5月26日(火)、いわき市立草野心平記念文学館さんの企画展「草野心平の詩 天へのまなざし」を拝見したのち、茨城県の東海スマートICで常磐道を降りました。

次なる目的地は大洗町の山村暮鳥詩碑。昭和2年(1927)の建立で、除幕式には光太郎も参加しています。詩碑そのものには光太郎の名は刻まれていませんが、説明板に光太郎の名が記されているというのを知り、いわきと方角的には同じということで、立ち寄った次第です。

山村暮鳥は光太郎より一つ年下の明治17年(1884)生まれ。出生地は群馬県ですが、幼少期の家庭の事情や、長じてからはキリスト教の伝道などのため、各地を転々。晩年は大洗の借家で過ごし、大正13年(1924)、数え41歳の若さでここで亡くなったため、詩碑が建立されています。

光太郎と暮鳥、生前に直接会ったことは一度しかないと、光太郎が書き残しています。以下、以前に書いた記事からのコピペです。

暮鳥の歿した大正13年(1924)12月、地方紙「いはらき」に載ったという光太郎の文章。

 山村暮鳥さんとは数年前上野池の端の電車の中で初めに会ひ、又それが最後の事になつてしまひました。
 あんなに人なつこかつたこの詩人に其後会ふ機会をつくらなかつた事を残念に思つてゐます。常に遠くから親密の情は捧げてゐたくせに。
 晩年の彼の詩の深さにはうたれます。

この文章が載った「いはらき」が未見です。したがって、掲載月日も不明。昭和10年(1935)刊行の『暮鳥研究』第一輯に転載されたということで、筑摩書房『高村光太郎全集』では、そちらを底本としています。

「いはらき」は水戸の茨城県立図書館にマイクロフィルムが所蔵されているのですが、そちらは欠号が多く、この文章は発見できませんでした。情報をお持ちの方は、ご教示いただければ幸いです。

さて、暮鳥詩碑。鹿島灘に面した松林の中に、ひっそりと佇んでいました。

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刻まれている詩は、暮鳥歿後に出版された詩集『雲』に収められた詩の一節です。

暮鳥、雲、といえば、「おうい雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずつと磐城平の方までゆくんか」が有名ですが、暮鳥はたくさん雲の詩を残しています。碑に刻まれた一節を選んだのは、盟友・萩原朔太郎でした。

光太郎と暮鳥、直接会ったのは一度だけでも、朔太郎等(おそらく当会の祖・草野心平も)共通の詩友がいたり、朔太郎や暮鳥の出していた雑誌『卓上噴水』に光太郎が寄稿したりで、そういう意味では近しい間柄でした。また、光太郎は暮鳥詩ワールドにシンパシーを感じていたようで、戦後には暮鳥全集の刊行をすべきという発言を書簡で繰り返し語っています。

そんなわけで、昭和2年(1927)、詩碑の除幕式にも駆けつけたのでしょう。下記が当時の『読売新聞』に載った除幕式の写真。

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不鮮明なので光太郎がどれだか不明ですが、何となく、中央やや右の和服着流し姿っぽいのがそれかな、という気がします。

ちなみに文字の揮毫は茨城出身の日本画家・小川芋銭(うせん)。


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光太郎は昭和14年(1939)に「芋銭先生景慕の詩」を書いていますし、同年、やはり茨城の取手にある長禅寺さんに建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」の題字は光太郎が揮毫しています。

そして説明版には、光太郎の名。

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90余年前、ここに光太郎も居たかと思うと、やはり感慨深いものがありました。

ところで、この碑のすぐ近くに、平安時代創建の国幣中社、大洗磯前(いそさき)神社さんが鎮座ましましていらっしゃいます。

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当方、きちんとした神社の静謐かつ清澄な空気は大好きでして、これは寄らない手はないなと思い、参拝して参りました。
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社殿等は江戸時代前期のものだそうですが、装飾彫刻が見事でした。

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楼門。鹿島灘の波濤でしょう。

本殿には彩色で、雉子、鴛鴦、燕、猛禽(鷹?)など鳥の彫刻がいろいろ。

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大洗はアニメ「ガールズ&パンツァー(GIRLS und PANZER)」(通称・ガルパン)の舞台にもなっており、その関係で、キャラクターをあしらった巨大絵馬も。

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アニメやドラマ、漫画などの舞台を巡る、いわゆる「聖地巡礼」がブームとなっていましたが、さすがにコロナ禍の明けやらぬ中、それっぽい人はいませんでした。

さて、当方は光太郎智恵子光雲等の「聖地巡礼」、今後も続けていく所存で居ります。

以上、常磐レポート、終わります。


【折々のことば・光太郎】

昔の放送局は相当に頭がふるく、定評のあるもの以外はめつたに放送しなかつたものであつて、詩の朗読でも、北原白秋、三木露風あたり以後の詩は決して取り上げなかつたが、昭和九年に、照井君はどう説きつけたか知らないが、はじめて私の詩を五六篇一度にBKから放送した。これが当時の新しい詩の朗読放送の最初であつた。それから段々次代次々代の詩が放送されるやうになつたのである。

散文「照井瓔三君のこと」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

昨日もご紹介した盛岡出身の声楽家・朗読家の照井瓔三についての別の文章から。