一昨日の『しんぶん赤旗』さんの日曜版。「たび」という連載で、福島二本松の智恵子生家とその周辺が大きく紹介されました。

たび ほんとの空がある 智001恵子の生家 福島・ 二本松

 福島二本松(にほんまつ)市を訪れました。市内油井(ゆい)の旧奥州街道沿いに、彫刻家・詩人の高村光太郎(1883~1956)の妻であり、詩集『智恵子抄』で知られる高村智恵子の生家と記念館があります。
 智恵子は福島県安達(あだち)郡油井村の大きな造り酒屋の長女として生まれ、油井小、福島高女を経て東京の日本女子大学に進学。生家の表玄関には屋号の「米屋」と酒の銘柄「花霞(はながすみ)」の看板が掲げられ、軒には新酒の醸成を伝える杉玉が下がっています。「昭和4(1929)年に長沼家が破産し人手に渡った家屋や土地を、平成初めに旧安達町が買収し、明治初期の建物を修復・保存しました」と市教育委員会文化課・池田高広さん。
 智恵子が愛聴したベートーベンの「田園」が流れる屋内は、1・2階合わせて18間もある重厚な町屋造りです。智恵子の居室は2階の2間でした。智恵子が実際に使っていた琴や蓄音機、はた織り機もあります。
 日本女子大在学中に油絵を描き始めた智恵子は卒業後、太平洋画会研究所に通い、洋画家を目指しました。光太郎と出会ったのもこのころです。
 記念館展示で特に目をひくのは、智恵子が描いた油絵「花(ヒヤシンス)」「静物」、デッサン画「男性裸像」「ミロのビーナス像」です。智恵子が統合失調症を発症し、東京のゼームス坂病院に入院したのは1935年。38年に  同病院で肺結核で死去するまで、千数百点の紙絵を制作しました。記念館は実物24点を所蔵。「通常は複製の展示ですが、春と秋期間限定で実物を10点ずつ展示します」と池田さん。
 記念館の脇道から石段を上り稲荷八幡神社へ。境内に「熊野大神」と刻まれた石碑があります。毛筆の才もあった智恵子が書いた文字です。さらに智恵子と光太郎お気に入りの散策路だった鞍石山(くらいしやま)山頂への道を登りました。一帯は「智恵子の杜公園」です。
 西に標高1700㍍の安達太良山(あだたらやま)、南に阿武隈(あぶくま)川を望む高台があります。「あれが阿多多羅山(あたたらやま)/あの光るのが阿武隈川」。光太郎の詩「樹下の二人」の舞台になった場所です。帰郷するたびに智恵子を癒やしたのが、安達太良山の上に広がる空でした。
 二本松駅前の老舗うなぎ屋で「ランチうな丼」を食べ、安達太良山麓の岳(だけ)温泉に1泊しました。
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おことわり 新型コロナウイルス感染拡大防止のために、各地で外出自粛が呼びかけられています。本欄は「緊急事態宣言」発令前に取材したものです。


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同紙では、よく智恵子の生家周辺を紹介して下さっています。平成30年(2018)6月17日には「山の季 ほんとの空」という題名で、安達太良山。同年9月30日には同じ「たび」の連載で「智恵子の生家と「ほんとの空」」。それぞれ大きな記事でした。

少し前にも書きましたが、新型コロナの影響で、なかなか「ぜひ足をお運び下さい」とは書けないのですが、いずれ騒ぎが終息した後、「ぜひ足をお運び下さい」。


【折々のことば・光太郎】

凡そ何事に限らず随所随時之を筆録し置かざれば年と共に忘却する事あるを免れず。よし忘却する事なしとするも其楽ミや己れ一個人に局して他人に感ぜしむる事あたはず。されば心ある人にして日常の所見所感を筆にのこし置かざる者ある事無し。

雑纂「『大原海岸』あとがき」より 明治38年(1905) 光太郎23歳

『大原海岸』は、母・わかと弟・豊周、同じく孟彦、妹・よしの4人が房州大原(いすみ市)を旅行した際、光太郎が弟妹に命じて紀行文を書かせ、製本したものです。

要するに「日々の記録をとっておくと、備忘のために良いし、たとえ自分が忘れなくても、他人がそれを読めばその時々の感懐が共有できる」ということですね。

もうすぐこのブログも9年目に突入します。そこで、当方も時折上記のようなことを考えます。