昨日の続きで、茨城取手レポートです。

父の葬儀のため、2月4日(木)は通夜終了後、都内から来た息子と2人で、取手駅近くのビジネスホテルに宿泊しました。

翌朝、ホテルから徒歩数分のところにある大鹿山長禅寺さんへ。昨日もちらっと書きましたが、こちらは光太郎が講話を行ったり、光太郎の筆跡を刻んだ碑が二基建っていたりするゆかりの寺院です。

下の画像は門前にある、取手ゆかりの著名人を紹介する説明板。
KIMG4633
智恵子を『青鞜』に引き込み、その表紙絵を依頼した平塚らいてうも。
KIMG4634
KIMG4649
KIMG4639
臘梅が見事でした。
KIMG4640
光太郎ゆかりの寺院ですので、何度もここは訪れていますが、改めて伺ったのは、これまで気がつかずにいた銅像を見るためでした。

昨秋、「日本の銅像探偵団」というサイトに、長禅寺さんにある銅像についての情報がアップされました。蛯原萬吉という人物の像で、制作者の名が光太郎となっていました。戦時の金属供出により現在の像は2代目、的な記述も。

調べてみましたところ、蛯原は、昨日も名を挙げた宮崎仁十郎や中村金左衛門同様、取手の名士でした。ところが、『高村光太郎全集』にその名が無く、光太郎が蛯原の像を作ったという記録も確認できていません。そこで、サイトの記述は何かの間違いなのでは、と思いつつ、像そのものを見てみないことには何とも言えないなと思い、見に行った次第です。

こちらが問題の像。
KIMG4641 KIMG4642
台座の向かって左側に、建立当時のプレート。
KIMG4643
これによると、像の最初の建立は昭和8年(1933)とのこと。ただ、ここに光太郎の名はありませんでした。

像の裏側には、再建時(昭和50年=1975)のプレート。
KIMG4644
こちらに確かに光太郎の名。「蛯原萬吉像(作者 高村光太郎)は 第二次世界大戦末期 国策に殉じて之を供出」。そして現在の像は、新制作派の彫刻家、故・橋本裕臣氏の作とのこと。

この記述をそのまま信じれば、最初の像は光太郎の作だったということになります。しかし、先述のように『高村光太郎全集』に、この像に関する記述は一切ありませんし、蛯原の名も出て来ません。

考えられるケースは二つ。

一つは、父・光雲の代作であったというケース。岐阜県恵那郡岩村町に建てられた「浅見与一右衛門銅像」、宮城県大崎市に建てられた「青沼彦治像」がこのケースですが、ともに光雲の代作として光太郎が制作しました。光太郎、この二つは完全な自分の作とは言えないと考えていたようです。そこで、やはり『高村光太郎全集』には、浅見、青沼、二人のフルネームが出て来ません。浅見は「木曽川のへりの村の村長さん」、青沼は「青柳とかいふ人」(名前すら間違っています)として、随筆「遍歴の日」(昭和26年=1951)に語られている程度です。

また、光太郎遺品の中に、誰を作ったのか、また誰が作ったのかも判らない(しかし光太郎風の)胸像の写真なども残っており、知られざる光太郎彫刻というものも存在する可能性は大いにあります。
無題
ところで、『高村光太郎全集』には漏れていましたが、『青沼彦治翁遺功録』(昭和11年=1936)という書籍に光太郎は短い文章を寄せており、その中で像の制作について語られています。蛯原に関しても、蛯原の立志伝や追悼録的な書籍が刊行されているようですので、その中にもしかすると像の由来等、記述があるのではないかとも思っております。

もう一つは、何かの間違いで、像の作者が光太郎ということになってしまったというケース。それほど詳しくは語らなかったものの、浅見、青沼については「遍歴の日」で一応書き残しているわけで、そこに蛯原の名が無いというのは不思議です。

こうしたケースも皆無ではなく、伊東忠太・新海竹蔵作の靖国神社の狛犬が、なぜか光太郎作だとまことしやかに伝わっている例などもあり、閉口しています。

蛯原萬吉像については、もう少し調べてみますが、情報をお持ちの方、コメント欄等からご教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

「余の詩をよみて人死に就けり」を書かんと思ふ。


昭和21年(1946)5月11日の日記より 

自らの来し方と、戦争責任について省察した20篇からなる連作詩「暗愚小伝」。翌年7月の雑誌『展望』に発表されましたが、その構想を初めて記した一節です。

1009「余の詩をよみて人死に就けり」は、「わが詩をよみて人死に就けり」と改題され、「暗愚小伝」に組み込まれるはずでしたが、光太郎自らボツしました。

   わが詩をよみて人死に就けり

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。