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光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関わり、急遽出版された書籍です。

中野・中西家と光太郎

2024年4月2日 勝畑耕一 著  小山弘明 監修  文治堂書店 定価400円+税

目次001
 中西利雄と水彩画
  一 明治期の水彩画について
  二 真野紀太郎との出会い
  三 二人の小山を知る
  四 牛込区水道町界隈
  五 東京美術学校に入学
  六 震災後に中野区・桃園へ
  七 「白山丸」でマルセイユへ
  八 渡欧の四年間
  九 『優駿出場』が帝展特選に
  一〇 結婚・作品集の刊行
  一一 戦争が始まる
  一二 絵を描く喜びを再び
  一三 襲い来る病魔
 光太郎とアトリエ
  一四 昭和二十年の光太郎
  一五 花巻での宮沢家・佐藤家との関り
  一六 賢治没後の清六、心平、光太郎の絆
  一七 山荘での七年間
  一八 十和田湖「乙女の像」制作
  一九 中西家との交友
  二〇 雪の日にアトリエで逝去


当方、「監修」とクレジットされています。とりあえず校正をした程度ですが。

前半は中野のアトリエを建てた新制作派の水彩画家・中西利雄(明33=1900~昭23=1948)の評伝。当方、中西についてはそれほど詳しくはなかったので、「なるほど、こういう人物だったのか」という感じでした。日本に於ける水彩画の普及・発展に果たした役割は大きなものがありました。惜しむらくは数え49歳での早世。戦後となり、これから戦時中の空白を取りもどそう、という時期でしたし。

その結果、主なき新築のアトリエが遺され、貸しアトリエとなったわけで、イサム・ノグチ、そして光太郎が店子(たなこ)となりました。

後半は中西アトリエでの光太郎、というか、そこに入るに至る経緯を含めて終戦の年・昭和20年(1945)からの光太郎についてです。

全44ページと厚いものではありませんが、見開き2ページの片側には必ず中西作品の写真や当時の古写真、古地図等の図版が入り、理解の手助けとなっていて、内容は濃い感じです。

4月2日(火)、日比谷松本楼さんでの第68回連翹忌の集いの際、参会の皆様には配付されたようです(当方、主催者でありながら資料の袋詰めは他の皆さんにほとんどやっていただき、詳しく把握していません)。他に30部程頂いて帰りまして(現物支給が「監修」ギャラです(笑))、その後、連翹忌の欠席者や全国の文学館・美術館さん等のうち、関わりが深そうなところへは、他の配付資料ともども発送している最中です。

ご入用の方、文治堂書店さんへお申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

五月十五日は小生が花巻にはじめて疎開して来た記念日なので、宮沢邸に御礼言上の為花巻に出で、数日間滞在、やつと山へ帰つて来ました。


昭和22年(1947)5月26日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

東京を離れてまる二年が経過、というわけです。

最近、光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動に一枚かませていただいており、芸術家ゆかりの建造物の保存活用などについていろいろ調べています。なかなか一筋縄ではいかない問題です。ケースバイケースですし。

そんな中で保存活用がうまくいっている例として、台東区上野桜木に現存する「平櫛田中邸」があります。光太郎の父、光雲の高弟・平櫛田中が使っていたアトリエ兼住居で、大正8年(1919)に竣工、昭和45年(1970)に平櫛が小平市に移るまで使われました。

小平にも移転後の旧居が保存されていて、隣接する小平市平櫛田中彫刻美術館さんと併せて何度か足を運びましたが、上野の方は未踏です。令和元年(2019)にはジャズシンガー・潮見佳世乃さんの「歌物語コンサート 智恵子抄」公演がここであって、ご案内も頂いたのですが、智恵子故郷福島二本松に行く用があって欠礼しました。

さて、その平櫛田中邸でダンスパフォーマンスの公演があります。

旧平櫛田中邸 de タコダンス

期 日 : 2024年4月5日(金)~4月7日(日)
会 場 : 平櫛田中邸 東京都台東区上野桜木2-20-3
時 間 : 4月5日 19:30〜 4月6日 13:00〜 / 18:00〜 4月7日 18:00〜
料 金 : 一般 3000円 U-25 2000円 当日 3500円

作・出演/木原萌花

ダンサー・表現者であり、演出も行う木原萌花さんが、『他者から見た自己』をテーマにソロパフォーマンス〝タコダンス〟を披露するイベントが開催されます。

舞台は彫刻家・平櫛田中の元住居兼アトリエ「旧平櫛田中邸」。3日間で4公演での開催となります。

“タコダンス”とは、踊りを軸にパフォーマンスやプロデュースを展開する表現者、木原萌花(きはらももか)さんが、クラシックバレエを習い始めた幼少時代に独自に踊っていたタコのようなダンスのこと。

タコ=他己(たこ)という意味も掛け合わせており、他人から見た自分を主題に置いたダンス表現だそうです。

『他者や自然とのつながりに意識を向け、自分が外の世界と繋がっていると感じられる時、人は固く閉じていた「自己」の鎧から解放され、少し軽くなった自分を発見できるのではないか?』そんな仮定から「自分に集中しない」ダンスを魅せます。
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平櫛邸の様子も見てみたいところですし、また建築保存の関係の方もいらっしゃるようならそのあたりのお話も伺いたいと思っておりますので、行って参ります。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

何しろ花といふものは画や彫刻と違つて自然そのものを取つて来てそれに人間が手を加へるものなので恐ろしいやうでもあり、又よく自然の心にきく事が出来た時は人間の思量以上のものが現前するものと思へます。自然の美は中々人間並でない超常識のものですから、之を相手にする者は一通りでない智慧と情熱と力とがいるわけです。


昭和22年(1947)3月9日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎65歳

華道について述べた一節です。

光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動について、1月の『東京新聞』さんに続き、『読売新聞』さんでもご紹介下さいました。X(旧ツイッター)やフェイスブックではシェアしておいたのですが、こちらでも取り上げさせていただきます。

光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵

 詩集「智恵子抄」などで知られる詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごした中野区にあるアトリエを保存しようと、関係者が動き出している。昨年1月にアトリエの所有者が亡くなり、管理が難しくなっているためで、関係者らは「歴史的に価値のある大切なアトリエをなんとか残したい」と知恵を絞っている。
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■「乙女の像」制作
 高村は下谷区(現在の台東区)生まれ。文京区千駄木にアトリエを構えたが、戦災で住居は焼失し、岩手県花巻市に疎開した。中野区のアトリエには戦後の1952年に移り、亡くなるまでの約4年間を過ごした。青森県の十和田湖畔に立つ彫刻の代表作「乙女の像」の塑像もここで制作したという。
 アトリエは、斜めの屋根が特徴的な木造一部2階建て。施工主は洋画家の中西利雄(1900~48年)で、建築家の山口文象(1902~78年)が設計を務めた。建物は中西が亡くなった48年に完成したため、貸しアトリエとして使われ、高村だけでなく、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)らも滞在していたという。
 完成から70年以上が経過したアトリエは、青系の色だった外壁が白くなったが、造りはほとんど変わっていない。縦約3メートル、横約2・5メートルの大きな窓は当時のままで、高村の親戚に当たる桜井美佐さん(60)は「光太郎も同じ窓から外の景色を見ていたのだと実感できて感動する。都内ではゆかりの建物は珍しく、貴重だ」と強調する。
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■「企画書」を作成
 しかし、アトリエを管理していた中西の息子の利一郎さんが昨年1月に亡くなった。建物の老朽化は進み、アトリエは現在非公開になっている。利一郎さんの妻の文江さん(73)は「維持費もかかるし、このまま残しておくのは危ない。公的な機関が動いてくれればいいが、そうでなければ壊すしかない」と頭を悩ます。
 そこで立ち上がったのが、利一郎さんと親交があった日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)だ。曽我さんはアトリエを後世に残すための「企画書」を作成。曽我さんら有志は、アトリエの保存に向けた組織設立を模索している。
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■CF活用視野
 老朽化した建物の保存を巡っては、明治時代の作家・樋口一葉(1872~96年)が通ったとされる文京区本郷の「旧伊勢屋質店」も解体の危機に陥った建物の一つ。元の所有者が「個人で維持するのは限界」と売却の意向を示したが、2015年に跡見学園女子大(文京区)が取得し、現在は週末を中心に内部を一般公開している。
 曽我さんも、アトリエを改修した後、高村らゆかりのある芸術家の資料を展示するスペースを設けることを想定している。中野区や都などへの働きかけのほか、クラウドファンディング(CF)の活用も視野に入れているという。
 曽我さんは「高村や中西の芸術や歴史を後世に残すためにも、アトリエは非常に価値があるものだ。中西家に負担をかけずに、なんとか保存できるやり方を考えていきたい」と話している。
 保存方法の提案や問い合わせは曽我さん(090・4422・1534)へ。

曽我氏を中心としたこの運動の会合、先月、初めて行われましたが、来週また開催されるので出席して参ります。

先月も書きましたが、この手の件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールは以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

【折々のことば・光太郎】

五日には小生花巻町に出かけ、松庵寺と申す浄土宗の古刹にて、智恵子の命日と亡父十三回忌の法要をいとなみました。かかる遠方の土地にて焼香されるとは智恵子も父も思ひかけなかつた事でせう。現時の有為転変はまるで物語をよむやうです。小生健康、好適の季節に朝夕心爽やかに勉強してゐます。早く世の中が直つてアトリヱ建築の出来る日の来る事が待たれます。


昭和21年(1946)10月13日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

既に前年から、後の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」につながる「智恵子観音」の構想はありましたが、さすがに七尺もの大作という予定ではなかったようです。

昭和27年(1952)になって、「乙女の像」建立計画が具体化すると、花巻郊外旧太田村では資材の調達なども不可能ということで、再上京、中野のアトリエに入ることになります。

昨日は都内に出ておりました。

まずは六本木の国立新美術館さんで、書道展「東京書作展選抜作家展2024」を拝観。書家の菊地雪渓氏からご案内を頂いていたのですが、最終日前日となってしまいました。
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その菊地氏の作。
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杜甫の漢詩を書かれたものだそうで。相変わらず雄渾な筆遣いです。

この手の書道展、必ずといっていいほど、光太郎詩文を題材に書かれる方がいらっしゃり、今回も存じ上げない方でしたが、2点。ありがたし。

詩としての光太郎代表作の一つ、「道程」(大正3年=1914)。
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詩「潮を吹く鯨」(昭和12年=1937)。こちらは大幅でした。
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昭和6年(1931)、『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を執筆するため船で訪れた三陸海岸での体験を元にした詩です。
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昭和14年(1939)、河出書房刊行の『現代詩集』に掲載されましたが、それが初出かどうか不明です。

その他、以前に光太郎詩文を書かれた皆さんの作なども拝見。眼福でした。

六本木を後に、中野に向かいました。次なる目的地は西武新宿線沼袋駅近くの新井区民活動センターさん。
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光太郎終焉の地・旧中野桃園町の貸しアトリエの保存運動が起きており、その会合に呼ばれて参上いたしました。
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戦後、水彩画家の中西利雄が建てたものの中西が急死し、貸しアトリエとなっていた建造物で、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)にここに入りました。像の完成後はまた花巻郊外旧太田村に帰るつもりで、実際に像の除幕後に一時帰村したのですが、健康状態がもはや山村での独居自炊に耐えられず、結局は再々上京、ここで亡くなりました。

利雄の子息・利一郎氏が昨年亡くなり、なるべくご遺族の負担にならないようにするにはどうすれば……というわけで、利一郎氏と交流の深かった文治堂書店さん社主・勝畑耕一氏、日本詩人クラブの曽我貢誠氏らが中心となって始まりました。文治堂書店さんサイト内に企画書リンクが貼ってあります。

お二人以外に他に利一郎氏と親しかった方、建築家の方、中野たてもの応援団の方などがご参加。
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やはり利一郎氏と親しく、アトリエにも足を運ばれた渡辺えりさんも。
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現状の報告と、今後、どうすれば八方丸く収まるのかについての意見交換など。

会場の使用時刻を過ぎてからは近くの喫茶店に移り、そちらでも。
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こういった件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールが以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

来月にも会合を持つこととなりました。また追ってご報告いたします。

【折々のことば・光太郎】

まつたくあなたの言はれる通り、戦争中は彫刻を護るために詩が安全弁乃至防壁になり過ぎたと思ひます。決していい加減ではなかつたのですが。この事はいまに書かうと思つてゐます。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

翌年に雑誌『展望』へ発表した、幼少期から戦後までの半生を振り返る連作詩「暗愚小伝」全20篇の構想にかかっており、それを指すと思われます。

昨日は光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエに保存運動が起きている件をご紹介しました。

今日は逆の件を。先月5日、『朝日新聞』さん夕刊に出た記事です。

戦前のまま、時とまったアトリエ 老朽化、近く取り壊し 木彫家・三木宗策が使用

015 東京都北区の路地の奥に、木彫家、三木宗策(そうさく)(1891~1945)が使ったアトリエが残されている。戦前のアトリエが現存するのは珍しく、木彫の像を制作するための石膏(せっこう)原型も保存されていた。当時の息づかいが聞こえてきそうなアトリエだが、老朽化のため、近く取り壊されることが決まった。
 「まるでそこだけ時間が止まっているようでした。見上げた高い屋根裏と上の棚に並んだ石膏(せっこう)の原型から、70年のときを超えて作家の存在を感じました」
 福島県郡山市美術館の中山恵理学芸員は2015年初秋、アトリエに初めて入ったときの感動をそう話す。その年、地元出身だった三木の没後70年展を企画していた。準備が大詰めを迎えたころ、アトリエが現存することを親族から教えられた。

高さ6㍍の吹き抜け
 建物は木造2階建てで、北面の大きなガラス窓の木枠にはツタがからまり、年月を感じさせる。アトリエは約30平方㍍の床面から2階の屋根裏まで吹き抜けの空間構造で、最高部まで高さは 6㍍を超す。
 郡山市出身の三木は14歳で上京し、高村光雲門下の山本瑞雲(ずいうん)に学んだ。22歳で独立。代表作は、全体の高さが3㍍を超える燈明(とうみょう)寺(東京都江戸川区)の本尊・不動明王だ。45(昭和20)年11月、疎開先の郡山市で53歳で病死した。
 東京芸術大学の調査によると、アトリエの建築年代は大正末から昭和初めとされる。三木の次男で美術評論家・三木多聞(1929~2018)の著書「三木宗策の木彫」によると、三木は19(大正8)年までにこの地に転入し、その後、アトリエ付き住宅を建てたらしい。

大空襲の戦火も免れ
 アトリエは、23(大正12)年の関東大震災にも耐えたという話が遺族に伝わる。だが、確実なのは、45(昭和20)年4月13~14日、現在の豊島区、北区、荒川区にかけての米軍による「城北大空襲」の戦火を免れたことだ。
 戦後は子ども部屋や書架など遺族の生活空間として使われてきたという。次第にアトリエとしての存在も家族以外からは忘れられた。
 連絡を受けた中山学芸員ら彫刻関係者らは、残された石膏原型などを郡山市内の施設に運び出し、一時保管した。同美術館ではアトリエの記録や資料の調査をしたのち、所蔵先について検討するという。
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残った石膏原型50点
 いまのところ、アトリエに残された石膏原型約50点のうち、10点は現存する作品の原型、6点は写真だけが残る作品の原型だと確認された。所在不明だった木彫「傷つきたる鳥人」(40年)もみつかった。
 調査にかかわった彫刻家・修復家の藤曲隆哉さんによると、三木は、最初に粘土で塑像(そぞう)を制作したのち石膏原型をつくり、星取り機を用いて木彫の完成作をつくる手順で制作していたという。原型にいくつかの点(星)をうち、その点を星取り機で木に写し取り、空間上の点の位置関係を頼りに彫る。
 藤曲さんは「石膏原型は資料の域を超えることはない」としながらも、「作家本人の純粋な手が入っている。完成作品と原型を比較する価値はあると考えられる」と話している。

三木宗策は、記事にあるとおり、光太郎の父・光雲の孫弟子です。孫弟子ではありますが、光雲との合作もありました。

光雲とゆかりの深い、文京区の金龍山大圓寺さんに、昭和4年(1929)から同8年(1933)にかけて七尊の木彫観音像が寄進され、そのうち五尊は光雲と山本瑞雲(光雲高弟にして宗策の直接の師)、二尊が光雲と宗策の合作という扱いでした。こうした場合、合作という条、メインに鑿を振るったのは瑞雲や宗策なのでは、と思われます。
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これら七観音は戦災で全て焼失、聖観音像のみ鋳銅されたものが大圓寺さん境内に露座でおわしますが、それぞれの胎内仏は現存します。七観音それぞれの開眼供養の際、胎内仏のコピーが鋳銅で造られ、檀家や寄進者に配付されました。像高10㌢弱の懐中仏です。そのうち「准胝(じゅんてい)観音」の鋳銅が花巻市に寄贈され、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで行われた企画展示「高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」に出品されました。

その後、七観音すべてがセットで売りに出ているのを見つけ、購入しました。上記十一面観音、千手観音の懐中仏がこちら。
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この件はまた後日、ご紹介いたします。

その宗策の使っていたアトリエが取り壊されるということで、記事が出たのは先月初めでしたから、既に解体済みかもと思われます。

この記事で知ったのですが、宗策の次男が故・三木多聞氏。昭和46年(1971)、至文堂さん刊行の『近代の美術 第7号 高村光太郎』の編者を務められたほか、光雲、光太郎に触れた論考をいろいろ書かれていました。かつて連翹忌にもご参加下さったそうです。
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お素人さんではない多聞氏が子息だったにもかかわらず、アトリエ保存という話にならなかったということを考えると、今回の取り壊しの件、仕方がないといえばそれまでなのかもしれません……。余人にはうかがい知れぬ事情等、いろいろあるでしょうし……。

そう考えると、昨日ご紹介した光太郎ゆかりの中野のアトリエ保存の件も、もちろんきちんと保存・活用が為されればそれに越したことはないのですが、なかなか難しいのかな、という感じですね……。

