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明治末に智恵子が西洋画を学んでいた太平洋画会の後身・太平洋美術会研究所さんに所属されている坂本富江さんから情報をいただきました。坂本さんの故郷・山梨県韮崎市にある韮崎大村美術館さんがらみです。

まず企画展。3月から既に始まっているそうで。

企画展 「花と実り」

期  日 : 2019年3月9日(土)~5月26日(日)
会  場 : 韮崎大村美術館 山梨県韮崎市神山町鍋山1830-1
時  間 : 10:00-18:00
料  金 : 一般・大学生 500(420)円  小中高生 200(160)円 
                      ( )内は20名以上の団体料金
休  館  日 : 水曜日

冬の厳しい寒さがやわらいでくると、草木が開花し、目に見える風景が色鮮やかに変化していきます。そして穏やかな陽気の中、色とりどりに咲いた花たちは、やがて実りの時を迎え、再び花を咲かせるための種子を育てていきます。
このように春夏秋冬を通して変化していく自然の様を、古くから画家たちはそれぞれの視点で感じ取り、多くの芸術作品に残してきました。
本展では「花」と「実」という2つのモチーフに焦点をあて、四季折々に見られる自然の姿をご紹介します。はじまりの春ともいえるこの季節に、一つ一つの作品に潜む季節感を味わうと共に、めぐる生命の姿を感じていただければ幸いです。

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太平洋画会で智恵子と共に学んでいた亀高文子の作品(上記チラシ1枚目画像の左上)が展示されているそうです。

日本画家の渡辺豊洲の娘である亀高文子は、智恵子と同年の明治19年(1886)、横浜の生まれ。女子美術学校を経て太平洋画会に入り、智恵子と出会います。明治42年(1909)に、やはりここで学んでいた宮崎与平と結婚しましたが、与平は同45年(1912)に早世、のち大正7年(1918)に東洋汽船の船長・亀高五市と再婚し、亀高姓となりました。

ちなみに智恵子は与平に淡い恋心を抱いていたという証言もあり、逆に文子は光太郎を慕っていたという説もあります。また、歌人の会津八一が文子にプロポーズしたものの、断られたというエピソードも。

文子は女性洋画家の草分け的存在の一人ですが、現在ではその名が忘れかけられています。その作品が展示されている美術館さんもあまりないようで、貴重な機会かと存じます。

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韮崎大村美術館さんは、平成27年(2015)にノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智博士のコレクションを中心にしていますが、大村博士の審美眼にかなったということなのでしょう。

同展では、他に光太郎と交流が深かった梅原龍三郎、安井曾太郎、さらに坂本さんの作品も展示されているそうです。大村博士、坂本さんと同郷、さらに年度は違いますが、同じ韮崎高校さんのご出身で、以前からお知り合いだとのことで。その関係で当方も博士に一度お目にかかりました

また、企画展示「花と実り」以外の常設展示では、光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が展示されているそうです。新しく鋳造された同型のものは全国各地の美術館さん、文学館さん等で展示されていますが、こちらのものは岸田劉生旧蔵のものらしく、そうなると数少ない大正期の鋳造ということになります。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

近ごろの道徳はだまし合いで、だました方が勝で、だまされた方が負け、これでは正しいことが否定されるようで淋しい。官吏なぞは善悪の判断さえ忘れたようですね。露見すれば悪くて露見しなければ悪くないと思っているらしい。
談話筆記「新春雑談」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

さらに最近は、官吏のみならず、議員や官邸まで、露見しても居直れば済むという風潮が蔓延していますね。道義的に明らかにおかしい場合でも、「法的に問題はない」などと。さすがに「復興以上に大事なのは高橋さんだ」「首相や副総理が言えないので私が忖度(そんたく)しました」はアウトでしたが(笑)。

暮れも押し詰まって参りまして、いよいよ来週火曜が2019年、平成最後の元日です。

元日といえば、初日の出。そこで、光太郎智恵子ゆかりの地での初日の出情報をまとめてみました。

まずは、大正元年(1912)、光太郎智恵子がお互いにこの人しかいないと確かめ合った、千葉銚子の犬吠埼。 

【2019年】日本一早い初日の出インフォメーション

関東最東端の犬吠埼は、山頂・離島を除き日本で一番早く初日の出を見ることができます。
元旦は、犬吠埼周辺の海岸で雄大な大海原と荒磯に砕ける波や白亜の灯台がおりなす美しい風景とともに、新年の誓いを立ててみてはいかがでしょうか。

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JRさん、それから銚子電鉄さんが臨時列車を出すほか、現地ではさまざまなイベントも企画されています。

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続いて、犬吠埼の少し南、昭和9年(1934)に、智恵子が療養生活を送った九十九里浜。当方、このところこちらで愛犬と共に初日の出を見ており、来年もその予定でいます。 

あなたなら誰とくる?「九十九里町元旦祭」

① 会  場 : 片貝中央海岸
② 住  所 : 千葉県山武郡九十九里町片貝6928
③ 開  催  日   : 平成31年1月1日(火)
④ 開催時間 : 午前5時30分~午前7時00分
   午前5時30分:おもてなしブース開始
                         ・いわしの団子汁(1000人分)  ・いわしの丸干し(700人分)
   午前6時10分~6時45分:郷土芸能披露 愛宕神社獅子舞保存会・九十九里黒潮太鼓
⑤ 駐車場 : 片貝海岸海浜公園町営駐車場(年末年始無料)
⑥ お問い合わせ : 九十九里町産業振興課商工観光係 0475-70-3177
               九十九里町観光協会 0475-76-9449

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次に、山梨県南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区。昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため、この地に住んでいた井上くまを訪問しました。それを記念して昭和62年(1987)に光太郎文学碑が建てられています。

元旦も含めた冬至の前後、 ここで富士山頂から日が昇る「ダイヤモンド富士」が見られます。日の出の時刻は7時20分くらいだそうです。

高下ダイヤモンドポイント

新富岳百景「日出づる里」
増穂町穂積(高下・たかおり地区)は、「新富岳百景」に選ばれ、毎年冬至頃から元旦にかけて、富士山頂からの日の出「ダイヤモンド富士」が見え、多くの写真家が訪れます。
ダイヤモンドとは、日の出がダイヤモンドのような輝きになることから名付けられたものです。

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ちょうど1年前に、芳文社さんから刊行されたコミック『ゆるキャン△』第5巻。山梨県を舞台にしたキャンプ愛好女子たちを主人公とする漫画ですが、こちらが紹介されています。

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だいぶ経ってから気づいたので、このブログではご紹介しませんでした。今年、テレビアニメ化もされましたが、このエピソードの前くらいで終わっており、続編が期待されます。


最後に、智恵子の故郷・福島二本松に聳える安達太良山。こちらも近年、初日の出スポットとして売り出し中。 

安達太良山 初日の出

<日の出目安 6:30>
 日本百名山に数えられている標高1,700mの名峰。
 詩人・彫刻家の高村光太郎が、「あれが阿多多羅山・・・」(樹下の二人)と詠んだことでも有名で、智恵子のふるさととしても知られている。

開催日時 2019年01月01日(火)  会場 あだたら高原リゾート 二本松市奥岳温泉   駐車場あり
お問い合わせ先 二本松市観光連盟 TEL 0243-55-5122


なるほど、奥岳登山口のあたりは南東方向に盆地が広がっている地形ですので、初日の出を見るには良い条件ですね。智恵子の愛した「ほんとの空」に上る初日の出もおつなものでしょう。

また、二本松市街の霞ヶ城も同様に初日の出スポットとなっているようです。

ところで上記、<日の出目安 6:30>となっていますが、高山ということで、銚子犬吠埼(6:46)より早いのでしょうか。それとも間違いなのでしょうか。


気になるのは当日の天気。がっつり晴れることを祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる。

散文「近状」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

復刊なった与謝野夫妻の第二期『明星』に短歌五十首を寄せた、その序文的な文章の一節です。

この時期、彫刻では西洋風の塑像彫をメインにしていたのを、ふと思い立って子供の頃から慣れ親しんだ木彫も手がけるようになり、それが世間で評判となりました。同様に、文学では自由詩を主戦場としていたこの時期、少年時代に与謝野夫妻に見出された短歌をまた詠むようになりました。それぞれが自身の心の平安にもつながったというあたり、興味深く感じられます。

当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌――というよりは、同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第七号が届きました。これまで同様、表紙は春陽会会員の成川雄一氏。相変わらず味のある絵で、花を添えて下さっています。

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いつの間にか連載を持つことになってしまい、拙稿も載っております。だいぶ以前にこのブログでご紹介した、『高村光太郎全集』未収録の随筆「海の思出」についてです。従来不明だった、明治40年(1907)、ニューヨークからロンドンへ渡った際に乗った船が、かのタイタニックと同じホワイトスターライン社のオーシャニックという船だったことが判明した件について書きました。


当会顧問・北川太一先生の玉稿も掲載されています。

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文治堂書店さんから刊行された、服部剛氏の詩集『我が家に天使がやってきた ダウン症をもつ周とともに』の書評欄に、詩人や医師、学生の皆さんのそれとともに掲載されています。心を病んでから奇跡のような紙絵を制作し始めた智恵子に絡め、的確な評です。


また、「編集後記」では、光太郎を敬愛し、膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けた詩人・野沢一に触れられています。野沢は「日本のソロー」とも称されています。

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昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、野沢が独居自炊の生活を送った山梨県の四尾連湖で、野沢を偲ぶ集いが今年の10月にあったそうで、そのレポートを兼ねています。


……という『トンボ』第七号。来春の第63回連翹忌にご参加下さる方には進呈いたします(ギャラ代わりに現物支給でごそっと頂いておりますので(笑))が、その前にご入用の方は、文治堂書店さん(bunchi@pop06.odn.ne.jp)までご連絡下さい。


【折々のことば・光太郎】

完全無缺な人格のやうに書き上げられたものよりも私などには其の瑕だらけな処を見せられた方がうれしい。

散文「「一隅の卓」より 一」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

光太郎が翻訳もした、ロダンの秘書であったマルセル・チレルの書いたロダン伝記の評です。

いったいに伝記というもの、描こうとする人物へのリスペクトが不可欠ですが、だからといって暗黒面をなかったことにしてはいけないものでもありましょう。批判ばかりでも仕方がありませんが。

9月22日(土)に開幕した、当会の祖・草野心平にスポットを当てる山梨県立県立文学館さんの企画展「歿後30年 草野心平展 ケルルン クックの詩人、富士をうたう。」。NHKさんのローカルニュースで取り上げられました。  

詩人草野心平 没後30年企画展

 昭和を代表する詩人で富士山をテーマにした作品も数多く残した草野心平の企画展が、21日から甲府市の県立文学館で始まりました。
 福島県出身の草野心平は、山梨県でも創作活動を行った昭和を代表する詩人で、企画展はことし没後30年となるのにあわせて開かれ会場には、直筆の詩や絵画などおよそ250点が展示されています。
このうち「三百の龍よ」という詩の墨書では「マグマよ富士を破れ」と草野心平が愛し、書き続けてきた富士山の詩が力強く描かれています。
 また、依頼を受けて作詞を手がけた甲府南高校の校歌は「夏は炎熱、冬寒く」と甲府の自然を表現しています。
このほか、詩だけでなく絵画の題材にも富士山が選ばれ昭和43年に描かれた「空海富士」は真っ青な空のなかに雪をかぶった富士山の姿を描いています。
 県立文学館の伊藤夏穂学芸員は、「山梨にもゆかりがある草野心平の作品、特に富士山をテーマにした独自の表現を体験してほしい」と話しています。
 この「草野心平展」は、11月25日まで甲府市の県立文学館で開かれています。

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光太郎が題字を揮毫した詩集『富士山』(昭和18年=1943)。

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心平作詞の甲府南高校さん校歌。普通、校歌に入れないような「夏は炎熱 冬寒く」といったフレーズも。如何にも心平らしいところです。

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チラシやポスターにも使われている心平の描いた絵。

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9月30日(日)、ギャラリートークを担当される伊藤学芸員。

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当方も写っていました(笑)。

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同時開催的に、1階の閲覧室では覆刻資料を中心とした「草野心平の世界」も行われています。

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ところで、昨夜はNHK Eテレさんで「福島をずっと見ているTV vol.74 復興からその先へ~川内村の夏~」が放映され、川内村名誉村民であった心平にも触れられました。

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村に戻って、心平の住まいだった天山文庫で働いていらっしゃる志賀風夏さんの紹介。

