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昨日、「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」の件をご紹介しましたので、やはり文化遺産系の話題を。

光太郎第二の故郷とも言うべき、岩手県花巻市さんのサイトから。

花巻温泉旧松雲閣別館が登録有形文化財に登録されました

花巻市で初となる登録有形文化財

花巻温泉旧松雲閣別館は、昨年11月27日に開催された文部科学大臣の諮問機関である文化審議会(馬渕明子会長)において登録有形文化財に指定するよう答申されておりましたが、3月27日付けをもって文化財登録原簿に登録され、同日付け官報に告示されました。
今回の登録では、県内から同館のほか、旧岩手県知事公舎洋館、旧千田正家住宅主屋、同板倉(金ヶ崎町)、旧上有住小学校校舎(住田町)が登録されております。

花巻温泉旧松雲閣別館の概要

松雲閣別館は、大正13(1924)年6月に新築された高級旅館松雲閣の別館として、昭和2(1927)年に建築・開業しました。入母屋作りの木造二階建て、延べ床面積約1,600平方メートルで総ヒノキ造り、赤色釉薬の花巻瓦葺き、手すきガラス使用、鉄くぎを一切使用していない組み立て方式による大規模旅館建築の建物です。
平成14(2002)年に老朽化に伴う閉館までの間、昭和天皇をはじめとする皇族の方々、後藤新平、斎藤實、高橋是清等の政治家、与謝野鉄幹・晶子夫妻、高浜虚子等の文人が利用するなど、岩手の迎賓館として長く愛されました。館内には、昭和36(1961)年の昭和天皇行幸啓時の貴賓室や浴室等もよく残り、背後の松林に映える堂々とした姿は往時の花巻温泉の景観を今に伝えています。

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花巻温泉旧松雲閣別館、上記記事に光太郎の名がありませんが、光太郎もたびたび宿泊しています。花巻温泉内の旅館の中では、最も格式の高いところで、確認できている光太郎最後の談話筆記「ここで浮かれ台で泊まる/花巻」(昭和31年=1956)に、以下の記述があります。

一番奥にある松雲閣というのが一番大きく、ちょっと高いところにある別館が一番の高級で、皇族だの、大尽様などがお泊まりになる。私なども、そこへ入れられてしまうが、さすがに建築は立派である。

昭和27年(1952)には、NHKラジオ「朝の訪問」のための、真壁仁との対談をここ松雲閣別館で録音した他、日記が失われているため詳細は不明ですが、前年の『朝日新聞』岩手版に載った当時の岩手県知事・国分謙吉との対談も、ここで行われたと推定できます。

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平成14年(2002)に閉館となりま002したが、取り壊されることなく保存され、今回の指定。花巻市では初だそうで、めでたいことですね。

記事にあった『官報』等を拝見しました。北から順の掲載で、今回、北海道、青森県からの指定がなかったので、いの一番です。ただ、他にもごっそり指定されており、そういうものなのかと、初めて知りました。

光太郎智恵子ゆかりの建造物の中には、やはり老朽化ということもあって、比較的最近になって、残念ながら取り壊されたものが少なくありません。

昨日ちらっとご紹介した、九十九里浜で智恵子が療養していた田村別荘、戦後、光太郎が蟄居した花巻郊外旧太田村の山口小学校、昭和27年(1952)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見と、翌年の除幕式の際に光太郎がそれぞれ一泊した東湖館など。

また、昭和8年(1933)、光太郎智恵子が泊まった福島安達太良山麓の不動湯温泉は、火災で焼失してしまいました。

色即是空、諸行無常とは申しますが、やはり価値あるものは残すべきですね。そして、残すだけでなく、新たな活用の道を探ってほしいとも思いました。


【折々のことば・光太郎】

あの南部鉄瓶に示された此の人等の祖先が持つた精妙な工芸感覚
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の血が此の人等の中に脈うつてゐる事を私は信ずる。私は百の期待をかけてこの人等の今後のあらゆる工芸作品を長く見守つてゆかうと思ふ。
散文「展覧会に寄する言葉」より 
昭和23年(1948) 光太郎66歳

草稿のみ遺され、どこに掲載されたか不明の散文です。「新岩手日報に送る」とメモがありますが、同紙に掲載が確認できていません。紙面の都合でボツになったのでしょうか。

いずれにせよ、岩手の造型作家へのエールです。花巻温泉旧松雲閣別館にも見られる、この地の美的水準の高さを、光太郎は高く買っていました。

文京区千駄木の、旧安田楠雄邸。大正8年(1919)の建築で、関東大震災後、旧安田財閥の安田善四郎が買い取り、平成7年(1995)まで安田家の所有でした。現在は公益財団法人日本ナショナルトラストさんによって管理されており、一般公開や企画展示などに活用されています。

その安田邸から路地を一本はさんで北隣が、光太郎の実家である旧駒込林町155番地。光太郎の父・光雲が終の棲家とし、家督相続を放棄した光太郎に代わって、鋳金の人間国宝となった実弟の豊周が受け継ぎました。その後、豊周子息の写真家だった故・規氏、そして今は豊周令孫でやはり写真家の達氏がお住まいです。明治44年(1911)暮れ、光太郎と智恵子が初めて出会ったのも、ここでした。

そんな関係で、旧安田邸では、「となりの髙村さん」展の第1弾を平成21年(2009)に開催しました。その頃ご存命だった規氏の写真などが展示されたそうです(当方、そちらには行けませんでした)。


そして今月、その補遺展および光太郎実家の一般公開が行われます。

となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展

期 日 : 2018年4月18日(水)002・21日(土)
       25日(水)・28日(土)
会 場 : 旧安田楠雄邸庭園
       東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00
料 金 : 一般500円、中高生200円、
      小学生以下無料(保護者同伴必須)

昨年11月に開催した「となりの髙村さん展第2弾」。その補遺(ほい)として、旧安田邸お隣の高村豊周(とよちか)邸の写真展と見学会を開催します。

高村光雲の三男で、高村光太郎の弟の高村豊周氏は、鋳金家で人間国宝。
また、高村邸は昭和34年築の数寄屋建築で、国の登録有形文化財に登録されています。
ぜひこの機会に足をお運びください!
*髙村邸は、老朽化のため本年解体の予定です。

高村邸見学会:1回目13:00~、2回目14:30~
 *28日(土)を除く
 *旧安田楠雄邸庭園見学者対象 各回20名

園路特別開放: *21日(土)、28日(土)のみ


当方、高村邸は何度かお邪魔し、智恵子の紙絵の現物を手にとって拝見したりしましたが、いつも規氏、達氏の写真スタジオでした。この機会にお邪魔させていただこうと思っております。

皆様もぜひどうぞ。003


【折々のことば・光太郎】

外側ばかりを気にするな。内の力をまづ養へ。
散文「寸感」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

この年、東京府美術館で開催された、「聖徳太子奉讃美術展覧会」の評から。

光太郎自身も、大正2年(1913)の生活社主催展覧会以来、13年ぶりに彫刻を出品しました。塑像「老人の首」、木彫「鯰」が出品作でした。

この展覧会には、光雲、豊周も作品を出しており、父子三人が同時出品したのは、おそらくこれが最初で最後ではないかと思われます。

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春の恒例となりつつあります。智恵子の故郷、福島二本松市での智恵子顕彰イベント「高村智恵子生誕祭」。智恵子の誕生日は5月20日ですが、4月、5月と2ヶ月かけて、さまざまな企画が予定されています。

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まずは4月7日(土)から、「智恵子の生家2階特別公開」。平成27年(2015)に始まり、春と秋の観光シーズン、年によっては夏休み期間などに、通常は非公開の、智恵子の生家の2階部分――智恵子の居室があった――に上がれます。

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当方、なんだかんだで5回くらい上がらせていただきましたが、襖を開ければそこに智恵子が座っているような、そんな感じでした。


それから、4月の二本松といえば、桜。『広報にほんまつ』の4月号がこちら。

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智恵子の生家/智恵子記念館周辺にも、見事な桜が点在しています。

そこでこの時期、「二本松の名所旧跡を巡る春さがし号(市内循環臨時バス)」が運行されます。

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ぜひご利用下さい。

それから、「高村智恵子生誕祭」としては、他にもいろいろ企画されていますが、また近くなりましたらご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

深遠な思想と不惑の意志とのある処にのみ芸術はある。

散文「彫刻に就て」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

必死の思いで考えに考え抜き、精魂傾け尽くして制作されたものでなければ芸術の名に値しない、というわけですね。

この文章、本来は文部省美術展覧会(文展)と、国民美術協会展覧会の評ですが、そうでない出品作の多さを嘆く一節です。

昨年発刊された隔月刊のタウン誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』。第6号が届きました。

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花巻高村光太郎記念館さんの協力による創刊号からの連載「光太郎レシピ」プラス、今号は特集で「賢治の足跡 光太郎の足跡」。表紙もそれに伴い、昭和20年(1945)に光太郎が約1ヶ月暮らした、市内桜町の佐藤隆房邸の離れです。ここを光太郎は「潺湲楼(せんかんろう)」と名付け、郊外太田村の山小屋に移り住んでからも、町に泊まりがけで出てきた際には、ここに宿泊することがほとんどでした。佐藤は賢治の主治医でもありました。

その他、主に市街の、光太郎ゆかりの場所がたくさん紹介されています。終戦の玉音放送を聴いた鳥谷崎神社さん、毎年のように智恵子や光雲の法要を営んでもらっていた松庵寺さん、それから光太郎の日記に名が出てくる店舗。今も同じ場所に残っているところが何軒もあり、驚きました。また花巻へ行く際には、探してみたいと思いました。やはり、地元をよく知る方の情報量にはかないません。日記にちらりと出てくる屋号で、あの場所か、とわかってしまうのでしょう。
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それから、市の中心部ではありませんが、旧東和町のホームスパン工場跡地なども。ここで羊毛織物のホームスパン制作にいそしんでいた及川全三は光太郎とも因縁浅からずでした。『マチココ』さん、今後、この方面についても詳しく取り上げたい旨、聞き及んでおります。光太郎との絡みをぜひ紹介していただきたいものです。

オンラインで年間購読の手続きができます。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

抽象と具象、この差は紙一重だ。

談話筆記「東洋と抽象彫刻」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

分類しろと言われれば、光太郎のそれは具象彫刻です。しかし、ただ単に対象を本物そっくりに作るというのではなく、対象の精髄的なものを取り出して表現するという意味では、抽象彫刻の要素も色濃く持っています。ロダンもそうであったと光太郎は指摘しています。

2月13日(火)、秋田小坂をあとに、再び高速バスに乗って岩手方面へ。バス終点の盛岡から東北本線に乗り、光太郎第2の故郷ともいうべき花巻を目指しました。

到着が昼頃でしたので、迎えに来て下さった花巻高村光太郎記念会の事務局長さん、そして市役所の方と昼食。向かったのは、市役所近くの「茶寮かだん」さん。宮沢家と姻戚感関係だったという、旧橋本家の別邸を改装しオープンした、最近流行の古民家カフェ的なお店です。なるほど、外観といい、内部の造作といい、実にいい感じでした。

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画像ではわかりにくいのですが、天井は漆喰塗りで、電灯ソケットの周りはアールヌーボー風の鏝絵(こてえ)が施されています。

当方一行が通されたのは玄関脇の洋間でしたが、奥の和室では、賢治や妹のトシが眺めたというひな人形などが飾られていました。

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何かの折には、光太郎も見たかも知れません。

また、ここに賢治が設計した花壇が元々あったということで、それが復元されているそうです。現在は雪で覆われていますが。

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遠くに見える高い建物は、大食堂で有名なマルカンさんです。

その手前に、かつてあった呉服屋の大津屋さんがこちらの元の持ち主だそうです。

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ここでは光太郎も買い物をしていたことが、日記に記されています。

その後、事務局長さんの車で、郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。市街地は陽が差していましたが、旧太田村に近づくにつれ、雲行きが怪しくなり、とうとう雪が降ってきました。

車窓からの眺めも、「雪原」的な感じに。

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そして記念館さん。積雪はメートル単位だったでしょう。

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ちなみに昨年12月の様子はこんな感じでした。

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こちらで、来年度の諸事業について、色々と打ち合わせ。詳細はのちほど、正式に発表になってからご紹介しますが、例年行っている5月15日(今年は火曜日です)の高村祭、その他に企画展示や市民講座等、いろいろと面白い企画が盛りだくさんです。

現在も今月26日(月)までの日程で、企002画展「高村光太郎 書の世界」が開催中でしたが、新幹線の時間もあり、2度目の拝観は叶わず。

同じ敷地内の、光太郎が7年間を暮らした山小屋(高村山荘)は、冬期閉鎖中。そこにたどり着くまでがやはりメートル単位の積雪で、近づけませんでした。

以前にも書きましたが、60歳を過ぎた光太郎、まったく、よくぞまあこんなところで、しかもたった一人、七度も冬を越したものだと思います。

しかし、この過酷な環境が、自らを見つめさせるよい契機になったのでしょう。はじめは無邪気にこの地に文化集落を作ると意気込んでいた光太郎も、自らの戦争責任をしっかりと捉え、真の意味でのヒューマニスティックな視点を得ました。それを光太郎自身は「脱郤(「郤」は「却」の正字)」と名付けました。

俗念や煩悩の塊である当方も、こうした暮らしを続ければ、「脱郤」に至れるのでしょうか(笑)。しかしとてもここで暮らすのは無理そうです。

――という過酷な環境を呈しているこの地、ぜひ、多くの方に、この時期に訪れていただきたいものです。

再び事務局長さんに送られ、新花巻駅から新幹線で帰りました。都内に入ったあたりからの車窓風景。

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関東地方の人間は、富士山を見るとほっとします。昭和27年(1952)、旧太田村の山小屋から帰京した光太郎は、どんな思いで富士山を眺めたろうか、などと思いました。

以上、東北レポートを終わります。


【折々のことば・光太郎】

われわれは気宇を大にして分秒を積んで切磋しなければならない。

散文「とびとびの感想」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

太平洋戦争に於ける日本の敗色が濃厚となってきた時期のもので、それ故の一種悲壮な決意といった感じです。

光太郎は、戦後の旧太田村での山小屋暮らしの中でも、そしてそこから帰京して取り組んだ最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作中も、ベクトルは違えど、こういうことを考え続けていたのではないかと思われます。

一昨日、上野の東京藝術大学美術館さんで開催中の「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」を拝見したあと、谷中を抜けて千駄木へと歩きました。

谷中は明治23年(1890)~同25年(1892)、光太郎一家が一時居住していました。父・光雲は同22年(1889)から東京美術学校に奉職、谷中に移ってから教授に昇格するとともに、帝室技芸員も拝命し、皇居前広場の楠木正成像の制作主任にもなりました。代表作の「老猿」も谷中で制作しました。

ところが光太郎が尊敬し、強く感化を受けていた6歳年上の姉・咲(さく)が16歳の若さで肺炎で亡くなり、失意の光雲は谷中の家に居たたまれず、千駄木への転居を決めました。

さて、不忍通りを渡って団子坂を上り、森鷗外の観潮楼跡を過ぎて、路地を右に入ります。少し歩くと、現在も続く髙村家。家督相続を放棄した光太郎に代わり、後に鋳金の人間国宝となった実弟の豊周が跡を継ぎました。豊周令孫の朋美さんが庭掃除をなさっていました(笑)。

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その手前が目的地・旧安田楠雄邸なのですが、安田邸は髙村家とは逆サイドに正面玄関があり、さらに路地をくねくねと進み、旧保健所通りに出て、少し戻ります。
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豊島園の創設者・藤田好三郎によって大正8年(1919)に建てられた邸宅を、安田財閥の安田善四郎が買い取り、その子、楠雄が住み続けました。

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こちらでは、水曜、土曜のみ「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」が開催中です。故・髙村規氏は豊周の子息、つまりは光太郎の令甥。写真家として活躍された方でした。

入り口で入場料700円也を納め、靴を脱いで上がります。ボランティアガイドの方が邸内や庭園の説明をして下さいました。

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こちらは平成8年(1996)に安田家から公益財団法人日本ナショナルトラストさんに寄贈されています。その後、邸内でさまざまな催しや展示に利用されており、その一環として「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」が開催中です。

在りし日の規氏。

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平成21年(2009)に開催された「第一弾」の折のものも。

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愛用のカメラや日用品。

2階にあがると、昔の千駄木の写真が。題して「規さんが生まれ育った千駄木林町」。このあたり、旧地名は本郷区駒込林町でした。レトロな建物や自動車、行き交う人々など、実に自然でいい感じでした。

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光雲、光太郎、そして智恵子の作品の写真は、邸内のあちこちに。

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21世紀の都心に居ることを忘れさせられるようなひとときでした。

今月29日までの水曜、土曜に公開されています。ぜひ足をお運びください。

続いて、安田邸を出て左、光太郎アトリエ跡地を通り過ぎ、動坂方面へ。

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動坂上交差点を右折、田端駅を目指しました。田端といえば文士村。芥川龍之介や萩原朔太郎、そして室生犀星等が住んでいました。犀星は、このルートを辿って光太郎アトリエを何度か訪れたはずです。大正初期、最初に訪れた頃は何度も智恵子に追い返されたそうですが(笑)。

田端駅から山手線で池袋へ。豊島区役所さんで開催中だった(昨日で終了)「2017アジア・パラアート-書-TOKYO国際交流展」会場へと足を向けました。そちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

