本日、4月2日(金)は、高村光太郎65回目の命日、連翹忌です。

今から65年前、昭和31年(1956)4月2日(月)午前3時45分、不世出の巨星・高村光太郎は、東京中野桃園町の貸しアトリエ(昭和23年=1948に急逝した水彩画家・中西利雄が建てたもの)で、宿痾の肺結核のため、天然の素中に還りました。

当会の祖・草野心平による「終焉日記」から。挿入されている「註」の部分は、『わが光太郎』(昭和44年=1969)掲載時に補われた部分、(注)は当方が書きました。

四月一日
 十二時中西宅へ電話。コップ一杯またはいた由。二時半電話。呼吸苦しき由、岡本先生、関先生(注・ともに医師)来診の由。二時半からトミーで現代詩人会総会、また幹事長にさせられる。八時頃中西宅へ電話、サンソ吸入ときき、現代詩人会の懇親会をこっそりぬけてかけつける。雪。ななめ、クリーナア(注・車のワイパー)、
 高村さん鼻にゴム管サンソキュウニュウ、(午后七時十五分頃から)八時二十五分に小生到着。今日より看護婦二人、看護婦と堀川さん(注・光太郎が雇っていた家政婦さん)と中西夫人とボクの五人。雪ふりつづける。苦しそう。高村豊周(注・光太郎実弟)夫妻と令息たち、鋳金の伊藤(注・十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の鋳造を担当した伊藤忠雄)、奥平(注・美術史家・奥平英雄)、難波田氏(注・画家・難波田龍起)など見えた由。
 朝、今日は気持ちがよいから早くたべたいとスパゲティとスープとウヰンナアソーセーヂ、木の芽あえをたべたいと言ったが、それを用意して持って行ったら、喀血、その前にスワンのブリのスープ、これは毎日お茶代りにのんでいた。夜はすしとサンドウヰッチを食べる予定だったが、結局朝から夜までスープだけしかのどを入らない。
 豊周氏に今日は苦しいから話ししないと言われた由、
 これを書いているの九時。三十分ほどだが、ずいぶん永い時間の気がする(酸素吸入は、自分でしたいと言われた由)
 アトリエの台所で私独りだけ、しずかにのむ。写真アルバム(注・
前日にはそのゲラを見た筑摩書房刊行『日本文学アルバム19高村光太郎』)「どうでもいいよ、一生があればっかりかと思ったら、でも面白いね。」
 看護婦(加藤( )さん(注・( )内空欄)、小野瀬鈴子さん)
 十時、電気をくらくする。「そこにいるの草野君?」と看護婦にきく、そうですというと、「今日一日胸が苦しくってね」という「苦しいでしょう。」というと「うん。」
 十時半、「僕もそろそろ死に近づいているんだね。」眠り薬をのまる。
009註・二度目に電話したのは水道橋のグリルトミーからだった。私は当時現代詩人会の幹事長をしていたので、この日のH氏賞の決定の詮衡(せんこう)と引続いて年一回の総会にはどうしても出席しなければならなかった。H氏賞は鳥見迅彦の『けものみち』に決り(その題字は高村さんがかいたもの)総会もすんだ。それから懇親会に移ったが、折を見て中西さんへ電話すると酸素吸入をしているとのことでビックリした。
 この日はひるまから雪だったが、夜になってもやまなかった。大きな牡丹雪だった。
 運転台のガラス窓にふきかかる雪が、どうしたことか私に思いもよらない聯想を呼びおこさした。ゴッホの最晩年の「鴉のいる麦畑」の、あのむらがる鴉なのだ。そのむらがりをクリーナーが左右にはじく、むらがる、はじく。私はただなんとなくクリーナーだけを信ずるような気持ちだった。
 アトリエのなかは薄暗かった。電気になにかをかぶせたのか普通よりずっと薄暗かった。両方の鼻の穴から二本のゴムのくだがのびフラスコのなかはブクブク泡立っていた。吐く息も吸う息も苦しそうだった。安楽死、ふとそんなことがあたまをかすめた。看護婦が一人ふえているのが無気味だった。元からいた看護婦が冷蔵庫から玉ずし(注・アトリエ近くの寿司屋の折り詰め)を台所に持ってきて
「もう今晩はとてもあがれませんから、あがって下さい。」
 と私に手渡した。私は一つだけつまんだ。
020 写真アルバムについての「どうでもいいよ、一生があればっかりかと思ったら、でも面白いね。」この言葉を、高村さんがいつ言われたのだったか、私の記憶はぼんやりしているが、この言葉は高村さんの話し方で書かれているから、その晩に言われた言葉だったことはたしかである。
 私は時たま、台所からアトリエをのぞいた。看護婦が椅子にかけてうしろの方に近づくと、その気配で察したのか、
「そこにいるの草野君?」
 と高村さんが看護婦にきいた。
 看護婦がそうですと答えると、高村さんは「今日一日胸が苦しくってね」と喘ぎながら言われた。苦しいでしょうと、私がいうと「うん。」といわれたまま、それっきりまた喘ぎがつづいた。私は二十分ほどつったっていたが、
「僕もそろそろ死に近づいているんだね。」
 と私に言うとも誰に言うとも独り言とも思えるように言われた。私はギョウ然としたまま何も言えなかった。それからまた十分ほどして「あだりんを飲もう」といわれた。睡眠剤は、どんな場合にも適量以上にはのまれなかったそうである。その時も普通の意味での「アダリン」だったと思うのだが――。けれどもそれから以後、高村さんの口からはなんの言葉も洩れなかった。高村さんが薬をのまれてから私は無言のまま台所にもどり、しばらくいた。そしてしずかにドアをあけて雪のなかにでた。