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志賀さんには夢があるそうで……

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なるほど。ぜひ実現させていただきたいものです。

さらに、村の盆踊り大会的なイベントにも密着。番組ナビゲーター役で、川内村ご出身のミュージシャン・渡辺俊美さんが、オリジナル曲の「予定」をご披露。天山文庫が謳われています。

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再放送が、やはりNHK Eテレさんで9月29日(土)、午後1時からあります。ぜひご覧下さい。

併せて山梨県立文学館さんの企画展「歿後30年 草野心平展 ケルルン クックの詩人、富士をうたう。」もよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

彼の詩篇は彼の本体から迸出する千のエマナチヨンの一に過ぎない。彼こそ、僅かにポエムを書く故にポエトである類の詩人ではない。そして斯る人種こそ、われわれは長い間日本から生れる事を望んでゐたのである。

散文「宮澤賢治に就いて」より 昭和9年(1934) 光太郎52歳

心平と共に編集にあたり、さらに装幀、題字も手がけた、文圃堂書店版『宮澤賢治全集』内容見本に載った文章の一節です。

エマナチヨン」は「エマネーション(emanation)」。放射性希ガス元素の総称です。

僅かにポエムを書く故にポエトである類の詩人ではない」。なるほど賢治然り、光太郎然り、そして心平然りですね。

昨日は山梨県甲府市に行っておりました。山梨県立文学館さんで今日開幕の企画展「歿後30年 草野心平展 ケルルン クックの詩人、富士をうたう。」開会式にお招きいただき、馳せ参じた次第です。

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午後1時半過ぎ、到着。


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企画展会場の2階ロビーに特設会場がしつらえられ、午後2時から開会式が始まりました。

心平長男、故・草野雷氏夫人の智恵子さん。

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同館三枝館長。

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テープカット。

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このあと、内覧ということで、展示を拝見しましたが、予想以上の充実ぶりに驚きました。

「Ⅰ 誕生・少年時代」「Ⅱ 生きぬく詩人 日本と中国」「Ⅲ 躍動する詩の世界」で、心平の生涯を追い、さまざまな展示。

その中で、特に交流の深かった人物として「「天才」宮沢賢治」、「「巨人」高村光太郎」というコーナーも設けられていました。

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光太郎のコーナーでは、光太郎が寄稿した昭和2年(1927)の『銅鑼』第12号(連作詩「猛獣篇」第一作の「清廉」が収められています)、心平が編んだ鎌倉書房版『高村光太郎詩集』(昭和22年=1947)、創元選書版『高村光太郎詩集』(同26年=1951)、ガリ版刷りの『猛獣篇』(同37年=1962)、心平と光太郎の往復書簡1通ずつ(戦後、花巻郊外太田村に蟄居生活を送っていた光太郎に帰郷を促し、光太郎はその心づかいに感謝しつつも拒否)、さらに心平自筆の毛筆詩稿「高村光太郎死す」(同31年=1956)。

ちなみに「高村光太郎死す」は、当会顧問・北川太一先生の所蔵で、昨日は子息の北川光彦氏がいらしていました。

その他の部分でも、光太郎と心平は不即不離のような関係でしたので、いたるところに光太郎関連の展示物。光太郎が装幀や題字の揮毫、序文を手がけた心平詩集、二人の共同作業で世に出た『宮沢賢治全集』その他、光太郎が寄稿した心平編集の雑誌(『歴程』、『学校』など)やのアンソロジー等々。

それから、こんな000写真も大伸ばしでパネル展示されていました。昭和28年(1953)10月21日、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式当日に撮影されたものだそうで、光太郎は写っていませんが、心平と佐藤春夫夫妻、さらに心平が足繁く通い、光太郎も足を運んだ新宿のバー「みちくさ」の女将・小林梅などが写っています。

それから、同じく心平が足繁く通った、川内村関連の展示も。そこで昨日は川内村から長福寺さんの矢内大丘住職もお見えでした。以前に川内村での「かえる忌」でご一緒させていただいた方で、久闊を叙しました。

ちなみに今夜、午前0時からNHK Eテレさんで「福島をずっと見ているTV vol.74 復興からその先へ~川内村の夏~」が放映されます。村での心平の住まい・天山文庫も紹介されるようです。ぜひご覧下さい。

そして「Ⅳ 富士をうたい、富士を愛す」。

心平は早くから富士山を詩作のモチーフとしていましたし、棟方志功との共同作業で詩画集『富士山』を出したり、自身でも富士山の絵を描いたりしました。また、自身の誕生祝いにと、昭和40年代から50年代に、たびたび富士山を訪れたそうです。そうした縁もあってか、山梨県立甲府南高校さんの校歌の作詞を手がけています。

そうした甲州との関わりがあって、今回の企画展が実現したわけですね。

内覧のあと、レセプション。

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アトラクション的に、詩人・いとうのぼる氏、声優の本間ゆかりさんによる心平詩の朗読。

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本間さんはさらにライヤーという竪琴的な楽器の演奏も。

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幻想的な音色が、心平詩の世界にぴったりでした。

お土産に、図録と館報をいただきました。いつもながらに同館の図録は充実の内容です。

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館報には同展に寄せた和合亮一氏の文章も載っており、興味深く拝読しました。

同展、今日から11月25日までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

内にコスモスを持つものは世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢治は稀にみる此のコスモスの所持者であつた。彼の謂ふところのイーハトヴは即ち彼の内の一宇宙を通しての此の世界全般のことであつた。

散文「コスモスの所持者宮澤賢治」より 昭和8年(1933) 光太郎51歳

心平が編集し、光太郎も寄稿した『宮澤賢治追悼』に載った文章の一節です。今回の山梨県立文学館さんの企画展にも出品されています。

この後、折に触れ、光太郎は賢治を絶賛する文章や談話を発表しますが、その最初のものです。その結果、生前は無名だった賢治がどんどん世の中に認められて行きます。

山梨県から、当会の祖・草野心平をメインとする企画展の情報です。 

歿後30年 草野心平展 ケルルン クックの詩人、富士をうたう。

期 日  : 平成30年9月22日(土)~11月25日(日)
場 所  : 
山梨県立文学館 山梨県甲府市貢川1丁目5番35号
時 間  : 9:00~17:00
料 金  : 一般 600円(480円) 大学生 400円(320円)( )内20名以上の団体 
休館日     : 月曜日(9/24、10/8開館)  9/25 10/9

 「春のうた」をはじめとする蛙の詩で知られる草野心平。中国・嶺南(れいなん)大学留学の頃より本格的に詩作を始め、その起伏に富んだ人生の中で個性的な詩を多く生み出しました。 心平を魅了し、創作の重要なテーマの一つとなったのが富士山です。数々の詩にうたい、書や絵画でも富士の魅力をダイナミックに表現しました。本展では、富士山来訪のエピソードや本展では、富士山来訪の エピソードや、山梨県立甲府南高等学校の校歌作詞など、山梨との関わりについても紹介。原稿、書、絵画などの資料を通じて、草野心平の生涯と生命力溢れる詩の世界をご覧ください。

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関連行事

講座「草野心平と富士山―展示のみどころ―」 
日時 9月30日(土) 13:30~14:40 
講師:伊藤夏穂(当館学芸員) 会場:研修室  定員:150名

島田雅彦講演会「牧歌への回帰」 
日時 10月21日(日) 13:30~15:00 
講師:島田雅彦氏(小説家) 会場:講堂   定員:500名

蜂飼耳講演会「草野心平、詩の理想を求めて」 
日時 10月28日(日) 13:30~15:00 
講師:蜂飼耳(詩人・作家) 会場:研修室  定員:150名

阿毛久芳講演会 「宮沢賢治、高村光太郎、そして草野心平―コスモス、世界共通意識と孤絶意識にかかわって―」 
日時 11月10日(土) 13:30~15:00 
講師:阿毛久芳氏(都留文科大学名誉教授) 会場:研修室 定員:150名

すべて参加費無料。要申し込み。


今日現在、館のサイトに詳細情報が出ていない000ので(かなり前に一度出たのですが、なぜか削除されています)。詳細が不明な点が多いのですが、チラシによれば館蔵のもの以外に、いわき市立草野心平記念文学館さん、塩尻市立古田晁記念室さんなどの所蔵品が並ぶようです。そういえば、古田晁記念室さん、心平関連の展示もけっこうあったと思い出しました。

光太郎関連が展示されるかどうか不明ですが、昭和18年(1943)に刊行された心平詩集『富士山』は、光太郎が題字を揮毫しており、並ぶのではないかと思っております。

9/22追記 館のサイトで同展の詳細、復活しました。光太郎関連展示物も予想以上にたくさん出ていました。詳しくは9/22の記事をご参照下さい。 

また、関連行事のうち、都留文科大学名誉教授・阿毛久芳氏の講演会では、光太郎にも触れて下さるようです。

展示の会期は今週の土曜からですが、前日の金曜日に開会式及びレセプションということで、案内を頂きました。当方、まずそちらに行って参ります。

皆様も是非足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

方向は人を救ふ。その方向の如何を問はず、方向を持つ事は既に何かである。まして自己の心情の表白に能く形を与へ得る疎通の道を知つた時、窮まれる者がその方向を一つの手がかりとするに不思議はない。

散文「ヹルハアラン」より 昭和8年(1933) 光太郎51歳

光太郎が、詩集『天上の炎』、『明るい時』、『午後の時』などを翻訳したベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの評伝から。

「天才は天才を知る」といいますが、光太郎は、ヴェルハーレンや、アメリカのホイットマンなどに、理想的な詩人としての魂を見いだしていました。そして、年少の友人・心平にも。

昨日は山梨県に行っておりました。『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』著者で、太平洋美術会、高村光太郎研究会に所属なさっている坂本富江さんが講演をなさるというので、そのお手伝いでした。

講演は、曹洞宗の山梨県寺族会(寺院ご住職奥様の会)平成30年度総会の一環で、会場は、甲府市に隣接する笛吹市石和温泉のホテル古柏園さん。

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玄関前には観賞用の花桃の大きな鉢。いかにも山梨です。

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参加者は90名ほど。坂本さんが山梨韮崎のご出身なので、その関係で白羽の矢が立ったようです。

何かお手伝いすることはないかと申し出たところ、パワーポイントのスライドショーを作ってくれ、というので作成し、ついでに会場でのパソコンの操作も致しました。

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休憩をはさみ、90分ほど。智恵子の生涯、光太郎とのからみ、そしてそれらから坂本さんがご自身の人生にどういう影響を受けたか、というようなお話でした。

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山梨県ということで、現存が確認されている智恵子油絵3点のうちの一つ、「樟」が所蔵されている北杜市の清春白樺美術館さん、そこからほど近い、戦時中の昭和17年(1942)に「日本の母」顕彰運動のため光太郎が訪れた富士川町上高下(かみたかおり)地区のお話も。

サプライズのゲストもいらっしゃいました。平成27年(2015)、ノーベル生理学・医学賞を受賞された、大村智博士。大村博士、坂本さんと同郷、さらに年度は違いますが、同じ韮崎高校さんのご出身で、以前からお知り合いだそうです。一昨日から新宿のヒルトピアアートスクエアさんで開催されている坂本さんの個展にもいらっしゃり、古柏園さんでのご講演の件を知って、ご実家に帰られる途中に立ち寄られたとのこと。

せっかくですのでご挨拶を賜りました。

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さらに記念撮影。

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分野は違えど、世界的な研究者の方のお隣で写真に
収めていただき、光栄の至りでした。
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ちなみに大村博士、美術にもご造詣が深く、長年に渡って収集してきたコレクションを郷里の韮崎市に寄贈され、韮崎大村美術館として一般公開されています。また、光太郎の盟友・岸田劉生のご子孫の方から、光太郎彫刻「裸婦坐像」(大正6年=1917)を譲っていただいたそうです。

可能であれば連翹忌にもご参加いただきたいものです。

思わぬところでいろいろな方のご縁がつながるものだな、と思いました。仏教用語で言うところの「結縁(けちえん)」ということなのでしょう。


明日はその坂本さんの個展、さらに文京区千駄木の旧安田楠雄邸庭園で開催中の「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」を拝見して参ります。


【折々のことば・光太郎】

まるで税関の倉庫のやうに思もよらない貴重な雑多なものが、見かけはとんとがらくたじみて積込んである田夫の頭の中を本当に理解してくれる人は日本に少いやうであつた。
   につぽんは まことに まことに 狭くるし
   田夫支那にゆけ かの南支那に
と曾て私も歌つて彼の支那行を送つた事がある。

