになっています。

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報道された際に目玉的に取り上げられた、昭和25年(1950)、龍星閣から出版された詩文集『智恵子抄その後』に関する葉書。

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それから、2月にお邪魔した際には時間もなく拝見できなかった、光太郎の署名本の数々。

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ほれぼれするような筆跡で、丁寧に書かれています。ネットオークション等で、時折、光太郎署名本なる偽物が出品されていますが、こういう本物を見続けていれば、偽物はいかにもみすぼらしく、下劣な品性の愚物が人をだまくらかそうと書いているのがありありと解ります。

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こちらは地元の子供さん達の作品。光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)にちなむものです。光太郎の母校、荒川区立第一日暮里小学校さんでも同じような取り組みをなさっていました

その他、龍星閣関連で、棟方志功、川上澄生、恩地孝四郎、富本憲吉関連の資料、別ルートの寄贈資料で、画家の福田豊四郎の作品などの小坂町関連資料なども展示されています。

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会期は今月20日まで。ぜひ足003をお運びください。

その後、レンタカーを更に北に向け、十和田湖を目指しました。途中の「道の駅 こさか七滝」には、その名の通り、七滝という大きな滝が。光太郎から澤田に送られた書簡類のうち、澤田が小坂の実家に引きこんでいた時期のものも何通かあり、その住所が「秋田県毛馬内局区内七瀧村大地」となっています。この滝にちなむ地名なのでしょう。

もう少し行くと、道ばたには残雪。運転にはまったく影響ありませんでしたが、さすがに北東北、と思いました。

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ところで、全くの別件ですが、『朝日新聞』さんに、美術評論家の三木多聞氏の訃報が出ていましたのでご紹介しておきます。 

三木多聞さん死去

 三木多聞さん(みき・たもん=美術評論家)23日、急性心不全で死去、89歳。葬儀は家族で行った。喪主は妻玲子さん。
 大阪の国立国際美術館長や東京都写真美術館長を務めた。著書に「近代絵画のみかた 美と表現」などがある。

昭和46年(1971)、至文堂さん刊行の『近代の美術 第7号 高村光太郎』の編者を務められたほか、翌年7月発行の雑誌『ユリイカ 詩と評論』の「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」号で、「高村光太郎の彫刻」という評論を発表なさったりされた方です。連翹忌にも2回ほどご参加いただきました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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【折々のことば・光太郎】

若いのはいい、若いのはいい。何かが知りたくて、知りたくて、又遊びたくて、遊びたくて、疲れるといふ事が疲労でなくて休息であるほど、若いのはいい。若い人を見てゐると、自然と心が腕をのばして来て、仕舞に思はず微笑(ほほゑ)まされる。若い人の水々しさはいろんな意味で此世を救ふ。

散文「若い人へ」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

題名の通り、若い人々へのエール的文章です。このあと、「立身出世教」の毒牙にかかるな、的な内容になったりします。

元々、雑誌『婦人の友』に発表されたものですが、のち、昭和に入ってすぐ、かなり改訂されて、女学校用の教科書にも採録されています。

秋田から企画展情報です。 

平成29年度新収蔵資料展

期 日 : 2018年3月11日(日)~5月20日(日)
会 場 : 小坂町立総合博物館郷土館  秋田県鹿角郡小坂町小坂字中前田48-1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 無料

 今年度も町内外を問わず、多くの資料を寄贈いただきました。誠にありがとうございました。
新収蔵資料展と題して企画展を開催し、寄贈資料を町民の皆様にご覧いただきたいと思います。
 特に今回、小坂大地出身の編集者 澤田伊四郎さんが創業した株式会社龍星閣からの寄贈資料が最も多く、注目の寄贈資料となっています。
 寄贈資料には、高村光太郎(彫刻家・詩人)、棟方志功(版画家)、武塙祐吉(元秋田市長・随筆家)をはじめ、小坂町出身の福田豊四郎(日本画家)・小泉隆二(版画家)からの書簡や書籍やメモ類があります。書簡だけでも約3,000点近くあり、書籍・メモ類を合わせると5,000点を超えます。
 現在整理が進んだ中でも高村光太郎の書簡に多くの未刊行書簡があることがわかりました。整理と分析が進めば、日本文学界にとって大発見があるかもしれません。今後の進展を楽しみにしてください。
 また、今年度、教育委員会が購入した福田豊四郎の資料を展示します。こちらも連載小説等の挿絵の原画や実際に使用ていた画材を含めると約2,000点を超えます。こちらも福田豊四郎研究に大きく貢献できそうな資料群となっています。
 見応えのある展示になると思います。ぜひご来館ください。

