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『静岡新聞』さん。先週15日(金)の掲載でした

「女伊達直人」から図書カード 磐田市に1万円分 昨年に続き

 磐田市は14日、漫画「タイガーマスク」の主人公にちなんだとみられる「女 伊達直人」を名乗る差出人から渡部修市長宛てに、図書カード計1万円分が届いたと発表した。
 封筒には5千円分の図書カード2枚と、詩人高村光太郎の詩「牛」の一節と共に「厳しい年になりましたが、頑張っている母子の家庭に少しの光を」などと書かれた手紙が入っていた。
 具体的な使い道は今後検討する。渡部市長は「新型コロナウイルスに対して多くの市民が不安を抱いているなか、善意の輪が広がっていることに感謝申し上げます」とコメントした。
 磐田市には昨年1月上旬にも「女 伊達直人」から図書カードが届いていて、筆跡などから同一人物とみられるという。
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寄贈された図書カードと共に、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)の一節だそうで、おそらく差出人の「女伊達直人」さんが、「牛」に感じるところが何かあったのでしょう。あるいはもともと光太郎ファンの方なのか。

さて、一定以上の年代の方には解説不要でしょうが、「タイガーマスク」、「伊達直人」について。

漫画「タイガーマスク」は、梶原一騎原作、辻なおき作画で、昭和44年(1969)に『週刊ぼくらマガジン』で連載が始まり、同誌の廃刊後『週刊少年マガジン』に掲載誌を移し、同46年(1971)まで続いた人気漫画でした。連載とほぼ並行してテレビアニメ化され、テーマソングはアニソン史上の傑作の一つとの呼び声が高いものですね。
「伊達直人」は、主人公。漫画でもアニメでも詳細は語られませんでしたが、おそらく太平洋戦争に伴う戦災孤児です。自らが育った孤児院の解散にともなって日本を出、スカウトされた悪役プロレスラー専門の養成機関「虎の穴」に入り、素性を隠して「タイガーマスク」としてデビュー。全米を恐怖の渦に陥れます。

伊達は突如来日。孤児院が「ちびっこハウス」として再建されたものの、慢性的な経営難に陥っていることを知り、その援助のためでした。そこで「虎の穴」へ納めなければならない上納金を流用し、結果、「虎の穴」が送り込む刺客と死闘を繰り広げることになります。

アニメ版では、最後の刺客との試合中にマスクが外れて素性がばれ、日本を去るという終わり方でしたが、原作の漫画版では、「虎の穴」を壊滅させた後……
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ショッキングな結末です。

平成22年(2010)、群馬県前橋市の児童養護施設に「伊達直人」名義でランドセルが贈られ、それをきっかけに、全国の施設で寄付行為が連鎖、その流れが今も続いているわけですね。

戦後、光太郎もこうした寄付行為を行っていました。ただ、匿名ではありませんでしたが。昭和26年(1951)、詩集『典型』が第二回読売文学賞に選ばれると、その賞金をそっくり、蟄居生活を送っていた山小屋近くの山口小学校や地区の青年会などに寄付してしまいました。小学校ではそれで舞台用の幔幕を新注しました。
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その後も、ことあるごとに小学校へ楽器や幻灯機、書籍などを寄贈しています。その流れを受け、山口小学校が統合された太田小学校さんでは、毎年5月15日(昨年はコロナ禍で中止)の花卷高村祭で、児童さんたちが楽器演奏を披露してくれています。もちろん現在は光太郎から寄贈された楽器ではありませんが、同祭の始まった昭和30年代には、光太郎から送られた楽器が使用されていました。
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逆に光太郎が「女伊達直人」的な人の世話になったことも。

まったく面識もなかった、紀尾井町の料亭福田家(ふくだや)の女将・福田マチが、光太郎の蟄居生活を報道で知り、さまざまな食料などを送ってくれました。当会の祖・草野心平ら知り合いが食料等を贈ることはあっても、未知の人からの援助は珍しい例でした。

昭和27年(1952)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎、たまたま雑誌の対談企画で会場となった福田家を初めて訪れました。その際、山にいた頃に食料を贈ってくれたのはこの店の女将だったのでは? と問うと、果たしてその通りだったため、その場にいた一堂が奇縁に驚いたというエピソードが残っています。

「女伊達直人」。こうした心温まるニュースが、もっと増えて欲しいものです。同じ「寄付」でも「賄賂」では困りますが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

午後テガミ書き、詩稿を送り来りて天分の有無を問合わせくる青年が時々あるには閉口。詩とはかかるものにあらざる旨を書きおくる。弟子に置れといふテガミも少からず、事情を書いて断る。

昭和21年(1946)3月24日の日記より 光太郎64歳

逆にあつかましい依頼の例ですね。「弟子に置れ」は原文の通りで「弟子として置いてくれ」といった意味でしょう。

 静岡県から演劇系の公演情報です。 

SPAC出張劇場『星の時間 〜高村光太郎「智恵子抄」より〜』

期 日 : 2019年11月29日(金)
会 場 : 
鴨江アートセンター 静岡県浜松市中区鴨江町1番地
時 間 : 開場 18:45/開演 19:00 /上演時間50分(予定)
料 金 : 500円

画家であり高村光太郎の妻である高村智恵子の人生を、俳優の言葉と身体そして生演奏で描く作品。
出演するのは静岡県立の劇団SPACの俳優。
SPACの舞台に欠かせないパーカッションの生演奏を牽引してきた吉見亮が、本作品ではATV株式会社(本社:浜松)が生んだ新感覚の電子パーカッション「aFrame」に挑戦します。
布施安寿香による智恵子の言葉ひとつひとつが水面の波紋のように広がっていき、多彩な楽器の音色とともに観客の身体に染み込んでいく…そんなひとときをお楽しみください。

出演(SPAC俳優):布施安寿香、吉見亮

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「新感覚の電子パーカッション「aFrame」」。何だ、それは? と思って調べてみました。

製造元のATV株式会社さんのサイトがこちら




電子ドラムのような据え置き型ではなく、ポータブルです003ね。パネルにタッチすることで音を出す仕組みは共通のようですが。電子系の強みで、いろいろな音域、音色が出せるようです。なるほど、これは手軽に使えそうで、面白い楽器だと思いました。