散文「宅野田夫を珍重す」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

宅野田夫(たくのでんぷ)は、初め洋画家としてスタートし、のちに南画に転じた画家です。光太郎も言うように日本という枠に収まりきらないスケールの大きな人物でした。

大村博士にしてもそうですが、いったいにノーベル賞を受賞された日本人研究者の多くも、そういう感じですね。スケールの小さい日本では正当に評価されて来ず、ノーベル賞を受賞されてから、慌てて日本の文化勲章などが授与されるような。

12/2(土)、3(日)、甲信地域を歩いておりましたレポートの最終回です。

光太郎の足跡が残る南巨摩郡富士川町上高下地区をあとに、再び甲府盆地に下りました。その後、笛吹川を渡り市川三郷町へ。かつて市川大門町だったエリアです。ここからまた山中に分け入ることしばし、次なる目的地、四尾連(しびれ)湖を目指しました。ここには光太郎の足跡が残っているわけではありませんが、光太郎を敬愛していた詩人・野澤一が山小屋生活を送っていました。野澤の詩碑も建てられています。こちらは当方、初めてです。

野澤に関しては、何度かこのブログでご紹介いたしましたが、改めて。光太郎より21歳年下の明治37年(1904)の生まれ。法政大学中退後、数え26歳の昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、故郷山梨の四尾連湖畔に丸太小屋を建てて独居自炊、のち上京しています。昭和9年(1934)には、四尾連湖で書きためた詩200篇あまりを『木葉(こっぱ)童子詩経』として自費出版。昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送りました。いずれも3,000字前後の長いもの。昭和20年(1945)に、結核のため亡くなりました。

結局、野澤と光太郎は会わずじまいだったようですし、野澤から光太郎に送った厖大な手紙の返事も数通、ほぼ一方通行という感じでした。しかし、この不思議な詩人のことを気にとめていたようで、光太郎は昭和15年(1940)、雑誌『歴程』第10号に連載していた随筆「某月某日」で、一回分の半分を、野澤について費やしています。

 木つ葉童子と自称する未見の詩人野澤一氏から二百回に亙つて毎日手紙をもらつたが、これで一先づ中止するといふ事である。彼は古今の人物を語り、儒仏を語り、地理地文を語り、草木を語り、春夏秋冬を語り、火を語り、わけても水を語り、墓地を語り、食を語り、女を語り、老僧を語り、石を語り、土を語り、天を語り、象を語り、つひに大龍を語る。甲州しびれ湖畔の自然を語る時、彼の筆は突々として霊火を発する。この詩人の人間に対する愛の深さには動かされた。童子独特の言葉づかひに偏倚の趣はあるが、それが又彼の東洋の深と大とを語るにふさはしくもある。彼は西歌的な叡智を小とし、東洋の底ぬけの無辺際を説く。彼は私を叱咤する。私の詩を読んでゐて、こんなものでいいのかといふ。こんなところに跼蹐してゐてどうするのだといふ。それを思つて肌に粟を生ずるといふ。私は此の人にどう感謝していいか分らない。二百通に及ぶこの人の封書を前にして私は胸せまる思がする。そしてこれこそ私にとつての大龍の訪れであると考へる。私は此の愛の書簡に値しないやうにも思ふが、しかし又斯かる稀有の愛を感じ得る心のまだ滅びないのを自ら知つて仕合せだと思ふ。私は結局一箇の私として終るだらうが、この木つ葉童子の天来の息吹に触れた事はきつと何かのみのり多いものとなつて私の心の滋味を培ふだらう。もう此の叱咤の声も当分きけないのでもの足らぬ気がする。私は折にふれて此等の手紙をくりかへし読まうと思つてゐる。不思議な因縁があるものだ。

光太郎をしてここまで言わしめるのは、なまなかのことではないように思われます。


さて、四尾連湖。思っていたより小さな湖でした。

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野澤がここで仙人のような暮らしを送った背景には、かれが敬愛していた19世紀アメリカの詩人、ヘンリー・ディビッド・ソローの存在があります。ソローはマサチューセッツ州 コンコード市郊外のウォールデン池畔にやはり丸太小屋を建て、2年あまりの自給自足生活を送りました。近年はエコロジストのはしりとして注目されています。これも近年、野澤は「日本のソロー」とも称されるようになり、日本ソロー学会などでも取り上げられています。また、連翹忌にもご参加下さった坂脇秀治氏の野澤に関する編著のタイトルは『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』

四尾連湖畔には2軒の旅館があるのみで、民家はありません。そのうちの1軒、水明荘さんに愛車を駐め、野澤の詩碑の場所を訊きました。てっきり湖畔のわかりやすいところに碑が建っていると思い込んでいたのですが、見あたらなかったもので。そこでいただいた地図がこちら。

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それによると、詩碑は湖畔ではありませんでした。ご主人のお話では、15分ほど登山道的な道を上っていった峠の上、車で行ける場所でもない、とのこと。歩くしかありません。

落ち葉の積もった細い急な坂道を、足下に四尾連湖を望みつつ上っていきました。

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途中に、野澤が小屋を構えていた場所。オリジナルの小屋自体は火災で焼失してしまったそうです。

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息を切らしつつ、ようやく峠の頂上へ到着。

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野澤の詩「しびれの湖を歌う」の一節が000刻まれています。


 ああ されど湖のみは
 いつもながらの風光にかげうららかに
 桃の枝は育ち
 栗鼠はないて
 小鳥はあのたのしいさわがしい唱をうたい
 山は立ち
 水はほとばしりいでて
 とこしえに
 しびれの湖とたたえられてあれよ


前述した野澤唯一の詩集『木葉童子詩経』に収められています。野澤と親しかった詩人の一瀬稔や、連翹忌御常連の野澤の子息・俊之氏、そして当会顧問・北川太一先生などのお骨折りで同書は文治堂書店さんから二度にわたって復刊されました。右は平成17年(2005)の版です。

野澤の略伝などが記された碑陰記がこちら。

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光太郎の名も。

光太郎はここ四尾連湖に来たことはない001ようですが、昨日のこのブログでご紹介したとおり、富士川町の上高下を昭和17年(1942)に訪れています。直線距離では10キロ㍍足らず。その際に、野澤のことが頭をよぎったかもしれません。

また、野澤は昭和8年(1933)に四尾連湖を引き上げた後、同19年(1943)まで東京で暮らしていましたが(その間もたびたび四尾連を訪れたそうですが)、空襲で家を失い、山梨に一家で疎開しました。初め、甲府に近い東山梨郡春日居村、ついで、南巨摩郡増穂村。光太郎が訪れた上高下は増穂村から分離した穂積村でした。もしかすると、光太郎が訪れたことを耳にしていたかもしれません。

もっとも、野澤は前述の一瀬稔に対し、「同じ東京の空の下にいるので、逢おうと思えばいつでも逢えるのですが、ぼくは別にお目にかかりたいとも思いません。作品を通してあの方のことはかなり解っているつもりです。」と語っていたそうですが。

その後、野澤は結核のため、昭和20年(1945)に甲府の療養所で亡くなり、光太郎は同じ年、やはり空襲で焼け出されて花巻の宮沢賢治の実家へ。戦後は翼賛活動への反省から、花巻郊外太田村の山小屋で7年間の蟄居生活を送ります。

光太郎の周辺には、辺境の地で芸術制作にあたっていた友人知己が少なからずおり、光太郎自身も古くからそうした生活に憧れていましたが、四尾連湖の野澤も、山小屋生活に入った光太郎の脳裏に浮かんだことでしょう。

野澤一、もっと注目されていい存在だと思われます。

四尾連湖をあとに、三たび甲府盆地へ。そろそろ夕刻が近づいた盆地から見た南アルプスと八ヶ岳。

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甲府で同級生の結婚披露宴に出席していた娘を拾い、帰りました。これにて甲信レポートを終わります。またすぐに都内や花巻のレポートを書くことになりますが(笑)。


【折々のことば・光太郎】

今の日本人は経済上の都合やら色々で、成べく簡単(サンプル)な生活を余儀なくさせられる。が生活はどんなに間に合せ主義で行つても、其のためにデリケートの感情まで殺したくない。実生活は粗雑でも、趣味生活だけは贅沢にならねば感覚は依然として芽を吹かない。

談話筆記「感覚の鋭鈍と趣味生活」より 治44年(1911) 光太郎29歳

100年以上前の警句ですが、この状況は変わっていないような気もしますね。

12/3(日)、長坂町の清春芸術村をあとに、次なる目的地、南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区を目指しました。

ここには光太郎の足跡が残っています。昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のためです。

翌年、春陽堂書店から刊行された『日本の母』の跋文より。

 第一線で皇軍将士が死を鴻毛の軽きに比し勇戦敢闘するのも、国内で国民挙つて米英撃滅の戦力増強に挺身敢闘するのも、これ万邦無比の国体を戴き三千年の誇るべき伝統に培はれた日本民族の優秀なる精華の具顕であるが、しかもこの強兵健民を直接に育てた母の庭訓を忘れてはならぬ。偉大なるこの母の力、それは決していはゆる良妻賢母や烈婦貞女のみを謂ふのではなく、実に農山漁村にあつて、市井の巷にあつて、黙々として我児を慈しみ育む無名の母の力こそ偉大なのである。(略)聖戦完遂の国民士気昂揚を計るために、この尊き無名の母を一道三府四十三県及び樺太の全国津々浦々に尋ねて「日本の母」として顕彰することにしたのである。

光太郎を含む49名の文学者が駆り出され、各道府県1人(東京府のみ2人)ずつ、軍人援護会の協力で選定された「日本の母」を訪問し、そのレポートが『読売報知新聞』に掲載され、のちに単行本化されました。単行本では北から南への順ですが、『読売報知新聞』での初出は順不同だったようで、光太郎が執筆した回が最終回でした。どの道府県に誰が行くというのも一貫性がなく、香川の壺井栄、石川の深田久弥などはそれぞれの出身地ですが、佐藤春夫が茨城、川端康成で長野など、あまりゆかりのなさそうな組み合わせもありました。光太郎も山梨にはあまり縁がなかったはずです。

光太郎が訪問したのは、当時の南巨摩郡穂積村。現在の富士川町です。ここに住んでいた井上くまが「日本の母」の山梨県代表でした。

くまは光太郎より5歳年下の明治21年(1888)生まれ。もともと隣村の出身でしたが、結婚して夫婦で穂積村に移住、2人の男児をもうけました。ところが夫は病弱で、昭和のはじめに早世。以来、薪売りや他家の手伝いなどをしながら女手一つで2人の子を育て、2人共に召集。弟の方は満州で戦病死していました。その後も報国の志篤く、軍費調達のための保険や土木作業の徴用などに積極的に協力、そのために「日本の母」選定に至ったようです。

光太郎のレポートから。

痩せた小柄の五十がらみに見える井上くまさんが絣の木綿著の筒袖の縞の羽織をひつかけて、元気のよい笑顔で私達を招じ入れた。来意を告げる。『遠いとこへよくお出でしいした』と小母さんはきちんと坐つてお辞儀をする。甲高くない稍さびた、しかし音幅のあるその声がまづ快かつた。次の部屋に一同座を占める。正面の床の間一ぱいが仏壇がはりになつて居り、南無妙法蓮華経の掛軸の下に若い兵隊さんの同じ写真が二枚立てかけてあつた。戦病死された次男重秋君の面影である。一同まづ霊前に焼香する。小母さんは何かと立ち働いて茶など運ぶ。(略)小母さんは坐つて問はれるままに思出しては話す。方言に甚だ魅力があり、時時私には分らない事もあつたが、それは大森さんや望月さんが通訳してくれた。


さて、中部横断自動車道の増穂ICで下り、町役場などの立ち並ぶ中心街を抜けて、ヘアピンカーブの続く山道を登ります。ちょうどこの日は「ゆずの里 絶景ラン&ウォーク大会」だそうで、走っている方とすれちがいました。目指すは光太郎の文学碑。「日本の母」顕彰で光太郎がここを訪れたことを記念して、昭和62年(1987)に建てられています。

文学碑のすぐ手前に「ダイヤモンド富士」観測スポット。冬至の前後、ここから富士山頂上に上る日の出が見える場所です。

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そこから100㍍ほどで、光太郎文学碑。

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おそらく富士山に似た形の自然石を選んだのでしょう。刻まれているのは、折にふれ光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」という短句。「みつ」は「満つ」。「満ちる」の古語ですね。

