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2月5日(金)の『読売新聞』さん夕刊から。

よみうり寸評

つい先日、東京五輪まであと半年という声を聞いたと思ったら、今度は北京五輪まで1年になったという。東京大会の延期で開催時期が近づいた◆羽生結弦、高木美帆…有力選手の活躍が報じられても、大舞台はだいぶ先のように感じていた。虚を突かれたような驚きを覚えつつ、時候ゆえか、ふと連想したのが梅と桜の開花前線だ◆列島を北上するにつれて双方は接近する。リンゴや梨の花も挙げて高村光太郎は〈東北の春〉の味わいを随筆に綴(つづ)った。〈春の花の代表が、前後する暇もなく、一時にぱっと開いて、まるで童話劇の舞台にでもいるような気を起させる〉◆夏季五輪のすぐあとに冬季五輪を観戦できるなら、うれしい話ではないか。と思ったところでコロナ下の厳しい現実に立ち返る◆北京の有力選手の話を本紙で読んだ。「まずは東京五輪の開催を願っている。そうすれば北京もきっと出来ると思う」。切実な気持ちを選手が抱えている時に…。紙幅が尽きるところで、かの発言に一言だけいう。なんてことを。

引用されているのは昭和26年(1951)3月に、『婦人之友』に発表された「山の春」の一節です。同欄では昨年の11月にも「山の春」からの引用がありました。ありがたし。

「山の春」は、数ある光太郎エッセイの中でも珠玉の一篇で、平成25年(2013)には、中学校3年生対象の「全国学力・学習状況調査」で問題文に使われたり、一昨年リリースされた声優の能登麻美子さんの朗読CDで取り上げられたり、昨年はNHKラジオの「石丸謙二郎の山カフェ」で朗読されたりしています。「青空文庫」さんにも登録がありますので、ぜひ全文をお読み下さい。

ちなみに当方自宅兼事務所の裏山では、既に梅は三~五分咲きといったところです。雪国の皆さんには申し訳なく思います。
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蛇足ながら、「かの発言」は、かの老害失言大王の「女性がたくさん入っている理事会は……」云々ですね。かの読売さんでもかばいきれないということでしょう。後から弾丸(たま)が飛んできている感たっぷりですね(笑)。

それでも「夏季五輪のすぐあとに冬季五輪を観戦できるなら、うれしい話ではないか」あたりには、「コロナに打ち勝った証に……」と言っている政権への忖度ありありですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

黒沢尻の郡司氏来訪。先日「ニュース」誌の記者と来て写真をとりし人。岩手地方の仏像の写真撮影をしたものを五六枚持参して見せらる。写真中々おもしろくとれたり。成島の毘沙門堂の諸仏、毘沙門天の足下の地神と称するもの、浄法寺村の天台寺の諸仏、立花村の毘沙門の二天像など。皆優秀な作なり。

昭和21年5月14日の日記より 光太郎64歳

成島の毘沙門堂の諸仏」、「浄法寺村の天台寺の諸仏」、「立花村の毘沙門の二天像」、それぞれ現存しているようです。

智恵子の故郷、福島二本松に聳える安達太良山の、あだたら高原スキー場から出されたプレスリリースです

「あだたら高原スキー場」12月26日(土)営業開始!「雪だるまカレー」や「ADTR(あだたら)丼」など、“ゲレンデ飯”が充実!

 富士急安達太良観光株式会社では、「あだたら高原スキー場」(福島県二本松市)の今シーズンの営業を、2020年12月26日(土)より開始いたします。

 あだたら高原スキー場は、最大傾斜28度の緩急ある「ベガコース」やスキー競技大会で使用される「アンドロメダコース」をはじめ、バリエーション豊かな7種類のコースがあり、ファミリーから上級者までお楽しみいただけます。また、ゲレンデには広々とした雪遊び広場や、ソリ遊びやチュービングが楽しめるキッズパークがあり、小さなお子さまでも安心して遊ぶことができます。そして、スキー・スノーボードを楽しんだ後は、安達太良山麓に広がるさわやかな高原の日帰り温泉施設「あだたら山 奥岳の湯」で、疲れた身体を癒すこともできます。

 本年は食事タイムもお楽しみいただけるよう、新たに4種類のメニューを販売いたします。がっつり食べたい方には、唐揚げやとんかつ、ハンバーグ、コロッケが豪華に盛られた総重量1kg超えの「ADTR(あだたら)丼(A:ありえないほど、D:でかい、T:とんでもない、R:量の丼)」や「ロコモコ丼」の他、お子さまにも満足していただけるよう、自分でデコレーションし世界に一つだけの雪だるまが作れる「雪だるまカレー」や、冷えた体を温める「マシュマロココア」などが登場いたします。

 さらに、お得にスキーやスノーボードをお楽しみいただけるよう、マイカーでお越しの方向けに、高速道路のETC利用料金が割引になる「ドラ割ウィンターパス2021」も実施いたします。

 また、年末年始には年越しそばを振る舞う他、リフト1日券が割引になる特別券のプレゼントや宝探し大会といったお楽しみイベントを開催いたします。さらに、毎週木曜日はレディースデー、毎週金曜日はシニアデー、毎月第3日曜日をスキー子供の日として、リフト1日券が割引になる感謝デーを設定しています。

 あだたら高原スキー場では、ご来場いただく全てのお客様に安心してお楽しみいただけるよう、感染症対策を徹底しております。この冬は、阿武隈の山々を見渡す抜群のロケーションと美しい樹林に囲まれた「あだたら高原スキー場」で、ウィンタースポーツをお楽しみください。
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今シーズンのトピックス
■小さなお子さまでも安心して楽しめるスキー場
(1)雪遊び広場
 長さ100m・幅30mの広々とした雪遊び広場は、雪山に登ったり、雪だるまを作ったり、気軽に雪あそびを楽しんでいただける無料のゲレンデです。一般ゲレンデから独立しているため、小さなお子さまでも安心して遊んでいただけます。
(2)キッズパーク
 スノーエスカレーターが設置されたキッズパークには、長さ50mのソリすべりコースと長さ50mのチュービングコースがあり、スノーアクティビティを楽しむことができます。
(3)スキーこどもの日
 1月、2月の第3日曜日を「スキーこどもの日」として設け、小学生以下のお子さまのリフト1日券が2,300円から1,000円になる他、雪の中に埋まった宝を探して賞品をゲットする宝探し大会も開催いたします。

■ゲレンデ飯で、お腹いっぱいに!
 ゲレンデで思いっきり遊んだ後は、富士急レストハウスであったかグルメをお楽しみください。今シーズンは、新メニューが4種類追加。唐揚げやとんかつ、ハンバーグ、コロッケが豪華にトッピングされた総重量1kg超えの「ADTR(あだたら)丼(A:ありえないほど、D:でかい、T:とんでもない、R:量の丼)」や「ロコモコ丼」の他、お子さま向けに、ライスの上に自分でトッピングをデコレーションし世界に一つだけの雪だるまが作れる「雪だるまカレー」、冷えた体を温める「マシュマロココア」を販売いたします。

■お得に楽しめる交通商品
「ドラ割ウィンターパス2021」
 首都圏、新潟、仙台エリアを対象に、スキー場までの高速道路をETCでご利用いただくと、利用料金が割引になる商品です。さらに、リフト1日券も割引になる優待特典も付いています。
<ご利用例>
東北自動車道 川口JCTからご利用の場合(普通車
東北自動車道 川口JCT ⇒ 東北自動車道 二本松IC ⇒ 東北自動車道 川口JCT
通常料金:10,030円 ⇒ ドラ割料金:8,700円
※通常料金より、1,330円お得。
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■年末年始イベント
 あだたら高原スキー場では、年末年始にかけて様々なイベントを実施いたします。
(1)年越しそばの振る舞い
 年明けに向けて、年越しそばを振る舞います。
 開催日:12月31日(木)
 時間:15:00~16:00
 参加方法:リフト1日券を定価でご購入いただいたお客様 ※先着200名
(2)お年玉プレゼント
 1日券が1,000円引きになる特別割引券をプレゼントいたします。
 開催日:1月1日(金祝)~3日(日)
 参加方法:リフト1日券を定価でご購入いただいたお客様
(3)宝探し大会
 雪の中を掘り起こして、素敵な賞品をゲット。
 開催日:1月1日(金祝)~3日(日)
 時間:13:30~
 参加料:無料
 対象:小学生以下のお子さま

2020-2021シーズンの営業概要
1.営業期間
 2020年12月26日(土)~ 2021年3月14日(日)※予定
2.定休日
 1/6(水)、12(火)、13(水)、2/24(水)、25(木)、3/2(火)、3(水)、9(火)、10(水)
3.営業時間
 平日9:00~16:00
 土日祝 8:30~16:30(12/30~1/4は土日祝で営業)
 ※詳細はHPをご確認ください。http://www.adatara-resort.com/ski/
4.料  金
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 ※大人は高校生以上、小人は3歳~小学生、シニアは50歳以上(要証明)が対象になります。
5.ゲレンデ
 ■コース数 7本
 A.アンドロメダ(中級)700m   斜度/最大 23°、平均 14°
 B.ヘラクレス(中級)700m    斜度/最大 23°、平均 17°
 C.シリウス(初~中級)700m   斜度/最大 28°、平均 18°
 D.ベガ(上級)700m       斜度/最大 28°、平均 20°
 E.アルタイル(初~上級)600m  斜度/最大 28°、平均 18°
 F.ジェミニ(初~中級)800m   斜度/最大 20°、平均 15°
 G.ペガサス(初級)450m     斜度/最大 18°、平均 13°
 ■リフト数 4基
 1.オレンジライン   クワッドリフト(4人乗り)/510m
 2.ブルーライン    ペアリフト/350m
 3.バイオレットライン ペアリフト/450m
 4.ゴールドライン   ペアリフト/760m
6.お問い合わせ
 福島県二本松市奥岳温泉 TEL:0243-24-2141
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​・感染症予防対策の取り組みについて
 「あだたら高原スキー場」では、「三密対策」と「お客様・スタッフの健康管理」の2つを軸に感染症予防対策を徹底しております。施設全体としては消毒液の設置や屋内施設の換気、リフト乗車時は間隔をあけてお並びいただき、グローブの着用を必須とさせていただきます。レストランでは飛沫感染防止用パネルの設置に加え、キャッシュレス決済を推奨といたします。
 また、全ての従業員は出退勤時に体温や健康状態のチェックを行い、37.5℃以上の発熱や体調不良が見受けられた場合出勤いたしません。また、全ての従業員は必ずマスクを着用し、施設に応じてフェイスシールドや使い捨てゴム手袋を着用させていただきます。

・大好評、絶景の露天風呂「あだたら山 奥岳の湯」も営業中!
 標高約950mに位置する「あだたら山 奥岳の湯」は、遮るもののない眺望が自慢の露天風呂で、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と詠ったことで知られる「ほんとの空」を全身で楽しんでいただくことができます。また、内湯は「源泉かけ流し」で、泉質は全国的にも珍しいph2.5の酸性泉で、筋肉痛や神経痛、疲労回復、また皮膚病への効能や美肌効果もあると言われております。
【施設概要】
・所在地:福島県二本松市奥岳温泉
・営業日:年中無休※メンテナンス休業あり
・営業時間:10時00分~18時00分
・施設内容:収容可能人数80人(男女各40人)
      内湯(9㎡)、露天風呂(20㎡) ※男女別
・利用料金:大人650円/小人(4才~小学生)450円
・pH値:2.5(強酸性)
・泉質:単純酸性温泉
・適応症:神経痛・筋肉痛・関節痛・運動麻痺・慢性消化器病・冷え性・疲労回復健康増進
     慢性皮膚病
・アクセス
 車 /東京から東北自動車二本松IC(約150分)
    国道459号岳温泉経由・県道386号(約20分)
 鉄道/東京駅→郡山駅(東北新幹線約90分)
    郡山駅→二本松駅(東北本線約25分)
    二本松駅→岳温泉(福島交通バス約25分)
    岳温泉からタクシー約10分
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コロナ禍の中、「ぜひ足をお運び下さい」と、積極的にお薦めはしにくいところですが……。

【折々のことば・光太郎】

午后、佐藤昌先生宅をいでて、佐藤隆房先生宅に移転す。離れの二階二間なり。

昭和20年(1945)9月10日の日記より 光太郎63歳

8月10日の花巻空襲で、疎開先の宮沢家を焼け出され、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌宅に1ヶ月厄介になっていましたが、さらにそこから花巻病院長・佐藤隆房宅に移った記述です。

佐藤家では離れの二階を借り、すぐ近くを流れる豊沢川のせせらぎからの連想で、ここを「潺湲(せんかん)楼」と名付けました。ここでも約1ヶ月を過ごし、その後、郊外太田村に移ることになります。
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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の建つ十和田湖でのイベントです。

状況をわかりやすくするため、地方紙「東奥日報」さんの報道から

霊場を空中散歩、岩登りも/十和田湖「自籠岩」へガイドツアー/東京の企業が実証実験、11月8日まで

 十和田湖の中山半島にある霊場の一つで、昔修験者がこもったと伝わる自籠岩(じごもりいわ)へのガイドツアーの実証実験が24日から現地で始まる。ワイヤと滑車を使った滑空や岩場を登るクライミングを組み合わせた企画。森林を活用した自然共生型アウトドアパークを運営する企業「パシフィックネットワーク」(東京)が主催し、環境省が協力。11月8日まで実施する。23日に報道機関向け内覧会を行った。
 同社はアウトドアパーク「フォレストアドベンチャー」を国内34カ所で運営している。東北での活動は初の試み。十和田八幡平国立公園管理事務所が「国立公園満喫プロジェクト」の「十和田八幡平国立公園ステップアッププログラム2020」の取り組みとして協力する。十和田信仰に触れる場所として自籠岩の散策路活用の可能性を模索する。
 ツアーは乙女の像を出発点に、1時間半~2時間で巡る。コース上に長さ10~60メートルのワイヤを張り、滑車で移動する5カ所のポイントを設置した。十和田湖伝説の南祖坊(なんそぼう)が修行したとされる自籠岩は、湖面からの高さが40メートル以上。登り口から20メートル以上をはしごやワイヤロープを使って登頂する。山頂からは休屋地区の桟橋が望め、湖面など雄大な景色が楽しめる。
 ツアーは毎日3回(午前10時、正午、午後2時)行う。1回の参加は最大7人まで。身長140センチ以上、小学4年生以上、体重100キロ以下で18歳未満は保護者同伴が条件となる。参加費は1人3千円。申し込みは予約優先で、ツアー専用アドレス(https://www.facebook.com/viaferrata.towadako)か同社(電話080-7357-5259)へ。
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コミュニティFM局「鹿角きりたんぽFM」さんでも報じています

空中散歩ツアー」を実証実験 十和田湖

 秋田と青森にまたがる十和田湖で、ロープにつり下がって滑走する遊びなどを楽しむツアーが企画され、そのコースが報道陣に公開されました。
 これは、十和田湖を世界級の国立公園にするための国の取り組みの一つで、休屋地区にある登山道を観光で使う道を探ろうと、実証実験のガイドツアーが企画されました。
 この登山道は人気スポット「乙女の像」から、十和田湖伝説に登場する修行僧がこもったといわれる「自籠岩(じごもりいわ)」までのおよそ500メートルで、地元の人によりますと現在通る人はいませんが、そのストーリー性やロケーションが着目されました。
 今回のガイドツアーではその登山道に、ロープにつり下がって滑走する場所や、自籠岩を登るクライミングのコースが設けられました。
 その開始を前に23日、ツアーで使うコースが報道陣に公開されました。
 ロープにつり下がって滑走する場所は5か所あり、湖の10メートルほど上を渡る場所や、70メートルほどの距離を一気に滑走する所などがあり、スピード感とスリルが楽しめます。
 またクライミングのコースは、初心者でも昇り降りできるようにはしごなどが設けられていて、冒険気分を味わいながら登った、高さおよそ40メートルの岩の頂点では、湖や紅葉の森の絶景が広がっています。
 全国で冒険の森の施設を展開し、今回のガイドツアーを受託した会社「パシフィックネットワーク」の伊藤智幸ディレクター(52)は、「紅葉の中の滑走や、岩のてっぺんからの絶景を多くの人に楽しんでほしい」と話しています。
 環境省は今回の実証実験の結果を基に、実現性について探ることにしています。
 このツアー「十和田湖自籠岩・空中散歩ツアー」は24日から来月8日まで、毎日3回行われ、小学4年生以上の人が、1回3千円で参加できます。

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というわけで、ツアーの概要

⼗和⽥湖⾃籠岩・空中散歩(ヴィアフェラータ)ツアー

⼗和⽥湖の霊場の⼀つで、昔修験者が籠もったことからその名がついたと⾔われる「⾃籠岩(じごもりいわ)」へのガイドツアーです。岩までのアプローチはチロリアントラバース(※1)で空中を滑空し、岩にはヴィアフェラータ(※2)の⼿法を⽤いて登っていただきます。⾃籠岩の頂上から⼗和⽥湖を眺める景⾊をぜひお楽しみください。
(※1)チロリアントラバースとは、ジップラインとも呼ばれる滑⾞を使った空中滑空の⼀種です。
(※2)ヴィアフェラータとは、ワイヤーロープやはしご、⾜場など⼈⼯的な設備を設置することで経験の少ない登⼭者でも岩場や崖の上のルートを安全に登頂できる登⼭コースです。

○営業案内
 1. 営業期間︓2020 年 10 ⽉ 24 ⽇(⼟)から 11 ⽉ 8 ⽇(⽇)まで
 2. 催⾏回数︓毎⽇3回(10:00、12:00、14:00)
 3. 催⾏⼈数︓1 回あたり最⼤ 7 名まで(1 名から催⾏します)
 4. 利⽤条件︓⾝⻑ 140cm かつ⼩学 4 年⽣以上、体重 100kg まで
       18 歳未満は要保護者同伴
 5. 参加料⾦︓3,000 円/名
 6. 参加⽅法︓WEB もしくはお電話にてお申し込みください ※予約優先制
        https://www.facebook.com/viaferrata.towadako
        TEL︓080-7357-5259(10 ⽉ 12 ⽇〜11 ⽉ 8 ⽇のみ繋がります)
 7. ツアー詳細
 ・不整地の遊歩道を歩くハイキングと岩場に登るクライミングが融合したツアーです。
 ・ツアー⾏程は 1 時間 30 分〜2 時間程度となります。
 ・運動のできる服装と、⾜が完全に覆われた靴でお越しください。
 ・軍⼿等の⼿袋が必要となります。(現地受付で販売あり)
 ・⾬天は⾜元が滑りやすくなるため、ツアーの催⾏が⾒合わせとなる場合があります。
 ※感染症対策のため、マスクを着⽤していただきますので、ご持参ください。

本ツアーは、環境省が推進している「国⽴公園満喫プロジェクト」の中の、「⼗和⽥⼋幡平国⽴公園ステップアッププログラム 2020」において、⼄⼥の像から⼗和⽥信仰の重要な位置を占める⾃籠岩へと繋がる⾃籠岩歩道の活⽤を模索するための期間限定の実証実験として催⾏されます。

参加される⽅は、参加時に参加誓約書に署名いただくとともに、終了後アンケートへのご協⼒もお願いします。
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なかなか気分がよさそうですし、スリルもありそうです。アクティブであることを自認される140㌢以上100㌔㌘以下の方(笑)、ぜひどうぞ。

ちなみに例年2月に行われている「十和田湖冬物語」。今シーズンはコロナ禍のため、形態を変えて来月中旬から開催されるそうです。また近くなりましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

人を感動せしむるものは説にあらず。その節の由来にあり、人に在り。

散文「ある日の日記」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

昨日幕を開けた国会でのかみ合わない論戦(もどき)を見ていても、つくづくそう思いますね。

 新型コロナ禍の影響が続く中、外出自粛の要請のため、運動不足に陥っている方も多いのでは、と思われます。当方は、元々在宅ワークが多く、さらに自宅兼事務所周辺は田舎ですので人混みもなく、愛犬の散歩をこれまで通りに朝夕1時間弱くらいずつ行っており、それほどライフスタイルに変化もありませんが。

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そんな中、智恵子の故郷・二本松市さんのサイトに、先週、以下の案内が出ました。 

手軽にできる体操をご紹介します 筋力低下予防やこころのリフレッシュを行いましょう

新型コロナウイルス感染防止による不要不急の外出を避けることで、運動不足やストレスの蓄積が心配されます。そこで、動画を見ながら行える体操をご紹介します。からだを動かすことで、上手に気分転換を行いましょう。

ほんとの空体操
「二本松市民の歌」に合わせた健康体操です。主にストレッチ要素のほか肩甲骨まわりを動かし、肩こりの予防や姿勢全体を整えるのに効果があります。





いきいき百歳体操
介護予防を目的とした筋力アップ体操です。主に高齢者向けに開発されましたが、重りをつけることで若い方の筋力アップの効果も期待できます。




「いきいき百歳体操」は、高知発祥だそうですが、厚労省の後押しで、全国に広まっているようです。

光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を冠した「ほんとの空体操」の方は、二本松市オリジナル。作られたのは平成27年(2015)。翌年には『広報にほんまつ』に図解入りで紹介され、市役所職員の皆さんは朝礼で実施、などと報道されました(今でもこの風習は続いているのでしょうか?)