関連行事 担当学芸員による展示解説
 第1回目 3月17日(土) 13:00~ 第2回目 4月21日(土) 13:00~ 
 第3回目 5月19日(土) 13:00~


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一昨日、『朝日新聞』さんの夕刊で報道されました。 

智恵子抄の続編「ものにならない」 高村光太郎の未公表書簡公開へ

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)の全集に収録されていない未公表書簡34通が、11日から秋田県小坂町の博物館で無料公開される。代表作の詩集「智恵子抄」を出版した龍星閣(東京都千代田区)の編集者に宛てたもので、智恵子抄の続編について「ものにならないと思います」と記したはがきが含まれている。
 34通は1942年から55年に書かれたもので、はがき32通、封書2通。いずれも小坂町出身で龍星閣の元社長の澤田伊四郎氏宛て。昨年5月、澤田氏が残した書簡や書籍が遺族から町に寄贈され、その中に高村からの書簡が全集収録分も含め約70通あった。
 高村は41年に、愛妻を題材にした「智恵子抄」を出版。戦後、続編の「智恵子抄その後」も出版された。書簡を読んだ高村の研究者小山弘明さん(53)=千葉県香取市=は「(高村の書簡が)一挙に70通も出てくるのは珍しく、『智恵子抄その後』の出版に乗り気でなかったことが裏付けられた。澤田氏の物資援助へのお礼など、高村の律義な性格や、作家と編集者との濃密な人間関係も伝わってくる」と話す。
 これらを一般公開する「新収蔵資料展」は、小坂町立総合博物館郷土館で3月11日から5月20日まで。問い合わせは郷土館(0186・29・4726)。(加賀谷直人)

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先月には共同通信さんの配信による記事が『日本経済新聞』さんや、全国の地方紙に出ました。

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朝日さんは独自に取材、当方にも電話取材がありました。その結果、より詳しく報じられています。

当方、やはり先月、現地に参りまして現物を手にとって、『高村光太郎全集』未収録分については筆写して参りましたが、光太郎の息づかいが聞こえてくるようなものでした。

それから、そちらは拝見してこなかったのですが、チラシ裏面には『智恵子抄』をはじめとする龍星閣の刊行物もいろいろ。どうもその中に、光太郎の識語署名入りがあるようです。チラシの表面に2箇所、光太郎の筆跡があしらわれています。

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左の方は、『智恵子抄』所収の詩「晩餐」(大正3年=1914)の一節「われらのすべてにあふれこぼるるものあれ われらつねにみちよ」。光太郎、この一節を好んでけっこう揮毫に使っています。

当方、来月にはまた現地に参り、拝見して参ります。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私は今、東北辺陬の地の山林にあり、文字通りの茅屋に住んでゐて、文献の渉猟すべきもの一冊も座右になく、ついて校覧すべき一葉の写真すらない。それゆゑ、今ここで古彫刻について語らうとしても、年代の考證、造像の由来等に関しては危くて一語も述べがたい。ただ語り得るところは、脳裏にあるその映像への所感のみであり、それに連関する雑然たる想念ぐらゐのものである。
散文「新薬師寺迷企羅像」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

と言いつつ、光太郎、この後「脳裏にある映像」だけで、新薬師寺さんに今も遺る国宝の塑像「迷企羅大将像」(薬師如来の眷属・十二神将の一人)について、原稿用紙5枚ほどの稿を書いています。

瞬間記憶能力(カメラアイ)という、見たものを画像として記憶し、瞬時に引き出せる能力を持つ人間がいるそうです。光太郎、そこまでは行かなくとも、それに近い能力を持っていたのではないかと思われます。

一昨日から昨日にかけ、1泊2日で北東北3県、秋田、青森、岩手を回っておりました。3回に分けてレポートいたします。

まずはメインの目的だった、秋田県小坂町。

光太郎詩集の代表作の一つ、『智恵子抄』を昭和16年(1941)に刊行し、その後も光太郎の詩集や散文集などを手がけた出版社龍星閣創業者・故澤田伊四郎氏の遺品のうち、光太郎や棟方志功関連の資料およそ5,000点が、澤田の故郷である小坂町に、昨秋、寄贈されました。

花巻の高村光太郎記念館さん経由で、その情報が入り、担当の方と連絡を取り合ったところ、『高村光太郎全集』に掲載されていない光太郎書簡が多数含まれていることがわかり、調査に赴いた次第です。