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以前にも書きましたが、光太郎は変体仮名的に「み」を片仮名の「ミ」で書く癖があり、「うつくしきものミつ」となっています。書簡でも「おてがミありがたう」的な表記が散見されます。ところが、そうした事情に疎い方々の間で、この碑文を「うつくしきもの三つ」と読み(さる高名なゲージツ家のセンセイも、そのように誤読しています)、「三つ」はこの地にある富士山、特産の××……などという誤解が生じ、そのように紹介されているサイトも存在します。ある意味「都市伝説」のような、こうした誤解が広まってしまうのは仕方がないことなのかも知れませんが。

当方、この地を訪れるのは20数年ぶり2回目。初めて訪れたのは、甲府に家族旅行で来たついででした。その際には、家族を車中に待たせていたこともあり、この碑のみ見て帰りました。しかし今回は一人ですので、車を駐めて周辺を歩きました。

碑の近くには上高下地区の家々。

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光太郎が訪問した井上家も残っているという話を聞いていたので、それを探します。たまたま庭にいた方を発見、訊いてみたところ、あの家だよ、と教えて下さいました。ありがたや。

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馬の背に揺られて上ってきた光太郎のレポートに「上高下の家々が見え、その間を縫つて馬はもつと高い一番外れの茅ぶきの一軒家の前にとまる。」とあり、そのとおり、集落の一番外れでした。ただし、茅ぶきだった屋根はトタン張りになっていました。

この家だと教えて下さった方の話では、かつて息子さんが住んでいらしたそうですが、もう山を下り、空き家になっているということ。光太郎レポートと照らし合わせてみると、2人いて共に出征した男児のうち、弟の方は戦病死というわけでしたが、兄の方は無事に復員できたようです。お会い出来ればなおよかったのですが、家が確かめられたのはラッキーでした。

74年前、光太郎がこの家を訪れたのかと、感慨にふけることしばし。

再び光太郎レポートから。

 珍客があると必ず出す習慣であるといふおだら(うどん)を小母さんは一同に御馳走してくれた。いろんな野菜の煮付を手にのせてくれる。それが実にうまく、私は遠慮なくたべた。話が一応すんだのでふと振りむいて外を見る。軒端一ぱいにさつきの富士山がまつたく驚くほど大きく半分雪をかぶつて立つてゐる。実に晴れやかに、爽やかに、山の全貌を露出して空を支へるやうに聳えてゐる。(略)こんな立派な富士山は初めて仰いだ。富士山を見るなら上高下に来よと私は言ひたい。三十八戸の上高下部落の人々も此霊峰をこよなきものとして崇敬してゐる。(略)霊峰は幾代となく此部落の人達の魂の中にその霊気を吹きこんだに違ひない。(略)自然は人をつくる。この霊峰の此の偉容に毎日毎朝接してゐる上高下の部落は幸である。井上くまさんその人には素よりだが、此部落全体としての雰囲気に感動したといふ事を私は強調したい。(略)その富士山の美を斯くばかり身に浴びてゐる上高下の部落に「日本の母」井上くまさんの居るのは自然である。

さらに、こちらも以前にもご紹介しましたが、昭和18年(1943)に刊行されたアンソロジー『国民詩選』(題字揮毫も光太郎)のために、光太郎は「山道のをばさん」という詩も書き下ろしています。


   山道のをばさん
000
 汽車にのり乗合にのり馬にのり、
 谷を渡り峠を越えて又坂をのぼり、
 甲州南巨摩郡の山の上、
 上高下(かみたかおり)といふ小部落の
 通称山道(やまみち)のをばさんを私は訪ねた。
 「日本の母」といふいかめしい名に似もやらず
 をばさんはほんとにただのをばさんだつた。
 「遠いとこ、さがしいとこへよくお出でしいして」と、

 筒つぽのをばさんは頭をさげた。
 何も変つたところの無い、あたり前な、
 ただ曲つた事の何より嫌ひな、
 吾身をかまはぬ、
 働いて働いて働きぬいて、
 貧にもめげず、
 不幸を不幸と思ひもかけず、
 むすこ二人を立派に育てて、
 辛くも育て上げた二人を戦地に送り、
 一人を靖國の神と捧げて

 なほ敢然とお国の為にと骨身を惜しまぬ、
 このただのをばさんこそ
 千萬の母の中の母であらう。
 あけつ放しなをばさんはいそいそと、004
 死んだむすこの遺品(かたみ)をひろげて
 手帳やナイフやビールの栓ぬきを
 余念もなくいじつてゐる。
 村中の人気がひとりでにをばさんに集まり、
 をばさんはひとりでに日本の母と人によばれる。
 よばれるをばさんもさうだが
 よぶ人々もありがたい。
 いちばん低い者こそいちばん高い。
 をばさんは何にも知らずにただうごく。
 お国一途にだた動く。
 「心意気だけあがつてくらんしよ」と、
 山道のをばさんはうどんを出す。
 ふりむくと軒一ぱいの秋空に、
 びつくりする程大きな富士山が雪をかぶつて
 轟くやうに眉にせまる。
 この富士山を毎日見てゐる上高下の小部落に
 「日本の母」が居るのはあたりまへだ。


手放しの誉めようですが、実際にこの地に行くと、大げさではないことが実感されます。ぜひ足をお運びください。

明日は甲信レポート最終回、市川三郷町の四尾連湖です。


【折々のことば・光太郎】

床の間の傍に米櫃が置いてあつても気にならない位の人は珍らしくもありません。全然、趣味などといふ事は眼中になく、物を見て気にならない代りに面白いと思ふ事もないのであります。そして、金剛砂の様なザラザラした一生を、口小言を言ひながら送つて行く人であります。此種の人は僕等にとつては縁なき衆生であります。

散文「室内装飾に就いて」 治44年(1911) 光太郎29歳

たしかにこういう生活でなく、「うつくしきものみつ」という心持ちで日々を送りたいものですね。

12/3(日)、前夜行われた美術講座「ストーブを囲んで 荻原守衛と高村光太郎の交友」のため宿泊した信州安曇野をあとに、愛車を南東方向に向けました。夕方までに山梨県内の光太郎ゆかりの施設、場所を三ヶ所廻る予定です。

まずは中央高速を長坂ICで下り、清春白樺美術館さんへ。

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こちらは昭和58年(1983)の開館。かつて光太郎を含む白樺派の面々が構想しながら果たせなかった悲願、白樺派の美術館を実現しようと建てられたものです。他の複数の施設と共に「清春芸術村」を形作っています。

芸術村の駐車場付近から撮った、南アルプスと富士山。

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受付のすぐ前には、再現されたラ・リューシュ。エッフェル塔の設計者、エッフェルが明治33年(1900)のパリ万博のパビリオンとして作り、その後、モンパルナスに移築されてシャガールらがアトリエとしていた建物です。おそらく光太郎も眼にしています。本物はパリにありますが、それがこの地に再現されていて、現代アート作家さんたちが実際にアトリエとして居住しています。

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002白樺美術館。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)」を含む一帯の公園の設計を手がけた建築家・谷口吉郎の子息で、やはり建築家の谷口吉生氏の設計です。不思議な縁を感じます。

正面玄関脇には、光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚の作品がお出迎え。

こちらには、光太郎のブロンズや、3点しか現存が確認されていない智恵子の油絵のうちの一つ、「樟」が所蔵されており、見ておこうと思った次第です。

公式サイトがしばらく更新されていないようで、現地に着くまで存じませんでしたが、「白樺派の情熱展 志賀直哉コレクションを中心としてⅣ」が9月から開催されていました。

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上記は出品目録。光太郎の「裸婦坐像」(大正6年=1917)が掲載されていますが、それ以外にも「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)、さらに画商の後藤真太郎にあてた長い書簡(昭和6年=1931)が展示されていました。木彫小品を販売する仲介を頼むもので、光太郎は月々200円ずつ受け取り、代わりに毎月1点ずつ木彫小品を納めるという契約を、後藤の顧客の誰かと結びたいので紹介して欲しい、的な。しかしこの目論見は、智恵子の心の病の昂進により、実現しませんでした。この書簡は筑摩書房『高村光太郎全集』に掲載されています。

他に、白樺派やその周辺で、光太郎と縁の深かったさまざまな人物の作品が見られ、眼福でした。しかし残念ながら、智恵子の「樟」は展示されていませんでした。訊いてみましたところ、どこかに貸し出しているというわけでもないそうですが、当分、展示の予定もないとのことです。昨年、碌山美術館さんで開催された「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の際に拝見しておいて良かったと思いました。

常設展示では、やはりこちらの目玉であるルオーの作品が中心でした。それからロダン。「洗礼者ヨハネ」の原型として作られた「歩く男」、光太郎が書き下ろした評伝『ロダン』(昭和2年=1927)の中で特に一章を割き、実際に岐阜まで会いに行ってロダンのモデルを務めた話を聞いた日本人女優・花子の像など。


白樺美術館を出て、右の方に。ジョルジュ・ルオー記念館(礼拝堂)です。

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光太郎は、ルオーをして、このように評しています。

ルオーの絵画を人はいいと言ふ。何処をいいとするのだらう。其は宗教的であるとか、精霊的であるとか、いろいろに言はれる。モロオの別格的延長とさへ言はれる。さういふところに彼の絵の力があるのであらうか。さういふ事は皆彼の画の性質に過ぎない。事実は、ルオーの絵の画面全体から来る物理的充実感がルオーの根本なのである。あの一ぱいに孕んだ帆のやうな大どかな力である。(「仏画賛」昭和14年=1939)


梅原龍三郎アトリエ。中には入れませんでした。

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梅原と光太郎の交流は、かなり長期間にわたりました。明治42年(1909)、パリから帰国する光太郎は、モンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエの貸借権を梅原に譲りました。さらに、昭和31年(1956)の光太郎葬儀では、梅原が弔辞を読んでいます。その頃、梅原が使っていたアトリエというわけです。しかし、光太郎から梅原宛の書簡は現存が確認出来ていません。今後に期待したいところです。

ちなみに説明板にある吉田五十八。光太郎も訪れた熱海に現存する岩波茂雄の別荘「惜櫟荘」の設計も手がけています。

まったく、人の縁というのは不思議なものだと感じさせられました。


この後、再び中央高速に乗り、双葉ジャンクションから中部横断自動車道に入って増穂ICで下りました。次なる目的地は南巨摩郡富士川町。長くなりましたので、また明日。


【折々のことば・光太郎】

量が力ではない。量の震動が力である。

散文「黏土と画布」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

大きさそのものが巨大な作品、「偉大」とか「広壮」とかいう感覚を表現しようと狙った作品に対する警句です。このあとの部分では、ルネサンス期の幅23㍍もある巨大な油絵を例に、それよりも「片手で提られる程の大きさの「モナ リザ」の方が恐ろしい力を有つてゐる」としています。

昨日から一泊二日で甲信地域をふらふらしております。
メインの目的は、信州安曇野碌山美術館さんで昨夜開催された美術講座「ストーブを囲んで 荻原守衛と高村光太郎の交友」でパネリストを務めさせていただいたことでした。

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その後、安曇野で一泊、今日は山梨県まで戻り、光太郎ゆかりの場所三ヶ所を回りました。

北杜市の清春白樺美術館さん。

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富士川町の光太郎文学碑。

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四尾連湖。市川三郷町です。

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たまたま娘が同級生の結婚披露宴で甲府に行くというので、昨日、甲府で下ろし、今は披露宴会場の駐車場で娘を待っているところです。

帰りまして明日以降、詳しくレポート致します。

出版社コールサック社さんから、詩誌『コールサック』の最新号が届きました。毎号送って下さっています。恐縮です。

光太郎と交流のあった山梨出身の詩人・野澤一のご子息で、連翹忌ご常連の野澤俊之氏が、父君に関するエッセイを寄せられていました。題して「神秘の湖〝四尾連湖〟に寄せる思い」。

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「四尾連湖」は山梨県西八代郡市川三郷町にある小さな湖で、野澤一が昭和のはじめに約6年間、湖畔の丸太小屋で独居自炊の生活を送った場所です。

野澤一についてはこちら。



その丸太小屋のすぐ近くに「水明荘」という宿泊施設があり、そこの若女将さんが平成2年(1990)に書き、山梨県のふるさと作文コンクールで特別賞を受賞した作文が引用されています。四尾連湖判に野澤の詩碑が建立された頃の作です。光太郎についてもふれて下さっています。

当方、山梨県にも4年近く住んでいたことがありましたが、四尾連湖には行ったことがありません。直線距離で6㎞ほど離れた富士川町の高下地区には、光太郎の文学碑があります。昭和17年(1942)に、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会の事業で、黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の母を顕彰する「日本の母」顕彰事業のため、同地の井上くまの元を光太郎が訪れたことを記念して立てられました。建立は昭和62年(1987)。

