いよいよ3.11となりました。あの日から10年……。長かったような、あっという間だったような、そんな感じです。
震災前から親しくさせていただいていた、宮城県女川町の女川光太郎の会事務局長で有らせられた貝(佐々木)廣さん。
とにかく郷土愛に燃えた方でした。昭和の終わり頃、光太郎詩に女川の文字が書かれていることを再認識し、女川に光太郎文学碑を建てることを決意、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご協力を仰がれました。「お子さんから大人まで、みんなが小さなお金を出し合って立てるのが一番いいですね」という北川先生のお言葉を実践され、「一口百円募金」で浄財を6年がかりで集められて、平成3年(1991)、当時の女川海浜公園に完成させました。ちなみにこの「一口百円募金」が、震災後の女川で建てられ続けている「いのちの石碑」のヒントになりました。
中央のプレートは、光太郎自筆の文字を拡大したもので、短歌「海にして 太古の民の おどろきを われふたたびす 大空のもと」(明治39年=1906)が刻まれています。その両脇は、光太郎の紀行文「三陸廻り」(昭和6年=1931)の一節。北川先生が書かれた文字です。おそらく、北川先生の文字が碑になっているのは、これが唯一ではないかと思われます。一番外側の二つは、光太郎が描いた「三陸廻り」の挿画です。
この碑以外に、「海にして……」のプレートの真下に、同じ短歌を活字で刻んだ小さい碑、少し離れた場所に光太郎詩「霧の中の決意」(昭和6年=1931)、「よしきり鮫」(同12年=1937)を、やはり光太郎自筆の文字から採った碑が二つ。立派な文学碑公園でした。
そして、よくある文学碑を建てて建てっぱなしとならず、翌平成4年(1992)からは、碑の前で「女川光太郎祭」を廣さんが中心となって始められました。北川先生の連続講演、地元の皆さんの光太郎詩朗読、オペラ歌手・本宮寛子さんやギタリスト・宮川菊佳さんの演奏……。
そして平成23年(2011)の今日、廣さんは、あの津波に呑まれ、還らぬ人となりました……。
4基あった光太郎文学碑も、中央の大きな碑は根本から倒壊、「よしきり鮫」の碑と、短歌を活字で刻んだ碑は今以て行方不明です。
ただ、昨年には残る二つの碑を再建し、周辺はやはり横倒しとなった旧女川交番などとともに、メモリアルゾーンとしてほぼ整備が完了したそうです。北川先生の跡を継いで、連続講演を仰せつかっている女川光太郎祭、昨年はやはりコロナ禍のため中止となり、まだ再建された碑は見ていません。
今週月曜日、Yahoo!さんのニュースサイト「Yahoo!ニュースオリジナル」に、廣さん、そして奥様の英子さんが大きく取り上げられました。

ちなみに下の画像は、亡き廣さんが描いた、亡き北川先生の絵です。

その北川先生も、もはやこの世にいらっしゃいません……。
さて、10年という節目でもありますし(被災者の方々にとっては、何年だろうとあまり関係ないのかもしれませんが)、何だか居ても立っても居られない思いがこみあげ、今日はこれから女川に行って参ります。
可能であれば町主催の追悼式典に参加させていただき、さらに英子さんにお会いし、そして再建なった光太郎碑や、「いのちの石碑」なども見てこようと思っております。
【折々のことば・光太郎】
風つよく(西北)積雪を吹きとばし、白煙のやうにもうもうと雪ふきちる。飛雪風景をかき消す。
場所は蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。いわゆる地吹雪ですね。
震災前から親しくさせていただいていた、宮城県女川町の女川光太郎の会事務局長で有らせられた貝(佐々木)廣さん。
とにかく郷土愛に燃えた方でした。昭和の終わり頃、光太郎詩に女川の文字が書かれていることを再認識し、女川に光太郎文学碑を建てることを決意、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご協力を仰がれました。「お子さんから大人まで、みんなが小さなお金を出し合って立てるのが一番いいですね」という北川先生のお言葉を実践され、「一口百円募金」で浄財を6年がかりで集められて、平成3年(1991)、当時の女川海浜公園に完成させました。ちなみにこの「一口百円募金」が、震災後の女川で建てられ続けている「いのちの石碑」のヒントになりました。

