昨日は青森の『東奥日報』さんから、コロナ禍による十和田湖の現状についての記事を紹介いたしましたが、本日は同様の件で、『高知新聞』さんから。 

コロナなかりせば… 大心劇場(安田町)上映まで歯食いしばる

 新型コロナウイルスの感染拡大により、高知県内でもさまざまなイベントが中止に追い込まれ、活動の自粛を余儀なくされている。コロナ禍がなければ、にぎわっていたであろう「あんな催し」「こんな取り組み」を紹介。次回にかける関係者の思いと共に、随時紹介していく。
 高知県安芸郡安田町内京坊の「大心劇場」は月に1、2本の映画を上映する、山の中の映画館だ。昭和30年代の純愛もの、任侠劇、高知ロケが行われた近作など上映作は多彩。だが、3月初旬から休館を余儀なくされている。
 座った途端、懐かしさでほっとする客席。周囲は、往年の映画ポスターがぐるり囲む。
 「映画の中でしかなかったものが、現実になった。朝起きて、『夢で良かった』じゃない世界になったね」。コロナ禍をこう表現するのは、館主の小松秀吉さん(68)。上映は、国道55号や町内に掲げる名物の手描き看板が知らせてくれるが、今は姿を消している。

 劇場は映画上映だけの場所ではない。併設するステージでは、シンガー・ソングライターとして「豆電球」の名で活動する小松さんが歌ったり、プロの歌手が登壇。2018年10月には、双子の歌手「こまどり姉妹」が30年ぶりに来町。トークと歌声を披露した。
 年号が改まる2019年4月30日夜は常連客ら約30人がカウントダウンイベントに参加。昭和の開館から三つ目の時代の幕開けを祝った。

 今年からは旅行会社のツアーの巡り先にもなっていたという大心劇場。小松さんは「今はじっと我慢するしかない。山の中に映画を見に来てくれるお客さんに力をもらってきた。東部の映画の灯は絶対に守っていく」。山の湧き水で溶いたペンキを手に、上映を待つ映画の看板作りに取り掛かった。(北原省吾)

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(左)上映日が未定の「智恵子抄」(中村登監督)の看板前に立つ小松秀吉さん。「ヒーローじゃなく、マスクが世界を救ってるね、今は」
(右)令和の幕開けを祝う常連客ら(2019年5月1日未明)003

待ち遠しいね~ 安田町のゆるキャラ 安田朗(あんたろう)
 レトロな大心劇場の再開が待ち遠しいね~。町にはほかにも、おいしいごはん屋さんとか、おやつを売りゆう所があるきん、落ち着いたらぜひ遊びにきてよ~。ぼくもまたいろんな所へ安田町のPRしに行くきん、会いにきてね~!

高知県安田町の大心劇場さん。写真のキャプションにあるとおり、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)を、この3月に上映して下さる予定でした。

3月に、このブログでご紹介しようと、途中まで005記事を書きました。ところが、観覧料金が大心さんのHPに記載されていなかったので、電話で問い合わせてみたところ、おそらく記事にある小松さんでしょう、「あー、ホームページはまだ直してないんですけど、新型コロナで無期限延期にしたんですわ」とのことでした。「ありゃま」という感じでした。右は予定されていた上映のポスターです。

まさに見出しの通り「コロナなかりせば」ですね。ちなみに「せ」は助動詞「き」の未然形、そこにプラス助詞「ば」ですから反実仮想の用法です。

油断は禁物ですが、徐々に緊急事態宣言の解除が進むようで、「智恵子抄」の上映も遠くない日に実現して欲しいものです。観覧料金は1,500円だそうです。

こうした大心さんのようなミニシアターが存続の危機、という報道が為されたのは先月くらいだったでしょうか。その後、どうなっているかと調べてみましたところ、クラウドファンディング「ミニシアター・エイド(Mini-Theater AID)基金」なるものが立ち上がり、支援の輪が広がっているようです。

同様に、全国の新刊書店さん、古書店さんを支援する「ブックストア・エイド基金」も展開中です。素晴らしい!

「不要不急」と、とかく後回しにされがちな文化芸術分野ですが、そうしたものが一切無い世界を想像してみて下さい。当方には耐えられません。

466億円もの予算を組んで、「不要不急」どころか「不要」でしかない、しかも利権の匂いのプンプンするものを配るより、こうした部分に予算を廻せ、きちんと制度を整備しろ、と言いたくなりますね。制度と言えば、同じく「不要不急」どころか「不要」でしかない、いや、「有害」な法案は拙速に強行採決されそうな勢いですが……。


【折々のことば・光太郎】

桐葉亭々   短句揮毫  戦後期?

「亭々」は「ていてい」。樹木が葉を繁らせ、高々と聳えるさまです。桐は実は樹木というより草に近いのだそうですが(だから成長が早く、軽いのだそうで)、そろそろ紫の可憐な花があちこちで見られているのではないでしょうか。

「亭々」、寡聞にして当方は存じない言葉でした。明治人にとってはあたりまえの言葉だったのか、それとも光太郎のボキャブラリーが豊富だったのか、どちらなのでしょうか。