小坂町は十和田湖の西半分を含む山あいの町です。盛岡から出ている青森行きの高速バスが小坂に停まるため、それを利用しました。東北自動車道を走るバス、小坂ICで一旦一般道に下り、IC近くの小坂高校さんで停車します。町中心部までは2㎞ほどでしょうか。

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町教育委員会の担当の方が車で迎えに来て下さっていまして、助かりました。

今回寄贈を受けた新資料を、来月11日から展示する町立総合博物館郷土館さん。

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現在は冬期休館中ということで、隣接する町立図書館さんに通されました。

早速、光太郎関連資料を拝見。事前に、『高村光太郎全集』掲載済みの書簡と、そうでないもの(半々です)とを区別して下さっていたので、手間が省けました。未公開のものは、一通ずつ筆写させていただきました。

最初に情報を得た時から、なぜ、半数のみが『高村光太郎全集』に既収で、半数がそうでなかったのか、あれこれ推理していました。公表するには差し障りのあるものは提供しなかったのではないか、など。ところが、読んでみると、そうでもないようでした。特に既出のものと比較して大きな違いはありません。

最も古いものは、戦時中の昭和17年(1942)、最後のものは、光太郎最晩年の昭和30年(1955)のもの、大半は花巻郊外旧太田村在住時のものでした。特に目を引いたのが、詩文集『智恵子抄その後』(昭和25年=1950)出版に関する内容のものがあったこと。最初は出版に乗り気でなかった様子が窺えましたが、どうも澤田の熱意にほだされたように見受けられます。

それから、他に類例がないハガキ類。一言でいうと受領証の類ですが、澤田から送られた完成した『智恵子抄その後』や、茶葉、香水線香などの雑貨類を確かに受け取ったよ、というハガキ。これが10通以上あり、途中からは宛先の澤田の住所氏名、品目などは澤田の筆跡になっています。光太郎が律儀に受け取りのハガキを返送するので、途中から澤田が光太郎の手間を軽減しようと、返送用に小包に同封したのだと思われます。

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面白いと思ったのは、その品目の中にあった「クマゼミ(シヤンシヤン蝉)」という項目。既出の書簡には、熱海に住んでいた澤田にクマゼミを捕まえて送ってくれ、的な内容がありましたが、それの受領証です。光太郎、太田村の山小屋に蟄居中は、作品として彫刻を発表することを一切しませんでしたが、手すさびというか、腕をなまらせないための鍛錬というか、そういう形では蝉などの彫刻を彫っていたようです。地元民の方の目撃談もありますし、他の人物に送った書簡にもそういった内容があります。短歌でも、「太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは」(昭和21年=1946)というものがあり、あながちフィクションではなさそうです。ただ、彫ったものの現物は確認できていませんが。

それから、その太田村での生活のディテール。これは『高村光太郎全集』既収の、他の人物に宛てたものにも共通しますが、やはり四季折々に光太郎が感じた自然美などが記されています。何げない一言にも味わいがありました。

その他、光太郎の周辺人物からの書簡類もかなりありました。太田村で光太郎に山小屋の土地を貸していた駿河重次郎、宮沢賢治の父・政次郎と共に花巻疎開を助けた医師・佐藤隆房、光太郎の仲立ちで、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚した宮崎稔、そして宮崎歿後は春子。

個人経営、おそらく社員一人の龍星閣、明確な印税制を採らず、光太郎もその辺りはアバウトでしたから、どれだけ著書が売れても光太郎は報酬を受け取ることに積極的ではありませんでした。ある意味仕方なく、澤田は小切手やらで「寸志」として送りました。また、『智恵子抄』の戦後復元版(昭和26年=1951)が出た頃には、澤田が6万円あまりを負担して、山小屋を増築しています。大工の手配等は駿河重次郎がやったようで、駿河から澤田には、その工事経費の明細書的なものが送られていました。

このブログでまた続報を出すと思いますが、先述の通り、来月11日から、小坂町立総合博物館郷土館さんで、企画展「平成29年度新収蔵資料展」として、光太郎関連もピックアップされて出品されます。ぜひ足をお運び下さい。

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ところで小坂といえば、かつて鉱産額で全国一位にまでのぼりつめた小坂鉱山の企業城下町として、レトロモダン建築が立ち並ぶ「明治100年通り」が有名です。昨日の朝、歩いて参りました。

国指定重要文化財・小坂鉱山事務所。

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天使館(旧聖園マリア園)。元の保育園的な。

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日本最古の芝居小屋・康楽館。こちらも重要文化財です。

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横から見ると、擬洋館建築だというのがよくわかります。


小坂鉄道レールパーク。ただしこちらは冬期閉鎖中。

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それにしても、雪、雪、雪でした(笑)。

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明日は「十和田湖冬物語2018」をレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