おれは十年ぶりで粘土をいじる。 生きた女体を眼の前にして まばゆくてしようがない。 こいつに照応する造型の まばゆい機構をこねくるのが もつたいないおれの役目だ。

詩「お正月に」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

005翌年の『朝日新聞』元日号のために書かれた詩です。

「生きた女体」は、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため雇ったモデル・藤井照子。当時19歳でした。

プールヴーモデル紹介所に所属していたプロの美術モデルで、木内克の彫刻のモデルも務めていたとのこと。「乙女の像」の仕事のあと、結婚してモデルはやめたようで、結婚の報告のため光太郎を訪れたりもしていました。

以前にも書きましたが、まだご存命なら80代前半のはずで、消息をご存じの方はご教示いただければと存じます。

先日、十和田市に行った際、現地の方から、「東京の青果店に嫁いだらしい」という情報を聴いたのですが、詳細が不明です。

先週の金・土と、1泊2日で岩手花巻を訪れておりました。郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隣接する花巻高村光太郎記念館さんで、金曜から始まった「秋期企画展 智恵子の紙絵 智恵子抄の世界」を拝見し、さらにその前後、光太郎ゆかりの場所をいろいろと廻りました。

高村光太郎記念館さんの企画展で、光太郎が彼の地に暮らしていた頃よく利用していた花巻電鉄にスポットをあてた展示も視野に入れている、という話が以前にあり、それなら智恵子終焉の地・ゼームス坂病院を含む大井町近辺のジオラマを作成されたジオラマ作家の石井彰英氏に、ジオラマを作成していただいてはどうかと思いついて、氏と花巻の記念会さんに打診したところ、双方前向きなご返事。石井氏がぜひ現地のロケハンを、ということなので、ご案内した次第です。石井氏の息子さんも助手として同行されました。

石井氏、試作品をお持ちくださいました。

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右が花巻電鉄の車両、左の方は大八車やリヤカーです。

光太郎が暮らしていた頃の花巻町とその周辺を、畳一畳分くらいに再現、そこに廃線となった花巻電鉄を走らせるというコンセプト。そこで、光太郎ゆかりの建造物などが残っている場所をレンタカーで廻りました。

光太郎が暮らした太田地区にある「新農村地域定住交流会館・むらの家」。直接の関わりはありませんが、当時の農家建築の例として。

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光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)。

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花巻電鉄が二系統あったうちの片方の終点、市街北西部の花巻温泉。

元の駅の跡。

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線路跡はサイクリングロードとなり、それとわかるように残っています。右下は初代花巻電鉄社長・金田一国士の顕彰碑。光太郎の詩「金田一国士頌」が刻まれています。

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光太郎がたびたび泊まった旧松雲閣別館。

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宮沢賢治が設計した花壇。復元されたものですが、オリジナルは光太郎が眼にしているはずです。

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続いて、一山越えて、花巻電鉄のもう一方の系統が走っていた、花巻南温泉郷。


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右上の画像、三階の一番左の部屋に、光太郎が泊まりました。有名な深い岩風呂「白猿の湯」も堪能しています。

そして、その日の宿、大沢温泉さん。こちらも光太郎御用達です(笑)。当方もですが(笑)。

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翌日は、市街地方面へ。

光太郎が山小屋からの行き帰りによく使った二ツ堰駅跡。最寄り駅は神明駅でしたが、二ツ堰駅は単線の交換駅で、市街から二ツ堰駅止まりの列車もあり、主にここで乗降していました。ここから山小屋まで徒歩1時間強です。

向かい側には光太郎が立ち寄った遊坐商店の建物があります。


花巻駅西口近くの材木町公園。移築された旧花巻町役場と、静態保存されている花巻電鉄の車両。

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市街の鳥谷ヶ崎神社さん。光太郎は終戦の玉音放送をここで聴きました。

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光太郎が父・光雲や妻・智恵子、そして母・わかの法事をやってもらっていた松庵寺さん。今も毎年4月2日に花巻としての連翹忌法要を営んで下さっています。

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光太郎が碑文を揮毫した桜町の賢治詩碑。昨年の今頃、この碑の前でお話しをさせていただきました。今年も賢治祭に向け、周辺の草刈りなどが行われていました。

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すぐ近くの桜地人館さんにも立ち寄りました。

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やはり近くの佐藤隆房邸。旧太田村の山小屋に移る前、1ヶ月ほど光太郎が暮らしていました。

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最後に、元々は賢治詩碑のあった場所に建っていた、羅須地人協会。宮沢家の別荘だった建物です。現在は花巻空港近くの花巻農業高校さんに移築されています。当方、移築後、初めて訪れました。

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他にも光太郎ゆかりの地、足跡の残る場所はありますが、とりあえず代表的なところはこんなものかということで、駆け足で巡りました。

これらの場所が、石井氏の手によって、どのようなジオラマとなってゆくのか、非常に楽しみです。

花巻で、光太郎ゆかりの地を歩きたいという方、ご参考になさって下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本はすつかり変りました。 あなたの身ぶるひするほどいやがつてゐた あの傍若無人のがさつな階級が とにかく存在しないことになりました。

連作詩「暗愚小伝」中の「報告(智恵子に)」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

敗戦、そしてGHQによる統治が始まり、「傍若無人のがさつな」軍は解体されました。そして世界に誇る平和憲法の制定。しかし同じ詩の中で、それを「他力による変革」、「内からの爆発で」「自力で得たのでないことが」「恥しい」としています。

それをないがしろにし、いわんやなし崩しに改悪しようとする現在の「傍若無人のがさつな階級」の出現までも、光太郎は見こしていたのかもしれません。

7/29(土)、花巻郊外の台温泉に宿を取りました。

これまで花巻に宿泊する場合は、ともに光太郎が泊まったことがある花巻南温泉峡の大沢温泉さんか鉛温泉さん、あるいは駅前の商人宿が多く、台温泉は初めてでした。

台温泉は、花巻温泉の奥に位置し、室町時代に発見された古い温泉です。豊富な湯量を誇り、かつては川に流していた余剰の湯を、花巻温泉に回しています。こちらにも光太郎が宿泊しています。

光太郎日記によれば、昭和26年(1951)に2回、1泊ずつ泊まっています。2回目は、草野心平も一緒でした。宿泊は、今も残る松田屋旅館さんでした。

以下、日記から。

10月19日 金
晴、くもり、 花巻行、 十二時十三分のでゆく。花巻局より中央公論社へ選集三回分の原稿を速達書留小包で送る、ニツポンタイムスへ一年分の金を送る、 夜六時半公民館の賢治子供の会の劇を見る、 九時、タキシで台温泉松田屋旅館にゆき泊る、(略)

10月20日 土
台温泉の湯よろしけれど、遊客多く、さわがし。 雨となる、 九時半のバスにてかへる、(略)

12月7日 金
(略) そのうち草野心平氏来訪、 (略) ヰロリで暫時談話、 後洋服をあらためて一緒に出かけ、花巻伊藤屋にてにて四人でビール等、 草野氏と共にタキシで台温泉松田家(原)にゆき一泊、ビール等 <(あんま)>

12月8日 土
朝雨後晴、 昨夜妓のうたをきき二時にねる、 花巻温泉まで歩き、花巻より盛岡までタキシ(2000円)、よきドライブ。

というわけで、日記に依れば、この2回の宿泊が確認できます。ただ、昭和24・25年(1949・1950)の日記の大部分が失われているため、その間にも宿泊しているかもしれません。傍証は談話筆記「ここで浮かれ台で泊まる/花巻」(昭和31年=1956)。台温泉に関し、「湯がいいので私もたまに行く」という記述があります。2回では「たまに行く」とは言わないような気がします。

さて、松田屋旅館さん。

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宿の方にお訊きしたところ、戦後すぐくらいの建築だそうで、となると、光太郎が泊まったのもこの建物のようです。それを存じ上げなかったので、いっそう感慨深いものがありました。ただし、かなり改修、改装は入っているようですが。

いったいに台温泉自体が、レトロな街並みのひなびた温泉街、という感じで、非常に気に入りました。

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松田屋さんから少し上には、これもかなり古い中嶋旅館さんという旅館がありました。こちらも実にいい風情です。温泉街に付きものの温泉神社も鎮座ましましていました。

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下は松田屋さんの露天風呂。源泉掛け流しで、湯が出てくるところではほとんど熱湯です。熱めの温泉大好きの当方には嬉しいかぎりでした。

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ロビーには昔の絵図。これもお約束ですね。

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光太郎は先述の談話筆記「ここで浮かれ台で泊まる/花巻」で、このように書いています。心平も登場しますので、おそらく、昭和26年(1951)12月7日から8日未明にかけてのことでしょう。

 台温泉は花巻線の終点から一里ばかり奥になる。電車の発着ごとにバスが出ている。
 狭い所なのだが温泉宿が十軒以上も建並び、芸妓屋もうんとある。湯がいいので私もたまに行くが、夜っぴいて三味線を、ジャンジャンとやられるのには閉口する。その代り、えらく念入りのサービスだから、東京の人でもまず満足するだろう。熱海でこんなことが流行っているというと、逸早く真似をするという所である。山の懐ろだが、そういう点ではバカに先走っている。
 以前に草野心平と一緒に台を訪れたことがあるが、隣でさわぐ、階下じゃ唄う、向うで踊るという次第で、一晩中寝られない。そこでこっちも二人で飲み出した。二人の強いのを知って、帖場からお客なんか呑み倒しちまう、という屈強な女中が送り込まれたのに張合った。たちまち何十本と立ちならんだ。まったくいい気になって呑もうものなら、大変なことになるところだ。
  しかし、よくしたもので、それだけに宴会などをやらせれば、それは面白くやれる。一口に云えば、花巻で浮かれて、お泊まりは台さ、としけこむところである。

まさに「心の洗濯」をしていた姿が、ありありと浮かびます。

当方は、一泊して温泉を堪能、7/30(日)朝、こちらを後にしました。

麓の花巻温泉、昨年も行きましたが、通り道ということもあり、レンタカーを駐めて少し歩きました。

昭和25年(1950)に建立され、光太郎はその碑文である詩「金田一国士頌」を作り(揮毫は書家の太田孝太郎)、その除幕式にも参加している、花巻温泉株式会社の創業者、金田一国士を頌える碑。

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やはり光太郎が何度か泊まった、旧松雲閣別館。現在は使用されていません。

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松田屋さんも含め、こうした遺産、末永く保存していってもらいたいものです。


その後は一路、盛岡へと北上。続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

この男の貧はへんな貧だ。 有る時は第一等の料理をくらひ、 無い時は菜つ葉に芋粥。 取れる腕はありながらさつぱり取れず、 勉強すればするほど仕事はのび、 人はあきれて構ひつけない。 物を欲しいとも思はないが 物の方でも来るのをいやがる。

詩「へんな貧」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

それを「清貧」と人は呼ぶのですが、光太郎にはそういう自覚はなかったようです。むしろ、こうした生活が前年になくなった智恵子を追い詰めた、という悔恨の方が先に立っているような気がします。

昨日のロンドンに続き、パリです。テルミン奏者の大西ようこさんが、フランス南部のエクス=アン=プロヴァンス、そしてパリでコンサートをなさり、それならぜひ光太郎ゆかりの地にいらして、写真を撮ってきてくださいと事前にお願いしておきました。

そして、無事帰国されたとメールを頂きました。以下、現地の画像を大西さんのブログから転載させていただきます。


まずは光太郎が住んだ下宿。光太郎が満を持してパリに移り住んだのは、明治41年(1908)6月のことでした。パリではモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエに住みました。

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画像右上に「17番地」を表すプレートが写っていますね。同じ建物にはロダンと交友のあった詩人リルケが住み、ロダン本人もここを訪ねています。また、隣の通りにはロマン・ロランも住んでいました。

光太郎はアトリエに近いアカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエール(Académie de la Grande Chaumière)に籍を置きましたが、それ以外に語学の習得のため、日本語と仏語の交換教授をしていた「ノルトリンゲル女史」の手引きでフランス近代詩を教わったそうです。ヴェルレーヌやボードレールの詩作態度にうたれ、のちの詩作の原点がここにもあります。

ちなみにこの「ノルトリンゲル女史」に関して005は、従来、バーナード・リーチの紹介で知り合ったという程度しか分かっていませんでしたが、ジャポニズム学会所属桂木紫穂氏の調査により、『失われた時を求めて』で有名なマルセル・プルーストと親交のあった美術研究家・金属造形作家マリー・ノードリンガー(1876~1961)であることが判明しています。光太郎より7歳年上のマリーと光太郎、淡いロマンスもあったようです。

それ以外に、パリでの光太郎は、あちこち見物に歩いていました。帰国後の明治45年(1912)に発行された雑誌『旅行』に寄せた「曽遊紀念帖」という文章を数年前に見つけていたので、そのコピーを大西さんに渡しておきましたところ、そこに登場するほとんどの場所を廻って下さいました。

パンテオン(Panthéon de Paris)。18世紀後半にサント=ジュヌヴィエーヴ教会として建設され、後にアレクサンドル・デュマ、ヴィクトル・ユーゴー、ジャン=ジャック・ルソー、ヴォルテールらフランスの偉人たちを祀る霊廟となった建物です。かつてはここの前庭に、ロダンの「考える人」が設置されていました。現在はロダン美術館に移されています。光太郎が初めて見た「考える人」の実物でした。

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リュクサンブール公園内にあるメディシスの噴水(Fontaine de Medicis)。1624年の制作です。

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サンミツシエルの噴水。サンミッシェル通り(Saint-Michel)沿いはカルチェ・ラタン地区(Quartier Latin)と呼ばれている学生街。ソルボンヌ大学を中心に広がり、その昔、大学では ラテン語が使われていたことにより「ラテン語の地区」という意味に由来します。

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サント・シャペル教会 (Sainte chapelle)。「聖なる礼拝堂」という意味で、フランスのパリ中心部、シテ島にあるゴシック建築の教会堂です。

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オペラ座(Théâtre National de l'Opéra, Paris)。フランスを代表するオペラ劇場で、1669年設立の王立音楽アカデミーが起源。その後たびたび名称変更、移転を繰り返しました。現在の壮麗な大歌劇場は1875年、ガルニエの設計で完成、ガルニエ宮ともよばれています。

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「曽遊紀念帖」にはこんな記述も。

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この写真の場所は、つい最近気がつきましたが、昭和61年(1986)、第30回連翹忌が開催されたカフェ、クロズリー・デ・リラ(La Closerie des Lilas)でした。光太郎の下宿にも近く、画家のモネ、ルノワール、アングル、ピカソ、詩人のアポリネール、さらにはレーニンやトロツキーもここによく来たそうです。


大西さんのブログには、転用させていただいた以外にも、たくさんの画像と楽しいレポート。当方もますます行きたくなりました。さらに昨日ご紹介したロンドン、それからその前に光太郎が1年あまり居たニューヨーク、そして留学からの帰国直前の明治42年(1909)春に旅したスイスやイタリアの諸都市、ぜひとも廻ってみたいものです。いつのことになるやら……ですが(笑)。


【折々のことば・光太郎】

たつた一度何かを新しく見てください あなたの心に美がのりうつると あなたの眼は時間の裏空間の外をも見ます どんなに切なく辛(つら)く悲しい日にも この美はあなたの味方になります

詩「手紙に添へて」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

絶唱「レモン哀歌」をはじめ、後に光太郎詩文を数多く掲載してくれる、若い女性向けの雑誌『新女苑』への、確認できている限り初の寄稿です。暗い世相にも負けず、心に美を持つことの大切さを説いています。

最近、相次いで、訪欧された方々から、光太郎ゆかりの地の画像をいただきましたのでご紹介します。

まず、ロンドン。今年の連翹忌に初めてご参加下さった、千葉ご在住の安藤仁隆氏から。娘さんご夫婦がロンドンにお住まいだそうで、そちらに行かれた際に廻られたそうです。

光太郎は明治40年(1907)6月19日、1年あまりを過ごしたニューヨークを後に、大西洋を渡ってイギリスに向かいました。まだ航空旅客機は運用されてしておらず、利用したのはホワイトスターライン社の「「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)でした。ホワイトスターライン社は、この5年後に、かの有名な「タイタニック」を就航させます。「オーシャニック」は、そのタイタニックにつながる「スピードを犠牲にする一方、安定して快適な航海ができるような豪華大型客船」という画期的なコンセプトを初めて実現した船でした。クルーの何人かもかぶっています。

入港したサザンプトンからロンドンへ、ニューヨークで知り合い、先に渡英していた画家の白滝幾之助らの世話で、テムズ河畔パトニー地区の下宿に落ち着きます。

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安藤氏からいただいた(以下同じ)、テムズ川にかかるパトニー橋。

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その近くのカフェ。

光太郎が下宿していた建物が現存しているそうです。

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その後、移ったチェルシー地区の下宿。現在はインテリアのショールームになっているとのこと。ただ、往時のまま天井が高く、彫刻家のアトリエとしてうってつけだそうです。ここで白瀧幾之助と共同生活をしました。

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近くには、光太郎が学んだロンドン・スクール・オブ・アートの跡。3年前に廃校となり、今はマンションだそうです。ここで光太郎は、後に来日して陶芸家となるバーナード・リーチと知り合いました。

