『読売新聞』さん、8月11日(火)に「文化財の受難 破壊、略奪続く 「人類の遺産」 問われる国際協力」という記事が掲載されました。

001

戦後75年に関してのもので、まずは太平洋戦争により、日本国内で破壊された文化財の紹介から。原爆投下により倒壊した当時の国宝・広島城天守と共に、空襲で焼失した芝増上寺さんの「台徳院殿霊廟」について触れられています。2代将軍秀忠を祀ったもので、後の日光東照宮の原型となったとも云われていました。
002

003

005

006

007

004

現存していれば、都心で「世界遺産」が見られたかも知れない、という紹介が為されていました。

記事に使われていた写真は、明治43年(1910)、光太郎の父・光雲らの監修によって、東京美術学校で制作された模型。英王室に献上されていましたが、平成26年(2014)に里帰りし、現在は増上寺さんの宝物展示室に収められています。

000

記事本体には記述がありませんでしたが、キャプションには光雲の名が記されていました。

さらに「文化財の受難 破壊、略奪続く」という見出しの通り、カンボジアのアンコール遺跡、アフガニスタンのバーミヤン遺跡、さらにシリアのパルミラ遺跡などについても言及されています。ついでに言うなら、かつて日本軍が破壊したアジアの文化財についても記述があれば、とは思いましたが。

戦災で、というわけではありませんが、実にばかばかしい「金属供出」によって喪われた光雲・光太郎作品も少なくありません。光雲だと「長岡護全銅像」「西村勝三像」、「坂本東嶽像」「活人剣の碑」など。光太郎作は「浅見与一右衛門銅像」「青沼彦治像」「赤星朝暉胸像」。同時代の彫刻家のさまざまな作品も、供出の憂き目にあっています。

当然、こうした「モノ」だけでなく「人」もたくさん喪われているわけで、つくづく、戦争はいかんと思います。


【折々のことば・光太郎】

私はやつぱり歩んで行かう。何処へ、何処へ。何処へと問ふのは間違つてゐる。歩む事を歩むのだ。

散文「西洋画所見 十二」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

『読売新聞』に連載された「西洋画所見」。「一」から「十一」までは筑摩書房『高村光太郎全集』第六巻に掲載されていましたが、最終回に当たる「十二」が脱漏していました。