昨日の『読売新聞』さんの記事「内面や存在感 リアルに わがまちの偉人 龍馬像作った本山白雲」同様、光雲の系譜を継ぎ、光太郎と交流のあった彫刻家に関しての記事です。『毎日新聞』さんの奈良版から。 

ならまち暮らし:南都銀行の羊の彫刻=寮美千子 /奈良

 森川杜園(とえん)は、幕末から明治にかけて奈良で活躍した一刀彫りの名手だ。その展覧会が、ならまちの「にぎわいの家」であったのだが、コロナ騒動で外出を控えていたら、見逃してしまった。残念だと思っていたら、同じように残念がっている人がいた。友人の友人の水谷(みずのや)園(その)さん(74)だ。祖父・水谷鉄也が郡山中学(現在の郡山高校)在学中に森川杜園に師事。杜園晩年の最後の弟子だったという。
 園さんは、20代でフランスに渡り、長く彼の地で暮らし、一時帰国で京都に滞在中。「園」という名も、杜園から一字もらったもので、なんとしても杜園の作品に触れたいという。それならと、友人が一肌脱ぎ、杜園作品を見せてくれる古物商を見つけて、彼女を奈良に招待した。わたしも協力し、わが家にお泊まりいただくことになった。
 実は、園さんの祖父・鉄也の作品が、奈良に残されている。東向商店街の南都銀行本店の柱にある羊と花綵(はなづな)の装飾彫刻だ。
 彼がこれを作ることになった経緯が興味深い。鉄也は郡山中学に在学中に、奈良県の技師宅に寄宿していた。そこによくやってきたのが、建築家・長野宇平治。当時、奈良県庁舎を設計するために横浜から奈良に赴任していた。二人は顔見知りになる。
 杜園を喪(うしな)った鉄也は、上京し東京美術学校で高村光雲に木彫を学ぶ。高村光太郎が学友だった。卒業後、大阪博覧会の噴水の観音像を製作していたとき、偶然、長野が見学に来て再会を果たす。彼は、日銀大阪支店新築の技師長として赴任していたのだ。長野35歳、 鉄也26歳。
 杜園の弟子だった少年が、立派な彫刻家となっていることに驚いた長野は、さっそく鉄也に日銀の装飾彫刻を依頼。ここから、二人は協力して数々の名建築を手がけることになった。その一つが、1926(大正15)年竣工(しゅんこう)の現南都銀行本店だ。
 東向商店街のアーケードに阻まれて全貌が見えないが、実に立派な古典ギリシャ様式の建造物だ。
 正面のイオニア式円柱の羊の彫刻が、鉄也の作品である。
 「戦争中、祖父のブロンズ像の多くが金属供出で鋳潰(いつぶ)されました。フランスで学び、ロシア風のミジンスキーというあだ名を持っていた祖父には、欧米の友人が多くいました。自分の作品が弾丸になって友を殺すことになるとは、どんなにかつらかったことでしょう。祖父は生きる気力をなくし、死ぬような病気でもなかったのに、戦争中に67歳で亡くなってしまったのです。死後、駒込の家も空襲にあい作品を焼失。だから石造りのこんな作品が残っているのが、とてもうれしいんです」
 しかし、調べると鉄也は「爆弾三勇士像」「乃木希典像」といった戦争協力的な作品も作っている。皮肉にもそれらは「軍神」であるために供出されなかった。
 「美術学校教授として断れなかったのかも。片瀬江ノ島の乃木希典像は最後の最後まで残りましたが、戦後、軍神ゆえに引き倒されました。祖父はそれを知らずに亡くなりました。かえってよかったのかもしれません」
 豊かさの象徴である羊の彫刻。その背後には、思わぬ物語が刻まれていた。(敬称略)

水谷鉄也、記事にあるとおり、光太郎の同級生でした。入学前から森川杜園のもとで修行していたため、確かな腕を持ち、卒業制作「愛之泉」は光太郎をおさえて主席でした。

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上記は光太郎の学年の彫刻科卒業写真(明治35年=1902)。光太郎は後列左から3人目、前列左から4人目には光雲も写っています。この中に水谷もいるはずなのですが、残念ながらどれだかわかりません。おわかりになる方、ご教示いただければ幸いです。

当方、水谷の作品は、自宅兼事務所のある市内に銅像が有りますし、それ以外にも何度か拝見しましたが、やはり確かな技量を持つ彫刻家だな、という印象でした。

南都銀行さんにあるという作品は存じませんでしたが、同行のサイトで調べてみると、建築としては国の登録有形文化財にも指定されているそうでそれなりに知られているもののようです。水谷の装飾彫刻は「ギリシア様式の古典的な建造物のなかで、とりわけ目を引くのが正面のイオニア式円柱に施された「羊」の彫刻ですが、これは設計者の長野氏と懇意だった東京美術学校教授の水谷鉄也氏の作品です。「羊」の由来には諸説あるようですが、古代ヨーロッパにおいて民に多くの富をもたらした家畜を金融機関のシンボルとして採用したのではないかという説が有力です。なお、この「羊」の彫刻は建物東側壁面の装飾にも用いられています」とのことでした。

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戦時中、ブロンズの作品は供出の憂き目にあったという点、昨日ご紹介した本山白雲と同じですね。残った物は「軍神」のもの。それも戦後には「軍神」ゆえ撤去されてしまったというのですから皮肉な運命です。

供出に関しては、光雲や光太郎も例外ではありません。そのため、現在では写真でしか見られない作品が数多くあります。光太郎作品ですと、岐阜県恵那郡岩村町にあった「浅見与一右衛門銅像」、宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられた「青沼彦治像」、千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられた「赤星朝暉胸像」など。光雲では熊本の水前寺公園に建てられた「長岡護全銅像」(水谷が助手として名を連ねています)、東京・向島の「西村勝三像」など。

それにしても、お孫さんの「自分の作品が弾丸になって友を殺すことになるとは、どんなにかつらかったことでしょう」という一言、刺さりますね。光太郎は戦時中にはこのような発言はしていません。できなかったという部分もあるのかも知れませんが……。

こういう暗黒の時代に戻ることがあってはならないと思いますし、昨日同様、こうした彫刻家にもっと光が当たって欲しいとも感じます。


【折々のことば・光太郎】

品性涵養の要諦は精神の清潔感を育成することにある。

散文「神裔国民の品性」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

「神裔」は「神の末裔」の意。やはりズブズブの翼賛的散文で、このような題名となり、最後は「神裔国民たる品性をますます琢磨しつつ戦ひたい」と結んでいます。それはさておき、引用した部分はそのとおりですね。精神の清潔感が不足している当方としては、この一言も刺さります(笑)。