人間の四肢胴体の凹凸を司る理法は重畳たる山嶽の起伏を司る理法と違つてゐない。彫刻家は人間の顔面に湖を見たり、瀧を見たり、雲を見たりする。

散文「彫刻に何を見る」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

龍星閣からオリジナルの『智恵子抄』が刊行された年に書かれた評論です。

秋田から、生涯学習系の講座情報です。

【あきたスマートカレッジ】文学リレー講座~戦中・戦後の文学~高村光太郎

期  日 : 2017年4月22日(土)・5月27日(土)・6月24日(土)
会  場 : 秋田県生涯学習センター 秋田市山王中島町1-1
時  間 : 午前10時から午前11時30分まで
講  師 : 秋田県生涯学習センター シニアコーディネーター 北条常久氏
受講料  : 1回420円
内  容 :
  4 /22(土) 高村光太郎① 青年光太郎『道程』~彫刻家父光雲と詩人光太郎~
  5 /27(土) 高村光太郎② 光太郎と智恵子『智恵子抄』~智恵子の愛に清められ~
  6 /24(土) 高村光太郎③ 戦中・戦後の光太郎『暗愚小伝』~花巻高村山荘での生活~

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講師の北条常久氏には、『詩友 国境を越えて―草野心平と光太郎・賢治・黄瀛』というご著書があり、一昨年には、光太郎・宮沢賢治、黄瀛、そして草野心平をとりあげる講座を「支え合う文学者たち 『歴程』高村光太郎・宮沢賢治・草野心平・黄瀛」という講座を、同じ秋田生涯学習センターさんでなさいました。

今回は光太郎中心で、全3回。ありがたい限りです。リレー講座とあるのは、その後、他の講師の方々が3回ずつ、太宰治、三島由紀夫、大江健三郎に関しての講座を持たれるためです。

こうした市民講座的なものでも、光太郎智恵子、光雲などについて、もっともっと取り上げていただきたいものです。関係者の皆さん、ご検討を。

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【折々のことば・光太郎】

母を思ひ出すと俺は愚にかへり、 人生の底がぬけて 怖いもの がなくなる。 どんなことがあらうともみんな 死んだ母が知つているやうな気がする。

詩「母をおもふ」より 昭和2年(1927)
 光太郎45歳

右が光太郎の母・わか。この詩の書かれた2年前に大腸カタルで没しました。当会顧問北川太一先生の筆になる『高村光太郎全集』別巻の光太郎年譜のその項には、

純情で、江戸の昔のやり方を通し、自分を無にしていつも澄んでいた母の姿は、愛情深い典型的な女性として、光太郎の心の中に祀られる。

と記されています。

これまでも時折紹介してきましたが、各地で開催される市民講座的なもので、光太郎智恵子の世界を扱ってくださる企画がありますので、ご紹介します。 

平成27年度あきたスマートカレッジ連携講座 支え合う文学者たち 『歴程』高村光太郎・宮沢賢治・草野心平・黄瀛(同人)

期 日 : 2016年3月24日(木)
会 場 : 秋田県生涯学習センター講堂
時 間 : 午前10時から午前11時30分まで
講 師 : 秋田県生涯学習センター シニアコーディネーター 北条常久氏
受講料 : 無料
申込法 :
次の事項を、県生涯学習センターまでお伝え下さい。<電話やFAX、E-mailでも可>
①受講者番号 (受講者番号をお持ちでない場合には、住所・電話番号) ②氏名 ③希望講座
問合せ・申込先 :
 秋田県生涯学習センター 〒010-0955 秋田市山王中島町1 -1
 TEL:018-865-1171 FAX:018-824-1799 E-mail:sgcen002@mail2.pref.akita.jp

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講師の北条常久氏には、『詩友 国境を越えて―草野心平と光太郎・賢治・黄瀛』というご著書があります。講座の題名にもなっている4人の詩人の交友を追った力作です。

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当方、平成25年(2013)秋、福島県川内村で行われている心平を偲ぶ集い・「かえる忌」にて「高村光太郎と草野心平の交流」と題して講演をさせていただきましたが、その際には大いに参考にさせていただきました。

