花巻高村光太郎記念館さんで、企画展「高村光太郎とホームスパン-山居の夢-」が開催されていますが、その関連で2件。

まず、11月5日(木)付けで地元紙『岩手日日』さんが報じて下さいました

光太郎の思い触れ 23日まで企画展

 高村光太郎記念館の企画展「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」は、花巻市太田の同館で開かれている。2016年に発見された、光太郎と妻の智恵子にとって思い入れの深いホームスパンの毛布をメインに展示。光太郎とホームスパンを巡る物語を伝えている。23日まで。
 光太郎は1945年、花巻に疎開。終戦後に暮らした現在の同市太田山口(旧太田村山口)を「手仕事で豊かにしたい」との思いから、同村をホームスパンの産地にしたいと考えていたという。
 智恵子は結婚後、芸術的センスを磨くとともに、生活を支えるために機織りや草木染めに取り組んでいた。
 今展では、智恵子が昭和初期ごろに東京で開催されたイギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952年)の作品展を観覧した際に気に入り、光太郎にねだって購入してもらった毛布を公開。智恵子が愛用し、妻亡き後は光太郎が使用していた。
 毛布は1㍍64㌢×1㍍76㌢。茶色の地に、植物で染めた青や赤、黄色の横しまがデザインされており、浮き織りや平織りなどを組み合わせている。
 会場では、本県のホームスパンの活動も紹介しているほか、同市東和町のホームスパン作家、山本実紀さんが毛布と同じように織った布や製作道具なども並べている。
 佐々木正晴館長は「光太郎のこの地への思いに触れていただければ幸いだ」と来館を呼び掛ける。
 入館料は一般350円、高校・大学生250円、小学生150円。開館時間は午前8時30分~午後4時30分。問い合わせは同館=0198(28)3012=へ。

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もう1件、光太郎とは直接の関連はありませんが、やはりホームスパンに関し、お隣北上市で開催される予定のイベントを

『homespunと手しごと』 vol.27

期 日 : 2020年11月20日(金)~11月29日(日)
会 場 : 展勝地レストハウス 岩手県北上市立花14地割21−1
時 間 : 午前10時~午後5時
休 館 : 11月24日(火)
料 金 : 無料

毎回大好評の『homespunと手しごと』 の第27弾を開催いたします。

1945(昭和20)年5月、花巻へ疎開した光太郎は、戦後7年間を稗貫郡太田村山口(現・花巻市太田山口)で過ごしました。この頃光太郎は知人への手紙にこの地で「日本最高文化の集落」を10年計画で建設すると記しており、その後、夢の実現として「太田村をホームスパンの産地にしたい、青年たちには陶芸づくりをさせる、娘たちには羊を飼わせ植物染料・手紡ぎ・手織りの本格ホームスパンを作らせる」と語ったとされています。

光太郎にはホームスパンの大切な想い出がありました。大正末か昭和初めに、東京でイギリスの著名な染織家エセル・メレの作品展が催されたとき、智恵子にこの1点だけは何としても欲しいと懇願され、ホームスパンの毛布を購入したという話です。光太郎は亡くなるまで智恵子の想い出とともにこの毛布を大切にしたといいます。

光太郎は、太田村山口をホームスパンの産地にしたいと望むと同時に、自身が身に着けるものとしてオーダーメイドでホームスパン製の猟人服を作っています。背中一面に巨大なポケットが付いていて、スケッチブックも入れられるという優れものです。(高村光太郎記念館で常設展示しています)

現在、県内では様々な形で「ホームスパン」という技術が受け継がれ伝承されています。光太郎のまいたホームスパンという夢の種は山口では花開かなかったものの、少しずつ岩手の地に広がっていったように感じます。
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県内各地のホームスパン工房の作品展なのでしょう。

光太郎とホームスパンには、不思議な機縁を感じます。

大正末か昭和初め、たまたま智恵子にせがまれて購入した毛布が英国製のホームスパンだったことにはじまり、その毛布が東京と花巻と2回の戦火をくぐり抜けて残り、たまたまホームスパン作家でもあった及川全三の弟子が太田村の山小屋近くに住んでいて、その製作過程を見、自分でもホームスパンの服を作ってもらって愛用……。

その岩手のホームスパンの伝統が脈々と受け継がれていることにも感動を覚えます。この灯を絶やさないようにしていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】003

われらのすべてに満ちあふるゝものあれ


短句揮毫 昭和27年(1952) 光太郎70歳

昭和27年(1952)3月、盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)の卒業式に際して揮毫した色紙より。同校は光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が出版していた雑誌『婦人之友』に感銘を受けた仲間が集まり、良き家庭を築く生活の知恵を学ぶ場としてスタートしたといいます。

同校では光太郎の薦めでホームスパン製作をカリキュラムに取り入れ、それが受け継がれているそうです。

大正3年(1914)に書かれた詩「晩餐」には、よく似た「われらのすべてに溢(あふ)れこぼるるものあれ われらつねにみちよ」 という一節があります。