この楽器の演奏に乗せて、「智恵子抄」。さらに俳優さんの身体表現も売りのようで、なかなか興味深い内容です。

都内、または近県であれば拝見に伺うのですが……。

ご都合のつく方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

外国美術を見学に渡欧したいといふ画かきや彫刻家はたくさんあるが、わざわざ国帑を外国へ棄てにゆかなくてもいいのにと思はれる様な程度の人も尠くない。最新流行の買い出しや、ふる臭くなつた感覚の染め直しにゆくやうな連中は論外である。

散文「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会趣意」より
昭和5年(1930) 光太郎48歳

高田博厚は、早世した荻原守衛を除き、光太郎がほぼ唯一、その力量を認め、プライベートに付き合った同時代の彫刻家です。興味深いのは、高田が彫刻家として独り立ちする前から、その才の非凡さを見抜き、実際、後に高田が大成したこと。こうした点も光太郎の審美眼の正しさを証明しているのでしょう。

その高田の留学に際し、費用を捻出しようと、光太郎、谷川徹三、高橋元吉らが骨折って始めた「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会」のパンフレットから。

「国帑」は「外貨」に対する日本円の意。要するに、物見遊山の延長でほいほい海外に出る美術家の何と多いことか、そして、高田はそんな奴等とは一線を画す存在なのだ、という話の流れです。

昨日の『静岡新聞』さんの一面コラムから。 

2018年1月9日【大自在】

▼水彩紙を貼った大小のパネルに墨と白いアクリル絵の具で描かれたさまざまな造形。広い・狭い、長い・短いで構成された直線や帯と、そこに白くかすれた不規則な模様。竹林やのれんのようでもあり、生物のゲノム(全遺伝情報)を示すマップにも見える
 ▼目を凝らすと、線と点の規則性があることに気付く。隠れていたのはモールス符号。例えば縦横3メートルの大作は高村光太郎の智恵子抄の一節で、手元のコード表を頼りに作品を読みながら鑑賞することができる不思議な“書”だった
 ▼「トン・ツーが言語体系となった世界で、どんな言葉の〝かたち〟があり得るのか」。島田市博物館で開催中の企画展。墨象作家宮村弦[みやむらげん]さん(37)=同市=は、デジタル通信の発達ですっかり廃れたモールス符号を文字として捉え直した
 ▼会場にはモールス符号の仮想世界をイメージしてゲスト作家が制作した音楽も静かに流れる。未知の芸術の息遣いに包まれながら、既成書道の枠を超えた造形として発展する墨象の奔放さに驚き魅了された
 ▼大学院で書道を修め、文字をベースにしつつアート活動を続ける宮村さん。最近、書が人間の生活から離れていくように感じられてならないという。「毛筆でも鉛筆でもいい。書く文化が土台になくては考える力も弱まってしまう」
 ▼冬休みが終われば学校では書き初め大会。お手本を横に筆運びを練習したり、新年の決意を力強く文字にしたり…。清書するときの緊張感は誰にも覚えがあろう。そんな小学生時代の思い出は宮村さん自身の原点でもあるそうだ。


こんな展覧会をやっていたのか、と、調べてみました。すると、以下の通り。もはや会期末でした。 

第71回企画展「宮村弦 -モールス・コード- 新しい言葉の{カタチ}」

期 日  : 2017年12月9日(土)~2018年1月14日(日)
会 場  : 島田市博物館 静岡県島田市河原1-5-50 
時 間  : 午前9時~午後5時
料 金  : 一般 300円  20名以上 240円  中学生以下 無料
休館日  : 月曜日

「平成27年度島田市文化芸術奨励賞」を受賞した宮村弦は、書をベースに文字や言語を「意味を宿した象徴(シンボル)」へ昇華させることを目指した作品を多く生み出しています。今回の企画展では、宮村弦の感性で、モールス・コード(モールス符号)を視覚化した作品を一堂に展示します。また、ゲストアーティストに音楽家・斉藤尋己(ひろき)氏を迎え、モールス・コードの作品世界を音として表現した合作も展示します。

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面白いことを考えるものだと思いました。

こちらが「智恵子抄」。

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智恵子歿後に書かれた「亡き人に」(昭1d53e98e和14年=1939)の最終行「あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」だそうです。

さらに調べたところ、同じ作品は、ちょうど一年前の今頃、東京都美術館さんで開催されていた「TOKYO 書 2017 公募団体の今」展にも出品されていたとのこと。存じませんでした。

当方の情報収集力もまだまだです(汗)。


お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

“文句ぬきの造型表現”慾望の強さが私を造形美術に駆りたてる。

散文「作家言」全文  昭和5年(1930) 光太郎48歳

雑誌『美術新論』に載った肖像写真のグラビアに添えられた一言。

宮村氏なども、こういう気持ちで作品制作に当たられているのではないでしょうか。

今月はじめのこのブログで、光太郎の父・高村光雲が明治33年(1900)に制作し、太平洋戦争中の金属供出で無くなり、一昨年再建された静岡県袋井市の寺院「可睡斎(かすいさい)」の境内に建つ「活人剣の碑」に関して、その由来などを描いた紙芝居が出来たという報道をご紹介しました。

他の方のブログで情報を得ましたが、それに伴い、袋井市さんの市役所2階・市民ギャラリーで、その紙芝居原画展が始まっています。20日(火)までだそうです。

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YouTubeに動画もアップされていました。


「YUKIKO」さんは、本名・鈴木幸子さん。

さらに袋井市さんのHPを調べてみましたところ、紙芝居「活人剣の物語」PDF版(PDF:1.6MB) ということで、全篇を見ることが出来るようになっていました。

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光雲作の初代「活人剣の碑」竣工の様子。光雲の名も出して下さっています。

ところが、金属供出で、台座のみになり、訪れる人もいなくなってしまったよ……的な場面。

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しかし、一昨年、地域に眠る日中友好の遺産に再び光を当てるべく、地元の人々の熱意で再建されました、というわけで……。

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碑の再建、紙芝居による啓蒙、その展示、こうした地味ながら地域の宝に光を当てる活動には、頭が下がります。

そして、金属供出などという馬鹿げた事態が起こらない、平和な世の中が続くことを祈ります。


【折々のことば・光太郎】

どんな豪雨や、 どんな突風にも、この消えずの火をまもつて、ぎつしり築いた、肉の歴史を未来に手渡す者は、 倒れる事によつてさへ罅隙をうづめる。
詩「消えずの火」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