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光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」の句が刻まれています。漢字仮名交じりにすれば「美しきもの満つ」、「この世は美しいもので満ちているよ」といった意味です。

ちなみに、少し前に光太郎の変体仮名使用についてちらっと書きましたが、これもそうで、片仮名の「ミ」を平仮名に混ぜて使うことが多くありました。日記でも「手紙」を「てかミ」と表記することがしばしばでした。

ところが、そうした事情に疎い方々の間で、この碑文を「うつくしきもの三つ」と読み(さる高名なゲージツ家のセンセイも、そのように誤読しています)、「三つ」はこの地にある富士山、特産の××……などという誤解が生じ、そのように紹介されているサイトも存在します。ある意味「都市伝説」のような、こうした誤解が広まってしまうのは仕方がないことなのかも知れませんが……。

他にも光太郎にまつわる「都市伝説」の類は少なくありません。「××神社の狛犬は光太郎の作である」、「××県の料亭の座卓には光太郎が包丁で彫った文字が残っている」など。実は後者の方は、ろくに確かめもせず、20年ほど前に当方も著書で紹介してしまったことがありますが、ガセネタです。

閑話休題。ほぼ毎年、4月22日に信州安曇野碌山美術館さんで開催される碌山忌にお邪魔していますが、その際には近隣、あるいは途中にある光太郎ゆかりの地、光太郎と交流のあった人々の記念館的なところに立ち寄ることにしています。四尾連湖もいずれその際に、と思っております。

富士川町の光太郎碑も含め、皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

彫刻はおれの錬金術、 出ないかも知れない金を求めて、 この禁苑の洞窟(ほらあな)に烈火をたく。 あんまりそばへ寄るな。

詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

「無」から「有」を生み出し、しかも単なる「有」でなく、「美」にまで昇華させる彫刻。たしかに「錬金術」にも似た部分があるかもしれませんね。

昨日、平塚らいてう及び『青鞜』について書きましたが、沖縄の地方紙『宮古毎日新聞』さんの一面コラムが、やはりらいてうに触れていました。

【行雲流水】(世界平和アピール)

 雑誌『青鞜』を創刊、「元始女性は太陽であった」と論説を載せ、女性の解放を主張した平塚らいてう、核兵器の廃絶を訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名して平和運動に尽力した湯川秀樹、それに平凡社の創業者の下中弥三郎らは1955年「世界平和アピール7人委員会」を結成した

▼結成当時は冷戦時代であったが、現在もなお、軍拡競争が行われ、世界は混沌として、混迷を続けている。委員は変わっても会は、平和と人権、民主主義と、日本国憲法擁護、核兵器廃絶などについて、おりに触れてアピールを発表、その数は2016年までに120本を超えた

▼当然のことながら「沖縄」も取り上げられている。2015年には「辺野古問題を直視し、沖縄の人たちと連帯を強めよう」というアピールがなされている。昨年の11月には、講演会「沖縄は日本なのか-(平和)を軸として考える-」が開催された

▼講演の中で大石芳野委員は、東村高江地区のヘリパッド建設に触れ、「沖縄戦の傷は今も残っている。戦争はまだ終わっていない」と訴えた

▼「異化する沖縄」と題して述べた高村薫委員は、国に対する負の住民感情を述べ、名実ともに、沖縄は日本だと言えるようにすべきだと語った。杉田敦教授は、沖縄の戦後史に触れたあと、「沖縄のことは関係ないと思うことが一番問題であり、本土のメディアの関心も薄いと指摘した

▼正常な沖縄を要求する県民の声は、世に正義がある限り、決して孤独ではない。


昨年暮れには『徳島新聞』さんが、光太郎詩「あどけない話」中の「ほんとの空」の語を引いて、やはり沖縄の現状に関する警句を一面コラムに書かれていました。

戦後、日本の平和と民主主義のために戦い続け、日本婦人団体連合会長として、国際婦人運動や国内の母親の援助などにとりくんだらいてうの精神を糧に、さらに頑張ってほしいものです。


続いて先週金曜日、『朝日新聞』さんの山梨版。俳優・柳生博さんの子息で、八ケ岳南麓にてレストラン&ギャラリー「八ケ岳倶楽部」を営まれている柳生宗助さんの連載コラムです。

柳生さんちの八ケ岳日記 野鳥観察も寒いほどお得に

 八ケ岳近辺では87店舗が参加する「寒いほどお得フェア」が28日まで実施中です。その日の気温が寒いほど対象商品の割引率が高くなるイベントで、午前10時の清里駅前の気温がマイナス5度以下だと50%引きにもなります。知恵を絞って、八ケ岳にとって閑散期となる冬をみんなで乗り切ろうという気概がそこにあるように思います。八ケ岳倶楽部では名物のフルーツティーを対象に、お客様に喜んでいただいています。


 ただ、八ケ岳倶楽部で寒いほどお得になるのはメニューだけではありません。寒いほど、訪れる野鳥の数も増えてくるのです。テラスや軒下などにひまわりの種を置くと、寒ければ寒いほど野鳥はやってきます。そんな野鳥を見ながらお茶を飲む時間を「バードウォッチングカフェ」と称しています。繁忙期にはない、ゆったりとした時間を味わえます。たくさんの種類が混然となってエサをつつきに来るので、その名前や特徴を覚えるだけでも飽きません。


 胴の部分がタテに黒く、まるでネクタイをしているように見えるのがシジュウカラです。似ているのですが「ネクタイ」をしていないのがコガラ。木の上から下へ歩行することができるほかに、まるで「トップガン」のように上から下へ一直線に飛ぶことができるゴジュウカラ。地面にはいつくばって、エサの台からこぼれたエサをついばむカワラヒワ。いかつくて、ちょっと人相が悪そうなシメ。力強い黄色いくちばしが特徴的なイカル……。


 こうやって覚えていくと、自然と愛着も湧いてきます。八ケ岳倶楽部にはスタッフが手作りで野鳥の「似顔絵」を描いたスケッチブックも置いてあります。これがまたスタッフそれぞれの個性が出ていて、実際の野鳥と見比べて楽しんでいます。


 見ていると、野鳥には愛嬌(あいきょう)があるものと、品があるものの2種類があるように思います。愛嬌がある代表格がヤマガラです。ちょんと首をかしげてこちらを見ているしぐさは、まるで小さい子供が新しいおもちゃを見ている時のような、純真無垢(むく)な可愛さがあります。一年中同じ場所に留まるからなのか、ひまわりの種を食べ過ぎて、ずんぐりむっくりして体が重そうなのも、ご愛嬌です。


 気品がある野鳥といえばウソです。数羽でそっとエサ場に訪れて、静かに種をつついています。品のある人が現れると、そこだけが空気が変わるように、ウソが来ると辺りはとても上品になります。詩人の高村光太郎は、ウソのことを「いかにも山の小鳥らしい、黒じみない、おっとりとしていて、中々精悍(せいかん)な、また紅梅の花にも負けない美麗さと風格とのある鳥」と描写しています。


 冬に野鳥は様々の種類が混ざり合って訪れます。混群と呼ばれます。冬はエサが少なく協力し合うためとか、外敵から守りあうためとか、単純に寂しいためとか理由については色々と説があるようです。


 僕は、雑木林と同じように種類が多種多様な方が、生態系にとっても良いからなのではないかと思います。松林や杉林よりも雑木林のほうが幹も太くなり、下に野草が生えるように、混群の方がそれぞれの種の継続にとって都合が良い理由が何かあるのではないでしょうか。八ケ岳倶楽部で窓の外を眺めていると、野鳥たちや雑木林が多様性の大切さを教えてくれているように感じます。

引用されている光太郎の言葉は、昭和11年(1936)の雑誌『野鳥』に載ったエッセイ「木彫ウソを作つた時」から。木彫の「うそ鳥」はの画像。大正14年(1925)の作です。写真は光太郎令甥・髙村規氏です。
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ウソはスズメより少し大きく、全国に広く分布している鳥だそうですが、当方、野鳥には詳しくなく、しっかりウソを見た、といえる経験がありません。少し注意して探してみます。


最後に『東京新聞』さん。こちらも昨日の紙面から。

「多摩・武蔵野検定」 立川市教委、小5ふるさと学習に活用

 タマケンこと「多摩・武蔵野検定」をふるさとの学習に生かそうと、立川市教育委員会は新年度から毎年、すべての小学5年生に受検させる。2019年度以降は中学1年時にもう一度挑戦する態勢をつくり、知識の定着を図る。 (加藤健太)
 タマケンは〇八年にスタートしたご当地検定で、多摩地域の大学や自治体、企業などでつくる「学術・文化・産業ネットワーク多摩」(日野市)が主催。年に一度試験があり、延べ約五千五百人が受検している。
 立川市では、ふるさとを学ぶ授業で、ウド農家や屋外アート群「ファーレ立川」などを見学してきた。児童が楽しみながら学べる内容を考えていたところ、タマケンを知り、協力を打診。同ネットワークも「地元に貢献したいと思える子が育ってほしい」と快諾し、児童一人当たり千八十円の検定料を無料にすることにした。
 市教委によると、約千四百人の新五年生が受検するジュニア級は、社会科の副読本が出題範囲になっており、ふるさと学習の時間に勉強して試験に備える。児童には市独自の「検定証」を贈る計画をしている。
 ジュニア級には多摩地域三十市町村ごとの検定が用意されていて、「自然・地理」「歴史」「産業・文化」の分野から出題される二十五問を、二〜三者択一で答える。
 市教委指導課の小瀬和彦課長は「住んでいる町を子どもたちが好きになり、堂々と魅力を発信できるようになれば」と話した。
       ◇
 2016年度の多摩・武蔵野検定は3月11日、日野市の明星大学である。今月8日まで受検者を募集している。難易度別にマスター4〜1級とジュニア級がある。検定料は級ごとに異なり、1080〜5400円。問い合わせは学術・文化・産業ネットワーク多摩=電042(591)8540=へ。
◆ジュニア級立川市検定の例題 
【問】立川市の花と木は何でしょう。
  (1)ウメ・イチョウ (2)サツキ・ケヤキ (3)コブシ・ケヤキ
【問】立川市にただ一つある国宝はどれでしょう。
  (1)立日橋 (2)川越緑地古民家 (3)六面石幢(せきとう)
【問】明治時代に立川駅北口で子どもを見送る様子を歌った歌碑は誰の作品でしょう。
  (1)若山牧水 (2)高村光太郎 (3)中村草田男
 ※答えは(3)、(3)、(1)

光太郎の名はブラフで使われているだけです(笑)。

しかし、なぜあえて光太郎を選択肢に入れているのか、というと、おそらく、やはり立川市内に光太郎詩碑が建っているからでしょう。

以前もご紹介しましたが、刻まれている詩は「葱」(大正14年=1925)。碑が建っているのは現在も続く東京都農事試験場の一角で、日本女子大学校時代からの智恵子の友人だった新潟出身の佐藤スミ(旧姓・旗野)がここの場長夫人でした。スミの名は「智恵子抄」に収められた散文「智恵子の半生」にも現れます。

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   葱
立川の友達から届いた葱は、
長さ二尺の白根を横(よこた)へて
ぐっすりアトリエに寝こんでゐる。
三多摩平野をかけめぐる
風の申し子、冬の精鋭。
俵を敷いた大胆不敵な葱を見ると、
ちきしやう、
造形なんて影がうすいぞ、
友がくれた一束の葱に
俺が感謝するのはその抽象無視だ。

こういった件も、地元で語り継がれて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

日常の瑣事にいのちあれ 生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ われらのすべてに溢れこぼるるものあれ  われらつねにみちよ

詩「晩餐」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

『智恵子抄』にも収められている、比較的有名な詩です。前半に、智恵子との「晩餐」のメニュー(というか食材)が列記されています。

暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を ぬれ鼠になつて 買つた米が一升 二十四銭五厘だ くさやの干(ひ)ものを五枚 沢庵を一本 生姜の赤漬 玉子は鳥屋(とや)から 海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴 薩摩あげ かつをの塩辛

後半は夜の営みに関する内容。4月の作で、結婚披露は12月、すでに同棲、事実婚の状態にあったことが隠されていません。智恵子との日常、それこそが何物にも代え難いものであったと宣言されています。「くさやの干物」やらを詩的情調の中で昇華せしめた例は、おそらくこの時代に(または現在に至るまで)他にはなかったのではないでしょうか。