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ただ、当時のイギリスはパリと比べれば、芸術の先進性では遅れをとっており、スクール・オブ・アートではデッサンを学んだ程度で失望して退校、それなら英国人の文化や本当の生活を知ろうと、技芸学校ポリテクニックに移ります。それも現在はマンションに様変わりしているそうです。

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そして翌明治41年(1908)、留学の最終目的地と定めていたパリへと旅立ちます(もっとも、前年すでに下見を兼ねてパリにいた荻原守衛を訪ね、一緒にロダンのアトリエに行ったりもしていました)。ちなみにこの年、ロンドンでは第4回オリンピックが開催されました。現代とは異なり、半年もの会期でした。

後年の回想から。

 私はロンドンの一年間で真のアングロサクソンの魂に触れたやうに思つた。実に厚みのある、頼りになる、悠々とした、物に驚かず、あわてない人間のよさを眼のあたり見た。そしていかにも「西洋」であるものを感じとつた。これはアメリカに居た時にはまるで感じなかつた一つの深い文化の特質であつた。私はそれに馴れ、そしてよいと思つた。(『父との関係』 昭和29年=1954)

光太郎は保守的な一面も持っており、一面軽薄なアメリカ文明とは異なる、格式ある「英国」のライフスタイルは、敬愛すべきものだったようです。農商務省海外実業練習生の資格を得て義務づけられた報告書「英国ニ於ケル応用彫刻ニ就イテ」(明治41年=1908)などにも、それが読み取れます。この点、同じくロンドンに留学しながら、彼の地でこっぴどく人種的劣等感を植え付けられた夏目漱石との相違は興味深いところです。


明日は、フランスへ行かれていたテルミン奏者の大西ようこさんによるパリの光太郎ゆかりの地訪問の様子からご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

小人に詩無し ただあるは詩才のみ 君子に詩無し ただあるは明哲保身の言のみ 詩を培ふもの ただ聖と愚とあつて殆し

詩「詩について」 昭和12年(1937) 光太郎55歳

『論語』からのインスパイアですね。「小人」は『論語』のとおりの「小人」でしょう。しかし「君子」は真の意味の「君子」ではなく、アイロニーとしての「君子」でしょう。「誤解を招く表現であったなら撤回します」的な「明哲保身の言」をもてあそぶ、ある意味、賢い人々への痛烈な皮肉ですね。

真に詩をものするには、それらを突き抜けた神に近い「聖」までたどりつくか、それと真逆の「愚」に徹底するか、二者択一だ、というところでしょうか。晩年の光太郎はこの境地に至ったように思えますが、そうなるまでに、まだまだ長い苦闘、多大な犠牲が必要でした。

宮城県に行っておりましたが、2泊3日の行程を終えまして、先ほど、千葉の自宅兼事務所に帰って参りました。2日に分けてレポートいたします。

メインの目的は、昨日開催された朗読家・荒井真澄さんとテルミン奏者・大西ようこさんによるコンサート「朗読とテルミンで綴る智恵子抄」。当会も後援に名を連ねておりましたので。

宿泊は1泊目、同じ宮城県内の青根温泉湯元不忘閣さんに泊めていただきました。こちらは昭和8年(1933)、光太郎智恵子も1週間ばかり逗留した宿です。

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智恵子の心の病が完全に顕在化したのが、昭和6年(1931)。光太郎が新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を書くため、女川を含む三陸一帯を旅していた時のことです。翌年には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂。一命は取り留めましたが、どんどん症状は進行していきました。

そして翌8年、智恵子の故郷に近い東北や北関東の温泉巡りをすることで、少しは恢復するかと考えた光太郎は、智恵子を連れて旅に出ます。出発前の8月23日には、本郷区役所に婚姻届を提出。大正3年(1914)に結婚披露宴を行ってから、実に19年が経っていましたが、この間、2人は事実婚状態だったのです。以前にも書きましたが、フランスではそれが珍しくないそうで、光太郎が敬愛していたロダンとローズ・ブーレも、2人が亡くなる直前まで届けを出しませんでした。

さらに翌昭和9年(1934)には、光太郎の父・光雲が亡くなって、まとまった遺産が光太郎に入るのですが、その前に光太郎が先に逝ってしまえば(光太郎自身も結核の症状が既に出ていました)、智恵子には相続の権利が発生しません。そこらを考えての入籍だったのでしょう。しかし、智恵子にはもはやその意味を理解することもできなくなっていたようですが……。

東京を発った2人は、最初に智恵子の故郷・安達(現・二本松市)を訪れ、智恵子実家長沼家(既に破産して離散)の墓参などを行い、裏磐梯川上温泉に向かいました。そこで過ごした時の記憶を元に書かれたのが「――わたしもうぢき駄目になる」のリフレインで有名な「山麓の二人」(昭和13年=1938)です。

次に訪れたのが、青根温泉でした。戦後の昭和24年(1949)に、宮城在住の人物に送った葉書に以下の記述があります。青根に誘われたようで、その返答ですね。

青根温泉へのお誘ひ忝く存じました。 青根温泉へは小生も先年智恵子と一緒に一週間ばかり滞在したことがあります。あの正面の大きな宿でしたからたぶんその大佐藤といふ家だつたでせう。実にいい温泉だと思ひました。再遊もしたいけれどその頃にならないと都合が分りません。

「大佐藤」というのが、光太郎が泊まった当時の不忘閣さんの名称でした。青根でもっとも早く湯宿を開いて、江戸時代には仙台藩伊達氏の御殿湯として使われていました。当主は代々佐藤仁右衛門を名乗り、他にも佐藤姓の宿があったことから、区別するために「大」一文字をつけていたようです。

右は館内に展示されていた003古い看板。ちょっと見にくいのですが、「大佐藤」の文字が見て取れます。

「不忘閣」というのは、元々、お殿様のために使われていたメインの建物(現在は「青根御殿」と呼ばれています)の名前だったそうです。

その後、光太郎智恵子は、また福島県に戻り、9月2日には土湯温泉の奥にある不動湯から、智恵子の母・センにあてて葉書を送っています。

青根から土湯へまゐりました、土湯で一番静かな涼しい家に居ます。 もう二三日ここにゐるつもりでゐます。

ちなみに不動湯は平成25年(2013)に火災で焼失。現在は日帰り入浴施設として再開されています。当方、旅先の岡山でそのニュースを知り、驚くと同時に心を痛めました。そして最後に栃木の塩原温泉に逗留し、帰京しています。

さて、不忘閣さん。現在の宿泊棟は現代の建築ですが、それ以外に光太郎智恵子滞在時の建造物がまだ残っています。

こちらは本館で、明治40年(1907)の竣工。

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現在は、食事のための棟として使われています。

中庭は庭園。池には魚に混じってサンショウウオorイモリ。自然が豊かなのがわかります。

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そして青根御殿。こちらは最初、江戸時代に建てられましたが、やはり焼失、光太郎智恵子が訪れた前年の昭和7年(1932)に再建されたものだそうです。

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現在は資料館的な使われ方となっており、毎朝、女将の解説で、宿泊客対象に見学ツアーが開かれています。

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伊達家関連のお宝。

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ここを訪れた文人墨客関係。

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大正11年(1922)には、光太郎の師・与謝野夫妻も逗留していました。

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となると、与謝野夫妻からここの話を聞いたのかも知れません。

また、本館内にはこんな掲示も。

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「頭がよくなる温泉」とのことで、まさに精神を病んだ智恵子にうってつけ。この点まで含めて、与謝野夫妻が光太郎にここを紹介したとしたら、いい話ですね。

温泉は、本館内と、別棟の蔵の中にもありまして、それぞれ堪能させていただきました。

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近くには、作曲家の古賀政男の記念館も。代表曲の一つ「影を慕いて」作曲の契機がこの地での体験だそうで、建物は古賀とは無関係の、仙台から移築された元宣教師の住居だそうですが、レトロな洋風建築がいい感じでした。

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足湯もありました。

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続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

七月は今猛然とわれらを襲ふ。 莢隠元(アリコヴエル)、サラダ、トマト、コンコムブル。 質素な友の食卓を満艦飾する 精気と新鮮と分厚な現実。
詩「卓上の七月――素描風なる日常詩――」より
 昭和6年(1931) 光太郎49歳

シチュエーションとしては、友人の家族に招かれての会食のようです。野菜系が多く、健康的かつおしゃれっぽい感じですが、確かに質素かも知れません。しかし、この前に、それを補ってあまりある友人一家のほほえましい様子が描かれています。

不忘閣さんの食事、山間の宿らしく山菜などが多かったのですが、健康的でした。

光太郎の父・高村光雲に関わりそうな企画展示です。

台東区博物館ことはじめ

期 日 : 2017年6月16日(金)~9月20日(水)
時 間 : 月から土曜日まで 午前9時から午後8時まで
         日曜・祝日 午前9時から午後5時まで
            台東区西浅草3丁目25番16号 台東区生涯学習センター2階
料 金 : 無料
休館日 : 第3木曜日(祝日の場合は開館し直後の平日を休館)

 本企画展は、台東区発足70周年を記念して台東区の博物館をとりあげます。江戸時代の薬品会や物産会を源流とした博覧会の歴史、そして上野公園に誕生した黎明期の博物館の歴史をひもときます。
 あわせて台東区芸術文化財団が運営する一葉記念館、下町風俗資料館、朝倉彫塑館、書道博物館、旧東京音楽学校奏楽堂の写真を紹介します。

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関連行事 

トーク・イベント「台東区の博物館」 

日   時  平成29年7月8日(土曜日) 14時から16時まで
場   所  台東区生涯学習センター3階 301研修室
定   員  50名(応募多数の場合は抽選)
参加費  無料

1 「江戸の物産会から明治の博覧会へ」
   平野恵(台東区立中央図書館郷土・資料調査室専門員)
2 「台東区の博物館―朝倉彫塑館を中心に―」 戸張泰子(朝倉彫塑館研究員)

 申込方法
 (1)はがきによる申込
  往復はがき(一人一枚)に「トーク・イベント」と明記し、氏名・住所・電話番号を記入
  の上、以下の宛て先に
郵送してください。
  締め切りは、平成29年6月28日(水曜日)17時必着です。
  〒111-8621 台東区西浅草3丁目25番16号 台東区立中央図書館郷土担当  
 (2)電子申請による申込
  以下の電子申請フォームからお申し込みください。
  外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
  http://www.shinsei.elg-front.jp/tokyo/navi/procInfo.do?govCode=13106&acs=tosho
  申込期限は、平成29年6月28日(水曜日)17時です。
 

専門員によるギャラリー・トーク

 展示品の見どころを直接展示会場で解説します。
  日時 平成29年8月6日(日曜日)16時15分から17時まで
  場所 台東区立中央図書館2階 郷土・資料調査室
  
定員 先着20名
  申込 来館又は電話 03-5246-5911

専門員によるスライド・トーク

 展示品の見どころをスライドで解説します。
 日時 平成29年9月14日(木曜日)13時30分から14時まで
 場所 台東区生涯学習センター5階 504教育研修室
 定員 先着50名 申込 不要

もともと一介の仏師に過ぎず、しかも明治初めにはいわゆる廃仏毀釈のあおりで注文が激減、洋傘の柄や、陶器の灰皿の木型、はては縁起物の熊手まで作って糊口をしのいでいた光雲が、当代一流の彫刻家とみなされ、東京美術学校教授、帝室技芸員にまで上り詰める端緒となったのが、明治10年(1877)に開催された第一回内国勧業博覧会でした。光雲は師・高村東雲の代作で「白衣観音像」を制作し出品、みごと一等龍紋章を受賞して一躍有名になったのです。

第二回内国勧業博覧会は、同14年(1881)、光太郎の生まれる二年前です。この際にも光雲は「龍王像」を出品しました。第三回は同23年(1890年)。この回から光雲は審査員を拝命しています。ここまでの会場は、上野公園の特設会場。第四回(同28年=1895年)は京都、第五回(同36年=1903)が大阪での開催となり、それでその歴史の幕を閉じました。

いっぽう、明治15年(1882)、第二回内国勧業博覧会の会場として建てられた煉瓦造2階建の展示館をメインに、さかのぼる第一回内国勧業博覧会の会場だった建物も使い、東京国立博物館が誕生しました。組織自体はもっと前からあったのですが、実質的なスタートはこの年です。

003今回の企画展、このあたりに関わる展示が為されるようです。上記チラシ表面で使われているのは、第二回内国勧業博覧会の会場を描いた錦絵(右の画像)です。裏面にも別の錦絵が掲載されています。

その後も光雲が出品した種々の展覧会などで、上野を会場としたものが少なからずあったと思われます。

ついでにいうなら、光太郎の展覧会出品歴も、はじめの頃はすべて上野でした。

明治33年(1900)、彫塑会第一回展覧会が上野公園竹の台陳列館五号館で開かれ、塑像「観月」を出品。翌年には同展の第二回で東京美術学校校友会倶楽部が会場、出品作は石膏レリーフ「仙」「まぼろし」。さらに同35年(1902)で、東京美術学校を会場に、塑像「獅子吼」を出品した同校生徒成績品展覧会。そして欧米留学に出る前年の同38年(1905)には、第一回彫塑同窓会展。会場は上野公園竹の台陳列館五号館、出品作は「薄命児」と「解剖台上の紅葉山人」でした。

ただし、今回の企画展のコンセプトからすると、時代が少し下るようです。


ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

あいにくながら今は誰でも口に蓋する里のならひだ

詩「上州川古「さくさん」風景」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

過日ご紹介した「上州湯檜曾風景」と対を為す詩です。やはり上州山奥の、こちらは木酢工場を舞台とし、こき使われ、旅人=光太郎に人恋しさをつのらせる労働者をモチーフとしています。

前年には我が国初の普通選挙が実施されましたが、社会主義、共産主義、無政府主義の台頭に危機感を抱いた田中義一内閣は、治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行い、日本共産党、労働農民党などの関係者約1600人が検挙されました。いわゆる三・一五事件です。これに抗議する小説『一九二八年三月十五日』を書いた小林多喜二は、これにより特高警察の逆鱗に触れ、昭和8年(1933)、拷問の末、虐殺されました。

光太郎の周辺でも、光太郎を敬愛していた彫刻家・高田博厚が、共産党員をかくまったかどで警察に留置されたのも、昭和3年(1928)のことでした。昭和3年といえば、治安維持法違反の最高刑が死刑に改悪された年でもあります。この後の泥沼の15年戦争へと向かう一つの転換点だった、非常にきな臭い時期だったわけですね。

しかし、本当に恐ろしいのは、為政者や軍の暴走ではなく、それを容認していた多数の一般国民の存在です。現今の我が国の情勢と非常によく似ていますね。さまざまな疑惑の当事者は「口に蓋」し、勇気を持って上げた声は黙殺され、あまっさえ見せしめの人格攻撃。そしてあったことがなかったことになる……。

こういうことを書いていると「テロ等準備罪」でひっくくられる、そういう世の中になってしまうのでしょうか?