それがここに来て、予期せぬ新型コロナによる外出自粛要請にともない、市のサイトであらためて紹介されたというわけですね。

実際に動画を見ながらやってみましたが、「体操」というよりはストレッチに近いのかな、という感じです。元々が「健康な高齢者を対象に」ということでしたので、過酷な動きは取り入れられていないようです。デスクワーク等で長時間同じ姿勢をとり続けた後などにいいかな、という気はしました。最後の決めのポーズで「ほんとの空」を仰ぐのが肝のようです(笑)。

「いきいき百歳体操」の方が、「百歳」といいながら、きつい動きが入っています(笑)。まぁ、「百歳をめざすために」ということなのでしょうが。

というわけで、運動不足を感じられている皆様、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

願はくは、故国の山水、とこしなへに清からむことを。

雑纂「高村豊周『赤城山旅行記』あとがき」より
 明治39年(1906) 光太郎24歳

『赤城山旅行記』は、光太郎実弟にして、のちに家督相続を放棄した光太郎に代わって高村家を嗣いだ豊周が、十日余りの日程で赤城山を訪れた際の紀行文です。のちに鋳金分野の人間国宝となる豊周は当時数え17歳。原稿用紙40枚に旅行記をしたため、ニューヨーク在の光太郎に送り、光太郎が朱を入れ、このあとがきを添えて日本に返送しました。

「とこしなへ」は「永遠」。赤城山は留学前に光太郎もたびたび遊んだ山で、遠い異国にあって、なつかしい故国の山水を偲ぶ心境が垣間見えます。

智恵子にとってのソウルマウンテンは、「ほんとの空」の広がる安達太良山。光太郎にとっては赤城山だったのでしょう。

気づくのが遅れ、もう先々週の号ですが、『週刊文春』さんの3月12日号。ノンフィクションライター・中村計氏による「「金足農業、燃ゆ」 甲子園秘話」という記事が、5ページにわたって掲載されています。

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リード文より。

公立、過疎地、雪国……不利な条件満載でも、彼らは「普段はパッパラパーだけど、野球だけは本気だった」(女子マネ)。「奇跡のナイン」に惚れ込み、追いかけ続けた中村計氏による『金足農業、燃ゆ』が発売。春のセンバツ高校野球が中止になった今こそ読みたい、カナノウの「その後」の物語。

金足農業さんといえば、現在、北海道日003本ハムファイターズの吉田輝星投手を擁して一昨年夏の甲子園で準優勝を果たし、「カナノウフィーバー」を巻き起こしました。ただ、「なぜ今?」感があったのですが、中村氏が記事のタイトルと同じ『金足農業、燃ゆ』という書籍を文藝春秋さんから刊行されたので、そのためでした。

私立の強豪校とは異なり、潤沢な資金もなく、いわゆる野球留学の選手は皆無、「雪国」というハンデもある。そんなチームが全国準優勝に輝いた裏には、選手たちや監督の型破りな、しかし、裏をかえせば既成概念にしばられず、自分たちでよく考えて、真摯に、それでいて楽しみながら実践する姿勢があったのだなというのが、記事を読んでよくわかりました。

そして末尾の一節が、こちら。

高村光太郎風に言えば、金足農業の前に道はなく、金足農業の後ろに道ができた。だが、彼らがつくった道をたどる者は、おそらくもう現れない。

たしかに光太郎が現代に生きて一昨年の夏の甲子園を観ていたら、金農さんを応援したような気がします。造型でも文芸でも、既成概念にしばられず、自分でよく考えて、真摯に、それでいて楽しみながら実践したのが光太郎ですので。

だが、彼らがつくった道をたどる者は、おそらくもう現れない。」は、高野連による投手の球数制限ガイドラインが出されたことを背景にしています。吉田投手、最後の一週間で、4試合、570球も投げたそうで、もはやそれはありえなくなるということです。

しかし、それはそれとして、強烈な個性を持った型破りなチームが活躍できる土壌は、たしかに作られつつあるような気はします。また、そうでなければいけないような気がします。


【折々のことば・光太郎】

言葉といふ不思議な生きものの先の知れない深い生活はあらゆる方面から迫り、拓いてゆく可きものと思ひます。

アンケート「言葉の深い生活――口語歌観――」より
大正12年(1923) 光太郎41歳

上記金足農業さんの記事にも引用された詩「道程」(大正3年=1914)を含む詩集『道程』(同)で、我が国に口語自由詩を確立させた光太郎ならではの言です。余技としながらも、光太郎は短歌の方面でも、口語や俗語を巧みに取り入れた革新的な吟詠を行っていました。

新型コロナウイルスの影響で、各種イベント等の中止、延期が相次ぐ中、日本高野連さんでは、今月19日からの予定の第九十二回選抜高校野球大会を、無観客で実施する方向で準備に入ったそうです。

3/12 追記 しかしながら、今年の大会は中止という決定になりました。

さらに追記 夏の甲子園大会中止に伴い、センバツ大会代替の甲子園交流試合開催が決定しました。磐城高校さんは8月15日(土)、対国士舘高校さん戦が組まれています。


今年のセンバツには、21世紀枠で、福島県立磐城高校さんが選ばれています。当会の祖・草野心平の母校である旧制磐城中学校の後身です。そこで、先月、同校の出場決定が報じられた際には、心平がらみの記事等がいろいろ出ました。 

1月25日(土)、『福島民報』さん。 

【磐城センバツ決定】さらば行けそして勝て

 磐城高の第九十二回選抜高校野球大会出場が二十四日、決まった。二十一世紀枠で選ばれた。一九七四(昭和四十九)年の第四十六回大会以来四十六年ぶりで、春夏合わせれば十度目、一九九五(平成七)年夏以来二十五年ぶりに甲子園の土を踏む。

 東日本大震災の被災地いわきは、昨年十月の台風19号と二週間後の大雨でも被害を受けた。復興に向けて立ち上がる市民の希望の光となるように、甲子園での磐城ナインの活躍を願う。

 二十一世紀枠で福島県の高校が選ばれたのは、二〇〇一年の安積、二〇一三年のいわき海星に次いで三校目だ。学業と部活動の両立、自然災害による困難な環境の克服、活動の地域に与える好影響などの多くの面で高く評価された。

 選出の参考となる秋季東北地区高校野球大会は、台風19号の北上と重なった。十月十一日の初戦に勝った磐城は、日程変更で会場の岩手県から一度いわきに戻り、惨状を目の当たりにした。出場継続を決めた選手は結束する。「いわきに元気を届けよう」。十四日の二回戦に勝利し、ベスト8の成績を残した。
 古里は台風の爪痕が深く残っていた。大会を控えたサッカー部とラグビー部は浸水でグラウンドが使えない。野球場を整備して提供し、ナインは被災した家屋で後片付けなどのボランティアに励んだ。懸命の活動は住民に元気をもたらした。逆に、住民から激励の言葉を掛けられるときもあった。選手は人のつながりや支え合いの大切さを実感しただろう。

 野球部は昨春から月二回程度、学校近くの平一小を訪問し、学童保育の児童と交流している。地域貢献や野球の普及促進を目指して始めた。野球に加え、鬼ごっこなどの遊びを取り入れ、スポーツの楽しさを伝えた。時には勉強も教える。コミュニケーション能力が向上し、選手の精神面の成長にもつながった。

 四半世紀ぶりの甲子園に地元の期待は高まっている。選手は「チーム全員の技術を高め、大舞台で戦いたい」と力を込める。気負うことなく、培ってきた全てを、自信を持って発揮してほしい。

 磐城は、一九七一年夏の全国大会で準優勝という輝かしい実績を持つ。当時、卒業生で詩人の草野心平はスタンドで応援し、全国の強豪に立ち向かう後輩に激励の詩を贈った。小柄な選手が冷静、果敢に、臆せずプレーする姿をたたえ、最後に結んだ。「さらば行け そして勝てよ」。センバツに挑むナインに、同じ言葉を贈る。(鈴木 俊哉)

引用されている詩、全文は以下の通りです。
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    さらば行け、そして勝て

 四十四、五年前に    私も歌った校歌は
 古い明治調
 進学率は高いけれど   背たけはおそらく一番低い
 ちっぽけな連中が     しかし豪胆で微密で冷静で
 果敢で驕らず悪びれず  あわてず、臆せず
 その青春のバネは強く激しい
 類のない不思議なチームよ
 さらば行け  そして勝てよ


ちなみに心平、ゆかりの川内村で現在も続く「盆野球」(東日本大震災直後には、村民の多くが避難していた郡山で開催されました)では、始球式を務めるのが恒例でした。


同じ『福島民報』さん、同日の一面コラムでも。

あぶくま抄 磐城高センバツ出場

 磐城高野球部の父と慕われた阿部政(まさ)右衛門(えもん)の顕彰碑が、いわき市の上荒川公園の丘に立つ。肖像は平野球場を優しく見守る。詩人草野心平揮毫(きごう)の「暖かく強く正しく その生涯を一途(いちず)に生きぬいた人」の文字も刻まれる。

 一九〇六(明治三十九)年の創部時の部員で、卒業後は石炭販売業を営み、物心両面で母校を支えた。甲子園を目前に、勝てない時期を重ねた。球児が実戦練習できるように、平野球場の建設を当時の平市に訴え、一九六〇(昭和三十五)年に実現させた。三十八年前、九十三歳で亡くなる。

 一九七一年四月、常磐で最大の炭鉱が閉山し、暗い空気が漂った。その年の八月、磐城高は春夏通算五度目の甲子園出場を果たす。初戦で優勝候補の日大一高(東京)を下すと快進撃し、準優勝した。県民に勇気を与えた試合は語り継がれる。後輩がセンバツ出場を決めた。

 震災と原発事故、昨年の台風19号と大雨被害…。幾多の苦難を乗り越えて二十一世紀枠で選ばれ、チームは四半世紀ぶりに夢舞台に立つ。「IWAKI」を海の青色であしらったユニホームには、白球を追い続けた多くの先輩の思いが詰まる。憧れの地で、選手を後押しする。



心平の名はありませんが、同日の『福島民友』さん。

編集日記

 野球漫画の金字塔「ドカベン」には、1971年の磐城高をモデルにしているであろう「いわき東高」が登場する。夏の甲子園の決勝で主人公山田太郎を擁する明訓高と対戦する
 ▼神奈川県と福島県の代表が決勝で戦うのは71年と同じ組み合わせ。小柄な主戦が準決勝まで無失点で勝ち上がるのは田村隆寿投手がモデルとみられる。地元の炭鉱が閉山となり、いわき東ナインは大会が終われば離れ離れになる設定だった
 ▼磐城ナインが当時の高校野球ファンにどれほど鮮烈な印象を与えたのかが分かる。試合は1点差を追ういわき東が最終回、同点を狙ってタッチアップを試みるも本塁上でアウトとなり、試合終了。磐城同様、あと一歩のところで優勝を逃す
 ▼磐城が春の選抜高校野球大会(センバツ)に21世紀枠で出場することが決まった。昨秋の東北大会の8強入りに加えて、台風19号などで被害を受けた地元でのボランティア活動も評価された。苦境にある古里を元気づけようと奮闘する姿はいわき東とだぶって見える
 ▼71年の快進撃からほぼ半世紀。甲子園も95年の夏以来、25年ぶりだ。令和初となるセンバツで、新たな磐城のイメージを打ち立てるような胸のすくプレーが見たい。

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「ドカベン」。当方、リアルタイムで読んでいましたが、主人公・山田太郎らが1年生だった夏の甲子園での決勝戦が、当時としては珍しかったフォークを武器とする緒方投手率いる「いわき東高校」戦でした。

準決勝で高知代表・土佐丸高校との死闘を制し、決勝に駒を進めた明訓高校。エース里中は満身創痍。明訓のムードメーカー・岩鬼が初回に先頭打者ホームランを打つも、ベース踏み忘れというボーンヘッドで無効。八回には「ドカベン」史上最速の足を持つ、いわき東・足利の好走塁によって、先制を許します。実にハラハラさせる展開でした。

しかしその岩鬼が九回表に逆転の場外2ランホームラン。そして迎えた九回裏一死三塁。いわき東の五番・平山の、スタンドに入ろうかという三塁後方ファールフライを、「タッチアップされるから捕るな」という声を無視して岩鬼が無理な体勢でキャッチ。三塁ランナー緒方は当然のようにタッチアップ。岩鬼の本塁への送球は剛速球ながら、捕球の難しいハーフバウンド。キャッチャー山田は「下がって捕れば確実だがタイミング的にセーフ」「前に出れば落球の可能性」という二者択一に、強気に前へ出て、結果、見事にタッチアウト!  併殺となり、ゲームセット!! 何とも劇的な幕切れでした。野球のルール等をよく知らない方には、「何のことやら?」でしょうが(笑)。

この試合のモデルになったのが、昭和46年(1971)夏の甲子園決勝。磐城高校さんは、神奈川代表の桐蔭学園さんに0-1で敗れたそうで、そしてその試合を心平はスタンドで観戦していたというわけです。

ちなみに光太郎も野球は意外と好きだったようで、最晩年には終焉の地となった中野の貸しアトリエで、長嶋茂雄さんらが出場していた東京六大学野球のラジオ中継を聴いたりしていました。

さて、センバツ高校野球。まだ中止となる可能性はありますが、開催できることとなたっら、東日本大震災被災地の皆さんを勇気づけるという意味でも、磐城高校さんの活躍に期待したいものです。


【折々のことば・光太郎】

智恵子の葬式の日は十五夜だった。一二年たったその日の夜、アトリエでビールをのんでいた。コップを二つおいて、一つは智恵子の分という気持で、フト気がつくとコップが空になっている。あれがのんだんだなとおもったのだ。

談話筆記「炉辺にて」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳


「いやいや、光太郎先生、それはあなたが飲んだんですよ」と突っ込みたくなりますが(笑)。

福島出身の智恵子も、雲の上から磐城高校さんの活躍を見守っているような気もします。


第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

昨日、東京オリンピック聖火リレーの詳しいルートが発表されました。来年3月26日(木)から、121日間をかけて日本全国47都道府県を巡るそうですが、光太郎ゆかりの地もコースに入っていました。

特に、青森県。6月12日(金)に、十和田湖畔を聖火が走ります。

6月12日(金)
▽むつ市:むつ市イベント広場→下北文化会館(むつ市では、田名部川において、二人乗りボートによる聖火リレーを実施予定)
▽十和田市:市民交流プラザ→現代美術館アート広場
▽三沢市:三沢市立岡三沢小学校→三沢市役所
▽おいらせ町:青森県立百石高等学校→おいらせ町立木内々小学校
▽階上町:小舟渡漁港→はしかみハマの駅あるでぃ~ば
▽十和田市:十和田湖観光交流センター→乙女の像
▽八戸市:蕪嶋神社→館鼻漁港

RAB青森放送さんのローカルニュースから。 

聖火リレー 県内ルート発表(青森県)

東京オリンピックの聖火リレーで県内の詳しいルートが発表されました。県内では14市町村の15区間であわせて36.9キロを聖火ランナーが走ります。聖火リレーのルートは東京オリンピックの大会組織委員会が発表しました。県内では14市町村の15区間であわせて36.9キロを聖火ランナーが走ります。
来年6月11日に県内で最初にスタートするのは弘前市の弘前公園本丸です。

弘前駅に向かう聖火はドコモ弘前駅前店までをリレーします。
続く西目屋村は岩木川目屋渓谷清流公園を出発します。
道の駅「津軽白神」までの2キロで途中、岩木川をカヌーでわたります。
平川市では文化センターから陸上競技場まで2.5キロです。
黒石市ではスポカルイン黒石から御幸公園まで1.6キロ。
つがる市は生涯学習交流センター「松の館」から向陽小学校まで2.1キロとなっています。
五所川原市は立佞武多の館から菊ヶ丘運動公園まで2キロです。
今別町の2・8キロは町役場から青函トンネル入口広場となっています。
11日の最後は青森市の2.5キロです。市役所本庁舎を出発し、到着地の青い海公園では聖火の到着を祝う催しもあります。
翌日12日の最初はむつ市イベント広場を出発し、下北文化会館までの3キロで田名部川を2人乗りのボートでわたります。
続く十和田市は市民交流プラザから現代美術館アート広場まで2.7キロです。
次の三沢市は岡三沢小学校から市役所まで2.9キロとなっています。
続くおいらせ町は2.5キロで百石高校から木内々小学校までです。
次の階上町は小舟渡漁港からはしかみハマの駅「あるでぃ~ば」まで3.5キロです。
聖火ランナーは十和田湖にも向かいます。観光交流センターから乙女の像まで0.9キロを走ります。
最後は八戸市の3.4キロです。蕪嶋(かぶしま)神社を出発します。到着地の館鼻漁港では聖火の到着を祝う催しもあります。

★県実行委員会会長 青山 祐治 副知事
「本県の魅力を国内外に最大限発信できるよう関係者一丸となって来年の聖火リレー本番に向けてしっかり準備していきたい」

聖火は全国858市町村を巡り来年7月24日の開会式で国立競技場の聖火台に灯されます。

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聖火リレー、てっきりすべての区間を人が走って繋ぐものだと思い込んでいましたが、そうではなく、人が走るのは要所要所のみで、あとは車で移動するそうです。

で、十和田湖畔の0.9㌔㍍。出発が十和田湖観光交流センターぷらっと。遊覧船の桟橋近くに平成26年(2014)にオープンした市の施設で、特産のヒメマスや、光太郎、大町桂月などについての展示が為されています(入場無料)。また、昨年には新たに「乙女の像」制作の際に光太郎が使用した彫刻用の回転台、青森ご出身の彫刻家・田村進氏(生前の光太郎をご存じです)制作の光太郎胸像が寄贈されました。手前味噌で恐縮ですが、内部の光太郎に関する説明パネルは当方の執筆です。

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そしてゴールが、光太郎最後の大作「乙女の像」。0.9㌔㍍だそうですが、これは見に行かざあなるめい、と思っております(笑)。


その他、聖火は岩手県花巻市、宮城県女川町などの光太郎ゆかりの地も巡ります。残念ながら智恵子の故郷・福島二本松はスルー。ただ、福島県内では、当会の祖・草野心平ゆかりの川内村やいわき市などを通ります。

また、余談ですが、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市も。ただし、こちらは「ランナー」ではなく、旧市街を流れる観光名所の小野川を、昔ながらのサッパ舟(笹葉舟の転訛)と呼ばれる小舟で移動とのこと。いろいろ考えるものですね。千葉県も残念ながら光太郎智恵子ゆかりの犬吠埼九十九里真亀海岸などは通りません。九十九里浜は南北に異様に長く、もう少し南の方は通るようですが。

いろいろ言われている東京オリンピックですが、盛り上がってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

詩人は常に処世法を持たない。処世法は人世のぼかしである。人はこれを性来忌み嫌ひながらこの世に生きるためやむなくこれに馴致させられる。性来嫌ひだといふ事すら忘れ果てる。真の詩人は万人に代つてこれを捨てた人間の見本を生活する。人はこれを見て魂の故郷を感ずる。

