当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生の『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』の書評が、『毎日新聞』さん及び系列の地方紙に掲載されました。

『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」』=北川太一・著、小山弘明ほか監修 (文治堂書店・1650円)

000 北川太一は1925年生まれ。長く高校の定時制教員を務める傍ら、高村光太郎(1883~1956年)の全集編纂(へんさん)、研究、顕彰に努めた。旧制東京府立化学工業学校で同学年だった吉本隆明が評論『高村光太郎』(決定版、66年)で北川への信頼、畏敬(いけい)を記すなど、知る人ぞ知る存在である。2020年1月に94歳で没した。死の前年に書かれた遺稿に親交のあった人々の文章を加え、「追悼/回想文集」を兼ねる。
 遺稿の表題は、宮沢賢治(1896~1933年)の「雨ニモマケズ」中にある「デクノボー(木偶の坊)」と、光太郎が戦後に書いた詩「暗愚小伝」の「暗愚」を指す。どちらも複雑な自己規定を語る言葉だが、北川はこれらをキーワードとして両者の関わりを掘り下げている。
 光太郎が早くから賢治を高く評価したことは知られているが、著者は、ほぼすれ違いに終わった二人の交渉、戦後の光太郎が賢治とのゆかりで岩手県花巻近郊に送った流謫(るたく)の過程を丹念にたどる。その上で「雨ニモマケズ」の「反語」性という大胆な仮説を提示しつつ、デクノボーから暗愚への一筋の連なりを見いだす。生の意味を問う魂の軌跡。


「監修」を頼まれ、まぁ、結局、集まった原稿(原稿の選定は版元の文治堂書店さん)に、おかしなところはないかのチェックをし、手直し。さらに30ページほどで解説のような文章「「没我利他」の系譜 賢治・光太郎、そして北川太一」を書かせていただきました。

最も悩んだのは、タイトルの「デクノバウ」。

元々、賢治が昭和6年(1931)、手帳に記した段階では「デクノボー」となっていました。
001
ではなぜ、北川先生が「デクノバウ」としたのかというと、光太郎が、賢治没後の昭和13年(1938)に、雑誌『婦人之友』に発表した散文「宮沢賢治の詩」で、「デクノバウ」と表記しているためです。

光太郎は、

此の詩人の死後、小さな古い手帖の中に書き残された言葉があつた。その人となりを知るに最も好適なので此処に採録して置く。

とし、この後、「雨ニモマケズ」全文を記しています。その中で、該当箇所が「デクノバウ」となっているのです。光太郎、この時、手帳そのものを見ながら筆写したわけではなく、既に活字になっていたものから引き写したと思われます。ちなみに歴史的仮名遣いでは「木偶の坊」は確かに「デクノバウ」となります。おそらく賢治は「木偶の坊」という漢字表記を思い浮かべることなく、発音通りに「デクノボー」と書いたのではないでしょうか。

そして北川先生も、光太郎の「宮沢賢治の詩」を最初に引いていらして、そのため、「デクノバウ」とされているのです。

そこで、賢治が書いた通りに「デクノボー」と直すか、正しい表記の「デクノバウ」で行くか悩んだのですが、結局は「デクノバウ」のままとしました。

まだそう言う声は聞こえてこないのですが、もし、「賢治は「デクノボー」と書いてるぞ、「デクノバウ」とはなんだ、けしからぁん」的なご意見がありましたら、そういう経緯で「デクノバウ」としていますので、よろしくお願いします。はっきり言うと、コアな賢治ファンの中には、狂信的ともいえる人が少なくなく、すみませんが、辟易することがあります。

さて、『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』、ぜひお買い求め下さい。また、他の書評欄等でもぜひ紹介していただきたいものだと存じます。

【折々のことば・光太郎】

午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳新らし。 入浴、抹茶、夕飯後又抹茶、甚だ快適なり。入浴客も少し。


昭和23年(1948)5月11日の日記より 光太郎66歳

この時期、たてつづけに三回、花巻南温泉峡・鉛温泉さんに宿泊しています。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、4㌔㍍ほど歩いて、当時走っていた花巻電鉄の二ツ堰駅まで行けば、意外と楽に行けたことも大きかったでしょう。

三十一号室」は現存し、当方も一度、泊めていただきました。