福島二本松の智恵子の生家。通常は立ち入り禁止となっている智恵子の居室を含む二階部分の期間限定公開が始まります。一昨年から始まり、観光シーズンの土日、祝日などに行われてきましたが、今回は霞ヶ城桜まつり開催期間に合わせての実施です。

二本松市さんのサイトから。

「智恵子の生家」二階を期間限定で公開します

明治初期に建てられ、清酒「001花霞」を醸造していた旧長沼家。智恵子を育んだ「生家」であり、通常は立ち入りが制限されているこの「生家」2階を下記期間中、特別公開いたします。
ぜひ、足を運びいただき、当時智恵子が暮らした旧長沼家の雰囲気をご堪能ください。
また、奇跡と言われる高村智恵子の「紙絵」の実物も、期間限定で展示しますので、併せてご覧ください。

公開日
霞ヶ城桜まつり開催期間中(4月8日~5月7日)の土曜日、日曜日、祝日(13日間)
※期間中無休

公開時間
午前の部 9時00分~12時00分  午後の部 13時00分~16時00分

入館料 一般 410円(360円) 小中学生 200円(150円) 
    ※( )内は、20人以上の団体料金。

来館者の方へのお願い
 建物内では、必ず係員の指示に従ってください。
 混雑状況により、入場を制限させていただくことがあります。
 明治期の建物のため、窮屈であったり急な箇所がありますので、十分にご注意ください。

問い合せ先 二本松市智恵子の生家・記念館 電話:0243-22-6151

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

ああ、冬の奴がおれを打つ、おれを打つ。 おれの面皮をはぐ。 おれの身を棄てさせる。 おれを粉粉にして雪でうづめる。 冬の奴は、それから立てといふ。  おれは、ようしと思ふ。

詩「冬の奴」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

季節外れですみません。以前にも書きましたが、このコーナー、『高村光太郎全集』から掲載順に言葉を拾っていますので、こうなります。

しかし、季節外れといえば、このブログを書いている今、千葉の自宅兼事務所周辺、粉雪まじりの霙(みぞれ)が降っています。

明日は第61回連翹忌。61年前の今日は、やはり東京で季節外れの雪でした。終生冬を愛した光太郎への、終生光太郎が追い求めた「自然」からの贈り物だったのかもしれません。

一昨日から昨日にかけ、福島浜通り相双地域に行っておりました。

当会の祖・草野心平を顕彰する川内村での「第6回天山・心平の会 かえる忌」、及びいわき市の草野心平生家での没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」出席のためでしたが、他にも足をのばして参りました。

まずは、圏央道、常磐道と乗り継ぎ、川内村へ行くには常磐富岡インターで下りますが、一つ先の浪江インターまで行って、南相馬市南部の小高地区を目指しました。

そのあたり、今年の7月になって、ようやく原発事故からの避難指示が解除された区域です。しかし、いまだにそれが解除されていない区域も近くにあります。

道々、目に映る光景はこんな感じでした。


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ナビの指示通りに行こうとすると、通行止めになっている箇所がまだありました。何でもない農村風景も広がっているのですが……。

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浪江町と南相馬市の境界あたりでは……

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一見、のどかな放牧風景に見えますが……

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何やらもめている気配ですね……。

さて、南相馬市小高区に入り、目的地に着きました。これです。

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昭和30年(1955)に建立された「開拓碑」。光太郎詩「開拓十周年」が刻まれています。筆跡は光太郎のものではありませんが。

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長い詩なので、三段にわたっています。

 開拓十周年
 005
 赤松のごぼう根がぐらぐらと
 まだ動きながらあちこち残つていても、
 見わたすかぎりはこの手がひらいた
 十年辛苦の耕地の海だ。
 
 今はもう天地根元造りの小屋はない。
 あそこにあるのはブロツク建築。
 サイロは高く絵のようだし、
 乳も出る、卵もとれる。
 ひようきんものの山羊も鳴き、
 馬こはもとよりわれらの仲間。
 
 こまかい事を思いだすと
 気の遠くなるような長い十年。
 だがまた、こんなに早く十年が
 とぶようにたつとも思わなかつた。
 はじめてここの立木へ斧を入れた時の
 あの悲壮な気持を昨日のように思いだす。

 歓迎されたり、疎外されたり、
 矛盾した取扱いになやみながら
 死ぬかと思い、自滅かと思い、
 また立ちあがり、かじりついて、
 借金を返したり、ふやしたり、006
 ともかくも、かくの通り今日も元気だ。
 
 開拓の精神にとりつかれると
 ただのもうけ仕事は出来なくなる。
 何があつても前進。
 一歩でも未墾の領地につきすすむ
 精神と物質との冒険。
 一生をかけ、二代、三代に望みをかけて
 開拓の鬼となるのがわれらの運命。
 食うものだけは自給したい。
 個人でも、国家でも、
 これなくして真の独立はない。
 そういう天地の理に立つのがわれらだ。
 開拓の危機はいくどでもくぐろう。
 開拓は決して死なん。
 
 開拓に花のさく時、
 開拓に富の蓄積される時、
 国の経済は奥ぶかくなる。
 国の最低線にあえて立つわれら、
 十周年という区切り目を痛感して
 ただ思うのは前方だ。
 足のふみしめるのは現在の地盤だ。
 静かに、つよく、おめずおくせず、
 この運命をおおらかに記念しよう。


碑が建てられた同じ昭和30年(1955)に岩手県盛岡市の県教育会館で行われた、岩手県開拓十周年記念大会に寄せたものです。詩を作ったのは、結核による死の半年前。かつて岩手の太田村で、自らも開拓にあたったり、開拓農民と親しく交わったりした経験を下敷きにしています。

雑誌等に掲載された記録が確認できていませんが、どうやら光太郎の詩稿を凸版印刷した一枚物が作成され、全国の開拓関係者に配布されたらしいことはわかっています。

それを読んで感動したのでしょうか、ここ小高区の金房開拓農業協同組合として、この碑を建立したというわけでしょう。中心人物が平田良衛という人物だったと判明しましたので、今後、光太郎との関わりなど、少し調べてみるつもりです。

それにしても、この地の現状と対比すると、胸が痛みます。


この碑、十数年前に見に行き、今回が2度目でした。海からは遠いので、津波の被害は心配ありませんでしたが、地震の揺れ自体で倒壊していたりしていないだろうかなどと思い、以前にも相馬方面に用があった際に、見に行こうと思ったのですが、前述の通り、今年の夏まで近づけませんでした。もしかすると、行けるだけは行けたのかも知れませんが、通行止めなどのオンパレードで断念しました。

正式に光太郎文学碑として建立されたものではありませんが、光太郎生前の数少ない(確認できている限りでは三基)詩碑の一つです。健在だったので安心しました。

ところが、周囲は前述のような状況です。避難指示が解除になったといっても、ほとんど人に会うこともなく、すれ違う車も除染作業などの関係ばかりでした。

しかし、この詩の精神を踏まえ、また再びこの地を新たに開拓していって欲しいものです。

昔のこの碑の写真と比べると、碑全体がきれいになっているように感じます。もしかすると、地元の皆さんがこの詩の精神を踏まえ……と考えて下さっているのかも知れません。


被災地がこういう状況でありながら、日本政府はインドへの原発輸出を可能にする原子力協定に調印しました。安全神話で作られたメルトダウンする原発、処理に何万年もかかる使用済み核燃料、いまだに故郷に帰れない多くの人々、事故が起きれば取り返しが付かない現実……あきれてものも言えません……。


明日は双葉郡川内村をレポートします。


【折々の歌と句・光太郎】

月黒く大河の上に人の血の流るる世なり魔神の世なり
明治33年(1900) 光太郎18歳

「魔神の世」と感じる福島南相馬でした。

智恵子の故郷・福島二本松で恒例となりつつあるイベントです。 

智恵子の生家二階限定公開

期  日 : 2016年10月,9,10,15,16,22,23,29,30       
           11月3,5,6,12,
13,19,20,23010
時  間 : 午前9時~12時 午後1時~4時
場  所 : 智恵子の生家  二本松市油井字漆原町36
料  金 : 一般410円 団体360円 小・中学生 200円
                     (智恵子記念館観覧料金を含む)

明治初期に建てられ、清酒「花霞」を醸造していた旧長沼家。智恵子を育んだ「生家」であり、通常は立ち入りが制限されているこの「生家」二階を期間限定で公開します。
座敷を通り、階段を上がると、智恵子が過ごした部屋が当時のまま保存されています。


この試みは昨年から始まり、今年もすでに4月、5月に実施されました。秋期間としての開催が、来週からです。

実施日は土・日・祝日。時間は午前と午後の3時間ずつ。昨年、初めて実施された時は案内の方が付いて、もっと短い時間での実施でしたが、今回は長時間解放する、という感じのようです。かえってその方がありがたいと思います。

霞ヶ城公園での菊人形期間に合わせての実施ということになりますが、菊人形は10/10(月)~11/23(水・祝)。こちらも例年智恵子人形が出ていますが、今年はどうなのでしょうか。初日に見に行く予定なので、その後にレポートします。


合わせて智恵子生家に隣接する智恵子記念館では、智恵子紙絵の実物展示も行われます。

智恵子の紙絵実物限定公開

期  日 : 2016年10月2日(日)~11月27日(日)
時  間 : 午前9時~午後4時30分
場  所 : 二本松市智恵子記念館  二本松市油井字漆原町36
料  金 : 一般410円 団体360円 小・中学生 200円     (智恵子生家観覧料金を含む)

こちらも例年行われていますが、今年は企画展「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」の一環としての実施です。下記は『広報にほんまつ』の来月号から。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

落日のはやさおぼゆる峠かな       明治34年(1901) 光太郎19歳

秋分を過ぎ、どんどん日が短くなっています。しかし、「暑さ寒さも彼岸まで」といいながら、ここ数日、関東は蒸し暑い日々です。まとまった雨が多かった先週より暑く感じます。

愛犬(老犬)との散歩中、その暑さに誘われたか、季節外れのクワガタムシを見つけました。

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愛犬(老犬)は興味を示しませんでしたが、家に持って帰ると愛猫(幼猫)の方は興味津々(笑)。

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この後、庭の桜の木に逃がしてやりました。

先週末から昨日にかけ、岩手花巻に行っておりました。土曜日に行われた高村光太郎記念館講座 「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」のバスツアー、翌日曜日の第59回高村祭といったオフィシャルな部分は昨日のこのブログでご紹介しました。

それ以外のプライベートな時間も活用し、花巻市内、あちこち回りましたので、本日はそちらをレポートします。

まず、夜行高速バスで花巻に着いた土曜の朝、ツアーの集合時刻まで時間がありましたので、市街北部の花巻北高校さんまで歩きました。

こちらには、彫刻家の高田博厚作の光太郎胸像があります。当方、20年ほど前にも見に来ました。

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同じ型から作ったものは、信州安曇野の豊科近代美術館さん、同じく信州塩尻の古田晃記念館さん、福井市美術館さんにも収蔵されています。そして埼玉県東松山市の「彫刻通り」では野外展示。こちらは光太郎の薫陶を受けた、同市元教育長の田口弘氏のお骨折りで設置されました。

花巻北高さんのものは、台座に光太郎詩「岩手の人」の一節が刻まれたプレートが嵌め込まれています。

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光太郎、今も若い世代へのエールを送り続けています。

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同校は光太郎との直接的な縁はないそうですが、昭和52年(1977)、光太郎精神に共鳴した卒業生保護者の皆さんにより、設置されました。

ちなみに昨日のこのブログでやはり高田博厚作の佐藤隆房像(右上)もご紹介しました。


続いて、バスツアー終了後、花巻高村光太郎記念会事務局の方のご案内で、「山の駅 昭和の学校」さんへ。こちらは廃校となった旧前田小学校さんの校舎を利用し、昭和のレトログッズを展示しているミュージアムです。花巻南温泉峡、大澤温泉さんと鉛温泉さんの中間ぐらいのところに、一昨年オープンしました。

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校舎内を昔の商店街に見立て、約5万点という膨大なレトログッズがところせましと並んでいます。

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左上はダイハツミゼット。一度、運転してみたいものです。その文房具店、右はカメラ屋さんの設定です。

当方、子どもの頃に普通に周囲にあったものばかりで、懐かしさに打たれました。

古本屋さんの設定のコーナーに、光太郎著書がありまして、光太郎関連はそんなものだろうと思っていましたが、さにあらず。帰りがけ、出入り口の壁にこんなものを見つけました。

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銅板を組み合わせて作った大きなプレートで「道程」が刻まれています。こちらは旧前田小学校さんのもので、ある年の卒業記念制作。おそらく児童ひとりひとりが作ったプレートをパッチワークのように繋げてあるのでしょう。

前田小学校さんと光太郎との関連もないようですが、やはり花巻北高さんと同じように、ある意味郷土の偉人の顕彰も兼ねる、というわけですね。


さらに日曜日、高村山荘敷地内での高村祭終了後、花巻温泉に行きました。入浴はせず、あくまで調査です(笑)。

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当方の泊まっていた大澤温泉さんを含む花巻南温泉峡とは山一つ隔てたところにあります。ここは温泉宿を中心とした一大レジャーランドとして、大正12年(1923)に開業した、比較的新しい温泉地です。湯は湯量がやけに多く、無駄にしていた近くの台温泉から引き、花巻電鉄花巻線(鉄道線)が町中心部から延引されました。下は廃線となった花巻電鉄の駅の跡です。

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十万坪の敷地全体を花巻温泉株式会社として経営、スキー場、遊戯場、プール、ゴルフコース、テニスコート、動物園、植物園、貸別荘、傷病軍人療養所など、さまざまな施設が作られました。経営には賢治の一族も関係し、賢治が設計した花壇も作られました。入場無料のバラ園があり、その中に花壇跡の碑、賢治詩碑、復元された花壇がありました。桜並木も賢治の土壌改良技術によって可能となったそうです。ちなみに今年は賢治生誕120年です。

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大澤温泉さんと並び、光太郎はこの花巻温泉にも繁く宿泊しています。光太郎の記録に残っている旅館は、松雲閣、およびその別館、紅葉館(まだ健在。しかし、建物は近代的になっています)という旅館です。格としては松雲閣別館が最も高かったようで、光太郎の談話筆記には以下の記述が見られます。「一番奥にある松雲閣というのが一番大きく、ちょっと高いところにある別館が一番の高級で、皇族だの、大尽様などがお泊まりになる。私なども、そこへ入れられてしまうが、さすがに建築は立派である」。

昭和27年(1952)には、NHKラジオ「朝の訪問」のための、詩人の真壁仁との対談をここ松雲閣別館で録音した他、日記が失われているため詳細は不明ですが、前年の『朝日新聞』岩手版に載った岩手県知事国分謙吉との対談も、ここで行われたと推定できます。

こちらが往時の松雲閣別館。古絵葉書です。

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松雲閣自体は老朽化のため営業を終えましたが、この建物はまだ残っているらしいと知り、探しに行きました。はたして、残っていました。

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ただし、公開はされて居らず、バラ園、そして道路から外観が見えるにとどまります。柵があって近づけません。

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総欅造り、釘を一本も使っていないそうです。


また、昭和25年(1950)には、花巻温泉株式会社の創業者、金田一国士を頌える碑が建立され、光太郎はその碑文である詩「金田一国士頌」を作り(揮毫は書家の太田孝太郎)、その除幕式にも参加しています。光太郎生前の数少ない詩碑の一つです。

この詩碑も20年ぶりに拝見。松雲閣別館のすぐ近くです。

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こちらは除幕式の写真。中央やや左に光太郎。ガタイがやけにいいのですぐわかります(笑)。

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左上に写っているのが除幕された碑です。

以前にも書きましたが、この碑は、花巻農学校跡(現在のぎんどろ公園)に建てられた賢治の「早春」詩碑と、どうやら同じ石材から切り出されたものらしいとのことです。こちらも同じ昭和25年(1950)の建立で、光太郎は詩の選択に関わり、除幕式にも参加しています。

詳しくはこちら


最後に、泊めていただいた大澤温泉さん。

山水閣さん、菊水館さんは、ここ数年で何度か利用しましたが、今回は湯治屋さん(自炊部)に泊まりました。こちらは学生時代以来、30年ぶりです。

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豪華ホテルに慣れている方には絶対にお勧めできません(笑)。「普通の旅館と同じだろう?」という方も、甘いですね(笑)。なにしろ、部屋のカギは存在しません。浴衣もコタツも有料です。隣の声は筒抜け、廊下や階上(当方の部屋は一階でした)を他の人が歩く音が響き渡ります。食事は館内の食堂で摂るか、自炊(共同調理場があります)、もしくは売店でパンやカップ麺など。しかし、風情は大ありです。料金も激安です。

当方、2泊の間、夕食は食堂で、朝食は売店で買ったパンでした。音対策(それが必要だとわかっていたので)は携帯音楽プレーヤー。ヘッドホンでヒーリング系の音楽を聴きながら眠りました。たまにはこういう経験もいいものです(笑)。何より温泉はすばらしいので、2泊の間に8回入ってきました。

以上、花巻レポートを終わります。


【折々の歌と句・光太郎】

白花のリラのさし花さきたわみ石のはだかの肩に触りたり
大正15年(1926) 光太郎44歳

大澤温泉さん、リラ(ライラック)ならぬ遅咲きの桜がまだ咲いていました。澄んだ空には飛行機雲。

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先ほど、2泊4日の行程を終え(夜行高速バスで行きましたので、1泊少ないのです)、岩手花巻より帰って参りました。

本日は、オフィシャルな部分での花巻レポートです。

5/14(土)、花巻市主催の市民講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」が開催され、それに帯同しました。

地元紙2紙の報道から 

光太郎の足跡たどる 花巻で没後60周年ツアー

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の没後60周年を記念したツアー「高村光太郎の足跡を訪ねる-花巻のくらし」は14日、花巻市内で開かれた。戦禍を逃れて花巻に疎開した際に身を寄せた同市桜町の「二岳荘(にがくそう)」が特別公開され、市民ら約20人が光太郎ゆかりの地を巡った。
 高村光太郎記念館講座として企画。光太郎は、花巻共立病院(現総合花巻病院)元院長の故・佐藤隆房さんの招きで佐藤家の二岳荘に滞在。離れの2階にある4畳半ずつの2部屋で過ごしたといわれ、当時使っていた火鉢や妻智恵子が創作した紙絵などが残されている。
 参加者は「タイムスリップしたみたい」「光太郎さんがここで過ごしたんですね」と大喜び。ボランティアガイドの説明を聞きながら広大な庭園を散策し、当時の生活に思いをはせた。
 ツアーでは光太郎が揮毫(きごう)した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑や同記念館なども見学。同市葛の葛巻秀子さん(65)は「こんなに立派なお屋敷があるとは知らなかった。1928(昭和3)年に建てられたのにモダンな印象。また訪れたい」と雰囲気を楽しんだ。
(2016/05/15 『岩手日報』) 

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細かい話ですが、キャプションに2箇所、誤りがあります。上の写真、こちらに飾られている智恵子の紙絵は複製で、本物は花巻高村光太郎記念館に展示中です。それから下の写真、「光太郎が過ごしたとされる」というあいまいなものではなく、はっきり「光太郎が過ごした」です。 