また詳しい情報が入りましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

「北方風物」は先日拝受、小生の素描はインキで画きたるため印刷によく出なかつたものと見え甚だ生彩を欠いてすみませんでした。


昭和21年(1946)4月27日 更科源蔵宛書簡より 光太郎64歳

光太郎、7年間の花巻郊外旧太田村の山小屋暮らしの中で、折に触れ身の回りの自然や道具類などをスケッチし続けました。『北方風物』は、詩人の更科源蔵が北海道で刊行していた雑誌です。
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一昨日の『東京新聞』さんに、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエ保存運動についての記事が大きく出ました。

高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野  残したい 代表作「乙女の像」塑像も制作

014 「智恵子抄」「道程」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、彫刻の代表作「乙女の像」の塑像を制作したアトリエが中野区にある。所有者が昨年死去し、受け継いだ妻は「これ以上、個人での保存や活用は難しい」と頭を悩ます。専門家らは貴重な建物と評価し、保存の道を模索している。
 アトリエは中野駅から徒歩10分ほどの住宅街にたたずむ。施工主は大正から昭和にかけて活躍し、「水彩画の巨匠」と呼ばれた洋画家中西利雄(1900~48年)。設計は近代日本建築運動を先導した建築家山口文象(1902~78年)。完成した1948年に利雄が死去したため、貸しアトリエとして使われ、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)らが滞在した。
 建坪17坪のアトリエは、斜めの屋根が目を引く一部2階建て。天井が高く、日光が安定して差し込むよう北側に縦3メートル、幅2・5メートルの大きな窓があるのが特徴だ。作品が見下ろせる2階部分は、楽団の演奏場所として造られた。外壁は現在は白いが、建築当時はすみれ色に塗られていた。
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 光太郎は38年に妻智恵子を失った後、終戦間際から岩手・花巻で過ごした。晩年上京し、52~56年にアトリエで生活し、亡くなった。アトリエ前を流れていた川(現在は暗渠(あんきょ)化)に咲くレンギョウを好み、棺(ひつぎ)にこの花がささげられたという逸話から、命日は「連翹(れんぎょう)忌」と命名され、第1回もこのアトリエで開かれた。光太郎の姪(めい)の娘にあたる櫻井美佐さん(60)は「光太郎をしのぶ建物は都内にここしか残っていない。この景色を見ていたと思うと不思議な感覚になる」と大伯父へ思いをはせる。
 アトリエは利雄の長男、利一郎さんが所有者として「自分の生きているうちは」と外壁にペンキを塗るなどして大切に維持してきたが、昨年1月に死去。相続した妻の文江さん(73)は建物の老朽化などから、一度は解体を決心した。
◆「貴重な建築」有志が保存模索
 昨年秋、利一郎さんと交友があった日本詩人クラブ理事の曽我貢誠(こうせい)さん(71)が「芸術的、歴史的に価値がある文化遺産」として保存を提案。有志で会を立ち上げ、クラウドファンディングなどを視野に活動を始めた。
 近代住宅史が専門の内田青蔵・神奈川大建築学部特任教授は建物について「戦前から戦後に活躍した山口文象による貴重な事例で、オリジナルが残っている。モダニズムを象徴する無駄のない空間を創る思想が現れた建物だ」と評価する。
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 歴史ある建物を調査する「伝統技法研究会」のメンバーで建築士の十川百合子さん(69)も調査に入り、「中野には棟方志功ら文化人が創作の場を構えた。中西利雄と山口文象が生み、地元に愛されてきた建築は貴重」とし、オリジナルを尊重しながら補強して保存する方法を提案。文江さんは区など公的な機関による対応を希望している。
 アトリエは非公開。保存・活用法の提案や問い合わせは曽我さん=電090(4422)1534、メールsogakousei@mva.biglobe.ne.jp=へ。
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記事にもある曽我貢誠氏制作の「アトリエ保存企画書」がこちら。
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曽我氏と関わりの深い文治堂書店さんのHPにPDFで掲載されています。7ページ目の「これからの主な予定」という項に関しては、まるで予定通りに進んでいないようですが……。

フライヤー的なものも。
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また、記事にあるとおり、アトリエの設計はモダニズム建築家の山口文象(この件、当方もアトリエ保存運動が起こるまでは存じませんでした)。山口は北鎌倉の宝庵さん、現在は新宿区立林芙美子記念館さんの一部として活用されている林芙美子邸などを手がけたそうです。そうした和風の建築は現存、活用されているものの、山口が設計したモダンスタイル木造住宅作品は、この中西利雄アトリエが現存する唯一のものだとのこと。『東京新聞』さん記事を受けて、都市プランナーの伊達美徳氏が書かれたブログにその辺りが解説されていますのでリンクを貼らせていただきます。

ついでですのでもう1件。『東京新聞』さん記事に、「彫刻の代表作「乙女の像」の塑像を制作したアトリエ」と紹介されていますが、その制作の模様がブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館さん)制作の「美術映画 高村光太郎」(昭和28年=1953)と「美術家訪問 第7集」(昭和33年=1958)に含まれています。

昨年、アーティゾン美術館さんで開催された「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」展でそれらの動画が会場で常時公開され、それを受けてYouTubeでもアップされましたので貼り付けておきます。当時のアトリエ内部の様子(1:47頃から)、ご覧下さい。


明日もこの件で。

【折々のことば・光太郎】

以前「婦人公論」に「日本美の源泉」といふのを六ヶ月つづいて書いたことがありましたが、若しやあの切抜を貴下が持つて居られたら暫く拝借願へないでせうか。来月あたりから此処で日本美について毎月一回づつ六ヶ月間講演をやらうかと考へてゐますが、あの原文をテキストにして述べたいと思つてゐます。禅の提唱のやうに、美を中心にして万般の事に亘つて語るつもりで居ます。

昭和21年(1946)4月19日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、移住当時はここに最高の文化部落を造る、といった意気込みがありまして、その一環でしょう。ことによるとこの地に光太郎を招いた分教場(講演会場)の教師・佐藤勝治が宮沢賢治の信奉者でしたので、その提案でかつての賢治の羅須地人協会的な実践を……という話になったのかも知れません。「日本美の源泉」についてはこちら

当会顧問であらせられた故・北川太一先生のさまざまな著作をはじめ、光太郎関連書籍を数多く出して下さっている文治堂書店さんから、PR誌的な『とんぼ』の第17号が届きました。
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4月に亡くなった評論家の芹沢俊介氏の追悼文、文治堂さんから詩集も覆刻されている光太郎と交流のあった詩人・野澤一が暮らした甲州四尾連湖のレポートなどが載っています。北川太一先生ご子息の光彦氏の詩文も。

それから当方の『連翹忌通信』。今年4月に発見した花巻市に残る光太郎が文字を揮毫した墓標についてです。

奥付画像を貼っておきます。ご入用の方は文治堂さんまでご連絡下さい。
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それから、文治堂さん社主の勝畑氏が関わっている「中西利雄アトリエを後世に残すために」という計画の企画書とフライヤーも。
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昭和27年(1952)秋から光太郎が居住し、昭和31年(1956)、その終焉の地となった貸しアトリエの保存運動に関してです。以前にも同じものを頂きましたが、再び。文治堂さんのHPでもこれらが出てきます。

つい先月もちらっと見て参りましたが、いまだに健在のこの建物、きちんと保存し活用が出来るならそれにこしたことはありません。ただ、個人でとなるとなかなか難しいところがあり、運営委員会的な組織が必要とのこと。それはそうでしょうね。光太郎が入る以前はイサム・ノグチもここを使っており、そちら方面からのアプローチもあるようです。

予定では今夏には組織作りや署名活動開始、企画書とは別の小冊子配付となっているのですが、そのあたり、予定通り進行しているのかどうか……。先月辺り見学会的な催しがあったようですが……。

また具体的なことがわかりましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

小生は前に仮寓していた校長先生のお宅から昨日移転して、今度は花巻病院長の佐藤隆房先生のお宅に来ました。宮沢賢治の伝を書かれた先生です。そこの離れの二階が小生の室に宛てられました。四畳半が二間、一方を勉強室、一方が客間といふやうに出来てゐて大層便利です。


昭和20年(1945)9月11日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎63歳

光太郎が潺湲楼(せんかんろう)と名付けた佐藤隆房邸離れ、こちらも現存しています。二度ほど中に入れていただきましたが、なかなかに立派な造作です。ここで暮らし続ければそれなりに快適だったはずなのですが、ここでの生活は1ヶ月あまりで切り上げ、郊外旧太田村の山小屋に入ります。


今日、9月1日は大正12年(1923)に起こった関東大震災からちょうど100年。

『朝日新聞』さんでは、「(関東大震災100年)帝都被災、おののく文豪たち」と題し、光太郎の名はありませんでしたが、光太郎と交流のあった与謝野晶子、室生犀星、芥川龍之介らの文章等を紹介していました。それぞれ震災時の様子が生々しく記されたもので、貴重な証言記録です。
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光太郎が震災時の様子を書いたレポート類は確認出来ていません。しかし、直後には智恵子ともども震災に触れた提言を発表しています。

光太郎のものは、11月に雑誌『女性』第4巻第5号に載ったアンケート回答「アメリカ趣味の流入を防げ――帝都復興に対する民間からの要求――」、同月『報知新聞』に連載された散文「美の立場から」(『中央建築』第2巻第5号 大正13年=1924に転載)がありました。いずれも留学中には都市計画にも多大な興味を持ち、自身で建築設計も行った光太郎ならではのものです。こちらをご覧下さい。

心を病む前の智恵子の提言も、2篇確認出来ています。

まず、やはり11月の雑誌『女性』に光太郎のそれと共に載ったアンケート回答「建設の根源は此処に在り――帝都復興に対する民間からの要求――」。

 期間を画して、一都市が思ひきり一掃されるとすれば、この激震の予想を、考量のすべてに入れる事はむしろ、当然すぎる事とおもふ。
 首都のあらゆるものが、僅か一世紀にも満たず煙りと消え、陰惨な墓場と化するやうなミゼラブルに、今後われわれは堪へようとするのか。国が歴史を持つやうに、都市の姿にも代々の人々の、堅実な精神と叡智との堆積が聳え輝くやう、そして世紀より世紀へ、累畳(るいでう)されなければ、われわれは文明に恥づべきである。
 ゴシツクやルネサンスが、永遠への、偉大な精神的観念に裏づけられる事なくして、あの優美と崇高の生ける姿を現はし得たであらうか。たとへサンマルコやサンピイトロの寺院また数々のフランスの本寺などが、われらの都に花さく夢想はしなくとも、せめてこの都をして永久に生かしめる確信によつて、すべての火は内に燃ゆべきであらう。少くともわれわれの全生命を傾けた、はるかな時代への忠実な寄与として、来るべきものを鼓舞し高め、更によき生命の胚胎の園生(そのふ)とするだけの覚悟がなくては。この考へが人々のこころに潜力となり地盤となつて、芽生えをもつ。
 眼をあげて高きものへの、趣味と憧憬(どうけい)とその不撓の力とをもつて、石をとれ、岩石を彫刻せよ。剛堅にしてしかも温かい生命を蔵する石材によつて、焼け失せ蝕まぬわが首都の衣裳となさしめよ。そして山嶽の威風と優美と、森林の荘厳と軽快と、大洋の自由と勢力とを理想せよ。
 如何に経済と機械と能率との問題に尽きてゐる事務的な、会社、商会、諸官省にしても、あの無味乾燥な、人をして重苦しい憂鬱の虜(とりこ)とするやうな洋風建築が、どこ迄もどこ迄も拡がつてゆく安価な木造家屋。失はれたわれらの東京の建築に、不朽のものとして真に哀惜に堪へないものが、幾何(いくら)そこにあつたであらう。恵まれない優越国の都であつた。
 今日創造される都市として、必然的な基本設備である上下水道、公園、街路、運河、筑港、交通機関、種々の区画、配置、防備其の他の設計については、もとより間然されないであらう。ただけちな制限を費用をおかずに遠大を期されたい。
 すべてを破滅し尽した今、われわれの偉大な理想へのよき機会を逸してはならない。建築に対する新らしい道程は開かれてゐる。急がずあせらず、自然界の生長の如く、微細に入念にそして大胆に、生命の奥底に仕事を育たしめよ。


アンケート回答と言いつつ、かなりの長文です。震災発生時、智恵子は福島の実家に帰省中で、その後も東京は大変な状況だったこともあり、しばらく帰って来ませんでした。そこで、この文章、光太郎の代筆ではとも思ったのですが、読点の打ち方など、明らかに光太郎のそれとは異なります。建築についての提言内容などが光太郎の考えともかぶっているのは、光太郎の影響と思われますが。

もう一篇、おなじく11月の雑誌『婦人之友』に載ったアンケート回答「暴力は臆病の変形――甘粕事件に関する感想――」。

 おはがき延着のためたぶんもう遅れた事と存じますし、また感想をのべるとしては事件の結審までみてからのことです。尤もその刑法上の処罰の如何等のことはさして私の注意をひいてゐる問題ではありません。ただ殺人に関する同胞の心理上のある一点に、大きな疑問をもつてゐるからです。
 もとより、かかる事件の忌はしい事は、法律にもとるからばかりでありますまい。また動機の如何もつまりは打算の問題です。われわれが死せるものに生命を与へ得ない限り、これに手を触れる事はゆるされない。他人の生命に手をかけるなんて、何といふ醜悪な考でせう。暴力こそ臆病の変形です。
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言わずもがなですが、震災直後のドサクサに紛れ、憲兵大尉・甘粕正彦が、無政府主義者・大杉栄とその妻・伊藤野枝、そして甥っ子の橘宗一少年を惨殺した事件に関わります。野枝は智恵子とほぼ入れ違いに『青鞜』メンバーとなりましたし、光太郎は大杉等の活動に理解を示し、シンパに近い立ち位置でした。

ちなみに、ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の先輩にして恩師でしたが、智恵子がそれを知っていたかどうか……。

昨年ドラマ化もされた村山由佳氏の小説『風よ あらしよ』などの影響で、もう少し大杉・野枝夫妻らの殺害について各種メディアで紹介されるかと思っていましたが、そうでもありません。いわゆる朝鮮人虐殺や「福田村事件」などについてはそれなりに取り上げられていますが(どこかの知事は相変わらずだんまりを決め込むようですけれど)。

100年経っても、防災に対する意識、大災害後の心構え等、学ぶべき点はたくさんありますね。

【折々のことば・光太郎】

智恵子入院後やはり同じ容態のやうです、十日毎に病院へ会計に参りますが家族の者は面会せぬ方がよいといふのでもう二十日以上もあひません。


昭和10年(1935)3月22日 齋藤セツ宛書簡より 光太郎53歳

セツは智恵子実妹。前年、九十九里浜で半年あまり智恵子を引き取ってくれていました。九十九里へは毎週のように見舞いに行っていた光太郎ですが、この書簡にあるように「家族の者は面会せぬ方がよい」と言われ(それを免罪符にしてしまっていたような気もしますが)、ゼームス坂病院へは会計に行くだけのことが多かったのは事実です。

当時としては最先端の精神科医療をうたっていた同院、その入院費用には前年に亡くなった光太郎の父・光雲の遺産が役立ちました。

対面式およびオンラインでの講演会です。

春の特別展関連講演会「関東大震災と武者小路実篤」

期 日 : 2023年5月20日(土)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1丁目8-30
時 間 : 13:00~15:00 
料 金 : 無料

大正12(1923)年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災は、10万人以上の犠牲を出した国内最悪の自然災害と言われます。巨大地震を体験した里見弴、高村光太郎、地震の知らせを聞いて東京へ駆けつけた志賀直哉、そして武者小路実篤。白樺同人が書き残した文章から、彼らが見た関東大震災を探ります。

講師
石井正己氏(日本文学研究者・東京学芸大学名誉教授)
東京学芸大学名誉教授。著書に「文豪たちの関東大震災体験記」(小学館)、「感染症文学論序説」(河出書房新社)、「震災は語り継げるか」(三弥井書店)などがある。

申し込み
往復はがきの往信面に、講座名・応募者全員(1枚につき2名まで)の氏名(ふりがな)・年代・郵便番号・住所・電話番号を、返信面にご自身の宛先を明記し、5月9日(火曜日)必着で実篤記念館まで。

注意事項
応募者多数の場合は抽選を行います。
はがき締切後、定員に余裕がある場合は5月10日(水曜日)午前9時から5月19日(金曜日)午後5時まで先着順で電話受付。詳細は実篤記念館までお問い合わせください。
はがきの到着に時間がかかることがあります。余裕をもってご投函ください。
都合により、内容が変更される場合がございます。最新の情報は当館ホームページやツイッターをご覧いただくか、お電話でお問い合わせください。

配信視聴
会場参加に加え、オンライン配信も行います(ライブのみ)。
5月12日(金曜日)午後5時までオンライン配信専用の申込みフォームを開設します。
講座の詳しい内容や対面での応募方法については次のリンクをご確認ください。

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同館で開催中の特別展「武者小路実篤の1923年」の関連行事という位置づけです。
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大正12年(1923)9月1日の関東大震災からちょうど100年という節目の年ですので、このような企画になっているのでしょう。

南関東ではどこも甚大な被害だったわけで、個々の芸術家かどういう状況になったかまでは当方もそれほど存じません。武者にしても。同展の案内文に依れば、武者自身は地震発生当時、宮崎の新しき村に居たそうですが「東京の実家に住む母と甥らが被災し、一時は安否が分かりませんでした。家族は無事だったものの、実篤が生まれ育った家は全焼しました。」ということだったそうで、それは初めて知りました。ありゃま、という感じですね。

光太郎は、というと、駒込林町の住居兼アトリエは大きな損傷もなく、光太郎や近くに住んでいた父・光雲らに怪我もありませんでした。智恵子も二本松の実家に帰っていたため無事。しかし27畳のアトリエは被害の大きかった下町からの避難者に開放し、光太郎自身は何ヶ月かを四畳半の和室で過ごすこととなりました。その間、智恵子の実家の長沼酒造から酒を取り寄せ、引札も自作し、にわか酒屋を始めています。

今回の講演では、「白樺同人が書き残した文章から、彼らが見た関東大震災を探ります。」とのことで、では、光太郎はどんな文章を書いていたか、調べてみました。

すると、震災に関わるものとして公表されたものは、11月に雑誌『女性』に載ったアンケート回答「アメリカ趣味の流入を防げ――帝都復興に対する民間からの要求――」、同じく『報知新聞』に連載された散文「美の立場から」がありました。