散文「長沼重隆著『ホヰツトマン雑考』」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

「処世法」、たしかに嫌な言葉ですね。

雑誌の新刊です。 

月刊ノジュール 2019年8月号

2019年7月31日 JTBパブリッシング発行 定価 815円+税

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目次

 大特集 今年も“楽して”愉しみたい ゆとり登山で百名山
  グラビア 富士十五景
  絶景に会える 富士十五景の 撮影スポット
  “楽ちん百名山”モデルプラン 雲の上の爽快2時間さんぽ
  西穂高岳[岐阜県・長野県] 雲上の北アルプスを満喫
  安達太良山[福島県] 『智恵子抄』の“ほんとの空”へ
  大台ヶ原[三重県・奈良県] 霧に包まれる幻想的な風景が魅力
  もっと楽しみたい百名山5 白馬・八方池/上高地/石鎚山/茶臼岳/筑波山
  山の恵みをこころゆくまで 天上温泉の隠れ宿 裏磐梯高原ホテル/和風旅館華もみじ/
   十勝岳温泉 湯
凌雲閣/穂高荘 山のホテル/上高地ルミエスタホテル/蔦温泉旅館/
   九重星生ホテル
  百名山・月山と羽黒山五重塔へ 出羽三山の信仰と開山伝説 鈴木正崇
 特集 祝「百舌鳥・古市古墳群」登録! 世界遺産の古墳を歩く
  グラビア 小型機に乗って上空から! 美しい古墳10景 仁徳天皇陵古墳/古市古墳群/
  箸墓古墳/
五色塚古墳/造山古墳/柳本古墳群/鶯塚古墳/西都原古墳群/今城塚古墳/
  石舞台古墳
  世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」へ
   百舌鳥編 日本最大・仁徳天皇陵と百舌鳥古墳群を歩く
    コラム ホントはどっち? 仁徳天皇陵古墳か大仙古墳か
   古市編 駅前から続く“古墳銀座”と古市古墳群を巡る
  対談 スソアキコ(ひとり古墳部)誉田亜紀子(土偶女子)女性が古墳にハマるワケ
   We Love古墳
 知れば知るほど深みにハマる 古墳のヒ・ミ・ツ
 他


というわけで、智恵子の故郷・二本松の安達太良山が、「智恵子抄」にからめて紹介されています(8ページ)。

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他にも、光太郎智恵子にはふれられていないものの、上高地、裏磐梯、蔦温泉など、二人のゆかりの地二関する記事も。

昨日の『朝日新聞』さんに、大きく広告が出ています。

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しかし、この雑誌、正規ルートで入手しようとすると定期購読せねばならず(年8,460円だそうで)、公式サイトで調べたところ、バックナンバー購入も定期購読者に限るとのこと。そこで、闇ルートで入手しました(笑)。といっても怪しげなブローカーなどではなく、ネットオークション。便利な世の中になったものです。

今朝の時点でもまだ出品がありますし、公共図書館等で所蔵があるかも知れません。


【折々のことば・光太郎】

美は力なり   短句揮毫  時期不明

今月1日にご紹介した「美しきもの満つ」、昨日ご紹介した「美ならざるなし」同様、これも光太郎が好んでよく揮毫した言葉の一つです。

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昨日は「第54回十和田湖湖水まつり」の模様をお伝えしましたが、同じく十和田湖でのイベントです。

十和田湖ウオーク2019

期 日   : 2019年7月21日(日
会 場 : スタート・ゴール 十和田湖ウォーク特設会場
                               青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋486
時 間 : 1周コース(約50㎞) 集合5:30 開会式5:40 スタート6:00
         ファミリーコース(約12㎞) 集合9:50 開会式10:00
料 金 : 大人3,000円  中高生2,000円  小学生1,500円  小学生未満無料

十和田湖の湖畔1周(約50キロ)を踏破するイベント。湖畔の観光名所・休屋を発着点として起伏の多い約50キロに挑む一周コースと、遊覧船で湖上からの景観を楽しんだ後、子ノ口-休屋の約12キロを歩くファミリーコースを実施する。

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ぐるっと十和田湖を1周する「1周コース」(約50キロメートル)、休屋地区から遊覧船で奥入瀬渓流の入り口である子の口まで行き、そこから休屋地区に戻る約12キロメートルの「ファミリーコース」の2本立てだそうです。

1周、ファミリー両コースとも、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、湖畔休屋地区の特設会場からスタート。ゴール地点も同じ。

これまでもこのイベントは開催されていました(ちなみに昨年は2コースで1,000人以上が参加したそうです)が、光太郎との絡みは無いだろうと思い、紹介せずにいました。しかし今年、フライヤーに「乙女の像」が描かれているのを見て、紹介せねば、と思った次第です(笑)。

ただ、おそらく像のかなり手前にある、冬場に「十和田湖冬物語」会場として使われる広場がスタート/ゴール地点なのでしょう。

参加申し込みは終わっているようですが、こういうイベントもあるんだということで。ことによるとキャンセル等で空きがあるかもしれませんし。

同じく光太郎ゆかりの地・花巻でも、来月「第22回 いわて花巻 イーハトーブの里ツーデーマーチ」が行われます。また近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一般に岩手県といふと地方の中の地方、田舎の中の田舎のやうに都会の人は考へてゐるやうですが、どういたしまして、その岩手県は美の宝庫のやうなところであると小生は考へてゐます。天然自然に於いてもさう。民衆文化の集積に於てもさう。又現にこの県民一般の美に対する感受性と美に於ける創造性とを考へても、さう思はずにゐられません。

雑纂「岩手県立盛岡美術工芸学校開校式祝辞」より
 
昭和23年(1948) 光太郎66歳

県立美術工芸学校は、現・岩手大学教育学部芸術文化課程造形コースさんです。そこで、多分にリップサービスも入っているような気がしますが、かけていた期待の大きさはこういうものでした。

開校当初の校長は森口多里、教授陣には深沢省三・紅子夫妻、舟越保武、堀江赳などがいました。

昨日の『スポーツ報知』さんから。

八村塁、バキバキに割れた携帯の画面でNBAを夢見た高校時代…担任の手記

 NBAドラフトで日本人初の1巡目指名を受けた八村塁(21)が在籍した宮城・明成高で2、3年時に担任を務めた佐藤祐子教諭(47)が、スポーツ報知に手記を寄せ、スター候補の素顔を明かした。八村は、ジャケット裏地の左側に父の故郷である西アフリカ・ベナンをモチーフにした柄、右側には母の故郷・日本の富士山が描かれたものを着用。家族への感謝を胸に夢舞台を迎えた。
 * * * *
 初めて塁と会ったのは入試の時でした。私は試験監督で面接を担当。中学3年生の彼に、「将来の夢は何ですか?」と聞きました。真っすぐな目で、「アメリカに行くことです。アメリカでプロのバスケットボール選手になりたいと考えています」と答えたことを、今でも鮮明に覚えています。2、3年生と担任をしましたが、常に「NBAに行きたい」と。夢がブレることはありませんでした。
 彼の休憩時間は全てNBAの動画。昼食を食べて少し余った時間など、ちょっとの空き時間はバキバキに割れた携帯電話の画面を食い入るように見て、「バスケは最高! 本当に楽しい」と言っていました。ゴンザガ大で最後の試合を終えた時は、「昨日負けて全部終わりました。終わって気づいたのは、僕はこのチームが大好きだったんだなって。今まで人生の中でこれ以上ないくらい泣きました」と連絡が来ました。ある賞を受賞した時に、「おめでとう。忙しいから返信はいらないよ」と送っても、「ありがとうございます! 本当にうれしいです」と。忙しいのにきちんと返信をくれる律義な子です。
 英語の勉強はよく頑張っていました。成績は良かったのですが、話すことはなかなかできなくて。昼食を早く食べて米国人の先生と毎日勉強していました。米国へ行って少したった頃、彼から「先生、初めて英語で夢を見ました!」とメールが。最初は「なかなか話せない」と聞いて心配でしたが、やっと英語が身についてきたと実感したようで、うれしかったんだと思います。
 4人きょうだいの長男で家族思いの一面もあります。家庭科の裁縫の授業では、作ったきんちゃく袋を、「一番下の妹にプレゼントとする!」と張り切って。器用な方ではないから、刺しゅうはクラスの女子生徒に手伝ってもらいながら、大きな手で一生懸命作っていました。妹さんの誕生日が近かったので、手紙を添えて送りました。後日「手紙の字が汚すぎてビックリした!って妹に笑われました」と、うれしそうに報告してくれました。
 県の高校総体翌日の遠足は朝から土砂降りでしたが、フリーサイズなのに上半身までしかないカッパを着て、誰よりも楽しそうにジェットコースターに乗っていました。素直で正直で愛嬌(あいきょう)があって。彼がバスケの活動で休みの日には、クラスメートが「今日は塁がいないんだ。寂しい~」って。みんなの人気者です。
 「常に自分のためとは思わず誰かのため、人のためにプレーをして、子供たちの英雄になってほしい」と話したことがあります。「僕も、そう思い続けたい」と言っていました。米国へ出発する時には、高村光太郎の「道程」という詩と、「一意専心」という四字熟語を贈りました。「僕の後ろに道は出来る」ことを実現できる人であってほしい。あなたがパイオニアになってほしいという思いを込めて。今でも覚えてくれているようです。新しい世界を切り開いていく塁であってほしいと願っています。

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日本人初となる、米プロバスケットリーグNBAドラフト会議での1巡目指名を勝ち取った、八村塁選手。ぜひ大暴れをしてほしいものですし、彼の切りひらいた「道」、彼一人で終わることなく、後に続く人がでてきてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

西洋楽  概してフランス音楽。

アンケート「わが好む演劇と音楽」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

光太郎がその3年半にわたる留学中、パリに滞在していたのは明治41年(1908)から翌年にかけて。

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その頃、フランスで活躍していた作曲家というと、クラシック系では以下のあたりでしょうか。サン・サーンス、フォーレ、ドビュッシー、サティ、ラヴェル……。プーランクらフランス6人組はまだ少年時代でした。

ベルリオーズは既に没していましたが、光太郎、後にその楽曲を題材とした「ラコツチイ・マアチ」(大正10年=1921、原題「ベルリオの一片」)という詩も書いていますし、他の作品でもいろいろ言及しています。フォーレ、ドビュッシー、ラヴェルも光太郎文筆作品にその名が現れますし、サン・サーンスはそれプラス、光太郎は彼の肖像写真の絵葉書を使ったりもしました。パリ滞在中はオペラなども時折観たというので、彼等の作品などに接していたのでしょう。

クラシックではなくシャンソンですと、ロートレックの絵のモデルにもなったブリューアン。光太郎は明治44年(1911)の「雪の午後」という詩に、彼の名を挙げ、その歌の歌詞を引用しています。俗語をそのまま取り入れ、簡単には訳せないような……。おそらく、どこかのカフェかキャバレーでその歌に接し、パリからレコードを持ち帰ったのではないかと推定されます。

6月9日(日)、地方紙『福島民報』さんの一面コラム「あぶくま抄」。

女子体育の母

 二階堂トクヨは「女子体育の母」と呼ばれる。一九二二(大正十一)年、日本女子体育大の前身となる二階堂体操塾を開き、女性の体力と健康を高めようと努める。NHK大河ドラマ「いだてん」には、厳しく情熱に満ちた人物として登場する。
 宮城県に生まれ、福島大の前身校の一つである福島県師範学校を卒業した。一年間、油井尋常高等小学校(現二本松市油井小)の教壇に立つ。高等科の三年生だった長沼智恵子との交流が生まれる。のちにトクヨが英国へ留学に旅立つ時、智恵子は夫となる高村光太郎と横浜港で見送った。
 「二階堂トクヨ先生を顕彰する会」が三年前、宮城県で結成された。今年三月には生誕の地を示す看板を大崎市の公園に立てて、たたえる取り組みを進めている。智恵子をしのぶ二本松市の「智恵子の里レモン会」の会員は、本県で結ばれた師弟の強い絆を確かめる。
 両会によるとトクヨは師範学校に進む際、福島民報社の初代社長で衆院議員を務めた小笠原貞信の養女となり本県と関わりを深めたという。向学心、人を育てる思いに県境はない。一世紀余り前に出会った二人の女性の生き方は、古里の歴史に優しい彩りを添える。


二階堂トクヨ、「いだてん」では寺島しのぶさんが熱演(怪演?)なさっています。

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6月9日(日)放映の回では、終了後にトクヨの紹介も。

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以前も書きましたが、智恵子との交流のはじまりは、明治32年(1899)、トクヨが福島高等師範を卒業後、安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校に赴任してのこと。智恵子は高等科に在学中で、トクヨは智恵子の6歳下の妹・ミツ(尋常科2年)の担任でした。

当時の油井小学校。

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当時の智恵子。実家は県下有数の造り酒屋でしたので、いかにもです。そもそもこういう写真が残っている時点でお嬢様ですね。

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智恵子卒業時の集合写真。

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智恵子は最前列右から二人目。拡大すると上の画像。数え16歳で、4月から福島高等女学校に進む、その直前です。

トクヨも写っているのでは、と気がつき、探してみました。元の資料(『アルバム 高村智恵子―その愛と美の軌跡―』 平成2年=1990 二本松市教育委員会)では、キャプションに智恵子と、担任だった別の先生しか書かれていませんで……。

すると、最後列右から二人目が、どうもトクヨのようです。のちの写真と比べての判断ですが。

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『福島民報』さんの「あぶくま抄」にあるとおり、大正元年(1912)にトクヨが英国留学に発つ際に、智恵子は光太郎を伴って横浜港まで見送りに行ったということは伝わっています。ただ、その後、光太郎智恵子とどう関わったのか、疎遠になってしまったのかなど、今ひとつ分かりません。今後の課題とします。

『高村光太郎全集』では、トクヨの名は一回だけ出て来ます。大正2年(1913)に、光太郎が智恵子のすぐ下の妹・セキに送った書簡中の「二階堂さんからお便りがありますか」という一節です。失念していましたが、セキは、智恵子と同じく日本女子大学校を卒業後(智恵子は家政学部でしたが、セキは教育学部でした)、トクヨと同じ東京女子高等師範学校に入学し直したことが分かっています。セキの卒業は明治45年(1912)。トクヨは同37年(1904)に卒業しているはずですので、直接の関わりがあったかどうかは不明ですが、匂いますね。ちなみにトクヨの女高師進学に際しては、智恵子の実家からの援助があったそうで。

トクヨの評伝的な書物がかつて複数出版されていますので、少し調べてみようと思います。

「いだてん」に戻りますが、ドラマでのトクヨ、主人公金栗四三(中村勘九郎さん)の後輩で、アントワープ五輪の陸上十種競技に出場した野口源三郎(永山絢斗さん)に失恋する、という設定になっていました。これが史実かどうか存じませんが。

で、その野口が中心になって創刊された雑誌『アスレチツクス』が、前回放映で取り上げられました。

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この『アスレチツクス』へ、後に光太郎も寄稿しています。昭和5年(1930)7月の第8巻第7号に、詩「籠球スナツプ シヨツト」。バスケットボールをモチーフにした躍動感溢れる詩です。それから翌月号ではアンケート「山と海」に回答を寄せています。若い頃よく登った赤城山の思い出や、上高地で智恵子と結婚の約束を交わしたこと、欧米留学のため小さな貨客船で太平洋を渡ったことなどが語られています。

やはりこの時代が描かれている「いだてん」、今後も目が離せません。皆様もぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

カプリの島のグロツタ アズラは赤金にやけた浜の童の肌をも白金にするといふ。美しい物の好きな人は此の琅玕洞に立ち寄りたまへ。

雑纂「琅玕洞広告」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

「琅玕洞」は、神田淡路町に光太郎が開いた、ほぼ日本初の画廊です。その店名は、森鷗外の訳になるアンデルセンの『即興詩人』から採られました。「琅玕洞」=「グロツタ アズラ」=「GROTTE AZZURÉE」、イタリア・カプリ島の有名な「青の洞窟」のことです。

親友・荻原守衛などの作品を並べ、美術愛好家に好評を博しましたが、事業としてはまるで成り立たず、あえなくまる1年で手放すことになりました。

まず出版系から。

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 座談 阿部サダヲ×中村勘九郎×役所広司
 出演者紹介&インタビュー
 水泳チーム座談会
 水泳撮影の舞台裏
 美術特集~関東大震災からの復興を描く
 女子アスリートの系譜
 オリンピックとその時代
 あらすじ
 大友良英とスゴ腕ミュージシャンたち
 実感放送~スポーツ中継の歴史をひもとく
 いだてん新聞 ほか

主に9月15日(日)放映の第36回までをカバーする内容です。以後の放映については9月に「完結編」が刊行されるそうです。

「あらすじ」の項で、第36回までのかなり詳細な内容が明らかになっています。「ここまでネタばらしちゃっていいのか?」と思うほどでした。それによれば、昭和11年(1936)のベルリンオリンピックまでが描かれています。

このドラマ、これまでも、光太郎智恵子ゆかりの人物が登場していました。光太郎がその肖像レリーフを手がけた嘉納治五郎師範(役所広司さん)、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が顕彰する対象の武田千代三郎(永島敏行さん)、そして小学生だった智恵子をかわいがり、道を示した寺島しのぶさん演じる二階堂トクヨ(トクヨについてはまた明日、詳述します)……。

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今後登場する新キャラの中にも、光太郎ゆかりの人物が多数含まれます。

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まず、アスリート系。今後、水泳陣がクローズアップされていきまして、代表チームを引っ張るリーダー的な存在・高石勝男。斎藤工さんが演じられます。

昭和6年(1931)、雑誌『モダン日本』に掲載されたアンケート「私の贔屓(ひいき)集」での光太郎の回答が以下の通り。

 野球     贔屓人物移動中にて挙げ難し
 庭球     コオシエ
 ラグビー  いまだ渾沌たり
 陸上競技  走高跳のキムラ
 水上競技  曾てタカイシなりしが今移動中
 将棋     土居八段、関根名人、
 碁      呉少年

「コオシエ」はフランスのテニス選手。昭和5年(1930)には来日し、東京や大阪で日仏対抗の試合を行っています。「キムラ」は早稲田大学の学生だった木村一夫。アムステルダム(昭和3年=1928)、ロサンゼルス(昭和7年=1932)の両オリンピックでともに6位入賞でした。「土居八段」は土居市太郎、「関根名人」は十三世名人関根金次郎。碁の「呉少年」は呉清源です。そして「タカイシ」が高石勝男。「移動中」って、光太郎、冷たいですね(笑)。


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続いて、上白石萌歌さん演じる前畑秀子。ロスでは銀、4年後のベルリンでみごと日本女性初の金メダリストとなりました。

以前にこのブログに書きましたが、光太郎、彫刻家の眼で観て、前畑の身体美を絶賛しています。昭和16年(1941)、『読売新聞』に連載された座談会「新女性美の創造」から。

 吉田 「水泳の人の身体は違ふ。」
 高村 「前畑さんなどは普通では肥りすぎてゐるやうにい
     はれるけれども、僕などの立場から見ると実に美し
     いものですね。」
 竹内 「前畑さんは丁度理想的な寸法で決して肥りすぎて
     はをりません。あの人がドイツから帰つて来た日に
     私、宿舎へ行き、身体測定をしました。(略)寸法で
     いひますと身長が一六〇糎、胸の周りが九〇・二
     糎。(略)それから目方はあの人は五八瓩です。」

「吉田」は吉田章信(体育研究所技士・文部省体育官)、「竹内」は医師の竹内茂代です。

当時の日本女性の平均値は身長150㌢、体重53㌔㌘ぐらいだったそうですので、たしかに立派な体格です。同じ座談によれば、前畑と死闘を演じたドイツのゲネンゲルも全く同じ体格だったそうです。


「いだてん」、幻に終わった昭和15年(1940)の東京オリンピック招致の話にもなりますので、そうした関係から政治家の面々も登場します。

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昭和7年(1932)の五・一五事件で暗殺された犬養毅(塩見三省さん)。「木堂」の号で書家としても有名だった犬養、光太郎はその晩年に書かれた「書についての漫談」(昭和30年=1955)の中で、書家としてより書の理論家としての犬養を高く評価しています。


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昭和11年(1936)の二・二六事件で命を落とした高橋是清。今年3月に亡くなった萩原健一さんです。光太郎、昭和2年(1927)の随筆「人の首」で、肖像彫刻を作ってみたい人物を挙げていますが、その中に高橋の名も。曰く「写真で見ると、高橋是清氏と、浜口雄幸氏とが面白い」。政治家で名を挙げているのはこの2人だけです。

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今後、五・009一五事件や二・二六事件、それ以前に次回6月16日(日)の放映から大正12年(1923)の関東大震災が描かれますし、やがて嘉納治五郎が必死の思いで誘致に成功した東京オリンピックも日中戦争の影響で返上と、ある意味悲惨な時代が舞台となっていきます。それにもめげず、それぞれの競技に打ち込むアスリートや、体育行政関係者達の姿が今後の焦点。元々時代劇の流れをくむ大河ドラマ、定番の戦国時代や幕末の合戦や斬り合いなどの代わりに、スポーツによる戦いが描かれ、その意味では従来の大河に対するアンチテーゼともいえるかもしれません。