目と食で〝先生〟思う 高村光太郎没後60周年 足跡巡る記念館講座

 花巻市の高村光太郎没後60周年事業として、高村光太郎記念館講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし」が14日、市内で催された。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)ゆかりの深い地を巡り、東京から花巻に疎開して以来7年に及ぶ思索と農耕自炊の日々を送った偉人に思いをはせた。
 定員いっぱいの市民20人が参加。まなび学園を発着点にバスで移動し、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑前で光太郎や賢治らに関する資料や作品を展示している桜地人館を見学後、佐藤家の二岳荘と庭園へ。上太田山関振興会館で昼食を取り、高村山荘と記念館を訪れた。
 このうち、光太郎が東京から花巻に疎開した際、花巻共立病院長で交流のあった佐藤隆房(1890~1981年)の招きで身を寄せた部屋が残されている二岳荘は、今回特別に公開された。
 部屋には光太郎が滞在した当時の様子を紹介する写真パネルが展示され、庭園では植栽や茶室「潺湲亭(せんかんてい)」などが散策でき、抹茶の振る舞いも行われた。
 昼食では、光太郎が記した食事のメモを基に太田山口地区の食生活改善推進員協議会が調理した「そば粉パン」、光太郎が「シュークルート」と呼んだ野菜の酢漬けなどが並んだ。同協議会員で記念館職員の新渕和子さん(64)が「そば粉と重曹、みそ、水を混ぜてフライパンで焼くだけで簡単にできる。光太郎先生はバターをつけ、黒蜜を塗って食べたらしい」と紹介。参加者は自分でも作ってみようと手帳に書き留めたり、食べ方をまねたりして味わった。
 締めくくりは、光太郎が暮らした山荘と、2015年4月にリニューアルオープンした記念館の見学。参加者は「冬の山荘は相当寒かったろうに」「地域の人には、かなり慕われていたんだろう」などと当時の暮らしぶりに思いを巡らせていた。
 同市若葉町から夫婦で訪れた男性(72)は「こういう時じゃないと自分たちだけでは見られない場所があったので参加した。佐藤家は敷地の広さ、古い住宅の良さ、設備に驚いた。そば粉パンは思っていたよりおいしかった」と話していた。
(2016/05/15 『岩手日日』)

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上の写真には、当方が写っています(笑)。

記事をお読みいただければ、概要はつかめますね。

下記は帯同しながら撮った写真です。

賢治詩碑。昭和11年(1936)、光太郎が揮毫。さらに当初あった誤字脱字を昭和21年(1946)に訂正しています。

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新緑がきれいでした。

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詩碑近くの桜地人館。光太郎や賢治関連の貴重な資料が展示されています。大半は佐藤隆房が贈られたものです。昔は「佐藤郷志館」という名前でした。
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その庭に立つ佐藤隆房像。光太郎と親しかった高田博厚の作です。

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佐藤隆房邸。詩碑や桜地人館さんからそう遠くありません。ここの離れに光太郎が昭和20年(1945)、1ヶ月滞在しました。その後も太田村から花巻町に出て来た時の拠点にしていました。

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広大な庭。

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咲き誇る牡丹。

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右上は、賢治が取り寄せたという薔薇。ただし、こちらはまだ咲いていませんでした。


この後、旧太田村に移動。昼食をいただきました。

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記事にあるそば粉パンとシュークルートです。

光太郎が暮らした山小屋・高村山荘および高村光太郎記念館。

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この後、一般参加者の皆さんは、バスで市街へ戻り、解散。当方はこちらに残り、事務的打ち合わせ等々。


翌日は、第59回高村祭。明日以降もブログに書くべきネタがてんこ盛りですので、一気にこちらもご紹介してしまいます。

やはり地元紙の報道から。

没後60年、光太郎の情熱しのぶ 花巻で高村祭

 花巻市で晩年を過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する第59回高村祭は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で開かれ、市民ら約300人が青空の下、合唱や朗読で没後60年を迎えた先人をしのんだ。
 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)などが主催。佐藤会長は「先生は情熱の詩人で戦時中は士気を鼓舞する作品も発表したが、山荘暮らしの7年間は戦争への反省を重ねた。皆さんも当時をしのんでほしい」とあいさつした。
 太田小、西南中、花巻高等看護専門学校の児童生徒が合唱し、詩の朗読では及川波月(はづき)さん(花巻農高3年)が「レモン哀歌」、藤原詳さん(同2年)が「当然事」、花巻高等看護専門学校1年の石川泰(たい)さんが「非常の時」を読み上げた。
 及川さんと藤原さんは「純粋な思いが伝わるように朗読を心がけた」「自然豊かな高村山荘で朗読する貴重な機会をもらった」と語り光太郎に思いをはせた。
(2016/05/16 『岩手日報』)

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”先生”の教え次代が引き継ぐ 高村祭

 花巻高村光太郎記念会と高村記念会山口支部が主催する「第59回高村祭」は15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で行われた。彫刻家で詩人の高村光太郎が、1945年に東京から花巻に疎開してきた日に合わせて毎年実施。詩碑に刻まれた「雪白く積めり」を会場全体で朗読し、古里ゆかりの偉人をしのんだ。
 地元小中学生らが合唱などを披露。いずれも光太郎作の「レモン哀歌」を及川波月さん(花巻農高3年)、「当然事」を藤原詳君(同2年)、「非常の時」を石川泰君(花巻高等看護専門学校1年)が朗読し、光太郎の偉業に思いをはせた。
 2016年は光太郎没後60年、光太郎の妻・智恵子生誕130年の節目の年。特別講演では、祖母の金谷ふゆさんが光太郎のいとこだった盛岡市の加藤千晴さんが「高村光太郎と金谷一族について」と題し、エピソードを披露した。
 同日は約600人が参加。鎌田志栞さん(西南中1年)は「光太郎先生の詩からは自然の豊かさを感じる。太田の風景とも重なるところがあり落ち着く」と話していた。

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以下、やはり当方が撮りました。

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今朝のNHKさんのローカルニュース。

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永続的に続けていっていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

春雨や南へいそぐ旅烏       明治42年(1909) 光太郎27歳 

旅ガラスの当方、このブログを書くために急いで帰って参りました(笑)。

花巻市の広報紙『広報はなまき』の記事です。 

高村光太郎記念館講座 「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」

疎開のため花巻に身を寄せた光太郎が滞在した佐藤隆房邸や高村光太郎記念館、高村山荘など、ゆかりの地を巡ります。

【対象】 市内に在住または勤務する方
【日時】 5月14日(土)、午前9時30分~午後3時
【集合場所】 まなび学園
【定員】 20人(抽選)
【受講料】 無料
【申込期限】 5月2日(月)
【問い合わせ・申し込み】 生涯学習課(緯内線418)


翌日には光太郎が7年間を過ごした郊外旧太田村(現・花巻市太田)の山小屋=高村山荘で、第59回高村祭が行われます。こちらはまだ詳細な情報が出ていません。

それとセットで行おう、ということで、メインは佐藤隆房医師邸の公開です。

こちらにある離れは、光太郎が旧太田村の山荘に移るまでの1ヶ月あまりを過ごした場所です。「潺湲楼(せんかんろう)」と命名し、太田村移住後も、花巻町に出て来た時にはここを拠点にすることがたびたびありました。

こちらは光太郎が居た当時の室内。智恵子の紙絵、それから佐藤医師に請われて書いた「彧彧」(「いくいく」または「えきえき」)の書などが写っています(ともに現在は花巻高村光太郎記念館所蔵)。

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下記は現在の様子です。

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昨年暮れに花巻を訪れた際、この計画を聞き、急遽、下見のため中に入れていただきました。

14日当日は、当方も参上します。ただ、今年初めてこういう試みをやるということで、対象はあまり広げずに花巻市内在住及び勤務の方となっています。今後、広く参加を募ったり、他の日程で団体さんの視察等を受け入れたりすることも視野には入れているようですが。

花巻というと、どうしても花巻出身の宮澤賢治の方がメインですが、光太郎が行った賢治のプロデュースの功績も、もっと光が当たってほしいものです。

実は当方、秋にはそのあたりの内容を、花巻で講演いたします。詳細はまた近くなりましたら。


【折々の歌と句・光太郎】

よからずや垣根にちさき名なし草世にさびしきも花の色なり
明治35年(1902) 光太郎20歳

自宅兼事務所の垣根にはこんな花が咲いています。名前が分かりません。

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智恵子の故郷・二本松市で、昨日発行の「広報にほんまつ」3月号に以下の記事が載りました。 

〜新日本歩く道紀行百選「ふるさとの道部門」で認定〜ほんとの空が広がる道

新日本歩く道紀行百選選考委員会が選定している「新日本歩く道紀行百選ふるさとの道」に、二本松駅から霞ヶ城公園まで続く約12キロのコースが認定されました。
ふるさとの道百選には、東北からは7件、福島県からは2件が認定されました。
これから暖かい季節がやってきます。ぜひウォーキングコースとしてご利用ください。
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智恵子生家の裏手、智恵子はもちろん、ここを訪れた光太郎も智恵子とともに歩いたという「智恵子の杜公園」が含まれています。

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新日本歩く道紀行百選」は、道の活用により地域の活力創出を目指す自治体や団体、 企業、個人から広くエントリーを受け付け、同選考委員会の選で決定しています。昨秋には第1期493コースが決定、そこに二本松市の「ほんとの空が広がる道」も選ばれたというわけです。

エントリーはまだ受付中。最終的には10のテーマで100ずつ、計1,000コースの認定を目指しているようです。

また、ウオーキング愛好家の「歩きんぐくらぶ」さんという団体も結成され、この「新日本歩く道紀行100選シリーズ」を通年で歩く企画が用意されています。

さらにBS-TBSさんがこの企画に賛同、「新・日本歩く道紀行」という番組がスタートしました。先月は当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市を含む千葉・茨城の水郷地帯を4回連続で取り上げて下さいました。いずれ「ほんとの空が広がる道」も取り上げていただきたいものです。

テレビ、といえば、過日のこのブログでご紹介した「15分でにっぽん百名山 安達太良山」、残念ながら「智恵子抄」がらみの部分はカットされていました。残念に思っておりましたところ、なんと「15分で……」ではなくオリジナルの「にっぽん百名山」の方の安達太良山の回が再放送されます。  

にっぽん百名山「安達太良山」

NHKBSプレミアム 2016年3月7日(月) 19時30分~20時00分 
                                再放送 3月13日(日) 6時30分~7時00分

福島の安達太良山(1700m)、荒々しい火山と、みちのくの穏やかな自然を体感する山旅。登山口の野地温泉からブナなど広葉樹の紅葉に彩られた登山道を抜け、森林限界の低い偽高山帯と呼ばれる見晴らしの良いりょう線へ。最高峰の箕輪山(1728m)を経て、温泉のある山小屋で一泊、翌朝、空に突き出た山頂の姿から乳首山とも呼ばれる安達太良山の山頂をめざす。智恵子抄のエピソードや登山家の田部井淳子氏の誕生秘話も紹介。

出演 林千明   語り 山崎岳彦,吉川未来

こちらではばっちり光太郎智恵子が取り上げられますので、ぜひご覧下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

底の岩底の砂利より走せのぼるあぶくは肌につきて離れず
大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日に引き続き、温泉を謳った短歌です。炭酸系の温泉でしょうか。

智恵子の故郷・福島県二本松市からの情報です。

二本松市さんのサイトから。 

「智恵子の生家」二階を期間限定で公開します

明治初期に建てられ、清酒「花霞」を醸造していた旧長沼家。智恵子を育んだ「生家」であり、通常は立ち入りが制限されているこの「生家」二階を期間限定で公開します。
座敷を通り、階段を上がると、智恵子が過ごした部屋が当時のまま保存されています。

この機会に是非ご覧ください。

冬季期間(平成28年2月)  2月の土曜日、日曜日、祝日

公開時間  午前の部 11時00分~12時30分  午後の部 13時30分~15時00分
入館料金  
一般410円 ※20名以上の団体は360円 子ども(小・中学生)200円
                    ※20名以上の団体は150円

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昨年のふくしまデスティネーションキャンペーンにともない、6月に公開を始め、その後、夏休み期間の7・8月、菊人形期間の10・11月にも公開が行われました。

当方は菊人形期間の10月に行って参りました。その際のレポートがこちら

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二階だけでなく、一階部分も歩けます(通常は一階部分、外から見るだけです)。

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智恵子やその血縁者の息吹が感じられます。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

横町の狗まで地図にかいてなし     明治38年(1905) 光太郎23歳

五七五の形をとっていますが、季語はなく、俳句と言うより川柳です。「狗」は犬です。

小説家・山岸荷葉にあてて書かれた絵葉書にしたためられました。犬に驚いて倒れている自転車に乗った男の絵が描かれていますが、光太郎が描いたものではなく、既製品のようです。

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昨日は、銚子の犬吠埼に行って参りました(生活圏内なので、時折行くのですが)。

第一目的地は、「スパ&リゾート犬吠埼太陽の里」。宿泊施設もありますが、泊まりではなく「日帰りスパ一望の湯」に浸かってきました。

単に寒いから温泉、というのもあるのですが、一昨夜、真夜中に犬の散歩をするはめになり、結果、風呂に入るタイミングを失してコタツで寝てしまい、さっぱりしたかったというわけです。割引券もありましたし。

犬吠埼太陽の里さんは、大正元年(1912)、光太郎と智恵子が愛を誓った暁鶏館(現・ぎょうけい館)にほど近いところにあります。元は、伏見宮貞愛親王別邸だったところに建てられたもので、平成22年(2010)に開業しました。

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ペッパーくんがお出迎え。従業員だそうです。

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ゆっくり温泉を堪能し、その後、灯台方面に向かいました。

大正元年(1912)、まず数え30歳の光太郎が油絵を描くために犬吠埼にやってきます。宿泊したのは暁鶏館。すると、それを追って数え27歳の智恵子も犬吠埼に現れます。最初は日本女子大学校時代からの友人・藤井勇(ゆう)、妹のセキと3人で、御風館という宿に泊まっていました。その後、藤井とセキは先に帰り、智恵子は光太郎の泊まっていた暁鶏館に移ります。

二人が結婚の約束をしたのは、翌年の上高地旅行の際だと光太郎は書き残していますが、この時点で、二人は共に生きていくことを決意したと考えられます。

犬吠埼行きに先立って、光太郎は次の詩を書きました。

N――女史に
003
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
あなたがお嫁にゆくなんて
花よりさきに実(み)のなるやうな
種(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな、そんな理屈に合はない不自然を
どうかしないで居てください
 002
私の芸術を見て下すつた方
芸術の悩みを味つた方
それ故、芸術の価値を知りぬいて居る方

それ故、人間の奥底の見える方
そのあなたが、そのあなたが
――ああ、土用にも雪が降りますね――
お嫁にもうぢき行く相な
 
型のやうな旦那さまと001
まるい字を書くそのあなたと
かう考へてさへ
なぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな

あなたがお嫁にゆくなんて
 

いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
004
なぜさう容易(たやす)く
さあ何と言ひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
さうです、さうです
あなたは其の身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして、男に負けて子を孕んで
あの醜(みにく)い猿の児を生んで

乳をのませて
おしめを干して
ああ、何という醜悪事でせう
あなたがお嫁にゆくなんて
まるで さう
チシアンの画いた画が
鶴巻町へ買喰ひに出るのです
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
私は淋しい、かなしい
何といふ気はないけれど
恰度あなたの下すつた
あのグロキシニアの
大きな花の腐つてゆくのを見るやうな
私を棄てて腐つて行くのを見るやうな
空を旅してゆく鳥の
ゆくゑをじつと見てゐる様な
005
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない、淋しい、焼けつく様な
それでも恋とはちがひます
――そんな怖(こは)いものぢやない――
サンタマリア!
あの恐ろしい悪魔から私をお護り下さい
ちがひます、ちがひます
何がどうとは素より知らねど
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
006
おまけに
お嫁にゆくなんて
人の男の心のままになるなんて
 
外にはしんしんと雨がふる
男には女の肌を欲しがらせ
女には男こひしくならせるやうな
あの雨が――あをく、くらく、
私を困らせる雨が――


おそらく智恵子は、光太郎を追って犬吠に来る前、この詩を読んだのだと推測されます。


ところで、最初に智恵子が泊まった御風館という宿。こちらは既に残っていません。少し前に、それがあった場所が判明しましたので、行ってみました。灯台の南西、数百㍍の、犬吠埼に行った際には必ず通る道沿いでしたが、そこに御風館があったというのは、少し前まで存じませんでした。

ちなみにこちらは昔の絵葉書です。

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現在は更地と藪になっています。

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一角には廃屋もあり、もしかすると廃業直前の御風館の建物かも知れません。なんとなくそれっぽい作りでした。

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104年前の光太郎智恵子に思いを馳せながら、帰途に就きました。


それにしても銚子は温暖でした。沿道では農家の方々が春キャベツの収穫真っ最中。

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銚子、そして隣の東庄町、さらに隣接する当方の住む香取市では、この時期、イチゴ狩りの最盛期です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

夢はみなはかなきものとさもあらむ恋の組絲われ解くと見し
明治34年(1901) 光太郎19歳

智恵子と出会う10年前の作です。与謝野夫妻の新詩社で歌作に励んでいましたが、この時期の恋の歌はどうも架空の恋を謳ったものと思われます。

10年後には智恵子と出会い、こうした気持ちが実感できたのではないでしょうか。

先週土・日の東北行、最終目的地の佐藤邸編です。

一昨日も書きましたが、光太郎は昭和20年(1945)の9月10日~10月17日の一ヶ月余り、花巻桜町の佐藤邸離れで暮らしました。元々昭和20年(1945)に、東京を焼け出されて宮澤賢治の実家に疎開してきたものの、再び空襲の被害に遭ってのことです。当時の当主で賢治の主治医だった佐藤隆房は、光太郎を花巻に招いた張本人の一人でした。

現在も隆房の子息・進氏(花巻高村記念会理事長)夫妻がお住まいですが、ここを来年5月14日(土)、一般公開するということで、その下見。以前から奥様には「機会があったらお寄り下さい」とおっしゃっていただいておりました。