「アメリカ……」の方は短いので全文を引き写してみます。

 大東京の築造については、自分が六年前に「東京日日新聞」に載せた「芸術雑話」の中の意見と今でも大体に於て同じ意見を持してゐます。何よりも日本の東京にしたいものです。アメリカ趣味の流入を殊に出来るだけ防ぎたいものです。質素で確かで優美な都が造りたい。末梢は後にせよ。市民にとつて、また殊に建築家にとつて、何といふ天啓に満ちた時機でせう。
 鉄腕ある者よ、出てくれ。


六年前に「東京日日新聞」に載せた「芸術雑話」」は、国会議事堂の建築(現在の議事堂は昭和11年(1936)の竣工ですが、それ以前に大正7年(1918)にコンペが行われました)についての内容を根幹としつつ、都市計画を論じた長い連載でした。一部、抜粋します。

 芸術の中で人間の心に一番影響を与へるものは建築であると思ふ。一番直接といふよりは一番手近と言ふ方がいいかも知れない。建築が恐ろしく因縁の深い感化を人間に与へるのは、建築が幼年少年の生活を支配して、外の芸術よりも早く人間の精神肉体に影響を及ぼすからである。

 国民の性格を天日の下に麗々と暴露してゐるのは建築である。倫敦、巴里、紐育其他いづこの市街乃至村落に足を踏み入れたとしても、いきなり観察者の心に襲ひかかつて来るのは其家屋の列の持つ不可言の気魄である。何の説明を聞くまでもなく、ははあ、と思ふ。

 建築の事を世人は今余り考へなさ過ぎる。自分たちの住んでゐる市町の街路に聳え立つ怪しげな建築にも眉を寄せず、喜ぶ可き建物にも感謝しない。そして其が次の時代を形づくる自分たちの子孫にどんな関係を持つかといふ事を心配しない。何をされても平気で、善いものも悪いものも無差別に受取つてゐる。東京の市街は今建築の百鬼夜行である。


明治末の欧米留学中に都市計画にも興味を持ち、ニューヨークではセントラルパークについてかなり研究した光太郎ならではの言ですね。ちなみに駒込林町の住居兼アトリエは光太郎自身の設計です。

さらに「美の立場から」。こちらも長い連載でしたので、一部抜粋。

 人は帝都の復興といふ。けれどもどんなものを復興しようといふのか。焼けて無くなつたものを取りかへして、其上この機会に多年の宿望であつた都市計画を遂行しようといふ。けれども其は一体どんな種類の都市を予想しての事であるか。都市の品格、傾向、風貌等に就てどんな好みを以ての事であるか。どんな性格の都市を実現させようと「欲」するのであるか。どんな統一をその都市性格の上におかうとするのであるか。ただ聯絡ある市街の集団であるに止まらせて満足しようとするのか。それとも是非ともミヤコを築造しようとすののであるか。この最初の覚悟によつて、今後の当事者と市民との責任も負担も忍耐も根本的の相違を来たすであらう。この覚悟を一定せしめておかなければ諸人の計画に対する態度、心構へに異同が出来て、無駄な水掛論が百出するに違ひない。

 東京は救はれなければならない。東京は健康な、正直な、清朗な、大丈夫な都にならなければならない。見かけ倒しと、無定見と、紛雑と、悪趣味と、お先走りとはもう沢山である。もうこりごりである。そしてあの無作法に四方に這ひ出す市街の集合に過ぎないものを其のまま復活される事は心苦しい。是非ともミヤコにした。日本の性格を立派に左右する「築造」されたミヤコにしたい。幾十年かかつても。幾遍壊されても。


これが100年前の文章なわけですが、100年経って、光太郎の至極まっとうな提言は果たして実現しているのでしょうか。そうでないと言わざるを得ないような気もしますが……。

ところで、散文以外に、震災直後の書簡等も調べてみました。すると、光太郎に智恵子を紹介してくれた画家の柳敬助夫人・八重に送った書簡が目に留まりました。やはり一部抜粋します。

 今度の災厄については市民一同いづれも悲痛な経験を負はされましたが、私自身として、柳君の遺作の事ほど切実に悲しまされた事はありません。身に近く、苦しい気がします。
 あなたの御心持を推察する事は更に強い圧迫です。
 けれど事実は二度とあともどりしない事を思へばどう考へてもどう為ようもなく又どう言ひやうもありません。
 せめて友人間にまだ散らばつてゐる遺作をあなたの許に集め寄せる事が出来れば一つの慰めになるかと思ひました。


柳は震災前の5月16日(まさに100年前の今日)に急逝。そしてその遺作展が日本橋三越で始まったのがまさしく震災当日の9月1日で、集められた柳の遺作絵画38点、さらに光太郎のそれ(具体的な作品名は不明ですが 追記:人体を描いたデッサンでした)を含む賛助出品された友人たちの作品64点すべてが焼失してしまいました。

八重にとっては5月に夫を亡くし、さらにその遺作の多くも9月に失うという、踏んだり蹴ったりだったわけで、その心痛はいかばかりか、というところですね。

ちなみに無事だった柳の作品、現在、信州安曇野の碌山美術館さんで「没後100年 柳敬助展」ということで多数展示中です。

さて、講演会「関東大震災と武者小路実篤」。オンラインでの聴講も可能です。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

例の大理石はあれから毎日仕事に掛り居り既に職人の手を離れて小生自ら鑿を取つて居ります

大正6年(1917)4月28日 図師尚武宛書簡より 光太郎35歳

図師尚武は実業家・図師民嘉の子息。「仕事」は図師に依頼された石彫です。「職人の手を離れて」は、元の石材から大まかな形を切り出すまでを石工にやってもらったということでしょう。

003この作品、仮題が「婦人像」。現存が確認できて居らず、写真だけ残っています。それから最晩年に光太郎が語った制作の経緯。

大正五、六年頃か、落合にいた実業家の息子が、美人の、西洋人の写真を持って来てね、それをどうしても大理石で作ってくれっていううんだな。その写真がぼやっとした芸術写真でね。僕は面白くって作りかけたけれど、どうしても出来上らない。随分重いものだったけれど、それを欲しくて仕方がなくて、出来上らないうちに自動車で来て持っていってしまった。はじめに金を貰っていたんだけれど、出来上らなかったんだから、といってあとでその家にお金を返しに行った。そしたらちょうど息子さんが居なくてね。お母さんが出て来た。ところがお母さんは知らないんだね、そんなことでお金を使っていたってことを。それは何か映画女優か何かの写真だったらしいんだが、それであとで散々叱られた、とその息子が書いてきたことがあった。
(「高村光太郎聞き書」 昭和30年=1955)

どこかにひっそりと現存していてほしいものですが……。

動画配信サイトYouTubeでのオンラインシンポジウムです。

ミュージアム運営を変える新しいお金の潮流

期 日 : 2023年3月28日(火)
時 間 : 13:00~16:20 見逃し配信有り
料 金 : 無料

新型コロナウイルスの影響や社会情勢の変化が、エネルギーや資材費の高騰を引き起こしている状況の中、博物館や美術館も持続可能な運営を行なっていくために、資金獲得の視点を欠かすことはできません。館の活動を継続・発展していくためには何を考え、実行していかなければいけないのか。本シンポジウムでは、3つのセッションを通じて、お金の側面からみた博物館運営のあり方について掘り下げていきます。館の運営に携わる現場の方々から文化庁における博物館行政の第一人者、資金調達の専門家まで幅広いステークホルダーの皆さまをお招きし、博物館の目指すべき姿について議論を交わしていきます。

こんな方におすすめ
 クラウドファンディングに興味のある方
 クラウドファンディングの実行を考えている方
 博物館・美術館に関わっている方
 芸術関連団体に所属している方
 文化芸術の保存・振興に関心のある方

視聴方法
本セミナーはオンラインでのライブ配信となります。配信ツールとしてはYouTubeを利用します。オンライン配信動画視聴方法につきましては、お申し込みいただいた方へのみ、YouTubeの配信URLをメールにてご案内します。
参加申込URL:https://cfevent.readyfor.jp/culture/230328
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スケジュール
 Session1 / 13:00-14:00 ミュージアムのファンドレイジングの現在地とこれから
  「文化芸術に関する多様な資金の活用状況」に関する基調講演
  博物館におけるファンドレイジング活動の現状と今後の展望
  登壇者
   中尾智行  文化庁博物館振興室 博物館支援調査官
   鎌倉幸子  かまくらさちこ株式会社代表 / 認定ファンドレイザー
   本川 博人  男鹿水族館GAO 館長
   廣安ゆきみ  READYFOR株式会社 文化部門長 / リードキュレーター

 Session2 / 14:10-15:10 「新しい」に挑戦するミュージアム
  
クラウドファンディングを実施した熊本市現代美術館の岩崎氏、
  碌山美術館の武井氏を迎え、それぞれの館の運営を維持・向上させていくための
  手段について具体的事例をもとにお話をお伺いしていきます。
  また、公立と私立の館の運営の違いや比較を通じて、共通する課題を明らかにします。
  登壇者
   岩崎千夏 熊本市現代美術館 副館長
   武井敏  碌山美術館 学芸員
   佐藤妙  READYFOR株式会社 文化部門 キュレーター
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 Session3 / 15:20-16:20 実践に学ぶ|地方公立館のクラウドファンディングの裏側
  公立館でのクラウドファンディングの舞台裏
  公立館ならではのプロジェクトの進め方やハードル
  クラウドファンディングがもたらした効果

  登壇者
   大久保卓  入間市博物館 文化財担当主幹
   島宗美知子 公益財団法人帆船日本丸記念財団 学芸課長補佐
   廣安ゆきみ READYFOR株式会社 文化部門長 / リードキュレーター

光太郎の親友だった彫刻家・荻原守衛を顕彰し、光太郎ブロンズ彫刻も多数所蔵、展示して下さっている信州安曇野の碌山美術館さん。昭和33年(1958)の竣工で、ロマネスク様式の教会風の碌山館(本館)が老朽化ということで、昨夏、クラウドファンディングにチャレンジ。目標額を大幅に上回る資金が集まり、秋以降、改修工事が進められました。

碌山美術館さんクラウドファンディング。
碌山美術館さんクラウドファンディング目標額到達。
新聞各紙から。
碌山美術館さんクラウドファンディング関連。

その実践例ということで同館学芸員の武井敏氏によるプレゼンが為されます。他館さんの報告や識者による提言等、盛りだくさんの内容となっています。「館」ではない文化芸術団体さん等にも参考となる内容でしょう。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

北海道で地面の中から自分の命の糧を貰ひます。そして、今の日本の芸術界と没交渉な僕自身の芸術を作ります。地球の生んだ芸術を得ようとします。そして、此が一面今の社会に対する皮肉な復讐です。僕は日本の東京の為めにどの位神経に害を与へられたか知れません。


明治44年(1911)4月8日 山脇信徳宛書簡より 光太郎29歳

昨日のこの項でご紹介した部分の続きです。北海道に移住し、酪農で生計を立てながら芸術を生み出そうという計画を表明しています。この後、実際に北海道に渡るのですが……。

現在、都内竹橋の東京国立近代美術館さんでは、光太郎の父・光雲の代表作「老猿」も展示されている「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」が開催中ですが、「文化財」つながりで2件。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻。地元紙『岩手日日』さんから。

有形文化財登録へ 花巻・旧菊池家住宅西洋館 文化審答申

 国の文化審議会(佐藤信会長)は、17日に開かれた同審議会文化財分科会で、登録有形文化財(建造物)に、花巻市御田屋町にある「旧菊池家住宅西洋館」を登録するよう文部科学大臣に答申した。老朽化を理由に一度は解体の話が持ち上がったが、関係者の尽力で保存がなされ、今に伝えられる大正期の洋風住宅。関係者は今後の保存活用に向けた活動の弾みになると答申を喜ぶ。
 旧菊池家住宅西洋館は、花巻出身で全国各地の農業試験場長などを務めた菊池捍(まもる)が1926年に建てた木造一部2階建ての自宅。
 瓦ぶきの半切妻屋根で、長い板材を横に重ねた外壁と縦長窓を並べた外観に、正玄関と通用玄関があり、生活空間と応接空間を分ける武家屋敷の間取りを持ちながらも、洋風天井で全て開戸、しっくい壁と、和洋折衷の独特な雰囲気を醸し出す。宮沢賢治の寓話「黒ぶだう」の舞台となったとも考えられている。
 2005年には老朽化から取り壊しの話が持ち上がり、保存運動が活発化した。07年には市の建造物評価委員会が「保存すべき建物」と結論づけ、市民有志の守る会が発足したが、市の財政支援が見込めないことから解散。盛岡市の医師が10年に購入し、市文化財保護審議会委員で長年調査や保存運動に携わってきた木村清且さん(72)に管理を託した。
 屋根瓦や内装を改修して活用方法を探り、21年には建物の継続的な保存・活用とゆかりの先人の顕彰活動を目的に発足した市民有志で組織する保存・活用委員会(木村清且委員長)が、一般公開と先人を紹介する展示を企画した。
 木村さんは文化財として認められたことを受け、「やっとここまできたという気持ち。先人が生きた証しであり、賢治の世界に迷い込んだような建物。先人の思いを掘り下げ、歴史をくみ上げて賢治の世界を醸し出すようなまちづくりにつなげたい」と話している。
 同市内の登録有形文化財(建造物)は花巻温泉旧松雲閣別館(湯本)が登録されており今回の登録を含め2件、県内では102件となる。
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同じ件でIBC岩手放送さん。

賢治の寓話の舞台にも 旧菊池家住宅西洋館(花巻市)など国登録有形文化財に

 大正時代に建設された花巻市の旧菊池家住宅西洋館など岩手県内で2件が新たに国の登録有形文化財に登録されることになりました。
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 花巻市御田屋町にある旧菊池家住宅西洋館は、1926(大正15)年に建設された洋風建築が特徴で、宮沢賢治の寓話「黒ぶだう」の舞台となったとも考えられています。
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 部屋は和室主体となっていますが洋風の天井で、全て開き戸と和洋折衷の貴重な建造物とされています。
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 明治前期に建設された遠野市の旧高善旅館は民俗学者・柳田國男が定宿としていて、通り土間など遠野の典型的な町屋として貴重な建造物とされています。
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 2階には床構え付の客室もある近代和風旅館のつくりです。今回の2件を含め、岩手県内の登録有形文化財は102件となります。

旧菊池家住宅西洋館、おそらく昭和21年(1946)、花巻郊外旧太田村に隠棲していた光太郎がこの家を訪れ、ピアノ演奏を聴いたというので、一昨年にお邪魔しました。確かに面白い建築でした。

『岩手日日』さんの記事にあるとおり、花巻市内では登録有形文化財(建造物)指定は、花巻温泉旧松雲閣別館に続き、2件目。こちらは光太郎が何度も宿泊した建物で、市内2件の指定がいずれも光太郎がらみの建造物ということになり、喜ばしい限りです。

松雲閣別館の方は、今一つ活用が為されていないようですが、旧菊池家住宅西洋館の方は、さまざまな機会に利用し、町おこしに貢献していただきたいものです。

ところで、今回の答申では、智恵子の故郷・福島二本松市街の「檜物屋酒造店旧店蔵」も登録されました。「文庫蔵」と「仕込蔵」の2件です。檜物屋酒造店は明治7年(1874)の創業。智恵子の祖父・長沼次助が油井村に長沼酒造を興したのは明治16、17年(1883、84)頃。同じ酒造業同士、つながりはあったでしょう。
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上の画像は、かなり後になりますが昭和12年(1937)の『大日本職業別明細図』から。この時点では長沼酒造は破産しているのですが、なぜかまだ智恵子の弟・啓助の名で出ています。

ちなみに檜物屋酒造店さんは健在で、銘酒「千功成」は数々の賞に輝いています。公式サイトでは「智恵子の里は 酒の里 ほんとうの空 ほんとうの酒」と謳ってくださっています。
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もう1件、杉並区さんのサイトから。

4年度の区指定文化財が決まりました(5年3月15日)

 区では、昭和58年度から文化財指定を行っています。令和4年度は、歴史資料1件、考古資料1件を指定しましたのでご紹介します。

(1)【区指定有形文化財(歴史資料)】尾崎喜八関係資料(ガラス乾板附ネガフィルム)747点
本資料は、大正末期から昭和戦前期にかけて杉並区に住んだ詩人・尾崎喜八が杉並区内外の風景・人物などを撮影したガラス乾板とネガフィルムです。
 同資料からは、尾崎の嗜好や生活環境、交友関係などが窺えると同時に、カメラが希少な時期に撮影された区内外の写真は全体として貴重であり、農村の面影を残す当時の区内の自然や生活風景も収められています。
 写真を自らの創作の背景を説明する手段としても利用した尾崎の乾板は、尾崎自身や作品の理解に資する資料であり、詩人・尾崎喜八を考察する上で欠く事の出来ない貴重な資料です。
【所在】郷土博物館(杉並区大宮1丁目20番8号)

昨年12月から先月にかけ、杉並区立郷土博物館さんで開催された企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」で一部が展示された、尾崎喜八撮影の古写真が区の文化財に指定されたとのこと。同区在住当時の尾崎が撮った戦前の写真が中心でしょう。ビジュアル的に当時の様子をつかむには、写真は最適ではありますが、写真を文化財指定するという区の英断には頭が下がります。
011
気になるのは「杉並区内外の風景・人物などを撮影」となっていること。となると、尾崎は駒込林町の光太郎アトリエでも数葉の写真を撮影しており、それも含まれるのかな、と思いました。

この写真も尾崎の撮影です。
駒込林町アトリエ
また、光太郎のポートレートも。
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ともに昭和8年(1933)2月のものです。

それから、下記は尾崎一家と光太郎。
喜八撮影
これには尾崎自身が写っており、当時、セルフタイマーというものは無かったのではないかと思われ、そうすると他の人物の撮影ということになりますが、どうなのでしょう。カメラの歴史に詳しい方、御教示いただければ幸いです。