ちなみに右は『NHK大河ドラマ・ガイド いだてん 後編』に掲載されている写真。光太郎の父・光雲が主任となって制作された上野の西郷隆盛像ですが、関東大震災直後の写真で、台座や像のあちこちに尋ね人的な張り紙が為されています。


余談になりますが、「いだてん」、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市でもロケが行われています。

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6月2日(日)放映の第21回「櫻の園」。大正9年(1920)のアントワープ五輪で惨敗して帰国した水泳代表チームが、現地での屈辱を回想するシーン。

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古式泳法で泳ぐ日本チームが、練習用プールで欧米選手に笑いものにされた、という設定です。世界の主流は新しく考案されたクロールに移っていましたが、日本にはまだ伝わっていませんでした。

この練習用プールとして使われたのが、香取市と茨城県稲敷市にまたがる横利根閘門(よことねこうもん)。利根川と、その支流である横利根川の間に設けられたレンガ造りの水門で、船が航行する際に二つの川の異なる水位を調整してから通るための施設です。閘門はパナマ運河がこの方式ですし、東京の下町にもいくつか現存しています。

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光太郎が第一詩集『道程』を刊行し、智恵子と結婚披露を行った大正3年(1914)に工事が始まり、大正10年(1921)に完成しました。現在はあまり船舶の通行はありませんが、現役です。補修は行われたものの、ほぼ建造当時の姿を残し、平成12年(2000)には国指定重要文化財に認定されました。

したがって、「いだてん」の役者さん達が泳いでいたのは、川です(笑)。オンエアが6月では、まだ寒い時期のロケだったでしょうに……。

背景に小さく映っている建物がこちら。機械室のような。これもほぼ当時のままです。たしかにアントワープっぽいかもしれません(笑)。

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古式泳法をせせら笑う欧米選手の背後に映っている並木。香取市の木に指定されているポプラです。

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香取市、江戸時代から続く古い街並みも残っており、旅番組(最近は散歩系番組)などで取り上げられることも多く、また、ドラマや映画のロケにもしょっちゅう使われています。NHKさんですと、やはり大河ドラマ「八重の桜」(平成25年=2013)や連続テレビ小説「花子とアン」(平成26年=2014)など。横利根閘門も、泉ピン子さん主演の2時間ドラマ「名司会者・寿鶴子殺人スピーチ(2) 花嫁に忍び寄るストーカー そして父が殺された!14年前の殺人事件に翻弄された運命の恋人達に捧げる涙の結婚式」(平成18年=2006・フジテレビ)などのロケが行われました。隠れた桜の名所でもあります。

閑話休題。「いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)」、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

この奈良にまゐりてより、私ただ夢ごこちに日を送り居ることに候。南大門の仁王の前に初めて立ち候ときの私、斑鳩(いかるが)の法隆寺に金堂の壁画を透し見し時の私、何知らずわななきしこの腕お察し下されたく候。

雑纂「「相思」より」全文 明治34年(1901) 光太郎19歳

東京美術学校の修学旅行で初めて奈良を訪れ、古仏の数々に接した際の感動を、書簡体で与謝野夫妻の『明星』に寄せたものです。後に知るロダンの彫刻と併せ、これらも光太郎彫刻の骨肉の一つとなりました。

NHKさんの大河ドラマ「いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~」。視聴率的には厳しい状況だそうですし、レギュラー出演者の逮捕などのケチもつきましたが、当方は毎週楽しく拝見しております。

先週は統一地方選挙速報の関連で放映が休止でしたが、今週の第14回から新章に突入します。 

いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~ (14)「新世界」

NHK総合 2019年4月14日(日) 20時00分~  再放送 2019年4月20日(土) 13寺05分~
NHK BSプレミアム  2019年4月14日(日) 18時00分~

ストックホルムから帰国する四三(中村勘九郎)。報告会で大勢の高師の仲間が健闘を称える中、敗因を厳しく問いただす女性が出現。永井道明(杉本哲太)の弟子・二階堂トクヨ(寺島しのぶ)である。同じ頃、孝蔵(森山未來)は四三とは逆に東京から旅立とうとしていた。円喬(松尾スズキ)とは別の師匠について地方を回るのだ。自分は円喬に見限られたと落ち込む孝蔵。しかし、出発のとき、新橋駅に円喬が駆けつけて−

出演
中村勘九郎,綾瀬はるか,生田斗真,永山絢斗,満島真之介,山本美月,近藤公園,武井壮,森山未來,神木隆之介,
橋本愛,荒川良々,峯田和伸,松尾スズキ,柄本時生,杉本哲太,中村獅童ほか

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明治45年(1912)のストックホルムオリンピック編が終わり、時代は大正へと移ります。そして新キャストが続々登場。

その一人が永島敏行さん演じる武田千代三郎。

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以前にもご紹介しましたが、元青森県知事で、十和田湖の景観に打たれ、道路の開墾等に尽力しました。そのため、雑誌『太陽』で初めて十和田湖の美しさを世に広めた大町桂月、武田に協力して十和田湖周辺の整備に力を尽くした法奥沢村長・小笠原耕一と共に、「十和田の三恩人」と讃えられました。

昭和28年(1953)に除幕された、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、元々周辺の国立公園指定15周年を記念し、「十和田の三恩人」を顕彰するためのモニュメントとして作られたものです。

右は「乙女の像」除幕式の際に、関係者に配られた光太郎による記念メダルの石膏原型。肖像は大町桂月ですが、武田の名も刻まれています。

青森県知事退任後、武田は大日本体育協会副会長に就任。箱根駅伝の開催に取り組み、「駅伝」の名付け親ともなります。

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もう一人、「この人も出るか!」と驚いたのが、二階堂トクヨ。演じられるのは寺島しのぶさんです。

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二階堂は宮城県三本木町(現・大崎市)の出身です。地元の小学校で准訓導として教壇に立ちながら宮城県の師範学校入学を目指していましたが、明治28年(1895)、同県では女教員は休みが多い、能率が上がらないなどの理由で女教員廃止決議が採択されてしまいました。そこで、隣接する福島県師範学校に入学しようとしましたが、こちらは福島県に籍が無ければ不可。そこで、初代福島民報社長にして国会議員でもあった小笠原貞信の養女となり、小笠原姓となりました(のちに「二階堂」に復姓)。

そしてめでたく福島師範を卒業し、赴任したのが智恵子の母校・安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校でした。明治32年(1899)、智恵子は高等科に在学中で、トクヨは智恵子の6歳下の妹・ミツ(尋常科2年)の担任となりました。さらにそれだけでなく、トクヨは智恵子をかわいがり、智恵子は友人と共にトクヨの下宿を訪ねたり、安達ヶ原を散歩したりしたとのこと。

向学心溢れるトクヨは、さらに同33年(1900)には東京女子高等師範に進学しました。この際には智恵子の実家・長沼家が資金援助を行ったらしいとのこと。智恵子との直接の関わりは1年間だけでしたが、智恵子は強烈な印象をトクヨから受けました。同じように油井小学校で教壇に立った後に日本女子大学校に進学した服部マスもおり、智恵子が日本女子大学校に進む希望を固めたのは、この2人の影響が大きいようです。

智恵子が日本女子大学校に進んだのは明治36年(1903)、この年、トクヨは女高師の最終学年でした。記録は確認できていませんが、おそらく、上京した智恵子はトクヨと再会し、久闊を叙しただろうと推定されます。

翌年、女高師を卒業したトクヨは、金沢の高等女学校に赴任。ここで体操の授業を持たされたことがきっかけで、体育のスペシャリストになっていきます(本来の専門は国語だったそうですが)。明治44年(1911)には、母校の助教授となり、大正元年(1912)には、英国留学。その際、横浜港には智恵子、さらに光太郎も見送りに現れたそうです。同4年(1915)に帰国、東京高師教授就任、同11年(1922)、二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)設立……すごい女性ですね。

ちなみにここまで、佐々木孝嘉氏著『ふるさとの智恵子』(昭和53年=1978 桜楓社)を参考にさせていただきました。

「いだてん」。このトクヨの活躍も楽しみにしつつ、拝見したいと思います。皆様もぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然は人をつくる。この霊峰の此の偉容に毎日毎朝接してゐる上高下の部落は幸である。
散文「日本の母」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

「霊峰」は富士山。「上高下」は、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため訪れた、山梨県南巨摩郡穂積村。現在の富士川町上高下(かみたかおり)地区です。

ここは冬至の前後、日の出が富士山頂付近からのぼる「ダイヤモンド富士」の名所としても有名です。

まずは仙台に本社を置く『河北新報』さん。先週15日(金)の「阿武隈川物語」という連載で、光太郎智恵子に触れて下さいました。

<阿武隈川物語>(36)新しい女育んだ山河

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 みちのくの入り口の阿武隈川沿いは古来、歌や俳句、詩の題材として親しまれた。時に人生にもたとえられる川の流れは、詩情をかき立てる。豊かな文学を育んできた流域を散策した。(角田支局・会田正宣)
 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。
 あまりに有名な「智恵子抄」の「樹下の二人」。「ほんとの空」の下、二本松市を歩くと、高村智恵子が夫の光太郎を、喜々として故郷を案内した姿が目に浮かぶようだ。
 酒造業の実家が破産し、統合失調症を発症した智恵子。美しい詩はかえって、智恵子の悲劇を浮き彫りにする。光太郎は後に、「智恵子抄は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であった」と述懐している。
<朗読大会を開催>
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 精神を病んだ智恵子は、地元ではタブーだった。智恵子没後50年の1988年、同市の理容業熊谷健一さん(68)が旧安達町商工会青年部で記念事業を企画。「智恵子のふるさと」のまちづくりの一歩になった。
 熊谷さんは「智恵子のまち夢くらぶ」を結成し、講座や行事を開催。没後80年の2018年は智恵子抄朗読大会を開いた。
 熊谷さんは「完璧な人間はいない。葛藤を乗り越え、美と愛に生きた智恵子と光太郎の生き方が人々の胸に迫る」と魅力を語る。
 芸術と恋愛に生きた智恵子は「新しい女」の一人だった。高校時代から智恵子抄を熟読する同市の詩人木戸多美子さん(60)は「画家を目指す女性はいなかった。おとなしく見えて、内に激しい情熱を秘めた人だった」と敬意を込める。
<愛テーマに詩作>
 智恵子が光太郎を追って訪れた上高地(長野県)で2人は婚約した。光太郎が結婚後初めて、愛をテーマに妻に贈った詩が、詩集「道程」に所収の「山」だ。
 「無窮」の力をたたへろ
 「無窮」の生命をたたへろ
 私は山だ
 私は空だ
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 木戸さんは「光太郎には自然と一体化する表現が多いが、それは智恵子との出会いがもたらした。東京育ちの光太郎が、深く広い福島の自然を喜んだ」と解釈する。「樹下の二人」に、生命の循環や、山から流れた水が大河を形成するイメージを読み取るという。
 山を愛する人は、克己、自立といった近代的価値観と人生観を投影する人が少なくない。詩に彫刻に、芸術家として山のような存在である光太郎。では、智恵子は奔流と言うべきか。
 智恵子に、雑誌のアンケートに答えたこんな遺文がある。「生命と生命に湧き溢(あふ)れる浄清な力と心酔の経験、盛夏のようなこの幸福、凡(すべ)ては天然の恩寵(おんちょう)です」
 智恵子は、安達太良山と阿武隈川に育まれた。
[高村智恵子]1886~1938年。旧姓長沼。日本女子大に進学、洋画家を志す。平塚らいてうの雑誌「青鞜」創刊号の表紙絵を描く。光太郎との夫婦生活は自由恋愛を貫き、入籍は智恵子の死の5年前。統合失調症を発症後、紙絵を制作した。

昨秋、二本松市で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」に触れています。記事にある木戸多美子さんは、その審査員を務められた方です。


続いて、『茨城新聞』さん。3月17日(日)の一面コラムです。

いばらき春秋 2019.3.17

その自転車道は「五輪への道」と呼ばれる。筑西市を縦断する五行川の左岸5.7㌔に及ぶ堤上。喜多(旧姓川﨑)真裕美さん(38)はここから、オリンピックへ羽ばたいた▼下館二高で競歩を始め20004年アテネ、08年北京、12年ロンドンと3大会に出場した。北京まで海老沢製作所(筑西市)に所属、高校時代から親しんだ自転車道が練習場所だった▼歩き続ける彼女を見守ったのは、はるか南東の名峰筑波のみではない。地元経済人団体の同友クラブは「夜も安全なように」と照明灯を設置してくれた。喜多さんは「この道がなければ今の私はない」と振り返る▼「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。人生はしばしば道に例えられる。詩人・彫刻家の高村光太郎は詩「道程」で、自ら人生を切り開いていく決意を高らかにうたった▼卒業シーズン、進学や就職へと巣立ち行く若者たちはどんな道を歩むのだろう。試練もあろう。大切なのは、自転車道を黙々と歩いた少女のように夢を諦めないことだ▼五輪のへの道に沿う桜並木のつぼみが膨らんできた。間もなく花開き、旅立つ者たちを祝福してくれるだろう。喜多さんは今、石川県小松市の粟津温泉「喜多八」で若女将(おかみ)を務める。道は続いている。

成人式の頃と、卒業・入学シーズンには定番のように「道程」が取り上げられます。ありがたいことです。


さらに『週刊新潮』さん。「文庫双六」という連載で、先週、今週と2週にわたって光太郎の名が。

【文庫双六】『智恵子抄』の舞台となった房総半島の“淋しい漁村”

 獅子文六はフランス人の女性と結婚し、大正十四年に娘が生まれた。奥さんは病気になり、フランスに帰国後、亡くなった。
  そのあと獅子文六は男手ひとつで娘を育てたが、男やもめの暮しに疲れて再婚する。『娘と私』はその事情を描いた家庭小説。昭和三十六年にはNHKでテレビドラマ化され大人気になった(北沢彪(ひょう)主演)。
  娘は身体が弱かった。そのため、獅子文六は小学生の娘を連れ、ひと夏を九十九里浜の片貝(かたかい)で過ごした。
  昭和十年頃。当時、東京の人間は避暑に湘南や房総に行くことが多かった。湘南の場合は別荘が普通だったが、房総では漁師や農家の家を借りた。
  獅子文六も鰯漁が盛んな片貝漁港に近い漁師の家を借りた。
  空気はいい。魚はうまい。牛乳や卵も新鮮。娘はたちまち元気になった。「私」も海辺の暮しが気に入る。
  とくに漁師料理「なめろう」が好きで毎晩、これで晩酌したほど。
  房総半島の海辺の町にはいまでもひなびた昭和の漁村の面影が残っている。その風景に惹かれ、私は五十代の頃、中年房総族と称し、よく房総を旅した。
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  片貝にも行った。ここは高村光太郎と妻の智恵子ゆかりの地と知った。昭和九年、光太郎は精神を病んだ智恵子を片貝漁港に近い真亀納屋(まがめなや)の親類の寓宅に預けた。週に一度、薬や食料を持って東京から見舞いに行く。当時はこのあたり、淋しい漁村だった。
  詩集『智恵子抄』に収められた「千鳥と遊ぶ智恵子」はここを舞台にしている。
 「人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の 砂にすわつて智恵子は遊ぶ 無数の友だちが智恵子の名をよぶ。 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――」
  現在、真亀の浜辺にこの詩碑が建てられている。
  かつてこの片貝まで東金からの九十九里鉄道という軽便(けいべん)鉄道があった。昭和三十六年に廃線になったが可愛い、いい鉄道だった。いま遊歩道が作られている。

[レビュアー]川本三郎(評論家)
1944年、東京生まれ。文学、映画、東京、旅を中心とした評論やエッセイなど幅広い執筆活動で知られる。著書に『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞・桑原武夫学芸賞)、『白秋望景』(伊藤整文学賞)、『小説を、映画を、鉄道が走る』(交通図書賞)、『マイ・バック・ページ』『いまも、君を想う』『今ひとたびの戦後日本映画』など多数。訳書にカポーティ『夜の樹』『叶えられた祈り』などがある。最新作は『物語の向こうに時代が見える』。
 新潮社 週刊新潮 2019年3月7日号 掲載 

【文庫双六】光太郎と賢治の“意外な接点”――梯久美子

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 高村光太郎が詩集『智恵子抄』を出版した1941年は、太平洋戦争が始まった年である。真珠湾攻撃のニュースに高揚し、〈この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる〉(「十二月八日」)と詠ったことはよく知られている。
  45年4月の空襲で東京のアトリエが焼失、光太郎は岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六の家に身を寄せた。清六は宮沢賢治の弟である。
  光太郎は生前の賢治に一度だけ会っている。26年12月、上京した賢治は光太郎のアトリエを訪ねた。夕刻になってからの突然の訪問で、手の離せない仕事があった光太郎は翌日来てくれるように言って玄関先で別れた。だが、賢治はそれっきり訪ねてこなかったという。
  無名の賢治は当時30歳、すでに名の知れた詩人で彫刻家だった光太郎は43歳。おそらく賢治は遠慮したのだろう。
  37歳で賢治が死去した後、光太郎は賢治の詩を高く評価し、全集の編纂にもかかわった。
  そうした縁から賢治の弟・清六と親しくなり、空襲で焼け出されたとき、清六を頼って花巻に疎開したのである。
  清六の著書『兄のトランク』には、その当時を回想した文章が収録されている。疲れ果てた様子で宮沢家にやってきた光太郎は、ていねいなもてなしを受けて元気を取り戻すが、8月10日、花巻に大規模な空襲があり、宮沢宅も焼けてしまう。
  戦後の光太郎は、花巻の郊外に小屋を建て、7年間、独居する。
  戦時中に戦意高揚詩を多数書いたことへの自責の念からと言われているが、その場所が花巻だったのは、玄関先で顔を合わせただけに終わった賢治との縁からだった。
  終戦直後、光太郎は宮沢家の避難先を見舞い、その後も長い間、賢治と清六の父のために山羊の乳を届けたという。
[レビュアー]梯久美子(かけはし・くみこ ノンフィクション作家) 新潮社 週刊新潮 2019年3月14日号 掲載

最後の一文、若干、勘違いがあるようですが……。


他に『信濃毎日新聞』さんにも関連記事が出ているのですが、また日を改めてご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

秋の彼岸が来て、或る朝芙蓉の葉に風が鳴る音を聞くと、私は生きかへつたやうに木を彫る事をおもふ。秋から冬にかけて木彫の仕事をするたのしさは言ふべくもない。心が澄み、身に生気が満ち、手は能く物の円みを知り、鑿は殆ど一個の生きものとなる。

散文「制作」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

ちょうど半年ずれた時期の文章ですが、あしからず。

とにかく夏の暑さに弱かった光太郎でしたが、それだけでなく、夏場は湿度が高すぎて木彫用の鑿や彫刻刀が悲鳴をあげるというのです。

今年のNHKさんの大河ドラマが、明後日から始まります。 

いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~

2019年1月6日(日)~
本放送 NHK総合 日曜 20:00~ BSプレミアム 日曜 18:00~ BS4K 日曜 9:00~
再放送 NHK総合 土曜 13:05~    BS4K 土曜 8:00~

1959年、五輪招致目前の東京。落語家の古今亭志ん生(ビートたけし)は日本橋を通り寄席に向かっていた。その日、高座で志ん生が語り出したのは、50年前の日本のオリンピック初参加にまつわる噺。1909年、柔道の創始者、嘉納治五郎(役所広司)はストックホルム大会を目指して悪戦苦闘していた。スポーツという言葉すら知られていない時代。初めての派遣選手をどう選ぶか。日本オリンピック史の1ページ目を飾る物語。

出演  中村勘九郎 阿部サダヲ 生田斗真 森山未來 神木隆之介 竹野内豊 役所広司 ほか
噺・出演  ビートたけし

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前後半、途中で主役が替わるという大河ドラマ史上初の試みが為されます。

前半は、日本人初のオリンピック選手・金栗四三(かなぐり・しそう)。歌舞伎の中村勘九郎さんが演じられます。後半は、」阿部サダヲさん扮する昭和39年(1964)の東京オリンピック招致に奔走した田畑政治。


