新型コロナの影響で、関連行事や集いは中止となりましたが、昨日は光太郎の盟友・碌山荻原守衛の第110回碌山忌でした。

守衛の故郷・信州松本平地区の地方紙『市民タイムス』さん、昨日の一面コラムです

みすず野 2020.04.22

いまから110年前に、30歳5カ月の短い生涯を終えた彫刻家・荻原碌山。しかし、彼は力の限り生きて、いくつかの傑作を残した。現在の安曇野市穂高の碌山美術館で、その作品群に接することができる。中でも絶作「女」には、彼の人生のすべてが込められているとされる◆いまだ見る私たちに、さまざまな思念や解釈を呼び起こす。同美術館学芸員の武井敏さんが昨年、冊子『荻原守衛の《女》』を刊行し、実際にモデルを務めた岡田みどりという女性と、碌山が穂高時代に出会い、ずっと恋い焦がれた相馬黒光(新宿中村屋を創業した相馬愛蔵の妻)の顔写真を並べて掲載、考察した◆ことしに入り、ドイツ文学者で、松本歯科大学元教授の山下利昭さん(安曇野市)は、脚本『私の碌山劇場』を出版し、碌山の苦悩の生涯を描きながら「女」に迫った。碌山にこう言わせている。「しかし、段々と、『母』の姿が重なってきたのです。前に伸ばした手が、いつか後ろに廻って、子供を背負っているのです」◆これほど想像力をかきたてる彫刻作品がほかにあるだろうか。碌山のくめども尽きぬ魅力と言えよう。きょうが碌山忌。

例年ですと、碌山美術館さんにおいて、地元の方々による音楽演奏等や、研究発表・講演などが行われ、夜は「碌山を偲ぶ会」が行われ、光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)を参会者全員で朗読しているはずでした。

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110年という節目の年でもあっただけに、残念です。

光太郎ゆかりの人物を偲ぶ集い、ということになりますと、例年、7月に福島県川内村で開催されている「天山祭り」。当会の祖・草野心平がその祭りを愛し、心平歿後は新兵を偲ぶ集いとしての要素も組み込まれています。やはり今年で55回目という節目の年でしたが、こちらも早々に中止が決定しています。

このままダラダラと感染が続くと、懸念されている医療崩壊はもちろん、日本中で何の催しも出来なくなってしまうのではないかと、ぞっとしています。封じ込めのためには、とにかく出歩かないことなのでしょうか……。


【折々のことば・光太郎】

其の意気をうれしく思ひました。井戸は掘り抜かねばなりません。

雑纂「「同情録」より」全文 大正2年(1913) 光太郎31歳

雑誌『第三帝国』第二号に載った短文です。創刊号の巻頭言「……故に吾人は帝国主義に反対す、故に吾人は個性中心主義を主張す」を受けてのもの。光太郎自身も詩集『道程』後期の詩篇で、個の鍛冶を打ち出していた時期でもあります。

新型コロナの封じ込め、これもまた「井戸を掘り抜」くような、地道な努力の積み重ねなのかも知れません。