この碑以外に、「海にして……」のプレートの真下に、同じ短歌を活字で刻んだ小さい碑、少し離れた場所に光太郎詩「霧の中の決意」(昭和6年=1931)、「よしきり鮫」(同12年=1937)を、やはり光太郎自筆の文字から採った碑が二つ。立派な文学碑公園でした。
そして、よくある文学碑を建てて建てっぱなしとならず、翌平成4年(1992)からは、碑の前で「女川光太郎祭」を廣さんが中心となって始められました。北川先生の連続講演、地元の皆さんの光太郎詩朗読、オペラ歌手・本宮寛子さんやギタリスト・宮川菊佳さんの演奏……。
そして平成23年(2011)の今日、廣さんは、あの津波に呑まれ、還らぬ人となりました……。
4基あった光太郎文学碑も、中央の大きな碑は根本から倒壊、「よしきり鮫」の碑と、短歌を活字で刻んだ碑は今以て行方不明です。
ただ、昨年には残る二つの碑を再建し、周辺はやはり横倒しとなった旧女川交番などとともに、メモリアルゾーンとしてほぼ整備が完了したそうです。北川先生の跡を継いで、連続講演を仰せつかっている女川光太郎祭、昨年はやはりコロナ禍のため中止となり、まだ再建された碑は見ていません。
今週月曜日、Yahoo!さんのニュースサイト「Yahoo!ニュースオリジナル」に、廣さん、そして奥様の英子さんが大きく取り上げられました。
2年9か月間だけの結婚生活 「夫の分まで生きる決意」に至るまで 【#あれから私は】
2011年3月11日の東日本大震災から、10年。大規模な防潮堤整備や復旧工事は、海辺の被災地から生々しい津波の跡を消しつつある。一方で地域では、大切な人を失い、癒えない悲しみを抱えた人々が、懸命に毎日を生きている。復興途上の宮城県女川町で、亡き夫(享年64歳)の言葉に支えられ、前に進むことを決めた1人の女性のこれまでを取材した。(取材・文:下澤悠)
三陸地方南部の女川町で生まれ育った佐々木英子さんが、後に夫となる(旧姓・貝)廣さんと出会ったのは、20代のころ。日本舞踊の家元の稽古から帰る際の髪を結った浴衣姿が、鶏卵の配達中だった廣さんの目に留まったようだった。「絵を描かせてください」。以前から画家としての活躍を耳にしていた相手で、迷わず「はい」と答えていた。数日後に絵のモデルをして以降、父母が経営していた釣具店へ廣さんは頻繁に顔を出すように。英子さんも手伝っていた家業の店は、船頭やお客さん、友人までがお茶をしていく笑い声の絶えない空間だった。個性的でユーモアにあふれる人柄の廣さんも輪の中に加わり、互いに「えこちゃん」「貝さん」と呼び合うようになった。
「鋭いまなざしで、まさに『芸術家』という雰囲気が漂っていた」という廣さんは、鶏卵業のかたわら独学で絵画を研究。浜の漁師やその家族、抽象画など幅広いモチーフを描き、東北地方の公募美術展で毎年のように入選したほか知事賞獲得などの実績も多くあった。
文学にも造詣が深い廣さんが注目したのは、彫刻家で詩人の高村光太郎が昭和初期に執筆した三陸地方の紀行文。地元ではほとんど知られていなかった光太郎の作品や足跡を人々と振り返ることで、地域の文化を育てようとしていた。
光太郎の文学碑建立を目指す活動を廣さんと有志が立ちあげると、英子さんも参加した。一口100円で住民に寄付を募る運動を地道に続け、1991年、女川港の海を臨む公園に紀行文や詩を彫った文学碑が完成。顕彰のための式典「光太郎祭」も、毎年開催した。光太郎が三陸沖の航海を詠んだ詩「霧の中の決意」を地元の船頭自らが朗読すると、夜の濃霧を進む船の情景が人々の心に浮かんだ。光太郎の研究者による講演や招待したオペラ歌手の美声に感動のあまり涙した英子さん。「大変な苦労をして素晴らしい機会をつくってくれた」と、廣さんへの尊敬の気持ちがより強くなった。
文化的な教養に限らず知識が豊富で、さまざまなことを教えてくれた廣さん。警察官の兄が25歳の若さで殉職していた英子さんを、「人生には悲風や黒風が吹くけれど、必ず快風が吹くよ。元気出して。お兄さんはえこちゃんの心の中で生きているよ」と優しく慰めてくれた。「文字は一度手を離れると、一人歩きするからね」と書き物の怖さを指摘したこともあった。人の生き方や考え方について、そんな話をしてくれる人は他にいなかった。家で電話をする時も、廣さんの「宝物のような言葉」を手帳に書き記して聞き入った。
いつしか一緒に過ごす時間が長くなり、互いにかけがえのない存在になっていたが、2人ともそれぞれの家を継ぐ立場。それでも「結婚できなくても、そばにいられればいい」と思えるほど、「私にはこの人しかいない」と確信していた。後に英子さんの両親が亡くなり、「えこちゃんが一人になっちゃうから」と廣さんが佐々木家に入ってくれたときには、交際から30年近くがたっていた。英子さんの家で、ようやく一緒に暮らし始めた2人。誰にも気兼ねせずに一緒にいられるだけでうれしくて、楽しかった。
「死んで、夫のもとに行きたい」
2011年の3月11日は、2人で自宅にいた。突然起きた、大きな地震。これまでに経験のない長い揺れが収まると、廣さんは母と姉を心配して実家に向かった。その帰りを待つため、家にとどまろうとした英子さん。様子を見に来た友人が「津波が来る、逃げろ」と叫び、拒む英子さんを何とか安全な場所へと連れ出した。しばらくして町を襲った真っ黒な海は、夫婦で暮らした家も、みんなで建てた文学碑も、全てをのみ込んでいった。廣さんとは連絡がつかなくなっていた。
何が起きていたのかは、義姉の話で後に分かった。英子さんと別れた廣さんは、高台に暮らしていた母と姉の無事を確認。しかし周りが止めるのも聞かず、顔色を変えて英子さんのもとへ戻ろうとし、津波に巻き込まれていた。水が引いた後、2人で暮らした家の跡のすぐそばで、廣さんは発見された。
幸せだった結婚生活は、2年9か月で終わった。「死んで、貝さんのもとへ行きたい」と泣き続け、やつれていった英子さんを友人たちは慰め続けた。幼少のころから50年以上続け、師範まで務めた日本舞踊は、続けられなくなった。母が稽古に協力してくれたことや、廣さんも応援してくれたこと。全てを思い出し、つらくなってしまうからだった。
託された言葉と、やるべきこと
苦しい中でも英子さんたちは、「今やらないと、ずっとできなくなる」と、廣さんと始めた光太郎祭を震災の年も絶やさなかった。「何とか前に進もう」と英子さんが考えられたのは、廣さんが繰り返し聞かせてくれた言葉のおかげだった。「お兄さんは心の中で生きている」。同じように、「貝さんも私の心の中で生きている」と、少しずつ思えるようになった。
廣さんがよく自作の絵手紙を通じて励ましていた知人は、「津波で何も残っていないだろうから」と気遣い、受け取った約100枚のはがきを英子さんに届けてくれた。中でも心に響いたのは、「今日の春のように あかるく あかるく これ一番」の一文。知人宛だった廣さんの便りは英子さんを支えるメッセージへと変わり、「私が生きていけるように、貝さんが備えをしてくれていた」と思えてならなかった。廣さんのことをみんなに知ってほしくて、絵手紙はきれいにTシャツにプリントし、震災から1年後に仮設商店街で再開した釣具店で販売した。

