まず、『山陽新聞』さんの記事から。

永瀬清子さんの逸話すごろくに 赤磐市教委作成、功績をアピール

 赤磐市教委は、市出身の詩人・永瀬清子さん(1906~95年)の誕生月(2 月)に合わせ、生前に交流があった詩人とのエピソードをたどるすごろくを作成した。ゆかりの詩人の詩集や著作を紹介するコーナーも市立中央図書館(下市)と熊山図書館(松木)に設け、永瀬さんの功績をアピールしている。
 すごろくはA3判で、都道府県名が書かれたマスを北海道から沖縄まで順番に配置。それぞれのマスには、地元出身の詩人と永瀬さんとの逸話が記されており、永瀬さんの交流の広さがうかがえる内容となっている。
 福島県のマスでは、永瀬さんの詩作に多大な影響を与えたとされる詩集「春と修羅」(宮沢賢治)を草野心平が贈ったエピソードを記載。広島県では、書画工芸展で井伏鱒二(福山市出身)に色紙を出してもらおうと、依頼しに上京したことを紹介している。ほかに「与謝野晶子のお見舞いに行く」(大阪府)、「萩原朔太郎にほめられる」(群馬県)といった話も載せている。中央、熊山図書館で無料配布している。
 一方、両図書館の特設コーナーには永瀬さんゆかりの詩人の著作を14冊ずつ展示した。親交が深かった谷川俊太郎さんが永瀬さんの追悼詩を収録した詩集「 夜のミッキー・マウス」をはじめ、永瀬さん主宰の詩誌・黄薔薇(ばら)に同人として参加したなんば・みちこさんの詩集「伏流水」、評伝「永瀬清子論」が掲載された飯島耕一さんのエッセー集「鳩の薄闇」などを並べている。
 永瀬さんを研究する市教委の白根直子学芸員が、生前に交流や接点があった詩人158人を取り上げ、すごろくのエピソードや本を選定した。本はいずれも貸し出している。コーナーは21日まで。
 白根学芸員は「永瀬さんと旅に出るイメージで多彩な詩人の作品に触れ、言葉の豊かさを楽しんでほしい」と話している。 永瀬さんは東京で詩人として活躍し、終戦直前に帰郷。岡山市に転居するまでの約20年間を赤磐市松木の生家で暮らし、 数多くの作品を生み出した。
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004永瀬清子(明治39年=1906~平成7年=1995)、光太郎とも交流のあった、岡山・赤磐出身の詩人です。昭和15年(1940)刊行の永瀬の詩集『諸国の天女』の序文は、光太郎が書きました。その一節に曰く「書く事以外に何の求めるところもない竹林の清さが其処にある。それは又竹林のやうな根の強さを思はせる。

この詩集、スタジオジブリの故・高畑勲氏は、アニメーション映画「かぐや姫の物語」に影響を与えたとおっしゃっていました。

記事にある白根氏にはお世話になっており、お世話になりついでに「すごろく、送って下さい」とお願いしたところ、届きました。多謝。

題して「本をめぐる旅へ 永瀬清子ゆかりの詩人に会うすごろく」。

47都道府県、1マスずつとなっており、それぞれのマスにゆかりの詩人と永瀬のエピソード。永瀬の交友範囲の広さが一目で分かります。別紙ですごろく用のコマもついていました。
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記事に有るとおり、福島のマスでは、当会の祖・草野心平、さらに光太郎を敬愛していた宮沢賢治がらみ。
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心平は賢治詩集『春と修羅』(大正13年=1924)の凄さを光太郎にも紹介しましたが、永瀬に対してもだったのですね。

永瀬と賢治は生前に会う機会はなかったようですが、光太郎や心平も参加した賢治没後の追悼会の席上、遺品の手帳に書かれた「雨ニモマケズ」の「発見」の現場に永瀬が居て、詳細な回想を残してくれました。

過日ご紹介した魚乃目三太氏著のコミック『続 宮沢賢治の食卓』にも、このシーンが描かれています。残念ながら永瀬の名は書かれていませんでしたが。
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さて、すごろく。残念ながら光太郎の名はありませんでした。『諸国の天女』序文の執筆、賢治追悼会等での同席以外にも、戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋から、赤磐に戻っていた永瀬にたびたび書簡を送ったり(昭和20年代の永瀬は、故郷の赤磐で詩作を続けながら農婦として生活しており、シンパシーを感じていたのでしょう)、インドのニューデリーで開催され、植民地主義、原水爆問題など、アジアに共通する問題について意見交換する趣旨だった「アジア諸国民会議」に「婦人団体代表」として参加した永瀬にはなむけの言葉を贈ったりしています。

光太郎と縁のある東京と岩手のマスは以下の通り。
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谷川俊太郎氏はご存命で、赤磐で行われている永瀬顕彰活動にもいろいろとご協力なさっていますので、東京のマスは谷川氏にゆずっても仕方がないかな、と思いました(笑)。

しかし、だったら岩手のマスで光太郎を取り上げてくれれば、と思ったのですが、岩手のマスは及川均。「高村光太郎が清子のアジア諸国会議歓送の辞を贈る」でいいじゃん、と思ったところ……。
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光太郎、岩手は第二の故郷ともいえますが、岩手生まれではないので対象外でした(笑)。

ちなみに及川、光太郎とも僅かに交流があったようです。昭和27年(1952)4月11日の日記に「揮毫6枚、時間グループ杉本氏、及川氏、千葉氏、富澤氏宛」とあり、「及川氏」がおそらく及川均でしょう。

というわけで、すごろくに光太郎の名はありませんでしたが、心平、賢治、及川、それから谷川氏も光太郎と交流がありましたし、他にも光太郎がらみの人物が多数。

北海道・小熊秀雄、青森・菊岡久利、山形・神保光太郎、栃木・逸見猶吉、群馬・萩原朔太郎、神奈川・佐藤惣之助、福井・高見順、滋賀・北川冬彦、大阪・与謝野晶子、兵庫・深尾須磨子、徳島・富士正晴、長崎・伊東静雄、大分・丸山薫、沖縄・伊波南哲……。

全国の図書館関係、社会教育関係の皆さん、ご参考になさってはいかがでしょうか。ただ、かなり、というか、とんでもない手間がかかった労作ですので、おいそれとできるものではなさそうですが。

【折々のことば・光太郎】

終日「春と修羅」の覚書をかくについて参考書をよむ。まだ書けず。


昭和21年(1946)9月15日の日記より 光太郎64歳

「覚書」は、賢治実弟の清六と共に編んだ日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治文庫』のためのものです。