一昨日から昨日にかけ、1泊2日で岩手花巻に行っておりましたが、その前に上野の東京藝術大学大学美術館さんで「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」を拝見してから行きました。

平時であれば招待券を頂いてすぐ伺うところなのですが、やはりコロナ禍、できるだけ外に出る機会は減らしたいので、花巻行きにかぶせました。

本日は藝大さんのレポートを。
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朝10時の開館と同時に入館。

平時であれば、2フロア使われている同館ですが、やはりコロナ禍のためでしょうか、今回は地下の1フロアのみ。

まず第1部「「日本美術」を創る」。
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004いきなり重要文化財の「鮭」。明治10年(1877)頃、高橋由一による日本最初期の油彩画です。その両脇を黒田清輝「婦人像」と原田直次郎「靴屋の親爺」が固めています。

ちなみに右は、無料配付の簡易図録。お一人様一部です。「鮭」が表紙を飾っています。

その後は「年代記(クロニクル)」というコンセプトに従い、藝大さん前身の東京美術学校初代校長岡倉天心らによる参考資料としての古美術コレクション、泰西画家の模写を含む西洋画科関係者の作品、明治33年(1900)のパリ万博関連、平櫛田中のコレクションによる彫刻作品群、さらに「官展出品・政府買上作品」と「特別出品」いうことで、上村松園「序の舞」や狩野芳崖「非母観音」、鏑木清方「一葉」など、教科書にも載るような作。眼福でした。

そして「年代記(クロニクル)」とは別枠で、光太郎木彫「蓮根」(昭和5年=1930頃)。
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画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。
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昨年、藝大さんに寄贈されました。「令和元年度 新収蔵品紹介」という枠で、「とんでもない逸品が寄贈されたから、ついでというと何だけど、一緒に展示しよう」というコンセプトだと思われます。別枠扱いなので、上記簡易図録には記述がありませんでした。

平成28年(2016)、信州安曇野の碌山美術館さんで開催された「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」で拝見して以来、4年ぶりでした。

作品を収める絹製と思われる袋も一緒に展示されていました。こうしたものの通例で、おそらく智恵子が縫ったものでしょう。そしてこれも通例で、光太郎詠歌が墨書でしたためられています。曰く、

揚げものにあげるをやめてわが見るはこの蓮根のちひさき巻葉

中央やや下よりの節の部分に巻葉が彫られ、さらにそれをついばもうとするカタツムリも添えられています。智恵子の心の病が誰の目にも明らかになる少し前と思われる頃、光太郎が彫刻家として最も脂ののっていた時期の作で、こうした遊び心にもそれがうかがえます。

第2部は、「自画像をめぐる冒険」。
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藝大さんの伝統で、卒業制作に描かれた自画像の数々。

第一号が、光太郎の留学仲間・白瀧幾之助。その他、光太郎智恵子と関わりのあった作家のそれも多く、興味深く拝見しました。熊谷守一、山本鼎、南薫造、藤田嗣治、岡本一平、近藤浩一路、山脇信徳、萬鉄五郎、中西利雄などなど。
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また、「この人も藝大卒だったのか」という発見もありました。その人々の研究者やファンにとっては当たり前のことなのでしょうが。

花卷へは、上野駅から東北新幹線です。まだ時間がありましたので、大学美術館さん向かいの陳列館も拝観。こちらでは在校生、教員の方々による屏風絵等の展示が行われていました。
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陳列館の入り口には、ロダンの出世作「青銅時代」(明治10年=1877)。ここにこれがあるということは、当方、寡聞にして存じませんでした。
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同様に、屋外展示で光太郎作の光雲胸像もあるのですが、そのエリアはコロナ禍のため、現在は学外者立ち入り禁止です。

まだ時間がありましたので、すぐ近くの黒田記念館さんへ。現在、特別室は閉鎖中で、「湖畔」などの大作は見られませんが、光太郎作の「黒田清輝胸像」(昭和7年=1932)は常設です。
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「蓮根」とほぼ同時期、こちらの方が若干あとです。木彫も造り、塑像の肖像彫刻も手がけ、まさに脂がのっていたのですが、智恵子の心の病の顕在化により、この後、光太郎の彫刻制作は激減します。

さて、上野駅に戻り、新幹線に乗って、北へ。花卷レポートは明日以降お届けします。


【折々のことば・光太郎】

僕は入学した当時のことは忘れません。あのときの靴の匂いは。鉛筆や本などをカバンに入れて学校に行って、それを机にしまうときの匂いはいまも忘れません。それから墨汁の匂いです。机のわきに掘りつぼがあり、そこにせとが入って、そのせとに先生が墨汁を注いでくれます。そのときの墨汁の匂い。
談話筆記「高村光太郎先生説話 三一」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳

「入学」は、東京美術学校ではなく、近くにあった練塀尋常小学校の話です。明治21年(1888)、光太郎数え6歳でした。「せと」は「瀬戸」、陶器のことですね。

なぜか嗅覚で記憶が彩られているのが不思議なところです。