また、4月2日(日)日比谷松本楼さんで開催予定の第67回連翹忌の集いに、尾崎令孫の石黒敦彦氏もご参加下さり、写真の一部をご持参、展示して下さるそうなので、訊いてみようかとは思っております。

さて、文化財指定。

形有るものはすべていずれその形を失うものではあります。だからと言って、失われるに任せるのではなく、少しでも失われるまでの時間を延ばすことは可能なわけで、そうした意味では文化財指定は有効な手段の一つでしょう。

そして、指定して終わりではなく、先述しましたが、指定後の有効活用も重要ですね。今回指定されたもろもろも、そうなっていって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

あゝ彫刻が作りたい。


明治43年(1910)10月10日 長田秀雄宛書簡より 光太郎28歳

「じゃあ、作れよ」とツッコミたくなりますが、ことはそう簡単ではありません。前年に欧米留学から帰ってからの光太郎、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界とは距離を置くことを決意しましたので、作っても発表する機会は無し、自分で売りさばくことも無名の自分には不可能、という状況でした。

光太郎の生涯にたびたび訪れた、彫刻制作空白の時期、その最初のものです。








昨日は、第65回高村光太郎研究会ということで、都内に出ておりました。同会、コロナ禍のため3年ぶりの開催となりました。

会場は文京区のアカデミー千石さん。
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ご発表はお二方。

『高村光太郎小考集』という書籍の御著者・西浦基氏。千葉県職員であらせられる安藤仁隆氏。
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西浦氏は「彫刻家・高村光太郎」と題し、様々な私見やヨーロッパで撮影された画像等ご紹介しつつ、光太郎の造型について語られました。
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安藤氏は、「旧居アトリエと智恵子抄ゆかりの田村別荘(その変遷と間取りについて)」。まず旧本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の光太郎住居兼アトリエについて、建築の方面からの実に詳細なアプローチ。光太郎自身が書き残した図面や文章、周辺人物の回想、さらに戦前の航空写真などから、建築系のソフトやCG等も駆使され、住居兼アトリエの姿を浮き彫りにされました。
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同様に、昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が療養のため半年余り滞在した千葉県九十九里浜の「田村別荘」についても。
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安藤氏、既に今年4月に発行された同会から発行された『高村光太郎研究(43)』に、二つの建物についての論考を発表なさっていますが、さらに詳細な点が解明されていました。

ところで、光太郎アトリエといえば、今回会場のアカデミー千石さんのロビーで、こんなものをゲットしました。「谷根千ゆかりの文人まっぷ」。文京区立本郷図書館さんの制作です。
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A4判を3枚、横につなげた判型で、その表裏両面に印刷されていますから、全6ページ。2ページずつ、地図、谷根千ゆかりの文人たち紹介、彼らの生没年表となっていました。

光太郎智恵子、光雲も。
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アカデミー千石さんのような文京区内の区立施設には、ほぼ必ず置いてあるのではないでしょうか。ご入用の方、探してみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

宮崎丈二氏檜材(小)持参、


昭和30年(1955)2月23日の日記より 光太郎73歳

肺結核のため、ほとんど臥床していた光太郎ですが、木彫作品用の木材を手配を頼んでいました。結局、それを使って木彫作品が作られることはありませんでしたが。光太郎自身も無理だろうとわかっていたように思われるのですが、それでも入手するあたり、彫刻家としての「業(ごう)」のようなものを感じます。

宮崎丈二」は詩人。宮崎の親友で、光太郎が起居していた貸しアトリエを、宮崎と共に何度か訪れた浅野直也という人物が材木商でしたので、入手経路はその関係と思われます。

3年ぶりの開催です。

第65回高村光太郎研究会

期 日 : 2022年11月26日(土)
会 場 : アカデミー千石 東京都文京区千石1‐25‐3
時 間 : 14:00~17:00
料 金 : 500円 

研究発表
 「彫刻家 高村光太郎」 西浦基氏

 「旧居アトリエと智恵子抄ゆかりの田村別荘(その変遷と間取りについて)」
   安藤仁隆氏

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当方も加入しております高村光太郎研究会主催の研究会で、コロナ禍前は年に一度開催されていました。昔は年に数回ということもあったようで、65回目のようです。

発表されるのはお二方。

西浦基氏は『高村光太郎小考集』という書籍の御著者。

安藤仁隆氏は、一昨年の研究会でご発表の予定でしたが、コロナ禍のため中止となり、今回にスライド。今年同会から発行された『高村光太郎研究(43)』に、「光太郎・智恵子が暮らした旧居アトリエの建築について」及び「智恵子抄ゆかりの「田村別荘」(その変遷と間取りについて)」という論考2本を執筆されていて、そちらを元にされたご発表でしょう。

建築に造詣の深い同氏、タイトルの通り、旧本郷区駒込林町にあって、昭和20年(1945)の空襲で焼け落ちた光太郎アトリエ兼住居、そして昭和9年(1934)に智恵子が療養のため半年余り滞在した千葉県九十九里浜の「田村別荘」について、実に詳細な調査を行われています。最近もまた、新たな発見があったとお知らせいただきました。

研究会への参加はご自由に、です。組織としての会に加入せずとも、発表の聴講のみも可能です。ぜひご参加を。

【折々のことば・光太郎】

タバコ買ひに一寸外出、 
昭和30年(1955)2月9日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核のため、前年から臥床していることが多く、一時は外出もままなりませんでしたが、この時期は小康状態。おそらく前年5月以来の外出でした。

しかし、その用事が「タバコ買ひ」。肺結核なのに、自殺行為ですね……。

お世話になっております信州安曇野の碌山美術館さんから、書簡が届きました。

何かと思えばこういう内容で……。
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同館のフェイスブックにこの件が出ていました。

【予告】7月15日(金)からクラウドファンディングに挑戦します!

碌山美術館はこれまで、施設の拡大とともに碌山と関係の深い優れた芸術家たちの作品コレクションを充実させ、 日本近代彫刻の展開をご覧いただけるよう努めてきました。

しかし64年の月日による傷みが「碌山館」を侵食しています。当館の本館にあたる荻原守衛の作品を展示する「碌山館」には雨漏りが見られ、修繕は早急の課題です。本来であれば補助金や自己資金で賄うところですが、昨年から続く新型コロナウイルス感染症の影響で、収入が大幅に減少し、今はなんとか積立金を取り崩しながら運営しているのが現状です。

この状況を打破し、貴重な作品を守り未来へとつなぐ為に、クラウドファンディングに挑戦することといたしました。目標金額は700万円。目標に届かなければいただいたご支援は全て返金になってしまう「All or Nothing」というルールです。クラウドファンディングでは、公開直後の5日間でどれだけ支援を集められるかが成功のポイントだといわれております。

そこで、今回の取り組みに少しでも共感していただけましたら、公開直後のタイミングで、ぜひご支援をいただけないでしょうか?

今回皆様からいただいた資金は、碌山館の修繕費に充てさせていただき、雨漏りの修繕、扉の再塗装などもあわせておこない、美しい姿で皆様をお迎えいたします。長い歴史の中でたくさんの方々のお力をお借りしてここまでつないできた想いを後世へつないでいきたい。そのために一生懸命取り組んでまいります。

是非、ご支援ください。

▼詳細・ご支援方法は7月15日(金)以降下記からご覧いただけます。
第一目標金額:700万円
支援募集期間:7月15日(金)9時〜8月31日(水)23時

申込書を兼ねたフライヤーも同封されていました。
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同館は、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎ブロンズも複数所蔵されており、第1展示棟で入れ替えながら常設展示して下さっています。

そしてメインの建物が、碌山館。昭和33年(1958)の竣工で、ロマネスク様式の教会風。安曇野のシンボル的な建造物でもありますね。
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入り口の内壁には、守衛を支えた人物ということで、光太郎の名も刻まれています。
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内部には、国指定重要文化財の「女」をはじめ、現存する守衛彫刻の全作品。

その碌山館が、ピンチです。こんなところにもコロナ禍の影響か、という感じですが。

当会としまして、早速、3万円コースで申し込み、入金を致しました。皆様方におかれましても、是非とも御支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

午前十時半出かけ車で浴風園、レントゲン検査、結局結核性と分る、静脈瘤ではないらし、いろいろ注意をきいてかへる、


昭和28年(1958)7月6日の日記より 光太郎71歳

「浴風園」は、現在の浴風会病院さん。こちらの医師・尼子富士郎に診てもらい、正式に結核と診断されました。自覚症状もあって自分ではわかっていたはずですが、これまで対外的には認めていませんでしたが、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の原型も完成し、一区切り、ということだったのでしょう。

当方も加入している高村光太郎研究会発行の年刊誌『高村光太郎研究』の第43号が届きました。
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巻頭に2本の論考。いずれも千葉県教育庁にご勤務の、安藤仁隆氏によるものです。安藤氏、建築に造詣が深く、それぞれ建築に関する内容で、1本目は「光太郎・智恵子が暮らした旧居アトリエの建築について」。明治45年(1912)、光太郎自身の設計により竣工した、旧本郷区駒込林町25番地(現・文京区千駄木)のアトリエ兼住居(昭和20年=1945、空襲により焼失)の建築が徹底的に解剖されています。
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何とまぁ、光太郎本人が書き残した図面、当時の写真、周辺人物の回想等から、完璧な図面を再現されました。
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これまでも、簡略な図面は再現されてはいたのですが、あくまで簡略なもので、今回のものはレベチですね。

さらに、外観も。現代のコンピュータでは、ここまでできてしまうんだ、と舌を巻きました。
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これまで、アトリエ外観の写真は、上のほうに載せた画像(尾崎喜八撮影)を含め、南東側から撮ったものしか確認されておらず、他の方向から見るとこうだった、というのが手に取るように分かります。

さらに、光太郎によるこの設計、英国風の影響が色濃い、というご指摘。実際の建築の写真と比較すると、これもうなずかされます。
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光太郎、イギリスには明治40年(1907)から翌年にかけ、約1年滞在しましたが、こののちに移り住んだパリと比べ、美術の部分では、あまり影響を受けることはなかったと回想しています。ところが、人々のライフスタイルという面では、伝統ある英国ということで、好ましいものと感じていました。そこで、帰国後に設計したアトリエ兼住居にも、英国風の要素を多く取り入れたと思われます。

安藤氏の論考、2本目は「智恵子抄ゆかりの「田村別荘」(その変遷と間取りについて)」。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年余り療養のため滞在した、千葉九十九里にあった家屋についてです。こちらは移築が繰り返され、最終的には平成11年(1999)に取り壊されてしまい、今は見ることが出来ません。

氏の亡父が、彼の地に今もある伊勢化学工業に勤務されており、移築にも関わられたそうで、移築後に住まわれた方とも交流があったとのこと。そこで、その方への聞き取り調査などを元に(一度、当方も同行させていただきました)、「田村別荘」の竣工から取り壊しまでをまとめられています。登記簿や昔の航空写真等も丹念に調べられ、こちらも凄いものだと驚愕しました。

元々は、大正9年(1920)に東京本郷区の田村豊蔵という人物が建てた家屋で、福島の智恵子の実家の破産後、智恵子の妹のセツ一家、そして智恵子の母・センが、昭和8年(1933)に移り住みました。そして翌年には智恵子が預けられています。
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その後、セツ一家が転居、所有者が何度か変わって、場所的にも移築され、昭和46年(1971)には地元の観光組合に譲渡されて、「智恵子抄ゆかりの家」として保存されていました。しかし、前述の通り、平成11年(1999)に取り壊されています。

重要なのは、昭和30年(1955)、大規模な改築が行われたこと。これにより、間取りも大きく変わり、「智恵子抄ゆかりの家」として保存されていた時期は、智恵子が暮らしていた頃とは似て非なる家屋だったというわけです。ただ、改築の際に、元々の部材等がかなり再利用されたようですが。

安藤氏、ここでも聞き取り調査等を元に、元々智恵子が暮らしていた頃の図面を起こされています。
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先述の駒込林町アトリエにしてもそうですが、こうすることで、光太郎智恵子の息吹的なものが、また違った角度から感じられますね。

安藤氏の論考2本の後に、当方の連載。

まずは「光太郎遺珠」。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』完結(平成10年=1998)後に見つかった光太郎の文筆作品等を、年に一度ご紹介するものです。ただ、昨年の『高村光太郎研究』は、当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼号ということで、広く稿を募り、「光太郎遺珠」および後述の「高村光太郎歿後年譜」はカット。そこで、2年分の発見を載せてあります。

短歌が4首。昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品させていただいた、新発見の木彫「蝉」を収める袋(智恵子手縫いと推定)にしたためられていたものが1首、そして、東京美術学校で同窓だった彫刻家・今戸精司の死去に伴い、弔文的に贈ったものが三首。

散文が七編。ブロンズ彫刻の代表作、「手」(大正7年=1918)について語った「手紙」(大正8年=1919)と「」(昭和2年=1927)、彫刻家・毛利教武の彫刻頒布会パンフレットに寄せた「毛利君を紹介す」(大正8年=1919)、詩人・童謡作詞家の平木二六について述べた「藻汐帖所感」(昭和6年=1931)、さらに「リルケ全集について」(昭和18年=1943)、「賢治詩碑除幕式に於いて」(昭和25年=1950)、「(花巻の人は)」(昭和27年=1952)。談話筆記として「高村光太郎先生説話」(昭和27年=1952)。

雑纂という扱いにしましたが、新聞に載ったインタビューで、昭和12年(1937)、『北越新報』に載った新潟長岡での「高村光雲遺作展観」の観覧感想、昭和26年(1951)、『花巻新報』に載った、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋増築と、交流のあった写真家・内村皓一に関するもの。

書簡が13通。明治42年(1909)、欧米留学の最後に訪れたイタリアから、実弟の道利に宛てた絵葉書などを含みます。

それから、「高村光太郎歿後年譜」。これも一昨年、昨年の2年分で、このブログでご紹介してきたさまざまなイベントや刊行物等をまとめてあります。

ご入用の方、最上部に奥付画像を載せておきましたので、そちらまで。頒価1,000円だそうです。ちなみに「光太郎遺珠」作成にご協力いただいた方には、当方よりのちほどお送りします。その分を手配中でして。

【折々のことば・光太郎】

小屋片づけをしてゐる、 田頭さん夫人に婦人之友七年間の全部を進呈、


昭和27年(1952)10月8日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋からの帰京に向けての片付けです。ただ、像の完成後にはまた太田村に戻るつもりで居ましたし、実際、翌年にごく短期間戻りました。しかし、結局は宿痾の肺結核が、山小屋生活を続けることを許しませんでした。

昨日は久々に都内に出ておりました。昨秋以来、感染予防の観点から都内は通過するだけにとどめていたのですが、そろそろ新規感染者数も減少傾向にあり、短時間ならいいかな、という判断でした(都内在住・在勤の方には失礼かも知れませんが)。

まず向かったのは、田町の日本建築学会図書館さん。建築会館さんの中に、建築博物館などとともに併設されています。
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こちらはその名の通り、建築専門の書籍や雑誌等を数多く収蔵していて、国会図書館さんにないものも数多くあります。

お目当ては大正時代の雑誌『建築之日本』。この中に、光太郎が文章を寄稿しており、それが筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に洩れているものらしいので、閲覧に伺った次第です。

数年前に『建築之日本』への寄稿、同館に収蔵があること、ともに情報を得ていたのですが、同館の利用規程は、日本建築学会さんか土木学会さんの会員というのが基本で、会員外が利用したければ正会員の紹介状が必要、ということで、困っておりました。

ところが捨てる神あれば拾う神ありでした。一昨年の11月、智恵子の故郷・福島二本松で開催され、当方が講師を務めさせていただいた「智恵子講座2020」をお聴きくださった方の中に、建築のお仕事をなさっている方がいらっしゃいました。そこで、「かくかくしかじかの事情で困っている」とお話ししたところ、後日、日本建築学会さんの会員の方をご紹介下さり、紹介状を書いていただくことができたのです。

しかし、またコロナ感染拡大で同館も休館になったり、再開後も第6波で都内へ出るのも自粛したりしているうちに、月日が経ってしまっていました。

さて、昨日。過日ご紹介した上野の森美術館さんでの「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」拝見も兼ねて(そちらは明日、レポートします)上京。まず、日本建築学会図書館さんに伺った次第です。

009目指す『建築之日本』。合本の状態で、開架の棚に収められていました。よく行く国会図書館さんやら各地の文学館さんやらだと、資料は書庫から出してもらうのが常ですので、意外といえば意外でした。

光太郎の文章が載っているのは、大正5年(1916)10月の第1巻第5号。実は、他の号と併せて4冊セットになって、とある古書店さんが売りに出しているのですが、その価格、52,800円。100年以上前の、国会図書館さんにも所蔵のない珍しい雑誌なので、むべなるかな、ですが、手が出ませんでした。当該号のみで1万いくらなら、購入していたかも知れませんが……。そんなことを思いつつ、頁を繰りまして、見つけました。題して「書斎の構造」。3ページにわたって掲載されていました。他の文章ではあまり見かけないのですが、執筆者名の上に「彫刻家」とわざわざ記してあります。
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「◎広さ」、「◎床」、「◎光線」、「◎調度」の4項目で構成され、書斎とはこうあるべき、という論が展開されています。書斎に限らず建築全般にも筆が及び、茶の湯の精神とあるべき建築との関連を「無駄を省く」という観点から関連づけていたりし、いかにも光太郎らしいと感じました。

さらに興味深かったのは、アトリエに関しての記述。戦災で焼失した駒込林町のアトリエについて、「三間に四間半」と記されていました。これは既に知られていた光太郎自筆の図面と完全に一致しました。このアトリエ兼住居、光太郎自身の設計です。
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グリッドが記されていて、「一コマ三尺四方」ということですので、2コマで一間となります。で、アトリエ部分は縦6コマ、横9コマ、まさに「三間に四間半」ですね。畳数で言うと27畳ということになります。

ちなみに書斎もこの位の広さが好ましい的な記述があるのですが、実際の書斎は図にあるように6畳でした(どうでもいいのですが、当方の書斎は4畳半です(笑))。さすがに27畳の空間を二つ、というわけにはいかなかったのでしょう。全体は3階建てでしたが、アトリエ部分は1、2階吹き抜けでしたし、3階部分は切妻屋根の関係で狭くなっています。
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前後の号に光太郎の寄稿がないかも確認しましたが、ありませんでした。