月日が経過したからといって、心の深い痛みが癒やされるわけではないと英子さんは思う。あの日のことがフラッシュバックし、普段は「ふたをしているだけ」の悲しみが抑えきれなくなることはたびたびある。震災から数年がたっても、つらさがこみあげて涙が止まらず、仮設住宅の自室に閉じこもって誰にも会わない時期があった。
一方で、店に出て昔のように友人たちと過ごせば、自然と笑顔になれた。地元の新鮮な魚介を食べさせようとわざわざ持ってきてくれる仲間や、復旧支援が縁で新たにできた友人など、多くの人が寄り添ってくれた。離れていた日本舞踊は、廣さんが「えこちゃんは踊るために生まれてきたんだよ」と励まし、舞踊家としての内面の成長を導いてくれていた生きがい。教室での指導はもうできない。でも徐々に、「体が踊りたがっている」と感じられる。舞台に復帰できたら、慰霊や鎮魂の思いを込めた舞を震災で亡くなった方々へささげたい。そうやっていつのまにか、「振り返らず前だけを見て、明るく生きていきたい」と願っている自分がいた。落ち込むことがあっても、もがき、またはい上がることを繰り返して毎日を生きた。
英子さんと仲間は行政への働きかけを続け、文学碑の再建を昨年果たした。目の前には、廣さんが残した「やるべきこと」がまだたくさんある。文学碑は、外装を整える仕上げの作業が残っている。光太郎祭も、毎年続けていかないといけない。そして簡単なことではないけれど、いつの日か廣さんの絵の個展を開き、残した言葉を書物にできたら、という希望もある。
英子さんが今、はっきりと語るのは、「私は貝さんの分まで生きないといけない。生きている私に全部を託してくれたのだから、貝さんのもとに行くのはもっともっと先にする」という決意だ。いつかまた廣さんに会えたとき、「よく頑張ったね」と言ってもらえるように。
ちなみに下の画像は、亡き廣さんが描いた、亡き北川先生の絵です。

平成14年(2002)、60代の北川先生を描かれた絵です。千駄木の北川先生のお宅の、居間兼応接室に飾られていました。

下記は廣さんが亡くなる前年、平成22年(2010)のもの。翌年出版された『北川太一とその仲間たち』という書籍のために描かれたものです。

さて、10年という節目でもありますし(被災者の方々にとっては、何年だろうとあまり関係ないのかもしれませんが)、何だか居ても立っても居られない思いがこみあげ、今日はこれから女川に行って参ります。
可能であれば町主催の追悼式典に参加させていただき、さらに英子さんにお会いし、そして再建なった光太郎碑や、「いのちの石碑」なども見てこようと思っております。
【折々のことば・光太郎】
風つよく(西北)積雪を吹きとばし、白煙のやうにもうもうと雪ふきちる。飛雪風景をかき消す。
昭和22年(1947)2月11日の日記より 光太郎65歳
場所は蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。いわゆる地吹雪ですね。