この時期の光太郎同様、アナキストやプロレタリア文学者たちに近い位置にいた詩人・生田春月の追悼詞華集『海図』に寄せた詩です。

生田はさまざまな社会矛盾がアナーキズムやマルキシズムによって解決できないことから、次第に虚無思想的な方向に進み、この年、投身自殺を遂げました。一説には、同年だった芥川龍之介の自裁にも強い影響を受けたといいます。

倒れる事によつてさへ罅隙をうづめる」、つまり、生田の死を賭しての問題提起を無駄にするな、ということになりましょう。「罅隙」は「かげき」と読み、「裂け目、割れ目、亀裂」の意です。

光太郎の父・高村光雲がらみの報道です。『毎日新聞』さんの静岡版から。 

活人剣の碑 紙芝居に 地元有志ら、小中学校へ贈呈 袋井 /静岡

 袋井市久能の寺院「可睡斎(か000すいさい)」の境内に再建された「活人剣の碑」の由来などを子どもたちに伝えようと、地元有志らで作る再建委員会による紙芝居「活人剣の物語」が完成した。100セットを目標に製作し、市内の小中学校などに贈る。 
 20枚で構成。絵は個展開催歴もあるアマチュア画家で同市堀越の鈴木幸子さん(73)、文章は委員会メンバーがそれぞれ担当した。
 彫刻家の高村光雲作の初代の碑は、日清戦争(1894~95年)の講和交渉で来日した清国全権大使の李鴻章と、主治医を務めた旧陸軍軍医総監の佐藤進の交友の証しとして、1900(明治33)年に境内に建立された。医師の佐藤が軍刀を身に着けている理由を尋ねた李に、「私の剣は活人剣」と答えたことが碑名の由来という。
 しかし、第二次大戦中の金属供出で刀身部分がなくなり、台座だけとなっていた。このため、同寺や市民団体が復活に乗り出し、金属工芸家の宮田亮平氏が2代目を制作。2015年、別の場所に完成した。
 鈴木さんは「古い碑のあった場所にも行き、歴史を思い浮かべて一枚一枚丁寧に描きました」と言う。同寺の佐瀬道淳斎主(84)は「平和を願う碑ということを伝えたい」と話した。
 委員会は同じ内容の絵本を1000部作り、県内の図書館などに配る予定だ。【舟津進】


 「活人剣の碑」。記事にあるとお001、り明治期に光雲作の原型から鋳造されて可睡斎さんに据えられましたが、戦時中の金属供出で無くなってしまっていました。平成27年(2015)に、地元の方々の熱意で、初代の碑に似せて再建、その際の報道を、このブログでご紹介しています。


そこから碑の由来についての部分をコピペします。元ネタは『産経新聞』さんの静岡版。

 日清戦争の講和条約の交渉が下関で行われていた明治28(1895)年3月、清国全権大使の李鴻章が暴漢にピストルで襲われ、左目を負傷する事件が発生。陸軍軍医総監の佐藤進は、明治天皇の勅命を受けて李の治療に当たった。治療を通じて佐藤と交友を深めていた李が、常に軍服帯刀姿で治療する佐藤に「戦い方を知っているのか」と戯れかけると、佐藤は「私が手にする刀は殺人刀ではなく、活人刀だ」と即答。李はこの返答に感じ入り、別れに際して清の光緒帝からの褒章を約する詩を佐藤に贈った。
 
  李と佐藤の交友は、「活人刀」の問答として新聞紙上で大いに評判を呼んだ。佐藤が参禅していた縁もあり、可睡斎の日置黙仙斎主(当時)は「この話を長く後世に伝えたい」と発願。敵も味方もともに平等であるという「冤親(おんしん)平等」の思想のもとに浄財を募り、明治31年ごろに日清両国の戦没者の霊を弔う活人剣碑を建立した。

さらに、やはり『毎日新聞』さんの静岡版。

 地元有志でつくる「袋井まちそだての会」(遠藤亮平代表)や可睡斎、佐藤が第3代理事長を務めた学校法人順天堂(東京)は地域に眠る遺産に再び光を当てるべく、数年前から再建に向けた協議を進めてきた。遠藤代表(66)は「(碑は)歴史を振り返るよすが。日中友好や平和のシンボルにもなるはず」と期待を込める。

そういうわけで、碑が再建されました。

そしてこのたび、上記の由来を地元の子供たちにもっと知ってもらおうと、紙芝居が作成されたというわけです。この手の碑は建てて建てっぱなし、建てられて数年も経つとその存在すら忘れられてしむというものも少なくない中、こうした取り組みには頭が下がります。

特に中国や韓国との関係がぎくしゃくしている現在こそ、こういうことが必要でしょう。


ところで、以前の記事が出たあと、可睡斎さん002について調べていましたら、初代高村晴雲作の仏像がいらっしゃることがわかりました。晴雲は、光雲の師・高村東雲の孫。明治26年(1893)の生まれで、光雲に学びました。10歳年長の光太郎とも交流があり、戦後は花巻郊外太田村に隠棲していた光太郎の元を訪れたりもしています。その際に贈られた晴雲作の観音像が、花巻高村光太郎記念館さんに所蔵されています。

可睡斎さんでは、「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)像」。なんとトイレに安置されています。トイレといっても、「東司(とうす)」という独立した堂宇で、烏枢沙摩明王は「烈火で不浄を清浄とする力を持つ」とされることから、東司の守護神として鎮座ましましているわけです。

像高3メートルの巨大な木彫で、お参りされる方は一様に驚きの声をあげられるそうです。

当方、可睡斎さんにはまだ足を運んだことがありません。折を見て参拝したいと存じます。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

又買ひ出されて来た一団の人夫。 おれの朴歯が縦に割れて、 二千の軀(むくろ)の上に十里の山道がまつ青だ。

詩「上州湯檜曾風景」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

「湯檜曾」は現在の群馬県利根郡みなかみ町。温泉地です。光太郎がここを訪れた際、上越線の清水トンネルの掘削工事が行われているところでした。竣工は2年後です。

「買ひ出されて来た一団の人夫」は、詩の前半に「二千人の朝鮮人」と記されています。この頃、半島の人々を強制連行しての工事が日本各地で行われていました。清水トンエルの工事自体はそれほどの難工事ではなかったようですが、東海道線の丹那トンネルの工事では、延べ 250 万人が動員され朝鮮人7名を含め67人が犠牲になったとか、湯檜曾にほど近い中津川第一発電所の建設工事では逃亡を試みた数十人の朝鮮人労働者たちが射殺されたり、セメント漬けにされて信濃川に投げ込まれたりした「信濃川朝鮮人虐殺事件」も知られています。