「この2人がいなければ日本のオリンピックはなかった」というキャッチコピーです。


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金栗、田畑、ともに光太郎智恵子や光雲との直接の関係はなかったようですが、関わりのあった人物が登場します。

まず、講道館柔道創設者・嘉納治五郎師範(講道館柔道初段の当方、畏れ多くてとても呼び捨てに出来ません(笑))。演じられるのは役所広司さんです。

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公式サイトから。

金栗四三の憧れの人物であり、人生の恩師。金栗の進学する東京高等師範学校の校長。講道館柔道の創始者でもあり、”日本スポーツの父”と呼ばれる。アジア初のIOC委員として、日本のオリンピック初出場のために奮闘し、選手団団長として参加。人並み外れた情熱と、ひょうひょうとしたユーモアを併せ持つ大人物。


光太郎、昭和9年(1934)に、嘉納師範の肖像レリーフを作っています。文京区の講道館さんの2階にある柔道資料館に収蔵されています。

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ただし、クレジットは光雲。光雲はこの年胃ガンで亡くなっており、光雲に依頼があったものの、もはやそれに応えられず、光太郎が代作したのでしょう。

制作に際し、光太郎が嘉納師範と会ったかどうか不明ですが、有名な嘉納師範の肖像写真と似た構図ですので、それを元に作ったという線が濃厚であるような気がします。

10年ほど前でしょうか、このレリーフがネットオークションに出たことがあります。その際は画像だけでは真贋の判断がつかず、入札しませんでした。その後、出品されていないようですが、いずれ入手したいと思っております。

光太郎と嘉納師範の僅かな関わりがもう一つ。

明治39年(1906)からの海外留学に出る前の光太郎、当時日本に入ってきた鉄アレイを使ってのボディービルにはまっていました。その提唱者がドイツ人ボディビルダー、ユージン・サンドウ。明治33年(1900)に、サンドウの著書が『サンダウ体力養成法』として邦訳され、50版以上を重ねるちょっとしたベストセラーとなりました。おそらく光太郎もこれを読んだと思われます。その序文を書いたのが、誰あろう嘉納師範でした。

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「サンドー式体操」と呼ばれたトレーニングで鍛えた光太郎、そのおかげで留学先のニューヨークで、米国人学生との喧嘩に完勝したそうです。

「いだてん」での嘉納師範、かなり重要な役どころのようで、おそらく早い段階から活躍するようです。

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もう一人、間接的ながら光太郎と関わった人物が、「いだてん」に登場します。

やはり金栗にからむ、大日本体育協会副会長・武田千代三郎。演じられるのは永島敏行さん。少し後になってからのご登場のようです。


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武田が大日本体育協会副会長に就任したのは、大正2年(1913)。その直前までは青森県知事でした。当時の知事は民選ではなく、中央からの派遣。武田は筑後柳川の出身です。赴任先の青森で見た十和田湖の景観に打たれ、道路の開墾等に尽力しました。実はそれ以前に、明治天皇から十和田湖について訊かれたものの、満足に答えられなかったことを恥じて、早速十和田湖を観に行き、「こんな美しい場所だったのか」と仰天したそうですが。

そのため、雑誌『太陽』で初めて十和田湖の美しさを世に広めた大町桂月、武田に協力して十和田湖周辺の整備に力を尽くした法奥沢村長・小笠原耕一と共に、「十和田の三恩人」と讃えられました。

昭和28年(1953)に除幕された、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、元々周辺の国立公園指定15周年を記念し、「十和田の三恩人」を顕彰するためのモニュメントとして作られたものです。

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昨年、永島さんが武田役でご出演、という情報を得、それなら観なければ、と思った次第です。

ちなみに当方、20年ほど前に、永島さんを羽田空港でお見かけしました。和服にインバネスの出で立ちで、「いやー、かっこいい」と思いました。

今後、他にも光太郎智恵子や光雲と関わった人物が登場するかも知れません(いっそのこと、光太郎智恵子や光雲も登場させてほしいのですが)。

皆様もぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

しかし木彫は短歌のやうな面白味があつて此上なく私の心を慰めてくれる。彫つてゐながら如何にも気持がいい。

散文「近状」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

「蝉」や「鯰」などの木彫小品を作っていた時期の文章から。光太郎の生涯の中で、最も平穏だった時期です。

まずは今月9日の『河北新報』さん。宮城県女川町の光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連です。 

<東京五輪>海外メディア、宮城の被災地視察 復興状況発信

 2020年の東京五輪・パラリンピックに向けて東日本大震災の被災地の復興状況を世界に発信しようと、東京都は8日、海外メディア向けに宮城県女川町や東松島市を巡るツアーを開催した。フランスやインドなど13カ国の報道関係者24人が参加した。
 女川町のまちなか交流館では、須田善明町長が復興の歩みを説明。サッカーチーム「コバルトーレ女川」の選手らや、五輪・パラリンピックのポスター作品コンテストで金賞を受賞した女川小6年鈴木御代(みだい)さん(11)が20年大会やスポーツへの思いを語った。一行は町中心部の商業エリアや、女川中に建つ「いのちの石碑」なども見学した。
 シンガポールを拠点に働くスティーブン・ムーラさん(52)は「震災当時の出来事は今も女川の人々の心に鮮明に残っていると感じた。震災の1年後に被災地を訪れたが、復興が進む様子を見られてよかった」と話した。
 東松島市宮野森小では、08年の北京大会ソフトボールに出場した馬渕智子さんによる授業を取材した。9日は五輪出場経験者らが参加する「オリンピックデー・フェスタ」がある福島県昭和村に足を運ぶ。

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今年、JFLに昇格したコバルトーレ女川の千葉洸星選手は女川町出身。「いのちの石碑」建立に拘わってきたメンバーの一人なのですね。


続いて『朝日新聞』さん。14日の東北版です。 

(東北細見)智恵子記念館 福島・二本松市 夫への愛「紙絵」は芸術に /東北・共通

◆みちのくお出かけ  9月に入って雨が続き、安達太良山の上の「ほんとの空」は厚い雲の向こうだった。振り返ると家並みの向こうに阿武隈川の水面が光った。
 1920(大正9)年春、詩人で彫刻家の高村光太郎は妻の智恵子の故郷・福島県二本松市油井を訪ねた。父の三回忌で滞在中の智恵子は喜び、生家の裏の鞍石(くらいし)山からのパノラマを二人で眺めた、と後に光太郎は振り返っている(「智恵子回想」など)。
 同山を整備した智恵子の杜(もり)公園の展望台から下ること約20分。生家の造り酒屋に併設する智恵子記念館に着いた。心を病んだ智恵子は晩年、病室で切り絵細工の「紙絵」制作に没頭した。その日に見た物を手当たり次第に題材にし、包装紙や色紙を切り抜いた。その数、肺結核で亡くなる約2年の間に1千数百点。館内には約30点の複製が常設展示され、期間限定でオリジナルも展示される。
 「すべて智恵子の詩であり、抒情(じょじょう)であり、機知(きち)であり、生活記録であり、此世(このよ)への愛の表明である」。光太郎はそう評したが、少し捕捉が必要だろう。
 付き添いのめいの手記によると、智恵子は完成次第、作品を隠し、見舞いに訪れた夫にだけ見せたという。「病状が悪化し会話も成立しない中、眠っていた芸術的センスが紙絵に現れた」と担当の市文化課の服部正人さん(47)。唯一の理解者である夫にだけ向けられた愛の表明と伝わってくる。
 都内で活動する切り絵作家の福井利佐さん(43)は「まるで筆で描いたよう」と、下書きをせず一気にハサミで切った技法にも注目する。「切り絵が芸術として確立していない時代に独自の表現を見いだしていた」
 二本松市内などを会場にした「福島ビエンナーレ2018」で福井さんは来月中旬~11月下旬、智恵子の生家で作品を展示する。市内に唯一1軒残った正月飾りの切り紙細工の技法を福井さんが学び、智恵子の母校・油井小学校の児童たちに指導した作品と共に。
 女性の芸術家を目指した智恵子。その思いは地域の文化の継承も加え、受け継がれる。

<メモ>二本松市智恵子記念館・生家(水曜休館)へはJR安達駅から徒歩で約20分。東北道二本松インターから国道4号を経由して車で約10分。周辺には智恵子の祖父が奉公した造り酒屋跡、父母の出会いのきっかけとなった商店跡など「ゆかりの地」もあり、散策先として紹介されている。詩碑などのある「智恵子の杜(もり)公園」は記念館の背後の稲荷八幡神社から。展望台まで直接車で向かうルートもある。


というわけで、二本松の智恵子生家・記念館周辺を紹介して下さいました。

記事にある「福島ビエンナーレ2018」が既に始まっていますが、智恵子生家での福井利佐さんのインスタレーションは、10月13日からとなります。詳しくはまたのちほど。


【折々のことば・光太郎】

あまり明白すぎて人にまぶしがられてゐる太陽、あまり確かすぎて人に古臭がられてゐる大空、それを彼は敢然として書く。真理に対する良心の火を彼ほど命にかけて護持する者は偉大である。

散文「ロマン ロラン六十回の誕辰に」より
大正15年(1926) 光太郎44歳

「ジャン・クリストフ」や戯曲「リリユリ」の翻訳を光太郎が手がけた、ロマン・ロランの評です。光太郎自身への評としても当てはまりますね。

震度7の大地震による被害で、北海道が大変なことになっています。亡くなられた方には謹んでお悔やみ申し上げます。

平成23年(2011)の東日本大震災当時、当方自宅兼事務所のある地域もそれなりの被災地となり、いろいろ大変だったこと、そして津波の犠牲となられた当時の女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣氏のことなどを思い出しています。

さて、北海道に本拠を置く日本ハムファイターズさん関連で。8月30日(木)の『スポニチ』さんから。 

日本ハム・清宮、初の単独ポスター登場 逆転Vへ「お楽しみはこれからだ」

 首位の西武を6・5ゲーム差で必死に追う日本ハムが、初めてドラフト1位の清宮幸太郎内野手(19)の単独ポスターを作製したことが29日、分かった。逆転優勝の機運を高めるため、9月上旬から道内各所に掲示される予定だ。今月21日の1軍昇格から高校通算111本塁打の本領を発揮している怪物ルーキーが「主力選手」と認定された。
   逆転優勝への機運を高めるため、北海道を一丸にする。球団が初めて作製した清宮の単独ポスターが道内各地に登場するのは9月上旬予定。球団関係者は「10月に(優勝で)ファンの皆さまと一緒に喜ぶため、チームを盛り上げたいという思いでポスターを作りました」と思いを明かした。
  清宮は昨秋のドラフトで7球団競合の末に入団。キャンプ期間のコンディション不良などで開幕は2軍だった。5月9日のオリックス戦でプロ1号を記録したものの、その後は打撃不振や右肘の炎症などで今月中旬までは大半が2軍暮らし。それでも21日に今季3度目の1軍昇格を果たすと、前日28日までの7試合で打率・385、3本塁打、8打点と好成績を残し、今回の抜てきにつながった。
  シーズン終盤の時期に緊急作製されたポスターは「♯お楽しみはこれからだ」という言葉と躍動感あふれる写真で「逆襲」を予感させるものとなっている。清宮の他にも主将の中田、レアードら計10選手で各1000枚、計1万枚が作られた。
  今季は二刀流で看板選手だった大谷がポスティングシステムでエンゼルス、抑えの増井がオリックス、正捕手の大野が中日にそれぞれFA移籍。大幅な戦力ダウンで開幕前の下馬評は低かった。それでも主将の中田を中心にチーム一丸となり開幕から白星を重ね、現在も西武、ソフトバンクと優勝争いを展開。清宮を筆頭に浅間、渡辺ら若手を積極的に起用しているが、栗山監督は「もう年齢は関係ない。勝てるメンバーで戦う」と語っている。
  今季、チームはビジターで27勝29敗1分けだが、ホームは33勝22敗2分けと大きく勝ち越し。逆転優勝の実現には北海道のファンの後押しは不可欠だ。今月に入って失速したチームは24日から26日まで札幌ドームで行われた楽天3連戦で7カードぶりに勝ち越し。ファンの大声援を力に変えて再び上位の西武、ソフトバンクを猛追する態勢を整えた。
  シーズン佳境の時期にポスターを新たに作製するのは球団では初の試み。一丸で2年ぶりの優勝を目指す。

問題のポスターがこちら。

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お気づきでしょうか。

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光太郎詩の代表作の一つ「道程」からのインスパイアですね。同じ「コータロー」つながりで、ということでしょうか。

これまでもスポーツ界などで偉業を成し遂げた人々への形容として、「道程」のフレーズが使われてきました。野茂英雄選手大相撲の横綱・白鵬関、それからスポーツではありませんけれど(「盤上の格闘技」ともいえますが)、将棋の藤井聡太七段……。

清宮選手、プロ野球ではまだまだ偉業といえる実績はありませんが、「清宮の後ろに道は出来る」の一節に相応しい活躍を期待したいと思います(個人的には東北楽天ファンですが(笑))。

そしてその活躍で、北海道の皆さんを勇気づけていってもらいたいものです。がんばろう、北海道。


【折々のことば・光太郎】

吐き出さずにゐられないものをどういふ形で打ち出したらいいのか、それを知らないために空しく自己の内天を殺してしまふ人も多いと思ふのであるが、それが詩といふ近代形式によつて最も身近に表現され得るといふ事を知つた者にとつては、此世にかかる解放と美の世界との存在するよろこびが身につくわけである。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

ある意味、「吐き出さずにいられないものを打ち出す」=「自己の能力を存分に発揮する」ということになりましょうか。野茂投手、白鵬関、藤井七段、そして光太郎、皆それが出来、活躍につながったわけですね。清宮選手、そして世の中の全ての人々が、それぞれの分野でそうなれるような世の中であってほしいものです。

二泊三日の行程を終え、花巻か000ら千葉に戻りました。

昨日、花巻高村光太郎記念館さんでの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part .2」の講師を終えたあと、愛車を駆って花巻市街に向かいました。光太郎の立ち寄った場所などを見るためです。

その前に、記念館さんに隣接する光太郎が7年間を暮らした旧太田村の山小屋脇にあった、光太郎お手植えの栗の木。

昭和21年(1946)、光太郎が父・光雲の13回忌を記念して実を植えて芽を出し育った巨木でしたが、とうとう枯死してしまい、倒壊の危険があるということで伐採されました。右手の石柱は、光太郎が書いた木柱のコピーです。「亡父光雲十三回忌記念播種 昭和廿一年十月十日」と刻まれています。

7月に訪れた時にそういう話を聞いてはいたのですが、やはり残念でした。

続いて、旧太田村山口地区のほぼ中心にある古い石碑。詩「かくしねんぶつ」(昭和23年=1948)や、散文「山の人々」(昭和26年=1951)などで触れています。

右から二番目の最も背の高い碑には「見真大師」の文字。浄土真宗開祖の親鸞上人の別名です。

この辺りでもかつて行われていたという、「隠し念仏」にも関わるものです。

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このあと、花巻市街へ。以前にも訪れた場所は割愛し、その後、こんな所にも立ち寄っていたのか、という場所を中心にまわりました。

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小田島薬局さん。箸で食べるのが作法の十段巻きソフトクリームで有名なマルカンさんのすぐ隣。光太郎、ここで薬を買ったり、商売抜きで店主と個人的につきあいがあったりしました。店主宛の書簡も残っています。

マルカンさんには何度か足を運びましたが、気づかずに通り過ぎていました。

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市役所近くの新ばしさん。うなぎや寿司を饗するお店です。こちらも気づかずに何度も前を通り過ぎていましたが、光太郎日記に3回ほど、ここで食事をしたことが記されていました。

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市街の東、御田屋町の宗青寺さん。曹洞宗の寺院です。昭和20年(1945)、疎開直後で宮沢賢治の実家に厄介になっていた頃の光太郎が、何度か足を運んでいます。宮沢家とそう遠くない距離です。

このあと、東北新幹線の新花巻駅に向かいました。先月、1階奥の観光案内所的なスペースの展示コーナーがリニューアルされたという情報を得ておりまして、確認に。

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まずは米大リーグ・エンジェルスの大谷翔平選手がドーンとお出迎え。

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大谷選手、隣接する奥州市のご出身ですが、花巻東高校卒ということで。

さらに同校の先輩・西武ライオンズの菊池雄星投手や、富士大学さん卒などで花巻に関わるプロ野球選手たちの紹介も。

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さらに来年のラグビーワールドカップ開催で盛り上がる釜石関連で、釜石シーウェイブスさんのコーナー。

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ちなみに当方、試合のための移動と思われるシーウェイブスの選手の皆さんと、新花巻駅から同じ新幹線に乗り合わせたことがあります。

さて、かつてあった光太郎コーナーもリニューアルされたということで探してみると、隅っこにありました(笑)。

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高村光太郎記念館さんで販売されているグッズ等が並べられていました。ただ、ほとんど何の説明もなく、「何だかなあ」という感じでした。今後の整備を期待します。

このあと、宿泊先の鉛温泉さんに向かう途中、書店に立ち寄り、なかなか面白い書籍をゲットしました。さらに前日にはコンビニでも。そのあたりは明後日頃、ご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一番肝腎なのは詩の成立以前の問題、つまり詩を生む心的状態であつて、それが備はつてゐなければ、いかに巧妙な技術的操作や、いかに精巧斬新な手法的按排があつても、それだけでは、機具を造るやうに機械的に出来るものではありません。その詩以前の心的状態といふのは心の満ちあふれて已み難い状態で、これの無い詩作は人を捉へません。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「已み難い」というのは、会話の際の光太郎の口癖でもあったそうです。

明日、大相撲秋場所が初日を迎えます。

少し古いのですが、『スポーツニッポン』さん、7月31日に掲載された、名古屋場所で大記録を打ち立てた横綱白鵬関についての記事をご紹介します。 記事が出てすぐの頃、このブログでは岩手花巻と盛岡に行っていたレポートを書いており、紹介する機を失ってしまったので、秋場所が始まる前日の9月9日に紹介しよう、と心に誓っておりました(笑)。

ところがその白鵬関、残念ながら秋場所は休場だそうです。しかし、再起へのエールの意味も込め、予定通りご紹介します。

【笠原然朗の舌先三寸】 「横綱相撲」という幻想との闘い 大横綱・白鵬へ

 大相撲の横綱・白鵬は、名古屋場所で元大関・魁003皇の持つ通算勝ち星1047勝超えを達成。優勝回数も39回と伸ばした。
  まさに無人の荒野を行くが如し。詩人・高村光太郎が書いた詩「道程」の冒頭ではないが「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる」である。
  前人未到の記録をたたえる半面、その相撲っぷりについて横綱審議委員会(横審)などからクレームが聞こえてくる。
  「立ち会いの張り手はいかがなものか」「最高位に立つ者としてふさわしい相撲か?」など外野がかまびすしい。
  「横綱としてふさわしい相撲」とは何か?
  「横綱相撲」という言葉がある。「大辞林」によると「正面から相手を受け止めて圧倒的な力の差を見せつけて勝つこと」とある。
  お手本のような横綱相撲をとった力士は誰か?このあたりに「横綱相撲」という言葉が生まれたルーツがありそうだ。
  ここからは一好角家としての推察である。
  「横綱相撲」のルーツは、「角聖」とも呼ばれた明治の19代横綱・常陸山にあると思われる。
  幕内成績は150勝15敗131休22分2預。勝率は実に9割超え。身長1メートル75、体重146キロは。当時としては超巨漢の部類に属し、稽古で鍛えた体はナチュラルな筋肉質。いくつかの本の中で、その相撲っぷりについて「待ったはせず、相手の声でたち、十分にとらせてから勝つ」とある。当時の映像が残っており、YouTubeなどでみることができる。
  映像から見て取れるのは、相手十分の体勢で猛攻をかわして、かわして最後はねじ伏せる相撲っぷり。まさに横綱相撲である。
  以後、相撲史の中で強豪横綱として名前が挙げられるのは猛突っ張りで“史上最強”ともいわれる22代横綱・太刀山らがいるが、常陸山の「横綱相撲」を継承したのは「相撲の神様」、「昭和の角聖」とも呼ばれた35代横綱・双葉山だろう。白鵬もいまだ達成できていない69連勝の記録を持つ。
  待ったをせず、「後の先」の立ち合いを完成。強靱で軟らかい足腰を利して、勝利を重ねた。
  常陸山、双葉山に伝承された「横綱相撲」の次の担い手は48代横綱の大鵬。立ち会いに変化はせず、「きれいな相撲」のイメージがある。柔軟な身体を生かした相撲は「型がない」と評されたこともあり、相手の攻撃を吸収してしまうような相撲っぷりも見る者に「横綱相撲」と映ったのだろう。
  こうして「横綱相撲」というイメージがいまに伝わるに至る。
  時代を超えて共に「角聖」と賞された常陸山、双葉山だが、2人に共通するのは年2場所の時代を生きた横綱だったこと。常陸山にいたっては9割超の勝率をあげた一方で、休場は131。22引き分けに、2預かり。「預かり」とは勝敗がどちらかよくわからない場合の措置。ビデオ判定などない時代のものだ。
  常陸山はゆっくりと相撲をとり、十分に休んで40歳で引退するまで24年間の現役生活を全うした。
  年間6場所の時代の横綱である大鵬は32回の優勝を重ねる一方で、31歳で引退している。
  年間6場所は力士にとって過酷であり、弱くなって負ければ引退しか残されていない横綱にとって30~33歳は「引退適齢期」ともいえる。
  双葉山以降で10回以上優勝した横綱に限っていえば、44代横綱・栃錦、55代横綱・千代の富士の35歳が引退“最高齢”である。
  大鵬に次ぐ「横綱相撲」の継承者である白鵬も32歳。3年後の2020年まで現役横綱として活躍することを目標としている。綱を張り続けるためには、日々衰えていく体力と気力との戦い、年に2、3回の優勝が求められる。白鵬の休場は出場98場所に対してたった58休。休まずに勝ち続けることも「横綱」の務めであり「大横綱」の条件なのだ。
  前人未到の道を行く白鵬である。
  相撲は実際にとっている本人しかわからない、と言ってしまえばそれまでだが、「あれもダメ」、「これはいけない」と必要以上に常陸山、双葉山、大鵬と受け継がれてきた「横綱相撲」という幻想にとらわれ、彼の相撲を評価するのはいかがなものか。相撲は武道における演武のように型を見せるものではない。
  「相手に応じて臨機応変、変幻自在の対応ができる」のが白鵬。これは「横綱相撲」ならぬ、それがさらに進化した「大横綱相撲」だろう。
  だからこそ「何でもありの闘神」と化した横綱に対し、なりふり構わずあの手、この手でぶつかっていく若手力士の奮起に期待したい。