引用部分の後半、「われらのすべてに溢れこぼるるものあれ  われらつねにみちよ」は、草野心平の揮毫により、神戸市の神戸文化ホール前に詩碑として遺されています。また、ホールの外壁には、智恵子の紙絵「あじさい」によるタイル貼りのアートも。

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昨日は、甲府市の山梨県立文学館さんに行っておりました。


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まずは同館にて先週末から開催中の「特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」を拝見。

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大正のはじめ、賢治と盛岡高等農林学校時代の同級生で、文芸同人誌『アザリア』の仲間だった、山梨出身の保阪嘉内との交流に的を絞った展示でした。

比較的長命だった光太郎と異なり、戦前に数え38歳で歿した賢治ですので、遺っている書簡は多くありません。そうした中で、今回の展示では保阪に宛てた73通もの賢治書簡が展示されていました。俗な話になりますが、まず最初に、市場価格に換算したらどうなるのだろう、と思ってしまいました。一昨日、明治古典会さんの七夕古書第入札市一般下見展観を見ていたせいもあるでしょう。

しかし、賢治独特の丸っこい文字を読み進むにつれ、だんだん二人の交流の深さに引き込まれていきました。賢治と保阪は、賢治童話の代表作の一つ「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラに比定されています。

さらに、常設展的な展示も拝見。現在は賢治同様、光太郎と縁の深かった与謝野晶子をはじめ、山梨出身だったり、山梨との縁が深かったりした文学者に関しての展示でした。

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こちらも充実した展示で、興味深く拝見しました。

展示を見終わり、午後1時30分から、特設展の関連行事である講演会「宮沢賢治と保阪嘉内」。講師は渡辺えりさんです。


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えりさんは、平成24年(2012)に初演の舞台「天使猫」で000、賢治を主人公とした幻想的な演劇を作られ、そこに保阪嘉内も登場。その戯曲の制作のため、保阪家の皆さんとのご交流がおありだということで、今回の講演が実現しました。

さらにいうなら、そもそもえりさんも、山梨県立文学館のスタッフの皆さんも、当会主催の連翹忌にご参加下さっており、そのご縁もあるかと存じます。また、先月、盛岡で行われた啄木祭での、えりさんのご講演は欠礼しましたので、これは行かねば、というところもありました。

当方、えりさんのご講演拝聴は三度目でしたが、いつもながらに巧みな話術にひきこまれました。お話は、賢治や嘉内の人となり、保阪家の方々との交流などはもちろん、生前の光太郎を知るお父様・渡辺正治氏との関わりから、光太郎にもかなりの時間を割いて下さいました。お父様は賢治の精神にも強く惹かれていたということもあり、光太郎からお父様への書簡(花巻高村光太郎記念館にご寄贈下さいました)には「宮沢賢治の魂にだんだん近くあなたが進んでゆくやうに見えます」との一節があったりもします。

さらに、お父様が戦時中、武蔵野の中島飛行機の工場にお勤めだった頃、空襲で亡くなったご同僚のリーダーが山梨の方で、最近になってお父様とその墓参が実現したお話などもありました。

終演後のえりさん。サイン会の合間にお話をさせていただきました。

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さて、「特設展  宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」は来月末まで開催されています。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

飄々と富士の御霊(ミタマ)を訪ひ行けば白雲(ハクウン)満た我にしたがふ
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「満た」は「あまた」と読みます。この歌が詠まれたと推定される明治32年(1899)、光太郎は祖父の兼松とともに富士登山を果たしています。

昨日、帰りがけには雄大な姿が拝めました。

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当方、甲府に4年近く住んでいました(今回初めて知りましたが、保阪嘉内は高校の先輩でした)が、最近、甲府に行くたび、甲府から見える富士山はこんなにも大きかったっけ、という感覚です。

山梨県から展覧会情報です。 

特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙

 期 : 2016年7月9日(土)-8月28日(日)
会 場 : 山梨県立文学館 展示室C 山梨県甲府市貢川1丁目5番35号
休館日 : 7月11日(月)、25日(月)、8月1日(月)、22日(月)
時 間 : 9:00-17:00(入室は16:30まで)
観覧料 : 本特設展は常設展チケットでご観覧いただけます。(団体20名以上)
         一般 320円(250円)  大学生 210円(170円)

65歳以上の方、障がい者及び介護者、並びに高校生以下の児童生徒の観覧料は無料です。
県内宿泊者は団体料金となります。

賢治自筆の手紙73通を公開  
詩、童話に独自の世界を切り開いた宮沢賢治。
山梨県出身の親友・保阪嘉内に宛てた73通の手紙から、二人の生涯と友情をたどります。

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関連行事

名作映画鑑賞会 アニメ銀河鉄道の夜

7月30日(土) 開場 午後1時  上映 午後1時30分~
会場 山梨県立文学館講堂   定員 500 名   無料   申込不要
1985年 日本ヘラルド 107分 原作 宮沢賢治  原案 ますむらひろし
監督 杉井ギサブロー  脚本 別役実  音楽 細野晴臣

渡辺えり講演会「宮沢賢治と保阪嘉内」

渡辺えりさん(劇作家・演出家・女優)が、賢治と嘉内の魅力を語ります。えりさんは、二〇一二年初演の「天使猫―宮沢賢治の生き方―」で賢治の生涯を描き、演出を手がけました。

7月10日(日) 午後1時30分~ (受付1時~)
会場 山梨県立文学館講堂   定員 500 名   無料   要申込
※ お電話かホームページ、または当館受付にてお申し込みください。

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というわけで、渡辺えりさんの講演があります。

紹介にもあるとおり、えりさん、平成24年(2012)に初演の舞台「天使猫」で、賢治を主人公とした幻想的な演劇を作られました。

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今回の企画展で取り上げられる保阪嘉内も、重要な役どころで登場していました。

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そういう関係もあり、講演の依頼に繋がったのでしょう。賢治と光太郎の交流についても、お話があればと期待しています。

つい先日行われた、盛岡での啄木祭でのご講演は聞き逃しましたので、今回は拝聴に伺います。花巻の高村光太郎記念館に、お父様宛の書簡と献呈署名本をご寄贈下さった御礼も改めて申し上げて参ります。

皆様も是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

野もきえぬ流もきえぬ森もきえぬ小雨みどりに我はたきえぬ

明治34年(1901) 光太郎19歳

「ぬ」は完了の助動詞。「た」と訳せばだいたい通じます。

沖縄地方は梅雨明けだそうですが、沖縄の梅雨が明けると、梅雨前線が北上、本州の雨が本格化します。今日は今のところ晴れ間です。この夏初めて蝉の声が聞こえています。

先週、『毎日新聞』さんの山梨版に、光太郎の名が載りました。

「小さな里に大きな宝」という連載で、これは以下のコンセプトでした。

山梨には地域を元気にする「宝」が数多く眠っている。それも都市部ではなく、小さな田舎に。その土地ならではの暮らしの知恵、文化、特産物を生かしながら、地元に新たな活力を吹き込もうとする動きも各地で相次いでいる。今年は、地方創生や人口減少対策など地域活性化の事業が本格化する。そのヒントを探るべく、各地の「宝」を訪ね歩いてみた。

その第6回(最終回)が以下の記事。

小さな里に大きな宝 富士川町高下地区 雄大な富士に抱かれて 当たり前のものが「特別

 かじかむ手で、かまど000にまきをくべる。赤い火がぱちぱちと音を立てた。カボチャや大根の入った鍋から白い湯気が上がる。「ほうとう、少し待ってね」。山口博子さん(37)が、ほの暗い土間から、大きな声を上げた。「こっちもまだまだだよ」。まきで風呂を沸かそうしていた、夫の宗一郎さん(33)が返した。

 二人が仕事を辞め、都心に近い千葉県市川市から、富士川町高下(たかおり)地区に移り住んで今年で3年目になる。標高400~500メートルの集落は人口130人ほど。70代以上が4割近くを占める。空き家も目立つ。居間で寝息を立てている生後11カ月の長女未生(みお)ちゃんにとっては、ここが古里だ。
 夫妻は、築130年といわれる古民家を改修して、農家民宿を営んでいる。ガスを引かず、田畑を耕して自給自足に近い生活をしようとしてきた。「田舎暮らしをスローライフなんて言うけれど、実際には忙しくて忙しくて」。そうこぼしながら、二人は高下地区の美点をいくつも挙げる。
 「古い家を大切に残しているところ。おいしいユズがたくさん取れるところ。毎日、富士山を間近に見られること。受け入れてくれる地域の人の心が温かいこと……」。そしてこう漏らす。「素晴らしいところがいっぱいあるのに、ここの人たちは気づいていない。もったいないです」
 夫妻は、地域の人を巻き込み、いくつか企画を立ててきた。昨年復活させた秋祭りもその一つ。甲州弁の「一緒に行こう」から取って「えべし高下秋祭り」と名づけた。山口さんのところに、年に何度も泊まりに来る千葉県市川市の自営業、島田憲二さん(61)、千恵さん(57)夫妻は話す。「ここに泊まると、お湯を沸かすのにさえ時間と手間がかかる。そんな生活をたまに味わえるのが楽しい」
 高下地区で育った大森昭雄区長(75)は淡々と語る。「移住してくる人はいるけど都会育ちで、物珍しいから来るだけ。すぐ出て行ってしまう人もいる。田舎暮らしなんて魅力ないよ」。県内のあちこちで、似たようなセリフを聞く。
 しかし大森さんの言葉には続きがある。「住民には、富士山も水も自然もマンネリになっている。でも、当たり前のものが特別なんだと、外から来た人は言いたいのかもしれないな」。口元は緩んでいた。掘り起こされていない宝は、きっと足元に埋まっている。【藤渕志保】=おわり

 ■ことば
高下地区
 高下地区には県が選んだ「新富嶽百景」の一つ高村光太郎文学碑がある。近くの日出づる里農村公園は「ダイヤモンド富士」の撮影スポットとして知られ、毎冬、県内外から多くの人が訪れる。ユズも特産で、日中と夜の温度差が大きい山間地の気候などが適しているという。ここから下った所にある小室地区を含めた旧穂積村では毎年11月に「ゆずの里まつり」を開いている。山口夫妻の宿泊施設「ワールドカフェゲストハウス」でも12月ごろ、ユズの収穫体験を楽しめる。


舞台は山梨県南巨摩郡富士川町。かつて増穂町と行っていた区域です。記事にもあるとおり、「ダイヤモンド富士」のスポットとして有名です。これは、冬至の前後、日の出が富士山頂に重なるという現象です。

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ここになぜ光太郎の碑があるのかというと、昭和17年(1942)、山梨県南巨摩郡穂積村字上高下(かみたかおり)-現・富士川町の井上くまを訪問したことに由来します。
 
この年発足し、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会の事業で、黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の「日本の母」を顕彰する運動の一環です。軍人援護会の協力の下、各道府県・植民地の樺太から一人ずつ(東京府のみ2人)「日本の母」が選考され、光太郎をはじめ、当代一流の文学者がそれぞれを訪問、そのレポートが『読売報知新聞』に連載されました。さらに翌年には『日本の母』として一冊にまとめられ、刊行されています。
 
井上くまは、女手一つで2人の息子を育て、うち1人は光太郎が訪ねた時点で既に戦病死、しかしそれを誇りとする、この当時の典型的な『日本の母』でした。
 
光太郎はまた、『読売報知新聞』のレポート以外にも、くまをモデルに詩「山道のをばさん」という詩も書いています。
 
  山道のをばさん001

汽車にのり乗合にのり馬にのり、
谷を渡り峠を越えて又坂をのぼり、
甲州南巨摩郡の山の上、
上高下(かみたかおり)といふ小部落の
通称山道(やまみち)のをばさんを私は訪ねた。
「日本の母」といふいかめしい名に似もやらず
をばさんはほんとにただのをばさんだつた。
「遠いとこ、さがしいとこへよくお出でしいして」と、
筒つぽのをばさんは頭をさげた。
何も変つたところの無い、あたり前な、
ただ曲つた事の何より嫌ひな、
吾身をかまはぬ、
働いて働いて働きぬいて、
貧にもめげず、
不幸を不幸と思ひもかけず、
むすこ二人を立派に育てて、002
辛くも育て上げた二人を戦地に送り、
一人を靖國の神と捧げて
なほ敢然とお国の為にと骨身を惜しまぬ、
このただのをばさんこそ
千萬の母の中の母であらう。
あけつ放しなをばさんはいそいそと、
死んだむすこの遺品(かたみ)をひろげて
手帳やナイフやビールの栓ぬきを
余念もなくいじつてゐる。
村中の人気がひとりでにをばさんに集まり、000
をばさんはひとりでに日本の母と人によばれる。
よばれるをばさんもさうだが
よぶ人々もありがたい。
いちばん低い者こそいちばん高い。
をばさんは何にも知らずにただうごく。
お国一途にだた動く。
「心意気だけあがつてくらんしよ」と、
山道のをばさんはうどんを出す。
ふりむくと軒一ぱいの秋空に、
びつくりする程大きな富士山が雪をかぶつて
轟くやうに眉にせまる。
この富士山を毎日見てゐる上高下の小部落に
「日本の母」が居るのはあたりまへだ。


