信州安曇野で現在開催中の企画展情報です。
「仕事をする」ことは「生きる」こと。今年生誕120年を迎える彫刻家・高田博厚が生涯貫いた言葉です。高田の彫刻には、著名人の肖像、男女のトルソ、そして女性像があり、そのどれもが高田にとって重要なテーマでした。高田の制作人生は「東京時代」、「フランス滞在時代」、「帰国から晩年」の三期に分けられます。
18歳で上京し、高村光太郎に出会って彫刻を始め、岩波茂雄などの知識人と交流を深めました。30歳の時、「これ以上貧乏するなら独りで貧乏しよう」と家族を残し彫刻を学ぶためにフランスへ渡ります。パリでは偉大な彫刻家たちに圧倒され、ロマン・ロランらの作家と交流を深めました。第二次世界大戦中、ドイツでの滞留を経て再びパリへ。1957年、日本へ帰国します。帰国後は制作や執筆活動、大学の講師などをし、鎌倉でその生涯を閉じました。
高田は、渡仏前は翻訳、渡仏後は、語学力と人脈を生かして日本へ情報を発信し、生活の糧を得ていました。しかし彼にとって「仕事」つまり「生きる」とは、どのような環境にあっても彫刻を作り続けることでした。
本展では、開館以来、収蔵品の充実に努めてきた高田作品のうち、約150点を展示し、作品の魅力をエピソードとともに紹介いたします。
関連企画:10月、元NHKアナウンサー室町澄子氏講演会開催予定
高田は、明治末に早世した碌山荻原守衛を除けば、光太郎が唯一高く評価した同時代の邦人彫刻家です。光太郎は、高田の無名時代からその才能をいち早く見抜き、渡仏のための援助等も惜しみませんでした。
彫刻家高田君とは私も長い間交つてゐるが、まだ彼が外国語学校伊語科の生徒であつた頃から今日までの発達の為かたを考へると、此の人こそ何処までものびる生命力を内に持つて生れた人だと思はずには居られない。ただの外的衝動や小さな慾で生きてゆく人でなく、独自の、一本立ちの、内からの要求で育つてゆく人である事に間違ひは無い。
(「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会趣意」より 昭和5年=1930)
高田は高田で、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に帰国すると、全10回限定で開設された造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」審査員を務めるなど、光太郎顕彰に取り組んでくれました。
同館では、これまでも常設展示で、光太郎肖像(昭和34年=1959)を含む高田の作品を多数出していましたが、今回、さらにコレクション展的に充実させた展示を図っているようです。光太郎肖像はもちろん目玉の一つとして並んでいますし、2通のみ現存が確認されている、光太郎から高田宛の書簡も、常設ではコピーの展示でしたが、現物が出ているそうです。
高田と光太郎の交流については、こちらをご覧下さい。高田同様、光太郎と交流のあった故・田口弘氏が永らく教育長を務められた埼玉県東松山市でも、氏のお骨折りにより高田の顕彰活動がいろいろ進められており、その一環として当方が講師を務めさせていただいた市民講座のレポートです。
さて、同館から招待状も頂いてしまいました。会期が長いのが幸い、コロナの状況を見つつ時間を見つけて行って来ようと思っております。皆様も是非どうぞ。
【折々のことば・光太郎】
十和田湖はお母さんのやうな所で、芸術を包んで余りあると思つたんです。
期 日 : 2020年6月2日(火)~8月30日(日)
会 場 : 安曇野市豊科近代美術館 長野県安曇野市豊科5609-3
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日、祝日の翌日
料 金 : 大人520(410)円 大高生310(200)円 ( )内団体料金
「仕事をする」ことは「生きる」こと。今年生誕120年を迎える彫刻家・高田博厚が生涯貫いた言葉です。高田の彫刻には、著名人の肖像、男女のトルソ、そして女性像があり、そのどれもが高田にとって重要なテーマでした。高田の制作人生は「東京時代」、「フランス滞在時代」、「帰国から晩年」の三期に分けられます。