今回の講座も、近くであればぜひ行きたいのですが……。


続いて茨城水戸から。 

日本の詩をよむ-人と作品の魅力 ~高村光太郎と室生犀星~

期 日 : 2016年4月5日、5月31日、6月7日、7月5日、8月2日、9月6日 (全て火曜日)
会 場 : NHK文化センター水戸教室 茨城県水戸市三の丸1-5-38 三の丸庁舎2F
時 間 : 各回とも10:15~12:15
講 師 : 日本文藝家協会会員 成井惠子氏
受講料 : 12,960円(税込み)

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さらに同じNHK文化センターさんの講座で、東京青山教室で開催される講座。  

【1年で学ぶ教養】美のコトバ ~芸術家たちの言葉の世界~

期 日 : 2016年4月6日~2017年3月8日 全12回(すべて水曜日)
会 場 : NHK文化センター青山教室 東京都港区南青山1-1-1 新青山ビル西館4F
時 間 : 各回とも10:30~12:00
講 師 : 批評家 若松英輔氏
受講料 : 38,880円(税込み)

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全12回のうち、4/6の第1回が「高村光太郎と近代日本の彫刻家たち」、11/9で第2回「ロダンの言葉」、来年2月に開催される第11回では「岸田劉生と白樺派の芸術」となっています。


こうした市民講座的なものでも、光太郎智恵子、光雲などについて、もっともっと取り上げていただきたいものです。関係者の皆さん、ご検討を。

当方も毎年、二本松市で開催されている智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座」で講師を務めさせていただいております。昨年は全体のテーマが「高村智恵子に影響を与えた人々」、その中で当方の受け持ちが「成瀬仁蔵と日本女子大学校」というわけで、NHKさんの連続テレビ小説「あさが来た」の広岡浅子などについて講義しました。

講師のあてがない、という場合、日程さえ調整できればお引き受けしますし、こういう講師を捜している、という場合、ご紹介することもできます。こちらまでご連絡下さい。光太郎、智恵子、光雲に関する内容であれば、たいがいの内容はリクエストにお応えできます。


【折々の歌と句・光太郎】

龍宮へ我は来にけり春の海     明治42年(1909) 光太郎27歳

今日は光太郎がらみではない用事があって、九十九里浜の北端、千葉県旭市に行って参ります(当方の自宅兼事務所のある香取市と隣接していますので、行って参りますという程の距離ではないのですが)。東日本大震災では、東北地方の大きな被害の陰に隠れてあまり知られていませんが、やはり津波の被害を受け、全壊家屋300戸以上、半壊も約1,000戸、確認されているだけで14名の尊い命が犠牲となり、2名の方はいまだ行方不明です。

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ちょうど昨日は3.11でしたし、津波被害の大きかった地区を見てこようと思っています。

一昨日(12/12・土)、午前4時30分に自宅兼事務所を出、一路、秋田県横手市を目指しました。

横手駅に到着したのは午前11時28分。JR北上線で奥羽国境山脈を越えるあたりは一面の銀世界でしたが、山を下ると雪は消え、少し拍子抜けでした。

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上は駅前のショーウィンドウで見つけたLEDを使ったミニかまくら。実際の雪は日陰に残っている程度でした。

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朝が早かったので早めに昼食を摂り、横手バスターミナルから路線バスの本荘線に乗り込みました。のどかな田園風景を揺られること30分あまり。

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途中、車窓から見た「なまはげ」。

降り立ったのは「新道角」というバス停。「新道」と言いながら、旧道の情緒が残っており、当方の大好きな雰囲気の道を歩くこと10数分、目指す雄物川郷土資料館さんに着きました。

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こちらでは第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編 ~あの人はこんな字を書いていました~」が開催中で、『高村光太郎全集』等に未収録の光太郎の書簡も展示されているとのこと。期待が高まります。

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入場料100円也を払って、さっそく展示室に入いると、正面に光太郎書簡がありました。いずれも横手出身の画商・旭谷正治郎に送った封書が1通、葉書が2通の計3点でした。

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昭和21年(1946)、光太郎が隠遁生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋に、旭谷から麹が届けられたことに対する礼状(葉書)、後日、麹の返礼に書を贈った際の添え状(封書)、そして時期は不明ですが、山小屋生活の報告的な葉書。どれも興味深く拝見しました。

さらにパネル展示で、横手での光太郎の写真も。おそらく旭谷の麹の入手元、近野麹屋でのカットでした。光太郎は昭和25年(1950)の3月10日から12日にかけ、講演のため横手を訪れています。その際に泊まったのが近野麹屋でした。店主・近野廣は趣味人としても名が通り、さらに高校のPTA役員をしていた関係で、講演の企画やら光太郎の接待やらに奔走したそうです。『高村光太郎全集』には、講演が終わって太田村に帰ってからの近野宛の光太郎書簡が掲載されています。さらに翌年、近野から麹と秋田銘菓の「もろこし」を小包で受け取った礼状も。