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こちらが元の母屋の正面玄関。昭和初期の建築だそうです。現在は新たに母屋を造られ、そちらで主に生活されているとのこと。とにかく敷地が広大なので、それも可能なのでしょう。

裏手に2階建ての離れがあり、光太郎はこの2階を借りて住んでいました。当方、20年以上前に敷地外から望見したことがありますが、間近で拝見、ましてや内部に入れていただくのは初めてでした。

屋外をぐるりと一周するとこんな感じです。

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すぐ近くを豊沢川が流れ、当時はせせらぎの音がよく聞こえたそうです。そこで、光太郎はこの建物を「潺湲楼(せんかんろう)」と命名しました。「潺湲(せんかん)」とは、水がさらさらと流れるさまです。

さて、いよいよ内部へ。

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正面玄関から入り、渡り廊下的な処を通って離れへ。さらに狭い階段を上がります。すると、四畳半が二間。両側が大きな窓のある廊下になっているのと、ごちゃごちゃ物が置いていないのとで、広く感じられます。

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座卓も当時のもの。それから押し入れには光太郎が使っていたという火鉢もありました。

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下記はここで暮らしていた時か、後に太田村に移ってからのものかよく分かりませんが、この部屋での光太郎です。

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窓からの眺め。

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北側に豊沢川。

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南は母屋の屋根。日当たりも良さそうです。

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このような快適な環境での暮らしを棄て、光太郎は7年間の山小屋暮らしに入ります。他人の家に厄介になるという気苦労は確かにあったでしょうが、ここで暮らし続けていれば、何不自由ない生活だったのに、です。そこに光太郎という人間の生きざまが端的に表されているような気がしました。


その後、母屋の洋間でお茶を戴きました。昔の映画にでも出て来そうなお部屋です。

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ここで撮られた光太郎の写真もあります。左が佐藤隆房です。

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窓外には百日紅の大木。花をつけるとさぞ見事でしょう。

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さらに辞去する前にはお庭も案内して下さいました。こちらは昭和初期、賢治が取り寄せたというバラの子孫。よくぞ残っているものだと感心しました。

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最初に書きましたが、こちらを来年5月14日(土)、一般公開するそうです。詳細が決まりましたらまたお知らせいたします。


というわけで、秋田横手から始まった全ての行程を終え、帰途に就きました。一昨日ご紹介した光太郎も訪れた伊藤屋さん、昨日レポートした光太郎がらみの二つのお寺、そして佐藤邸潺湲楼など、思いがけず訪問することが出来、非常にありがたい限りでした。花巻高村光太郎記念会・高橋事務局長、佐藤様に改めて御礼申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月17日

昭和15年(1940)の今日、大政翼賛会本部で開催された臨時中央協力会議で「芸術政策の中心」「国宝、特別保護建築物の防空施設」などについて提案、発言をしました。

下記は会議を前に語った光太郎の談話の冒頭部分です。『読売新聞』に掲載されました。

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記事にも名が上げられている大政翼賛会文化部長だった岸田国士が、光太郎を委員として推薦しました。

この時点では、「今回限り」と言っていた光太郎ですが、翌年の第1回(6月)、第2回(12月8日、まさに太平洋戦争開戦の日)の中央協力会議にも出席しました。

12/13(日)、花巻高村光太郎記念会の高橋事務局長にお迎えに来ていただき、旧太田村の高村光太郎記念館に参りました。

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数日前に大雨だったり暖かかったりで、雪はほとんど残っていません。

まずは10月から開催中の企画展「高村光太郎山居七年」(後期)を拝見。旧太田村時代の光太郎の作品や遺品類がいろいろと並んでいます。藁で作られたツマゴ(雪靴)など、季節にこだわったものも。

入り口にはA5判18頁のパンフレット『山居七年 年譜』が置かれています。この企画展のために当方が作成したもので、企画展示室内にパネルとして展示してあるものを、冊子にしてくださいました。光太郎日記、書簡、周辺人物の証言記録などから作成したもので、無料で配布しています。

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こんな感じで18頁です。

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企画展「高村光太郎山居七年」(後期)、2月22日(月)までです。ただし、12/28~1/3が休館です。ぜひ足をお運びください。

その後、隣接する高村山荘へ。基本的に山荘は冬期間閉鎖ですが、役得で中まで入らせていただきました。

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草野心平筆による「無得殿」の扁額。山小屋の廻りを覆う套屋(とうおく)に掲げられています。

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内部には、光太郎がここで暮らしていた頃使っていたものがそのまま残っています。

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ここに入るたびに、粛然とした思いにさせられます。


その後、また高橋事務局長のお車で、昨日も少しご紹介した、この山小屋に入る直前に暮らしていた花巻市街桜町の佐藤家へ。しかし、約束の時間にまだ間があるので、行き道、山荘・記念館近くにある寺院2ヶ所に立ち寄りました。

いずれも光太郎ゆかりのお寺で、まずは音羽山清水寺さん。坂上田村麻呂の勧進による創建ということで、京都の清水寺とつながるお寺です。光太郎は昭和27年(1952)、ここで高村東雲作の聖観音像開眼供養に参加しています。東雲は光太郎の父・光雲の師。前年には東雲の孫に当たる高村晴雲が山小屋を訪れており、その関係もあるようです。

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山門は昭和初期、本堂は江戸時代のものだそうですが、それぞれ立派なものでした。


続いて法音山昌歓寺さん。こちらは光太郎がこの地にいた頃のご住職と親交があり、たびたび訪れたお寺です。毎年、花巻町の松庵寺さんで行っていた光雲・智恵子の法要を、昭和25年(1950)だけはこちらで行っていますし、昭和27年(1952)には、消防団主催の相撲の会を見物したりもしています。

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特筆すべきは、木像十一面観音像。光太郎にその制作を依頼したものの、結局それは果たされず、代わって光雲の弟子筋に当たる森大造が制作しました。昨年、それにまつわる文書が出て来まして、このブログにてご紹介しました。

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いいお顔をなさった立派な仏様です。

こちらはこの像の願主である八重樫甚作の像。やはり森の手になるものだそうです。

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他にも光太郎に絡む品がありそうなので、またゆっくり訪れたいと思っております。皆様も高村山荘・記念館に足をお運びの際はぜひどうぞ。

その後、花巻市桜町の佐藤邸へ。続きは明日。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月16日

昭和25年(1950)の今日、新潮社から新潮文庫版『高村光太郎詩集』のための検印紙5,000枚を受け取りました。

昔の書籍は奥付に検印紙といって、著者の印鑑を押したものが貼られていました。検印紙の発行枚数イコール出版部数とカウントし、著者に払う印税の計算のためのものでした。現在はこうしたシステムは廃止されています。

新潮文庫版『高村光太郎詩集』、編者は伊藤信吉で、結局初版はさらにプラス5,000で、一万部だったようです。

現在も版を重ねています。

青森レポートの2回目です。

7月29日、定宿にしている十和田湖山荘さんで、朝、5時前に目覚めました。それでも前夜8時過ぎには眠ってしまったので、睡眠時間は十分です。旅先ではいつもこんな感じです。早速、温泉で朝風呂。その後、朝食は7時半ということなので、その前にいったん宿を出て、あちこち動きました。今回はレンタカーを借りていたので、少し足が伸ばせます。

まず、何はなくとも湖畔の乙女の像。前日は宿に伝えてあったチェックイン予定時刻を過ぎての十和田湖到着で、もう日も暮れていましたので、行っていませんでした。親子連れなど、他にもすでに散策している人がいましたが、いつもの昼間のように混雑はなく、ゆっくり見られました。

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波打ち際には鴨がのんびりと餌を探していました。

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さて、像と対面。昨秋以来、9ヶ月ぶりです。

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その顔は、やはり智恵子を彷彿とさせられます。

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そして若き日に作ったブロンズの「手」にも通じる像の手。

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光太郎は、二人の像の間にできるこの空間に注目してほしい、と語っていました。

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少し引いて、平成6年(1994)に建立された「十和田湖畔の裸像に与ふ」詩碑を通しての眺め。

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こちらが詩碑の碑面。

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その後、近くの十和田神社に参拝、道中安全と、この地の平安を祈願しました。

まだ朝食までには時間があるので、やはり湖畔の宇樽部地区に車を向けました。ここには「東湖館」という宿がかつてあり、昨日レポートした浅虫温泉の「東奥館」同様、光太郎が昭和27年(1952)の下見の際に1泊、乙女の像の除幕式があった翌28年(1953)にも1泊しています。除幕の際は日記には「宇樽部泊」としか書いていないのですが、おそらくここでしょう。

浅虫の「東奥館」はもはや建物自体なくなっていますが、宇樽部の「東湖館」は、昭和50年代ぐらいで営業はやめたものの、当時の建物が残っています。そうと気づかずに何度かその前を通っていたのですが、今回、事前に調べてそれを知り、見に行くことにしていました。

乙女の像のある休屋地区から5㌔㍍あまり、ものの数分で着きました。平成18年(2006)にトンネルが開通したためです。

こちらが東湖館です。

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看板も残っていました。「A級旅館」とあります。当時の格付けでしょうが、それに恥じない立派な造作です。大正13年(1924)の建築で、皇族方や大町桂月なども宿泊したとのこと。また、昭和42年(1967)公開、加山雄三さんや司葉子さんが出演された映画「乱れ雲」のロケに使われたそうです。監督は成瀬巳喜男。前年には「智恵子抄」をモチーフに使い、安達太良山の麓の福島県本宮を舞台にした「こころの山脈」(山岡久乃主演)の監督も務めています。不思議な縁を感じました。

9/3追記「こころの山脈」は吉村公三郎監督でした。まちがいました。

周囲を歩いていろいろな方向から撮影しました。非常にいいレトロな感じです。せっかくの由緒ある建物ですが、現在は廃墟。何とか有効活用する方法はないものでしょうか。

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↓おそらくこの棟に光太郎も宿泊したのではないかと思いました。

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昭和27年(1952)の下見は6月17日。前夜は蔦温泉に1泊し、この日は船で十和田湖を一周しました。翌日も湖を船で渡り、秋田県側の和井内でヒメマス養殖場を見学、休屋の観光ホテルで1泊しています。

昭和28年(1953)の乙女の像除幕に際し、光太郎の近くにいて、下見にも同行したり、像の製作中も何くれとなく世話を焼いたりした草野心平が作った詩「高村光太郎」の一節です。

たしかにおれは十和田の宿屋での晩。智恵子の裸か000をつくろうと決めた。
  (略)
湖の。あの一種の絶景を見て。
あの絶景のなかへなら女の裸をつくりたいと。
それはほんとうにそう思つた。
そしてその晩。
自分の部屋へもどつてきて。電気を消して。
独り寝つかれずにじつとしていたとき。智恵子はおれにささやいた。
この湖のほとりなら。あたくしをつくつて下さい。
そんなささやきをきいた思いをおれがして。いや。おれがきつぱり決めたので智恵子がそんな気持ちになつたのかもしれなかつた。
  (略)
あの十八のモデルのからだを媒体にしておれは智恵子の精神をつくる。
精神は肉体であるその実在を。
かたちにする。


この「十和田の宿屋」というのが、東湖館か、翌日に泊まった休屋の観光ホテルのどちらかです。

追記 東湖館、平成29年(2017)に解体されてしまいました。残念です。

東湖館の前はすぐ湖畔です。

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さて、東湖館を後に、十和田湖山荘に戻りました。帰りはトンネルのできたバイパスでなく、光太郎も車で通ったであろう御倉半島を通る旧道を使いました。途中にあったキャンプ場から撮った宇樽部の集落がこちら。

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さて、宿に戻って朝食、チェックアウト。メインの目的である岩手県花巻市太田地区振興会の皆さんと、十和田湖国立公園協会さんや、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなど地元関係者との交流会に向け、ふたたび休屋地区に車を走らせました。

会場となっている十和田市の施設「十和田湖観光交流センターぷらっと」に車を駐め、まだ時間があるので周囲を散策しました。

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「ぷらっと」の向かいにある「喫茶憩い」。先日のこのブログでご紹介しましたが、NPO法人十和田奥入瀬郷づくり大学でガイドを務める蝦名隆さんが貸し出した光太郎関連の蔵書が並んでいます。残念ながらまだ開店前でしたので、外から撮らせていただきました。

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秋田県寄りに建つ「十和田ビジターセンター」。初めて足を踏み入れました。

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動植物など、自然科学系の展示がメインなのですが、一角に古い写真が展示してありました。

乙女の像、建立当初の数年間、厳冬期には雪囲いをしていたという話は知っていましたが、このようにしていたと初めて知りました。当方のイメージとは違いました。

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女優の原節子さんが写っている写真もありました。原さんといえば、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)での智恵子役です。十和田湖にもいらしていたのか、と驚きました。


花巻の皆さんが到着する時刻が近づきましたので、いざ、「ぷらっと」へ。以下、また明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月31日

昭和30年(1955)の今日、茨城に住む実弟の藤岡孟彦から鉄道便で桃が届きました。


孟彦は光雲の四男ですが、藤岡家に養子に行きました。植物学を修め、戦後には茨城県の鯉淵学園に赴任。こちらは現在も公益財団法人農民教育協会鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。

旧制一高時代には明治の文豪・大町桂月の子息で、昆虫学者となった大町文衛とも机を並べています。大町桂月と言えば、乙女の像は、本来、桂月ら、十和田湖を広く世に紹介したりした三人の顕彰モニュメント。不思議な縁を感じます。

一昨日、昨日に続き、もう一日、福島川内村ネタで行きます。

先週土曜日に行われた「第50回天山祭」の会場となった、天山文庫でのイベント情報です。
川内村の人々と豊かな自然に心を打たれ、毎年のように村を訪れた詩人、草野心平。
川内村は、そんな草野心平を昭和35年に名誉村民に任命。
褒賞として毎年木炭100俵を贈りました。
そのお礼に、今後は草野心平から川内村に、蔵書3,000冊を寄贈。
これを機に村では、文庫設立の話が持ち上がります。
 一本の木、一束の芽、一人ひとりの労力。
 天山文庫は、村びと達の奉仕によって昭和41年7月16日に建てられました。
ちょうど50年前のことです。
50周年の記念として、天山文庫のライトアップを行います。
ライトアップは土日とお盆の期間ですが、約1ヶ月の間行います。

【ライトアップ】016
時 間:日没後~午後9時
期 間:7月-10・11・12・18・19・20・25・26
    8月-1・2・8・9・10・11・12・13・14・15・16
場 所:かわうち草野心平記念館 天山文庫
その他:日程によりステージパフォーマンスが行われる予定です。
    詳しくはお問い合わせください。
 ☆開場内の看板を目印にARカメラ画面をかざしてみよう!
  3Dモリタロウと一緒に記念撮影ができるよ!
 ☆そばビールやガレットの販売も行います。

問合せ先  川内村役場 産業振興課 商工観光係TEL 0240-368-2112

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点灯式は先週金曜日でした。地方紙『福島民報』さんで報道されています。  

50周年の天山文庫ライトアップ 草野心平ゆかり 川内で11日に祭り

 川内村名誉村民の詩人草野心平ゆかりの村内の天山文庫で10日、ライトアップが始まった。天山文庫と天山祭りの50周年を記念し、「光のフォレストナイト」として企画した。
 点灯式では、遠藤雄幸村長が「心平先生と川内村を愛する人に集まっていただき感謝する。ライトアップを楽しんでほしい」とあいさつ。石井芳信天山祭り実行委員長が「祭りの前夜祭として点灯式が行われ、心平先生も喜んでいると思う」と語った。小渕優子衆院議員、横田安男村議会副議長が祝辞を述べた。
 遠藤村長らがスイッチを押すと、130基の発光ダイオード(LED)が天山文庫などを照らした。口笛奏者の柴田晶子さんのライブや現代詩の同人誌「歴程」の会員による心平の詩の朗読も行われた。
 天山祭りは11日午前11時半から天山文庫で催される。隣接する阿武隈民芸館では企画展「心平が愛したかわうち」が8月23日まで開かれる。
 ライトアップは8月16日までの週末を中心に、日没後から午後9時まで行われる。

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昨年のこのブログでご紹介した、ふくしま再生プロジェクトの会さん主催のイベント「ふくしま、ひとしずくの物語 -再生へ祈りを込めて-」(郡山公演も含めて)にご出演された口笛奏者・柴田晶子さんが演奏を披露なさっています。

その点灯式は終わってしまいましたが、8月16日(日)までの下記期間にライトアップが行われます。ぜひ足をお運びください。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月14日

昭和24年(1949)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、キャビアを贈られた礼状をしたためました。

相手は舞踊家の藤間節子。この前月に東京帝国劇場で「智恵子抄」の舞踊を発表しています。

光太郎からの礼状、長文なので冒頭のみを紹介します。

昨日運送屋さんが町の駅からはるばる御恵送の小荷物を持つて来てくれました。早速開封いたしましたところ、まことに珍らしい貴重な食料がたくさん出てまゐりました驚きました。 今日の時代にこれだけのものを集められるのは大変なことと存ぜられ、ただ恐縮の外ありませんでした。おそらく東京でも珍しいであらうと思はれるカビヤのびん詰まで在中、そぞろに戦前の頃を思ひ出しました。カビヤの珍味は小生好物中の好物にて、戦前智恵子の健康であつた頃稀に入手して一緒に酒の肴として賞味した記憶があり、なつかしい限りでした。