18歳で上京し、高村光太郎に出会って彫刻を始め、岩波茂雄などの知識人と交流を深めました。30歳の時、「これ以上貧乏するなら独りで貧乏しよう」と家族を残し彫刻を学ぶためにフランスへ渡ります。パリでは偉大な彫刻家たちに圧倒され、ロマン・ロランらの作家と交流を深めました。第二次世界大戦中、ドイツでの滞留を経て再びパリへ。1957年、日本へ帰国します。帰国後は制作や執筆活動、大学の講師などをし、鎌倉でその生涯を閉じました。
高田は、渡仏前は翻訳、渡仏後は、語学力と人脈を生かして日本へ情報を発信し、生活の糧を得ていました。しかし彼にとって「仕事」つまり「生きる」とは、どのような環境にあっても彫刻を作り続けることでした。
本展では、開館以来、収蔵品の充実に努めてきた高田作品のうち、約150点を展示し、作品の魅力をエピソードとともに紹介いたします。
関連企画:10月、元NHKアナウンサー室町澄子氏講演会開催予定
高田は、明治末に早世した碌山荻原守衛を除けば、光太郎が唯一高く評価した同時代の邦人彫刻家です。光太郎は、高田の無名時代からその才能をいち早く見抜き、渡仏のための援助等も惜しみませんでした。
彫刻家高田君とは私も長い間交つてゐるが、まだ彼が外国語学校伊語科の生徒であつた頃から今日までの発達の為かたを考へると、此の人こそ何処までものびる生命力を内に持つて生れた人だと思はずには居られない。ただの外的衝動や小さな慾で生きてゆく人でなく、独自の、一本立ちの、内からの要求で育つてゆく人である事に間違ひは無い。
(「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会趣意」より 昭和5年=1930)
高田は高田で、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に帰国すると、全10回限定で開設された造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」審査員を務めるなど、光太郎顕彰に取り組んでくれました。
同館では、これまでも常設展示で、光太郎肖像(昭和34年=1959)を含む高田の作品を多数出していましたが、今回、さらにコレクション展的に充実させた展示を図っているようです。光太郎肖像はもちろん目玉の一つとして並んでいますし、2通のみ現存が確認されている、光太郎から高田宛の書簡も、常設ではコピーの展示でしたが、現物が出ているそうです。
高田と光太郎の交流については、こちらをご覧下さい。高田同様、光太郎と交流のあった故・田口弘氏が永らく教育長を務められた埼玉県東松山市でも、氏のお骨折りにより高田の顕彰活動がいろいろ進められており、その一環として当方が講師を務めさせていただいた市民講座のレポートです。
さて、同館から招待状も頂いてしまいました。会期が長いのが幸い、コロナの状況を見つつ時間を見つけて行って来ようと思っております。皆様も是非どうぞ。
【折々のことば・光太郎】
十和田湖はお母さんのやうな所で、芸術を包んで余りあると思つたんです。
座談会筆録「自然の中の芸術」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳
光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関する発言です。富士山の頂上のような荒涼たる景色には彫刻はそぐわないが、十和田湖のような景観なら、という話の流れでした。
ちなみに高田は「乙女の像」について、「やたらにある日本の銅像の中で、これだけ『品格』の高いものがあるか?」「あらゆる文学的感傷を除外して、この像は『自然』の中に調和していて、自然を裏切らない。このことは技術のせいでも、知恵のせいでもない。高村光太郎の『人格』が出ているからである。」(『思索の遠近』昭和50年=1975)と述べています。やはりわかる人にはわかるのですね。
ちなみに高田は「乙女の像」について、「やたらにある日本の銅像の中で、これだけ『品格』の高いものがあるか?」「あらゆる文学的感傷を除外して、この像は『自然』の中に調和していて、自然を裏切らない。このことは技術のせいでも、知恵のせいでもない。高村光太郎の『人格』が出ているからである。」(『思索の遠近』昭和50年=1975)と述べています。やはりわかる人にはわかるのですね。