まずは『読売新聞』さんの一面コラム、6月4日(木)の掲載分です。 

編集手帳

詩人の高村光太郎は彫刻家でもあった。後者の職業の視点だろう。「顔」と題する小文に、顔ほど人を語るものはないと書いている◆仙人のような風貌(ふうぼう)でも内心俗っぽい者は俗っぽさが顔に出る。欲張りな者にも人情に厚い人がいて、それが顔に表れる。誠実であろうとするあまり無理をする者は、その無理を顔に隠せないと例を連ねている◆この論に従えば、顔は大事な表現手段になり得る。東京地裁での殺人事件の裁判員裁判で、弁護人がマスク着用を拒否した。表情を裁判員に見せなければ全力での弁護が困難との考えかららしい◆正義や熱意をお顔に貼り付けるタイプの弁護人なのだろう。裁判は裁判員と弁護人の間にアクリル板を設置し、2時間半遅れで開廷した。といっても被告はマスクをしていたという。裁判員は真実を見極めるのに、被告より弁護人の表情に目を奪われぬよう注意しなければならない◆光太郎の顔論には社会で地位を築く人への戒めのような一節もある。〈お山の大将はお山の大将〉。今は法律にないルールが多くある。考えや気持ちを柔軟にして山を下りねばならないことがある。

ルイ十六世気取りの「お山の大将」いや、「裸の王様」にも「山を下り」てもらいたいものですが(笑)。

続いて福岡に本社を置く『西日本新聞』さんに載った記事。美術評論家の椹木野衣(さわらぎのい)さんによる連載です。 

近代秀作木彫展遮られる世界 パンデミックとアート <14>【連載】芸術にとっての手や顔 不気味さに向かっていた高村光太郎の著名な彫刻

 新型コロナウイルス感染症がアートに与える影響は、遠隔型のアート(メディア・アートの伸張)のようなわかりやすい対症療法だけでなく、より根源的な次元にまで及んでいるように考えられる。
たとえば、芸術家にとっての手や顔の位置付けがこれにあたる。人類が手を駆使して道具を操り、文明を築いていったことや、鏡に写る自己像を認識し、個人という枠組みが形成されていったことを思い起こそう。あらためて確かめるまでもなく、手や顔は芸術にとって、技芸や内省といった成立条件そのものに関わる器官なのだ。
 ところが、新型コロナウイルスがヒトに宿す場所は、 まさしくこの手と顔にほかならない。ウイルスは手によって媒介され、顔の粘膜から体内に侵入する。徹底した手洗いとマスク(顔を触らない)がなにより奨励されるのは、そのためにほかならない。
 私たちはこれまで、自分の手や顔が身体のなかで、もっとも危険な場所だなどとは、よもや認識してこなかった。むしろ逆だろう。手や顔は自分にとって、もっとも親密な場所だった。新型コロナウイルス感染症では、それが逆転してしまう。手や顔が、自分にとって最大の警戒すべき対象となる。場合によっては敵となる。
 このことが、アーティストたちにとって、たいへん大きな価値観の転倒に繋(つな)がらないはずがない。もはや手は技芸の味方ではなく、これまで通り絵を描くにせよ、最先端の装置を操るにせよ、つねに清潔に保たなければならない危ない他者性を帯びてくる。同時に顔では、 ときにやさしく(それこそ)手で慰撫し、表現する主体の実在を確かめるにも気を使わなければならなくなる。
 アーティストにとって新型コロナウイルスの蔓延( まんえん)は、以後、避けることができない自己の分裂が生じることを意味するのだ。
 人間の器官を扱った彫刻では、三木富雄の巨大な耳の彫刻がすぐに思い浮かぶ。
 耳をかたどった三木の彫刻の不気味さは、そもそも彫刻の主題として耳を前面化するアーティストが過去にいなかったことに多くを負っている。耳は音楽にとってはしごく身近でも、美術にとってそれほどまでのことはない。美術には、視覚をつかさどる眼がなんといっても根本的なのであって、ゆえに肖像画の主題は同じ顔でもひときわ目に集中している。耳は物理的にも意味的にも脇役だ。三木はそれを主題化した。
 ところが新型コロナウイルスが蔓延した状況では、耳のように、表現の対象としてわざわざ意識をめぐらす必要のなかった手こそが、最大限に不気味な対象となる。
 たとえば高村光太郎の彫刻に「手」がある。だが、その著名さとは裏腹に、その不自然さは、ふだん手が取るポーズではない。ゆえにこの作品への解釈はこれまでも様々( さまざま)だった。だが、高村の意識が手の不気味さそのものに向かっ向かっていたのはあきらかだ。
 なぜ高村は、手をこれほどまでに不自然視したのだろう。この作品の制作年は確定していないものの、一般に1918年頃とされている。 私たちはいまでは、この年号から、ただちにスペイン風邪によるパンデミックを連想する。むろん、高村の制作時期がスペイン風邪の蔓延と重なっているかはわからない。また、手がウイルスを媒介する最大の感染源という認識があったかどうかも不明だ。
 だが、少なくとも私たちは、これらのことを通じ、高村によるこの手の彫刻に、かつてない意味を見出すようになっている。

光太郎ブロンズの代表作「手」001大正7年=1918)を引き合いに出してくださいました。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

この手の形は、観音菩薩像の「施無威」の相。まぁ、仏像の手印ですから「不自然」といえば「不自然」ですが、一見ものすごく「不自然」に見える親指のそり工合は、粘土で塑像を作る際の光太郎の親指の形そのままです。下の方の画像はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」から。最後の大作、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作風景です。

そう考えれば、この形もそれほど「不自然」ではありませんし、ましてや「高村の意識が手の不気味さそのものに向かっ向かっていた」とか「高村は、手をこれほどまでに不自然視した」というのは意味不明なのですが……。

また、最後に「少なくとも私たちは」とありますが、「少なくとも私は」としていただきたいものです。

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ただ、ブロンズ「手」が、スペイン風邪の流行した大正7年(1918)の作だという指摘は、ほう、と思いました。しかし、そこに意味を見出すのは牽強付会に過ぎるように思われますが……。

明日も新聞記事からご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

僕は芸術だつてエネルギーだと思うんですよ。エネルギーの発散が芸術だと思うんです。

座談会筆録「簡素生活と健康」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

まさに最後の大作「乙女の像」制作にかかろうという時期の発言です。

30余年前の「手」も、こうしたエネルギーの発露として、ポジティブに作られたものだと思うのですが……。