定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。第21号が届きました。
平成29年(2017)の創刊号以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されている連載「光太郎レシピ」。今号は「梅酒とナスとキュウリの煮びたし」だそうで。
自宅兼事務所の庭にもナスがなっています。当方は好きではないので食べませんが(笑)。
「食べません」といえば、昨年、碌山美術館さんで種をいただいてきたソバ。昨年植えて、結構花が咲いて実がなりましたが、蕎麦を打てるほどには収穫できませんでしたので、種を取っておき、今年も植えたら咲きました。もっぱらベランダでの観賞用です。
「ベランダでの観賞用」といえば、右上の花。近くの駐車場に生えていたのを取ってきました。可憐な水色の花がいい感じなのですが、名前が判りません。草花に詳しい方、ご教示いただければ幸いです。
閑話休題。もう一つ「マチココ」さんで紹介されている梅酒。「智恵子抄」中の絶唱の一つ、「梅酒」(昭和15年=1940)が元ネタですね。

「狂瀾怒濤の世界の叫」は、この年開戦の第二次世界大戦。昭和12年(1937)に始まった日中戦争は泥沼化の様相を呈していました。
光太郎、智恵子を喪った心の空隙を埋めるように、すでに大量の空虚な翼賛詩を書き殴るようになっていました。しかし、亡き智恵子を思い起こす時(「あはれな一個の生命を正視する時」)のみ、「世界はただこれを遠巻にする」というのです。
しかし、局面打開のため、翌年には太平洋戦争へと突入。そうなると、公表される光太郎詩はそのほとんどが翼賛詩。智恵子が謳われることはありませんでした。
再び詩の中に智恵子が蘇るのは、終戦後の昭和20年(1945)の智恵子命日(10月5日)に書かれた「松庵寺」においてでした。
今号の『マチココ』さん、奥付では8月10日(月)の発行となっていますが、ちょうど終戦記念日ころ読者に届くということで、このような選択にしたのかも、などと思いました。考え過ぎかも知れませんが。
『マチココ』さん、オンラインで定期購読の手続きが可能です。ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
家庭の雑事を女の人が受持つてゐるのはたいへんなものですね。僕は自分でそれをやつてゐるからよく分ります。
平成29年(2017)の創刊号以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されている連載「光太郎レシピ」。今号は「梅酒とナスとキュウリの煮びたし」だそうで。
自宅兼事務所の庭にもナスがなっています。当方は好きではないので食べませんが(笑)。
「食べません」といえば、昨年、碌山美術館さんで種をいただいてきたソバ。昨年植えて、結構花が咲いて実がなりましたが、蕎麦を打てるほどには収穫できませんでしたので、種を取っておき、今年も植えたら咲きました。もっぱらベランダでの観賞用です。
「ベランダでの観賞用」といえば、右上の花。近くの駐車場に生えていたのを取ってきました。可憐な水色の花がいい感じなのですが、名前が判りません。草花に詳しい方、ご教示いただければ幸いです。
閑話休題。もう一つ「マチココ」さんで紹介されている梅酒。「智恵子抄」中の絶唱の一つ、「梅酒」(昭和15年=1940)が元ネタですね。
梅酒

死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。
「狂瀾怒濤の世界の叫」は、この年開戦の第二次世界大戦。昭和12年(1937)に始まった日中戦争は泥沼化の様相を呈していました。
光太郎、智恵子を喪った心の空隙を埋めるように、すでに大量の空虚な翼賛詩を書き殴るようになっていました。しかし、亡き智恵子を思い起こす時(「あはれな一個の生命を正視する時」)のみ、「世界はただこれを遠巻にする」というのです。
しかし、局面打開のため、翌年には太平洋戦争へと突入。そうなると、公表される光太郎詩はそのほとんどが翼賛詩。智恵子が謳われることはありませんでした。
再び詩の中に智恵子が蘇るのは、終戦後の昭和20年(1945)の智恵子命日(10月5日)に書かれた「松庵寺」においてでした。
今号の『マチココ』さん、奥付では8月10日(月)の発行となっていますが、ちょうど終戦記念日ころ読者に届くということで、このような選択にしたのかも、などと思いました。考え過ぎかも知れませんが。
『マチココ』さん、オンラインで定期購読の手続きが可能です。ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
家庭の雑事を女の人が受持つてゐるのはたいへんなものですね。僕は自分でそれをやつてゐるからよく分ります。
座談会筆録「新女性美の創造」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳
智恵子が亡くなりすでに3年、そしてこの後も約15年間、光太郎は「家庭の雑事」をほぼ自分一人でやり続けました。「業績」というには語弊がありますが、こうした点も光太郎の偉いところだと思います。