こうした事象を背景に、光太郎、思うところがあったのでしょう。詩「上州湯檜曾風景」が作られました。

いわゆる自称「愛国者」のゲスどもは、こうした事件も捏造だ、と言い張るのでしょうか。何かというと「中韓は……」「在日は……」とほざく輩こそ、可睡斎さん「活人の碑」の精神に学びなさい、と言いたいところです。

光太郎の父・高村光雲作の木彫に関してです。

熱海來宮弁財天「弁天祭」

期  日 : 2016年11月23日(水・祝)
場  所 : 熱海來宮神社内 静岡県熱海市西山町43-1
時  間 : 午後1時30分~

静岡県熱海市に鎮座まします來宮神社さん。その境内に、摂社の扱いの來宮弁財天さんがあり、そちらの例祭です。

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年に一度のこの日、ご神体の弁財天像が御開帳。これが、光雲の作だそうです。

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光雲の彩色彫刻は類例があまりないものです。ただ、信州善光寺さんの山門背面の三面大黒天と三宝荒神(ひな形は史料館)、松島瑞巌寺さんに納められている観音像などにはやはり彩色が施されており、寺社仏閣に奉納されたものには意外と多いのかも知れません。

上の画像で見ると、袖の襞(ひだ)など、どう見ても本物の布にしか見えませんが、やはり木材なのでしょう。舌を巻かされます。

いろいろ調べておりましたら、昨年の弁天祭の様子が、「熱海ネット新聞」というサイトに掲載されていました。それによれば「一般公開は例祭の時だけとあって芸能関係者も含め、多くの参拝者が訪れた。」とのこと。

今年もどなたか有名芸能人に会えるかも知れません。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

太(ふと)ももの肉(しし)のあぶらのぷりぷりをもつをみなすら見ざるふるさと

明治42年(1909) 光太郎27歳

このコーナーで7月にもこのシリーズを何首か紹介しましたが、日本女性に対する失望を露わにした連作です。その失望は貧弱な体格にも向けられています。そりゃまぁ、西洋の女性と比べればそうなのでしょうが……。

静岡から企画展情報です。7月から9月にかけ、群馬県立館林美術館さんで開催されていた企画展の巡回となります。ちなみに来年1月末からは、三重県立美術館さんに巡回します。

再発見!ニッポンの立体 生人形(いきにんぎょう)からフィギュアまで

期 日 : 2016年11月15日(火)~2017年1月9日(月・祝)
会 場 : 静岡県立美術館  静岡市駿河区谷田53-2
時 間 : 午前10時〜午後5時30分(展示室への入室は午後5時まで)   
休館日 : 毎週月曜日 (祝日・振替休の場合はその翌日) 12/26~1/1
料 金 : 一般 1,000円(800円)  70歳以上 500円(400円)
      ( )内団体料金  大学生以下無料

古来、日本では仏像、神像、人形、置物、建築彫物など様々な立体造形がつくられてきました。
しかし、それらは西洋的な彫刻の概念に基づくものではなく、また西洋的な芸術鑑賞の対象でもありませんでした。
そのため、その多くは西洋的な彫刻とは異なるものとみなされて、いわゆる美術(ファイン・アート)としては位置づけられてきませんでした。近年、日本近代彫刻史の再検討が盛んに行われる中で、こうした日本の前近代以来の立体造形が改めて注目されています。この展覧会ではこういった成果をうけて、彫刻、工芸など従来のジャンル分けを越え、より自由な視点から日本の立体造形を紹介いたします。
主に近世から現代に至る多彩な日本の立体造形作品を紹介しながら、日本における「彫刻」と「工芸」という二つの分野の関わり、西洋的彫刻世界と前近代的造形世界を往還するわが国独特の感性について考えていきたいと思います。

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関連行事 

 特別対談 サブカルチャーからニッポンの立体を考える」
  工藤健志氏(青森県立美術館 学芸主幹)× 村上 敬(当館上席学芸員)
  12月4日(日)14:00〜15:30 場所:館講堂
 
 フロアレクチャー
  学芸員による解説 11月27日(日) 12月11日(日)いずれも14:00から30分程度
  集合場所 : 企画展第1展示室 申込不要、要観覧料


光太郎のブロンズ彫刻が2点、展示されるとのことです。京都国立近代美術館さん所蔵の「裸婦坐像」(大正6年=1917)、そして神奈川県立近代美術館さん所蔵の「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)。

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光雲の木彫作品も展示されます。「江口の遊君」(明治32年=1899)、「西王母」(昭和6年=1931)です。共に京都の清水三年坂美術館さんの所蔵です。

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「江口の遊君」は、謡曲「江口」で、西行法師と歌問答をしたとされる遊女の妙(たえ)―実は普賢菩薩の化身―です。同じモチーフで複数の彫刻を作った光雲ですが、これは類例がほとんど無いのではないかと思われます。

同館は、光太郎が敬愛したロダン彫刻の収集に力を入れており、ずばり「ロダン館」という棟もあります。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

強きこといくたび言へどいかがせんひもじき時は金欲しとおもふ

大正15年(1926) 光太郎44歳

その通りです、光太郎先生(笑)。

光雲関連の報道を2件。

まずは長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんから。

善光寺資料館展示 三宝荒神ひな型 初の「補修の旅」

 近代日本を代表する彫刻家高村光雲(1852~1934年)と米原雲海(1869~1925年)の合作で、長野市の善光寺仁王門にある三宝荒神(さんぽうこうじん)像、三面大黒天像の試作品に当たる「ひな型」が27日、修理のため、展示してある善光寺の資料館(日本忠霊殿)から東京芸術大に搬出された。ひな型が修理で寺の外に出るのは、1919(大正8)年の制作以来、初めて。

 ひな型は、三宝荒神が高さ123センチ、三面大黒天が106センチ。仁王像の背面にある高さ2・5メートルほどの本像の制作前に、高村、米原が作った。文化財に指定されてはいないが、木造彩色でともに三つの顔と6本の腕があり、群青色の体や衣、金色の装飾が鮮やかだ。しみや欠損、カビが生えるなど傷みが目立つようになり、来年5月までの予定で修理することになった。