今朝の『読売新聞』さんの福島版に載った記事です。  

二本松景観 ダブル受賞

◆住民グループの取り組み
住民らによる長年の取り組みが評価され、二本松城跡に近い二本松市竹田根崎地区の景観が日本都市計画学会(東京)の計画設計賞を受賞した。都市づくりパブリックデザインセンターなどの実行委員会が主催する都市景観大賞の都市空間部門の優秀賞にも選ばれたといい、住民らは30日、同市にダブル受賞を報告する。
 いずれも都市計画の進歩に貢献し、良好な都市景観を作り出した人らを表彰する制度。対象となったのは、城跡の東側に延びる旧奥州街道の県道「竹根通り」の景観で、拡幅計画をきっかけに、住民らは2002年、地域の歴史や風土に調和した景観をつくるための協定を結んだ。
具体的には、城跡の石垣や、高村光太郎の「智恵子抄」に収められた「あどけない話」で有名な安達太良山の上の空と調和した街並みを目標にし、広々とした眺めを守るため、原則として建物は3階建てまでとすることを申し合わせた。板塀を設け、屋根は瓦ぶきとするなど、一体感のある外観を目指したという。電柱の地中化も決まり、昨年9月、道路の拡幅や地中化などが終了。十数年に及んだ取り組みが結実し、受賞につながった。参加した住民の1人の高橋淳記(あつのり)さん(60)は、二つの賞をほぼ同時期に受けたことについて喜び、「他の地域でも景観に配慮したまちづくりに取り組む機運が高まればうれしい」と笑顔で語った。


二本松市竹田根崎地区。県道129号線で、二本松霞ヶ城の東に、それぞれ「竹田」「根崎」という交差点があり、そのあたりでしょう。

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西の「竹田」方面から来て、「根崎」の交差点を鍵の手に曲がり、さらに行くと「智恵子の森」地区、そして智恵子の生家・智恵子記念館に至ります。

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このあたりが都市計画・景観の賞を二つ受賞したというニュースです。

調べてみると、先月の地方紙『福島民友』さんにも類似の記事が出ていました。 

二本松・竹根通りが優秀賞 都市景観大賞「都市空間部門」

 東北地方整備局は26日、良好な都市景観を生み出す優れた事例などを表彰する「都市景観大賞」の東北の本年度受賞団体を発表、本県関係は都市空間部門で優秀賞に「二本松市竹田根崎竹根通り沿道地区」が選ばれた。
 本県関係の受賞は、同部門で優秀賞を受賞した昨年度の「小峰城跡・白河駅周辺地区」(白河市)に続き2年連続。同部門に加え、景観教育・普及啓発、景観づくり活動の計3部門に全国から35件の応募があった。各部門で大賞と優秀賞を選考した。
 竹田根崎竹根通り沿道地区は、景観協定に基づく統一感のある街並みや、電線地中化による美しい景観、東日本大震災被災後の地域の復興と再生への希望の象徴となっていることなどが評価された。表彰式は6月、都内で行われる予定。
(2015年5月27日 福島民友ニュース)

ただ、こちらには光太郎智恵子の名などが出ていなかったので、当方の検索の網にはかかっていませんでした。


『読売新聞』さんに紹介された二つの賞のうち、日本都市計画学会さんの計画設計賞に関しては、こちらのサイトをご覧下さい。

計画設計賞
受賞者  竹田根崎まちづくり振興会議
作品名  福島県二本松市竹田根崎竹根通り沿道地区の景観まちづくり
授賞理由
本作品は、福島県道「竹根通り」の拡幅整備計画を契機として発足した「竹田根崎まちづくり振興会議」が中心となる、20 年近くにわたるボトムアップ型景観まちづくりの取組が結実したものである。
当地区では、景観シミュレーションによるワークショップなどを開催し、「ほんとの空とお城山が美しく見える景観づくり協定」を締結し、その後振興会議内に設置された「まち並み委員会」が、協定に基づくデザイン協議を110 回以上繰り返すことで、城下町に相応しい落ち着いた意匠など、ゆるやかなルールのもと、住民個々の意向や個性を尊重した調和のある町並みを生み出している。この成果は「NPO 法人たけねっと」、「NPO 法人桑原さん家」などの住民まちづくり活動との連携や、早稲田大学と芝浦工業大学の研究者と学生、二本松市と福島県関係者の長年の支援に負うところも大きい。
東日本大震災と原発事故による被害とその影響が続く福島県内、二本松市内にあって、「竹根通り景観づくり」は、美しい景観づくりの先に、まちの復興と暮らしの再生の希望を示していることに深い意義がある。よって本作品は、日本都市計画学会計画設計賞に値すると判断した。


もう一つの、都市づくりパブリックデザインセンターさんによる都市景観大賞についてはこちらのサイトに詳しく載っています。

「優秀賞」(公益財団法人 都市づくりパブリックデザインセンター理事長賞)
■地区名:二本松市竹田根崎竹根通り沿道地区
■面積:約9.0 ha
■所在地:福島県二本松市
■応募者:竹田根崎まちづくり振興会議、福島県、二本松市、早稲田大学都市計画研究室芝浦工業大学地域デザイン研究室
■地区の概要:
当地区は、二本松市の中心市街地内であるが、JR二本松駅からは徒歩20分ほどと離れていることもあり、商店街の衰退と人口減少が続いていた。かつての奥州街道である「竹根通り」が幅員18mへ拡幅されることを契機に、魅力的な景観づくりに取り組み始めた。まちづくり活動は住民からなる「竹田根崎まちづくり振興会議」が総括し、行政の支援のもと、住民主導で17年にわたり活動している。大学の支援もあり、模型を使用したワークショップを何度も開催し、まちづくりの計画づくりと街路デザイン、景観づくりを検討してきた。住民は景観協定を締結し、建て替えデザイン協議を110回以上開催してきた。それにより、街路事業と一体となった町並みが完成している。
平成23年3月の東日本大震災と原発事故による低線量放射線被害、風評被害により、当地区も大きな打撃を受けている。そのなかにあって竹根通り景観づくりの完成は、景観の劇的な向上と、それを実現した住民を中心とする関係者の努力で、復興と再生への希望の光と受け取られている。未だ原発事故被害で厳しい状況にあるが、今後は人々が戻り、また新たな産業が生まれることが期待されている。
■審査講評:
とにかく空が広い、道路の両端が山あて、しかも安達太良山と二本松城址、これこそが「ほんとの空とお城山が美しく見える景観づくり協定」という名前の元であることがよくわかる、気持ちの良い道路景観である。全国の多くの道路をみてきたが沿道の建築物の意匠より、何より大事にされてきた空が広いことが、居心地の良さに通じることが印象的であった。また、住民、市、県、そして学識経験者と建築士会、それらの非常に緊密なコラボレーションで、平成9年より長きにわたりまちづくりを作り上げてきた絆を強く感じる。また、110回にわたるデザイン協議にも敬服する。さらには、道路を拡幅したことにより、従来奥にあった蔵が沿道に露出し、展示スペースにしたり、居酒屋にしたり、新たな街のランドマークとして使い、地域の活力を生み出している。道路の拡幅は、ともすれば、街の活気を失いがちであるが、この地区では、見事に、拡幅による洗練された澄み切った空気を感じる街並みが息子世代への牽引に役に立ちそうな気配を感じさせられる、優秀賞に値する景観である。今後の継続にも期待したい。(池邉)

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智恵子の愛した「ほんとの空」まで含めた景観が授賞対象となったかと思うと、喜ばしいことです。東日本大震災からの復興という意味でスポットが当てられるのもよいことでしょう。

しかし、ちょうどこの辺りには、震災から4年経った今も、福島第一原発に近い浪江町の皆さんの住む仮設住宅や、プレハブ校舎の福島県立浪江高等学校津島校なども存在します。この状況が正常な状態であるわけがありません。

『福島民友』さんにあるとおり、二本松の景観が「東日本大震災被災後の地域の復興と再生への希望の象徴」でありながらも、福島が一刻も早く、正常な状態になるようにと願ってやみません。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月30日

昭和57年(1982)の今日、筑摩書房から『定本高村光太郎全詩集』が刊行されました。

光太郎生誕100年の記念出版で、限定700001部、全1,037ページ。『広辞苑』とまではいきませんが、それに近い厚さです。

刊行当時に確認されていた光太郎の詩作品736篇(断片を含む)を編年体で収録しています。

これに先立つ昭和41年(1966)には、新潮社から『高村光太郎全詩集』が刊行されていますが、こちらは光太郎生前に刊行された単行詩集を核として、それらに収められなかったものはその前後に配置するという、いわば紀伝体の編み方でした。

いずれも古書市場で出回っています。光太郎が作った詩のみを読みたい、という方にはお勧めです。

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一昨日、昨日と、新聞報道について書きましたので、今日もその流れで。

光雲、光太郎の名がちらっと出た記事をご紹介します。

まず、『産経新聞』さん。

22日の文化面、「【自作再訪】 澄川喜一さん「そりのあるかたち」 錦帯橋の美しさに惚れ込んで」という記事。

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元東京芸術大学学長で東京スカイツリーのデザイン監修者として知られる彫刻家、澄川喜一さん(84)。47歳のときに誕生した代表作「そりのあるかたち」は、ライフワークとして取り組んできたシリーズだ。反った曲線が特徴の抽象彫刻は、どこか懐かしく親しみがある。代表作誕生の背景には、日本の伝統文化が深く関わっている。

と始まり、昭和53年(1978)、平櫛田中賞を受賞した抽象彫刻「そりのあるかたち」についての話、さらに岩国の錦帯橋、法隆寺の五重塔、東京スカイツリーなどの古今の造型に触れています。

その中で、光雲が主任となって原型が作られた、上野の西郷隆盛像にも言及されました。

公共の場には、周囲の環境に合った作品を創らなければなりません。多くの人が目にするのですから、ひとりよがりの彫刻では駄目なんです。高村光雲は、東京の上野公園の西郷隆盛像を創りました。戦後、軍国主義を一掃するために軍人の銅像がことごとく撤去される中で、西郷さんは残りました。造形もさることながら着流しで犬を連れた庶民的な姿にしたアイデアも良かった。後世に残るものもあれば消えてしまうものもあります。彫刻家の社会に対する責任は重大です。

最後の一文、まさしくその通りですね。


『産経新聞』さん、翌日の教育面には、光太郎の名が。

インテリアデザイナーの小坂竜氏と、お父さんの彫刻家、故・小坂圭二氏を紹介する「父の教え 創作への情熱教わった師匠」という記事です。

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故・小坂圭二氏は、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作に際し、光太郎の助手を務めた彫刻家です。

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その圭二氏の紹介文で、光太郎が引き合いに出されています。

【プロフィル】小坂圭二
 こさか・けいじ 大正7年、青森県生まれ。中国と南太平洋のラバウルで兵役に服す。昭和25年に東京芸術大彫刻科卒業。青山学院中等部の美術教師をしながら彫刻家として活躍。阿部合成や柳原義達らに師事し、高村光太郎の助手を務めた。74歳で死去。


同じくプロフィールの紹介で、光太郎を引き合いにしたのが、『京都新聞』さんの先週の記事。陶芸家バーナード・リーチに関連する記事でした。

東西陶工の縁、百年越え 京都・宇治の一族、リーチ工房に

 20世紀を代表する陶芸家の1人、バーナード・リーチ(1887〜1979年)の母国・英国の工房で登り窯を造った京都・宇治の陶工の一族がこの春、リーチの工房で新たな作陶に挑んだ。近代陶芸の礎を築いた巨匠の工房で、約100年の時を経て再び生み出された東西の美の結晶が27日から京都市内で展示される。
 英国で陶芸に取り組んだのは、宇治で代々続く窯元「朝日焼」の次期当主、松林佑典さん(34)。リーチの工房を支えた陶工松林靏(つる)之助(1894〜1932年)は、13代当主だった曽祖父の弟にあたる。
 靏之助は京都市立陶磁器試験場付属伝習所(現・京都市産業技術研究所)で、後の人間国宝、濱田庄司らに師事。1922年、28歳で英国留学した。リーチと濱田は英南西部セントアイブスで工房を開いたが窯が壊れ、靏之助に窯の築造を依頼した。靏之助は半年がかりで日本式登り窯を造り、京都の陶芸の知識をリーチの弟子たちに教えた。窯は半世紀にわたり使われ、世界で評価される多数の作品が生まれた。
 靏之助は25年に帰国後、38歳の若さで亡くなり、ほぼ無名の陶工だった。京都女子大の前?信也准教授(日本工芸史)が大英博物館で靏之助の茶碗を発見したことから、近年に研究が進んだ。前?准教授は「靏之助がいなければ、今日、私たちの知るリーチはなかった」と高く評価する。
 今年3〜4月の約1カ月間、リーチの工房に滞在した佑典さんは、今も工房の道具が日本由来だったり、釉薬(ゆうやく)の名前が日本語だったりして驚いたという。100年前の姿が残る石造りの工房で、宇治と英国の土を混ぜ、地層や年輪のような味わいのある茶碗など30点を制作した。「異質なものが混ざり合って多様なハーモニーが生まれる。東洋と西洋が交わる普遍的な美を目指した」と話す。
 展示は京都市中京区衣棚通三条上ルの「ちおん舎」で、29日まで。入場無料。28日午後4時半から、前?准教授の講演会もある。朝日焼TEL0774(23)2511。

 ■バーナード・リーチ 英国の陶芸家。幼少期を日本で過ごし、英国に留学中の詩人高村光太郎と出会い、20代で版画家として再来日した。日用品に美を見いだす民芸運動を提唱した柳宗悦と親交が深く、在日中に陶芸にのめり込んだ。東西の美や哲学を融合した作品を発表した。


小坂圭二にせよ、バーナード・リーチにせよ、その紹介に縁の深かった光太郎が引き合いに出され、ありがたいかぎりです。「高村光太郎? 誰、それ?」という状況になってしまうと、こうはいきません。そうならないように、光太郎の名を後世に残す活動に取り組み続けたいと思っています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月29日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋を訪れた歌人の伊藤岩太郎の持参した画帖に「悠々たる無一物に荒涼の美を満喫せん」と揮毫しました。

伊藤は当時、岩手郡大更村(現・八幡平市)に住んでいました。その後、盛岡に居を構え、自宅の庭に先達の偉業を偲ぶとともに、自分の50年に及ぶ歌道精神の総決算の意味で石川啄木、若山牧水、長塚節、斎藤茂吉、木下利玄、北原白秋の歌碑を建立しました。

伊藤と光太郎のかかわりは、この日の日記にしか確認できませんが、もう少しいろいろあったように思われます。画帖の現物も確認できていません。今後の宿題とします。

「悠々たる……」はこの年に書かれた連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」にある「悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」の変形。漢文調に語順を変え、送りがなを廃したバージョンの揮毫も複数存在します。

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昭和23年(1948)、光太郎と交流のあった彫刻家・笹村草家人を介し、神田小川町の汁粉屋主人・有賀剛に贈ったと推定されるもの。

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同じ頃、隣村に疎開していたチベット仏教学者・多田等観に贈ったもの。

先月30日、東京は中野区にある、中西利一郎004氏のお宅にお邪魔して参りました。

氏のお父様は、水彩画家の故・中西利雄氏。小磯良平、猪熊弦一郎らと新制作協会を結成しました。同会は昭和11年(1936)、文部省による美術団体統合に異を唱える若き画家達によって結成された団体。後に佐藤忠良、舟越保武らの彫刻家も同人として加わりました。光太郎自身は加わりませんでしたが、近い位置にいた美術家の団体といえます。

右は2年ほど前に見つけたのですが、同会の機関誌的な雑誌『新制作派』の第5号。昭和15年(1940)の発行です。この中に『高村光太郎全集』未収録の「彫刻について」という短い文章が掲載されています。

そして表紙は中西利雄氏の絵です。

その中西利雄氏は、昭和23年(1948)、数え49歳で早世。その直前に竣工していたアトリエは、使われずじまいだったそうです。

その後、せっかくのアトリエを使わないでおくのももったいないということで、貸しアトリエとして使用。昭和26年(1951)頃には、彫刻家のイサム・ノグチが借りています。ノグチはその頃、昨年亡くなった李香蘭こと山口淑子さんと結婚していました。ただし、ノグチ夫妻はここに居住はしていなかったそうです。

その後、昭和27年(1952)の秋から、昭和31年(1956)4月2日まで(途中、一時的に岩手に帰ったり、赤坂山王病院に入院したりした時期もありますが)、花巻郊外太田村から出てきた光太郎がここに居住。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が制作されました。

裸婦像完成後は再び太田村に帰るつもりでいた光太郎ですが、健康状態がそれを許しませんでした。昭和28年(1953)に一時的に太田村に帰ったものの、また上京、以後、太田村には戻れませんでした。

さらに、光太郎歿後約1年、ここで最初の『高村光太郎全集』の編集が行われました。中心になったのは、当会顧問・北川太一先生、そして草野心平。そして当会の運営する連翹忌の第1回(昭和32年=1957)も、ここで行われています。

さて、中西家アトリエ訪問。当方、外から拝見したことは以前にもあったのですが、中に入れていただいたのは初めてでした。当主の利一郎氏が時折連翹忌にご参加下さっていて、「見にいらっしゃい」的なことをおっしゃってくださっていたのですが、中々機会がありませんでした。