「書斎の構造」全文は、先の話になりますが、来年4月刊行予定の『高村光太郎研究』第44号にてご紹介します。この珍しい雑誌を保存してくださっていた日本建築学会図書館さん、さらに閲覧のための紹介状の件でお骨折り下さった方々に、改めて御礼申し上げます。

ちなみに『高村光太郎研究』。今年4月発行予定の第43号には、建築にご造詣の深い安藤仁隆氏による駒込林町アトリエ、それから智恵子が昭和9年(1934)に療養していた九十九里浜の田村別荘について、建築の観点から論じた論考が載る予定です。原稿を拝見しまして、まさしく瞠目しました。またその件についてはのちほどご紹介します。

それにしても、光太郎の書き残したもの、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、そのかなりの部分を見つけられ、『高村光太郎全集』に収めてくださいましたが、この手のマニアックな雑誌への寄稿が少なくなく、未だにその全貌が掴めていません。『建築之日本』同様、本当に限られた業界関係者向けの雑誌への寄稿として『薬店経営』という雑誌に載った散文?「清くして苦きもの」(昭和16年=1941頃)、静岡で発行されていた少部数の同人誌『太陽花』に載ったホイットマン訳詩「栗色の顔をした野の若者よ」(昭和2年=1927)など……。

今後もその発掘に力を注ぎますが、ご協力の程、よろしくお願い申し上げます。

「ご協力お願いいたします」ついでに早速ですが、昨日発見した「書斎の構造」の中に「かのフロレンスクビツチのやうに、只必要な石を組み立てたのみで、それに窓が明いてゐるばかりの建築」という一節があり、「フロレンスクビツチ」の意味が解りません。旧仮名遣いやらの関連、あるいは誤植でもあるのかで、現代では別の表記がされるのが一般的な単語なのかと思われますが、光太郎と違って、建築にそれほど詳しくない当方にはお手上げです。おわかりの方、御教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

藤島宇内氏来訪、東京中野の中西利雄氏アトリエが借りられる由、尚青森県との協定書二通に捺印、藤島氏は今夜青森にゆき、県庁の捺印を受け、一通小生の保監の由、

昭和27年(1952)7月3日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の関係です。結局、光太郎終焉の地となった中野の貸しアトリエを借りられることになったことが語られています。この建築は、現存しています。








一昨日は、都内文京区千駄木の、旧安田楠雄邸にて開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、講師を務めさせていただきました。

午後1時からと4時からの2回公演でしたが、その合間等に、会場周辺をぶらぶら散歩。ご来場いただいた方々に、この地が光太郎智恵子、そして光雲らのゆかりの地であることから、当方作成の「光太郎智恵子光雲関連マップ」をお配りしました。ところが、自分自身、ゆかりのスポットとして挙げておきながらそこに行ったことがないという場所もありまして、時間もあったので歩いた次第です。

こちらがマップの「千駄木版」。地図上の番号は、だいたいの位置です。
千駄木マップ
まず、午後1時の部の始まる前、会場の旧安田邸から100㍍程の、光太郎アトリエ跡に。「光太郎先生、智恵子さん、これからお二人のお話をさせていただきますよ」という意味で。
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現在は一般の方の住宅となっており、当時を偲ぶよすがは文京区教育委員会さんの設置したこの案内板しかありませんが。

ここに昭和20年(1945)の空襲で焼失するまで、これが建っていたわけです。
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その後、午後1時の部終了後、須藤公園へ。この周辺は光太郎詩「落葉を浴びて立つ」(大正11年=1922)の舞台とされています。光太郎が詩に謳った頃には、まだ公園として整備されていませんでした。
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道すがら、戦災に遭わなかったと見られる建造物がいろいろありまして、古建築好きの当方、テンションが上がりました(笑)。
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この一角、元々お屋敷町でしたので、さもありなん、です。

それにしても、旧安田邸や、隣接する光太郎実家(旧髙村光雲邸)もそうですが、空襲の被害を免れた家もあれば、光太郎アトリエや、団子坂の観潮楼(森鷗外邸)のように、焼失してしまったところもあり、紙一重の差だったんだなぁと思いました。

歴史に「たられば」は禁物ですが、もし光太郎アトリエも燃えずに残っていたら、光太郎もわざわざ花巻まで疎開することもなかったでしょうし、その後の光太郎の人生も大きく変わったように思われます。

ちなみにマップは裏表両面印刷になっておりまして、もう片面には「広域版」ということで、千駄木を中心に半径3㌔㍍ほどの広域バージョンも作りました。ご参考までに。
広域マップ
これ以上広げて、浅草や日本橋、神田方面等まで入れますと、さらにゆかりの場所が倍増して、説明を書ききれませんので、この範囲でやめておきました。

さて、昨日、愛車に積んで置いた機材やら展示した資料やらの荷物を下ろしたところ、紙包みが。安田邸スタッフの方に「聴きにいらした方から差し入れだそうです」と渡されたものでした。開けてみると……
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どなたか存じませんが、ありがとうございました。この場をお借りして(自分のサイトですが(笑))御礼申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

学校までの往復の雪みちもかたまりて歩きよくなれり。 兎や狐の足あと此頃ふえる。


昭和24年(1949)1月21日の日記より 光太郎67歳

この年の日記は、翌日以降、翌年12月30日までの、約2年間分の現存が確認できていません。そのため、昭和24年(1949)、25年(1950)と、光太郎の細かな行動で不明の部分が多くあり、残念です。

光太郎自身が処分したとも考えにくく、誰かが持ち出してしまったのかという気もします。どこかにひっそりと残っていないものでしょうか。

『週刊ポスト』さんの2021年9月10日号に、光太郎の父・光雲の名。巻末の「山下裕二×壇蜜/美術館へ行こう」という連載です。
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この連載、8月20日号から港区の芝増上寺さんが扱われていて、その4回目です。

増上寺・宝物展示室【4】壇蜜、日英友好「建築模型」の存在感に見入る

 日本美術応援団団長で美術史家・明治学院大学教授の山下裕二氏と、タレントの壇蜜が、日本の美術館や博物館の常設展を巡るこのシリーズ。今回は東京都・港区の増上寺・宝物展示室の第4回。2人が日英両国の友好の証である貴重な「模型」を見る。

デザイン:古宇田實、彫刻:高村光雲『台徳院殿霊廟模型』(中門・透堀・拝殿・相之間・本殿)明治42年(1909年) Royal Collection Trust/(c) Her Majesty Queen Elizabeth II 2021

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壇蜜:増上寺の宝物展示室はお寺の中とは思えないモダンな異空間です。『台徳院殿霊廟模型』は豪華絢爛で存在感を放っていますね。
山下:日本文化を紹介する趣旨で明治43年の日英博覧会へ出品された建築模型で、明治末期の伝統工芸や建築の最高の技術が結集されています。台徳院殿霊廟は徳川2代将軍の秀忠公の墓所で、3代・家光公が寛永9年に増上寺で造営したもの。この霊廟を基に日光東照宮も造営されました。
壇蜜:装飾美を誇る日光東照宮の原点だったとは。霊廟は境内で見学できますか。
山下:明治時代に一般公開されて観光地となり戦前には国宝に指定されていましたが、昭和20年に大空襲で焼失してしまいました。
壇蜜:戦火で……。模型が残っていたのは貴重です。
山下:日英博覧会を訪問した記念に英国国王のジョージ5世へ献上された後、英国王室のロイヤル・コレクションとして保管されていたのです。日英友好400年の平成25年にエリザベスII世女王より日英文化交流の歴史的記念物として日本で展示するよう提案があり、増上寺へ長期貸与という形で里帰りしました。
壇蜜:模型は日英両国が築いた友好の証なのですね。
山下:展示前の修復・組み立て作業中に重要な部品をチャールズ皇太子が直々に届けられたことも。令和元年に天皇陛下の「即位礼正殿の儀」で来日された折には、宝物展示室を訪れて模型をご覧になりました。
【プロフィール】
山下裕二(やました・ゆうじ)/1958年生まれ。明治学院大学教授。美術史家。『日本美術全集』(全20巻、小学館刊)監修を務める、日本美術応援団団長。
壇蜜(だん・みつ)/1980年生まれ。タレント。執筆、芝居、バラエティほか幅広く活躍。近著に『三十路女は分が悪い』(中央公論新社刊)
●増上寺・宝物展示室
【開館時間】10時~16時(最終入館15時45分)※当面の間、平日は11時~15時閉館(最終入館14時45分)
【休館日】火曜(祝日の場合は開館)
【入館料】700円 ※徳川将軍家墓所拝観共通券1000円
【住所】東京都港区芝公園4-7-35

「台徳院殿霊廟模型」。記事にある通り、明治43年(1910)に開催されたイギリスでの博覧会出品のため制作され、その後、英王室に寄贈されましたが、平成25年(2013)に里帰りし、修復作業後、同27年(2015)にオープンした増上寺さんの宝物展示室で常設展示されています。当方も一度、拝見に伺いました

元々、増上寺さんにあった、徳川二代将軍・秀忠の墓所「台徳院殿霊廟」(太平洋戦争の空襲で焼失)を10分の1スケールにしたもので、東京美術学校が依頼を受け、光雲は監修という立場でした。光雲が彫った部分もあるかもしれませんが、全体には工房作の扱いですね。

ところで山下氏、いわゆる「超絶技巧」系の工芸作品等の魅力を広めた仕掛け人のお一人ですが、どうも光太郎が「超絶技巧」系を「生命(ラ・ヴィ)が無い」と切り捨てたことを根に持たれているようで、あちこちで光太郎をけちょんけちょんにけなされています。技法や素材云々にかかわらず、「生命(ラ・ヴィ)が無い」ものはやはり駄目、光太郎の言も至極もっともだと思うのですが、いかがでしょうか。

山下氏、一方、光雲は、どちらかというと「超絶技巧」系に近い立ち位置だったということで、その限りではないようです。光雲は光雲で、輸出向けの牙彫(象牙彫刻)など、粗製濫造のものが多い、と、批判していたのですが……。

閑話休題。「台徳院殿霊廟模型」、先述の通り、増上寺さんの宝物展示室で常設展示されています。一見の価値あり、ですのでよろしく。

【折々のことば・光太郎】

学校で雉子生捕  昭和23年(1948)10月13日の日記より 光太郎66歳

「学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校です。生け捕りにしたキジは、光太郎が捕まえたのか、先生たちなのか、この記述だけでは不明ですが、翌日にはその肉を分けてもらっています。

7月11日(日)、花巻市博物館さんで「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」を拝観後、レンタカーを市街地に向けました。次なる目的地は、市中心部御田屋町にある旧菊池捍(まもる)邸。先月末からの土・日限定で、内部の公開と、音楽/朗読イベントが開催されています。
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何度か、レンタカーでこの前を通ったことがあるのですが、その存在に気づいていませんでした。歩いていたら見逃さなかったのでしょうが。
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KIMG5223大正15年(1926)の竣工。当時の花巻では珍しい洋館です。ただ、完全な洋館でもなく、奥の方は畳敷きの和室もあり、和洋折衷。この家の持ち主だった菊池捍が、札幌農学校出身ということで、北海道の建築スタイルと、元々の武家屋敷の様式をうまく融合させて設計を依頼したようです。右画像の窓などは、上下にスライドさせて開ける形になっており、北海道の建築によく見られるタイプだそうで。

ただ、内部の造作では、洋館建築のお約束の装飾パーツ(アカンサスやデンティルなど)が見当たらず、そういう技術を持った左官屋さんなどが、当時の花巻近辺には居なかったのかな、などと思いました。

菊池家は元々、南部藩の砲術方だったそうで、この場所には江戸時代から屋敷があったということですが、近隣からのもらい火でその屋敷は燃え、大正時代に新しくこの家を建てたとのこと。

昭和天皇の弟・秩父宮雍仁親王がここに泊まったそうです。また、宮沢賢治の寓話(以前、「童話」と書きましたが、「寓話」というべきだそうで)「黒ぶだう」の舞台「ベチュラ公爵の別荘」に比定されている他、童話「銀河鉄道の夜」に出てくるカムパネルラ宅も、この家からのインスパイアではないかという説があるそうです。

そして、光太郎。

光太郎の日記には、この家を訪れた記述が見当たりませんが、捍の息女である故・聡子さんの回想が残っていました。
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ピアノ講師を永らく務めていた聡子さん、賢治実弟の清六と共に訪れた光太郎に、ピアノ演奏を披露したとのこと。
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義姉の故・初枝さんがこの家にいらしたのは、昭和23年(1948)の3月頃までだそうですので、それまでの間、ということになります。

その間の光太郎の日記は、昭和21年(1946)5月16日~7月16日と、9月21日~10月9日、いずれも太田村から花巻町に出かけていた時期の分が欠けており、この間なのでは、と推測できます。

もう少し、建物の外観等を。
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下は別棟というか、離れというか。菊池捍の娘婿だった画家、寺島貞志が使っていたアトリエです。
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さらに、昔ながらの蔵も。
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午後4時から、音楽/朗読イベント。
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奥の和室で開催されました。
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「智恵子抄」の中から、「樹下の二人」(大正12年=1923)、「あどけない話」(昭和3年=1928)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)の朗読もしていただき、ありがたい限りでした。

今後、この建物の活用方をいろいろ考えていかれるそうで、いいことだと思います。有効に使われてほしいものです。

また、今週末の7月17日(土)、18日(日)にも、とりあえず最後の内部公開があるそうですので、ご都合の付く方、ぜひどうぞ。

この後、当方は定宿としております大沢温泉さんへ。
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続きは、明日。

【折々のことば・光太郎】

光太郎赤ちゃんお誕生に書く言葉をきめる。「日輪光光」。


昭和23年(1948)4月21日の日記より 光太郎66歳

「光太郎赤ちゃん」は、茨城取手在住だった詩人の宮崎稔と、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子夫妻の長男。光太郎を敬愛する二人が、我が子を「光太郎」と名付けました。

光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻からイベント情報です。

菊池捍生誕150周年記念 旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展

期 日 : 2021年6月26・27日、7月3・4日、10・11日、17・18日
      (6月第4週~7月第3週までの土曜日・日曜日開催)
会 場 : 旧菊池捍邸 岩手県花巻市御田屋町2-9
時 間 : 10:00~16:00
料 金 : 無料

大正15年に建てられた菊池捍邸は洋館のような外観にも関わらず間取りは武家屋敷という大変貴重な建物となっている。10年ほど前まで菊池捍氏の子孫が住んでいたので内部も建築当時のままきれいに残されている。

菊池捍氏は明治3年花巻城士の子に生まれ、新渡戸稲造の勧めで札幌農学校に進学。同じく花巻出身の総長佐藤昌介と新渡戸に薫陶を受けた農業技術者だった。全国どころか、台湾やスマトラでも活躍したのち帰郷。北海道時代に見た開拓使の建物に影響されてこのような洋館風の外観で家を建てたものと思われる。

イベント当日の展示は、その菊池捍に関連する資料とその次男で、戦前戦後に活躍した写真家菊池俊吉が撮った写真、そして空襲で東京のアトリエを焼かれ、この家に疎開した娘婿で、戦前のプロレタリア美術の第一人者だった寺島貞志の絵、佐藤昌介やその妹で島崎藤村の初恋の相手佐藤輔子、佐藤輔子がのちに結婚した鹿討豊太郎の写真など、この家にまつわる方々の資料や作品となる。宮沢賢治や高村光太郎などもどうやらこの家に関わっている由。

関連行事 :
 6月26日(土) オープニングセレモニー トークイベント
  木村清且さん(木村設計A・T代表取締役社長)
  平澤広さん(花巻市立萬鉄五郎記念館学芸員)
  坂場有紀子さん(菊池捍氏曾孫)
 各日曜日 16:00~17:30 朗読会などの併催イベント
  6/27 宮沢賢治作品朗読と昔話、レコード鑑賞
  7/4   宮沢賢治作品朗読と朗読劇、レコード鑑賞
  7/11 宮沢賢治、高村光太郎詩朗読、フルート演奏
  7/18 おとなに贈るおはなし会、レコード鑑賞

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菊池捍(まもる)は、花巻出身の農業技術者。昭和19年(1944)に歿していますので、光太郎と直接の面識はありませんでしたが、その姻族の佐藤昌(元旧制花巻中学校校長)は、昭和20年(1945)の花巻空襲で、疎開先の宮沢賢治実家を焼け出された光太郎を1ヶ月近く住まわせてくれ、その後も光太郎と交流を続けた人物でした。他にも宮沢家などで、菊池の縁者の人々と同席した記録が残っています。

言い伝えによると、光太郎もこの菊池邸に足を運んだらしいとのこと。ただ、残されている日記にはその記述が見当たりません。しかし、当方が見落としていることも考えられますし、日記は昭和24年(1949)と翌年の大部分が失われていたり、その他の年も欠落している部分があったりで、その間に訪問していた可能性があります。

旧菊池邸は、大正15年(1926)の竣工。宮沢賢治の童話「黒ぶだう」の舞台である建物のモデルとも考えられているそうです。また、先日ご紹介した『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第26号の連載「光太郎レシピ」の撮影も、こちらで行われたとのこと。

古建築好きの当方としては一度行ってみたいと思っていましたし、朗読イベントで光太郎詩が取り上げられるというので、7月11日(日)にお邪魔することに致しました。皆様もぜひどうぞ。

ところで古建築というと、昨日、NHK Eテレさんで放映された「ふるカフェ系 ハルさんの休日 福島・二本松〜城郭内の素敵な洋館カフェ!」。智恵子の故郷・二本松にたたずむ、菊池邸より1年早く建てられた、「8月カフェ」さんが取り上げられました。
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この番組、ドラマ仕立てで、渡部豪太さん演じるカフェブロガー・真田ハルが、全国の「ふるカフェ」を巡り、その謎を解き明かすというスタイルです。古建築好きの当方、時折拝見しています。地元の皆さんが本人役でご出演、それが何とも言えず温かみがあっていい番組です。
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ちなみにハルが口にしているのは、手作りスコーン。
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美味しそうですね!