昭和62年(1987)には、光太郎が高下を訪れたことを記念して、光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」という短句を刻んだ碑が建てられました。

悲惨な戦争の被害者を美化する詩、という意味では負の遺産ともいえるものですが、当時の国民一般の心境としてはこうだったわけです。


さて、富士川町高下地区、この碑があるからといって、多くの人が訪れるわけではありませんし、ダイヤモンド富士も期間が限られています。普段は本当に記事にある通り「住民には、富士山も水も自然もマンネリになっている。」状態なのでしょう。しかし、「当たり前のものが特別なんだと、外から来た人は言いたいのかもしれない」という部分にもうなずけます。

「当たり前」の良さを「当たり前」に継承して行くことこそ、真の地方創成につながるような気がします。


【折々の歌と句・光太郎】

オリオンが八つかの木々にかかるとき雪の原野は遠近を絶つ
昭和22年(1947) 光太郎65歳

花巻郊外太田村での作。「八つか」は現地の方言だと思いますが、ハンノキのことです。

この季節、深夜2時頃にはオリオン座が西の空に傾いています。昨夜というか、今日未明、我が家の老犬と散歩しながらそれを見て、この歌を思い出しました。

老犬、北方系の血を色濃く受けているようで、毎年、真冬になると恐ろしく元気になり(光太郎か! と突っ込みたくなります)、真夜中に「散歩に連れて行け」と吠えます。無視すると吠え声が近所迷惑なので、しかたなくつきあっています。

昨日、長野県の碌山美術館さんの館報をご紹介しましたが、お隣山梨県立文学館さんからも最新の館報を頂きました。ありがとうございます。
 
昨秋開催された企画展「与謝野晶子展 われも黄金(こがね)の釘一つ打つ」の報告が掲載されています。
 
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4/2(水)の連翹忌には、同館の三枝昻之館長と、同展担当学芸員の保坂雅子さんがご参加の予定です。
 
それから4/12(土)から開催される企画展「村岡花子展 ことばの虹を架ける~山梨からアンの世界へ~」について詳しく紹介されています。
 
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NHKの朝ドラ、来週から「花子とアン」の放映が始まりますから、非常にタイムリーですね。
 
村岡花子は甲府出身。日本で初めて「赤毛のアン」を翻訳紹介しています。
 
年齢的には光太郎のちょうど10歳下です。残念ながら『高村光太郎全集』には村岡の名は出てきません。しかし、光太郎が詩部会長だった戦時中の日本文学報国会で、村岡も女流文学者委員会の委員を務めていますし、昭和17年(1942)11月に開催された大東亜文学者会議には、二人とも参加しています。また、詩人の永瀬清子、編集者の前田晁など共通の知人も多く、接点はありました。
 
NHKの朝ドラ「花子とアン」、戦時中の村岡をどのように描くか、非常に興味があります。別に戦争協力を糾弾するわけではありません。日本文学報国会にしても、加入していなかった文学者を捜す方が難しい状態で、当時としては、ある意味しかたのないことです。
 
先月亡くなった「ぞうさん」のまど・みちおさんにしても、戦時中には戦争協力の詩を書いています。まどさん自身、それを隠さず平成4年(1992)に刊行された『まど・みちお全詩集』にそれらを収録、さらに「あとがき」ではその点や、戦後には一転して反戦運動に関わるようになったことを、流される自分のなさけなさとして述懐しているそうです。
 
光太郎も戦後は花巻郊外太田村での隠遁生活を「自己流謫(=流刑)」と位置づけ、あえて不自由な生活を続けました。
 
そのあたり、村岡がどうだったかというのが興味深いところです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月27日

昭和27年(1952)の今日、NHKラジオ放送「朝の訪問」のため、花巻温泉松雲閣で、詩人の真壁仁と対談しました。

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松雲閣 戦前絵葉書

新刊です。 

森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生

野澤一著 坂脇秀治解説 彩流社刊 定価1,600円+税
 
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彩流社さんサイトから。
 
山梨県四尾連(しびれ)湖畔の小屋にひとり暮らし、詩と詩作に明け暮れた青年がいた……
《日本のソロー》野澤 一(はじめ)の『木葉童子詩経』から素朴で澄明な、心優しい詩をセレクション。

1904(明治37)年生まれの野澤一は、法政大学在学中にヘンリー・D・ソローに触発され、山深い湖畔での独居生活を実践。
野山をかけ、生き物を慈しみ、思索し、そして詩を詠んだ。高村光太郎への200 通に及ぶ手紙でも一部に知れられる稀有な詩人の、知られざるひととなりの詳しい解説をも付す。
 
野澤 一(ノザワ ハジメ)
1904(明治37)年生まれ。24 歳のとき、四尾連湖で生活するために法政大学を中途退学。5 年近くの独居生活を経て東京に戻り、湖畔在住中に書きためた詩約200 篇をまとめ『木葉童子詩経』と題し自費出版。1945(昭和20)年、終戦をみることなく41 歳の若さで病没。
 
坂脇 秀治(サカワキ シュウジ)
1955 年兵庫県生まれ。週刊誌記者、出版社勤務を経てフリーエディターに。

 
野澤の詩は、文治堂書店さんから平成17年(2005)に復刻された『木葉童子詩経』で読んだことがありましたが、今回のものには坂脇秀治氏による40ページ近い解説が載っているということで、購入しました。
 
野澤は山梨県出身の詩人で、法政大学中退後、数え26歳の昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、故郷山梨の四尾連湖畔に丸太小屋を建てて独居自炊、のち上京しています。昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送りました。いずれも3,000字前後の長いもの。坂脇氏曰く「光太郎からの返信は数通あったようだが、ほぼ一方通行の文通だった。」とのこと。
 
光太郎はその野澤に関し「あの人の文章は癖のある文章ですが、とにかくちょっとほかの人には見られない稀らしい才能を持った人なんですね。」と語り、昭和15年(1940)に書いた「某月某日」というエッセイで、野澤を激賞しています。4月2日の連翹忌には、ご遺族の方にご出席いただいております。
 
その詩も独特のもので、戦前の作ながら、もはや「近代詩」の枠には収まりきれず「現代詩」の範疇に入るのでは、と思われます。そんな野澤が心の師と仰いだのが、アメリカの詩人、ヘンリー・D・ソロー。エコロジストとして名高い詩人です。そこで本書では副題に「日本のソロー」とあるわけです。
 
それから野澤は「現存している詩人でぼくが尊敬しているのは高村さん一人くらいです」と述べています。
 
そんな野澤の詩が32編、おそらく四尾連湖と思われるたくさんのモノクロ写真(これがまたいい感じです)とともに紹介されています。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月27日

昭和27年(1952)の今日、中野のアトリエの大掃除をしました。駆けつけた詩人の藤島宇内、十和田湖畔の裸婦像製作の助手・小坂圭二が手伝ってくれました。
 
年の瀬といえば大掃除ですね。しかし当方、まだ大掃除らしい大掃除をしていません。昨日も国会図書館さんに行っていましたし……(汗)。

山梨レポートの2回目です。
 
山梨県立文学館さんの「与謝野晶子展」に行く前に、寄り道をしました。目的地は笛吹市立青楓美術館さん。中央高速を勝沼インターで下り、10分程のところにあります。
 
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津田青楓(せいふう)は光太郎より3歳年上の画家。光太郎同様、パリに留学し、そこで光太郎と知り合って、一時は光太郎と親密な付き合いがありました。筑摩書房の『高村光太郎全集』第11巻と第19巻には光太郎の俳句が多数収録されていますが、その中のかなりの部分が津田に宛てて書かれた書簡から採録されたものです。
 
話は変わりますが、JR東日本さんで運営している「大人の休日倶楽部」という会員組織があります。吉永小百合さんご出演のTVコマーシャルをご記憶の方も多いのではないでしょうか。入会すると期間限定の会員限定割引きっぷなどの特典があります。
 
その「大人の休日倶楽部」の会員向けの雑誌に「大人の休日倶楽部ミドル」「大人の休日倶楽部ジパング」という2種類があるそうです。その2誌共通の連載で「一枚の手紙から」というコラムがあり、毎回、近代の文学者が書いた手紙を一通ずつ紹介しています。ちなみに9月号は樋口一葉から半井桃水宛、10月号は堀辰雄から婚約者の多恵子宛、11月号は有島武郎から木田金次郎宛のものです。
 
そして12月号では、光太郎から津田青楓宛の葉書が扱われることになっています。実物は花巻の高村記念会さんで所蔵しているものです。先日、実際に執筆されるライターさんに、当方自宅兼事務所に来ていただき、その葉書の書かれた背景について取材を受けました。くわしくは12月号が世に出てからまた書きます。
 
青楓宛の書簡類は『高村光太郎全集』に9通掲載されていますが、それ以外にもまだまだありそうです。実際、今度の葉書も『全集』未収録。花巻の記念会では東京の古書店から入手したとのことです。また、数年前には、現在北海道にある葉書の情報を得、当方執筆の「光太郎遺珠」に掲載させていただきました。
 
そこで、山梨の青楓美術館にも、もしかしたらあるかも知れないと思い、立ち寄った次第です。
 
結果として、そういったものは所蔵されていませんでしたが、青楓の画業の一端に触れることができ、有意義でした。青楓は与謝野晶子とも交流があり、青楓が絵を描き、晶子が短歌を書いた作品や、青楓が装幀を手がけた晶子歌集の装幀原画なども並んでおり、これから与謝野晶子展を観に行く上で予習にもなりました。他にも夏目漱石や本郷新、伊上凡骨など、光太郎と縁のある人物に関わる展示もあり、興味深く拝見しました。
 
今年は、東京芸術大学美術館で開催された「夏目漱石の美術世界展」に所蔵作品を3点ほど貸し出したとのこと。それらの作品にはそういうキャプションが附けられており、さながら凱旋帰国したかのようでした。
 
山梨と言えば富士山。2階の展示室には、世界文化遺産登録を記念して、青楓が富士山を描いた作品を集めていました。
 
ところで、青楓美術館。もともとは青楓と親交のあった当地出身の個人が開設した美術館だそうです。その後、旧一宮町に経営が引き継がれ、市町村合併で笛吹市が誕生し、現在に至っています。その間、閉館の危機にも見舞われたそうですが、入館者数の増加に向けた取り組みが効果を上げ、存続しています。
 
同館パンフレットの表紙には「ぶどう畑の中にある小さな小さな宝箱!!」のキャッチコピー。ある意味、開き直っていますが(笑)、実際その通りで、大きな街道沿いではなく、小さな路地を入っていったぶどう畑の中に建っています。
 
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しかし「山椒は小粒でぴりりと辛い」。いい所です。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月26日

明治39年(1906)の今日、日本女子大学校で、多くの皇族方を迎え、「秋期文芸会」が催されました。演劇も上演され、舞台の背景(大道具)は智恵子が描いたということです。

昨日、山梨県に行って参りました。
 
山梨県立文学館さんで開催中の「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」観覧のためです。
 
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同館は平成19年(2007)には企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催、今度は光太郎と関連の深い晶子の企画展ということで、馳せ参じました。
 
昼食時間帯に現地に着き、文学館の目の前にある「小作」さんに入りました。当方、山梨に行くことも多く、そのたびにここで山梨の郷土料理・ほうとうを食べています。
 
偶然にも文治堂書店さんの勝畑耕一氏が友人の方とお二人で食事に見えられ、驚きました。勝畑氏、今春、『二本松と智恵子』というジュブナイルを上梓されています。やはり晶子展を観にいらしたとのこと。
 
他にも文治堂さんでは光太郎に関わる書籍を何点か刊行して下さっており、ありがたい限りです。
 
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さて、いざ会場へ。
 
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晶子の生まれ育った大阪堺の菓子商・駿河屋関連に始まり、女学校時代、『明星』時代、『みだれ髪』前後、渡欧、古典研究、そして晩年と、ドラマチックな晶子の生涯が俯瞰できる数々の資料が並んでいました。
 