 27日は東京芸大大学院の保存修復彫刻研究室の3人が、付属品を外した像を緩衝材やさらしで幾重にも包み、慎重に運び出した。同大学院非常勤講師で近代彫刻が専門の藤曲隆哉さん(33)によると、伝統的な仏像彫刻の形式と近代の技法を融合させ、大正時代を代表する作品の一つという。善光寺事務局は「近代彫刻の観点での調査成果にも期待したい」としている。
(2015.8.28)


善光寺さんの仁王門には、光雲と高弟の米原雲海合作の仁王像が奉納されています。下記画像は大正時代の絵葉書です(以下同じ)。

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大正8年(1919)の開眼です。昨秋には、最大震度6弱を観測した長野県北部地震が発生、仁王像も破損しましたが、大事には至らなかったようです。

その仁王像の裏側には、三面大黒天像と、三宝荒神像が納められています。こちらも光雲・雲海の手になるものです。

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その試作(ひな形)が善光寺さんの資料館である日本忠霊殿に収蔵されていますが、そちらが東京芸術大学で補修されることになったという記事です。文化財修復の技術には定評がある同大、光雲も雲海も前身の東京美術学校で教鞭を執っていたゆかりの深い学校です。この際、きっちりと補修をしていただきたいものです。

下記は三面大黒天像のひな形。三宝荒神像のそれが写った絵葉書は未入手です。

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「高サ七尺五寸」というキャプションは、仁王門に納められている本体で、ひな形は約100㌢です。

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もう1件、『毎日新聞』さんの静岡版の記事です。昨秋ご紹介した袋井市の寺院・可睡斎さんに、明治31年(1898)頃に建てられた「活人剣」の碑に関してです。

<活人剣の碑>来月完成 李鴻章と軍医、交友の証し 袋井

 袋井市久能の禅寺・可睡斎(かすいさい)の境内に復活建立される「活人剣の碑」の工事が最終段階を迎えている。27日には制作者で金属工芸家の宮田亮平・東京芸大学長が訪れ、台座に載せる金属製の剣碑(高さ約5メートル)が据え付けられた。
 剣はサーベルの形をしておりステンレス製。表面をブロンズで覆ってある。富山県内のアトリエで制作した。この日作業員が重機などを使って台座の上に剣先が天に向かう形で慎重につり下ろした。高村光雲作とされる初代の碑は境内奥にあったが、復活碑は山門の横に建立される。
 宮田学長は「(初代の)復元ではなく現代に合わせた作品」と説明。剣の刃先の向きなど設置状態を調べ「このままでいいですね」と満足そうだった。
 初代「活人剣の碑」は、日清戦争(1894〜95年)の講和交渉のため来日した清国全権大使の李鴻章と、主治医を務めた旧陸軍軍医総監、佐藤進の交友の証しとして建立された。佐藤がいつも軍刀を身に着けている理由を尋ねた李に、「私の剣は活人剣」と答えたことが碑名の由来という。
 しかし第二次大戦中、金属供出でなくなり、台座だけが残った。地元有志らが再建委員会を設置。昨年から建設費(約3000万円)の募金活動を始めた。
 9月26日に完成を祝う「立剣式」を行い一般公開する。【舟津進】
(2015.8.29)


こちらも古絵葉書です。おそらく光雲が中心となって、上部の剣の部分を木彫で制作、それをブロンズで鋳造したものと思われます。

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色即是空とは申しますが、滅びるに任せず、修復したり再建したりができるのであれば、光雲ら先人の事績共々後世に伝えていって欲しいものです。その意味ではどちらも意義のある取り組みですね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月31日 000

昭和61年(1986)の今日、徳間書店から内田康夫著『「首の女(ひと)」殺人事件』が刊行されました。

昭和57年(1982)、『後鳥羽伝説殺人事件』で始まり、現在も続く、浅見光彦シリーズの第10作です。光太郎の作った木彫の贋作を巡る事件を、名探偵浅見光彦が鮮やかに解決するというものです。

平成18年(2006)にはフジテレビさんが中村俊介さん主演で、平成21年(2009)にはTBSさんが沢村一樹さん主演で、それぞれドラマ化しています。どちらもBS放送などで、年1~2回、再放送されています。

浅見光彦シリーズはコミック化されている作品も多いのですが、この『「首の女(ひと)」殺人事件』は、それがなされていません。光太郎の「蟬」の木彫などを描かなければ成り立たないので、大変なのかも知れませんが、漫画家の皆さん、ぜひお願いします。

追記 平成30年(2018)、ぶんか社さんから、『まんがでイッキ読み! 浅見光彦 怪奇トラベルミステリー』が刊行され、夏木美香さんの画による「首の女……」が収録されました。

智恵子と同じ太平洋画会(現・太平洋美術会)、さらに高村光太郎研究会に所属され、3年前に『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』という書籍を出版された坂本富江さんから、情報の提供をいただきました。

近々、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』の増補改訂版を刊行されるそうで、そのために訪れた静岡は沼津でのお話です。

概要をわかりやすくするために、坂本さんから戴いた地方紙『沼津朝日』さんの記事を引用します。今月9日の記事です。記事中の明らかな誤り(年号など)は訂正しました。

沼津に足跡残す高村智恵子 ゆかりの大熊家の所在知りませんか 智恵子が描いた一枚の絵 エッセイストがモデルの木を探す

 高村光太郎の詩集『智恵子抄』でも知られる光太郎の妻、高村智恵子と沼津とのゆかりを調べている人がいる。エッセイストの坂本富江さん(東京都板橋区)で、智恵子が寄留した白銀町の大熊家についての情報提供を呼び掛けている。