利一郎氏、ひさしぶりに今年の連翹忌にご参加下さり、さらに連翹忌ご常連で、智恵子の学んだ太平洋画会会員の坂本富江さんを交え、今回の訪問が実現しました。

坂本さんとJR中野駅で待ち合わせ、記憶を頼りに歩くこと約10分で到着。

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上記3枚は裏からの眺めです。

表に回るとこうです。住宅密集地なので、超広角レンズでも使わないと全体像はうまく撮影できません。

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訪いを告げ、敷地に入れていただきました。

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瀟洒な建物ですが、もう築70年ほどになりますから、やはり傷みが見られます。

そしていよいよ内部へ。

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故・髙村規氏撮影の光太郎の遺影が出迎えてくれました。

こちらは『高村光太郎全集』に掲載されているアトリエ内部の図面です。

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基本的にはこの通りのままでした。ただし、光太郎が使っていた彫刻の道具類、家具類、身の回りの物などはほとんど残っていません。また、やはり超広角レンズでもなければ全体像は撮れません。

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このあたりに制作中の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が立っていました。

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窓は北向き。造形作家のアトリエでは基本です。

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ここに光太郎が起居し、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を造り、そして最期の時を迎えたかと思うと、「感慨深い」どころではありませんでした。やはりその場所の空気に触れることで、見えてくるものがあります。何が見えたかというと、うまく言葉で表せませんが。

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その後、当時の写真、光太郎が遺した中西利雄夫人宛の書簡、夫人に託した買い物メモなどを拝見しました。いずれも活字になったものやコピー、画像等は拝見したことがありますが、実物は初めてでした。また、光太郎が当時中学生の利一郎氏にくれたお年玉ののし袋――原稿用紙を折りたたんで作り「のし」と書いたもの――には、思わず笑いました。

というわけで、有意義な訪問でした。

しかし、中西家としては、いろいろ課題もあります。やはり築70年ほどで傷みの目立つこの建物を、今後どうするかという問題。あくまで中西利雄のアトリエであって、光太郎のアトリエというわけではないということもありますし。

花巻郊外旧太田村の山小屋は、中尊寺金色堂のように套屋で覆って保存されています。また、福島二本松の智恵子の生家は、大規模補修復元工事を入れました。そうなると、個人の力では不可能ですね。「色即是空」「諸行無常」とは申しますが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月8日

昭和20年(1945)の今日、疎開していた花巻の宮澤家で、水彩画「牡丹」を描きました。

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後に花巻病院長・佐藤隆房に送られたこの絵は、現存が確認されている中で、日本画を除いて最大の水彩画です。他にも同様の作品がこの時期に描かれましたが、他は8月10日の花巻空襲の際に焼けてしまいました。

現在、この絵は花巻高村光太郎記念館で開催中の企画展「山居七年」で展示中です。

福島は二本松、智恵子生家・智恵子記念館からの情報です。

まず概略を説明する代わりに地元紙『福島民友』さんの記事を。

「智恵子の生家」限定公開 二本松市合併10周年記念

 詩人・彫刻家高村光太郎の妻で詩集「智恵子抄」で知られる高村智恵子を育んだ二本松市油井の「智恵子の生家」で、智恵子の部屋を含む非公開の2階部分が6月6日から限定公開される。大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)」や、同市の合併10周年を記念し、公開する。
  智恵子の部屋は収納と一体になった急な階段を上った所にある。大通りに面し、低い天井が当時をしのばせる。また、今回は別の急な階段を上った場所の杜氏(とうじ)などの部屋も新たに公開される。
  限定公開日はDCや夏休み、二本松の菊人形の期間中、冬期間の計47日間。土、日曜日と祝日で、時間は午前11時~午後0時30分、午後1時30分~同3時。入館料は一般410円、高校生以下200円。
  問い合わせは市智恵子記念館(電話0243・22・6151)へ。

  智恵子の生家限定公開日
 【6月】6、7、13、14、20、21、27、28日
 【7月】18、19、20、25、26日
 【8月】1、2、8、9、15、16、22、23日
 【10月】10、11、12、17、18、24、25、31日
 【11月】1、3、7、8、14、15、21、22、23日
 【2月】6、7、11、13、14、20、21、27、28日


通常、立ち入りの出来ない生家二階の智恵子の部屋に入ることができます。また、隣接する智恵子記念館では智恵子紙絵の実物の展示も。

二本松市さんのサイトから。 

「智恵子の生家」二階を期間限定で公開します

明治初期に建てられ、清酒「花霞」を醸造していた旧長沼家。智恵子を育んだ「生家」であり、通常は立ち入りが制限されているこの「生家」二階を期間限定で公開します。
座敷を通り、階段を上がると、智恵子が過ごした部屋が当時のまま保存されています。
また、奇跡と言われる高村智恵子の「紙絵」の実物も期間限定で展示します。この機会に是非ご覧ください。

ふくしまデスティネーションキャンペーン期間(平成27年6月)
 6月の土曜日、日曜日
夏休みシーズン(平成27年7月~8月)
 7月の土曜日、日曜日、祝日
  ※4日(土曜日)、5日(日曜日)、11日(土曜日)、12日(日曜日)は公開しません。
 8月の土曜日、日曜日、祝日
  ※29日(土曜日)、30日(日曜日)は公開しません。
秋の観光シーズン(平成27年10月~11月)
 10月の土曜日、日曜日、祝日
  ※3日(土曜日)、4日(日曜日)は公開しません。
 11月の土曜日、日曜日、祝日
  ※28日(土曜日)、29日(日曜日)は公開しません。
冬季期間(平成28年2月)
 2月の土曜日、日曜日、祝日

公開時間 午前の部 11時00分~12時30分  午後の部 13時30分~15時00分

入館料金  一般410円 ※20名以上の団体は360円  
      高校生以下200円 ※20名以上の団体は150円
休  館  日 水曜日(祝日の場合は、その翌日)

来館者の方へのお願い
 建物内では、必ず係員の指示に従ってください。
 混雑状況により、入場を制限させていただくことがあります。
 明治期の建物のため、窮屈であったり急な箇所がありますので、十分にご注意ください。
 

智恵子の「紙絵」公開期間(予定)

奇跡と言われる高村智恵子の「紙絵」の実物を展示します。
 平成27年6月4日(木曜日)~6月30日(火曜日)
 平成27年10月8日(木曜日)~11月24日(火曜日)

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「場所」のもつ空気感というものは、大事なものです。数十年の時を経ていても、かつて光太郎や智恵子が居たその「場所」に身を置くことで感じられること、新たに見えてくるものもあります。

のちほどレポートしますが、つい先日は、光太郎終焉の場所、中野の中西家アトリエにお邪魔して参りました。中に入れていただいたのは初めてで、感慨ひとしおでした。

今度は智恵子の部屋で、思いを馳せてこようと思っています。皆さんもぜひどうぞ。

それから、隣接する智恵子記念館では、智恵子紙絵の実物の公開。こちらは例年、5月のGWと秋の菊人形期間に合わせて行っていますが、今年は「ふくしまデスティネーションキャンペーン」のからみで、6月と10月だそうです。

複製や画像では感じられない、実物のもつ存在感、迫力といったものを味わってみて下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月2日

昭和48年(1973)の今日、文治堂書店から高村豊周遺稿歌集『清虚集』が刊行されました。

豊周は光太郎の実弟。鋳金の道に進み、いわゆる人間国宝に認無題定されました。

実兄・光太郎同様、文才にも恵まれ、特に短歌は独自の境地を開き、昭和39年(1964)には皇室の歌会始の召人を務めたり、生前には3冊の歌集を刊行したりもしました。

この『清虚集』は、1年前のこの日に亡くなった豊周の遺稿歌集です。解説は盟友とも言える間柄だった草野心平が書きました。

5月15日(金)に行われた花巻高村祭のため、前日から花巻入りし、花巻には2泊しました(もう1泊は仙台)。

14日(木)は鉛温泉藤三旅館さん。昨年先月に続き、3回目の宿泊でした。今回は、㈶花巻高村光太郎記念会さんのご厚意で、昭和23年(1948)に光太郎が泊まった3階の31号室に泊めていただきました。

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リフォームはされているようですが、基本的に昔のままのようで、部材や調度品などは非常にレトロな感じでした。また、非常に天井が高いのが印象的でした。

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窓を開けると、下には豊沢川の清流。

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館内各所にも、レトロなアイテムが随所に見られます。

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深さ約130㌢の自噴岩風呂「白猿の湯」や、渓流沿いの露天風呂など、堪能しました。

よく「枕が変わると寝られない」という方がいらっしゃいますが、当方はそんなことはなく、というか真逆で、「枕が変わると起きていられない」という感覚です。旅先では夕食を摂って一風呂浴びると、もう眠くて仕方がありません。8時から9時にはたいがい眠ってしまいます。その代わり、2時とか3時とか、真夜中に目が覚めます。そこでまた温泉に浸かるとまた眠くなり、朝までぐっすり。また5時、6時くらいに起きて、さらに一風呂。今回の3泊ともそうでした。

2泊目は大沢温泉山水閣さん。こちらも光太郎がよく泊まっており、当方も学生時代から、数え切れないほど泊まっています。ただ、大沢さんは宿が3つに別れており、学生時代は自炊部さん(基本的に湯治客用の木賃宿)、その後は築160年という別館の菊水館さんに泊まっていて、山水閣さんでの宿泊は初めてでした。山水閣さんは少し高級な温泉ホテルという感じです。3館は全て館内でつながっています。

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左奥の白い建物が山水閣さん、右手の古い2棟が自炊部さん。

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こちらが菊水館さん。茅葺きです。下は3館共通の露天風呂、「大沢の湯」です。

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さて、山水閣さんでは、「牡丹の間」という部屋に泊めていただきました。こちらも光太郎ゆかりの部屋です。

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山水閣さん自体が建て替えられた際、光太郎がよく利用した部屋を再現したそうで、部材や調度品は当時のものを転用しているそうです。

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こちらの箪笥、飾りかと思っていたら、ちゃんと浴衣が入っている実用のものでした。

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そして、「光太郎ゆかりの部屋」を前面に押し出しているため、室内には光太郎の書「大地麗」、水彩画「牡丹」の複製が。本物はともに記念館に展示されています。

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床の間には渡辺えりさんのお父様、渡辺正治氏の書。渡辺氏も当方と同じく、高村祭の記念講演講師をなさった際にここに泊まられています。

さらに出てすぐの廊下には、智恵子の紙絵の複製も。

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この部屋はスイートルームの扱いなので、非常に広く、3部屋もあります。

また、やはり窓を開ければ豊沢川の清らかな流れ。鉛温泉さんより下流に位置し、流れも多少穏やかで、この季節、耳を澄ませばカジカガエルの声が聞こえます。

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さらに館内廊下には、光太郎や賢治ゆかりの品々が。光太郎自身の書「顕真実」、仏典の言葉です。さらに渡辺氏同様、高村祭の講師をなさった、鋳金家の故・斎藤明氏、光太郎の実弟・豊周の子息、故・高村規氏の書。

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その他、昨日もご紹介した光太郎写真や、光太郎が訪れた頃の大沢温泉さんの写真などなど。

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廃線となった花巻電鉄の駅が、温泉入り口にかつてあり、その写真です。

こちらでも温泉を堪能しました。それから鉛温泉さん、大沢温泉さんともに料理もすばらしく、おそらく太って帰りました(笑)。

花巻にお越しの際は、ぜひ両館にお泊まり下さい。鉛さんの31号室、大沢さんの牡丹の間、ともにスイートルーム的な部屋ですが、プチ贅沢ということで。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月21日

昭和56年(1981)の今日、佐藤隆房が歿しました。008

佐藤は総合花巻病院の院長を長らく務め、宮澤家ともども、昭和20年(1945)、戦災で焼け出された光太郎を花巻に招くのに一役買いました。

さらに、戦後、太田村に移る前の光太郎を約1ヶ月、自宅離れ(光太郎が「潺湲楼-せんかんろう」と名付けました)に住まわせました。太田村移住後の光太郎は、花巻町に出てきた際には主にここに宿泊しています。

光太郎歿後は顕彰運動を進めるべく、財団法人高村記念会を立ち上げ、その先鞭をつけました。

『高村光太郎山居七年』をはじめ、貴重な光太郎回想も数々残しています。

また、宮澤賢治の主治医だったことでも知られ、賢治の詩「S博士に」のモデルが佐藤だと言われています。

現在の㈶花巻高村光太郎記念会会長、進氏は、佐藤の子息です。

一昨日の高村光太郎記念館リニューアルオープンのため、岩手花巻に行きましたが、オープン前日に花巻入りし、鉛温泉藤三旅館さんに宿泊いたしました。豊沢川の渓流沿い、花巻南温泉峡の奥の方です。
昨年1月に泊めていただいた時以来、2度目の逗留でした。
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少し前にも書きましたが、光太郎もこの鉛温泉藤三旅館さんに泊まっています。確認できている限りでは、昭和23年(1948)に3回、それぞれ一泊しています。同24年(1949)と25年(1950)の日記が失われている他、それ以外の時期にも日記執筆をサボっていることがあるので確認できませんが、もしかするとその間にも泊まっているかもしれません(旅館ではその頃の宿帳は保存していないとのこと)。

その当時の建物もまだ健在。前回は、宿泊前に下調べを十分にして行かず、光太郎がどの部屋に泊まったのかわかりませんでしたが、今回はちゃんと調べてから行きました。

二度目に訪れた昭和23年(1948)5月11日の日記に、以下の記述があります。

午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳あたらし。

また、三度目の宿泊となった同月18日の日記では、

二ツ堰より電車にて鉛温泉。 乗車中豪雨降る。後止み、晴れる。温泉にては前と同じ31号室(三階)。

とあり、確認できている3回とも、3階の31号室に泊まったことが分かりました。ちなみに「電車」は花巻電鉄です。

当方の部屋は、同じ3階の85号室。だいぶ番号が離れているので、昔と部屋番号が変わってしまっているのかも、と思いましたが、部屋に備え付けの館内案内を見てみると、ちゃんと「31号室」があり、早速行ってみました。

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当方の部屋は後から建て増しされた棟のようで、光003太郎の泊まった31号室は古い棟の角部屋でした。渡り廊下的な場所からこういう風に見えます。

さらに、帰ってからネットの公式サイトで調べてみると、「寛ぎのゆったり部屋」ということで紹介されていました。

ちなみに20号室という部屋は、田宮虎彦が泊まって小説「銀心中」を執筆したということで、「文人ゆかりの部屋」と紹介されています。

それよりは光太郎が泊まった部屋を前面に押し出すべきだと思うのですが、どうも藤三旅館さんではそのことをご存じないようです。

機会があったら、ぜひこの31号室を予約しようと思います。ただ、このタイプの部屋は、通常、1名での宿泊は受け付けていないようです。どなたかご一緒しませんか(笑)。

前回泊まった時も書きましたが、料理は美味しく、それでいて料金はリーズナブルでした。

それから、深さ約130㌢の「白猿の湯」をはじめ、光太郎も誉めた温泉もやはりグッドでした。1泊で3回入ってきました。当方の好きながっつり熱い湯もあったのが嬉しいところでした。

ちなみに「白猿の湯」については、光太郎日記では以下の通り。昭和23年(1948)4月26日のものです。

昨夕温泉に久しぶりにて入る。深い共同風呂にも入る。泉質よきやうなり。温度余に適す。
(略)
朝五時頃入浴。二三人老人が入り居るのみ。きれい也。

館内あちこちのレトロな雰囲気もいい感じです。

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翌朝、高村光太郎記念館リニューアルオープンに向かう前に、宿の周辺を散歩しました。市街地ではないため、昭和20年代の光太郎がいた頃の雰囲気がまだよく残っているように感じました。

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このあたりも春を迎え、いろいろな花が咲き誇っていました。関東では盛りを過ぎた桜、連翹、さらにカタクリやふきのとう。

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特にカタクリ(すぐ上の画像)が普通に道端に咲いているのは、初めて見たように思いました。

さらに迎えに来ていただいた㈶花巻高村光太郎記念会事務局長さんの車の中からは、やはり道端にミズバショウが咲いているのも見えました。

ちなみに高村光太郎記念館、そして光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺も、花々が咲き乱れていました。

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山荘は、隣接する便所「月光殿」の鞘堂を改築中です。004
右の画像は、記念館前のコブシの花です。

この地域、これから1年中でもっともいい季節となります。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月30日

昭和22年(1947)の今日、雑誌『農民芸術』に、宮澤賢治がらみの散文「玄米四合の問題」を発表しました。

賢治の「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」に触れ、次のように述べています。

 私の見るところでは宮澤賢治の食生活は確に彼の身を破り彼の命数を縮めた。宮澤賢治に限らず、かういふ最低食生活をつづけながら激しい仕事をやつてゐたら、誰でも肋膜にかかり、結局肺結核に犯されて倒れるであらう。
(略)
 私は玄米四合の最低から、日本人一般の食水準を高めたい。牛乳飲用と肉食とを大いにすすめたい。日本人の体格を数代に亘って改善したい。消極的健康から積極的健康に日本人を転換させたい。食生活の合理化を実行して此の結核国から結核を駆逐したい。精神力涵養に不可欠な身体力の培養に十全の力をそそぎたい。

賢治を殺し、智恵子を奪い、そして今また、自らの身を冒す結核への憎しみが見て取れます。

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