前人未踏の記録を打ち立てたり、後に続く人々への道を切り開いたりしたスポーツ選手などを評するのに、「道程」の一節がよく使われます。平成26年(2014)には、日米プロ野球の架け橋として大きな功績を残した野茂英雄さんを紹介する記事に使われました。今年に入っても、将棋の藤井聡太四段の記事に、「道程」が引き合いに出されています。

それぞれ道は違えど、光太郎にしても、野茂さんや藤井四段にしても、そして白鵬関にしても、自ら道を切り開いていった姿には、感銘を禁じ得ません。

ところで、スポニチさんの記事後半、「横004綱相撲」の代表格として名が挙げられている常陸山。光太郎と同世代なので、気になって調べたところ、光太郎が常陸山に言及した評論がありました。明治44年(1911)の雑誌『文章世界』第6巻第5号に掲載された「粘土と画布」という評論です。

 僕等には偉大とか、崇高とか、森厳とか、宏壮とか、雄渾とかいふ形容詞が、従来の意味では余り馬鹿げてゐて、今日の芸術品を形容するのに憚る次第である。又、此の種の形容詞は量の大きさに対する驚嘆の情に眩惑されて、無内容、無感覚な作品に冠せらるる事が屢〻ある。此の種の公衆にはピラミツドの写真、ナイヤガラ瀑布(だき)の写真、富士山の写真、下つては常陸山の写真でも恭しく捧げて置く。
 量が力ではない。量の振動が力である。

「大きいことはいいことだ」的な発想を芸術の世界に持ち込もうとする輩に対しての警句です。常陸山にしてみればいい面の皮、といった感がありますが、ピラミッドやナイアガラ、富士山と並び称されての常陸山ですから、この当時から偉大なる者としての評価が高かったことは窺えます。

現代のこうした例に「白鵬の写真でも」となるよう、秋場所は休場としても、白鵬関の再起を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

カトリツクに縁があつたら きつとクルスにすがつてゐたらう。 クルスの代りにこのやくざ者の眼の前に 奇蹟のやうに現れたのが智恵子であつた。

連作詩「暗愚小伝」中の「デカダン」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と、決意を固める前、旧態依然たる日本芸術界との苦闘に疲れ、酒浸りの「デカダン」の日々を送っていた光太郎。まさしく「奇蹟のやうに現れた」智恵子によって、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」の境地に達することが出来ました。

今日はその智恵子の故郷、福島二本松に行って、今日から始まる「重陽の芸術祭2017」を拝見して参ります。

福島からイベント情報です。 

ふくしま ほんとの空プログラム

【参加者募集】
子どもたちの好奇心と探究心を育む原体験活動
自然の中での体験活動に取り組みながら、福島の魅力をたっぷり感じるプログラムを実施します。日帰りプログラムを3回、宿泊体験交流プログラムを1回展開します。全てに参加しても、どれか1回の参加でも大丈夫です。

~活動場所~007  あぶくまエヌエスネットフィールド 
 福島県鮫川村赤坂東野字葉貫57

~活動内容~

 日帰りプログラム
 実施日/日帰りAコース 9月16日(土)
     日帰りBコース 9月30日(土)
     日帰りCコース 10月22日(日)
 服装/長袖・長ズボン・帽子
 持ち物/おやつ200円まで、汗ふきタオル、着替え、作業用手袋
      持ち物への記名をお願いします。
  ■旅行代金/小学生 3,000円  大人(保護者)1,500円
  ■参加対象者/小学1年生~6年生とその保護者(児童のみの参加も可能)
  ■募集人員/20名(最少催行人員10名)
  ■食事条件/昼食1回

  日帰りプログラムAコース 9月16日(土)☆申し込み締切:9月1日(金)必着
   みんなで協力しよう+食育ピザ!
    10:00 集合 オリエンテーション フィールドワーク
    11:30 石窯ピザ作り+じゅうねんうどん
    13:00 自由遊び
    14:00 プロジェクトアドベンチャー!
    15:00 おやつタイム 振り返り
    15:30 解散

  日帰りプログラムBコース 9月30日(土)☆申し込み締切:9月8日(金)必着
   自然って楽しい+食育餅つき
    10:00 集合 オリエンテーション フィールドワーク
    11:30 餅つき+じゅうねんうどん
    13:00 自由遊び
    14:00 ネイチャーゲーム 自然遊び!!
    15:00 おやつタイム 振り返り
    15:30 解散
 
  日帰りプログラムCコース 10月22日(日)☆申し込み締切:9月29日(金)必着
   世界で1本の鉛筆+食育うどん
    10:00 集合 オリエンテーション フィールドワーク
    11:30 手打ちうどん
    13:00 自由遊び
    14:00 「木の鉛筆」クラフト
    15:00 おやつタイム 振り返り
    15:30 解散
 

  宿泊体験プログラム
   ■実施日/10月28日(土)~29日(日)1泊2日
           ☆申し込み締切:10月6日(金)必着
   ■服装/長袖・長ズボン・帽子
   ■持ち物/着替え、タオル、洗面用具歯ブラシ、マイコップ(プラスチック製)、
        マイ箸、おやつ200円まで、エプロン、マスク
   ■旅行代金/小学生 7,000円 大人(保護者) 5,000円
   ■参加対象者/小学1年生~6年生とその保護者(児童のみの参加も可能)
   ■募集人員/20名(最少催行人員10名)
   ■食事条件/昼食2回、夕食1回、朝食1回
   ■行程/
    1日目(10月28日・土)
     07:30 首都圏からの参加者 東京駅集合
     11:30 集合受付 オリエンテーション  スタッフ&参加者自己紹介
     12:00 昼食(炊き込みご飯)
     13:00 自由遊び
     14:00 プロジェクトアドベンチャー!みんなで協力するよ!!
     15:00 おやつタイム 夕方の係決め
     16:30 夕食カレー作り 動物の世話 ドラム缶風呂火起こし
     18:00 夕食(カレーライス&カレーうどん)
     19:00 ドラム缶風呂
     20:00 星空観賞
     20:30 明日の子ども係決め

    2日目(10月29日・日)
     06:30 釜戸ご飯炊き
     07:00 起床 着替え
     07:30 朝の体操 動物の世話(犬の散歩、山羊、ニワトリ)
     08:00 朝ご飯 身仕度 荷物整理整頓
     09:00 活動タイム
     10:00 「木の鉛筆」クラフト
     11:30 ピザトッピング
     12:00 石窯ピザ
     13:00 活動振り返り 色紙にサイン交換タイム!
     14:30 解散
 
首都圏(東京・神奈川・千葉・埼玉)からご参加の方はJR往復プラン(追加代金お一人様\3000・大人小人同額)をご用意しております。詳しくは、JTB東北法人営業仙台支店までお問い合わせください。
 
(日帰り、宿泊共通事項)
  ■参加条件/
   ①プログラムの趣旨に賛同し、福島県についての理解を深めたいと考えている方
   ②当日配布するアンケートに記入いただける方
   ③当日写真ならびに映像撮影させていただき、新聞およびfacebook、
    イ
ンスタグラムに掲載させていただく場合があることをご了承いただける方。

  応募多数の場合は抽選となり、当選者にツアー参加申込書とご旅行条件などが記載された
  書面を実施約
10日前に郵送しますので、ご確認のうえお申し込みください。

  ■参加希望の方は/
  ハガキに、参加希望プログラム(例:日帰りA)、参加者氏名(漢字・ふりがな)、
  生年月日、学年または
年齢、性別、学校名、郵便番号、住所、電話番号(日中連絡が
  つきやすい電話)、運営団体への連絡事
項(体調、アレルギー、お薬など少しでも気
  になる点等)をご記入ください。

※申込みにあたりご提供いただいた個人情報はお客様との連絡のほか、本プログラムにて郵送・宿泊機関の提供するサービスの手配及びそれらのサービス受領のための手続きに必要な範囲内で利用させていただきます。なお、本プログラム推進のためにプログラムを主催する福島民報社及び協力いただくNPO法人あぶくまエヌエスネットへ提供いたします。お申込みいただいた方は、個人情報の共有を承諾したものとみなします。児童の参加に当たっては、親権者の同意書が必要になります。
 
  (お申し込み)
  ■ハガキ
   〒980-0804 仙台市青葉区大町1-4-1 明治安田生命仙台ビル4F
   ㈱JTB東北 法人営業仙
台支店「ふくしま ほんとの空プログラム」係
 
 【プログラムに関するお問合せ】
  ■プログラム主催/
  ふくしま ほんとの空プログラム(事務局)福島民報社東京支社
   TEL 03-6226-1001(平日10:00
~17:00)
 
 【ご旅行内容に関するお問合せ】
  ■旅行企画・実施/ 
  ㈱JTB東北 法人営業仙台支店 日本旅行業協会正会員 
  〒980
-0804 仙台市青葉区大町1-4-1
   明治安田生命仙台ビル4F 総合旅行業務取扱管理者 塚原大

   TEL022-263-6712(平日9:30~17:30)


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福島の地方紙『福島民報』さんと、旅行会社のJTB東北さんのタッグによる、自然体験教室的なプログラムのようです。

光太郎詩「あどけない話」から、福島の復興支援の合い言葉としてよく使われている「ほんとの空」の語を冠して下さいました。プロモーション動画などでも、「あどけない話」が使われています。

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基本、親子での参加申し込みを想定しているようですが、親子限定でもないようです。こういうイベントへの参加も一つの復興支援。県内だけでなく、幅ひろく参加者の輪が広がってほしいものですね。


【折々のことば・光太郎】

花はなにとてうつくしく 花はなにとてかをるらん 蝶々さそふか蜂よぶか ああ天然のやみがたき ただうるはしくかんばしく 花は野にみち山にみつ
詩「小曲二篇」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

昨日ご紹介した『石くれのうた』同様、未完に終わった詩集『花と実』の序詩として書かれたものです。駒込林町のアトリエを焼け出され、岩手花巻に疎開していた8月、おそらく終戦直前の作です。

それまで大量に書き殴っていた翼賛詩から離れ、若い頃から追い求めていた「自然」への讃仰が主題となっています。もはや敗色濃厚の時期。無理矢理の国民鼓舞はもうやめた、ということでしょうか。

昨日の『岩手日日』さんの記事です。

雨ニモマケズ一歩一歩 ツーデーマーチ 県内外1107人が交流【花巻】

 花巻の豊かな自然を歩いて体感する第20回いわて花巻イーハトーブの里ツーデーマーチ(イーハトーブフォーラム実行委主催)は19、20の両日、花巻市内を巡る距離別8コースで行われた。県内外から2日間で延べ1107人が参加し、花巻の観光スポットやウオーカー同士の交流を楽しみながらゴールを目指した。

 イーハトーブフォーラムのイベントとして毎年実施され、今回は5キロから40キロまでの8コース(1日4コース)に北は北海道、南は鹿児島県から19日606人、20日は501人が参加した。

 最終日の朝は霧雨が降る悪条件となったが、参加者は傘を差したり雨具を身に着けたりして同市大通りのなはんプラザに集結。「雨にも負けず完歩しよう」「いつまでも平和で歩けるといいですね」などのメッセージ入りのゼッケンを着けて「元気よく歩くぞ エイエイオー」と気勢を上げ、力強い足取りでスタートを切った。

 出発式であいさつした県ウオーキング協会の佐藤良介会長は「宮沢賢治、高村光太郎のゆかりの地を訪ねて歩くコースなどがある。足元に気を付け、楽しみながら完歩をめざしていただきたい」と激励。前回に続く2度目の参加で、初日は賢治文学散歩のコース、最終日は花巻温泉郷コース(ともに20キロ)に挑戦した福井県福井市の会社役員澤村玲子さん(73)は「市民の方々の親切なおもてなしに感激し、今年も参加した。60年以上の賢治ファンなので、とても満足できるイベント」と笑顔を見せた。

 発着点のなはんプラザには、これまでのツーデーマーチのパンフレットや県内外のウオーキングイベントを撮影した写真を展示。参加者には20回の記念タオルやバッジなどが贈られた。

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花巻でこの手のイベントが行われているのは存じておりましたが、「宮沢賢治、高村光太郎のゆかりの地を訪ねて歩くコース」というのは存じませんでした。

調べてみましたところ、なるほど、郊外旧太田村の光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)方面へのコースが、「光太郎と賢治出会いのコース」となっていました。

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光太郎がその碑文の文字を揮毫した、賢治の「雨ニモマケズ」詩碑もコースに入っており、そんなことから「光太郎と賢治出会いのコース」なのでしょう。距離は30キロだそうで、楽勝、という距離ではありませんが、無理、というわけでもなく、歩き甲斐はありそうですね。この手のイベントででもなければ歩こうとは思わない距離でもありましょう。

もう20回を数えるイベントだとのことですが、今後とも継続していってほしいものです。


ところで、ウオーキングの大会として、日本最大の規模を誇るのが、埼玉県東松山市で行われている「日本スリーデーマーチ」。その発展に尽くされた同市元教育長の故・田口弘氏は、戦時中から光太郎と交流がおありでした。今年2月に逝去され、今秋行われる「日本スリーデーマーチ」は、氏の歿後初めての開催となります。

光太郎も歩くことが好きでした。奇縁を感じます。


【折々のことば・光太郎】

鋼鉄の武器を失へる時 精神の武器おのづから強からんとす 真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ 必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん
詩「一億の号泣」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

亡き智恵子と共に暮らした思い出深い駒込林町のアトリエを焼け出され、賢治実家の厚意で身を寄せていた花巻の鳥谷ヶ崎神社で聴いた終戦の玉音放送に題を採った詩です。

それまでに大量に書き殴っていた翼賛詩のなごりがまだ見えますが、その翼賛詩にしろ、決して敵国人の鏖殺を目的としたものではなく、「真と美と到らざるなき我等が未来の文化」建設のため、という意図がありました。

始まってしまった戦争であれば負けるわけにはいかない、塗炭の苦しみにあえぐ国民を勇気づけたい、そういう意図があったことは非難できません。

しかし、戦後の光太郎は、花巻郊外太田村の山小屋に蟄居し、自らの戦争責任を厳しく断罪するのです。

昨日は、二本松市教育委員会のお三方が、当方事務所兼自宅にいらっしゃいました。来月、二本松市歴史資料館と智恵子記念館で開催される企画展「智恵子と光太郎の世界」、及び今月24日に行われる「【高村智恵子生誕130年記念事業】原節子主演「智恵子抄」フィルム上映会」に、手持ちの資料をお貸しするためでした。

このうち、「【高村智恵子生誕130年記念事業】原節子主演「智恵子抄」フィルム上映会」の方は、会場の安達文化ホールロビーに当時のポスター、チラシ、パンフの画像を展示していただきます。管理体制等の問題があるということで、現物ではなく、写真を撮影して行っていただきました。

そこで、久しぶりに立て看用の大きなポスターを広げました。2種類、手に入れています。

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通常サイズ(B2判)のものも2種類あり、片方(下の画像左)は安達文化ホールで画像展示、もう片方(同右)は企画展「智恵子と光太郎の世界」で現物を展示していただきます。

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お役に立てて幸いです。

こちらは手土産に頂いた、二本松銘菓の包装紙。市内霞ヶ城近くに本店のある「御菓子処日夏」さんのものです。二本松市の名所旧跡がイラスト入りで紹介されています。智恵子の生家も。

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いい感じですね。

さて、前振りが長くなりましたが、二本松でのイベントをもう一つ。すでに募集定員に達しているそうですが、こういうイベントもある、ということで。 

第8回にほんまつファミリーサイクリング大会

主 催 : にほんまつサイクリング協会
共 催 : 二本松商工会議所
後 援 : 市教育委員会 二本松観光協会 市体育協会 福島民報社 福島民友新聞社
                 福島県サイクリング協会

1.趣 旨
「ほんとうの空、あの光るのが阿武隈川」と智恵子抄に詠われた雄大な安達太良山を背に、阿武隈川堤防を周遊。初秋の田園地帯のサイクリングを通して、スポーツを楽しみ、仲間を広げ健康な身体を維持向上することを目的とする。
2.期  日 平成27年9月20日(日) 雨天中止 (主催者の判断で決行もあり)
3.集合場所 安達ヶ原ふるさと村駐車場(出発・到着)
4.コ ー ス
 ふるさと村をスタートし、阿武隈川・杉田川の堤防並びに一般道を走行、
4時間以内に                           完走する。
 ・アスリートコース (一般)        約40km   (途中休憩4ヶ所)
 ・ファミリーコース (小学生と保護者) 約20km   (途中休憩3ヶ所)
5.参加資格 小学生以上で健康、自転車の経験があり完走できる能力のある人
  (小学生は保護者同伴)
6.定  員 100名 ファミリーコースは警備等の都合上、先着10組まで
  ※定員に達しました。
7.参 加 費 1人2000円(消費税及びスポーツ傷害保険等を含んでいます) 昼食有

 
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昨年も同じイベントの紹介で書きましたが、単に「サイクリング大会」ではなく、「趣旨」にあるとおり「「ほんとうの空、あの光るのが阿武隈川」と智恵子抄に詠われた雄大な安達太良山を背に」としているところもいいですね。心の風景である安達太良山への誇りが感じられます。

「地方創生」といわれて久しいのですが、それぞれの地方の皆さんが、こういったイベントを通して「おらが街」の良さを再発見していくことも重要だと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

この色ぞこの空の色さやさやと晴れたる空のいろぞ汝が眼は
明治42年(1909) 光太郎27歳

昨日は台風一過の秋晴れでした。雲も明らかに夏と異なる秋の雲。夕方にはまた彩雲が見えました。

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株式会社アールビーズさん発行の『ランナーズ』という、ランニング愛好家向けの雑誌があります。その最新号に、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が取り上げられています。10月号の扱いですが、すでに入手可能です。 
2016/10/01 株式会社アールビーズ 定価722円+税

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スポーツライターの武田薫氏の「マラソンの行方 取材ノートから」という連載、今号はサブタイトルが「熊出没の青森鹿角は駅伝の故郷 武田千代三郎と乙女の像の因縁」。毎年8月7日に開催されている「十和田八幡平駅伝」(通称・十八駅伝)について書かれています。