 高村智恵子(一八八六~一九三八)は、福島県安達郡油井村(現二本松市)の長沼家に生まれた。福島高等女学校を経て日本女子大学校に入学し、洋画家の道に進む。一九一一年に光太郎に出会い、一四年に結婚。その後、精神的な不調を経験し、三八年に病没した。四一年、『智恵子抄』刊行。
 画家としても活躍した智恵子は多くの作品を手掛けたが、現存している油絵は三点しかないという。そのうちの一つで清春白樺美術館(山梨県北杜市)が所蔵している「樟(くす)」は、沼津市内で描かれた。
 高等女学校時代の智恵子には大熊ヤスという親友がいた。ヤスの家は父の転勤により転居を繰り返していたが、現在の沼津市内の白銀町に家を構えていたことがあった。智恵子が沼津を訪れたのは、この縁によるもので、一九〇六年には智恵子とヤスの二人で富士登山をしている。
 その後、ヤスは沼津中学校(現沼津東高)の教員をしていた上野直記と結婚。ヤスは夫の転勤により一九一三年に朝鮮半島に渡ったが、ヤスの母と特別な信頼関係があった智恵子は、ヤスの転居後も白銀町の大熊家をたびたび訪れていて、「樟」は、この間に描かれた。
 山梨県韮崎市出身の坂本さんは、小学生の頃から詩に興味があり、『智恵子抄』や『道程』といった高村光太郎の作品群に親しんでいた。
 そこから智恵子に強い関心を抱くようになり、地元近くの清春白樺美術館で「樟」を見たのがきっかけとなり、智恵子ゆかりの地を訪ねてスケッチや文章などの創作を続けた。それらをまとめてエッセイ集『スケッチで訪ねる「智恵子抄」の旅』を出版したところ、好評のため商業出版された。
 今回、同書の増補改訂版の出版が予定されていて、坂本さんは準備を進めている。その中でも特に力を入れているのが、「樟」のモデルとなった木の特定だ。
 モデルについては、二説がある。一つは、大熊家の近くにあった沼津尋常小学校(現一小)の校庭の木で、校庭の北端にある道喜塚周辺の木であるというもの。もう一つの説は、大熊家の庭にあった木。
 大熊家は戦後しばらく白銀町にあったものの、転居してしまったため、その正確な場所は不明。坂本さんは、この大熊家の位置に関する情報と、ヤスが嫁いだ上野家の消息に関する情報を集めている。
 心当たりのある方は市歴史民俗資料館(電話九三二 - 六二六六)まで。
 
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問題の絵はこちらです。

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記事にあるとおり、山梨県の清春白樺美術館さんで展示されています(常に、というわけではないようですが)。

沼津のこの木は、当方も以前から気になっていて、現地調査に行こうと思いながらなかなか機会がなかったのですが、坂本さんは都合6回も沼津に行かれたそうです。その結果、沼津第一小学校さんや沼津市歴史民俗資料館さんなどのご協力で、問題の木は沼津第一小さんの敷地内に健在の木、ということがほぼ確定したとお便りを戴きました。

詳細は、近々刊行されるという、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』の増補改訂版にて紹介されるはずですので、期待したいと思います。

その他、沼津の大熊家、上野家などについての情報をお持ちの方は、記事にあるとおり、歴史民俗資料館さん、または当方までご教示いただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月24日

平成4年(1992)の今日、東芝EMIから朗読CD「音楽のある星に生きて」シリーズの「空」と「大地」がリリースされました。

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それぞれ、ヒーリング系のBGMにのせて、古今の名詩が朗読されています。

「空」は、詩人の工藤直子さんの選、壇ふみさんの朗読で、光太郎詩「青空」(昭和3年=1928)が収められています。

「大地」の選は作家の立松和平さん、朗読は森本レオさん。収められている光太郎詩は「案内」(昭和24年=1949)です。

ついでに同じラインナップで「森」が前月に出ています。選・工藤直子さん、朗読、真行寺君枝さん、光太郎詩は「新緑の頃」(昭和15年=1940)です。

光太郎のブロンズ作品が1点ずつ出品されている企画展が開催中です。

まずは静岡。 

静岡市美術館開館5周年記念 大原美術館展 名画への旅

会  場 : 静岡市美術館 静岡県静岡市葵区紺屋町17-1葵タワー3階
会  期 : 2015年4月18日(土)~5月31日(日)
時  間 : 10:00~19:00
休館日  : 月曜日
料  金 : 一般1300円 大高生・70歳以上900円 中学生以下無料

大原美術館は、日本で初めて西洋美術が鑑賞できる美術館として1930(昭和5)年岡山県倉敷市に開館しました。その豊富なコレクションの基礎を築いたのは、実業家・大原孫三郎(1880-1943)とその盟友で岡山県出身の洋画家・児島虎次郎(1881-1929)でした。虎次郎は孫三郎の支援を受けて三度渡欧し、フランス、ベルギー、ドイツ、スペインなどを巡ります。今でこそ西洋絵画は身近な存在ですが、海外の情報を得ることも旅行も容易でない当時に、虎次郎がもたらした名品の数々は、日本で高い関心と熱狂をもって受け入れられました。美術館創設時の強い公共精神―若い芸術家や一般の愛好者のために優れた美術作品を鑑賞、研究する場を提供する―は現在まで受け継がれ、そのコレクションはそれぞれの時代を反映しながら豊かに発展してきました。
静岡市美術館開館5周年記念となる本展では、児島虎次郎の作品をはじめ、珠玉の西洋絵画、日本近代美術の名作、そして静岡ともゆかり深い芹沢銈介や民藝運動の作家、さらに山口晃ら近年活躍めざましい現代の作家たちの作品など、大原美術館を代表する75点を一堂に紹介します(会期中一部展示替えあり)。大原美術館のこれまでの活動を辿りながら、孫三郎と虎次郎が目指した美術館、そして初めて本物の西洋絵画に触れた当時の人々の熱い想いに、改めて触れる機会となれば幸いです。


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光太郎の作品は、「腕」(大正7年=1918)が並んでいます。非常に迫力と量感に溢れた作品です。

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藤島武二、岸田劉生、梅原龍三郎、バーナード・リーチなど、光太郎と縁の深い作家の作品も出展されています。

気づくのが遅くなり、主な関連行事のうち、未実施のものは以下だけになってしまいました。すみません。

講演会「洋画家たちの挑戦-大原美術館所蔵作品を中心に」

日 時 2015年5月10日(日)14:00~15:30 (開場13:30~)
講 師 柳沢秀行氏(大原美術館学芸課長)


続いて北海道は札幌から。 

彫刻の美~本郷新に学ぶ彫刻鑑賞

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会 場 : 本郷新記念札幌彫刻美術館 札幌市中央区宮の森4条12丁目
会 期 : 2015年4月25日(土)~6月28日(日)
時 間 : 10:00~17:00
休館日 : 月曜日
料 金 : 一般500円 65歳以上400円 大高生300円 中学生以下無料