さて、「横手ゆかりの文人展」、光太郎以外にも様々な人物から旭谷宛の書簡などがずらりと並んでいて、壮観でした。光太郎と縁のあったところでは、白樺派での盟友・武者小路実篤。武者は書簡だけでなく絵も展示されていました。さらに石井柏亭、梅原龍三郎、安井曾太郎といった、光太郎と旧知の画家達。

そして東京美術学校西洋画科での光太郎の同級生、藤田嗣治。藤田には「秋田の行事」(昭和12年=1937)という大作があります。光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」も取り上げられる映画「FOUJITA」(小栗康平監督・オダギリジョー主演)が公開中ですが、この映画のロケが、横手でも行われたとのことで、映画のチラシも置いてあり、いただいてまいりました。

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先月、封切りの日に千葉市の京成ローザさんで拝見した際に、館ではもうチラシが残っていなかったので残念に思っていましたが、意外な所でゲットできました。

ちなみにチラシ裏面がこちら。一番上の、オダギリさんと妻・君代役の中谷美紀さんが能面を観ているシーンなどは、当方の住む千葉県香取市でロケが行われました。不思議な縁を感じました。

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ゆっくり拝観したかったのですが、バスの都合があり、急いで館を後にし、バス停まで走りました。あやうく横手駅前で食べた昼食のカツカレーをリバースしそうになりました(笑)。どうにかバスには間に合ったものの、真冬の東北にもかかわらず、汗だくになりました(笑)。

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横手駅から北上線が出るまでの待ち時間、駅からほど近い横手図書館で調べ物。上記の近野廣と光太郎の関わりなどを記した文献を見つけ、コピーして参りました。それによると近野家には光太郎の書がたくさん残されたとのことで、こちらも現存するものであれば見てみたいものです。大半は他の人にも同じ文句を書いて贈ったものですが、一点、他に類例の確認できていない言葉を書いた色紙があるようです。

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その後、北上線に乗り込み、北上駅から東北本線に乗り換えて花巻へ。以下は明日、レポートいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月14日

平成4年(1992)の今日、東北の地方紙『河北新報』に「光太郎日記のこと」というエッセイが掲載されました。

筆者は宮城県母子愛護病院長(当時)・熊谷一郎氏。『高村光太郎全集』に収められた昭和27年(1952)の日記に、ご自分が花巻郊外太田村の山小屋を訪れた際の記述を見つけた、という内容でした。

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実際にその日の日記を読むと、「学生」「青年」とは記されていますが、熊谷氏のお名前はありません。しかし、後になって当事者の証言でその正体(笑)が判明した稀有な例です。

秋田県から企画展情報です。

まずは概要を分かりやすくするため、地元紙『秋田魁新報』さんの記事から。 

文人の書簡ずらり、横手の逸話も

 大正から昭和にかけ活躍した文人の書簡を集めた「横手ゆかりの文人展」が、秋田県横手市の雄物川郷土資料館で開かれている。展示しているのは、昭和中期の東京で芸術家や作家との交遊があった同市出身の画商旭谷正治郎(1899〜1975年)宛ての手紙、はがきなど約80点。横手に関わる逸話や思い出の記述が多数見られる。市教育委員会の主催で23日まで。

 市教委は今年7月、旭谷の七男文和さん(70)=茨城県土浦市=から依頼されて手紙、はがきなど約3千点を保管。今回展示しているのはその一部で、彫刻家高村光太郎や作家武者小路実篤ら22人が旭谷に宛てたもの。

 旭谷の案内で横手を訪れた一人、版画家棟方志功のはがきは、勢いのある大きな字で「横手町は未知の所でミリョク大有りです」と記す。別のはがきでは「かやき、キリタンポの力でわめき抜くつもりです」と創作意欲を伝えている。

 高村は戦後間もなく横手を訪れ、地元の麹(こうじ)屋に立ち寄った。その後、横手から小包で麹が届けられたことを喜び、「早速甘酒を仕込みました」と、旭谷にはがきで報告している。