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武田千代三郎は、明治41年(1908)から大正2年(1913)まで青森県知事を務め、その間、十和田湖畔の旧法奥沢村村長・小笠原耕一と協力し、十和田湖付近の道路整備等に腐心し、国立公園指定の礎を築きました。さらに十和田湖の景勝美を広く世に紹介した大町桂月とも親交がありました。

「乙女の像」は、戦後、武田、小笠原、桂月を顕彰する意味も含め、国立公園指定15周年を記念して計画されたモニュメントです。

当方存じませんでしたが、「駅伝」の語の命名者が武田だそうで、これはランニング愛好家の皆さんにとっては常識のようです。

そこで、昭和23年(1948)、当時の全国マラソン連盟会長だった金栗四三が、日本人選手が国際大会で活躍するための暑さ対策練習として、十八駅伝の開催を提唱、スタート地点を武田ゆかりの「乙女の像」の立つ十和田湖畔休屋地区としたとのこと。十和田湖で、「十和田湖マラソン大会」も行われているのも偶然ではないのでしょう。

ランニング愛好家の皆さんには常識的なことなのかもしれませんが、光太郎ファンとしては意外といえば意外な内容でした。

こういった部分でも、十和田湖観光の機運がもっと盛り上がって欲しいものですね。


【折々の歌と句・光太郎】

蚊やりに火蟲除け菊をくべたまへ蟲を好まず蟲を好まず
明治43年(1910) 光太郎28歳

昨日、愛犬の散歩で裏山を歩いたところ、台風の雨であちこちに水たまりが出来、蚊が大量発生していて、半分逃げ帰るように走り抜けました。庭の木の剪定をしている時も、手足に虫除けスプレーを振りかけているにもかかわらず蚊が襲来してきます。夏ももうすぐ終わり。やつらも必死ですね(笑)。

昨日は都内に出て、2箇所を廻っておりました。

まずは文京区春日の講道館。柔道の聖地です。

息子が柔道をやっており、その息子が出場する大会が昨日と今日、行われています(今日は講道館ではなく別の会場ですが)。こちらは年に一回、全国持ち回りで行われているもので、一昨年は京都、昨年は仙台でした。さすがに千葉からそこまで観に行くほど親バカではありません。しかし、今年は東京、さらに昨日の会場が講道館ということで、観に行きました(また、後述しますが、歩いて行ける範囲にある東京古書会館での「七夕古書大入札会2016」の一般下見展観もありましたので)。

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なぜ講道館にこだわるかというと、当方も講道館柔道初段を持っているということもありますが、やはり光太郎がらみです。意外といえば意外ですが、光太郎と講道館には関係があります。下記画像をご覧下さい。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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講道館柔道の祖・嘉納治五郎師範の肖002像レリーフです。この作者が光太郎なのです。昭和9年(1934)、父・光雲の代作として制作されました。

これが講道館の2階にある柔道資料館に展示されているはずですので、見てこようと思った次第です。

作品自体はブロンズですので、同一の型から取ったものが多数存在し、これまでに開催された光太郎がらみの企画展にもよく出品されていて、何度も見ています。しかし、やはり柔道の聖地・講道館に所蔵のものとなると、ある意味、別格のような気がします。

ところが、柔道資料館、土・日・祝日は休館でした。残念。

息子の試合は、一試合だけ見ました。講道館柔道を母体とする通常の国際ルールの試合ではなく、「高専柔道」という、特殊な柔道です。

試合は団体戦のみで、7チームが参加。15人対15人というすさまじい人数での闘いです。ちなみに試合時間は8分、凄い長さです(オリンピックは5分)。さらに先鋒対先鋒、次鋒対次鋒という「点取り方式」ではなく、勝った選手は相手チームの次の選手と続けて試合をするという「勝ち抜き戦」です。したがって、理論上1人で相手チーム15人を全員抜くことも可能なわけです(実際にはあり得ませんが)。

息子のチームは一昨年は準優勝、昨年は優勝しました。今年もその調子で、と思っていたのですが、何と一回戦敗北(涙)。息子は引き分けでした。勝てる相手だったのですが、相手は最初から引き分け狙い。国際ルールと異なり、消極的だという意味での「指導」がほとんど与えられませんので、引き分け狙いが可能です。息子も引き分け狙いの相手を強引に仕留めるだけの実力はなく、情けない試合でした。しかし、8分間、相手の猛攻を凌ぐというのも、それはそれで大変なことですし、高専柔道の場合にはそうした「分け役」という役どころが存在し、相手はきっちりその役を果たした、ということですね。相手を褒めましょう。

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その一回戦だけ見て、次なる目的地、神田の東京古書会館さんに移動したのですが、その後、息子のチームは敗者復活戦に廻って、そちらは勝利。今度は息子は1勝1分けだったそうで、多少は貢献できたようです。敗者復活に廻っても、その後勝ち上がれば優勝できるという変則的なルールですので、まだどうなるかわかりません。

続きは会場を移して今日行われますが、今日は当方、山梨県立文学館さんに、渡辺えりさんの講演を聴きに行って参ります。試合結果はネット上の速報で見ます。


さて、神田の東京古書会館さんでの「七夕005古書大入札会」一般下見展観。年に一度の古書業界最大の市です。古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆もの等も含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。

昨年は光太郎がらみの品にめぼしいものがなかったので行きませんでしたが、今年は「これは」と思うものが多く、観に行った次第です。

たまたま光太郎がらみの品の並ぶ一角に、いつも目録を送って下さり、当会顧問の北川太一先生とも関係の深い、本郷の森井書店さんが若い店員さんを連れていらっしゃっていて、一緒に拝見させていただきました。

明治44年(1911)、画家の山下新太郎に宛てた長い書簡が一番の目的でした。こちらは『高村光太郎全集』未収録で、公開されている画像は部分的にしか写って居らず、どんな内容なのか、是非読んでみたかったものです。

毛筆の崩し字で、ところどころ判読に苦労しましたが、三人寄れば文殊の知恵、ほぼ読めました。といってもほとんど森井さんが読んで下さったので、大感謝です。

最低落札価格の設定額が低かった書の二点は、予想通り保存状態が良くないものでした。筆跡的にはいいものなのですが……。その他、草稿や書簡、識語署名入りの著書など、光太郎の息吹が感じられる品々を手に取ることができ、こうした場合のいつもながらに、感激でした。

残念だったのは、最も驚いた出品物、昭和19年(1944)の詩集『記録』の草稿のみ、ガラスケースに入れられていて、手に取れなかったことでした。こちらの最低落札価格は100万円。他の作家の品も、このレベル以上のものはガラスケース入りの「特別陳列」でした。

色々な出品物、他の作家のものも含め、納まるべきところに納まってほしいものです。


さて、今日は先述の通り、山梨行きです。来週は盛岡(花巻にも寄るつもりです)、月末にまた花巻、来月前半は信州安曇野、三陸女川と、しばらく出張が続きます。風来坊(死語?)の本領発揮です(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

見ずやこれ富士は何山(なにやま)足柄の野より二尺は高しともこそ

明治34年(1901) 光太郎19歳

山梨といえば、富士山。当方、中高生の頃、4年近く甲府に住んでおりましたので、毎日のように雄大な富士山を見ていました。ある意味、人生観が変わりましたね。

ただ、短歌は足柄ですから、太平洋側のいわゆる「表富士」。しかし、山梨県民は山梨県側から見る富士山こそが「表富士」だ、と言い張ります。一昨年のNHKさんの「花子とアン」でも、主人公・村岡花子の祖父(石橋蓮司さん)のセリフにそれがありました。

昨日の『福島民報』さんに載った記事に「ほんとの空」の語が。

ただ、状況をわかりやすくするために、同じイベントを報じた『朝日新聞』さんの記事を先に紹介します。 

エアレース、日本人優勝

 プロペラ飛行機の世界レース「レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ」の決勝が5日、千葉市美浜区の幕張海浜公園であった。日本人パイロットの室屋義秀選手(43)が初優勝、約5万人の観衆が華麗な舞に歓声を上げた。レースには14人のパイロットが参戦。海上に設置した高さ25メートルの複数のエアゲログイン前の続きートを通過するなどしてタイムを競った。室屋選手は2009年から参戦し、過去最高は3位。会見で「難しい世界だったが、やっと(1番が)取れた」と喜びをかみしめた。 

千葉)幕張の空、最速飛行機が舞う 室屋選手Vにわく

 最高時速370キロのプロペラ飛行機が今年も幕張の空を舞った。5日、千葉市美浜区の幕張海浜公園で開幕した「レッドブル・エアレース千葉2016」(朝日新聞社など後援)。4日の予選が悪天候で中止となり、5日開幕となったこの日は決勝に国内外から5万人が来訪。日本人パイロット室屋義秀選手(43)の初優勝にわき上がった。地元住民による「おもてなし」もバラエティーに富み、大会実行委員会は昨年、今年に続き来年も「千葉開催」の方針を示した。
 決勝レース開始前、会場の幕張海浜公園のメディアセンターで大会実行委員会のエリック・ウルフ氏、同公園が立地する地元の熊谷俊人市長、飛行機格納庫が置かれた浦安市の松崎秀樹市長が記者会見した。
 会見では両市長とも昨年の大会に比べ市民の関心、協力度がアップしたと述べた。その上で来年以降の日本開催の方針を報道陣に尋ねられたウルフ氏は「来年も千葉で開催したい」と語った。
 ウルフ氏は以前から①千葉市が日本の民間航空発祥地であり歴史がある②長い人工海浜に面した会場はスピードレースになる③東京に近い――などを千葉開催の利点に挙げていた。
 今年は、さらに「市民など関係者の理解や支援」が今後の開催の後押しになった。ウルフ氏は「世界規模大会では民間の支援が不可欠。(前回、今回の千葉開催で)積み上げた自信、経験、ノウハウに手応えを感じる」と強調した。
 レース終了後には、初優勝を飾った室屋選手が会見に臨んだ。「母国レースでプレッシャーがあった。努力を100%したなら結果は神様に預けましょうという気持ちだった」とし、「千葉が特別な思い出の場所になりました」と語った。(大和田武士、滝口信之)

 
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というわけで、「空のF1」とも呼ばれる「レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ」。F1レース同様、世界各地を転戦しますが、今シーズンの第3戦が千葉市で開催され、見事、唯一の日本人出場者・室屋義秀選手が優勝しました。


室屋選手、福島市ご在住だそうで、『福島民報』さんの記事が以下の通りです。 

「サムライ」夢かなえる レッドブル・エアレース優勝の室屋選手(福島在住)

 夢は追い続ければきっとかなう-。5日に千葉市で繰り広げられた「レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ2016第3戦」で初優勝した福島市在住の室屋義秀選手(43)は、レース後の記者会見で“ほんとの空”から追い求めた夢の結実を喜んだ。「航空文化の魅力を福島に広めたい」。唯一の日本人として世界に斬り込むサムライパイロットの夢舞台は続く。
 上位4選手で競う決勝戦「ファイナル4」。優勝が決まった瞬間、室屋選手は関係者と抱き合った。涙が頬を伝った。
 頂への道のりは平たんではなかった。「世界一のパイロットになる」と決め、20歳の頃に渡米。苦学して軽飛行機の操縦免許を得た。平成11年に拠点を福島市の農道空港「ふくしまスカイパーク」に移した。エアレースに初参戦したのは21年。世界の強豪を相手に苦杯をなめ続けた。テクニックを磨き上げ、機体改良を重ねた結果、昨季の中盤からようやく結果が伴うようになった。さらなる飛躍が期待された今季だったが、第1戦、第2戦ともに重力加速度(G)超過で失格を喫した。機器トラブルや気負いもあった。
 満を持して臨んだ第3戦。千葉会場はG超過が出やすいコースとされる。周囲が失格を恐れて慎重な操縦を心掛ける中、攻めの姿勢を崩さなかった。機体と気力が一体化し、栄冠を手繰り寄せた。昨年の千葉大会を飛んだのが人生最高の日だった。「人生最高の日を更新できた」。笑顔がはじけた。
 「多くの協力や支援があってここに立てた。良い知らせを福島に届けられて本当にうれしい」。次の人生最高の日の更新に向けて新たな航跡を描く。

■関係者祝福「第2章始まる」
 関係者は歓喜に沸いた。ふくしまスカイパークの指定管理者・NPO法人ふくしま飛行協会の斎藤喜章理事長は、共に歩んだ歳月を思い出しながら、「福島の復興のために飛ぶと宣言し、努力を積み重ねた。重圧をはねのけて地元開催で見事に羽ばたいた。第二章が始まる」とさらなる飛躍を願った。
 ふくしまスカイパークに軽飛行機の研究開発施設を整備している自動車部品会社サード(本社・愛知県豊田市)の佐藤勝之社長は技術面で支援。「福島に元気を届けられてうれしい。今後も協力して飛行機の機体開発をしていきたい」と連携を誓った。
 同窓生も快挙に沸いた。同じ中央大出身の小林香福島市長は現地で声援を送った。「市民、県民の大きな喜びであり、励みだ」と拍手を送った。中央大学員会福島白門会の杉原長次事務局長は「福島の子どもたちに夢を与えてくれた。室屋さんに憧れてパイロットを目指す子どもが増えてほしい」と期待した。
 スポンサー契約を結んだレクサスは「(レクサスは)日本発のブランドとして卓越した操縦技術で世界と戦う室屋選手を応援している。残り5試合もサポートし、世界の舞台で驚きと感動を提供し続けてほしい」とコメントした。

■「来年も千葉で」
 レッドブル・エアレース社のエリック・ウルフゼネラルマネジャーは5日、本選前の記者会見で「次も千葉で開催したい」と述べ、来年も国内開催を継続する考えを初めて明らかにした。
 千葉県を開催地候補に挙げた理由について、「行政や関係機関の理解や支援が大きい」と説明した。国内では昨年から千葉県でレースが行われている。
( 2016/06/06)

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ここで「ほんとの空」の語には多少の無理矢理感がありますが(笑)、震災以来、幅広く使われるようになって、もはや一人歩きしているような感もある「ほんとの空」の語、さらに広めていただきたいものです。

当方、レースの行われている時間帯、全くの別件で千葉市に居りました。レースが行われていることは知っていましたが、光太郎ブログのネタになるとはまったく思っていませんでした(笑)。


なにはともあれ、室屋選手の今後のさらなるご活躍も祈念いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

爆音のうなりに耳をすましゐてあやふきも又うつくしとおもふ
昭和20年(1945) 光太郎63歳

飛行機を題材にした短歌ですが、ただし、ここで爆音をたてているのは米軍機です。

光太郎、飛行機には「用の美」を見いだしていました。

 用途に徹(てつ)するものの美といふことを、飛行機ほどあからさまに示してゐるものは少い。所謂装飾(さうしよく)といふものの入りこむ余地のまるでない、純粋に機能そのものの追求(つひきう)からのみ、成つてゐる飛行機が、またなく美しいといふ一事は、「必要なるものは美なり」といふ、古人の言を裏書してゐる。美が物体から遊離(いうり)してゐるものでなくて、物体そのものの機構(きこう)が即ち美しいのだといふ原理をよく示してゐる点で、飛行機の美は茶室の美とにてゐる。一方は動の極、一方は静の極でありながら、どちらも無駄といふ無駄をあくまで除きさつて、其上、その性能を最大限に発揮(はつき)するやうに工夫されてゐる。かういふ角度(かくど)から追求された造型物(ざうけいぶつ)は、欲せずしても美に到達せずにはゐない。これこそ、われわれ美術家の最も心にとゞめねばならない重点であり、美の健康性のうまれる契機(けいき)でもある。自然の成立がすでにさうであり、殊に人体に見る必須の美は、その好個箇の手本であるといへる。

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上記は昭和18年(1943)1月1日発行の雑誌『飛行日本』第18巻第1号に載った「飛行機の美」という散文の冒頭部分です。『高村光太郎全集』に漏れていたものですが、5年ほど前に見つけました。

いわんとするところは分かります。しかし、この文章で光太郎が美しいとたたえているのは、殺戮兵器である戦闘機や爆撃機でした。そうした視点が欠けていたしっぺ返しのように、東京と花巻、光太郎は2度も空襲で焼け出されます。上記短歌は、2度目に焼け出される直前の作です。

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飛行機も、「レッドブル・エアレース」のように、平和的な利用のみが為される時代になってほしいものです。

まずは今週初めの『日刊スポーツ』さんの記事です。 

競歩で高橋英輝が連覇、リオ五輪代表に決定

<陸上:日本選手権>◇21日◇神戸市六甲アイランド甲南大周辺コース◇20キロ競歩

 リオデジャネイロ五輪代表選考会を兼ねた日本選手権20キロ競歩で、男子は高橋英輝(23=富士通)が1時間18分26秒で2連覇を果たし、五輪代表内定を決めた。派遣設定記録だった1時間20分12秒を悠々と突破。「何度もダメかと思ったのですが、最後まで頑張れた。(これから)メダルを目標に頑張りたい」と喜びを語った。
 
 岩手大の学生として臨んだ昨年の同選手権では、1時間18分3秒の当時日本新記録を樹立。後に世界記録を打ち立てる鈴木雄介(28=富士通)に食らいつき、残り1キロで引き離す展開だった。今回は鈴木が欠場。20日には「去年まで雄介さんの力を借りていた。自分でレースをコントロールしたい」と意気込んでいた。序盤から先頭集団を引っ張ると、17キロ辺りからスパートして優勝。新たな可能性を示した歩みになった。
2016年2月21日


それを受けての『岩手日日新聞』さんのコラムです。 

コラム(2/22)

その青年を間近で見たのは、1年前のことだ。陸上競技の選手らしく体形は細身。背広姿であったが、ステージを歩く際には背筋がピンと伸びていた。まずは姿勢の良さが目に付く。「やっぱりトップアスリートともなると随分と違うな…」と感心した
▼いつになく凡夫が熱視線を送った人物とは、競歩界のホープであった高橋英輝選手。彼は岩手大の4年生だった2014年12月、長崎県で開かれた大会の男子1万メートルで日本新記録を打ち立てて優勝。昨年2月26日に岩手日日学生賞が贈られている
▼その贈呈式に出席した人々は、彼のスピーチにも耳をそばだてた。何しろ次のリオデジャネイロ五輪も狙える逸材である。皆が「リオ」や「五輪」の言葉を待ったが青年は謙虚そのもの。「自分は大きなことを言うタイプではありませんから」と語った
▼あれから1年。青年は21日に神戸市で開かれた陸上の日本選手権20キロ競歩で優勝。五輪代表の座を勝ち取った。決してリオ五輪という4文字を口にはしなかったが、「自分のペースで一歩一歩小さな目標をクリアしながらステップアップしたい」と言う、あの日の決意が花開いた
▼改めて記すまでもないが、彼は花巻北高から岩手大に進んだ岩手人。多くを語らず…の姿を見て、高村光太郎の詩「岩手の人」が頭に浮かんだ。「地を往きて走らず、企てて草卒ならず、ついにその成すべきを成す」
▼今年は「希望郷いわて国体」の開催年でもあり、われわれ県民にとっては、これ以上ない大きな喜びである。さあ、次はブラジルの地での晴れ姿。楽しみがまた一つ増えた。


岩手の皆さんにとって、光太郎詩「岩手の人」はかなり馴染み深いものなのでしょう。いろいろな場面で引用されています。

    岩手の人
003
岩手の人眼(まなこ)静かに、
鼻梁秀で、
おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。004
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。

斧をふるつて巨木を削り、

この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

上の画像は高橋選手の母校・花巻北高校の校庭に立つ高田博厚作の光太郎像にはめ込まれたプレートです。像は右の画像。同校と光太郎には直接の関わりはないようですが、光太郎の精神に共鳴した卒業生保護者の拠金で建立されました。

もしかすると高橋選手、これを見てその後の人生が変わったのかも知れません。

寡黙で謙虚な戦士、高橋選手の活躍に期待しております。


【折々の歌と句・光太郎】

河を擁す余寒の窓や筏舟
明治33年(1900)頃 光太郎18歳頃

立春は過ぎましたので、「余寒の候」です。しかし、昨夜から今朝にかけ、当方の住む千葉県北東部でも雪が降りました。積もりはしませんでしたが、我が家の老犬は大喜びでした。


智恵子の故郷、福島県二本松市の広報紙『広報にほんまつ』の今月号から。 

拝啓 ほんとの空体操で元気に長生きしませんか?