番組冒頭は二本松駅から。
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カフェオーナーの吉村明美さんからの調査依頼。吉村さんは元々、郡山で喫茶店を経営されていたそうですが、今年3月に娘さんとこちらにカフェをオープンなさったそうです。

賢治の「雨ニモマケズ」パロディー。
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ここで「高村光太郎の「智恵子抄」に謳われた「ほんとの空」のある二本松」といった紹介が欲しかったのですが、残念ながらそれはありませんでした。

こちらがカフェ。
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元二本松町長・田倉孝雄が建てさせた建築だそうで。
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当時の欧米で最先端の流行だった様式を随所に取り入れていました。
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光太郎智恵子がこの建物を目にした可能性もあります。

ところで、番組冒頭近く、8月カフェさんに着く前、ハルが二本松城の大手門跡の説明板を読んでいると……。
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石垣を愛でている謎の美人。石の積み方に詳しく、実にマニアックです(笑)。

最初、気がつかなかったのですが、「あれっ、佐藤さん?」。思わず叫んでしまいました。
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番組後半に再登場なさり、ここで正体が明らかに(笑)。以前、教育委員会文化課にいらした佐藤真由美さん。平成28年(2016)に、8月カフェさんすぐ近くの歴史資料館さんで開催された「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」展の際、主任学芸員としてお世話になった方です。その際には、展示品をお貸ししましたので、千葉の当方自宅兼事務所に搬入/搬出にいらっしゃいました。その後も毎年のように智恵子を偲ぶ「レモン忌」にご参加なさっています(昨年はコロナ禍で中止)。

建設の経緯などは、佐藤さんがハルに語る、という設定になっていました。出演なさるとは存じませんで、驚きました。今度お会いしたら「いい芝居してましたね」とからかってあげようと存じます(笑)。

6月20日(日) 18:30〜18:55、やはりNHK Eテレさんで再放送があります。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

お雑煮、屠蘇代りの冷酒二杯 お供へをかざり、みかん林檎を供ふ。筆、槌、コムパス、等を祭る。

昭和23年(1948)1月1日の日記より 光太郎66歳

山居生活4年目の幕開けでした。

3月28日(日)、箱根を後に、愛車を熱海方面に向け、南下しました。メインの目的である「潮見佳世乃起雲閣コンサート 歌物語×JAZZ」拝聴のためです。

コンサート会場の起雲閣に入る前に、ほぼ道中にある來宮神社さんに立ち寄りました。こちらには、光太郎の父・光雲の手になる弁財天像が納められています。ただし、御開帳は年一回、毎年11月23日の弁天祭の時だけです。それは存じていましたが、当方、由緒ある古社寺の雰囲気は大好きですし、あわよくば弁財天像のポストカードでもゲットできれば、と思って立ち寄りました。
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そこそこの人出でした。こちらで式を挙げられたのか、新婚さんとご両家ご一統も。
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光雲作の弁財天像は、摂社扱いの來宮弁財天さんに納められています。
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やはり拝観はできませんでしたし、結局、ポストカード的なものも販売されていませんでした。まぁ、それでも古社の清澄な空気に身も心も洗われる感を味わうことができ、良かったと思いました。ちなみに当方、台所で夕食後の洗い物(当方の担当です)をしている際、妻に「他に洗われるべきもの無い?」と訊くと、「あなたの心!」と返されます(笑)。

社伝によれば、來宮神社さんとしては和銅年間(奈良時代)の創建だそうですが、來宮弁財天さんは磐座(いわくら)と思われる巨石の上に立ち、神社としての鎮座以前からアニミズム的な信仰の聖地だったのではないかと思われます。
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ご神木は樹齢約1,300年という楠でした。ご神木が楠、というのは珍しいような気がします。

さて、こちらを後に、起雲閣さんへ。
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船舶事業で財をなし、のち、政界にも進出した内田信也の別邸として、大正8年(1919)に竣工した建物です。
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こちらの中に音楽ホールとして使われる部屋があり、そこでコンサートが開催されるのですが、この手の古建築も当方大好きなもので、拝観しました。
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広大な敷地の中に、後から建て増しが繰り返され、純和風の棟と擬洋風の棟が混在しており、それがまた変化に富んだ感じを醸し出しています。
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昭和22年(1947)には旅館としてリノベーションされ、多くの文人墨客なども利用したそうです。
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ことに太宰治は、この起雲閣の別館(こちらは現存せず)で、かの「人間失格」(昭和23年=1948)を執筆したと、キャプションにありました。

熱海といえば、貫一お宮。尾崎紅葉に関する展示も為されていました。
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dfc2bdecちなみに光太郎、明治36年(1903)に歿した紅葉の解剖に立ち会い、塑像「尾崎紅葉像」(現存確認できず)、「解剖台上の紅葉山人」(右画像・故髙村規氏撮影)を制作しました。

ここで光太郎と熱海について。

故・北川太一先生が編纂された『高村光太郎全集』別巻の年譜に拠れば、光太郎は大正14年(1925)8月、母・わかと共に熱海を訪れています。調べてみましたところ、8月23日の消印(駒込)で、のちに編集者となる龍田秀吉という人物に送った絵葉書が典拠でした。

此間中熱にゆきました。お葉書ありがたう。東京は今頃になつてひどく暑くなりましたが今年は大層健康で夏が送れさうです。毎日仕事をしてゐます。 御健康をいのる。

「熱にゆきました」は、「熱海にゆきました」の「海」脱字です。光太郎、やらかしました(笑)。絵葉書が熱海の写真ですので、熱海でまちがいありません。ただ、なぜ母と二人で熱海へ行ったのかまでは不明です。そういう機会は他にほとんどなかったようですし。

すると、その直後の9月1日、わかは急性の大腸カタルに罹患、10日には亡くなってしまいます。なんとまぁ、ある意味、予期せぬ最後の母親孝行だったわけですね……。

その他、年譜には記載がありませんが、戦時中にも光太郎は熱海を訪れています。行き先は岩波書店創業者・岩波茂雄の別荘「惜櫟(せきれき)荘」、昭和17年(1942)のことでした。
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左から、作曲家・信時潔、岩波、光太郎。信時は「海ゆかば」などで有名です。昭和17年(1942)、光太郎作詞・信時作曲で、岩波書店店歌「われら文化を」が作られ、岩波書店の「回顧三十年感謝晩餐会」で初演されました。おそらくその関係と思われます。

惜櫟荘は、「居眠り磐根江戸草子」「酔いどれ小籐次留書」シリーズなどで有名な時代小説家の佐伯泰英氏が買い取り、建造当時の形に解体復元されたことが話題になりました。平成25年(2013)にはBS朝日さんでその様子を追ったドキュメンタリー「惜櫟荘ものがたり」が放映され、光太郎についても触れられていました。岩波書店本社には、惜櫟荘を訪れた人々の芳名帳が残されており、光太郎の名も記されています。
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谷川俊太郎氏の父君・徹三氏の名も見えますね。

確認できている限り、光太郎の熱海行きはこの2回ですが、都内からもそう遠くはないので、記録に残っていないところで熱海を訪れているかもしれません。惜櫟荘訪問も複数回だった可能性があります。

惜櫟荘はもろに海べりの海光町に現存。しかし一般公開はされていません。そういった機会があれば、ぜひ訪れてみたいものです。吉田五十八設計のこの建物にも、非常に興味があります。

さて、起雲閣。建築と庭園をたっぷり堪能した後、いよいよ潮見さんのコンサート開演です。以後、明日。

【折々のことば・光太郎】

朝芝林の畠山さん来訪、廿三日(旧三月三日也)ひる花見をしたしとの事にて晴天ならば分教場の庭にゆく約束。(花はまだ咲かず、)


昭和22年(1947)4月20日の日記より 光太郎65歳

4月下旬でもまだ桜が咲いていなかったのですね。

下記は自宅兼事務所(千葉)近くの公園、今朝の様子です。
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10月25日(日)、東松山市の市総合会館で開催されている「高田博厚展2020」拝観に伺う前に、隣接する比企郡川島町にある遠山記念館さんに立ち寄りました。
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こちらは日興證券(現・SMBC日興証券)創業者の遠山元一(明治23年=1890~昭和47年=1972)の旧邸宅を利用して建てられた施設で、遠山のコレクションを根幹とする美術館を併設しています。
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で、最近、こちらに光太郎の親友・碌山荻原守衛の代表作「女」(明治43年=1910)が所蔵・展示されているという情報を得ました。そこで、東松山に行くついで、というと何ですが、併せて拝見しておこうと思い立って立ち寄った次第です。

こちらが正面の長屋門。門だけでも当方自宅兼事務所を凌駕する大きさです(笑)。
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門をくぐると右手に美術館。
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拝観後に知ったのですが、扉上部のレリーフは、やはり光太郎と交流のあった笹村草家人の作だそうです。
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ロビーに「女」。
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本家の碌山美術館さんをはじめ、各地で「女」を拝見しましたが、何度見てもいいものです。

なぜここにこれがあるのか、と申しますと、先述の遠山元一が、昭和33年(1958)の碌山美術館開館に際し出資をしたということで、その際に新たに鋳造された10点の内の一つを贈られたのだそうです。鋳造は山本安曇。守衛と同郷で、明治期に「女」の最初の鋳造を手がけました。鋳金分野の人間国宝だった光太郎実弟の髙村豊周と同じ津田信夫門下で、豊周も最初の「女」鋳造に参加しています。
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白いブルーズ姿が山本、その後が豊周、明治43年(1910)の写真です。

先述の笹村草家人の作があるのも、同じ理由です。笹村は碌山美術館開館に尽力した人物です。

その他、現在の展示は「近代の皇室と茶の湯」。
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大正天皇の后、貞明皇后が天皇没後、本格的に茶道に取り組み、その関連の品々です。ただし、皇室旧蔵品は空襲により焼失、「控え」として作られた同工の作品が中心でした。

拝観後、受付兼ミュージアムショップで、一昨年に開催された特別展「遠山元一と美術」図録を購入。「女」や笹村の作品について言及されていましたので。
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今回、実物は見られませんでしたが、笹村による遠山の肖像彫刻も所蔵されているとのこと。

美術館をあとに、隣接する旧遠山邸へ。こちらも全体ではありませんが、公開されています。
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入っていきなり畳の配置が物凄いことになっていて、驚きました。昭和11年(1936)竣工で、90年前にこんなことをやっていたのか、と思ったのですが、そうではなく、川島町に居を構えていた彫刻家・長澤英俊の「作品」でした。
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ここ以外は、基本的に昔の通り。本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の光太郎実家に隣接する旧安田楠雄邸などもそうですが、古建築好きにはたまらないと思います。
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以上、埼玉レポートを終わります。
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【折々のことば・光太郎】

針は北をさす  短句揮毫 
終戦直後? 光太郎65歳頃

一見、色紙のようですが、粗悪なボール紙です。戦前から交流のあった詩人・佐伯郁郎に贈られた物で、岩手県奥州市の佐伯生家「人首文庫」さん所蔵です。

よく似た「いくら廻されても針は天極をさす」の句はしばしば揮毫されていますが、これは他に類例が確認できていません。

言わずもがなながら、「針」は光太郎自身の暗喩ですね。

昨日、旧神奈川県立近代美術館の重要文化財指定についてご紹介しましたが、同時に千葉銚子の犬吠埼も指定される見通しとなりました。

『朝日新聞』さんの千葉版から

犬吠埼灯台が国の重要文化財に指定へ

014 千葉県銚子市の犬吠埼灯台と近くの旧霧笛(むてき)舎・旧倉庫を重要文化財(建造物)にするよう、国の文化審議会が文部科学相に答申した。その報もあってか、17日は冷たい雨にもかかわらず、観光客が次々と灯台を訪れていた。今回の指定で、県内の重要文化財の建造物は29件となる見込み。
 県教委などによると、灯台は太平洋に突き出た犬吠埼に位置し、全体的に白く塗られたほぼ円筒形で高さは約31メートル。船舶が北太平洋を安全に航行できるようと建造された。今も現役で、36キロ先まで光が届く。
 19世紀に日本で多くの灯台の建設に携わった英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンが設計し、1874年に初めて点灯した。点灯は日本で24番目。
 地震の多い日本で耐震性を高めるため、二重にれんがを積んだ技術が優れていることや、近代の航行の歴史を知る上で価値が高いとして評価された。
 旧霧笛舎は、海上に霧が広がり、視界が悪い時に屋根から伸びたラッパ状の筒から音を鳴らす。船が座礁しないように陸地の位置を知らせていた。
 灯台は海上保安庁が所有し、2010年に登録有形文化財になった。
     ◇
015 犬吠埼灯台は全国でも比較的交通の便がよく訪れやすい灯台として、長く銚子観光の中心にあった。だが近年、銚子観光はじり貧の一途だった。国の重要文化財という「格」を得ることで、観光復興のシンボルとしての期待が高まる。
 全国の灯台ファンも喜ぶ。「灯台マニア」を自認する東京都小平市の会社員平塚よう子さん(37)もその一人で、犬吠埼灯台を「3高」と評する。「岬にシュッと立ち、歴史があり、多くの人が訪れてお金を落とす人気者」と、かつての「もてる男子」の3条件になぞらえる。重文指定で「もっと大事にされてほしい」と話す。
 銚子海上保安部OBで計10年、同灯台の保守を担った銚子市の浦島弘巳さん(67)も感慨がひとしおだ。「5月にはこいのぼりを灯台の上から万国旗のようにはためかせてね。地震に強く、大地震でも水銀灯の水銀が少しこぼれるだけだった」と懐かしむ。続けてきた観光ガイドや灯台内部の清掃などの活動にも、いっそう力が入りそうだ。
 犬吠埼灯台や旧霧笛舎は、これまでは国の登録有形文化財だった。国の重文に指定されると、できる限り公開に努めることを課せられる。一方で、今も投光する現役の灯台でもある。
 市民グループ「犬吠埼ブラントン会」の仲田博史・代表幹事(72)は「耐震のために覆ってしまったコンクリートを一部でも壊し、建築当時のれんがの二重壁を見せるとか、霧笛を再開するかとか、議論が必要だろう。灯台本来の役割と文化財としての役割の両立が、これからの課題になる」と話す。

犬吠埼といえば、大正元年(1912)、光太郎が油絵制作のための写生に訪れ、それを知った智恵子がすぐ下の妹で智恵子と同じく日本女子大学校を出た・セキ、同じく藤井ユウと共に追って現れた場所です。

当方手持ちの戦前の絵葉書。
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宛名面には解説文。
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光太郎が泊まり、智恵子がのちに合流した旅館・暁鶏館から望む灯台。暁鶏館は建物や経営者は変わりましたが健在です。
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暁鶏館と灯台の中間あたりに、最初に智恵子が泊まった御風館。こちらは現存しません。
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旅館二軒は灯台の南側ですが、北側には二人で歩いた君ヶ浜。
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眺め自体は、現在もあまり変わっていません。

やはり戦前の観光案内パンフレット的なものも持っています。そちらには鳥瞰図が掲載されていました。
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灯台のすぐ下に「胎内クグリ」の文字があります。海蝕洞穴のようなものと思われますが、現在は見られないようです。

「犬吠」と書かれている左側の建物が暁鶏館。浜には生け簀が描かれています。現在は使用されていませんが、石組みは現存します。

その上(方角的には南になります)には「長崎」の文字。ここは光太郎詩「犬吠の太郎」(大正元年=1912)のモデルとなった、暁鶏館の下働き、阿部清助が住んでいた場所で、その墓も残っています。

犬吠と長崎の中間あたりに「外川」。市街銚子駅から伸びる銚子電鉄さんの終点で、現在、NHK BSプレミアムさんで再放送中の連続テレビ小説「澪つくし」の舞台の一つとなっています。イラストマップなので、若干、位置関係がおかしいのですが。

下の方(方角としては北)に目を転じると、君ヶ浜の南に「海鹿島(あしかじま)」。「プール」とありますが、海水を引き込んで造られたもので、当方の幼い頃にはまだ使われていました。

さて、これを機に、犬吠埼灯台、上記記事に有るとおり、観光再生の核となってほしいものです。さらには「光太郎智恵子純愛の故地」的な紹介のされ方も、もっとあっていいように思われます。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

パリが世界の魅力といふのは、パリといふものはフランスではない。フランスでもないしドイツでもない。どこでもない。パリといふものなのです。本当のフランスといふものは、フランス魂は田舎にある。

座談会筆録「現代詩の再出発」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

地方の風景を見て、「これが日本の原風景だ」と感じる感覚と同じでしょうか。

当方の住む千葉県北東部はそれなりの田舎でして、「日本の原風景」と感じるような場所も多くありますが、先週行って参りました光太郎第二の故郷ともいうべき花卷などもそうですね。

花卷といえば、NHK BSプレミアムさんで放映されている「にっぽん縦断 こころ旅」。火野正平さんが、視聴者の方々からの手紙を元に自転車で日本各地を訪れる番組ですが、今日の放映が花卷。午前7時45からの「朝版」は、冒頭部分、光太郎と交流のあった僧侶・多田等観が暮らし、光太郎も訪れた円万寺観音堂でのロケでした。ここからのビューは、花卷の観光案内などでよく使われます。
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これもある意味、「日本の原風景」ですね。
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この番組、「朝版」と、午後7時00分からの「とうちゃこ」に分かれていますが、「とうちゃこ」ではこの後に火野さんが宮沢賢治童話村に訪れるはずです。10月24日(土)にも再放送があります。ぜひご覧下さい。

ちなみに平成30年(2018)の放映では、光太郎が暮らした旧太田村の法音山昌歓寺さんが大きく取り上げられました。光太郎もたびたび訪れた古刹です。

新たに光太郎智恵子ゆかりの建造物が2件、重要文化財に指定される運びとなりました。

先週の『朝日新聞』さん記事から

京都・八坂神社本殿が国宝へ 重文に16件 文化審答申

 文化審議会は16日、京都市の八坂(やさか)神社本殿を国宝に、旧神奈川県立近代美術館(同県鎌倉市)など16件の建造物を新たに重要文化財に指定するよう文部科学相に答申した。

