まず、福岡は北原白秋生家・記念館さんの「北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~」。『読売新聞』さんの福岡版から。
北原白秋没後80年記念、ゲーム「文豪とアルケミスト」とタイアップ企画展…柳川・生家にキャラ等身大パネルも
続いて、文京区立森鷗外記念館さんで開催されている「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」。共同通信さんの配信記事で、全国の地方紙に掲載されたようです。神奈川近代文学館さんで開催されていた「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」展のレポートと2本立てでしたが、そちらは割愛します。
【逍遥の記(4)】肉筆の圧倒的な訴求力示す 災厄を力にした川端、来信から描く鷗外の輪郭
東大医学部の学生だった16歳のとき、生理学の講義を受けてまとめた冊子「筋肉通論」も新資料である。端正で几帳面な文字が印象的だ。54歳の「渋江抽斎」と16歳の筆跡を見比べることができるのも楽しい。人間性の深化は文字にどう表れているか。 鷗外宛ての書簡は、島根県津和野町の森鷗外記念館に新たに寄託された約400通のうちの一部。夏目漱石、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、高村光太郎、小山内薫…。差出人の名前を見ていくと、詩や短歌、俳句、美術や演劇などジャンルを超えて交流していたことが分かる。前期と後期合わせて15人からの18通を展示する。
永井荷風からの10年の手紙は、近く創刊する雑誌「三田文学」の準備の様子を報告している。荷風は鷗外を師と仰ぎ尊敬していた。
「雑誌体裁は凡(すべ)て短篇、(中略)寄稿者の署名は表題の下に印刷せず、文章の終りに廻(まわ)して見るつもり」「広告は凡て奥付ばかりに致したく」「兎(と)に角(かく)一号だけは、全く理想的に見本として発行致し度(た)き考(かんがえ)に御座候(ござそうろう)」とつづっている。
多くの人からの鷗外宛て書簡を読んでいると、彼がどんな人間に囲まれ、どんなふうに交流しながら生きていたのかが分かる。鷗外の外側から、鷗外の輪郭が浮かんでくるようだ。
【折々のことば・光太郎】
午后永瀬清子さんくる、来月インド行の由、
永瀬清子は現在の岡山県赤磐市出身の詩人。光太郎とは戦前から交流がありました。永瀬が光太郎の借りていた貸しアトリエを訪れたのは、前年に続き二度目。「インド行」は、ニューデリーで開催され、植民地主義、原水爆問題など、アジアに共通する問題について意見交換する趣旨だった「アジア諸国民会議」に「婦人団体代表」として永瀬が参加したことを指します。
この日、永瀬に贈ったはなむけの言葉が、永瀬の主宰していた地方詩誌『黄薔薇』のこの年4月号に掲載されました。曰く「裏の山へ植林にいくようなお気持ちでいつてゐらつしやい」。なかなかそうも行かないと思うのですが(笑)。