7月18日(日)の『東京新聞』さん。現代教育行政研究会代表・前川喜平氏によるコラムで、光太郎の父・光雲と、光太郎について触れられていました。

本音のコラム 楠木正成の亡霊

 二〇二一年防衛白書が公表された。台湾情勢の安定が日本の安全保障にとって重要との記述が盛り込まれたが、このような記述は専守防衛の原則を逸脱している。 
 だが、僕がまず違和感を持ったのは、その表紙が皇居外苑の楠木正成像を描いた墨絵だったことだ。高村光雲と弟子が造ったこの銅像は確かに傑作だが、なぜそれが防衛白書の表紙なのか。 戦前の皇国史観において、楠木正成は天皇に忠義を尽くした忠臣と称(たた)えられた。七生滅賊(七回生き返って朝敵を滅ぼす)は正成が残した言葉だ。
 高村光太郎が敗戦後に書いた「楠公銅像」という詩がある。楠木像の木型を天皇にご覧に入れたとき剱(つるぎ)の楔(くさび)を一本打ち忘れたため、風が吹くたび劔が揺れた。「もしそれが落ちたら切腹と父は決心していたとあとできいた」「 父は命をささげていたのだ。 人知れず私はあとで涙を流した」この詩は父光雲の忠義を賛美しているのではない。それに感動した自分を深く反省しているのだ。
 光太郎は「典型」という詩で自らを「三代を貫く特殊国の特殊の倫理に鍛えられ」た「愚劣の典型」と呼んだ。 楠木正成に象徴される忠君愛国の倫理を捨て、その倫理に染まっていた愚劣な自己と決別したのである。私たちは光太郎の精神的転回を追体験すべきだ。 楠木正成の亡霊を呼び起こしてはいけない。 

001右が問題の『防衛白書』表紙です。前川氏のコラムを読む前に、この表紙を目にしましたが、やはり当方も強烈な違和感を感じました。最初に見たのはツィッターででした。ネトウヨが「素晴らしい! 七生報国の精神の顕現だ!」と大絶賛していたのです。

前川氏もおっしゃる通り、光雲が主任となって造られた楠木正成像、この時代の銅像としての出来は群を抜いています。また、楠木正成という人物が、ある種の「英傑」であったであろうことを肯んずるにも吝かではありません。また、西元祐貴氏による雄渾な墨絵も確かに素晴らしいと思います。

しかし、なぜ、『防衛白書』に楠木正成なのか、ですね。どうも、本当は東郷平八郎なり、山本五十六なりを持ってきたかったものの、そうもいかないので、仕方がないから楠木正成、というふうに感じられます。深読みしすぎでしょうか?

さて、前川氏が引かれている光太郎詩「楠公銅像」(昭和22年=1947)、以下の通りです。

    楠公銅像002


 ――まづ無事にすんだ。――
 父はさういつたきりだつた。
 楠公銅像の木型(きがた)を見せよといふ
 陛下の御言葉が伝へられて、
 美術学校は大騒ぎした。
 万端の支度をととのへて
 木型はほぐされ運搬され、
 二重橋内に組み立てられた。
 父はその主任である。
 陛下はつかつかと庭に出られ、
 木型のまはりをまはられた。
 かぶとの鍬形の剣の楔が一本、
 打ち忘れられてゐた為に、
 風のふくたび剣がゆれる。000
 もしそれが落ちたら切腹と
 父は決心してゐたとあとできいた。
 茶の間の火鉢の前でなんとなく
 多きを語らなかつた父の顔に、
 安心の喜びばかりでない
 浮かないもののあつたのは、
 その九死一生の思が残つてゐたのだ。
 父は命をささげてゐるのだ。
 人知れず私はあとで涙を流した。

光太郎が、戦時中の翼賛活動を推進したことを恥じ、戦後になって蟄居生活を送っていた、花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれました。自らの半生を振り返って書かれた20篇から成る連作詩「暗愚小伝」中の1篇です。

「暗愚小伝」全体は、翼賛活動の積極的推進に関わった自らの「暗愚」を表出するものですが、「楠公銅像」を含む幼少年期を振り返った「家」の項7篇は、そうした意識は薄いと思います。のちに「天皇あやふし」と思うに到った愚劣な自己が、どのように形成されたのか、――吉本隆明の指摘する「骨がらみ」の問題――という自己分析の側面が強いと思われます。

いずれにせよ、前川氏の箴言どおり、「楠木正成の亡霊を呼び起こしてはいけない。」ですね。

【折々のことば・光太郎】

朝のみそ汁にアイコを入れる。この山菜美味。


昭和23年(1948)5月15日の日記より 光太郎66歳

「アイコ」は俗称で、正式には「ミヤマイラクサ」。光太郎が蟄居していた岩手のお隣、秋田では「山菜の女王」と呼ばれ、珍重されているそうです。