 八坂神社は疫病退散を祈願する祇園(ぎおん)信仰の総本社。今の本殿は1654年に、江戸幕府の4代将軍徳川家綱によって建てられた。通常、神社では参拝者が本殿の外からお参りするが、八坂神社は本殿の中に参拝者が礼拝する「礼堂」があり、供え物を置く棚もある。文化庁によると、この構造は鎌倉時代の資料や室町時代の図面にも記され、中世の信仰儀礼と建物の関係を示している。屋根の三方にはひさしが付いており、これは建物の面積を広げる平安時代の工法だという。同庁の担当者は「祇園祭を担う京都の人々が積極的に費用を出し維持に関わってきた点にも、文化史的意義がある」と話す。

 重要文化財に答申された旧神奈川県立近代美術館は、鶴岡八幡宮の境内にあり、日本初の公立近代美術館として1951年に建設された。モダニズム建築の巨匠・ル・コルビュジエに師事した坂倉準三(1901~69)が設計し、「日本の戦後モダニズム建築の出発点」として評価される。
 2016年の閉館後は存続が危ぶまれたが、土地を所有する八幡宮が改修し、昨年「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として開館した。保存のめどが立ち、答申となった。
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 北太平洋航路のための最初の灯台となった犬吠埼(いぬぼうさき)灯台(千葉県銚子市)など明治初めに建てられた4カ所の灯台も、重要文化財(重文)に指定される見通しになった。海上保安庁が管理する現役灯台では初めて。2018年の文化財保護法改正で、修理手続きなどが一部緩和されたことが後押しとなったという。

 重文の新規・追加指定は次の通り。文化審議会は、重要伝統的建造物群保存地区の選定も答申した。

 【重要文化財】旧札幌控訴院庁舎(札幌市)▽犬吠埼灯台(千葉県銚子市)▽明治神宮(東京都渋谷区)▽旧神奈川県立近代美術館(神奈川県鎌倉市)▽旧山岸家住宅(石川県白山市)▽旧中村家住宅(長野県塩尻市)▽坂戸橋(同県中川村)▽八勝館(名古屋市)▽紅葉谷川庭園砂防施設(広島県廿日市市)▽六連島灯台(山口県下関市)▽角島灯台(同)▽犬伏家住宅(徳島県藍住町)▽部埼灯台(北九州市)▽旧伊藤家住宅(福岡県飯塚市)▽西海橋(長崎県佐世保市、西海市)▽旧綱ノ瀬橋梁(きょうりょう)及び第三五ケ瀬川橋梁(宮崎県延岡市、日之影町)◇追加指定として八坂神社の疫神社本殿など(京都市)、遠山家住宅の米蔵など(京都府亀岡市)

 【重要伝統的建造物群保存地区】高岡市吉久伝統的建造物群保存地区(富山県)▽津山市城西伝統的建造物群保存地区(岡山県)▽矢掛町矢掛宿伝統的建造物群保存地区(同)


まず、鎌倉の旧神奈川県立近代美術館。
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昭和26年(1951)に開館、光太郎と交流の深かった土方定一が2代目館長を務め、光太郎が歿した昭和31年(1956)には、初の「高村光太郎・智恵子展」が開催されました。

永らく「カマキン」の愛称で親しまれましたが、平成28年(2016)に惜しまれつつ閉館。最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」では、光太郎作品も複数展示して下さいました。

コルビジェに師事した板倉準三設計のモダニズム建築ながら、土地の使用権の問題などもあったため、一時は建物の存続も危ぶまれていたのですが、無事、残ることとなりました。喜ばしいかぎりです。現在は鶴岡八幡宮さんに所有が戻り、「鎌倉文華館鶴岡ミュージアム」として運用されています。

『毎日新聞』さんの神奈川版から

近代建築の出発点 「旧県立近代美術館」国重文に 鎌倉・鶴岡八幡宮境内 撤去の危機乗り越え /神奈川

 鎌倉市の鶴岡八幡宮境内にある「旧県立近代美術館」が国の重要文化財(建造物)に指定される。設計は近代建築の巨匠、ル・コルビュジエに師事した坂倉準三(1901~69年)。撤去の計画もあったが、美術ファンらの要望で当地に残され、現在は「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として公開されている。モダニズム建築の傑作は撤去の危機を乗り越え、新たな歴史を刻む。【因幡健悦】

 旧県立近代美術館は日本初の公立近代美術館として51年11月に鶴岡八幡宮境内の一角に建設された。白い箱を柱で持ち上げたような外観が特徴で、59年に開館したコルビュジエ設計の世界遺産、国立西洋美術館(東京・上野)にも影響を与えたとされる。展示企画にも意欲的で、ムンクやクレーを紹介し人気を集めたが、県立近代美術館の葉山町移転などに伴い、2016年の閉館が決まった。敷地が境内にあるため、美術館としての役割を終えた後は、更地にして鶴岡八幡宮に返却される予定だった。 
 しかし、美術ファンや県民から存続を求める声が相次ぎ、鶴岡八幡宮が建物を引き取り、耐震補強など必要な工事を進めることになった。 工事は17年秋に始まり、坂倉のオリジナルデザインの再現を基本に進められた。モノトーンが流行した91年の大規模改修で、グレー主体に塗り替えられていた柱や扉はオリジナルに近い66年当時の茶色に戻されている。
 国の文化審議会では「戦後モダニズム建築の出発点となる建物として重要」と、その意匠が評価された。鎌倉市の国指定重文(建造物、国宝含む)はこれで23 件目となるが、近代建築の指定は初めて。

もう1件、大正元年(1912)に光太郎智恵子が訪れ、愛を誓った千葉銚子の犬吠埼に聳える犬吠埼灯台も指定される見通しですが、そちらについては明日。


【折々のことば・光太郎】018

何時頃出来上るか……それは同じ大きさのもので三ヶ年かゝるものもあれば一月(ひとつき)位で出来るものもあり、まだ、其んな事は一切考へてゐません。

談話筆記「(成瀬先生の)」より
 大正8年(1919) 光太郎37歳

「成瀬先生」は、智恵子の母校・日本女子大学校創設者の瀬仁蔵。その胸像の制作依頼を学校から受けた際の談話の一節です。

像は光太郎自身が納得のいくものがなかなかできず、作っては壊し、造っては毀し、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成しました。

画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影です。

『読売新聞』さん、8月11日(火)に「文化財の受難 破壊、略奪続く 「人類の遺産」 問われる国際協力」という記事が掲載されました。

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戦後75年に関してのもので、まずは太平洋戦争により、日本国内で破壊された文化財の紹介から。原爆投下により倒壊した当時の国宝・広島城天守と共に、空襲で焼失した芝増上寺さんの「台徳院殿霊廟」について触れられています。2代将軍秀忠を祀ったもので、後の日光東照宮の原型となったとも云われていました。
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現存していれば、都心で「世界遺産」が見られたかも知れない、という紹介が為されていました。

記事に使われていた写真は、明治43年(1910)、光太郎の父・光雲らの監修によって、東京美術学校で制作された模型。英王室に献上されていましたが、平成26年(2014)に里帰りし、現在は増上寺さんの宝物展示室に収められています。

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記事本体には記述がありませんでしたが、キャプションには光雲の名が記されていました。

さらに「文化財の受難 破壊、略奪続く」という見出しの通り、カンボジアのアンコール遺跡、アフガニスタンのバーミヤン遺跡、さらにシリアのパルミラ遺跡などについても言及されています。ついでに言うなら、かつて日本軍が破壊したアジアの文化財についても記述があれば、とは思いましたが。

戦災で、というわけではありませんが、実にばかばかしい「金属供出」によって喪われた光雲・光太郎作品も少なくありません。光雲だと「長岡護全銅像」「西村勝三像」、「坂本東嶽像」「活人剣の碑」など。光太郎作は「浅見与一右衛門銅像」「青沼彦治像」「赤星朝暉胸像」。同時代の彫刻家のさまざまな作品も、供出の憂き目にあっています。

当然、こうした「モノ」だけでなく「人」もたくさん喪われているわけで、つくづく、戦争はいかんと思います。


【折々のことば・光太郎】

私はやつぱり歩んで行かう。何処へ、何処へ。何処へと問ふのは間違つてゐる。歩む事を歩むのだ。

散文「西洋画所見 十二」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

『読売新聞』に連載された「西洋画所見」。「一」から「十一」までは筑摩書房『高村光太郎全集』第六巻に掲載されていましたが、最終回に当たる「十二」が脱漏していました。

昨日の続きです。

当方自宅兼事務所から徒歩30分ほどの、香取市佐原地区伝統的建物群保存地区とその周辺。喜多方や川越ほどではありませんが、やはり蔵が目立ちます。

圧巻はこちら。土蔵としてはおそらく日本一の建坪だという、「与倉屋大土蔵」。明治22年(1889)建造です。

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元は酒や醤油の醸造を行っていた際に使われた蔵でしたが、現在はその広さを生かし、コンサートなども開催されています。

平成27年(2015)公開の、東京美術学校西洋画科で光太郎の同級生だった藤田嗣治を主人公とし、光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)が劇中で使われた映画「FOUJITA」のロケがここで行われ、当方、そうとは知らずに映画館のスクリーンにこの蔵が映って驚いた次第です。

他にも味のある蔵がたくさん。

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左上は、夏と秋に行われる「佐原の大祭」(ユネスコ世界無形文化遺産)の山車を収める蔵です。

その他、蔵ではない住宅も何とも言えない趣に溢れています。郷土の偉人・伊能忠敬の旧宅。

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昔の市長さんの家。だいぶ以前には醸造業を営んでいたそうで、店舗の名残が残っていますが。

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このタイルが昔はモダンだったのでしょう。

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こんな家も。実に立派な屋根です。

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伝統的建造物群保存地区内では、新築や改築の際も、昔風の造りにしなければいけないという条例が施行されており、一見、古い家かと思うと新築だったりします。下の画像では新旧入り乱れています。

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そうそう、忘れてはいけないのは、洋館。純日本式家屋とはまた違った魅力があります。

こちらは旧千葉合同銀行佐原支店。昭和4年(1929)の竣工だそうで。一時、昨日ご紹介した蕎麦屋の小堀屋さんの別館として使われていましたが、現在は空き店舗です。

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左下が旧三菱銀行佐原支店。現在、耐震工事中で残念ながらこんな状態です。赤レンガ造り、屋根にドーム。たまりません(笑)。光太郎が詩集『道程』を上梓し、智恵子と結婚披露を行った大正3年(1914)の建築です。

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右上は、やはり赤レンガの建築ですが、何と、浄国寺さんというお寺のお堂です。これはかなり珍しいのではないでしょうか。明治23年(1890)に建てられたそうです。

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それから、個人のお宅。

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こちらも。こうなると擬洋館の扱いでしょうか。

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新築のビルも、やはり条例のために洋館風に。千葉商船さんの本社ビルです。

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そして、こんな建物。

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一見、洋館にしか見えませんが、後ろは純日本風の建築です。

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「看板建築」といい、店の正面だけ看板代わりに モルタルなどで豪華に作ってあるタイプです。上記はもとは家具屋さんでしたが、現在は隣接する「素顔屋(すっぴんや)」さん(こちらも昨日ご紹介しました)が使っています。ちなみにやはり映画「FOUJITA」に登場しています。


他にも完全な看板建築があと2棟。

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「方林堂」と書かれている方は、現役の薬局です。

ここまで、主に建築を紹介して参りましたが、それ以外にも街を歩けばレトロなアイテムがたくさん。

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赤丸ポストは現役です。あえてあちこちに設置しています。

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右上はたばこの看板。

看板といえば、こんなものも。

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昭和後半から平成初め、条例が施行される前に新築してしまった現代風のお店でも、ウインドーに昔のお宝を展示したりしています。「佐原まちぐるみ博物館」ということで、40軒ほどのお店などが加盟しており、新しい建物のお店も参加しているわけです。

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まだまだ紹介すべきスポットがあるのですが、先週歩いたのはこんなところでした。今回紹介しきれなかった分は、また改めまして。

こんなに趣のある、光太郎智恵子が歩いていてもおかしくない(苦しいのですが(笑))街ですが、平成23年(2011)の東日本大震災では大きな被害を受けました。

大動脈の小野川は液状化がひどく、また、瓦屋根の家屋は惨憺たるものでした。古い家屋では、瓦はしっかり固定しない造りになっています。固定すると、大地震の際、遠心力が働いて建物ごと倒壊してしまうため、あえて瓦が落ちるように作ってあるのだそうです。

下記動画、視聴には注意して下さい。3.11の午後2時46分、まさに「その時」のものです。



液状化の方はこちら。



あれから9年、この惨状から、佐原の街並みは復活しました。

そして今、新型コロナという新たな災厄……。しかし、あの大震災から復興を果たせたこの街、そしてまだ復興途上ではありますが、頑張ってきた東北の町々、そして日本全体。決して新型コロナなどには負けない、と信じています。

一丸となって、この災厄を乗り切りましょう!


【折々のことば・光太郎】

ギリシヤ時代のあの色がここにも生きてゐて愉快に思つた。

雑纂「難波田龍起個展「感想帖」より」より 
昭和28年(1953) 光太郎71歳


難波田は、光太郎の影響で美術の道に進み、さらに詩作も行った画家です。かつては駒込林町の光太郎の住居兼アトリエのすぐ裏手に住んでいました。

「ギリシヤ時代のあの色」、「不易と流行」の「不易」の部分ですね。古い街並みにはやはり「不易」の美を感じます。

昨日も書きましたが、このところのイベント等の自粛やら延期やら中止やらで、このブログのネタに困っています。仕方がないことですが、ついでに言うなら講師を仰せつかっていた市民講座等も続々中止、1年以上前から関わっていた展覧会も中止……。医療現場の最前線で闘っている病院関係の方々や、感染の恐怖におびえながらも通常通りに仕事せざるを得ないさまざまな職種の皆さんなどに比べれば、どうということはないだろう、とも思うのですが、やはり困りますね……。

さて、ネタ不足に対する苦肉の策の第二弾として、光太郎智恵子とは直接関係ないのですが、今日は散歩ネタで。先週木曜日でしたか、すこぶる陽気がよかったし、あまりに暇だったので、自宅兼事務所から徒歩30分ほどの旧市街を散歩しました。はじめに断っておきますが、田舎ですので、散歩している分には「密」の状態はあり得ません。さらにその日はどこの店にも寄りませんでした。まぁ、第一、休業している所が多いのですが……。専門家会議等の提言でも散歩はOKということでしたし。

自宅兼事務所のある香取市佐原地区、平成8年(1996)、関東地方で初めて伝統的建造物群保存地区に指定された、古い街並みが残っています。まるで光太郎智恵子が歩いていてもおかしくないような(苦しいのですが)。そこで、コロナ禍が収まったら、皆さんにどんどん観光に来ていただきたく、その参考に、というコンセプトです。

「光太郎智恵子が歩いていてもおかしくない」というか、おそらく昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)のロケも行われています。ただ、確証がありません。パンフレットには同じ千葉県北部の「佐倉」と書かれています。しかし、写真を見るとどうみても「佐原」でして。「佐原」と「佐倉」昔からよく混同されています。

佐原地区、コロナ騒ぎの前は、平日でもバスツアーなどで観光客の皆さんが多く、また、かえって平日の方が、旅番組系、ドラマやCMなどのロケが多かったのですが、さすがに閑散としていました。

少し前に放映されていた、波瑠さんがご出演なさった大同生命さんのCMは佐原で撮られました。 

 

佐原は元々、利根川支流の小野川沿いに、江戸への舟運で栄えた街です。こちらが小野川。水源から河口の利根川との合流地点までのバイアスがあまりないので、流れはゆるやか、それだけに清流、という感じではありません。ただ、川沿いの道は無電柱化が進み、その意味では景観美が確立されています。

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ところどころに古い橋も残っています。

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下の画像は「樋橋(とよはし)」。通称「ジャージャー橋」。元は農業用水を通す橋で、溢れた水が川に落ちていたので、そういう名です。現在は観光用に30分だか1時間だかに一度、機械仕掛けで人為的に落水させています。

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それから石段は「だし」。荷の積みおろしをするための船着き場です。今もあちこちに残っています。

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船宿も昔は結構あったそうですが、昨年あたりに最後の一軒、「木の下旅館」さんも旅館としては廃業、とんかつ屋さんにリノベーション。ただ、建物はそのまま残っています。

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そのあたり、リアルにそういう内容で、昨年、テレビ東京さんの深夜ドラマ「日本ボロ宿紀行」(深川麻衣さん、高橋和也さん主演)で取りあげられました。劇中歌「旅人」のPVは木の下旅館さんに泊まって作成されたという設定でした。

 

また、木の下旅館さんの対岸にある床屋さんもPVに登場。昭和レトロ感あふれる建物です。

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こちらはやはり少し前に放映されていた、故・大杉漣さん、永山絢斗さんご出演のオロナミンCのCMでも使われていました。




そうした舟運も、鉄道の普及と共に衰退。下記は舟運から鉄道への過渡期の遺構。小野川から佐原駅まで数百㍍を繋いでいたベルトコンベヤーの跡です。

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しかし、小野川沿いを中心に、江戸時代からそのまま続いている老舗もかなり健在。

元々この辺り一帯の大地主でもあった、寛政12年(1800)創業の佃煮屋さん「正上」さん。しょっちゅうテレビで取りあげられます。

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左下はお茶屋さんで「大高園」さん、明和2年(1765)創業。右下は天明2年(1782)創業の蕎麦屋の「小堀屋」さん。昆布の粉を練り込んだ真っ黒な蕎麦が名物です。

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江戸時代と同じ製法でごま油を作り続けているという「油茂(あぶも)製油」さん。このお店が現在も営業している中で最も古く、正確な年代は不明ながら350年以上だそうです。

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文化元年(1805)創業の「福新呉服店」さん。

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勝海舟も逗留したことがあるという造り酒屋の「馬場酒造」さん。創業は天保年間、煙突は明治33年(1900)の建造だそうで。

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植田屋荒物店」さん(宝暦9年=1759年~)。「荒物」は、竹や木などの自然素材で作った笊、籠、箒などのエコ商品です。

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左は「虎屋菓子舗」さん(明暦2年=1657~)。和菓子はもちろん、洋菓子も扱っています。右は陶磁器の「紀の国屋」さん。光太郎が生まれる前年の明治15年(1882)に東京から移転してきたそうです。