短歌以外にもその才能を遺憾なく発揮した詩(日露戦争に出征した実弟に対して語りかける「君死にたまふこと勿かれ」など)、小説、童話、評論などの活動もテーマ別に紹介されていました。
 
やはり実物を見ることで、晶子なら晶子の「息吹」のようなものを感じます。画像で見るのとは違いますね。
 
そして「晶子と「明星」の人々」ということで、光太郎、石川啄木、北原白秋、木下杢太郎に関する展示も。
 
光太郎関連は初めて光太郎の短歌が載った明治33年(1900)の『明星』(先日の【今日は何の日・光太郎】でご紹介しました。)、光太郎の書いた晶子の戯画が載った明治43年(1910)の『スバル』(巳年ということで、当方、今年の年賀状に使いました。晶子が口から蛇を吹いています。)、光太郎が装幀した鉄幹の歌集『相聞』(明治43年=1910)などが展示されていました。
 
光太郎のコーナー以外にも、光太郎に関わる資料が点々とあり、光太郎と与謝野夫妻の縁の深さを改めて実感しました。晶子の歌集『流星の道』(大正13年=1924)には「高村光太郎様に捧ぐ」の献辞がありますし、遺作となった歌集『白桜集』(昭和17年=1942)の序は光太郎が執筆しています(雑誌『冬柏』に載ったものの転載ですが)。それから光太郎が扉の題字、挿画、装幀を手がけた晶子歌集『青海波』(明45=1912)も展示されていました。
 
また、晶子の短歌も載った合同作品集『白すみれ』(明治39年=1906)も展示されていましたが、この装幀も光太郎だという情報があり、こちらは調査中です。確定すれば光太郎が手がけた最初の装幀ということになるのですが、はっきりしません。この件については稿を改めて書きます。
 
さらに、晶子は智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』創刊号の巻頭を飾った詩「そぞろごと」を執筆しており、こちらも展示されていました(復刻版でしたが)。この詩は「山の動く日来る」で始まるもので、『青鞜』主宰の平塚らいてうはこの詩にいたく感動したそうです。ただ、のちにらいてうと晶子はいわゆる「母性保護論争」で論敵同士となりますが。
 
展示をざっと見終わった後、担当学芸員の保坂雅子様による講座「与謝野晶子の姿 山梨での足跡を訪ねて」を拝聴しました。晶子は10回ほど山梨県を訪れており、その経緯や作品の紹介でした。光太郎とも親交のあった山梨出身の詩人、中込純次が絡んでおり、興味深いものでした。
 
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講座修了後は保坂様によるギャラリートークもあり、もう一度展示室へ。先ほどはざっと見たたででしたので、今度は詳しい解説付きで観られ、ラッキーでした。
 
展示の後半は講座にもあった晶子と山梨関連の資料の数々でしたが、「百首屏風」などの自筆の書、写真など、関係者の方々がよくぞ散逸させずに遺しておいてくれた、という感じでした。
 
そして保坂様は今回の企画展全体を担当され(当然、図録の編集もでしょうし)、昨日は講座にギャラリートークと、八面六臂の大活躍です。ご苦労様です。
 
というわけで、なかなか立派な企画展です。会期は11/24まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月25日

大正3年(1914)の今日、第一詩集『道程』が刊行されました。
 
『明星』時代には秀抜な「歌人」であった光太郎ですが、海外留学を経て、明治42年(1909)頃から「詩人」へと変貌します。後に「短歌では到底表現し尽くせない内容をもてあまし、初めて自分でも本気で詩を書く衝動に駆られた。」(「詩の勉強」昭和14年=1939)と語っています。
 
社会的には大逆事件や日韓併合、光太郎の身辺でも盟友・荻原守衛の死やパンの会の狂騒といった出来事があり、光太郎自身、自己の目指す新しい彫刻と、光雲を頂点とする旧態依然たる日本彫刻界の隔たりに悩み、吉原の娼妓や浅草の女給との恋愛、画廊琅玕洞の経営とその失敗、北海道移住の夢とその挫折など、まさに混沌とした時代でした。
 
そして智恵子との出会いをきっかけに転機が訪れ、とにかく自分の道を自分で切り開くベクトルが定まります。
 
おそらくは2ヶ月後の智恵子との結婚披露を控え、それまでの自己の「道程」を振り返り、一つのしめくくりとして、この『道程』刊行が思い立たれたのでしょう。
 
回想に依れば、光雲から200円を貰って、刊行部数200部ほどの自費出版。まだ口語自由詩が一般的でなかったこの時代を突き抜けた詩集は、一部の人々からは強い関心を持って受け止められましたが、ビジネスライクの部分では散々でした。後に残本を奥付だけ換えて改装し、何度か再生品を刊行しています。国会図書館の近代デジタルデータに登録されているのはこれです。のちに近代文学史上の金字塔となるとは、誰も思っていなかったことでしょう。 
 
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画像は当方所蔵の初版『013道程』です。残念ながら刊行時に着いていたカバーは欠落しています。
 
ちなみに大正3年(1914)は99年前。つまり、来年は『道程』刊行100周年ということになります。
 
表題作「道程」もこの年の発表ですし(雑誌発表形は102行にも及ぶ大作でしたが、詩集収録の段階でバッサリ9行に削られました。)、来年は「「道程」100周年」というコンセプトで企画展なり出版関連なりで取り上げていただきたいものです。当方所蔵のものは喜んでお貸しします。
 
詩集『道程』はその後、昭和に入り、「改訂版」(昭和15年=1940)、「改訂普及版」(同16年=1941)、「再訂版」(同20年=1945)、「復元版」(同22年=1947)、「復元版文庫版」(同26年=1951)、「復刻版」(同43年=1968)、「復元版文庫版リバイバルコレクション版」(平成元年=1984)などが刊行されています。このあたりの変遷を追うだけでも面白いと思います。
 
ついでに言うなら、後ほどこの項で紹介しますが、智恵子との結婚披露も同じ大正3年ですので、やはり来年は「光太郎智恵子結婚100周年」と言えます。企画展なり出版関連なりで取り上げていただきたいものです。

このブログに何度もご登場いただいている、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を刊行された 坂本富江さんからご案内を戴きました。
 
今度は坂本さんの故郷、山梨県韮崎市の市立図書館で『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』の原画展と講演会だそうです。 

追体験! スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 講演会&原画展

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プレ原画展 2013年11月9日(土)~11月9日(土)
原画展・講演会 2013年11月16日(土) 15:15~16:45
場所:韮崎市立図書館
入場無料
定員30名(申し込み先着順) tel 0551-22-4946(韮崎市立図書館)
 
山梨では先に紹介した甲府の山梨県立文学館で「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を開催しています。
 
また、下記【今日は何の日・光太郎】でふれている「うつくしきものみつ」の碑が甲府の南、富士川町にあります。
 
秋の行楽シーズン、ぜひ山梨にもお出かけ下さい。
 

【今日は何の日・光太郎】 10月14日010

昭和17年(1942)の今日、山梨県南巨摩郡穂積村字上高下(かみたかおり)-現・富士川町の井上くまを訪問しました。
 
この年発足し、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会の事業で、黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の「日本の母」を顕彰する運動の一環です。
 
軍人援護会の協力の下、各道府県・植民地の樺太から一人ずつ(東京府のみ2人)「日本の母」が選考され、光太郎をはじめ、当代一流の文学者がそれぞれを訪問、そのレポートが『読売報知新聞』に連載されました。さらに翌年には『日本の母』として一冊にまとめられ、刊行されています。
 
井上くまは、女手一つで2人の息子を育て、うち1人は光太郎が訪ねた時点で既に戦病死、しかしそれを誇りとする、この当時の典型的な『日本の母』でした。
 
光太郎はまた、『読売報知新聞』のレポート以外にも、くまをモデルに詩「山道のをばさん」という詩も書いています。
 
昭和62年(1987)には、光太郎が上高下を訪れたことを記念して、光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」という短句を刻んだ碑が建てられました。
 
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最近、ある高名な芸術家のブログで、この碑の文言を「うつくしきもの三つ」と書いていますが誤りです。光太郎は仮名書きで文字を書く際、変体仮名的に「み」を「ミ」と書くことが多く(「おてがミ」など)、これもその例です。「みつ」は「満つ」。「満ちる」の古語ですね。
 
山梨と言えば富士山。この碑のある場所から見える富士山は本当に見事です。特に冬至の前後には「ダイヤモンド富士」といって富士山の山頂部と日の出の太陽が重なる現象が見られるそうです。

山梨県からイベント情報です。 

与謝野晶子展 われも黄金(こがね)の釘一つ打つ

与謝野晶子(18781942)は、歌人として知られていますが、短歌だけでなく詩・童話・小説・評論・古典研究など幅広い創作活動を行っています。山梨とのゆかりも深く、富士北麓、富士川町、上野原市などを訪れ、豊かな自然や風物を詠んだ歌を残しています。63歳の生涯を華麗に生きた晶子の人生と作品とともに、山梨での足跡を約150点の資料で紹介します。
(公式サイトより)
  
会 場:山梨県立文学館 甲府市貢川一丁目5-35
会 期:2013年9月28日(土)~11月24日(日)
観覧料:一般310円 大高生210円 小中生100円
 
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関連行事
◎講演会
 ○金井 景子(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)
 「「自立」を問う人―与謝野晶子の評論を読む―」
 日 時:11月4日(月・振休) 午後1:30~3:00  場 所:山梨県立文学館 研修室
  
 ○三枝 昻之(当館館長)
 「星君なりき―晶子晩年の魅力」
 日 時:11月14日(木) 午後1:30~3:00  場 所:山梨県立文学館 研修室
 
 ○今野寿美(歌人)
 「あらためて読む『みだれ髪』」
 日 時:11月23日(土・祝日) 午後1:30~3:00  場 所:山梨県立文学館 研修室
 
◎講座
 ○保坂 雅子(学芸員)
 「与謝野晶子の姿 山梨での足跡を訪ねて」
 日 時:10月24日(木)午後2:00~3:10   場 所:山梨県立文学館 研修室
 
実はうっかりご紹介するのを失念しており、初日の9/28(土)には作家の林真理子さんの講演もあったそうです。終わってしまいました。
 
また、うっかりご紹介するのが遅くなり、11/14(木)以外の講演、講座は定員に達してしまったそうです。
 
当方はちゃっかり10/24の講座に申し込みました。すみません。担当なさる学芸員の保坂女史は連翹忌のご常連なので、どうせ行くならこの日と決めておりました。
 
先ほど、保坂女史と電話で話させていただき、展示内容についていろいろ教えて下さいました。予想していましたが、『明星』同人に関する展示もあり、光太郎に関する展示も少しあるとのことでした。
 
例を挙げますと、明治44年(1911)、雑誌『スバル』に掲載された詩「ビフテキの皿」の草稿、光太郎が扉や表紙の題字、挿画、装幀を手がけた晶子歌集『青海波』(明45=1912)・夫の鉄幹歌集『相聞』、光太郎が晶子を戯画化した「SALAMANDRA」が掲載された『スバル』(明43=1910)、など。他にも光太郎がらみの出品物があるかもしれません。観るのが楽しみです。
 
山梨県立文学館さんは、平成19年(2007)に企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催なさった他、各種の資料・情報等も快く提供して下さり、また、保坂女史や近藤信行前館長には毎年のように連翹忌に駆けつけて下さるなど、当方、大変お世話になっております。
 
企画展以外の常設展でも、山梨出身やゆかりの文学者――樋口一葉、太宰治、井伏鱒二、芥川龍之介、飯田蛇骨、村岡花子(来年のNHK連続テレビ小説「花子とアン」で吉高由里子さんが演じられます)など――についての展示も充実しています。
 
さらに言うなら、お隣はミレーの「種まく人」を所蔵していることで有名な山梨県立美術館。一帯は公園となっており、ロダンやブールデル、マイヨールの野外彫刻などもあります。まさに「芸術の秋」を堪能するにはもってこいです。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月5日

昭和13年(1938)の今日、南品川ゼームス坂病院にて智恵子が歿しました。享年、数えで53歳でした。
 
というわけで、智恵子のいまわの際を謳った光太郎詩「レモン哀歌」にちなみ、今日は「レモンの日」とされています。
 
さらにというわけで、当方、今日は染井霊園の高村家の墓所にお参りに行って参ります。その後、両国に移動、劇団空感エンジンさんの舞台「チエコ」を観てきます。

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