 武者小路は、戦時中に探していた疎開先について「秋田がいいと思う。意見を聞かせてほしい」との手紙を寄せた後、現在の湯沢市秋ノ宮の温泉に疎開した。


というわけで、秋田県横手市の雄物川郷土資料館さんでの企画展です。 

第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編」 ~あの人はこんな字を書いていました~    

会  期 : 平成27年10月24日(土)~12月23日(水・祝) 
         前期10/24~ 後期11/28~ 展示替えあり        
会  場 : 雄物川郷土資料館 秋田県横手市雄物川町沼館字高畑366
開館時間 : 午前9:00~午後5:00(入館 4:30まで)
入  館  料  : 一般100円(80円) 高校大学生50円(40円) 中学生以下無料 
       ※()内は団体料金(15名以上)
休  館  日  : 月曜日(祝日と重なる場合はその翌日)及び祝日の翌日

 雄物川郷土資料館では、「横手ゆかりの文人展」と題し、大正から昭和初期にかけて活躍した作家、画家、文化人たちの直筆原稿、手紙や葉書などを展示いたします。

 東京で文化人と交流のあった横手市出身の画商 旭谷正治郎氏のコレクション約600件が市に寄託されたことで実現したもので、ほとんどが初公開の貴重なものばかりです。横手とゆかりのある文人たち約30名には、日本の近代を担った著名人が多くみられます。歴史の1ページを飾った先人の文字には、その人柄や息づかいまで感じることができます。

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公式サイトにあるように、旭谷正治郎は、横手出身の画商です。調べてみると、『高村光太郎全集』では、第十二巻、戦後の日記に名前が出ていました。

旭谷氏より麹たくさん送り来、 (昭和21年=1946 1月21日)

『秋田魁新報』さんの記事と一致します。

午前揮毫送附の為テガミ書き、 水原宏氏(雪白くつめり)、旭谷正治郎氏(うつくしきもの、最後にのこるもの美なり)、 (同2月7日)

ひる頃石井鶴三、笹村草人、有賀剛、千葉金右衛門、旭谷正治郎の五氏来訪。炉辺に招ず。昨夜花巻クルミ旅館泊の由。鶴三氏とは四五年ぶりの面会。他の人は皆初対面。助教授笹村氏専らしやべる。 横手町の画商旭谷正治郎氏が鶴三氏を案内して十和田湖に赴き、写生に数日間滞在。(略)談話、学校の話、彫刻の話、余が東京に帰らぬ旨の話、其他いろいろ。五時過辞去。部落のはづれの馬頭観音のところまで送りて別れる。 (昭和23年=1948 6月20日)

石井鶴三、笹村草家人は彫刻家、有賀剛は笹村の友人で神田小川町の汁粉屋主人、千葉金右衛門は秋田扇田町(現・比内町扇田)の酒造家です。

旭谷にあてた光太郎の書簡は確認できておらず、真筆であれば(まず間違いないと思いますが)、新発見です。
館の方に問い合わせ中ですが、場合によっては現物を見せてもらいに行ってこようと思っています。

こんな感じで、現在も後から後から光太郎の書簡が出て来ています。毎年4月2日の連翹忌の日に、高村光太郎研究会から発行される『高村光太郎研究』という雑誌で、当方、「光太郎遺珠」という連載を持っており、1年間で見つけた『高村光太郎全集』未収録の作品を紹介しています。毎年のように10通を超える書簡が見つかっていて、来春の「光太郎遺珠」にも、花巻の写真家・内村皓一氏にあてたものや、九段下の書道用品店・玉川堂さんから出て来た書簡など、既に15通を掲載予定です。

まだまだ光太郎書簡はいろいろなところに眠っているはずです。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月7日

昭和26年(1951)の今日、草野心平と共に花巻郊外台温泉松田屋旅館に宿泊しました。

松田屋さんは今も健在です。HPで見ると、建物はきれいになってしまっているようですが。いずれ泊まってみたいと思っています。

追記 松田屋さん、当時のままの建物でした。

秋田から光太郎の父・光雲(今日、10月10日が命日です)がらみのイベント情報です。 

秋田公立美術大学公開講座 【明治の彫刻と工芸性】

日 時 : 平成27年10月14日(水) 18:00~19:30
場 所 : 美大サテライトセンター(フォンテAKITA6階) 秋田市中通2-8-1 018-832-9549
講 師
 : 秋田公立美術大学 美術教育センター 教授 志邨匠子
定 員 : 30人
対 象 : 高校生以上
受講料 : 無料
申し込み  : 秋田公立美術大学 社会貢献センターアトリエももさだ
                   TEL:018-888-8137 FAX:018-888-8147

明治期、初めて日本は西洋の「彫刻」に出会います。美術家達は、仏像や置物とは異なる立体表現にどうのように向き合ったのでしょうか。高村光雲に焦点を当て、彫刻と工芸の関係について考えます。