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これらのお店は、江戸時代や明治期からの老舗ですが、建物はそのままに、異業種に転換したというお店も少なくありません。

和風雑貨の「素顔屋(すっぴんや)」さん。元は家具屋さんでした。当方愛用の傘はここで購入。着物の際にも使える番傘風の洋傘です。

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並木仲之助商店」さん。元は荒物の卸問屋さんでしたが、現在は和紙やお香などを置いています。

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手前はアンティークショップ、奥はフランス料理店「夢時庵(むーじゃん)」さん。

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板前割烹 真亜房(まあぼう)」さん。地産地消にこだわり、ブランド肉の「恋する豚」などを使った料理がおいしいお店です。

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蕎麦屋の「香蕎庵(かきょうあん)」さん。蕎麦とフレンチを融合させ、「トリュフ蕎麦」なども人気だそうで。

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イタリアン、というか、「洋麺屋」と看板に掲げる「ワーズワース」さん。ボリュームたっぷりのパスタが人気です。尖塔のような蔵の形が面白いですね。

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小野川を運行する観光舟めぐりの事務所。

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左下はサツマイモ専門の和菓子屋「さわら十三里屋」さん。十数年前まで新刊書店の「正文堂」さんでした。しばらく空き店舗だったのが、数年前にリノベーション。

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右上が「中村屋商店」さん。元は畳屋だったのが、和風雑貨の店となり、さらに現在はホテル「NIPPONIA」さんのフロント、レストランも兼ねています。

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「NIPPONIA」さんは、古民家や蔵を改装し、宿泊施設としたちょっと変わったホテルです。現在4棟、13部屋。フロントからは徒歩で移動。「商家町全体をホテルに」というコンセプトです。上記の「並木仲之助商店」さんの一部も使われています。

それ以外には、古民家一軒まるごと借りる形の棟。

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豪商の邸宅だった棟。忍び返し的な柵が塀の上に。

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蔵を改装した棟。

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いい感じですよね。

長くなりましたので、続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

すかり秋になつて、栗がさかんに屋根に落ち、毎日栗飯を炊き、昔の目黒の料亭を時々思ひ出します。

雑纂「消息の中から」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居していた時のものです。「目黒の料亭」というのは戦前の話でしょうか。光太郎が歩いた東京の街並みも、上記佐原の街並みと似た感じだったのでは、と思われます。こじつけっぽく苦しいのですが(笑)。

智恵子の故郷・福島二本松がらみで2件。

まずは『広報にほんまつ』さんの今月号から。

智恵子の生家・記念館からのお知らせ 智恵子の生家2階特別公開

 9月7日~11月17日の土日祝日の27日間実施します。ぜひ、足をお運びいただき、当時智恵子が暮らした旧長沼家の雰囲気を堪能して下さい。
 来場者が多い場合には、皆様に安全で安心して観覧していただくため、人数制限をさせていただく場合があります。
 また、9月5日から11月19日までの期間は奇跡といわれる「紙絵」の”実物”展示をいたしますので併せてご覧下さい。

開館時間 9:00~16:30(入館は16:00まで)
入館料金 大人(高校生以上)個人:410円 団体:360円
     子ども(小・中学生)個人:200円 団体:150円
休 館 日  水曜日
菊人形まつり期間中(10月5日~11月17日)は、無休で開館します。


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毎年、春と秋に同様の機会が設けられています。昨年までは「福島ビエンナーレ重陽の芸術祭」とのコラボで、現代アート作品の展示などがあったのですが、今年はそういう情報は入っていません。

どうもビエンナーレ自体が終了したようです。その代わりに、というわけでもないのでしょうが、「にほんまつArt Fes」が新たに始まり、当方、明日、早速行って参ります。


もう1件、都内でのイベント情報です。

福島圏域合同移住セミナー

期 日 : 2019年9月14日(土)
時 間 : 午後1時から午後4時30分
会 場 : 東京交通会館グリーンルーム 東京都千代田区有楽町2丁目10-1

就業して自然豊かな地域に住みたい!地方にはない業種で起業してみたい! 農業を主として半農半Xしてみたいなどなど・・・・

今回のセミナーでは、5人の先輩移住者がご自身の経験をトークセッションで赤裸々にお話しし、移住に関する成功談や失敗談などなど貴重な情報が満載です。「移住に興味はあるけれど・・・」と迷っているみなさん、先輩移住者の話を聞いて、理想の移住をイメージしてみましょう!

参加費は無料です!みなさんのご参加を心よりお待ちしております!!

参加は原則申込が必要ですが、当日の参加でもOK!詳しい内容については、下記及びチラシをご覧いただき、ご不明な点はお気軽に事務局(福島市定住交流課)へお問い合わせください!

ほんとの空の下で「第2のふるさと」つくりませんか

福島圏域:福島市、伊達市、桑折町、国見町、川俣町、飯舘村、宮城県白石市、二本松市、本宮市、大玉村)

プログラム(予定)
(1)セミナー開始 午後1時
(2)トークセッション【第1部】 午後1時40分
(3)トークセッション【第2部】 午後3時
(4)セミナー終了 午後4時30分
(5)各自治体個別相談  午後1時から午後4時30分

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「ほんとの空」の語を使われてしまっては紹介しないわけにはいきませんで(笑)。そういえば、今年6月に開催された「二本松市田舎暮らし体験ツアー」でも「ほんとの空」の語を使って宣伝していました。

原発事故による風評被害、二本松などの中通りではかなりおさまったやに聞きますが、原発のあった浜通りは帰還困難区域も残り、まだまだです。真に「ほんとの空」が取り戻されるまで、福島の皆さん、がんばって下さい!


【折々のことば・光太郎】

何もかもうつくしい このビイルの泡の奮檄も 又其を飲むおれのこころの悲しさも

詩「カフエ ライオンにて」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

「何もかもうつくしい」福島を取り戻してほしいものです。

昨日は、光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館・碌山美術館さんの開館60周年記念行事にお招きいただき、信州安曇野に行っておりました。

記念行事は、近くの穂高神社さんで開催されましたが、その前に同館に参りまして、展示を拝見。「開館60周年記念 秋季企画展 荻原守衛の人と芸術Ⅲ 彫刻から造形思考へ-荻原守衛とその系譜-」というタイトルでの展示となっています。

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光太郎彫刻作品も7点、並んでいました。

そちらを拝見後、穂高神社さんへ。

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参拝後、境内の一角にある参集殿という施設に。こちらで記念行事が開催されました。

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まずは建築家の藤森照信氏による記念講演「碌山美術館の建築と建築家について」。非常に興味深い内容でした。

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当方、寡聞にして存じませんでしたが、碌山美術館さんの本館(碌山館)は、スペイン・バルセロナのサグラダファミリアで有名なガウディを日本に紹介した、今井兼次という建築家の設計だそうで、様式的にはロマネスク様式建築の範疇に入るとのこと。

ギリシャ建築を範とする重厚で権威的な石造りの古典主義建築に対し、教会などに多用されたバロック様式、さらにそれより古い様式がロマネスク建築。11~12世紀頃にやはり教会などを造る際に流行った様式で、手作り感溢れる素朴なスタイルです。当時の農民が、畑から出てきた石などを持ち寄り、手作業で積んだとのこと。

碌山館は石ではなく焼過煉瓦ですが、中世ヨーロッパと同様に、隣接する穂高中学校の生徒などが煉瓦を積む作業を手伝ったりしたそうで、教会風の外観といい、まさにロマネスクの精神を顕現した建物と言えるそうです。

講演の後は、同じ会場で記念祝賀会。

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同館代表理事にして、元館長の所賛太氏のごあいさつ、現荻原家ご当主の荻原義重氏をはじめ、来賓の方々の祝辞。

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アトラクションとして、松本ご在住の桂聰子さんによるフルート演奏。

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その後、乾杯、そして祝宴。美味しい料理を頂きました。

最後は、万歳三唱。

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今でこそ、個人美術館は当たり前のように全国に存在しますが、同館の開館当時はその嚆矢といえるものだったわけで、しかも、以来60年間、安曇野地域の文化推進に果たしてきた役割も非常に大きかったことと思われます。

同館建設に骨折った、彫刻家の笹村草家人、石井鶴三らは、晩年の光太郎に何かと相談を持ちかけ、光太郎も同館開館を心待ちにしていましたが、その日を待つことなく他界。生前の光太郎が同館を訪れることができたら、さぞや喜んだだろう、などと思いました。

祝賀会参加の引き出物的に、またまた書籍を頂いてしまいました。『荻原守衛日記・論説集』。題名の通り、現存する守衛の日記と、雑誌等に発表した美術評論などの集成です。

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A4版ハードカバー、571頁という厚冊で、ほぼオールカラー。日記の部分は、日記そのものの画像が全頁掲載され、もちろん活字にもなっており、さらに詳細な注釈も。舌を巻くようなものすごい資料です。

ただ、守衛帰国後の日記は相馬黒光によって守衛没後に焼かれてしまって現存しませんし、留学中の日記もすべてが残っているわけではなく、残念ながら日記の部分には光太郎は登場しません。しかし、索引を見た限りでは「論説」の部分に、光太郎、そして光雲の名が頻出しているようで、この後、熟読いたします。


今後とも、同館が末永く愛され続けることを願ってやみません。紅葉も美しい季節、皆様も是非足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

ブラボオ! と叫びたい事がある。最近、長沼重隆訳ホヰツトマンの「草の葉」の出来た事だ。
散文「ホヰツトマンの「草の葉」が出た」より
 昭和4年(1929) 光太郎47歳

ホヰツトマン」は、光太郎が私淑した19世紀アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマン。光太郎はホイットマンの日記を翻訳し、『白樺』などに寄稿した他、『自選日記』(大正10年=1921)として刊行もしました。

草の葉」は1855年に刊行されたホイットマンの代表作で、それまでに富田砕花、有島武郎らによって断片的に翻訳されていましたが、あくまで断片的なものでしかありませんでした。それが、英文学者・長沼重隆により、ほぼ完全な訳が行われたことを、光太郎は「ブラボオ!」と言っているわけです。これを機に長沼と光太郎は交流を持つことになったようです。

ちなみに当方、上記『荻原守衛日記・論説集』の刊行に「ブラボオ!」と叫びたくなりました。病のため任期半ばで退任なさった前碌山美術館長・五十嵐久雄氏のご功績大なりと承り、昨日、車椅子ながら祝賀会にご参加の五十嵐氏に久々にお目に掛かることもでき、望外の喜びでした。

信州安曇野の碌山美術館さん。光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館として、昭和33年(1958)に開館し、今年、60周年を迎えました。

そこで、記念行事のご案内をいただいております。

まずは記念講演会。 

碌山美術館の建築と建築家について

期 日 : 2018年10月20日(土)
場 所 : 穂高神社参集殿 長野県安曇野市穂高6079
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 無料
講 師 : 藤森照信(建築史家・建築家)

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その後、同じ会場で60周年記念祝賀会に突入します。こちらは参加費5,000円だそうで。

同館の開館には、最晩年の光太郎も多大な関心を寄せ、協力を惜しみませんでした。残念ながら開館前に光太郎の生命の火は燃え尽きてしまいましたが、その功績を讃え、本館である煉瓦造りの碌山館入口のプレートには、光太郎の名も刻まれています。

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また、同館に隣接する穂高東中学校さんに立つ守衛のブロンズ彫刻「坑夫」の題字は光太郎が揮毫し、光太郎が亡くなる前年(昭和30年=1955)に除幕されました。

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その縁の深い同館の60周年記念式典ですので、行かざあなるめいというわけで、参上します。光太郎の代参のつもりで行って参ります。

ちなみに現在開催中の企画展は、こちら。 

開館60周年記念 秋季企画展 荻原守衛の人と芸術Ⅲ 彫刻から造形思考へ-荻原守衛とその系譜-

期 日 : 2018年9月22日(土)~11月4日(日) 会期中無休
場 所 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : AM9:00~PM5:10 (11月はAM9:00~PM4:10)
料 金 : 大人 700(600)円  高校生 300(250)円  小中学生 150(100)円
       ( )内は、20人以上の団体料金

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このたび碌山美術館では開館60周年記念企画、「荻原守衛の人と芸術Ⅲ 彫刻から造形思考へ-荻原守衛とその系譜-」を開催致します。春季、夏季に続く本展は、荻原守衛(碌山)の系譜に連なる彫刻家と造形の展開を紹介するものです。
荻原はパリを立つ際に、師と仰いだロダンから「自然を師とせよ」という言葉を受け取ります。自然への観照、「真実」の追求によって荻原は生命感あふれる作品を示し、若い芸術家たちの心を捉えました。戸張孤雁は、荻原亡きあとの粘土を貰い受け彫刻家となり、当時画家を志していた中原悌二郎も、彫刻家へと歩みを進めます。戸張と中原が活躍する日本美術院彫刻部には荻原の「生命の芸術」が伝わり、石井鶴三や喜多武四郎など俊英の輩出を導きます。荻原の系譜は、「生命の芸術」を変容しながら、明治末から大正、昭和、そして日本美術院最後の同人となる基俊太郎の平成へと繋がります。
本展では明治大正期を第一展示棟に、昭和以降を第二展示棟に配置することで、時代とともに移り変わる造形の展開をご覧いただけます。
明治大正期の彫刻には、モデルから抽出した生命感が彫刻に表れています。これは、自然(真実)の獲得に全霊を尽くし、生命の写実に挑んだ成果とみてとれます。昭和以降の彫刻には、石井鶴三の「立体感動」や基俊太郎の空間への意識のように、造形そのものに思考が表れ、新たな造形の展開が示されます。
荻原守衛の登場によって目覚めた日本の近代彫刻は、自然への観照、造形への意識化をそれぞれの個性のなかに育みながら展開してきました。本展を通じて、荻原守衛の系譜における造形の展開をご覧いただければ幸いです。

夏期企画展が、「美に生きる―萩原守衛の親友たち―」で、光太郎と柳敬助、戸張孤雁に斎藤与里が大きく取り上げられましたが、今回も光太郎に関わると思われます。ただ、メインは次の世代の彫刻家たちのようです。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

その詩人が死んだら、もう二度とその類の詩をきき得ないといふ稀有な詩人が、こんどのどさくさの中の多くの死にまじつて死んだのである。

散文「逸見猶吉の死」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

逸見猶吉は、明治40年(1907)生まれ。草野心平の『歴程』に依り、光太郎とも交流がありました。戦時中は関東軍報道隊員として満州に派遣され、終戦後の昭和21年(1946)、帰国できずに現地で病死しています。

高祖保を紹介する中でも書きましたが、こうした報に接するたび、戦争推進に加担した自らへの慙愧の思いが、光太郎を捉えたことでしょう。

4/21(土)、文京区千駄木の旧安田楠雄邸で開催中の、写真家髙村達氏による写真展「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」を拝観した後、隣接する髙村家にお邪魔いたしました。写真展見学者対象に、高村家の見学ツアーが催されますが、ツアーが始まってしまうと、達氏はその対応に追われるであろうと予測し、その前に抜け駆けです(笑)。

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昔の住所で言うと、本郷区駒込林町155番地。002明治25年(1892)、光太郎数え10歳の秋に、一家は谷中からこの地に引っ越してきました。2年前に東京美術学校教授・帝室技芸員に任じられた光雲は、シカゴ万博に出品する「老猿」(重要文化財)の制作中。しかし、夏の終わりに光太郎の姉・さく(咲)が、肺炎のため数え16歳の若さで歿し、辛い思い出の残る谷中の家を出て、この地に移ったそうです。

光太郎は欧米留学に出る同39年(1906)まで、さらに帰国後の同42年(1909)から、同じ町内に光太郎専用のアトリエ兼住居が竣工する同45年(1912)まで、ここに住みました(ごく短期間、日本橋浜町に下宿していた時期がありましたが)。

同44年(1911)、光太郎と智恵子が運命的に出会ったのもここです。太平洋画会で油絵を学んでいた智恵子が、先輩芸術家に話を聞くため重ねていた訪問の一環として、やってきました。

その後、家督相続を放棄した光太郎に代わり、実弟で光雲三男の豊周がこの家を継ぎ、子息の故・規氏、さらに達氏と受け継がれてきました。

建物自体は戦後に建て替えられましたが、敷石や庭木などはほぼ元のままだそうです。数寄屋建築をベースにした設計は、建築家吉田五十八の弟子、中村登一だそうで、平成26年(2014)に国指定登録有形文化財に選定されました。

師匠の吉田五十八は、光太郎も訪れた熱海に現存する岩波茂雄の別荘「惜櫟荘」の設計も手がけています。

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しかし、いかんせん老朽化がひどく、文化財としての指定を解除し、解体されることとなりました。その前に、外観だけでも一般公開を、ということになって、今回の企画が実現したそうです。

ツアーの皆さんが到着する前に、内部も特別に見せていただきました。

豊周、そして規氏が書斎として使っていた部屋。蔵書等はまだそのまま手をつけていないそうです。

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鋳金の人間国宝だった豊周作の鋳銅の花瓶、それから光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)。なにげに置いてあったのでびっくりしました。

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やがてツアーの皆さんがご到着。

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安田邸のボランティアガイドさん、それから達氏による解説で、外から見学。

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幼少期の光太郎が登って遊んでいたという椎の木。もはや巨木です。竹は母屋の床を突き破ってしまうほどだそうです。

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こうし003た古い建築を遺すことの難しさ――部外者は無責任にいろいろ感じますが、当事者にとってみれば難題が山積という――を、改めて感じました。

旧安田楠雄邸での達氏写真展、そして髙村邸の見学ツアー、明25日(水)、そして28日(土)の、あと2日です。髙村邸見学はそれぞれの日の、13:00と14:30の各2回。安田邸で受付となっています。

この機会にぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

かういふ特質ある画家を十分に育て上げるやうな文化的環境が是非欲しい。同君の未来に私はわれわれ民族の内面形象を大に期待する。

散文「難波田龍起の作品について」より
昭和17年(1942) 光太郎60歳

難波田龍起は、上記髙村邸のすぐ裏に住んでいた洋画家です。光太郎にがっつり感化され、まずは詩、そして洋画の道へと進みました。

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