彫刻家本郷新(札幌生まれ、1905-1980)による『彫刻の美』は、青少年向けの芸術叢書として1942年に冨山房から出版されました。彫刻の本質や魅力を平明かつ的確に、また美しくつづった名著として再版を重ね、今なお読み継がれています。 本展は、本書のなかの本郷の言葉を手がかりに「彫刻の美」を味わおうとするものです。「量」「動勢」「調和」「材質」等、本郷の提示する彫刻の要素に着目しながら、作品の見どころを紹介します。 当館および札幌芸術の森美術館の所蔵品のなかから、日本近代彫刻の優品を中心に、その源流にあるロダン等の西洋近代彫刻の作品を加えて構成。彫刻と言葉の響き合う空間にぜひおでかけください。

[おもな出品作家]
 荻原守衛、戸張孤雁、高村光太郎、中原悌二郎、本郷新、佐藤忠良、舟越保武、ロダン、ブールデル、マイヨール、デスピオ

関連行事

■美術講座「彫刻の美~本郷新芸術の源流」
当館学芸員が本郷新の彫刻芸術とその源流にある西洋近代彫刻についてお話しします。
日時:2015年5月16日(土)14:00~15:00 会場:本館研修室     講師:樋泉綾子(当館学芸員)
*申込不要、要展覧会観覧料
無題
■講習会「おとなのデッサン教室」
講師とともに「彫刻の美」展の作品を鑑賞し、彫刻のデッサンを学びます。
日時:2015年5月30日(土)14:00~16:30
講師:國松明日香氏(彫刻家)
参加料:1,800円   定員:20名
申込方法:5月13日(水)9:30より電話受付開始(011-642-5709)


光太郎作品は、「裸婦坐像」(大正6年=1917)。小品ですが、愛らしい彫刻です。


それぞれ光太郎作品は1点ずつの展示ですが、お近くの方で、普段、光太郎の彫刻の実物を目にする機会のない皆さん、ぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月9日010

平成22年(2010)の今日、音楽ユニット古川本舗のCD「SING ALONG」がリリースされました。

いわゆるVOCALOID系で、田中到氏作曲の「レモン哀歌」(若干の詩の改変有り)が収録されています。なかなか軽妙、それでいて哀愁漂うメロディーで、一度聴くとけっこう頭から離れません。

光太郎の父、光雲に関し、先日ご紹介した内容の追補です。
 
まず、今月初めにご紹介した「シンワアートオークション 近代美術」が27日の土曜日に開催されました。光雲作の木彫「大黒天」が出品され、落札価格は¥7,400,000とのこと。
 
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7月にあった同じシンワさんのオークションでは、やはり光雲作の木彫聖観音像が1000万超での落札でしたので、それよりは安いものの、やはり凄い金額ですね。
 
 
続いて、先週ご紹介した静岡の可睡斎という寺院に関するニュース。先週は『静岡新聞』さんの報道をご紹介しましたが、『産経新聞』さんの静岡版でも報じられました。  

日清交友の歴史、「活人剣碑」再建へ 静岡・袋井の有志が寄付募る

 日清戦争当時の清国全権大使・李鴻章(り・こうしょう)と陸軍軍医総監・佐藤進の絆を現代に伝える、寺院「可睡斎」(袋井市久能)の「活人剣碑」。現在は台座のみが残されているが、地元の有志により再建が計画されている。来年9月までに寄付を募って完成を目指す方針で、関係者らは「日清両国の交友の歴史を知ってもらうことで、現代の日中友好にも役立つのでは」と期待している。
                    ◇
 日清戦争の講和条約の交渉が下関で行われていた明治28(1895)年3月、清国全権大使の李鴻章が暴漢にピストルで襲われ、左目を負傷する事件が発生。陸軍軍医総監の佐藤進は、明治天皇の勅命を受けて李の治療に当たった。治療を通じて佐藤と交友を深めていた李が、常に軍服帯刀姿で治療する佐藤に「戦い方を知っているのか」と戯れかけると、佐藤は「私が手にする刀は殺人刀ではなく、活人刀だ」と即答。李はこの返答に感じ入り、別れに際して清の光緒帝からの褒章を約する詩を佐藤に贈った。
 
  李と佐藤の交友は、「活人刀」の問答として新聞紙上で大いに評判を呼んだ。佐藤が参禅していた縁もあり、可睡斎の日置黙仙斎主(当時)は「この話を長く後世に伝えたい」と発願。敵も味方もともに平等であるという「冤親(おんしん)平等」の思想のもとに浄財を募り、明治31年ごろに日清両国の戦没者の霊を弔う活人剣碑を建立した。
 
  碑には高村光雲が製作した長さ約4メートルの軍刀が安置されていたが、金属製であったため太平洋戦争の際に供出された。現在は台座のみが残されており、碑の前で足を止める人はまばら。可睡斎の僧侶、吉井敬晴(けいせい)さん(49)も「碑にまつわる言い伝えはあったが、その価値があまり知られていなかった」と振り返る。
 
  再建のきっかけとなったのは、地域の文化財を再発見する「袋井まちそだての会」の活動だ。数年前から活人剣碑の調査を進め、建立時と同じく寄付を募って再建することを決めた。同会事務局長の鈴木敬雄さん(67)は「戦争当時は日清両国で多くの戦没者が出たが、戦争の歴史の上に現在の平和があることを知ってほしい」と話した。
 
  剣の製作は金属工芸家で東京芸術大学学長の宮田亮平氏に依頼しており、碑の再建には総額3千万円ほどがかかる見込み。一口1千円から寄付を受け付けている。問い合わせは「活人剣碑」再建委員会(電)0538・42・2121。
 
当方、先週の『静岡新聞』さんの報道を読み、早速、当時の絵葉書をネットで購入しました。
 
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記事にもある通り、太平洋戦争中の金属供出で、もはや見ることができないものです。
 
かなり前のこのブログで書きましたが、同じく金属供出で失われた光雲、光太郎の彫刻がかなりありました。
 
光雲でいえば、明治39年(1906)、熊本の水前寺公園に建てられた長岡護全銅像。東京向島にあった西村勝三像(明治39年=1906)、秋田県仙北にあった坂本東嶽像(大正12年=1923)もそうです(西村像、坂本像についてはこちら)。
 
他にも制作された記録や写真はあるものの、現存しない光雲作の銅像のうち、金属供出のため無くなったものもあると思われます。
 
光太郎でいうと、岐阜にあった浅見与一右衛門銅像(大正7年=1918)、宮城にあった青沼彦治像(大正14年=1925)。これらはいずれも光雲の代作です。また、千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられた赤星朝暉胸像(昭和10年=1935)は、完全に光太郎のクレジットでした。
 