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興味深い内容です。近くであれば絶対に聴きに行くのですが……。

全国の大学さんなどの研究機関、こういった活動にももっともっと力を入れていただきたいものですね。少子化で大学さんも生き残りが大変なようですが、いいPRになると思います。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月10日

昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校に「高村文庫」が設置されました。

この日、光太郎が小学校に書棚を寄贈、学校では以前から光太郎に寄付を受けていた書籍をそこに収め、「高村文庫」と名付けました。

多分に漏れず、山口小学校は少子化のため廃校となり、建物も老朽化のため取り壊されてしまいましたが、跡地には光太郎が開校記念に贈った校訓「正直親切」の碑が建ち、当時を偲ぶよすがとなっています。

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8月19日のこのブログで、秋田から新たに光太郎の直筆詩稿が見つかったニュースをご紹介しました。
その後、過日、続報が出ましたのでご紹介します。  

「一億の号泣」の直筆詩稿を寄託 由利本荘市教委へ

 高村光太郎が終戦の翌日に書いた詩「一億の号泣」の直筆詩稿を所有する由利本荘市矢島町の佐藤和子さん(70)と親類が10日、「多くの市民や光太郎ファンに見てもらいたい」と市教育委員会に詩稿を寄託した=写真。市教委は今後、詩稿の複製を公開する考え。

 詩稿は、光太郎が戦時中に疎開した岩手県花巻市で親交を深めた故佐藤昌(あきら)さんに渡したもの。矢島町立農業補習学校農業専修科(現矢島高)の初代校長を務めた昌さんは、終戦後、文通相手だった教え子の佐藤勘左エ門さん=矢島町、1988年に78歳で死去=に詩稿を譲り渡した。

 詩稿は一時紛失したが、2年半前に矢島町内で見つかり、勘左エ門さんの次男の妻である和子さんが所有、勘左エ門さんの五男重さん(64)と弟の東海林良介さん(86)が保管していた。
(『秋田魁新報』 2013/09/11)
 
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「一億の号泣」は光太郎の詩としては有名な方ですし、太平洋戦争の終戦という、光太郎にとっても日本にとっても一大転機となったできごとを題材にしているということで、重要な作品です。
 
したがって、売りに出せばかなりの値段がつくものなのですが、持ち主の方は市に寄贈されたとのこと。すばらしい。
 
今後は死蔵されることなく、活用されてほしいものです。
 
東北にはこういうケースで寄贈され、常時見ることのできる光太郎資料が意外と多くあります。
 
盛岡市の盛岡てがみ館さん。やはり光太郎の詩稿「岩手山の肩」が常に展示されていますし、他にも光太郎書簡を多数所蔵しています。来春の企画展では光太郎書簡も展示されるようです。
 
東北新幹線のいわて沼宮内駅内にある郷土資料館には、光太郎直筆の村立図書館・村立公民館の看板が展示されているとのこと。当方はこれは見たことがないのですが、いずれあちらに行く時に足をのばしてみようと思っています。
 
11/12追記 現在はいわて沼宮内駅内の郷土資料館は閉鎖、この看板は元々あった岩手町川口公民館に戻っているとのことです。
 
もちろん、花巻の高村光太郎記念館や二本松の智恵子記念館。
 
ただ、気をつけなければいけないのは、「光太郎直筆の○○」と大々的に宣伝していながら、どうも怪しいものもあることです。営利目的や功名心でやっているわけではなく、「善意」で公開しているのでしょうが、それだけに困ったことでもあります……。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月22日

昭和60年(1985)の今日、NHKFMで、原嘉壽子作曲・まえだ純台本による「歌劇 智恵子抄 高村光太郎による 四幕」がオンエアされました。
 
昭和62年(1987)には楽譜(ヴォーカル・スコア)が全音楽譜出版社さんから刊行されています。

秋田からニュースが入りました。地元紙『秋田魁新報』さんの報道で、8/15のブログでご紹介しました詩「一億の号泣」に関してです。
 
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少し前に花巻の記念会から情報は得ていましたが、いいタイミングで発表されたと思います。
 
まだまだ日本各地、特に光太郎が足かけ8年暮らした東北にはこういうものが眠っている可能性があります。「うちにもこういうものがある」という方、情報をお寄せいただければ幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月19日

明治32年(1899)の今日、光雲の養母・悦が亡くなりました。
 
悦は光雲の師匠、高村東雲の姉。光雲は徴兵忌避のため、子供のいなかった悦の養子となりました。明治初期は養子であっても長男は徴兵対象外でした。

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