昨日は、都内六本木の新国立美術館さんにて、書道展「第40回日本教育書道藝術院同人書作展」を拝見して参りました。
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光太郎詩が題材にされた書が、複数、入賞しているという情報を得たためです。

まず、同人の部・会長奨励賞の平井澄圓氏の作品。
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昭和10年(1935)の光太郎エッセイ「新茶の幻想」からの抜粋です。この文章、長らく初出掲載誌が不明でしたが、同年6月30日発行の『週刊朝日』第27巻第31号に掲載を確認しました。
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この年のはじめに、南品川ゼームス坂病院に入院した妻・智恵子と、この年秋に亡くなる父・光雲、自分も含め、茶が好きだった三人での新茶にまつわる回想を軸にした、実に味わい深いエッセイです。いわば『智恵子抄』を補完する位置づけのような。

五月、五月、五月は私から妻を奪つた。去年の五月、私の妻は狂人となつた。

去年」は昭和9年(1934)。かなり前から異状が見られ(詩人の深尾須磨子は、大正10年=1921には、既に智恵子の言動に異様なものを感じていました)、昭和7年(1932)には自殺未遂を起こした智恵子ですが、それでも会話が成り立っていた間は、光太郎はまだ「狂人」と認識していなかったということでしょう。「去年の五月」に、千葉九十九里に移り住んでいた智恵子の妹・セツ夫婦や智恵子の母・センの元に、智恵子を預けました。それによって、智恵子は浜に飛来する千鳥の群れと一体化し、「人間商売さらりとやめて、/もう天然の向うへ行つてしまつた」(「千鳥と遊ぶ智恵子」昭和12年=1937)、「智恵子はもう人間界の切符を持たない。」(「値ひがたき智恵子」同)状態になったのが、「去年の五月」というわけですね。

智恵子は今どうしてゐるだらう。千羽鶴は折れたか。茶の味は忘れたらうか。

痛切な結びです。ちなみにこの時点では、まだ奇跡と言われる紙絵の制作は始まっていなかったようです。

平井氏、このマイナーなエッセイを題材になさったところに、まず驚きました。それから、作品の中央、「二度ともうかへつて来ない時間といふことをその瞬間に悟らせながら」あたりをズドンと大きな字で書かれている手法。音楽で言えばサビというか、ヤマ場というか、そういう感じを視覚的に表現されたということでしょうか。
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他にも、光太郎詩を書かれた方が複数。
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同人の部・特選の石山恍遙氏。書かれているのは、御存じ「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。意図的と思われる滲みが、アクセントになっていますね。

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無鑑査出品の谷美翠氏。「狂者の詩」(大正元年=1912)。日本の文学作品で、コカコーラが登場した初のもの、とも言われている詩です。

こちらの会を創設した、故・大渓洗耳氏の遺作を集めたコーナーにも。
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ぐっと下って昭和22年(1947)作の「リンゴばたけに……」。七五調四句の今様体で書かれた即興詩で、おそらく生前には活字になることがなかったものです。

ちなみに、同じ詩の光太郎自身の揮毫はこちら。
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下の画像の方は、親しかった美術史家の奥平英雄に贈った画帖『有機無機帖』から。左端には、智恵子のそれを模して光太郎が作ったリンゴの紙絵が付されています。使っている紙は、洋モク(死語ですね(笑))の包み紙です。

その他、当会の祖・草野心平をはじめ、光太郎と交流の深かった面々、与謝野晶子、宮沢賢治、中原中也、尾崎喜八などの詩文書を書かれた作品も散見されましたし、以前に光太郎詩を書かれて、東京書作展などで入賞されたりした方々の作品(光太郎詩文ではありませんでしたが)なども出ていて、興味深く拝見して参りました。

会期は7月4日(日)まで。コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ガンジー暗殺されし由、初めてきく。


昭和23年2月1日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、まだ電線が引かれておらず、ラジオも聴けませんでした。たまたま訪ねてきた村人との世間話の中で、2日前のニュースを知ったようです。