地方紙『いわき民報』さんの、おそらく一面コラムなのでしょう。ネットで見つけました 

片隅抄

詩人草野天平の顕彰活動を紹介したスポット展に足を運んだ。中でも目を引いたのは、高村光太郎賞のブロンズ賞牌(はい)。天平は没後、昭和34年に詩部門を受賞している▼同賞はわずか10年で終えるが、概要や背景を調べる中で彫刻部門に日本を代表する偉大な具象彫刻家、佐藤忠良と舟越保武を見つけ心を躍らせた。両名とも数々の門弟を輩出。本市を代表する北郷悟氏も2人に師事したことは、多くが知るところだ▼小川にアトリエを置き、国内外で活動する湯川隆氏も舟越に師事したひとり。東京五輪を前に、都内のJOC会館にクーベルタン男爵銅像を置くなど年々活躍の舞台を広げている▼豊間に開設する木村眼科クリニックの研修センター「兎渡路(とどろ)の家」では30日、舟越と湯川氏をはじめ国内外の作家たちのグループ展が始まる。それも実際に手で触れていいという貴重な展示。コロナで人数を限るため事前連絡が必要だが、これを機に足を運んでみては。観覧無料。

草野天平の顕彰活動を紹介したスポット展」は、いわき市立草野心平記念文学館さんで開催中です。

011草野天平は、当会の祖・草野心平の実弟。明治43年(1910)生まれで、心平とは7歳、光太郎とは27歳差です。昭和27年(1952)、42歳の若さで病没しています。右は天平と、妻の梅乃。夫婦ともども光太郎と交流がありました。

そして記事にある通り、没後の昭和34年(1959)、『定本草野天平詩集』で第2回高村光太郎賞を受賞しました。同賞は、筑摩書房さんから刊行された第一次『高村光太郎全集』の印税を、光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の希望で、昭和33年(1958)から同42年(1967)まで、10年間限定で実施されました。光太郎が彫刻、そして詩、二つの面で大きな足跡を残したことから、同賞も造形と詩二部門で受賞者を選定することになりました。その第二回の詩部門受賞者が天平だったわけです。ちなみに同じ年の造型部門は、一昨年亡くなった彫刻家の豊福知徳氏でした。

天平のスポット展示が行われているの情報は耳に入っていましたが、光太郎賞の賞牌が展示されているのは存じませんでした。というか、賞牌が同館に所蔵されていたというのも初耳でした。以前にも天平に関するスポット展示がありましたが、その際には賞牌の展示はありませんでした。

こちらが賞牌。
008
010
光太郎が好んで揮毫した「いくら廻されても針は天極をさす」という短句を刻んだ木皿を原型に、豊周がブロンズに鋳造したものです。

第5回詩部門(昭和37年=1962)で受賞した詩人の田中冬二が授かった賞牌が、山梨県立文学館さんに寄贈されており、閲覧も可能ですが、こちらにもあったのか、という感じでした。探せば他にも公共施設等での所蔵があるのでしょう。逆に、売りに出ていたのをネットで見たことがあり、残念な思いも抱きましたが……。

歴代受賞者は、造形が『いわき民報』さんに記述があった佐藤忠良、舟越保武をはじめ、柳原義達、黒川紀章、建畠覚造、加守田章二、そして先述の豊福知徳など。詩では会田綱雄、草野天平、山之口獏、田中冬二、田村隆一、金井直、中桐雅夫ら、錚々たる顔ぶれでした。審査員も高田博厚、今泉篤男、谷口吉郎、土方定一、本郷新、菊池一雄、草野心平、尾崎喜八、金子光晴、伊藤信吉、亀井勝一郎など、これまた多士済々でした。

さて、いわき市立草野心平記念文学館さんでのスポット展示「草野天平」、3月28日(日)までです。コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后分教場行。郵便とけとり。勝治さん今日盛岡にゆかれし由。奥さんに日をきく。廿一日、日曜といふ事はつきりする。

昭和21年(1946)4月21日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋生活、昭和24年(1949)まで電気をひいておらず、ラジオも聴けなかった生活で、時折、日付や曜日の感覚がおかしくなっていたようです。しかし、日付や曜日に追い立てられない生活というのも、一興かも知れません。「勝治さん」は、光太郎を太田村に招いた分教場の教師です。

とけとり」は「うけとり」の誤記と思われます。光太郎の日記には誤字脱字が散見されます。