こういう愚かな歴史は繰り返してはいけませんね。
 
ところが、同じ銅製の彫刻でも、光雲作の仏像の類は、いまだに主に東京の多くの寺院に残っているのです。いずれ暇をみつけて見て歩こうと思っています。やはり仏像を供出したり鋳つぶしたりということには抵抗があったのでしょうか、狂気の戦争の時代にも、良心が見て取れます。しかし、仏像ではなく梵鐘はかなり金属供出の対象になったという話を聞きます。銚子にある当方の親戚の寺院でもそうでした。
 
ところで、銅像の類はなかなか文化財002指定が成されていないのが現状です。そろそろ設置場所の各自治体で、そのあたりを考慮してほしいものですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月30日
 
昭和31年(1956)の今日、角川文庫の一冊として「高村光太郎詩集」が刊行されました。
 
編集は草野心平です。
 
同じ角川文庫のラインナップに『道程 復元版』が既にあったため、こちらは『道程』以後の詩作品を収録しています。

光太郎の父にして、重要文化財の「老猿」、上野の西郷隆盛像などの作者、高村光雲に関わる報道がありましたので、ご紹介します。 

近代彫刻家、米原雲海の作品一堂に 安来で展示会開幕

 日本を代表する、島根県安来市出身の近代彫刻家、米原雲海(1869~1925年)の作品を一堂に集めた展示会が18日、同市安来町の和鋼博物館で開幕した。日本の木彫に新風を吹き込んだ作家の代表作が、来館者を魅了している。10月20日まで。002

 雲海は1890年、安来を離れて上京し、巨匠高村光雲の門下で、目覚ましい上達を見せた。97年に種痘の創始者ジェンナー像を制作するに当たり、西洋彫刻の技法「比例コンパス」を初めて木彫に用いるなど、日本の木彫界に大きな足跡を残した。

 市内で雲海展が開かれるのは14年ぶり2度目で、10月に合併10周年を迎える市が記念事業として開催。東京芸術大学や県立美術館、長野県、茨城県の個人などから借り、前回の約2倍となる39点の雲海作品をそろえた。

 東京国立博物館の前庭に立つジェンナー銅像の原型となる等身大木像をはじめ、親交のあった日本画家・橋本雅邦の像や、竹取物語の登場人物を表現した「竹取翁」など代表作がずらりと並んでいる。

 雲海展に合わせて市は、同市広瀬町布部の加納美術館で高村光雲や兄弟弟子の作品を展示。同市安来町の観光交流プラザでは地元出身の現代彫刻家の作品展も開いている。いずれも10月20日まで。

(『山陰中央新報』 2014/9/18)
 
過日ご紹介した「新安来市発足10周年記念事業 「米原雲海とその系譜展」に関する地元での報道です。
 
 
もう一つ、別件です。 

日清戦争当時の逸話の証し「活人剣碑」再建へ 袋井・可睡斎

 日清戦争当時の中国全権大使李鴻章と日本陸軍軍医総監の佐藤進のエピソードを基に可睡斎(袋井市久能)に建てられ、現在は台座のみ残っている「活人剣碑」の再建計画が26日、同市役所で発表された。市民団体などでつくる再建委員会が事業主体となって広く資金を募る。碑は東京芸術大学長で文化審議会会長の宮田亮平氏が制作する。来年9月に完成する予定。
 碑の由来は約120年前にさかのぼる。講和条約の交渉時、李は暴漢に狙撃され顔を負傷した。主治医の佐藤の治療によって回復した李は、帯刀姿の佐藤に「医事に剣は不要では」と尋ねた。佐藤は「人をあやめる剣ではなく、生(活)かすための活人剣だ」と即答し、李はいたく感動したという。
 当時の可睡斎の日置黙仙斎主がこの逸話を後世に伝え、日清両国の戦没者の霊を弔おうと碑の建立を発案した。剣の部分は高村光雲が制作し、1898年ごろ、高さ6メートルほどの碑が完成した。ところが、剣は金属製だったため太平洋戦争時に供出された。
 地元有志でつくる「袋井まちそだての会」(遠藤亮平代表)や可睡斎、佐藤が第3代理事長を務めた学校法人順天堂(東京)は地域に眠る遺産に再び光を当てるべく、数年前から再建に向けた協議を進めてきた。遠藤代表(66)は「(碑は)歴史を振り返るよすが。日中友好や平和のシンボルにもなるはず」と期待を込める。
 再建は現存する台座と別の位置を検討する。委員会は約3千万円の資金を募る。一口千円。問い合わせは可睡斎<電0538(42)2121>へ。
(『静岡新聞』 2014/9/27)
 
当方、寡聞にしてこうした碑があったことは存じませんでした。「可睡斎」は、寺院です。「日清両国の戦没者の霊を弔おうと」というのがいいですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月27日
 
明治32年(1899)の今日、東京美術学校校友会の補欠委員に推挙されました。
 
翌年には、俳句一句がこの校友会発行の雑誌『東京美術学校校友会雑誌』第2号に掲載されました。現在確認されている最初の活字になった光太郎文筆作品です。

先日、ロダン作の彫刻「カレーの市民」について書いたところ、大阪在住の研究者・西浦氏から、試作が残っている旨、お手紙と画像をいただきました。
 
ロダンは一つのモチーフについて、いろいろと制作を重ねるタイプでした。以前にも書きましたが、有名な「考える人」も元は「地獄の門」の一部だったものを独立した一個の彫刻にしたものですし、大きさの違うバージョンがあったりします。
 
「カレーの市民」も、発注から除幕まで10年かかっており、その間に、着衣にしてみたり、裸体像にしてみたり、単体で6人を作ってみたりといろいろと試作を重ねたとのこと。
 
気になったので調べてみたところ、日本の静岡県立美術館のロダン館に「カレーの市民」単身像の試作が展示されていることが判りました(専門の方は「何だ、知らなかったのかよ」とおっしゃるかも知れませんが、当方、まだまだ勉強中でして……)。しかも配置を工夫し、間を歩けるようにしてあります。
 
以前から一度行ってみようとは思っていましたが、ますます行きたくなりました。
 
ちなみに下の画像は、昭和2年にアルスから刊行された光太郎の著書『ロダン』の口絵に載った「カレーの市民」です。
 
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原型なのか、試作なのか、ともかく完成して鋳造されたものではありませんね。

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