「ほんとの空体操」は、市民の皆さんが住み慣れた地域でいつまでも元気に過ごすことができるよう「二本松市民の歌」に合わせた介護予防のための健康体操です。生活機能の維持・向上のための「運動」のきっかけづくりに活用ください。
今回は、二本松少年隊の皆さんにご協力いただき、「ほんとの空体操」をご紹介します。

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ほんとの空体操」は、「二本松市民の歌」に合わせて振り付けられた介護予防のための健康体操とのことで、市役所さんでは、職員の皆さんも朝礼で取り組まれているそうです。

動画も公開されています。


広まってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

ともすれば冬の襲いのきびしきに春のみ軍弓をひかへぬ
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日は立春です。したがってこれからは「余寒」ということになるのですが、まだまだ寒いですね。今朝の冷え込みはここ房総でもちょっとしたものでした。

「み軍」は「みいくさ」。「軍勢」といった意味です。

岩手盛岡の地方紙『盛岡タイムス』さんの記事から。 

いわて国体 成功へ年頭の気勢 大会実行委事務局 開幕へ準備も追い込み

 希望郷いわて国体・大会の開催の今年に控えた希望郷いわて国体・大会実行委員会事務局は4日、仕事始めを迎えた。岩間隆事務局長が職員約100人に「高村光太郎の詩の一節を拝借すれば、『ついにその成すべきを成す』時がきた。2007年に国体開催の内々定を受け、今まで積み重ねてきたもの、携わってきた関係者、県民の方々の思いをしっかりと形にするという、集大成の年になる」と訓示した。

 岩間事務局長は「被災地で初めて開催する両大会。全国からの注目も非常に大きいものがあり、全国の方々にこれまでに頂いた支援にしっかりと感謝を示す。さらに、将来の岩手づくりのために大いなるきっかけとなる大会にしたい。オール岩手で引き続き準備を進めていきたい」と説いた。

  職員に対し「われわれの役割は大きく二つ。国体、大会の主役である選手の方々がこれまでの練習の成果をいかんなく発揮できるような大会運営に万全を期す。もう一方の主役である県民の方々が、国体・大会に参画する環境を整えること。ぜひ全体的な視点、広い視野を持って関係者の方々と連携を取りながら、自らの責任を果たしてもらいたい。皆さんの奮励努力を」と期待した。

  「岩手で開催してよかったと全国の方々、県内の方々、全ての方に思ってもらえるような大会にしたい。まずは冬季大会に全力を尽くし、その成功を弾みに本大会、障害者スポーツ大会に結び付けたい。全力で取り組もうう」と結び、全職員のガンバロー三唱で開催の意気を上げた。


今年は岩手会場で、「第71回国民体育大会 希望郷いわて国体」「第16回全国障害者スポーツ大会 希望郷いわて大会」が開催されることを受けての記事です。国体の方は、早くも今月末からスキー、スケートなどの冬季大会が始まります。一般競技及び障害者大会の方は秋だそうです。

記事にもあるとおり、東日本大震災後、被災地で初めて開か無題れるそうで、その意味でも注目されますね。調べてみたところ、震災のあった平成23年(2011)は山口県会場。以後、岐阜、東京、長崎、和歌山と回って、今年の岩手です。

ちなみに震災の前年、平成22年(2010)は、当方自宅兼事務所のある千葉でした。当方、柔道有段者でして、当時中学生だった息子(こちらは今も柔道を続けています)と一緒に柔道競技を見に行きました。成年男子団体決勝は千葉対東京。1-1で迎えた大将戦、千葉県警の加藤博剛選手(90㌔級)が100㌔超級の立山選手(JRA)から小内巻き込みで技ありを奪って破り、優勝。感動しました。右はその時買ったストラップ。柔道着姿のチーバくん(千葉県のゆるキャラ)です。

さて、「高村光太郎の詩の一節を拝借すれば、『ついにその成すべきを成す』時がきた。」とありますが、こちらは昭和24年(1949)の元旦、『新岩手日報』に掲載された光太郎の詩「岩手の人」が元ネタです。
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   岩手の人 

岩手の人眼(まなこ)静かに、
鼻梁秀で、
おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。
斧をふるつて巨木を削り、
この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。


昨年、ラグビーワールドカップが一躍脚光を浴びましたが、同大会、2019年には日本で開催されます。岩手でも、釜石市が会場に選定され、それを報じた『岩手日報』さんの「論説」でもこの詩が取り上げられました

牛のように愚直(というと失礼かも知れませんが)で勤勉な県民性を活かし、国体系も、ラグビーW杯もともに成功に導いていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

こほり結ぶ霜もものかは父君の雪の旅路にいます思へば
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「ものかは」は「問題にならない、物の数ではない」の意。この頃の光太郎は、まだ孝行息子でした。父・光雲が雪国を旅していることを思えば、東京の寒さなど「ものかは」だ、というわけですね。

明治32年(1899)、光雲は古社寺保存会の命で福井、石川方面に出張に行った記録が残っています。

12/20(日)に、智恵子の故郷、福島県二本松市で行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。

今回は日本女子大学校入学後の智恵子について。003

明治36年(1903)、福島高等女学校を卒業した智恵子は、日本女子大学校普通予科に入学します。翌年には四回生として家政学部に進みました。この四回生というのは、第四回入学生という意味です。

単なる良妻賢母教育にとどまらなかった同校で学ぶことによって、智恵子の才能が開花します。

まず絵画への傾倒。

一昨日のブログでご紹介した松井昇が同校で絵画の指導に当たっており、必修科目ではありませんでしたが、智恵子はそれを選択しました。福島高等女学校時代にも絵の才能は見せていましたが、そのころ取り組んでいたのは岩絵の具を使った日本画。おそらくここではじめて油絵の具に出会います。

智恵子の絵の才能は周囲も認め、女子大学校名物の一つ、秋季文芸会(文化祭的な)では、生徒による演劇の背景画を任されました。夜遅くまで講堂の地下でそれに取り組んでいた智恵子の姿が記憶されています。卒業後も智恵子は母校に残り、松井の助手として勤務、さらに太平洋画会に入会して、洋画家への道を目指します。『三つの泉』、『家庭』といった同校の刊行物や、雑誌『青鞜』などを、智恵子の描いた画が飾りました。

さらにテニス。家政学部で智恵子の一年上にいた平塚らいてうの回想が残っています。

 どちらが先にテニスをやりだしたか、それは忘れましたが、とにかくこのひとの打ち込む球は、まつたく見かけによらない、はげしい、強い球で、ネットすれすれにとんでくるので悩まされました。あんな内気なひと――まるで骨なしの人形のようなおとなしい、しずかなひとのどこからあれほどの力がでるものか、それがわたくしには不思議なのでした。
(『高村光太郎と智恵子』 筑摩書房 昭和34年=1959収録、「高村智恵子さんの印象」より)

下記は平成22年(2010)に朝日新聞出版さんから刊行された『週刊マンガ日本史44 平塚らいてう』です。

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智恵子、完全に悪役顔です(笑)。

らいてうは「どちらが先にやりだしたか、それは忘れましたが」と書いていますが、智恵子は福島高等女学校時代には既にテニスに取り組んでいました。

明治36年(1903)、智恵子が普通予科に入学した年の『日本女子大学校学報』第四号に、この年の運動会の様子がレポートされています。正式種目ではなく、オープニングアクトの「番外」で、テニスがプログラムに入っており、附属高等女学校生を含む15組が対戦したとあります。その選手の中に普通予科の「長沼ならゑ」という名が見えます。

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ところが、後の卒業生名簿を見ると、この年に普通予科だった智恵子と同級の生徒の中には、「長沼」という苗字は智恵子しか居ませんし、「ならゑ」という生徒も居ません。これはもしかすると「長沼ちゑ」を「長沼ならゑ」と書き誤ったのかな、などとも思えます。しかし、中退者も多かったので、卒業生名簿にはなくても「長沼ならゑ」という生徒が存在していたのかも知れません。また、智恵子の一学年下に「中西ならゑ」という卒業生がおり、そのあたりと混同していた可能性または「中西」は結婚後の性で旧姓・長沼可能性もあります。ただ、一つ下では計算が合わないのですが……。智恵子が入学早々に選手として活躍していたとすれば、素晴らしいですね。

さらに女子大名物の自転車も、智恵子は早々と乗りこなしたとのこと。

智恵子と寮の同室だったという秋広あさの回想。

その頃自転車は全く珍しい乗り物でしたが、寮にも一台備えられ、時間決めで練習させられました。皆は“珍しいけど厄介なこと”と云い乍らも誰が最初に乗れるか興味を持つておりました処、他ならぬ智恵子様が一番乗りしたのでした。それと申しますのも、雨の日には雨天練習場に乗り入れて練習したからだつたのでしよう。
(『高村光太郎資料第六集』 文治堂書店 昭和52年=1977収録「智恵子様のこと」より)

他にも秋広の回想は多方面にわたります。たたむ必要のない「無精袴」を考案したり、寮内で堂々と禁止されている間食をしたり、秋広が事情があって中退する時には涙を流して見送ってくれたり……。


卒業後も智恵子は同窓会である「桜楓会」の仕事にも携わっています。機関誌『家庭』や『家庭週報』に、絵や詩文を寄せていますし、同窓会大会の分科会で絵画修行について発表したという記録も見つけました。

当時の桜楓会の組織は「家庭部」「教育部」「社会部」の三つに分かれ、智恵子は「社会部」に所属しました。「社会部」の中に「出版部」があり、その関係で『家庭』や『家庭週報』と関わったと推測されます。

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そして明治43年(1910)4月5日から7日にかけて行われた桜楓会第七回総会の2日目、分科会である社会部大会で、智恵子が絵画修行について発表したことが、同会の年刊誌『花紅葉』第8号に記録されていました。これは従来の智恵子年譜には漏れていた事実です。ちなみにその前年にも社会部大会に出席しています。

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智恵子が光太郎と巡り会うのは、翌明治44年(1911)。今回講師を務めさせていただき、いろいろ調べる中で、光太郎と知り合う前の智恵子のきらめく青春時代が、改めて実感できました。


日本女子大学校で智恵子が関わった人々も、綺羅星の如し。明日以降、それらの人々をご紹介していきます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月23日

昭和6年(1931)の今日、春陽堂から『明治大正文学全集 第三十六巻 詩篇』が刊行されました。 

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光太郎作品9篇が掲載されました。こうしたアンソロジーの類は多いのですが、光太郎自身が作品の選択、詩句の校訂に関わっていると確認できているものは少なく、これはその一つです。

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智恵子の故郷、福島二本松からイベント情報です。 参加申し込みの締め切りが過ぎてしまっていますが、こういうイベントがあるよ、というお知らせとして読んで下さい。また、定員に達していなければ、まだ申し込み可能かもしれません。

二本松市合併10周年記念 第7回にほんまつファミリーサイクリング大会

主 催 : にほんまつサイクリング協会
共 催 : 二本松商工会議所
後 援 :
    市教育委員会 二本松観光協会 市体育協会 福島民報 福島民友新聞 福島県サイクリング協会

1.趣 旨
 「ほんとうの空、あの光るのが阿武隈川」と智恵子抄に詠われた雄大な安達太良山を背に、阿武隈川堤防を周遊。初秋の田園地帯のサイクリングを通して、スポーツを楽しみ、仲間を広げ健康な身体を維持向上することを目的とする。

2.期  日 平成27年9月20日(日) 雨天中止 (主催者の判断で決行もあり)
3.集合場所 安達ヶ原ふるさと村駐車場(出発・到着)
4.コ ー ス ふるさと村をスタートし、阿武隈川・杉田川の堤防並びに一般道を走行。
        4時間以内に完走。
  アスリートコース (一般) 約43km(途中休憩5ヶ所)
     (定員に達しました。沢山のお申込みありがとうございました。)
  ファミリーコース (小学生と保護者) 約20km(途中休憩3ヶ所)
5.参加資格 小学生以上で健康、自転車の経験があり完走できる能力のある人
  (小学生は保護者同伴)
6.定  員 100名 ファミリーコースは警備等の都合上、先着10組まで
7.参 加 費 1人 2,000円(消費税及びスポーツ傷害保険等を含んでいます) 昼食有
  ※今大会は、合併10周年を記念して小学生の参加費を無料とします。
8.日  程
  受  付 午前7:30~8:00
  開 会 式 午前8:15
  スタート 午前8:30
  ゴ ー ル 午後12:30
  閉 会 式 午後12:45
9.申込方法 所定の申込用紙に必要事項を記入し、二本松商工会議所窓口に参加料を添えて
  申込ください。(なお、当日不参加並びに雨天中止の場合、参加費は返却いたしません)
  アスリートコースは定員に達しました。沢山のお申込みありがとうございました。
10.申 込 先  「二本松商工会議所」窓口
  〒964-8577 二本松市本町一丁目60番地1 TEL 0243-23-3211  FAX 0243-23-6677
11.申込用紙 参加申込書、誓約書 二本松商工会議所でも配布します。
12.申込締切 平成27年8月31日(月)
13.参加賞他 参加賞ほか抽選で協賛品を贈ります。
14.貸自転車 ありません。
15.注意事項
(1)各自、前日までに自転車の点検整備をしてください。
(2)ヘルメット、手袋を必ず着用し走行してください。
(3)特殊自転車の参加は認めません。ただし、電動自転車は可。
(4)大会開催中は、大会役員の指示に従ってください。
(5)ゼッケンを付けてない方の参加は認めません。(ゼッケンは当日配布します)
(6)スタート時間後4時間以内にゴールしてください。先導車を絶対追い抜かないでください

(7)当日の参加の受付はしません。
(8)万一事故があった場合、応急手当は致しますが、その後の責任は負いません。
(9)車・バイク等の伴走は禁止します。
(10)一般車両が通行しますので、道路の左側一列走行をお願いします。
(11)コース及び運営細目にかかる若干の変更にご協力ください。



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秋晴れの空の下、サイクリングというのもいいものだと思います。単に「サイクリング大会」ではなく、「趣旨」にあるとおり「「ほんとうの空、あの光るのが阿武隈川」と智恵子抄に詠われた雄大な安達太良山を背に」としているところもいいですね。心の風景である安達太良山への誇りが感じられます。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月7日

平成7年(1995)の今日、歴史春秋社から伊藤昭著『愛に生きて―智恵子と光太郎―』が刊行されました。

著者の故・伊藤氏は旧油井村の智恵子生家近くに育ち、今も活動の続く「智恵子の里レモン会」会長をなさっていました。昭和23年(1948)には、花巻郊外太田村の山小屋の光太郎に会いに行かれました。

この書籍は平成3年(1991)から翌年にかけ、『毎日新聞』福島版に連載されたものを、近代文藝社から自費出版、さらに地元福島の出版社・歴史春秋社から再刊したものです。

入門編の智恵子評伝として、好著です。


競馬関連のネタを2つ。

先週の『日刊スポーツ』さんに以下の記事が載りました。 

祭りが生んだ名騎手田辺/福島県二本松市

 ちょうちんと芸術センスが、名ジョッキーを生んだ-。変幻自在な騎乗で知られる競馬騎手田辺裕信(31)は福島県の古き城下町、二本松市出身。家族、友人を訪ねていくと、同市独特の歴史と文化に秘密が隠されていた。

 田辺と記者は実は二本松一中の同級生だ。中3の秋「田辺が競馬学校に受かった!」と学校中が大騒ぎになったのを今でも覚えている。あれから約16年。現在、全国リーディング9位(5月17日現在)。騎乗依頼もひっきりなしに来ると聞く。トップジョッキーとなった田辺のルーツを探るため、まずは二本松駅近くにある実家のご両親を訪ねた。まず出てきたのは「祭り」の話だった。

 父敏勝さん(60) とにかくお祭りが大好きで。太鼓を買ってあげて、小さい頃からたたいていたから半端じゃなく上手なのよ。

 祭りとは、江戸時代から約350年続く郷土行事「二本松提灯祭り」のこと。市内7町の太鼓台に約300個のちょうちんが飾られ、秋の夜空を照らす幻想的な祭りだ。「タンタ、タンタ、タンタタン」のリズムを打つ「しゃぎり」というはやしが特徴。各町に代々伝わる無数の祭りばやしも聞き応えがある。毎年10月4、5、6日前後に行われ、外に出た人たちも故郷に帰ってくる一大イベントだ。男の子なら、幼い頃からちょうちんで彩られた太鼓台に乗るのを夢見る。通常、小3から祭りに参加し、太鼓をたたくことができるが、田辺は我慢しきれずその前に、自ら太鼓台を作ってしまったという。

 母夏江さん(59) 乳母車を改造して太鼓を乗せて「ミニ太鼓台」をつくるわけ。最初は段ボールにちょうちんの絵を描いて付けていたけど、次は木材でやぐらを作ったり。どんどんグレードアップしていって。

 この手作り太鼓台で一緒に遊んでいた小、中の同級生加藤大史さんに聞くと「確かにあいつは学年で(太鼓をたたくのが)一番うまかった。センスがあった」と教えてくれた。中3の秋、競馬学校の1次試験日は祭りの翌日の10月7日だった。誰もが認める「祭り大好き男」は、祭りへの参加をやめ、試験勉強に集中した。「提灯祭り」は二本松の男が、仕事、家庭を犠牲にしても命をかけて守るもの。祭りにかけていたエネルギーをそのまま競馬にぶつけたからこそ、今の成功につながったんじゃないだろうか。

 「こんなのも残してあるのよ」と夏江さんが見せてくれたのが小学校の図工の時間に作った「提灯祭り」をモチーフにした箱。箱を開けると、ちょうちんが付いた「スギナリ」が飛び出す仕組みで、太鼓台を細部まで紙と絵で表現してある。小学生が作ったとは思えない高いクオリティーに正直びっくりした。

 敏勝さん あいつは、絵も上手で、小学生の時に祭りの絵を描いて、賞を取ったこともあった。海外に出品されて戻ってこないんだけど。見ている人が細かく描いてある、すごい絵だったよ。

 田辺の祖父勝利さんは大工だったという。手先の器用さはそこから受け継いだのか。思えば、二本松は芸術の町でもある。明治時代から大正時代にかけ、当時女では珍しい画家を目指し上京した高村智恵子。昭和にかけ日展で活躍した木彫家橋本高昇。現在では日本画家の大山忠作。多くの芸術家を輩出してきた。音楽でも、伝説のパンクロッカー遠藤ミチロウがいる。城下町で坂が多く、絵になる風景がたくさんある。精緻な調度が魅力の二本松箪笥(たんす)を売る家具ストリートもある。

 私も芸術の学校に進んだし、二本松市の知り合いには音楽、文筆、写真、デザインと文化系の道を進んでいる人が確かに多い。前に田辺に競馬で心がけていることを聞いた時、「人と同じことしちゃダメ。やっぱり目立たないと」と話していた。後輩の競馬記者柏山自夢にいわせれば田辺は「型にとらわれない騎乗をする『美浦の魔術師』」だそうだ。祭りで培われたリズム感。風土の影響を受けた自由な精神。二本松の土地が知らずと、変幻自在のジョッキーを生んだと納得して故郷を後にした。【高場泉穂】

 ◆二本松市 福島県中通り地区にある元二本松藩の城下町。05年に安達、岩代、東和町と合併。総面積は344・60平方キロメートル。人口5万7376人。(15年5月1日現在)主な特産は日本酒、和菓子。主な出身有名人に歴史学者の朝河貫一、「智恵子抄」で知られる高村智恵子、ミュージシャンの遠藤ミチロウら。

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智恵子と同じ二本松出身で、こういう方がご活躍なさっているとは存じませんでした。

競馬界で活躍、と言えば以前にもご紹介した、「智恵子抄」から名を取った競走馬「トゥルースカイ」。今年3月には初勝利を収めました。初勝利の次のレースは7着と振るわなかったのですが、先月あった2回のレース、5月1日の「サンライズ賞」で1着、先週の「稲荷山特別」でも2着と、また好成績でした。

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田辺騎手、トゥルースカイ、ともに今後とも、さらに飛躍してほしいものです。

007 (2)
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月3日

平成11年(1999)の今日、草の根出版会から小松健一著『母と子でみる A8 詩人を旅する』が刊行されました。

著者の小松氏はフォトジャーナリスト。

「自己を罰した奥羽の山小屋」の項で、二本松、そして花巻での光太郎智恵子を紹介しています。

その他、宮沢賢治、石川啄木、萩原朔太郎、与謝野晶子、佐藤春夫、中原中也、北原白秋など、光太郎と縁の深かった詩人達も取り上げられています。

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