昨日は、1月に亡くなった父親の納骨のため、茨城県の取手市に行っておりました。

時間を間違えまして、かなり早く到着。何を間違えたのか(時間を間違えたのですが(笑))、14時からの筈が11時からと思いこんでおり、お寺さんに着いてから気がつきました。

時間を潰すため、うろうろしました。まずはお寺さんの近くにある市立の埋蔵文化財センターさん。
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当方、そちら方面にも興味がありますし、ここは思い出の地でもあります。平成13年(2001)の8月に、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご講演が行われ、拝聴に伺いました。光太郎の書も展示された「取手ゆかりの人びとの書」という企画展の関連行事でした。
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すると20年ぶり。ついこの間のような気もしていましたが……。

現在は「取手の発掘50年史」という企画展で、市内各地の遺跡から発掘された縄文~平安の出土品のうち、特に珍しいもの、資料的価値の高いものをセレクトしての展示で、興味深く拝見しました。
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それから、入り口付近に、過去の企画展の簡易図録がずらっと並べられ、無料で配付されていました。大量に余らせても仕方がないし、リサイクルに出すのも……というわけでしょう。「ほう」と思いつつ、手にとって眺めていると、一昨年に開催された「大正時代の取手―明治と昭和をつなぐ時代―」という展示の簡易図録に、光太郎の名。
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画像は昭和23年(1948)に建立された「開闡(かいせん)郷土」碑。取手駅近くの長禅寺さんの石段脇に現存するものです。よくある郷土の開拓、発展の歴史を振り返り、功労者を顕彰する的な碑ですが、その題字「開闡郷土」を光太郎が揮毫しました。
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こちらは平成28年(2016)に当方が撮影したもの。この時点ではこの碑、繁茂する篠竹に覆われて、もはや普通に見ることが出来なくなっていましたが、竹をかき分けて撮影しました。

上記簡易図録に載っている画像は、おそらく建立当時ものと思われ、これは初めて拝見しました。

その後、玄関付近に「本日は旧取手宿本陣染野家住宅も公開中です。ぜひ足をお運び下さい」的な掲示が為されており、そちらにも行ってみることにしました。車で10分足らずの場所ですが、車を駐めにくいところでして、これまで未踏の場所でした。
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ここでいう本陣、旧街道沿いで、江戸時代、参勤交代等の際に、お殿様などが宿泊するための施設です。取手は旧水戸街道の交通の要所でしたので、本陣が設けられていました。
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意外と質素な表門。
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本陣母屋。萱葺きの屋根が特徴的です。
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脇には蔵。

無料で母屋内部の見学が出来ました。
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基本、殿様が宿泊するとはいえ、宿屋というわけではなく、土地の有力者の邸宅の一部です。福島二本松の豪商だった智恵子の生家と似ている、と感じる部分がありました。
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しかし、商家ではありえない造作も。例えば、床下には曲者の侵入を防ぐ工夫。
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そうかと思うと、竈も同じ棟にあったりしました。
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明治になって、本陣としての役目を終えてから、この家の持ち主の染野家が、一時、郵便業務を行っていたそうで、その名残。
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草創期の郵便配達夫は拳銃を携行していたと、これは意外と有名な話ですね。
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現物は先ほどの埋蔵文化財センターさんに展示されていました。

裏手の高台には、ここに宿泊した徳川斉昭(大河ドラマ「青天を衝け」では、竹中直人さんが熱演(怪演?)なさっていましたね)の書を刻んだ碑。
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母屋の玄関部分には、取手の古写真等もパネル展示されていました。その中で出典が『取手たより』となっていたものが複数在りました。どうも古い地方紙のようですが、当方、寡聞にしてその存在を知りませんでした。

「もしかすると」と思い、本陣近くの取手市立図書館さんへ。何が「もしかすると」なのかといいますと、「開闡郷土」碑と同じ長禅寺さんにある蛯原萬吉像に関して、情報が得られるかも、というわけです。

蛯原萬吉像、以前にも書きましたが、初代は昭和8年(1933)の建立。その後、戦時中に金属供出にあって喪われ、2代目が昭和50年(1950)に復元されました。その2代目の建立の際に付けられたプレートに、初代の像が光太郎の作であったと明記されていましたが、こちらではその像の制作に光太郎が関わったという情報は一切ありませんでした。

そこで、国立国会図書館さん所蔵の『蛯原萬吉伝: 財界の偉傑』を千葉県立東部図書館さんのパソコンで拝見、それから、先月、父親の四十九日の法要の際に、やはり取手市立図書館さんで『取手市史』をあたりましたが、初代の像の作者名は不明のままでした。
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『取手市史』には、現在も刊行が続く『茨城新聞』(当時の紙名は『いはらき』)の記事が引用されていましたが、作者名は書いてありませんでした。

そこで取手の地方紙『取手たより』なら、と思い、探したところ……。
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やはり作者名は無し。

先述の『蛯原萬吉伝: 財界の偉傑』、遺っている初代の像のプレートも同様で、そうなると、この時期に一応彫刻家として名を成していた光太郎の作であれば、考えにくいというのが結論です。やはり、2代目の像のプレートに初代の像の作者が光太郎、とあったのはガセなのかな、という感じですね。もう少し調査は続けてみますが……。

ところで『取手たより』で、これまた長禅寺さんに建つ、「小川芋銭先生景慕之碑」の除幕(昭和14年=1939)に関しての報道を見つけました。
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「開闡郷土」碑同様、題字のみ光太郎が揮毫したものです。

そういう意味では収穫無し、という事態には成らずに済みました。

それから、昼食のために立ち寄った本陣のすぐ近くの蕎麦屋さん。注文したカツ丼(冷たいミニたぬき蕎麦付き)を待つ間、テーブルに置いてあった『茨城新聞』を読んでいると……。
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読者投稿欄です。奇縁に驚きました。

どうも取手に足を運ぶといろいろ奇縁があります。2月の父の葬儀の帰りには、それまでその所在地が不明だった光太郎揮毫の墓石(初代取手市長・中村金左右衛門の子息二人=共に戦死)を偶然に見つけたりもしました。

いずれ、不明である初代蛯原萬吉像の作者も判明することを祈っております。

以上、長くなりましたが、取手レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

雨つよし。終日雷鳴を伴ふ豪雨ふりつつき殆と止まず。到るところ水、水

昭和22年(1947)8月2日の日記より 光太郎65歳

上記『茨城新聞』の投稿句にもある、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の茅屋。元々は鉱山の飯場小屋を移築した粗末なものですし、山の麓で、おそらく斜面を滝のように水が流れ落ち、こうした豪雨の際は生きた心地がしなかったのではないでしょうか。光太郎は元々、幼少時から大の雷嫌いでしたし(笑)。