四月二日
 3時半頃起こされる 中西家の令息たちに、あぶないから――
 3時45分永眠、まにあわず高村豊周夫妻、4時かけつける、関先生岡本先生。
註・夜中の三時半頃ドンドンドアを叩かれた。ハッと思った。起きてみると案の定中西さんの二人の令息がたっている。その頃はもう雪はやんでいたと思う。待たしてある自動車にのって桃園町にかけつけた。
 たばこ屋の角を曲ると、中西家の前に自動車が一台とまっていて、ドアがあくところだった。すぐ高村豊周氏夫妻であることが分った。中西家は母屋からアトリエのドアまで明けっぱなしになっていた。私のすぐ前を豊周氏夫妻がアトリエにはいった。つづいて私。関先生と岡本先生がぼんやりたっていた。誰も最後には間に合わなかった。


感情を表す語を極力廃し、淡々と事実のみを記述していますが、それでも溢れ出る哀惜の念を隠しきれないところが、光太郎に対する草野心平です。

この時、貸しアトリエの庭には連翹の花が咲き誇っていました。まだ少し元気だった頃の光太郎、「連翹」という名を知らず、アトリエの大家だった中西夫人に、「何という花ですか」と尋ねたとのこと。そして「あれは「連翹」という花ですよ」との答えに「かわいらしい花ですね」。
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4月4日、青山斎場で執り行われた葬儀の際は、その連翹が一枝、光太郎愛用のビールのコップに挿され、棺の上に飾られました。
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そこからの発想で、光太郎忌日を「連翹忌」と命名したのは、心平と同じく、光太郎と親しかった佐藤春夫。第一回連翹忌は、光太郎の亡くなった中野のアトリエで行われ、光太郎を偲ぶ人々が集い、以後、何度か会場を変えながら、平成11年(1999)から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんに会場が落ち着きまして、現在に至ります。

平成23年(2011)の第55回は東日本大震災のため、昨年の第64回はコロナ禍のため、それぞれ集いは中止。そして今年もコロナ禍明けやらず、2年続けての中止といたしました。残念です。

今日は、当方自宅兼事務所に咲いている中野アトリエの連翹の子孫を剪って、駒込染井霊園の髙村家奥津城に手向けて参り、それを持って第65回連翹忌とさせていただきます。
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皆様におかれましては、それぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければ、と存じます。

【折々のことば・光太郎】

朝食前部落の青年達多勢来てヤトヂをとり除き、萱を背負ひかへる。六時のサイレンが鳴る。茶を出す。前の田で萱の大焚火をたく。


昭和22年(1947)5月3日の日記より 光太郎65歳

「ヤトヂ」は雪よけのため家屋の回りに巡らす萱(かや)の束です。花巻郊外旧太田村、5月はじめまでそれが必要だったのですね。
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これを燃やせば確かに「大焚火」でしょう。