またもやネタ不足となりまして、最近手に入れた古いものシリーズです。

先だって、昭和30年代はじめの花巻絵葉書セットをご紹介しましたが、その後、およそ10年後の昭和40年代はじめの花巻絵葉書セットを入手しました。

まず、カバー。昭和39年(1964)に開港した花巻空港です。飛行機は懐かしの双発プロペラ機YS-11ですね。

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題字の「はなまき」の文字は、何と、光太郎の花巻疎開に尽力し、終戦後の一時期、光太郎を自宅離れに住まわせてくれた佐藤隆房花巻病院長の揮毫です。

カバー裏側に解説文。光太郎の名も。

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イラストマップもカバーの裏に。

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昭和43年(1968)に廃線となった花巻電鉄鉛線が描かれていますし、下記の高村山荘(光太郎が戦後の7年間暮らした山小屋)のキャプションには「昭和41年10月ここに高村記念館を建立して遺作を保存しております」とあるので、昭和41年(1966)~昭和43年(1968)の間の発行ということになります。発行元は「花巻市観光協会」となっていました。

葉書宛名面の切手貼付欄は「7円」と印刷されています。葉書の料金が7円だったのは昭和41年(1966)~昭和47年(1972)、年代的に合いますね。金魚のデザインの7円切手、記憶されている方もいらっしゃるのではないでしょうか(歳がバレますね(笑))。

さて、絵葉書本体。8枚セットでした。

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縦長で、上半分が光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑、下半分が高村山荘です。現在は二重の套屋に蔽われていますが、この当時は第一套屋のみ。第二套屋の竣工は昭和52年(1977)です。

昭和30年代の絵葉書セットもそうでしたが、あとは温泉地が中心です。

花巻温泉佳松園。昭和40年(1965)、建築業協会賞を受賞したとあります。

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左下は台温泉。過日も書きましたが、小規模な温泉宿が多数軒を連ね、その中の松田屋旅館さんに光太郎、それから当会の祖・草野心平が泊まっています。まだ道路が舗装されていないようです。

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右上はこれのみ戦前の絵葉書の画像ですが、花巻南温泉峡の西鉛温泉秀清館。昭和20年(1945)、花巻疎開直後に結核性の肺炎で1ヶ月臥床した光太郎が、予後を養うために6月に1週間滞在しました。昭和47年(1972)に閉館となったそうですが、下記にはまだ健在で写っています。

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奥に写っている愛隣館さんが昭和35年(1960)に創業し、「西鉛温泉」という呼称は「新鉛温泉」と改められ、絵葉書キャプションもそうなっています。

鉛温泉藤三旅館さん。中央の古い建物、三階の一番奥が光太郎の泊まった31号室です。

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それから温泉ではありませんが、鉛温泉スキー場。なぜかスーツにネクタイでスキー板を履いている人が居るのですが(笑)。

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大沢温泉さん。立て替えられる前の山水閣さんのようです。

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志戸平温泉さん。現在の姿にだいぶ近くなっています。

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各温泉さん、緊急事態宣言の解除を受け、徐々に再開しているようです。連休明けには既に再開したところ、宿泊はまだでも日帰り入浴のみ再開しているところもあり、大半は今月末や来月初めから全面的に再開するようです。ちなみに高村山荘・高村光太郎記念館さんも6月1日(月)から再開の予定だそうです。まだ油断は禁物ですが、早く元の状態に戻って欲しいものですね。

特に急ぎの情報が入らなければ、明日も最近手に入れた古いものをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

もう六年です。すっかり住みなれて、都会へ出る気はしません。僕はもう都会を信用しません。都会は腐りかけている。

対談「高村さんと語る」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

ところが翌年には「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、帰京します。まあ、花巻郊外太田村ではあれだけの大作を制作することが不可能だったためですが、帰京したら帰京したで、ぶつぶつ言いながらも東京の生活も楽しんでいた部分もありますが……。しかし、住民票は本当に身体が動かなくなり、死を予感するようになった昭和30年(1955)まで太田村に残していました。